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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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従業員が亡くなっていた!(驚)
突然、昔、我が社に勤めていた従業員が、我が家を訪ねてきた。
地方選に立候補する予定者を紹介する・・・ということだったが・・・
ついでの話・・・
同じく我が社で働いていた某パート従業員が既に亡くなっていたという話を聞かされて驚いた。

彼女は拙者が入社する前から我が社に勤めていた女性パート従業員である。
せいぜい拙者より一回りくらい年上という人だった。
拙者が入社した時、他の従業員から「彼女の旦那はヤクザなんですよ」と言われたことが今でも記憶に残っている。
その話が本当かどうかは、知らないが・・・
彼女は非常に真面目な人で、無駄口は叩かず黙々と仕事をする人だったが、かといって暗いイメージはないという人だった。
仕事は的確、まずミスをすることはない。
永年に亘り検査業務を担当していたので、合否判定の微妙なものは必ず彼女に再検査してもらって、拙者が決断を下したものだ。
彼女の判定には全幅の信頼を置いていた。

そういう人なので、是非、正社員に昇格させたかったのだが、彼女からは「主人がパートでなければ外で働かせないと言っているので・・・」というので、泣く泣く諦めた。
パート従業員にしておくには本当にもったいない人だった。

10年ほど経って、そのご主人が亡くなった。
彼女からは何の申し出もなかったので、こちらから再び正社員昇格の話を持ち出してみた。
「そうしていただけたら、助かります」とのことだったので、即刻、正社員に昇格させた。
当然、他の従業員から異議が出ることはなかった。

“優秀な人”とは学歴なんて関係ないと拙者は思っている。
自分に与えられた職務を忠実にこなし、他者から一目置かれるような人が“優秀な人”だと思っている。
そういう意味で、彼女は本当に優秀な人だった。

その人が、亡くなっているとは・・・
病気で会社を休むなんてことのなかった人なのに・・・
まだ若いのに、この世を去ってしまったとはショックである。(涙)
溜息しか出ない・・・・

ご冥福をお祈りする・・・

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日記 | 17:11:46 | Comments(0)
茨城県沖M7級大地震の確率
政府の地震調査委員会が、東北から関東地方にかけての日本海溝沿いの海域で、今後30年間にマグニチュード7から8の大地震が起きる可能性が高いとする予測を公表した。
この予測では、東日本大震災と同じ場所でマグニチュード9程度の超巨大地震が起こる確率は「ほぼ0%」としているが、隣接する場所で起こる可能性は否定していない。
よって、「大震災があったので、しばらくは大きな地震は起きないだろう、とは考えないで欲しい」と委員長さんは言う。

今回の予測では、各地の確率は、以前の確率よりかなり数値が上がっており・・・
宮城県沖では、M7.9程度が、以前は「ほぼ0%」から「20%」に上昇・・・
福島県沖のM7~M7.5程度も「10%」から一気に「50%」に上昇している。

で・・・我が茨城県・・・(苦笑)
想定されるのはプレート間地震で、1923年から東日本大震災が起きるまでに発生したM7以上の地震(5回)を今回の評価に使った結果、M7を超える地震の発生頻度は約18年に1回程度になるという。
で・・・30年以内の発生確率は「80%程度」で、40年以内となると「90%程度」になるという。

ということは・・・私が生きている間に少なくとも1回は大地震に遭うということか?(大汗)
ちょっと長生きをしたら・・・2回?・・・3回?(大汗)
こりゃ堪らんぞ・・・
ざっくりと20年に1回とすると、前回が50歳の時だから、次回は70歳の時に遭う可能性があるということになる。
その次は90歳になった時か?(大笑)
90歳ねぇ~・・・・逃げ遅れるだろうな・・・(大笑)
その次は・・・110歳?(大笑)
たぶん、地震が起きたことに気が付かないだろうなぁ~(大笑)

それにしても、なんで「今後30年間」と「30年」という数字を挙げるんだろう?
私としては、年内に大地震が起こるかどうかのほうが心配なのだが・・・(大汗)
少なくとも、5年くらい以内にどうなるかを知りたいのだが・・・
30年ねぇ~・・・・微妙な長さだなぁ~
これは作為的に決めた数字なのだろうか?
「今後5年以内」としたら、たぶん、パニックを起こすだろうし、「今後50年以内」と言ったら、誰も真剣に考えなくなるだろうし・・・ということで、「30年」が妥当かな?・・・ということにしたのだろうか?
覚えているような忘れてしまうような微妙な長さである。
遠い未来の話でもなく、かといって直近というわけでもない、微妙な長さであるが・・・
「30年間以内」というのは「30年後」とは違うわけで、来年でも「30年以内」ではあるから、いつ大地震が起こってもおかしくはないわけだ。(大笑)
結局は、そういう話・・・である。(大笑)

エッセイ | 12:01:20 | Comments(0)
愛車を廃車する・・・
本日、23年間乗り続けていた、我が愛車「三菱ディアマンテ」を廃車にした。
自動車整備工場の社長、“トシちゃん”に引き取りに来てもらった。
以前から、エンジン音も大きくなり、そろそろ限界ではないかと思うと言われて、ついに廃車を決意したのだが・・・
それ以前から、オイルはポタポタ漏れて直しようもなく、騙し騙し乗っていたし・・・
ショックアブソーバーもガタガタで、乗り心地が悪くなっていて・・・(大笑)
まぁ、限界と言われれば以前から、もう限界だよなぁ~

23年前に買った時は、あっちでもこっちでも「ディアマンテ」が走っていて・・・
ある時、拙者の車も含めて国道を6台の「ディアマンテ」が一列に並んで走ってしまったということがあった。
全くの偶然なのだが・・・気が付いたら前も後ろも「ディアマンテ」・・・(大笑)
全く赤の他人の車なのだが・・・
さすがに、同じ車種が6台も並んでしまうと目立つこと・・・(大汗)
いやぁ~恥ずかしい思いをしたことを思い出す。

今では、「ディアマンテ」に出遭うことはない・・・(苦笑)
あれほど走っていた「ディアマンテ」は、どこへ行ってしまったのだろう?(大汗)
23年も乗り続ける奴は他にはいないのか?
町で「デイアマンテ」を見かけたら、ほぼ間違いなく拙者である。(大笑)
これもちょっと恥ずかしい。

ただ、メリットは・・・
こうなると、悪いことは何もできないという事・・・(笑)
下手にスピード出してかっ飛ばすと、あとで友人に何を言われるかわからない・・・
どこで誰が見ているかわからない・・・(苦笑)
道も譲ってあげなくてはならないし、歩行者にも気を使わねばならないし・・・(大笑)
“目立つ車”の運転手は大変である。(大笑)
ついつい優しい運転を心掛けねばならないのである。
どこを走っていたとか、どこですれ違ったとか、友人に言われると、やっぱり見られている・・・と意識せざるを得ない。(汗)
まぁ、結果的には“良い人”になれるからいいが・・・(大笑)

で・・・ついに、23年間共に生きた“伴侶”とお別れ・・・・(大笑)
で・・・車を持って行かれてから気が付いた!
しまった!記念写真を撮るのを忘れた!(大汗)
愛着がある割には、あっさりと忘れていた!(大笑)
しょせん、“愛”なんて、そんなものかも・・・・(大笑)

日記 | 10:12:35 | Comments(0)
福島原発の騒ぎ・・・
昨日、「第五福竜丸」の元操舵手の方が92歳で肺癌でお亡くなりになったという。
「第五福竜丸」とは、昭和29年(1954年)にビキニ環礁における米国の水爆実験で被ばくしたマグロ漁船である。
この元操舵手の方も被曝して火傷を負ったという。

被曝して火傷を負って、大変な思いをされたであろうとは思うが・・・
92歳まで長生きされたのかと、ちょっと意外な気がした。
以前、被爆者で100歳まで生きてお亡くなりになられた方もいらした・・・
となると・・・被ばくしたからといって、必ずしも長生きできないというわけではないという気がしてくる。
被曝していないのに、50代、60代で亡くなる人も多い。
そうなると益々、被爆とは何だろうという気になってしまうのである。

以前、東日本大震災の後の福島の放射能汚染の騒ぎを見ていて、従軍経験者2人の話が記憶に残っている。
お二人とも90歳を超している方である。
お一人は、広島の船舶工兵司令部に着任当日に原爆に遭った人・・・
ただちにそのまま被爆地で救援活動に入ったそうだ。
もうお一人も、同様に広島で救援活動をしたが、その後、長崎に原爆が投下された時に、広島の経験を生かせと言われて長崎に派遣され、そこでも救援活動をしたという。
被爆地・・・つまり放射能に汚染された地域で2回も活動をしていたわけで・・・
かなり被曝しているのではないかと思われるのだが、お二人とも、異常はないという。
「汚染地域で活動していたのに90過ぎまで何ともなく生きていることをどう説明してくれるんだ?福島の放射能の騒ぎは少し大げさなんじゃないか?」とおっしゃっていたが・・・
たしかに、そう言われると、福島原発の騒ぎは過剰反応のように思えてくる。
放射能の影響には個人差があるのかもしれない・・・

福島原発から漏れ出た放射能(放射線?)の量や汚染された地域の残留放射能(放射線?)の量は、広島や長崎と比べた場合、多かったのか少なかったのか・・・今もってわからないのだが・・・
あれから8年・・・誰かが福島原発のせいで寿命が短くなって亡くなったという話を聞いたことがない。
となると・・・・やっぱり過剰反応じゃなかろうか?

エッセイ | 23:09:13 | Comments(0)
『古代オリエント史と私』


1 なぜ私は歴史に関心をもったか

2 戦時中の苦悩

3 無条件降伏前後

4 旧約聖書との出会い

5 ノーマン先生の思い出

6 パラフ会

7 オリエントとは?

8 日本オリエント学会誕生

9 三笠宮研究室の由来

10 はじめて教壇に立つ

11 マイクに向かって

12 翻訳に挑む

13 翻訳権取得の交渉

14 いよいよ出版

15 歴史教育研究所

16 スライドとともに

17 初の公式外国旅行

18 イランの旅

19 イラクの旅

20 泥の上に立つ歴史学

【座談会】
テレビ番組「オリエントの旅」回顧
             三笠宮崇仁
             山田恭子
             内藤求女
     (司会・編集)森岡妙子
     (原稿製作) 井上由紀子

【付録 一年一語】

井の中の蛙(昭和22年)
     私と歴史
     皇族からの注文
     私の趣味
年頭のことば(昭和23年)
「こっとう」の書~戦争の抛棄について~(昭和24年)
     はしがき
     戦争の抛棄について(憲法第2章)
レクリエーション(昭和25年)
     スクエア・ダンス
     村人に次官もまじり盆踊り
     『まね』のしかた
     縦糸と横糸
     民族的舞踏と世界的舞踏
     舞踏の近代的感覚
一つの感想~水害につながるもの~(昭和26年)
独立国の新聞について(昭和27年)
     1、報道の確実迅速(迅速確実ではない)
     2、客観的で公平な報道と価値判断
日本古代史におけるニヒナメマツリの問題(昭和28年)
北海道の旅より(昭和29年)
歴史は現代を知る「かぎ」~人間社会の理解のために~(昭和30年)
アジア諸国の対日感情(昭和31年)

あとがき


三笠宮崇仁親王殿下が、本を出されていたとは知らなかった・・・(汗)
殿下が古代オリエント史を研究しているということは、高校生の頃から知っていた。
当時、隣り町の文化会館で殿下の講演会があるので聴きに来るようにと祖父から言われて行ったことがある。
ステージに上がった殿下の姿は今でも覚えているのだが、講演の内容は全く覚えていない・・・(苦笑)
当時、高校生だった私にとっては、古代オリエント史などは全く興味のないテーマだったのである。(大笑)
講演後、孫たちは全員ロビーで待つように祖父から言われ、かなりの時間待たされた。
そして、祖父に案内された殿下が颯爽と現われたお姿は今でも目に焼き付いている。
「これらが、私の孫たちです」と紹介されて、「こんにちわ!」とペコリと頭を下げて挨拶したことを覚えている。(笑)

この時が殿下とお会いした最初で、次にお会いしたのは約30年後・・・(大笑)
私が戦友会の会合に出るようになって、年2回、殿下とお会いするようになった。
この時の殿下の話・・・
最近は現地調査に参加する大学の学生は女子学生ばかりで、なぜか男子学生は海外に行きたがらないと笑っておられた。
「女性は強くなりましたねぇ~」と言って、皆さんを笑わせた・・・(笑)
古代オリエントの調査費用について、景気が悪くなり企業等からの寄付も減ってしまい何かと苦しいので・・・・
「なにとぞご協力をよろしく」とステージ上から真直ぐ私を見て言われた時には全身から血の気が引いた・・・(大笑)

このように、チラリ、チラリと古代オリエントに関する話が殿下の口から出るのだが・・・
それでも、私は全く古代オリエント文明には興味を持たず、話を聞いていてもチンプンカンプン・・・(苦笑)
「古代オリエント」って・・・今で言うところの・・・どのあたりの話でしょう?・・・といった具合である。
殿下は平成28年(2016年)に満100歳でお亡くなりになられたが・・・
いやぁ~生前にこの本を読んでいれば、少しは殿下のお話しも分かっただろうものを・・・とちょっと後悔・・・

本書は、前半が「思い出話」で・・・
後半の付録に、終戦後の昭和22年から昭和31年にかけての殿下の、いわゆる「エッセイ」(?)が載っている。
これもまた、殿下のお考えを知るいい内容で、面白かった。
例えば、昭和27年に書かれた「独立国の新聞について」などは、今でも通用する話で・・・そう考えると昭和27年から何も変わっていないのかと驚くほどである。
「日々の新聞を見ていると、事実の正確なことより、他社より早く報道することを誇りとしているように思える。私のことを含んで皇室に関する記事の誤りの多いこと(半数は少なくとも)から推して、私は新聞で事実を知ろうとするのは過望で、社会の傾向を知るに止めようとさえ思っている」
・・・との文章を読むと・・・私も同感です!・・・と言いたくなる。(笑)
久しぶりに殿下に再会できたような気がして嬉しかった。


今年の読書:14冊目



読書 | 00:45:55 | Comments(0)
ドナルド・キーンさん亡くなる
昨日、日本文学研究者で、米国のコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーンさんがお亡くなりになった。
96才だったそうである。

ドナルド・キーンさんの名は、高校生の頃に知った。
当時、三島由紀夫にハマっていたので、三島由紀夫と親しい友人の一人として、氏の名前を知った。
私は、特に日本文学が好きなわけでもないので、氏の著作は読んだことはない。
日本語ペラペラで凄い人だ・・・という程度しか知らない。
その後、氏のお名前を見かけることが無くなったが、東日本大震災の翌年の平成24年に「日本国籍を取得した」という報道で、久しぶりに氏のお名前を見た・・・
当然、すでに日本国籍は取得しているものと勝手に思い込んでいたので、今頃?・・・・と驚いた。
あれから7年・・・・
氏は日本人として、この世を去ったことになる。
米国で生まれ育ち、外国である日本で日本人としてこの世を去るということを、氏はどう思っていたのだろう?
もちろん本望だったとは思うが・・・
私だったら、やっぱり生まれ育った地で死にたいなぁ。

知日家・親日家が一人減ってしまった・・・という寂しさを感じる。
96歳でしたかぁ~・・・・
ご冥福をお祈りします・・・・

エッセイ | 15:40:00 | Comments(0)
車をぶつけちまったぁ~!(涙)
今日は、法人会の「税制セミナー」の日・・・・
水戸まで車を飛ばして、受講しに行く。

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ホテルの立体駐車場に車を入れる・・・
1階が満車なので2階へ・・・
と・・・上から車が下りてきた!
しかも、大回りでカーブを曲がってきた・・・(大汗)
最近の車・・・ワンボックスカーは、やたらと図体が大きい。
にもかかわらず、運転手の運転は下手なことが多い。(大汗)
大回りで来られたため、左側ギリギリに車を寄せて、なんとか、やり過ごすことが出来た。(大汗)
問題は・・・このあと・・・
このまま曲がれるだろうと思ってハンドルを右に切って動きだしたら・・・・
ゴツン!
ありゃぁ~柱にぶつけちゃった!(驚)

なんたることぞ・・・
曲がり切れると思っていたのだが・・・完全に勘が鈍っていた!
あ~あ~バンパーがペコンと凹んでいる!
購入してから23年も乗っている我が愛車の「三菱ディアマンテ」・・・・
数日後に廃車にする予定なのだが、まさか、廃車直前にぶつけるとはねぇ~
この23年間で、他車にぶつけられたことが過去に1回あったが、自分でぶつけたことはない。
まさか、ここにきてバンパーを凹ませるとはねぇ~(涙)

会場で、この話をしたら・・・
みんなが「駐車場の柱は大丈夫だったのか?」と、拙者の車より柱のほうを気にした!(唖然)
おい、おい、おい・・・である。(苦笑)
なんと、薄情な・・・(笑)
誰も拙者の車のほうを気にしてくれないのかよ!(苦笑)
駐車場は鉄骨むき出しの柱である。
コツンとぶつけたくらいでは凹むどころか、傷すら付いていないのである!(顕微鏡で見たらどうかは知らないが・・・)(苦笑)

最近の車はバンパーがあるのか無いのかわからない形状をしている。
バンパーはバンパーらしく張り出していてくれねば意味がないと思うのだが・・・
空力抵抗を考えてのデザインなのかもしれないが、渋滞している国道を走るのに空力抵抗も何もあったものじゃないと思うのだが・・・(苦笑)
しかも、もろい・・・(汗)
コツンとぶつけただけで凹んでしまう。
幸いにもヘッドライトには影響がなかったからいいが・・・
これが、コツンじゃなくて、ガシャンだったら、どうなっていたか・・・(大汗)

それにしても、廃車直前に凹ませるとはねぇ~
運がいいのか悪いのか・・・
多分、運がいいんだろうなぁ~(大笑)
どうせ廃車するんだから、直す必要はない・・・(大笑)
これが、そうじゃなかったら、「セミナーなんかに行かなければ良かった」と大後悔していたかもしれない。(大笑)
運がいいな・・・(笑)

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予定通りセミナーを受講し、どこにも立ち寄らず、バンパーのペコンと凹んだ愛車を駆って真直ぐ帰宅する・・・(大笑)

日記 | 16:13:48 | Comments(0)
自衛隊車両開発、中止?
建設機械大手のコマツが、自衛隊車両の新規開発事業から手を引くと防衛省に意向を伝えたという。
コマツは、陸上自衛隊の軽装甲機動車(LAV)や、NBC(核・生物・科学)兵器に耐用性のある偵察車などを開発・製造してきた。
が・・・開発にかかる費用と見込まれる利益を考えると、経済的合理性から見て、このまま開発・製造を継続するのは困難と判断したらしい。
で・・・昨年の秋、新たな装輪装甲車の開発などには、今後は算入しないと防衛省に伝えたという。

民間企業である以上、採算を重視するのは当然であるから、文句は言えない。(汗)
折角の技術が継承されないようなことになるのではないかと心配ではあるが・・・

開発には長い時間がかかる。
戦車の場合、10年、20年先を考えて開発するという話を聞いたことがある。
開発が終って、ようやく製品化した時には、すでに旧式になっていた・・・なんてことがあってはいけないからだそうである。
それだけに開発は“継続”が大事だということになるが・・・・
この先は、どうなるのだろう?
まさか、他国(米国など)から購入するなんていうことになるんじゃないだろうね?(苦笑)
日本人の体格と国土の事情に合わないサイズの装甲車や偵察車では運用しづらいだろうなぁ~(苦笑)

国防の基本は自国製であるべきではなかろうか?
いざ戦争になった場合、他国製のものでは兵器本体の補充も部品の補給も難しくなると思うのである。

需要(注文数)が少ないため、採算が取れないということならば・・・
他国への輸出ということはできないだろうか?
戦車とは違い、装甲車や偵察車程度なら、それほど「強力な兵器」というわけじゃないのだから・・・
他国の警察車両として使用するためなら輸出してもいいとか・・・
それが出来れば、生産台数も増えて、もしかしたら採算が合うことになるのではないかと思うのだが・・・甘いか?(苦笑)

自力で開発・製造できるメーカーが1社減ることが、後々禍根を残すことにならねばいいがと思う・・・

エッセイ | 15:38:48 | Comments(0)
プラゴミの輸出、3割減!(汗)
日本が昨年に輸出したプラスチックごみの量が、その前年、2017年と比べて3割も減ったという。
これは、最大の輸出先だった中国が、環境汚染の懸念から、2017年末に受け入れを厳しく制限したためだという。
ということは・・・プラスチックごみが“減った”わけではないということである。

それにしても、プラスチックごみが輸出されているとは初めて知った。(唖然)
地球環境戦略研究機関による財務省貿易統計の分析によると、2017年のプラスチックごみの輸出量は143万トンで、2018年は3割少ない101万トンだったという。
ペットボトルやレジ袋、その他、家電や車の廃棄の際に出るプラスチックや、製造工程で出る不良品など、国内のプラスチックごみの発生は年間約900万トンに及ぶという。
当然、これらのプラスチックごみは国内でリサイクルされているものだと思っていたのだが・・・
まさか、100万トン以上が海外に輸出されているとはねぇ~

中国のプラスチックごみの輸入規制強化に伴い、タイやマレーシア、ベトナムなどへの輸出が増加したそうだが・・・
輸入制限を設ける国や輸入規制を強化する国が出始めているので、今後は日本からの輸出は厳しくなるだろうという。
中国では輸入したプラスチックごみを処理して日用品や工業製品の素材に利用しているというから、「プラスチックごみ」はゴミではなく「原材料」という感覚での輸出かもしれないが・・・
中国では環境汚染や健康被害の懸念が出てきたため、輸入を厳しく規制したらしい。
ということは、他国も同様の理由で規制し始めるのは当然だろう。

環境や地域住民の健康に悪影響を及ぼさないようなリサイクルのプラントと合わせてプラスチックごみを輸出すべきではなかろうかと思うが、そういうことをやっているのだろうか?
開発途上国などの貧しい国に日本はゴミを輸出している(ごみを捨てている)と言われたら、国際社会における日本の立場は従軍慰安婦問題と合わせて「とんでもねぇ国」とされるかもしれない・・・(大汗)
そう考えると、安易なゴミだけの輸出は考えものだろうなぁ~

輸出できないプラスチックごみの多くは、国内の産業廃棄物処理業者が在庫として抱えているという。
在庫を抱えるにも限度があると思うが・・・
行き詰ったら、最終的には燃やしてしまうのだろうか?
国内でのリサイクルをもっと推進することはできないのだろうか?
ある意味、ビジネスチャンスだと思うのだが・・・

なんだか、わざわざ手間をかけて再生資源ごみに分別するのがバカバカしく思えてくる。
ペットボトルなどは、そのまま「燃えるゴミ」として捨てちゃった方がいいんじゃあるまいか?(苦笑)
・・・・とすら思えて来てしまった。(大笑)

エッセイ | 15:37:53 | Comments(0)
鉄道テロ防止策
来年の東京オリンピックを控え、鉄道業界ではテロ防止策が求められているという。
一部では乗客の手荷物検査の導入の必要性が叫ばれたりしたが、利便性を考えたら、ほぼ不可能に近い。
航空機と違い、鉄道の場合は、ドアが閉まる寸前ならば飛び乗ることが出来る・・・という利便性がある。
これが、乗車30分~1時間前に駅に行って手荷物検査を受けなければ、電車に乗れないとなったら、この利便性が損なわれてしまう。
いつ起こるか分からないテロに脅えるより利便性が優先されるのは当然だろう。

そこで、AI(人工知能)を搭載した警備ロボットの導入を模索する会社も出てきたという。
人工知能を搭載したカメラで人の動きを把握し、不自然、不審と判断したら駅員に通報するというものらしい。
問題は・・・通報を受けた駅員がどう動くかである。(大笑)
今は忙しいから・・・と無視したら、結局は意味がなくなるわけで・・・
仮に不審者に声をかけても「何の証拠があって疑うのか?」と相手に凄まれて引き下がったのでは意味はない。(大笑)

ただ、メリットは・・・
このロボットが自走式であるということくらいかな?
固定式の防犯カメラでは、どうしても死角が出来てしまうが、駅構内をウロウロと走り回るらしいから、死角はないと言われているそうだ。(苦笑)

以前、国内の某空港で、不審物を発見したので、近くの売店の店員のオバチャンに警備員か警察を呼ぶように言ったところ、逆に不審者扱いをされてしまったことがある。(大汗)
あ~こりゃだめだ・・・とその時に思った・・・
危機管理意識が全くない・・・
「不審物を発見したら通報してください」は、ただの恰好だけで、実際に起こったら、誰も動かない・・・(大汗)
犠牲者が出ないと真剣にならないようである。
国民全員に危機管理意識があればいいが・・・
そうなると、どこまでの「監視社会」を国民が了解するか・・・が問題となる。
日々疑心暗鬼で他人を見るようなことになるのも問題だろう。
生きづらくなる・・・(苦笑)

以前、地下鉄の車内でサリンを撒かれるという“テロ”があったが・・・・
その後は誰も気にも留めていない様子。
あれは、特異な例だから、二度と起こらないと思っているのだろう。
しつこいほどの連続テロでも起こらない限り、テロに対する意識は育たないのかもしれない。

結局は、犠牲者が出て初めて行動に移るしかない。
“防犯カメラ”は、犯人捜しのためだけに有効ということになるか?(汗)
いずれにせよ、無いよりはマシ・・・と言う程度かな?
人工知能ロボットも同様だろう。

利便性を優先するのはやむを得まい・・・
結局は、テロに巻き込まれたら、運が悪かったと諦めるしかないだろう。
国民全員が、そう諦めてくれると話しは簡単なのだが・・・(大笑)
福島原発のように、事故が起きてから大騒ぎ・・・いつまでたっても大騒ぎ・・・(大汗)
だったら最初から反対すればいいものを・・・
ここぞとばかりの騒ぎぶりである。
クリーンエネルギーとか、資源のない日本にとっての利便性を優先したことはすっかり忘れている。
鉄道も、大規模テロで大きな犠牲者が出ると・・・(福島原発では多くの犠牲者、つまりは放射能による死者は出ていないが・・・)福島原発と同じような騒ぎになるんだろうなぁ~(大汗)
鉄道を廃止しますか?(大笑)
無理だろうねぇ~
テロの防止は現場においては難しい・・・
事前に芽を摘まねば・・・ということになるが、そうなると「人権」の問題が出てくる・・・
八方ふさがりだな・・・(苦笑)

やはり、何事も諦めが肝心・・・ということになるかな?(大笑)

エッセイ | 15:32:13 | Comments(0)
北海道で震度6弱!
今日の午後9時20分頃、北海道で震度6弱の地震が起こった。
以前は、「北海道で地震」と聞くと驚いたものだが、最近は、もう当たり前のような気がして・・・
完全にマヒしてきたのかもしれない。(大汗)

こうなると、日本列島、どこで地震が起きてもおかしくはないということになるが・・・
チョコチョコと地震が起きている場所は、「ガス抜き」が出来ているだろうから、もしかしたら、あまり心配する必要はないかもしれない。
それより、全く静かな場所の方が危ないんじゃないか?(汗)
日本海側とか・・・関西方面とか・・・四国周辺とか・・・(大汗)
静岡辺りも危ないかも・・・
となると・・・う~ん・・・旅行に出かけるのが怖い・・・(大笑)
どうしよう・・・(大笑)

日記 | 23:08:11 | Comments(0)
『最高学府はバカだらけ』


はじめに
      大学はアホっぽく、学生はバカばっか
      大学取材が嫌われる理由
      大学ほど面白いテーマはない
      本書の内容と対象読者

第1章 アホ大学のバカ学生
      ロビーで着替えて「ノリ貸してください」
      普通の面接でも「圧迫面接でひどい」
      「その大学ってどこにあるんですか?」
      東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?
      営業嫌いとコンサル妄信
      講義は真面目、他は不真面目
      ネットになければ、この世に存在しない
      ミクシィでカンニング暴露
      なんでもかんでもネットにカキコ

第2章 バカ学生を生む犯人は誰か?
      「ウチはまったく悪くない」
      「高校教育劣化」説
      「文科省理念先行」説
      「両親ヘリコプター化」説
      「就職活動不健全」説

第3章 バカ学生の生みの親はやはり大学!?
      「入試激化」説
      「推薦・AO入試激増」説
      「大学乱立」説
      「大学教職員不能」説
      「広報機能未発達」説
      「珍名・奇名大学急増」説
      「情報隠蔽」説

第4章 大学の情報公開をめぐる二つの講演

第5章 ジコチューな超難関大
      他大から恨まれるジコチュー大学
      「世界の東大」目指すも迷走か?(東京大学)
      「打倒東大」どころか「追いつけ東大」(京都大学)
      秘策は「学費国立並み一割政策」(早稲田大学)
      薬学部のつぎが噂される帝国主義(慶応大学)

第6章 「崖っぷち大学」サバイバル
      断崖絶壁にある難関・中堅・新興大
      関西ローカルから脱出したい(関西・関西学院・同志社・立命館大学)
      都心に帰りたい(中央・青山学院・東洋大学)
      学部新設のツケは孤島か、食事難民か(法政・明治・神戸学院大学)
      「就職に強い」看板は有効か?(立教・専修・京都産業・広島修道大学)
      工学部は鳥人間で起死回生!?(金沢工業・豊田工業・東京理科大学)

終章 バカ学生はバカ学生のままか?
      バカ学生の“化学反応”
      中学レベルまでさかのぼる補習システム
      入学前に新書を読ませて感想文
      今や「大学5年制」の時代
      就活で脱皮するバカ学生
      「面倒見のいい大学」を目指して

あとがき

参考文献

【大学ギョーカイ用語集】


かなり過激な題名の本である。(笑)
だからこそ、読んでみた。
なるほどと思える点も多かったが・・・
第4章の「二つの講演録」は、ちょっと首を傾げざるを得なかった。
立場の違う二人の人物の「講演録」ということになっている。
どちらも、過激な発言と言葉遣いの悪さが、ちょっと引っかかる。
こんな講演をする人がいるか?
もしかして、これは・・・創作?
創作なら、創作だと明言した方がいいと思うが、著者は明言を避けている。
こういうのが、一番困るのである。
つまり、これが著者が創作した講演録だとしたら、本書の内容にも創作した部分が、かなりあるのではなかろうかと疑わざるを得なくなってくる。
となると・・・・興覚めである。(大汗)
ここに書かれていることが事実かどうかは、ご想像にお任せします・・・となったのでは興ざめである。
読み終わって・・・
なんとも気分が悪かった・・・
言っていること、書いていることが過激だからというわけではない。
批判を受けたら、「あれは創作ですよ」と言えるように、どこかで逃げの手を打っているような、そんな感じ・・・
読後感は・・・モヤモヤとしたものだった。
かなり本書の価値が落ちてしまったのではなかろうかと、ちょっと残念・・・・


今年の読書:13冊目



読書 | 00:42:02 | Comments(0)
フィリピンで「はしか」が猛威!
現在、フィリピンでは「はしか」が猛威を振るっているという。
フィリピンの保健省によれば、今年に入って(まだ2ヶ月しかたっていないが・・・)約8400人の発症が確認され、そのうち136人が死亡しているという。(大汗)

当初は、ルソン島北部での感染例が多かったそうだが、その後、南部のミンダナオ島にまで広がっているそうである。
「はしか」は空気感染するので、当然だろう・・・

日本でも「はしか」の患者数が急増中だという。(大汗)
フィリピンから日本に帰国後に感染が判明したケースもあるというが、だからと言ってフィリピンが感染源だとは言えないだろうが・・・(苦笑)
問題は、空気感染するという点・・・
横浜の例を取ると、フィリピンから帰国した「はしか」に感染していた女性・・・
成田空港からバスで横浜に向かい、その後、東急東横線に乗っていた。
同じ空間にいるだけで感染してしまうので、この女性がいた同時刻に、成田空港、シャトルバス、電車に乗っていた人は感染している可能性があるという。
いやはや、こうなると、ほとんど「テロ」に近い・・・(大汗)

海外からの観光客誘致に躍起となっているが、同時に病原菌もやってくるリスクは覚悟した方がいい。
特に衛生状況の悪い国からの外国人入国者には注意した方がいいと思うが・・・
「要注意」もしくは「排除」「入国拒否」となると、差別だとして騒ぐ連中が出てくるだろう。
「はしか」は肺炎など重症化する病気で、最悪、死に至るわけで・・・
「心優しい」のも結構だが、死に至らしめられたのでは堪ったものではない。
水際で防ぐ「検疫」は強化すべきだろうなぁ~

昔のように船によるしか海外との門戸が開かれていない場合は、船内に一時隔離して、上陸させないという方法も取れるし、もれなく「検疫」も出来ただろうが・・・
飛行機の場合は、ちょっと難しいだろう。
スムーズに入出国することが「良いこと」とされている。
羽田空港などは、入国してすぐ目の前が電車のホームだったりするわけで・・・
あれよあれよという間に感染者が電車に乗って東京都内に散らばって行くから防ぎようがないかも・・・
何か新たな「検疫」方法・・・たとえば、空港内の通路にゲートを設けて、一歩立ち止まった瞬間に自動的に検疫できるとか・・・
今からそういう対策を検討しないと、大事件に発展してからでは、もう手遅れである。
それでなくとも若者の人口が減っているわけですから・・・
家から外に出ない高齢者は感染せず生き残り、アクティブに外で活動する若者だけが感染して全滅ということも起こるかも。(大笑)

病原菌を恐れて外国人の入国を禁止しても、日本人観光客が海外から持ち込むことも当然あるわけで・・・
まさか、「鎖国」をするわけにはいくまいから、多少は不便になっても、「検疫」は必要だ。
絶対、立ち止まる場所・・・・といえば、入出国の審査場・・・
パスポートを渡して、少しの間、立ち止まっていなければならないわけだから・・・
この間を利用して、自動的に体温を測定するとか、検査機器に息を吹きかけてもらって、空気感染するような病気にかかっていないかどうかを検査するっていうのはどうだろうか?(苦笑)
どうせ立ち止まらなくちゃならない場所なんだから、1~2分待たされても、それほどの影響はあるまい?(笑)

いまさら「はしか」なんかには罹りたくないなぁ~
人の多い東京に行くのは自粛しようかなぁ~(大笑)
間違っても、フィリピンには、この時期に行かないほうがいいな・・・(大笑)

エッセイ | 22:15:53 | Comments(0)
チャイルドシート着用、ワースト7位!
6歳未満の乳幼児を自動車に同乗させるときは、チャイルドシートの着用が義務付けられているという。
にもかかわらず・・・・
昨年の4月に警察庁とJAF(日本自動車連盟)が合同で行った調査で、我が茨城県では着用率が、56%だったということが分かったそうだ。
全国平均は66.2%だそうで・・・・
よって、我が茨城県は、ワースト7位・・・・
最も着用率が高かったのは、広島県で、それでも86%だったそうである。
2位は岐阜県、3位は山口県と続く・・・
反対にワースト1位は、愛媛県の38.6%だそうである。(唖然)

どうして、こんなに着用率が低いのだろう?
義務と言っても、罰則は減点(1点)だけらしく、反則金はないらしい。
これが、いけないのではなかろうか?
反則金(罰金)を支払わされるとなれば、少しは違うかも?
市販の最高級のチャイルドシートの価格以上の反則金ならば、効果は大きいかも。(笑)

例え、自分が事故を起こさなくとも、事故に巻き込まれるという場合もあるわけで・・・
停車中に後ろから追突されるとか、玉突き衝突に巻き込まれるとか・・・
もしくは、急ブレーキを踏まざるを得ない場合もあるだろうし・・・
そういう時に、子供が吹っ飛んだのでは・・・ねぇ~
悪くすれば死亡・・・・
その時に泣いて後悔しても遅い・・・
仮に死ななくとも、障害者となる可能性もある。
一生、子供に責められ続けることになる。
チャイルドシートの着用を面倒くさがったために・・・

そういうことは、親は考えないのだろうか?
想像力がない?
まぁ、子供を虐待死させる親や、餓死させるような親もいるわけだから、チャイルドシートの着用なんて、するわけがないか?

過去5年間で、茨城県内で交通事故に遭った自動車に乗っていた6歳未満の乳幼児は907人。
そのうち、213人がチャイルドシートをちゃんと着用していなかったという。
で・・・この213人のうち1人が死亡、13人が重傷を負っているという。
死亡したのは2歳の女児だそうで、乗っていた軽乗用車がブロック塀に衝突した際に死亡したという。
運転していた人は死ななかったらしいが・・・一生後悔してもも取り返しはつくまい。

チャイルドシートをちゃんと着用していなかった213人のうち、重傷を負った乳幼児が13人というのを少ないと見るか?
200人は、ちゃんと着用していなくても大した怪我をせずに済んだのだから、そんなにうるさく着用しろと言わなくてもいいんじゃないかと思う人もいるかも・・・(唖然)
しかし、この重傷を負った13人・・・・
後遺症は大丈夫だろうか?
一生残る傷を負ったり、障害が残ったりしたら最悪だよなぁ~
本人(乳幼児)には何の落ち度も罪もないのに・・・・

警察は「必ず着用してください」と呼び掛けているそうだが、呼びかけくらいで改善されるなら苦労はしない。(苦笑)
極端な話・・・(笑)・・・・チャイルドシート未着用での死亡事故の場合、保護者(親)は殺人罪・・・
大けがをした場合は傷害罪、植物人間にでもなってしまった場合は殺人未遂罪で逮捕した方がいいんじゃなかろうか?(大汗)
そういう前例でも作れば、少しは改善されるかも?(苦笑)
何だかんだ言っている割には甘い気がする。
所詮、他人の子だからか?

エッセイ | 22:14:52 | Comments(0)
『二・二六事件 第3巻』
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第12章 崩壊

第13章 特設軍法会議

第14章 秘密審理

第15章 判決

第16章 終章

2・26事件全3巻・人名索引


今年の読書:12冊目



読書 | 13:25:17 | Comments(0)
水揚げに異変!
最近、我が茨城県沿岸で、南日本の海域に生息する熱帯性の魚介類の水揚げが増えているという。
昨年の夏には、我が町の漁港所属の漁船が、我が県の沖で、本来ならば、房総半島以南から屋久島、台湾にかけて分布するフグ科の「クマサカフグ」を釣り、貴重な標本として県の自然博物館に収蔵されたという。
また、同じく相模湾以南や屋久島、台湾などに生息する高級魚の「クエ」が、我が町の沖で捕獲され、2年前には「アラレフグ」が水揚げされている。
この他に、サザエが網にかかることが多くなり、我が町の地元の漁港では、初めてサザエを市場に出荷した。

その反面、いつもなら、北から回遊してくる「タラ」や「サンマ」が降りてこず、全く漁にならなかったという。
我が茨城県沖は、親潮(寒流)と黒潮(暖流)が交錯して潮目を形成する特徴的な海域なのだそうだが、沿岸の海水温が上昇して、南方性の魚の生息域が北上していることは間違いないそうである。

以前、釣りが好きという人から聞いた話だと、我が町の沖合は、釣りが好きな人には、かなり魅力的な釣り場なのだそうだ。
が・・・釣れる魚の種類が、ドンドン変わっていくとなると、どうなるのだろう?
更に魅力的となるのか・・・・それとも、もっと北の方が魅力的な漁場となるのか・・・・
最近では、地元の漁師でさえ見たことがない南日本の魚が多くなり、さすがに戸惑っているという。
釣れる魚が今までとは違う魚となると、漁の仕方も変わるかもしれない。
それが凶と出るか吉と出るか・・・

高級魚ばかりが釣れるようになるならいいが、熱帯魚ばかりになったら最悪だろうなぁ~
自然相手の商売は難しい・・・
さて、将来の我が町の漁業はどうなることやら・・・
意識改革が必要かも・・・
「補助金」や「漁業補償」ばかりを欲しがらなければ良いが・・・(苦笑)

エッセイ | 14:17:22 | Comments(0)
烏亭焉馬居住の地
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烏亭焉馬(うていえんば)居住の地
所在地 墨田区千歳2丁目14番

烏亭焉馬は江戸時代中期に活躍した戯作者(げさくしゃ)、狂歌師で、江戸落語を中興した人物です。
本名は中村英祝、通称を和泉屋和助、居住地にちなみ立川焉馬とも名乗りました。
寛保3年(1743)に本所相生町3丁目(現墨田区両国4丁目)に生まれ、文政5年(1822)に亡くなるまで堅川沿いに住まいを構えたことから、太田南畝(なんぽ)は『太平楽紀文』の序文で、「相生町のはへ(え)ぬき」と呼びました。
焉馬の父は大工棟梁、兄も山形庄内藩お抱えの棟梁でした。
焉馬も幕府小普請方(こぶしんがた)の大工棟梁を務めました。
演劇や茶番に通じ、俳諧や狂歌を嗜(たしな)むなど町人としては余裕のある暮らしぶりでした。
隠居の後は町大工棟梁として采配を振るい、家族は足袋屋や香堂を営み、さらにゆとりが増えます。
多くの文人と交流があった焉馬は、その人脈をもとに精力的に活動します。
まず、作品として両国の見世物を題材とした滑稽本や、現在でも上演される人気演目「碁太平記白石噺(ごたいへいきしろいしばなし)」などが発表されます。
天明6年(1786)、向島の料亭武蔵屋にて「落噺(おとしばなし)の会」が行われました。
焉馬の狂歌師仲間や競演作者たちが百人余り集い、その中には焉馬が贔屓(ひいき)にする五代目市川團十郎もいました。
その後、焉馬の自宅などで定会(月例会)が開かれるようになり、鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)以来途絶えていた落語が復活しました。
この流れから初代三笑亭可楽(さんしょうていからく)や初代三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)らの職業落語家が誕生し、現在伝統をつないでいます。
ゆえに焉馬は、江戸落語中興の祖と呼ばれています。
現在、牛嶋神社の境内にある焉馬の狂歌碑(墨田区登録有形文化財)には「いそがずば濡れまじものと夕立のあとよりはるる堪忍(かんにん)の虹 談洲楼(だんしゅうろう) 烏亭焉馬」、裏面には「文化七歳庚午三月吉日建 本所堅川相生街 中村和助英祝」と刻まrています。

平成22年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区千歳2-14】



史跡 | 18:12:20 | Comments(0)
塩原橋
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塩原橋の由来

塩原橋(しおばらばし)は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。
当時は木橋でしたが、昭和29年3月、現在の鋼桁橋(こうげたばし)に架け替えられたものです。
橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭(しんたん)商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話(にんじょうばなし)に仕立てられ、その後浪花節(なにわぶし)や演劇にもなりました。
歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。
天明元年(1781)当時、本所相生(あいおい)町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈籠(とうろう)は今も境内に残っています。

平成4年3月
墨田区

(説明碑・銘板より)


【東京都墨田区両国】



史跡 | 17:54:14 | Comments(0)
塩原太助炭屋跡
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江戸の町
塩原太助炭屋跡

ここに、塩原太助(1743~1816)の炭屋がありました。
太助は、文化年間(1804~1817)の商人で、当時の本所相生町2丁目に炭屋を開きました。
18才で江戸に出、職を変えながら42才で炭屋山口屋に奉公しました。
独立後、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が当たり、「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と謳われるほどの成功を収めました。
名人と呼ばれた落語家三遊亭圓朝は、その人生を「塩原多助一代記」として作品化しました。
故郷、上野国(現在の群馬県みなかみ町)にいた頃の愛馬との悲しい別れや江戸での苦労の末に成功を収めていく姿に共感が集まり、その後も芝居や講談、浪曲などの数多くの題材となりました。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-4-1】



史跡 | 17:35:17 | Comments(0)
前原伊助宅跡
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忠臣蔵
前原伊助宅跡

この辺りに、前原伊助宅がありました。
伊助は、赤穂浪士の四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝4年(1676)に家督を継ぎます。
金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。
浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。
初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町2丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。
その後、大石内蔵助と行動をともにしました。
討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著しています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-2-4】



史跡 | 16:31:27 | Comments(0)
江東義塾跡
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絵画と文学
江東義塾跡

文豪、夏目漱石が明治19年(1886)から約1年間教師をしていた私立学校江東義塾はこの辺りにありました。
当時漱石は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、ほとんどの教科で首席でした。
漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・・・月に使えるお金は5円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後2時間だけで、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-9-1】



史跡 | 15:21:19 | Comments(0)
吉良邸裏門跡
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忠臣蔵
吉良邸裏門跡

吉良邸の裏門はこの辺りにありました。
赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下24名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。
吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝巻き姿では鎖帷子を着込む完全武装の赤穂浪士には到底敵わなかったようです。
広大な屋敷の中で1時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が38名だったのに対し、赤穂浪士側は2名が軽い傷を負っただけでした。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-10附近】



史跡 | 14:55:27 | Comments(0)
吉良邸跡
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忠臣蔵
吉良邸跡

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は2550坪(約8400平方メートル)だったとされています。
吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。
この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-13-9】



史跡 | 14:43:35 | Comments(0)
駆逐艦「不知火」の錨
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錨(いかり)の由来

この錨は日露戦争(1904年~1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火(しらぬい)」のものである。
この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治31年・進水32年・326トン・(艦長63.5メートル・5470馬力・30ノット・火砲6門・発射管2基・煙突2基)の構造である。
錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
猶この錨は両国1丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊治郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。

平成3年
両国(相生・江東)小学校同窓会

(説明板より)


【東京都墨田区両国4-26-6・両国小学校】



史跡 | 14:32:00 | Comments(0)
芥川龍之介文学碑
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芥川龍之介 文学碑

芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。
辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。
生後7ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町15番地(現両国3丁目)にに住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、13歳の時芥川家の養子となりました。
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一忠節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだ場所で「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。
龍之介は明治31年回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現領国小学校)に入学しました。
明治38年(1905)府立第3中学校(現両国高等学校)に入学、同43年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。
その後大正2年東京帝国大学英文科に入学、同5年卒業しました。
東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新思潮」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。

この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。
この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、平成2年10月に建立されたものです。

(説明板より)


【東京都墨田区両国4-26-6・両国小学校】



史跡 | 13:54:00 | Comments(0)
勝海舟生誕の地
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勝海舟生誕の地
所在地 墨田区両国4丁目25番

勝海舟は、文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。
父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(1808)7歳のとき勝元良に養子入りし、文政2年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。
海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。
海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごしました。
その後は、旗本天野左京自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことでした。
海舟は、赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。
海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(1843)21歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。
米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永6年6月3日のことでした。
海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、翌3年に講武所砲術師範役、同6年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。
そして、同7年正月には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。
また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。
慶応4年(1868)3月に行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。
海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治8年(1875)11月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。
同19年(1886)5月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
明治32年(1899)1月19日、海舟は77歳で病没。
洗足池畔の墓で静かに眠っています。

平成23年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区両国4-25】



史跡 | 13:21:57 | Comments(0)
吉良邸正門跡
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忠臣蔵
吉良邸正門跡

この辺りに吉良邸正門がありました。
元禄15年(1702)12月14日、寅の刻(午前4時)の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。
これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。
しかし、弓の名手、早水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-6-7】



史跡 | 13:06:25 | Comments(0)
本因坊屋敷跡
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江戸の町
本因坊屋敷跡

ここに本因坊屋敷がありました。
本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋士を輩出してきました。
「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来しています。
もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたため、その代地として元禄元年(1688)、この場所が屋敷となりました。
江戸期を通じて、常に囲碁四家元(他に、安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策、大和、秀和、秀策、秀栄などの棋士を生んでいます。
特に江戸末期の秀策は、史上最強の棋士として「棋聖」と呼ばれました。
現在は、実力制で争われる多くのタイトル戦のさきがけとして名が残っています。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区両国3-5-7】



史跡 | 12:22:15 | Comments(0)
長谷川平蔵の旧邸
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鬼平情景
長谷川平蔵の旧邸

付け火が元の明和9(1772)年の目黒行人坂の大火は約1万5千人が亡くなったといわれ、明暦の大火に次ぐものでした。
その下手人を捕えたのが、平蔵宣以の実父、長谷川平蔵宣雄です。
この手柄で、同年秋に京都町奉行所に出世しましたが、年号が変わった翌、安永2(1773)年6月に客死してしまいました。
家督を継いだ平蔵宣以は天明7(1787)年、42才の時に火付盗賊改方の長官に就任することになります。
京都へ家族で移るまで住んでいたのが、入江町の屋敷でした。
義母に「妾腹の子」といじめられ、その反発で屋敷を飛び出し、本所・深川を根城に「入江町の銕」と呼ばれ、後に密偵となる相模の彦十などを引き連れ、放蕩無頼の青春を送っていました。

墨田区

(説明板より)


【東京都墨田区緑4-12】



史跡 | 11:59:53 | Comments(0)
勝海舟居住の地
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勝海舟居住の地
~旗本岡野氏屋敷跡~
所在地 墨田区緑4丁目35番6号

勝海舟(麟太郎)は、文政6年(1823)に両国にあった父惟寅(これとら)の実家、男谷(おたに)氏の屋敷(現区立両国公園)で誕生しました。
その後、父母とともに本所の旗本屋敷を転々としましたが、天保2年(1831)頃ここにあった岡野氏の屋敷に落ち着き、10代後半までの多感な時期を過ごしたといわれています。
麟太郎は後に幕臣として出世を果たし、激動の時代に活躍の場を広げてゆきます。
麟太郎が世話になった岡野氏は、後北条氏の旧臣板部岡江雪(いたべおかこうせつ)を祖とする旗本で、文政9年12月の屋敷替を経て、同10年3月ごろ当地に移住していました。
家の経営費を捻出するための屋敷替であったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、代わりに旧居の半分ほどしかない屋敷に移住していたようです。
幕府創業期より続く由緒ある武家とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫(ひっぱく)していたのです。
このため、幕末維新の時代ともなれば家来を召し抱えるのも容易でなく、一人分の給与さえ支払えぬ事態に陥ります。
正月に餅をつく金さえなかったという貧しい下級旗本の家に生まれた麟太郎は、こうした武家凋落(ちょうらく)の厳しい時代に成長し、大志を抱いて力強く立身していったのです。

平成25年1月
墨田区教育委員会

(説明板より)


【東京都墨田区緑4-35-6】



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