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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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『ルソン日記』


まえがき

1 それまでの経過(昭和20年5月12日まで)

2 ラロのおとり陣地(5月13日~6月19日)

3 難行軍(6月20日~6月27日)

4 天然洞窟陣地 (6月28日~7月28日)

5 遊撃地点二四〇〇高地 (7月29日~8月12日)

6 終戦 (8月13日~8月27日)

7 俘虜収容所 (「ルソン日記」補遺)

あとがき


本書はフィリピン従軍記・・・
しかし、「わが部隊」「わが中隊」という書き方なので、どこの部隊なのか、なかなかわからない。
自分の部隊名を明記しない、こういう書き方をする従軍経験者が結構多い。
最初に明記してくれれば、あの部隊の話かと、すぐわかるのだが・・・
ハッキリと部隊名を知られてはマズイことでもあるのだろうか?

戦史の“参考書”としては『戦史叢書』というのがあるが、これは、どちらかというと参謀や指揮官クラスの“お偉いさん”の証言を基に書かれた「戦史」ではないかと思う。
そのため、自己保身のためか、自己弁護とも受け取れるような記述や、明らかに間違っている(事実とは異なる)ような記述、つじつま合わせの話なども見受けられ、現場の第一線で戦っていた人からは「戦史叢書をあまり信用してはいけない」と忠告されたことがある。
たしかに、そういう部分があるのを私自身、いくつも、確認している。
たぶん、どこかの参謀の証言を基に書いたのだろう、「あそこへ移動しろと命令したから、この部隊はあそこへ移動して、あそこで全滅した」とこうことで「記録」されているが、実際には命令通りに移動できず、全く別の場所で全滅していた・・・という事例を確認したことがある。
これでは『戦史叢書』を参考に現地に慰霊に行くご遺族には甚だ迷惑、失礼ということになるのだが・・・
また、「戦闘記録」でも、案外、怪しい記述が多い・・・
たとえば・・・「1000発の砲弾を敵に浴びせた」と記述されている戦闘では、生還者の話では、当時、1000発もの砲弾は持っていなかったとか・・・
私の祖父が戦った戦場では、山頂に陣取る米兵に対し、山頂まで坑道を3本掘って爆薬を仕掛けて吹き飛ばしたという記述になっているが、実際は坑道は1本だけで、しかも爆薬ではなく軽機関銃を撃ちまくって米兵を山頂から追い払っている。
それをやった人から直接聞いた話だから間違いはない。
「あの当時に爆薬なんてもう残っていなかったんだから、爆薬で吹き飛ばせるわけはないだろう!」と怒っていた。
負け戦が続く中、戦意(戦威)高揚のため「景気のいい話」に仕立てたものが、そのまま記録として残ってしまったわけである。
公刊戦史といわれる『戦史叢書』が、こういう内容なのだから、他の角度からも見なくてはならないと思う。
そういう意味では、第一線で戦った一兵士の記録(日記)は、貴重な「戦史」だと思うが、なぜか、部隊名を明記しないものが多い・・・
この方の場合は、話の内容から、第103師団(駿兵団)の独立歩兵第180大隊に所属していた方ではないかと思うが・・・

この方が戦った場所は、私がよく行く北部ルソンの山岳地帯の更に北の方で・・・
一度は、こっちの方まで足を延ばしてみたいものだと思っていた地域である。
それゆえに、興味深く読ませてもらった。


今年の読書:31冊目



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読書 | 23:51:19 | Comments(0)
『東大落城』


プロローグ
     17名の女闘士
     三島由紀夫からの電話

第1章 任命
学園紛争の嵐が最高潮に達した昭和43年11月、香港から帰国したばかりの筆者に1枚の辞令が下りた。「警備第1課長ヲ命ズ」

     香港からの帰国
     西条巡査部長の殉職
     「警備第1課長ヲ命ズ」
     アウト・レインジ戦法
     タイム・リミット
     警備戦術の大転換
     警備新戦術研究会
     情報攪乱の神経戦
     危機一髪の集会潜入
     佐藤総理への直訴

第2章 出動
学園自治を原則に機動隊による封鎖解除を拒む大学当局。一方、全共闘側の「東大解体」の執念は凄まじい。加藤一郎学長代行の決断は?

     催涙ガス大量使用作戦
     日大「千早城」の陥落
     東大卒を機動隊に投入
     「上智大方式」の誕生
     プレ安田講堂四大事件
     1・9東大両派乱闘事件
     三つ巴の決起集会
     機動隊出動要請
     動員解除か?
     ニトロとリベット銃
     大鉄球作戦
     決戦の朝

第3章 包囲
昭和44年1月18日午前7時5分、医学部の攻防から学園紛争天王山の戦いの火ぶたは切られた。そして林健太郎監禁事件の真実

     青い溶岩流
     「医学部中央館」攻略
     催涙ガス使用開始
     「ニトロ発見」
     脱出していた革マル派
     東大紛争の発火点
     奇々怪々の金権大学
     堕ちた大学教授たち
     東工大の「警備計画」
     林文学部長監禁事件
     「只今、学生を教育中」
     全学園紛争の天王山

第4章 突入
火ダルマになった機動隊員、黒煙につつまれる列品館、法学研究室にはガソリンがまかれる。さらには神田地区でも不穏な動きが・・・・・

     炎と白煙の修羅場
     列品館へ!
     隊員たちの胸の内
     炎上する警備車
     ヘリコプター作戦
     焦土戦術
     列品館陥落
     「法研」攻防戦
     死守した史料、文化遺産
     落書だらけの教授室
     深夜の脅迫電話
     総監室では拳銃着装
     “警備戦国時代”の武勇伝
     早くも“二正面作戦”か・・・・・

第5章 激闘
“本丸”安田講堂攻めが始まった。学生側の抵抗は予想以上に激しく負傷者が続出、夕暮れ迫るなかついに作業中止命令が出される。

     要塞化した“安田城”
     「本気で東大をぶっつぶす」
     史上初の催涙ガス液散布
     無法状態の神田地区
     安田講堂一番乗り
     炎に包まれる工作班
     記念写真を撮る教職員
     作業中止命令
     荒城の月

第6章 落城
早朝6時30分、攻撃再開、次々と突入口から暗闇の講堂内へ飛び込む隊員たち。石塊、火炎ビン攻めに耐え一歩一歩前進してゆく。

     “食パン”作戦
     攻撃再開
     大理石の直撃弾
     充満する都市ガス
     “銀ヘル”との闘い
     “学生死亡”のデマ情報
     命がけの食糧搬入
     一歩一歩前進
     誤れる陣頭指揮
     午後3時50分、大講堂制圧
     東大のいちばん長い日

第7章 終熄
敷石はがし作戦をもって72時間の死闘は幕を閉じる。後日、奏上した秦野警視総監に対する昭和天皇のお言葉は意外なものだった。

     神田地区へ転進
     庶民はどちらの味方だったのか?
     機動隊員を助けた学生
     “瘦せ細る”各隊
     階級章では動かない
     深夜の激闘
     敷石はがし作戦
     道路損壊罪?
     秦野流“スクイズ”サイン
     代表課長会議の大激論
     住宅ローンで弁当代を
     “不実の恋人”東大全共闘
     まだ「終わり」ではなかった。
     「軍隊」と「市民警察」の間
     離職者ゼロの意味するもの
     昭和天皇のお言葉

エピローグ
     戦後史の中の安田講堂事件
     真の「反権威闘争」だったのか?
     新たな連帯意識を求めて
     “東大病”の克服
     平成世代との断絶

あとがき

解説 早坂茂三(政治評論家)


東大安田講堂の攻防は有名な事件である。
あの時、最後の最後に、追い詰められた学生たちの中から何人かが飛び降り自殺をしていたら、その後の展開は大きく変わっていたかもしれない。
が・・・彼らは、散々騒いで壊して火炎瓶を投げて…大人しく捕まった・・・
捕まっても絶対にひどい目にはあわないという“読み”だっからだろう。
呆れたのは東大の学生たち・・・
こっそりと途中で撤退していたのである。
戦力の温存とか再起を図るとかもっともらしいことを言って“逃げ出した”
さすがは東大生・・・「エリートは自己保身と要領の良さを本分とすべし」・・・のいい例である。
ワリを喰ったのは応援に駆けつけて講堂に最後まで立て籠もっていた私大生たちである。
「正直者は馬鹿を見る」・・・そのものである。
この安田講堂に最後まで立て籠もってひどい目に遭った日大生の話を又聞きしたことがある。
気が付いたら東大の連中がいない!
今もって、あの時の東大生たちには恨みがあるという。
その後の“内ゲバ”などは、そういうことも原因の一つであったのかもしれない。

いつも思うのが、成田空港開港反対の運動・・・・
なぜなのかはしらないが、なぜか学生たちがデモ行進をし、火炎ビンを投げ、管制塔を破壊した・・・
あの時の学生たち・・・今では、いい歳をしたオッサンになっていると思うが・・・
間違っても、新婚旅行や海外旅行、海外出張に成田空港は利用してないよね?
と・・・言いたくなるのである。(笑)
自分たちが反対していた空港を利用なんかしないよね?
成田空港に行くたびに、ついつい周囲をキョロキョロしてしまうのである。(大笑)

「東大をぶっ潰す!」と騒いで火炎瓶を投げていた連中は、まさか自分の子供を東大なんかには進学させていないよね?(笑)
誰か、その後の過激派連中の行動を調べて本にしてくれないかと思う。
ちゃっかり自分の子供を東大に進学させたり、素知らぬ顔で成田空港を利用してるんじゃないのかなぁ~?
そういう気がしてならないのである。
所詮、「学生運動」なんて、そんなものなのだろうと思う。
だから、今では「学生運動」なんていう言葉は死語同然になってしまっているのだろう。
今の学生は・・・“運動”はしない・・・・
これは“世代”の問題というわけではないという気がする・・・

学生時代、私は学長と学長室で一対一で談判をしたことがある。
大学改革をぶち上げて激論を戦わした。
当然、合法的で、礼を失しないようにした、“まともな”直談判である。
今になって思えば笑ってしまうのだが・・・
授業料値上げに反対していたのは学長の方で、学費が多少高くなっても教育水準を上げろと言っていたのが私なのである。(大笑)
私が左翼の学生たちと違うのが、こういうところ・・・(笑)
今では、こんなことを訴えるような学生は皆無だろう・・・
ちょっと寂しい気がしないでもない・・・・

当時、あの安田講堂で“戦って”いた元学生たちは、本書を読んでどういう感想を持っただろうか?
自分たちがやったことを「若気の至り」の一言で片づけてしまっているのだろうか?

本書の「解説」は早坂茂三氏・・・・
田中角栄の秘書で有名だった人で、一度だけお会いしたことがある。
一緒に寿司を食べた記憶がある。
お亡くなりになってから、もう何年経つだろう?
懐かしい“声”に触れた・・・・
変なところで感激・・・・(苦笑)


今年の読書:30冊目



読書 | 21:51:52 | Comments(0)
『エジソンに消された男』


謝辞

第1部
     1 はるかな手がかり
     2 1930年、リーズ
     3 1889年、リーズ
     4 1889年、ウェスト・オレンジ
     5 成功
     6 失踪
     7 行方不明
     8 エジソン氏の新発明
     9 疑惑

第2部
     1 トラスト
     2 水に浸った銀板写真
     3 歴史は作られる

第3部
     1 始まり
     2 ピート・バルブ
     3 パリ包囲戦
     4 美術学校
     5 芸術と科学
     6 技術の魔術
     7 アメリカ

第4部
     1 パノラマ
     2 最初の実験
     3 鮫から逃れて
     4 奇妙な出来事
     5 マイブリッジ
     6 エジソンの特許
     7 第一撃

第5部
     1 特許戦争
     2 1887年―89年、パリ=リーズ
     3 構想
     4 庭
     5 三番目のシナリオ
     6 手品
     7 ありそうもないシナリオ

第6部
     1 既視感(デジャヴ)
     2 令状
     3 陰謀
     4 失踪Ⅱ
     5 世紀末
     6 失踪の謎
     7 最後のひとコマ

年譜

参考文献



補遺 写真・映画をめぐる主要発明家略歴

あとがき

索引


“世界の偉人”というと、必ずその一人に名前が挙がるのがエジソンではないかと思う。
そのエジソンに“消された”人がいるという題名の本なのだから、読まないわけには行くまい。

フランス人のオーギュスタン・ル・ブランスという人が1880年代末に映画撮影機と映写機を発明したらしい。
そして、フランス中部の町からパリを経由してアメリカのニューヨークに“世界初の映画の上映”をするために向かった。
1890年9月16日の事である。
列車に乗りパリに出発するところは目撃されているが、その後、忽然と姿を消した。
パリには到着していないらしい。
ということは・・・列車の中で姿を消したのか?
一般には「失踪」ということになるだろうが、本人に失踪するような原因は見つからない・・・
何らかの犯罪に巻き込まれたのではなかろうか?
何人もの探偵が雇われ調査をしたが、何の痕跡も見つけられず、彼の“失踪”は、今もって謎となっている。
そして・・・その“失踪”からまもなくして、エジソンが「映画」を発明したという。
なんだろう・・・このタイミング・・・・

発明家はエジソンだけではなく、多くの発明家がいたらしいのだが・・・
エジソン自身の命令によるのか、彼の取り巻き連中の勝手な行動によるものなのか、特許の訴訟を起こしたり、圧力をかけたり、アイディアを盗んだりということがあったようである。
となると・・・この“失踪”も怪しいということになるかも・・・
エジソンはプライドが高く、自分より先に誰かに発明をされると面白くない・・・というところがあったようである。
子どもの頃に読んだエジソンの伝記とは、ちょっとイメージが違う・・・(汗)
そういわれてみれば、エジソンの肖像写真を見ると、ずるがしこい男に見えないこともないなぁ~(苦笑)

一切の痕跡も残さず、忽然と“神隠し”にあったように姿を消したフランス人発明家・・・
その死体も何も見つかっていない・・・・
まもなくしてエジソンが似たような発明品を発明したとなると、証拠がなくとも何らかの関わりがあったのではないかと疑いたくなるのは当然だろう。
真実を探ろうとする家族の前に立ちふさがる“厚い壁”・・・・
これは何を意味するのか?

翻訳本なので、私にとっては、言い回しなど、ちょっと読みづらい所、分かりづらい所が多々あったが・・・
なかなか面白い本だった。


今年の読書:29冊目



読書 | 01:23:28 | Comments(0)
『嘘だらけの日中近現代史』


はじめに―歴史に学ぶ中国人のあしらい方

第1章 嘘だらけの古代「中国」史
        第1節 中国史は繰り返す
        第2節 孔子は建前、本音は韓非子の「余計な奴は殺せ」
        第3節 「インテリヤクザ」諸葛孔明の真実
        第4節 「中国五千年」というコケおどし

第2章 欧州に翻弄された「清」と抗った「日本」
        第1節 民族問題は「明」にあり
        第2節 アヘン戦争で眠り続けた清と目覚めた日本
        第3節 明治政府の凄腕外交と朝鮮の悲劇
        第4節 決着としての日清戦争

第3章 動乱大陸「中華民国」
        第1節 『ラストエンペラー』の大嘘と孫文のインチキ革命
        第2節 帝国主義者にして愛国者・石井菊次郎に学べ!
        第3節 「二十一か条」というプロパガンダに騙されるな
        第4節 アメリカに振り回される日本

第4章 満洲事変で騙される日本
        第1節 「排英排ソ」のち「排日」
        第2節 中華民国の無軌道が満洲事変を引き起こした
        第3節 嘘つきチャイニーズのプロパガンダの手口
        第4節 最強だった帝国陸海軍は日本外交に敗北した

第5章 お人よしすぎる日本人
        第1節 わがまま放題の溥儀と満洲国
        第2節 暗躍する中国共産党
        第3節 支那事変が「日中戦争」ではない理由
        第4節 「大」「虐殺」を定義する
        第5節 「夷を以て夷を制する」の精髄

第6章 究極の中華皇帝!毛沢東の野望
        稀代の暴君・毛沢東

第7章 中国の悪あがき
        第1節 敗戦後の「媚米」と「親ソ」の行方
        第2節 三角大福のマヌケな死闘
        第3節 中国の資金源と化した日本銀行

終章 アベノミクスと中国崩壊の予兆
        日本の未来はあなたが決める

おわりに―闘いは、続く


本書は面白い書き方をしている。
「通説」をまず記して、それに対する解釈と、それが間違っていることを述べるという書き方。
こういう書き方も面白い。
一方的に「中国は嫌いだ」的な書き方の本もあるが、「通説」との比較は面白い。
著者の言い分は、どれもこれも納得できる。
チャイニーズが嘘つきなのは、もう常識と言っていい話だろうし・・・
彼らは「騙す奴より騙される奴が悪い」と本気で思っているんだろうし・・・
嘘も100回言い続ければ本当になる・・・と思っているんだろうし・・・
中国とは、中国人とはそういうものだと思うが、厳密に言うと、もしかしたら「中国共産党」が、そういう連中であって、中国共産党に毒されていない中国人は本当は「いい人」なのかもしれない・・・という気がしないでもない。
そういう中国人を見つけるのは至難の業だとは思うが・・・


今年の読書:28冊目



読書 | 23:54:08 | Comments(0)
不法就労者、全国ワースト1位!
茨城県内で昨年1年間に摘発された不法就労者は2,038人・・・・
2年連続で全国最多となったという!
相変わらず、何をやっても全国ワースト1位の茨城県!(笑)
さすがである!(大笑)

不法就労者の職業は、摘発された全体の7割が農業従事者だという。
“農業県”の茨城では農業の人手不足が深刻ということなのだろうが・・・
以前、茨城の農家から逃げ出した中国人女性と会ったことがある。(苦笑)
彼女の話では、労働条件が過酷だったという。
早朝の真っ暗なうちから真夜中まで働きづめだったという。
しかも、給料は安い・・・
業者にピンハネされていたらしい・・・
で・・・休日に、わずかな小遣いをもらう程度だったそうで・・・
それに耐えきれず“脱走”したという。
当然、“脱走”後は、不法就労者として都会の中に隠れて生活をしている。
日本にやって来たときは“合法就労者”だったのだろうが・・・
こういう労働基準法違反が明確なコキ使い方をする農家にも問題があるのではなかろうか?
茨城県の恥だから、こういう農家は厳罰に処するべきではなかろうか?
こういう農家が不法就労者を助長しているのではなかろうか?

不法就労者の国籍は、思った通り中国人が最も多く716人だったという。
続いてタイ、インドネシア、ベトナムと続く。
「安い労働力」・・・ということなのだろうが、実際に雇うほうは安いカネを払っていないかもしれない。
中間搾取する斡旋業者に問題があるのかもしれない。
そうだとしたら、不法就労者を取り締まる以上に、ピンハネ業者を取り締まるべきかもしれない。

もぐりの斡旋業をしていた中国人女性を知っている・・・
この人は日本人と結婚して合法的に日本に在住していたが、中国からの不法就労者の斡旋をしていたらしい。
警察に摘発されたのちは、姿を見ないから・・・・中国に帰ったのかもしれない。
彼ら「合法居住外国人」の中には、カネの為なら違法行為をやる連中もいる。
カネを稼ぐのが目的で日本にやって来て、日本人との結婚もカネ稼ぎの手段の一つなのだから当然だろう。
日本人が“甘い”と言われるのも当然かもしれない。

茨城県が不法就労者全国ワースト1位というのは、別の視点で見ると大いに褒めるべきことかもしれない。
このデータは「摘発件数」なのである。
つまり、茨城県警は、まじめに一生懸命仕事をした結果、これだけの不法就労者を摘発したと言えるのではなかろうか?
だから「数字が上がった」わけで・・・・
摘発を怠けている、他の都道府県警では摘発件数が上がらないからワースト順位には載らないのではなかろうか?(笑)
茨城県だけにやたらと不法就労外国人が集まっているわけではあるまい?
どこの都道府県にも、こういう外国人はたくさんいるはずで、摘発されないから目立たないだけではなかろうか?
3年前は東京都がワースト1位だったはずだが・・・急に不法就労外国人がいなくなったわけではあるまい?(苦笑)

「ワースト1位」という汚名返上ため摘発はしないようにしよう・・・なんていう本末転倒な事だけは茨城県警には避けていただきたいものである。
大いにワースト1位の座を守っていただきたいものである。
がんばれ!茨城県警!・・・と言いたい!(笑)

エッセイ | 22:28:54 | Comments(0)
『空母機動部隊』


まえがき

1 創生期の航空母艦
       航空母艦とは
       世界最初の新造空母「鳳翔」
       海軍航空の第一歩
       幻の2番艦「翔鶴」
       初期の軍用機呼称
       空母「鳳翔」の原計画
       「カンパニア」と「フューリアス」
       搭載予定の飛行機
       米海軍は石炭船を改造
       誤り伝えられた「鳳翔」の起工日
       発着艦実験を開始
       「鳳翔」への発着実験に成功
       発着艦設備と方式
       日本海軍は洋上索敵を
       英海軍は対潜作戦指向

2 軍縮条約の落とし子たち
       空母の大型化を招いた軍縮条約
       条約下の各国空母兵力
       大型艦を小型化して空母へ
       アイランド型と“雛段”型
       緊急発進にカタパルト
       三層の発着甲板を採用した「天城」型
       強力な砲煩(ほうこう)兵装を搭載
       高角砲も重視
       特色あるフランス空母
       ロンドン条約で新たな制限
       米海軍は航空巡洋艦を企画
       米海軍小型空母「レインジャー」
       多連装対空機銃の登場
       第1航空戦隊、上海沖に出撃

3 高角砲の発達
       初期の高角砲
       12センチ高角砲
       両用砲の開発
       12.7センチ連装高角砲
       高射装置の開発
       長砲身の高角砲
       噴進砲の開発

4 理想型空母の追求
       イギリスの新鋭空母「アーク・ロイアル」
       「ヨークタウン」建造に見る米海軍戦略思想の転換
       「友鶴」転覆事件と第4艦隊事件
       「蒼龍」を改設計、日本空母基本型となる
       日本海軍、優秀な中型空母群を建造
       「加賀」「赤城」にも大改装
       戦後まで就役した「エセックス」型
       強固な防御構造を採用
       英海軍「イラストリアス」で装甲飛行甲板を初採用
       「大和」に次ぐ巨艦「ミッドウェイ」型
       重防御空母「大鳳」
       艦隊防空思想の発達
       直衛艦の建造
       「秋月」級建造計画
       超「秋月」型計画

5 大戦前夜、空母量産時代
       特設航空母艦とは
       昭和6年、艦隊の航空化を計画
       日本海軍の空母増強すすむ
       機動航空部隊、実現す
       開戦の年、艦隊の大拡張を決定
       米・英も空母を大量産
       重巡改造の軽空母
       大型客船改造空母
       米、船団護衛用空母を建造
       船団自衛用のMACシップ

6 第二次大戦、航空戦力の激突
       英海軍、緒戦で二大空母を失う
       英空母、仏・伊主力艦の襲撃に成功
       太平洋戦争開幕で航空優位確立
       空母兵力の再建めざす
       伝統的な泊地襲撃戦略
       史上最大最強の機動部隊、ハワイを襲う
       艦隊航空隊の用法の違い
       敵主力艦撃沈に賭けた日本
       小型空母「祥鳳」と「龍驤」の最期
       大型、小型、いずれが有利か
       勝敗を決した技術格差

7 ジェット機と空母の時代へ
       ジェット・エンジンの登場
       艦上機のジェット化で重量増加
       日本海軍は発進用ブースターを案出
       英海軍、蒸気射出機を開発
       アングルド・デッキの出現
       英空母のジェット機母艦化
       アングルド・デッキを全面採用
       空母建造より大型陸上機を
       朝鮮戦争で空母大活躍
       対空兵装は今やミサイルが主力

8 空母機動部隊の将来は?
       対潜用空母の出現
       揚陸作戦用に輸送ヘリ空母
       V/STOL機母艦の出現
       対潜巡洋艦というソ連の新艦種
       ソ連、航空ミサイル戦艦を建造
       マイクロ化、その行きつく先は
       空母よ、いずこへ行く

あとがき


今年の読書:27冊目



読書 | 09:52:18 | Comments(0)
戦友に会いに行く
今日は我が戦友会の“戦友”に会いに行く日・・・・
ホテルをチェックアウトして、まずは水戸藩士の“シミズくん”へのお土産を買いに行く。
今回、堺に宿泊することを話したら、是非買ってきて欲しいお土産があるという。(笑)

普通は、旅に出てもお土産を買うということは滅多にない。
たまたま土産物屋で見つけて、これは是非食べてもらいたいなぁ~と思った時しか買わないのである。(大笑)
例外は“戦友”の皆さんと、その奥様方・・・
以前は旅先から何十箱とお土産を宅急便で送ったが、その後、鬼籍に入られた方が多くなり今では贈る相手が大激減した。
“戦友”の皆さんはご高齢になられ、もうどこからも手紙も来なければ何も届かないという方が多いようである。
で・・・拙者が旅先からお土産を送ることにした。
突然、自分宛てに宅急便が届いたら驚くだろうし、喜ぶだろう・・・
それに独居老人の場合、宅配業者が訪ねることで安否の確認にも役立つかもしれないと思ってのことである。

我が戦友会の“戦友”は全国各地に散らばっている。
というわけで、日本列島の端に行った時が一番お土産を多く買った・・・(笑)
北海道に行った時は、宅配料金も含めてお土産代が10万円を超してしまった!(大笑)
もう1回北海道に来ることができるほどの金額を使っちゃった!(大笑)
鹿児島県では宅配料金を含めて7万円も使ってしまった!(大笑)
でも、金額の問題ではない・・・目的は喜んでもらえたら嬉しいという、それだけの事である。
カネは天下の回りもの・・・・いつかは何かの形で戻ってくるだろうと信じている・・・(大笑)
だから、いつも運が良いのかもしれない・・・(笑)
お土産のお礼に守っていただいている気がする。

お土産買いは、まず初日にお店を下見する。
で・・・何も買わない・・・(笑)
ホテルに帰って、誰に何を送るかを決めて一筆箋に手紙を書く。
で・・・翌日、同じお店に行く。
「あ~昨日来た人ですね」と言われるが、「どうせ買わないんでしょ」という顔をされる。(大笑)
そこで・・・
「これを5箱、これを10箱、これを3箱、これを5箱・・・」と次々と注文・・・
この時の唖然とした店員さんの顔を見るのが楽しい!(大笑)
送る相手によって品物を変える。
一人暮らしの人に饅頭が36個も入っているお土産を送ったのでは迷惑であろう?
そういうところへは、美味しいものを少しだけ送ることにしている。
「宅急便代の方が高いんですけど、いいんですか?」と店員に言われることがしばしばだが・・・(笑)

全てのお土産に昨晩書いておいた一筆箋を貼ってもらう。
一番大変なのが宅急便の伝票書き・・・
何十枚も書くので、伝票だけを先にもらってコーヒーショップでコーヒーを飲みながら書いたこともある。
懐かしい思い出である。
どのお店でも言われたのが「こんなに買うお客さんは初めてです」・・・(大笑)
申し訳ないからと、飛行機の中で食べてくれとか電車の中で食べてくれと、お土産を頂くことが多い。
それだけで、もう幸せ気分・・・・(喜)
今では送る相手もいなくなり、こんなお土産買いは二度と出来ない・・・(涙)
寂しい限りである・・・・

お土産のお礼状が届くが、これがまた楽しい。
「こんな美味しいものを息子夫婦にはもったいないから、婆さんと二人でこっそりと食べています」という礼状を頂いたときは思わず大笑いしてしまった。
奥さんと二人で別室で、こっそりと食べている姿が目に浮かぶ。(大笑)
確か敦賀に行った時でないかと思うが、羽二重餅を送った時に「何十年ぶりに食べました。昔を思い出し懐かしかったです」と喜んでもらったこともあった。
昔、この方が町内会の旅行で行った時に買ったものと同じだったそうで・・・(笑)
喜んでいただけたら、こちらも嬉しい・・・拙者の方が幸せ気分である。(喜)

今回は、“シミズくん”からお土産を指定されている。
これは、ある意味ありがたい・・・
お土産は何を買おうかなんて悩まなくて済む。(笑)
時間があって指定されたものが買えたら買うが、駄目だったらゴメン!お土産はないよぉ~である。(笑)
今日は午前中、時間が取れたので、彼が希望するお土産を売っているお店に向かう。
お店の場所をネットで調べたらホテルからそれほど遠くはない。
タクシーで行くには近いが、徒歩で行くにはちょっと遠いという微妙な位置にお店がある。(大笑)
時間に余裕があったので徒歩で行くことにした。
で・・・歩いていて気が付いた・・・
この辺りを10年前にウロウロと歩いたことがある!(笑)
拙者の記憶力は“まだらボケ”状態である・・・・
お店に到着して、指定されたお土産を買ったが・・・
お店の人から「賞味期限は本日ですので、気をつけて下さい」と釘を刺された・・・(唖然)
今晩帰宅する予定だが、今晩中に彼に渡して、今晩中に食べろと言うのは酷であろう。
「明日まで大丈夫だよね?」と言ったら「絶対ダメです!今日中に食べてください」と女子店員さん・・・
「自己責任ということで・・・・明日でもいいよね?」と言ったら「今日中に食べてくださいとしか言えません」と頑なである。(汗)
周囲のお客さんからはあきれ顔で睨まれた・・・(涙)
なんという面倒くさいものを指定してくれたのか・・・・“シミズくん”!!!(苦笑)
なんと!水戸藩士“シミズくん”のお土産買いで午前中を丸々潰し・・・(大笑)・・・南海鉄道・堺駅に戻り、駅近くの喫茶店で昼食・・・

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大阪には我が戦友会の会員が何人かいる。
遺族会員だが従軍経験者でもある“フジイさん”のご自宅が、意外にも堺駅からそれほど遠くないことを昨晩地図を見ていて気が付いた。
電車で移動しようとすると大きく迂回するようなので遠いと思っていたが、徒歩ならば最短コースを歩いて30分くらいで行けるようである。
昨晩と今朝、お電話をしたが、応答なし・・・
残念ながら目と鼻の先に来ているがお会いすることが出来なかった。
まぁ、アポが取れていたら午前中にお土産買いになどできなかったので、ある意味、これはこれで良かったのかも。
“シミズくん”に土産を買ってあげなさいという天命であろう!(大笑)

もう一人の方は戦友で、事前に連絡したのだが、16日は都合が悪いという。
「いやぁ~残念だぁ~」を連発される。(苦笑)
「また大阪に来ることもありますから・・・その時に改めて・・・」と言ったが・・・
相手は今までお会いしたことのない方である。
たぶん90歳は超しているだろうから、「また今度」では会えるかどうか・・・(大汗)

で・・・今回アポが取れたのは戦車第6連隊の戦友である“ショウジさん”。
10年ほど前に慰霊祭でお目にかかっている。
久しぶりの再会である。
堺から南海特急に乗り途中で各駅停車に乗り換えて約30分ほどでご自宅のある駅に到着・・・
駅まで迎えに出ていてくださった。
杖もつかず元気に歩かれているが、お歳を尋ねたら90歳だという。
「あと5年・・・95歳までは生きたいねぇ~」とおっしゃる。
奥様は入院中で一人暮らし・・・
ご自宅にあがって、おしゃべり・・・
この戦友を訪ねるのも、実は戦友会の会報の為でもある。
みなさんご高齢になられ、遠方への外出が出来なくなった。
当然、慰霊祭にも参列できない・・・
これでは戦友会に入っている意味がなくなってしまう。
ならば・・・ということで、拙者が会いに行っておしゃべりして、その様子を「会員訪問記」として会報に載せることにしたのである。
そういう活動をし続けて、ずいぶん経つが・・・
都合が合わず、お会いすることもなく他界された戦友も多い・・・
昨年の内に無理してでも会いに行けば良かった・・・というような後悔は山ほどある。
生存している戦友の数も激減した今、あと1~2年のうちに戦友への訪問記は終末を迎える事になるだろう。

事前のアポ取りの時、「フィリピンへ行ってすぐに終戦になったから、ろくに戦ってないから、話すことは何もないんだけど・・・」とおっしゃっていたので、「とにかく久しぶりに顔を見に行くということで・・・」と、今回は拝み倒しての訪問である。
「お元気なお姿を拝見したらすぐに帰りますから、1時間ぐらい時間をください」とお願いした。
が・・・「話すことは何もない」どころではなく、「話すことが沢山」であった。(大笑)
“ショウジさん”は、少年戦車兵第5期生だという。
たしか、第5期生でフィリピンに行った人はほとんどいなかったと思っていたのだが・・・
というのも、5期生の内、繰上げ卒業した200名ほどがすぐさまフィリピンに派遣されたが、途中で輸送船が沈没しているのである。
たぶん全滅していると思っていたのだが、“ショウジさん”の話では、自分の中隊の乗った輸送船は無事だったが、そのほかの船は全部沈められて同期生は全滅したという。
戦後、フィリピンから生還した第5期生は10人もいなかったようである。
話はトントン弾み「話すことは何もない」どころではなく、メモを取る暇もない・・・(苦笑)
更には「あっ、この話は書かないでね」の連発!(苦笑)
活字にしてはいけない話、オフレコが多すぎる・・・(大笑)
これじゃ会報に「会員訪問記」は書けない・・・(大涙)
「お会いしましたが、話の内容は公開できません」では・・・ねぇ~・・・(涙)
参ったなぁ~(苦笑)
1時間程度の訪問のはずが、3時間・・・・
それでも時間が足りない・・・
が・・・拙者は今日中に帰宅しなくてはならないのである。
今から急いでここを出て新大阪に向かい新幹線で東京へ行って、ギリギリ最終の特急に乗れるかどうか微妙なタイミング。
乗り損ねたら一大事である。
後ろ髪を引かれる思いでご自宅を辞し、帰途につく・・・・
「話すことは何もない」に騙された・・・(大笑)
再度、訪問して、話の続きを聞かねば・・・・(大笑)

旅行 | 10:36:14 | Comments(2)
大楠公六百年斎行記録之碑
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大楠公六百年齋行記録之碑

昭和九年建武中興六百年ニ會シ湊川神社社頭新装成ル十一月兵庫縣竝神戸市ノ官民胥謀リ六百年大祭奉賛會ヲ起シ至誠恭敬ヲ■シテ大祭ヲ齋行シ公ガ精神ノ宣揚時勢ノ匡救ヲ策シテ各種ノ記念事業ヲ議決シ役員ヲ委嘱ス十年一月祭費ヲ勧募スルヤ神戸市會ハ率先資金獻納ヲ可決シ尋テ兵庫縣亦獻資朝野ノ有志競ウテ之ヲ翼賛シ崇敬ノ實豫期ノ額ヲ超ユ神徳■焉民心感奮明ニ祀典ニ顕現ス事 天聴ニ達シ祭■料若干ヲ下賜各宮殿下亦幣帛ヲ獻ス大祭ハ五月二十五日ノ正辰ヲ以テ奉行ス其ノ前祭後儀尚荘重殷盛ヲ極ム天之ニ幸シ期間多ク快晴真ニ神人感■上下和楽克ク奉仕ヲ終ル殊ニ大祭當日海軍軍楽隊ハ呉鎮守府ヨリ来リ列シ吹奏ヲ奉事シ軍艦天龍特ニ警備ノ為扇港灣頭ニ投錨ス参列ノ縉紳實ニ四千五百名二十六日神輿東ハ灘區に幸シ一夜輦ヲ大倉山行宮ニ駐ム市民歓呼シ各種ノ演技ヲ奉奏ス翌日更ニ西方須磨ヲ巡シテ還幸扈衛ノ官民三千有餘鹵簿ノ編成供奉ノ調度悉ク新制ナリ蓋シ前古未曾有ノ盛観沿道奉拜ノ人ヲ以テ■ム
嗚呼 公ノ英霊昭和聖代ニ更生シ神縁愈々厚ク幽契益々深キヲ想フ洵ニ恐懼感激ニ堪ヘス■■別録ニ在リ即チ要ヲ■刻シ敢テ後業ニ傳フト云爾

昭和十年八月

大楠公六百年大祭奉賛會長 勝田銀次郎

(碑文より)


【兵庫県神戸市兵庫区・湊川公園】



史跡 | 16:12:48 | Comments(0)
大楠公銅像建設碑
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大楠公銅像建設碑

昭和十年五月二十五日大楠公六百年祭ヲ神戸市ニ擧行スルニ當リ其史蹟地ニ公ノ神威ヲ讃仰スヘキ形像ナキヲ遺憾トシ■陣四十年ノ恩澤ヲ報謝スル為我社其唱首トナリ朝野官民多數ノ翼賛援助ヲ得兵庫縣民ノ總意ヲ求メ零碎ノ資金ヲ多數ノ浄財ニ仰キ公奮戰ノ遺蹟タル湊川公園ニ公ノ銅像建設ノ擧ヲ發表シタル■募財ニ應スルモノ約十五萬人其資参萬貮百貮拾貮圓四十八銭ニ達ス銅像ノ原型ハ帝國美術院會員齋藤素巌氏ノ製作ニ係り武装武具ノ考證ハ東京關保之助氏臺座ハ神戸石松石材工業所臺座表面ノ文字ハ神戸市長勝田銀次郎氏ノ敬書裏面ノ撰文ハ我社ノ手二成リシモノヲ漢詩人成田松坡氏ノ謹書セルモノ地鎮祭ハ昭和十年三月二十日除幕式ハ同年五月二十二日之ヲ擧行同七月一日ヲ以テ神戸市ニ寄贈シタルモノナリ記シテ建設ノ由来ヲ明カニス

昭和十年七月  神戸新聞社

(碑文より)


【兵庫県神戸市兵庫区・湊川公園】





史跡 | 15:05:33 | Comments(0)
とんだ勘違い!
今日のメインの用事は・・・「戦車の碑」の写真を撮ること。(笑)
ずいぶん昔に戦車第6連隊の戦友から青野ヶ原というところに戦車の碑を建立した話を聞いたことがある。
年1回発行の戦友会会報の表紙の写真のネタが切れた・・・
今年の会報の表紙の写真に、この「戦車の碑」の写真を載せようかと思った・・・・
で・・・名古屋に行くついでに神戸まで足を延ばしたわけである。

ホテルをチェックアウトして、まずは手近なところにある“史跡巡り”から始める。(笑)
ホテルのすぐ近くにあったのが「宮城道雄生誕の地」碑である。

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宮城道雄・・・・どこかで聞いたことがあるような・・・(汗)
どうも作曲家らしいのだが・・・どんな曲を作った人なのかは全然しらない・・・(大汗)

続いて向かったのは「生田神社」・・・・
以前にも、ここを参拝したことがあるので2回目の訪問だが、本来の目的地はここではない。
とりあえず、近くに来たので、参拝する。(笑)

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本来の目的地は、この生田神社のすぐ近くにある「神戸税務署」!(大笑)
拙者は「法人会」の広報委員として会報に記事を書いている。
シリーズで書いているコラム記事が「全国税務署巡り」!(大笑)
税務署を巡って何が面白いのかという気がしないでもないが・・・(大笑)
誰も見向きもしない税務署を巡って、税務署を紹介するふりをして、実は近隣の史跡などの紹介をする記事である。(大笑)
大分県の別府税務署の記事では、温泉地ということで「入湯税」についての話を絡ませて書いた・・・
東京の渋谷税務署の記事では、2・26事件の話を絡ませて書いた・・・
「税務署巡り」は、いつも行き当たりバッタリである。
旅行のついでに近くに税務署があれば写真を撮影しておく。
で・・・どんな記事にするかは、後から考える・・・(大笑)
これが、なかなか難しいのである。
話のネタを見つけるのが大変・・・
しかも、この会報は我が地元の税務署の方々も読むので下手な記事は書けない・・・(大笑)
今回は、神戸税務署を撮影しておいて、後から記事を考えることになるが・・・
う~ん・・・どういう記事を書こうか・・・(大汗)
「源平合戦」に絡ませて書いてみようか?(苦笑)

DSCN4478_convert_20170709194723.jpg (神戸税務署)

税務署の写真を撮って・・・・駅に向かう。
とにかく「さんのみや」という町は各線が入っていて交通の便が良いが駅が多いので、田舎からやって来た者にはサッパリわからん。
「三宮」と「三ノ宮」・・・・どの駅に行けばいいんだ?
「三宮」という駅に各線が全部入ってくれていたら駅は一つでわかりやすいのだが・・・
JR、阪急、阪神、神戸市営、神戸高速・・・各駅が微妙な距離感で存在しているので訳が分からん・・・(涙)
ところで、拙者はどの会社の電車に乗ればいいんだ?(大汗)

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ネットで調べ・・・・「阪急神戸三宮駅」から目的地の「市場駅」へ向かう。
途中で乗り換え、1時間以上もかかってようやく「市場駅」へ・・・

DSCN4482_convert_20170709205436.jpg (市場駅)

あ~・・・・(汗)
ホームしかない・・・無人駅だ・・・・(涙)
タクシーはいないわなぁ~・・・これじゃ・・・・
「戦車の碑」は、某病院の敷地内にあるということまでは調べておいた。
で・・・その病院は現在は名前が変わっていることも調べておいた。
で・・・その病院へ行くわけだが・・・
駅を出て山の方へ坂道を延々と30分ほど歩く・・・
なんかおかしい・・・
こんな山の奥にあるのか?
病院は山を削って造成されたような場所に建っていた。
ん?・・・・こんな急斜面が続くような場所に戦車連隊があったのか?
病院の敷地内を探してみたが「石碑」らしきものが見当たらない。
今日は土曜日・・・
診療時間は終わったのだろうか・・・閑散としていたが、病院内に入り職員の方に尋ねてみた。
と・・・
なんと!病院は名称が変わっただけではなく移転もしていたのである!(驚)
女子職員の方が「その碑は移転前の病院のほうにありまして・・・ここではないんです」と言う。
うそぉ~!(驚)
移転前の病院は、現在は廃墟となっているという。(唖然)
調べが中途半端だった・・・(涙)
まさか移転した新しい病院の方に来てしまったとは・・・
道理で地形的におかしいと思ったんだよなぁ~(苦笑)
「戦車の碑」は今も廃墟となっている敷地内にあると思うが、出入り口は封鎖されていて内部には入れないし、外から写真を撮るのも無理だろうとのこと。
今日は土曜日なので管理部門はお休み・・・
改めて管理部門に連絡をして相談していただければ、敷地への立ち入りの許可がもらえると思うとのこと。
あらら・・・まいったなぁ~
何だかんだと2時間以上もかけてやって来たのに・・・空振りである。(苦笑)
廃墟となっているというのでは、「戦車の碑」も雑草に埋もれていて写真を撮れるような状態ではないのでは?
会報の表紙に「戦車の碑」の写真掲載は断念するしかあるまい。
職員の方にお礼を言って失意のどん底気分で・・・(大笑)・・・・帰途につく・・・・
なんだかんだと往復4時間以上も無駄遣いしてしまった・・・(大泣)

「湊川公園駅」で下車し、駅構内で遅めの昼食をとり「湊川公園」へ・・・・
ここに楠木正成の銅像があることは、前回、神戸に来た時に調べておいたので寄ってみる。

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「湊川公園」からテクテクと徒歩で「神戸文化ホール」に向かう。
ここに孫文の銅像があるらしいことも事前に調べておいた。

DSCN4493_convert_20170709215910.jpg (孫文先生の像)

ここから三宮へ戻り、更に大阪へ向かい堺駅に行く。
今晩は堺駅近くのホテルに宿泊する・・・
名古屋、神戸の次は大坂である!(大笑)
今から10年前の平成19年に、ここ堺駅に来ているはずなのだが・・・・駅を降りて周囲を見ても全く記憶が蘇らない。(苦笑)
間違いなく、ここに来ているのだが・・・当時とは違う出口に出てしまったのかも・・・(汗)

DSCN4504_convert_20170709221326.jpg (堺駅南口)

今晩はここで、この間、一緒にパラオで行動した新聞記者の“サイトウさん”と夕食を食べる予定・・・
パラオでは、ゆっくりお喋りが出来なかったので・・・
折角の機会なので、堺駅まで呼び出して・・・(笑)・・・夕食に付き合ってもらう。
駅前の居酒屋で、食事をしながらお喋りをする。
散々飛び回った本日の締めくくりとして充実した時間が過ごせた・・・感謝!(喜)

旅行 | 14:38:56 | Comments(0)
西川鯉三郎免許の跡
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西川鯉三郎免許の跡

初代西川鯉三郎は文政7年(1824)江戸に生まれた。
天保12年(1841)18歳のとき、父と共に名古屋に移り、舞踏一筋に打ち込み、31歳の頃から名古屋の芝居小屋の振付師として活躍した。
この間、篠塚流・坂東流などを学び、また能などの長所をとり入れて、名古屋西川流を確立した。
安政7年(1860)正月19日、「御免踊指南(ごめんおどりしなん)」の公許を得た。

名古屋市教育委員会

(説明板より)


【愛知県名古屋市中区丸の内3丁目16-3】





史跡 | 11:04:07 | Comments(0)
伊藤圭介出生地
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伊藤圭介出生地

蘭方医・植物学者である伊藤圭介は、享和3年(1803)この地に生まれた。
少年の頃から父兄や水谷豊文に就いて医術や本草学を学んだ。
文政10年(1827)には、長崎のシーボルトのもとで西洋植物学を研究し、『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』を著わした。
明治14年(1881)東京大学教授に任ぜられて植物学を講じ、明治21年我が国最初の理学博士となり、99歳の長寿を保った。

名古屋市教育委員会

(説明板より)


【愛知県名古屋市・名城小学校】





史跡 | 10:51:06 | Comments(0)
会長宅を訪問する
今日は会長宅を訪問する日・・・・
訪問は午後に・・・ということにしておいたので、午前中は“観光”をすることにする。(笑)

ホテルをチェックアウトして向かったのは・・・愛知県護国神社!
近くに来ているんだから、お参りしなければバチが当たるというものであろう?(苦笑)
英霊にご挨拶せねば・・・
この愛知県護国神社は3回目の参拝となる。
平成15年と平成20年に参拝した。
最後に参拝してから、もう9年も経つのか?(唖然)
かなりの御無沙汰である・・・・

テクテクと護国神社に向かって歩いていたら、「県警本部西」の交差点のところで石碑を見つけた・・・
なんだろうと思って見たら、「野砲兵第3連隊」の碑である。

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これと同じ碑を9年前に名城東小公園で見たぞ・・・
あれ?・・・9年の間に、ここに移転されたのか?
それとも同じ碑を2つ作って別々の場所に設置したのか?

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護国神社の桜は満開を過ぎ、散り始めていた・・・
参拝後、境内の奥の方にある各部隊の慰霊碑を参拝・・・
時刻は、まもなくお昼になるので、少し早めの昼食を敷地内にある食堂でとる。

護国神社を出て、更に歩く・・・・
折角の機会である・・・こういう時に歩いて普段の運動不足を解消せねば・・・(苦笑)

名城小学校のところに「説明板」が・・・
その説明板によれば、ここは蘭方医で植物学者でもある伊藤圭介の生誕地らしい・・・
伊藤圭介の銅像は8年前に鶴舞図書館前でお目にかかった・・・(笑)
あ~あの方がここで生まれたのかぁ~

DSCN4464_convert_20170704170724.jpg (名城小学校)

更にテクテクと歩いて行ったら、またまた何やら「説明板」らしきものを見つけた!(喜)
近づいてみたら・・・「西川鯉三郎免許の跡」と書いてある。
この人は振付師らしいが・・・
「免許の跡」って、どういう意味なんだろう?
「生誕の地」とか「自宅跡」とか「稽古場跡」というのならわかるのだが・・・
「免許の跡」ねぇ~・・・わからん・・・(汗)

DSCN4466_convert_20170704170757.jpg (西川鯉三郎免許の跡)

更にテクテクと歩き・・・途中でコーヒーショップに立ち寄ってコーヒーを飲み・・・(笑)
地下鉄に乗って会長宅に向かう。
拙者は我が戦友会の会長宅に訪問したことがない。
よくよく考えてみれば、事務局長の拙者が今まで一度も会長宅を訪問したことがないなんて異常かもしれない・・・(苦笑)

会長は体調不良のため、すでに“終活”に入られたことはメールで知ってはいたが・・・
その徹底ぶりには驚いた。
ご自宅の中は必要最小限のものだけしか残っていない・・・・(汗)
ご自宅の各部屋は家具も何もなくガランとしている・・・
まるで荷物も持たずに昨日引っ越してきました・・・という感じ・・・(大汗)
いやぁ~すごい・・・
拙者も、このくらい徹底して整理をすることが出来たらいいのだが・・・
うらやましい限りである。

会長と拙者は、以前からストレートにズケズケと物を言い合う仲である。
というわけで、変な気づかいをしながら・・・という回りくどい話をすることがない。
で・・・最初に、会長が死んだときの会としての対応についての話である・・・(苦笑)
生き死にの話をストレートに語り合うんだから他人が聞いていたら呆れるかもしれない・・・(大汗)
会長としては、死去したときには会に対して連絡はしないという。
簡単に言うと・・・風の便りで知ってくれ・・・ということらしい。
これはご家族の意向なのだと思う。
葬儀に参列されたり、香典だの供花だのをいただいたら“義理”が出来てしまうので、そうなると後が大変だからすべてお断りしたいということのようである。
いつ死んだのかがわからなければ、そういう義理事は発生しないだろうということか・・・
そういう気持ちはよくわかる。
義理事ができると、正直言って後が面倒なのである。
ご家族としても、父親が亡くなったと同時に戦友会とは縁を切ってしまいたいと思うのも当然である。
これは会長のご家族の方針ということで、その方針に従うことを事務局長として確約する。

で・・・次は本題である今後の会の運営についての話し合い・・・
開口一番に「会を解散します」には、再び驚かされた。(愕然)
自分亡き後の後継者がいるかどうか、会長を引き受けてくれる人がいるかどうかと尋ねられるだろうと想定していたので、この間の会計監査の時に監査役の“シゲミさん”に次期会長を打診したのだが・・・
まさかの一方的な“解散”宣言・・・
これには参った・・・
会長は、ご自身が元気なうちに全てのことに始末をつけてしまいたいというお気持ちらしい。
それが現会長の責任の取り方で、自分が死んだ後のことは知りません・・・という無責任なことはしたくないという気持ちは良くわかる。
が・・・会の実務は事務的な事も会計も、すべて拙者一人でやっているのである。
極端な言い方、失礼を顧みずに言うならば、会長が誰であろうと、仮に会長がいなくても、拙者が元気なうちは会の運営は出来てしまうのである。
実務担当者の拙者が”余命僅か”ということであれば、ちょっと会の運営は難しいだろうから、解散ということもあり得るが・・・そうでなければ慰霊祭の開催も、今まで通りに出来てしまうのだが・・・
拙者の考えを尋ねることなく一方的に「解散」を言われたのには驚いた・・・
まぁ、会長のお気持ちもわからないでもないし・・・ここで議論を戦わせても仕方がなかろう・・・(涙)

もしかしたら、ご自身の葬儀と絡めて会の解散を考えたのかも?
つまり、会自体を解散してこの世から消してしまえば、その後、“元会長”が死亡しても連絡をする義理はない・・・
この世に「会」がないんだから・・・・
しかし、在任中に死亡したり、または会長職を辞した後でも戦友会自体が存続していたら連絡しないわけには行かなくなるかもしれないとの思いからなのかもしれない・・・
だから自分が元気なうちに戦友会を解散してしまおうということなのかもしれない・・・
そう思われるのも無理はないと思う。
が・・・人数は激減したとはいえ会員はいるわけで、毎年、会費を振り込んでくれている。
参列者数が激減したとはいえ、永代神楽祭には毎回必ず参列してくれている遺族会員もいるのである。
戦没者の慰霊をできるだけ続けようという方々がいる以上、そうそう会長の“思い”だけでサッサと解散するというわけには行かないと思う。
我が戦友会は、生還者たちの親睦団体ではなく、戦死した戦友の慰霊をするために生還者と遺族が集まって組織された「慰霊団体」なのである。
それゆえ、「最後の一兵となるまで」慰霊活動は続けると、今は亡き生還者の皆さんとお約束したわけで、会を維持するために拙者が入会し事務局長を引き受けたわけで・・・
つまり・・・会長が死ぬまで続けるというのではなく、拙者が死ぬまでは続けるということなのである。(苦笑)
ということで・・・ここで解散するというのは、ちょっと早すぎる気がしてならない・・・

一応、会長のお気持ちは、それはそれとして頂いて・・・善後策を練って、お考えを覆させることを考えた方が良いだろう。
ということで、会長のお気持ちを聞かせていただき、ご自宅を辞す。

名古屋駅まで戻り、そこから今度は神戸に移動して、今晩は神戸に宿泊することとする。
精神的にドドッと疲れた・・・(大汗)

旅行 | 10:37:12 | Comments(0)
木下長嘯子宅跡
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木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)宅跡

長嘯子(木下勝俊)は、木下家定の長子、北政所(秀吉正室)の甥である。
豊臣秀吉のもとで若狭9万石を領したが、関ヶ原の戦いでは去就に迷い、所領を失った、
こののち、京都東山に幽棲、風月を楽しんだ。
歌文に秀れ、著書も多く中でも歌集「拳白集」は名高い。

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47・常泉寺】





史跡 | 20:50:43 | Comments(0)
常泉寺
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常泉寺

太閤山と号し、日蓮宗。
慶長年中(1596~1615)円住院日誦上人の創建という。
この地は、織田信長に仕え、足軽から身を起こして、後に天下を統一した豊臣秀吉誕生の地と伝える。
境内に伝承として、秀吉手植の柊(基木より5代目という)と秀吉産湯の井戸がある。
なお、誕生地については、中中村(現中村中町あたり)とする説もある。

名古屋市教育委員会

(説明板より)

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御手植の柊

秀吉は(1590年)小田原攻め凱陣の時、この地に立寄りて一宿なさる。
小早川景隆、加藤清正を呼召され、寺の建立ありたしと見れば、私11才の時植え置いた柊(1547年)が繁茂せり、柊は鬼神も恐れる吉祥の樹なり大切に致べしとして、手づから竹を立添えられる。
以来「幹」が衰えても下枝が育ちを繰り返しながら現在に至る。

(説明板より)

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豊太閤産湯の井戸

此の井戸は秀吉公生誕の当時近郷に類のない清水の溢れる井戸と伝えられております。
此処に秀吉の依頼によって寺を建立した時この清泉の湧出を意味として常泉寺の寺号を定めたと当山の縁起書に記されております。
昭和40年代に入り市の発展にともない地下水の変動で常泉も枯れるに至り多くの人々が元の姿にもどすことを希っておりました。
年号改元を機に常泉寺の名のとおりの再現を試み清泉がよみがえりました。
滝の落下する後の石は千成びょうたんにちなんで「萬成石」が使用してあります。

平成3年10月吉日
当山

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47】

史跡 | 19:58:07 | Comments(0)
加藤清正誕生地
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加藤清正誕生地

清正は幼名を虎之助といい、永禄5年(1562)この地に生まれたといわれる。
天正(1573~)のはじめ秀吉に仕え、数々の武功をたてた。
とくに賤ヶ岳の七本槍は有名である。
のちに肥後国(熊本県)54万石の領主となった。
慶長15年(1610)名古屋城築城の時、自分の誕生地に城の余材をもって妙行寺を再建したと伝えられる。
寺内には、秦鼎の撰文「清正旧里之碑」がある。

名古屋市教育委員会

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷22・妙行寺】

史跡 | 18:05:36 | Comments(0)
豊臣秀吉誕生の地
DSCN4393_convert_20170623234914.jpg (『豊公誕生之地』碑)

豊臣秀吉誕生の地

天文5年(1536年)、豊臣秀吉は、木下弥右衛門の子としてこの地に生まれた。
幼名は小竹、あるいは日吉丸。
姉智子(関白秀次生母)は同父同母の姉、小一郎秀長(大和大納言)と朝日姫(徳川家康正室)は、異父同母の弟妹である。
出生地については、区内下中村町という説もある。

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町・中村公園】

史跡 | 17:47:19 | Comments(0)
豊國神社
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豊國神社

明治18年(1885年)の創建。
豊臣秀吉公を御祭神とし、出世、開運、茶道、建設等に御利益があるといわれている。
旧正月の生誕祭、5月18日の例祭(太閤祭)前の日曜日には、特に出世稚児行列が、豊太閤にちなみ、子供の成長を願って盛大にくりひろげられる。

(説明板より)


【愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷無番地】

史跡 | 17:38:59 | Comments(0)
名古屋に向かう
今日から名古屋方面に行く・・・
ここ数年、我が戦友会の会長にお会いしていない。
会長が体調不良のためということもあるのだが・・・
お見舞いと言ったら大げさになるので、会の打ち合わせを兼ねてということで、会長に会いに行くことにした。
で・・・そのついでに、神戸、大阪まで足を延ばしてブラブラと旅をすることにした。(笑)
こうなると、何を目的に出かけるのかと言われてしまいそうだが・・・(笑)

朝、家を出て・・・お昼に東京駅から新幹線で名古屋駅へ・・・

まずは、大好きな史跡巡り!(苦笑)
最初に向かったのは、「中村公園」・・・別名「秀吉清正公園」とも言うらしい。

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桜が満開である!(喜)

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この「中村公園」には、ずいぶん昔に一度だけ訪れたことがある。
ずいぶん昔だと思うから・・・25年ぐらい前ではなかろうかという気がするが・・・
とにかく、社会人になって、出張で名古屋に来たついでに立ち寄った覚えがあるのである。
が・・・公園の前まで来たが・・・全く記憶がない!(大笑)
あれ?・・・・である。(汗)

DSCN4391_convert_20170623173157.jpg (豊国神社)

この公園の中に「豊国神社」というのがある。
御祭神は豊臣秀吉である。
この公園に来て豊国神社をお参りしないはずはないのだが・・・・記憶にない!(大汗)

DSCN4392_convert_20170623173352.jpg (豊公誕生之地碑)

すぐちかくに「豊公誕生之地」碑が建っていた。
当然、これも記憶にはない・・・(苦笑)

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「中村公園」には池もある・・・・が・・・・これも記憶にはない・・・(苦笑)

DSCN4407_convert_20170623173522.jpg (橘中佐碑)

「橘中佐碑」というのを見つけた!
橘中佐とは、日露戦争で戦死した橘周太陸軍中佐のことで、“軍神”である。
が・・・なんで、ここに碑が建っているんだろう?
橘中佐は長崎県の出身である。
また、戦死したときは静岡の歩兵第34連隊の第1大隊長だった。
もしかしたら、明治35年、陸軍少佐の時に「名古屋陸軍地方幼年学校」の校長だったので、それで名古屋に碑を建てたのだろうか?
でも、なんで「中村公園」に建てたんだ?
よくわからん・・・
説明板が設置されていないのが残念である。

DSCN4408_convert_20170623173547.jpg (中村公園文化プラザ)

すぐ近くに「中村公園文化プラザ」という建物が建っていた。
なぜか、この建物だけは記憶にある。
なんでだろう?(苦笑)
この建物の中に資料館があるのだが・・・
もしかしたら、休館日に来てしまい、見学できなかったので、悔しさのあまり、それで記憶に残っているのだろうか?(苦笑)
資料館を見学してみたが・・・当然、記憶にない・・・(苦笑)

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DSCN4414_convert_20170623213055.jpg (石田三成自筆密書)

『石田三成自筆密書』(複製)というのが展示されていた。
石田三成の自筆である!(驚)
この密書は石田三成が真田昌幸に徳川家康打倒の構想を伝えたものだとのこと・・・・
「密書」というのは、読んだら燃やしてしまうものだと思っていたが、今の世まで残っていたのか?(唖然)
この密書を受け取った真田昌幸は、このヤバイ代物を大事にとっておいたのか?(汗)
後々、何かに使おうとしていたのだろうか?

他の資料館や博物館では、こういう古文書は、ただそのまま展示されていることが多い。
が・・・ここでは、読み下し文と現代語に訳した文も掲示されているのである。
なんと親切な事か!(喜)
これはすばらしい展示の仕方だと思う。

「中村公園」を出て、すぐ近くにある「妙行寺」に向かう・・・・

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この「妙行寺」は加藤清正の誕生の地だそうだ。
ここには初めて来たような気がする・・・
来たことがあるのか、ないのかがわからないなんて、なんと記憶力の悪いことか・・・(涙)

続いて、すぐ近くにある「常泉寺」に向かう・・・・

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ここは豊臣秀吉の誕生の地だそうである。
あれ?・・・・「誕生の地」の碑は中村公園にあったのだが・・・
なんでここに碑を建てず、向こうに建てたんだろう?(苦笑)
この「常泉寺」は「中村公園」に隣接するような場所に位置しているので、「この一帯が生誕の地」ということになるのだろうか?
豊臣秀吉が、そんなに広大な屋敷で生まれたとは思えないのだが・・・(苦笑)
この寺の境内に「豊太閤産湯の井戸」というのがある。

DSCN4446_convert_20170623221256.jpg (産湯の井戸)

それにしても、加藤清正と豊臣秀吉ってご近所同士だったのか?(大汗)

時刻は午後4時・・・・
今日は名古屋駅前のホテルに宿泊する。
ここまでは名古屋駅から電車に乗ってやって来たが、帰りも電車では芸がない・・・(笑)
ということで・・・・徒歩で名古屋駅まで向かうことにする。
約1時間歩いてホテルに到着!
う~ん・・・いい運動になった!(笑)

旅行 | 16:05:12 | Comments(0)
『傷痕 ルソンの軍靴』


第1部 南溟への航跡
 征旅―「虎の子兵団」(昭和19年12月19日)
 MT船―吉備津丸(12月20日)
 防人(さきもり)の歌―南下の船団(12月21、22日)
 北回帰線―台湾沖(12月23~26日)
 魔のバシー海峡―砂浜に立つ(12月27~29日)

第2部 「勝利か、死か」
 北サン上陸―椰子林のしめ飾り(12月30、31日)
 「銃を貸せ」―中隊長と兵(昭和20年1月1日)
 艦砲射撃―「敵船団北上す」(1月5日~8日)
 夜陰の靴音―再び北サンへ(1月9日)
 米比軍ゲリラ(USAFIP=NL)(1月14日)
 倒木と地雷と―「虎」ボントックへ(2月7日~11日)

第3部 ルソン山岳州に死す
 「虎」兵団とルソン戦線―(昭和20年1月~2月)
 三角拠点、ボントックの放棄(2月~3月)
 中継点、セルバンテスの攻防(3月10日~4月3日)
 カヤンの丘―陣中閑あり(4月)
 タクボの先陣―彼我の戦闘地名(4月末)
 霧と硝煙―タクボ陣地(5月10日~15日)
 死命を制す―斬込み戦法(5月16日~20日)
 迂回作戦―戦場のミステリー(5月17日~5月末)
 「戦陣訓」―その生と死(5月)
 逆転の推移―峠の群像(5月下旬)
 たこ壺の月―赤禿台地占領(5月26~30日)
 散華―林集成中隊(5月31日~6月3日)
 陣地喪失―タクボに死す(6月4日~14日)
 敗走―追走(6月14日以降)
 悲風万里―峠に立つ

第4部 報復「死の行進」
 軍旗奉焼―ブルブル山(20年8月)
 下山・武装解除―バクロンガン部落(9月13日)
 雨の収容所―ボントック道90キロ地点(9月13、14日)
 アレンに似た娘―柵の内と外(9月14、15日)
 「死の行進」―虚と実(9月16日)
 マンカヤン・バイパス―別名コッパー・ロード(9月17日)
 「ユーノーワッチ」―セルバンテス渡河(9月18日)
 タクボへの葬列―ベッサン・パス(9月19日)
 山霊―長恨・峠の戦記
 アメリカ兵―4号線ブタック(9月20日)
 「人間万事」―4号線スヨ(9月21日)
 イロコスを南下―3号線ゲリラ地帯(9月21日以降)
 無蓋車―北サンフェルナンド(9月22日)
 余録

あとがき

主要参考資料


著者はフィリピンのルソン島山岳地帯で戦った第19師団(虎兵団)・歩兵第73連隊第1大隊第2中隊の兵士・・・
本書は、その方のフィリピン上陸から終戦後までの体験談である。
ただ自分の体験談だけという狭い範囲の話だけではなく、広く当時の戦闘状況等につても言及しているので、当時の様子を知ることができるので、結構読みやすいのではないかと思う。

この方が戦った戦場のうちに「タクボ峠」という場所がある。
以前から、その名は聞いたことがあるが、実際に現場に行ったことはない。
私がよく行く山岳地帯とは、少し地域がずれている。
いつか、機会があったら歩いてみたいと思う。


今年の読書:26冊目



読書 | 22:46:13 | Comments(0)
『帰らぬ空挺部隊』


あかね雲

奥山道郎という男

日向路

運命の島サイパン

特攻隊選出

潜入諜報員

必殺の戦法

往く年来る年

挫折

出戻り

硫黄島

天号作戦

再度唐瀬原へ

第6航空軍

義号作戦認可せらる

訓練には制限がない

作戦計画

遺書

本日の予定

只今突入

余録

幽魂

面影

附録
 戦死者人名
     義烈空挺隊
     第3独立飛行隊
     飛行第60戦隊
     義烈空挺隊直協中飛行場爆撃の岩橋機
     義烈空挺隊直協北飛行場爆撃の田畑機
     飛行第110戦隊


本書の著者は、騎兵第14連隊の戦友会の会長さん。
そういうわけで、以前から存じ上げている方である。
日中戦争時には中国大陸で騎兵として戦っていたが、その後空挺部隊に移った方。
戦友会の集まりに参加したときに、会長さんから上座に座るように言われた・・・(汗)
私は戦友会の中では最年少者なので「末席に座らさせていただきます」と断ったら・・・叱られた。(大汗)
戦後生まれなのだから当然、末席に座るべきだと思ったのだが・・・
「あんたは、上座に座りなさい!」と怒鳴られた。
他の方々から「田中会長は怖いんだよ~俺たちとは違ってバリバリの陸士出だからねぇ~」と慰め(?)られたことを覚えている。(苦笑)
今ではいい思い出である。
厳しい怖い会長さんだが、いつも私を気遣ってくれた。
・・・・が、すべて“命令”口調である。(笑)
さすがは陸士(陸軍士官学校)出身者は違うんだなぁ~と思っていたが・・・
本書の著者略歴を見て驚いた。
戦後は陸上自衛隊に入って退職された時は、「陸将補」という階級である。(汗)
いわゆる「将軍」・・・・偉い人だったんだぁ~・・・である。(苦笑)
今頃になって知るとは申し訳なし・・・
「足腰が弱って外出できなくなった」と聞かされて、もう何年経つか・・・・
もうお会いする機会はないだろう。
あのビシビシッとした命令口調が聞けないのは寂しい・・・
先日の「軍馬の慰霊祭」・・・
ある意味、強迫観念から参列している。
田中会長から、後ろから「あんたが継承しないで誰がやるんだ!参列せよ!」と怒鳴られるような気がして欠席できないのである。(大笑)

本書は沖縄戦に投入された陸軍空挺部隊(義烈空挺隊)の戦史である。
確かご本人は本部要員だったので実戦には参加したことがないというようなことを、おっしゃっていたと記憶している。
決死の作戦に参加して命を捧げた戦友たちの記録を後世に残してやらねば・・・という思いで書かれたのだろうと思う。
自分の自慢話などは一切排除した純粋な「戦史」である。
田中会長らしい・・・
著者の田中さんの顔を思い浮かべながら読んだ・・・・


今年の読書:25冊目



読書 | 01:26:41 | Comments(0)
『下士官たちの戦艦大和』


第1章 不運なる星の下に
        見張り員の絶叫
        意外なる盲点
        怪情報ながれる
        内地への別れ
        陰鬱なる制裁

第2章 栗田艦隊、出撃す
        悲愴なる総員集合
        出撃前夜の宴
        ギンバイ三すくみ
        時すでに遅し
        大混乱のなかで

第3章 激闘の陰にあるもの
        機関科の少年兵
        巨大なる柩
        もはやこれまで
        伊沢兵長の最後
        厳しき海軍の掟
        最後の力をしぼって

第4章 何のための厳しき訓練か
        まぼろしの勲章
        1本のロープ
        舷窓からの脱出
        生死の別れ道
        総員退去は幻か
        地獄の蓋

第5章 軍艦旗はためきて
        危険なる配置
        「愛宕」が沈む
        脳裏に浮かぶ光景
        葬送ラッパ
        悪い前兆

第6章 「大和」シブヤン海を行く
        レイテへの道
        大艦巨砲の出番
        不気味な沈黙
        一瞬の駆け引き

第7章 執拗なる敵襲に抗して
        長い時間のなかに
        ただ1機の味方機
        巨艦、潰えるとき
        屍を越えて
        暗い海に

第8章 炎の海の死闘の末に
        第一発見者
        血書の嘆願書
        大きな黒い影
        白刃の下に立つ
        巨砲、火を吹く
        戦闘旗なびて

第9章 生と死をみつめて
        奇妙なる時間
        重大なる決断
        “ヤラレタ!”
        敗者の愁訴
        2本の航跡
        戦い敗れて

第10章 地獄の島に死せず
        落日のセブ基地
        留まるも進むも死
        敵兵の銃口
        異常なる点景
        悲しき兵隊

終章 惨たる敗北のなかから
        栗田艦隊の終焉
        反転への証言
        勝敗の分岐点

文庫版のあとがき


本書は「戦艦大和」と銘打っているが、本書の半分ぐらいは、著者が乗り組んでいた重巡洋艦「愛宕」の話である。
こうなると、ちょっと題名と内容が違うのではないか?・・・・という違和感を感じざるを得ないが・・・
意外にも「大和」より「愛宕」のほうが、よくわかった点では、良かったかも・・・


今年の読書:24冊目



読書 | 19:44:45 | Comments(0)
軍馬の慰霊祭
今日は、軍馬、軍犬、軍鳩の合同慰霊祭の日・・・・
例年通り前泊して、靖国神社に向かう。
この慰霊祭と、5月に開催される我が戦友会の永代神楽祭にだけは、立場上、絶対遅刻するわけにはいかないので、いつも前日に上京してホテルに宿泊することにしている。

昨年から、軍馬の慰霊祭の中心だった騎兵第14連隊からは拙者以外に誰も参列する人がいなくなった・・・(涙)
騎兵第15連隊を代表して参加されていた会長の葦名さんもお亡くなりになってしまったので、この部隊からの参列者もいない・・・
騎兵第11連隊もしかり・・・である。
たとえご存命の方がおられても、皆さん90歳を超しているからご高齢のため外出できないのだろう・・・・無理もない・・・
今年はどうなるのだろうと、ちょっと心配したが・・・お一人だけおられた!(喜)
確か・・・騎兵第13連隊の方である!
我が騎兵第14連隊とは同じ騎兵第1旅団隷下の部隊の方である。
以前より、お顔を存じ上げていたのでご挨拶したところ、家族の反対を押し切って無理して来たという。(苦笑)
高齢なので行くなと家族に反対されたらしい。(汗)
「そういうわけなので、来年は参列できないと思います」とおっしゃる・・・・
返す言葉もない・・・(涙)

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毎年、この4月第一日曜日は天気が悪い。
雨が降ることが多いのであるが、今年は珍しくお天気がいい!(大喜)
久しぶりに屋外で、馬の銅像の前での慰霊祭となる。

我々“代表者”は、リボンを付けて最前列に座る。
玉串奉奠をするのが“代表者”の役目である。
が・・・ついに自分が“代表者”格になったら非常に不便となった・・・(大汗)
一昔前は、最後列に座って式典の様子などの写真が撮れたのに、自分が最前列に座ることになったため、自由に写真が撮れなくなってしまった。
しかも、まさか後ろを振り返るわけにもいかぬので、どれほどの人が集まっているのかもわからない・・・(苦笑)
我が騎兵関係者が他にもいるのかどうかもわからない・・・(涙)
とにかく、神妙に座って開会を待たねばならぬ。
開会までの、この時間が苦痛・・・(苦笑)
何事が始まるのかと、“道行く”一般の参拝者たちが、我々にカメラを向けたりスマホを向けたりして撮影するのである。(苦笑)
う~ん・・・・“さらし者”状態である・・・(大涙)
なんとも恥ずかしいんだよねぇ~(苦笑)

無事に玉串奉奠の役を終え、式典は終了・・・・
一緒に“代表”を務めた方とも、今日でお別れである。
「また来年お会いしましょう!」と言いたいけど、それを言って良いのやら悪いのやら・・・(汗)

実は、この4月第一日曜日には、愛知県の三ヶ根山で比島観音の例大祭が開催されている。
同じ日の同じ時間での開催なので、拙者は、こちらの“お役目”があるので、比島観音のほうには、もう何年も参列していない。
以前は、軍馬の慰霊祭は4月7日頃に開催されていたので、「4月第一日曜日」にぶつかることは滅多になかった。
そのため、比島観音の例大祭に参列した後、どこかを数日ブラブラと旅をして(大笑)、日程の調整をして最後の日に靖国神社に立ち寄って軍馬の慰霊祭に参列してから帰宅したのだが・・・
(下手をすると1週間ちかくの国内旅行となるが・・・)(大笑)
軍犬、軍鳩との合同慰霊祭になってからは、「4月の第一日曜日」と決められてしまったために、それ以来、比島観音には参拝していない。

ところが、来年、この比島観音の例大祭が最後を迎える事となったのである。
役員の高齢化と跡継ぎを作ることが出来なかったため、もう例大祭の開催が出来なくなったのである。
で・・・来年で幕を閉じる・・・・
「あんたが手伝ってくれたらなぁ~」と以前から言われていたが、どうしようもない・・・
体を二つに割って同じ日に別々の場所に行くなんて不可能である。(大笑)
どうして関係者の子孫で「俺がやります!」という人が現れないのか・・・・(涙)

来年、最後を迎えるにあたり、フィリピンで戦った部隊の事務局長としては、立場上、最後の例大祭には参列しなければなるまいが・・・
そうなると、こちらの軍馬の慰霊祭に参列できなくなる。
今回参列してくださった“戦友”は、ご高齢のため来年は無理なようだ・・・
となると、来年は騎兵関係者の“代表”の参列は無くなることになる・・・
いやぁ~参ったなぁ~(大汗)
どう頭をひねっても、いい案が浮かばない・・・・
今からもう来年の心配である・・・
溜息しか出ない・・・・

慰霊祭の後、池袋へ向かう・・・
今日は、この後、姪っ子が指導しているお茶の水女子大付属高校の合唱部の発表会があるのである。
これに顔を出して、帰宅する。

日記 | 23:29:24 | Comments(0)

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