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Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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モーナ・ルーダオの生家跡に行く
霧社から更に奥地に向かう・・・・
向かう場所は「廬山温泉」・・・・
そこに、事件の首謀者とされるモーナ・ルーダオの生家跡があるらしいので今回の予定に入れておいた。

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途中、「雲龍橋」という橋のところで下車して見学する。
この橋は史跡らしい。
が・・・ガイドの話が要領を得ない・・・・(苦笑)
史跡の説明板があったので読んでみるが中国語である・・・(涙)
この文章を、そのまま日本語に翻訳して欲しいのだが、ガイドは自分の知識だけで説明するので、よくわからない・・・(涙)
マイペースなんだよなぁ~(苦笑)

しかたがない・・・想像力を駆使しながら自力で読むしかないか…(苦笑)

説明板によれば・・・・
日本統治時代に斯庫部落(スーク社)の下にある濁水渓という川の畔に架けられた橋が前身のようである。
当時は、「斯車鐵線橋」と呼ばれていたらしい。
「鉄線橋」という言葉は聞いたことがあるが、どうも日本でいう「吊り橋」を指すのではないかと思われる。
で・・・このスーク社(斯庫部落)は「廃社」と書かれているから、現在は消滅しているという意味だろう。
この橋の西には賽徳克族(セデック族)のSUKU部落(スーク社)とGUNGU部落があるという。
わからないのは、このGUNGUの発音・・・(苦笑)
霧社の11社の部落に、このGUNGUに当てはまる発音の部落(社)がないのである。(涙)
このGUNGU部落は、現在は春陽部落と呼ばれているらしいのだが・・・・
東にはBOWARUNG部落と、MEHEBU部落がある。
BOWARUNG部落は「ボアルン社」のことで、MEHEBUは「マヘボ社」のことだろう。
ボアルン社は現在は廬山温泉部落と呼ばれているらしく、マヘボ社は現在の廬山温泉だと書いてある。
が・・・う~ん・・・「廬山温泉部落」と「廬山温泉」とは、どこがどう違うんだろう?(苦笑)
1930年10月、霧社事件が「爆發」したとき、「抗日領袖」だったMONA-RUDAW(莫那魯道=モーナ・ルーダオ)は、日本軍に追われて「敗退」するときに、この橋を「吹断」して(吊り橋を切り落としたという意味か?)日本軍が川を越せないようにしたと書いてある。
1949年、「台湾光復後」に、「龍雲将軍」という人が、橋を再建したらしく、「龍雲橋」と名付けられたと書いてある。
その後、再び名前が変わり、「雲龍橋」となったらしいが、その理由は・・・読んでも意味が分からなかった。(苦笑)

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当時の吊り橋の“主塔”部分が残されていて、そこに「雲龍橋」と刻まれている。
この橋の主塔が、どうも「史跡」らしい・・・
霧社事件当時の橋は、どのあたりにあったのかは全く分からない・・・
この橋は戦後に建てられた2番目の橋ということになるか?
説明文では、1972年に南投縣政府が、山地人(原住民)の交通の便を良くするために吊り橋を建設したというようなことが書いてある。
ん?・・・ということは、その時の橋がこれなのか?
よくわからん・・・
そうなると、この「雲龍橋」は3番目ということになるのか?
説明板によれば、「但」し・・・「小車」しか通行できないので、「大型車」に乗っている「遊客」は、ここで下車したという。
このため、「人車分離方式」の「座橋」を建てたらしい。
これが現在の「道路橋」ではないかと思うが、「人車分離」の「歩道」のほうは、どこにあるのか・・・見当たらなかった。(苦笑)
どうも、拙者の和訳も、最後の方になると怪しいものである。(大笑)

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橋のところに銅像が・・・(大喜)
男女の像であるが、服装から想像すると賽徳克族(セデッック族)ではないかと思うが・・・・
セデック族は、泰雅族(タイヤル族)の中の一つで、タイヤル族の亜流である。
以前は「タイヤル族」とされていたが、2008年に原住民の「セデック族」として台湾政府に認められた。
で・・・特徴は、顔に刺青(いれずみ)を入れているのだが・・・
この銅像の顔には刺青らしきものが見当たらない。
なんでだろう?
日本統治時代に、この刺青については厳しく禁止されたという。
そういうわけで、この顔に刺青を入れるという風習は現在では無くなったので・・・・それで銅像にも刺青を描かなかったのかも。

橋を渡り、トンネルを抜け・・・さらに山奥に向かう・・・

ガイドの話によれば、廬山温泉は、2009年に集中豪雨に遭い、壊滅的な被害を受けたという。
で・・・今では、廃墟と化しているというのだが・・・・
行って見たら、そんな風には見えない・・・(苦笑)
ごく普通に営業しているように見えるんですけど・・・(汗)

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吊り橋を渡って、向こう岸に向かう・・・

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結構、この吊り橋・・・怖いのである・・・(大笑)
拙者は高所恐怖症なのである!(大涙)
先を行くのはガイド・・・
揺らすなって!(怒)
あんたがドッシンドッシンと歩くと揺れるんだって!(怒)
向こう岸から中国人観光客の団体がやってきた!(大汗)
渡るなよ!来るなよ!・・・と言いたいが・・・中国語が話せない・・・(大汗)
橋の真中を歩くのもやっとだというのに・・・橋の上ですれ違うのかよぉ~(涙)
ゲゲッ・・・顔面蒼白である。(大笑)
キャーキャー騒ぎながら渡ってきた中国人観光客たちと橋の上ですれ違う・・・
お互いに橋の端を歩かねばならない・・・
言葉が通じないので、お互いに表情で“会話”・・・・
「怖いよねぇ~」(大笑)

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橋を渡った先の温泉街・・・・
どことなく昔の日本のような・・・そんな感じのする温泉街である。
ん?ちゃんと営業してるじゃないか?壊滅なんかしてないじゃないか?
閑散としていてお客さんの姿は見当たらないが・・・(笑)
だいたい、どこでも温泉街って昼間は閑散としてるんだよねぇ~
賑わうのは夜でしょ?(笑)

旅館と旅館の間の狭い路地から奥の山に向かって歩く・・・
ダラダラのなだらかな坂なのだが、こういう坂が実は歩いていて、運動不足の拙者には非常にキツイのである。(涙)
その景色を撮影したいが、先を歩くガイドが邪魔で写真が撮れない・・・(涙)

山奥に入り込んで約10分・・・道に迷った・・・(笑)
どこにもモーナ・ルーダオの生家跡らしきものは見当たらない。
「帰りましょう!」とガイドが言う。
いや、いや、ちょっと待て・・・ヘトヘトになりながら登ってきたのである。
ここで諦めて帰るわけには行かない・・・
が・・・ガイドは勝手に山を下りようと先に歩き出した・・・(唖然)
と・・・・見っけ!(喜)

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道標を見つけた!
ガイドはどこを見て歩いてるんだよ!(怒)
これに気が付かないとは・・・(汗)
「往莫那魯道紀念碑」と書いてあるじゃねぇか!
「こっち!こっち!」とガイドを呼び戻す。

更に山道を登ること約5分でモーナ・ルーダオの生家跡に到着する。

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ここがどうも生家跡らしい・・・

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紀念碑には・・・
「抗日英雄 
莫那魯道 紀念碑 
仁愛郷長 沈明徳 題
中華民國八十二年九月五日立」
・・・とある。
「中華民国八十二年」は、1993年、日本では平成5年である。

後ろにある建物は、復元された生家というわけではなさそうである。
「莫那魯道紀念館」という看板が取り付けられていたが・・・
どうも日本でいうところの「神社」「社」という感じである。
内部を見たら・・・・こんな感じ・・・・

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「紀念館」だけど・・・資料のようなものの展示は何もない・・・(苦笑)
祭壇らしきものがあるだけ・・・・
神様として祀っているということだろうか?

「往馬赫坡古戦場」という道標を見かけたが、「古戦場」って何だろう?
どうも、この生家跡の脇の道を通って更に奥地に向かうらしいが・・・
ガイドに尋ねたら「知りません」とのこと・・・(唖然)

今日はやけに暑い・・・
山地なので、少し肌寒いかと思っていたが、山道を登ったせいか暑くてたまらん。
拙者の出で立ちは、ジャケットにスラックスに革靴である。(笑)
ジャケットなんか着ていられない・・・まるで初夏の暑さか残暑なみの暑さである。
ガイドはTシャツを脱いで上半身裸で、拙者の前を歩く・・・
やめろって・・・その格好・・・(涙)
上半身裸の男が写真に写りこんじゃうじゃねぇか・・・そんな写真、使い物にならなくなるんだけど・・・(涙)

DSCN3723_convert_20170209120605.jpg (来た道を振り返って写す)

DSCN3724_convert_20170209120655.jpg (遠くに見えるのが廬山温泉)

ガイドが「別のルートを通って帰りましょう!」と言って歩き出した・・・
途中で人の顔を彫った石を見つけた。

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石像の前にある看板を見たら「馬赫坡原址」と書かれていた。
おお!・・・ここが馬赫坡(マヘボ)社跡なのか!(驚)
事件当時のマヘボ社の家の数は54戸、人口は231名(男113名、女118名)だったという。
ごく平均的な規模の集落である。
で・・・モーナ・ルーダオは、そのマヘボ社の頭目であり、事件の首謀者である。
その生家がある場所なんだから・・・この周辺がマヘボ社だというのは当然か・・・(笑)

DSCN3731_convert_20170209135959.jpg (マヘボ社跡周辺)

今は、集落らしきものは何もない・・・・完全に消滅している。
まぁ、“抗日集落”だから仕方がないか?
54戸の家はどのあたりに建っていたのだろう?

来た時とは別のルートで、更に山を下る・・・・

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山を下ること10分程度で麓の集落に出た・・・
「地熱井(廬山温泉)」という看板のある場所を見つけた。

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「地熱井」って・・・温泉の源泉のことだろうか?
ここが「廬山温泉集落」ということであれば、事件当時、ここには「ボアルン社」があったということになる。
事件当時のボアルン社は48戸、人口は192名(男97名、女95名)だったという。
この上の方にあったマヘボ社より、ほんのちょっとだけ小さい集落だったということになるが・・・・

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この集落のメイン通りのところに、今度は女性の顔の石像があった。
説明板には「女紋面石像」としか書かれていない。
「ボアルン社跡」というようなことが書かれていない・・・
どこかに「址碑」でもないかと見渡したが見当たらなかった・・・
でも、ここはボアルン社跡のような気がするんだよなぁ~・・・・単なる勘だけど・・・(苦笑)

この人面の石像の顔には刺青(イレズミ)が彫られていた。
この刺青は、男性の場合は勇敢を表わし、女性の場合は機織の技術を持っていることを表わしている。
ということで・・・この人の場合は、機織の技術を持っている・・・ということになるな。(笑)

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どう見ても、日本家屋にしか見えない建物があった。
これは何に使われているんだろう?
一般住宅というより、集会所のような気がしないでもないが・・・・

この家の前に近代的な設備が・・・(笑)

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説明板によると「経済部中央地質調査所衛星連讀追蹤站―警光山荘站」と書いてある。
さて、これを訳してもらおうと思ったのだが・・・ガイドがいない!(驚)
彼は山歩きが趣味だと言っていたが・・・・
わき目もふらず、スッタ、スッタと先に歩いて行ってしまったのである!
役に立たねぇなぁ~(怒)
こっちはウォーキングに来ているわけじゃないんだけどなぁ~
自分の趣味を優先するとは困った男である。(怒)
しかたがない・・・またもや自力で訳すしかないか・・・
どうやら、この設備はGPSらしい・・・(笑)
ここ十数年、この廬山温泉周辺では、台風や豪雨などで地盤に問題が発生していたようである。
「大規模岩體滑動」とか「滑動」という文字が何度も出てくる。
滑る?動く?・・・・地盤がずれるとか崖崩れを起こすとか・・・そういう意味かもしれない。
で・・・ここ廬山温泉の旅館と住民の安全のため、この機器を設置して、地盤のずれを観測し、「防災」と「預警的資訊」のために情報を提供する・・・とかって書いてあるようである。(汗)
ここのほかに、かなり離れた山の中に2ヵ所、同じ観測機器を設置しており、その配置図が描かれていた。
なんと丁寧な・・・(笑)
3点でGPS測定をして、地盤の変動を調べて警告を出すということだろう。
へぇ~・・・大したものだ・・・と感心・・・

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さらに道路わきに葉っぱの形をしたものを見っけ!
何だろうと思ったら、字が彫られている・・・・説明板である。(笑)
これもまた自力で翻訳せねばならない・・・(涙)
「仁愛郷廬山」についての説明文のようだ・・・
それによると、「廬山温泉」というのは、昔は「富士温泉」と呼ばれていたそうだ。
廬山温泉は霧社から東北へ「9公里」の場所に位置するという。
「9公里」って何キロメートルなんだ?・・・・9キロメートルでいいのかな?
尋ねたくともガイドがいない!(怒)
日本統治時代は日本軍人傷病兵の療養場所として使われていたらしい。
その後に、この場所が自然に恵まれた非常にいい場所だとか、温泉の効用について書かれていた。

DSCN3751_convert_20170210111828.jpg

再び吊り橋を渡って対岸に戻る。
モーナ・ルーダオの生家跡から、ここまでゆっくり歩いて約20分である。

橋を渡ったところで、ふと目についた・・・・
地図である!

DSCN3753_convert_20170210111901.jpg

ここに地図があったじゃないか!
スタスタと歩いて行っちゃうから見落とすんだよな!(怒)
この地図に「古戦場」が描かれていた。
そこにはモーナ・ルーダオの銅像が建っているらしい・・・
あ~あ~・・・・何が「知りません」だよぉ~(涙)
あの奥に、もう少し歩いていけば良かったんだよなぁ~
今更、もう戻る気は起らないし・・・(涙)
大失敗である!!(大涙)

「古戦場」と呼ばれるのは、モーナ・ルーダオ一族が最後にいた場所ではなかろうか?
事件後、日本の武装警察官隊と応援に駆け付けた日本陸軍により彼らは追い詰められていく。
どこかの洞窟にいたらしいが、その入り口に日本軍の砲弾が降ってきて死傷者が出た。
確か、弟か誰かが死んだと思う。
そこで、洞窟を出て向かった先がこの「古戦場址」と呼ばれる場所ではなかろうか?
そうだとすると・・・ここには小屋があり、そこでモーナ・ルーダオは一族の者たちに自殺を命じる。
次々と自殺をする中、モーナ・ルーダオの妻と子供が自殺をためらったので、彼が自分の手で殺害したという。
死体の首を刈られるのを避けるため、ここにあった小屋に火をつけて遺体を焼き払い、自身は山の中に入って自殺したという。
これが通説だが・・・・
その小屋があった場所、つまり一族が自殺した場所が「古戦場址」なのではあるまいか?
現地に行けば、説明板か何かがあるだろう・・・
あ~失敗した!(涙)
再訪問するしかないかぁ?
この廬山温泉にでも宿泊して、ここを拠点に歩くしかないか?

それにしても、この一族の最後の「説」には、拙者は個人的に疑問がある。
当時の彼らの「自殺」は「縊死」・・・つまり「首吊り」が一般的である。
その昔、日本でも「割腹」「切腹」が自殺・自決の一般的な方法であったのと同じようなもので・・・
彼らは、大木の枝で首を吊って自殺するという方法が一般的であったという。
これは私論であるが、山の中の檜(ひのき)は先祖の精霊が宿っている神聖な木という彼らの「信仰」に関係しているのではなかろうか?
そこで木の枝に縄をかけて首を吊るのではあるまいか?
実際、この事件で追い詰められた原住民たちの多くは首を吊って自殺をしている。
表現が不適切だとは思うが、まるでクリスマスツリーの飾りつけのように、一本の木のいくつもの枝に何人もの遺体がぶら下がっているのが発見されている。(当時、日本軍もしくは日本人が撮影したと思われる、その写真も残っている)
にもかかわらず・・・なんで小屋の中で自殺するんだろう?
周囲は山である・・・いくらでも木があるんだけど・・・
そして、首謀者も、同行していた一族も全員自殺したというのに、一体だれが、これを見て後世に最後の様子を伝えたのだろう?
不思議である・・・・

もう喉がカラカラである・・・
そのへんのお店に入ってコーヒーでも飲もうか?
ガイドが「おいしいコーヒーのお店がありますから、そこへ行きましょう」と言う。
そんなお店が、こんな山奥にあるのか?(苦笑)
とにかく車に乗り込み走り出す。
霧社のすぐ近くまで戻り、町には入らずそこから別の道を通り山を登っていく。
「すごく景色のいい場所があるので、案内します」とガイド・・・・
「いや、それより喉が渇いてるんだけど・・・何か飲みたいんですけど・・・」
「はい、コーヒーですよね?おいしい店に案内します」
しかし・・・彼の様子を見ていると、どうもお店を知っているようには見えない・・・(汗)
キョロキョロして、適当な店の前に車を止める・・・・
山の中腹にレストランが・・・
行って見たら休業だった!(唖然)
2軒目の店も休業!(怒)
さすがに腹が立ってきた!
「どこでもいいから入れ!喉が渇いてるんだって言ってるだろ!」(怒)
ようやく開店しているレストランを見つけ入る・・・

DSCN3762_convert_20170210134933.jpg (レストラン)

このレストラン・・・標高2044メートルにある。(そう看板に書いてあった)
で・・・・コーヒーは?
ガイドに尋ねてもらったら・・・「ありません」と言う。(唖然)
どこが「おいしいコーヒーが飲めるところに行きましょう」だ?(怒)
缶ジュースならあるというので、コカ・コーラを飲むことにした。
廬山温泉を出て約1時間後に、ようやく水分補給ができた。
結局、コーラを飲む羽目になるなら温泉街の店で良かったんじゃないか?

このレストランには展望台が併設されていた。

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目の前に広がる山々は3000メートル級の山々である。

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「すごいでしょ~!この景色!」とガイドは大喜びなのだが・・・・
彼はトレッキング、山歩きが趣味だそうだが、拙者は正直言って、「景色」には、それほど興味はない。(苦笑)
彼は決して悪い人間ではない。
気さくではあるが・・・軽いのである・・・・「無神経」に近い・・・(大笑)
自分がガイドであることを完璧に忘れている。
これじゃ、ガイドを付けて旅行をしているのではなく、台湾人の友人と二人で旅をしている感じ・・・
おい、おい、勘弁しろよ・・・・である。(苦笑)

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ここで、しばらくボ~ッと山を眺めることとなったが・・・・
時刻は午後3時・・・
「もう、山を下りましょう!」と声をかけ、無理やり移動することにした。(笑)

帰る途中、横道にそれた・・・
どこへ行くのかと尋ねたら、「原住民の村があるので、そこへ行く」と言う。
車1台がやっと通れるような狭い山道を延々と走るが、そのうちデコボコ道となり、とても乗用車じゃ走れない道となった。
ちょうど工事車両が来たので尋ねたら、この先は乗用車じゃ無理とのこと。
そうだろう?・・・・どう見てもそうだろう・・・(苦笑)
延々と走ってきたが、結局Uターンする羽目となる。
本当に、この先に原住民の村なんてあるのかね?
このガイド・・・調子がいいだけに信用できない・・・(大笑)
部落名を尋ねても、要領を得ない答えなので、なおさら怪しい・・・・(苦笑)
それにしても、大きく時間を無駄にしてしまった・・・(泣)
陽が沈み始め、まもなく山に沈む・・・・
今日は、ここまでだな・・・・(汗)

霧社に戻り、課長に会ってご挨拶・・・・
廬山温泉に行ってモーナ・ルーダオの生家跡に行った話をしたしたが「ふ~ん」の一言で終わり・・・(苦笑)
自分の“影響力”の及ばないところに行かれたのが面白くないという感じ・・・・
山の展望台へ行った話をしたら・・・・「あ~“見晴らし”に行ったのか」と言う。
「え!あそこが“見晴らし台”?・・・・そんな話、俺は聞いてねぇぞ!」とガイドに言ったら、焦っていた。
どうも彼は何も知らずに拙者を連れて行ったらしいことが、これでバレた。(苦笑)
“見晴”もしくは“見晴台”は、日本統治時代に名付けられた地名である。
確かに見晴らしがいい場所である。(笑)
「あの場所にたくさん建物が建っていただろ?レストランとか・・・あれは、全部、無許可で建てた不法建築なんだ」と課長。
中国人がやって来て勝手に家を建てて住み着いたというのである。
ちなみに、課長は建設課の課長である・・・(大笑)
「なんで取り締まらないんですか?」と尋ねたら、「政治的にいろいろあるんだよなぁ~」と言葉を濁す。
彼らが本省人(第二次世界大戦前から台湾に住み着いている中国人)なのか、外省人(第二次世界大戦後に大陸から来た中国人)なのか、どっちだったかは忘れたが・・・・
課長は、かなり苦々しく思っているようで・・・「あいつら・・・」を連発する。
もともとの原住民からすれば、そう言いたくなるのもわかる気がする。
山は原住民のものである・・・・ということだろう。
「霧社を仁愛郷なんて、変な名前に変えることが気に入らん!」としきりと言っていたくらいだから・・・(苦笑)
話し出したら、とにかく鼻息が荒くなる・・・(汗)
これは原住民の性格なのだろうか?
ちなみに課長はセデック族である。(笑)

明日は「川中島」という場所に行く予定。
課長が川中島も案内してやりたいが、仕事の都合でどうなるかわからないという。
明日は、明日になってから決めましょうということで別れる。

霧社を出て埔里に向かい、途中で見つけた喫茶店に入り、ようやくコーヒーが飲めた。(苦笑)

午後5時、ホテルに戻り一休み・・・
午後6時、ホテルから徒歩で町の中をウロウロ歩きながら、夕食場所を探す。
歩いてみると、結構、大きな町だということに気が付く。(笑)

最終的に、ちょっと洒落た店構えの店に入ることにした。
どうも“丼ぶり”の専門店らしい。(笑)

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店内は若いアベックばかり・・・(唖然)
男二人なんていうのは我々だけである。(大汗)
ん?台湾では「丼ぶり飯」がデートのディナーなのか?(笑)

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で・・・拙者が頼んだのが、これ・・・(汗)
丼ぶりではない・・・(大笑)
アベックたちが食べているのと同じものを頼みたかったのだが・・・何を頼んじゃったのかなぁ~
全くガイドが役に立たぬ・・・・(涙)
「これがいいんんじゃないですか?」とガイド・・・
「あの人たちが食べている丼ぶりがたべてみたいんだけどね」
「これ、いいですよ。これ、美味しそうですよ」
「これ?じゃぁ、これにするか」・・・と言ったのが、そもそもの間違い。
丼ぶりかどうか確認しなかった・・・(涙)

今日は山を歩いたし、クタクタである。(笑)
マッサージでも頼もうかと思ったら、「無い」と言う・・・(涙)
しかたがない・・・午後10時半に就寝となる。(大笑)

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旅行 | 20:24:04 | Comments(0)
事件現場に行く
町のメインストリートから脇道に入り、少し坂を下ったところに「自然史教育館」がある。
ここを訪ねてみたいと、当初から予定していたので・・・・ここに向かう。

DSCN3622_convert_20170120164651.jpg (自然史教育館)

ここは「自然史」と名付けられているが、「霧社事件」に関する展示や先住民族に関する展示もあるので、どちらかというと「郷土史資料館」ということになるのではなかろうか?
名前だけで判断して見学しないと損をすることになる。(笑)

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「霧社事件」の首謀者とされる莫那魯道(モーナ・ルーダオ)の写真・・・・(中央の人物)

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蜂起した先住民族を討伐するため出動し、霧社に向かう途中の日本の部隊・・・・
写真には「日人部隊」と書かれていたが、服装からみて「武装警官」だと思う。

「霧社事件」に関しては、中国語と英語併記のパネル展示のみだった。
隣りの部屋には、かなりのスペースを割いて、先住民族に関する展示があった。

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各部族の民族衣装や生活品、祭祀品等々・・・・
なかなか貴重なものも展示されていた。
う~ん・・・台北にある先住民族博物館に展示されているものと肩を並べられるようなものも展示されていた。
こりゃ、すごい・・・・
嬉しいことに、この「自然史教育館」は入場無料!(喜)
他にお客さんがいなかったので貸し切り状態!(大喜)
受付には若い可愛い女の子が一人いて、拙者がじっくりと時間をかけて先住民族の展示品を見ているのが珍しかったようで・・・・(大笑)
ちょこちょこ、展示室を覗きに来てはニコニコしていた。(笑)
言葉が通じないので、身振り手振りでしか意思の疎通ができないが・・・
「これ、すごい!」「はい!そうです!」ってな調子である。(笑)

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ここにも「機織機」が展示されていた。
フィリピン、インドネシア、台湾等々、アジア各国の「郷土資料館」的な博物館に行くと必ずと言っていいほど「機織機」が展示されている。
各国とも、多少の違いはあるが、基本的な原理は同じである。
一体、どこの誰が最初に「機織機」を考え付いたのだろう?
毎回、「機織機」を見かけるたびに思うのである・・・・

「自然史教育館」の見学を終え、可愛い受付の女の子に笑顔で見送られ・・・(笑)
目の前の「愛国小学校」のグラウンドを横切って、「抗日紀念碑」に向かうことにする。
で・・・小学校の校舎の正面で見かけたのが、この銅像・・・・

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顔に先住民族のイレズミが描かれていたので、先住民の偉い人かなと思ったのだが・・・・
あとで課長に尋ねたら、蒋介石の銅像に誰かが落書きしたのだという。(唖然)
それ・・・マズイんじゃないの?(苦笑)
台湾で蒋介石の銅像に落書きしたのでは・・・(大汗)
ここは先住民族の土地だ!・・・という先住民族によるアピールなのかな?

この学校と道路を挟んだ反対側に「莫那魯道(モーナ・ルーダオ)公園」がある。
ここには23年ほど前に来たことがあるが・・・・
あれぇ~・・・ずいぶんと変わったなぁ~(苦笑)

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現在は、公園の前の道は舗装され、幹線道路のようになっていて交通量もあるが、当時は“裏道”のような場所で、滅多に車が通ることはなかった。
ちょうどカーブのところに車を止めて見学したことを覚えている。
あの時は、台北から一人で飛行機に乗って台中空港まで行った。
今になって思えば、中国語しか通じない国内線によく一人で乗ったものだと思う。(大笑)
台中空港(といっても、ただの原っぱみたいな飛行場だったが・・・)からガイド兼運転手の車に乗ってここまで来た。

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右の写真が、「自然史教育館」に展示されていた古写真。
この公園が出来たばかりの頃の写真である。

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公園の中には、「抗日原住民」の像が建っていた。
23年前にはなかったが・・・・
ただ、ちょっと違うかなぁ~という気がする。
まず、蜂起したのは各原住民中でも普段からの戦闘要員でもある成年男子の「壮丁」たちだったはず。
その壮丁の人数は各社の戸数とほぼ同じ・・・1軒に一人・・・という感じである。
というわけで・・・例えば、マヘボ社の場合は、戸数が54軒で、壮丁の数は53名となっている。
この銅像には女性や子供も入っているのだが、事件に女性や子供が加わっていたという話は聞いた覚えがない。
日本人に石を投げつけようとする少年と、片手に短剣を握った母親らしき女性の像が加わっているのだが・・・
これはあり得ないだろう。
“中国人(漢人)”特有の歴史の改竄か?(苦笑)
女子供も日本人に抵抗したのである・・・ということにしたいのだろう。

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ここに事件の首謀者とされるモーナ・ルーダオの像も建っていた。
民国86年に建てられたようなので、拙者がここに来た4年後に建てられたようである。
「抗日英雄」と刻まれている。
これは立場の違い・・・・日本にとっては犯罪者だが・・・・異論はない。
彼らにとっては「英雄」だろう。

役所で一仕事を終えた課長が公園にやってきて再び案内をしてくれた。

DSCN3648_convert_20170128170213.jpg (「霧社山胞抗日起義紀念碑」)

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モーナ・ルーダオの墓・・・・
左の古写真は「自然史教育館」に展示されていた写真で、台北で骨格標本とされていたモーナ・ルーダオの遺骸を持ち帰り、ここに納めるところを写したものである。

続いて向かったのは、事件現場である「霧社公学校」跡である。
事件当日、ここで運動会が開催されていた。
日本人の子供たちが通う尋常小学校と、原住民の子供たちが通う公学校、それに各地にある「蕃童教育所」の子供たちの合同運動会である。
ちなみに、「蕃童教育所」は、いわば分校のようなもので、教師は各駐在所の日本人警察官が行っていたという。
当時、ここにいた子供たちは日本人、台湾人、原住民(先住民族)あわせて289人だったという。
これに日本人の父兄が約100人、台湾人約50人、原住民約100人が見物に集まっていたようである。
そこへ各地の駐在所を襲った後、各社の壮丁が会場になだれ込み、片っ端から日本人だけを殺害していったのである。
この決起に参加した壮丁は約300人と言われている。
当時の霧社地区の各社の総計は、597戸、男女合わせて2178人だったので、抗日の社(反抗蕃と称する)の壮丁だけで300人程度になるから、壮丁による決起ということになる。
各社の住民、女子供全員が参加したわけではない。
というわけで・・・紀念公園に建っていた、あの銅像はおかしいのである。

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ここが「霧社公学校」の跡・・・
現在は「台湾電力公司 萬大發電廠第二辨公室」となっている。
ここが「霧社事件」の現場である。

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敷地内に入ってみる。
思ったより狭い・・・・
本当にここで運動会などが開催されたのだろうかと思ってしまうほど狭いのだが・・・
うちの近所の幼稚園・・・
拙者が通った幼稚園だが、園庭はかなり狭い。(笑)
でも、そこで運動会をやったことは間違いなく記憶にある。
大人になったら、やたらと狭く感じるが、当時、幼稚園児の拙者は狭いとは思っていなかった。
ということで・・・ここも同じだろう。
拙者が大人だから狭く感じるだけで、子供たちが運動会を開くには十分な広さだったのだろう。

実は、ここには23年前に一人で来たことがある。
運転手兼ガイドに「事件現場」として案内されたのだが、あまりにも敷地が狭いので、こんな場所が学校だったわけがないと信用しなかった。(大笑)
当時も「台湾電力公司」の事務所として使われていたので、なおさらである。
昔、学校だった場所は、今も学校のはずだと勝手に思い込んでいたのである。(苦笑)

今回、再び訪れて、やっぱりここが事件現場だということを知った・・・(汗)
あの時、素直に信じればよかった・・・(大笑)

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敷地内のコンクリートの地面に一本の溝が入っている。
課長が「この溝の左側が昔は道路だった場所で、溝から右側が昔の学校の敷地だった」と説明してくれた。
やっぱり・・・(苦笑)
23年前の記憶より、少し敷地が広くなっているような気がしていたのである。

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敷地内の、この建物・・・・
課長の話では「校長先生の家だった」と言う。
確かに、言われてみれば日本風の建物のような気がするが・・・・
でも、なんか違うような・・・(苦笑)
右側の建物が校長の宿舎だというのだが・・・そうなると左側の建物は何だ?(苦笑)

ここを襲ったのは、約100名の先住民壮丁たちだった。
この校長の家に日本人婦女子が逃げ込み、宿舎の入り口に立った新原校長が一人で日本刀で防戦したという。
が・・・多勢に無勢で、あえなく殺され、暴徒は宿舎内に入り込み、次々と婦女子の首を斬り落としていったという。
大人の中には死んだふりをして助かった女性もいたようだが、子供たち、特に幼児は死んだふりなどできない。
泣き声を上げるので、すぐに殺されたそうだ。
この校長宿舎内とその周辺で約50人が殺され、そのうちの39人が児童と幼児だったという。

なんとも残酷な話だが、それは現在の我々が思う感情であって、彼ら先住民族にとっては、首狩りは普通のことで、一種の文化だったようである。
それが日本の統治により、残酷だからと首狩りを禁止されていたわけで、ストレスは溜まっていただろうねぇ~
嬉々として首を刈ったに違いない。
彼らには、子供だから、幼児だから可哀想という感情はなかったのだろう。
日本でも戦国時代に敵将の首を斬り落としたりしたのだから、あまり台湾の原住民を非難はできまい。
首狩りの風習はインドネシアにもフィリピンにもあった。
もしかして首狩りは古代文明の遺産かも・・・・(汗)

でも、一体、誰が最初に始めたんだろう?

学校の運動会会場では、幼児を含めて17人が殺害されている。
ということは・・・ここで70名ほどが殺されたことになる。

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現地の説明板に掲載されていた写真。
当時の公学校の校庭・・・運動会会場の写真である。

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左の写真も、現地説明板に載っていた写真・・・
運動会会場の入り口の写真である。

事件当日、この会場入り口のところで最初の犠牲者が出た。
菅野政衛という映写技師だそうで、台中州から嘱託をされて前夜の映写会のために霧社に来ていた。
入り口のところに立って運動会が始まるのを見ていたのだろう。
真っ先に首を斬り落とされ、殺害された。
やったのは、スーク社のウカン・パワンという人物だという。
居合わせた日本人警察官が追いかけたところ、途中で首を落として逃げ去ったという。

次に向かったのは、すぐ近くの小高い丘・・・
ここに以前、「霧社事件日本殉難殉職者之墓」という碑が建っていたという。
今は何もない・・・・

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ここが、その碑が建っていた場所らしい。
今は荒れ果てた公園・・・という感じ・・・・

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現地の説明板に載っていた写真・・・・
当時は、こういう碑が建っていた。
「墓」と書かれているのだが、「墓」なのかどうかは知らない。
うっかり課長に尋ねるのを忘れた・・・(大汗)
たぶん、慰霊碑のことだと思うのだが・・・どうだろ?
蒋介石たち国民党が大陸を追われ台湾に来て、彼らの手で撤去されたようである。
まぁ~中国人のやることは、そういうことばかりである。(汗)
困った民族である・・・(苦笑)

ここでUターンして役所に戻ることとなる。
途中、バーラン社の案内板を見つけた!

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このバーラン社は、今はどうなっているんだろう?
行って見たいのだが・・・・
課長に尋ねたら「ない!」という一言で終わり・・・(唖然)
その後は・・・拙者を置いてガイドと一緒にサッサと立ち去ってしまった・・・・(唖然)
どうも課長の“案内”は雑なんだよなぁ~(苦笑)

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現地説明板に載っていた写真・・・・
「霧社最大の部落」であると書いてあるんだけど・・・
それが消滅するかねぇ~
どうも信じられないんだけど・・・・

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たぶん、この道を登っていくと昔のバーラン社に辿り着くんじゃないかと思うんだけど・・・・(汗)

サッサと先を歩く課長とガイドの姿が見えなくなった・・・(汗)
が・・・向かう方向は分かっているから、気にすることはない・・・(大笑)
写真を撮りながらマイペースで後を追うことにする。

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まもなく、記憶にある場所に来た・・・・
二股に分かれている、この地点・・・・23年前に来たことがある!(笑)

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右側の舗装された道は、現在は幹線道路となっているが、23年前に、この道があったかどうか、記憶にない。
もしかしたら、細い道があったかも・・・
この二股に分かれているあたりに当時は料金所があった。
ここで有料道路の料金を払ったことは鮮明に覚えている。
で・・・左側の坂道を登って行ったのである。
昔のメイン通りは、左側の坂道である。
変われば変わったものだ・・・・
新たな道を付け替えて、昔の道の上には建物がせり出して、昔の道は消滅してしまっている。

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(坂道を登って振り返ってみる)

この道を走るのに、当時は、お金を払ったのか?(苦笑)
なんで、この道が有料道路だったんだろう?
あれは、霧社の村に入るための「入村料」だったのかな?(大笑)

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道の両側に住宅が立ち並んでいる。
23年前は、どういう風景だったのか全く思い出せない。
先ほどの台湾電力の事務所が事件現場だと教えられたが、信じられないまま、この道を車で登った・・・
その時に、ふと、思い出した・・・
たしか、何かの本に「暴徒は坂道を一気に駆け下りて会場になだれこんだ」という一文があった。
たしかに、ここは坂道である。
じゃぁ、さっきの場所は、やっぱり事件現場だったのだろうか・・・と思ったことを覚えている。
この道を、100名ほどの暴徒たちが、向こうからこっちに向かって走ってきたのだろう・・・
ちなみに、先を行く人物が、課長!(苦笑)
サッサと一人で歩いて行ってしまうので、会話ができない・・・(苦笑)

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この坂道をまっすぐ登って、突き当たったのは、役所の駐車場!(唖然)
ここで行き止まりである!
あれぇ~???
23年前は、どうなっていたんだっけ?(苦笑)

時刻は12時を過ぎている。
お昼ごはんを食べよう!(笑)
一度、役所に戻った課長を誘って、役所の目の前にある食堂で昼食を食べることにした。

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課長が、1冊の書類を持ってやってきた。
先ほど見に行った「霧社事件殉難殉職者之墓」の復元計画書である。
土地の測量図、復元する碑の設計図、見積書等の詳細な計画書である。
すでに復元の許可は貰っているのだそうだ。
で・・・問題は、その資金・・・・
日本円にして、約1000万円かかるという。
どうも日本側からの援助が欲しい口ぶりである。(苦笑)
拙者を案内するより、こっちの説明の方が熱心である。(苦笑)

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昭和54年(1979年)に靖国神社で霧社事件50周年の慰霊祭が行われたと聞いている。
翌年には、ここ霧社でも50周年の式典が開催されたと聞いている。
この時に、犠牲者の子孫も参列していたはずだが・・・・その方々との交流はどうなっているのだろう?
その方々に先に話を持っていくのが筋だと思うが・・・・
課長に尋ねてみたが、要領を得ない・・・歯切れの悪い回答だった。

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食後、課長は一旦、役所に戻るので「少し待っていろ」と言う。
いや、いや、もう充分である。(苦笑)
待っている時間がもったいないし・・・・次の予定もある。
申し訳ないが、霧社の案内は、これで十分ということでお別れする。

旅行 | 16:43:35 | Comments(0)
霧社の役所巡り?(苦笑)
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(部屋から見た景色)

午前6時30分起床。
7時30分にホテル内のレストランに行ったら誰もいない!(大汗)
レストランは休みなのかなと思ったら、フロントの女の子が吹っ飛んできて中国語で何か言ってる。(苦笑)
拙者は中国語がわからないんですけど・・・(大汗)
どうやら「レストランはオープンしていますから、どうぞ」と言っているような・・・(勝手な想像だが・・・)
しかし、食べるものが、ほとんどない!(苦笑)
コーヒーは昨日作ったものかと言いたくなるくらい〝ぬるい”・・・(涙)
ほとんど水と同じ温度には参った・・・(大泣)
食べられそうなものは・・・キャベツを茹でたもの・・・
これは、なかなか美味しかったので〝おかわり”する。
薄い食パンと茹でたキャベツと〝ぬるい”コーヒーが今日の朝食である!(大笑)

午前9時、ホテルを出発!
「埔里」の町を抜けて山に向かい30分ほど経ったころ、「人止関」に到着した。
山の中の、ちょうど道路がカーブしている場所に「記念碑」が建っていた。
他の車には大いに迷惑をかけてしまうが、カーブの先に車を止めて記念碑のところに向かう。

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この「人止関」は、文字通り「人を止める関」なのである。
ここが「平地民」と「山地民」の居住地の境界線・・・・
平地から勝手に山地に入ってくると、このあたりで首を刈られて殺されてしまったらしい。
ということで・・・昔から、このあたりでは“戦闘”が行われている。
「霧社事件」が起こった時にも平地の「埔里」からこの道を通って「霧社」に日本の武装警官隊や日本陸軍の将兵が向かった、平地から「霧社」へ向かう唯一の“道路”・・・・
が・・・あれ?・・・なんか雰囲気が違う。
古写真を見たことがあるが、山の中の“切通し”のような感じの場所と思っていたのだが・・・・
「人止関」の碑が建っているのだから、このあたりで間違いはないとは思うが、どちらかというと、この先のカーブのあたりが、当時の雰囲気が残っているような気がしないでもない。

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ここにある「人止関」の碑には、「霧社事件」に関しては全く何も記載はされていなかった。
(雑草に覆われていて、碑の下のほうが見えなかったから断言はできないけど・・・)
ここには、「人止関」の史跡としての説明看板か何かが欲しいところである。

ここから車で10分ほど走ったら、「霧社」の町に到着。
早速、課長に会いに役場に行く。

DSCN3552_convert_20170113175156.jpg (仁愛郷公所=仁愛郷の役所)

開口一番、課長が言う・・・・「昨日は飲みすぎた!」(苦笑)
なんでも、夕方に職員同士で酒を飲み、その足で拙者に会いに来たという。
夕方から飲みっぱなしだったとか・・・(唖然)
シラフでは拙者に会えなかったということかな?(大笑)

「霧社」の町は小さい・・・
メインストリートが1本走っていて、その周囲が繁華街。
丘の上の狭い範囲にある小さな町・・・という感じである。

「霧社事件」は昭和5年(1930年)10月27日に発生した事件。
今から86年前のことである。
この一帯に住む先住民族(蛮族、蕃族、もしくは高砂族)が木材運搬の賦役の過酷さと、日ごろからの日本人警察官の横暴対する不満から一斉に蜂起して現地在住の日本人を襲撃した。
簡単に言うと、それが「霧社事件」である。

DSCN3556_convert_20170117103403.jpg (郵便局)

日本統治時代も、ここに「郵便局」があったという。
事件当時、ここも襲われ、日本人の郵便局長と、その家族が虐殺された。

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正面に見えるのが、消防署・・・
以前は、ここに警察署があった。
拙者が以前、ここに来たとき(たぶん1993年だと思う)は、ここに警察署があった。
現在は、斜め前の場所に移転している。

当時の「霧社」における日本側の統治の仕方は、どうも警察官にあらゆる権限が集中していたようである。
ここの警察署は「霧社分署」で、その下に「駐在所」が各地に置かれていた。
「霧社」地区には11の「社(村もしくは集落、部落)」があり、それぞれに駐在所が置かれていた。
昭和5年当時、ここ「霧社」では、建物の建設が目白押しだったようで、駐在所の建て替えや学校の寄宿舎の建設や何だかんだ・・・
それに使われる木材を山から切り出して運ぶという“使役”が原住民たちに強制的に課せられた。
警察官からの命令である。
ところが、この木材は引きずってはならず、傷をつけないように必ず肩に担いで運べという。
これが過酷な労働で、何十キロも肩に担いで運ばねばならないので、あっという間に肩が腫れ上がる。
「もう勘弁してくれ」と訴えても警察は聞き入れない。
それどころか、日本人警察官は、いちゃもんを付けて労賃すら支払わないこともあったらしい。
たぶん、着服、横領をしたのだろう。
加えて“女性関係”も事件の遠因となっているという。
各社の頭目(村のリーダー)の娘とか妹とかと結婚すれば、日本人警察官は彼らの親戚となるので、統治がしやすくなると考えるのは無理もないと思うが・・・
日本に妻子がありながら原住民の娘と結婚するとか・・・(佐塚愛佑という警部だそうだ)
または、結婚はしたが、最終的には捨てたり・・・(近藤儀三郎という巡査部長だそうだ)
駐在所の前を通りかかった原住民の娘を山に引きずり込んでレイプする警察官がいたり・・・(尾花長太郎という巡査だそうだ)
これで、「反乱」が起こらないほうが不思議というものである。

彼らが蜂起したときに、一番最初に襲ったのが、製材所・・・・
その次が、各地の駐在所と警察署・・・
最後は小学校・・・
この順番からいっても、彼らが何に恨みを持っていたかがわかろうというものである。
この「霧社」の警察署も襲われ、警察官が虐殺されている。

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旧警察署(現:消防署)の脇の坂道を登っていくと、日本統治時代の「霧社神社」にたどり着く。

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ちょうど消防署の真後ろに廃屋が見えた・・・
もしかして日本統治時代の日本家屋だろうか?
形からいって、なんとなく、それっぽいのだが・・・・
課長とガイドは、どんどん先に行ってしまい、質問することができなかった・・・(涙)
当時の建物ということになると、警察署の真裏にあるから、警察官官舎というこではなかろうか?
ここもたぶん、襲われているだろう・・・・

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まもなく神社の入り口に到着・・・
ここは現在は「徳龍宮」という現地の神社になっている。

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神社の石段の脇に灯篭が・・・
課長が言うには「日本の灯篭だ」というのだが、どうも形がシックリいかぬ。
とても日本人の手で建てられたようには見えないんですけど・・・(汗)

DSCN3569_convert_20170117114537.jpg (徳龍宮)

日本統治時代の神社の痕跡のようなものは何もなかった・・・

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ここから見た景色・・・・
ここが周囲を展望するには、一番高い位置になるのかな?

DSCN3573_convert_20170117131136.jpg (衛生所)

神社の脇の一段下がったところに「南投縣仁愛郷衛生所」の建物がある。
日本でいえば・・・「保健所」かな?
課長が、ここに用事があるので付き合えという。(唖然)

「衛生所」に入るなり「おはようございまぁ~す!」と課長が職員たちに日本語であいさつした。(唖然)
なんで日本語?
「この人、日本人、ということで、おはようございまぁ~す!」と拙者を指さし職員に挨拶・・・
あらら・・・である。
課長の用事というのは、所長に封書を1通、手渡しするだけのことだった・・・(汗)
で・・・ここのベランダに出て、再び周囲を展望する。

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「霧社」には11の「社」があった。
「ボアルン社」「スーク社」「マヘボ社」「タロワン社」「ホーゴー社」「ロードフ社」「カツツク社」「バーラン社」「タカナン社」「トーガン社」「シーパウ社」の11社である。
で・・・それは、どのあたりにあったのかなと課長に尋ねたら・・・
「あっち!」とか「こっち!」とか・・・指し示す方向が適当なのである。(涙)
今はどうなっているのか、できれば見に行きたいと話したのだが、「今は何もない」という。
本当だろうか?
すべての集落が消え去るなんてことはあり得ないと思うのだが・・・・(汗)

課長の話では、11社はみんな仲良しだったという。
特に各社の頭目(リーダー)は、日本に対して蜂起することに全員が反対していたが、若い連中が勝手に事を起こしたため、引きずられることになったという。
この話は、拙者が事前に調べた話とはかなり違っている。
11社のうち、6社が積極的に蜂起に参加し、5社だけが頭目の反対で蜂起には参加しなかったと聞いている。
この5社を日本では「味方蕃」と称した。
この11社がみんな仲良しだったという話も聞いたことはない。
逆に、お互いに相手の首を刈ったり刈られたりということがあって、内心、敵対関係にあった社もあったと聞いている。
だから11社が“共同戦線”を張れなかったと聞いているのだが・・・
課長の話が果たして正しいのかどうか・・・検証のしようがないのでどうしようもないが・・・・

木材を切り出したのは、向こうの山々の奥に見える山あたりからだと課長が言う。
へぇ~・・・・あんな奥地から切り出して、肩に担いで運んだのか?
そんな過酷な労働をさせられたら、そりゃ、逆らいたくもなるよなぁ~

DSCN3579_convert_20170117131538.jpg (霧社の町)

次に向かったのは・・・・
消防署の隣に建つ「戸籍事務所」という役所である。
なんで、ここに行くことになったのか、理由がわからない。(苦笑)

DSCN3583_convert_20170119192943.jpg (戸籍事務所)

相変わらず課長は日本語で「おはようございまぁ~す!」と叫ぶ・・・
職員たちが驚いた顔で、こちらを見るので、ちょっと恥ずかしい・・・(大汗)
ここの職員・・・10名が先住民族(蕃族・高砂族)で、中国人(中華?)は1人だけだと課長が言う。
で・・・コーヒーでもどうぞ、と職員からコーヒーをごちそうになる。
所長室でコーヒーをいただいたが・・・拙者はここに特に用事はないんですけど・・・(苦笑)
まもなく、「さぁ!行くぞ!」と課長・・・
う~ん・・・何しに来たのやら・・・である。(苦笑)
ちょうど、この戸籍事務所にやってきた現地のおばあちゃんたちがいた。
「この人、日本人だから・・・」と課長が言ったので、このおばあちゃんたちに「ニーハオ!」と挨拶したら、「日本語でいいんだよ。日本語が通じるんだから・・・」と課長。
おばあちゃんから流ちょうな日本語で「どこから来なさった?」と尋ねられた。(驚)
「茨城県です」
「へぇ~茨城県?で・・・何しに来たの?」
「歴史の勉強です」
「へぇ~歴史?こんなところにわざわざ?へぇ~」と半ば呆れて役所から出て行った・・・
このおばあちゃんも先住民族なのだと課長が言う。
それにしても、日本人のおばあちゃんと全く区別がつかない日本語を話すのには驚いた。

その昔、先住民族は、各部族ごとに言葉が違っていたという。
で・・・日本統治時代に、その部族間の共通語として日本語が使われたらしい。
今でも、昔と同じように部族間で使われているのだろうか?
尋ねるのを忘れてしまったが・・・
幼い時に日本語を勉強しただけでは、こうもいきなり流ちょうに話すことは難しいと思うのだが・・・
普段から使っていないとねぇ~・・・・忘れちゃうと思うんだよねぇ~(笑)

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ここには事件当時、日本人の旅館があったと課長が言う。
旅館というと・・・・「桜旅館」というのがあったという話を聞いたことがあるが・・・
課長がサッサと歩いて行ってしまったので、確認する暇がなかった。(大汗)
とにかく、拙者は写真も撮りたいので、立ち止まってしまうのだが、その間に、課長もガイドも行ってしまうのである!(苦笑)
いやはや後を追いかけるのが大変である。(大汗)

今度は・・・図書館!
といっても、小さな目立たない建物・・・
主に雑誌と児童図書ばかりが目立つ・・・
これといって見るものは無し・・・(汗)

これで「町」の中は一応見たことになる。
課長が、役所に一旦戻るので、ちょっと役所で待ってろ・・・と言う。
役所の外で待っていたが、いくら経っても戻ってこない。
これでは時間がもったいない。
ということで・・・ガイドの“キョさん”に課長への伝言を頼み、単独行動を取ることにする。

旅行 | 11:19:40 | Comments(1)