■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2ブログランキング
■ブロとも申請フォーム
■最近のコメント
■小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

■ブログ内検索

■リンク
■RSSフィード
■FC2カウンター

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | --:--:--
慰安婦少女像が建てられたら・・・
韓国の釜山(プサン)にある日本総領事館の前の歩道に、地元の“市民団体”と称する団体が従軍慰安婦被害を象徴する「少女像」を設置したという。
韓国人は、あっちにも、こっちにも、国内にも海外にも、この像を建てている。
で・・・今回は釜山・・・・(苦笑)

どうせ日本が抗議しても撤去はしないだろうから、抗議するだけ無駄かもしれない。(苦笑)
ならば・・・こちらも、同じように銅像を建てさせていただいたらどうだろう?
「少女像」の隣に・・・・
女衒(ぜげん)に娘を売り飛ばした両親の像・・・とか・・・(苦笑)

この「少女像」・・・・
誰がデザインしたのか、誰の作なのかは知らないけど・・・
ちょっと「可愛くない」のである。
もう少し“美人”の“美少女”の像がいいと思うのだが・・・・(大笑)
どうして、あんな顔にしちゃったのかなぁ~・・・と見るたびに思うのである。
(美的センスは個々人違うとは思いますが・・・)

で・・・日本側で、もっといい“美少女”の像を建ててあげたらいいのではなかろうか?
「親孝行の少女像」!
「この少女は、日本の軍人専用の売春婦となって家族のためにお金を稼いだ親孝行な娘です」・・・とかって説明を入れるのってどうだろう?

ギャーギャーと抗議するより、このほうがいいと思うんだけど・・・
ダメか?

スポンサーサイト
エッセイ | 21:32:17 | Comments(0)
地震だ!
昨晩の午後9時半ごろ、久々に家が大きく揺れた!
地震である!
一瞬、あの「東日本大震災」が頭をよぎった・・・(大汗)
あの時は、日中だったから良かったが、夜は、さすがに怖い・・・
停電になったら、どうしようと真っ先に懐中電灯に手が伸びた。(笑)
あの地震以来、拙者のベッドわきに懐中電灯を常に置いてあるのだ。(笑)

まもなく揺れが収まったが・・・
いやぁ~久々に冷や汗をかいた。

今朝の新聞を見て、「震度5強」とのこと。
震源地は、隣の市・・・
内陸部なので、母の墓があるお寺のすぐ近くだろう。
過去にも、ここが震源地だったことが何度もあったから・・・(笑)
震源地では「震度6弱」で、規模は推定でマグニチュード6.3とのこと。
「東日本大震災」の余震だという。

ん?まだ余震が続いているのか?
何でもかんでも「余震」で片づけられてもねぇ~
「余震」って本当かなぁ~(苦笑)

日記 | 20:05:16 | Comments(0)
入会早々解散?
今日は、戦友の“カワムラさん”のお誘いを受け、「勇会有志会」の会合に出席するために上京する。
「勇会」は仙台の第2師団の戦友会・・・
その戦友会はすでに解散したそうで、その代わり有志が集まって「有志会」として毎月会合を持っていたらしい。
今回集まったのは、従軍経験者3名を含めて10名程度・・・
従軍経験者以外は、みなさん若い人たちである。
特に女性が多い・・・
大学の教員や新聞社の人、など、など・・・・
どうも従軍経験者から経験談を聞いて“活用”している人たちが多いようである。

で・・・拙者は初参加・・・
その席上、従軍経験者から驚きの発言・・・
「この会を解散したい」とのこと。
拙者が顔を出した途端に「解散」とは・・・(唖然)
なんというタイミングか・・・(苦笑)

理由は、「高齢」・・・・
まぁ、仕方がないだろうなぁ~
この会は、従軍経験者から「お話を聞く」が目的のようだから、その従軍経験者が高齢で参加するのが難しいとなれば、言葉は悪いが、「用無し」ということになる。
“若い連中”だけが集まっても意味はないということだろう、あっさりと解散することが決まった。

拙者が事務局をしている会の場合は、「戦没者の慰霊」が目的である。
生還者たちは多かれ少なかれ「生き残った」ということに罪悪感を感じておられていた・・・
「俺たちは死ぬまで戦死した戦友の慰霊をしなければならない」とおっしゃる方々が多かった。
だから、会員相互の親睦より、「戦友の慰霊」に重きを置いてきたようである。
その皆さんも次々とお亡くなりになられたが、その遺志を継いで「慰霊活動」は続ける・・・これが我が会の方針であり、拙者が事務局を引き受けた理由でもある。

会の「目的」が全く違うが、我が会のことなどを参考までにお話しさせていただく。

3月に解散式を行うそうだが、第2師団はガダルカナル島やビルマで戦った歴戦の部隊である。
特にガダルカナル島では壊滅に近い損害を出している。
以前、ガダルカナル島に行ったときに「勇会」の建立した慰霊碑をお参りしたことがある。
戦没者の慰霊やガダルカナル島の慰霊碑などについての話が全く出ないことに、少々違和感を感じたが・・・
「戦没者の慰霊」が目的の会ではないようだから仕方がないか・・・

いずれにせよ、「勇兵団」の名を冠する会が無くなるというのは寂しい・・・

日記 | 23:22:45 | Comments(0)
親父のボケがレベルアップした!(驚)
庭掃除をして家の中に戻ってきたら、親父が「おお!帰って来たか!」と言う。(笑)
庭にいただけなんだけど・・・・(苦笑)
どこにも出掛けていないんですけど・・・(汗)

「さっき電話があってな・・・・」と親父。
「どこから?」
「たぶん役所だと思うんだが、何か打ち合わせがあると言っていたんだよ」
「へぇ~・・・何の打ち合わせだ?」
「それがよくわからなくてな・・・」
「はぁ?」
「だから・・・何の用事かなと思って聞こうとしたら、パッと目が覚めてな・・・」
「なに?目が覚めた?・・・それ、夢をみてたんだろぉ~」
「そうなんだよなぁ~夢なんだなぁ~」
「じゃぁ、それでいいんじゃないの?」
「なにが?いいわけないだろ!どんな打ち合わせなのかわからないのに目が覚めたんだぞ!だから、お前に役所に行って用件を聞いてもらおうと思って探してたんだ」
「はぁ?何だって?」(苦笑)
「だ・か・ら、役所に行って聞いて来てくれって!」
「だって、それ、夢なんでしょ?夢の中のお話でしょ?」
「そうだよ、夢なんだけど・・・どういう用件か知らないんだから・・・マズいだろ?」(怒)
「どうして?」(苦笑)
「あとで大問題にでもなったら大変だろ!」
「ならねぇって!」
「どうして?用件がわからんのに、どうしてそう言えるんだ?・・・お前はわからん奴だなぁ~」(怒)
「だから・・・寝てたんだよね?」
「そう、寝てた!」
「で・・・夢を見てたんだよね?」
「そう、夢を見てた!」
「で・・・電話の夢を見てて、途中で目が覚めちゃったんだよね?」
「そう、途中で目が覚めたから、用件がわからないんだって!」
「夢なんだから問題ないよ」
「どうして?・・・大事な話かもしれねぇだろ?俺は知らねぇぞ、何かあっても・・・」
「大丈夫!俺が全部責任取るから・・・」
「ふ~ん、まぁ、お前が責任取るっていうならいいけどな。俺は年だし、ボケてるから、役所に行っても話がわからんからな」
「でしょ?・・・だから、俺が全責任を取るから、心配しなくていいよ」
「ふ~ん・・・用件がわからないのに?」
「大丈夫だって!」
「役所に確認しなくていいのか?大事な話だったんじゃないか?俺は知らねぇぞ」
「大丈夫!」(苦笑)
「失敗したなぁ~なんで目が覚めたかなぁ~用件を聞いておけばよかったなぁ~」
「・・・・・」(大汗)

ボケているようで、夢を見たことは自覚しているのであるから“まとも”なのであるが・・・(大笑)
半分は“まとも”なのだが、残りの半分が・・・・ねぇ~・・・(大汗)
これ・・・である。(涙)
こういうのを“半ボケ”というのだろうか?
それともボケが進化しているのだろうか?

以前と比べると、かなりハイレベルなボケに進化してしまったような気がする・・・・
こういう親父の相手をするのは大変だ・・・参ったぁ~(大涙)

日記 | 16:03:51 | Comments(0)
パプア沖で地震!
12月17日の夜・・・
パプアニューギニアでマグニチュード7.9の地震があったそうだ。
震源地は、ニューブリテン島のココポの東方132.8kmの地点だそうだ。
ココポと聞いてもピンとこないが、あの「ラバウル海軍航空隊」のラバウルと聞けば、わかる人もいるかもしれない。
ラバウルにはダブルブル山という活火山がある。
戦時中の日本名は「花吹山」・・・・
戦時中も活動をしていた火山である。
7年前に現地を訪れた時も噴煙が空高く上り、火山弾が飛び、大量の灰が降り、危うく帰りの飛行機が飛ばないかもしれないという“危機”に見舞われたことがある。(苦笑)
この火山は、1994年に大噴火を起こし、ラバウルの町や空港が火山灰に埋もれて潰滅し、新市街地はココポに移った。
その2年後の1996年にパプアニューギニアで大きな地震が起こっている。
その6年後の2002年にも大地震・・・
94年の噴火から12年後、02年の地震から4年後の2006年にも花吹山は噴火を起こしている。
私が現地を訪れたのは、その3年後だが、私が訪れる1か月前に大きな地震が2回起こっており、火山は活発に噴煙を吐きあげていたのである。
そして、2006年の噴火から8年後の2014年にも噴火を起こし、噴煙が上空約18kmまで達したという。
その後は地震は起こっていない・・・(大汗)
噴火から2年も経っているのだが・・・・(大汗)
そろそろ、このあたりを震源とする地震が起こるんじゃあるまいか?
それとも再び大噴火を起こすんじゃあるまいな?

ついこの間、12月7日にはインドネシアのスマトラ島西部、アチェという町でマグニチュード6.5の地震が発生している。
ここスマトラ島は、やたらと地震が多い・・・・
マグニチュード7以上の地震だけでも、2000年、2004年、2005年、2007年、2009年、2010年に3回、20012年に2回、そして今年の3月に1回起こっている。

気になるのは日本!(苦笑)
普段から地震が多いが・・・・
あの東日本大震災が起こったのは2011年3月、スマトラ島で起こった3回目の地震の約5ヶ月後・・・・
熊本の大地震は2016年4月、スマトラ島で起こった1回目の地震の約1か月後に発生している。

ニュージーランドに大地震が起こったのは2011年2月、東日本大震災の直前である。
熊本地震の約2か月前には台湾の台南でマグニチュード6.6の地震が発生している。

こう見ていくと・・・・
かなりの“こじつけ”になるとは思いますが・・・(笑)
今回の12月7日のスマトラ島の地震の後、ニュージーランドか台湾で大きな地震が起こったら、その次は日本かもしれないと思った方がいいかもしれない。
で・・・そのニュージーランドの地震は、今回の12月17日のパプアニューギニアの地震が引き起こすことになるかもしれないような気がする。

11月22日には福島沖でマグニチュード7.4の地震が起きている。
で・・・引き続いてスマトラ島、ニューギニアと続いた感じである。
で・・・それが再び日本に影響を及ぼすか?
地震が行ったり来たり・・・という感じか?

いずれにせよ、来年か再来年に、再び日本は大きな地震に見舞われるかも・・・・(大汗)
なんか、嫌な予感・・・・
旅先で地震には遭いたくないなぁ~
来年の旅行計画・・・どうしようかなぁ~(大汗)

エッセイ | 21:38:54 | Comments(0)
北方領土・・・・
先日、ロシアの大統領、プーチンさんが来日し、安倍首相と日ロ首脳会談をした。
それ以前から、日本国内では北方領土返還の可能性について大いに話が盛り上がっていたが・・・・

北方領土は、やっぱり返還してもらった方がいいのだろうか?
歴史的事実から言うと、北方4島は日本の領土という事にはなるのだろうが・・・
実際問題として、返してもらうことが日本にとってメリットになるかどうか・・・
昔は、当然返してもらうのが当たり前だと思っていたのだが、最近、ちょっと疑問に思えてきてしまったのである。

仮に北方4島が返還されたとして、旧島民は、この島に戻るのだろうか?
便利な北海道の札幌なんかに住んでいたら、辺鄙な島などに戻ろうなんて考えないのではないだろうか?
旧島民の子孫に至っては、絶対、帰りたがらないのではなかろうか?
となると・・・返してもらっても誰も住まない?
それじゃ、返してもらっても仕方がないような気がしますが・・・

逆に、現在住んでいるロシア人住民にとっては迷惑な話となるのではなかろうか?
祖父母の時代から住んでいるとなれば、彼らにとっての故郷である。
日本領になったのでは、彼らは戸惑うだろうなぁ~
彼らに迷惑をかけるのも、いかがなものかという気がしますが・・・

仮にかなりの変わり者の日本人が多数、移住するとしよう。
そうなると、どうしても社会基盤の整備をしなくてはならない。
警察署も消防署も必要だろうし、郵便局も宅配の業者も事務所を出さねばならなくなるかも・・・
さて・・・誰が辺鄙なこの島に赴任してもいいと言うのだろう?

日本領となれば、自衛隊も駐屯しなくてはならないだろうし、海上保安庁も基地を作らなければならないだろうが・・・
ロシアに余計な刺激を与えたくないとかと言って、自衛隊が駐屯しないとなれば・・・
う~ん・・・何のための北方領土だ?
折角返しても使わないなら、また、もらっちゃおうとロシア軍が上陸して再占領しちゃうかも。(笑)

北方領土返還の唯一のメリットは、日本の漁業権の及ぶ範囲が広がるというだけか?

返してもらったら、どうするかという具体的な話が出てこないと、ただ感情的に「返還」を求めてもねぇ~
という気がしますが・・・

何か、いい活用法はないものか・・・
いっそのこと、カジノを作ってギャンブルの島にするとか・・・(笑)
巨大な刑務所を作って、日本中の受刑者を、そこに集めちゃうとか・・・(大笑)
ロシア人島民の就職も兼ねて、巨大なロシア語学校を作って、「駅前留学」ならぬ「国内留学」をやるとか・・・(笑)
「地獄の特訓場」でも作ってアスリートを鍛える島にするとか・・・(笑)

なにか、“未来”が見えてこないと・・・
返還されても日本国民の「お荷物」になってしまうのではなかろうか?(苦笑)
そんな気がして・・・最近、考えが変わった・・・

エッセイ | 20:18:00 | Comments(0)
オスプレイが墜落したが・・・
先日、米軍の新型輸送機である「オスプレイ」が沖縄の海上に墜落した。
報道では「不時着」と言っていたが、大破した機体を見ると、「不時着」より「墜落」のほうが適当な言葉のような気がする。

で・・・待っていましたとばかりに日本側から抗議の嵐が・・・
たぶん、この人達は、この日が来るのを待っていたのだろう。(汗)

しかし・・・・である。
出来れば、まず最初に乗員の安否を気遣う言葉があってもいいのではなかろうか?
住宅街に墜落でもされたら大惨事となるが、今回は海上に落ちたわけだし・・・
日本にとっては幸いにも、被害を受けた人は乗員以外にはいないわけだし・・・
この乗員の安否をまず最初に気遣っても良かったのではあるまいか?
人命の重さには、日本人も米国人も変わりはあるまいと思うのだが・・・


エッセイ | 20:04:30 | Comments(0)
カジノ法案・・・
この間、通称“カジノ法案”というのが、衆議院の内閣委員会で可決されたそうだ。
正式名称は「特定複合観光区域の整備の推進に関する法律案」というそうだ。
略して「IR推進法案」というらしい。

ホテルやショッピングモール、会議場や展示場、そしてカジノ・・・
これらの“観光区域”の整備を推進しようということだそうだが、いかがなものかという気がしないでもない。(苦笑)
あの「スカイツリー」・・・
ドーンと建てたのはいいが、その周辺の整備はどうなっているのか?
観光バスでやって来て、観光バスでそのまま立ち去られたのでは、周辺地域にカネは落ちない。
地域の活性化になっていないような気がするんですけど・・・
“今あるもの”を有効活用することのほうがカジノより先のような気がする。

伊勢神宮にお参りする人は多い・・・“観光名所”であるが・・・
観光バスで乗り付けて、参拝を終えたらサッサと立ち去られているから、周囲の商店街には閑古鳥が鳴いている。
“区域”を活性化させるというのは、そんなに簡単ではない証拠ではあるまいか?

海外から来た観光客がカジノで儲けても、お買い物は免税店だったりしたら・・・
それって日本の国としては“税収増”につながるのだろうか?(苦笑)

「複合観光区域」を整備しても、その整備費用に見合うだけのメリットが出るかどうか・・・
ついつい首をかしげちゃうんですけど・・・(苦笑)

カジノに反対する理由の一つに「ギャンブル依存症」を挙げている人もいるが・・・
すでに多くの人がパチンコでギャンブル依存症になっているんじゃなかろうか?(大汗)
いまさら、「ギャンブル依存症」を持ち出されてもねぇ~(大汗)
なんで、こういう人たちはパチンコに対して声を上げないのだろう?
ん?・・・何か声を上げられない理由があるのかな?(大笑)
パチンコ店を経営している人たちがカジノを経営したら、途端にパタリと批判の声は消えるかも・・・(大笑)

というわけで、「ギャンブル依存症」を反対理由にするのは説得力がないような気がする。
「カジノ法案」と呼ばれてはいるが、カジノばかりではなく、もっと広い目で見て、果たして、そういう整備はメリットがあるのかどうかを頭のいい人には考えてもらいたいものだ。

エッセイ | 21:07:13 | Comments(0)
『南洋学院』


まえがき

Ⅰ 南洋学院小史

1、血をたぎらせたベトナム行き
     ベトナムに学校ができる?
     南洋学院とは?
     学生募集への応募を決意する
     南洋協会の予備知識
     仏領印度支那の重要性
     現地ベトナムと外務省のやりとり
     家族を説得し受験
     古くからあったベトナムと日本の交流
     101名の一次合格者東京へ
     思いもかけぬ合格通知
     予備知識の吸収に励む

2、さらし木綿とカツオ節を持参せよ!
     東京に集合、渡航前教育始まる
     研修を終え、郷里に戻る
     出港地神戸に再集合
     フランス船「帝立丸」で出港
     台湾・基隆に寄港
     南支那海に乗り出す
     夕暮れのサイゴン

3、学院生活始まる
     洒落た学院校舎
     規律正しい学院生活始まる
     暑さとカルチャーショックで不眠症に
     ホームシックとチャイマンの木
     学生寮ができる
     活気のあるサイゴンの町
     台風の目の中、戦況と無縁の別天地
     現地での開校式典
     炊事当番でベトナム語を覚える

4、ユニークな教科内容
     教科とその各論
        熱帯医学
        フランス語
        ベトナム語
        農業科目と実習
        教練

5、好奇心いっぱいの若者たち
     中央公園のフォワール(博覧会)
     イギリス兵の捕虜
     ダンディ派と無精派
     無精派の領袖鈴木政澄
     ラックジャ省の農村調査
     クメール族を訪ねる
     サンジャック岬へ

6、2年目の南洋学院
     第2期生の到着
     夏季錬成のためダラットへ
     教練・授業の30日間
     「学徒出陣」のニュースに不安が・・・・・
     緊張感で迎えた昭和19年の正月
     西貢の82連隊に体験入隊
     ベトナムの宗教事情
     新興宗教カオ・ダイの本山を訪ねる
     西貢に初めての空襲
     母からの手紙
     数少ない小学校を訪問

7、わずか3年半の歴史を閉じる
     第3期生の到着
     徴兵検査、第二乙種合格
     繰上げ卒業、大建産業に就職
     本屋で見つけたベトナム語辞典
     第1寮長として送った慌ただしい1か月
     終戦、そして廃校

Ⅱ 学院生たちの「大東亜戦争」

1、はじめての戦闘「明号作戦」
     学業半ばで現地召集された学院生たち
     入営―初年兵教育隊
     明号作戦とは何か
     人為的ミスで始まった武力行使
     ツドモ兵営突入
     飯上げで敵装甲車と遭遇
     西舘とのつかの間の再会
     悲劇―ハノイ・シタデル攻撃の歩82連隊
     3月9日の、他の事例
     直後の仏印情勢

2、モイ族の青年との出会い
     ホンクワン警備隊でのフランス語の体験学習
     モイ族ドイ・ハム君の登場
     密林の中で隠匿武器を発見
     逃亡フランス将校団を捕らえる
     モイ族の暮らしの知恵
        (1)燃える石
        (2)タバコの火
        (3)飲み水
        (4)キロメートルなど
        (5)食べもの
        (6)手形(一種の証明書)について
     ボーケ空軍大尉捜索と養命濁酒
     憲兵隊のゴム園幹部引致
     幹部候補生試験合格の通知

Ⅲ 学院生たちの「終戦」

1、「8月15日」と学院生たち
     ザ・ディ(昭和20年8月15日)
     その日、学院生たちは・・・・・?
     工藤と駒屋の「終戦」
     無政府状態のハノイ
     南部に向かう飢えた民衆
     原隊に復帰、情報係軍曹に
     解放戦線へ誘われる
     ベトコンの待伏せ、九死に一生を

2、武装解除・捕虜生活
     連合軍の手で武装解除される
     サイゴン郊外の捕虜収容所
     フランス軍「715」外科病院へ
     フランス兵斬首事件で辻田大隊長収監される
     西舘義明の死
     逃亡兵捜索のための残置要員
     さらば西貢よ

Ⅳ 戦後の日越文化交流

1、ベトナムへの熱い思いを行動で
     思い出されるベトナムでの日々
     ベトナムに援助の手を!
     「日越文化協会」設立の準備
     設立総会を開く
     ベトナム側と文化協力契約を結ぶ

2、民間レベルでの文化交流
     2000人が応募した日本語学校
     第2期生にも400人が応募
     中部の町フエからの「日本語学校開設要望」
     ホーチミンに次いでフエにも開校
     ホーチミン校第1期生卒業
     順調に進む両校の「日本語クラス」
     日本への関心の高い卒業生
     日越文化協会の課題

南洋学院卒業生名簿



「南洋学院」という聞きなれない学校は、昭和17年に仏領印度支那(今のベトナム)に設立された「専門学校」である。
大東亜戦争勃発後、南方に於ける我が国の経済発展の第一線で活躍する人材と、その指導的人材の養成を現地において行なうという目的で設立された学校だそうで、文部省と外務省が共同で指導・援助し、大正4年に設立された南洋協会が経営を担当した。
南洋学院は、諸般にわたって明治34年創立の東亜同文書館に倣った学校で、東亜同文書館は日中の友好と同文同種の共存共栄を意図して中国大陸に設立されたのに対し、南洋学院は、仏領印度支那に設立され、日本から生徒を募集して現地で教育をし、卒業後は南洋学院が就職先を指定し、卒業生はそこで活躍するというものだったようである。
生徒は中学卒業生(旧制中学=今の高等学校)で、修業年限は3年間である。

本書の著者は、その南洋学院の1期生であるが、戦局の悪化に伴い現地召集となリ軍人となる。
そして終戦・・・・
南洋学院は終戦とともに廃校となったので、わずか3年の寿命で、生徒も第3期生までしかいない。
その後、語学を習得していることもあり、ベトコン(解放軍)に身を投じた者もいたようである。
また、戦後も行方不明のままという者もいたようであるが、ここでの教育は無駄ではなかったようで、戦後、著者のように、日本とベトナム(日越)の“架け橋”とならんと貢献した人も輩出している。

たった3年間しか存在しなかった外地の学校・・・・
なかなか私にとっては興味深い話だった。


今年の読書:60冊目



読書 | 22:46:13 | Comments(1)
「御岩神社」に取材に行く
先日の「広報委員会」の会議で、地元の神社・・・「御岩神社」の話題が出た。
“パワースポット”として有名なのだそうで・・・
ネットでも、よく取り上げられているそうだ。

この神社・・・
ちょっと辺鄙な場所にあるので全然目立たないのであるが・・・(笑)
いつの間にやら“有名”になったらしく、全国から参拝者が訪れているという。
休日には、狭い山道は大渋滞だそうだ。(大汗)

じゃぁ、ちょっと行ってみますか?(笑)
取材をして会報に記事を載せようか・・・ということになった。

法人会事務局の“アサヒさん”と広報委員長の“シミズさん”と委員の“マシコさん”と現地で待ち合わせ。
4人で宮司さんにご案内とご説明をいただきながら境内を歩く。
が・・・・ここは山奥・・・(苦笑)
寒いったらありゃしない!(涙)
体の芯から冷えてしまった・・・・(涙)

DSCN4036_convert_20170407102733.jpg

DSCN4035_convert_20170407102708.jpg

DSCN4032_convert_20170407102636.jpg

この神社・・・
地元では名の知れている神社であるが、実際に行ったことがあるという人は少ないのではなかろうか?
拙者自身も、56年の人生の中で、1回だけしか行ったことがない。(苦笑)
しかも・・・当時の宮司に用事があって社務所に立ち寄っただけである。(笑)
本殿をお参りした記憶がない・・・(大汗)
ということで・・・拙者のような人も多いだろうということで、記事にしてみることにした。

現在では神社とお寺というのは別々となっているが・・・
この神社は神も仏も一緒に祀っていて、それぞれの“お祭り”をきちんとされている。
こういう神社は日本国内でも珍しいのではないだろうか?
もしかして、唯一かも・・・

最近は“パワースポット”として注目を浴びているが・・・
“霊能力者”と呼ばれる方々の間では、昔から知られていた神社だそうだ。
が・・・この“パワースポット”に関しては宮司さんはノーコメント・・・
記事にもしないで欲しいという。
その気持ち・・・わからないでもない・・・

“シミズ委員長”が一生懸命にメモを取っていたので、この取材記事は委員長が書いてくれるものだと安心していたら・・・
最後に「君が書くんだからね!」の一言に愕然・・・
おしゃべりに夢中になって拙者はメモを取っていなかったのである!(大笑)
いやぁ~大変だ・・・責任重大だ・・・(涙)
“書いちゃいけない話”を書かずに、どうやって会員に、この神社を“紹介”しようか・・・(苦笑)
話の“切り口”をどこに持って行くか・・・・
う~ん・・・ここが腕の見せ所?(大笑)

滅茶苦茶寒い中をご案内いただき、宮司さんには感謝、感謝である。
なんとか、いい記事を書かねば・・・(大汗)

日記 | 10:04:31 | Comments(0)
『謀略 かくして日米は戦争に突入した』


開戦前夜の秘められた日米交渉―まえがき

プロローグ 日本の命運を賭けて奔走した男がいた

Ⅰ 岩畔豪雄の登場

(1)倉橋島から陸軍士官学校へ
     のどかな瀬戸内で育つ
     陸軍将校を志願
(2)別名「ろうそく連隊」で奮戦
     ロシア革命の勃発
     シベリア転戦
(3)青年将校時代
     山篭り
     自ら「三無」と号す
     陸軍大学校へ
     軍縮と装備近代化
     青年将校グループ
     軍に芽生えた甘えの構造
     統帥権の干犯
     軍人官僚の謀略
     「暴走」が「英断」に
     理想国家・満州
(4)二・二六事件と岩畔
     情報の道へ
     二・二六事件
     岩畔が担当した軍法会議
(5)中野学校の設立に関与
     郵便物の開封作戦
     偽札作戦も実施
     参謀本部で秘密工作
     陸軍中野学校
     軍務局軍事課
     面会人
     「ノ」の字を負けろ
     ミミズの効用
(6)歪められた「戦陣訓」
     勅令の起草も
     戦陣訓の真実
     ノモンハンの惨敗
     小大臣

Ⅱ 風雲急を告げる日米関係

(1)悪化する一方の日米関係
     日本への風当たり
(2)二神父の来日
     二人のアメリカ人
     メリノール派
     多忙なスケジュール
     認識のギャップ
(3)シナリオ
     申し分ない提案
(4)多彩な登場人物
     井川忠雄
     近衛文麿
     武藤章
     ドラウト
     ワイズマン
     ウォーカー
     クーンレーブ商会
(5)岩畔に下された渡米命令
     大統領もゴーサイン
     軍資金
     許可されない渡航
     松岡対東条
     岩畔への突然の渡米命令
     松岡洋右を訪問
     三国同盟
     各界の反応
     アメリカ大使館へ
     グルー大使の電報
     横浜から出航
     案ズル無カレ
     ハワイからサンフランシスコへ
     来栖三郎への工作
     ヨセミテ公園へ
     大陸横断
     ニューヨーク五番街の教会にて
     思いがけない訪問者

Ⅲ 日米諒解案の全貌

(1)ワシントンに着任して
     初出勤
     野村大使の孤独
     夜這い
     悠長な話
(2)「諒解案」策定に着手
     不眠不休の三日間
     日米諒解案全文
(3)これがその主要内容
     国家観念
     英独戦争の調停と三国同盟
     自衛権の広義解釈
     中国問題の処理
     商船の貸与
     20億ドルの対日借款
     資源
     アメリカに人権尊重を要求
     三国同盟離脱の勧誘
(4)表舞台に躍り出た「諒解案」
     三人の愛国者
     日本へ打電
     大きな波紋
     統帥部連絡会議

Ⅳ 挫折、そして日米開戦

(1)三国同盟と松岡洋右
     近衛を避けた松岡
(2)座礁
     深夜の連絡会議
     ニューヨークへ移動
     「わかっちょる、わかっちょる」
     「暑くなる前」の意味
     ドラウトのぼやき
(3)松岡から届いた指令
     ハルが示した親愛の情
     日本人形・ハル子
     バスに乗り遅れるな
     忌避された若杉公使
     東京の諜者
     ルーズベルトの招待
     暗転
     米国のしっぺ返し
     米国内にみなぎる反戦機運
     各国の策動
     国論を統一したルーズベルト
(4)失われた最後のチャンス
     ワシントンを発ち、日本へ
     スチュワーデスの配慮
     主戦論一色に
     近衛首相
     陸軍省
     参謀本部
     海軍省
     外務省
     宮内省
     三つの方策
(5)連絡会議での熱弁も実らず
(6)それからの岩畔
     従軍慰安婦
     戦後の岩畔

Ⅴ 日米交渉の再点検

(1)戦後における日米交渉の評価
     歴史の記述から抹殺
     岩波新書『昭和史』
(2)児島襄『開戦前夜』への疑問
     否定的なスタンス
     昭和天皇の発言に関して
(3)加瀬俊一の岩畔批判
(4)松岡再評価という妄動
     三人への憎悪
     彼らに資格はなかったのか
     打電されなかった四原則―諒解案はでっちあげだったのか
     ハルやルーズベルトの真意について
(5)『昭和天皇独白録』の起こした波紋
     昭和天皇の評価
     東条英機にも脚光が
     歴史というもの
     岩畔豪雄著『私が参加した日米交渉』前書き

私がこの本を書いた真の理由―あとがき
     エイズ薬害禍

参考文献


今年の読書:59冊目



読書 | 22:41:16 | Comments(0)
『正義の時代』


文庫版のためのまえがき


騎馬型国家と農耕型国家
愛憎の日米関係史
歴史と「血の論理」
甲殻類の研究


公的信義と私的信義
小佐野賢治考
江戸の「改革」について
腐敗の中の指導者論


義務教育を廃止せよ
なぜ英国病が生れたか

解説  谷沢永一


今年の読書:58冊目



読書 | 22:57:54 | Comments(0)
帰国しました!
昨晩、健康も害せず(笑)・・・・

無事に帰国いたしました!

これからが・・・大変・・・(大汗)

年末なので、やることが山積です。(涙)

「旅の疲れを取る」なんていう暇がない・・・(大涙)

こういうのを「自業自得」というらしい・・・(大笑)

日記 | 09:03:29 | Comments(0)
ホテル周辺を散策して帰国
今日は帰国する日・・・・
余裕をもって、午後の便で帰国することにしている。

DSCN3986_convert_20170405115502.jpg DSCN3985_convert_20170405115426.jpg

(圓山大飯店のロビー)

ロビーに行って・・・1階のレストランで朝食。
バイキングなのだが、食べるものがほとんどない!(苦笑)
しかも、中国人(大陸から来た観光客か?)のマナーの悪いこと・・・(大汗)
列には割り込むわ・・・その場で立ったまま食うわ飲むわ・・・(唖然)
“超高級ホテル”のイメージ台無しである・・・(涙)

食後、ホテルの周囲を散策することにした。
実は、これも拙者がここに宿泊した目的の一つなのである。(喜)
前回、台湾に来た時、この近くを通ったら“狛犬”を見かけた。
圓山大飯店が建っているこの場所には、戦前には「台湾神宮」という日本の神社があった。
たぶん、当時の“狛犬”ではなかろうかという気がするのである。
というわけで・・・それを確かめる目的もあって、ここに宿泊し、午前中に時間を作って、帰国は午後の便としたのである。

DSCN3988_convert_20170405171709.jpg (圓山大飯店)

この場所に立って、その昔、記念写真を撮ったことがある。
26歳くらいの若い女の子のガイドと二人で・・・(大笑)
ホテルのコーヒーラウンジでコーヒーとケーキを食べたんだよなぁ~
彼女は、どうしてるかなぁ~(笑)
あれから20年以上も経っているから・・・・彼女も“オバチャン”になっているんだろうなぁ~(大笑)
今回の旅行の前に、あの時使った現地旅行社を調べてみたが、どうも“消滅”してしまっているらしい。
倒産したのか、廃業したのか知らないけど・・・
あの社長さんも、面白い人だったんだけどなぁ~
また会いたいなぁ~・・・と思ったときには「時すでに遅し」か・・・・(涙)

DSCN3990_convert_20170405172150.jpg

拙者の部屋は・・・7階の角の部屋である・・・(笑)

ホテルの裏手に“遊歩道”があったので、このホテルの建っている丘から降りてみる。
と・・・・公園が・・・

DSCN3998_convert_20170405173836.jpg

「剣潭公園」(Jiantan Park)という名の“公園”だが・・・・
公園というより、「緑地帯」みたいな感じ・・・
ここの道路に面したところに“狛犬”がいた!(大喜)
前回、移動する車内からチラリとしか見ていなかったので、どのあたりだったか記憶が曖昧だったが・・・
あっさりと見つけることができた!(喜)
方向音痴の割には、シッカリしたものである。(大笑)

DSCN3992_convert_20170405173937.jpg DSCN3994_convert_20170405174002.jpg

この狛犬・・・台湾神宮にあったものだろうか?
どうも顔つきが日本的じゃないんだよなぁ~(苦笑)
台湾神宮にあった狛犬であると証明できる証拠は見つからなかった・・・
というわけで・・・「推定・台湾神宮の狛犬」ということにしよう・・・(笑)

この公園の上の方・・・つまり、ホテルの裏山へ行ってみる。

DSCN4001_convert_20170405185405.jpg DSCN4002_convert_20170405185431.jpg

が・・・急な階段は多いわ、道は狭いわ、我が膝は笑うわ、普段の運動不足で息は切れるわ・・・・最悪である。(苦笑)
“朝の散歩”ということだろうか、地元の人が何人も、この“山道”を歩いてくる。
すれ違うのも大変・・・
一応、皆さんには、その都度ご挨拶・・・・
前回、中国語の「おはよう」を教えてもらったはずなのだが、すっかり忘れてしまった・・・(涙)
仕方がないので「ハロー!」と「ニー・ハオ!」の連発。(笑)
返事をしてくれない人もいるが・・・返事をいただけると、嬉しいものである。

DSCN4003_convert_20170405205852.jpg

途中の見晴らしのいいところで市街を眺め、これ以上、登るのはあきらめてホテルに戻ることにする。
時刻は午前9時半・・・・

ホテル内のお土産屋さんが並ぶアーケードに行ってみる。
と・・・・龍の置物がド~ンと置いてあった。

DSCN4006_convert_20170405210041.jpg

お店の“オバチャン”が、日本語で声をかけてきて、この龍について説明をしてくれた。
なんでも、台湾神宮にあったもので、戦後も、そのまま残ったものだという。
ここが台湾神宮であるという“証拠”はこれだけしかないとのこと。
へぇ~・・・・である。
近くに中国語・英語・日本語の3か国語で記された「説明板」があった。

DSCN4008_convert_20170405210109.jpg


百年金龍簡介

龍山公園の銅竜は戦中に供出の憂き目にあい、台湾神社も空襲で損壊しましたが、剣潭山の銅竜だけは戦火を中を無傷で生き抜きました。
その霊気は百年の間衰えることなく、「龍尾穴」の名は四海にとどろきました。

1952年、蒋介石総統夫人の蒋宋美齢女史が、国賓の接待場所として選んだのがこの地でした。
ここに台湾を代表する国際観光ホテルが誕生することにだったのです。
あの銅竜も生きつづけています。
拝みにくる人もあとを絶たず、1987年には金のメッキを施し、金竜となりました。
いまも圓山の風水を好んで多くの日本人客が訪れます。
そしてその多くのお客様が金竜をお参りくださいます。

(説明板より)


日本語の説明文には、誤字があり、おかしな文章も見受けられるが・・・(苦笑)
それは愛嬌として・・・
中国語の方に大きな間違いが・・・(大汗)
日本語、英語とも「戦時中に」とあるが、中国語では「二次大戦後」となっているのである。
第二次大戦後に日本による金属供出はあり得ないだろう…(笑)
中国語、英語、日本語を読み比べてみると内容が微妙に違う・・・(汗)
たとえば・・・・
中国語では「龍山公園の銅龍は日本軍によって溶かされて大砲になった」と書いてある。
英語では「龍山公園の銅龍は溶かされて大砲になった」と書いてある。
(誰によって・・・ということは書かれていない)
で・・・日本語の方には「大砲」などとは書かれていない。
まぁ、こういう微妙な違いも愛嬌とみていいかな?(苦笑)

DSCN4011_convert_20170405213945.jpg

拙者の部屋のベランダ・・・(大笑)
なに?・・・この広さ?・・・である。
ここに一部屋作れるんじゃないか?
ここにキングサイズのダブルベッドが置けるんじゃないか?(大笑)

DSCN4012_convert_20170405214052.jpg

ベランダから、ホテルの裏山の方を見る。
う~ん・・・ちょうど目の前、真下辺りに、神社の本殿があったのではなかろうかと思える雰囲気・・・

DSCN4015_convert_20170405214142.jpg

ベランダから見た拙者の部屋!(笑)
う~ん・・・・殺風景・・・面白くない・・・(大笑)

DSCN4016_convert_20170405214217.jpg DSCN4017_convert_20170405214246.jpg

昨晩、夜景を撮った方向を見る。
川の向こうに見えるのは・・・・空港である。

時刻は10時を過ぎたので、そろそろチェックアウトすることにするが・・・
部屋が多いので確認に手間取る。(大笑)
今日はガイドは来ない・・・
自分で全部やらねばならない。
部屋を出る寸前、ガイドから部屋に電話がかかってきた。
「昨晩は大丈夫だったか?」という確認と・・・
「台中の母から電話があって、またぜひ遊びに来てくださいといってました」との伝言であった。
なんとも嬉しい電話である。
こういう気さくなところは、とてもいいのであるが・・・(苦笑)
これがガイドではなく、友人というのなら全く問題なしなんだけどねぇ~(大笑)

自力でチェックアウトして、タクシーで空港に向かう。
が・・・台北には空港が2つあるから、間違われると大変である。
拙者が使うのは、ホテルから見える、目の前の「松山空港」の国際線である。
拙者は中国語が話せないから・・・(笑)
昨日のうちにガイドに中国語でタクシーの運転手に見せる「行先」のメモを書いてもらった。
これを運転手に見せる。
タクシーの運転手は、非常に不愛想な女性ドライバーだった。
空港に到着し、チップも含めて料金を払ったら、やっと笑顔で挨拶してくれた・・・(大笑)

タクシーのドライバーからもらったレシート・・・・これが結構面白い。
「計程車乗車証明」という紙である。
乗った時刻は・・・10時43分
降りた時刻は・・・10時59分
と記載されている。
他に「停等時間」として6分15秒と記載されている。
これは信号待ちや渋滞で車が停止した時間のことだろう。
ホテルから空港まで約15分かかったが、そのうちの6分15秒は信号待ち等で止まっていた・・・ということになる。(笑)
しかも・・・「里程」として5.2kmと記載されていた。
これは・・・実際に走ったホテルから空港までの距離ということだろう。
こりゃ面白い・・・
日本のタクシーのレシートはどうなっていただろう?
いつもよく見ないで捨てちゃっているのでわからないが・・・
ここまで詳しくは印字されていなかったような気がする。
で・・・料金は・・・195ドル(約700円)・・・・
結構な料金である。
拙者の部屋から空港が見えるという距離なのにねぇ~(笑)
これが市内のホテルからだったら、いくらになるのだろう?(汗)

DSCN4021_convert_20170405221829.jpg (台北松山空港)

この空港は前回も使ったので・・・・
喫煙所は外にしかないことは知っている。(笑)
中に入る前に、まずは一服・・・である。(大笑)

チェックインも出国手続きも非常にスムーズ!(大喜)
マニラの空港とは大違いである!
前回にも立ち寄ったコーヒーラウンジで、前回同様、サンドイッチとコーヒーの“昼食”をとり、搭乗まで読書をして時間を潰す。

DSCN4023_convert_20170405221911.jpg DSCN4024_convert_20170405222000.jpg

13:30発のANAに乗り・・・17:30羽田に無事に到着!

旅行 | 11:48:51 | Comments(0)
憧れの圓山大飯店に泊まる!(大喜)
台中から台北まで新幹線で約1時間・・・
午後6時ごろ、台北駅に到着し、タクシーでホテルに向かう。

今回の最後の“目玉”!!(笑)
以前から、一度は泊まってみたいと思っていた「圓山大飯店」に最後の日の晩には泊まりたいと、旅行社に希望を出しておいたのである!(大喜)
昔は“国賓クラス”の人が宿泊する超高級ホテルだと聞いたことがある。
高嶺の花だったのだが・・・今では誰でも泊まれるんだとか・・・(大汗)
最近は“国賓”は市内の高級ホテルに宿泊し、ここには泊まらないことが多いのだとか・・・
まぁ、市街地から離れた場所に建っているから何かと不便だからだろう。
それにホテルも古いし・・・(苦笑)

で・・・・行って見たら・・・あら、あら、あら・・・・
普段着を着た中国人の“団体さん”でごった返している。(汗)
さらにはTシャツにGパン姿の“中東の人たち”がロビーにたむろしている・・・(唖然)
高級ホテルのはずだったんだけどなぁ~(苦笑)
なんだろ・・・この客層は・・・(唖然)
さすがに西洋白人のお客さんたち(年配のご夫婦とか)は、それなりの服装をしていたが・・・

フロントでチェックイン・・・
しばらくパソコンをいじってモタモタしている・・・・
と・・・フロントの男性が何か言ったが、よく聞き取れなかった・・・
確認をしたら「部屋のグレードをアップさせていただきました」と英語で言われた・・・
「はぁ~そうなんですか・・・アップ・グレード?」
「はい、スイート・ルームです」とのこと・・・
「へっ?スイート・ルーム????」(驚)
「ラッキーですね!スイート・ルームですよ!」とガイドが大喜び。(大笑)
「あれ?おたくの旅行社がアップ・グレードを手配したのか?」
「いえ、私は何もしてませんけど・・・いやぁ~ラッキーですねぇ~」(大笑)とガイド・・・

やはり人間、身なりが大切なのかも・・・(大笑)
この日の拙者の身なりはネクタイを締めてジャケットを着用・・・
TシャツにGパン・・・なんていう客たちの中では、こういう“紳士”は目立つ・・・(大笑)
たぶん、中国人の団体客などのおかげで、シングルルームが埋まってしまったので、この“紳士”にスイート・ルームに移動していただこうということになったのだろう。(大笑)
いやぁ~やっぱり“身なり”は大事である。

部屋に入ってみて驚いた!

DSCN3982_convert_20170329152742.jpg DSCN3979_convert_20170329152828.jpg 

DSCN3977_convert_20170329152907.jpg

ありゃぁ~広い!!(驚)
ここに一人で泊まるのか?(苦笑)

隣りの部屋はベッドルームである。

DSCN3975_convert_20170329153617.jpg DSCN3969_convert_20170329153700.jpg

その隣が・・・「化粧室」(?)
大きなクローゼットがあり、中にふわふわのバスローブが入っていた。(笑)

DSCN3973_convert_20170329153915.jpg

その奥がバスルーム・・・・
バスタブのお風呂とシャワールームとが分かれている。
う~ん・・・どっちを使おうか・・・(笑)

DSCN3970_convert_20170329153758.jpg

ここに今晩、寝るだけのために泊まるのである!
あ~なんと勿体ないことか・・・(涙)

とりあえず荷物を部屋に置いて、食事をしに行くことにする。

フロントで女の子に拙者の部屋のグレードを聞いてみた。(笑)
拙者の部屋は、このホテルの上から2番目のグレードの部屋で、正規料金は「2万6000」だという。
え?・・・2万6千円って、ずいぶん安いなぁ~(苦笑)
と思ったら・・・・
「円じゃないですよ。台湾ドルで2万6000です!」と笑われてしまった。
日本円に換算すると「1泊9万円くらいの部屋です」とのこと。
ゲゲッ・・・そりゃ、すごい・・・(驚)
いやぁ~どうしよう・・・益々落ち着かねぇぞ・・・これ・・・

タクシーで街の中の繁華街に行き、適当に見つけた小さな食堂で夕食を食べる。
その後、ガイドの案内でマッサージに行く!(喜)
やっとマッサージを受けることができる。(笑)
ガイドは、ここで帰宅・・・
マッサージ後、お店の送迎車でホテルまで送ってくれると言われたが断る。
折角、繁華街に来たのに、真直ぐホテルに戻ったのではもったいない・・・(大笑)
“探検”をせねば・・・(大笑)

夜の繁華街を歩くというのは、方向音痴の拙者にとっては、かなりのリスクなのだが・・・
交差点には「〇〇路」とか、“通り”の表示が出ているし・・・
道路は碁盤の目のようだし・・・
たぶん迷うことはなかろうと思ったのだが・・・これが、やっぱり大間違い・・・(大汗)
迷った・・・(苦笑)
どこかで見たことがある景色だと思ったら、同じ道を何度も歩いている・・・(大笑)

客引きから声をかけられることが何度かあったが・・・(笑)
拙者の財布には1500ドル程度しか残っていない。
日本円で約6千円くらいである。
いつも海外に行くときは財布をいくつか用意して行くことにしている。
現地用の財布には現地の通貨しか入れていない。
今回も日本円もクレジットカードも別の財布に入れたままホテルに置いてきている。
というわけで・・・「日本円が使えます」とか「カードが使えます」と言われても無理・・・(笑)
日本円を取りにホテルに戻るには遠いし・・・(大笑)

帰りのタクシー代を考えると・・・手も足も出ない。(笑)
これ・・・何かと“誘惑”に弱い拙者には好都合である。
カネがないんだから、誘われても飲みに行けない・・・(大笑)

道端で若い女の子に中国語で誘われた・・・(唖然)
拙者は中国語は全く話せない・・・(汗)
すると・・・彼女はスマホのアプリを使って“翻訳”をして拙者に見せた。
「可愛い女の子がいます」とか「安いです」とか・・・(大笑)
おお~なんと便利な事か・・・
しかし、答える拙者のほうの携帯は“ガラ系”である。(大笑)
そんな便利なアプリなんて見たことねぇぞ・・・(大汗)
彼女がスマホを突き出してきたが・・・使い方・・・知らねぇし・・・(苦笑)
結局、身振り手振りに加えて日本語で、「カネがない!」と伝えて断る。(大笑)

交差点で信号待ちをしていたら日本語ペラペラの客引きの“おばさん”に声をかけられた。
面白いことに、このあたりの客引きは名刺を渡す時に「名刺を渡してもよろしいですか?」と誰もが丁寧に尋ねてくる。(笑)
なんでだろう?
この”おばさん”も丁寧だった。
正直に「1500ドルしかもっていないから無理!」と断ったが、よく考えたら帰りのタクシー代も必要である。(笑)
そうなると、使えるのは・・・1000ドル程度か?
所持金が1000ドル程度では危ない、危ない・・・支払いの時にトラブルことは間違いない。(大笑)
多少、ボッタクリに遭うことは想定して多めに持っていなければ安心して酒も飲めぬ。(笑)
ということで、お断りしたが、その代わり、しばらく交差点で、この“おばさん”と世間話をして過ごす。(大笑)

「それじゃね!」と“おばさん”と別れ、また歩き出す・・・・
右に曲がり左に曲がりと適当に歩いていたら、大きな交差点にぶつかった。
「あらぁ~!何してんのぉ~?」と声をかけられる。
ん?・・・・さっきの“おばさん”である!(驚)
あれ?・・・いつの間にか、さっきの交差点に戻っていた・・・(大汗)
なんとも格好悪いな・・・これ・・・(苦笑)

これ以上、歩き回っても意味はない・・・(笑)
この繁華街がどんな感じの場所かは、よくわかったので・・・(苦笑)
タクシーを拾ってホテルに戻る。

ホテルは全室禁煙である。(涙)
フロントの女の子に喫煙所を尋ねたら2階に1箇所だけあるという。
「あ!、ベランダではタバコを吸っちゃダメですからね!」と笑いながら釘を刺された・・・(苦笑)
う~ん・・・先を読まれたか・・・(大笑)

DSCN4005_convert_20170331155111.jpg

突き当りの部屋が「喫煙所」・・・目立たないから探すのに苦労した。(翌朝撮影)

一服して部屋に戻る。
カーテンを引こうと思ったら・・・やたらと重い。
で・・・部屋にやたらとスイッチがあるので、適当に押していたら、カーテンが動いた!(驚)
あら・・・電動カーテンだったの?(大笑)
こういう高級な部屋に泊まった事がないからねぇ~・・・知らなかった・・・(大汗)

DSCN3983_convert_20170331155028.jpg

部屋から見た夜景!

テレビを見ようと思ったら、チャンネル数が極端に少ない!(唖然)
市内のホテルならば、かなりのチャンネルが映るのだが・・・
気のせいかもしれないが・・・政府に逆らうような局は見ることができないという感じ・・・
台湾独立派に傾いているようなテレビ局の映像は流れない・・・
ニュースを流す局も数局・・・・しかも同じニュースしか流していない。
いやぁ~面白くない!(怒)
例えて言えば・・・NHKしか流していないという感じ・・・
他のホテルと違うところは、日本の「NHK第1」、「NHK第2」、「NHKワールド」が映るくらいだろうか?
あ~あ~面白くない・・・・
で・・・映画を見てみたら、なんと!
映像と音声が、かなりズレているのである。
なにこれ?・・・・である。
口がパクパク動いてから、しばらくして音声が流れてくる。
見ていて鬱陶しい・・・・
おとなしく寝るしかないな・・・(涙)

が・・この部屋・・・広くて落ち着かぬ・・・(大汗)
参ったぁ~(涙)
あっという間に午前1時半である!(苦笑)
寝るときには、各部屋の空調を止め、電気を消して・・・と歩き回る羽目に・・・
う~ん・・・広いと不便だなぁ~(笑)
スイッチが多すぎる・・・どれがどれのスイッチだ?(苦笑)

旅行 | 14:44:18 | Comments(0)
「地震教育園」に行く
時刻はお昼を過ぎた・・・・
腹ペコである。(苦笑)

確か、台中には「国会議事堂」があったと思うのだが・・・・
学生時代、海外研修団で訪問したような記憶がある。
が・・・建物は全く覚えていない・・・(苦笑)
椰子の木の並木のようなものがあり、そこを歩いたかバスの窓から見たか・・・
その景色しか記憶にないのである。
たぶん、歩いたような気がするのだが・・・
もう30年以上も前のことだからなぁ~
それでなくとも記憶力が悪いのであるから、思い出したくても思い出せない・・・(笑)
で・・・時間があったら、そこに立ち寄ってみてくれとガイドに頼んだ。

それは、それとして・・・
何時まで経っても昼食にありつけない・・・(汗)
車は延々と走る・・・
もう1時間も走っているんですけど・・・・(汗)
腹ペコなんですけど・・・

ようやく到着したのが・・・「旧・台湾省議会議事堂」!
「ここですよね?来たかった場所は・・・」とガイド・・・
それはそうなんだけど・・・その前に昼食だろ?(唖然)
もう午後1時を過ぎてるんですけど・・・(汗)
議事堂は、現在は議事堂としては使われていないとか・・・
ちょうど建物の前で何かのイベントの準備中でごった返していた。
「写真、撮らないんですか?」とガイド・・・
そんな気は起らない・・・(苦笑)
イベントのテントや機材が山積みになっているところを撮っても仕方がなかろう?
それより早く飯を食わせてくれ・・・(苦笑)

DSCN3923_convert_20170326161854.jpg

「台湾省議会議事堂」の周囲には住宅街が広がっていた。
かなりの広さの住宅街である。
どうも職員住宅のようである。
が・・・現在、議会としての機能を失っているため職員数も減ったのだろう。
空き家が目立つ・・・
その一角に“市場”があった。

DSCN3922_convert_20170326161552.jpg

「政府員工」という文字が見えるから・・・たぶん、これは「政府職員」という意味ではなかろうか?
「第三供應市」という文字も見える・・・
「供應」は「供給」と同じ意味かな?
拙者が幼い頃、近所に「きょうきゅう」と呼んでいた市場があった。
大人になってから分かったのだが、近くの大企業の工場に勤める人たち向けの「販売所」で、今で言えば、「スーパーマーケット」のようなもので、「きょうきゅう」は正しくは「供給所」ということだったらしい。
ここは、それと同じようなものなのだろう。
政府職員用の「供給所」・・・「スーパーマーケット」というわけなのだろう。
ガイドが、ここで昼食を食べようと言う。
拙者に異論があるわけがない・・・腹ペコである。(苦笑)

DSCN3921_convert_20170326162911.jpg

“市場”の内部は、ガランとして客らしき人はチラホラ・・・閑散としている。
食堂は、まだ午後1時半だというのに、もう店仕舞いの準備をしている店が何軒もある。(汗)
昔は賑わったのだろうが・・・今では、ここを利用する人もいないんだろうねぇ~

DSCN3919_convert_20170326161625.jpg

ここで、ようやく昼飯にありつく。(喜)

今日は、夕方の新幹線で台北に戻るのだが・・・今は午後2時・・・
さて・・・どうする?
「今から地震教育園にご案内します」とガイド・・・
拙者としては、全く興味がないのだが・・・(汗)
そういう施設に行くくらいなら博物館に行きたいんですけど・・・(汗)
今回の旅の目的は「霧社事件」ということでガイドには話してある。
じっくりと見て歩き、調べたり勉強したいと話してあるんだけどなぁ~
絶対行きたい関連史跡などの場所は指定しておいたが、細かいところはわからないのでガイドに任せたのが間違いだったかも・・・
早々と午前中に「川中島」が終わってしまい、午後が丸々空いてしまった!(涙)

「地震教育園」などには興味はないと何度言ってもダメ・・・
どうしても拙者を連れていきたいらしい・・・(涙)
というわけで・・・根負けして行くこととなる。

約1時間後、「九二一地震教育園区」に到着・・・
ここは、1999年9月21日に、台湾中部で起こった大地震で被害を受けた学校を、そのままの状態で保存して「地震教育」としている施設のようである。
ちょうど、この学校がある場所に断層が走っていたらしい。

DSCN3931_convert_20170326195833.jpg

DSCN3930_convert_20170326195755.jpg

地震に関する展示館(?)
学生たちのグループがいくつもやって来ていた。
拙者としては、たいして興味がないので、ササッ~と軽く流して見る。
拙者の欠点の一つは「気を取り直して・・・」ということができないところ・・・(大笑)
来たくて来たわけでもなく、ほとんど無理やり連れて来られ、貴重な半日を、ここで潰すのかと思っただけで腹が立つ。
折角だから、気を取り直してじっくり見て勉強しよう・・・・なんていう気にはなれないのである。(大笑)
それじゃ勿体ない・・・これもいい経験と気分を切り替えられないところが我が欠点の一つである。
というわけで・・・「面白くない!」と思いながら見てるんだから・・・テンションが上がるわけがない。(大笑)
ササッ~と適当に流して、何が書いてあるのかなんて・・・読まない・・・(大笑)

DSCN3929_convert_20170326195037.jpg DSCN3926_convert_20170326195004.jpg

これを見たとき、しばらくの間、これが何なのかがわからなかった。(大汗)
ようやく、これが学校の運動場の“トラック”で、地震のせいで隆起してしまったものだということがわかった。
それにしても、この中途半端な屋根は何だろう?
しかも固定するワイヤーが何本も地面に打ち込まれていて、見づらいことこの上ない・・・
これじゃ、この運動場の隆起のスケールがさっぱりわからないのではないか?(怒)
誰がこんな屋根の設計をしたんだろう?

崩壊した学校の校舎も見学することができる。

DSCN3934_convert_20170326201615.jpg (教室)

DSCN3936_convert_20170326201827.jpg DSCN3942_convert_20170326201854.jpg

この中途半端な屋根・・・・
太い柱とワイヤーが邪魔!
あ~あ~!!(怒)・・・どうしてこういう展示の仕方をするかねぇ~
ガイドが「すごいでしょう?」と、しきりに尋ねるのだが、ご機嫌斜めの拙者の頭の中は“文句”しかない・・・・(大笑)
「どこの馬鹿がこんな中途半端な屋根と柱を設計したんだ?これじゃ、崩壊の凄さが半減だよ!柱が邪魔!」(怒)
もっと大きなドームで覆ってやれば、崩壊した校舎と隆起したグラウンドが、そのままの状態で見ることができるだろうに・・・
勿体ない展示の仕方をしている・・・としか思えない。
見ていると、そっちの方が気になって腹が立つばかり・・・である。(苦笑)
困った性格だと自分でも思う・・・(大笑)

30分程度見学して施設を出る。
じっくりと本気で見学したら1時間以上は必要だろうが・・・(苦笑)
興味がないから・・・あれも、これも・・・パス!(大笑)

ここに来る途中、「亜州大学」という看板を見た。
この大学・・・英語に訳すと、「アジア・ユニバーシティ」となる。
つまり、拙者の母校と同じ名前!(大喜)
というわけで・・・ここに立ち寄ってもらい、校門あたりで記念写真を撮ろうと思う。
う~ん・・・こりゃ、我が同窓会の支部長への土産話になるぞ。(笑)

行って見たら・・・・ありゃ!
校門なんてものがない!(汗)
いきなり、この建物である!(驚)

DSCN3964_convert_20170327222012.jpg

どこかの国の国会議事堂か?・・・・と思わせる建物である。(笑)
あららぁ~・・・・である。
ここには図書館と管理部門、それに「国際学院」(インターナショナル・カレッジ)と「創意設計学院」(カレッジ・オブ・クリエーティブ・デザイン)が入っているらしい。

DSCN3954_convert_20170327222137.jpg

で・・・ちょっと敷地内を散策・・・(笑)

DSCN3952_convert_20170327222059.jpg

ガイドが「安藤忠雄が設計した建物があるという話を聞いたことがあるので、ぜひ見てみたい」と言う。
へぇ~日本人建築家の安藤忠雄が設計したの?
じゃ・・・あれかな?(苦笑)

DSCN3958_convert_20170327222211.jpg

この大学には「現代美術館」という建物がある。
それが安藤忠雄氏が設計した建物・・・・
「知ってたんですか?」とガイド・・・
「いや、この人の設計は、いつもコンクリートの打ちっぱなしみたいな建物だから、すぐわかる」(大笑)と拙者・・・
ガイドは「すごい!すごい!」と大興奮だが、拙者は全く興味はない・・・(苦笑)
実は、拙者はこの人が設計した建物が好きではないのである!(笑)
これは“好み”の問題だから、どうしようもない・・・
例え日本で有名な建築家が設計したと言われても嫌いなものは嫌いなのである。(大笑)

大学の看板があったので、看板をバックに記念撮影!
はい、これで目的は達成!(大笑)
さっさと台中駅に向かう。

DSCN3965_convert_20170329143050.jpg (台中駅)

駅の喫煙コーナーで、まずは一服・・・(大笑)

時刻は午後4時・・・・
我々は午後5時の新幹線で台北に帰る。
それまで時間があるので・・・
駅構内のファミリーレストランでコーヒーとケーキを食べて時間を潰す。

DSCN3966_convert_20170329143117.jpg

旅行 | 12:58:52 | Comments(0)
川中島(清流)へ行く
昨晩、あまりにも早く寝てしまったせいか、午前4時半に目が覚めた!(大汗)
というわけで・・・“二度寝”する・・・(大笑)

朝食の前にタバコを一服・・・(笑)
ホテルは全面禁煙なので、ホテルの入り口の脇にある喫煙場所まで行かねばならない。
で・・・外に出たついでである・・・ホテル周辺を散策する。

DSCN3765_convert_20170219191435.jpg
(宿泊した「鎮宝大飯店」)

このホテル・・・名前の発音が・・・ちょっと問題なのである。(苦笑)
「鎮宝」・・・「ちんぽう」と言う・・・最後の音を伸ばさなかったら、ちょっとマズイ・・・(大笑)
この町では、かなり大きなホテルだと思うのだが、昨日の朝、レストランにいたのは拙者一人だけ・・・
ロビーでも誰も見かけなかった・・・(汗)
今朝は駐車場に大型観光バスが2台入っていたけど・・・
これで採算合うのかね?
潰れちゃうんじゃないの?・・・と余計な心配・・・(笑)

DSCN3767_convert_20170219191521.jpg DSCN3769_convert_20170219191601.jpg
(ホテルの前の様子)

昨晩、このホテルに中国人のツアー客が泊まったため、今朝は昨日とは打って変わってレストランは賑わっていた。

DSCN3770_convert_20170219191637.jpg

今日は、これから、日本統治時代に「川中島」と呼ばれた集落へ行く。
現在は「清流」という名前らしい。
午前8時40分、ホテルをチェックアウト・・・
途中、埔里の町の中にある税務署に立ち寄ってもらい建物の写真撮影をする。
拙者は地元の「法人会」の広報委員でもある。
いつも原稿を書くのは拙者の役目・・・(苦笑)
最近、「全国税務署めぐり」のコラム記事を書き始めたが、国内ばかりというのも面白くない。(笑)
海外の「税務署」を紹介するっていうのも面白いのではないかということで、急遽、予定外ではあるが立ち寄ってもらうことにした。
よし!これで原稿1本書けるぞ!(大喜)

DSCN3771_convert_20170219191707.jpg
(財政部中區國税局埔里稽徴所および南投縣政府税務局埔里分局の入っている建物)

埔里から車で1時間ほど走り、「川中島」に到着する。
早速、最初の目的地「餘生記念館」に向かう。

DSCN3774_convert_20170220171951.jpg

「霧社事件」を起こした原住民を「反抗蕃」と呼び、この事件に参加しなかった原住民を「味方蕃」と呼ぶ。
「反抗蕃」の討伐に、日本の武装警官隊や日本陸軍の兵士たちが参加したが、日本は「味方蕃」にも討伐への参加を求め「蕃人掃蕩隊」を編成した。
彼らに対して日本は反抗蕃を馘首(首狩り)をしたら報奨金を与え、万が一、返り討ちにあって死んだ場合の補償も手厚くすると約束して参加させたらしい。
「蕃人に対しては蕃人をもって」という考え方であろう。
よって、特にタウツア蕃やトロツク蕃は積極的にこれに参加したらしい。
で・・・最終的に婦女30人、子供36人を含む87人の反抗蕃の首を刈ったらしい。
反抗蕃は総数で644人が、この討伐等で死亡した。
その中には、同じ「蕃人」に馘首された者の他に、事件に直接は参加していない、いわゆる一般人の反抗蕃(たぶん、女・子供・年寄りたちだろう)で縊死(首吊り自殺)した296人が含まれている。
山に逃げ込んだはいいが、食べるものもなく餓死寸前に投降してきた者は捕虜も含めて561人。
彼らのうち514人が収容所に収容され「保護蕃」と呼ばれた。

「霧社事件」の討伐はは昭和5年12月中には完了して一件落着となったが・・・・
「蕃人掃蕩隊」のトロツク藩はこの討伐で特に多くの損害を出している。
つまり反抗蕃に返り討ちに遭って馘首されたものが多かったわけである。
馘首されるということは、彼らにとっては“恥”であり、“恨み骨髄”ということになったのだろう。
投降して「保護蕃」となった連中に対する加害が随所で起こったという。
対して、「保護蕃」のほうも、彼らには恨みがある。
日本に歯向かって日本人に討伐されるのは覚悟の上、やむを得ないと思うが、何で同じ原住民に討伐されて首を刈られなければならないのかということである。
こっちには、こっちで味方蕃に対しての恨みがある。
この恨みを、いつか晴らしてやる・・・というところだろう。
このことは、当然、同じ思考回路の原住民同士だから、味方蕃のほうもわかっている。
やられる前にやっちまおう!・・・となる。
が・・・計画を立てるたびに日本側にバレて何度も阻止されていたので、彼らには鬱憤が溜まっていたらしい。
その時に、宝蔵寺という名の警察課長が部下に命じて、味方蕃に保護蕃を襲撃させて鬱憤を晴らしてやろうと“けしかけた”らしい。

そこで味方蕃の蕃丁208人が数か所に分かれて収容されていた保護蕃を襲撃したのである。
これが昭和6年4月25日に起こった「第二次霧社事件」である。
514人の保護蕃のうち195人が殺害され、19人が縊死、10人が行方不明となり、生存者は298人である。
日本は、この生き残った298人を別の場所に強制移住させることにし、その場所を「川中島」と名付けたのである。

というわけで・・・・この「川中島」に来てみた。
戦後、国民党によって改名させられ、現在は「清流」と名付けられている地である。

餘生記念館の「餘生」は、「生き残って余生を過ごす・・・」という意味ではなかろうかと思う。
この霧社事件、第二次霧社事件、そして強制移住に関する資料の展示がされている。

DSCN3776_convert_20170220172131.jpg (敷地内にある「霧社事件餘生紀念碑」)

DSCN3780_convert_20170220172249.jpg DSCN3825_convert_20170220172344.jpg

資料の展示と言っても、パネル展示だけである。
説明文は全部中国語・・・(汗)
ローマ字も併記されていたので英語かなと思って読んでみたら、全く知らない言葉である。
もしかしたら、原住民の賽徳克(セデック)族の言葉かもしれない・・・・

昨日、課長が、この村を案内してくれると話をしていたが、やっぱり仕事で時間が取れないとのこと。
そりゃそうだ・・・平日だもん・・・(苦笑)
そこで、この村に住む課長の叔父さんに連絡をしてくれて、キュウさんという叔父さんに案内を頼んだという。
ガイドが、このキュウさんを迎えに行っている間、拙者は一人で、ここを見学する。
ここは無人で、無料の資料館である。(笑)
勝手に入り込んで電灯をつけて見学・・・・
相変わらず“翻訳者”なしで自力で中国語を読まねばならぬ。(涙)
漢字で書かれているので、ごく一部については、おおよそ意味は分かるが、意味不明の漢字や日本にはない漢字が並んでしまうとお手上げである。(涙)

間もなくキュウさんがやって来た。
挨拶もそこそこに、早速、展示パネルの説明をしてくださった。
日本語がペラペラなのには驚いた。
75歳だというから大戦末期に生まれて戦後育ちだと思うのだが、流ちょうな日本語を話すオジサンである。
が・・・ガイドが話の途中でやたらと口をはさんでしまうので、話の腰を折ってしまう。
そのうち、ガイドが「さぁ!ちょっと外に出ましょう!」などと言い出したのでカチンと来た。(怒)
「いま、説明を聞いているところなんだから邪魔をしないでくれ!」(怒)

DSCN3783_convert_20170221104843.jpg (霧社)

昔の霧社の町の写真・・・・
メイン通りの突き当りが警察署・・・現在、消防署がある場所である。
右斜め奥、山の中腹辺りに霧社神社が見える。
現在、「徳龍宮」がある辺りである。

DSCN3786_convert_20170221103917.jpg (人止関)

「人止関」の古写真・・・・
結構、良く見かける有名な写真の一つである。
霧社に来る前に、ここに立ち寄ったが、ずいぶん景色が違う。
この写真を見ると、「人を止める関所」っていう感じがよくわかる。

DSCN3802_convert_20170221104156.jpg

DSCN3803_convert_20170221104237.jpg (昔の雲龍橋)

廬山温泉に行く前に立ち寄った「雲龍橋」の古写真・・・・
吊り橋である!(汗)
とんでもなく長い吊り橋である!(大汗)
拙者は、絶対、こんな橋は渡れない!(大笑)
現在は車が走れる橋に架け替えられている。
いやぁ~歩いて渡る羽目にならず本当に良かった・・・・(大笑)

DSCN3812_convert_20170221110340.jpg

霧社事件の1年前の運動会の様子の写真・・・

DSCN3823_convert_20170221110551.jpg

事件後の霧社公学校の運動会場の現場写真。
校庭に何かが“集められている”ような黒く盛り上がっているものが見える。
写真が不鮮明なので、よくわからないのだが、もしかしたら一か所に集められた犠牲者の遺体なのかもしれない・・・

DSCN3827_convert_20170221110737.jpg DSCN3828_convert_20170221110810.jpg

事件の首謀者モーナ・ルーダオに関する資料パネル

DSCN3865_convert_20170315171614.jpg

日本の武装警官隊と、「反抗蕃」を討伐した「味方蕃」の記念写真・・・
「味方蕃」の足元には4つの生首が置かれている。
そのうち、一番左端の首は、どう見ても子供の首にしか見えない・・・(大汗)

DSCN3869_convert_20170315171656.jpg DSCN3871_convert_20170315171751.jpg

「保護蕃」に関する展示パネル。
2人の女性が写っている写真は、結構、有名な写真だと思う。
この左側の女性はキュウさんのお母さんだそうで、右側の女性はお母さんの妹、つまり、キュウさんの叔母さんだそうである。
キュウさんのお母さんは、非常に優秀な人で、日本語もペラペラ、分数の計算もできたらしい。
で・・・教育熱心・・・
キュウさんは、お母さんから「あなたの日本語は下手だ。勉強が足りない。もっと勉強しなさい」とよく叱られたという。(笑)

戦後、中国大陸から蒋介石率いる国民党が台湾にやって来た。
で・・・校長や学校の先生として、彼らが着任したらしいが・・・・
「分数の計算もできないような人間が校長なんだからねぇ~」と怒っていた。
計算ができるかどうかは彼らの優秀さを計るバロメーターだったようである。
分数の計算ができる母親を持つ身としては許せないのだろう・・・文句タラタラ・・・である。(苦笑)

キュウさんからは、事件の遠因の一つとなったエピソードを聞かせてもらった。
ある時、駐在所の前を原住民の青年が通りかかったところ、日本人警察官に呼び止められ、酒を勧められたそうである。
当時は道も悪く、足元も危ない崖に沿った道を帰らねばならない。
で・・・酔っぱらうと危ないので、ほどほどのところで帰りたかったそうである。
そこで彼が、うっかり現地語で「バーカ」という言葉を口に出してしまったらしい。
この「バーカ」は、現地語で「もうお腹が一杯です」「もう十分いただきました」という意味だそうである。
ところが、この言葉を聞いた警官が怒り出した。
「馬鹿とは何事だ!」ということで、3人の警官が寄ってたかって、この青年に暴行を加えたらしい。
この青年は命からがら逃げだして村に帰ったが、そのまま寝込んでしまい、まもなく息を引き取ったそうである。
たぶん、内臓を損傷したのだろう。
「これは事件の直接の原因ではないが、こういうことの積み重ねが事件を起こしたんだよなぁ~」とキュウさんは言う。

「だいたいあの連中(日本人警察官)は尋常小学校しか出てないような連中で、質が悪かったんだよなぁ~」と言う。
遠慮会釈なくズバリと言われたのには驚いた。(大汗)

当時は“外地”に赴任するというのは人気がなかったようである。
出来れば国内で働きたいというのが人情だろう。
が・・・国内では、明らかに出世できないと分かっているような人もいただろうから・・・
外地赴任の手当てを目当てにするような人とか、一旗揚げようという「一旗組」のような連中が台湾に赴任した可能性は大である。
山地の駐在所に勤務となれば、警察業務だけではなく、行政に関しても指導的な立場となる。
まるで村長さんにでもなった気分と言っていいかも・・・
王侯貴族とまでは行かないにせよ、やりたい放題のことができるということになる。

キュウさんは「あれ(日本人警察官)は、やり過ぎたんだよ!やり過ぎ!」と言う。
「尋常小学校しか出ていねぇからなぁ~」と再び・・・(苦笑)
たしかに、おっしゃる通りだと拙者も思う。
事件後の昭和6年の1月に、台湾総督府から事件の報告を受けた昭和天皇は、「我が国の台湾統治の仕方に非があるのではないか?台湾の人たちを見下したような態度をとったことが原因なのではないか?」というようなことを口にしたといわれている。
台湾総督府や日本官憲の報告は、われわれ日本人には理解しがたい首狩りの風習がもたらした突発的な事件というような、あいまいな報告だったようであるが、昭和天皇はズバリと核心を突く見解を出していたのである。
天皇陛下はすごい・・・
それに比べて役人は・・・・身内を庇い、誤魔化す・・・・(大汗)
今も昔も変わっていないようである。(苦笑)

そんなこんな話をしている間にも、ガイドはチョコチョコと余計な口を挟んでキュウさんの話の腰を折る。(汗)
空気が読めないというか・・・自己中なのか・・・・(笑)
あまりにもうるさいので、ついに我々二人は彼を追いやった・・・(大笑)
彼が立ち去ったところでキュウさんが「なんだ、あいつは!ひとが話をしているのに邪魔しやがって!」と怒り出した。
いやぁ~その恐いこと・・・(大汗)
セデック族って・・・怒りっぽい人種なのかな?(苦笑)
昔のセデック族も、こんな感じだとすると・・・う~ん・・・事件を起こしてもおかしくはないかも・・・(大汗)

キュウさんが、お茶をごちそうするから家に来ないかと誘ってくれたので、ご自宅にお邪魔して、更におしゃべり・・・
もっと、おしゃべりをしたかったが、まもなくお昼になる。
昼食時にお邪魔しては失礼だろう。
名残惜しいが、自宅前で記念写真を撮ってお別れする・・・・

このまま車に乗って移動するのも面白くない・・・
ということで、拙者は徒歩で村の入り口まで戻ることにした。
車の方は先に行って待っててもらうことにした。
「どうぞ、ゆっくり見て歩いてください!」とガイド・・・・

DSCN3893_convert_20170317135510.jpg

DSCN3894_convert_20170317135559.jpg

何の看板かなと思ったら、どうも健康増進のためのウォーキングマップらしい。
モデルコースを歩くと所要時間は15分で、消費カロリーはどのくらいになるかというようなことが書かれている。

DSCN3895_convert_20170317135646.jpg

こちらの看板は「清流公約」と書かれているので、この集落のルールが書かれているようである。
で・・・住民だけではなく、この集落に外から訪問した人も守るようにということが書かれている。
「環境公約」は・・・・
酒瓶を捨てるなとか、家畜等を野放しにするなとか・・・そういうようなことが書かれているようである。
“稲草”や“廃棄物”を勝手に燃やしてはいけないというようなことも書いてある。
「生活公約」には・・・
18歳以下の青少年や児童に酒を売ったり与えたりしてはいけない・・・というようなことが書かれている。
どうも、原住民は酒が好きなようで・・・酒についての警告が書かれているのは面白い。(苦笑)
また、夜の11時以降に“遊蕩”している青少年は、“隣長”を通じて“家長”に通告し・・・なんだかんだと書いてあり・・・最後に、“帯”とあるから、親と一緒にということだろう・・・派出所へ行って情況を明らかにしなければならないというような厳しいお達し・・・(大笑)
こりゃ、いい!(大笑)
中国語なので、果たして拙者の解釈が正しいかどうか、ちょっと自信がないが・・・
こういうのを訳してもらいたいこともあってガイドを雇ったのに、肝心のガイドは車に乗ったまま行ってしまった・・・(唖然)
相変わらず肝心な時にいない・・・(涙)
しかし、こういう「公約」っていいなぁ~
我が町内会にも、こういう「公約」を掲示してもいいんじゃないか?(大笑)

DSCN3897_convert_20170317150241.jpg

清流部落の水田・・・・
第二次霧社事件の生存者は、この地に強制移住をさせられたが、もともと彼らは山岳民族で狩猟で生計を立てていた民族である。
それが低地に移住させられ、狩猟したくとも狩りをする動物もおらず、狩猟民族から農耕民族に変わるよう強制されたのだから、その苦労は相当なものだったろう。
水田の稲穂を見ていて、よくぞ農業を身に着けたものだと感心・・・

DSCN3898_convert_20170317150335.jpg

たぶん、昔、吊り橋があった場所だと思われるところに看板が立てかけてあった。

DSCN3899_convert_20170317150414.jpg

この「川中島社」について書かれているようだが、解読不明・・・(涙)

DSCN3900_convert_20170317150439.jpg

当時の「川中島社」の古写真・・・・

DSCN3902_convert_20170317152014.jpg DSCN3907_convert_20170317152344.jpg

「川中島」(現:清流)の集落の入り口に到着!
ここに史跡の説明板があった。

DSCN3903_convert_20170317152058.jpg

DSCN3904_convert_20170317152137.jpg

日本人警察官が訓示をしているところ・・・・
整列しているのは、ここに収容された原住民たちではないかと思うが、後姿は日本人のようにしか見えない・・・
当時の服装がよくわかる写真でもある。

DSCN3905_convert_20170317152222.jpg

さっきの看板の写真より、ちょっと見やすい当時の「川中島社」の写真・・・

DSCN3906_convert_20170317152302.jpg

これは「霧社事件相関地点位置図」と書かれていた霧社事件関連の史跡の地図と写真・・・・
「斯固部落(雲龍鐵橋左上方)」と書かれているが、斯固は、もしかしたら斯克(スーク)社のことではなかろうか?
「馬赫坡(マヘボ)部落」は現在の廬山温泉ということで、間違いはないが・・・
現在廬山部落となっている場所、昔の坡阿崙(または波亞倫)(ボアルン)社のことだろうが、この地図では、廬山温泉から更に奥地のかなり離れた場所に位置している。
ということは・・・廬山温泉に行ったときに見た集落は、あれはボアルン社ではなく、マヘボ社の一部か、もしくは戦後に開拓された集落なのかもしれない。
こういう史跡の案内板があるのに有効に利用できず残念・・・・

この説明板によれば、1931年(昭和6年)5月6日に、生存者298名が、ここに強制移住させられたらしい。
それから6年後には住人は230人となったと書いてある。
キュウさんの話では、現在の人口も約230名とのこと。
人口が増えないのではなく、若い人たちはみんな都会に出て行ってしまい、残っているのが230人とのことだそうである。
で・・・村の祭りのようなときには、戻ってくるので、非常に賑やかになるとか・・・
う~ん・・・どこでも同じだね・・・(苦笑)

DSCN3908_convert_20170317162520.jpg DSCN3909_convert_20170317162843.jpg

集落の前には川が流れており、そこに「清流橋」という橋が架かっている。
で・・・橋を渡った先に車が待っているはずなのだが・・・・いない!(唖然)
どこにも車がいないのである!(大汗)
いったい、何をしていやがるんだ!・・・・とキュウさんじゃないけど、ガイドに文句を言いたくなる。(怒)
仕方がないので、周囲をブラブラするが、いつまで経っても現れない・・・

DSCN3913_convert_20170317162558.jpg(「清流」(旧:川中島)部落の入り口)

待つこと20分・・・・ようやく車が現れた。
どこに行っていたのやら・・・であるが・・・
“お客さん”を20分も放置しておくって、どういうこと?(怒)
ガイドは「さぁ、じゃぁ、行きますか!」とケロケロとしている。

で・・・車内に乗り込んで気が付いた・・・
拙者はカバンを車内に置いたままだったのだが、そのカバンの位置が変わっている・・・(大汗)
たぶん、彼のことだから拙者のカバンの中身を見たに違いない。
カバンの中には日本から持参した資料や、ノート類等々が詰まっている。
わざと、カバンの各ポケットを確認して、試しに首をかしげて見せたら、ガイドがソワソワして明らかに焦っている・・・(大笑)
やっぱり・・・・カバンの中身をいじったな・・・
迂闊にも車内にカバンを置いたままにしたのがいけなかったのだが・・・
こういうことをしては信頼関係を壊してしまうということがわからないのだろうか?
彼は漢人(中国人)だから仕方がないか?

とくべつ何かを盗まれたわけではないが、断りもなくノートや資料を勝手に見られたのでは気分が悪い。
彼は人は悪くないのだが、思慮浅い・・・調子はいいんだけどねぇ~(大笑)
キュウさんが説明しているのに口を挟んで話の腰を折るし、客を20分も路上に置き去りにするし・・・(苦笑)
困ったガイドである・・・(涙)
高いカネを出して雇ったのに・・・これではねぇ~(苦笑)
参った・・・・

旅行 | 10:06:51 | Comments(0)
モーナ・ルーダオの生家跡に行く
霧社から更に奥地に向かう・・・・
向かう場所は「廬山温泉」・・・・
そこに、事件の首謀者とされるモーナ・ルーダオの生家跡があるらしいので今回の予定に入れておいた。

DSCN3700_convert_20170207104233.jpg

途中、「雲龍橋」という橋のところで下車して見学する。
この橋は史跡らしい。
が・・・ガイドの話が要領を得ない・・・・(苦笑)
史跡の説明板があったので読んでみるが中国語である・・・(涙)
この文章を、そのまま日本語に翻訳して欲しいのだが、ガイドは自分の知識だけで説明するので、よくわからない・・・(涙)
マイペースなんだよなぁ~(苦笑)

しかたがない・・・想像力を駆使しながら自力で読むしかないか…(苦笑)

説明板によれば・・・・
日本統治時代に斯庫部落(スーク社)の下にある濁水渓という川の畔に架けられた橋が前身のようである。
当時は、「斯車鐵線橋」と呼ばれていたらしい。
「鉄線橋」という言葉は聞いたことがあるが、どうも日本でいう「吊り橋」を指すのではないかと思われる。
で・・・このスーク社(斯庫部落)は「廃社」と書かれているから、現在は消滅しているという意味だろう。
この橋の西には賽徳克族(セデック族)のSUKU部落(スーク社)とGUNGU部落があるという。
わからないのは、このGUNGUの発音・・・(苦笑)
霧社の11社の部落に、このGUNGUに当てはまる発音の部落(社)がないのである。(涙)
このGUNGU部落は、現在は春陽部落と呼ばれているらしいのだが・・・・
東にはBOWARUNG部落と、MEHEBU部落がある。
BOWARUNG部落は「ボアルン社」のことで、MEHEBUは「マヘボ社」のことだろう。
ボアルン社は現在は廬山温泉部落と呼ばれているらしく、マヘボ社は現在の廬山温泉だと書いてある。
が・・・う~ん・・・「廬山温泉部落」と「廬山温泉」とは、どこがどう違うんだろう?(苦笑)
1930年10月、霧社事件が「爆發」したとき、「抗日領袖」だったMONA-RUDAW(莫那魯道=モーナ・ルーダオ)は、日本軍に追われて「敗退」するときに、この橋を「吹断」して(吊り橋を切り落としたという意味か?)日本軍が川を越せないようにしたと書いてある。
1949年、「台湾光復後」に、「龍雲将軍」という人が、橋を再建したらしく、「龍雲橋」と名付けられたと書いてある。
その後、再び名前が変わり、「雲龍橋」となったらしいが、その理由は・・・読んでも意味が分からなかった。(苦笑)

DSCN3705_convert_20170207114417.jpg

当時の吊り橋の“主塔”部分が残されていて、そこに「雲龍橋」と刻まれている。
この橋の主塔が、どうも「史跡」らしい・・・
霧社事件当時の橋は、どのあたりにあったのかは全く分からない・・・
この橋は戦後に建てられた2番目の橋ということになるか?
説明文では、1972年に南投縣政府が、山地人(原住民)の交通の便を良くするために吊り橋を建設したというようなことが書いてある。
ん?・・・ということは、その時の橋がこれなのか?
よくわからん・・・
そうなると、この「雲龍橋」は3番目ということになるのか?
説明板によれば、「但」し・・・「小車」しか通行できないので、「大型車」に乗っている「遊客」は、ここで下車したという。
このため、「人車分離方式」の「座橋」を建てたらしい。
これが現在の「道路橋」ではないかと思うが、「人車分離」の「歩道」のほうは、どこにあるのか・・・見当たらなかった。(苦笑)
どうも、拙者の和訳も、最後の方になると怪しいものである。(大笑)

DSCN3701_convert_20170207132929.jpg DSCN3707_convert_20170207132430.jpg

DSCN3709_convert_20170207132621.jpg DSCN3708_convert_20170207132549.jpg

橋のところに銅像が・・・(大喜)
男女の像であるが、服装から想像すると賽徳克族(セデッック族)ではないかと思うが・・・・
セデック族は、泰雅族(タイヤル族)の中の一つで、タイヤル族の亜流である。
以前は「タイヤル族」とされていたが、2008年に原住民の「セデック族」として台湾政府に認められた。
で・・・特徴は、顔に刺青(いれずみ)を入れているのだが・・・
この銅像の顔には刺青らしきものが見当たらない。
なんでだろう?
日本統治時代に、この刺青については厳しく禁止されたという。
そういうわけで、この顔に刺青を入れるという風習は現在では無くなったので・・・・それで銅像にも刺青を描かなかったのかも。

橋を渡り、トンネルを抜け・・・さらに山奥に向かう・・・

ガイドの話によれば、廬山温泉は、2009年に集中豪雨に遭い、壊滅的な被害を受けたという。
で・・・今では、廃墟と化しているというのだが・・・・
行って見たら、そんな風には見えない・・・(苦笑)
ごく普通に営業しているように見えるんですけど・・・(汗)

DSCN3755_convert_20170210111936.jpg

DSCN3710_convert_20170209102243.jpg

吊り橋を渡って、向こう岸に向かう・・・

DSCN3711_convert_20170209102326.jpg

結構、この吊り橋・・・怖いのである・・・(大笑)
拙者は高所恐怖症なのである!(大涙)
先を行くのはガイド・・・
揺らすなって!(怒)
あんたがドッシンドッシンと歩くと揺れるんだって!(怒)
向こう岸から中国人観光客の団体がやってきた!(大汗)
渡るなよ!来るなよ!・・・と言いたいが・・・中国語が話せない・・・(大汗)
橋の真中を歩くのもやっとだというのに・・・橋の上ですれ違うのかよぉ~(涙)
ゲゲッ・・・顔面蒼白である。(大笑)
キャーキャー騒ぎながら渡ってきた中国人観光客たちと橋の上ですれ違う・・・
お互いに橋の端を歩かねばならない・・・
言葉が通じないので、お互いに表情で“会話”・・・・
「怖いよねぇ~」(大笑)

DSCN3712_convert_20170209104336.jpg

橋を渡った先の温泉街・・・・
どことなく昔の日本のような・・・そんな感じのする温泉街である。
ん?ちゃんと営業してるじゃないか?壊滅なんかしてないじゃないか?
閑散としていてお客さんの姿は見当たらないが・・・(笑)
だいたい、どこでも温泉街って昼間は閑散としてるんだよねぇ~
賑わうのは夜でしょ?(笑)

旅館と旅館の間の狭い路地から奥の山に向かって歩く・・・
ダラダラのなだらかな坂なのだが、こういう坂が実は歩いていて、運動不足の拙者には非常にキツイのである。(涙)
その景色を撮影したいが、先を歩くガイドが邪魔で写真が撮れない・・・(涙)

山奥に入り込んで約10分・・・道に迷った・・・(笑)
どこにもモーナ・ルーダオの生家跡らしきものは見当たらない。
「帰りましょう!」とガイドが言う。
いや、いや、ちょっと待て・・・ヘトヘトになりながら登ってきたのである。
ここで諦めて帰るわけには行かない・・・
が・・・ガイドは勝手に山を下りようと先に歩き出した・・・(唖然)
と・・・・見っけ!(喜)

DSCN3713_convert_20170209113601.jpg

道標を見つけた!
ガイドはどこを見て歩いてるんだよ!(怒)
これに気が付かないとは・・・(汗)
「往莫那魯道紀念碑」と書いてあるじゃねぇか!
「こっち!こっち!」とガイドを呼び戻す。

更に山道を登ること約5分でモーナ・ルーダオの生家跡に到着する。

DSCN3722_convert_20170209120530.jpg

ここがどうも生家跡らしい・・・

DSCN3715_convert_20170209114421.jpg DSCN3716_convert_20170209114510.jpg

紀念碑には・・・
「抗日英雄 
莫那魯道 紀念碑 
仁愛郷長 沈明徳 題
中華民國八十二年九月五日立」
・・・とある。
「中華民国八十二年」は、1993年、日本では平成5年である。

後ろにある建物は、復元された生家というわけではなさそうである。
「莫那魯道紀念館」という看板が取り付けられていたが・・・
どうも日本でいうところの「神社」「社」という感じである。
内部を見たら・・・・こんな感じ・・・・

DSCN3719_convert_20170209120221.jpg

「紀念館」だけど・・・資料のようなものの展示は何もない・・・(苦笑)
祭壇らしきものがあるだけ・・・・
神様として祀っているということだろうか?

「往馬赫坡古戦場」という道標を見かけたが、「古戦場」って何だろう?
どうも、この生家跡の脇の道を通って更に奥地に向かうらしいが・・・
ガイドに尋ねたら「知りません」とのこと・・・(唖然)

今日はやけに暑い・・・
山地なので、少し肌寒いかと思っていたが、山道を登ったせいか暑くてたまらん。
拙者の出で立ちは、ジャケットにスラックスに革靴である。(笑)
ジャケットなんか着ていられない・・・まるで初夏の暑さか残暑なみの暑さである。
ガイドはTシャツを脱いで上半身裸で、拙者の前を歩く・・・
やめろって・・・その格好・・・(涙)
上半身裸の男が写真に写りこんじゃうじゃねぇか・・・そんな写真、使い物にならなくなるんだけど・・・(涙)

DSCN3723_convert_20170209120605.jpg (来た道を振り返って写す)

DSCN3724_convert_20170209120655.jpg (遠くに見えるのが廬山温泉)

ガイドが「別のルートを通って帰りましょう!」と言って歩き出した・・・
途中で人の顔を彫った石を見つけた。

DSCN3726_convert_20170209133406.jpg DSCN3730_convert_20170209133634.jpg

石像の前にある看板を見たら「馬赫坡原址」と書かれていた。
おお!・・・ここが馬赫坡(マヘボ)社跡なのか!(驚)
事件当時のマヘボ社の家の数は54戸、人口は231名(男113名、女118名)だったという。
ごく平均的な規模の集落である。
で・・・モーナ・ルーダオは、そのマヘボ社の頭目であり、事件の首謀者である。
その生家がある場所なんだから・・・この周辺がマヘボ社だというのは当然か・・・(笑)

DSCN3731_convert_20170209135959.jpg (マヘボ社跡周辺)

今は、集落らしきものは何もない・・・・完全に消滅している。
まぁ、“抗日集落”だから仕方がないか?
54戸の家はどのあたりに建っていたのだろう?

来た時とは別のルートで、更に山を下る・・・・

DSCN3733_convert_20170209140050.jpg DSCN3735_convert_20170209140123.jpg

山を下ること10分程度で麓の集落に出た・・・
「地熱井(廬山温泉)」という看板のある場所を見つけた。

DSCN3736_convert_20170209154134.jpg

「地熱井」って・・・温泉の源泉のことだろうか?
ここが「廬山温泉集落」ということであれば、事件当時、ここには「ボアルン社」があったということになる。
事件当時のボアルン社は48戸、人口は192名(男97名、女95名)だったという。
この上の方にあったマヘボ社より、ほんのちょっとだけ小さい集落だったということになるが・・・・

DSCN3744_convert_20170209154816.jpg

DSCN3742_convert_20170209154746.jpg DSCN3743_convert_20170209171546.jpg

この集落のメイン通りのところに、今度は女性の顔の石像があった。
説明板には「女紋面石像」としか書かれていない。
「ボアルン社跡」というようなことが書かれていない・・・
どこかに「址碑」でもないかと見渡したが見当たらなかった・・・
でも、ここはボアルン社跡のような気がするんだよなぁ~・・・・単なる勘だけど・・・(苦笑)

この人面の石像の顔には刺青(イレズミ)が彫られていた。
この刺青は、男性の場合は勇敢を表わし、女性の場合は機織の技術を持っていることを表わしている。
ということで・・・この人の場合は、機織の技術を持っている・・・ということになるな。(笑)

DSCN3746_convert_20170209172350.jpg

どう見ても、日本家屋にしか見えない建物があった。
これは何に使われているんだろう?
一般住宅というより、集会所のような気がしないでもないが・・・・

この家の前に近代的な設備が・・・(笑)

DSCN3747_convert_20170209172425.jpg

説明板によると「経済部中央地質調査所衛星連讀追蹤站―警光山荘站」と書いてある。
さて、これを訳してもらおうと思ったのだが・・・ガイドがいない!(驚)
彼は山歩きが趣味だと言っていたが・・・・
わき目もふらず、スッタ、スッタと先に歩いて行ってしまったのである!
役に立たねぇなぁ~(怒)
こっちはウォーキングに来ているわけじゃないんだけどなぁ~
自分の趣味を優先するとは困った男である。(怒)
しかたがない・・・またもや自力で訳すしかないか・・・
どうやら、この設備はGPSらしい・・・(笑)
ここ十数年、この廬山温泉周辺では、台風や豪雨などで地盤に問題が発生していたようである。
「大規模岩體滑動」とか「滑動」という文字が何度も出てくる。
滑る?動く?・・・・地盤がずれるとか崖崩れを起こすとか・・・そういう意味かもしれない。
で・・・ここ廬山温泉の旅館と住民の安全のため、この機器を設置して、地盤のずれを観測し、「防災」と「預警的資訊」のために情報を提供する・・・とかって書いてあるようである。(汗)
ここのほかに、かなり離れた山の中に2ヵ所、同じ観測機器を設置しており、その配置図が描かれていた。
なんと丁寧な・・・(笑)
3点でGPS測定をして、地盤の変動を調べて警告を出すということだろう。
へぇ~・・・大したものだ・・・と感心・・・

DSCN3749_convert_20170209172522.jpg

さらに道路わきに葉っぱの形をしたものを見っけ!
何だろうと思ったら、字が彫られている・・・・説明板である。(笑)
これもまた自力で翻訳せねばならない・・・(涙)
「仁愛郷廬山」についての説明文のようだ・・・
それによると、「廬山温泉」というのは、昔は「富士温泉」と呼ばれていたそうだ。
廬山温泉は霧社から東北へ「9公里」の場所に位置するという。
「9公里」って何キロメートルなんだ?・・・・9キロメートルでいいのかな?
尋ねたくともガイドがいない!(怒)
日本統治時代は日本軍人傷病兵の療養場所として使われていたらしい。
その後に、この場所が自然に恵まれた非常にいい場所だとか、温泉の効用について書かれていた。

DSCN3751_convert_20170210111828.jpg

再び吊り橋を渡って対岸に戻る。
モーナ・ルーダオの生家跡から、ここまでゆっくり歩いて約20分である。

橋を渡ったところで、ふと目についた・・・・
地図である!

DSCN3753_convert_20170210111901.jpg

ここに地図があったじゃないか!
スタスタと歩いて行っちゃうから見落とすんだよな!(怒)
この地図に「古戦場」が描かれていた。
そこにはモーナ・ルーダオの銅像が建っているらしい・・・
あ~あ~・・・・何が「知りません」だよぉ~(涙)
あの奥に、もう少し歩いていけば良かったんだよなぁ~
今更、もう戻る気は起らないし・・・(涙)
大失敗である!!(大涙)

「古戦場」と呼ばれるのは、モーナ・ルーダオ一族が最後にいた場所ではなかろうか?
事件後、日本の武装警察官隊と応援に駆け付けた日本陸軍により彼らは追い詰められていく。
どこかの洞窟にいたらしいが、その入り口に日本軍の砲弾が降ってきて死傷者が出た。
確か、弟か誰かが死んだと思う。
そこで、洞窟を出て向かった先がこの「古戦場址」と呼ばれる場所ではなかろうか?
そうだとすると・・・ここには小屋があり、そこでモーナ・ルーダオは一族の者たちに自殺を命じる。
次々と自殺をする中、モーナ・ルーダオの妻と子供が自殺をためらったので、彼が自分の手で殺害したという。
死体の首を刈られるのを避けるため、ここにあった小屋に火をつけて遺体を焼き払い、自身は山の中に入って自殺したという。
これが通説だが・・・・
その小屋があった場所、つまり一族が自殺した場所が「古戦場址」なのではあるまいか?
現地に行けば、説明板か何かがあるだろう・・・
あ~失敗した!(涙)
再訪問するしかないかぁ?
この廬山温泉にでも宿泊して、ここを拠点に歩くしかないか?

それにしても、この一族の最後の「説」には、拙者は個人的に疑問がある。
当時の彼らの「自殺」は「縊死」・・・つまり「首吊り」が一般的である。
その昔、日本でも「割腹」「切腹」が自殺・自決の一般的な方法であったのと同じようなもので・・・
彼らは、大木の枝で首を吊って自殺するという方法が一般的であったという。
これは私論であるが、山の中の檜(ひのき)は先祖の精霊が宿っている神聖な木という彼らの「信仰」に関係しているのではなかろうか?
そこで木の枝に縄をかけて首を吊るのではあるまいか?
実際、この事件で追い詰められた原住民たちの多くは首を吊って自殺をしている。
表現が不適切だとは思うが、まるでクリスマスツリーの飾りつけのように、一本の木のいくつもの枝に何人もの遺体がぶら下がっているのが発見されている。(当時、日本軍もしくは日本人が撮影したと思われる、その写真も残っている)
にもかかわらず・・・なんで小屋の中で自殺するんだろう?
周囲は山である・・・いくらでも木があるんだけど・・・
そして、首謀者も、同行していた一族も全員自殺したというのに、一体だれが、これを見て後世に最後の様子を伝えたのだろう?
不思議である・・・・

もう喉がカラカラである・・・
そのへんのお店に入ってコーヒーでも飲もうか?
ガイドが「おいしいコーヒーのお店がありますから、そこへ行きましょう」と言う。
そんなお店が、こんな山奥にあるのか?(苦笑)
とにかく車に乗り込み走り出す。
霧社のすぐ近くまで戻り、町には入らずそこから別の道を通り山を登っていく。
「すごく景色のいい場所があるので、案内します」とガイド・・・・
「いや、それより喉が渇いてるんだけど・・・何か飲みたいんですけど・・・」
「はい、コーヒーですよね?おいしい店に案内します」
しかし・・・彼の様子を見ていると、どうもお店を知っているようには見えない・・・(汗)
キョロキョロして、適当な店の前に車を止める・・・・
山の中腹にレストランが・・・
行って見たら休業だった!(唖然)
2軒目の店も休業!(怒)
さすがに腹が立ってきた!
「どこでもいいから入れ!喉が渇いてるんだって言ってるだろ!」(怒)
ようやく開店しているレストランを見つけ入る・・・

DSCN3762_convert_20170210134933.jpg (レストラン)

このレストラン・・・標高2044メートルにある。(そう看板に書いてあった)
で・・・・コーヒーは?
ガイドに尋ねてもらったら・・・「ありません」と言う。(唖然)
どこが「おいしいコーヒーが飲めるところに行きましょう」だ?(怒)
缶ジュースならあるというので、コカ・コーラを飲むことにした。
廬山温泉を出て約1時間後に、ようやく水分補給ができた。
結局、コーラを飲む羽目になるなら温泉街の店で良かったんじゃないか?

このレストランには展望台が併設されていた。

DSCN3761_convert_20170210161940.jpg

目の前に広がる山々は3000メートル級の山々である。

DSCN3756_convert_20170210162035.jpg

「すごいでしょ~!この景色!」とガイドは大喜びなのだが・・・・
彼はトレッキング、山歩きが趣味だそうだが、拙者は正直言って、「景色」には、それほど興味はない。(苦笑)
彼は決して悪い人間ではない。
気さくではあるが・・・軽いのである・・・・「無神経」に近い・・・(大笑)
自分がガイドであることを完璧に忘れている。
これじゃ、ガイドを付けて旅行をしているのではなく、台湾人の友人と二人で旅をしている感じ・・・
おい、おい、勘弁しろよ・・・・である。(苦笑)

DSCN3759_convert_20170210162106.jpg DSCN3760_convert_20170210162132.jpg

ここで、しばらくボ~ッと山を眺めることとなったが・・・・
時刻は午後3時・・・
「もう、山を下りましょう!」と声をかけ、無理やり移動することにした。(笑)

帰る途中、横道にそれた・・・
どこへ行くのかと尋ねたら、「原住民の村があるので、そこへ行く」と言う。
車1台がやっと通れるような狭い山道を延々と走るが、そのうちデコボコ道となり、とても乗用車じゃ走れない道となった。
ちょうど工事車両が来たので尋ねたら、この先は乗用車じゃ無理とのこと。
そうだろう?・・・・どう見てもそうだろう・・・(苦笑)
延々と走ってきたが、結局Uターンする羽目となる。
本当に、この先に原住民の村なんてあるのかね?
このガイド・・・調子がいいだけに信用できない・・・(大笑)
部落名を尋ねても、要領を得ない答えなので、なおさら怪しい・・・・(苦笑)
それにしても、大きく時間を無駄にしてしまった・・・(泣)
陽が沈み始め、まもなく山に沈む・・・・
今日は、ここまでだな・・・・(汗)

霧社に戻り、課長に会ってご挨拶・・・・
廬山温泉に行ってモーナ・ルーダオの生家跡に行った話をしたしたが「ふ~ん」の一言で終わり・・・(苦笑)
自分の“影響力”の及ばないところに行かれたのが面白くないという感じ・・・・
山の展望台へ行った話をしたら・・・・「あ~“見晴らし”に行ったのか」と言う。
「え!あそこが“見晴らし台”?・・・・そんな話、俺は聞いてねぇぞ!」とガイドに言ったら、焦っていた。
どうも彼は何も知らずに拙者を連れて行ったらしいことが、これでバレた。(苦笑)
“見晴”もしくは“見晴台”は、日本統治時代に名付けられた地名である。
確かに見晴らしがいい場所である。(笑)
「あの場所にたくさん建物が建っていただろ?レストランとか・・・あれは、全部、無許可で建てた不法建築なんだ」と課長。
中国人がやって来て勝手に家を建てて住み着いたというのである。
ちなみに、課長は建設課の課長である・・・(大笑)
「なんで取り締まらないんですか?」と尋ねたら、「政治的にいろいろあるんだよなぁ~」と言葉を濁す。
彼らが本省人(第二次世界大戦前から台湾に住み着いている中国人)なのか、外省人(第二次世界大戦後に大陸から来た中国人)なのか、どっちだったかは忘れたが・・・・
課長は、かなり苦々しく思っているようで・・・「あいつら・・・」を連発する。
もともとの原住民からすれば、そう言いたくなるのもわかる気がする。
山は原住民のものである・・・・ということだろう。
「霧社を仁愛郷なんて、変な名前に変えることが気に入らん!」としきりと言っていたくらいだから・・・(苦笑)
話し出したら、とにかく鼻息が荒くなる・・・(汗)
これは原住民の性格なのだろうか?
ちなみに課長はセデック族である。(笑)

明日は「川中島」という場所に行く予定。
課長が川中島も案内してやりたいが、仕事の都合でどうなるかわからないという。
明日は、明日になってから決めましょうということで別れる。

霧社を出て埔里に向かい、途中で見つけた喫茶店に入り、ようやくコーヒーが飲めた。(苦笑)

午後5時、ホテルに戻り一休み・・・
午後6時、ホテルから徒歩で町の中をウロウロ歩きながら、夕食場所を探す。
歩いてみると、結構、大きな町だということに気が付く。(笑)

最終的に、ちょっと洒落た店構えの店に入ることにした。
どうも“丼ぶり”の専門店らしい。(笑)

DSCN3764_convert_20170213170235.jpg

店内は若いアベックばかり・・・(唖然)
男二人なんていうのは我々だけである。(大汗)
ん?台湾では「丼ぶり飯」がデートのディナーなのか?(笑)

DSCN3763_convert_20170213170310.jpg

で・・・拙者が頼んだのが、これ・・・(汗)
丼ぶりではない・・・(大笑)
アベックたちが食べているのと同じものを頼みたかったのだが・・・何を頼んじゃったのかなぁ~
全くガイドが役に立たぬ・・・・(涙)
「これがいいんんじゃないですか?」とガイド・・・
「あの人たちが食べている丼ぶりがたべてみたいんだけどね」
「これ、いいですよ。これ、美味しそうですよ」
「これ?じゃぁ、これにするか」・・・と言ったのが、そもそもの間違い。
丼ぶりかどうか確認しなかった・・・(涙)

今日は山を歩いたし、クタクタである。(笑)
マッサージでも頼もうかと思ったら、「無い」と言う・・・(涙)
しかたがない・・・午後10時半に就寝となる。(大笑)

旅行 | 20:24:04 | Comments(0)
事件現場に行く
町のメインストリートから脇道に入り、少し坂を下ったところに「自然史教育館」がある。
ここを訪ねてみたいと、当初から予定していたので・・・・ここに向かう。

DSCN3622_convert_20170120164651.jpg (自然史教育館)

ここは「自然史」と名付けられているが、「霧社事件」に関する展示や先住民族に関する展示もあるので、どちらかというと「郷土史資料館」ということになるのではなかろうか?
名前だけで判断して見学しないと損をすることになる。(笑)

DSCN3619_convert_20170120171703.jpg

DSCN3598_convert_20170120170531.jpg

DSCN3593_convert_20170120170414.jpg

「霧社事件」の首謀者とされる莫那魯道(モーナ・ルーダオ)の写真・・・・(中央の人物)

DSCN3604_convert_20170120170735.jpg

蜂起した先住民族を討伐するため出動し、霧社に向かう途中の日本の部隊・・・・
写真には「日人部隊」と書かれていたが、服装からみて「武装警官」だと思う。

「霧社事件」に関しては、中国語と英語併記のパネル展示のみだった。
隣りの部屋には、かなりのスペースを割いて、先住民族に関する展示があった。

DSCN3614_convert_20170120170936.jpg DSCN3615_convert_20170120171027.jpg

各部族の民族衣装や生活品、祭祀品等々・・・・
なかなか貴重なものも展示されていた。
う~ん・・・台北にある先住民族博物館に展示されているものと肩を並べられるようなものも展示されていた。
こりゃ、すごい・・・・
嬉しいことに、この「自然史教育館」は入場無料!(喜)
他にお客さんがいなかったので貸し切り状態!(大喜)
受付には若い可愛い女の子が一人いて、拙者がじっくりと時間をかけて先住民族の展示品を見ているのが珍しかったようで・・・・(大笑)
ちょこちょこ、展示室を覗きに来てはニコニコしていた。(笑)
言葉が通じないので、身振り手振りでしか意思の疎通ができないが・・・
「これ、すごい!」「はい!そうです!」ってな調子である。(笑)

DSCN3621_convert_20170120171802.jpg

ここにも「機織機」が展示されていた。
フィリピン、インドネシア、台湾等々、アジア各国の「郷土資料館」的な博物館に行くと必ずと言っていいほど「機織機」が展示されている。
各国とも、多少の違いはあるが、基本的な原理は同じである。
一体、どこの誰が最初に「機織機」を考え付いたのだろう?
毎回、「機織機」を見かけるたびに思うのである・・・・

「自然史教育館」の見学を終え、可愛い受付の女の子に笑顔で見送られ・・・(笑)
目の前の「愛国小学校」のグラウンドを横切って、「抗日紀念碑」に向かうことにする。
で・・・小学校の校舎の正面で見かけたのが、この銅像・・・・

DSCN3623_convert_20170120175243.jpg DSCN3624_convert_20170120175315.jpg

顔に先住民族のイレズミが描かれていたので、先住民の偉い人かなと思ったのだが・・・・
あとで課長に尋ねたら、蒋介石の銅像に誰かが落書きしたのだという。(唖然)
それ・・・マズイんじゃないの?(苦笑)
台湾で蒋介石の銅像に落書きしたのでは・・・(大汗)
ここは先住民族の土地だ!・・・という先住民族によるアピールなのかな?

この学校と道路を挟んだ反対側に「莫那魯道(モーナ・ルーダオ)公園」がある。
ここには23年ほど前に来たことがあるが・・・・
あれぇ~・・・ずいぶんと変わったなぁ~(苦笑)

DSCN3626_convert_20170128155638.jpg

現在は、公園の前の道は舗装され、幹線道路のようになっていて交通量もあるが、当時は“裏道”のような場所で、滅多に車が通ることはなかった。
ちょうどカーブのところに車を止めて見学したことを覚えている。
あの時は、台北から一人で飛行機に乗って台中空港まで行った。
今になって思えば、中国語しか通じない国内線によく一人で乗ったものだと思う。(大笑)
台中空港(といっても、ただの原っぱみたいな飛行場だったが・・・)からガイド兼運転手の車に乗ってここまで来た。

DSCN3625_convert_20170128161641.jpg DSCN3609_convert_20170128161557.jpg

右の写真が、「自然史教育館」に展示されていた古写真。
この公園が出来たばかりの頃の写真である。

DSCN3629_convert_20170128160256.jpg DSCN3633_convert_20170128160358.jpg

公園の中には、「抗日原住民」の像が建っていた。
23年前にはなかったが・・・・
ただ、ちょっと違うかなぁ~という気がする。
まず、蜂起したのは各原住民中でも普段からの戦闘要員でもある成年男子の「壮丁」たちだったはず。
その壮丁の人数は各社の戸数とほぼ同じ・・・1軒に一人・・・という感じである。
というわけで・・・例えば、マヘボ社の場合は、戸数が54軒で、壮丁の数は53名となっている。
この銅像には女性や子供も入っているのだが、事件に女性や子供が加わっていたという話は聞いた覚えがない。
日本人に石を投げつけようとする少年と、片手に短剣を握った母親らしき女性の像が加わっているのだが・・・
これはあり得ないだろう。
“中国人(漢人)”特有の歴史の改竄か?(苦笑)
女子供も日本人に抵抗したのである・・・ということにしたいのだろう。

DSCN3640_convert_20170128160643.jpg

ここに事件の首謀者とされるモーナ・ルーダオの像も建っていた。
民国86年に建てられたようなので、拙者がここに来た4年後に建てられたようである。
「抗日英雄」と刻まれている。
これは立場の違い・・・・日本にとっては犯罪者だが・・・・異論はない。
彼らにとっては「英雄」だろう。

役所で一仕事を終えた課長が公園にやってきて再び案内をしてくれた。

DSCN3648_convert_20170128170213.jpg (「霧社山胞抗日起義紀念碑」)

DSCN3650_convert_20170128170340.jpg DSCN3596_convert_20170128170441.jpg

モーナ・ルーダオの墓・・・・
左の古写真は「自然史教育館」に展示されていた写真で、台北で骨格標本とされていたモーナ・ルーダオの遺骸を持ち帰り、ここに納めるところを写したものである。

続いて向かったのは、事件現場である「霧社公学校」跡である。
事件当日、ここで運動会が開催されていた。
日本人の子供たちが通う尋常小学校と、原住民の子供たちが通う公学校、それに各地にある「蕃童教育所」の子供たちの合同運動会である。
ちなみに、「蕃童教育所」は、いわば分校のようなもので、教師は各駐在所の日本人警察官が行っていたという。
当時、ここにいた子供たちは日本人、台湾人、原住民(先住民族)あわせて289人だったという。
これに日本人の父兄が約100人、台湾人約50人、原住民約100人が見物に集まっていたようである。
そこへ各地の駐在所を襲った後、各社の壮丁が会場になだれ込み、片っ端から日本人だけを殺害していったのである。
この決起に参加した壮丁は約300人と言われている。
当時の霧社地区の各社の総計は、597戸、男女合わせて2178人だったので、抗日の社(反抗蕃と称する)の壮丁だけで300人程度になるから、壮丁による決起ということになる。
各社の住民、女子供全員が参加したわけではない。
というわけで・・・紀念公園に建っていた、あの銅像はおかしいのである。

DSCN3659_convert_20170130120806.jpg

ここが「霧社公学校」の跡・・・
現在は「台湾電力公司 萬大發電廠第二辨公室」となっている。
ここが「霧社事件」の現場である。

DSCN3662_convert_20170130121037.jpg

敷地内に入ってみる。
思ったより狭い・・・・
本当にここで運動会などが開催されたのだろうかと思ってしまうほど狭いのだが・・・
うちの近所の幼稚園・・・
拙者が通った幼稚園だが、園庭はかなり狭い。(笑)
でも、そこで運動会をやったことは間違いなく記憶にある。
大人になったら、やたらと狭く感じるが、当時、幼稚園児の拙者は狭いとは思っていなかった。
ということで・・・ここも同じだろう。
拙者が大人だから狭く感じるだけで、子供たちが運動会を開くには十分な広さだったのだろう。

実は、ここには23年前に一人で来たことがある。
運転手兼ガイドに「事件現場」として案内されたのだが、あまりにも敷地が狭いので、こんな場所が学校だったわけがないと信用しなかった。(大笑)
当時も「台湾電力公司」の事務所として使われていたので、なおさらである。
昔、学校だった場所は、今も学校のはずだと勝手に思い込んでいたのである。(苦笑)

今回、再び訪れて、やっぱりここが事件現場だということを知った・・・(汗)
あの時、素直に信じればよかった・・・(大笑)

DSCN3666_convert_20170130132537.jpg

敷地内のコンクリートの地面に一本の溝が入っている。
課長が「この溝の左側が昔は道路だった場所で、溝から右側が昔の学校の敷地だった」と説明してくれた。
やっぱり・・・(苦笑)
23年前の記憶より、少し敷地が広くなっているような気がしていたのである。

DSCN3664_convert_20170130121105.jpg

敷地内の、この建物・・・・
課長の話では「校長先生の家だった」と言う。
確かに、言われてみれば日本風の建物のような気がするが・・・・
でも、なんか違うような・・・(苦笑)
右側の建物が校長の宿舎だというのだが・・・そうなると左側の建物は何だ?(苦笑)

ここを襲ったのは、約100名の先住民壮丁たちだった。
この校長の家に日本人婦女子が逃げ込み、宿舎の入り口に立った新原校長が一人で日本刀で防戦したという。
が・・・多勢に無勢で、あえなく殺され、暴徒は宿舎内に入り込み、次々と婦女子の首を斬り落としていったという。
大人の中には死んだふりをして助かった女性もいたようだが、子供たち、特に幼児は死んだふりなどできない。
泣き声を上げるので、すぐに殺されたそうだ。
この校長宿舎内とその周辺で約50人が殺され、そのうちの39人が児童と幼児だったという。

なんとも残酷な話だが、それは現在の我々が思う感情であって、彼ら先住民族にとっては、首狩りは普通のことで、一種の文化だったようである。
それが日本の統治により、残酷だからと首狩りを禁止されていたわけで、ストレスは溜まっていただろうねぇ~
嬉々として首を刈ったに違いない。
彼らには、子供だから、幼児だから可哀想という感情はなかったのだろう。
日本でも戦国時代に敵将の首を斬り落としたりしたのだから、あまり台湾の原住民を非難はできまい。
首狩りの風習はインドネシアにもフィリピンにもあった。
もしかして首狩りは古代文明の遺産かも・・・・(汗)

でも、一体、誰が最初に始めたんだろう?

学校の運動会会場では、幼児を含めて17人が殺害されている。
ということは・・・ここで70名ほどが殺されたことになる。

DSCN3656_convert_20170130154553.jpg

現地の説明板に掲載されていた写真。
当時の公学校の校庭・・・運動会会場の写真である。

DSCN3660_convert_20170130120854.jpg DSCN3657_convert_20170130154437.jpg

左の写真も、現地説明板に載っていた写真・・・
運動会会場の入り口の写真である。

事件当日、この会場入り口のところで最初の犠牲者が出た。
菅野政衛という映写技師だそうで、台中州から嘱託をされて前夜の映写会のために霧社に来ていた。
入り口のところに立って運動会が始まるのを見ていたのだろう。
真っ先に首を斬り落とされ、殺害された。
やったのは、スーク社のウカン・パワンという人物だという。
居合わせた日本人警察官が追いかけたところ、途中で首を落として逃げ去ったという。

次に向かったのは、すぐ近くの小高い丘・・・
ここに以前、「霧社事件日本殉難殉職者之墓」という碑が建っていたという。
今は何もない・・・・

DSCN3669_convert_20170130163919.jpg

ここが、その碑が建っていた場所らしい。
今は荒れ果てた公園・・・という感じ・・・・

DSCN3672_convert_20170130164017.jpg

現地の説明板に載っていた写真・・・・
当時は、こういう碑が建っていた。
「墓」と書かれているのだが、「墓」なのかどうかは知らない。
うっかり課長に尋ねるのを忘れた・・・(大汗)
たぶん、慰霊碑のことだと思うのだが・・・どうだろ?
蒋介石たち国民党が大陸を追われ台湾に来て、彼らの手で撤去されたようである。
まぁ~中国人のやることは、そういうことばかりである。(汗)
困った民族である・・・(苦笑)

ここでUターンして役所に戻ることとなる。
途中、バーラン社の案内板を見つけた!

DSCN3675_convert_20170130165912.jpg DSCN3673_convert_20170130165845.jpg

このバーラン社は、今はどうなっているんだろう?
行って見たいのだが・・・・
課長に尋ねたら「ない!」という一言で終わり・・・(唖然)
その後は・・・拙者を置いてガイドと一緒にサッサと立ち去ってしまった・・・・(唖然)
どうも課長の“案内”は雑なんだよなぁ~(苦笑)

DSCN3674_convert_20170130170036.jpg

現地説明板に載っていた写真・・・・
「霧社最大の部落」であると書いてあるんだけど・・・
それが消滅するかねぇ~
どうも信じられないんだけど・・・・

DSCN3676_convert_20170130165958.jpg

たぶん、この道を登っていくと昔のバーラン社に辿り着くんじゃないかと思うんだけど・・・・(汗)

サッサと先を歩く課長とガイドの姿が見えなくなった・・・(汗)
が・・・向かう方向は分かっているから、気にすることはない・・・(大笑)
写真を撮りながらマイペースで後を追うことにする。

DSCN3681_convert_20170130172847.jpg DSCN3685_convert_20170130172915.jpg

まもなく、記憶にある場所に来た・・・・
二股に分かれている、この地点・・・・23年前に来たことがある!(笑)

DSCN3689_convert_20170130172751.jpg DSCN3653_convert_20170130172714.jpg

右側の舗装された道は、現在は幹線道路となっているが、23年前に、この道があったかどうか、記憶にない。
もしかしたら、細い道があったかも・・・
この二股に分かれているあたりに当時は料金所があった。
ここで有料道路の料金を払ったことは鮮明に覚えている。
で・・・左側の坂道を登って行ったのである。
昔のメイン通りは、左側の坂道である。
変われば変わったものだ・・・・
新たな道を付け替えて、昔の道の上には建物がせり出して、昔の道は消滅してしまっている。

DSCN3691_convert_20170131102301.jpg
(坂道を登って振り返ってみる)

この道を走るのに、当時は、お金を払ったのか?(苦笑)
なんで、この道が有料道路だったんだろう?
あれは、霧社の村に入るための「入村料」だったのかな?(大笑)

DSCN3693_convert_20170131102344.jpg

道の両側に住宅が立ち並んでいる。
23年前は、どういう風景だったのか全く思い出せない。
先ほどの台湾電力の事務所が事件現場だと教えられたが、信じられないまま、この道を車で登った・・・
その時に、ふと、思い出した・・・
たしか、何かの本に「暴徒は坂道を一気に駆け下りて会場になだれこんだ」という一文があった。
たしかに、ここは坂道である。
じゃぁ、さっきの場所は、やっぱり事件現場だったのだろうか・・・と思ったことを覚えている。
この道を、100名ほどの暴徒たちが、向こうからこっちに向かって走ってきたのだろう・・・
ちなみに、先を行く人物が、課長!(苦笑)
サッサと一人で歩いて行ってしまうので、会話ができない・・・(苦笑)

DSCN3695_convert_20170131102425.jpg

この坂道をまっすぐ登って、突き当たったのは、役所の駐車場!(唖然)
ここで行き止まりである!
あれぇ~???
23年前は、どうなっていたんだっけ?(苦笑)

時刻は12時を過ぎている。
お昼ごはんを食べよう!(笑)
一度、役所に戻った課長を誘って、役所の目の前にある食堂で昼食を食べることにした。

DSCN3699_convert_20170131104106.jpg

課長が、1冊の書類を持ってやってきた。
先ほど見に行った「霧社事件殉難殉職者之墓」の復元計画書である。
土地の測量図、復元する碑の設計図、見積書等の詳細な計画書である。
すでに復元の許可は貰っているのだそうだ。
で・・・問題は、その資金・・・・
日本円にして、約1000万円かかるという。
どうも日本側からの援助が欲しい口ぶりである。(苦笑)
拙者を案内するより、こっちの説明の方が熱心である。(苦笑)

DSCN3696_convert_20170131114841.jpg

昭和54年(1979年)に靖国神社で霧社事件50周年の慰霊祭が行われたと聞いている。
翌年には、ここ霧社でも50周年の式典が開催されたと聞いている。
この時に、犠牲者の子孫も参列していたはずだが・・・・その方々との交流はどうなっているのだろう?
その方々に先に話を持っていくのが筋だと思うが・・・・
課長に尋ねてみたが、要領を得ない・・・歯切れの悪い回答だった。

DSCN3698_convert_20170131104028.jpg

食後、課長は一旦、役所に戻るので「少し待っていろ」と言う。
いや、いや、もう充分である。(苦笑)
待っている時間がもったいないし・・・・次の予定もある。
申し訳ないが、霧社の案内は、これで十分ということでお別れする。

旅行 | 16:43:35 | Comments(0)
霧社の役所巡り?(苦笑)
DSCN3536_convert_20170113163234.jpg DSCN3537_convert_20170113163313.jpg
(部屋から見た景色)

午前6時30分起床。
7時30分にホテル内のレストランに行ったら誰もいない!(大汗)
レストランは休みなのかなと思ったら、フロントの女の子が吹っ飛んできて中国語で何か言ってる。(苦笑)
拙者は中国語がわからないんですけど・・・(大汗)
どうやら「レストランはオープンしていますから、どうぞ」と言っているような・・・(勝手な想像だが・・・)
しかし、食べるものが、ほとんどない!(苦笑)
コーヒーは昨日作ったものかと言いたくなるくらい〝ぬるい”・・・(涙)
ほとんど水と同じ温度には参った・・・(大泣)
食べられそうなものは・・・キャベツを茹でたもの・・・
これは、なかなか美味しかったので〝おかわり”する。
薄い食パンと茹でたキャベツと〝ぬるい”コーヒーが今日の朝食である!(大笑)

午前9時、ホテルを出発!
「埔里」の町を抜けて山に向かい30分ほど経ったころ、「人止関」に到着した。
山の中の、ちょうど道路がカーブしている場所に「記念碑」が建っていた。
他の車には大いに迷惑をかけてしまうが、カーブの先に車を止めて記念碑のところに向かう。

DSCN3542_convert_20170113170811.jpg DSCN3541_convert_20170113170726.jpg

DSCN3538_convert_20170113170856.jpg

この「人止関」は、文字通り「人を止める関」なのである。
ここが「平地民」と「山地民」の居住地の境界線・・・・
平地から勝手に山地に入ってくると、このあたりで首を刈られて殺されてしまったらしい。
ということで・・・昔から、このあたりでは“戦闘”が行われている。
「霧社事件」が起こった時にも平地の「埔里」からこの道を通って「霧社」に日本の武装警官隊や日本陸軍の将兵が向かった、平地から「霧社」へ向かう唯一の“道路”・・・・
が・・・あれ?・・・なんか雰囲気が違う。
古写真を見たことがあるが、山の中の“切通し”のような感じの場所と思っていたのだが・・・・
「人止関」の碑が建っているのだから、このあたりで間違いはないとは思うが、どちらかというと、この先のカーブのあたりが、当時の雰囲気が残っているような気がしないでもない。

DSCN3546_convert_20170113172313.jpg

ここにある「人止関」の碑には、「霧社事件」に関しては全く何も記載はされていなかった。
(雑草に覆われていて、碑の下のほうが見えなかったから断言はできないけど・・・)
ここには、「人止関」の史跡としての説明看板か何かが欲しいところである。

ここから車で10分ほど走ったら、「霧社」の町に到着。
早速、課長に会いに役場に行く。

DSCN3552_convert_20170113175156.jpg (仁愛郷公所=仁愛郷の役所)

開口一番、課長が言う・・・・「昨日は飲みすぎた!」(苦笑)
なんでも、夕方に職員同士で酒を飲み、その足で拙者に会いに来たという。
夕方から飲みっぱなしだったとか・・・(唖然)
シラフでは拙者に会えなかったということかな?(大笑)

「霧社」の町は小さい・・・
メインストリートが1本走っていて、その周囲が繁華街。
丘の上の狭い範囲にある小さな町・・・という感じである。

「霧社事件」は昭和5年(1930年)10月27日に発生した事件。
今から86年前のことである。
この一帯に住む先住民族(蛮族、蕃族、もしくは高砂族)が木材運搬の賦役の過酷さと、日ごろからの日本人警察官の横暴対する不満から一斉に蜂起して現地在住の日本人を襲撃した。
簡単に言うと、それが「霧社事件」である。

DSCN3556_convert_20170117103403.jpg (郵便局)

日本統治時代も、ここに「郵便局」があったという。
事件当時、ここも襲われ、日本人の郵便局長と、その家族が虐殺された。

DSCN3559_convert_20170117104838.jpg

正面に見えるのが、消防署・・・
以前は、ここに警察署があった。
拙者が以前、ここに来たとき(たぶん1993年だと思う)は、ここに警察署があった。
現在は、斜め前の場所に移転している。

当時の「霧社」における日本側の統治の仕方は、どうも警察官にあらゆる権限が集中していたようである。
ここの警察署は「霧社分署」で、その下に「駐在所」が各地に置かれていた。
「霧社」地区には11の「社(村もしくは集落、部落)」があり、それぞれに駐在所が置かれていた。
昭和5年当時、ここ「霧社」では、建物の建設が目白押しだったようで、駐在所の建て替えや学校の寄宿舎の建設や何だかんだ・・・
それに使われる木材を山から切り出して運ぶという“使役”が原住民たちに強制的に課せられた。
警察官からの命令である。
ところが、この木材は引きずってはならず、傷をつけないように必ず肩に担いで運べという。
これが過酷な労働で、何十キロも肩に担いで運ばねばならないので、あっという間に肩が腫れ上がる。
「もう勘弁してくれ」と訴えても警察は聞き入れない。
それどころか、日本人警察官は、いちゃもんを付けて労賃すら支払わないこともあったらしい。
たぶん、着服、横領をしたのだろう。
加えて“女性関係”も事件の遠因となっているという。
各社の頭目(村のリーダー)の娘とか妹とかと結婚すれば、日本人警察官は彼らの親戚となるので、統治がしやすくなると考えるのは無理もないと思うが・・・
日本に妻子がありながら原住民の娘と結婚するとか・・・(佐塚愛佑という警部だそうだ)
または、結婚はしたが、最終的には捨てたり・・・(近藤儀三郎という巡査部長だそうだ)
駐在所の前を通りかかった原住民の娘を山に引きずり込んでレイプする警察官がいたり・・・(尾花長太郎という巡査だそうだ)
これで、「反乱」が起こらないほうが不思議というものである。

彼らが蜂起したときに、一番最初に襲ったのが、製材所・・・・
その次が、各地の駐在所と警察署・・・
最後は小学校・・・
この順番からいっても、彼らが何に恨みを持っていたかがわかろうというものである。
この「霧社」の警察署も襲われ、警察官が虐殺されている。

DSCN3563_convert_20170117114206.jpg

旧警察署(現:消防署)の脇の坂道を登っていくと、日本統治時代の「霧社神社」にたどり着く。

DSCN3565_convert_20170117114313.jpg

ちょうど消防署の真後ろに廃屋が見えた・・・
もしかして日本統治時代の日本家屋だろうか?
形からいって、なんとなく、それっぽいのだが・・・・
課長とガイドは、どんどん先に行ってしまい、質問することができなかった・・・(涙)
当時の建物ということになると、警察署の真裏にあるから、警察官官舎というこではなかろうか?
ここもたぶん、襲われているだろう・・・・

DSCN3567_convert_20170117114406.jpg

まもなく神社の入り口に到着・・・
ここは現在は「徳龍宮」という現地の神社になっている。

DSCN3568_convert_20170117114433.jpg

神社の石段の脇に灯篭が・・・
課長が言うには「日本の灯篭だ」というのだが、どうも形がシックリいかぬ。
とても日本人の手で建てられたようには見えないんですけど・・・(汗)

DSCN3569_convert_20170117114537.jpg (徳龍宮)

日本統治時代の神社の痕跡のようなものは何もなかった・・・

DSCN3570_convert_20170117114608.jpg

ここから見た景色・・・・
ここが周囲を展望するには、一番高い位置になるのかな?

DSCN3573_convert_20170117131136.jpg (衛生所)

神社の脇の一段下がったところに「南投縣仁愛郷衛生所」の建物がある。
日本でいえば・・・「保健所」かな?
課長が、ここに用事があるので付き合えという。(唖然)

「衛生所」に入るなり「おはようございまぁ~す!」と課長が職員たちに日本語であいさつした。(唖然)
なんで日本語?
「この人、日本人、ということで、おはようございまぁ~す!」と拙者を指さし職員に挨拶・・・
あらら・・・である。
課長の用事というのは、所長に封書を1通、手渡しするだけのことだった・・・(汗)
で・・・ここのベランダに出て、再び周囲を展望する。

DSCN3575_convert_20170117134300.jpg

「霧社」には11の「社」があった。
「ボアルン社」「スーク社」「マヘボ社」「タロワン社」「ホーゴー社」「ロードフ社」「カツツク社」「バーラン社」「タカナン社」「トーガン社」「シーパウ社」の11社である。
で・・・それは、どのあたりにあったのかなと課長に尋ねたら・・・
「あっち!」とか「こっち!」とか・・・指し示す方向が適当なのである。(涙)
今はどうなっているのか、できれば見に行きたいと話したのだが、「今は何もない」という。
本当だろうか?
すべての集落が消え去るなんてことはあり得ないと思うのだが・・・・(汗)

課長の話では、11社はみんな仲良しだったという。
特に各社の頭目(リーダー)は、日本に対して蜂起することに全員が反対していたが、若い連中が勝手に事を起こしたため、引きずられることになったという。
この話は、拙者が事前に調べた話とはかなり違っている。
11社のうち、6社が積極的に蜂起に参加し、5社だけが頭目の反対で蜂起には参加しなかったと聞いている。
この5社を日本では「味方蕃」と称した。
この11社がみんな仲良しだったという話も聞いたことはない。
逆に、お互いに相手の首を刈ったり刈られたりということがあって、内心、敵対関係にあった社もあったと聞いている。
だから11社が“共同戦線”を張れなかったと聞いているのだが・・・
課長の話が果たして正しいのかどうか・・・検証のしようがないのでどうしようもないが・・・・

木材を切り出したのは、向こうの山々の奥に見える山あたりからだと課長が言う。
へぇ~・・・・あんな奥地から切り出して、肩に担いで運んだのか?
そんな過酷な労働をさせられたら、そりゃ、逆らいたくもなるよなぁ~

DSCN3579_convert_20170117131538.jpg (霧社の町)

次に向かったのは・・・・
消防署の隣に建つ「戸籍事務所」という役所である。
なんで、ここに行くことになったのか、理由がわからない。(苦笑)

DSCN3583_convert_20170119192943.jpg (戸籍事務所)

相変わらず課長は日本語で「おはようございまぁ~す!」と叫ぶ・・・
職員たちが驚いた顔で、こちらを見るので、ちょっと恥ずかしい・・・(大汗)
ここの職員・・・10名が先住民族(蕃族・高砂族)で、中国人(中華?)は1人だけだと課長が言う。
で・・・コーヒーでもどうぞ、と職員からコーヒーをごちそうになる。
所長室でコーヒーをいただいたが・・・拙者はここに特に用事はないんですけど・・・(苦笑)
まもなく、「さぁ!行くぞ!」と課長・・・
う~ん・・・何しに来たのやら・・・である。(苦笑)
ちょうど、この戸籍事務所にやってきた現地のおばあちゃんたちがいた。
「この人、日本人だから・・・」と課長が言ったので、このおばあちゃんたちに「ニーハオ!」と挨拶したら、「日本語でいいんだよ。日本語が通じるんだから・・・」と課長。
おばあちゃんから流ちょうな日本語で「どこから来なさった?」と尋ねられた。(驚)
「茨城県です」
「へぇ~茨城県?で・・・何しに来たの?」
「歴史の勉強です」
「へぇ~歴史?こんなところにわざわざ?へぇ~」と半ば呆れて役所から出て行った・・・
このおばあちゃんも先住民族なのだと課長が言う。
それにしても、日本人のおばあちゃんと全く区別がつかない日本語を話すのには驚いた。

その昔、先住民族は、各部族ごとに言葉が違っていたという。
で・・・日本統治時代に、その部族間の共通語として日本語が使われたらしい。
今でも、昔と同じように部族間で使われているのだろうか?
尋ねるのを忘れてしまったが・・・
幼い時に日本語を勉強しただけでは、こうもいきなり流ちょうに話すことは難しいと思うのだが・・・
普段から使っていないとねぇ~・・・・忘れちゃうと思うんだよねぇ~(笑)

DSCN3584_convert_20170120161808.jpg

ここには事件当時、日本人の旅館があったと課長が言う。
旅館というと・・・・「桜旅館」というのがあったという話を聞いたことがあるが・・・
課長がサッサと歩いて行ってしまったので、確認する暇がなかった。(大汗)
とにかく、拙者は写真も撮りたいので、立ち止まってしまうのだが、その間に、課長もガイドも行ってしまうのである!(苦笑)
いやはや後を追いかけるのが大変である。(大汗)

今度は・・・図書館!
といっても、小さな目立たない建物・・・
主に雑誌と児童図書ばかりが目立つ・・・
これといって見るものは無し・・・(汗)

これで「町」の中は一応見たことになる。
課長が、役所に一旦戻るので、ちょっと役所で待ってろ・・・と言う。
役所の外で待っていたが、いくら経っても戻ってこない。
これでは時間がもったいない。
ということで・・・ガイドの“キョさん”に課長への伝言を頼み、単独行動を取ることにする。

旅行 | 11:19:40 | Comments(1)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。