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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「それでも日本人か?」と言われてもねぇ~(汗)
発電所から約20分程度で「日月潭」に到着した。

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ここは「朝霧埠頭」もしくは「朝霧波止場」と呼ばれる場所らしい。
日月潭には、過去に2度ほど訪れているが、ここには来たことはない。
ここのボート乗り場(?)から、日月潭周遊の遊覧船が出ているとのこと。
ガイドの“キョさん”の話では、こういう遊覧船に乗るのは中国人や韓国人のツアー客ばかりで、日本人のツアー客は乗らないのだそうだ。
まぁ、遊覧船で湖をグルグル巡るのは時間の無駄とばかりに、次の観光地に行きたがるせいなのかもしれない。(大笑)

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ここの駐車場に続々と観光バスが入ってきたが、全員、大陸から来た中国人観光客だった。
彼らの会話をちょっと聞いただけで、大陸からの来た中国人の中国語か、台湾人の中国語か、すぐにわかると“キョさん”・・・・
拙者には全く区別がつきませんが・・・(苦笑)

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現地の案内板は中国語、日本語、英語、韓国語の4か国語で表記されていた。(驚)


水社朝霧―朝霧碼頭

水社朝霧は台21省道上の朝霧埠頭に位置し、日月潭4大埠頭の一つです。
東に面しているので日の出鑑賞には絶好の場所となっています。
気候や地形、湖水などの影響により、明け方になると湖面に霧が立ち上り、そこに朝日が差し込んで大変魅力的な光景が満喫できます。
「水社朝霧」という美しい名前で呼ばれる通り、日月潭八景にも選ばれています。
この埠頭は、日月潭周遊の観光船乗り場であるほか、毎年万人が参加する日月潭横断遠泳大会のスタート地点でもあり、選手たちはここから対岸の伊達邵埠頭を目指して全長約3.3kmを泳ぎ切ります。

(説明板より)


今日は朝食時にコーヒーを飲んだだけで、その後は飲んでいない。
拙者は普段、1日に3回はコーヒーを飲む。
どうもコーヒーを飲まないと調子が出ない・・・(苦笑)
というわけで、近くのレストランでコーヒーを飲んで休憩をとることにした。

DSCN3492_convert_20170105154525.jpg (朝霧埠頭のレストラン)

時刻は午後3時・・・・
一か所行ってみたい場所を思い出した!(笑)
「水社」という町にある「教師会館」・・・・
1983年の2月に、大学の海外研修団の一員として2週間ほどかけて台湾を縦断した。
生まれて初めての台湾訪問だった。
この時に、ここの「教師会館」に宿泊したことがあるのである。
今から33年も前のことである。(唖然)
ふと、思い出したので・・・
今は、どうなっているのだろう・・・ということで連れて行ってもらった。

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行ってみて驚いた!(唖然)
綺麗になってる!!
それもそうか・・・33年も経っているんだから・・・(大笑)
「教師会館」は、たぶん教職員のための宿泊研修施設だと思うが・・・・
あの時は、日が暮れるころに到着して建物の様子はよくわからなかった。
とにかくボロい建物で、「こんなところに泊まるのかよ!」(怒)と文句を言ったことを覚えている。(苦笑)
なにせ、うちの大学の合宿所(研修所)より古臭くてボロかったのである!(大笑)
廊下が薄暗くて気味の悪い建物だったことだけはよく覚えている。(苦笑)
それがねぇ~・・・・いやぁ~綺麗になっちゃって・・・・唖然である。

ここで愛想のない不親切なガードマンに断わって記念写真を撮る。(大笑)
「教職員以外は立ち入り禁止!」と言わんばかりの態度だが・・・それはわかるが、33年ぶりに来たんだぞ!記念写真くらいいいじゃないか!・・・と写真を撮る。(大笑)
あの時の研修団の仲間たちに、この写真を見せたいなぁ~(笑)
みんなは、今、どこでどうしているんだろう?

もう一つ、思い出の場所がある。
たしか、1991年か1992年の5月だったと思う・・・
25年ほど前のことである・・・(唖然)
一人で祖父の足跡を訪ねるため台湾に行くとき、一緒に連れて行ってくれと後輩の“サイトウくん”が言うので、急遽二人旅となった。
この時に、日月潭にも来たのだが・・・・
その時に泊まったホテルがどうなっているのか・・・(笑)
ホテル名も場所も覚えていない・・・
ただ、蒋介石の奥さんの宋美齢の別荘だったとかという話を聞いたような記憶がある。
で・・・食堂(レストランなんていう高級なものではない)の壁に、当時、ここに宿泊した時の蒋介石や宋美齢の写真が何枚も飾られていたことだけは覚えている・・・
で・・・そこって・・・どこだろう?(笑)
ガイドの“キョさん”に尋ねたら、すぐ近くのホテルがそうだと言う。
なんと「教師会館」の目と鼻の先にある!(唖然)

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あれ?・・・・ここがそう?(大汗)
当時は、イマイチ、パッとしないホテルだったが・・・・
超高級ホテルになっていた!(唖然)
まぁ、25年も経てば変わるか・・・・
もう、拙者は“浦島太郎”状態である・・・・(大笑)
で・・・ちょっとロビーに入り込み・・・(笑)
内部を勝手に見学する。

DSCN3498_convert_20170106135440.jpg (ロビーから見た景色)

当時も、拙者の部屋から日月潭がよく見えた・・・・
う~ん・・・こんな景色だったかなぁ~
景色までは覚えていない・・・(苦笑)
ここに宿泊した当時、日月潭に面した部屋の目の前のところが工事中・・・・
かなり大掛かりなコンクリートでの基礎工事だった。
ホテルに尋ねたら、改装工事をするとかって言っていたのを覚えている。
で・・・・こうなったのかな?(汗)
かなりの高級ホテルだそうで・・・・もう、ここに泊まるのは無理だろうなぁ~・・・カネがない・・・(大笑)

昔の思い出を辿りながら大いに楽しむ。
で・・・・この後は、平地にある「埔里(プーリー)」という町に向かう。
今晩から2泊、この町のホテルに宿泊するのである。
この町を拠点に「霧社(むしゃ)」方面の観光をするのである。

途中で、気が付いた・・・・
そういえば、「埔里」の町の近くに「台湾中心の地」っていうのがあったはず・・・
急遽、予定外の行動で・・・この「台湾中心の地」に立ち寄ることにした。

「台湾中心の地」を初めて訪れたのは1983年の研修団で来た時・・・・
その次に“サイトウくん”と一緒に来た時が2回目の訪問・・・・
当時、台北から運転手付きの乗用車で、この地までやって来た。
ガイドは26歳の女の子。
「台北に到着して、そのまま日月潭へ行くというお客さんってどんな人なのかと思っていました」と開口一番、空港で言われた。(笑)
日本人は台北を観光するのが普通なのに…・と言うのである。
で・・・・この地に来た時、彼女に「台湾中心の地」の碑が建っている場所を知っているかと尋ねたら、初耳だと言われた。(大笑)
ならば、拙者がご案内しましょう!・・・・と言って案内した。
方向音痴なのにねぇ~(大笑)
不思議なことに、8年ぐらい前にツアーバスで来た時の記憶が鮮明に残っていた。
で・・・「そこを右に曲がって!そこを左に曲がって!」とドライバーに指示して、驚くべきことに無事に迷わず到着したのである!(大笑)
当時の記憶では、何もない“広場”・・・・
道路がいくつか交差していたが、周囲には何もない・・・
“広場”の中に石碑がいくつか建っていた。
その碑文を読んだが、「民国〇〇年」が西暦何年なのかがわからず、ガイドに尋ねたことを覚えている。
彼女からは「あなたは歴史が好きなんですねぇ~“サイトウさん”は目的が違うみたいだけど・・・」と言われ大笑いした。
さぁ~その思い出の「台湾中心の地」に25年ぶりに訪問!

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あれれ!・・・・またもや“浦島太郎”状態である・・・(愕然)
森?・・・森になってる!・・・・あの何もなかった広場が????
もしかして・・・ここじゃないんじゃないの?(苦笑)
他にも「台湾中心の地」っていうのがあるんじゃないの?
いくらなんでも25年ぐらいで、こんなに変わるか?(唖然)
拙者の記憶にある景色と全く違うのである!

DSCN3517_convert_20170106151643.jpg (中心の地の前の道路)

こんなところに建物なんかなかったんですけど・・・・(汗)
道路が2本、接するところに「公園(広場)」があったのは覚えている・・・
道路から判断すると、この“地形”なのだが・・・
う~ん・・・・納得できないなぁ~
本当に、ここが拙者の記憶にある、あの「台湾中心の地」なのか?

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(「台灣地理中心」の碑)

2つの「台灣地理中心」の碑が建っていたが、25年前に拙者が読んだ碑文が刻まれていた碑が見当たらない・・・
白い碑だったような記憶があるのだが・・・・
おかしいなぁ~(大汗)

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記念のモニュメントだと思うのだが・・・・
全く記憶にない!(唖然)
参ったなぁ~・・・この記憶力の悪さ・・・(涙)

音楽を鳴らしながらゴミ収集車がやって来た。

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音楽を聴いていると、一瞬、アイスクリームの販売車でもやって来たのかと勘違いを起こしそうになるが・・・(笑)
この音楽を聴いて市民たちがゴミ袋を手に外に出てきて、自分で収集車に投げ入れるのである。
以前、澎湖島に行った時に見た光景と同じである。
日本では「集積所」に置きっぱなしだが、台湾では、このやり方なのだそうだ。
これなら収集日以外の日にゴミを出す不届き者がいるとか、カラスに荒らされるとか、そういうことはないから良さそうに思うが・・・
日本もゴミ収集のやり方を見直してみるのもいいのではなかろうか?
議員さんや役人さんには、こういうところを視察していただきたいものだ。

午後5時・・・市内のホテルにチェックイン

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思っていたよりシンプルな部屋である・・・(笑)
部屋でちょっと一休みし・・・午後5時半に夕食に出かける。
今晩は先住民族料理のお店!
これは最初からお願いしておいた。
折角だからねぇ~中国料理じゃなくて、先住民族・・・つまりは高砂族の料理を食べたい!(笑)

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開店早々のお店には、お客さんは誰もいなかった・・・
店内には原住民の方々が作った民芸品などが置かれていた。
で・・・店主の“コウさん”に「これ、タイヤル族が織った布でしょ?」と言ったら・・・(当然、ガイドに通訳してもらいましたが・・・)
「よくわかりましたねぇ~」と店主が驚く。
「この赤色と、この模様で、タイヤル族だとわかります」と言ったら“キョさん”が「へぇ~そうなんですか?」とキョトンとして言う。
いや、いや、あんたに話したんじゃない・・・・通訳して!通訳!
「これは・・・パイワン族が使う酒器でしょ?」
「おお!わかりますか!」(喜)と店主
で・・・奥から先住民族に関して書かれた本やら資料を持ち出して来て、あれやこれやと丁寧に説明してくれた。
今年の春に台北で先住民族の博物館に行ったりして、いろいろ見た記憶はまだ残っていたから助かった。(笑)
予備知識が無かったらチンプンカンプンだし、会話が成り立たなかっただろう。
店主の“コウさん”は中国系の方だが、先住民族の研究者でもあるという。
ついに、話が盛り上がり、興奮して話す店主の言葉を“キョさん”が通訳しなくなってしまった。(唖然)
話が難しくて日本語に訳せないのか、店主の興奮ぶりに驚いたのか・・・・(苦笑)
それとも、通訳するのに飽きたのか?・・・(大笑)
拙者は中国語が全く分からないのだが、不思議なことに店主が言っていることがなんとなくわかるのである。(大笑)
こちらの話は“キョさん”に中国語に訳して伝えてもらう。
と・・・「そのとおり!あなたの言う通りです!」とばかり身振り手振りで店主が応えてくれる。
いやぁ~楽しい夕食だった。

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食事は、ごくごく素朴なもので、味は薄目、癖のない味・・・・
量的には女性向きかもしれない。
こりゃ、日本人の女性観光客なんかにはお薦めだなぁ~と思った。

結局、我々が店を出るまで、他にお客さんは来ず、貸し切り状態で店主とおしゃべりできたのは本当に良かった。(大喜)

ホテルに戻る・・・
明日は別のドライバーに変わるという。
彼は、昼食や夕食、コーヒーも遠慮していたので、ならばチップを渡そうとしたが断られた。
彼が言うには「自分は会社から、それ相応の給料をもらっているので、それ以上いただく理由はない」と言うのである。
これには驚いた・・・・なんと真面目な人だろう。
他の国では、隙あらばガイドの目を盗んで個人的にチップを要求してくるドライバーが多いのに・・・
いやぁ~感心した!

これから霧社の役所の“タク課長”がホテルに会いに来てくれるというのでロビーで待つ。

DSCN3531_convert_20170108203524.jpg (ホテルのロビー)

“タク課長”は102歳の“戦友”が紹介してくれた方。
この方が、台中の“キヨコさん”の転居場所を調べてくれたので、昨晩、会えたわけである。
で・・・課長とのアポは現地旅行社がやっておいてくれた。
いやぁ~大助かりである。(喜)

課長は「霧社事件」の時、日本人を殺害した原住民の子孫である。
事件について、いろいろとお話を伺おうと、ホテルのコーヒーラウンジに席を設けて待ち受けていたら・・・
やって来るなり・・・「おい!酒を呑みに行こう!行くぞ!」と日本語で言う。(唖然)
あのぉ~初対面なんですけど・・・・(大汗)
挨拶もそこそこ・・・である。

課長は息子さんの運転する車で来たので、息子さんも一緒に4人でホテルのすぐ近くの大衆食堂に入る。
102歳からの紹介状を渡して改めてご挨拶・・・
で・・・・肝心の“事件”の話だが・・・・
酒が入ったせいか、話は断片的、それより世間話のほうが長い・・・・(苦笑)
ついには、「乾杯!乾杯!」の連発である。
拙者が、これ以上は無理だと断ったら、「あんたは日本人ですか?」と言う。
「もちろん日本人です」と答えたら・・・・
「日本人とロシア人は酒が強いんだ!日本人なら酒が飲めるはずだ!さぁ、飲め!」と言う・・・・(唖然)

こうなると、もう滅茶苦茶である。(涙)
ただの“飲み会”である。
いやぁ~・・・・初対面の人に酒を強要するかねぇ~(唖然)
ふと、この「霧社事件」に関する本を読んだ中で、思い当たる節を思い出した。
とにかく原住民は酒が好きだということである。
で・・・この事件を起こす計画も、酒の席で盛り上がった末、「日本人たちをやっちまおうぜ!」となったという。
課長の強引さや、酔って話しているうちに激昂するところなどは、先住民族のDNAのなせる業なのだろうか?(大汗)

酒を無理強いされて付き合うのにも限度というものがある。
「明日がありますから、この辺でお開きにしましょう」と、持参して来た土産を渡して強引に解散することにした。(大笑)
「明日、役所に顔を出せ!案内してやるから」と言う。
良い人なのか悪い人なのか、さっぱりわからん・・・(大笑)
いずれにせよ、こう酔われてしまっては真面目な話は出来ない・・・(苦笑)
同行していた息子さんは、大人しい・・・・
「おい、親父をよろしく頼むぞ」と身振り手振りで話したら、理解したようでニコニコしながら頷いた。(笑)

二人をホテルの前で見送り、部屋に戻る。
いやぁ~疲れた!!(苦笑)

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旅行 | 22:38:10 | Comments(1)
発電所に行く
台中市内を出て日月潭方面に向かう。
これから向かうのは「大観発電所」・・・・
観光地ではない・・・(苦笑)
祖父が戦時中、たしか昭和19年だったと思うが、一時期、台湾に駐屯していたことがある。
多分、3ヶ月程度ではなかったかと思うのだが、その後、レイテ島に米軍が上陸したため、急遽、フィリピンに転戦することとなった。
生前・・・今から30年以上も前だが・・・祖父に尋ねたら、霧社あたりにいたそうで、発電所とダムの警備と高砂族の訓練を担当していたという。
さて・・・その発電所というのはどこだろう?
もっと詳しく聞いておけばよかったと今頃になって後悔している。
たぶん、あの当時、あのあたりに存在していた発電所は、現在「大観発電所」と呼ばれている発電所しかないと思う。
とうわけで・・・今日の後半は、この発電所を見学する予定を入れてある。

その発電所に向かう途中、「集集」という名の町に立ち寄ることとなった。
ガイドの“キョさん”が、ここの駅舎を見せたいというのである。(汗)
1999年の台湾中部大地震の震源地が、この「集集」あたりらしい。
で・・・・ここの駅舎が、この大地震で崩壊したのだという。
現在では元の姿に復元されているらしい。

台中市を出て、約1時間で到着・・・・

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ありゃぁ~何だこりゃ・・・(苦笑)
駅がパネルで囲まれていて、駅前は整備工事中・・・・
この駅舎は日本統治時代に建てられたもので、総檜だったそうである。

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これ・・・写真の撮りようがないな・・・(苦笑)
どことなく、日本の田舎にある小さな駅という雰囲気で、昔懐かしいという感じの駅である。(笑)

この駅の脇に商店が・・・・お土産屋さんなのか市場なのか、よくわからないが・・・

DSCN3409_convert_20161229214051.jpg

拙者は、旅行をしても滅多に「お土産」というものは買わない。
が・・・この写真の左のお店に立ち寄ってみた。
この周囲には何軒もの、同じようなお店が並んでいる。
扱っているのは、乾燥させたフルーツのようなもの・・・・
乾物屋と言っていいのだろうか?・・・・こういうお店・・・・
試食を勧められ、あれやこれやとパクパク・・・(苦笑)
お店のオバチャンに「ドライマンゴーも美味しいですよ」(“キョさん”が通訳)と勧められたが、ドライマンゴーはフィリピン産のものを食べ慣れているので、台湾産を食べようという気が起こらず、断る。(苦笑)
「紫蘇梅も美味しいですよ」と勧められたが、梅は我が茨城県の名産でもある。
まさか、梅をお土産に買うわけにはいくまい。(笑)
“キョさん”に「茨城県は梅も名産なんですか!知らなかったなぁ~納豆だけかと思っていました!」と驚かれ・・・ムッ!(笑)
茨城県には納豆しかないわけではない!
だいたい、アピールが足りないんだよな!・・・茨城県は・・・(怒)
結局、オリーブを乾燥させたものを買うことにした。
「ドライ・オリーブ」って珍しいと思うんだよね。(笑)
このお店のオバチャンは人が良い・・・飴を山ほど拙者のポケットに突っ込んで、サービスだと身振り手振り・・・(笑)
いやぁ~申し訳ない・・・・

次に向かったのは、この「集集」の町にある武昌殿という建物・・・・
ガイドの“キョさん”の話では、大地震で1階部分が崩壊したまま“記念館”としてそのまま保存されているという。
「是非見るべきだ」と言うので立ち寄ることにした。
(なかなか本命の発電所には行けないんですけど・・・涙)

DSCN3410_convert_20170103132720.jpg (武昌殿)

どこが崩壊してるんだ?(汗)
話が違うんですけど・・・・
どこも壊れていないんですけど・・・・
「裏です!」と“キョさん”・・・・
チラリと裏を覗いたら・・・・あららぁ~・・・・である。

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あらぁ~すごいことになってるわぁ~(唖然)
「1999年 集集九二一地震紀念館」の横断幕が張られていた。

このすぐ横に、“市場”のようなお店があったので、ちょっと覗き、喫煙所で一服・・・(笑)

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時刻は12時半・・・・腹が減った・・・(苦笑)
町の中の適当な店で食事をすることにする。
ドライバーも誘ったのだが、遠慮して、どこかに行っちゃった!
拙者は旅行するときは、ガイドやドライバーを一緒に誘って食事をすることにしている。
一緒に旅をしているんだから当然だと思っている。
そういうわけなので、旅費には「食事代」を含まないように旅行社に頼んである。
すべて現地で拙者が支払うことにしているのである。
このほうが楽しい・・・・

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この太い麺が、なかなか美味しい・・・
で・・・餃子!・・・これまた美味しいのである!(大喜)
適当にウロウロして、偶然見つけて入ったお店だが・・・大正解だった!(大喜)

DSCN3423_convert_20170103134358.jpg (食堂のオバチャン)

DSCN3424_convert_20170103134433.jpg (食堂の前の様子)

この「集集」の町は観光地でもあるらしい。
驚いたことに、日本語の観光案内リーフレットまで駅に置いてあった。
ここを通る鉄道は、山奥から材木を切り出して運ぶための鉄道だったそうで、確か単線ではなかったかと思う。
で・・・休日には、この鉄道に乗るために観光客が押し寄せて混雑するとか。
1本しかない幹線道路は休日には大渋滞をするとか。
町にはレンタサイクルもあって、サイクリングする人も多いんだという。
へぇ~・・・これといって何もない町に見えるんですけど・・・(汗)
地図に「軍事公園」のようなものが載っていた。
戦闘機や戦車が展示されているらしい!(驚)
う~ん・・・見に行きたい気もするが、時間がない・・・(涙)
本命の発電所に行かねばならない・・・ということで断念・・・・
何もなさそうに見える町なのだが、本当は何かあるのかな?
この町は、日本における“町おこし”の参考になるかもしれないなぁ~

食後、「水里」という町を経由して20分程度で「大観発電所」に到着。

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ここは正確には「台湾電力公司 大観発電廠」という。
ゲートのところで守衛に敷地内見学の許可を求める。
いきなり敷地内を見学させてくれって言っても無理だろうなぁ~と思っていたが、意外にもあっさりと許可が出た。(驚)

最初に向かったのは、敷地内にある昔のトンネル・・・・

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右が、昔のトンネル(隧道)で、左のトンネルのように見えるのは、内部を覗いてみたら倉庫のようになっていた。
かなり古いもののようだから・・・・祖父もここを通ったかな?

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このあたりの景色が、またいい・・・・(笑)
このトンネルを抜けると、どこへ向かうことになるのかは、知らない・・・(苦笑)
昔のゲートでもあるのかも・・・・

この辺りは「門牌潭」という場所らしい。
ここは“史跡”らしい・・・中国語と英語の説明板が建っていたが、どちらを読んでも、よくわからない・・・(苦笑)
とにかく、この当りに発電所建設当時、宿舎や駐在所、工作所などが立ち並んでいたらしい。

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発電所完成後、工事時代の各種施設が無くなり人もいなくなって、昔の姿に戻ったというようなことが書かれていた。
操業開始から10年後は、どうだったのだろう?
まだ建物は残っていたとしたら、このあたりに祖父の部隊が警備隊として駐屯していた可能性はあるのではないかと思ったりする。

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発電所の建物の前にパネルの展示が・・・・
どうも普段から見学できるようになっているらしい。
それにしても、ダムだの発電所というのは重要施設だから、自由に見学なんて許されないと思うのだが・・・
監視役も案内役も付かず、勝手にどうぞ・・・なのである。(唖然)

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建物の内部にも勝手に入れるって・・・いいの?(苦笑)
この建物は建設当時のままなのだろう。
「歴史古蹟」に指定されている。

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まさか機械は新しくなっているとは思うが・・・(汗)
基本的には昭和9年当時と変わらない設備であることは展示されていた古写真を見てもわかる。
それでも、現在も稼働している“現役”の発電所のようである。

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祖父が言っていた「ダム」とは、あそこに見えるダムのことだろうか?
祖父のことだから、敷地の隅々まで巡視したに違いない。
ここも歩いたのだろうなぁ~
人間の命が永遠で、今も祖父が生きていたら、この写真を見せてあげられたんだけどなぁ~
「ほぉ~今も残っておるのかぁ~」と言うか・・・
それとも・・・「ん?俺がいたのはここじゃないぞ」と言うか・・・・どっちだろ?(大笑)

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ここの警備員にお礼を言って発電所を出たところで、アーチ状の門があるのに気が付いた・・・(汗)
「台湾電力公司日月潭第一発電所」と書かれている。
日本統治時代の名称と同じであるが・・・・当時の門にしては新しい気がする。

敷地内の「展望台」に向かい、全景を見てみることにした。

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が・・・全景ではない・・・
実際は、もっと広い・・・・(汗)
ちょうど中心部の導水管がよく見えるという場所・・・ということである。

時刻は午後2時・・・・
発電所とはお別れをして・・・日月潭という湖に向かう。

旅行 | 21:27:08 | Comments(0)
和平英魂観音亭
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(碑文)

和平英魂観音亭
霊安故郷紀念碑  建立由来記

1975年宝覚寺前住持林錦東宗正在職中、石原正一郎氏は第二次世界大戦に於ける台湾の戦没者の為に萬霊塔建立の志を立てたが当時の台湾の状況は極めて困難であった。
越えて1987年、元第48師団南星会長森晴治氏は当時台湾南星同学聯誼会役員に謀り1937年の不幸な事変により多くの人々が戦死・戦傷死し、更に第二次世界大戦でも多数の青年が主として南方諸島界域にて多くの犠牲者を出した。
更に台湾本土に於ても爆撃で大衆が尊い生命を失った痛恨事に鑑み、これら戦没勇士や不幸にして戦災に殪れた人々の冥福を祷り且、永遠の恆久平和を祷念するため、台湾南星会同学及び中日海交聯誼会台湾軍第48師団南星会長西村庄五郎氏等にも相謀り、和平英魂観音亭及び紀念碑の建立を計画した。
依て中・日両国南星会及び海交会を中心に、日本の南星会を筆頭に台湾協会岸田実理事長、元台北医専南溟会長奴田原正一会長、元台北一中麗正会長後藤威会長、台中会長緒方健一氏、元日赤看護婦南十字会長金川トヨ子氏の方々の心からなる御支援と御協力を得、また台中宝覚寺管理委員長周賜斌氏らの御厚志により、有末精三閣下の筆になる「和平英魂観音亭」の慈光燦たる観音亭、及び李登輝総統閣下の揮毫による「霊安故郷」の偉大なる紀念碑を建設することが出来た。
茲に台湾全島・日本全国より寄せられた温かい御協賛の諸賢に対し満腔の感謝の意を表すると共に、これを子々孫々に伝え千古に輝く英魂を永えに顕彰する。

   とこしへに、しずまりたまへ、くにのため
            つくせしひとの、みたまやすけく
                   森 晴治

中華民国79年
日本平成2年   11月25日

(~以下略~)


【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 20:08:38 | Comments(0)
追遠亭
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(碑文)

追遠亭銘記

大東亞戦争に於いて、台灣人民も踴躍大日本帝國陸海軍人屬を志願し、或いは應召により二十餘萬人従軍して勇戦奮闘のあげく、三萬三千餘人戦歿せり。
然るに戦後日本國政府はこれ等の戦死傷者の特定弔慰金以外の補償は一切謝絶したのみならず、軍事郵便貯金、未拂給與等の確定債務を50年後の今日120倍の不合理な倍數で償還せんと一方的に決定し、其の他恩給等除外されるに因り、内外識者の顰蹙を囤うに至れり。
適適1996年の10月、北海道の戦友 伊庭野政夫氏これを見かねて、日本國政府の不信、不徳を補わんと欲し、發起人同志の増田元光、村田 登、桝澤昭衛、宮坂文一、中園健一、玉谷又勝、上田篤次郎、小堀桂一郎、本間正信等諸士と謀り、『台灣出身元日本軍人軍屬感謝表明期成會』を決成して日本全國に呼びかけ、募金活動を展開せり。
1997年9月23日その募金日圓肆佰拾萬圓也(換算新台幣九拾六萬七百拾貳元也)を台灣に送達せられたり、台灣戦友會各代表者直ちに研討の結果、此處に『追遠亭』の建立を議決して即時著手、11月25日予定通り、その完成を見るに至れり。

1、總工事費・・・・・・・・・新台幣九拾萬元也
2、寶覺寺へ供養費・・・新台幣貳萬六仟元也
3、業務費・・・・・・・・・・・新台幣参萬四仟七百拾貳元也
合計・・・・・・・・・・・・・・・・新台幣九拾六萬七佰拾貳元也

茲に謹んで 伊庭野政夫會長等御一同様の御芳志に、深甚の感謝を満腔の敬意を表すると共に願わくは之を日台親善の證として、後世に傳承せられんことを望む。

1997年11月25日

(~以下略~)



【台湾・台中市・宝覚寺】




史跡 | 20:05:04 | Comments(0)
霊安故郷慰霊碑
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  第二次世界大戦期間日軍征赴
  海外殞身台灣同胞英魂碑
霊安故郷
     李登輝敬題

(碑文)

建立由来記

霊安故郷記念碑は中日海交聠誼会の発願により日本國海交会全國連合会竝に台湾縁りの心ある日本國民の協賛奉仕により建立された。
この碑は台湾との過去の歴史にみる日本國植民地統治下の大東亜戦争に、日本國陸海軍人軍属として戦場に散華した台湾戦没者三萬三阡余柱英霊の鎮魂慰霊碑である。
諸霊は日本國皇民化教育の名の下に育まれ、日本國危急存亡の戦場に進んで高砂義勇隊、陸海特別志願兵となり、更には日本國民の義務として施行された徴兵令により、南方諸戦域をはじめ各戦域に参加した元日本陸海軍人軍属二十萬七阡余名の戦友であり、また台湾縁りの元日本陸海軍人軍属と死生を誓った戦友であった。
1945年8月15日大東亜戦争は終戦を迎えたが、悲しい哉!
諸霊は再び生きて故郷台湾の土を踏むことはなかった。
日本國政府は諸霊を靖國神社に御祭神として合祀し、春秋例大祭には勅使が参向され最高の儀礼をつくし、日本國民は斉しく崇敬の誠を捧げているが、1972年中日両國の國交は、複雑な國際状況下に不幸にも断たれて今日を迎えている。
諸霊の遺族補償問題は國際法上の國交が條件であり、長期に及ぶ幾多の紆余曲折を経たが、台・日間の歴史上の人道的精神に基き、1987年「台湾住民である戦没者の遺族に対する弔慰金等に関する法律」が、日本國國会超党派の「台湾戦没者問題議員懇談会」による議員立法として成立し、遺家族竝に重傷病者に対し特定弔慰金・見舞金が支給された。
本法案成立には、和平英魂観音亭敬題の日本國陸軍中将有末精三閣下を会長とした台湾縁りの心ある補償問題推進十七民間団体の支援協力が貢献した。
因に霊安故郷記念碑の敬題は、中華民國總統李登輝閣下の諸霊に捧げる鎮魂の御仁慈の筆になり、總統府参議台南県黄崑虎先生を介したものであり、台湾全島にその例をみない。
希くば諸霊よ!
碑台内に納めた高麗大藏経の守■経により霊安故郷に鎮まり、恩讐を超えて中日國交修復と、永遠に中日善隣友好の懸け橋となられ、世界眞の平和達成の礎となられんことを。
合掌

1991年11月25日建立一周年記念慰霊祭に當り、碑台正面に中・日海交会縁りの世界の名提督日本國元帥海軍大将東郷平八郎御祭神を祀る東郷神社筑土龍男宮司の英霊鎮魂の敬題御揮毫を受く

1990年11月25日
中日海交聠誼会
(~以下略~)


【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 17:42:20 | Comments(0)
東部・北部地区 日本人遺骨安置所
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(碑文・1)

此處には左記各縣市に在住中死亡した日本人の遺骨を蒐集の上納骨した
台北市
台北縣
基隆市
陽明山管理局
桃園縣
新竹縣
苗栗縣
宜蘭縣
花蓮縣
台東縣
昭和36年3月
在中華民國日本國大使館

(碑文・2)
この納骨堂には、第二次大戦終戦までに台灣に居住し、台灣にて亡くなられた日本人物故者の遺骨を収めてあります。
終戦後在留日本人は總て故國に引き揚げましたが、着の身着のままで物故者の遺骨を持ち歸る余裕もありませんでした。
當時唯一家族で残って居た苗栗縣大湖に住む野沢六和氏がある日畑を耕していたところ、この大湖にあった舊陸軍病院の戦病死者と思われる埋葬の遺骨を發見し、この遺骨を鄭重に拾い自宅に持ち歸り安置していました。
その後各地から日本人の墓地が荒れて遺骨が散亂しているとの連絡が多くこのままにして置く事には忍び難く各地の日本人墓地に残された遺骨を採骨する悲願を立てて昭和22年春より台灣全島を巡り採骨の悲願行脚に旅立たれました。
この悲願の旅は十數年に及び、約二萬柱の採骨を終えたのは昭和35年秋でありました。
昭和36年秋に當時の日本大使館の肝いりで採骨の地域別にここ中和寺と台中の寶覺寺、高雄の公墓三ヶ所に分けて納骨することになり一應採骨は終わりました。
その後大使館が主催して年一度の慰霊祭がこの三地區で行われて来ましたがその後この慰霊祭は現日僑協會が主催する事になり現在に及んでいます。
現在ここに納骨されているのは羅東より苗栗附近までに採骨された約八千柱です。
この採骨をされた野沢六和さんは中國広東系の中國人ですが、夫人は新潟縣出身の野沢ムメさんで結婚後夫人の籍に入り野沢姓になられたのです。
この採骨には當然この御夫人の協力があったことは申すまでもありません。
この野沢六和さんは採骨時の苦勞が禍いして喘息を患い以後保養をされていましたが昭和58年7月10日に日本の神戸郊外に住む御長男宅にて他界されました。
この崇高なる人格は永遠に私達日本人の鑑として記憶に留どめたいと思います。

平成元年3月吉日



【台湾・台中市・宝覚寺】



史跡 | 16:26:52 | Comments(0)
台中市内を観光
午前6時、部屋に備え付けの目覚まし時計の音で目が覚める。
7時過ぎに朝食・・・8時15分にチェックアウトして8時半にホテルを出発する。

DSCN3302_convert_20161225160817.jpg (宿泊したホテル・皇家季節酒店)

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(ホテル前の道路)

今日は、まず最初に台中市内の“観光”を行なう。
拙者が日本統治時代の建物が好きだとガイドに話したので、急遽、本日の前半を“建物見学”としてくれたのである。
で・・・今回の旅行は拙者専用のワゴン車を用意していただいたので、行動はかなり自由である。
が・・・出発早々、ガイドとドライバーが、向かう先の道順か何かでもめているような雰囲気。
中国語なので意味は不明だが、語気を荒げているから何か問題でもあるのだろうと思い、ガイドに尋ねたら・・・
この運転手さん・・・台中に来てまだ1ヶ月しか経っていないため、どこに何があるのかがわからないのだそうだ。(唖然)
でも、この運転手さんは面白いことをしたのである。
ワゴン車にはナビが備え付けられているので、その通りに走ればいいのだが、彼は自分のスマホを取り出し、ナビを表示して、ダッシュボードに取り付けたのである。
ナビが2つ並ぶことになるのだが・・・2つあっても意味がないような気がするんですけど・・・(汗)
車のナビを信用していないのかな?(苦笑)
ナビの精度を比較検証するつもりなのかな?(苦笑)
失礼かと思い、敢えて尋ねなかったが・・・・なんでナビが2つ必要だったのだろう?・・・謎である・・・(笑)

最初に訪れたのは、日本統治時代、「台中州庁」だった建物である。
戦後は「台中市役所」として使われた建物・・・・

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その後、台中市役所は新たに別の場所に建物が建てられ、そこに移転したという。
現在は台中市政府の2部局、「都市発展局」と「環境保護局」が使用している。
で・・・・ちょっと内部を見学・・・・(笑)

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(中庭)

この建物の道の反対側に日本統治時代の「台中市役所」がある。
現在は整備され、展示会やイベントに使用されているらしい。

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車内から撮影したのでうまく撮れなかったが・・・・(涙)
少し離れたところに赤い建物が見えた・・・(たぶん赤煉瓦造りだと思うが・・・)
この建物は日本統治時代には図書館だったそうで、現在は銀行として使用されている。

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次に向かったのは、なぜか学校・・・・
これは「台中市大同国民小学」
日本統治時代も小学校だったそうだ。(建物は当時のままだと思う)

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その向かい側にあるのが「国立台中女子高級中学」
日本統治時代は、たしか「台中第一高等女学校」だったと思う。

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こちらの建物は、たぶん建て直されていると思う。
で・・・・ガイドの“キョさん”が何で拙者を案内したのかというと、この両方の学校とも、彼のお母さんが卒業した学校なのだそうだ。(唖然)
へぇ?・・・その話をするために拙者を連れて来たのか?(唖然)

次に向かったのは、日本統治時代の警察官の官舎・・・・
終戦後、建物は荒れ果てて廃墟化していたらしいが、それを復元して整備したらしい。
住宅街の中に小公園と共に「文学館」という形で遺されているようである。

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この一区画の真ん中を「文学散歩道」が通っている。
そこを中心に旧日本家屋が6棟ほど復元されていて、それぞれ「研修の施設」や「常設展示の施設」などに分かれている。
たぶん「文学道」は、当時は路地だったのだろう。
ところどころ赤煉瓦の塀が残っている。

時刻が10時前という事だったせいか、それとも休館日だったのか・・・・
「館区沿革の建物」が閉まっていて内部の見学ができなかったのが、ちょっと残念。
ここの沿革を知りたかったのだが・・・・

DSCN3332_convert_20161225211555.jpg (町の中の果物屋さん)

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果物を搾った果汁をペットボトルに入れて売っているようである。
う~ん・・・まさしく果汁100%・・・間違いなしだな・・・これ・・・(笑)
見た目に、かなり甘いような気がするのは色のせいかも・・・(苦笑)

ガイドの“キョさん”が、資料を自宅に忘れて来たので、一旦、自宅に立ち寄ることとなる。
ちょっと自宅に上がってお茶を飲んでくれとのことで、お宅にお邪魔することになった。
お母さんが出てこられてご挨拶・・・・
日本語がペラペラである。(驚)
「私は台湾第一高女の卒業生なんですよ」とおっしゃる。
「はい、さっき学校を見てきました!」(笑)
高等女学校のセーラー服に憧れていたそうで、入学したのが昭和20年の4月・・・・
そして8月には終戦・・・・
憧れのセーラー服は4ヶ月しか着ることが出来なかったので、それがなんとも残念だとおっしゃる。(笑)
小学校の同窓会の写真を見せてくれたが、同窓会には日本からも同窓生がやって来るのだという。
そうか・・・日本に引き揚げた日本人は、同窓会という事になると、そういうことになるか・・・・(苦笑)
いやぁ~同窓会に出るのにパスポートを持って飛行機に乗らねばならんのか・・・(汗)
いやぁ~大変だな・・・それ・・・
終戦から70年も過ぎてるのにねぇ~
こういうのが、日本と台湾の友好の基礎の一つになっているのかもね。
まだまだ、おしゃべりをしたいところだが、予定が詰まっているので、お茶を一杯頂いて辞することにする。
「また来てください!」と言われ「はい、また来ます!」と返事をしたが・・・また会えるかな?(大笑)

次に向かったのは「台中駅」・・・・

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う~ん・・・いいなぁ~・・・・台湾の駅舎は本当に見ごたえがあっていい。(喜)
ガイドの話では、現在は使われていないと言っていたが、なぜか人の出入りが多い・・・
駅舎の内部に入ってみた。

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改札口には駅員は誰もいない・・・・

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人の出入りが多い理由がわかった。
この駅の向こうに新しい駅舎ができたので、この古い駅舎の中を通って新駅に向かうらしいのである。
それで、皆さん、ここを通っているらしい。
日本だったら、壊して建て直してしまうか?
これが韓国だったら日本人の設計だからと言って何も考えずに恨みだけで壊してしまうか?
(建物に八つ当たりするのは愚かだと思うが・・・それが“儒教の国”というなら仕方がないか?)(苦笑)
この駅舎は文化財として保存されるそうだ。
間違っても拙者が建てた駅舎ではないのだが、とても嬉しい・・・・(喜)

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線路はホームの端で封鎖されていた。

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(駅構内)

この重厚な柱・・・・こういうデザイン・・・・好きだなぁ~・・・・見ていてワクワクしちゃうなぁ~(笑)
もちろん、日本統治時代に日本人設計者によって建てられた駅舎である。

ここを通って「新駅」のほうへ行ってみたい気もしたが、その余裕はなさそうなので(しかも駅前にワゴン車を待たせているし・・・)断念する。

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(駅前の景色)

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駅前のバスターミナルは閑散としていた・・・・よく見たら閉鎖されている。
どうりで誰もいないわけだ・・・・
新しいバスターミナルは、新駅の近くに移動したらしい。
で・・・・今日から新しいバスターミナルがオープンという横断幕があった。
ということは・・・・昨日までは、ここは使われていたのか?
いやぁ~“歴史的な日”に、訪問したわけだ。(大笑)
このバスターミナルのことは永遠に拙者の記憶に残るだろう・・・・(ちょっと大げさか?)

次に向かったのは「台中公園」・・・・
真っ先に目に付いたのが、公園の外にあった石碑である。

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これは「勝利碑」と呼ばれる碑だが、もともとは日本統治時代に建てられた「昭忠碑」である。
日本が建てたものだが、終戦後に「昭忠」の文字を削って、そこに「勝利」と書き入れた。
「勝利」とは、日本に勝ったという意味か?
台湾は日本領だったのだから、“台湾”が日本に“勝つ”わけがない。
一緒に負けたのである・・・(苦笑)
戦後、台湾に逃げ込んだ国民党の連中がやったのだろう。
さすがは、“中国人”である。
やることが、えげつない。

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“キョさん”の話では、この公園内に歴史的な建物があるという。
で・・・・それを見ようと思ったら・・・・公園内は、ちょうど整備中で見ることが出来ない!(涙)
なんとも残念・・・・次回、来た時に見るか・・・・(汗)

ここに公園の案内板があった。
珍しいことに中国語と日本語と英語の3か国語で書かれていた。(笑)


【台中公園簡介】
台中公園は1903年に整備されました。
当初は簡単なものでしたが、総督府が1908年10月に台中公園において台湾縦貫線路の全線開通式典を行い、載仁親王が主賓として参列しました。
このため、台中の行政当局は公園を全面的に再整備するとともに、日月湖に親王の休憩所として湖心亭を立てました。
これ以降、この湖心亭は台中のランドマークとなっています。
園内の更楼は1880年代に建築され、台中城建城当時は財務総管である呉鸞旂の公館として使用されていました。
後の1980年代に道路拡張の関係で、台中市はこの建物を園の北側に移転させました。
望月亭はもともと、台中城建城当時に大北門上に設けられた楼閣でした。
東大墩山丘の砲台山は、清朝の總兵(官職名)だった藍廷珍がここに砲台を2基設けたためにこの名がつきました。
台中の古名「大墩街」もこれに由来しています。
これ以外にも史跡や青々と茂る古木が数多く残っており、私たちの成長を見守ってきました。
みなさんも時にはぶらりと見て回ってはどうでしょうか。

(説明板より)



次に向かったのは「宝覚寺」・・・・
ここは、当初から拙者が訪問予定に入れていた場所である。
ずいぶん昔に、一度だけ、ここに来たことがある。
1993年の10月ではないかと思うのだが、23年ぐらい前のことなので、どうもハッキリしない・・・
1991年から1993年にかけて拙者は4回ほど台湾を訪問している。
で・・その4回のうち、何回目の時にここに来たのか・・・・う~ん・・・・記憶にない・・・(苦笑)
なんと記憶力の悪いことか・・・・(大涙)

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で・・・・「宝覚寺」に到着したが・・・・
う~ん・・・・全く記憶にない・・・(大笑)
あれ?・・・である。

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お寺の本堂は、さらに巨大な“屋根”で覆われていた。(驚)
こんなに変わった建物にもかかわらず、全く記憶にない・・・・(苦笑)
本当に、拙者は、ここに来たことがあるのか?

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巨大な布袋様・・・・
う~ん・・・これは、かすかに記憶に残っている。(苦笑)
ということは・・・やっぱり、ここに来たことがあるんだろうと思う。

今回の旅行で、ここを予定に入れた理由は、以前(23年前)に来た時に、予科練の碑を見た記憶があるからなのである。
甲種飛行予科練習生第14期・・・・親父と同期の予科練の碑だったと記憶している。
たしか、三角形の碑だったと思う。
(こういうところだけは、記憶力がいい)(苦笑)
金色の文字で書かれていて、多くの人名が刻まれていた。
残念ながら碑文の内容は覚えていない・・・・
ということで、今回、改めて碑文を確認しようと思って来たのだが・・・・
ない!・・・・拙者の記憶にある、あの碑が無い!(汗)
境内を探し回ったが、どこにもないのである。
あれ?・・・・ここじゃなかったのかな?
どこか、公園のような場所にあったような気がしないでもない・・・
どうも記憶力が悪くて、どうしようもない。
ここじゃないとしたら、どこなんだろ?
全くわからない・・・(涙)

ガイドの“キョさん”は座り込んで携帯電話とニラメッコ・・・・(唖然)
“ライン”というのをやっているようで、さっきから、ひっきりなしに着信音が鳴っていた。
その返事を書くので忙しいようだ。
“お客様”の拙者のことは、そっちのけ・・・である。
付き合いきれないので「俺は、勝手に一人で、このあたりを見てるから!」と言って境内を散策する。

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これは、「中部地区 日本人遺骨安置所」・・・・
あれ~・・・・記憶にないなぁ~
ここに来ているなら、拙者がここをお参りしない訳がないと思うのだが・・・・(汗)



【碑文】

此處には左記各縣市に在住中死亡した日本人の遺骨を蒐集の上納骨した
台中市
台中縣
彰化縣
雲林縣
南投縣
昭和36年3月
在中華民國日本國大使館



DSCN3380_convert_20161227112551.jpg (東部・北部 日本人遺骨安置所)

DSCN3386_convert_20161227130245.jpg (霊安故郷慰霊碑)

DSCN3393_convert_20161227130317.jpg (追遠亭)

DSCN3400_convert_20161227130347.jpg (和平英魂観音亭)

境内をウロウロしながら各碑文などを読んでいたら、ガイドの“キョさん”が吹っ飛んできて「どこにいたんですか!散々探し回りましたよ!」と言う。
はぁ?・・・・である。
“ライン”に興じて“お客様”を放置しておきながら、その言い方はないだろ・・・(怒)
最近は、こういう人が多い・・・・
フィリピンでもガイドが、やっぱり“ライン”に一生懸命で、お話にならなかった・・・・
「“ライン”は便利だから、あなたもやったら?」と言われたが、御免蒙る。
“ライン”に夢中になると会話もできないし、話の腰は折られるし、注意も散漫となる。
たぶん、ご本人は全く気にならないのだろうが・・・・
客としては、これで“ガイド”をしているつもりか?・・・・と文句を言いたくなる。(苦笑)

拙者が誰かに誘拐されて行方不明になったら、それは拙者から目を離して“ライン”に気を取られていたあなたが悪い!(大笑)
“お仕事”は真剣にやってもらいたいものである・・・・

ここで台中市内の“観光”は終わり・・・・
これから町を出て、山の方へ向かう。

旅行 | 15:58:23 | Comments(0)
台湾の台中へ行く
午前7時起床!
昨日のうちにコンビニで買っておいたサンドイッチなどを食べて・・・・午前9時にホテルをチェックアウト。
ホテルのレストランで朝食をとるとなると、混雑していてイライラするし、落ち着いて食事もできないし・・・ということで、拙者はいつもコンビニのサンドイッチを部屋で食べることにしているのである。(笑)

羽田空港に行くには4つの方法がある。
1つは、JR浜松町駅からモノレールに乗って行く方法。
かなり混雑するが本数が多いので、ちょっと待てば乗れないことはない。
が・・・最近、導入されたのだろうか、新型車両はスーツケースなどの荷物を置く場所が少なくなっている。
それでなくとも狭い車内の通路にスーツケースを置いたら混雑時には迷惑千万。
ということで・・・これは諦める。
2つ目は、京急蒲田駅から京急に乗って羽田に行く方法。
コマーシャルで、やたらと便利だと言っているのだが、確かに時間的には便利かもしれないが・・・
混雑するのである。(苦笑)
しかも車両は、普通の通勤列車と変わらない。
ここにスーツケースを持ち込むというのも気が引ける・・・・(汗)
時間的な視点からだけで「便利」というのは、どうかと思う。
これが成田空港へ向かう京成のスカイライナーのような車両なら、スーツケースの置き場もたっぷりあって、乗り心地も良いし、他者に迷惑をかけることもない。
“通勤電車”ではねぇ~・・・・スーツケースを持って乗るにはちょっと不便なので、これも諦める。
3つ目はJR蒲田駅前からバスで行く方法。
これは最悪である。
「空港行き」だから、リムジンバスのようなバスかと思ったら、普通の循環バス・・・つまり“通勤バス”である。
スーツケースを置く場所がない!(汗)
しかも、空港へ行く客だけが乗るわけではなく、途中下車する通勤客も乗るから混雑する。
それでなくとも狭いところに、スーツケースを持った乗客が3~4人乗ったら、もう立つ場所もないくらいのギューギュー詰めとなる。
バスの奥の方に乗った乗客は降車するときには、かなり苦労することになる。
そこまで迷惑をかけたくないしなぁ~(苦笑)・・・ということで、これも諦める。
で・・・最後の4つ目の方法はJR蒲田駅からタクシー!(大笑)
最初の3つは経験済みだが、このタクシーでの移動はしたことがなかったので、今回、贅沢にもタクシーを利用してみることにした。(大笑)
JR蒲田駅から走ること15分で空港に横付け!
今日は道路が比較的空いていたと運転手さん。
料金は2,260円なり!(笑)
200円~300円くらいで行ける距離をタクシーを使うと10倍の料金を支払うことになるが・・・
精神衛生上、他人に迷惑をかけることを気にしながら行くよりは良い。

空港でのチェックインは昨日の午後、上京するときに自宅のパソコンからネットで済ませておいたので、チェックインはスムーズ。
で・・・旅行保険の申し込みは、前回「VIPカード」を作ってもらっていたので、これまたスムーズ。(笑)
快調な滑り出しである。
その後、2階のカフェでコーヒーを飲んで一休み。
着て来たコートを手荷物のショルダーバッグに詰める。
このコートを入れるために、わざわざ大きいショルダーバックを担いできたのだ。(笑)
コートを空港に預けてもいいのだが、たぶん、帰国の時に受け取るのを忘れると思う。(大笑)

12時20分、搭乗開始。
機内は満席である。(驚)
機内で読書しようかと思い、読書灯を点けたら、角度が悪く、拙者の後頭部を照らすのである!(唖然)
なんだよ・・・これ・・・・
全く役に立たない!(怒)
やむなく、薄暗い機内で読書をすることになったが、目が疲れる・・・
読書灯の照らす位置の調整とか、そういう細かいところにも気を使ってもらいたいものである。

台北の松山空港に到着する直前、機体がかなり揺れた。
どうも最近、拙者が乗る便はよく揺れる・・・(苦笑)

機内アナウンスで、到着予定時刻より30分も早く到着したという。(唖然)
30分も違うって・・・当初の予定時刻は何に基づいて決めたのやら・・・(汗)
ところが、あまりにも早く着きすぎたので、到着ゲートに前の飛行機が駐機中だという。(苦笑)
この飛行機が移動してくれないとゲートに横付けできないらしい。(唖然)
このため、しばらくの間、待機・・・・
予定到着時間は午後3時50分。
実際に到着したのは午後3時20分。
で・・・・結局、機内から降りた時間は午後3時40分である。
結局、30分も早く到着しても、全く意味がなかった。(大笑)

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キティちゃんが描かれたエバー航空の飛行機を見っけ・・・・(苦笑)
子供は喜ぶかもしれないが、拙者は、こういう飛行機から降りてくる姿を見られたくないなぁ~(大笑)
でも、カラフルで面白いことは面白い。
いっそのこと、広告を描くというのもいいかもね。
赤と白のコカ・コーラのマークのデザインそのままの飛行機とか・・・・
それに対抗してペプシ・コーラのデザインの飛行機が隣に駐機するとか・・・(笑)
で・・・広告料を取って、その代わりに飛行機代を安くしてくれるとか・・・(大笑)
誰かやってくれないかなぁ~

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滑走路の向こうに、見たことのある建物が・・・・
あれは圓山大飯店である!
その昔、あの場所に台湾神社があった・・・・
で・・・・今回の旅の最終日に、あのホテルに泊まることにしている。
う~ん・・・楽しみである!(大喜)

今回の旅の目的は、昭和5年に起こった「霧社事件」の跡を訪ねるのがメインの目的である。
そのついでに、日月潭の近くにある発電所を訪問する。
そこは戦時中、一時期、祖父が駐屯して警備した場所だと思うのである。(確証はないが・・・)
そこで、歴史に詳しいガイドを旅行社に頼んでおいた。
春に来た時のガイドさんを指名したが、都合が悪いということで断念・・・
日本側の旅行社の都合で別の現地旅行社を使うことになったらしく、そのガイドさんが付いてくれる。

入国手続きを終え、スーツケースを受け取って、外に出てガイドと落ち合う。
開口一番、「“あけぼの会”の会員ですか?」と言われた。(笑)
拙者は会員ではない・・・・(大汗)
今回の旅行には、この「あけぼの会」を主宰している102歳の方も関わっている。
それで、拙者を会員と思ったらしい。
加えて「大学の先生ですか?」と尋ねられた。(苦笑)
大学の先生に間違われたのは、これで何回目だろう?(苦笑)
たぶん、4~5回目だと思うが、時々、大学の先生に間違われることがある。
そんなに知性のオーラが出ているのか?(大笑)

これといった肩書を持っていないと、こういう時は本当に不便である。
「研究者」といえるほどの研究なんかしていないし・・・
「作家」と言えるほどの素晴らしい文章は書いていないし、本も出版してないし・・・(笑)
「ブロガー」?・・・・ブロガーと言えるほどの大したブログを書いているわけでもないし・・・(大笑)
え~と・・・・ただの歴史好きな旅行者です・・・(大笑)

ガイドさんは“キョさん”という60歳の人。
日本大学の大学院を卒業しているという。
で・・・「あけぼの会」の会員なのだそうで、それで拙者を同じ会員仲間と思い込んだらしい。(笑)
当初、「先生!先生!」と拙者のことを言うので・・・(苦笑)・・・・以後、「先生」と呼ばないでくれるよう頼む・・・(大笑)

空港の銀行で両替をする。
春に来た時の台湾ドルの残りが1万円分くらいあったので、両替は4万円(1万970元)とした。

タクシーで台北駅に向かう。
ここから新幹線に乗って台中に向かうのである。
我々の乗る新幹線の発車時間までに余裕があったので駅ビルの中を見学・・・・
2階のレストラン街を見て回ったが、やたらと日本食を扱っているお店が多い。(笑)
日本の和菓子屋まであるのには驚いた。
今、台湾では日本の和菓子がブームなんだとか・・・・

午後5時17分発の新幹線で台中へ。
以前、ツアー旅行で来た時に乗ったことがあるので・・・・写真は撮らない。(大笑)
驚いたのは、乗客の殆どの人が思いっきり座席の背もたれを倒すのである。
これでもかぁ~というほど・・・(唖然)
後ろの席に何の断りもなく、いきなり・・・・(唖然)
日本人の拙者からすると“非常識”と思える行為なのだが・・・・
この国では、こういうことをするのは“常識”なのだろう。(唖然)
偏見的な言い方になるが・・・・全員、中国系の人間である。(苦笑)

午後6時18分、台中駅に到着する。
駅構内で軽く食事をしたい・・・・
ウロウロしてたらファミリーレストランの「ロイヤル・ホスト」を見つけたので、そこで軽く食事をとる。
知っている名前の店だと、心なしかホッとするのは何故だろう?(笑)

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今回の旅行・・・・出発直前に追加の予定が入った。
今回、霧社にいくことを93歳の“戦友”の“カワムラさん”に話したところ、霧社に知り合いがいるので会ってみてはどうかと紹介された。
原住民の女性らしいのだが、病弱なので「お見舞い」を届けてくれと郵送して来た。
え?・・・病弱?・・・・最後にお会いしたのはいつなんだろ?(苦笑)
失礼ながら、今も生きているという可能性はあるのだろうか?
さらに、“カワムラさん”が「あけぼの会」を主宰している102歳の“カドワキさん”に拙者が霧社に行くということを話したという。
“カドワキさん”は戦時中は特務機関員だったと思う。
今流の言葉で言うと・・・諜報員?スパイ?特殊工作員?秘密工作員?
“カドワキさん”には以前、お会いしたことがあり、“カワムラさん”の紹介でご挨拶させていただいたことがある。
ということなのか・・・“カワムラさん”が「我々の同志が今度、霧社に行く」と伝えたらしい。(苦笑)
“カワムラさん”も戦時中は情報関係の任務に就いていた方である。
はぁ?・・・・私が“同志”?・・・・もったいないお言葉である。
で・・・・現地の知り合いに紹介状を書いてくれると“カワムラさん”からの報告・・・・
いやいや・・・102歳の方に、そこまでお手数をおかけしたのでは申し訳ないんですけど・・・(大汗)
まもなく「紹介状」が郵送されて来た。
日本語と中国語で拙者のことを紹介する霧社の役所の課長宛ての「紹介状」である。
102歳で中国語まで書けるの?・・・・驚きである。
すごい方だとは思っていたが、本当にすごい方だ・・・・
しかも記憶力もすごいと思う。
拙者のことを覚えているんだから・・・・(笑)
添え状には「この課長に会えば、いろいろと便宜を図ってくれるはず」と書かれていた。

“カワムラさん”は、いつも拙者のことを高く評価してくれている。(実態以上に・・・・笑)
もしかしたら、一緒にフィリピンへ行って“活動”した時の、拙者の現地人への対応の仕方を評価してのことかもしれない。(笑)
いや、氏は拙者の祖父を非常に高く評価して尊敬してくれているので、きっと孫も“立派な人物”なのだろうと思い込んで高く評価してくれているのかもしれない・・・・(大笑)
いずれにせよ、嬉しい話なのだが、かなりのプレッシャーでもある。(苦笑)
で・・・ここで一肌脱いでやろうということで、“カワムラさん”がいろいろと協力してくれた。
で・・・・この“任務の追加”(笑)となったのである。

そこで、急遽、日本の旅行社に拙者の予定に若干の追加が発生したことを連絡・・・・
すでに旅費は振り込み済みなので、その範囲内で何とか収まるように現地旅行社が手を打ってくれるという。
早速、現地旅行社が役所の課長と連絡を取り合ってくれて・・・
課長は、“カワムラさん”から紹介された日本人名“キヨコさん”の居どころを調査してくれた。
で・・・・わかったことは・・・・
“キヨコさん”は現在は霧社には住んでおらず、台中市内に住むお孫さんと同居していることが判明した。
いやはや、驚くべき連携プレー(笑)
しかも、すでに拙者がご自宅を訪問するアポイントメントまで取っておいてくれた。(唖然)
現地に行ってから探し回るようかと思ったら、まったくその無駄が省けたのである。(喜)

”キヨコさん”訪問は午後8時過ぎでアポを取ってあるという。
台中駅からタクシーで“キヨコさん”に会いに行く。
孫娘さんがご自宅の外に立って我々の到着を待っていてくれた。
いやぁ~申し訳なし・・・・
拙者は中国語は知らないので・・・(苦笑)・・・・「ニーハオ!」しか言えなかった。(涙)
“キヨコさん”とは初対面・・・
いきなり先方から「わざわざ遠いところからおいでいただきまして・・・・」と日本語で挨拶された。(笑)
日本語が上手だとは“カワムラさん”からは伺ってはいたが・・・
上手なんて言うものではない、全く日本人の“おばあちゃん”である。
本人のお話によると・・・・「大正15年生まれの90歳です」とのこと。
お元気ではあるが、ご高齢のせいもあるのだろう・・・・
同じ話を4回くらい繰返され、話は堂々巡りで、全然先に進まない・・・(大汗)
とりあえず、頃合いを見計らって“カワムラさん”から預かってきた「お見舞金」と拙者が持参して来たお土産を渡す。
ようやく話が先に進み・・・・
「あと2週間もすれば霧社の自宅に戻る予定です」とおっしゃる。
ところがお孫さんの話をガイドの“キョさん”に通訳してもらったら、「もうここに2年も住んでいる」とのこと。(笑)
どうやら“キヨコさん”は自分の希望を述べているだけのようである。
「霧社の自宅は両親から譲り受けた唯一の私の財産なんです。だから放ってはおけないので・・・たぶん、2週間後には自宅に戻れると思うんですけどね。あなたはいつまでここにいらっしゃるの?自宅に霧社事件の資料もたくさん置いてあるから、自宅に戻ったら見せてあげられるんだけど・・・」とおっしゃるのである。
国が違っても、お年寄りは皆さん同じだな・・・
住み慣れた自宅に戻りたいらしい。
果たして拙者のことが判っているのかどうかはさっぱりわからないが、一方的にご自身の身の上話などが延々と続き・・・・
あっという間に1時間以上も過ぎてしまった。(汗)
お孫さんが中国語で“キヨコさん”に何か注意をしたらしい・・・・
「お疲れのところすみません」と“キヨコさん”が言ったところから想像すると、「もう遅い時間だから、おしゃべりはその辺にしたら?お客さんも疲れているんだから」とでも言ったのかもしれない。
手回しよく、ガイドの“キョさん”がタクシーを呼んでくれていて、すぐに迎えの車がやって来た。(笑)
相手は高齢者だし、もう夜の9時を過ぎてるし、まだまだ、お話を聞いてあげたいところだが、あまり長居するのは失礼だろう。
取りあえず、ちゃんと会いましたよ・・・と“カワムラさん”に報告するために、記念写真(証拠写真?)を急いで撮ってご自宅を辞する。
で・・・よく考えたら、拙者はまともに自己紹介をしていなかった。
会った瞬間から、ズ~ッと“キヨコさん”がしゃべっていたので、こちらが話をする暇がなかった・・・(苦笑)
まるで昔から拙者をよく知っているような雰囲気で話をしてくるので、うっかりしていた・・・(大汗)
「また会いに来てください」と言われ、「はい、また会いに来ます!」と答えたが・・・・
お元気なうちに、また会いに来れるかどうか・・・(汗)
こういうところが、ご高齢な方との出会いの辛いところである。(涙)
いずれにせよ、帰国したら改めてお手紙を差し上げよう・・・・

台中市内のホテルに向かい、チェックイン・・・・
夕食を食べていなかったので、町に出て、食事を済ませ・・・
午後11時にホテルに戻って・・・・寝る!
クタクタである・・・(苦笑)

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旅行 | 14:24:15 | Comments(0)
偶然の中華料理店!
明日から台湾旅行である!(喜)
ということで・・・今日は東京に前泊する。

いつものように、直前まで旅行の準備でバタバタして・・・午後5時発の特急で上京・・・
品川駅から京浜東北線で蒲田駅に向かうが、電車は満員状態!(大汗)
スーツケースにショルダーバック・・・周囲にご迷惑をかけて申し訳なし。
「すみませ~ん!」の連発である。(大汗)
大量の荷物と大きなスーツケースを持ちこんで平然としているあの中国人旅行者の図太い神経が羨ましくなるが、どうにも拙者には真似は出来ない。
つい「すみませ~ん」と言ってしまう・・・(苦笑)
で・・・教訓!
午後7時ごろの電車には乗っちゃいけないな・・・(苦笑)
次回は、もっと早い電車で上京しよう・・・(大笑)

今晩は従妹と夕食を食べる予定でいたが、残業が入ったため一緒に夕食を食べるのはキャンセルとなる。
彼女はJALだっけかな?
拙者はいつもANAを利用するので、ちょっと気が引けて・・・(大笑)
勤め先のことを尋ねたりしないので、よく知らないが・・・(大笑)
まぁ、いずれにせよ、残業するほど忙しいというのは結構なことである。

駅前のホテルにチェックイン後、外出し、どこで夕食を食べようかと繁華街をウロウロする。
散々歩き回りクタクタになったが、これといって入りたい店がない!(涙)
いつものことであるが・・・優柔不断なのである。(大笑)
で・・・ふと立ち止まった道の角に、どこかで見たことのある店構え・・・・
あれ?
以前、この店に入ったことがあるな・・・
外から覗き込んだら誰もお客さんがいない・・・(苦笑)
ということで・・・この店に入ることにした。

入店した途端、「ヒサシブリデスネェ~」とお店のオバチャン・・・(驚)
拙者のことを覚えているの?
たしか、9月にインドネシアに行くときも前泊で、散々迷った挙句、初めてこの店に入ったのである。
だから、今回で2回目なのだが・・・(汗)
このオバチャンの記憶のいいことには驚いた。
前回来た時に拙者が座っていた場所、頼んだ料理、読書をしていたことを覚えているのである!(唖然)
「最初にウーロン茶を頼んだでしょ?ビールを頼むかと思ったらウーロン茶だった」(大笑)
「で・・・・最後に、追加で杏仁豆腐を頼んだでしょ?」(大笑)
よく覚えてるよなぁ~(苦笑)
お昼には、そこそこお客が入ったらしいが、午後は、5時から店を開けていて初めての客が拙者だという。(大笑)
「今月は全然ダメ・・・給料出ない!」(苦笑)と言う。
じゃぁ・・・少しは売り上げに貢献してあげよう・・・
ということで、餃子を一皿追加注文した。(笑)
他にお客さんがいないので、このオバチャンと延々とオシャベリ・・・(大笑)
拙者は「中国人は大嫌いだ!」と平気で言っていることを友人たちは知っている・・・(笑)
その拙者が冗談を交えながら中国人のオバチャンとオシャベリをしている姿なんか友人たちは想像もつかないかも。(大笑)
拙者は、相手がどこの国の人間だからと言って、最初から敵愾心をむき出すわけではないのである。
一般論的に言って・・・・嫌いだと言っているだけなのである。(笑)
だから、このオバチャンとも話が弾む・・・たとえ中国人であっても・・・(大笑)

このオバチャンは、20数年前に中国の福建省からやって来たという。
日本語学校へ入ったが、勉強をなまけたので日本語は下手くそだと自分で言っている。(笑)
「そんなに記憶力がいいのに?」(大笑)
ご主人は同じ日本語学校で知り合った同級生だという。
このオバチャンは、初めて来たお客さんでも顔も座った場所も頼んだ料理も全部、自然と覚えてしまうという。
だから、2回目に来たお客さんには「いらっしゃいませ」ではなく「久しぶり」と挨拶するのだそうだ。(笑)
驚くべき記憶力である。

食事をしながら、何だかんだと、おしゃべりしていたら、ようやく常連客が1人、店に入ってきた。
で・・・・彼を交えて今度は3人でオシャベリすることになる。
初対面で、どこの誰なのかも知らないのだが・・・(大笑)
「これで、あなたも常連よ!」とオバチャン・・・(大笑)

さて・・・そろそろホテルに戻ろうかと思って・・・気が付いた!
ここが、どこなのかがわからない!(大笑)
え?ホテルって、どっちの方角に歩いて行けばいいの?(大笑)
散々ウロウロして、道に迷った挙句、偶然たどりついたのである。
場所を覚えていて、この店に来たわけではない。
さすがにオバチャンが大笑い。
「それは縁があるってことですね?」と言う。
たしかに・・・言えるかも・・・
で・・・ホテルへの道順を尋ねたかったが・・・・
あれ?・・・ホテルの名前が思い出せない!(大笑)
なんと記憶力の悪いことか・・・バカ丸出しである。
で・・・とりあえず、駅へ行くには、どっちの方角へ行けばいいのかな?(大笑)

「また来てください!」とオバチャンに言われたが・・・・(汗)
果たして次回も、うまくこの店に辿り着けるかどうか・・・・(大笑)
とりあえず「また偶然見つけたらお店に来るから」と中途半端な再会を約束して(大笑)店を出る・・・・

ブラブラ歩きながらホテルに向かうが・・・
途中の路地を見て・・・あ~あの先を左に曲がると、確か、こういうお店があったんだよな・・・なんて思ってしまう。
しかし、実際には、そのお店は無い・・・
あれ?・・・・と思い、よくよく考えてみると、拙者が思い出したのは北池袋の繁華街を外れた路地の景色・・・(汗)
記憶がごちゃ混ぜになっているのだ・・・・
これが、拙者の“方向音痴”の原因の一つかも知れない・・・(苦笑)

かなりの距離を歩いて・・・奇跡的にホテルに戻る。(大笑)

旅行 | 17:25:13 | Comments(0)
お知らせ
明後日、11月29日から12月3日まで・・・・

台湾に行ってきます!(大笑)

真面目に一生懸命働いている友人たちには申し訳ないのですが・・・

妻の尻に敷かれ、子供に振り回され、馬車馬のようにこき使われている友人たちには本当に申し訳ないのですが・・・(大笑)

ちょっと海外へ行ってきます・・・

今年最後の海外旅行!

本当に申し訳ないと思っているのに、ニヤケてしまうのは何故だろう?(大笑)

では・・・行ってきます!

日記 | 15:37:56 | Comments(0)
『武士道 日本人であることの誇り』


序として 武士道こそ日本人のアイデンティティー

第1章 世界が讃える美しき精神像
        武士道は消え去ってしまったのか
        司馬遼太郎の問い「人間はどう行動すれば美しいか」
        ブロードウェイを行進したサムライたち
        庶民にまで及んでいた日本人の高貴さ
        武士道を心から愛した外国人たち
        高き身分の者にともなう義務(ノブレス・オブリージュ)
        現代日本人がたしかに受け継いでいる武士道
        内村鑑三『代表的日本人』が解いた武士道
        西郷隆盛こそが「武士の最大なるもの」
        『南洲翁遺訓』にちりばめられた西郷の思想
        福沢諭吉が痛烈に批判した明治政府
        廃れゆく武士道を惜しんだ福沢

第2章 新時代の日本人が求めた「明治武士道」
        なぜ新渡戸稲造は『武士道』を著したのか
        私が『武士道』に魅かれた理由
        「近代日本の父」クラーク博士の教え子たち
        プロテスタンティズムと武士道は同根である
        日本人による日本人のための“和製聖書”
        『武士道』はなぜ、英文で書かれたのか
        江戸の町を火の海から救った「真勇は怯に似たり」
        禅の思想から本質に迫った「鉄舟武士道」
        『鉄舟二十訓』とその臨終秘話
        福沢諭吉版の武士道だった『瘦我慢の説』
        厳しく指弾された勝海舟の処世
        武士道が問い直す「日本人とは何か」

第3章 武士道の誕生とサムライたちの美学
        「自分を鍛える」こそが武士道の根幹
        武士道の源流にある「神・仏・儒」の思想
        「命より名こそ惜しけれ」が戦国時代の武士道
        「修己治人(しゅうこちじん)」は家康が求めた理想の教え
        「正義の戦い」を貫いた石田三成
        「信義」のために華と散った大谷吉継
        「恩義」に報いて死んだ宇喜多秀家
        なぜ『忠臣蔵』は武士道の華といわれるのか
        赤穂義士を教育した山鹿素行の「志道」
        泰平の世の「武士の本分」とは何か
        「人間の芸術品」として描かれた河井継之助
        「それでも日本男児か!」の真の意味

第4章 武士道のバックボーンは「義」「勇」「仁」「礼」
        「義」とは、人間としての正しい道
        「義」は武士道の最高の支柱
        「義」よりも「打算」「損得」を優先する現代人
        「義」の行動を貫いた上杉謙信
        武士道が「義」に求めた理想の精神
        会津武士道の悲しきまでの誉れ
        「なよ竹の心」と「死出の山道」の美学
        「義をみてせざるは勇なきなり」の真価
        黒澤映画「七人の侍」に見る勇の実像
        「仁」は至高の徳「思いやりの心」である
        江戸時代が明治以降より平和だった理由
        意外と安気だった武家社会の暮らしぶり
        おだやかな心で花鳥風月を愛した江戸の人々
        「権あるものには禄うすく、禄あるものに権うすく」
        「武士の情け」は正義にもとづいた“厳しい愛”
        「礼」とは日本人が創造した美しき行動の型
        礼儀を失い、非文明人になり果てたニッポン人
        太宰春台の教え「義で事を制し、礼で心を制す」

第5章 「誠」「忠誠」こそサムライの心髄
        「誠」は言行一致を表すサムライの徳
        小早川秀秋が教える「卑怯者の末路」
        「誠」における武士道と商人道の違い
        「名誉」とは人間の尊厳としての価値
        「名誉の戦死」が名誉でないのはなぜか
        本阿弥光徳が死守した「一族の名誉」
        「忠義」 ― 人はなんおために死ねるか
        『葉隠』に記された武士の死生観
        殉死が歴史から消えた事情
        サムライの真の「忠義」とは何か

第6章 武士の教育と現代日本人の教育
        “援助交際”がまかり通る理由
        「山高きが故に貴からず」の江戸の教育
        なぜ武士の教育から「算術」がはずされたのか
        「人」は教育によって「人間」となる
        教師とは「人間をつくる職業」のはず
        「身を修める」人格形成の重要さ
        「公人」たる義務を遂行したかつての武士たち

終章 武士道は日本民族の文化遺産である
        日本人の知性と道徳は武士道の所産
        “人の倫”を教えない不思議
        「仁の心」と「義の心」のある社会を
        未来を生きていく若者たちへ

おわりに


「武士道」という言葉は、かなり昔から延々と人気のある言葉ではないかと思う。
何かといえば「武士道、武士道」と持ち出してくる。
果たして「武士道」は存在するのだろうか・・・というのが私の正直な気持ちである。
もう、廃れてしまっていて、この世には存在していないのではあるまいか?(笑)
多くの人が言う「武士道」の「武士」は、作家が創作した時代小説やドラマや映画で見る時代劇の「武士」ではあるまいか?
これは誰かが作り出したイメージではなかろうか?

「武士道とは何ですか?」と知りたがる人が結構多い。
それは、すでに絶滅してしまった恐竜について尋ねるのと同じで、本当のところはわからないのではあるまいか?
だって我々は一人として本物の「武士」を見たことがないし、会話を交わしたこともないのであるから・・・(大笑)
いくつかの学術的な証拠の断片をつなぎ合わせ・・・
たぶん・・・恐竜は、こういう形だったのだろうとか、こういう生活をしていたのだろう・・・という程度ではなかろうか?
そういうわけで、正確なところは誰も分からないのではないだろうか?
復元想像図は、あくまでもイメージである。
果たして恐竜がトカゲのような爬虫類のお化けのようなものだったかどうかはわからない。
赤色や黄色、青色のカラフルな外見だったかもしれないではないか?(大笑)

そう考えると、「武士道」も、どこまでが本当か、真実かは分からないと思う。
伝聞は、自分たちにとって都合の悪いことは残さないようにして、後世に伝えている可能性もあろう。
紙に書かれたものも同様で、改竄されていないとは言い切れないだろう。
が・・・“当たらずとも遠からず”・・・こういうものであろうということは、色々な人が研究して“結論”を出している。
本書も、その一つで、かなりわかりやすく書かれていると思う。
著者が、今までに書いてきたものの集大成という感じの本である。

「武士道」が“おおよそ”何であるかを知ることは、とりあえず可能だと思うが・・・・
大事なことは、それを実践できるかどうかではあるまいか?
“長いものには巻かれろ”は、武士道に則しているだろうか?
“背に腹はかえられない”は武士道に則しているだろうか?
“見て見ぬふり”は武士道に則しているだろうか?
・・・ということを考えると・・・なかなか実行するのは難しい。
それが「武士道」の“道”の部分の難しいところかも。
知っていることと実行するということは、違うのである。

韓国人はよく「我が国は儒教の国です」と言う。
でも、彼らの(一部の人間かもしれないが・・・)言動を見ていると、とても“儒教の国”とは思えない。(苦笑)
儒教って、そういうものでしたっけ?・・・・である。(苦笑)
同じように、「日本は武士道の国です」と言っておきながら、その言動が正反対だとしたら、恥をかくことになるのではなかろうか?
「武士道とは何ぞや」を語ることが出来ても普段の言動が則していなければ意味はないのではなかろうか?
で・・・出てくるのが「知行合一」という言葉。
この言葉は「武士道」だけに留まらぬ、重要な言葉ではないかと思うのである。
「義を見てなさざるは・・・・」である・・・・

「武士道とは何ぞや」をスラスラと語ることが出来るということより、よくわからなくても結果的に「武士道」に則した行動がとれているというのが恰好いい(笑)という気がする。
普段から少しでも「武士道」を意識していれば、出来るかも・・・
忘れかけてきたら、再び本書を読み返してみる・・・
そういうことが大事だという気がする。
本書は、それには、うってつけの本だと思う。


今年の読書:57冊目



読書 | 11:37:03 | Comments(0)
嫌いな言葉は「復興五輪」
東京オリンピックを「復興五輪」と位置付けるというような言い方がある。
が・・・私は、この「復興五輪」という言葉が大嫌いなのである。(大笑)

“復興”とは、平成23年3月11日に発生した東日本大震災からの復興を指すのだと思う。
あれから5年が経っている・・・・
東京オリンピックは2020年7月から東京で開催される予定である。
今から4年後という事になる・・・

ということは・・・・
東京オリンピックが2020年に開催されるのは、震災から9年後ということである。
被災してから9年も経っても“復興”していないなんて、日本の恥ではなかろうか?(苦笑)
それとも9年経っても“復興”が完了しないことを前提にしているのか?
わざと“復興”を完了させないようにするつもりか?
補助金を欲しがる連中は、いつまでも“復興”が続いてもらいたいだろうが・・・(苦笑)

本来の“国の強さ”、“民族の強さ”とは、何があっても平然と構えていることではあるまいか?
さっさと“復興”を終わらせて・・・・
「震災?へぇ~そんなことありましたっけ?そういえば・・・そんなことがあったかも・・・」である。(大笑)
ケロケロっとしてオリンピックを開催すべきである。
9年も経っているのに“復興”なんていう言葉が使われるようでは、いかに日本という国が能力のない弱い国であるか、日本国民はいかに弱い民族かを世界に発信することになるんじゃないか?
これは日本の恥だろう?
同情を買おうという行為くらい、みっともないものはない。

9年後には、さっさと“復興”を終わらせて平然と構えるべきである。
いつまでもグダグダとやっているのは・・・・“日本人”じゃないな・・・(苦笑)
出来るだけ長い期間、もらえるだけカネを引き出してやろう・・・なんて考えてるのは・・・“日本人”じゃないな・・・(苦笑)

「復興五輪」・・・・私は、そんな言葉は聞きたくもないし見たくもないのである。(怒)

エッセイ | 11:56:59 | Comments(1)
どこが民主主義?
米国の大統領選挙で、トランプ氏が当選し、次期大統領に決まった。
と・・・その直後からデモ行進・・・(唖然)
投票に不正行為でもあったのか?
もう一度、数え直せとでも言っているのかと思ったら・・・
「我が国の大統領として認めない!」ってなことを叫んでいるらしい・・・(唖然)
選挙で決まったんですけど・・・・(汗)
“選挙”って民主主義のツールでしょ?
皆さんの思いが反映しているんですよね?(苦笑)
投票の結果は民衆の大多数の意見が反映されているんじゃないの?(笑)
結果が出たあとになって、グダグダと文句を言うのは、おかしいと思うんですけど・・・

投票に不正があったとかという抗議デモならわかるが・・・
どういう神経をしているんだろう?・・・・アメリカ人は・・・・
民主主義を何と思っているのだろうか?
決まっちゃったものは仕方がないでしょ?
決めたのは、あなた達なんですけど・・・・(大汗)

大統領選出のシステムに問題があるのなら、それに対して改善を求めるべきで・・・
選挙の結果、決まったトランプ氏を非難するのは、おかしいだろう?
抗議をするなら、トランプ氏に票を投じた代議員に文句を言うべきである。

この前の、英国のEU脱退の国民投票もしかりである。
こちらは直接投票・・・・
で・・・EU脱退に決まった途端、「もう1回投票をやり直すべきだ」と大騒ぎ・・・
まさかの結果が出たので、やり直せと言うんだから、恥知らずとしか言いようがない。
「紳士の国」が聞いて呆れる。
脱退は、皆さんの投票の結果で決まったんですよぉ~
今更、何を言ってるんですかぁ~?
「脱退賛成に票を入れたが、まさか本当に脱退することになるとは思ってもみなかった。もう一度投票をやり直してほしい。今度は反対票を投じるから・・・」などと平然とTVのインタビューに答えているバカがいたのには呆れた。

“民主主義”も、こうなったら、おしまいだな・・・
どうして、こうも欧米人はバカばかりなんだろう?
あなた達が民主主義っていうのを作ったんじゃなかったっけ?(汗)
自分たちで自分たちの民主主義を破壊するような発言や行動をするんだから・・・お粗末である。

よくもその程度の認識で、中東あたりに“民主化”とか言って首を突っ込んだものだ。
おかげで中東では多くの人が命を落としている。
おまえら欧米人が首を突っ込まなければ、多少の問題はあるにせよ、あれほどの人命を失うこともなく、多くの難民を作ることもなく、平和に暮らせていただろうに・・・・
あれは“民主化”ではなく、本当はキリスト教徒によるイスラム教徒への弾圧ではなかろうか?
“民主主義”をわかっていない連中が他国を“民主化”できるわけがない。(大笑)

民主主義が何たるかを知らないような国に媚びなくてはならない我が国は、さらにレベルが低いと言えよう。
あの民主党政権がいい例である。

どの国も国民レベルが下がっている・・・・
あぶないなぁ~民主主義・・・・崩壊しちゃうかもなぁ~
いや、じつは、もう崩壊しているかもしれない・・・

エッセイ | 21:01:47 | Comments(1)
大古書市に行く
今日は恒例の「大古書市」に、水戸藩士の“シミズくん”と出かける。
もう、楽しくて仕方がない。(大喜)
古書を見て、買おうかなぁ~どうしようかなぁ~と悩むのが、また楽しい。
あっという間に1時間、2時間と時間が過ぎていく。
そんなに本が好きならば図書館に行けばいいじゃないかと思う人がいるかもしれないが・・・(苦笑)
なぜか、図書館の書架を眺めても、この“興奮”は得られないのである。
どうしてなのかはわからないのだが・・・(苦笑)
だから、本好きと言っても、図書館に行くことはない。
もしかしたら、最初から“借りる”というのがネックになっているのかもしれない。
やっぱり、自分の手元に置きたいのである。
そのためには買わなければならないのだが・・・
「おお!これはいい!貴重な本を見っけ!」(笑)
「いくらだ?・・・・う~ん・・・どうしようかなぁ~買おうか買うまいか・・・」と悩む・・・
で・・・「よしっ!買うぞ!」という、このプロセスがいいのだ。(大笑)
“身銭を切って手に入れる”というのが興奮するのである。(大笑)

で・・・今回も・・・何冊も購入してしまった!(大汗)
前回、前々回に買った本をまだ読み終えず、“積読”状態だというのに・・・(大汗)
やっちゃった!
一生かかっても我が家にある本は読み切れないかも・・・(大汗)
病気だな・・・これ・・・(大笑)
“古書依存症”という病気かも・・・(大笑)

日記 | 21:02:57 | Comments(0)
『処置と脱出』




1 対岸の砲声

2 処置と自決

3 鬼に涙などあってたまるか

4 脚の折れ目から先がじゃまする

5 このまま埋めてくれ

6 貴官の腰のものを拝借したい

7 竹林よ さようなら

8 突撃

9 桃源郷

10 きさまたちかい

11 抱き合い心中かい

12 患者を拾う

13 強行渡橋

14 バヨンボンもついに空し

15 竹管の祭礼

16 捕虜の道案内

17 ウェーはどん位

18 死を待つ患者たちへ野花を

19 寄せ書きと婦女子の爆砕

20 兵隊さん殺してったら

21 易水送別

22 レストハウスも空し

23 ナムミョウホーレンゲキョウ

24 高原の酒宴

25 訣別

あとがき


本書は、福岡県の金田町の町長をされた方の従軍体験記らしい・・・
「らしい」というのは、本書の内容が、あまりにも小説的なのである。
その表現は、まるでプロの作家の手になるものではなかろうかと思うほどの、すばらしい表現なのである。
だから、よくある「体験記」という感じがしないのである。
著者は兵站病院に勤務する兵隊だったらしいが、残念ながら部隊名は明記していない。
「A兵站病院」と仮名になっている。
通常、兵站病院ならば、病院名は数字で表される。
「第74兵站病院」とか・・・
間違っても「A」などというアルファベットは使用しない。
著者はなんで自分の部隊名(兵站病院名)を明確にしなかったのだろう?
やっぱり、これは小説だからなのだろうか?
「本書は自分の体験した事実に基づいた小説です」とも明記していない。
さて、本書はノンフィクションなのか、フィクションなのか、それともノンフィクション・ノベルなのか?
このところを明確にしていなかったのは残念である。
作り話(小説・創作)なのか事実を書いたものなのかで、読み手の受け取り方が変わってしまうと思うのである。

著者の「体験」は、フィリピン戦線でのこと。
ルソン島の北部で、兵站病院は北へ北へと転進する。
つまりは、逃避行である。
本院が先に転進した後、残された分院が、その後を追って転進する。
その分院の責任者となったのが著者らしい。
本書は、その転進中のわずか1週間程度の短い期間に限定した「体験記」なのである。
短い期間内の出来事なのに内容は、かなり濃い・・・
加えて、その表現力のすばらしさには驚いた。
こういう「小説」を書いてみたいものだと思うほどの表現力である。
凄い文才だと思う。

著者の逃避行したルートは、私も過去に何度か行ったことがあるルートと重なる部分が多い。
知っている町の名前などが出てくる。
読んでいて、あ~あのあたりかと、その景色が目に浮かぶ。
北部ルソンは、進撃してくる米軍から逃れる日本軍将兵や在留邦人が悲惨な末路を辿った地域・・・
たぶん、本書に書かれていることは“事実”なのだろうと思う。

多くの人たちが、それぞれの、さまざまな体験を「体験記」として残す。
その内容は十人十色である。
本書のような、こういう体験をした人もいたのか・・・・
しかし、「体験記」を残せる人は、ある意味、幸せかもしれない。
北部ルソンの山岳地帯で逃避行中に命を落とした人たちは、その体験を書き遺すことが出来ないのである。
伝えたくても伝えられない・・・・
本書が、ノンフィクションなのかノンフィクション・ノベルなのか、フィクションなのかは別として・・・
この素晴らしい文章は、その方々の代弁もしているような気がした。


今年の読書:56冊目



読書 | 01:12:26 | Comments(0)
博物館に行く
今日は水戸藩士の“シミズくん”とドライブ・・・・
那珂市の「歴史民俗資料館」で開催されている特別企画展『戦国大名 佐竹氏の軌跡』を見に行く。(喜)

DSCN3289_convert_20161208205232.jpg DSCN3291_convert_20161208205259.jpg
(那珂市歴史民俗資料館)

この資料館は初めて来た場所・・・・
こういう地方の小さな資料館というのも、意外にも面白かったりするのである。(笑)
特別企画展のほうは・・・パネル展示だけというもので、ちょっと拍子抜けしたが・・・(苦笑)
まぁ、そんなものだろう。

思った以上にタップリと時間をかけて見学する。
う~ん・・・満足!
非常に充実した一日を過ごせた。
車を運転して拙者をここに連れてきてくれた“シミズくん”に感謝!感謝!(大喜)

日記 | 13:52:13 | Comments(0)
海保の予算を増やすべし!
海上保安庁の巡視船および巡視艇は現在366隻あるという。
ところが、そのうちの35%の129隻が耐用年数を超えているのだそうだ。

最大の原因は、1977年に制定された領海法・・・
従来、領海は沖合3海里(約5.5km)だったものが、この時に沖合12海里(約22km)に拡大された。
また、同じ年に施行された漁業水域暫定措置法で漁業管轄権が及ぶ範囲を沖合200海里(約370km)と設定された。
これらの法律により、海上保安庁の活動範囲が一気に広がったのである。

このため、1977年~1980年までに一気に107隻の巡視船・巡視艇を建造したのであるが・・・
2000年頃から、これらの艦船の更新時期を迎え始めた。
ところが・・・これらの更新が進んでいないのだという。

比較的大型の巡視船の耐用年数は25年、小型の沿岸警備用の巡視艇などは20年が耐用年数だと決められている。
よほどのバカじゃなければ、ちょっと計算すれば、いつ頃に何隻の船が耐用年数を迎えるかがわかるはずだが・・・(汗)
今まで、いったい何をやっていたのか・・・
「更新が進んでいません」で済む話ではなかろう?

大型の巡視船の建造費は1隻、100億円以上かかるという。
それに対して海保の艦船や航空機の整備費用は当初予算で300億円程度だという。
全額を艦船の建造に当てても、大型巡視船は1年に3隻しか建造できないということになる。
これまた、よほどのバカじゃなければ、わかることである。

で・・・耐用年数を迎えたオンボロ艦船は129隻もあるのであるから・・・・
これをすべて新造船と入れ替えるには何年かかるのかな?
高級官僚にとっては、かなり難しい計算かな?(苦笑)

現在、沖縄周辺海域、尖閣諸島周辺海域は中国の傍若無人な行動で危機を迎えている。
できるだけ多くの海保の艦船を投入して監視活動をしなければならないというのに、129隻もが耐用年数超過とは・・・・
騙し騙しで使うにしても限度があろう。
耐用年数を過ぎて老朽化した艦船はスピードが出なくなるという。
船体の老朽化もさることながら、エンジンがダメになってしまうらしい。
スピードが出ないのでは、取り締まりができないではないか?
80歳を過ぎた老警官が10代のかっぱらいを追いかけるようなものである。(苦笑)

中国側も、この海保の状況を知らぬわけがない。
129隻もの艦船が一気に引退してくれれば・・・と手ぐすねを引いて待っているかもしれない。
海保の艦船が不足しているからといって海上自衛隊の護衛艦を投入するわけにはいかない。
それこそ戦争になってしまいかねない。
となると・・・黙って、日本の領土が「漁民」と称する中国人に侵されるのを見ているしかないか・・・・
北朝鮮などの「密航船」を黙って放置するしかないか・・・・
中国の「密漁船」に漁場を明け渡すしかないか・・・・

こうなったら一気に海保の艦船・航空機整備費を10倍以上に増額させねばなるまい?
大型巡視船を毎年30隻ぐらいづつ建造して、なんとか間に合わせるしかあるまい。
それなら4~5年でなんとかなるかも・・・・ただし、中国がそれまで黙って待っていてくれればだが・・・(汗)

今までの10倍以上の予算は無理という場合・・・・こういうのはどうだろう?
他国から巡視船の受注をするのである。(笑)
他国のカネで巡視船を建造して、1~2年、日本の海保が借りる。
その分、建造費は値引きしてあげる。
試運転を兼ねて使用して「中古船」として相手国に売却するのである。
相手国も安く手に入るし、1~2年の中古ぐらいなら文句はないかも・・・
日本政府の交渉次第であろう?
なんだったら相手国の船員も乗船させて取り扱いの訓練も兼ねるというのもいいかも。
国際交流も兼ねられるし、中国の悪行も他国にわかってもらえるし・・・・
「明日は我が身」となると他国の勉強にもなるのではなかろうか?

とにかく早急に何とかしないとマズイぞ・・・これ・・・・

エッセイ | 15:38:54 | Comments(0)
渋谷へ行く
ホテルをチェックアウト・・・・
さて・・・真っすぐ帰宅するのも、もったいない気がする・・・(笑)
なにせ、折角、田舎から東京に出て来たんだから・・・(大笑)

で・・・ふと、頭に浮かんだ・・・
そうだ!渋谷に行こう!

来年の1月に、我が法人会の会報を発行するのだが、その原稿を書かねばならないのである。
ちょっとしたコラム記事・・・・
で・・・毎号、連載しているのが「税務署巡り」(大笑)
そうだ!・・・今回は渋谷税務署に行こう!(大笑)

DSCN3283_convert_20161205120015.jpg (渋谷税務署)

この渋谷税務署が建っている場所は、その昔、陸軍の衛戍刑務所があった場所である。
たぶん、多くの方々はそのことは知らないだろう。
昭和11年の2・26事件の首謀者たちは、ここで銃殺刑となった。
その刑場の跡に税務署が建っているのである。
う~ん・・・これを知ったら、ここで働く税務署署員は気味悪がるだろう・・・・
この税務署のすぐ脇に慰霊塔が建っている。

DSCN3288_convert_20161205120053.jpg

観音像(?)が建っていて、そのすぐ脇に、当時の刑務所の赤煉瓦の塀の一部が残っている。
たまたま、ここをお掃除している人がいたので話をしてみた。
拙者と同世代に見えるこの男性・・・・
この慰霊塔を建立して維持していた2・26事件の遺族等の関係者の集まりである「仏心会」の方ではないという。
ただの近所の“おじさん”・・・・(苦笑)
この慰霊塔のところに落ち葉が溜まって雨が降るとドロドロになるのだそうで・・・それを見かねて、自主的に一人でお掃除をしているのだそうだ。
奇特な方もいたもんだ・・・
「仏心会」という組織自体、全く知らないという。
もしかして解散してしまったのかも・・・・(汗)
「汚れたままでは可哀想なので、お掃除をしているだけ」と言う。
隣の税務署の署員は、ここをお掃除しないのか?(唖然)
そんなものか・・・役人というのは・・・

2・26事件の首謀者が処刑される時、拙者の祖父は師団副官として、その準備などの手配をしたという。
処刑後、ご遺体をご遺族に引き渡すのも祖父の仕事だったという。
処刑をする銃殺隊の兵士の為に食事の用意などもしたというが、誰も手を付けず、悲壮な雰囲気・・・見ているのが辛かったと話してくれたことがある。
そりゃそうだろう・・・戦友を撃ち殺す役目だから・・・食事なんか喉を通らなかっただろう・・・
この銃殺隊には、拙者の大学の恩師が、その一人として加わっていた。
同じ士官学校の同期生を撃ったという。
「陸士の同期生というのは実の兄弟以上の関係なんだ」と別の“戦友”が話してくれたことがある。
自分の兄弟を処刑すると考えたら・・・・さぞかし精神的に参っただろう・・・
先生に、この時のことを尋ねることを、ついついためらってしまい・・・(当然だが・・・)
永久に、当時のことを聞くことは出来なくなった・・・
時々、ふと、思い出すことがある・・・
で・・・思い出した時に、ここにお参りに何度か来た。
久しぶりの訪問である。

この話を「渋谷税務署」に絡めて記事を書いてみようと思う。
お参りをして・・・・帰宅する。

日記 | 11:55:19 | Comments(0)
シンポジウムに行く
今日は、シンポジウムを聴講するため上京。
先日、フィリピンに行く直前に初参加した会合の会長さんからご案内をいただいた。
テーマは南シナ海情勢に関するものだそうだ。
で・・・・このシンポジウムの主催者代表は、評論家の“ミヤザキさん”だということを知った。
年に一度くらいだが、海外ツアーでご一緒する先生である。
こりゃ行かねばなるまい・・・(笑)

場所は拓殖大学とのこと・・・
その昔・・・当然、今は違うと思うが・・・
拙者が高校生の当時、亜細亜大学、拓殖大学、国士舘大学は「三バカ右翼大学」と言って、同級生たちは受験をするのを避けていた。(大笑)
拙者はたまたまテレビで亜細亜大学の倉前教授を見て、亜細亜大学に行きたくなって、受験したが・・・(笑)
拙者を可愛がってくれた伯父は、たしか拓殖大学だった・・・
で・・・後になってから、拓殖大学でもよかったかなぁ~などと思ったことがある。
決して亜細亜大学に進んだことを後悔しているわけではない。(大笑)
拓殖大学に進めば伯父と共通の話題が出来て楽しかっただろうと思っただけである。
拓殖大学は、アジアに関する問題について、よく情報を発信していると思う。
こういうシンポジウムにも会場を提供もしているのか・・・
対して我が母校は何をしているのかという気がしないこともない・・・(大汗)
「アジアのことは亜細亜大学に任せろ!」というくらいのことがなぜ言えないのか?
“亜細亜”の名が泣くではないか?
・・・・ということを、同窓会の県支部の総会なんかで、ぶち上げるから、みんなから呆れられる。
しかも・・・学長を目の前にして・・・(大笑)
拙者の中では拓殖大学はライバルなのである。(大笑)
その拓殖大学に初めて足を踏み入れた!(笑)

で・・・・みっけ!(大喜)
桂太郎の銅像!(大喜)

DSCN3273_convert_20161205095856.jpg

銅像を見つけて喜んでいるようでは本末転倒か?(苦笑)
そう、そう、シンポジウムに来たんだっけ!

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会場で、このシンポジウムに誘ってくださった“モテギ”さんにご挨拶したら、拙者の隣の席の方を紹介された。
もと海上自衛隊の将官だった方で、昔の海軍で言えば「海軍少将」クラスだった方である。
「海軍少将」となると・・・駆逐艦隊司令官とか海軍各種学校の校長・教頭クラスに位置するか?
偉い方である・・・(大汗)
で・・・ちょこちょこ雑談をさせていただいた。
大いに勉強になる。

“戦友”の“カワムラさん”にも会えた。(喜)
93歳だが、行動力がすごい・・・普通の年寄りなら外出するのは億劫だろうに・・・(苦笑)
さすがは、情報関係にいた方だ・・・
いくつになっても祷報収集と勉強を欠かさない。
拙者も、こういう年寄りになれたらいいなぁ~と思う・・・(笑)

シンポジウムの講演・・・・
3人の方が講演をされたが、フィリピン下院の院内副総務、ハリー・ロケさんのキャラクターが面白い。
この方は野党の議員さんだが・・・
「先日のドゥテルテ大統領が来日した目的が、皆さんはよくわからなかったと思うので、私から説明します」と言う。(大笑)
野党の議員が大統領の説明の補足をするんだから面白い。(笑)

シンポジウム後、マスコミ対応の記者会見があり、途中まで見ていたが、次の予定があるので途中で退室し、上野駅に向かう。
今晩は、上野で共同通信の元マニラ支局長と食事をするのである。
元支局長と会い、ホルモン焼き屋で懇談・・・久しぶりの再会である。
彼はハリー・ロケ下院議員のことをよく知っていて「野党の議員なんだけど、与党だか野党だかわからない発言をする人だ」と笑っていた。
フィリピン事情で大いに話が盛り上がり楽しい時間を過ごす。

今日は充実した一日が過ごせた・・・
皆さんのおかげである。
感謝、感謝・・・

日記 | 22:58:06 | Comments(0)
『おらんだ正月』


新編の編集について

Ⅰ 新元会―おらんだ正月初聞
      新元会―おらんだ正月初聞

Ⅱ おらんだ正月
      序
      1 牛に乗って外へ出た仙人のような医者永田徳本
      2 大貿易家で大土木家を兼ねた角倉了以
      3 一派の鍼術を興した検校杉山和一
      4 奥羽に水路を開き機内に河を治めた河村瑞賢
      5 博物学者としてもすぐれていた貝原益軒
      6 関流算法の租と仰がれる関孝和
      7 わが国に本草学を開いた稲生若水
      8 対馬全島の猪を狩尽した陶山訥庵
      9 湯熊灸庵とあだ名せられた大医後藤艮山
     10 荒川・多摩川・酒匂川を治めた田中丘隅
     11 師匠の墓の前で花の詩を読上げた松岡恕庵
     12 武士を捨てて町医者となった戸田旭山
     13 日本全国に甘藷を拡めた青木昆陽
     14 乞食の病気まで診てやった御医師望月三英
     15 わが国で始めて人体を解剖した山脇東洋
     16 万病一毒の説を唱えた古方医家吉益東洞
     17 農家から出た地理学の大家長久保赤水
     18 23年間に23回稿本を書改めた三浦梅園
     19 わが国洋学界の一大恩人前野蘭化
     20 蘭化を助けて解体新書を翻訳した杉田玄白
     21 石の長者といわれた石の蒐集家木内石亭
     22 戦術まで研究した地理学者古川古松軒
     23 わが国電気学の租平賀源内
     24 世界的の大植物学者小野蘭山
     25 独学で西洋暦学を修めた麻田剛立
     26 同心の子から暦学者となった高橋東岡
     27 質屋の主人で暦学者だゅた間長涯
     28 始めて日本の実測地図を作った伊能忠敬
     29 わが国砲術界の革新者阪本天山
     30 大坂の生んだ博物学者木村蒹葭堂
     31 医術の修業に全国を漫遊した橘南谿
     32 ロシア人までその名を知っていた桂川甫周
     33 一生に9回蝦夷地へ渡った最上徳内
     34 オランダ流の内科を興した宇田川槐園と同榛斎
     35 蘭学を拡めた大功労者大槻磐水
     36 始めてオランダ語の辞書を作った稲村三伯
     37 寒中水泳まで試みた兵学者平山行蔵
     38 独力で星雲説を唱えた物理学者中野柳圃
     39 命がけで眼科医術のために尽した土生玄碩
     40 北海の探検家で書誌学者だった近藤重蔵
     41 40余歳でオランダ語を修めた帆足万里
     42 太陽の黒点を観測した鉄砲鍛冶国友一貫斎
     43 樺太から東満洲までも探検した間宮林蔵
     44 満洲語まで研究した地理学者高橋景保
     45 通詞から幕府に召出された語学の天才馬場轂里
     46 辛苦の末に西洋医の大家となった坪井信道
     47 西洋の植物学や化学を伝えた宇田川榕庵
     48 西洋兵学をわが国に取入れた鈴木春山
     49 シーボルトの高弟として知られた岡研介
     50 洋学者中で最も悲惨な最期を遂げた高野長英
     51 洋学者・科学者としての佐久間象山
     52 農家から出て幕府の奥医師となった伊東玄朴

参考文献一覧

後記

Ⅲ 番外2篇
      1 わが国マッチ業の父と仰がるる清水誠
      2 古今独歩の碁の名人本因坊道策

解説 (外山滋比古)



今年の読書:55冊目



読書 | 00:32:27 | Comments(0)
県内の孤独死71人!
昨年度の我が茨城県内での「孤独死」が71名もいたという。
そのうちの2割が、死後1週間も経ってから発見された人だという。

こういうことを聞くと暗い気分になってくる・・・・
明日は我が身・・・・
私も、いずれ「孤独死」を迎えることになるのだろう・・・(大汗)

この「孤独死」をした71人は、生前、自分が「孤独死」をすると予想していただろうか?

自分の人生の最期をどう迎えるかは、「自殺」以外は自分では選択できない・・・
「孤独死」であっても、苦しまず、ス~ッと死んで行けたら良しとするしかないか。
私の白骨化した遺体は、どこかの誰かに適当に始末してもらうしかないか・・・・
う~ん・・・やむを得ないな・・・・
ちょっと無責任となるが・・・・
腹をくくって覚悟するしかあるまい。

エッセイ | 16:45:46 | Comments(0)

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