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Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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『台湾高砂族の抗日蜂起』
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台湾高砂族の抗日蜂起
―霧社事件―

著者 向山寛夫
発行所 中央経済研究所
発行日 平成11年3月20日
定価 2,500円(税込み)

まえがき

1 台湾の首狩り族
       1 生蕃
       2 首狩り
       3 理蕃
       4 生蕃討伐

2 霧社蕃の蜂起
       1 霧社蕃
       2 蜂起の原因
       3 謀議と決起
       4 運動会場などの襲撃

3 討伐作戦
       1 霧社の奪還
       2 戦闘
       3 掃蕩

4 帰順者の虐殺

5 余聞
       1 内外の非難攻撃
       2 毒ガス使用問題
       3 その後の理蕃
       4 首謀者モーナ・ルーダオなどの顕彰と慰霊

主な参考文献
       1 著書と論文など
       2 新聞記事


11月に、台湾の霧社に行こうと思っているので、読んでみた本・・・・
本書は、霧社事件の原因等について詳しく書かれているわけではなかった。
どちらかというと、抗日蜂起に対する日本軍の行動を中心に書かれている。
それにしても軍の動き等について詳しく書かれているので、これはこれで貴重な資料である。


今年の読書:50冊目



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読書 | 00:18:48 | Comments(0)
『二・二六事件への挽歌』


まえがき

1 脈うつわが反骨

辺境に叫ぶ“不良分子”
   毒一連隊長との出会い
   二人の同期生―小松が食った処罰
   ついに連隊長と衝突
   任官直後に溜飲下げる
   寒稽古で大隊長をダウン
   たけり狂う毒一郎
   「チチキトク」に休暇闘争
   理由もないムチの一撃
   悪意にみちた重謹慎処分
   小松少尉、免官となる
終生の進路を決める
   気分一新の戸山学校派遣
   快男児、野田又雄
   生まれ変わった原隊
   意外な小杉の結婚相手
   羅南駅頭の一大ハプニング
   卑劣きわまる奥中尉の誘惑
   くやし涙に明けた正月
   万感を胸に・・・戸山教官へ転出

2 高まりゆく鳴動

革新の潮流にもまれて
   小松重雄と再会―その数奇な運命
   共産党員として消息を絶つ
   久邇侯爵の思い出
   革新の気秘めて
   桜会出席
   北・西田・村中との出会い
   北の言説と青年将校たち
   あけっぱなしクーデター計画
   「どうとでもしやがれ」
   十月事件、不発に終わる
   余燼くすぶる松仙閣の忘年会
   井上日召と西田の確執
血盟団事件から五・一五まで
   新校長・渋谷少将を迎える
   梅窓院のつどい
   血盟団事件で古内をかくまう
   無念、脱出前夜の手入れ
   首領日召、ついに自首
   村中の陸大落第作戦
   異色の英才・渋川善助
   押さえきれぬ海軍の血気
   二重の衝撃、西田のまきぞえ
   戸山学校内に軟禁される
   西田税はなぜねらわれたか
   北・大川・西田の関係
   人間関係の醜さ
   『青年日本の歌』の作者考
夢みる昭和維新の星々
   磯部浅一中尉の上京
   “浪人の心意気”ということ
   松浦邁の悩み
   わが道を行く
   大岸頼好大尉と相識る
   松浦少尉、警世の大一文
   怪文書の乱発時代
   秋田に相沢三郎少佐をたずねる
   『皇道派』という名について
   「赤ん坊と二人分働きます」
   竜馬を思わせる怪物・大岸
   神兵隊事件前後
   誤れる憲兵情報への怒り
   荒木陸相への悪意の大きさ
   問題化する北・西田への接触
“行動派”へひた走る日々
   青山のアジトのころ
   中央部幕僚の弾圧強まる
   林正義海軍中尉のこと
   大岸頼好の統帥論
   西田と大岸に深まるミゾ
   八幡博堂という男
   数奇な大岸の後半生を思う
   昭和9年元旦の感慨
   松浦邁の奇矯と純情

3 “前夜”への奔流

忠誠とは、死生観とは
   極東オリンピックをけとばせ
   一度は納得した西田修平
   相沢中佐の中耳炎さわぎ
   霊験あらたか、元上等兵の祈祷
   風雲児・黒木親慶の死
   奇縁で知った忘れがたみ
   相沢、池田中佐の言に怒る
   大岸の士官学校綱領批判
   渋川と郵便局ギャング事件
   第1連隊勤務で会心の提案
   母の死に転機を誓う
   秋季特別大演習の感懐
昭和の大獄・十一月二十日事件
   佐藤勝郎候補生の不審な挙動
   辻政信におけるジキルとハイド
   士官学校での辻大尉
   皇道派憲兵といわれた森木少佐
   獄中から片倉、辻を告訴
   中村義明の上京
   天皇機関説問題と宇垣上京阻止
   長岡幹事と“統帥”大論争
   重謹慎5日の処分を食う
   くびになった長岡幹事
   林陸軍大臣の“人物”
   「粛軍に関する意見書」の配付
相沢三郎、ついに先陣
   永田への“最後通牒”
   真﨑総監の罷免・村中らの免官
   中村義明のロマンス実る
   相沢中佐、決意の上京
   “日本で一番悪い奴は・・・・”
   天誅の刃、統制の府に舞う
   第一報にさわぐ胸の血
   「嘘をつくことは苦しいものだ」
   義挙が生んだ西田・大岸の復交
   末松太平の結婚にひと役
   特別弁護人決定のいきさつ
   青年将校を全学連に対比する無礼
   狂人仕立てとは何ごとか
   中隊長として羅南復帰へ

4 北辺にたぎる苦悶

おれは必ず帰ってくる
   いいか、まだまだ早いぞ
   玄界灘に相沢を思う
   心中策あり“無言の第一声”
   貴重品とは何のことだ
   盟友朝山小二郎と佐々木二郎
   まず大隊長をやりこめる
   二将軍の巡視を迎えて
   連隊長と「公私」論争
   “変わった男”の異名とる
運命の朝、衝撃の飛電
   おい、顔が真っ青だったぞ
   流血、邦家を浄め得るか
   連隊長に誠心の開陳
   「独断で東京に行ってくれ」
   暁のショック、撤兵勧告打電へ
   いまさら上京もムダです
   逮捕―間一髪で重要書類を隠す
   西田ゆかりの合同官舎
   のぞき見た調書に怒り
   話せる法務官・卑劣な連隊長
   剣付き鉄砲の下で面会
   護送の車中で思わぬ悲報
史実と俗論―松本清張氏に与う
   記録類の意外な誤り
   うがちすぎた推理も困る
   山口大尉の演説事件
   AB“二つの会合”とは何か
   松本清張の愚論を叱る
   なぜ2月26日に決行したか
   安藤大尉の苦渋を分析
   決行に踏み切らせたもの
   西田税の心境の推移
   秘密を知った夫人の苦衷
   妄説“北と三井のくされ縁”
   いわれない西田への曲解

5 長恨のわかれ

代々木原頭、夏草のむせび
   全国的な大検挙を知る
   中橋中尉と指信号交換
   相沢処刑・同志への判決
   対馬中尉、最後の微笑
   処刑前夜・・・・時ならぬうたげ
   貴様らのまいた種は実るぞッ!
   実弾、三たび耳を裂く
   英魂よみがえる雷雨の初七日
   予審中のただ一つの嘘
   日本の運命を予告した北一輝
   驕倣、国を誤るのとき
   公判第一歩で法務官にかみつく
   一方的な裁判の運行
   求刑は8年の禁固
   “大いなるもの”に托す運命
かけめぐる獄中の悲懐
   真﨑大将に対する曲解
   真﨑大将の真情の告白
   真﨑はただ“気の毒な将軍”
   有名税?の禁固4年
   江藤中尉の自殺的戦死
   片岡俊郎との再会
   小川三郎の自殺的戦死
   無冠の身に西田との永訣
昭和聖代の一大ご失政
   看守長に先制、仕事も辞退
   なんでオレの評判を気やすく・・・・
   北・西田がなぜ殺されたか
   胸えぐる磯部の証言
   鋭利な三島由紀夫の卓見
   立石曹長の自殺未遂
   転向勧誘でモンニャク問答
   貴様らにも病名をつけてやる
   減刑の恩着せに怒り爆発
   法相上願を決意、所長あやまる
   3年2か月ぶり、ついに仮出所

6 エピローグ

一切空に散った北一族
   すず子夫人の終焉まで
   大輝の不心得を一喝
   “おあじが迎えにきた”
   張群にいだかれて故山へ

2・26事件の歴史的な意味・・・・・・・・高橋正衛

主要人名索引


著者は、早いうちから、この「2・26事件」となる“昭和維新”の計画に関わっていた元陸軍大尉。
「相沢事件」の相沢中佐とも知り合いで、また、「2・28事件」を引き起こす首謀者たちとも面識があった。
ある意味、首謀者の一人ともいえるかもしれない。
しかし、事件当日は、著者は外地(海外)に転任していたため“事件”には加わることができなかった。

著者が親しく交流していたのは、事件を起こした現役青年将校より、すでに免官となって軍隊を辞めていた西田税や磯部浅一だったようである。
特に西田とは親しかったようである。

私の祖父も“蹶起”に参加しないかと誘われたが断っている。
誘ってきたのは、確か近衛騎兵連隊にいた篠村御民という人だったと思う。
当時、祖父は中隊長・・・
もし、あの時に部下を率いて“蹶起”に参加していたら、その後、間違いなく首謀者の一人として処刑されていただろう。
篠村氏は西田税と親しかったという話を聞いたことがある。
ならば西田からの誘いだったのかと思っていたのだが・・・・
本書を読んでみると、西田は“蹶起”は時期尚早ということで、2月26日の実行にはギリギリまで乗る気ではなかったようなのである。
そういう人が、他部隊の中隊長を巻き込もうとしたのだろうか?
どうも、そのところがわからない。
「もし、そういうことが起こった時は手を貸してくれ」程度の話だったのだろうか?
祖父になぜ「2・26事件」に加わらなかったのかを尋ねたことがあったが、理由は教えてくれなかった。
祖父を誘った篠村氏は、事件後、“叛乱者”に近い人物として軍隊をクビになっている。
が・・・その後、再び軍人に返り咲き、確か90歳ぐらいまではご存命だったと思う。
戦後、氏が祖父に送って来た自筆の「馬の絵」を見たことがあり、そこには「八八翁」だったか「九十翁」だったか、なにか年齢が書かれていたのを記憶している。

著者の大蔵大尉は、事件には直接参加していないが、「叛乱者に利する行為をした」との罪で禁固刑になっている。
事件後、多くの“同調者”が処分を受けているが、外地にいて、これといって何もしていない著者が禁固刑というのは、ちょっとやりすぎではないかという気がする。
本書を読んでいみると、いかに著者が「反骨精神」旺盛な人なのかがよくわかる。
生粋の「血気盛んなる青年将校」という感じ・・・・
読めば読むほど、私と似た性格なので笑ってしまったが・・・
そういう「反骨精神」が禁固刑を招いたのかもしれない。

事件に関しての後世の論評にはかなり手厳しい指摘をしている。
特に、西田税が、かなりの誤解をもって描かれていることには憤慨している。
また、松本清張の書いたものに対しても、かなり厳しい批判をしている。
外地に転出する直前まで、彼らと行動を共にしていただけに、内情をよく知り、西田税、北一輝あたりの人物のこともよく知っているだけに許せないのだろう。
そういう意味でも、本書は非常に貴重な「証言」であると思う。


今年の読書:49冊目



読書 | 10:33:51 | Comments(0)
風邪ひいた!(涙)
インドネシアから帰宅して一夜明けたら・・・・
朝から咳と鼻水・・・
あ~あ~・・・・風邪だぁ~!(涙)

旅行中のあの胃のムカムカはケロリと治っているが・・・
今度は咳と鼻水の攻撃である!(唖然)
やっちゃったぁ~
風邪ひいちゃったぁ~
どうもあの胃のむかつきは風邪の前兆だったようである。
(間違っても何かの憑依ではない)(大笑)

親父にうつしたら大変である。
一日中、マスクを着用・・・・
なんとも鬱陶しい・・・・(涙)

日記 | 20:54:57 | Comments(0)
帰国しました!
はい!

いつものように、無事に帰国してしまいました!(大笑)

が・・・・

風邪をひいたのか・・・・

それとも歳のせいで体力がなくなったのか・・・

疲労困憊、体調不良での帰国です。

こういう場合は・・・

「無事に帰国」とは言わないか・・・・(大汗)

日記 | 20:33:41 | Comments(0)
帰国・・・・スパゲティーのお店に感謝!
午前8時50分・・・羽田空港に到着・・・・
拙者は朝食を食べたっけ?(苦笑)
意識朦朧・・・記憶なし・・・・(大笑)

機内泊の場合、拙者は電気シェーバーを手荷物に入れておくことにしている。
そいういことだけは、しっかりとやっていた・・・(苦笑)
トイレに行って髭を剃る・・・・(笑)

スーツケースを受け取り、ツアー仲間にご挨拶・・・
いやぁ~今回は、みなさんにご心配をおかけして本当に申し訳ございませんでした・・・(汗)
「体調・・・大丈夫ですか?」
「相変わらずですが、大丈夫です」
「やっぱり何かに憑りつかれたんじゃないの?」(苦笑)
「まさか・・・・」(苦笑)
みなさんが、「嫌なもの見ちゃったからなぁ~後で神社に行ってお祓いしてもらおうと思っているんですよ。あなたもお祓いしてもらった方がいいですよ」と口々に言うのには参った・・・(大汗)
今回のツアー・・・みなさん、とんでもない経験をしてしまったようである。(大笑)

京急に乗って品川駅へ。
ここから特急で帰宅する予定なのだが、タイミング悪く、拙者の降りる駅に停車する特急までは、あと2時間以上もあるのである!
小雨の中、スーツケースを転がしながらウロウロ・・・・
コーヒーショップを探してコーヒーを飲み、時間を潰し・・・・
さらに、少し時間が早いがお昼を食べねば・・・ということで開店早々のスパゲティーの店に行く。
ここは過去に何度か利用したお店・・・・
喫煙席があるので、品川駅では、いつもここを利用している。

昼食に頼んだスパゲティー・・・・・
食べてみたら、恐ろしいほど塩辛い!
うそでしょ!・・・というくらいショッパイのである・・・
もしかして、拙者の味覚がおかしくなってしまったのだろうか?(大汗)
申し訳ないんだけど、塩味が効きすぎていて食べられないので・・・とウェイターにスパゲティーの皿を片付けてもらい、コーヒーだけを飲む。
まもなく、ウェイターがやって来て「厨房に確認しましたら、レシピ通りなので、塩の量を間違えたわけではないのですが、ということなのですが・・・塩味控えめのものを作り直しましょうか?お時間大丈夫ですか?」と言う。
過去に何度も顔を合わせているウェイターなので、拙者の顔を覚えていたからなのだろうか?
親切である・・・・(喜)
そこまでしなくてもいい・・・と断ったのだが、わざわざ塩味控えめのスパゲティーを作ってきてくれた。
感謝、感謝である。
これは・・・食べられた!
ちょうどいい塩加減である・・・・
ということで全部平らげた・・・(笑)
幸いにも胃のムカムカはかなり収まってきている。
で・・・・支払い・・・・
スパゲティーは一品だけ・・・・
「あれ?これじゃ悪いから、最初のと作り直したものと2皿分払います」と言ったのだが・・・
「この金額で良いですから・・・」と固辞された・・・
いやぁ~申し訳なし!感謝、感謝である!(大喜)

で・・・・・
無事に特急に乗り・・・・
クタクタ、ボロボロになって帰宅する。(大笑)

旅行 | 15:12:07 | Comments(0)
ジャカルタ市内観光
今日は日本に帰国する日・・・・
しかし、飛行機は午後11時30分発・・・つまり夜遅く帰るので、日中は市内観光を行う。

DSCN3095_convert_20161018151405.jpg (ホテルの部屋から見た景色)

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(移動途中で見た景色)

胃の調子は相変わらずなので、朝食は果物だけを食べる。

ホテルをチェックアウトして・・・・最初に向かったのは、独立記念塔・・・・
この記念塔は、広大な独立広場(ムルデカ広場)の中心にある。
歩いていくのは大変なので(?)、この公園内を巡回している、なにやら子供の乗り物みたいな「バス」に乗って向かった。(笑)

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DSCN3101_convert_20161018153318.jpg (独立記念塔)

この独立記念塔は大理石でできているのだそうで、高さは130mほどあるのだそうだ。
地階は博物館になっていた。(大喜)

DSCN6140_convert_20161018170844.jpg (地階の博物館)

この博物館は、インドネシアの歴史をジオラマで展示している。
日本軍に関する展示も、過去には結構あったらしいが、リーダーの“イズミさん”の話では、なぜか、少なくなっているという。
解説文は、すべて英語で書かれていたが、短時間で読むのは拙者には困難だった・・・(大涙)
かなり時間を取らないと・・・無理!(苦笑)

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(824年のボロブドゥール寺院の建設工事の様子のジオラマ)

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(1873年に起こったアチェ戦争のジオラマ)

アチェ戦争は、オランダがスマトラ島のアチェ王国を侵略した戦争のことである。
この戦争は1904年までの31年間も続き、結局、アチェ王国は滅びた。
たしか、アチェには戦時中、日本軍が駐留していたはずだが、部隊名が思い出せない・・・(汗)
何年か前に、ここを震源地とする大地震もあったような記憶がある。
たしか・・・アチェだったよな?

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(1945年・昭和20年・8月17日に行われたインドネシア独立宣言のシーン)

インドネシアの独立宣言は日本が降伏した2日後に行われている。
驚いたことは、この独立宣言文の日付が05年8月17日となっていること・・・
この05年とは、日本の皇紀2605年の事なのだという!
間違っても1945年の45年ではないというところがすごい。
敗戦国の年号を使うなんてチョット考えられない話だが、日本がいかにインドネシアの独立に貢献したかの表れかも。

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(1955年にバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議のシーン)

第1回アジア・アフリカ会議は、インドネシアのバンドンで開催されたので「バンドン会議」としても有名。
参加国の多くは第二次世界大戦後に欧米の植民地から独立した国だったという。
が・・・第2回は開催されず、そのまま消滅してしまったらしい。
なんとも残念な話である。
いつまでも欧米白人主導っていうのは・・・・正直言って面白くないんですけど・・・(苦笑)

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確か・・・この「歴史博物館」の上の階だったと思うが・・・
「独立の広場」と呼ばれる場所だったと思う・・・
ここは中央の“柱”以外に何もないような場所なのだが、この中央の扉が1時間に1回ぐらい開いて、独立宣言を読み上げるスカルノ大統領の肉声が流れる。
ちょうど他に観覧者もなく、定刻の時間まで待つわけにもいかなかったので、ガイドが交渉して特別に、この「イベント」を開催してもらった。

次は、市内各地に残る日本統治時代の建物を、少し徒歩を交えて見て回る。

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何が写っているのか分からないと思うが・・・・(大笑)
この建物は、第16軍の司令部に使われた建物である。
現在はエネルギー省として使われている。
道路の反対側からしか写真は撮ってはいけないとのことなので、どうしても街路樹が邪魔になってしまう。
ダメというものはダメ・・・・仕方がない・・・・
その他の建物も、すべて道路の反対側か遠くからしか撮影できないとのこと。

第16軍は、日米開戦の直前、昭和16年11月に編成された軍で、ジャワ攻略戦を担当した。
インドネシア占領後は終戦まで同地で軍政を敷いていた。
第16軍とは日本陸軍の戦闘序列の一つで、南方軍(南方総軍)の下に「方面軍」というのがある。
その中で、シンガポール方面の作戦や防衛を担当したのが第7方面軍・・・
その方面軍の下に直轄部隊と、第16軍、第25軍、第29軍などの「軍」があり・・・
そのうちのジャワ島(インドネシア方面)を担当したのが第16軍である。
そしてその下に第48師団というような「師団」「旅団」等の実戦部隊がある。

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この建物は・・・大統領官邸である。
普通の観光客には「大統領官邸」としか見えませんが・・・・(大笑)
戦時中は、第16軍司令官の官邸として使われていた建物なのである。
ジャワ攻略戦(蘭印作戦)でインドネシアを攻略し軍政を敷いた初代の第16軍司令官は、かの有名な今村均中将である。
今村中将は宮城県仙台市の出身・・・・
この人の軍政は、負けたオランダ人や、現地住民に対して寛容な軍政だったため、陸軍内部から「甘い」という批判をされ、強硬な軍政を敷くべきだとの批判も受けたといわれている。
戦後はオーストラリア軍に懲役10年の刑を言い渡され(オランダ軍の裁判では無罪)、刑に服し、刑期を終えた後は自ら「謹慎生活」を送り、昭和43年に82才でこの世を去っている。
その今村さんが、住んでいた場所である。(嬉)
今村司令官は、ここから馬に乗ってパカパカと司令部に“出勤”していたという。(笑)

 

続いて向かったのは、「独立宣言起草博物館」・・・・

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この建物は、戦時中は日本海軍の海軍武官官邸だった。
当時、ジャカルタの海軍駐在武官は前田精少将だったので、別名「前田邸」とも呼ばれたようである。
終戦の翌日、つまり昭和20年(1945年)8月16日、この官邸にスカルノ(のちの大統領)、ハッタ(のちの副大統領)などが集まり、この建物内で独立宣言の草案を練ったという。
前田少将が場所を提供し、独立運動に手を貸したということになる。
当然、独立宣言の草案にも関わったのだろうが、日本は戦争に負けて降伏した直後だし・・・・
ということで、草案自体や、その打ち合わせは“黙認”という立場を取ったとか・・・
「知らないうちに勝手に建物の中に入って、勝手に何かを作ったようです」とトボケたのだろうか?(大笑)
そういう、いきさつのある場所なのである。
そこで、この建物が「独立宣言起草博物館」として公開されているらしい。
非常に歴史的に価値のある建物ということになる。

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DSCN6156_convert_20161018204818.jpg (独立宣言をタイプしているシーン)

DSCN6158_convert_20161018204858.jpg (独立宣言草案の打ち合わせシーン)

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前田精(まえだ・ただし)少将を紹介するパネルの展示もあった。
前田少将は鹿児島県出身の人。
戦後もご存命で、昭和52年(1977年)に79才でこの世を去っている。

残念だったのは、この博物館には何の資料も販売していないという事・・・
受付嬢に英語で尋ねたら、博物館のリーフレットもインドネシア語のものしかないという。
日本語のものでなくとも、少なくとも英語で書かれた「独立宣言起草」に関して書かれた書物でも販売していたら買ったのになぁ~
なんとも残念・・・・
インドネシア人というのは、本を読まない人種なのか?(苦笑)
ミュージアムショップで書籍を見かけるということがない・・・・
いや、ミュージアムショップ自体がない・・・・(汗)

次に向かったのは「軍事博物館」!!(大喜)
拙者の一番、興味のある分野の博物館である。(大笑)

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この建物は、デビ夫人の別邸だった建物だという。
その建物が、博物館となったわけだが、“軍事”博物館ということで、デビ夫人の別邸だった当時を偲ぶようなものは見当たらなかった。(苦笑)
「デビ夫人」は、スカルノ大統領の第3夫人で・・・・本名は根本さんという日本人だそうだ。
日本でタレントとして活躍しているが、そういえば、最近、あまり見かけないような気がするが・・・・お元気なのだろうか?

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ここにもジオラマの展示があった。
よほどインドネシア人というのはジオラマが好きらしい・・・(笑)
確かに分かりやすいから、パネル展示だけというよりは良いが・・・・
このジオラマは、日本の憲兵隊司令部を攻撃しているシーンらしい。(大汗)

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銃器類の展示もあった。
その中に、またもや日本陸軍の九二式重機関銃が・・・・(喜)

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館内の展示物をササッと見学して、屋外の展示場に行く。
こちらには、航空機、戦車、装甲車などが展示されていた。

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(アメリカのB-25)

この飛行機・・・「B-25」は陸上機なのに空母から発進して日本本土を初めて空襲した「ドゥーリットル空襲」で有名な機体である。

ここには日本軍の飛行機も展示されていた!(大喜)

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この複葉機は「九三式中間練習機」だと思う。
海軍の練習機で、「赤とんぼ」という愛称で有名な機体で昭和9年(1934年)に生産が開始された飛行機である。
この機体はインドネシア軍に接収されたもので、インドネシア空軍では昭和22年(1947年)まで使われていたらしい。

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この機体は日本陸軍の「二式高等練習機」だと思う。
この飛行機は陸軍の九七式戦闘機を複座に改造し、練習機にしたもので、昭和17年に制式化され生産を開始した。
この機体も、戦後、インドネシア空軍が使用していたもの。
この「二式高等練習機」は、世界中を探しても、ここにしかないと思う。
貴重な機体である。

ところで・・・これらの展示機体の説明板は・・・・すべてインドネシア語!(大泣)
どのように説明されているのか全く分からない・・・(苦笑)

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この飛行機は「パイパー」という飛行機で、日本のものではなくアメリカの飛行機・・・
戦時中には、「観測機」として使われていた飛行機である。
フィリピンの北部ルソンで戦った日本兵の体験記には、必ずと言っていいほど、この「観測機」の話が出てくる。
上空をブンブン飛び回り、日本兵を見つけては砲兵陣地に連絡し、敵の砲兵部隊が大砲の弾を撃ち込んだのである。
日本兵の中では「アブ」(あの虫のアブのようにブンブンうるさく飛ぶから・・・)と呼んでいた人も多い。
低空を低速で飛んで「観測」するのだが、地上から小銃を撃っても当たらない・・・
逆に隠れている場所を知られてひどい目にあうので、手の施しようがなく飛ぶに任せていた。
拙者の祖父も、北部ルソンの山岳地帯では、この飛行機に散々苦しめられたのである。
う~ん・・・憎き奴め・・・ここで会うとはな・・・(大笑)

この博物館にもミュージアムショップのようなものはない・・・・(涙)
もったいないなぁ~
インドネシア独立戦争の本とか、博物館のガイドブックとかを置いて売ればいいのに・・・・

時刻は12時を過ぎた・・・・昼食に向かう。
昼食場所は市内のレストラン・・・
ちょうどパラパラと雨が降り出した・・・
グッドタイミングである。
屋外の展示物を見学中に雨に降られなかったのは本当に幸運である。(喜)
が・・・・相変わらず拙者の胃はムカムカとして、全く食事を受け付けない・・・(涙)
食欲は全くなし・・・
最悪である・・・・

続いて向かったのは、「国立英雄墓地」
ここが今日最後の訪問地となる。
幸運なことに、雨は完全に上がってくれていた!(喜)

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ここは、インドネシアの独立の時に戦って戦死した方々が葬られている。

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お墓には、銀色に塗られたヘルメットが供えられている。
この墓地の中で、「ISHI(石井)」とか「SUZUKI(鈴木)」とか、明らかに日本人と分かる名前があった。
終戦後、日本に帰らず現地に残留してインドネシア独立のため戦った元日本兵の方なのだろう。

ここをお参りし・・・・時刻は午後5時を過ぎた・・・・

空港には午後9時頃までには到着しなければならない。
途中のレストランで夕食を食べてから・・・・という予定だったが・・・・
渋滞に阻まれ、時間がドンドン過ぎていく・・・(大汗)
まもなく午後7時・・・・
ガイドに尋ねたら、レストランまで、あと1kmくらいだという。
それなら、歩いた方が早いんじゃないか?(苦笑)
1kmくらいなら、徒歩で15分もあれば到着するんじゃないか?
ところが・・・ガイドは、どうしても車で送り届けたいらしい・・・(大汗)
おかげで、わずか1kmを移動するのに1時間もかかってしまったのである!(驚)
レストランに到着したのは午後8時・・・・
今晩は中華料理だという。
とてもじゃないが、食事なんかしている時間などない!(怒)
到着と同時に、ここを出なくては空港に間に合うまい?(大汗)
ここで食事をするのを諦め、15分以内にテイクアウトできるよう頼むこととなった。

15分では、いくらなんでも無理だろうと思ったら、キッカリ15分後には、発泡スチロール製の弁当箱(?)に詰められてテイクアウト!
この手際の良さには驚いた。(大笑)
車内で食べようかと蓋を開けたら、1つの箱には「揚げ団子」だけ、1つの箱には「チャーハン」だけ、「スープ」はビニール袋に入れてある・・・といった具合で、これでは車内で食べることができない・・・・(大涙)

なんとか、渋滞を切り抜け、無事に空港に到着・・・・
ガイドが空港のエントランス脇のレストランと交渉してくれて、“持ち込み”で食事をさせてもらうことができた。
場所だけを使用するというのも申し訳ないが・・・・
なにせ、ここでも“食事”を提供しているわけだし・・・そこに中華料理を持ち込んで食べるんだからねぇ~(唖然)
飲み物だけをお店に注文して、ご勘弁願う。(苦笑)
さて・・・中華料理・・・・
やっとピリ辛ではない料理にありつけると喜んだのだが・・・
スープなどの汁物はビニール袋に入っているし、“あんかけ”の蟹も同様・・・・食べようがない・・・(涙)
食べられるのはチャーハンと、デザートくらいである・・・(涙)
何も食べないよりは良しとするか・・・・
みんなで突っつき合いながら食べる・・・
手を付けずに残したものは、このお店の従業員に「皆さんで食べてください」とプレゼントした。
下手な英語でも身振り手振りで、なんとか意味が通じたようである。(大笑)
いやぁ~本当に、ご迷惑をおかけしました・・・・(汗)

チェックイン・・・・
リーダーは「全員通路側でお願いしたい」とカウンターの職員に英語で要望を出した。
これには拙者も賛成である。
機内泊の場合、通路側に座ったほうが、夜中にトイレに行くときに隣の人を起こすような迷惑をかけずにすむ。(大笑)
ところが、我がツアーの参加者の一人が事情を知らずか、横から「全員1か所にまとめて席を取ってください」と職員に言ったから混乱しちゃった・・・・
おい、おい、待てよ・・・である。
二人の言っていることが真逆じゃないか?
「絶対、全員、通路側のほうがいいですって!バラバラになってもいいから通路側!どうせ寝るんだから会話なんかしないでしょ?通路側をお願いします!全員、通路側!」と拙者が強引に押し切る。(大笑)

午後11時30分、ジャカルタ発羽田行きガルーダ航空GA674便に無事に搭乗・・・・
もうクタクタである・・・・
ここ数日、ほとんど何も食べずにいたんだから無理もないか?(苦笑)
爆睡である!
機内食が出たのか、出なかったのか全く記憶にない・・・・(大笑)

旅行 | 15:12:01 | Comments(0)
憑依なのか、演技なのか?
DSCN3072_convert_20161017124201.jpg (レストラン)

この頃になって、どうも拙者の体調に異変が起こり始めた。
胃がムカムカするのである。
どうも胃をやられたらしい。
疲れているところにピリ辛の食べ物など刺激物を食べると、拙者は胃が痛くなる時がある。
最終的には、胃痙攣のような痛みで七転八倒となる。
過去に2度ほど、これで入院したことがある。
結局、原因はわからず、疲れているところに刺激物を食べたせいだろうということで一件(本当は2件?)落着した。
それからは、できるだけ刺激物を食べるのを避けてきたが・・・・
さすがに、ここインドネシアでは、そうはいかない。
何でもかんでもピリ辛なのである!(涙)
味はすこぶる良く美味しいのだが・・・・この調子で行くと、いつ激痛が起こって七転八倒の苦しみを味わうか分かったものではない。(大汗)
ということで・・・拙者の今日の昼食は、この程度・・・

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これだけ食べるのだって、限界ギリギリである。

これから、某個人宅の庭にある日本の慰霊碑にお参りに行くという。
これも当初の旅行行程表にはなかったことなのだが・・・過去のこのツアーでも、こういうことは頻繁にあるので気にしなかった。
どうも、ツアー参加者の中の紅一点(70代の女性、あえて名を秘す)のお兄さんが終戦間際にインドネシアで戦死したらしく、その慰霊祭をするのだという。
それも、良いことだと思っていた・・・
この女性・・・「辛いものは食べられないんです」と言っていたが、ついに私と同様、体調が悪くなったのだろう「食欲がないので私は食べません」と言って食事をせず、飲み物だけで済ましていた。
拙者と同様にピリ辛のせいで胃を痛めたのかと思っていたのだが・・・

まもなくして・・・突然、ブツブツと言い出した・・・(唖然)
「“昨日来る予定だったのに、なんで来なかったんだ!”と英霊が言っています」と言うのである。(唖然)
さらには・・・
「“すぐ近くまで来ていながら、何を食事などしているんだ!なぜ、すぐに会いに来ないんだ!”と英霊が言っています」と言い出した・・・(唖然)
おい、おい・・・である。
それを言ったら、他の人たちが落ち着いて食事ができまい?
昨日訪問予定だったのは確からしい(拙者たちは聞かされてはいなかったが)が、ガイドを通して現地の方と打ち合わせをしたかったが、うまく連絡がとれなく、今日になったのだとリーダーが説明した・・・
しかし、「なにをもたもたしてるんだ!すぐ目の前まで来てるのに!」・・・とやられたのでは堪ったもんじゃない・・・(汗)
「はい、はい、ササッと食事を済ませて、すぐ向かいますから・・・」とリーダーも大変な気の使いようである。
おかげさまで、皆さんは落ち着いて食事ができない様子・・・・可哀想に・・・
それにしても、言っていることは、自分が言いたい「文句」じゃないのかね?
「英霊が言っている」と言っているが、実のところは自分の「文句」を勝手に英霊の名を借りて言っているだけじゃないのかね?(汗)
どうも怪しんだよなぁ~(苦笑)
「英霊」をダシにして自分の言いたい文句を言ったとしたら、不謹慎であり、英霊に失礼である。

急いで食事を済ませ・・・さて、出発しますか・・・という段になって、この女性・・・・
「慰霊には、お水が大量に必要です」と言い出した。
急いでお店にあったミネラルウォーターを十数本購入する。
さらに「果物も必要なんです!これは絶対に慰霊には欠かせないのです!」と言い出す。(唖然)
おい、おい、我儘が始まったか?
それならそうと、早いうちに言っておけば、どこかのマーケットで買っただろうに・・・・(汗)
レストランの食材として保管していた何か柑橘類の実を特別に分けてもらったようである。
レストランでも食材を持って行かれたのでは迷惑だったろう。
一応、カネは支払ったようである。

さて、慰霊碑は・・・・
住宅街の中にあるらしい。
地元在住の日本人が土地を提供し、戦友会等が寄付を集めて慰霊碑を、その方の家の庭に建てたらしい。
パレンバンでは、日本の慰霊碑は、ここにしかないらしい。
残念ながら、この日本人はすでにお亡くなりになっているそうで、続いて奥さんも亡くなられ、その方の家は親戚の方が管理されているという。
そういうわけなので、以前から知っている人だけが知っているだけでいいだろう。
あえて、この方のお名前や場所、場所が分かるような写真は掲載しないことにする。
個人宅の敷地でもあるので、ここを管理している方にご迷惑をおかけしたのでは申し訳ないので・・・・
で・・・この方の家で、しばし待たされた。
慰霊碑は庭にあるというのだが・・・なぜ待たせるのだろう?
しばらくしてから、案内された場所は、同じ住宅街にはあるが、少し離れた、この家とは別の場所である。
親戚の方のお話によると、その慰霊碑のある土地は別の人に売ってしまったのだそうだ。(驚)
しかし、慰霊碑はそのままの状態であるらしく、その土地の持ち主に門の鍵を借りに行っていたという。
それで時間がかかったわけだ・・・・
ということは、昨日、うまく連絡が取れなかったのは、この慰霊碑の土地の持ち主と連絡が取れなかったからなのかな?
ようやく事情が分かってきた・・・・(笑)

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「平和祈念之碑」・・・という、かなり立派な碑である。


(碑文)

先ノ第二次世界大戦ニパレンバン及ビ其ノ周辺海域並ビニ島内各地ニ於イテ故国ノ土ヲ踏ムコトナク散華セラレタル英霊ヲコゝニ祭ル
パレンバン慰霊碑奉賛会長 徳重房夫 謹書


第18航空情報隊
高射砲第103連隊
第1航空通信連隊
パレンバン憲兵分隊
挺進第2連隊
第9飛行師団(代表)
    飛行第58戦隊
    第46飛行場大隊
    第■■(16?)野戦航空修理廠第2分廠
軍艦 足柄
兵站自動車第160中隊

本碑ハ元隊員阿部哲雄氏ノ発意ニヨリ同氏夫妻ノ献身的奉仕ト元隊員有志ノ浄財ニヨリ建立セラレタルモノナリ
1995年3月10日
第18航空情報隊有志建立


東南アジアなど各地に日本政府が建立している慰霊碑より、まともな碑文が書かれていた。(喜)
さすがは戦友会の皆さんだ。
この碑の建立には、多くの戦友会・生還者等が関わっていたことがわかる。

日本庭園風のこの庭には各戦友会が寄進した灯篭が、ずらりと建っている。

さて・・・ここで慰霊祭ですね・・・と思ったら・・・・
“主役”のこの女性が、いきなりゲロを吐きながらのたうち回ったのである!(唖然)
何が起こったのやら・・・・一瞬、わからない・・・
慰霊碑の脇に突っ伏してゲーゲー吐き始めた・・・(大汗)
そして・・・ぐったり・・・・
周囲の人たちは「大丈夫ですか!大丈夫ですか!」と大騒ぎである。
日本から持参した何かを庭に埋めねばならんのだそうで・・・
「これをしなければなりません!これは作法なのです!庭に穴を掘って!穴を掘って!これを埋めてください!」と叫ぶ・・・
あのね・・・ここは他人の土地なんですけど・・・・(唖然)
土地の持ち主も、困ったようだが、この騒ぎ見たら断るにも断れ切れなかったのだろう、庭に穴を掘ることを許してくれた。
この女性・・・「穴を掘って!」と我々に“命令”である。
「なにかに憑りつかれたんですかね?」とツアー参加者の一人が拙者に尋ねてきたが・・・・
「さぁ、どうなんでしょ?」としか答えようがない。(苦笑)
拙者には、どうしても昼食の時の彼女の発言が引っかかっているのである。

嘔吐と、ぐったりとを繰り返し、ようやく“慰霊祭”・・・・
すると、彼女から再び“命令”が・・・・
「私がお経をあげている間、“イズミさん”はお水を撒きながら庭を3周してください!これは大事な作法なんです!これをやらなくてはいけないんです!どなたかもう一人の方!お水を持って“イズミさん”の後を付いて歩いてください!」と言う。
こういう“命令”をするときは、シッカリとしちゃうんだぁ~・・・・へぇ~・・・である。(大汗)
そして読経・・・・
般若心経であるが、先ほどまでゲーゲーと嘔吐していた人とは思えない、腹に力の入ったお経である。(唖然)
拙者の正直な気持ちは・・・何、これ・・・である。
更に、作法がどうのこうのと言い出して、またもや“命令”・・・・
バカバカしくて付き合いきれないので、皆さんには申し訳ないが皆さんから離れて、この碑の建立に尽力された日本人の親戚の方とおしゃべりをする。(苦笑)
この方はインドネシア人の女性だが、一時期、日本にも住んでいたことがあるのだそうで、日本語が話せる。
「もう忘れてしまいました」と言いながらも、結構、上手な日本語を話される。

その間にも、この“紅一点”は、嘔吐と、ぐったりを繰り返しているようである・・・・
もう、1時間もこの調子なのである。
我々はこれから空港に向かわねばならないのだが・・・・
間に合うのか?・・・ジャカルタ行きの飛行機に・・・・(大汗)

ようやく、“慰霊”の儀式も終わるようで・・・・(苦笑)
またツアー仲間の一人が「これは、何という宗教なんでしょうね?」尋ねて来た。
拙者が知るわけがない・・・(苦笑)
「般若心経を唱えていたけど、お線香は上げないし・・・何でしょ?」としか答えようがない・・・
“紅一点”が言うには、「これは慰霊ではなく、日本から持参してきた石に兄の霊を移して日本に持ち帰る儀式です」と言う。
で・・・その石を靖国神社に納めるのだとか・・・(唖然)
「なんという宗教なんですか?宗派とかは・・・何なのですか?」との問いには・・・
「これは何教とかというものではなく、私の知っている先生から教わった作法なのです」と言う。
ふ~ん・・・結構、いい加減なもんなんだ・・・・(汗)

「思い込みが激しいと、ああいうことも起こるんでしょうねぇ~」と拙者に言って来た人もいたが・・・
たぶん、それが正解だろう。
勝手な思い込みである。自己満足の度が過ぎたものであろう。
拙者は完全にシラケ切ってしまっていたので、どうでもいい・・・・(苦笑)

で・・・レストランで「どうしても必要だ!」と騒いで無理して入手した柑橘類・・・・
袋に入れたまま放置・・・・お供えもせずに終わってしまったのである。
結構、いい加減なものである。

お線香をあげるわけでもないし・・・・どうも調子が狂ってしまった。
あんたは、兄の霊を連れ帰る・・・でいいが・・・我々はどうしたらいいのだ?(苦笑)
他の英霊たちへの慰霊はどうするの?(唖然)
しかたがない・・・慰霊碑に手を合わせて一礼・・・・これで“慰霊”をしたということにする。
お粗末・・・・

しばらく、現地人のご自宅で休ませていただくことにした。
“紅一点”は、リビングの床に寝そべったまま・・・「ここでいいんです!ここで寝かせてください!」と言い、挙句の果てには「水が飲みたい!水を飲ませてください!」と叫ぶ。
あ~あ~・・・どうしようもないなぁ~
“自分勝手な非常識な団塊の世代”丸出しである・・・・・(大汗)
あれが欲しい、これが欲しい・・・と我儘が始まった。
聞いちゃいられないので、タバコを吸うのを兼ねて家から外にである。
外の庭で、我がワゴン車の運転手と、慰霊碑の建っている土地の持ち主と3人で雑談・・・・(笑)
これが、なかなか難しい。
英語が通じないのである!(涙)
訳の分からんインドネシア語で話しかけてくるのだから・・・・話の1割も理解できない。
が・・・なんだかんだで会話が続くんだからおかしなものである。(大笑)

この家を管理されいている方が、果物などを出して、もてなしてくれた。(喜)
と・・・・“紅一点”は、「いやぁ~これ、美味しいわぁ~」と言ってパクパク食べ始めた・・・(唖然)
先ほどまで、ゲーゲーやっていたのに?
「あまり食べるとマズイんじゃないですか?胃に負担がかかるんじゃないでしょうか?」と注意したのだが・・・・無視された。(唖然)
なに・・・これ・・・・
まぁ、たいした“役者”である。
こういう“慰霊”をするなら、個人で来ていただきたかった・・・
ツアーに加わってやることではあるまい。(怒)
半日もこんな“演技”に付き合わされたんじゃ堪ったもんじゃない。
約2時間も・・・・ここで足止め状態である。
幸いにも、今日の午後は、他に行く場所を決めていなかったようなので良かったが・・・・・

ジャカルタに戻る飛行機は午後5時10分発である。
遅くとも午後3時10分までには、ここを辞さねばならない。
「何があっても無理やり車に乗せてでも空港に向かわないと間に合わなくなりますよね!」と念を押させていただいた。
で・・・・“紅一点”・・・・午後3時10分、このお宅を辞するときには元気溌剌、上機嫌・・・(唖然)

無事に空港につき・・・・これで一件落着・・・・ホッとしたのも、つかの間・・・大事件発生!(大汗)

チェックインして、スーツケースを預け・・・
手荷物をもって搭乗口に向かう途中のX線での検査で引っかかったのである!
“紅一点”の手荷物の中に大きな石が入っているのが見つかったのである!(唖然)
スーツケースに入れなかったのか?
係り員が、戻ってスーツケースに入れるか、ここで廃棄するかどちらかにしろと言う。
当然である・・・・
ご本人は「絶対嫌です!日本に持って帰るんです!」と大騒ぎ・・・・(唖然)
リーダーの“イズミさん”に「チェックインカウンターに戻ってスーツケースを戻してもらって入れるしかないでしょう」と進言したが、離陸まであと40分しかないのである。「時間がないから、そりゃ無理だろう」と言う。
ご本人は絶対嫌だ!手放さない!と騒いでいるし、どうしようもない。
なんというバカなことをしてくれたのか・・・(怒)
「とにかく行くだけ行ってみて、カウンターの職員に相談かけてみてください」と言って2人には引き返してもらった。
で・・・・拙者は荷物番・・・・
コーヒーを飲みたいが・・・・この場を離れるわけにはいかぬ・・・・
参ったなぁ~
いい迷惑である。

搭乗時間までに2人が戻ってきた。
どうにかスーツケースを探し出して石を入れたらしいのだが・・・・
なんと、そのゴタゴタの中で“紅一点”は「気分が悪くなった」と言って倒れてしまったという。(唖然)
死んだふりでもしたのか?(唖然)
都合が悪くなったら、その手を使うのか?
スーツケースは見つかったが、持ち主の本人は“死んだふり”・・・・
スーツケースの鍵が開けられず、仕方がないので“イズミさん”は自分のスーツケースに石を入れたという。
いやぁ~ご苦労様な事である。
気持ちが悪いだろうに・・・・霊が憑りついているという石を自分のスーツケースに入れるなんて・・・・(大汗)
「君にも一緒に行ってもらえば良かった。失敗したよぉ~。一人で大変だったんだぞ」と言われ、恐縮・・・・(大汗)
いつもの“お節介焼き”の拙者なら、率先して「一緒に行きましょう!」と言っただろうが・・・・
正直言って、今回は、そういう気が起こらなかった。
やっぱり、どうしても、あの昼食の時の発言と、あの“演技”が引っかかっていたのである。
“イズミさん”には申し訳なかったけど・・・・関わりあいたくなかったのである・・・(苦笑)

“紅一点”は、車椅子で登場!
気分が悪くなって倒れたということで、空港で車椅子を手配してくれたらしい。
「じゃぁ、あとはよろしく!今度は君の番だからねぇ~」と“イズミ”さん・・・・
う~ん・・・・拙者がわざと逃げていたことがバレバレ・・・だったか・・・・(苦笑)
「トイレに行きたい」と言うので、トイレまで車椅子を押す・・・
で・・・・トイレの中で、ゲーゲーである。(大汗)
だから、言ったのにねぇ~・・・・あんまり食べたんじゃダメですよって・・・ガツガツと果物を食べたせいだろう。
なんとも迷惑な・・・・(大涙)

午後5時10分発、ガルーダ航空GA115便でジャカルタに向かう。
離陸してまもなく、パレンバンの精油所の真上を通過するはずなのだが・・・
「そろそろ見えるはずだ」と“イズミさん”に教えてもらったが、座っていた席は反対の窓際・・・・(涙)
ジャカルタに戻る時は、進行方向左側の窓際に座らなければ精油所が見えない!(涙)
上空から写真を撮りたかったのに残念である。

午後6時20分過ぎ、ジャカルタ空港に着陸・・・・
そのまま夕食へ・・・・
今晩はレストランでの「宮廷料理」だとかというフルコースの料理だそうである。
体調が良好ならば最高なのだが・・・・
今はとてもじゃないが、食べる気が起こらない。
“紅一点”は気分が悪いからということで、夕食を食べずワゴン車の中で休んでいるという。
というわけで、4人での夕食ということになったが・・・・
次々と出される食事を見ただけで胃がムカムカして吐きそうになる。(大汗)
一口食べてみたら・・・・ピリ辛!
スープを一口飲んだら・・・・ピリ辛!
益々、胃がムカムカしてきて、どうしようもない。
皆さんには申し訳ないのだが、次々と運ばれてくる食事をことごとくお断りして持って帰ってもらう。(汗)
ということで・・・拙者の目の前には何も食事がない状態・・・・(苦笑)
当然、今晩の夕食の写真は撮れない・・・(大笑)

拙者が、まったく食べずに食事を次々と突っ返すので、レストランの女性マネージャーがやって来た。(苦笑)
「これは牛肉の料理でとてもおいしいですよ」
「いや、結構です」
「どうかしましたか?」
「胃が痛いので食べられないんだ。申し訳ないけど・・・・」
拙者の英語がうまく通じたのかどうかはわからない。(苦笑)
女性マネージャーは怪訝な顔をして去っていった・・・・
「変なものに憑りつかれたんじゃないですか?」とツアー参加者の一人から言われたが・・・・(大笑)
違うって!・・・ただ胃の調子が悪いだけだって!(苦笑)
参ったなぁ~
このレストラン・・・・イギリスのサッチャーさんとか、安倍首相なども来たことがある「高級なレストラン」なのだそうだ。
う~ん・・・よりによって、そういう高級料理の時に胃が痛むとは・・・残念・・・・(苦笑)

今晩のホテルは、初日に泊まったホテルと同じホテルである。
チェックイン後、さっさとシャワーを浴びて寝たが・・・・
夜中に3~4度目が覚めてしまった。
とにかく胃がムカムカして吐きそうなのである。
それで目が覚めたようである。
吐きそうなのだが、吐けない・・・・
症状が益々悪化しているような感じである。
一応、風邪をひいたのかもと思い、風邪薬は飲んだが・・・
そうそうすぐに効くものでもないし・・・・
ましてや空腹で飲んだから逆効果だったか?(大汗)
まぁ、痛くて七転八倒するよりは、良しと思うしかない・・・・・(涙)

旅行 | 12:38:57 | Comments(0)
奥本中尉の交戦場跡に行く
午前6時前には目が覚めた・・・
どうして海外に行くと早起きできるんだろう?(大笑)

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(ホテルの部屋から見た景色)

急いで朝食を食べて、ホテルの外に出る。
なにせ、夜に到着したので、ホテルがどんな建物で、周囲がどうなっているのか全く分からないのである。(大笑)
出発前のわずかな時間を利用して“見学”せねば・・・

DSCN3043_convert_20161016115919.jpg(朝食)

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(拙者が泊まったHOTEL ARYADUTA)(アルヤドゥータ・パレンバン・ホテル)

へぇ~なんか、すごいホテルに泊まったんだぁ~と今朝になって分かった次第・・・(大笑)

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(ホテルの前の道)

う~ん・・・何もない・・・つまらない・・・(苦笑)

チェックアウトの際、フロントの女の子たちにご挨拶・・・・
「スラマット・パギ(おはよう)」(笑)
通じた・・・
じゃぁ、ついでに・・・
「スラマット・パギ・ウンバッ」・・・・
「ウンバッ」は、確か「お嬢さん」という意味の敬称だったと思う。
目上の女性や年配の女性には「イブ」を使うらしい。
で・・・年齢だが、どうも30歳ぐらいを目途に、それ以下が「ウンバッ」、それ以上は「イブ」と使い分けるみたいである。
さて・・・フロントの女の子たちは・・・30歳以下か?(大笑)
どうも微妙なんだよなぁ~(大笑)
でも、一応・・・「ウンバッ!」・・・・
彼女たちに笑われた・・・でも、それで「OK!OK!」だと言う。(笑)
さらに調子に乗って片言インドネシア語で話しかけたら、「正しくは、こう言うんだ」と彼女たちに口々に訂正された。
が・・・メモをしなかったので、すぐ忘れちゃった・・・(大笑)
一体、拙者は何を口走ったんだ?(大笑)

ついでである・・・両替もしておこうか・・・
「プルミシィ(すみません)」と男性従業員に声をかける。
インドネシア語は、ここまで・・・
「両替してもらえますか?」は英語・・・(大笑)
そこまではインドネシア語を勉強していなかった・・・というより、覚えられなかった・・・(大笑)
この男性・・・1万円札を不思議そうな顔で眺め・・・パソコンのキーボードを叩き始めた。
そのうち、他の男性従業員に声をかけ何かしゃべっている。
ん?・・・・偽札じゃないんだけど・・・それ・・・
ふと、フロントの壁を見たら、「換算レート表」が掲示してあった。
あれ?・・・日本円の表示がない。
だいたいどこへ行っても、米ドルと日本円は表示されているのだが・・・
「YEN」の文字が見当たらない・・・
ありゃぁ~両替は無理かぁ~
「すみません。両替はできないですよね?」と言ったのだが・・・相手の男性は必死にキーボードを叩いている。
で・・・しばらくしてから・・・
「申し訳ございません。あちらにもあるように(換算レート表を指さし)、両替はできません」と丁寧な英語で言って来た。
だから・・・さっき、気が付いて「両替はできませんよね?」って言ったでしょ?…僕が・・・・(苦笑)
最初っから換算レート表を見ればわかると思うんだけど・・・時間をかけて一体、何を調べてたの?(苦笑)
「OK!OK!ジャカルタで両替するからいいよ~」(笑)
「是非、そうしてください」と男性・・・
彼の“不思議”な行動は、とうとう何だったのかわからなかった・・・(大笑)

出発時間である・・・・
「さようなら」って何て言うんだっけ・・・ど忘れした!(大汗)
仕方がない・・・英語で・・・・「バイ!バイ!」(大笑)
フロントの女の子たちがキャーキャー言って手を振ってくれた。
う~ん・・・なんだか、とても人気者になった気分である。(大笑)
もしかして拙者はモテるタイプ?(笑)
いや、いや、たぶん「変な日本人」と彼女たちは思っているに違いない・・・(大笑)

今日は、これから奥本中尉の奮戦の地に向かう。

昭和17年2月14日・・・・
挺進第2連隊の第一次攻撃隊339名が輸送機35機に乗り込んでマレー半島にある飛行場を離陸。
シンガポール上空を飛び越えてパレンバンに向かった。
この時はまだシンガポールは陥落していない。
シンガポールにいたイギリス軍が降伏したのは翌15日である。
パレンバンに向かった攻撃隊を護衛したのは「加藤隼戦闘隊」で有名な陸軍の飛行第64戦隊である。
攻撃隊はパレンバン上空で二手に分かれた。
一つは精油所の確保に向かう99名・・・
もう一つは飛行場を制圧するために向かう連隊長以下の240名・・・・
この飛行場を急襲する部隊は更に二手に分かれ、東南地区に連隊長以下180名が、南西地区に60名が降下することになっていたのだが、敵の対空射撃が激しく、これを避けているうち飛行場から1kmはなれた降下地点に降りるはずが、3kmも離れた地点に降下する羽目に陥った。
その中でも奥本中尉が率いる小隊は、輸送機の扉を開けるタイミングが遅れたため、飛行場から4kmも離れた場所に降下してしまったのである。
その場所に、我々は向かう・・・

奥本中尉が降下した場所は、ジャンピー街道と呼ばれた道路近くらしい。
現在は「国道1号線」になっている。(・・・と思う)

ジャンピー街道近くに降下した奥本中尉が把握できた部下は、たったの4名・・・
みんなバラバラに散らばっている。
ジャングルから抜け出て道路沿いに飛行場へ向かおうとしたら、飛行場の方向からオランダ軍のトラックが4両やってきた。
小銃や機関銃を入れた「物料箱」はどこか別の場所に落下したらしく入手不可能。
持っているのは拳銃と手榴弾2発と軍刀だけ。
唯一の銃である“拳銃”で、1両目と2両目のトラックの運転手を狙い撃つ・・・
先頭のトラックは脱輪し、2両目は横転した。
で・・・5人で突撃!(唖然)
たった5人でトラック4両に乗っているオランダ兵に立ち向かったわけである!
この肉迫攻撃でオランダ軍は戦意をなくし、あっさりと降伏してしまったらしい。(汗)
この頃には、銃声を聞いて他の場所に着地した部下たちも駆け付け、小隊の兵力は14名となっていた。
が・・・それにしても、オランダ兵はなんと根性のない連中なんだろう。(苦笑)
敵は100名くらいはいたはずなのに、あっさりと降伏である・・・(唖然)
その時に、今度は反対側から飛行場に向かって装甲車を先頭にした4両の車列がやって来た。
敵の兵力は約150名・・・
これに対しても、ジャングルの中から飛び出して“奇襲攻撃”・・・
30分程度の戦闘で敵は敗走・・・・
奥村中尉の小隊の損害は、戦死3名、負傷5名だったという。

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この場所が、ちょうど奥本中尉達がオランダ軍車両を襲った場所である。
70年以上も経てば景色が変わっているのは当たり前である。
当時は車両1台程度の幅の道路で、その道路のギリギリまでジャングルが迫っていた。
その景色を想像しながら現場を見る。
写真では、よくわからないが、この道路(国道1号線)は登ったり下ったりと起伏に富んでいる。
で・・・飛行場方向からやって来た敵は、ちょうど上り坂を登って来たところ・・・・
ちょうどスピードも遅くなる場所である。
たぶん、ギアをローギアに入れ直してエンジンを吹かす感じではなかろうか?
そこへジャングルの茂みの中から5名の日本兵が飛び出して、運転手を射殺したのである。
下り坂のスピードが出ている状態だったら、運転手を狙い撃ちするなんて無理である。
なるほどねぇ~
ここだからら、それができたわけだ・・・
リーダーの“イズミさん”の当時の戦闘要図を使っての解説を聞きながら納得である。

当時の雰囲気が全く残っていないジャンピー街道だが、裏手のほうに、多少、緑の残っている場所があるという。
「行ってみますか?」と“イズミさん”の声に、他の参加者たちの反応が悪い・・・(苦笑)
「是非!行ってみましょう!雰囲気だけでも味わいましょう!」と拙者から意見具申・・・(笑)
道路沿いの住宅街の中に入り、少し、緑の残っている場所を見る。

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当時はジャングルだったのだろうが、切り開かれて、住宅街となっていた。
我が町にある、どこかの団地という感じなのである。
しかも、かなりの「高級住宅地」・・・
緑の残っていた場所は、ここだけである。
ここにも、そのうち家が建っちゃうんだろうなぁ~(汗)

あの青空に白い落下傘がいくつも開いてフワリフワリと、このあたりに着地したんだろうなぁ~
降下したのは午前中・・・午後になると空が曇ってしまうので、午前中じゃないと降下地点が分からないから、午前中に降下したという。
季節は違うが、今も同じ・・・午前中は晴れているが、午後になると雲が増えて、あっという間に曇り空となる。
なるほどねぇ~・・・・とまたまた関心・・・

次の目的地に向かう途中で見かけた建物・・・・

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どうもホテルのようである。
いやぁ~・・・なかなかいいなぁ~こういう建物・・・・

次に向かったのは、「博物館」・・・・
博物館好きの拙者としては大感激である。
(旅行の日程表には書かれていなかった)
どうも歴史博物館・郷土博物館のような博物館だった。

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館内は、冷房が効いていなくて暑い、暑い・・・・(大汗)

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機織り機の展示があった。
東南アジア各国の博物館に行くと、よく機織り機が展示されている。
フィリピンでも台湾でも見かけた。
形は違うが、タテ糸とヨコ糸で、パッタン、パツタンと織ることには違いはない。
「布を織る」という、このやり方は、いったい、どこの誰が最初に考えたのだろう?
どこから伝わってきて、どこに向かって伝わっていったのだろう?
各国で織り機の構造が若干違うというのは、どういうわけか?
う~ん・・・この機織り機を見るたびに思うのである・・・(笑)

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民族衣装の展示もあった。
最近になって、なぜか服の模様とか装身具のデザインなどに興味を持ち始めた。
なんでそうなったのか・・・自分でも全くわからない。
突然・・・なのである。(笑)

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金の装身具・・・
どこかしらフィリピンで見たものに似ている気がしないでもない・・・
服の模様は4着だけでは、わからない。
もっとたくさんの物を見ないと何とも言えぬ。
装身具も同様だが・・・
もっとたくさん展示してくれたらいいのになぁ~と思う。

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王様(サルタン?)の部屋を再現した展示。
なかなか豪華である。

時刻は11時を過ぎた・・・
次に向かうのは、オランダ統治からの独立を記念した記念塔(碑?)・・・・
ここも当初の旅行行程には入っていなかった場所である。

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面白い形の記念碑(?)である。
こういうデザインの建造物・・・・日本にも欲しいなぁ~(笑)
中央に飾られている、鷲のような鳥は、インドネシア共和国の国章で、「ガルーダ・パンチャシラ」という。
このガルーダというのはインドの神話に出てくる神の鳥で、インドネシアは、この鳥を国章につかっている。
インド神話に出てくる鳥ということは・・・ヒンズー教の影響を受けていたということになるが、現在のインドネシアはイスラム教国である。
共存しているというか・・・インドネシア国民には違和感はないのだろうか?(苦笑)
ここインドネシアでは「ガルーダ」と呼んでいるが、他の国では「ガルダ」と呼んでいる。
以前、カンボジアに行った時にも、この「ガルダ像」を見た覚えがある。
その昔・・・・インドのヒンズー教は、東南アジアの広範囲に広まっていたということなのだろう。

この「記念碑」は内部が小さな資料館になっていて見学できるのだそうだ。
そうなると・・・呼び名は「碑」というより「塔」のほうが相応しいかも・・・・

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内部は3階か4階になっていたと思うが、狭いながら、回廊式に展示物が飾ってあった。
すべてインドネシアの独立に関するものである。
入場料は各自の支払いということで入ったが、これがちょっと面白い。
確か、20,000ルピア(約170円)を支払ったのだが・・・もらったチケットが4枚!(笑)
1枚5,000ルピアのチケットを4枚差し出してきたのである。(唖然)
このチケットには「Rp.5,000/Orahg」と書かれている。
つまり、1人5,000ルピアという意味だと思うのだが・・・
4枚出したら、4人が入館したことになっちゃうんじゃないのかな?(苦笑)
一応、金額のほうを合わせて、「領収書代わり」ということで4枚出したんだろうか?
1人20,000ルピアなら、最初から「20,000ルピア」と印刷したチケットを作ればいいのに・・・(大笑)
よくわからん・・・(苦笑)

ここで日本軍の機関銃を見つけた!(大喜)

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日本陸軍の九二式重機関銃である。
リーダーで元自衛官の“イズミさん”は、「似てるけど違うような気がする」とおっしゃっていたが・・・・
いや、いや、これは間違いなく日本の九二式寿機関銃だと思う。

最上階に更に梯子が・・・・
ここを登ると屋上に出られるそうだ。

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屋上に登ってみたら・・・手摺も何もない・・・(大汗)
ただの屋根の上なのである!(驚)
高所恐怖症の拙者としては、非常にマズイ場所に来てしまったことになる。(涙)

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ここが屋根の上・・・・(汗)
梯子を上って、この丸い穴から屋根に上ったのである。(苦笑)

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“屋上”からの眺めは非常に良い!
アンペラ橋がよく見える!(喜)
が・・・やっぱり、ちと、怖い・・・(苦笑)

屋上からの眺めを堪能し、下に降りる。
時刻はお昼・・・・
このあとは、昼食に向かう・・・・

旅行 | 11:54:44 | Comments(0)
精油所に行く
当時のパレンバンには、ムシ川の支流を挟んで2つの精油所があった。
西の製油所はオランダ資本の精油所で、東の精油所はアメリカ資本の精油所だった。
ここには当時、非常に珍しく、また貴重でもあった高オクタン価の航空用燃料を製造する設備もあった。
これは是非とも無傷で手に入れなければなるまい!(笑)
昭和17年2月14日、午前11時半に、ここに降下したのは「石油精製所急襲部隊」の99名の兵士たち。
たった99名で、ここを占領するというのだから「無茶振り」にもホドがある・・・(大笑)
しかも、その99名が二手に分かれて東西二ヵ所の精油所を占領するというのである!(驚)
ここを防衛しているオランダ軍の兵力は約500名・・・・
5倍以上の敵を相手にすることとなる。(唖然)

現在、この精油所はプルタミナ国営精油所となっていて、今も同じ場所で稼働している。
その設備は当時のままなのかどうかは知らないが・・・
場所は全く変わっていない・・・・

まず、精油所の事務所に伺い、構内見学の許可を求める。

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管理事務所(?)の中に精油所の模型があった。
このツアーの出発前に簡単に戦史を勉強したのだが、その中で、当時の日本軍の戦闘経過要図に「トッピング」と表記された場所がいくつも書き込まれていた。
この「トッピング」とは何のことやら、全く分からなかったのだが・・・
事務所の職員に尋ねてみたら、この模型の設備(プラント)が「トッピング」というものだそうである。
ようやく“謎”が解けた・・・(喜)

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事務所前の駐車スペースはムシ河に面している。
日本軍に攻められたオランダ軍は、最終的に、ここから船で逃げたらしい。

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精油所の職員(所長さん?)がバスに乗り込み同行・・・・
構内を巡ることとなる。
もちろん、下車はできない。
車窓からの見学のみである。

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事務所の裏手には住宅地が広がる。
これは社宅だそうで、建物はオランダ統治時代に建てられたものだそうである。
ということは・・・当時のまま?(驚!)
西精油所を制圧する60名の日本兵たちは、この住宅地を突っ切ったので、当時そのままの景色ということになるか?
この洒落た住宅の脇を日本兵がパタパタと走って横切っていたの?(苦笑)
どうもイメージがわかないのだが・・・・
この住宅地には日本兵も戸惑ったかも・・・(苦笑)

この敷地を一度出て、川を渡って東精油所へ向かう。
プラントを間近で見る許可は得られなかったが、この橋のところからならプラントの撮影はOKとのこと。
バスを降りて写真撮影・・・

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川の右側にあるのが東精油所、写真の左にあるのが西精油所である。
今でも、その場所は当時と同じ・・・・変わっていない。

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川沿いに並ぶ建物の向こう側・・・ヤシの木が見えるさらに向こう側に39名の日本兵が降り立った。
たった39名である!・・・・しかもバラバラ・・・・
早くも、あのあたりで長谷部少尉が戦死、川上一等兵、池野伍長が負傷している。

敷地内の、昔、ヘリポートとして使われていた広場で下車・・・
周囲を見渡し、当時を想像する。

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日本軍の降下地点方向を見る・・・・
あの空に白い落下傘がいくつも開いて降りて来たのだろう・・・・
オランダの守備兵は、さぞかしビビったに違いない・・・(笑)
降下地点は、当時は湿地帯・・・
遮蔽物もそれほどなく、平坦な場所だっただろう。
見たところ、現在は湿地帯という感じには見えないが、おおよそ当時もこんな風景だったに違いない。
その湿地帯にズボッ、ズボッと落下したわけで・・・
そこから移動するのは大変だったろうなぁ~と思う。
当然、39名はバラバラである。
彼らが所持していたのは拳銃1丁と手榴弾2発、軍刀だったという。
小銃や機関銃は「物料箱」という箱に詰めて人間とは別に落下傘降下させた。
が・・・人間のほうは落下傘を操作して目的地に着地できるが、「物料箱」のほうは、そうはいかない。
風に流され、どこへやら・・・・(唖然)
仕方がないから拳銃1丁で戦うこととなる。
これは飛行場を制圧した部隊も同様である。

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この広場に、鳩を連れてきている人たちがいた。
一体何をしているんだろう?
尋ねてみたら「戦う」のだという。
わからん・・・????
「闘鶏」は知っているが「闘鳩」ってあったっけ?(汗)
ガイドの話では、「どこまで高く飛ぶかを競う」と言うのだが・・・・
益々意味が分からない・・・・

再び橋を渡って西精油所に戻り構内を走る。

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原油タンク(?)の脇を走った。
これを見みないと、どうも精油所っていう気がしない。
当時、オランダ軍は、こういう原油(?)タンクをいくつか破壊したようだが、大した被害ではない。
原油はいくらでも採れるのである。(笑)
問題は精製設備のほうで、これを破壊されたら、修理して使えるようにするには何年もかかってしまうだろう。
復旧するまでに日本は干上がってしまうし、戦争にも負けてしまう。
幸い、無傷で手に入れることができたようなので、良かったが・・・
この経験が後々の日本軍の無謀な作戦につながっているのではなかろうかと拙者は思ったりするのである。
拳銃1丁だけしか持たない数十名の兵が、数百名の敵と戦って勝ったわけで・・・
この手柄話は非常に危険である。
精神力、根性で何とでもなる・・・となったのではあるまいか?
世の中はそんなに甘くないと思うのだが・・・(苦笑)
「運も実力のうち」という言葉もあるが、かなりの「幸運」だったわけで・・・
現地を実際に見てみると、益々、よくわかる。
「勝って兜の緒を締めよ」をしなかった日本軍は、その後、負け続けて悲惨な敗戦を迎えることになる。

“成功”の中にも多くの反省点があるはずだが、そこはフィードバックしなかったのだろうか?
「やった!やった!」とはしゃぎまわるのは、わからないでもないが、大事なのは、その後である・・・・
今も昔も変わらない・・・
「東京オリンピック誘致成功」で大はしゃぎして・・・・その後は、ひどい有様である。
ただの“お調子者”の集まりでは、うまくいくものもうまくいかなくなる。
戦史から学ぶべきではなかろうか?
拙者が青年会議所にいた頃にも、よくこういう指摘をしたが・・・・
「もう済んだことだからいいじゃないか」「うまくいったんだからいいじゃないか」と相手にされなかった。
成功しても反省点はいくつもある。
それを検証して次に同じミスを犯さぬようにすべきである。
ミスが“失敗”につながらなかったのは、ただ運が良かっただけのことである。
が・・・そういう考えは逆に相手にされなかった。
だから、いつまでたってもレベルが上がらないのだと思う。
あれから10年以上も経った今・・・我が町の青年会議所は、かなりレベルが落ちていると聞く。
当然だな・・・・

精油所を案内してくれた職員の方を事務所まで送り届けてお別れ・・・・
敷地を出て、次に向かったのは、ムシ河沿いにある、当時、連合軍(オランダ軍?)のパレンバン地区防衛隊の兵舎があった場所である。

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白壁のように見えるのが、昔の要塞・・・
たしか、オランダに統治される前に造られた要塞で、本来は、オランダのような西洋侵略者(大笑)から国を守るために造られたものだと思うんだけど・・・あっけなく占領されちゃった?・・・(大笑)
で・・・ここがオランダ軍の兵舎(もしかしたら司令部もあったかな?)として使われていた。
日本軍は、ここを攻撃はしていないようである。
その前に、オランダ軍は船に乗って逃げちゃったらしい・・・・(大笑)
その後に日本軍が収用し、パレンバン防衛隊司令部として使用している。
現在はインドネシア軍の施設となっているので、内部には立ち入れない。
外観を見るだけ・・・・

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この要塞の目の前は、ちょっとした広場になっていた。
このあたりは昔からの船着き場だった場所。
日本軍はパレンバンを攻略するのに、まずは落下傘部隊で精油所と飛行場を制圧。
その次に輸送機で確保した飛行場に後続の空挺隊員を送り込み・・・
最後に輸送船で主力部隊の第38師団を送り込んだ。
第38師団は名古屋で編成された師団で、香港攻略戦に参加し、続いて、このパレンバンの攻略に投入された。
そして、この後、ガダルカナル戦に投入され悲惨な戦いを経験することになる。
その第38師団が上陸したのが、このあたりである。
写真の左に見える橋は「アンペラ橋」というパレンバンでは有名な橋・・・・
戦時中には、ここには橋は架かっていなかった。
この橋は、戦後賠償として日本が架けた橋だそうである。

この要塞前の広場で、中学生くらいの子供たちがボールを蹴って遊んでいた。
と・・・一人の男の子の思いっきり蹴ったボールが、我がツアーの唯一の女性参加者の顔面を危うく直撃しそうになった!(驚!)
「ウワッ!」と一瞬騒然・・・・
蹴った男の子もビックリして手で口を押えたまま地面にへたり込んだ・・・
そりゃそうだろう・・・我々“外国人”観光客の顔面に危うくボールを当てそうになったんだから・・・腰も抜けるだろう。(大笑)
「すみません!」と言いたいのだろうが、突然のことで声が出ないらしい・・・(大笑)
そこで・・・流暢なインドネシア語が話せる拙者は・・・・(大笑)
「サマ、サマ!」と声をかけてやった。
で・・・・しばらくしてから気が付いた・・・・
「サマ、サマ」は「どういたしまして」という意味だ・・・(大汗)
顔面にボールを当てられそうになって「どういたしまして」はおかしいよなぁ~
ありゃ・・・「ティダック、アパ、アパ(気にするな)」が正しかったか?(大汗)
間違えた!(大笑)
知ったかぶりして・・・ドジ踏んだ・・・(苦笑)

時刻は午後5時・・・・
今日の夕食は、このすぐ近くのレストランだという。

雲行きが怪しい・・・・
黒い雲・・・そして生暖かい風が吹き始まった・・・・
ヤバイ・・・これはヤバイ・・・・
過去に何度も経験しているが、これはスコール(土砂降り)の前兆である。
こういう勘は拙者は100%当たるのである。(笑)
「もう少し、このあたりを散策しましょうか?」との声があったが・・・・
これ、絶対ヤバイって!(苦笑)
「いや、少し早いけど、レストランに向かったほうがいいですよ」と強く意見具申させていただく。
が・・・・「(雨が)来るぞ!来るぞ!」・・・・と言っているのだが、誰も急ごうとしない・・・・(汗)
以前、カンボジアでも同じことがあった。
なんで、みんなはわからないのだろう・・・

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レストランは、ムシ河に浮かぶ船・・・・いわゆる「水上レストラン」である。

船の舳先に行って写真を撮る。

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このムシ河に架かっている橋が「アンペラ橋」・・・・
2本の橋脚の間の部分がエレベーターのように上に上がる「昇開橋」だそうである。
写真の左の川岸に第38師団の将兵たちが上陸した・・・・

この写真を撮った直後、いきなりの豪雨・・・・日本で言うところの「ゲリラ豪雨」、いや、それ以上の土砂降りである。
間一髪であった・・・・(大汗)
ツアー参加者は騒然となったが・・・
あの雲の色と、あの風を感じたら、次は、こうなるというのは当たり前の事なんだけど・・・・(汗)

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夕食後、ホテルへ・・・・
午後7時、チェックイン。
もちろん喫煙室をお願いしたので、みなさんとは違う階の部屋である。(大笑)

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ホテルのスパにマッサージを頼んでみる。
2時間で350,000ルピア(約3000円?)だった。
フィリピンなどでは、ホテル内のマッサージを頼むと、かなり割高という感じなのだが・・・
2時間で3,000円程度?
1時間だと・・・・1,500円???
1時間が3,000円というなら、わかるけど・・・・(汗)
あれ?・・・・ほんと?・・・間違っていない?
拙者は数字音痴である・・・(涙)
換算レートを間違ているのではなかろうかと不安で仕方がなかった。(大笑)
マッサージ嬢は英語が話せる人だったので助かった。(笑)
片言英語で“世間話”(?)しながらマッサージをしてもらう。
案の定、拙者のことを日本人だとは思っていなかったようで・・・・
なんで、そうなるのかな?(苦笑)

旅行 | 09:20:18 | Comments(0)
パレンバンへ行く
午前5時に起床!
よく早起きできたものだと我ながら感心する。
午前6時、朝食・・・・

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我メンバーは“ヨコヤマさん”を除いて全員が揃って朝食をとる。
「ヨコヤマさんは朝食は食べないのかなぁ~」という声が上がったが・・・
今まで何度もツアーでご一緒しているが、朝食を食べなかったということはない方である。
おかしい・・・
皆さんが食事を終えて部屋に戻った後、ようやく“ヨコヤマさん”がレストランにやってきた。
で・・・悠然とバイキング会場で“品定め”・・・・
おかしい・・・
「あのぉ~あと15分で集合時間ですけど・・・大丈夫なんですか?」と声をかけたら・・・
エエッ!と驚かれた。(笑)
「8時出発だろ?」と“ヨコヤマさん”・・・
「いや、7時のはずですけど・・・」
「あのね、君、6時55分集合のわけがないじゃないか。8時出発で、7時55分集合だろ?」とおっしゃる。
「あれ?そうでしたっけ?」
“ヨコヤマさん”は70歳を超している“先輩”だし、今までのツアーでは時間を間違えたことのない人だし・・・
加えて昨晩、ロビーでの打ち合わせでは「忘れるといけないから」とシッカリと集合時間のメモまで取っていたし・・・
対して拙者はメモも何も取っていない・・・記憶だけである・・・
「もしかしたら拙者が間違っているのかも・・・・」
それならば、まだ時間がたっぷりあるじゃないですか・・・ということで悠然とコーヒーを飲んでオシャベリ・・・
で・・・午前7時ちょうど・・・・
現地ガイドがレストランにやって来て「何してるんですか?もう出発しますよ!」と言う。
ゲゲッ!(驚)
やっぱり7時出発だった!!(大汗)
慌てて部屋に戻ってスーツケースを持ってロビーに戻る。
事前に、すぐに出発できるよう準備を完了しておいて良かった・・・(大汗)
やっぱり拙者の記憶の方が正しかったのである。(涙)
どうして自信をもって言い切らなかったかなぁ~と後悔・・・・(苦笑)
ちなみに、“ヨコヤマさん”のメモは、「7時55分ロビー集合」になっていた・・・(唖然)

予定より10分遅刻でホテルをチェックアウトして空港に向かう。
なにせ、ジャカルタは交通渋滞が酷いのだそうである。
人口が増え続け車もバイクも増えたのに、道路や他の交通機関の整備が追い付いていない・・・
このため慢性的な大渋滞なのだそうだ。
我々が犯した10分間の遅刻が、どういう結果をもたらすか…ハラハラドキドキである。(大汗)
が・・・我々は(もしかしたら拙者は・・・?)運がいいのかもしれない・・・
珍しく大した渋滞にも巻き込まれず、予想以上にスムーズに空港に到着したので現地ガイドが驚いていた。(大笑)

DSCN2897_convert_20161006100334.jpg (ジャカルタ空港・国内線ターミナル)

 DSCN2898_convert_20161006100401.jpg (空港内)

予想以上に早く空港に着いたので時間に余裕がある。
「遅刻組」の“ヨコヤマさん”と拙者2人は、コーヒーショップで“遅刻の反省会”・・・(大笑)

午前9時40発、ガルーダ航空GA104便でパレンバンに向かう。

DSCN2899_convert_20161006101908.jpg (ジャカルタ空港)

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ジャカルタからパレンバンまでは、わずか1時間ほどのフライトなのだが、かなりシッカリとした機内食が出た。(驚)
パンとクッキーと水だけど・・・(笑)

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DSCN2912_convert_20161006105359.jpg (パレンバン上空)

午前10時50分、パレンバンの空港に到着。
この空港は戦時中も「飛行場」だった場所・・・
当時はインドネシアを植民地としていたオランダ軍の飛行場だった。
現在のパレンバンの空港は、インドネシア空軍と共用しているという。

DSCN2915_convert_20161006110043.jpg DSCN2918_convert_20161006105835.jpg

大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)時、日本は南方の資源を確保することを考えた。
日米開戦の「真珠湾攻撃」は有名だが、同時に南方にも進撃したのである。
マレーシア、シンガポールの攻略、フィリピンの攻略である。
で・・・これに引き続きインドネシアも攻略する。
米国が日本への石油の禁輸をしたため日本は石油不足・・・・
インドネシアへの進出の最重要課題は石油資源の確保である。
が・・・船で行ったのでは間に合わない。
そこで考えられたのが空挺作戦・・・落下傘部隊による空からの攻撃である。
ここパレンバンは採油の拠点で、重要な石油精製施設などがある。
これがオランダ軍の手で破壊される前に手に入れねばならない。
第一次降下隊は、石油施設の確保・・・・
だが、すぐ近くの「飛行場」がオランダ軍の手の中にあっては、制空権の確保ができない。
ほぼ同時に、この飛行場も確保してオランダ軍を駆逐しなくてはならない。
というわけで・・・第2次降下隊が、この飛行場を占領するためにパラシュート降下をした。
この空港自体が、当時の戦跡でもあるということになる。
当時の飛行場は1000mの滑走路を持つ、スマトラ島の中でもかなり優良な飛行場だったという。

ここを攻撃したのは、昭和17年2月14日のこと。
当初、ここに投入される部隊は「挺進第1連隊」という落下傘部隊だったが、昭和16年12月19日、ベトナム沖で乗船していた輸送船に事故があり沈没してしまい機材のすべてを失ってしまった。
突然の船上火災が原因だったらしい。
おかげで、挺進第1連隊は作戦には使えないことになってしまったのである。
そこで急遽、兵隊たちを集めて「挺進第2連隊」を編成。
しかし、半年以上も前から訓練を重ねていた第1連隊とは練度が違い過ぎる。
だいたい、指揮官が自分の部下の顔と名前を覚えるヒマすらなかったというのだから大変である。
作戦の決行日は決まっているので、その苦労は想像を絶するものだったに違いない。
「無茶振り」とは、こういう事を指すのかも・・・(苦笑)
さらに、焼失した落下傘・・・・この補充も問題である。
工員や女学生など数千名が動員されて突貫作業で落下傘を作って作戦決行日までに間に合わせたという。
“貧乏な国”日本の悲しいところでもある。

空港到着後、現地ガイドの出迎えを受けて、空港に隣接するインドネシア空軍の基地へ向かう。
基地のゲートで立ち入りの許可を求める。
過去に何度か来たことのあるリーダーの“イズミさん”の話では、その時の“気分?”で許可が出たり出なかったり・・・だそうである。
まぁ、南国らしいと言えば、らしいかな・・・(苦笑)
幸い、許可が出たが「敷地内をバスで走ることはOKだが、バスから降りてはいけない」とのこと。
やむなく、車窓から見るだけ・・・ということになる。

塀に囲まれた空港の外周を回る。
よくわからないのだが、空港の外周なのだが、空軍の敷地らしい・・・・
走るバスの車窓からの写真撮影くらい難しいものはない。
わずかに1枚・・・・今も残る当時の空港事務所の屋根と管制塔を写真に収めることができた。(喜)

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「空挺作戦」といっても、投入された兵力は、わずかに300名程度である。(驚)
この約300名の兵士が飛行場と精油所の2か所に分かれて攻撃をかけるのである。
余りにも少なすぎる兵力であるが、“貧乏国”としては、これが限界だったかも・・・
飛行場の攻略に投入されたのは、そのうちの半数強であるから200名程度ということになるか。
が・・・・実際に、飛行場に到達して攻撃を仕掛けた兵力はさらに少なかったらしい。
なぜならば、敵の対空砲火を避けたため、降下地点が飛行場よりかなり離れた場所になった兵士たちが多かったためである。
それでなくとも少ない兵力がバラバラに散らばってしまったのである。
このため整然と組織だって戦ったというより、何人か集まったら、そのまま突撃をするというような攻撃だったようである。
それでも、日本軍は空港事務所を占領し、飛行場を確保した。
これは、日本兵の勇猛さと、オランダ兵たち守備隊から見ると空に開いた落下傘の数が実数以上に多く見え、大部隊の攻撃だと勘違いを起こさせ、彼らの戦意を喪失させる効果があったせいかもしれない。

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空港の周囲にはまだ、“緑”が残っている。
写真の左が空港敷地となる。
写真の右側の“ジャングル”を抜けて飛行場に突入したのだろう。
当時を想像する・・・・

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道路が、空港周辺の塀よりも高い位置・・・という場所があった。
当時は小高い丘だったか?
そこから空港の滑走路を見る。
う~ん・・・この雰囲気・・・・
「突撃!」と命じられても、ちょっと飛び出すのには勇気がいるよなぁ~(苦笑)

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空軍基地を出る・・・時刻は、まもなく午後1時である。
これから昼食!

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インドネシア料理・・・・
どれもが“ピリ辛”である。
拙者としては、あまりピリ辛の料理は好きではない。
美味しいことは美味しいのだが・・・・(汗)

食事を早々と終えて、拙者一人、外に出てタバコを吸う。(笑)
で・・・ついでに我がツアーのワゴン車のドライバーとインドネシア語で会話・・・・
の・・・つもりが・・・さっぱり会話にならない。
そりゃそうである。
拙者は、ほとんどインドネシア語を知らないのである!(大笑)
彼は(うっかり名前を聞くのを忘れたが・・・)、そんなことは気にもせず、延々とインドネシア語で話しかけてくる。(唖然)
おい、英語で話してくれ・・・・(涙)
やむなくインドネシア語の会話の本を持ち出したはいいが・・・
これは“辞書”ではないから、単語には限界がある。
あのぉ~、ここに書いてある単語だけを使ってくれないかなぁ~(苦笑)
身振り手振りを交えられても・・・何を言っているのかサッパリわからない・・・・
ようやく話題を変えたようで・・・・(大笑)
やっと拙者の知っている単語が彼の口から出てきた・・・・「パナス(暑い)」・・・である。
ん?・・・・「今日は暑いねぇ~」って言ってるのかな?(大笑)
聞き取れた単語は、これ一つ・・・・(汗)
あとは再び何か延々と話をされたが・・・だ・か・ら・わからねぇって!(苦笑)

昼食後、今度は精油所に向かう。

旅行 | 08:35:49 | Comments(0)
インドネシアに行く
今日からインドネシアに行く。
昨晩は京急蒲田駅近くのホテルに前泊。
テレビのコマーシャルでは京急で羽田空港に行くのは便利だと言っていたが・・・
確かに、時間的には早いかもしれないが、車両が山手線と同じような“通勤用”の車両なのである。
そこへスーツケースをガラガラと転がして乗り込むわけで・・・
狭い車内では、このスーツケースの置き場に困る。
他の乗客に迷惑をかけるし・・・
これ・・・なんとかならんのかねぇ~
「羽田空港行き」の車両だけでも、もう少し工夫をしてもらいたいものである。

今回は久しぶりの、いつものツアーに参加・・・
集合場所に集まったのは、たった4人!(唖然)
関空から現地で合流する1名を含めて、全部で5人のツアーである。
あまりにも人数が少ないため添乗員は同行しないとのこと。(汗)
引率は、元陸上自衛隊の戦史教官だった“イズミさん”・・・
旧知の“ヨコヤマさん”も参加されていたので、何度もお会いしている方がいてホッとした。(笑)

羽田発11:45のガルーダ航空875便(GA875)に乗ってインドネシアのジャカルタへ向かう。

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今回の旅行・・・初めて“おかしなこと”をやってみた。(大笑)
台風が日本に近づいていたので友人の“ウメちゃん”に「飛行機は飛ばないかもね」とからかわれた。
いや、いや、いくらなんでも台風のまっだ中には飛び込まないだろうし・・・
避けて飛ぶんじゃないか?(苦笑)
しかし、考えてみると、それでもかなり揺れるかもしれない・・・
そうなると・・・シートベルト着用サインが出たままで、トイレにも行けないかもしれない・・・
となると・・・最悪・・・「お漏らし」をしてしまうかもしれない・・・(大笑)
そこで、ふと気が付いた・・・
親父が使っている「紙おむつ」である!(大笑)
こいつを穿いて行こう!(大笑)
こういう事でもなけりゃ、「紙おむつ」を穿くなんて経験はできないぞ・・・
これなら、最悪「お漏らし」しても大丈夫だろう。(たぶん・・・)(苦笑)
ということで・・・・「紙おむつ」を穿いて機内に乗り込む・・・(大笑)
「紙おむつ」を穿いているのに違和感は全くなし!
穿き心地は良好!
こりゃなかなかいい・・・しかも、気分的にも安心だし・・・(大笑)
これはお勧めである!(大笑)


(使ったのは、これ!)

午後5時過ぎ・・・ジャカルタ空港に到着
無事、「紙おむつ」のお世話になることもなく・・・(大笑)
約7時間ほど飛行機に乗っていたわけだが・・・
問題は、この後・・・
なかなか荷物が出てこないのである!(怒)
ターンテーブルから4つほどスーツケースが出て来たかと思ったら・・・しばらく空回り・・・
また3つぐらい出て来たかと思ったら・・・しばらく空回り・・・・
おい、おい、何をやってるんだ!(怒)・・・・とイライラする。
結局・・・荷物が出てくるまでにさらに1時間近く待たされた。(涙)

で・・・今度は関空から参加する人との合流である。
関空からの便は、わずか10分程度の差で到着らしいのだが、その人の荷物もなかなか出てこないのだろう。
結局、合流できたのは午後7時過ぎ・・・・(唖然)
着陸後、約2時間も空港にいたことになる・・・(涙)

日本との時差はマイナス2時間・・・・
ここは午後7時だが、日本では午後9時である。

DSCN2885_convert_20160929093202.jpg (空港の外)

真っすぐ市内のレストランへ向かい、夕食・・・・

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食後、一人、レストランの外に出てタバコを吸う。
物売りの子供たちがいたので「スラマット・マラン(こんばんは)」と声掛けたらキョトンとされた。(汗)
「はぁ?こいつ、何言ってるんだ?」という表情である。
まもなく気が付いたようで・・・「あ~!スラマット・マラン!」(笑)
いきなり外国人がインドネシア語を話したのでビックりしたのか?
それとも、拙者の発音がわるかったのか・・・(苦笑)
そこから彼らとの会話が始まるのだが・・・これが困ったことにすべてインドネシア語である。(大笑)
拙者は挨拶程度のインドネシア語しかしらない・・・(涙)
英語に切り替えて話してみたが、この英語がまた通じないのだから困ったものだ。
何をしているのかという顔をしていたので「ロコッ(タバコ)」と言ってみたら通じた。(笑)
携帯灰皿を出して吸っていたら、周囲の大人たちが不思議な顔をしている。
インドネシア語に身振り手振りを加え、何か言っているのだが・・・・
想像するに・・・タバコの吸い殻は路上に捨てていい・・・と言っているようである。
不思議なことをしていると思ったのだろうか?
これは・・・「アスバッ!(灰皿)」・・・
「これは、マナーだ」と英語で言ったのだが、どうも通じない・・・(苦笑)
「そこに捨てていい、そこに捨てろ」と言っているようである。
わからん・・・どうも、彼らの言う事がわからん・・・(大汗)

その後、ホテルに向かいチェックイン・・・・
現地時間で午後11時30分を過ぎている・・・(唖然)
日本では、まもなく午前2時・・・というところ。
疲れるわけだ・・・・

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(ホテル「グランド・メルキュール・ジャカルタ」のロビー)

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今回のツアー5名の中で喫煙者は拙者だけ・・・・
というわけで、ガイドが気を利かして、拙者だけ喫煙室を取ってくれた。(感謝!)

両替は、現地ガイドが用意してくれていた。
1万円を両替・・・・
現地の通貨では1,200,000ルピアである!(唖然)
なんだか、120万円も手にしたような・・・急に金持ちになったような気分だが・・・
0(ゼロ)が多すぎて、わけがわからん・・・
1,200,000ルピアが1万円ということは・・・
120,000ルピアが千円・・・・
12,000ルピアが100円・・・・
1,200ルピアが10円・・・か・・・?
拙者は生来の数字音痴である・・・(涙)
ダメだ・・・わけがわからん・・・・
ピンとこない・・・(涙)
両替したルピアは全て「50,000ルピア」(約400円)紙幣である。
これでは、チップなどに使うときに不便である。
チップは10,000ルピア~20,000ルピアだそうである。
細かく崩すため、近くのコンビニへ行ってジュースを買って崩す。(笑)

その後、大好きなホテル周辺の散策に出かける。
と・・・路上で女性から声をかけられた。
「マッサージ!マッサージ!」
この女性と少し立ち話をすることにした。
が・・・なんと・・・英語がほとんど通じない・・・・
「マッサージはいくら?」と尋ねたら、その数字をインドネシア語で言うのである。
わからん・・・・さっぱりわからん・・・
紙に書いてもらったが、彼女も数字には自信がないようで・・・
「50000」と書いた・・・
これでは400円ではないか?
400円のマッサージはありえないだろ?(苦笑)
0(ゼロ)が一つ足りないのではないか?
「500,000」と書いたら、ウン、ウン、と頷く・・・
5000円なら妥当なところか?
「スペシャル!」と言いながら身振り手振りで「スペシャルサービス」の申し出・・・(苦笑)
そのスペシャルサービスをするとなると・・・・5,000円じゃ済まないな・・・(苦笑)
1万円を両替して、初日の晩にスッカラカンになったら意味がない・・・(大笑)
「台湾人か?」と尋ねられたのには参った。
拙者のどこをみて「台湾人」とおもったのだろう?(大笑)
「ジュパン!(日本)」と答えたら「え~!ジュパン?!」と逆に驚かれた。
なんで?・・・(唖然)
しつこく迫られたが、お断りする・・・

バス停のところで初老の男性から声をかけられた・・・
何を言っているのかわからない・・・
親指を立てて、何か言っている・・・
と・・・隣の若い男が「それじゃ通じない。レディーと言わなくちゃダメだ」と言ったようである。
はぁ?・・・・
「女・・・いらないか?」と言う意味なのだろうが・・・
それなら、親指じゃなくて小指を立てねば通じまい・・・(大笑)
親指を立てたんじゃ「男、いらないか?」になっちゃうでしょ・・・(大笑)
「マッサージ!ビューティフル!ヤングレディー!」と若い男が片言英語で言う。
問題は「美人」の基準が君と拙者とでは違うのではなかろうかという心配である。(大笑)
彼が言うマッサージ代は700,000ルピア(約6000円)である。
いずれにせよ、1万円しか両替していないし、ジュースを買って数万ルピア減ってるし・・・(苦笑)
カネに余裕がないから無理・・・・
「ティダック!(ダメ!)」と答える・・・
どうやら拙者の急いで覚えた、いい加減なインドネシア語が通じたらしい。
「ああ、そうか・・・」という顔をした・・・
「どこへ行くのか?」と言うので、「ジャラン、ジャラン!(散歩!)」と答える。

取りあえず、今日は小手調べのインドネシア語会話ができた。
片言でも現地人と話が通じると楽しい・・・(喜)
雨がチラチラ降りだしてきたので、急いでホテルに引き返し・・・・寝る!(大笑)

旅行 | 08:44:35 | Comments(0)
インドネシアに行ってきます!
18日から22日までインドネシアに行ってきます!

と、ここに書いても・・・・

拙者と連絡が取れないと困るという友人たちは、このブログを見ていない。(大笑)

そういうわけなので・・・・

ここに書いて何の意味があるのかという気がしないでもないが・・・

とりあえず、ご連絡・・・・(大笑)

日記 | 16:17:13 | Comments(0)
役に立つの?インドネシア語会話本
18日からインドネシアに行く・・・・
で・・・・
折角だから、少しは現地語が話せるといいかなと思い、インドネシア語を独学することにした。(笑)
で・・・・
買ったのが、この本!



毎日、チビチビと“お勉強”したのだが・・・・
う~ん・・・・何これ?・・・・という本である。(大汗)

まず、「お詫び」のフレーズ・・・・
「よく使われる表現」には、お詫びの言葉が並んでいるのだが・・・・
「ごめんなさい」「申し訳ありません」「私を許してください」「遅れてごめんなさい」「本を忘れてごめんなさい」・・・・
あのね・・・謝罪のオンパレード?
何これ・・・・

更に呆れたのが、このテキストに使われている例文の酷いこと・・・
「よく使われる表現」・・・・
「あなたは日本人ですか?」「いいえ、私は日本人ではありません」
あ・の・ね・・・・これ“よく使われる”の?
あんた、どこの国の人間にインドネシア語を教えてるんだよ!(怒)
「日本人ですか?」と尋ねられて、「いいえ、違います」と答える日本人がいるのか???

同様に、ひどい「よく使われる表現」が並ぶ・・・・
最悪なのがこれ・・・・「私の靴を洗ってください」
いったい、そんなことを誰が頼むんだ?
インドネシアに行ったら靴を洗ってもらわなくちゃならんのか?(怒)
だいたい、こんなフレーズが“よく使われる”の?(怒)
「私はちょっとお風呂に入ってきますね」
これ・・・誰に向かって言うの????
「君は靴が欲しいですか?」
あ・の・ね・・・・インドネシア人は、そんなに靴にこだわるのかね?

「日常会話編」が、このレベルである。(唖然)
ハッキリ言って、バカじゃなかろうかといいたくなる例文である。

本書の表紙には、こう書かれている・・・・
「聞いて、話して、覚える」・・・・
確かにCD付なので、これはいいのだが・・・・
「私の靴を洗ってください」を覚えてどうするの?(大笑)

「今すぐ話せる」をうたい文句にしているので、つい騙されてしまった・・・・
とてもじゃないが、今すぐ話せるという内容ではない。
「始めたその日から話せるNEW方式」・・・・
へぇ~・・・・・始めたその日から「靴を洗ってください」って言えてもねぇ~(大汗)

著者はインドネシア人と日本人女性の共著のようである。
インドネシア人は、いくつかの大学でインドネシア語の講師を務めている。
その中には我が母校の名もあった・・・(唖然)

本書は、ネットで購入した中古本・・・・
なんと、本書の約半分のページに書き込みがギッシリ・・・・
それでわかった・・・これは授業で使ったんだな・・・
初版は2000年、拙者が買ったのは2011年の第5版である。
10年以上も版を重ねているのは、人気があるからではなく、授業のテキストとして使うため学生たちに買わせているからではなかろうか?
なんと“えげつない”ことか・・・
内容がいいなら、まだ許せるが・・・・この例文で勉強するわけ?(大汗)

もう一人の著者・・・
この日本人女性は現地の国立大でインドネシア語を学び、日本での経歴もかなりのものだが・・・
そういう人が、この本を書いたの?
この人はインドネシアの大学在学中に「日本人ですか?」と尋ねられたときに「いいえ、私は日本人ではありません」と言っていたわけ?
“よく使われる表現”の例文に挙げているんだから・・・・よく使っていたんでしょ?(大笑)
突っ込みを入れたくなるんだよなぁ~
この人・・・本当に日本人なのか?(汗)
どういう例文を掲載しているんだ?
日本人なら使わないであろうという会話文例が多い・・・・
こういう“お粗末な文例”が入った会話テキストを平気で出版するという神経がわからない。

「旅行会話編」は、まあまあの出来だが・・・・
よくあるパターン・・・・
「入国」で、インドネシア語でのやり取り・・・
これ、あり得るか?
普通、空港の入国審査で現地語で質問されることはない。
拙者が台湾に行ったときに、中国語で質問されたことはない。
同じくベトナムに行ったときにも、ベトナム語で質問されたことはない。
カンボジアでも・・・どこでも・・・・
英語である。
観光目的、滞在日数・・・・英語でのやり取りである。
間違っても現地語はあり得ない。
百歩譲って、もし拙者が、どこから見てもインドネシア人に見えるっていうなら、あり得るかもしれないが・・・・
でも、パスポートを見れば、日本人だってわかるよね?(大笑)
インドネシア語で話す必要はないんだから、覚える必要はないんじゃないか?
ここの部分は無駄ではなかろうか?

全体的に見て、本書の利用価値は半分以下である・・・(涙)
もう少し、“実践的”なものはないのか?
最終的には自分で“作る”しかないのかな?(大笑)

ギリギリの今頃になって、再び別の本を手に入れた。



今度は、こちらは内容が豊富ではあるが、文字が小さくて読みづらい・・・・(涙)
片仮名で発音が書かれているのだが、それが小さすぎてよく見えないのである・・・(大汗)
しかも、残念ながらCDは付いてはいないので、正確な発音がわからない。(汗)
カタカナ通りに発音して通じるかどうか・・・・(苦笑)
どうも、それぞれの本・・・長所もあり短所もありで・・・これといったものに出合えない。(笑)
やっぱり自分で作るようかな?(大笑)

一応、旅行に持って行くなら、こっちのほうが良さそうである。
覚えているヒマはないから・・・・持参してぶっつけ本番で使うしかないな・・・(汗)
どうなりますか・・・・
楽しみである。

日記 | 14:44:50 | Comments(0)
『人生に生きる価値はない』


Ⅰ 道徳の暴力

いじめの「本当の」原因
鹿鳴館
「女性は産む機械」発言
哲学と心の病
池田晶子追悼

Ⅱ あれも嫌い、これも嫌い

知的エリート主義
ラカン
特攻隊
人間嫌い
ワルシャワ旅行
クールジャパン
キレるおやじ

Ⅲ 哲学的に生きるには

死を「克服」する?
他人の幸福
哲学塾・カント
誠実であること
コミュニケーション力?
現代学生気質(かたぎ)

Ⅳ この世界が「ある」ということ

ニーチェの季節
明るいニヒリズム
客観的世界?
世界は消え続けてきた!
ベルヒテスガーデン
オリンピックとノーベル賞

Ⅴ 中島さんってそういう人?

持続するいま
ルドルフ
「哲学塾カント」一周年
城山三郎さんのこと

あとがき

文庫版あとがき

解説 野矢茂樹


「人生に生きる価値はない」・・・・
この題名に惹かれて読んでみたが・・・
残念ながら、期待していた話とは、かけ離れていた。
つまり、本書は「哲学エッセイ」のエッセイ集という感じ・・・・
本書の題名について、哲学的に何やら面白いことを書かれていると思っていたのだが・・・・
読めば読むほど・・・あれ?・・・・
エッセイに書かれている著者の言動が、いかに“変人”の部類に属するかという印象ばかりが強く残ってしまい、肝心の話がどこに書かれているのかサッパリ分からず仕舞い・・・(涙)
以前、この著者の別の本を読んだが、その時には好印象を持っていたのだが・・・
あれ?・・・・何か大きく印象が違ってしまったんですけど・・・・(苦笑)
期待が大きすぎたせいか、残念な結果となった・・・・


今年の読書:48冊目



読書 | 21:28:40 | Comments(0)
親父がやってくれました・・・(涙)
昨日、上京・・・・
1泊して、夜、帰宅したら、親父から報告・・・・

今朝、洗面台のお湯を出して、そのまま忘れてしまったそうで・・・
午後になって東京ガスから「ガス漏れしているのではないか?確認してほしい」との電話がかかってきて気が付いたという。
ゲゲッ!!
朝7時から午後2時頃までザーザーとお湯を出しっぱなしにしていたらしい・・・・(唖然)

これもボケの症状の一つかも知れないが・・・
昔から親父は“感情”で物を言ったり、やったりする人だった。
カァ~ッ!と頭に血が上がって、その時の感情でやるものだから、後になって、なんでそういうことを言ったり、やったりしたのか本人は全く記憶がないという人なのである。(汗)

歳を取っても変わらないらしい・・・(汗)
たぶん、何も考えずに洗面台の蛇口をひねったのだろう。
で・・・その場を立ち去り、そのまんま・・・
だいたい、洗面所の前を何度も歩いているはずなのに、お湯を出しっぱなしにしているということに気が付かないというのが信じられないのだが・・・・

それにしても、東京ガスの「マイ・ツーホー」に申し込んでいて良かった。
そもそもはガスファンヒーターのつけっ放しの監視の為に申し込んでおいたのだが・・・
給湯器もガスを使っていることを忘れていた。(苦笑)
もし、これに入っていなかったら、1日中、ジャージャーとお湯を流しっぱなしにしていたことだろう。

それにしても、親父が拙者に、報告をしてくれただけ、まだマトモと言えるかも・・・
隠し事をされたのでは、こちらが対応できない。
が・・・・

いや、親父のことである・・・
わざと心配をかけて、拙者が外出することをためらうように仕組んだのかもしれない。
親父ならやりかねない・・・・
なにせ、まもなく拙者はインドネシアに出かけるのである。
拙者の旅行を取りやめさせるために仕組んだのかもしれない。(大汗)

「ボケた」と本人は言っているが、ボケた振りかもしれない・・・
だいたいボケている奴が自分で「ボケた」と言うだろうか?(苦笑)
怪しみ始めたらキリがない・・・
こっちの神経がおかしくなる。

いずれにせよ、ミッチリと親父を説教する。
今度、同じことをしたら、施設にぶち込んでやると脅してやろうか?(大笑)

あ~あ~ガス代と水道代・・・・いくら請求されることやら・・・・(大涙)

日記 | 21:15:30 | Comments(0)
焦る夢ばかり見た・・・(涙)
久しぶりに「焦る夢」を見た・・・・
拙者は、なぜか「焦る夢」を見ることが多い・・・
何故なのかは知らないが・・・・

昨晩見た夢・・・
拙者は、どこかの未来都市のような場所にある巨大なホテルにいた・・・
巨大な宿泊棟が四方八方に伸びている・・・
拙者はどこかに出かけて帰って来たところなのだが、どうも入り口を間違えたらしい。
全く記憶にない宿泊棟にいた。
さて・・・拙者の部屋はどこだったか・・・
どうしても思い出せない・・・
ちょうど、館内の清掃をしている人がいたので尋ねたが、ロビーに行って聞いてくれと言われた。
そのロビーがどこにあるのかがわからないんですけど・・・(汗)

ちょうど人間の形をしたロボットがやって来た・・・(唖然)
夜遅いから人間ではなくロボットがスタッフをやっているのか?
今、話題の「A.I(人工知能)」とかっていう奴か?(汗)
「ドウシマシタカ?」
「部屋が分からなくなっちゃいまして・・・」
「ヘヤノバンゴウヲオシエテクダサイ」
「え~と・・・あれ?・・・何番だっけ?」(大汗)
どうしても、部屋番号が思い出せない!
「部屋の番号を忘れてしまいまして・・・」
「カギハオモチデスカ?」
ポケットに手を入れたら卵を半分に切ったような形のものが出てきた。
あ~これが部屋の鍵だ・・・これをドアにかざせばいいんだったよな・・・
で・・・部屋番号は・・・・
探したがどこにも書かれていない。
この卵を半分に切った形の鍵には画面が付いている。
タブレットの画面みたいなもので、明日の天気などが表示されている。
で・・・いくらタッチして画面を替えても、どうでもいい情報ばかりが表示されて、肝心な部屋番号が表示されない。
「いやぁ~まいったなぁ~私の名前を教えますから部屋番号を教えてくれませんか?」
「ツカイカタガワカラナイノデスカ?」
「はい・・・ちょっと、わからないんですけど・・・」
「ヌスンダノデスカ?」
え?何だって?(唖然)
「名前を教えるから、部屋番号と部屋の場所をおしえてください!」
「ソノジンブツト、アナタガ、ドウイツジンブツダトイウ、ショウコヲミセテクダサイ」
そういわれてもねぇ~・・・・
自分をどうやって自分だと証明すればいいんだ?
写真付きの身分証明書なんか持ってないし・・・・(大汗)
「あのぉ~・・・とにかく、部屋の番号を忘れちゃったんですよ」
「・・・・・・」
「もしもし・・・あのね、部屋に戻りたいのに戻れないんですよ」
「・・・・・」
あれ?・・・ついにロボットは無言状態に・・・・
どういうこと?・・・・返事もしないとは・・・・無視するわけ?(大汗)
それにしても、どうして館内の掃除を人間がやっていて、案内役はロボットなんだよ!(怒)
おかしいんじゃないか?
普通は逆だろ?
なにが「A.I」だよ!(怒)
腕時計を見たら午前3時!
まいったぁ~部屋に戻れないと寝る時間が無くなる!(大涙)

と・・・・思った瞬間、目が覚めた!(大汗)
いやぁ~焦ったなぁ~
で・・・もう一度寝る・・・・

続いて見た夢は・・・・
3人の女性が現れた・・・
3人とも相撲取り並みの巨漢の女性である。
彼女たちが言うには、拙者のことが好きで好きでたまらないのだそうで、是非結婚をしたいという。(唖然)
で・・・この3人の中から結婚相手を決めてくれという。
ウソ・・・(大汗)
拙者は“ポッチャリ系”は嫌いではないが・・・その限度をはるかに超えた体型である・・・・(汗)
この中から選ばねばならんのか?
え~・・・・と・・・・え~・・・・と・・・・
ついに彼女たちが怒り始めた・・・「早く決めなさいよ!」(怒)
いやぁ~・・・・え~と・・・(大涙)
他に選択肢はないのか?(大涙)
下手なことを言ったら相手を傷つけちゃうだろうしなぁ~
参ったなぁ~・・・・どう言って断ろうか・・・・(涙)
やばい状況だな・・・これ・・・・
参ったなぁ~・・・どうしよう・・・・

と・・・・思った瞬間、また目が覚めた!

あ~心臓に悪いよなぁ~こういう夢・・・・

どうして、こういう「焦る夢」ばかり見ちゃったのだろう?
おかげさまで寝不足となる・・・・(大涙)

日記 | 21:00:50 | Comments(0)
『布引丸』
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マニラの梁山泊

お雪バア

アギナルド(上)

アギナルド(下)

マニラ陥落

志士交流

武器払い下げ

同志糾合

義軍出発

遭難の日

独立軍陣営

東亜は立ち上る


本書の「比島独立」とは、太平洋戦争時の話ではない。
19世紀末、スペインに支配されていたフィリピンはなんとか独立しようとしていた。
これに手を差し伸べたのが米国だが、いざスペインを追い出し独立という段になって、米国はフィリピンを裏切る。
今度は米国がフィリピンを支配するわけである。
話は、この頃の話・・・・
このフィリピン独立に手を貸してやろうという日本人たちがいたのである。
武器の貧弱な独立軍に武器を調達してやろうと、武器・弾薬を集めて船に載せてフィリピンに送ろうとした。
この船の名前が「布引丸」・・・・
しかし、船は途中で沈没してしまい武器はフィリピンには届かなかった。
これは、私も以前、どこかで聞いたことがある話で、あまり知られていない話ではあるが史実である。

本書は、これをテーマにした小説。
著者は「序」に書いているのだが・・・
小説の約束事を無視している場面もあり、著者自身が顔を出すし、素材のままを皿に盛って差し出したような場面もあると言う。
読んでみると、確かにそういう場面がある。
これが、この“小説”の特徴でもあり、面白いところだ。
比島攻略軍の本間中将が帰還した時に、フィリピン独立軍のアギナルド将軍から本間中将へ贈られた彼の自叙伝を借りたという。
こうなると、アギナルド将軍に関する著述は“正確”ということになるか?
とにかくノンフィクションなのか小説なのか、微妙なのである。
かなり史実に忠実に書かれているのではなかろうかという気がする。
今でいうところの“ノンフィクション・ノベル”に該当するだろうか。
著者が言う「素材のままを皿に盛って差し出した”部分などは、史料的価値が高いのではなかろうか?

この小説・・・・驚いたことに昭和17年9月から昭和18年10月まで連載されたものだそうだ。
一瞬、戸惑った・・・・
読んでいても戦時中特有の“国威発揚”などの戦時色が感じられなかったので、ついこの間、書かれた小説だろうと思っていたのである。
まさか、戦時中に書かれた小説とは驚きである。
そうなると、登場人物の“絡み”やセリフは創作だと思っていたが、まんざら絵空事のような創作でもなさそうである。
案外、実際にあったことに近いかも・・・
う~ん、そうなると、ますます面白い。
こういう“小説”を書いてみたいなぁ~と思うほどの“小説”である。

著者は1979年に85歳でお亡くなりになっている。
その2年後に本書が出版されている。
どういう経緯でこの単行本が発刊されたのかは、本書には書かれていないのでわからないが・・・
いい“小説”を遺してくれたと思う。


今年の読書:47冊目



読書 | 23:03:26 | Comments(0)
乃木別邸
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乃木別邸

昭和41年栃木県史跡指定
栃木県那須郡西那須野町石林820番地

乃木邸の地は、文化年間の頃は当所 石林の薄井氏が所有し、明治13年鹿児島藩士 吉田清皎氏(静子夫人の叔父)が手に入れる迄に所有者が3人かわりました。
吉田氏はここで農園を営みましたが、明治23年急逝の後、乃木将軍が農地3ヘクタール・山林10ヘクタール・家屋共ゆずり受け農耕に従事せられ、同25年母屋を新築、旧家を納屋として使用され、つづいて石蔵・肥料舎・農具舎・薪小屋等を建て、御夫婦自ら鋤・鍬をとられ村人と共に収穫を喜び、詩歌を吟ぜられる生活をされ、勧農の範をたれ給いしところです。
大正元年9月13日明治天皇のみあとを慕い奉り殉死の後は、将軍の遺言に依り実弟 大舘集作が住み、昭和3年以降神社により維持保存するところとなりました。
旧家は、昭和46年不審火による焼失の後、復元。
母屋は、平成2年10月過激派による放火で被災し、5年4月旧体に復元したものです。

(説明板より)


史跡 乃木希典那須野旧宅

栃木県指定文化財
昭和41年3月18日

乃木希典は長州藩支藩の長府藩出身の陸軍大将・伯爵である。
後に、学習院院長なども務めた。
明治24年、この地に約14ヘクタールの土地を求め、静子夫人の叔父(旧薩摩藩士・吉田清皎(きよあき))が所有していた土地と家屋を譲り受けた。
当初は住宅一棟と納屋があったが、同25年、乃木将軍は自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。
栗の木の板を小さく切って重ねた栗木羽葺(くりこばぶき)(後に瓦)平屋で、建坪は間取り寸法が関西間風で建てられているため53坪であるが、関東間(かんとうま)に換算すると約57坪となる。
土間と囲炉裏があり、畳の部屋は八畳間が3つ、六畳間が変形六畳を含めて3つ、その他物置場・屋根裏部屋等がある。
乃木将軍は生涯に4度の休職をしたが、別邸を建ててからは休職中(のべ48か月)の多くをこの別邸で過ごし、晴耕雨読の生活を送り、村人とも親しく交わったという。
なお、別邸は平成2年(1990)に焼失し、同5年(1993)3月に復元された。

那須塩原市教育委員会

(説明板より)

史跡 | 22:08:42 | Comments(0)
乃木将軍石像と愛馬殿号の塚
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乃木将軍石像と愛馬殿号の塚

この石像は昭和初期、愛知県岡崎で開催された石刻展に入選した作品で、学習院の院長であった乃木将軍にちなんで一度学習院に献納されました。
時を経て平成2年、ゆかりの那須乃木神社に奉納されたものであります。
殿号(しんがりごう)は大正天皇がまだ皇太子殿下頃、乃木将軍に賜わった白馬です。
将軍は殿下より賜った名馬であるため、殿号と名付けて愛育されました。
将軍ご夫妻は自然を愛され、禽獣草木にまで温情をもって接し、わけても馬に対する愛情は篤く、老齢になった殿号も那須野へ移し労られました。
この愛馬も将軍の後を追うように、大正3年12月27日に斃れましたので、ここに土葬し、生駒守護神として慰霊の誠を尽くしたのであります。

 武士が乗る荒駒の勇みあひて
     那須の廣野も狭くぞおもほゆ 希典

 黒駒にしらあわはませますら雄が
     岩が根木の根ふみさくみゆく 希典

乃木希典命
乃木静子命  百年祭記念

平成23年9月13日

(説明板より)

史跡 | 21:26:41 | Comments(0)
久しぶりのドライブ
今日は、水戸藩士の“シミズくん”から「栃木県に行きませんか?」とのお誘いをいただき、久しぶりのドライブである。
もちろん車を運転するのは“シミズくん”・・・・
自分が運転するというのなら面倒くさいから行かない・・・(大笑)
助手席に座っているだけなら、行くよぉ~(大笑)

最初に向かったのは、栃木県那須郡那珂川町にある『那珂川馬頭広重美術館』・・・・
ここには、今から9年前の平成19年10月に“シミズくん”と一度、訪れたことがある。
ん?・・・・あれから9年も経つのか?(大汗)
2~3年前のことだと思っていたのだが・・・・意外に月日が流れるのは早いものだ。

ここで開催されている『月百姿展』を“シミズくん”が、どうしても見たいというのである。(笑)
無学の拙者には、何のことやらさっぱりわかりませんが・・・(笑)

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「大蘇芳年」・・・・って誰?(苦笑)
大蘇芳年は、明治時代の浮世絵界を代表する浮世絵師なのだそうだ。
で・・・チラシの解説文によれば・・・・
「江戸新橋の商家に生まれた芳年は、11歳の時、絵師を志して歌川国芳に入門。
師の作風を継いで武者絵を得意とし、人気も実力も兼ね備えた絵師へと成長します。
幕末から明治時代にかけての激変の中で歴史画や血みどろ絵などで活躍しますが、明治5年に自信作であった『一魁随筆』のシリーズの売れ行きがかんばしくないことに心を傷めて強度の神経症を発症し、一時仕事から離れます。
翌年には立ち直り、大きな蘇りを意図して「大蘇」という号を使用するようになります。
「月百姿」は、明治18年(1885)から再び神経症を患って亡くなる直前までの約8年間に制作されました。
中国や日本の月にちなむ説話・故事・伝承で、芳年の精神世界を映し出すような深い趣が感じられる作品です。
本展では、美人画や武者絵とともに「月百姿」全作品を前期後期に分けてご紹介します。」
・・・・ということだそうだ・・・(笑)

なんと、前期と後期に分けて開催されていたのか!
今回は、後期・・・である。
あらら・・・・前期は7月に開催されていたらしい。
半分だけ見るということね・・・・(涙)

武者絵・・・なんて、思い出すのは子供の頃に遊んだ“メンコ”や凧に描かれていた絵しか見たことがない・・・(大笑)
この浮世絵(錦絵?)は確かに素晴らしいものではあるが、拙者が感心するのは、この絵を版木に彫った人の“腕”である。
こう言っては大変失礼だが、絵を描くのはそれほど大変でもないような気がする。(苦笑)
それより、その絵を忠実に版木に彫った彫師のほうが凄いのではあるまいか?
よくこんな細い線まで彫れる(実際には細い線を残して周囲を彫るのだが・・・)ものだなぁ~と思う。
更に、何色もの色を重ねてもズレないという摺師の腕前!
“製造業”の拙者からすると、こっちの職人の技術力に感嘆してしまう。
う~ん・・・・視点が違い過ぎる?(大笑)

次に向かったのは、栃木県大田原市にある『那須与一伝承館』・・・・
ここでは、刀剣の展示を行なっていて、今回、特別な“刀”が期間限定で展示されているという。
これも是非見たいと“シミズくん”が言うのである。(汗)
ほぉ~・・・・珍しいこともあるものだ・・・刀剣にも興味があるのか?(笑)
今回の“特別展示”は、徳川光圀が鷲子山上神社に奉納した刀剣・・・
その話は伝承としては残っていたらしいのだが、実際にその刀剣というのは見つかっていなかったらしい。
それが今回、発見されたので期間限定で展示されることとなったという。
次回、人の目に触れるのは10年ぐらい後になるとか・・・(大汗)
拙者はへそ曲がりなので・・・・(大笑)
今頃になって“発見”とは、ちょっと怪しい・・・(大笑)
本当に本物かぁ~?・・・・(大笑)
・・・・と思ってしまうのである。

これで、今回のドライブの目的は達成した・・・
帰ろうかなぁ~と思ったのだが、たまたま地図を見ていて「乃木神社」という文字が目に入った。
ん?・・・・もしかして、これは乃木希典を祀った神社ではあるまいか?(汗)
行かねばなるまい!(大笑)
更に足を延ばす・・・・

DSCN2800_convert_20160911132233.jpg (乃木神社)

乃木神社は全国にいくつもある。
東京都港区にある乃木神社には平成15年5月に行った・・・・
翌年の10月には京都市伏見区の乃木神社に行った・・・・
しばらく間が開き・・・・平成23年9月に山口県下関にある乃木神社に行った・・・
“分社”のような形の乃木神社は、他にもあるらしいが、独立した大きな乃木神社は全国に4か所である。
で・・・今回、ついに最後の乃木神社にお参り出来たのである!(大喜)
これも水戸藩士の“シミズくん”のおかげである!
感謝!感激!大感謝!(大喜)

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宝物館を見学し・・・・

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神社の裏の森を抜けたところにある「乃木別邸」の外観のみを見学・・・
この別邸は、左翼か何かのバカによって平成2年に放火され、焼失したらしい。
なんということをしてくれたのか!(怒)
放火した奴を見つけ出して袋叩きにしたいくらいである。
こうやって歴史的遺産が失われるのは許せない・・・・
「軍国主義」も何も関係はない・・・主義主張は関係はない・・・歴史は歴史なのである。
現在あるものは復元されたものだそうだ。
そうなると・・・価値が半減以下・・・だな・・・・

近くには大山巌のお墓もあるというので行ってみた。

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墓所は門扉が閉まっていて、中を見ることができない・・・
墓所の公開は毎月第2土曜日だそうである!(唖然)
あ~あ~・・・・1週間早かった・・・(涙)

さて・・・時刻はまもなく午後5時になる。
親父には5時ごろには帰宅すると言って家を出たのだが・・・・
さて・・・ここは・・・どこ?
「那須塩原市ですよ!」と“シミズくん”・・・・
「へぇ~・・・・で・・・・5時までに帰るって親父に言っちゃったんだけど・・・・」
「ここから3時間はかかりますけど・・・」(唖然)
「へっ?・・・・3時間?そんなに遠くまで来たのか?」(唖然)
「だって、那須塩原市ですよ!」(汗)
そこのところが、よくわからんのだ・・・・
那須塩原市って我が家からそんなに遠いのか?(苦笑)
なんとなく30分も走れば家に辿り着けるような気がするのだが・・・・(大笑)
拙者は方向音痴だけではなく、距離音痴でもあるということを改めて自覚した・・・

親父に電話をして午後8時を過ぎるだろうということを伝える。
親父は「お土産を買ってきてくれよなぁ~」と言う。(汗)
全然驚いていない・・・・
たぶん、親父も那須塩原市ってどこにあるのか分かっていないのだろう・・・・(苦笑)
距離音痴は父親譲りということになるか?
全て、親父のせいにしよう・・・(大笑)

今回のドライブ・・・・
いつものように大満足である!(大喜)
“シミズくん”は目的を達成できたし、拙者は期せずして乃木神社を参拝できたし・・・
なんと充実した一日であろう・・・・
“シミズくん”に感謝である。

日記 | 20:02:43 | Comments(0)
『日本人の死に時』


はじめに

第1章 長生きは苦しいらしい
       老人の「死にたい願望」
       初体験としての長生き
       リアル長生きシュミレーション
       「年寄りをいじめんといてくれ」という叫び
       たとえ元気に老いても
       バラ色情報の罠

第2章 現代の「不老不死」考
       アンチエイジングの流れ
       冷凍保存でよみがえる日を待つ
       アメリカの不老不死
       「アンチエイジング」という市場
       底なし沼の「抗加齢ドック」
       欲望肯定主義の陥穽(かんせい)

第3章 長寿の危険に備えていますか
       簡単に死ねない時代
       長寿の危険は高まっている
       虐待の危険
       孤独と憤懣の危険
       自殺の危険
       マスコミに踊らされる危険
       オムツはずしの危険

第4章 老後に安住の地はあるのか
       グループホーム殺害事件
       「認知症介護の切り札」というウソ
       触れ込みはパラダイス
       あまりに高額な有料老人ホーム
       ホームの都合で医師を替えることも
       収益のためなら入院も拒否
       だから安住の地はない

第5章 敬老精神の復活は可能か
       老人が快適に暮らすために必要なもの
       敬老精神が衰退した理由
       老人の側にも原因が
       それでも立派な老人はいる
       どういう老人が尊敬されるか
       老いていく楽しみを発見!
       老人は弱るからこそ知恵をつける
       “老人力”より“満足力”

第6章 健康な老人にも必要あ安楽死
       立派な老人にも悩みが
       「あんたなんか死ねない」という意地悪
       片手落ちの「PPK(ピンピンコロリ)」
       日本の安楽死土壌
       「表の安楽死」「裏の安楽死」
       オランダの安楽死事情
       死んだほうがいいという状況
       安楽死すべきかせざるべきか

第7章 死をサポートする医療へ
       むかしはみんな家で安楽死していた
       死を支える医療とは
       江戸時代のような看取り
       失敗例
       早い!うまい!安い!
       モルヒネ不使用の悪循環
       求められる“死の側に立つ医師”

第8章 死に時のすすめ
       がんを受け入れて死んだ医師
       死の達人・富士正晴氏の場合
       死を拒否する人の苦しみ
       現代のメメント・モリ
       病院へ行かないという選択
       寿命を大切にするということ
       死に時のすすめ

おわりに


「そんなに長生きしたいですか」と問われれば・・・「それほど長生きはしたくない」と答えたくなる。
が・・・「じゃぁ、何歳まで生きれば満足ですか?」と問われたら・・・・答えに窮してしまう。
私が18歳の時、自分は45歳まで生きれば十分だと思っていた。
45歳になったら死のうと思っていた。
それ以上、生きても意味はないと思っていた。
で・・・・45歳になった時・・・・「う~ん・・・ちょっと早いかな?」と思った・・・(大笑)
現在56歳・・・56歳になって見ると45歳なんてガキだよな・・・・と思う。(大笑)
じゃぁ、改めて、今、何歳まで生きれば十分かと考えてみると、答えが出ない・・・
わからない・・・

50歳を過ぎてから、時々“障害”が出始めた。
今までは、冬でも平気でいたのが、最近は寒いと指が動かなくなってきた・・・
普段の生活の中でも、時々指が動かなくなって、物が掴めないとか落とすとかということが起こってきた。(大汗)
パソコンのキーボードを叩くと指に激痛が走り、指が動かなくなることもある。
今まで経験したことがないことが起こり始めている。
これが“老い”というものなのだろう。
この先、さらに歳を取っていったら、どうなるか・・・・(大汗)
想像しただけで嫌になる。

私が付き合っている人たちには高齢者が多い。
皆さん、戦時中に最前線で戦って生き残った人たちなので、90歳以上の方ばかりである。
最高齢は97歳である。
「どうして生き残っちゃったかなぁ~ましてや90歳まで生きるなんて・・・」とこぼしていた人もいた。
1個中隊100名のうち、生き残ったのは自分一人という人もいた。
戦友はみんな20歳そこそこで死んでいったのである。
元気なうちに死んでいったのである。
90歳を過ぎた、この人たちは、どう考えているのか・・・・
多くを語らないから想像するしかないが、若くて元気なうちに死んだほうが良かったと思っているのかも・・・・

本書の著者は医師であり、作家でもあるという人。
“医師”という肩書の人の割には思い切ったことを書いていると思う。
が・・・内容は十分納得のいく話ばかりである。

普段から私が疑問を持ち、そのCMを見るたびに不愉快になるというサプリメント・・・・
CMを見るたびに「なにがグルコサミンだよ!飲んで効くのかよ!地図も持ってねぇのに軟骨成分が軟骨に辿り着くって言うのかよ!」と突っ込みを入れているのだが・・・(大笑)
膝に注射器で注入するっていうならわかるけど、口から飲んで辿り着くわけなんかねぇだろぉ~(大笑)
人の不安を煽ってカネを稼ぐという嫌な商売である。
生命保険会社と同様である。
このサプリメントについても、著者はバッサリと思いきったことを書いている。
まさにその通り!(大喜)

「アンチエイジング」なんて“誤魔化し”に過ぎない・・・・
特に女性・・・・
顔だけ一生懸命「アンチエイジング」・・・・
でも服を脱いだらどうなるか・・・(大汗)
そのギャップはかなり大きいのではなかろうか?(大笑)
最低限の“修復”もしくは“誤魔化し”でいいんじゃないの?(大笑)

歳を取る・・・・老いるというのは本当に不安である。
「高齢化社会」と口では言っているが、「高齢者のための社会」を構築しようというわけではない。
まだ“高齢者”ではない私でも、「ちょっとこれ不親切じゃないの?高齢者にとっては不便じゃないの?」と思うことが多い。
こんなことなら長生きはしないほうがいいなぁ~・・・と思う・・・・

「老いては子に従え」という言葉があるが・・・・
子供がいない私の場合、誰に従えばいいのだろう?(大笑)
今になって、こりゃマズイことになったと気が付いた・・・(大笑)

「死に時」というのは、なかなか難しい・・・・
機能障害が起こる前に死にたいが・・・・
今より更に醜い姿になる前に死にたいが・・・
なかなか、その「死に時」を決めるというのは難しい。
死ぬに死ねない、死なせてもらえないというのが今の世の中・・・・
結局は「運命」に任せるしかないのかもしれない。

それでも私は一つだけ決めていることがある。
ガンになっても手術はしない、治療はしない・・・
周囲や医者が認めてはくれないと思うが・・・(大笑)
特に、私の場合、身内に医者がいるからなおさら難しいだろうが・・・
ガンに冒されていると知ったら、その時が「死に時」だと思い、これも「運命」だと諦めて・・・・
そのまま死のうと思っている。
が・・・実際に、そうなったときに、それを実行できるかどうかである。(汗)
いざとなったら「死にたくない!」と泣くかも・・・(大笑)
「なんとか助けてください」と懇願するかも・・・(大笑)
「もっと長生きしたい!」とコロリと気が変わるかも・・・(大笑)

「死ぬ」ということは、なかなか難しい問題である。
それだけに、日ごろから意識していたほうがいい・・・・
本書は、そういう意味で、「自分の死生観」を考える助けになるのではないかと思う。


今年の読書:46冊目



読書 | 00:37:01 | Comments(0)
ブログを辞めようかな・・・
ふと気が付いたのだが・・・・
このブログを書き始めてから10年が経つのである!(驚)
書き始めたのは2006年の7月・・・・
あらら・・・いつの間に10年も経ってしまったのやら・・・・(大汗)

最近、ちょっと悩んでいることがある・・・(苦笑)
このブログ・・・いい加減、もう辞めようかなと・・・・

そもそも、このブログを始めたきっかけは、拙者が会社を閉じてからいったいどうしているのかと友人たちから尋ねられることが多かったために、近況報告の為に書き始めたのである。(大笑)
友人たちに会うたびに、同じ話を何度もするのは面倒なので・・・・(大笑)
「ブログを見てくれ!」と言っていたのだが・・・・
最近になって、わかったことは・・・誰も拙者のブログを見ていない!(大汗)
う~ん・・・・これじゃ、やっている意味がないではないか?(苦笑)

しかも・・・拙者は書くのが遅いのである!(涙)
下手をすると丸一日もかけて書くこともある。
その割には“名文”とは、ほど遠い出来で・・・
一体何をしているのやら・・・(大汗)

拙者には他にも「やりたいこと」や「やらねばならぬこと」があるのだが・・・・
ほとんどの時間をブログに取られている始末・・・
自分でもバカじゃなかろうかという気がしてきた・・・

ついつい更新が遅れ、最大では4ヵ月も遅れた記事を書く始末・・・
これがまたストレスとなって自分に跳ね返ってくる。(涙)
拙者は一体、何をしているんだろう?

こうなると、なんとか負担を軽くしようと“手抜き”を考えることになる。
が・・・そうなると、“手抜き”をしてまで、なんで書かねばならないのか?・・・・ということになる。
これこそ“惰性”ということではなかろうか?

生来、面倒くさがり屋で、億劫がり屋で、飽きっぽい拙者だが・・・
このブログのおかげで、少しは文章を書くのが億劫にはならなくなったから、多少のメリットはあったとは言え、いい加減、このへんで別のことにウェイトを置くべきではなかろうかという気がしている。

いい加減、このあたりで辞めようか・・・・
ブログ記事の“執筆”にかける時間を他のことに費やした方がいいのではなかろうか?

しかし、10年も続けてきたものを、ここでパタリと辞めるというのもねぇ~(苦笑)
なんとも、もったいない気もするが・・・・
あ~あ~・・・・優柔不断な人間というのは、こういうことに陥ってしまうから困るのである。
決められない!(大笑)
バッサリと斬り捨てられない!(大笑)
やりたいのか、やりたくないのか・・・ハッキリしない!(大笑)

つくづく、困ったものだと思う・・・・
どうしよう・・・・(大汗)

日記 | 09:42:41 | Comments(0)