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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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「大神」へ行く
観光マップによれば、「大神(おおが)」という場所に、太平洋戦争時、人間魚雷「回天」の訓練基地があったらしい。
そこに記念公園があるらしいので、タクシーで向かう。

DSCN2561_convert_20160730212600.jpg DSCN2550_convert_20160730212640.jpg

公園には実物大の「回天」の模型が展示されていた。



「回天一型改一」
(実物大模型)

全長:14.75m  直径:1m  全重量:8300kg
最大速力:30ノット(時速約56キロ)  航続時間:2時間15分(12ノット)
弾頭炸薬量:1550kg  乗員:1名

1945年(昭和20年)4月25日に大神回天訓練基地が開設され、5月23日より別府湾を訓練海域とした訓練が始まった。
訓練には「回天一型」を改良した「回天一型改一」が使用され、「回天一型」との大きな違いは、波切形状改正と潜水艦から搭乗する下部ハッチが無く陸地から出撃するものであった。
終戦間近の1945年(昭和20年)8月3日、大神基地から唯一の出撃があり、「回天一型改一」8基と隊員8名が危険海域の中無事に愛媛県宿毛湾麦が浦へ輸送されたが、発進待機命令を受けたまま終戦を迎えた。

(説明板より)


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(人間魚雷 大神回天基地跡記念碑)

周囲にはいくつかの壕が残っているようなので、タクシーにはそのまま公園の駐車場で待ってもらい、一人、「回天基地の案内マップ」を頼りに徒歩で周囲の戦跡を見て歩くことにした。

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(圧縮酸素ポンプ室壕)

現地説明板の「配置図」では、「実用頭部格納庫」となっている。
どちらが本当なのかはわからない・・・(汗)

高台にある「住吉神社」に向かう。
この境内に「回天神社」があるらしい。

DSCN2601_convert_20160730220717.jpg (住吉神社)

DSCN2589_convert_20160730220641.jpg (回天神社)


回天神社

太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に入ると戦局を逆転するために、魚雷を人間が一人搭乗できるように改造し、母艦の潜水艦から発進して敵艦に体当たりする戦法が考え出された。
昭和19年9月1日、山口県徳山市大津島で回天の訓練基地が開隊、続いて光基地(山口県光市)、平生基地(山口県平生町)が順次開隊し、ここ大神では昭和20(1945)年4月25日に大神突撃隊として、司令・山田大佐以下2,000名で発足した。
昭和20(1945)年8月2日、隊員8名が回天8基と共に高知県宿毛湾麦ヶ浦へ出撃のため進出した。
昭和20年8月15日の終戦とともに解隊したため、大神突撃隊からは突撃による戦死者は出ていない。
しかし、終戦10日後の25日、松尾秀輔少尉が基地内で自決したほか、空襲による犠牲者が出ている。
終戦に伴い神体を奉納していた回天神社は山田司令の依頼により住吉神社境内に遷座し、地区民がお祭りするようになった。
慰霊祭は3年に一度、関係者が全国より集まって行われ、その他の2年間は地区氏子の手で慰霊されている。

大分県日出町観光協会
2002年3月作成

(説明板より)



あのぉ~ここで疑問なんですが・・・(大汗)
回天の模型の説明板では、「愛媛県宿毛湾麦が浦」へ隊員8名と回天8基が派遣されたことになっているのですが・・・
こっちの説明板では「高知県宿毛湾麦ヶ浦」となっているのです・・・(大汗)
「愛媛県」と「高知県」・・・・どっちが正しいんだろうか?(苦笑)

「回天神社」の境内には、人間魚雷「回天」の模型と、「回天」の動力として使用された「九三式酸素魚雷」の駆動部が展示されていた。

DSCN2587_convert_20160731092122.jpg DSCN2582_convert_20160731092036.jpg

「回天神社」がある高台から下を見る・・・・
手前の池のようなものは「養魚場」らしい。
その向こう側に、「回天」を発進させる「スロープ(滑り台)」があったようである。

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「回天神社」のある高台を降りて、さらに周囲を散策する。

DSCN2611_convert_20160731093146.jpg DSCN2609_convert_20160731093100.jpg


回天格納壕

昭和20年8月3日大神基地から唯一の出撃があり8名の隊員及び整備員が、回天8基と共に宿毛湾麦ヶ浦へ、その時に8基を一列に格納していたトンネル跡です。

(説明板より)


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(各科の倉庫壕)

各種の壕がいくつも残っているが、周囲は雑草が生い茂り近づけない。
季節を間違えたな・・・(苦笑)・・・・冬に来るべきだった・・・(大笑)
もう少し、この周辺を整備してくれるとありがたいのだが・・・・

DSCN2620_convert_20160731100225.jpg DSCN2621_convert_20160731100304.jpg

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燃料格納庫

アルコール、重油、鉱油等の燃料が格納されていた素掘りの壕。
内部はL型になっており、戦後しばらくは燃料等が格納されていました。
隣接して配置されていた各科倉庫壕は、非常時に使用する目的で造られていたものと思われます。
しかし、その詳しい用途は分かっていません。
周辺に爆雷艇「震洋」、飛行機運搬車格納庫、弾薬庫などがありました。

(説明板より)



燃料格納壕が“素掘り”というのが解せないが・・・
弾薬庫や燃料庫は、安全性を考えて、コンクリートなどで頑丈に作ると思うのだが・・・
大戦末期だったので、そこまではできなかったのか?
各科倉庫壕はコンクリート製のようなんだけど・・・
燃料庫の場合、揮発性が高いから、どこかに“ガス抜き”の穴か煙突があっていいはずだが、それはどうなっているのだろう。
素朴な疑問である・・・・

高台に登る・・・・
このあたりは、兵舎などがあった地域である。

DSCN2628_convert_20160731102235.jpg DSCN2629_convert_20160731102303.jpg

たぶん、このあたりが士官官舎跡だと思う・・・・

DSCN2630_convert_20160731102335.jpg DSCN2631_convert_20160731102400.jpg

この畑になっている場所には、当時は本部が置かれていた。

このあたりは住宅地になっている・・・・
そのためか、「ここが○○跡です」というような案内板や標柱は建っていない。
拙者のようなマニアックな人間にとっては、表示板のようなものを是非とも設置してもらいたいが・・・(笑)
この地に住んでいる方々にとっては迷惑だろう・・・・
これはやむを得ないな・・・

約1時間・・・・
タクシーを待たせたまま、周囲を散策した。(大笑)
実は、まだ見足りないのだが、これ以上待たせたら運転手さんに申し訳ないしねぇ~(大汗)
見始まったらキリがない・・・このあたりで見学は打ち切ることにする。(大笑)
今日は、とにかく暑い・・・・
喉が渇いてカラカラ・・・
駐車場に戻り、真っ先に自販機でスポーツドリンクを購入!
ここに自販機があって助かった。(大笑)

このあとは、真っすぐ別府に戻ることにする。
近くの駅というと・・・「日出駅」のようなので、駅までタクシーで向かう。

途中・・・
運転手さんから「大学の先生なんですか?」と尋ねられた。(大汗)
なんで、そう思われたんだろう?
ただの“オタク”(マニア)と思われておかしくないと思うのだが・・・
過去にも何度か大学の先生と間違えられたことがある。
東京大学の構内を歩いていて、大学の先生から挨拶されたり会釈されたりしたこともある。(大笑)
う~ん・・・拙者は、かなり“知的なオーラ”を出しているんだろうねぇ~(大笑)
間違っても「痴的」ではない・・・「知的」である。(大笑)

こういうのが、また楽しい・・・・(大笑)
一体、私は何者でしょう?
刑事からはヤクザだと思われ・・・・
ヤクザからは同業のヤクザか刑事だと思われ・・・
海外へ行けば元軍人だと思われ・・・・
自衛隊へ行けば、退職自衛官だと思われ・・・
史跡巡りをすれば、大学の先生だと思われ・・・
もう、楽しくて仕方がない。
他人というのは、拙者を見て、勝手にいろいろと想像をめぐらすようである。
で・・・・
拙者が田舎の町工場のバカ息子だと言い当てた人は一人もいない・・・(大笑)

DSCN2632_convert_20160731110122.jpg

午後4時半に「日出駅」に到着したが・・・・
は?・・・へぇ?・・・・これが・・・駅?(唖然)
これは地下壕?(大笑)
トンネルの部分しかない・・・・

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内部は・・・やっぱり地下壕っぽい・・・(苦笑)
地下壕ばかり見て回ったから、拙者の頭がおかしくなったのか?
なんでも地下壕に見えてしまうのか?
狸か狐にバカにされているのだろうか?(大笑)
どうも、線路の下を横切っているらしく、この地下から階段でホームに登るらしい。(苦笑)
こういう駅も、また面白い。

で・・・・時刻表・・・・

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ゲゲッ!・・・・電車がない!(大汗)
なんと不便な事か・・・・
1時間に1本から3本・・・・
午後4時台は、1本のみで、すでに行ってしてしまっている。
次の電車までは30分以上もある。
近くのお店でコーヒーを飲んで時間をつぶす。

午後5時9分発に乗る・・・・
電車の中・・・・
ドアにシールが貼られていた。(汗)

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「床に座らないでください」というシールである。
ということは・・・床に座るバカが多いということか・・・・(苦笑)
我が町を走る「常磐線」の車両には、こういうシールは貼られていなかったような気がするが・・・・
よく見るのは「指を挟まないように」とか「無理な駆け込み乗車はしないで」というシールだが・・・・
へぇ~・・・大分の人はドアのところに座っちゃうのか?(苦笑)
乗降者の邪魔だろうねぇ~
そういうことを平然と行う人が多いからシールを貼られるわけで・・・・(大笑)
これは・・・県民性なのか?(大笑)

「別府北浜」でタクシーを降りる。
明日は空港に向かい帰宅するので、空港行きのバス乗り場の位置とと時刻の確認をして、ついでに周囲をウロウロ・・・・
コンビニの位置などを確認してからホテルにチェックイン。
今晩は、昨晩泊まったホテルとは別のホテルに泊まる。
折角であるから、同じホテルに2泊するより、そのほうが楽しそうだと思ったのである。(笑)

ホテル内に、温泉の大浴場がある・・・
しかも、拙者の部屋は、その大浴場のすぐ近く!
面倒くさがり屋の拙者でも、さすがに目の前に大浴場があるのなら入らねばなるまい!(大喜)

夕食は、外に出て食べることにしたが・・・・
相変わらずの優柔不断・・・・
どこで食べようかと迷うばかりで、一向に決まらない。
結局は、商店街の路地裏にある喫茶店でピラフとコーヒーの夕食となる。(大笑)
お客は誰もいない・・・・
お店のオバチャンとおしゃべり・・・・
熊本の大震災の影響で、別府でもドタキャンがすごかったそうで・・・
おかげで観光客はほとんどいない・・・商店街も閑散としている・・・
今もって観光客数は回復していないそうである。
あらら・・・・(大汗)

地元の人との会話は、旅の楽しみの一つでもある。

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旅行 | 17:18:29 | Comments(0)
帆足萬里の墓
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帆足萬里墓

豊後国(ぶんごのくに)日出藩(ひじはん)が輩出した偉人「帆足萬里(ほあしばんり)(1778~1852)」は、三浦梅園(ばいえん)(国東)、広瀬淡窓(たんそう)(日田)とともに「豊後の三賢人」と称される、江戸時代後期の儒学者・経世家(けいせいか)(政治・経済の論者)です。
萬里の功績は、大きく教育者・学者・政治家の三つに分けられます。
まず、教育者として、萬里は家塾(かじゅく)「稽古堂(けいこどう)」や私塾(しじゅく)「西崦精舎(せいえんせいしゃ)」などを通じ、生涯の多くを門弟の教育に捧げました。
萬里の人間性とその教えの広さゆえ、門弟の数は日出領内外数百名におよぶといわれています。
次に、学者として、萬里は和・漢・洋の学問、窮理(きゅうり)・医学・天文・歴史・政治・経済・兵制などの様々な分野に通じ、その代表的著書『窮理通(きゅうりつう)』(西洋の自然科学書)は、日本の科学史の発展に大きく寄与しました。
最後に、政治家として、萬里は天保3(1832)年より3年間、日出藩の家老に就任し、綱紀(こうき)の粛清、藩費の節減、風俗の改善、賞罰の励行など、財政的に行き詰る日出藩の藩政改革に取り組みました。
萬里の墓は、日出藩14代藩主木下俊方(としかた)の命により建立され、別府湾を眺望するように日出城に向けて建てられています。
墓碑の正面は門弟であった杵築(きつき)藩主松平親良(ちかよし)の弟親直(ちかなお)の筆、他の三面は高弟(こうてい)米良東嶠(めらとうきょう)の撰(せん)・筆(ひつ)による碑文が刻まれています。
墓碑が欠けているのは、この石片を持ち帰り、学業の向上を祈る人が多かったためといわれています。

大分県史跡 昭和33年3月25日指定
日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町佐尾】

史跡 | 16:47:31 | Comments(0)
松屋寺の蘇鉄
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国指定天然記念物
松屋寺のソテツ
大正13年12月9日 指定

ソテツは、高さ6.1m、株元の周囲(地上より1.2m)6.4m、南北幅8.5mの巨樹である。
このソテツは、雌樹で一つの株元から十数本の支幹が分岐している。
いづれの支幹も指定当時より1m以上大きさを増して成長している。
寺伝によると、日出藩2代藩主・木下俊治が府内城(大分市)にあったものを移植したものと言われている。
江戸時代より日本一のソテツとして名高く、樹齢600年以上と推定される。
これまで嘉永4年(1851)、大正4年(1915)の二度の火災に遭い、一部消失したり、自然災害により損傷・倒壊したりしたが、いずれも見事に樹勢を回復し、堂々とした威容を見せている。

平成8年3月
松屋寺
日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町1921・松屋寺】

史跡 | 16:33:21 | Comments(0)
旧成清家 日出別邸
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国重要文化財
旧成清(なりきよ)家 日出別邸 (的山荘)

的山荘(てきざんそう)は、福岡県みやま市瀬高町出身の成清博愛(なりきよひろえ)氏が大正3年(1914)から翌4年にかけて建てた別邸です。
博愛氏は、明治43年(1910)、馬上金山(ばじょうきんざん)(現 杵築市山香町)の経営に着手し、その採掘に成功しました。
当時、採掘された鉱石の一部を日出港より海上輸送しており、博愛氏の別邸は、単に個人の清遊のためのものではなく、鉱山経営の拠点的機能を兼ねていました。
昭和39年(1964)、的山荘を料亭として開業。
以来、城下かれいは全国に広く名が知られ、皇室をはじめ数多くの著名人が的山荘を訪れました。
的山荘は、江戸時代以来の伝統的建築手法を受け継ぐ貴重な近代和風建築で、広大な庭園もまた、別府湾と高崎山(たかさきやま)・鶴見山(つるみさん)・扇山(おうぎやま)を見渡す眺望豊かな近代庭園として、貴重な価値を有しています。
的山荘の周辺にも、馬上金山の鉱滓(こうさい)を用いた煉瓦(れんが)塀が随所にみられ、当時の名残を留めています。

日地町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日地町2663】

史跡 | 15:53:33 | Comments(0)
瀧家住居(二十番屋敷跡)
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楽聖瀧廉太郎
瀧家住居(二十番屋敷跡)

瀧家は代々日出藩の給人格(上士)の家柄で廉太郎の祖父平之進吉惇は碩学帆足萬里の高弟であり、天保3年藩政改革時に萬里と共に家老をつとめた。
父の吉弘は藩政時代は武頭をつとめ明治3年日出藩大参事、同5年8月大蔵省九等出仕となり此の地を離れ単身上京、家族は同7年6月一家4人上京した。
当時の家族 父 瀧吉弘 (33才)
        祖母 ミチ (67才)
        母 マサ (24才)
        姉 リエ (5才)
        義兄 大吉 (14才)
楽聖瀧廉太郎は明治12年8月24日父吉弘内務省一等属出仕の時代東京乏区南佐久間町2丁目18番地に生まれた。
一家が日出の地を離れた5年後である。
初代以下の瀧家の墓は日出町佐尾の龍泉寺にある。

(説明板より)


【大分県速見郡日出町2674.日出幼稚園】

史跡 | 15:33:06 | Comments(0)
日出の町を歩く
一服して一休み後、観光マップを頼りに、さらに周辺を歩くことにした。

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日出中学校が建っている場所には、その昔、藩校の致道館が建っていたそうである。
拙者が最初に向かった、あの移築された建物が、ここに建っていたのだろう。

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観光マップによれば、この道は通れるように描いてあるのだが・・・
どう見ても中学校の敷地内である。
道の両脇に建つ校舎の渡り廊下を横切る形なのである。
こちらから教室内は丸見えだし、生徒たちからも拙者は丸見え・・・(大笑)
おい、おい、本当にここを通っていいのか?(汗)
通常、学校敷地内は関係者以外の立ち入りは禁止とかって看板が出ているんだけど・・・・
この学校・・・・どこからどこまでが学校なのかがよくわからない。
門扉もないし・・・(大汗)
ええい、ここまで来ちゃったんだから、不審者扱いされてもやむをえまい・・・・突っ切る!(大笑)

しばらく歩くと、幼稚園が見えてきた。

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説明板によれば、ここが瀧廉太郎の父親が住んでいた家の跡らしい。
ちなみに滝廉太郎は、ここには住んでいない。
父親がここから転居した後に生れたのである。
ということは・・・細かなことを言うと、瀧廉太郎とは全然関係がない場所ともいえるのではなかろうか?(苦笑)
「実家」とも呼べまい?(笑)
しかしながら、それを“史跡”にしてしまうのだから、大したものである。
拙者としては、こういうのも“あり”と思うのである。(大笑)
他の地域でも、こういう“史跡”をドンドン作ったらいいと思う。
散策のいい楽しみになる。
以前、ハワイに行ったときに現地の人が笑って話してくれたことがある。
ちょうどオバマが大統領になった時の事・・・
オバマが子供の頃、ここに座ってアイスクリームを食べていました・・・・という場所が「観光名所」になってツアー客が必ず訪れるそうである。(唖然)
くだらない・・・と言えば、くだらないが・・・
それでも人が集まってカネを落としてくれれば、いいわけで・・・・「観光名所」とは、そういうものだろう。

つぎに向かったのは、すぐ近くにある「的山荘(てきざんそう)」という建物がある場所。
何のことやら、よくわかっていないが“史跡”らしいので寄ってみる。

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なにやら「料亭」みたいなようで・・・門のところに出ていたメニューを見たら、かなり高価なお食事を出すらしい。
水戸藩士の“シミズくん”と一緒というのなら、ここで食事をしてもいいが・・・・
時刻は、まもなく午後1時・・・・かなり腹が空いてきたが・・・(汗)
一人で、こんな高価な食事をするのはもったいないのでやめる。(大笑)

敷地内は見学できそうなので、中に入ってみる。(笑)

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三笠宮殿下と妃殿下が記念植樹した木があった!(大喜)
標柱には「昭和52年10月18日」と記されている。
旅に出て、史跡を訪ねて、殿下のお名前に出会うと本当に嬉しくなってしまう。
なぜなんだろ?(笑)
他にも皇室の方々の記念植樹がいくつもあるのだが・・・・拙者にとっては三笠宮様が一番なのである。(苦笑)

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建物の玄関のところまで来て、Uターン・・・・
なかなか趣のある建物で、内部を見たい衝動に駆られたが、コーヒーだけというわけにもいかぬ雰囲気・・・
断念する。(涙)

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「的山荘」を出て、さらに散策・・・・
このあたりが帆足萬里の生家跡ではないかと思われるのだが、イラストマップの「観光マップ」では正確な位置がわからない。
「イラストマップ」ほど迷惑なものはない!(怒)
いろんな町を旅して、何度、ひどい目にあったことか・・・
“史跡”の位置がおおざっぱ過ぎて、現地に行っても見つからないのである!(涙)
今回も、このあたりだと思うのだが・・・・「説明板」が出ていないのか、それとも拙者が見つけられないかったのか、結局、わからず仕舞い・・・・
この他にも、観光マップに載っていた“史跡”1か所の場所がわからず散々ウロウロした挙句、断念する。

お昼を過ぎているが、ここまで空腹を我慢したのには理由がある。
この地の名物「城下(しろした)カレイ」というのを食べてみたかったのである。
観光マップを頼りに、「城下カレイ」を食べさせてくれる店に行ったら・・・・閉まっていた!(涙)
いや、潰れているのか?(苦笑)
定休日で閉まっているのか、倒産でもして潰れているのか、区別がつかないところが悲しい・・・(笑)

やむなく駅の近くまで戻り、ラーメン屋でラーメンを食べる・・・・
無料で大盛にしてくれるそうだが、断ったら店のオバチャンに笑われた・・・(大笑)
あんたの体格なら当然、大盛でしょ?同じ値段なんだし・・・・ということか?(苦笑)
その体格でねぇ~・・・・“並み”を頼むの?・・・と言わんばかりのあきれ顔・・・(笑)
いや、いや、並みも大盛も同じ値段という方がおかしいでしょ?(大笑)
面白いお店である。

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時刻は午後1時半・・・・
今度は線路を渡り、反対側に向かう。
どう見てもタクシーを拾えそうな感じがしない・・・(涙)
食後の運動だと思って歩くしかないか・・・(汗)

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20分ほどで「龍泉寺」にたどり着く・・・
ここに瀧廉太郎の「瀧一族」の墓がある。

DSCN2508_convert_20160728165552.jpg (瀧家の墓所)


瀧家累代と瀧廉太郎の墓

瀧家の初代俊吉は紀州の人ですが、初代日出藩主の木下延俊侯に認められて、重職で召抱えられ、以来瀧廉太郎の父の11代吉弘まで、約270年間の長きに渡り、代々武頭や家老など要職について日出藩のために尽くされました。
ここには初代俊吉から10代吉彰までの墓がありましたが、平成23年3月20日に瀧家のご意向と、日出町及び有志の協力により、大分市の萬寿寺から、瀧廉太郎と父11代吉弘、母正子等の眠る瀧家の墓を移して、整備することが出来ました。
よってここに瀧家の累代の墓が揃いました。
瀧廉太郎も少年の頃遊びに来たであろう瀧家所縁の日出の地で、祖先、祖父母、父母と共にあって、安らかな中で素晴らしい曲を作り奏でていることでしょう。

日出町

(説明板より)


DSCN2510_convert_20160728165639.jpg (瀧廉太郎君碑)


記念碑

この碑は、音楽学校(現・東京芸術大学)の同窓生が廉太郎の功績に対し贈られたもので、1904年7月に学校の3年先輩の卒業生、田村虎蔵教授が代表として来県し、除幕された碑である。

(説明板より)


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瀧家・瀧廉太郎の墓

11代 父 吉弘
日出藩・武頭
1871年に廃藩置県となり翌年上京。
内務省の時、大久保利通に秘書として仕え、伊藤博文の知遇も得た。
その後、大分郡長、直入郡長を務めたのち、現在の大分市遊歩公園近くに住む。
廉太郎が逝去した翌年の8月9日に63歳で死去。
法名は「静観院心月竹軒居士」である。

母 マサ(正子)
日出藩・藩士で瀧家の親戚にあたる白井直之進の長女で、三男五女をもうけている。
左包丁で大変料理が上手だったとのこと。
1916年4月20日に逝去。
法名は「長養院正屋恵念大姉」である。

瀧 廉太郎
1879年(明治12年)8月24日に現在の東京都港区西新橋2丁目に生まれた。
11歳の時大分、13歳の時竹田に移り約2年間を過ごし、15歳で東京音楽学校(現・東京芸大)に入学。
18歳で本科専修部を首席で卒業し、研究科に入学。
1900年20歳の時、日出の情景を歌ったとされる「古城」を作詞し、ピアノ教授嘱託をしながら「箱根八里」「荒城の月」等作曲。
21歳の4月、国費留学で横浜から船で発ち、10月にドイツのライプチヒ王立音楽院に合格したが、2ヶ月後に風邪をこじらせ、1年後の1902年10月に帰国、翌年大分の父母のもとで療養したが、その甲斐なく1903年6月29日に享年23歳と10ヶ月の短い生涯を閉じた。
法名は「直心正廉居士」である。

(説明板より)



瀧廉太郎のお墓をお参りして、寺を出て、さらに奥に進む。

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『日本一の大蘇鉄』の大きな看板が目立つ、「松屋寺」に到着!
たしか、ここに日出藩主・木下家歴代のお墓があるはず・・・

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松屋寺

曹洞宗康徳山松屋寺は天台宗六郷満山寺院の一つとして建立された水月堂を最初とし鎌倉時代の文永年間、最明寺道宗(北條時頼)が水月堂に宿したことにより以来西明寺と稱したと伝えられる。
慶長6年(1601年)日出藩主木下家の菩提寺となり康徳山松屋寺と号するに至った古刹で数多くの寺宝がある。
境内には国指定天然記念物大蘇鉄、県指定有形文化財の「仏涅槃図」「松屋妙貞他肖像画三幅対」狩野常信筆、「十六羅漢図」や町指定文化財木下俊長筆、「千態観音図帳」等ある他、日出城主歴代の墓所や雪舟の築庭と伝えられる「万竜の庭」、また帆足萬里をはじめ日出藩の硯学、文化人の墓も寺城内や近くに散在している。

(説明板より)



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三笠宮妃殿下の記念植樹を発見!(喜)
百合子妃殿下がここにおいでになっていましたか!
さて・・・殿下の記念植樹が見つからなかったけど・・・殿下はいらっしゃらなかったのかな?
現在、殿下は100歳、百合子妃殿下は93歳でいらっしゃる。

お寺の方が、付きっ切りで境内を案内してくださった。
「宝物館」も見せていただき、展示されているもの一つ一つを丁寧に説明してくださった。
いやはや、その丁寧さには感謝である・・・・拙者は、それほど“偉い人物”ではないのだが・・・(苦笑)

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これが雪舟が作ったと言われている庭・・・・

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これが、国の天然記念物の蘇鉄・・・・
普通、蘇鉄というのは、ここまで大きくは育たないのだとか・・・
途中で幹が折れてしまうのだとという。
ということは・・・・これを守り育てて、後世まで残すというのは、かなり大変なことであろう。
いやぁ~責任重大!・・・・怖い、怖い・・・・(大汗)

歴代日出藩主の墓所は、この寺の裏山にあるとのことなので、行ってみる。
さらに、奥へ向かうと帆足萬里の墓もあるという。

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日出藩木下家墓所(大名墓)

日出藩木下家墓所(大名墓)は、慶長6年(1601)、初代藩主木下延俊(のぶとし)が姫路より日出に入部して以来、江戸幕府が終わる明治時代まで16代・約270年間続いた、日出藩主木下家の墓所です。
本墓所の創設は寛永年間(1630年ごろ)と言われ、当時は初代藩主延俊の祖母朝日(あさひ)(豊臣秀吉の正室・おねの実母)、延俊の正室加賀(かが)(細川忠興の妹)及び延俊の実母の4基の墓を祀る墓所として出発し、以後歴代藩主や木下家に関係のある人物の墓が建てられています。
江戸時代の藩主の菩提寺は、参勤交代制度により江戸と国元(くにもと)に設けられることが多く、日出藩主木下家においても国元の松屋寺に対し、江戸では泉岳寺(せんがくじ)が菩提寺であり、それぞれ分祀されています。
入部以来16代存続した歴代藩主のうち、13代・16代の藩主の墓碑はありませんが、そのことは神葬(しんそう)のためとされています。
藩主の墓所は各地に残されていますが、その数・大きさ・壮麗さについては大分県内随一と言われています。

日出町指定文化財 平成15年4月1日指定
日出町教育委員会

(説明板より)



こういうお墓を見るたびに思うのだが・・・
この“墓石”に使われている球形の石!
これ、どうやって作ったのだろう?
重さは何百キロもあると思うんだよねぇ~
しかも、この丸い石より大きい石を削って球形に仕上げるんでしょ?
粘土をこねてボールを作るのでも完全な球形にするのは至難の業だと思うんですけど・・・・
しかも表面を滑らかにしてあるんだよねぇ~
当時の石工さんは、どういう工程でこの球形を作ったのか、タイムマシンがあったら、この時代に行って是非、その作業を見てみたいものだと思うのである。(笑)

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墓所の奥、「3代俊長」公の墓石は大木が倒れたせいで上部が壊れていた。(唖然)
この墓所の後ろは森林だったのだが、最近、そこを切り開いて太陽光発電のパネルを設置し始めたそうで・・・・
今まで森のおかげで風当たりが弱かったものが、その森が無くなったことで、墓所のすぐ近くの古木に、まともに強風が当たったため木が倒れたのではなかろうかという話である。
お寺の方に尋ねたら、この墓石の修復は、そうそう簡単ではないそうである。
「文化財」に指定されていることもあるだろうし、誰がカネを払うのかという問題もあるだろうし・・・
落ちた石を持ち上げて乗せ直せばいいという簡単な話ではないそうである。
いやはや、なんとも困ったものである。

ここからさらに200mくらい山の中を進むと、帆足萬里の墓があると聞いていたので行ってみる。
細い山道は濡れた落ち葉で滑りやすくハラハラドキドキである。
なにせ、拙者はスーツに革靴という格好なのである!(大笑)
ふつう、そういう格好で山の中を歩くバカはいない・・・(大笑)
滑って転んだら、スーツは泥だらけになる。(大汗)
冷や冷やものである・・・・
と・・・足元に、ちょっと太めの木の枝が・・・・危うく踏みそうになった途端、その枝が動いた!
ギャッ!・・・・太い蛇の胴体だった!(大汗)
拙者は蛇が苦手である。
本来なら走って逃げたいところだが、滑って転んだらスーツが汚れる。(涙)
こっちに来るなよ・・・と言いながら、ゆっくりと蛇の横を通過・・・・
草むらに一旦、逃げ込んだ蛇が、よくぞ反転して飛びかかってこなかったものだと、後になってから思う。(冷汗)

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帆足萬里の墓は鉄柵で囲まれていた・・・・
墓石には多数の削られた跡がある。
おかげで、墓石の文字すら読みづらい状態・・・
どうやら、“ご利益”があると思って、墓石を削って持って行く人たちがいたようである。
いつの世にも非常識な連中というのはいるものである。(大汗)

帰りは、あの滑りやすい山道を歩くのは避けたい・・・蛇の一件もあるし・・・
別ルートで山を下り、再び松屋寺に向かう。

時刻は午後3時・・・・
観光マップによれば、「大神」という場所に、人間魚雷「回天」の訓練基地があったらしい。
う~ん・・・そこへ行ってみたいが、徒歩ではとてもじゃないが時間がかかりすぎるだろう。(大笑)
やむなく、お寺の方にタクシーを呼んでもらい、タクシーで「大神」に向かうことにする。

旅行 | 14:07:20 | Comments(0)
日出城の石垣
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日出城(暘谷城)の石垣

日出(ひじ)藩初代藩主木下延俊(のぶとし)は、慶長6年(1601)秋より約1年の歳月をかけて日出城(ひじじょう)を築きましたが、石垣の構築は細川忠興(ただおき)の家臣で築城の名手・穴生理右衛門(あのうりえもん)の指揮によってなされたといわれています。
「穴生(あのう)」は、近江国穴太(おうみのくにあのう)(滋賀県)の石工(いしく)の集団・穴太衆(あのうしゅう)を指します。
穴太衆は、安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの城の石垣を手がけました。
穴生理右衛門もまたその一員であったと思われ、彼の指揮により築かれた日出城の石垣は、「穴太積(あのうづ)み」として呼び親しまれています。
日出城の石垣は、築石(つきいし)に自然石や粗割石(あらわりいし)を用いた「野面積(のづらづ)み」の技法で、「乱積(らんづ)み」(石材を不規則に積み上げ横目地(よこめじ)が通らない)と「布積(ぬのづ)み」(石材を一段ずつ横に並べて据え、横目地を通す)の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました。
日出城本丸天守台の石垣にみられるように、こうした規模の「穴太積み」の石垣は、大分県下においても大変珍しいといわれています。
日出城の歴史とともに「穴太衆」そして「穴太積み」の歴史を語り継ぐ貴重な石垣です。

日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町・日出城跡】

史跡 | 13:09:24 | Comments(0)
日出城の時鐘
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日出城の時鐘

この時鐘(じしょう)は、元禄8(1695)年日出藩3代藩主木下俊長(としなが)の命により鋳造されたもので、日出城(暘谷城・ようこくじょう)外大手(そとおおて)(現二の丸館付近)の土居(どい)にかけられ、毎日十二刻の時を知らせていました。
明治時代を迎え、時鐘は現在地(日出城本丸裏門櫓跡)に移設され、太平洋戦争期には供出(きょうしゅつ)の危機にも直面しましたが、地元有志の手により守り伝えられ、現在、日出小学校児童が毎朝8時に鐘をつき、時の知らせとともに元禄の鐘の音を響かせています。
時鐘の総高はおよそ1.35メートル、口径75.5センチ、胴部はあまり張らず、撞座(つきざ)は八葉(はちよう)の法輪形を鋳出しています。
また胴部には、俊長と親交のあった幕府の儒官(じゅかん)人見竹洞(ひとみちくどう)筆の銘文が施されています。

日出町有形文化財 昭和33年10月1日指定
日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町・日出城跡】

史跡 | 11:49:43 | Comments(0)
日出城跡へ行く
今日は、大好きな史跡めぐりの旅をする。
当初の予定では、杵築(きつき)に行ってお城を見ようと思っていたのだが、たまたまホテルに日出(ひじ)の観光パンフレットが載あったので、それを見たら、なかなかいいじゃないかということで、急きょ、日出に行くことにした。(大笑)

ホテルをチェックアウトして、9時27分発の電車で暘谷(ようこく)駅へ向かう。
電車は2両編成の鈍行である。(笑)

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駅舎は改築されたのだろうか、駅前も整備中の様子・・・
そのせいか、タクシー乗り場が見当たらず、やむなく徒歩で日出城に向かう。

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線路を渡り・・・ホームをパチリ!
時刻は午前10時・・・

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最初に訪れたのは「藩校・致道館」であるが・・・
門は開いていたが、「休館日」の表札が出ていた・・・(汗)
う~ん・・・・入れないこともなかろうが・・・無理して見るほどのものでもあるまいと諦める。(苦笑)

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次に向かったのは「日出城跡」・・・・
ここに「鬼門櫓」と呼ばれる櫓が現存している。
内部が見学できるようなので入ってみたら、たぶんセンサーが反応したのだろう、資料館の方がやってきて説明をしてくれた。

DSCN2422_convert_20160724155946.jpg (内部)

この櫓の面白いところは、櫓の隅が切られているところ・・・
外観を見てわかる・・・内部も当然隅が切られていた。
珍しい形である。
何で一か所だけ隅を切ったのか?

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隅櫓 (鬼門櫓)

隅櫓は、日出藩(ひじはん)木下家(きのしたけ)の居城である日出城の本丸東北隅に築かれた二層二階櫓で、「鬼門櫓(きもんやぐら)」とも呼ばれています。
慶長6年(1601)から翌2年にかけての日出城の築城とともに築かれたと考えられますが、史料上の初出は『豊後国(ぶんごのくに)日出城絵図(正保城絵図)』で、17世紀中頃には構築されていたことを知ることができます。
隅櫓の特色は、櫓の東北隅を欠いた特異な構造にあります。
当時、東北の方位は、禍(わざわい)を招く「鬼門」として忌み嫌われていたことから、これを除(よ)けるために隅を欠いたといわれています。
こうした櫓は全国でも大変珍しく、日出城の他に例をみないといわれています。
明治4年(1871)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治8年(1875)には本丸内の天守や櫓が競売に付せられ、次々と取り壊されていきました。
しかし隅櫓はこれを免れ、山村羊太郎氏、南喜平氏を経て中村貢氏が所有し、大正10年(1921)に下仁王(しもにおう)(現東仁王)へ移築され、平成20年(2008)、中村家より日出町に寄付されました。

日出町有形文化財  平成21年7月10日 指定
日出町教育委員会

(説明板より)



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この櫓のすぐ隣にある歴史資料館を見学・・・
この歴史資料館は、帆足萬里の記念館も兼ねている。
この2つを見学するだけで、1時間も時間を費やしてしまった。(笑)

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城跡を散策することにする。
たぶん・・・この「日出小学校」が建っている場所が本丸跡ではなかろうか?

DSCN2426_convert_20160724203425.jpg (日出小学校)

緑地帯で銅像を発見!(大喜)

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帆足萬里と瀧廉太郎の銅像である。

DSCN2431_convert_20160724203647.jpg (帆足萬里像)


豊後三賢 郷土日出町の硯学
帆足萬里(ほあしばんり) (1778~1852)

江戸時代後期の儒学者・家老。
安永7年(1778)日出藩(ひじはん)の家老帆足通文(ほあしみちぶみ)の三男として生まれた。
14歳で豊岡の儒学者脇蘭室(わきらんしつ)の門に入り、ほとんど日出の地を出ることなく独学で研究に努めた。
経済、物理、医学、天文などの各分野にも通じ、萬里(ばんり)の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあった。
天保3年(1832)、13代藩主木下俊敦(きのしたとしあつ)に請われて家老職につき、藩財政の再建にも力を尽くした。
嘉永5年(1852)、6月14日、多くの弟子に見守られて75歳の生涯を閉じた。
帆足萬里の代表的著書に、「窮理通(きゅうりつう)」「東潜夫論(とうせんぶろん)」などがある。
また、三浦梅園(みうらばいえん)(安岐)・広瀬淡窓(ひろせたんそう)(日田)とともに、豊後(ぶんご)の三賢(さんけん)と称される。

日出町

(説明板より)



この銅像は日出ライオンズクラブの25周年記念事業として平成4年に建立されたものだそうである。
日田(ひた)には、以前、行ったことがある!
広瀬淡窓・・・・懐かしいお名前である。

もう一つの・・・・瀧廉太郎の銅像・・・これが面白くない!(怒)

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東京の上野にあるものも、大分市にあるものも、みんな同じポーズの銅像なのである!(怒)
同じ型で作ったのだろうか?
それでは“大量生産”と同じである・・・・
この世に一つしかないから貴重なのであって、全国に同じものがいくつもあったら、価値が下がろうというもの・・・
「なぁ~んだ・・・またこれか・・・」である。(苦笑)
拙者は瀧廉太郎には恨みはないが・・・(大笑)
彼の銅像を見るたび不愉快な思いになるのである。
芸がないんだよね・・・同じポーズで・・・・
建立者も、もう少し考えたらよかったのに・・・と思うのだが・・・・
瀧廉太郎という人物は、その程度の扱いしか受けられない人物ということになるか?(苦笑)

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日出城跡の説明板を見っけ!(喜)



日出城址(ひじじょうし)

日出城は、別府湾を望む低台地上に築かれた階郭式(かいかくしき)の平城です。
別名「暘谷城」ともいわれ、3代藩主俊長(としなが)が中国の古書『淮南字(えなんじ)』あるいは『書経(しょきょう)』より引用し、命名したといわれています。
日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名で、初代藩主木下延俊(のぶとし)の父家定の妹おね(高台院)が秀吉の正室(妻)となったため、木下姓を許されました。
慶長6年(1601)8月、日出に入国した延俊は、幕府の許可を得て、日出城の築城に着手。
翌7年8月には概ね完成し、延俊は築城する間、領内藤原村に設けていた仮館を離れ、日出城に入城を果たしました。
日出城は、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸、外郭(がいかく)を重ねた構えをなし、郭(くるわ)は堀により仕切られ、要所には、城門が設けられました。
明治4年(1871)の廃藩置県以降、鬼門櫓(きもんやぐら)と裏門櫓(うらもんやぐら)を除き、城内の建物は、次々と取り壊されました。

町史跡「暘谷城趾」(昭和35年10月17日指定)
日出町教育委員会

(説明板より)


DSCN2455_convert_20160725100827.jpg (時鐘)


日出城の築城

日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名です。
初代藩主木下延俊(きのしたのぶとし)は、父家定(いえさだ)とともに秀吉に仕え、関ヶ原の戦では、義兄の細川忠興(ほそかわただおき)の強い説得により徳川方に付き、忠興の幕府への執り成しによって、豊後国速見郡(ぶんごのくにはやみぐん)日出3万石が与えられました。
慶長6年(1601)8月、日出に入国を果たした延俊は、日出城の築城に着手。
城の縄張(なわばり)(設計)は忠興が行い、石垣も忠興の家臣穴生理右衛門(あのうりえもん)を棟梁に構築されました。
天守は家定の助勢により築かれ、裏門の扉は富来城(とみくじょう)(国東市)の城門扉を転用したといわれています。
本丸には、御殿を中心に天守、大手門、搦手門(からめてもん)、櫓が築かれ、鬼門にあたる北東隅の城壁は入隅(いりずみ)の構造をなし、その上に築かれた鬼門櫓本体も隅欠きを施した特異な構造となっています。
裏鬼門(南西)の城壁も同様に隅を欠き、横矢が掛けられています。

町史跡「暘谷城氏趾」 (昭和35年10月17日指定)
日出町教育委員会

(説明板より)



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ぶらぶらと城址の外周を歩いてみる。
と・・・目立たないところに小さな石碑が・・・・

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小田(こだ)先生の殉職碑

昭和20年7月25日、豊後水道にて触雷した航空母艦海鷹が、駆逐艦に引かれて日出の城下海岸に係留着底した。
この日以来、米軍機による空襲が頻繁となり、7月28日、日出国民学校(現日出小学校)訓導の小田三郎氏が、空襲による銃弾に倒れ殉職した。
当時、小田三郎氏は37歳。
学校に宿直出勤していた後空襲を受け、登校していた生徒達を防空壕へ誘導中に被弾したといわれている。
石碑は、小田三郎氏の遺徳を讃え冥福を祈るため、教え子や知友によって、命日である昭和49年7月28日に建てられた。

日出町教育委員会

(説明板より)



史跡巡りをしていると、時々、このような学校の先生の遺徳を偲ぶ顕彰碑などに出会うことがある。
教え子や友人たちが建てたものだが、すべて古いものばかり・・・・
近年に建立したものに出会うことがない。
最近は、教え子から慕われるような先生がいないということなのだろうか?(苦笑)
戦後、日教組のような団体が幅を利かせたせいなのだろうか?
「教師は聖職などではなく、皆さんと同じ労働者なのです!」ということなら、一労働者、一サラリーマンの為に顕彰碑などは建てないよなぁ~(大笑)
戦前の先生と生徒の関係というのは、今の時代と違って“濃かった”のではなかろうか?
だから遺徳を偲んで教え子たちが碑を建てたりしたのではなかろうか?
天国にいる先生は、さぞかし照れ笑いをしていることだろうが・・・(大笑)
羨ましい限りである。
教育者冥利に尽きるのではなかろうか?
教師の最終目的は「教え子から顕彰碑を建ててもらえるような教育をすること」でもいいかも・・・(大笑)
現代の教師は、このような碑をみて、ちょっと考えてもらいたいものではあるが・・・
たぶん、見向きもしないんだろうねぇ~・・・・(大汗)

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この城跡には、「ここが○○門跡です」というような掲示がされていない。
その点が、ちょっと残念である。
単なる「城址公園」という扱いなのかな?
そこで、また石碑を見つけた!(大喜)
航空母艦「海鷹(かいよう)」の碑である!

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軍艦海鷹(かいよう)の碑

空母海鷹は、大阪商船所属の「あるぜんちな丸」で、南米航路の旅客船であった。
昭和16年、海軍に徴用され、航空母艦に改装された。
船団護衛や輸送の任務につき、南方作戦にて活躍した。
また、特攻機の訓練目標艦としての任務にもつき、航空機による特攻隊のみならず、人間魚雷「回天」の訓練にも使用された。
昭和20年7月24日、豊後水道で触雷、翌25日駆逐艦に引かれ日出の城下海岸に係留着底した。
以後、米軍機による空襲が頻繁となり、動けぬ海鷹は猛烈な攻撃を受けて中破し、そのまま終戦の日を迎えた。
軍艦海鷹の碑は、乗組員戦没者の鎮魂と世界恒久平和の願いをこめ、昭和57年11月22日、元乗組員たちによる海鷹会の手によって建てられたものである。

日出町教育委員会

(説明板より)


DSCN2481_convert_20160725211859.jpg (城下の湾)

この城下の湾のどこかに空母海鷹が着底していたんだなぁ~と感無量・・・
戦後、引き揚げられ解体されたそうであるが、そのまま鎮座していたら、どんな景色になっっていただろうなどと夢想する。

そのまま海岸の遊歩道をテクテク歩いていたら、珍しいものを見つけた。
祠なのであるが・・・「人柱の祠」だそうである・・・(冷汗)

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人柱祠(ひとばしらのほこら)

昭和35年、城下海岸遊歩道の工事中、日出城(暘谷城)の西南端より木棺が発掘された。
棺(早桶)は、岩盤をくりぬいた穴におさめられ、その上に大石が乗せられ石垣の基盤となっていた。
棺の中からは老武士らしき遺体の人骨とともに陶製の翁像が、大石の上からはカブトの金具などが発見された。
大分大学の半田・富來両教授や文化財関係者の調査の結果、日出城(暘谷城)築城当時の人柱であろうと推定された。
日出城(暘谷城)の築城工事は、城の西南部の地盤が弱く難工事であったと伝えられており、また方位上から城の裏鬼門にあたることなどから、人柱を立てたのではないかと考えられている。
棺の出土した地点の石上には人柱祠が祭られており、その昔の哀れさをしのび、祠に花を飾り香華をたむける人々が後を絶たない。

日出町教育委員会

(説明板より)



「人柱の祠」は、今から8年前に大分市の府内城に行った時にも見たことがある。
ずいぶん昔のことなのに、なぜか、鮮明に覚えている。
築城するときには、“人柱”を立てるのが普通だったのだろうか?
まさか、大分県(豊後国)だけの特徴というわけではないと思うが、他の城では見た記憶がない・・・
他の地域では「人柱」のことを忘れ去っていて祠を建ててやらないのか、それとも大分の人たちは特に義理堅い人たちということなのか?(苦笑)
いずれにせよ、「人柱の祠」を丁寧にお参りさせていただく。

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(正面奥、緑の茂っている向こうが天守台跡)

城の外周をぐるりと一周できるのかと思ったのだが、どうも無理なようなので、元来た道を戻り、日出小学校の向かいにある「二の丸館」に向かう。

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(移築復元された裏門櫓)

裏門櫓は、もともとは、現在の「時鐘」がある場所にあったらしい。
なんで、移築しちゃったのかな?(苦笑)

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ここは二の丸跡で、現在は観光案内所と軽食喫茶の“館”が建っている。
時刻は12時を過ぎた・・・ここで、コーヒーを飲み一服・・・(笑)

旅行 | 10:20:30 | Comments(0)