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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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映画『最高の人生の見つけ方』


この映画は、私の一番好きな映画である。
普通、同じ映画を二度も見たいと思うことは、滅多にない。
もう、ストーリーも知っているわけだし・・・・(笑)

しかし、時々、同じ映画をBSやCSなどのテレビで二度も三度も見てしまう時がある。
いつもなら、チャンネルを変えてしまうのだが、ついつい見入ってしまう場合がある。
ストーリーは、すでに分かっているのに・・・・(笑)

この映画は、そういう何度も見てしまった映画の一つで、たぶん私にとって最多の視聴回数を誇る映画だと思う。
ということで、この映画が「一番好き」ということにしている。(笑)

この映画の原題は『The Bucket List』という・・・
「バケット・リスト」って・・・バケツのリストという意味かと思ったのだが、どうやら一般的には「棺桶リスト」と訳すらしい。
水を入れる、あのバケツとは関係はないようである。(大笑)
この「棺桶リスト」・・・・つまりは、死ぬまでにやっておきたいことを書いたリストのことのようである。

この映画・・・余命わずかと診断された二人の男が、「バケットリスト」を作って、世界中を旅するという話・・・
一人は、ジャック・ニコルソン演じる、大金持ちのエドワード・コール・・・・
もう一人は、モーガン・フリーマン演じる、自動車修理工のカーター・チェンバーグ・・・
この2人が同じ病室で出会い、「どうせ死ぬなら死ぬ前にやりたいことをやろうぜ!」と旅に出る。
ただ、それだけの話なのだが・・・面白い・・・・

昔、私はジャック・ニコルソンという俳優があまり好きではなかった。(汗)
どこかで精神異常者のような役を演じているのを見て、本当に異常者じゃなかろうかと思ってしまったせいかもしれない。(苦笑)
あるとき、ある女性から「ジャック・ニコルソンに似てますよね?」と言われたことがあった。(大笑)
「それは、髪の毛の生え際の部分だけだろ?」と言ったら、「いえ、雰囲気もそっくりです」と言われてショックを受けた。(大笑)
それがきっかけとなり、その後、彼のことが気になり・・・そのうち親しみを感じるようになり・・・
そして、好きな俳優の一人となった・・・(大笑)
大金持ちのコール(ジャック・ニコルソン)が半強制的にカーター(モーガン・フリーマン)を誘って旅に出る。
「カネは俺が出す!」・・・・・・こういうところ、私も似ているかも・・・・
間違ってもモーガン・フリーマンというタイプではない・・・
やっぱり私はジャック・ニコルソンのタイプである。(大笑)
余命数ヶ月と宣告されたら、やっぱりコールのような行動をしたくなる。
自家用機で世界中を旅するのだ!・・・・死ぬまでの間に・・・(大笑)
大きく違うのは、私は大金持ちではないということ・・・(涙)
うらやましいなぁ~・・・・やりたいなぁ~・・・・と本気で思う。
ここがこの映画が好きで仕方がないというところかも。

映画の中に世界各国の著名な場所が出てくる。
インドの「タージ・マハル」も、その一つ・・・・
ここには30年以上も前に一度だけ行ったことがある。
見ると素晴らしく綺麗な寺院なのだが・・・・
この寺院に入るには、手前で靴と靴下を脱いで裸足にならねばならない。
ところが・・・この白い大理石・・・・灼熱の太陽のおかげで焼けているのである!!(驚)
裸足で歩くなんて、とんでもない・・・
「あぢぃ~!あぢぃ~!」とピョンピョン跳ねながら歩いた覚えがある。(大笑)
あの時の足の裏の痛みは今も忘れられない・・・・(苦笑)
おかげで、タージ・マハルの内部の記憶は全く残っていない・・・・(大笑)
いやぁ~懐かしいなぁ~・・・・である。

行ったことのある懐かしい場所、まだ行ったことがない行ってみたい場所などが登場する・・・
いいなぁ~・・・・行きたいなぁ~・・・・である。
だから、この映画を何度も見てしまうのかも。
しかし、ただの海外を旅する冒険旅行というわけでもない。
人それぞれの思いが交わる・・・・
カーターの奥さんの気持ちもよくわかる。
コールの考え方(まさしく私の考え方と同じ)もよくわかる。
余命わずかであるが、だからと言って羽目を外し過ぎないよう自制するカーターの気持ちもわかる。
「幸せ」は人それぞれである。
なにが「幸せ」か・・・・考えさせられるが、むなしさを感じさせないという結末は素晴らしい。
なかなか「奥深い」映画である。
笑いあり、涙あり・・・・いいストーリーである。

邦題は『最高の人生の見つけ方』である。
間違っても『棺桶リスト』という直訳ではない。
たぶん、これでは聞こえが悪いからだろうが・・・・
「人生の見つけ方」ねぇ~・・・・なんで「人生の終わり方」としなかったんだろう?(苦笑)
話の内容からすれば『最高の人生の終わり方』のほうが合っているような気がするのだが・・・・(苦笑)

自分が、もし、余命を宣告されたら・・・・どういうリストを作ろうか・・・・
毎回見るたびに考えさせられる、いい映画である

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DVD | 23:13:40 | Comments(0)
一青窈のコンサートに行く
普段は市報なんか読まないのだが、この間、たまたま見たら、そこに「一青窈」のコンサートの案内が載っていた。
「一青窈」?・・・・確か、彼女は拙者の妹の教え子だったよな?(苦笑)
というわけで、妹に教えてあげた・・・・

で・・・今日、市民会館で彼女のコンサートが開かれる。
東京から、わざわざ妹が聴きに来るという・・・
で・・・チケットのほうは、完売!・・・手には入らない・・・(唖然)
妹が、直接、彼女に連絡したら、「招待客」としてチケットを用意してくれるという。
で・・・妹と、姪っ子と、拙者の3人で彼女のコンサートを聴きに行くこととなった。

拙者にとっては、「コンサート」というのは、56年の人生の中で3回目なのである!(大笑)
生まれて初めて行った「コンサート」は、拙者が中学生の時・・・
地元のラジオ局の公開録音で、友人が葉書を出したら当たっちゃったというので、付き合って見に行った。
この時の「コンサート」は、杉田二郎のコンサートだった。
ロビーで初めて“芸能人”というのを見た・・・(大笑)
とてつもなく大きく見えたことを覚えている。
杉田二郎さんは、今はどうしているのだろう?
この人の『八ヶ岳』とか『ANAK(息子)』なんていう曲は、今でも好きな曲である。
で・・・あれから数十年後・・・・
フィリピンに行ったときに、意外なことを知った・・・
杉田二郎が歌っていた『ANAK(息子)』という曲は、そもそもはフィリピン人のフレディー・アギラという人が作った曲で、それを日本語でカバーしたのを杉田二郎が歌っていたという。
で・・・それを知ったのは、このフレディー・アギラがオーナーをしているライブハウスに偶然行った時の事。
不思議な縁である・・・・原曲の作詞作曲、演奏をしていた人のお店に行くとは・・・

人生2度目の「コンサート」は、東京武道館・・・・
大学生の時に「オフコース」のコンサートを聴きに行った・・・
この時も、杉田二郎の時と同じ友人が、チケットを手に入れていて、付き合ってくれと言われて一緒に聴きに行った。
それまで、拙者は芸能会社でバイトをしていた。
特に、東京武道館でのイベントの警備・・・・(笑)
「甲斐バンド」とか「サザンオールスターズ」とかの警備を担当したことは覚えている・・・(汗)
「サザンオールスターズ」の時は、なぜか、ステージの照明機材設置の手伝いまでさせられた・・・・(苦笑)
本当は、警備なんだけどなぁ~(大汗)
で・・・この時は拙者は“お客さん”・・・(大笑)
ところが、この大混雑している中で、警備スタッフのリーダーが拙者を見つけて声をかけてきた。
「なんで、ここにいるんだ?」
「今回は、お客さんです!」
「おおそうか!おお!大いに楽しめよ!」と言ってくれたことは、今でも忘れられない。
それにしても、この人ごみの中でよく拙者を見つけたものだと今でも感心している。
このリーダーは、いつも名指しで拙者を「重要地点」の警備に付けていた。
会場内の警備だと、タダでコンサートを聴くことができるが、拙者は目立たぬ場所で、しかもコンサートを見られない場所に貼りつけられる。
この待遇の差が納得いかなかなかったので文句を言ったことがあるが・・・
他の人間では、持ち場を離れてしまう可能性が高くて、危なくて任せられないという。
「頼りになるのは君しかいないから・・・」とおだてられて、配置につけられた・・・(大笑)
どっちみち、拙者は芸能人には全く興味がない・・・
コンサートにも興味がない・・・
芸能人や有名人に会っても・・・「だから何?」という人である。
ミーハーじゃないところが高く評価されたのかな?(大笑)

そして、今回、人生3回目の「コンサート」である!(大笑)
どうも全国ツアーの一つということで我が町で開催されたらしいが・・・
どうして、県庁所在地でもない、こんな田舎町で?(苦笑)

img166_convert_20160805225826.jpg

実は、彼女の歌は、まったくと言っていいほど知らない・・・
確か、『ハナミズキ』という歌は、彼女が歌っていたような気がする・・・という程度である。(苦笑)
本当に申し訳ないのだが・・・・(大汗)

コンサートは、かなりパワフル・・・・
客席の中にも入ってきて、走り回る・・・
いい歳したオバチャンたちがキャーキャー騒いで、先を争って握手を求める姿に唖然・・・(苦笑)
さすがに、彼女は、我々の席のほうにだけは来なかった・・・・
手前でUターン!(汗)
そりゃ、“恩師”が座っている場所には来づらいよなぁ~(笑)
歌に合わせて踊りだすオニイチャンやオバチャンたち・・・ファンクラブの人達だろうか?(大汗)
そうそう、コンサートってこういう雰囲気なんだよなぁ~と、ようやく思い出す。(大汗)

コンサート後、楽屋にお邪魔する。
楽屋警備のスタッフに「俺も昔は、君と同じように楽屋警備をやっていたんだよ。これってツラいんだよねぇ~」と声をかけたら「え!本当ですか!」と驚かれた。(笑)
「死ぬほど退屈だしねぇ~・・・かといって持ち場は離れられないし・・・キツイんだよねぇ~」
「はい、確かに・・・キツイです・・・・」(苦笑)
「本当にご苦労さん!このツラさは、やったことがない奴にはわからんよな!本当にご苦労さん!」
華やかなステージの裏には、“縁の下の力持ち”がいるのである。
誰かが労をねぎらってやらねば・・・ね・・・

「一青窈」は、ステージでは大きく見えたが、楽屋で会ったら、かなり小柄な女の子である。
なんで、あんなに大きく見えたんだろ?
不思議である・・・・
その昔、ジュディ・オングにも会ったことがあるが・・・彼女も実際に会ってみるとかなり小柄な人だった・・・
やっぱり、これは何かの“オーラ”が出ていて大きく見えるのかも・・・(汗)

我が妹は「一青窈」が小学生の時に音楽の教師として直接教えていた・・・・
というわけで・・・「ヨウちゃん」「先生」の仲である。
で・・・彼女から「お兄さんも音楽をされるんですか?」と尋ねられたが・・・・
拙者は楽譜も読めない男である・・・(大笑)
音楽とは全く無縁・・・(恥)

彼女は結婚していて、昨年、子供を出産している。
その赤ちゃんを連れてのコンサート・・・
子連れで全国ツアーとは・・・「母は強し」である。(笑)
絶対、母乳で育てるんだということらしい・・・
楽屋でベビーシッターが面倒を見ていたようだが、大人しくしていたとか・・・(大笑)
目のクリクリっとした可愛い男の子である。
泣きもせず、キョトンとしたり、ニコッとしたり・・・
そういうわけで、ついつい、この赤ちゃんを中心にしての“おしゃべり”となる。
う~ん・・・何しに楽屋に来たんだろ?(大笑)
誰に会いに来たの?・・・赤ちゃんに会いに来たの?・・・である。(大笑)

彼女は、どうも風邪をひいたらしく、かなりステージはツラかったようである。
拙者は全く気が付きませんでしたが・・・(汗)
そのため、3曲ばかり曲目を変更か、カットかしたらしい。
「音楽の先生」が来ているということで・・・・(大笑)
声が出なかったり、音程が狂ったりしたら我が妹に何を言われるかと緊張していたと言う。(大笑)

あまり長居しては迷惑であろう。
ということで、適当なところで帰ることにしたが・・・
出口で気が付いた!
チケット代を払っていない!(大汗)
「招待客」ということではあるが、チケット代は払うからと事前に言っておいたのだが、すっかり忘れていた!(大汗)
見送ってくれたマネージャーに言ったら「チケット代は結構です」と言う。
いやぁ~参ったなぁ~・・・・悪いことしちゃったなぁ~
妹にメールで謝っておいてくれるよう頼む。

いつか、また我が町に来たときは、今度は、ちゃんとチケットを買って聴きに来るからね・・・(大笑)
間抜けな「お兄さん」で申し訳なし!

日記 | 10:24:00 | Comments(0)
映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』


ストーリーは、戦時中にナチス・ドイツによって奪われた名画を取り返す話である。
映画の題名の『黄金のアデーレ』とは、グスタフ・クリムトが描いた『アデーレ・ブロッホ=バウアーⅠ』という絵・・・
この映画の主人公のマリア・アルトマンの伯母であるアデーレ・ブロッホ=バウアーがモデルとなった絵である。
この絵はオーストリアの美術館が所有していたが、これに対して本来の所有者は自分であると、姪のマリアが裁判に訴えたというもので、これは実際にあった話・・・・
これを映画化したのが本作品である。

主人公のマリア・アルトマンを演じたのは英国の女優のヘレン・ミレン・・・・・
この人の演技は好きなんだよねぇ~
品があって、一本筋が通った女性の役とか、気丈な女性の役とか、そういうのを演じるとビシッと決まる人である。

この主人公の父親役を演じた俳優さん・・・・
この人の名は知らないが・・・この父親役は本当に素晴らしかった。
声もいいし・・・・ユダヤ系オーストリア人(?)としてのプライドあふれる父親っていう感じで・・・この演技は印象に残る演技だった。

若き日のマリア・アルトマン役を演じたのは、カナダの女優のタチアナ・マズラニー・・・・
映画の中でドイツ語の長いセリフを流暢に話していたのでドイツ人かオーストリア人かと思っていたら、カナダ人とは驚いた。
俳優さんというのはすごいものである。
よく他国の言葉を、あんなに流暢に話せるものだと思う。
頭がいいんだろうなぁ~
私も真似したいものだが、単語が3つ以上連なったらアウトである。(大笑)

この作品・・・
オーストリア政府を相手取っての裁判だが、法廷闘争については、あまり詳細には描いていない。
法廷闘争の映画では、見ているほうが退屈してしまうとわかっていたのかも・・・・
最終的には、この名画の所有者がマリア・アルトマンであるとオーストリアの仲裁裁判で認められ、絵が本来の所有者であるマリアに渡されることになったのだが・・・
そこのところが、よくわからない・・・
“オーストリアのモナリザ”とまで呼ばれた名画である。
この名画をオーストリア国外に持ち出すような返還などは絶対不可能だと思われていたのに、何で返還する判決が出たのだろう?
そこのところが、あっさりと描かれているので、判決の瞬間を見ていても、あまり感動しない・・・
描くわけにはいかない事情でもあったのかと勘繰りたくなるところである。(笑)

このストーリーは「美談」のようにも見えるのだが・・・
後日談として、マリアは、この絵を売って多額の金を手に入れている。(驚)
この後日談を知って「今は亡き伯母との思い出に浸るために取り戻したのではないのか?」とガッカリした人も多かったのではなかろうか?(私もその一人である)
ということは・・・この映画で描きたかったのは「美談」ではなさそうである。
じゃぁ・・・なんだろう?

私にとっては、ストーリーより俳優さんたちの素晴らしい演技に感動した映画だった。

DVD | 22:55:47 | Comments(0)
『日本史から見た日本人 古代編』


文庫判のためのまえがき

はじめに
 知識だけでは歴史を語れない
 アイデンティティは、祖先への愛と誇りから生ずる
 外国から日本を見ながら、日本を勉強する

新版にあたって

1章 神話に見る「日本らしさ」の原点
古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの

(1)日本文化―その独自性の淵源(えんげん)
      なぜ日本文化はシナ文化の亜流と見られたのか
      英国より独自性の高い日本文化
(2)実証万能主義・戦後史学の陥穽(おとしあな)
      なぜ、久米(くめ)論文は問題化したか
      戦前の日本は「後進的」だったか
      はたして、戦前に「学問の自由」はなかったか
      イデオロギーの束縛がなかった戦前の史学
      歴史とは「民族共通の記憶」である
(3)「日本の海」と「ゲルマンの神」の同質性
      天と地の中間の国・日本
      「国産(くにう)み神話」に象徴される日本国歌の体質
      「タテの宇宙観」が意味するもの
      欧米人が天皇を理解できない理由
      再考すべき「中国」の呼称
      果たして「シナ」は蔑称か
      国名へのこだわりは劣等感の裏返し
(4)「神道」は、果たして「低級宗教」か
      敗戦で暴落した「日本のカミ」
      「日本のカミ」とは何か
      なぜ、天皇は「カミ」と呼ばれたか
      「カミ」が作ったタテ社会
(5)日本的アイデンティティの出発点
      考古学偏重の「非科学性」
      記紀(きき)の驚くべき公平さ
      “抹殺”された日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
      記紀抜きで日本人の「現実」は理解できない
      「非科学的」な紀元は日本だけか
      「聖」と「俗」を感じるセンスとは
      パリ祭は平和的記念日か
(6)「伝統への敬意」こそ民主主義の精神
      「生きた文化遺産」を持つ日本
      たえず神話と繋がっている日本人の生活
      古代日本人の死と魂の観念
      「全能の神」あってこその個人主義
      死者の権利と時間的民主主義
      なぜ、民主主義はイギリスから誕生したか
      「ご先祖様」から「ご近所様」への堕落
      なぜ、ユダヤ人に天才が多いか
      日本の独自性は、神話の独自性に由来する

2章 上代―「日本らしさ」現出の時代
“異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した

(1)「和歌」の前に平等な日本人
      カーストを超越して成立した『万葉集(まんようしゅう)』
      「和歌の徳」を讃える心
      恋の歌によってカミとなった衣通姫(そとおりひめ)
(2)聖徳太子に見る「日本らしさ」
      平和への理念を打ち出した「十七条憲法」
      連綿と続く聖徳太子の理念
      先祖崇拝と宗教は矛盾しない
      世界的レベルだった太子の仏教理解
      法隆寺の奇跡
      他者の長所を率直に認める日本の特性
      太子に見る「対等外交」の精髄(せいずい)
(3)用明(ようめい)天皇が果たした歴史的役割
      日本人にとっての仏教とは
      外交問題だった仏教導入
      仏教は後宮から入った
      仏教入信後も変わらなかった天皇の存在
      危機を乗り越えるごとに強くなる「正統」の力
      新宗教と後宮―イギリスの場合
      聖徳太子は「人間サラブレッド」
(4)「カミ」と「ホトケ」の共存共栄
      一種の幸福論だった古代仏教
      律令に拘束されない天皇の行動
      揺るぎないカミの地位
      天武天皇に見る「日本らしさ」の展開
      カミとホトケが共存するための神学―本地垂迹(ほんちすいじゃく)説
      カミに守護されるようになったホトケ
      光明(こうみょう)皇后はセイント・コーミョー
      民間出身の皇后の影響力
      「三国一」の東大寺
      東大寺は人民「搾取」のシンボルか
      悪人なき日本の後宮
      日本文化は「模倣文化」か
      世界最古の国歌『君が代』
      雅楽に見る日本の伝統保持力
      才女文化の先駆者・光明皇后
      女帝の教育用に作られた片仮名
      なぜ道鏡(どうきょう)は死刑にならなかったのか
(5)日本的律令制度の展開
      異質の混合から新発想が生まれる
      「日本式経営」の粗は班田法
      なぜ、東大寺創建に不満が起きなかったか
(6)記紀(きき)・万葉と漢文学の関係
      民族的誇りから生まれた『古事記』
      客観志向の『日本書紀』
      『万葉集』の「身近さ」について
      漢文学の輸入でも揺るがない和歌の地位
      「外国文学の肥料化現象」とは

3章 平安期―女性文化の確立
日本における「成熟社会」の典型は、ここにある

(1)和歌に見る文化的洗練の達成
      女性初のキング・メーカー橘三千代(たちばなのみちよ)
      藤原氏の節度とは
      なぜ、日本の後宮は「ハレム化」しなかったか
      駘蕩(たいとう)たる男女共演の文化
      『伊勢物語」に見る、感情の洗練度
      「歌合(うたあわせ)」の判定に悶死した壬生忠見(みぶのただみ)
      紫式部の文学論の先進性
      『新古今集』に見る“詩の絶対境”
      『百人一首』の昇華された官能性
(2)遣唐使(けんとうし)廃止―内的成熟の涵養(かんよう)
      絶対安全になった天皇の地位
      「出藍(しゅつらん)の誉れ」―日本の漢文学
      世界最古の百科辞書『秘府略(ひふりゃく)』
      “国家的プライバシー”を守った遣唐使廃止
      漢詩に導入された「日本的感性」
      言語二重奏の確立
(3)平安仏教―オカルテズムの定着
      女性の時代・オカルテズム・密教
      「仏教オカルテズム」としての天台・真言
      鎌倉新仏教―5世紀早い、日本の宗教改革
      「猫の神学」・「猿の神学」

4章 鎌倉期―男性原理の成立
この時代、日本社会は「柔から剛」へと激変した

(1)武家文化の本質とは何か
      実生活から遊離していった律令(りつりょう)
      死刑廃止が京の騒乱を招いた
      武士のメンタリティの本質とは
          (1)オトシマエをつける
          (2)シマを守る
          (3)カッコよさに命をかける
          (4)女は厄介もの
(2)主権在民を確立した北条泰時(やすとき)
      世界に類なき頼朝の「革命政府」
      主権在民を示した承久(じょうきゅう)の変
      ホンネの武家法―貞永式目(じょうえいしきもく)の近代的意義
      武家法で向上した女子の地位
      貞永式目に見る日本人の宗教感覚
(3)男性社会における「女の道」
      武家社会に現われた“貞操観念”
      「女の道」で権威を得た北条政子
      「日本の母」のイメージは鎌倉から
(4)禅宗が広めた自助・自立の精神
      和歌の「徳」で出世した武士たち
      武士の生活信条が日本語に与えた影響
      武士に自信を与えた禅宗の教え
      蒙古襲来で見せた青年武将・時宗(ときむね)の胆力
      密教的発想に縛られた朝廷の弱さ
(5)知識がはじめて価値を持ったとき
      説教好きな鎌倉文学
      中流者の意識が家元(いえもと)を生んだ
      平安時代こそ、日本のキャメロット
      「憧れ」のシンボルとしての皇室

解説 (谷沢永一)
 「先例なき時代」に求められるもの
 無用の長物と化した「学問」の存在
 時代が「歴史の名著」を生みだす
 頼山陽(らいさんよう)の再来・渡部昇一の今日性(こんにちせい)


今年の読書:29冊目



読書 | 21:06:39 | Comments(0)
『在日米軍司令部』


2011年、「トモダチ作戦」を遂行せよ!
       引き継がれたDNA
       「JTF東北」発足の意義
       米軍が展開した「三正面作戦」

プロローグ

第1章 日本防衛の重要拠点
       空飛ぶ司令官
       「番犬」からの脱却
       司令官の多忙な一日
       トロイカ体制
       エリート・コース
       日米一体化の現実

第2章 在日米軍司令部の危機管理
       第二次ミサイル危機
       核実験
       沖縄少女レイプ事件
       台湾海峡危機

第3章 米軍組織と在日米軍司令部
       2プラス2
       張子の虎
       沖縄サミット
       クラスター・ミーティング
       PACOMの壁
       FX選定問題
       DPRI

第4章 在日米軍司令部と日本政府
       横須賀今昔物語
       三軍交流
       キーン・エッジ
       ミサイル防衛

第5章 在日米軍司令部の将来図
       幻の構想
       在韓米軍再編
       沖縄海兵隊移転
       JTF・519
       日本の自画像

エピローグ

あとがき

文庫版あとがき



今年の読書:28冊目



読書 | 23:56:39 | Comments(0)
どっちが過激なんだろ?
昨日は、「ヘイトスピーチ対策法」が施行されて初めての日曜日だったそうで・・・・
在日朝鮮人への差別的言動を繰り返していた団体が川崎市でデモを計画していたそうだが・・・
このデモに反対する人たちが集まって路上に座り込んだり、デモの参加者相手に怒号を浴びせたそうだ。

で・・・驚いたのは・・・
デモに反対する連中(たぶん在日朝鮮人だと思いますが・・・)の人数は警察の発表によると約600名!
対するデモの参加者は約20名!
唖然である。
デモ参加者より数十倍の反対者が怒号を浴びせたわけである。
しかも、正式に許可を取って、デモ行進をするという約20名に対して、それを阻止しようという連中は、正当な許可を得ず、警官の制止を振り切り、勝手に道路に座り込んでデモの妨害までしたそうである。

あ~あ~・・・・これじゃ、「ヘイトスピーチ」をされても仕方がないんじゃないのかね?(苦笑)

許可を取ってのデモ行進は違法性はないが、勝手に道路に座り込んでデモを阻止するというのは違法もしくは不当な行為ではあるまいか?
許可を取ってのデモ行進を強引に阻止しようというのは「表現の自由」を踏みにじる行為ではあるまいか?
これは憲法違反ではなかろうか?
もしかして、在日朝鮮人に対しては日本国憲法は適用されないのかな?
もし、そうなると、「基本的人権」も適用されないでしょうから、在日朝鮮人には不利になるのではないかと思いますが・・・どうだろうか?

また、警察の制止を振り切って強行した場合は、公務執行妨害にはならないのだろうか?
もしかして、官憲は在日朝鮮人のやることには目をつぶっちゃうのかな?
これでは「ヘイトスピーチ」はなくならないのではあるまいか?

「ヘイトスピーチ」と「表現の自由」「言論の自由」の関係はどうなんだろうか?
これらの「自由」を封じていいのだろうか?
言われた側は、「名誉棄損」ということで訴えるjことはできないのだろうか?
言っている側が過激で非常識で品がないとなれば、そのうち誰も相手にしなくなると思うんですけどねぇ~
自然消滅すると思うんですが・・・・

警察からデモ行進の道路使用許可を受けた合法な行為に対して、在日朝鮮人が違法な行為で臨むとなると、ますます火に油を注ぐことになるのではないかと心配である。
まぁ、日本人の場合は「実力行使」に及ぶほどの“根性”はないでしょうから、せいぜいヘイトスピーチが限界だと思いますが・・・
問題は、相手だよなぁ~
ヘイトスピーチにはヘイトスピーチで対抗するくらいの「穏健」な対応をしてくれればいいと思うが・・・・

なんで“在日朝鮮人”が嫌われるのか・・・・今回の件でもわかると思う。
「ヘイトスピーチ」をされる側にも問題があるんじゃなかろうか?

いずれにせよ、よく言われる「“目くそ”と“鼻くそ”の喧嘩」である・・・・(苦笑)

日記 | 23:25:36 | Comments(0)
米寿のお祝い
今日は、親父の88歳のお祝い・・・・
つまり、「米寿のお祝い」を、我が家で行なった。

東京から妹家族がやってきてくれた。
親父は外食はできないので、娘の手作りの料理での食事会である。
我々子供たちからということで妹がプレゼントを用意し・・・
孫たちも小遣いを出し合ってプレゼントを渡した。

で・・・なんだかよくわからないのだが・・・(苦笑)
派手な金色に近い黄色の“ちゃんちゃんこ”と頭巾を親父に着させて、みんなで記念写真!(大笑)
弟が来なかったのが残念だが・・・まぁ、仕方がない・・・
還暦の時に“赤いちゃんちゃんこ”を着せるという話は聞いたことがあるが・・・・
(そういえば、還暦のお祝いはしなかったなぁ~)(大笑)
米寿の時は黄色なのか?(大笑)

親父は、こういうことが昔から大嫌いで・・・・
こんな“ちゃんちゃんこ”と頭巾は、絶対着ないだろうと思ったら、意外にも素直に着用した。
これには、妹と共に拍子抜け・・・唖然・・・・
ボケちゃったのかな?(苦笑)
何が起こったのか本人はさっぱりわからないというようなキョトンとした顔をして黄色の”ちゃんちゃんこ”を着て、頭巾を被って、チョコンと座っている。(苦笑)
昔の親父だったら、「こんなくだらないもの着れるか!」と怒鳴り声をあげたはずだが・・・・
かなり歳を取っちゃったんだなぁ~(苦笑)
借りてきて来た猫みたいに大人しい・・・・

88歳・・・・
100歳まで、あと12年である!
拙者としては、親父には100歳まで生きてもらいたいと思っている。
理由は・・・・
「俺の親父は100歳まで生きたんだぜぇ~すごいだろ?」と自慢したいだけなんだけど・・・・(大笑)

いずれにせよ・・・孫のためにも長生きしてもらいたいものである。

次回は90歳の「卒寿のお祝い」である・・・・
「え?2年後にまたお祝いするの?」と孫・・・・(大汗)
おい、おい、そりゃないだろ・・・(大笑)

日記 | 15:50:35 | Comments(0)
『芝山巌事件の真相』
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『日台を結ぶ師弟の絆  芝山厳事件の真相』

著者:篠原正巳
2001年6月30日発行
発行:和鳴会
定価:2,500円(税別)

序文  拓殖大学総長 小田村四郎

第1章 芝山公園の二つの碑
       はじめに
       日本統治時代の芝山厳
       戦後の芝山厳
       芝山公園の事件碑

第2章 芝山厳事件の歴史的背景
       台湾日本への割譲―台湾民主国の樹立
       騒乱の風土「三年小反五年大反」
       騒乱を煽った土匪
       日本の匪徒対策
       日本統治時代の法観念

第3章 日本による教育の開始
       井沢修二学務部長となる
       芝山厳学堂の開設
       士林・芝山厳恵済宮の沿革
       芝山厳学堂授業を開始
       井沢修二の教育方針
       井沢の目指した混和主義
       教育による近代化―日本語による教育
       義務教育制の実施
       戦中の皇民化運動

第4章 芝山厳事件に関する文献
       六氏遭難に関する文献資料
       文献資料の信憑性

第5章 六氏遭難の真相
       六氏の遭難前の行動
       遭難の実況
       遭難地点想像図「芝山厳略図」の検証
       六氏は何故襲われたのか
       遭難に軍隊の救援はなかった

第6章 六氏の志を憶う
       六氏の略伝

第7章 事件後の経過
       事件の結末
       六氏遭難後の芝山厳

第8章 潘光松は有罪であっったのか
       有罪説の疑問点
       芝山厳学堂と潘家
       潘光松の役職―街総理と保良局主理
       吧連徳供述書の検証
       有罪理由の検証
       潘光松の処刑

第9章 遭難の報日本に伝わる
       遭難の悲報日本に届く―井沢修二の悲嘆

第10章 六氏の志を継ぐ創始期の教師たち
       芝山厳学堂授業を再開
       第1回講習員
       第2回講習員
       芝山厳精神

あとがき


「芝山厳事件」とは、明治29年1月1日に台湾で起こった日本人教師を現地の匪賊が殺害したという事件・・・・
6人の日本人教師が殺害されたので「六氏事件」とも言われている事件である。
この間、この事件現場である芝山厳へ行ってきた。
本来ならば、この本を読んでから行くべきだったのだが・・・(汗)
帰国してから、本書を入手し、読んでみたという次第。

この事件に関しては、詳しいことがあまりよく分かっていない。
単に「抗日事件」という扱いをされたりしているが、本当のところはどうなのか・・・
本当に「抗日」ということなのか・・・
日本人教師たちを襲った連中は「抗日義民」「抗日義士」なのだろうか?
戦後の後付けではないだろうか?

本書は、よく調べ上げて書かれていると感心した。
私にとって、ちょっと話が分かりづらいところもないわけではないが・・・
何回か読んでみれば、そのうちわかるかも・・・・(苦笑)
いずれにせよ、貴重な“史料”である。

この手の話には、日本側の立場と言い分、台湾側の立場と言い分、そして、戦後に台湾にやって来た国民党の立場と言い分があるから、なかなか「真相」というのは掴みづらいと思う。
このあたりを自分なりに、考慮して読んでみれば、なんとなくではあるが、「真相」が分かってくるかも・・・・

本書を読んだ後、もう一度、現地に足を運んでみたい・・・そう思った・・・
いつか、また芝山厳に行ってみようと思う。


今年の読書:27冊目



読書 | 01:14:43 | Comments(0)
帰宅する
今日は帰宅する日・・・・
余裕をもって、午後12時50分に大分空港を出発する全日空796便を予約しておいた。
別府から大分空港まではバスで約1時間くらいかかるから、あまり早い時間の便にすると、寝坊した時に間に合わなくなる。(苦笑)
で・・・午後の便にしたのだが、かといって、午前中に欲張って、どこかを観光しようということもしない・・・
そういうことをした時に限って、何らかのトラブルで間に合わなくなったりするのである。(大笑)

ホテルをチェックアウトして、早めに空港に向かう。
いつもなら、ちょうどいいタイミングで到着するので、そのまま搭乗手続きをしてしまう。
このため、空港内を見学したことがない!(笑)
今回は、余裕をもって到着したので、時間は十分ある。

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というわけで・・・・
空港ターミナルビルの内外をウロウロと見学して歩く。(大笑)

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ターミナルビルには“花壇”が設けられていた。
これを設置したのは、大分県立日出総合高等学校の農業経営科の生徒たちらしい。
綺麗に咲かせているなぁ~
拙者も、こんな風に自宅の庭の花を咲かせたいのだが・・・これが、なかなか、うまくいかない・・・(涙)
う~ん・・・羨ましい・・・・

ターミナルビルの中では、大分交通株式会社の120周年記念写真展というパネル展示がされていた。

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こういう古い写真を見るのって好きなんだよなぁ~(大喜)
余裕をもって空港に来て良かった!

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昼食は、空港内で食べることにした。
こう言っては失礼だが・・・マイナーな空港だとレストランも空いていて快適である。
これが福岡空港だったりすると、混雑していて、ちょっとゆっくりできない・・・(大笑)
いいなぁ・・・大分空港!(笑)

予定通りの便に無事に搭乗し・・・・午後2時半ごろ、無事に墜落することもなく羽田空港に到着する。(大笑)

旅行 | 11:54:56 | Comments(0)
「大神」へ行く
観光マップによれば、「大神(おおが)」という場所に、太平洋戦争時、人間魚雷「回天」の訓練基地があったらしい。
そこに記念公園があるらしいので、タクシーで向かう。

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公園には実物大の「回天」の模型が展示されていた。



「回天一型改一」
(実物大模型)

全長:14.75m  直径:1m  全重量:8300kg
最大速力:30ノット(時速約56キロ)  航続時間:2時間15分(12ノット)
弾頭炸薬量:1550kg  乗員:1名

1945年(昭和20年)4月25日に大神回天訓練基地が開設され、5月23日より別府湾を訓練海域とした訓練が始まった。
訓練には「回天一型」を改良した「回天一型改一」が使用され、「回天一型」との大きな違いは、波切形状改正と潜水艦から搭乗する下部ハッチが無く陸地から出撃するものであった。
終戦間近の1945年(昭和20年)8月3日、大神基地から唯一の出撃があり、「回天一型改一」8基と隊員8名が危険海域の中無事に愛媛県宿毛湾麦が浦へ輸送されたが、発進待機命令を受けたまま終戦を迎えた。

(説明板より)


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(人間魚雷 大神回天基地跡記念碑)

周囲にはいくつかの壕が残っているようなので、タクシーにはそのまま公園の駐車場で待ってもらい、一人、「回天基地の案内マップ」を頼りに徒歩で周囲の戦跡を見て歩くことにした。

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(圧縮酸素ポンプ室壕)

現地説明板の「配置図」では、「実用頭部格納庫」となっている。
どちらが本当なのかはわからない・・・(汗)

高台にある「住吉神社」に向かう。
この境内に「回天神社」があるらしい。

DSCN2601_convert_20160730220717.jpg (住吉神社)

DSCN2589_convert_20160730220641.jpg (回天神社)


回天神社

太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に入ると戦局を逆転するために、魚雷を人間が一人搭乗できるように改造し、母艦の潜水艦から発進して敵艦に体当たりする戦法が考え出された。
昭和19年9月1日、山口県徳山市大津島で回天の訓練基地が開隊、続いて光基地(山口県光市)、平生基地(山口県平生町)が順次開隊し、ここ大神では昭和20(1945)年4月25日に大神突撃隊として、司令・山田大佐以下2,000名で発足した。
昭和20(1945)年8月2日、隊員8名が回天8基と共に高知県宿毛湾麦ヶ浦へ出撃のため進出した。
昭和20年8月15日の終戦とともに解隊したため、大神突撃隊からは突撃による戦死者は出ていない。
しかし、終戦10日後の25日、松尾秀輔少尉が基地内で自決したほか、空襲による犠牲者が出ている。
終戦に伴い神体を奉納していた回天神社は山田司令の依頼により住吉神社境内に遷座し、地区民がお祭りするようになった。
慰霊祭は3年に一度、関係者が全国より集まって行われ、その他の2年間は地区氏子の手で慰霊されている。

大分県日出町観光協会
2002年3月作成

(説明板より)



あのぉ~ここで疑問なんですが・・・(大汗)
回天の模型の説明板では、「愛媛県宿毛湾麦が浦」へ隊員8名と回天8基が派遣されたことになっているのですが・・・
こっちの説明板では「高知県宿毛湾麦ヶ浦」となっているのです・・・(大汗)
「愛媛県」と「高知県」・・・・どっちが正しいんだろうか?(苦笑)

「回天神社」の境内には、人間魚雷「回天」の模型と、「回天」の動力として使用された「九三式酸素魚雷」の駆動部が展示されていた。

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「回天神社」がある高台から下を見る・・・・
手前の池のようなものは「養魚場」らしい。
その向こう側に、「回天」を発進させる「スロープ(滑り台)」があったようである。

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「回天神社」のある高台を降りて、さらに周囲を散策する。

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回天格納壕

昭和20年8月3日大神基地から唯一の出撃があり8名の隊員及び整備員が、回天8基と共に宿毛湾麦ヶ浦へ、その時に8基を一列に格納していたトンネル跡です。

(説明板より)


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(各科の倉庫壕)

各種の壕がいくつも残っているが、周囲は雑草が生い茂り近づけない。
季節を間違えたな・・・(苦笑)・・・・冬に来るべきだった・・・(大笑)
もう少し、この周辺を整備してくれるとありがたいのだが・・・・

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燃料格納庫

アルコール、重油、鉱油等の燃料が格納されていた素掘りの壕。
内部はL型になっており、戦後しばらくは燃料等が格納されていました。
隣接して配置されていた各科倉庫壕は、非常時に使用する目的で造られていたものと思われます。
しかし、その詳しい用途は分かっていません。
周辺に爆雷艇「震洋」、飛行機運搬車格納庫、弾薬庫などがありました。

(説明板より)



燃料格納壕が“素掘り”というのが解せないが・・・
弾薬庫や燃料庫は、安全性を考えて、コンクリートなどで頑丈に作ると思うのだが・・・
大戦末期だったので、そこまではできなかったのか?
各科倉庫壕はコンクリート製のようなんだけど・・・
燃料庫の場合、揮発性が高いから、どこかに“ガス抜き”の穴か煙突があっていいはずだが、それはどうなっているのだろう。
素朴な疑問である・・・・

高台に登る・・・・
このあたりは、兵舎などがあった地域である。

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たぶん、このあたりが士官官舎跡だと思う・・・・

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この畑になっている場所には、当時は本部が置かれていた。

このあたりは住宅地になっている・・・・
そのためか、「ここが○○跡です」というような案内板や標柱は建っていない。
拙者のようなマニアックな人間にとっては、表示板のようなものを是非とも設置してもらいたいが・・・(笑)
この地に住んでいる方々にとっては迷惑だろう・・・・
これはやむを得ないな・・・

約1時間・・・・
タクシーを待たせたまま、周囲を散策した。(大笑)
実は、まだ見足りないのだが、これ以上待たせたら運転手さんに申し訳ないしねぇ~(大汗)
見始まったらキリがない・・・このあたりで見学は打ち切ることにする。(大笑)
今日は、とにかく暑い・・・・
喉が渇いてカラカラ・・・
駐車場に戻り、真っ先に自販機でスポーツドリンクを購入!
ここに自販機があって助かった。(大笑)

このあとは、真っすぐ別府に戻ることにする。
近くの駅というと・・・「日出駅」のようなので、駅までタクシーで向かう。

途中・・・
運転手さんから「大学の先生なんですか?」と尋ねられた。(大汗)
なんで、そう思われたんだろう?
ただの“オタク”(マニア)と思われておかしくないと思うのだが・・・
過去にも何度か大学の先生と間違えられたことがある。
東京大学の構内を歩いていて、大学の先生から挨拶されたり会釈されたりしたこともある。(大笑)
う~ん・・・拙者は、かなり“知的なオーラ”を出しているんだろうねぇ~(大笑)
間違っても「痴的」ではない・・・「知的」である。(大笑)

こういうのが、また楽しい・・・・(大笑)
一体、私は何者でしょう?
刑事からはヤクザだと思われ・・・・
ヤクザからは同業のヤクザか刑事だと思われ・・・
海外へ行けば元軍人だと思われ・・・・
自衛隊へ行けば、退職自衛官だと思われ・・・
史跡巡りをすれば、大学の先生だと思われ・・・
もう、楽しくて仕方がない。
他人というのは、拙者を見て、勝手にいろいろと想像をめぐらすようである。
で・・・・
拙者が田舎の町工場のバカ息子だと言い当てた人は一人もいない・・・(大笑)

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午後4時半に「日出駅」に到着したが・・・・
は?・・・へぇ?・・・・これが・・・駅?(唖然)
これは地下壕?(大笑)
トンネルの部分しかない・・・・

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内部は・・・やっぱり地下壕っぽい・・・(苦笑)
地下壕ばかり見て回ったから、拙者の頭がおかしくなったのか?
なんでも地下壕に見えてしまうのか?
狸か狐にバカにされているのだろうか?(大笑)
どうも、線路の下を横切っているらしく、この地下から階段でホームに登るらしい。(苦笑)
こういう駅も、また面白い。

で・・・・時刻表・・・・

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ゲゲッ!・・・・電車がない!(大汗)
なんと不便な事か・・・・
1時間に1本から3本・・・・
午後4時台は、1本のみで、すでに行ってしてしまっている。
次の電車までは30分以上もある。
近くのお店でコーヒーを飲んで時間をつぶす。

午後5時9分発に乗る・・・・
電車の中・・・・
ドアにシールが貼られていた。(汗)

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「床に座らないでください」というシールである。
ということは・・・床に座るバカが多いということか・・・・(苦笑)
我が町を走る「常磐線」の車両には、こういうシールは貼られていなかったような気がするが・・・・
よく見るのは「指を挟まないように」とか「無理な駆け込み乗車はしないで」というシールだが・・・・
へぇ~・・・大分の人はドアのところに座っちゃうのか?(苦笑)
乗降者の邪魔だろうねぇ~
そういうことを平然と行う人が多いからシールを貼られるわけで・・・・(大笑)
これは・・・県民性なのか?(大笑)

「別府北浜」でタクシーを降りる。
明日は空港に向かい帰宅するので、空港行きのバス乗り場の位置とと時刻の確認をして、ついでに周囲をウロウロ・・・・
コンビニの位置などを確認してからホテルにチェックイン。
今晩は、昨晩泊まったホテルとは別のホテルに泊まる。
折角であるから、同じホテルに2泊するより、そのほうが楽しそうだと思ったのである。(笑)

ホテル内に、温泉の大浴場がある・・・
しかも、拙者の部屋は、その大浴場のすぐ近く!
面倒くさがり屋の拙者でも、さすがに目の前に大浴場があるのなら入らねばなるまい!(大喜)

夕食は、外に出て食べることにしたが・・・・
相変わらずの優柔不断・・・・
どこで食べようかと迷うばかりで、一向に決まらない。
結局は、商店街の路地裏にある喫茶店でピラフとコーヒーの夕食となる。(大笑)
お客は誰もいない・・・・
お店のオバチャンとおしゃべり・・・・
熊本の大震災の影響で、別府でもドタキャンがすごかったそうで・・・
おかげで観光客はほとんどいない・・・商店街も閑散としている・・・
今もって観光客数は回復していないそうである。
あらら・・・・(大汗)

地元の人との会話は、旅の楽しみの一つでもある。

旅行 | 17:18:29 | Comments(0)
帆足萬里の墓
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帆足萬里墓

豊後国(ぶんごのくに)日出藩(ひじはん)が輩出した偉人「帆足萬里(ほあしばんり)(1778~1852)」は、三浦梅園(ばいえん)(国東)、広瀬淡窓(たんそう)(日田)とともに「豊後の三賢人」と称される、江戸時代後期の儒学者・経世家(けいせいか)(政治・経済の論者)です。
萬里の功績は、大きく教育者・学者・政治家の三つに分けられます。
まず、教育者として、萬里は家塾(かじゅく)「稽古堂(けいこどう)」や私塾(しじゅく)「西崦精舎(せいえんせいしゃ)」などを通じ、生涯の多くを門弟の教育に捧げました。
萬里の人間性とその教えの広さゆえ、門弟の数は日出領内外数百名におよぶといわれています。
次に、学者として、萬里は和・漢・洋の学問、窮理(きゅうり)・医学・天文・歴史・政治・経済・兵制などの様々な分野に通じ、その代表的著書『窮理通(きゅうりつう)』(西洋の自然科学書)は、日本の科学史の発展に大きく寄与しました。
最後に、政治家として、萬里は天保3(1832)年より3年間、日出藩の家老に就任し、綱紀(こうき)の粛清、藩費の節減、風俗の改善、賞罰の励行など、財政的に行き詰る日出藩の藩政改革に取り組みました。
萬里の墓は、日出藩14代藩主木下俊方(としかた)の命により建立され、別府湾を眺望するように日出城に向けて建てられています。
墓碑の正面は門弟であった杵築(きつき)藩主松平親良(ちかよし)の弟親直(ちかなお)の筆、他の三面は高弟(こうてい)米良東嶠(めらとうきょう)の撰(せん)・筆(ひつ)による碑文が刻まれています。
墓碑が欠けているのは、この石片を持ち帰り、学業の向上を祈る人が多かったためといわれています。

大分県史跡 昭和33年3月25日指定
日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町佐尾】

史跡 | 16:47:31 | Comments(0)
松屋寺の蘇鉄
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国指定天然記念物
松屋寺のソテツ
大正13年12月9日 指定

ソテツは、高さ6.1m、株元の周囲(地上より1.2m)6.4m、南北幅8.5mの巨樹である。
このソテツは、雌樹で一つの株元から十数本の支幹が分岐している。
いづれの支幹も指定当時より1m以上大きさを増して成長している。
寺伝によると、日出藩2代藩主・木下俊治が府内城(大分市)にあったものを移植したものと言われている。
江戸時代より日本一のソテツとして名高く、樹齢600年以上と推定される。
これまで嘉永4年(1851)、大正4年(1915)の二度の火災に遭い、一部消失したり、自然災害により損傷・倒壊したりしたが、いずれも見事に樹勢を回復し、堂々とした威容を見せている。

平成8年3月
松屋寺
日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町1921・松屋寺】

史跡 | 16:33:21 | Comments(0)
旧成清家 日出別邸
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国重要文化財
旧成清(なりきよ)家 日出別邸 (的山荘)

的山荘(てきざんそう)は、福岡県みやま市瀬高町出身の成清博愛(なりきよひろえ)氏が大正3年(1914)から翌4年にかけて建てた別邸です。
博愛氏は、明治43年(1910)、馬上金山(ばじょうきんざん)(現 杵築市山香町)の経営に着手し、その採掘に成功しました。
当時、採掘された鉱石の一部を日出港より海上輸送しており、博愛氏の別邸は、単に個人の清遊のためのものではなく、鉱山経営の拠点的機能を兼ねていました。
昭和39年(1964)、的山荘を料亭として開業。
以来、城下かれいは全国に広く名が知られ、皇室をはじめ数多くの著名人が的山荘を訪れました。
的山荘は、江戸時代以来の伝統的建築手法を受け継ぐ貴重な近代和風建築で、広大な庭園もまた、別府湾と高崎山(たかさきやま)・鶴見山(つるみさん)・扇山(おうぎやま)を見渡す眺望豊かな近代庭園として、貴重な価値を有しています。
的山荘の周辺にも、馬上金山の鉱滓(こうさい)を用いた煉瓦(れんが)塀が随所にみられ、当時の名残を留めています。

日地町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日地町2663】

史跡 | 15:53:33 | Comments(0)
瀧家住居(二十番屋敷跡)
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楽聖瀧廉太郎
瀧家住居(二十番屋敷跡)

瀧家は代々日出藩の給人格(上士)の家柄で廉太郎の祖父平之進吉惇は碩学帆足萬里の高弟であり、天保3年藩政改革時に萬里と共に家老をつとめた。
父の吉弘は藩政時代は武頭をつとめ明治3年日出藩大参事、同5年8月大蔵省九等出仕となり此の地を離れ単身上京、家族は同7年6月一家4人上京した。
当時の家族 父 瀧吉弘 (33才)
        祖母 ミチ (67才)
        母 マサ (24才)
        姉 リエ (5才)
        義兄 大吉 (14才)
楽聖瀧廉太郎は明治12年8月24日父吉弘内務省一等属出仕の時代東京乏区南佐久間町2丁目18番地に生まれた。
一家が日出の地を離れた5年後である。
初代以下の瀧家の墓は日出町佐尾の龍泉寺にある。

(説明板より)


【大分県速見郡日出町2674.日出幼稚園】

史跡 | 15:33:06 | Comments(0)
日出の町を歩く
一服して一休み後、観光マップを頼りに、さらに周辺を歩くことにした。

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日出中学校が建っている場所には、その昔、藩校の致道館が建っていたそうである。
拙者が最初に向かった、あの移築された建物が、ここに建っていたのだろう。

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観光マップによれば、この道は通れるように描いてあるのだが・・・
どう見ても中学校の敷地内である。
道の両脇に建つ校舎の渡り廊下を横切る形なのである。
こちらから教室内は丸見えだし、生徒たちからも拙者は丸見え・・・(大笑)
おい、おい、本当にここを通っていいのか?(汗)
通常、学校敷地内は関係者以外の立ち入りは禁止とかって看板が出ているんだけど・・・・
この学校・・・・どこからどこまでが学校なのかがよくわからない。
門扉もないし・・・(大汗)
ええい、ここまで来ちゃったんだから、不審者扱いされてもやむをえまい・・・・突っ切る!(大笑)

しばらく歩くと、幼稚園が見えてきた。

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説明板によれば、ここが瀧廉太郎の父親が住んでいた家の跡らしい。
ちなみに滝廉太郎は、ここには住んでいない。
父親がここから転居した後に生れたのである。
ということは・・・細かなことを言うと、瀧廉太郎とは全然関係がない場所ともいえるのではなかろうか?(苦笑)
「実家」とも呼べまい?(笑)
しかしながら、それを“史跡”にしてしまうのだから、大したものである。
拙者としては、こういうのも“あり”と思うのである。(大笑)
他の地域でも、こういう“史跡”をドンドン作ったらいいと思う。
散策のいい楽しみになる。
以前、ハワイに行ったときに現地の人が笑って話してくれたことがある。
ちょうどオバマが大統領になった時の事・・・
オバマが子供の頃、ここに座ってアイスクリームを食べていました・・・・という場所が「観光名所」になってツアー客が必ず訪れるそうである。(唖然)
くだらない・・・と言えば、くだらないが・・・
それでも人が集まってカネを落としてくれれば、いいわけで・・・・「観光名所」とは、そういうものだろう。

つぎに向かったのは、すぐ近くにある「的山荘(てきざんそう)」という建物がある場所。
何のことやら、よくわかっていないが“史跡”らしいので寄ってみる。

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なにやら「料亭」みたいなようで・・・門のところに出ていたメニューを見たら、かなり高価なお食事を出すらしい。
水戸藩士の“シミズくん”と一緒というのなら、ここで食事をしてもいいが・・・・
時刻は、まもなく午後1時・・・・かなり腹が空いてきたが・・・(汗)
一人で、こんな高価な食事をするのはもったいないのでやめる。(大笑)

敷地内は見学できそうなので、中に入ってみる。(笑)

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三笠宮殿下と妃殿下が記念植樹した木があった!(大喜)
標柱には「昭和52年10月18日」と記されている。
旅に出て、史跡を訪ねて、殿下のお名前に出会うと本当に嬉しくなってしまう。
なぜなんだろ?(笑)
他にも皇室の方々の記念植樹がいくつもあるのだが・・・・拙者にとっては三笠宮様が一番なのである。(苦笑)

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建物の玄関のところまで来て、Uターン・・・・
なかなか趣のある建物で、内部を見たい衝動に駆られたが、コーヒーだけというわけにもいかぬ雰囲気・・・
断念する。(涙)

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「的山荘」を出て、さらに散策・・・・
このあたりが帆足萬里の生家跡ではないかと思われるのだが、イラストマップの「観光マップ」では正確な位置がわからない。
「イラストマップ」ほど迷惑なものはない!(怒)
いろんな町を旅して、何度、ひどい目にあったことか・・・
“史跡”の位置がおおざっぱ過ぎて、現地に行っても見つからないのである!(涙)
今回も、このあたりだと思うのだが・・・・「説明板」が出ていないのか、それとも拙者が見つけられないかったのか、結局、わからず仕舞い・・・・
この他にも、観光マップに載っていた“史跡”1か所の場所がわからず散々ウロウロした挙句、断念する。

お昼を過ぎているが、ここまで空腹を我慢したのには理由がある。
この地の名物「城下(しろした)カレイ」というのを食べてみたかったのである。
観光マップを頼りに、「城下カレイ」を食べさせてくれる店に行ったら・・・・閉まっていた!(涙)
いや、潰れているのか?(苦笑)
定休日で閉まっているのか、倒産でもして潰れているのか、区別がつかないところが悲しい・・・(笑)

やむなく駅の近くまで戻り、ラーメン屋でラーメンを食べる・・・・
無料で大盛にしてくれるそうだが、断ったら店のオバチャンに笑われた・・・(大笑)
あんたの体格なら当然、大盛でしょ?同じ値段なんだし・・・・ということか?(苦笑)
その体格でねぇ~・・・・“並み”を頼むの?・・・と言わんばかりのあきれ顔・・・(笑)
いや、いや、並みも大盛も同じ値段という方がおかしいでしょ?(大笑)
面白いお店である。

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時刻は午後1時半・・・・
今度は線路を渡り、反対側に向かう。
どう見てもタクシーを拾えそうな感じがしない・・・(涙)
食後の運動だと思って歩くしかないか・・・(汗)

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20分ほどで「龍泉寺」にたどり着く・・・
ここに瀧廉太郎の「瀧一族」の墓がある。

DSCN2508_convert_20160728165552.jpg (瀧家の墓所)


瀧家累代と瀧廉太郎の墓

瀧家の初代俊吉は紀州の人ですが、初代日出藩主の木下延俊侯に認められて、重職で召抱えられ、以来瀧廉太郎の父の11代吉弘まで、約270年間の長きに渡り、代々武頭や家老など要職について日出藩のために尽くされました。
ここには初代俊吉から10代吉彰までの墓がありましたが、平成23年3月20日に瀧家のご意向と、日出町及び有志の協力により、大分市の萬寿寺から、瀧廉太郎と父11代吉弘、母正子等の眠る瀧家の墓を移して、整備することが出来ました。
よってここに瀧家の累代の墓が揃いました。
瀧廉太郎も少年の頃遊びに来たであろう瀧家所縁の日出の地で、祖先、祖父母、父母と共にあって、安らかな中で素晴らしい曲を作り奏でていることでしょう。

日出町

(説明板より)


DSCN2510_convert_20160728165639.jpg (瀧廉太郎君碑)


記念碑

この碑は、音楽学校(現・東京芸術大学)の同窓生が廉太郎の功績に対し贈られたもので、1904年7月に学校の3年先輩の卒業生、田村虎蔵教授が代表として来県し、除幕された碑である。

(説明板より)


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瀧家・瀧廉太郎の墓

11代 父 吉弘
日出藩・武頭
1871年に廃藩置県となり翌年上京。
内務省の時、大久保利通に秘書として仕え、伊藤博文の知遇も得た。
その後、大分郡長、直入郡長を務めたのち、現在の大分市遊歩公園近くに住む。
廉太郎が逝去した翌年の8月9日に63歳で死去。
法名は「静観院心月竹軒居士」である。

母 マサ(正子)
日出藩・藩士で瀧家の親戚にあたる白井直之進の長女で、三男五女をもうけている。
左包丁で大変料理が上手だったとのこと。
1916年4月20日に逝去。
法名は「長養院正屋恵念大姉」である。

瀧 廉太郎
1879年(明治12年)8月24日に現在の東京都港区西新橋2丁目に生まれた。
11歳の時大分、13歳の時竹田に移り約2年間を過ごし、15歳で東京音楽学校(現・東京芸大)に入学。
18歳で本科専修部を首席で卒業し、研究科に入学。
1900年20歳の時、日出の情景を歌ったとされる「古城」を作詞し、ピアノ教授嘱託をしながら「箱根八里」「荒城の月」等作曲。
21歳の4月、国費留学で横浜から船で発ち、10月にドイツのライプチヒ王立音楽院に合格したが、2ヶ月後に風邪をこじらせ、1年後の1902年10月に帰国、翌年大分の父母のもとで療養したが、その甲斐なく1903年6月29日に享年23歳と10ヶ月の短い生涯を閉じた。
法名は「直心正廉居士」である。

(説明板より)



瀧廉太郎のお墓をお参りして、寺を出て、さらに奥に進む。

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『日本一の大蘇鉄』の大きな看板が目立つ、「松屋寺」に到着!
たしか、ここに日出藩主・木下家歴代のお墓があるはず・・・

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松屋寺

曹洞宗康徳山松屋寺は天台宗六郷満山寺院の一つとして建立された水月堂を最初とし鎌倉時代の文永年間、最明寺道宗(北條時頼)が水月堂に宿したことにより以来西明寺と稱したと伝えられる。
慶長6年(1601年)日出藩主木下家の菩提寺となり康徳山松屋寺と号するに至った古刹で数多くの寺宝がある。
境内には国指定天然記念物大蘇鉄、県指定有形文化財の「仏涅槃図」「松屋妙貞他肖像画三幅対」狩野常信筆、「十六羅漢図」や町指定文化財木下俊長筆、「千態観音図帳」等ある他、日出城主歴代の墓所や雪舟の築庭と伝えられる「万竜の庭」、また帆足萬里をはじめ日出藩の硯学、文化人の墓も寺城内や近くに散在している。

(説明板より)



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三笠宮妃殿下の記念植樹を発見!(喜)
百合子妃殿下がここにおいでになっていましたか!
さて・・・殿下の記念植樹が見つからなかったけど・・・殿下はいらっしゃらなかったのかな?
現在、殿下は100歳、百合子妃殿下は93歳でいらっしゃる。

お寺の方が、付きっ切りで境内を案内してくださった。
「宝物館」も見せていただき、展示されているもの一つ一つを丁寧に説明してくださった。
いやはや、その丁寧さには感謝である・・・・拙者は、それほど“偉い人物”ではないのだが・・・(苦笑)

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これが雪舟が作ったと言われている庭・・・・

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これが、国の天然記念物の蘇鉄・・・・
普通、蘇鉄というのは、ここまで大きくは育たないのだとか・・・
途中で幹が折れてしまうのだとという。
ということは・・・・これを守り育てて、後世まで残すというのは、かなり大変なことであろう。
いやぁ~責任重大!・・・・怖い、怖い・・・・(大汗)

歴代日出藩主の墓所は、この寺の裏山にあるとのことなので、行ってみる。
さらに、奥へ向かうと帆足萬里の墓もあるという。

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日出藩木下家墓所(大名墓)

日出藩木下家墓所(大名墓)は、慶長6年(1601)、初代藩主木下延俊(のぶとし)が姫路より日出に入部して以来、江戸幕府が終わる明治時代まで16代・約270年間続いた、日出藩主木下家の墓所です。
本墓所の創設は寛永年間(1630年ごろ)と言われ、当時は初代藩主延俊の祖母朝日(あさひ)(豊臣秀吉の正室・おねの実母)、延俊の正室加賀(かが)(細川忠興の妹)及び延俊の実母の4基の墓を祀る墓所として出発し、以後歴代藩主や木下家に関係のある人物の墓が建てられています。
江戸時代の藩主の菩提寺は、参勤交代制度により江戸と国元(くにもと)に設けられることが多く、日出藩主木下家においても国元の松屋寺に対し、江戸では泉岳寺(せんがくじ)が菩提寺であり、それぞれ分祀されています。
入部以来16代存続した歴代藩主のうち、13代・16代の藩主の墓碑はありませんが、そのことは神葬(しんそう)のためとされています。
藩主の墓所は各地に残されていますが、その数・大きさ・壮麗さについては大分県内随一と言われています。

日出町指定文化財 平成15年4月1日指定
日出町教育委員会

(説明板より)



こういうお墓を見るたびに思うのだが・・・
この“墓石”に使われている球形の石!
これ、どうやって作ったのだろう?
重さは何百キロもあると思うんだよねぇ~
しかも、この丸い石より大きい石を削って球形に仕上げるんでしょ?
粘土をこねてボールを作るのでも完全な球形にするのは至難の業だと思うんですけど・・・・
しかも表面を滑らかにしてあるんだよねぇ~
当時の石工さんは、どういう工程でこの球形を作ったのか、タイムマシンがあったら、この時代に行って是非、その作業を見てみたいものだと思うのである。(笑)

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墓所の奥、「3代俊長」公の墓石は大木が倒れたせいで上部が壊れていた。(唖然)
この墓所の後ろは森林だったのだが、最近、そこを切り開いて太陽光発電のパネルを設置し始めたそうで・・・・
今まで森のおかげで風当たりが弱かったものが、その森が無くなったことで、墓所のすぐ近くの古木に、まともに強風が当たったため木が倒れたのではなかろうかという話である。
お寺の方に尋ねたら、この墓石の修復は、そうそう簡単ではないそうである。
「文化財」に指定されていることもあるだろうし、誰がカネを払うのかという問題もあるだろうし・・・
落ちた石を持ち上げて乗せ直せばいいという簡単な話ではないそうである。
いやはや、なんとも困ったものである。

ここからさらに200mくらい山の中を進むと、帆足萬里の墓があると聞いていたので行ってみる。
細い山道は濡れた落ち葉で滑りやすくハラハラドキドキである。
なにせ、拙者はスーツに革靴という格好なのである!(大笑)
ふつう、そういう格好で山の中を歩くバカはいない・・・(大笑)
滑って転んだら、スーツは泥だらけになる。(大汗)
冷や冷やものである・・・・
と・・・足元に、ちょっと太めの木の枝が・・・・危うく踏みそうになった途端、その枝が動いた!
ギャッ!・・・・太い蛇の胴体だった!(大汗)
拙者は蛇が苦手である。
本来なら走って逃げたいところだが、滑って転んだらスーツが汚れる。(涙)
こっちに来るなよ・・・と言いながら、ゆっくりと蛇の横を通過・・・・
草むらに一旦、逃げ込んだ蛇が、よくぞ反転して飛びかかってこなかったものだと、後になってから思う。(冷汗)

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帆足萬里の墓は鉄柵で囲まれていた・・・・
墓石には多数の削られた跡がある。
おかげで、墓石の文字すら読みづらい状態・・・
どうやら、“ご利益”があると思って、墓石を削って持って行く人たちがいたようである。
いつの世にも非常識な連中というのはいるものである。(大汗)

帰りは、あの滑りやすい山道を歩くのは避けたい・・・蛇の一件もあるし・・・
別ルートで山を下り、再び松屋寺に向かう。

時刻は午後3時・・・・
観光マップによれば、「大神」という場所に、人間魚雷「回天」の訓練基地があったらしい。
う~ん・・・そこへ行ってみたいが、徒歩ではとてもじゃないが時間がかかりすぎるだろう。(大笑)
やむなく、お寺の方にタクシーを呼んでもらい、タクシーで「大神」に向かうことにする。

旅行 | 14:07:20 | Comments(0)
日出城の石垣
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日出城(暘谷城)の石垣

日出(ひじ)藩初代藩主木下延俊(のぶとし)は、慶長6年(1601)秋より約1年の歳月をかけて日出城(ひじじょう)を築きましたが、石垣の構築は細川忠興(ただおき)の家臣で築城の名手・穴生理右衛門(あのうりえもん)の指揮によってなされたといわれています。
「穴生(あのう)」は、近江国穴太(おうみのくにあのう)(滋賀県)の石工(いしく)の集団・穴太衆(あのうしゅう)を指します。
穴太衆は、安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの城の石垣を手がけました。
穴生理右衛門もまたその一員であったと思われ、彼の指揮により築かれた日出城の石垣は、「穴太積(あのうづ)み」として呼び親しまれています。
日出城の石垣は、築石(つきいし)に自然石や粗割石(あらわりいし)を用いた「野面積(のづらづ)み」の技法で、「乱積(らんづ)み」(石材を不規則に積み上げ横目地(よこめじ)が通らない)と「布積(ぬのづ)み」(石材を一段ずつ横に並べて据え、横目地を通す)の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました。
日出城本丸天守台の石垣にみられるように、こうした規模の「穴太積み」の石垣は、大分県下においても大変珍しいといわれています。
日出城の歴史とともに「穴太衆」そして「穴太積み」の歴史を語り継ぐ貴重な石垣です。

日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町・日出城跡】

史跡 | 13:09:24 | Comments(0)
日出城の時鐘
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日出城の時鐘

この時鐘(じしょう)は、元禄8(1695)年日出藩3代藩主木下俊長(としなが)の命により鋳造されたもので、日出城(暘谷城・ようこくじょう)外大手(そとおおて)(現二の丸館付近)の土居(どい)にかけられ、毎日十二刻の時を知らせていました。
明治時代を迎え、時鐘は現在地(日出城本丸裏門櫓跡)に移設され、太平洋戦争期には供出(きょうしゅつ)の危機にも直面しましたが、地元有志の手により守り伝えられ、現在、日出小学校児童が毎朝8時に鐘をつき、時の知らせとともに元禄の鐘の音を響かせています。
時鐘の総高はおよそ1.35メートル、口径75.5センチ、胴部はあまり張らず、撞座(つきざ)は八葉(はちよう)の法輪形を鋳出しています。
また胴部には、俊長と親交のあった幕府の儒官(じゅかん)人見竹洞(ひとみちくどう)筆の銘文が施されています。

日出町有形文化財 昭和33年10月1日指定
日出町教育委員会

(説明板より)


【大分県速見郡日出町・日出城跡】

史跡 | 11:49:43 | Comments(0)
日出城跡へ行く
今日は、大好きな史跡めぐりの旅をする。
当初の予定では、杵築(きつき)に行ってお城を見ようと思っていたのだが、たまたまホテルに日出(ひじ)の観光パンフレットが載あったので、それを見たら、なかなかいいじゃないかということで、急きょ、日出に行くことにした。(大笑)

ホテルをチェックアウトして、9時27分発の電車で暘谷(ようこく)駅へ向かう。
電車は2両編成の鈍行である。(笑)

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駅舎は改築されたのだろうか、駅前も整備中の様子・・・
そのせいか、タクシー乗り場が見当たらず、やむなく徒歩で日出城に向かう。

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線路を渡り・・・ホームをパチリ!
時刻は午前10時・・・

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最初に訪れたのは「藩校・致道館」であるが・・・
門は開いていたが、「休館日」の表札が出ていた・・・(汗)
う~ん・・・・入れないこともなかろうが・・・無理して見るほどのものでもあるまいと諦める。(苦笑)

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次に向かったのは「日出城跡」・・・・
ここに「鬼門櫓」と呼ばれる櫓が現存している。
内部が見学できるようなので入ってみたら、たぶんセンサーが反応したのだろう、資料館の方がやってきて説明をしてくれた。

DSCN2422_convert_20160724155946.jpg (内部)

この櫓の面白いところは、櫓の隅が切られているところ・・・
外観を見てわかる・・・内部も当然隅が切られていた。
珍しい形である。
何で一か所だけ隅を切ったのか?

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隅櫓 (鬼門櫓)

隅櫓は、日出藩(ひじはん)木下家(きのしたけ)の居城である日出城の本丸東北隅に築かれた二層二階櫓で、「鬼門櫓(きもんやぐら)」とも呼ばれています。
慶長6年(1601)から翌2年にかけての日出城の築城とともに築かれたと考えられますが、史料上の初出は『豊後国(ぶんごのくに)日出城絵図(正保城絵図)』で、17世紀中頃には構築されていたことを知ることができます。
隅櫓の特色は、櫓の東北隅を欠いた特異な構造にあります。
当時、東北の方位は、禍(わざわい)を招く「鬼門」として忌み嫌われていたことから、これを除(よ)けるために隅を欠いたといわれています。
こうした櫓は全国でも大変珍しく、日出城の他に例をみないといわれています。
明治4年(1871)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治8年(1875)には本丸内の天守や櫓が競売に付せられ、次々と取り壊されていきました。
しかし隅櫓はこれを免れ、山村羊太郎氏、南喜平氏を経て中村貢氏が所有し、大正10年(1921)に下仁王(しもにおう)(現東仁王)へ移築され、平成20年(2008)、中村家より日出町に寄付されました。

日出町有形文化財  平成21年7月10日 指定
日出町教育委員会

(説明板より)



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この櫓のすぐ隣にある歴史資料館を見学・・・
この歴史資料館は、帆足萬里の記念館も兼ねている。
この2つを見学するだけで、1時間も時間を費やしてしまった。(笑)

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城跡を散策することにする。
たぶん・・・この「日出小学校」が建っている場所が本丸跡ではなかろうか?

DSCN2426_convert_20160724203425.jpg (日出小学校)

緑地帯で銅像を発見!(大喜)

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帆足萬里と瀧廉太郎の銅像である。

DSCN2431_convert_20160724203647.jpg (帆足萬里像)


豊後三賢 郷土日出町の硯学
帆足萬里(ほあしばんり) (1778~1852)

江戸時代後期の儒学者・家老。
安永7年(1778)日出藩(ひじはん)の家老帆足通文(ほあしみちぶみ)の三男として生まれた。
14歳で豊岡の儒学者脇蘭室(わきらんしつ)の門に入り、ほとんど日出の地を出ることなく独学で研究に努めた。
経済、物理、医学、天文などの各分野にも通じ、萬里(ばんり)の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあった。
天保3年(1832)、13代藩主木下俊敦(きのしたとしあつ)に請われて家老職につき、藩財政の再建にも力を尽くした。
嘉永5年(1852)、6月14日、多くの弟子に見守られて75歳の生涯を閉じた。
帆足萬里の代表的著書に、「窮理通(きゅうりつう)」「東潜夫論(とうせんぶろん)」などがある。
また、三浦梅園(みうらばいえん)(安岐)・広瀬淡窓(ひろせたんそう)(日田)とともに、豊後(ぶんご)の三賢(さんけん)と称される。

日出町

(説明板より)



この銅像は日出ライオンズクラブの25周年記念事業として平成4年に建立されたものだそうである。
日田(ひた)には、以前、行ったことがある!
広瀬淡窓・・・・懐かしいお名前である。

もう一つの・・・・瀧廉太郎の銅像・・・これが面白くない!(怒)

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東京の上野にあるものも、大分市にあるものも、みんな同じポーズの銅像なのである!(怒)
同じ型で作ったのだろうか?
それでは“大量生産”と同じである・・・・
この世に一つしかないから貴重なのであって、全国に同じものがいくつもあったら、価値が下がろうというもの・・・
「なぁ~んだ・・・またこれか・・・」である。(苦笑)
拙者は瀧廉太郎には恨みはないが・・・(大笑)
彼の銅像を見るたび不愉快な思いになるのである。
芸がないんだよね・・・同じポーズで・・・・
建立者も、もう少し考えたらよかったのに・・・と思うのだが・・・・
瀧廉太郎という人物は、その程度の扱いしか受けられない人物ということになるか?(苦笑)

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日出城跡の説明板を見っけ!(喜)



日出城址(ひじじょうし)

日出城は、別府湾を望む低台地上に築かれた階郭式(かいかくしき)の平城です。
別名「暘谷城」ともいわれ、3代藩主俊長(としなが)が中国の古書『淮南字(えなんじ)』あるいは『書経(しょきょう)』より引用し、命名したといわれています。
日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名で、初代藩主木下延俊(のぶとし)の父家定の妹おね(高台院)が秀吉の正室(妻)となったため、木下姓を許されました。
慶長6年(1601)8月、日出に入国した延俊は、幕府の許可を得て、日出城の築城に着手。
翌7年8月には概ね完成し、延俊は築城する間、領内藤原村に設けていた仮館を離れ、日出城に入城を果たしました。
日出城は、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸、外郭(がいかく)を重ねた構えをなし、郭(くるわ)は堀により仕切られ、要所には、城門が設けられました。
明治4年(1871)の廃藩置県以降、鬼門櫓(きもんやぐら)と裏門櫓(うらもんやぐら)を除き、城内の建物は、次々と取り壊されました。

町史跡「暘谷城趾」(昭和35年10月17日指定)
日出町教育委員会

(説明板より)


DSCN2455_convert_20160725100827.jpg (時鐘)


日出城の築城

日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名です。
初代藩主木下延俊(きのしたのぶとし)は、父家定(いえさだ)とともに秀吉に仕え、関ヶ原の戦では、義兄の細川忠興(ほそかわただおき)の強い説得により徳川方に付き、忠興の幕府への執り成しによって、豊後国速見郡(ぶんごのくにはやみぐん)日出3万石が与えられました。
慶長6年(1601)8月、日出に入国を果たした延俊は、日出城の築城に着手。
城の縄張(なわばり)(設計)は忠興が行い、石垣も忠興の家臣穴生理右衛門(あのうりえもん)を棟梁に構築されました。
天守は家定の助勢により築かれ、裏門の扉は富来城(とみくじょう)(国東市)の城門扉を転用したといわれています。
本丸には、御殿を中心に天守、大手門、搦手門(からめてもん)、櫓が築かれ、鬼門にあたる北東隅の城壁は入隅(いりずみ)の構造をなし、その上に築かれた鬼門櫓本体も隅欠きを施した特異な構造となっています。
裏鬼門(南西)の城壁も同様に隅を欠き、横矢が掛けられています。

町史跡「暘谷城氏趾」 (昭和35年10月17日指定)
日出町教育委員会

(説明板より)



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ぶらぶらと城址の外周を歩いてみる。
と・・・目立たないところに小さな石碑が・・・・

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小田(こだ)先生の殉職碑

昭和20年7月25日、豊後水道にて触雷した航空母艦海鷹が、駆逐艦に引かれて日出の城下海岸に係留着底した。
この日以来、米軍機による空襲が頻繁となり、7月28日、日出国民学校(現日出小学校)訓導の小田三郎氏が、空襲による銃弾に倒れ殉職した。
当時、小田三郎氏は37歳。
学校に宿直出勤していた後空襲を受け、登校していた生徒達を防空壕へ誘導中に被弾したといわれている。
石碑は、小田三郎氏の遺徳を讃え冥福を祈るため、教え子や知友によって、命日である昭和49年7月28日に建てられた。

日出町教育委員会

(説明板より)



史跡巡りをしていると、時々、このような学校の先生の遺徳を偲ぶ顕彰碑などに出会うことがある。
教え子や友人たちが建てたものだが、すべて古いものばかり・・・・
近年に建立したものに出会うことがない。
最近は、教え子から慕われるような先生がいないということなのだろうか?(苦笑)
戦後、日教組のような団体が幅を利かせたせいなのだろうか?
「教師は聖職などではなく、皆さんと同じ労働者なのです!」ということなら、一労働者、一サラリーマンの為に顕彰碑などは建てないよなぁ~(大笑)
戦前の先生と生徒の関係というのは、今の時代と違って“濃かった”のではなかろうか?
だから遺徳を偲んで教え子たちが碑を建てたりしたのではなかろうか?
天国にいる先生は、さぞかし照れ笑いをしていることだろうが・・・(大笑)
羨ましい限りである。
教育者冥利に尽きるのではなかろうか?
教師の最終目的は「教え子から顕彰碑を建ててもらえるような教育をすること」でもいいかも・・・(大笑)
現代の教師は、このような碑をみて、ちょっと考えてもらいたいものではあるが・・・
たぶん、見向きもしないんだろうねぇ~・・・・(大汗)

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この城跡には、「ここが○○門跡です」というような掲示がされていない。
その点が、ちょっと残念である。
単なる「城址公園」という扱いなのかな?
そこで、また石碑を見つけた!(大喜)
航空母艦「海鷹(かいよう)」の碑である!

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軍艦海鷹(かいよう)の碑

空母海鷹は、大阪商船所属の「あるぜんちな丸」で、南米航路の旅客船であった。
昭和16年、海軍に徴用され、航空母艦に改装された。
船団護衛や輸送の任務につき、南方作戦にて活躍した。
また、特攻機の訓練目標艦としての任務にもつき、航空機による特攻隊のみならず、人間魚雷「回天」の訓練にも使用された。
昭和20年7月24日、豊後水道で触雷、翌25日駆逐艦に引かれ日出の城下海岸に係留着底した。
以後、米軍機による空襲が頻繁となり、動けぬ海鷹は猛烈な攻撃を受けて中破し、そのまま終戦の日を迎えた。
軍艦海鷹の碑は、乗組員戦没者の鎮魂と世界恒久平和の願いをこめ、昭和57年11月22日、元乗組員たちによる海鷹会の手によって建てられたものである。

日出町教育委員会

(説明板より)


DSCN2481_convert_20160725211859.jpg (城下の湾)

この城下の湾のどこかに空母海鷹が着底していたんだなぁ~と感無量・・・
戦後、引き揚げられ解体されたそうであるが、そのまま鎮座していたら、どんな景色になっっていただろうなどと夢想する。

そのまま海岸の遊歩道をテクテク歩いていたら、珍しいものを見つけた。
祠なのであるが・・・「人柱の祠」だそうである・・・(冷汗)

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人柱祠(ひとばしらのほこら)

昭和35年、城下海岸遊歩道の工事中、日出城(暘谷城)の西南端より木棺が発掘された。
棺(早桶)は、岩盤をくりぬいた穴におさめられ、その上に大石が乗せられ石垣の基盤となっていた。
棺の中からは老武士らしき遺体の人骨とともに陶製の翁像が、大石の上からはカブトの金具などが発見された。
大分大学の半田・富來両教授や文化財関係者の調査の結果、日出城(暘谷城)築城当時の人柱であろうと推定された。
日出城(暘谷城)の築城工事は、城の西南部の地盤が弱く難工事であったと伝えられており、また方位上から城の裏鬼門にあたることなどから、人柱を立てたのではないかと考えられている。
棺の出土した地点の石上には人柱祠が祭られており、その昔の哀れさをしのび、祠に花を飾り香華をたむける人々が後を絶たない。

日出町教育委員会

(説明板より)



「人柱の祠」は、今から8年前に大分市の府内城に行った時にも見たことがある。
ずいぶん昔のことなのに、なぜか、鮮明に覚えている。
築城するときには、“人柱”を立てるのが普通だったのだろうか?
まさか、大分県(豊後国)だけの特徴というわけではないと思うが、他の城では見た記憶がない・・・
他の地域では「人柱」のことを忘れ去っていて祠を建ててやらないのか、それとも大分の人たちは特に義理堅い人たちということなのか?(苦笑)
いずれにせよ、「人柱の祠」を丁寧にお参りさせていただく。

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(正面奥、緑の茂っている向こうが天守台跡)

城の外周をぐるりと一周できるのかと思ったのだが、どうも無理なようなので、元来た道を戻り、日出小学校の向かいにある「二の丸館」に向かう。

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(移築復元された裏門櫓)

裏門櫓は、もともとは、現在の「時鐘」がある場所にあったらしい。
なんで、移築しちゃったのかな?(苦笑)

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ここは二の丸跡で、現在は観光案内所と軽食喫茶の“館”が建っている。
時刻は12時を過ぎた・・・ここで、コーヒーを飲み一服・・・(笑)

旅行 | 10:20:30 | Comments(0)
別府市公会堂
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別府市公会堂
(中央公民館・市民会館)

建設:昭和3年3月28日
復原:平成28年3月7日(竣工)
設計:吉田鉄郎(旧逓信省技師)

別府市を代表する近代化遺産として平成6年11月26日に別府市指定有形文化財に指定されました。
建物の1階部分を中央公民館、2・3階部分を市民会館として使用しています。

(説明板より)



【大分県別府市】

建物 | 12:41:19 | Comments(0)
千辛万苦の場
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史跡 千辛万苦之場
昭和43年1月29日市指定
別府市上田の湯6-37

元治元年(1864)9月徳川幕府は、長州征伐のいくさをおこした。
そのとき、長州の藩論は二つに分かれ、井上馨は、温和な解決を主張した。
そのため、御前会議の帰りみち山口城下袖解橋(そでとけばし)をすぎ一本松にさしかかったとき反対派に襲われた。
しかし危くも一命をとりとめた。
翌慶応元年(1865)馨は別府にのがれ、旅館若彦(のちの若松屋)に身をかくした。
若彦の主人彦七は事情を察し、手厚い保護を加えたためしばらくして全快した。
かれは、その後政界に身を投じ、47年後の明治44年(1911)5月末、別府の若松屋旧屋を訪ね、謝恩の意をこめて「千辛万苦之場」と扁額を書き、若松屋(松尾家)に贈った。
この建物は昭和57年12月18日移転復元されたものである。

別府市教育委員会

(説明板より)

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【碑文】

千辛万苦之場

井上侯千辛万苦之場移轉ノ記

明治維新ノ元勲世外井上馨侯幼名勇吉天保六年十一月二十八日山口城下湯田ニ生ル藩主敬親公ノ小姓ト為ルニ及ヒ名ヲ聞多ト賜ハル天資剛直夙ニ大義ヲ唱ヘ克ク藩公ヲ輔ケ常ニ萬死ヲ冒シテ國事ニ奔走ス元治元年幕府征長ノ軍ヲ起スヤ藩論二派ニ岐レ危機ニ直面ス公ハ九月二十五日ノ君前評定ニ於テ武備恭順ヲ主張シ正義一貫論戦長時俗論派ヲ説破シテ潘是ヲ一決シタルモ同夜山口城外袖解橋附近ニ於テ反對派ノ兇刃ニ撃タレ瀕死ノ重傷ヲ負フ為ニ藩政再俗論黨ノ掌中ニ歸シ侯亦幽閉ノ身トナル爾来正義派ノ身邊益危険ヲ感スルニ至レルヲ以テ慶應元年春同士多ク諸國ニ亡命シ侯ハ變装シテ別府ニ逃レ若松屋ニ潜伏ス主人松尾彦七ノ庇護ト侠客灘龜ノ同情トニ依リ疵ヲ養フノ傍専念時機ノ到来ヲ待ツコト月餘尋テ長州ニ歸リ高杉晋作伊藤博文等ト共ニ尊王倒幕ノ議ニ参畫開國進取ノ宏謨ニ邁進遂ニ維新ノ大業ヲ翼成セリ侯往時ヲ追懐シ明治四十四年五月別府ニ来リ若松屋ヲ訪ヒ曩ニ潜伏ノ室ニ入リ感慨無量即筆ヲ執リ千辛萬苦之場ト書シテ楣間ニ扁ス年ヲ閲スルコト実ニ四十七年也今茲市区改正ニ際シ若松屋當主彦七其ノ遺跡ノ湮滅ヲ惜ミ記念物一切ヲ挙ケテ市ニ寄附セムトス市欣ヒテ之ヲ納シ地ヲ相シテ茲ニ之カ移轉ヲ了ス乃碑ヲ建テ其ノ顛末ヲ勒シ題スルニ侯ノ書ヲ以テシ永ヘニ追慕ノ意ヲ表スト云爾

昭和八年六月   別府市長平山茂八郎



【大分県別府市上田の湯】

史跡 | 11:04:08 | Comments(0)
別府へ行く
今日から大分県の別府に行く・・・・
この間、別府にある病院に入院している“戦友”から電話をいただいた。
元師団司令部の電話交換手だった“ヤスダさん”からである。
93歳の“おばあちゃん”・・・・
どうも、話の雰囲気で、会いたがっている様子・・・(笑)
しかも、この間は熊本で大地震があり、大分県でも被害が出ている。
由布院では被害が出ているという報道があったが、別府は、どうなのか知らない・・・
ちょっと気になるところでもある。
ということで・・・・
「じゃぁ、会いに行きますよ!」ということで、今回の旅行を計画したのである。

で・・・午前の便で向かうので、昨晩のうちに上京し、JR蒲田駅前のホテルに泊まった。
蒲田には、拙者の同業者がいる・・・
業界の青年部の後輩・・・・
ここしばらく会っていないので、彼を誘い、一緒に夕食を食べ、おしゃべりを楽しむ・・・(喜)

今日は、JR蒲田駅前からバスで羽田空港に向かう。
で・・・バスに乗ってから気が付いた!(大汗)
拙者は降りる場所を知らない・・・(唖然)
羽田空港の国内線は第1ターミナルと第2ターミナルに分かれている。
え?・・・俺・・・どっちに降りればいいんだ?
完璧にボケている・・・

加えて「パスポートを忘れた!」(大汗)
と・・・相変わらずの冷や汗・・・
国内線なのに、毎度のことながら、心臓が止まる思いをする。(涙)
いい加減、慣れてもいいと思うのだが・・・

午前10時35分発、全日空793便で大分空港へ向かう。

午後12時15分、大分空港に到着。
空港内で食事をし、少し空港内を見学してから別府に向かおうと思ったら、別府駅行きのバスが、すぐに出るという。
次のバスは午後2時過ぎだという・・・(汗)
それでは、ちょっと・・・ねぇ~
トイレに行って・・・発車5分前に切符を買って・・・・あわただしくバスに乗りJR別府駅に向かう。
タバコを吸う暇もない・・・(涙)

駅前の食堂で昼食・・・
前回来た時に立ち寄った食堂は定休日だったので、隣の店に入る。
頼んだのは、「とり天定食」・・・・大分の名物・・・

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食後に、駅構内の喫茶でコーヒーを飲む・・・
これは、別府に来た時のいつものパターンである。(笑)

午後2時半、病院に向かい、“ヤスダさん”に面会・・・
3人部屋で、隣のベッドの人は99歳のおばあちゃん。
数日後に誕生日が来て満100歳になるという。(驚)
部屋の方々とは、前回来た時にもお会いしていたので、久しぶりの再会である。
「お邪魔しまぁ~す!・・・こりゃ、どうも、どうも・・・」である。(大笑)
“ヤスダさん”と世間話・・・
が・・・途中から身内の話・・・(笑)
ご両親の話から、自分の姪っ子の話から、孫、ひ孫の話・・・
う~ん・・・拙者は身内じゃないんですけど・・・(苦笑)
誰が誰の子供で、それが何番目で・・・・??
う~ん・・・家系図でも見ながらじゃないとわからないんですけど・・・(苦笑)
もう、こうなると、自分の実の祖母との会話みたいな感じである。(大笑)
午後4時が夕食時間だというので、1時間ちょっとだけ、おしゃべりして辞する。

いつもは、ここから別の町に移動して・・・それから旅行を楽しむのだが・・・
よく考えたら、毎回そんなことをしているので、この別府に泊まったことがないことに気が付いた。(大笑)
というわけで・・・今回は別府に2泊して史跡巡りをする。
病院からブラブラ歩きながら、今晩宿泊するホテルに向かう。

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途中で石碑を発見!(大喜)
「千辛万苦の場」という碑である。
「井上侯千辛萬苦之場移轉ノ記」と碑文の題名が刻まれていた。
“井上侯”というのは、井上馨のことらしい。
徳川幕府の長州征伐のときに、長州藩の反論が二つに分かれた。
井上馨は穏健派だったらしいが、反対派に命を狙われ、大分の別府に逃げて、この地に身を潜めたらしい。
その時にかくまってもらった旅館の一部が、ここに移転され、この碑が建立されたらしい。

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この碑のすぐ隣に建っている小さな二階家が、移転された旅館の一部らしい。

そのすぐ隣に「別府市公会堂」が建っていた。
別府市を代表する近代化遺産として文化財に登録されている。

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この敷地内に、面白いものを見つけた!(喜)
「公会堂のサイレン」・・・・(笑)

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公会堂のサイレン

このサイレンは、昭和16年に愛国婦人会別府分会の寄付金4,500円を投じて、兵庫県の業者に発注し、翌17年6月6日に、別府市に納入された「15馬力 ターボサイレン」と呼ばれるもので、当時15キロメートル四方にも音が聞こえたといわれていました。
別府市公会堂の屋上で空襲警報用サイレンとして使用され、戦後もそのまま屋上に残されていましたが、平成元年10月に現在の公会堂駐車場南側の緑地に移設されました。
この型式のサイレンは、昭和14年にターボサイレンとして特許を取得し、主に海外に輸出したもので、国内用にも数台が販売されましたが、国内で現存しているのはこのサイレンだけではないかといわれています。

平成28年3月 別府市教育委員会

(説明板より)


さらにテクテクと・・・今度は「別府税務署」に向かう・・・(大笑)
なんで税務署かというと・・・
拙者は法人会の広報委員で、会報に記事も書くのだが・・・
前号から「全国税務署めぐり」の小さなコラム記事を追加して書くことにしたのである。
どうしても紙面に空白が出てしまう場合の“穴埋め用”で考え出したもの・・・・(苦笑)
前号では大分県の佐伯税務署、臼杵税務署、徳島県の徳島税務署を紹介した。(大笑)
で・・・次号用に・・・別府税務署!(大笑)
前号に引き続き、九州方面に偏ってしまうのは、“ヤスダさん”を訪問しての、ついでの旅で立ち寄ったから仕方がないのである。(大笑)

この間の法人会の会合で税務署の統括官から「あの記事を書いているのは、あなたでしたか!」と言われたが・・・・
「あの記事はネットからパクって書いたんでしょ?」と言われて腹が立った・・・(苦笑)
冗談じゃない・・・
「ちゃんと現地に自分で行って、自分で写真を撮って書いてるんです!」(怒)
昔と違って現代は便利な世の中になり、なんでもネットから情報が得られるようになった。
その反面、無断で写真などをパクるのも横行している。
拙者のホームページや、このブログから無断で写真をパクっている例も何件も見ている。
(そういう連中に限って連絡先が載っていない・・・確信犯である)
無断借用は著作権侵害のはずだが・・・
マナーが悪い連中が多い・・・
というわけで・・・拙者も写真をパクって書いているんだろうと統括官は思ったらしいが・・・失礼な話だ!(怒)(苦笑)

DSCN2396_convert_20160719153953.jpg (別府税務署)

真っすぐホテルに向かうのは、もったいない・・・(笑)
少し、商店街などを散策してみる。
う~ん・・・・観光地の割には閑散としている・・・(汗)

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商店街の中で、面白いモニュメントを発見!



山は富士 海は瀬戸内 湯は別府

このモニュメントは、別府観光の祖である油屋熊八翁が全国に別府温泉を宣伝した名言「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」を表すと共に、「旅人をねんごろにせよ」という熊八翁のお客様を心からもてなす真心を同時に表現しています。
熊八翁を偲ぶ会は、この建立によって熊八翁の唱する観光哲学を別府観光の未来へ向けたメッセージとしてここに刻むものであります。

油屋熊八翁を偲ぶ会
平成二十一年四月吉日
制作 彫刻家 浅野徳三

(説明プレートより)



で・・・油屋熊八という人は・・・この人・・・

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日本で最初に女性バスガイドによる地獄めぐりの観光バスを運行したり、温泉マークの普及に尽力した人らしい。

さらに散策・・・・
細い路地を抜けたら・・・
今度は、古めかしい建物を発見!

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「竹瓦温泉」というらしい・・・
これは・・・・銭湯?(苦笑)
旅行者も入れないこともないのだろうが・・・なんとなく一人じゃ入りづらい・・・
拙者は結構、気が小さいのだ・・・・(涙)
建物はレトロで好きなのだが・・・・
外観だけ“見学”して通過する・・・(大笑)

さらにブラブラ歩いていたら・・・
ついに、道に迷った!(大汗)
一体、どこを歩いているのやら・・・

DSCN2405_convert_20160719230355.jpg (飲み屋街?)

さらに別のアーケード商店街を歩いていると思うのだが・・・(大汗)
またまた、面白いものを見つけた!(笑)
天狗である!

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やよい天狗の由来

天狗は神通力により火の厄除け及び自由自在の守り本尊と日本書紀にも記されております。
西暦1168年 別府村北浜地方に大災害があり、別府村の住民は大被害を被ったと豊後紀行に書かれております。
その当時別府村には南北に両筑街道がはしり、長崎などと往来がとても多く西法寺に本陣・御旅所を置いたと伝えられております。
西暦1715年(明和2年) 天領当時の別府村を統治した森藩主の命により讃岐の国の白峯の地より秋葉宮御霊前を現在の秋葉神社の位置に建立したと豊後風土記に記録が残されております。
しかも当時としては海門寺に通じる裏街道であった『現在のやよい商店街の流川通り入口』に石碑を建立し付近一帯の無病息災を祈念したとも伝えられております。
やよい商店街では以前より温泉感謝と別府繁栄の心をこめ、いろんなかたちで祭り参加をしていました。
昭和48年2月 商店街の火災厄除けとして『やよい天狗みこし』を創作いたし、以来19年間 当商店街に及ぶ大火罹災を免れ守護を賜り続けております。
毎年4月の別府温泉祭りには『やよい天狗みこし』として雄大かつ尊厳さをも感じられるお姿を披露し温泉祭りの名物となっております。

別府やよい商店街振興組合

(説明板より)



天狗を見ると、いつも思うのだが・・・・
これは絶対、“外国人”だよなぁ~
しかも、白人!(笑)
で・・・日焼けして赤くなったか、酒を飲んで赤くなったか・・・
で・・・鼻が高いのを強調して、“天狗”の顔になったと思うんだよなぁ~(大笑)
大昔、日本には西洋人が住んでいたんじゃなかろうか?(大笑)

商店街をウロウロしながら、ようやくホテルを見つけてチェックインを果たす。

旅行 | 10:38:09 | Comments(0)
『「広辞苑」の罠』


まえがき

第1章 日本と朝鮮との近代関係史

第1節 朝鮮開国
        1、征韓論
        2、江華島事件

第2節 大院君と閔妃の角逐
        1、大院君と閔妃
        2、壬午軍乱
        3、甲申事変
        4、東学党の乱と甲午改革
        5、閔妃暗殺事件

第3節 大韓帝国樹立から韓国併合まで
        1、大韓帝国
        2、日韓議定書
        3、日韓協約
        4、伊藤博文暗殺
        5、韓国併合

第4節 韓国併合後
        1、ハングル
        2、三・一独立運動
        3、朝鮮人虐殺事件(関東大震災)
        4、創氏改名

第2章 日本とシナとの近代関係史

第1節 シナ・中国の呼称
        1、シナ
        2、中国

第2節 日清戦争
        1、日清修好条規
        2、台湾
        3、台湾出兵
        4、日清戦争
        5、下関条約と三国干渉

第3節 辛亥革命
        1、北清事変と日英同盟
        2、辛亥革命と孫文
        3、二十一ヵ条の要求

第4節 コミンテルンの本質と戦略

第5節 蒋介石の北伐と山東出兵
        1、国共合作と蒋介石の台頭
        2、第一次北伐
        3、山東出兵

第6節 満洲事変
        1、満洲
        2、満洲事変
        3、満洲国
        4、熱河作戦
第7節 支那事変
        1、長征
        2、西安事件
        3、支那事変
        4、第二次上海事変
        5、南京事件
        6、汪兆銘の南京国民政府

第3章 日本とロシア・ソ連との近代関係史

第1節 日露戦争
        1、東清鉄道
        2、日露戦争

第2節 ロシア革命とシベリア出兵
        1、ロシア革命
        2、シベリア出兵
        3、尼港事件

第3節 ノモンハン事件
        1、張鼓峰事件
        2、ノモンハン事件

第4節 ソ連の侵攻とシベリア抑留
        1、日ソ中立条約
        2、シベリア抑留

第5節 北方領土問題

第4章 日本とアメリカとの近代関係史

第1節 ペリー来航と開国
        1、ペリー来航
        2、門戸開放政策

第2節 日露戦争後の日米関係
        1、ハリマンの鉄道共同経営計画
        2、白船来航
        3、排日移民法
        4、第一次世界大戦後

第3節 ワシントン会議
        1、人種差別撤廃条項
        2、ワシントン会議

第4節 世界大恐慌とブロック経済
        1、世界大恐慌
        2、ブロック経済

第5節 大東亜戦争への道
        1、仏印進駐
        2、ABCD包囲網
        3、ハル・ノート

第6節 対米戦
        1、真珠湾攻撃
        2、ヤルタ会談
        3、ポツダム宣言

第5章 日本の近代史

第1節 明治維新
        1、明治維新
        2、五箇条の御誓文
        3、大日本帝国憲法

第2節 大正・昭和の国内情勢
        1、治安維持法
        2、尾崎秀実と「ゾルゲ事件」
        3、二七年テーゼと三・一五事件
        4、三二年テーゼ
        5、軍部テロと軍閥独裁
        6、滝川事件と人民戦線事件
        7、昭和研究会と企画院

第3節 大東亜戦争
        1、日独伊三国同盟
        2、大東亜共栄圏
        3、大東亜戦争
        4、大東亜会議

第6章 戦後の外交関係史


第1節 占領政策
        1、戦争責任周知徹底計画
        2、神道指令
        3、日本国憲法
        4、東京裁判(極東国際軍事裁判)
        5、戦犯
        6、マッカーサー証言
        7、サンフランシスコ講和条約
        8、安保闘争

第2節 対韓国・北朝鮮
        1、朝鮮戦争
        2、竹島
        3、日韓会談
        4、朝鮮人強制連行・「従軍」慰安婦
        5、拉致事件

第3節 対シナ
        1、尖閣諸島
        2、日中平和友好条約
        3、教科書誤報事件
        4、靖国神社参拝問題
        5、天安門事件

終章 『広辞苑』は「規範」たりうるか

『広辞苑』の編者・新村出の編集方針
『広辞苑』の改悪―左翼の曲がり角
再び「閉ざされた言語空間」に入り込んだ現代の日本

(索引)『広辞苑』第六版から引用した項目一覧


「広辞苑」という辞書は、素晴らしい辞書だと思っていた・・・
有名な辞書だから、当然、間違ったことは書かれてはいないと思ったのだが・・・
本書を読んで唖然・・・である。

本書では、「広辞苑」の“おかしな”項目について、まず最新版の第6版(2008年刊行)の文を載せている。
で・・・それに比較して、第1版(1955年刊行)、第2版(1969年刊行)、第2版の補訂版(1976年刊行)、第3版(1983年刊行)、第4版(1991年刊行)、第5版(1998年刊行)では、同じ項目について、どう書かれていたかを必要に応じて載せている。
これを見ると、版を重ねるごとに記述が段々と変化しているのである。
しかも、その内容が非常に偏っている。
これは、本当に日本人が作った“日本の”辞書なのかと驚く。
どこか“他の国の人”が作ったような内容なのである。
いわゆる“自虐的”な内容に変化しているのである。
いやはや呆れかえる内容である。

著者は、この第6版の“おかしな”文に対して、批判だけではなく、どうせなら、このように書いた方が良いのではないかと、“修正案”を提示している。
これを読んでみると、確かに著者の言う通り、この方が公正で、妥当だなと思う。

例えば・・・

「南京事件」というのを広辞苑で引いてみる。
第1版、第2版では「日中戦争中の1937年12月、日本軍が南京攻略の際に行った暴行事件」とある。
「暴行事件」という書き方である。
これが第3版では「暴行事件」が「大虐殺事件」と書き換えられる。
第4版以降は「南京事件」の項目には「南京大虐殺」としか書かれておらず、別に「南京大虐殺」という独立した項目が現れる。
そして第3版にあった「大虐殺事件」という言葉が消え、その代わり「投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた」と大幅に書き加えられ、第6版に至っている。

あれ?・・・・おかしい・・・・
「大量に虐殺」したとかという話は、伝聞であって、実際に見たという証言はないはず・・・
ましてや「放火・略奪・強姦」に至っては、南京を日本軍に攻められ、逃げる中国軍(蒋介石軍)がやったらしいことは、当時、南京に住んでいた中国人(民間人)が日本軍に報告していた話だと私は記憶しているのだが・・・
どこで、こういう話を載せることになったのやら・・・
やっぱり、この辞書を編集しているのは“日本人ではない人”ではなかろうか?・・・・と思わざるを得ない。

そこで、著者は、このように修正した方がいいのではないかと書いている。
「南京大虐殺」の項目は、「南京攻略を中国共産党が我が国に対する外交カードとして使用しているプロパガンダ用語→南京攻略」
そして、「南京攻略」の項目には「日本軍は1937年(昭和12)12月、蒋介石軍を追って首都南京を攻略した。蒋介石は攻略前に自軍を置き去りにして脱出した。中国共産党はこれをプロパガンダ用語として「南京大虐殺」と称し、日本に対する外交カードとして使用している」
このように書くべきではないかと著者はいう。
まことに妥当なところではなかろうか?
「大虐殺の事実」「虐殺したのは誰なのか」「虐殺された人の数」「放火・略奪・強姦の事実」・・・・
これらの明確な証拠が無い以上、これには触れずに、「外交カードとして使用しているプロパガンダ」という事実だけを載せるだけでいいと思う。

この手の話が満載で・・・・
著者は、良く調べたものだと、そのご苦労には脱帽である。
また、修正案を載せるというのもいいアイディアである。
ただ、文句をつけているだけではない・・・ということである。

それにしても、本書を読んだら、とてもじゃないが「広辞苑」など使い物にならない辞書であることは明確・・・・
逆に、“どこかの国”は、上手な戦略を立てたものだと感心・・・・
辞書を使って“洗脳”しようというのだから、大したものである。


今年の読書:25冊目



読書 | 22:42:08 | Comments(0)
久しぶりの美術鑑賞
昨晩は、某参議院議員の政治資金パーティーに参加するため上京した。
どんなパーティーなのか見てみたかったので、大金を払って(大笑)参加してみた・・・
食事は立食のバイキングなので、間違っても参加費の元を取れるほどは食べられない。(苦笑)
知り合いがいるわけでもないので、話し相手もおらず、さすがに暇を持て余した・・・
この“苦痛”に耐えて・・・というのも自分に“刺激”を与えるのには良いのではなかろうかと思う。(大笑)
いずれにせよ、応援したい議員さんなので、カネの無駄にはならない。
大いに活躍してください・・・

ちょうど、衆議院では内閣不信任案の採決か何かがあったらしく、応援に駆け付ける衆議院議員さんたちが遅れてやって来た。
そうそうたる顔ぶれである。
テレビで良く見る大臣さんたちも応援に駆け付けた。
笑ってしまうのは、中には、このパーティーの名称を間違える方がいるということ。(大笑)
スピーチの中で、思いっきりパーティーの名称を間違われると、さすがに興ざめ・・・・(苦笑)
まぁ、忙しくて、覚える暇もなかったのだろうが・・・
それにしても、皆さん“立て板に水”のごとくのスピーチなので感心する。
拙者が、この立場だったら、こんなにスラスラとは話ができない・・・
いやぁ~すごいもんだなと感心。

で・・・・当日は、そのまま東京に一泊・・・・
そして・・・今日・・・・
真っすぐ帰宅するのは、もったいないので・・・(笑)
上野公園へ行き、「暇な時の西洋美術館頼み」ということで・・・(大笑)
国立西洋美術館へ行ってみた。

img159_convert_20160713165252.jpg img160_convert_20160713165139.jpg

ちょうど、日伊国交樹立150周年記念ということで「カラヴァッジョ展」というのが開催されていた。
う~ん・・・・
このパンフレットに使われている絵・・・好きじゃないんですけど・・・(苦笑)
なんか・・・気持ち悪いんですけど・・・・(大汗)
拙者が違和感を感じたのは無理もないかも・・・これは、どちらも男性なのだそうだ。(大汗)

見ようか、見るのを辞めようかと迷ったが、いざ見てみたら、結構、拙者好みの絵もあった。
「カラヴァッジョ展」とは銘打っているが、カラヴァッジョの作品だけではない。
彼の画法に影響を受けた「カラヴァジェスキ」と呼ばれる継承者たちの作品も展示されていた。
う~ん・・・だから、良かったのかもしれない・・・(大笑)

img161_convert_20160713173819.jpg img162_convert_20160713173848.jpg

相変わらず、絵画鑑賞のマナーの悪い連中に混じっての鑑賞となる・・・(涙)

博物館内のレストランで昼食をとり・・・・
さて、次はどこへ行きますか・・・公園内をブラブラしていたら上野の森美術館で「ブータン展」が開催されていた。
カラヴァッジョ展とは違い、かなり暇そう・・・いや、空いていそうだったので入ってみた。(笑)

img163_convert_20160713170915.jpg img164_convert_20160713170758.jpg

こちらは「日・ブータン外交関係樹立30周年記念事業」としての展示会らしい。
へぇ~・・・・30年前は日本とブータンの間には外交関係はなかったのか?(汗)
知らなかった・・・・

通常、外国名を日本は漢字で表記することがある。
例えば、日本とアメリカ合衆国なら「日米」・・・
日本とイタリアなら「日伊」・・・
しかし、ブータンは漢字では表記できないのか、「日・ブータン」と書かれている。
面白い・・・(笑)
「ブータン」を「撫端」とか「武胆」とかとは書かないのか?(大笑)
調べてみたら「不丹」と漢字表記するらしい・・・(驚)
そうなると「日本とブータン」は「日不」と表記することになるが・・・
これでは誰もわからないか・・・(大汗)
まだ30年のお付き合いだからねぇ~(笑)
「日不」と書いても、すぐに「日本とブータン」のことね・・・と分かる日が早く来ることを願う。

展示されていたものは、誠に“素朴”なものばかり・・・興味のない人にとっては退屈だろう。
が・・・結構、拙者は楽しめた・・・
例えば、祭りで使われる“お面”・・・・どこかしらヒンズー文明の影響を受けているような気がしてならない。
銀に鍍金(メッキ)を施した繊細なブローチとか容器とか・・・・鍍金(メッキ)の技術はどこから来たんだろ?
衣装の布のデザインは独特なもの・・・
鮮やかな色彩・・・
絵柄が素敵なのだが、この模様は、拙者の記憶にない模様である。
例えば、フィリピンや台湾などの布地の絵柄を比較すると、結構、似たような模様があるのだが・・・
ヒマラヤ山脈の近くのブータンと、南方の島々は、そういう意味ではつながっていないということか?
こりゃ、ブータン周辺の国や、インドとかインドネシアに行って、似たものがないか確認せねばならんなぁ~(大笑)
そんなことを考えながら・・・鑑賞する。(大笑)

久しぶりに、“高尚”な(笑)美術鑑賞などをして充実した時間を過ごし・・・帰宅する。
満足、満足・・・・

日記 | 22:33:21 | Comments(0)

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