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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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『われ巣鴨に出頭せず』


第1章 茶色の小瓶
     師走、早朝
     巣鴨に出頭せず
     親孝行って、いったい何だい
     終戦から4ヵ月

第2章 文麿誕生と明治の開明
     生母の死
     五摂家筆頭
     大アジアの夢
     篤麿の病魔
     若き公爵
     喪失感
     中学時代の彷徨
     憂鬱なる一高生

第3章 鬱勃たる青春
     吉田山梁山泊
     千代子との婚礼
     西園寺公望
     祇園の菊
     母の人形(ひとがた)

第4章 西欧列強と大正外交の渦
     パリ講和会議
     大国の横暴
     因習と自我
     騒然たる大正
     暗殺の季節
     関東大震災
     政界再編

第5章 昭和動乱―ナショナリズムの勃興
     坐漁荘の西園寺
     張作霖爆殺事件
     満州事変
     母の人形(ひとがた)再び
     ウルトラ・ナショナリズムの台頭
     崩壊する政党政治
     ルーズベルト大統領
     兵ニ告グ

第6章 日華和平の困難―第一次近衛内閣へ
     大命拝辞
     皇道派と統制派
     広田弘毅
     第一次近衛内閣
     新党運動
     盧溝橋事件の奇怪
     上海事変
     再び「分配の公平」
     国民政府を対手とせず
     荻外荘

第7章 東亜の混迷と三国同盟―第一次から第二次近衛内閣
     内閣改造
     東條英機
     汪兆銘、重慶脱出
     短命な弱体内閣
     木戸内大臣
     第二次近衛内閣
     三国同盟
     新体制運動
     西園寺公望の死

第8章 日米交渉破綻―第二次から第三次近衛内閣
     重い年明け
     松岡洋右
     日米諒解案
     第三次近衛内閣
     幻の近衛・大統領会談
     よもの海
     グルー大使と近衛
     東條英機の抵抗
     尾崎秀実とコミンテルン

第9章 東條英機と木戸幸一
     虎穴
     ハル・ノート
     真珠湾
     無聊
     半年の戦果
     見捨てられた吉田茂案
     「転進」と玉砕
     中野正剛

第10章 情報天皇に達せず
     細川護貞、奔る
     参謀総長を兼務
     テロしかない
     天皇に拝謁かなわず
     絶対国防圏の崩壊
     近衛日記
     東條暗殺計画
     東條内閣の終焉

第11章 決死の上奏文
     小磯内閣
     汪兆銘の死
     菊の娘、ヌイの娘
     空襲の元旦
     近衛上奏
     吉田茂逮捕
     老宰相鈴木貫太郎
     ソ連密使計画
     終戦の詔勅

第12章 ハーバート・ノーマンと都留重人
     一億総懺悔
     憲法改正
     ノーマンと都留重人
     木戸との決別
     戦争責任に関する覚書
     戦略爆撃調査団

終章 貴種の終戦
     逮捕令
     内なる天皇
     貴種の終戦

あとがき

参考文献


私はこの近衛文麿という人が、好きではない。
「軟弱」「無責任」のイメージが強く脳裏に刻まれているせいであろう。
この人が、もう少し「しっかり」していてくれたならなぁ~・・・・と思うのである。
終戦後は、GHQに出頭を命じられた途端に服毒自殺をしてしまった。
最後の最後も「無責任」か・・・・と思った。
これは私だけではなく、多くの人が同様のイメージを持っているらしい。
著者は、「近衛は本当に弱かったのか?」という視点で、この本を書いたらしい。
読んでみると、そうそう一方的に近衛を批判できないところがありそうである。
が・・・だからと言って、ガラリと評価が変わることはなかった。
たしかに同情すべき点はいくつもありそうである・・・・
ただの「軟弱者」とは違うということは、わかった。
本当に「軟弱」だったら、あんなに淡々と自殺することはできなかっただろう。
私は、てっきりオロオロとうろたえた挙句に服毒自殺をしたとばかり思っていたが、これは間違いだった。
本書に描かれていることが事実なら・・・意外にも近衛文麿は「強い人」という面も持っていたと言える。
でも、やっぱり、本書を読んでも近衛文麿のことは好きにはなれなかった・・・・
評価は少しだけ変わったが・・・「払拭」とまではいかない・・・・

本書で意外なことを知った・・・
私は以前から木戸幸一という人物が、どうも「過小評価」されているような気がしてならなかった・・・
本来なら、”戦犯”として処刑されておかしくない人物だと思っていたのだが、なぜか、刑は軽く、戦後、87歳まで生きてこの世を去っている。
その理由が分かった・・・・
なんとも「小ずるい男」である。
近衛は、この木戸幸一と彼の“一味”に「ハメられた」とも言えるかも。
そうなると、その点については近衛文麿に同情してあげるべきだな・・・・

著者の言う「天皇を守るため」の自殺・・・・どうもピンといかなかった。
なんとなく著者の“判官びいき”のような気がした・・・


今年の読書:23冊目

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読書 | 01:24:43 | Comments(0)
運転免許証を更新する
今日は運転免許証の更新のため警察署に行く・・・・
久しぶりの警察署である。(大笑)

毎度のように「交通安全協会」の会費も支払い、更新する。
が・・・・
いつも、その昔の出来事を思い出すのである。

その昔、もう10年以上も前のことである・・・
交通安全協会の地区会の総会に参列したことがある。
各種団体の代表者等、100人以上は集まっただろうか?
配布された資料の「予算案」を見て驚いた!(大汗)
会費収入が昨年度より減る見込みということで、“一つ”を除いて全ての支出項目が前年度比マイナス予算なのである。
全ての支出予算がマイナスならわかるが、一つだけ昨年度と同じ予算額の項目があった・・・
それが「役員会議費(懇談会費だったかな?)」なのである!(驚)
その額・・・数万円と高額な金額が前年同様に載っていた。
いくらなんでも、これはおかしいだろう・・・ということで、手を挙げて質問させていただいたのである。(笑)
「この役員会議費の支出は、具体的には何ですか?」
「お茶菓子代です」
「他の予算がすべてマイナス予算なのに、どうして役員会議費だけがマイナスではなく昨年と同額なんですか?」
「え~・・・とにかく、このくらいの予算は必要なので・・・」
「役員さんはお茶菓子を食べないと会議ができないんですか?それっておかしいでしょ?少しでもお茶菓子の予算を減らして、その分を本来の活動費に回すのが普通なんじゃないかと思いますが、どうですか?」
総会は拙者の発言で、一時休会となってしまった!(大汗)
「20分ほど休会とします。しばらくお待ちください」・・・・
当然、周囲からはブーイングである。(涙)
余計なことを言いやがって・・・ということである。
そして総会が再開されたときの最初の一言に驚いた・・・
「すでにこの予算で動いておりますので、今更、変更はできませんので、よろしくおねがいします」と言うのである。(唖然)
“火に油を注ぐ”というのは、まさしくこのことである。(大笑)
「すでに、この予算で動いてるって・・・総会で予算を承認していないのに動いてるんですか?本来、この総会で予算案を承認してから動くべきものではないでしょうか?そうじゃないと、この総会を開催する意味がなくなると思いますが・・・」
「え~・・・・まぁ~・・・そうなんですけど・・・」(大汗)
バカじゃなかろうか?
毎回、質問も意見も出ないということで舐めてかかっているのである。
またもや会場は騒然・・・・
あまり苛めても仕方がないので、「今回は承認しますが、来年の総会では、もう少しよく考えて予算案を作成してもらいたい」と意見を言わせていただいた。
で・・・・その後は、どうなったかは知らない・・・(大笑)
当然、翌年は拙者には総会に出席する機会は与えられなかった・・・(大笑)
それにしてもお粗末な議案と運営である。
一部の参加者からは質問をした拙者を責める発言が出た。
こういう総会で質問するとは非常識だ、あいつは左翼か共産主義者か?・・・・というものである。(唖然)
しかし、会費は皆さんからいただいているものなのである。
自分のカネだけで運営しているのならいい加減でも構わないが・・・
皆さんのおカネの使い道が「予算案」なのであるから、しっかり審議すべきものではなかろうか?
地元のそうそうたる“名士”が、この程度なんだから呆れた・・・・

いつも、交通安全協会の会費を払う度に、昔の総会での出来事を思い出す・・・
あれから改善されたかどうか・・・甚だ疑問ではあるが・・・・(苦笑)
もう拙者は、とやかく言える立場ではないからどうしようもないが・・・

免許更新の手続きをし、交付されるまでの間、優良ドライバーは30分間の講習を受けることになっている。
この講習はのメインはビデオの鑑賞・・・・
これが毎回、面白くないのである。(大笑)
「そんなこと、知ってるよ!」と突っ込みを入れたくなるような内容で、興味もわかないし、記憶にも残らないのである。
ただの“時間つぶし”である。
警察側は、「一応、講習をしました」という自己満足・・・
それでも交通事故が減るなら文句はないのだが、我が茨城県は交通事故ワースト県なのである。
ということは・・・この「ビデオ鑑賞」は何の効果もないということではなかろうか?(苦笑)

毎回、この講習を受けるたびに思うのだが・・・
中央官庁からの天下り先が作成した、当たり障りのないビデオではなく・・・
各地区ごとに自作のビデオを制作して、それを流すべきではなかろうかと思うのである。
地元警察署管内の交通事故の事例、事故多発場所、注意点等を映像化すべきではなかろうか?
ビデオを撮影してテロップを入れて、誰かが原稿を読んで声を入れるだけである。
昔なら専門業者に多額のカネを支払って作らねばならなかっただろうが、現在ではパソコンで、そんなに苦労しなくても作れるのではなかろうか?
そういうのを「交通安全協会各地区会」が行うべきではなかろうか?
「交通安全週間」にチラシを配るだけが活動では・・・・ねぇ~・・・・
「気を付けて運転してください」と言われてもねぇ~
実際には事故は減らないんだよねぇ~(苦笑)
効果が上がっていないんだから、毎年同じことをやるというのは芸がないかバカか・・・ということになると思うが・・・(大笑)

拙者が住んでいる町の某所に「右折禁止」の場所がある。
が・・・多くの車が、そこを右折しようとする。
右折禁止の標識も、道路には右折禁止の表示もされているのだが、運転者は標識を無視しているのではなく、右折することに必死で、標識に目がいかないのだろう。
しかし、そこに右折のため停車されると対向車は見通しが悪くなり危険なのである。(だから右折禁止になっているのだが・・・)
こういう場所を映像で示してやれば、誰でもが「あ~あの場所かぁ~」と分かるし、「知らなかったぁ」という人もいるだろう。
事故多発場所も同様である。
文字で何町の何丁目なんて書かれてもピンとこないが、映像化されていれば「あ~あの場所かぁ~」とすぐわかる。
いつか、そこを走るときにはビデオのことを思い出して注意して走るだろう。
それでこそ、講習でのビデオ鑑賞の効果があらわれるというものである。
地元の知っている場所が出てくれば、誰もが興味を持って見入るはずであるし、記憶にも残るだろう。
そうやって、交通事故を減らす工夫をしなければ、「ワーストワン」の汚名は返上できまい。
もしかして・・・「交通事故ワーストワン」を汚名だとは思っていないのかな?(大笑)

いずれにせよ、“本気”でやろうという気がないのでは、良くはならない・・・・
形だけ・・・やったふり・・・
まぁ、この程度の国民なんだから仕方がないと諦めるべきか・・・(苦笑)

あ~あ~・・・と今回もため息をつきながら帰途に就く・・・・

日記 | 15:01:05 | Comments(0)
墨堤植桜の碑
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墨堤植桜の碑

所在 墨田区向島5丁目1番 墨田公園

この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額(てんがく)、濱邨大澥(はまむらたいかい)の撰文、宮亀年の彫刻です。
墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に八代将軍吉宗が百本の桜を、同11年には桜、桃、柳各百五十本を植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。
その後文化年間に佐原鞠塢(きくう)、朝川黙翁、中山卜鄰が百五十本、天保2年(1831)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。
弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が百五十本、安政元年(1854)に阪田三七郎が二百株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鷗社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。
志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
このような功績を永世に伝えるため、明治20年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。

平成2年3月
墨田区

(説明板より)

史跡 | 19:07:57 | Comments(0)
鷲津毅堂碑
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鷲津毅堂(きどう)

所在 墨田区東向島3丁目5番2号 白鬚神社内

鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。
文政8年(1825)尾張に生まれました。
通称を毅堂または蘇洲と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。
20歳のころ江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学び、嘉永6年久留米藩に仕え、次いで、尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も師弟とともに学問に励みました。
時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。
明治元年朝廷より権弁事(ごんべんじ)を任ぜられ、同2年大学少丞に転じます。
そして権大書記官五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。
明治15年司法権大書記官となりますが、同年(1882)10月5日、58歳で歿しました。
なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。
本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による碑です。

平成18年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)

史跡 | 16:57:00 | Comments(0)
西川春洞・寧住居跡
西川春洞(にしかわしゅんどう)・寧(やすし)住居跡

所在 墨田区東向島3丁目4番

西川春洞は、肥前唐津藩医を父に弘化4年(1847)日本橋の家で生まれました。
幼い頃、書を中沢雪城に学び、初め銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し、徐三庚を中心とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。
そして、この地(寺島村一二○七番)に居を構え、多くの弟子を養成しました。
春洞は、地域の社寺や人々の求めに気軽に応じ、多くの作品を残し、大正4年この地に没しました。
春洞の息子寧は、明治35年ここに生まれ、寺島小学校(現第一寺島小学校)に学び、慶応大学では中国文学を専攻し、さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し、昭和60年に書家として初めて文化勲章を受賞しました。
平成元年5月目黒区中町で没しました。

(なお、住居跡は階段下約30メートル先の右側の辺りです)

平成12年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)

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史跡 | 16:37:32 | Comments(0)
東京・向島を散策する
昨日は、我が母校(大学)の同窓会県支部の役員会・・・
来月、同窓会県支部の総会を開催するので、その打ち合わせである。
基本的には、事務的なものはすべて拙者が行うことになっている。(大笑)
式次第、総会資料、座席表、名札・・・何から何までであるが・・・(涙)
自分で意見を言って、自分でやるんだから、先輩役員さんたちからは文句は出ない。(大笑)
「どうぞぉ~」である。(大笑)
自分で自分の首を絞めていることになるのだが・・・・(大汗)
より良い同窓会の開催を考えると、どうしても意見を言いたくなってしまうのである。(苦笑)
これが、拙者の悪いところか?

今回の役員会、打ち合わせ会も無事に済ませ、水戸駅から特急に乗って東京に向かった。(大笑)
ちょっと、東京で“野暮用”があり、昨晩は東京に1泊・・・・

で・・・今日は・・・
真っすぐ帰宅するのはもったいないので・・・(大笑)
向島界隈を散策してみることにする。

向島の「白鬚神社」というのは、名前は聞いたことがあるが、行ったことがなかったので、行ってみる・・・(笑)

「旧墨堤の道」というのを歩いてみる。
と・・・・説明板があった!(喜)

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旧墨堤(きゅうぼくてい)の道
所在地 墨田区東向島3丁目・堤通1丁目境

隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661~73)。
徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通2丁目、都立東白髭公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまででした。
江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目、言問通り)まで延ばして人々に地固めをさせました。
以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。
道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。
白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿を消してしまった、旧墨堤の名残りです。
春は花見、正月は七福神めぐりの人々で、特ににぎわいました。
関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。
現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の二ヶ所だけとなっています。

平成21年3月
墨田区教育委員会

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(説明板より)



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白鬚神社の前まで行ったら、また別の説明板が建っていた。
『西川春洞・寧住居跡』の説明板だった。
この親子は有名な書家だったらしく、その人の住居がこの近くにあったらしい・・・
こういう説明板を読んでいると、なかなか目的地に到着しないな・・・(大笑)
が・・・こういうのが大好きなのだから、どうしようもない・・・

白鬚神社の境内には『寺島ナス』の説明板もあった・・・(笑)
人の名前かと思ったら・・・野菜のナス(茄子)のことである。(大笑)
この白鬚神社の周辺は昔は寺島(てらじま)村と呼ばれていたそうで、江戸時代には田園風景が広がっていたらしい。(今では信じられない話だが・・・・)(笑)
で・・・ここのナスは江戸近郊の名産だったらしい。
へぇ~である。
今でも生産されているのかどうかは書かれていなかったのが残念だが・・・
もしかしたら、もう“絶滅”してしまっているのかも・・・

その他、境内には、江戸から明治にかけての漢学者である鷲津毅堂(蘇洲)の『鷲津毅堂碑』や佐羽淡斎の詩碑である『「隅多三絶」の碑』、『山玉向島講社の碑』などが建立されていた。
まぁ~見どころいっぱいである。(喜)

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白鬚神社は、よく聞く名前で有名な神社だろうから、さぞかしい大きい神社なのかと思ったら・・・
意外にも小さな神社だったので拍子抜けした・・・(苦笑)


白鬚神社

祭神 猿田彦大神
    天照大御神  高皇産霊神
    神皇産霊神  大宮能売神
    豊由気大神  健御名方神

由緒
天歴5年(西暦951年)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。
天正19年(1592年)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れた。
社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化12年に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。
明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。

隅田川七福神
当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当たらなかった。
ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。
隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。

(由来碑・碑文)



時刻はまもなくお昼になるが、そのまま「ぶらり旅」・・・・
次に向かったのは、「墨田区立露伴児童遊園」という小さな公園。
住宅街の片隅にあって・・・目立たない・・・(苦笑)

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露伴児童遊園のこと

ここは文豪幸田露伴が明治41年から大正13年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です
露伴は明治26年冬この寺島町かいわいに来住しそれから約30年最も力の溢れた時期をこの地にすごし数々の名作を書かれました
当時の露伴は門弟を相手に剣道、弓道、相撲、などしてよく庭で遊んだそうです
このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷辰夫氏が区に寄贈されました
寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです

昭和39年3月建立  墨田区

(説明碑・碑文)


DSCN2326_convert_20160705154208.jpg (幸田露伴文学碑)

幸田露伴という人は、この向島界隈を何度も引っ越していたようで・・・
この公園がある場所は「向島の第二の蝸牛庵」だそうである。

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公園には「向島文学散歩」という案内板が立っていた。
へぇ~いろんな文学者・作家などが、この周辺には住んでいたんだと驚いた。

さて・・・・“第一”の「向島の蝸牛庵」があった場所を探してみることにする。

DSCN2342_convert_20160705155020.jpg (第一の向島蝸牛庵跡?)

このあたりが「第一の向島の蝸牛庵跡」ではないかと思うのだが・・・(汗)
それを示すような表示等は見当たらなかった・・・(大汗)
ん?・・・違うのかなぁ~(苦笑)・・・・ここだと思うんだけどなぁ~
で・・・ここに建っていた建物は、「明治村」に移築保存されていたと思う・・・
ずいぶん昔・・・拙者が貧乏でデジカメが買えなかった頃のことだが・・・“ウメちゃん”と「明治村」に行ったときに見たような記憶がある。(笑)

再び、ブラブラ・・・・

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「長命寺 桜もち」の看板が出ているお店にたどり着く・・・・
う~ん・・・どこかで聞いたことがあるような・・・・
「桜餅」で有名なお店だったかな?(苦笑)

このお店の横には、『正岡子規仮寓の地』の説明板が立っていた。
正岡子規は、このお店の2階を借りて、3ヶ月ほど住んでいたことがあったらしい。

また、『三浦乾也 旧居・窯跡』の説明板も立っていた。
この人は、陶芸家で乾山焼6代目を襲名した人らしい。
絵や彫刻もするという多芸多才の人だったそうである。
嘉永6年、32歳の時に“黒船”が来航して驚き、幕府に造艦を建白し、さらに雄藩にもその必要性を説いて回ったという。
で・・・翌年の安政元年に勝海舟と共に長崎の伝習所へ行き、建造技術の習得を幕府から命じられたらしい。
で・・・安政3年には仙台藩に招かれ、洋式軍艦「開成丸」を進水させ、一躍有名になったという。
へ?・・・・2~3年「造船技術」を学んだだけで、実際に軍艦を進水させたのか?(驚)
頭が良いというか・・・器用というか・・・(汗)
でも・・・この人、陶芸家だよね?(苦笑)
で・・・明治8年に、ここ向島の長命寺にやってきて、境内の片隅に窯を造って陶芸品の創作に励んだそうである。
明治22年、68歳でこの世を去ったらしいが、惜しいなぁ~
なんでもこなしちゃうという才能のある人に憧れちゃうねぇ~
こういう人になれたらなぁ~・・・と羨ましい・・・
「江戸焼物を代表する陶工」だそうである・・・・造船もできるという陶工?・・・(大笑)

時刻はまもなく午後1時になるが・・・・
折角である・・・・
拙者は「桜餅」が好きだし・・・ということで、ここ「長命寺 桜もち 山本や」さんで「桜もち」を食べる。

再び、ブラブラ歩くが・・・・
昼食が「桜もち」1個というのでは、さすがに空腹を癒すことはできない・・・(大笑)
たまたま見かけた喫茶店で、ちゃんとした「昼食」を食べることにする。(大笑)

で・・・・今日の「散策」は、これで終了!
結構、歩いたと思う・・・(大笑)
よし、いい運動をしたぞ・・・と上野駅に向かい特急に乗って帰宅する。

日記 | 14:58:16 | Comments(0)
『理想の逝き方』


はじめに

第1章 天寿をまっとうした「理想」の死

1・1 「私」の流儀に徹した死に方

梅原龍三郎(画家)(97歳)
     自分を貫き大往生した巨匠
熊谷守一(画家)(97歳)
     自分を閉じて、世俗と距離をおきながら

1・2 「惰力」で最期に向かう美学

白井喬二(作家)(91歳)
     一歩一歩、堅実に真面目に死に臨む
高峰秀子(女優)(86歳)
     第二の人生は気ままに生きて、静かに逝く

1・3 生き方を変えずに迎えた死

今東光(天台宗僧侶・作家)(79歳)
     「死ぬために生きている」
野上彌生子(作家)(99歳)
     筆を握ったまま天寿をまっとうする

第2章 命の限りをふりしぼる

2・1 死力を尽くして果てる

円谷幸吉(陸上選手)(27歳)
     「もう走れません」という遺書
内田吐夢(映画監督)(72歳)
     「真剣勝負」で終わる
多田富雄(免疫学者)(76歳)
     最期まで死と共存した学者
美空ひばり(歌手)(52歳)
     「もういちど歌いたい」という意識のなかで
長谷川一夫(俳優)(76歳)
     幕切れまで美しくありたい

2・2 人知れず「姿を消す」

岡崎次郎(マルクス経済学者)(80歳)
     情死行を決意し、消息を絶つ
長谷川伸(劇作家)(79歳)
     酸素吸入装置を自ら外す
上原専禄(歴史学者)(76歳)
     死者との共生を考える

2・3 「じたばた」しても潔い死に方

千葉敦子(ノンフィクション作家)(46歳)
     ガンの再発後、渡米する
佐野洋子(エッセイスト)(72歳)
     余命2年、といわれ鬱が消えた
川上宗薫(作家)(61歳)
     死の二日前まで官能小説を執筆

2・4 走り続けた作家たちの死に方

吉川英治(作家)(70歳)
     書き続け、走り続けた30年
横溝正史(推理作家)(79歳)
     「理想の晩年」と人はいうけれど・・・・
江戸川乱歩(推理作家)(70歳)
     意識はありながら病床に伏した最期
松本清張(作家)(82歳)
     遅咲きの出発から全力疾走中の死

2・5 仕事にすべてを燃焼させた死

田中絹代(女優)(67歳)
     女優魂は灰になるまで
溝口健二(映画監督)(58歳)
     映画さながらの壮絶な人生
下村治(経済学者)(78歳)
     頑迷固陋の警世家の一途な死
佐分利信(俳優)(73歳)
     「すべてを疑ふ」と書いた愛妻家のドン
梅棹忠夫(民族学者)(90歳)
     人生の終止符にふさわしい仕事を成し遂げる

第3章 あとは野となれ山となれ

3・1 しがみつかない逝き方

山田風太郎(作家)(79歳)
     「ぜんぶ余禄」という晩年
吉田健二(英文学者)(65歳)
     「命にしがみついている必要がない」
山本周五郎(作家)(63歳)
     医者嫌いの「精神的自殺」

3・2 自然死 - 死ぬべくして逝く

斎藤茂吉(歌人)(70歳)
     名誉に包まれた自然死
今西錦司(生物学者)(90歳)
     長期入院(4年4ヶ月)後の死去

3・3 「肩の荷」をおろす死に方

船橋聖一(作家)(71歳)
     死んでホッとしただろう、流行作家
芥川龍之介(作家)(35歳)
     死んで文名を高みに押し上げる
太宰治(作家)(38歳)
     死をもてあそんだ末の幸福な死

第4章 「準備」のない死

4・1 不慮の死 ― 事故死、もしくは不注意による死

向田邦子(作家)(61歳)
     「希死念慮」を抱いた作家の必然の事故死
江利チエミ(歌手)(45歳)
     孤独に耐えきれなかった末の泥酔死
久保田万太郎(作家)(73歳)
     ちょっとした体裁から思わぬ事故死に
力道山(プロレスラー)(39歳)
     体力を過信した放恣ゆえの死

4・2 急死 ― 世間を騒がせた著名人の死

司馬遼太郎(作家)(72歳)
     晩年を襲ったストレスゆえの死か?
池波正太郎(作家)(67歳)
     「人は死ぬために生きる」が口癖だった
藤沢周平(作家)(69歳)
     癒しの時代小説家の「ひたむき」な生と死
有吉佐和子(作家)(63歳)
     閉幕が突然に訪れた才女の死
水谷八重子(女優)(74歳)
     プライドを傷つけられたゆえの死
小津安二郎(映画監督)(60歳)
     国際的評価を得ていた「巨匠」の死
佐田啓二(俳優)(37歳)
     文字通りの「急逝」であった二枚目俳優
伊藤整(作家)(63歳)
     予想外に早かった死
開高健(作家)(58歳)
     死は断念であり解放である
大平正芳(政治家)(70歳)
     死して圧勝を残した宰相
福田赳夫(政治家)(90歳)
     「人命は地球より重い」という迷言
三木武夫(政治家)(81歳)
     寝業師の「クリーン」な死?
田中角栄(政治家)(75歳)
     田中角栄は三度死ぬ

4・3 「殺される」という死 ― 暗殺・リンチなど非業の最期

石田吉蔵(小料理屋店主)(41歳)
     幸福な「情」死
大久保利通(政治家)(47歳)
     天誅による暗殺
伊藤博文(政治家)(68歳)
     暗殺されたことで声価を高める
原敬(政治家)(65歳)
     金権政治ゆえに敵多く刺される
小林多喜二(プロレタリア文学者)(29歳)
     官憲の苛烈なリンチによる死
小畑達夫(社会運動家)(26歳)
     スパイ容疑をかけられ査問死
中川昭一(政治家)(56歳)
     マスコミからのバッシング死

第5章 「準備」のある死

5・1 強制された死 ― 死刑、獄中死など

東条英機(政治家)(64歳)
     「戦争責任」という名の強制死
三木清(哲学者)(48歳)
     独房のなかで人知れず死去
山口二矢(右翼活動家)(17歳)
     浅沼稲次郎を刺殺した政治少年の獄中自死

5・2 自死という美学を貫く

江藤淳(文芸評論家)(66歳)
     「形骸を断つ」と書き遺し妻のあとを追う
三島由紀夫(作家)(45歳)
     割腹自殺による政治ショー
乃木希典(陸軍軍人)(62歳)
     殉死により軍神となった
近衛文麿(政治家)(54歳)
     開戦責任の蓋を閉じる服毒自殺
甘粕正彦(陸軍軍人)(54歳)
     満州の「夜の帝王」の自死

5・3 「闇」を抱いて長寿をまっとうする

岸信介(政治家)(90歳)
     「首」を差し出して難局を切り抜ける
野坂参三(日本共産党議長)(101歳)
     「闇の男」の老衰死
宮本顕治(日本共産党議長)(98歳)
     黒い霧の男の静かな最期

5・4 治療や延命を拒否した死

高見順(作家)(58歳)
     旧友の僧侶が引導を渡す
緒方拳(俳優)(71歳)
     延命よりも俳優業を優先した末に
長谷川町子(漫画家)(72歳)
     治療は受けないと姉と約束した死

第6章 誰がために生きるか

6・1 「家族のため」という死に方

岩崎弥太郎(実業家)(50歳)
     「覇権争いはやめて家族一致を」という遺言
菊池寛(小説家)(59歳)
     家族のために、生死の流儀を守る
佐々木茂索(小説家・編集者)(72歳)
     「すべては妻に一任する」という遺言
有島武郎(作家)(45歳)
     親の因果を子に残してしまった自死

6・2 「自己愛のため」という死に方

永井荷風(作家)(79歳)
     エゴを貫き、死にたいように死ぬ
寺山修司(劇作家)(47歳)
     墓はいらない。私のことばがあれば十分だ
沖雅也(俳優)(31歳)
     「おやじ 涅槃でまつ」と書き遺した美形男優
田宮二郎(俳優)(43歳)
     「最愛の妻のため」という仮面の死
山崎晃嗣(ヤミ金融起業家)(26歳)
     戦後の律儀なアプレゲールの死
岡田有希子(歌手)(18歳)
     「後追い自殺」が社会問題になったアイドルの死

6・3 美しい死を迎えるために

宮本美智子(ノンフィクション作家)(51歳?)
     世にも美しいダイエットで亡くなる
山本夏彦(コラムニスト・編集者)(87歳)
     美しければすべてよし

第7章 死を超えて、死に臨む

7・1 「人類のため」という死に方

内村鑑三(キリスト教思想家)(69歳)
     信仰者の騒々しい死に方
尾崎秀実(コミュニストZ)(43歳)
     不幸な理想家の死
由比忠之進(エスペランチスト)(73歳)
     錯誤の末の自死
金子光晴(詩人)(79歳)
     民族国家を超えた不穏の漂泊者

7・2 「共同体のため」という死に方

伊藤博文(政治家)(68歳)と山県有朋(政治家)(83歳)
     日本国家の命運を担った両輪の死
栗林忠道(陸軍軍人)(53歳)と大西瀧治郎(海軍軍人)(54歳)
     全身全霊を賭して逝った報国の軍人
渋沢栄一(実業家)(91歳)
     偉大な自己顕彰を遺した「日本資本主義の父」
島田三敬(経営者)(56歳?)
     「会社の生命は永遠だ」という遺言
田中正造(社会運動家)(71歳)
     「公害告発」先駆者のキリスト者としての死
戸村一作(地域運動家)(70歳)
     「命よりも闘争(三里塚)が大事だ」と言い続けて

第8章 わが学恩ある人たちの死

8・1 思索し続けた知識人の死に方

福沢諭吉(思想家・企業家)(66歳)
     近代日本の牽引車となった巨人の「苦闘」
三宅雪嶺(哲学者)(85歳)
     敗戦とともに逝った在野の哲学者
小西甚一(文学研究者)(91歳)
     80歳から大著に挑んだ学者魂
宮崎市定(東洋史学者)(93歳)
     死の直前まで瑞々しい文章を書く

8・2 書恩・学恩尽きない人の死

谷沢永一(評論家)(81歳)
     晩年を果断に生き抜いたわが師恩
廣松渉(哲学者)(60歳)
     哲学の最新地平を歩み抜く

あとがき


この世に「100%」と言い切れるものはない・・・・
唯一の例外は「人間の死」は100%である。
この世に「死なない」人間などいないだろう。

本書で取り上げられた101人の人たちは、亡くなる歳も亡くなり方もさまざまである。
彼らは、自分が、その歳で、そういう形で、人生の最期を迎えると予想できていたのだろうか?

私は、この世に生まれた瞬間に「死」に向かって生きていると思っている。
ズ~ッと昔・・・子供のころから「死ぬために生きている」と思ってきた。
そういう点では、本書に取り上げられた今東光氏や池波正太郎氏に近い考え方である。

理想の死、納得のいく死を迎えるためには、どういう生き方をすべきか・・・・
それを考えるのが大切だと思ってきた。
が・・・言うのは簡単、やるのは難しい・・・(苦笑)
なかなか「理想の死」を決められないでいる・・・・もう56歳にもなるというのにである。

私の母は、ガンでこの世を去った。
生前、最期の迎え方について母と話し合ったものだが・・・
いざ、実際には、母の希望したような死に方をさせることができなかった。
大失敗である。
この裏切りは、万死に値する・・・・
私は、いつかこの罪を償うような死に方をせねばなるまいと思っている。

今、自分が好きな生き方をしているのは、どうせ長生きはしないだろうと思っているからである。
あと10年ぐらいしか生きないのではないかという気がするのである。
が・・・これには何の根拠もない。
突然の事故で、明日死ぬかもしれないし・・・・
もしかしたら、99歳まで長生きしてしまうかもしれない。(笑)
予想に反して長生きした場合、私はたぶん一文無しになっていると思う。
となると・・・・生きていけないから・・・・結局「自死」を選ばざるを得なくなる。
「自死」は自分の「理想の死に方(案)」の中には含まれていないのだが・・・・

「生きる」というのも難しいが「死ぬ」というのも難しい・・・・
すくなくとも死んだ後、他人から後ろ指をさされないような生き方をしたいとは思っている。

本書の題名は「理想の逝き方」であるが・・・・
ここに掲載された方々は、自分が思っていたような「理想的な死に方」をしたと思っているだろうか?
“理想的”とは“納得がいく”と同義語だろうか?
「理想的」とは難しい言葉である。



今年の読書:22冊目



読書 | 10:51:29 | Comments(0)
無事に帰国しました
昨晩、予定通り、無事に帰国しました!

内容の濃い、いい旅行が出来たせいか・・・

不思議なことに全然疲れていない!(大笑)

これには驚きです。



日記 | 09:18:19 | Comments(0)
帰国直前の予定変更!(大笑)
今日は帰国する日である。
午後1時30分発の飛行機で松山空港から羽田空港へ向かう・・・・
当初の予定では、10時30分に迎えに来てもらい、真っすぐ空港に向かうことになっていたのだが・・・
“クウさん”が、それでは時間がもったいないという。(笑)
急遽、予定を変更して午前8時30分に迎えに来て、市内観光をして空港に送ってくれるということになった。(喜)

で・・・・ホテルをチェックアウト後、ロビーで打ち合わせ・・・
彼が会社への報告書を作成したので確認してほしいという。
「予定変更報告書」だそうで・・・(苦笑)
到着当日の、本来行く予定だった土産物店をキャンセルして市内観光をした件と、今日の空港へ送り届けるだけの予定を変更して市内観光をしてから送り届けることになった件・・・・
上手な日本語で書かれた「変更報告書」である。(驚)
「これで間違いなければ、承諾のサインをお願いします」と“クウさん”・・・・
「はい、確かに間違いないですよ」
「日本語、これで合っていますか?」
「はい、上手な日本語で・・・完璧です!」
「で・・・予定を変更したので・・・もしかしたら、あとから追加料金の請求が来るかもしれません」と言う。
はぁ?(大汗)
この予定変更は、すべて、あなたの指示に従っただけなんですけど・・・(苦笑)
まぁ・・・いいか・・・
内容が良ければ、金銭の問題は無視!(大笑)
どうせ2倍も3倍も取られるわけじゃあるまいし・・・たかだか数万円の請求だろう。(苦笑)
ということで・・・サインする。(大笑)

(後日、現地旅行社からは、追加請求無しとの連絡をいただいた。ご厚意に感謝、感謝である!)(大喜)

最初に向かったのは、一昨日、閉門後で中に入れなかった「欽差行臺」である。
“クウさん”は、どうしてもここを拙者に見せたくて仕方がない・・・
「是非行きましょう!」と誘われた・・・(苦笑)

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この建物は、現在の「台北中山堂」の場所から、この「台北植物園」に移設されたときは「布政使司文物館」と呼ばれていたが、2013年に正式な名称である「欽差行臺」に改名されたという。

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建物内部には、この建物に関するパネル展示などがあり、ちょっとした資料館となっている。

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1918年(大正7年)の台北市内を鳥瞰した古写真・・・・

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618_convert_20160701162004.jpg 「台北城」の内部の建物配置図

619_convert_20160701162035.jpg 「布政使司衙門」建物群の配置図

「布政使衙門」とは、どこかの「門」のことかと思ったら、そうではないようである・・・(苦笑)
「衙門」とは、「役所」を意味する言葉らしい・・・

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1900年代ということは・・・明治33年から42年ごろの古写真ということかな?
日本統治時代、総督府として使用されていた頃の「欽差行臺」と、当時の総督の執務室(事務所?)・・・・
こういう「古写真」って好きなんだよねぇ~

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1930年頃(昭和5年頃)に日本人の田中大作という人が撮影した「欽差行臺」の全景・・・・
たぶん、時期的に、この植物園に移設される直前の写真だろう。
この写真の場所に、のちに「台北中山堂」という公会堂が建てられたのだろう。

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ここは「大堂」と呼ばれる場所・・・・
ガランとしていて面白味がないが・・・・(苦笑)

地元の高校生か大学生か・・・先生に引率されて見学していた。
あまり興味のなさそうな学生も見受けられたが・・・
拙者も学生時代は、そんなものである。(大笑)
が・・・歳を取ったら、何に興味を持つかわからんよぉ~(大笑)
一応、しっかりと説明を聞いて見ておいたほうがいいかもよぉ~・・・・と言いたかったが、中国語ができないので、そういう会話が出来なかったのは残念である・・・・(大笑)

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この建物の修復工事に関する展示もある。
当時の建物の部材などの展示や、修復工程に関するパネル展示などがされていた。
また、ここの地層や出土品に関するコーナーもあった。
この建物がある「台北植物園」は約9000年前には湖の底だったらしい。(驚)
で・・・・今から約4500年前に湖が消えて陸地になり、人間が生活し始めたのであろう。
約4500年前から3500年前の土器などがこの植物園から出土し、展示されている。
で・・・その時の「原人」は、どういう人間だったのだろうか?・・・・何族?
興味の湧くところである。(笑)
この植物園は考古学的遺蹟でもある・・・・

637_convert_20160701174226.jpg (中廊)

建物内の見学は終了!(笑)
建物は、さほど広くないので、ササッと見れば10分もあれば終わってしまいそうな内容である。
が・・・・我々は、じっくりと見学したので、なんと30分以上もかかってしまった。(大汗)
で・・・帰ろうかなと思ったら、“クウさん”が扉の絵に興味があるようで、ボランティアガイドを呼んできて説明をしてもらう・・・(唖然)
また、このボランティアガイドの“オバチャン”が話をするのが好きな人で・・・・話が長い!(大汗)
まぁ、だからボランティアガイドをしているんでしょうけど・・・(大笑)

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“クウさん”が通訳してくれたのだが・・・・
彼が知りたかったのは、この「神様」が手に持っているものと、その意味について・・・
これには、ちゃんとした意味があるのである。
が・・・・三歩歩いたら忘れた・・・・申し訳ない・・・・(大汗)
ボランティアガイドの“オバチャン”のご説明をいただいたおかげで、この小さな建物で、1時間も潰してしまった!(苦笑)
ツアーで来たら、絶対あり得ないことである・・・・(大笑)
でも、面白かった・・・・

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植物園を出たところに、「公用電話」が・・・・
「公用」って・・・役所の人が使う電話か?(笑)
電話ボックスの上の方に、Public Paystation と書いてある。
「公衆の公衆電話?」「公共の公衆電話?」・・・・という意味かな?
一応、公衆電話のようである。
その他に「LAN」とか「Wi-Fi」とかのシールが貼ってある・・・
この公衆電話・・・なんでも「あり」なんだなぁ~(大笑)

この植物園の入り口には、「行政院農業委員会 林業試験所 台北植物園」の看板が出ていた。
日本統治時代は「台湾総督府 殖産局附属 林業試験場」の看板があったと思う。
いずれにせよ、ここには、今も昔も「林業試験場(所)」が置かれている。(笑)

この後は・・・・
拙者が日本統治時代の古い建物が好きということで、市内の一角を歩きながら外観だけを見学する。

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「司法大廈」(司法院)の建物。
昭和9年竣工、当時は「台湾総督府高等法院」や「台北地方法院」が入っていた建物だったようである。
設計者は井出薫。

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「台湾基督長老教会 済南教会」の建物。
大正5年竣工、当時は「日本基督教団 台北幸町教会」という日本人専用の教会だったという。
設計は井出薫。

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「立法院」の建物。
建物の雰囲気から見て「立法院」と言っても議事堂は別の建物なんでしょうねぇ~
“クウさん”の話では、事務仕事だけをする場所だとのこと。
いつ、誰の設計で建てられたのかは不明・・・・
その昔は、「台北第二高等女学校」だったという話だが・・・・
正面玄関を見ると、とても学校には見えないんですけど・・・(笑)
両側の建物は瓦葺の二階建てのようである。
う~ん・・・・この部分は教室にも見えるかも・・・(笑)

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「監察院」の建物。
大正4年に竣工・・・当時は「台北州庁」の建物だった。
この建物・・・・いいなぁ~(喜)
こういうの好きだなぁ~
設計は森山松之助。

時刻は10時30分を過ぎた・・・

次に向かったのは「迪化街」というところ・・・
ここは昔は「大稻埕(ダー・タァオ・ツン)」と呼ばれていた町で、その近くには「艋舺(=萬華)(マンガ)」と呼ばれていた場所がある。
どちらも、「漳州人」と「泉州人」の抗争で聞いたことがある地名である。
この町は、淡水河の水運を利用して発展した町で、乾物屋や布地を扱うようなお店が多い。
いわゆる問屋街・・・
また、太平洋戦争の戦火に遭わなかったため、歴史的な建物が残っていて、いわば「歴史的建築物の美観地区」として、一大商業地区と化している。

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もう、こういう古い建物を見ちゃうとワクワクするんだよねぇ~(興奮!)
一軒、一軒を写真に収めたいところだが・・・ゲゲッ・・・デジカメのバッテリーが・・・(大汗)
じっくりと見て歩きたいが、大丈夫かね?空港?(苦笑)
時刻はもう11時なんですけど・・・・間に合うのかね?(大汗)

この町は、以前、再開発の話が持ち上がったことがあるという。
道路は狭いし、建物は古くてゴチャゴチャと密集しているし・・・ということで再開発しようという話が上がったらしい。
ところが、それに反対したのが、周囲に住む人たちだったという。
ここに住んでいる人たちではなく、周囲に住んでいる人たちが、歴史的な建物が立ち並ぶ街並みだから遺すべきだということで声を上げたらしい。
「面白いでしょ?周囲の人が猛反対したんですよ」と“クウさん”(笑)
で・・・今では観光名所である・・・・(大笑)
なんでも古いものは壊せばいいというわけではないというのが、これでわかると思う。
近代的なビルを建てて、グッチやルイ・ビトンの店を出しても、これほどの人が集まってくるかどうか・・・
歴史的な建物を遺して“正解”である。

もうちょっと時間があったら、もっと見て歩きたかったが・・・
時間がない・・・・(涙)
次回にでも歩いてみるか・・・・

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「台北霞海城隍廟」という神社(?)・・・・・
縁結びの神様だという・・・(汗)
しまった・・・お参りするのを忘れた・・・(大笑)

“クウさん”が「甘いものでも食べますか?」と言うので、“かき氷”(?)を食べる。

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「杏仁豆腐」の“かき氷”という感じ・・・・
何がいいのかわからなかったので、「杏仁」に「緑豆」が入ったものを頼む。
「杏仁+緑豆」(シンゼン・チャ・リート)は・・・1杯40元(約160円)・・・・
これ、なかなか美味しかった・・・(笑)

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さて・・・そろそろ「松山空港」に向かいますか・・・
昔は、同じ台北でも「桃園空港」を利用していたので、市内から空港までは1時間ほどかかってしまう。
「台北松山空港」は台北市内にあり、それほど時間がかからないので、ギリギリまで観光ができる。(笑)
ちなみに、この「台北松山空港」は、戦時中は日本軍の「台北飛行場」だった場所である。

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(台北松山空港)

残念なことに、空港内に「喫煙所」というのがないようである。(涙)
チェックイン後、“クウさん”が「まずは・・・タバコですね?」と笑う。
空港の外で一服して、雑談・・・・
今回は、本当に大変お世話になった。
しかも、想像以上の内容の濃い充実した旅行となった。
“クウさん”のおかげである。
感謝、感謝である。(大喜)

次回は、台中方面・・・・南投県の霧社へ行ってみたい・・・・
昭和5年に発生した「霧社事件」の現場を歩いてみたいと思っているので、次回も“クウさん”を指名してお願いしたいので、事前に勉強しておいてくれるよう頼む。(大笑)

空港はなぜかガラガラに空いていた・・・・(唖然)
おかげで、出国手続きはスムーズで、あっけなかった・・・・
機内食は出るのだろうが・・・・(笑)
時刻は12時30分・・・・さすがに腹が減ったので、搭乗口近くのコーヒーショップでサンドイッチを食べる。(笑)
サンドイッチとコーヒーで160元(約630円)なり。

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予定通り、午後1時30分発、全日空852便で羽田に向かう。

578_convert_20160702173819.jpg (機内食)

午後5時45分到着予定が15分ほど早く無事に羽田に到着・・・・
追い風だったのかな?(大笑)
羽田空港の喫煙所でタバコを一服・・・(笑)
急いで京急で品川駅へ向かう。
午後6時40分ごろに到着したが、買っておいた品川駅発の特急券は午後7時44分発のもの。
その前の特急は午後6時44分発なので、4分しか余裕はない。
1本遅いものにしておいて正解だった。
駅構内でスパゲッティとコーヒーの“夕食”を食べて時間調整・・・・
親父に電話をしたら「誰?・・・何?・・・耳が遠くて聞こえねえ!」と言われ話が通じない・・・(大汗)
無事に帰国したんですけど・・・・その報告なんですけど・・・・(苦笑)
まさか日本で日本語が通じないとは・・・(唖然)

とにかく、無事に午後9時半に自宅に到着する・・・

旅行 | 14:53:41 | Comments(0)
再び博物館めぐり!(大喜)
昼食後、台北市内に戻る・・・
次に向かうのは『原住民博物館』・・・・
博物館めぐりの再開である!(喜)

途中・・・立派な建物が見えてきた!
「へぇ~すごい建物ですねぇ~・・・あれは何の建物ですか?」
「え?・・・知らないんですか?」
「はい・・・あれは何の建物なんだろう?」
「あれは故宮博物院ですけど・・・知らないんですか?」と“クウさん”の呆れた声・・・・
「へ?・・・故宮?・・・・あ~・・・・昔、何度か行ったことがある!」(大汗)
「・・・・・」(唖然)
「へぇ~・・・・あんなに立派でしたっけ?」(苦笑)
「はい、あれが故宮です・・・」(苦笑)

やっちゃった!・・・・相変わらずである。(大涙)
どうして、こうも物覚えが悪いのかねぇ~

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午後1時半、『順益台湾原住民博物館』に到着・・・・
館内は写真撮影禁止、ロビーもダメ・・・(苦笑)
内部の撮影ができなかったのは残念だが、これがなかなかの展示・・・
昔は、こういう分野に対して全く関心がなかったが、歳を取ってしまったせいなのだろうか?
結構楽しい・・・(大笑)

台湾にはいくつもの「部族」があるのだが、拙者は9族だとおもっていたが、それは日本統治時代の部族の数だそうだ。
現在では政府認定の原住民は16部族あるという。
認定の基準は、人口が300人以上いて、独自の言語を持ち、独自の文化を持っていることだそうだ。
というわけで、300人に満たない場合は政府から認定を受けられない。
そのため、なんとか300人になるようにと画策する動きもあるとか・・・と“クウさん”が言っていた。(笑)
なかなか難しい問題である。
どうしても混じっちゃうからねぇ~・・・・隣の部族と混じったら・・・その場合は、どっちの部族なのかわからなくなるだろうし・・・

それぞれの部族には、それぞれの特徴がある。
衣装や装身具、使用している道具や風習等々・・・違うのである。
こうなると、一つの種族がいくつかに分かれていったとは思えなくなる。
あっちこっちからこの島に流れ着いて、そのまま居着いて発展していったと見るほうがいいのではなかろうか?

たとえば、「パイワン族」と「ルカイ族」の2つの部族には貴族階級制があると“クウさん”・・・・
この部族は、台湾の南東地域に隣接して住んでいる。
また、「タイヤル族」と「サイシャット族」の2つの部族には顔にイレズミを入れる風習がある。
また、いずれも“首狩り族”でもある。
そして、これらの部族は台湾北部から中部にかけての山間部に住んでいる。
拙者がよく行くフィリピン・ルソン島の北部山岳地帯には「イフガオ族」「ボントック族」などがいるが、彼らは“首狩り族”である。
というわけで・・・フィリピンから台湾に一部の部族が流れているのではないかと思っていたのだが・・・
それなら、現在、「パイワン族」や「ヤミ族」が住んでいる台湾南東部(フィリピンに一番近い場所)に住み付いていいはずなのに、“首狩り族”の「タイヤル族」は台湾の北部なのである。
う~ん・・・・不思議だ・・・・
こういうことを考え始めると面白くなってくるのである。(笑)

装身具・衣服では、「タイヤル族」のビーズ飾りに驚く。
直径2~3ミリの円柱形のビーズなのだが、この中心に1ミリにも満たない穴をあけて糸を通してある。
しかも、このビーズは貝で出来ているのである!
しかも、ビーズの大きさは、すべてほとんど同じ大きさなのである!
貝殻を円柱形に加工するのも凄いが、その中心に穴を開けるというのも凄い・・・
いったいどういう道具で穴をあけたのだろう?
普通なら、こんなに肉厚が薄かったら、穴をあけている途中で割れると思うんですけど・・・
そのビーズを何十万個も使用して衣服の装飾に使っているのである!(驚)
手作業で出来ることなのだろうか?
これはレーザー光線か何かを使わないと穴は開けられないのではなかろうか?(笑)

“クウさん”が不思議がっていたのは「ヤミ族」の「銀の兜」である。
銀の板を薄く伸ばしたものを銅線で繋いで円錐形にした「ヘルメット」なのである。
が・・・・
台湾では銀は採掘されないと“クウさん”は言う。
「銀が採れないのに、なんで銀製のヘルメットが作れたのかがわからない」と言う。
確かに・・・おっしゃる通りである。
これまた不思議である・・・・

そう考えると・・・答えは一つしかない・・・
地球外生物・・・つまり、他の星からやって来た古代の宇宙人が台湾に着陸したのではなかろうか?(大笑)
で・・・高度な技術により、文化を形成していったとか・・・
それしか考えられまい?
あんな小さなものに穴を開けたり、台湾には存在しない銀で物を作ったり・・・(笑)
例えば、我が地球の宇宙船にアメリカ人とフランス人とロシア人が乗っていて、どこかの星に着陸して住み付いたようなものである。
外見は似てるが、言葉も文化も違う・・・
台湾の先住民族(原住民)も、そうだったのではあるまいか?(笑)
そんなバカなことをしゃべりながら見ているうちに、あっという間に1時間が過ぎた・・・・(大笑)

最後に1階ロビーにあるミュージアムショップで本を買う。
ちょうど、日本語で書かれたガイドブックを見つけた!(喜)
これで、また少し原住民について勉強しよう!
“クウさん”も趣味が同じ・・・ミュージアムショップでの本探しというのは楽しい・・・(笑)
彼も中国語のガイドブックを買うというので、それは私からのプレゼントということで拙者が支払う。(笑)

次に向かったのは、「台湾大学医学院」にある「医学人文博物館」!(喜)

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門柱は昔のままだそうである。
“クウさん”は事前にここを下見しておいてくれたそうである。
いやぁ~かたじけない!(嬉)
たしか、館内は撮影禁止だったと思うのだが・・・・大丈夫とのこと。
最初から写真撮影は諦めていただけに、撮影できるとは嬉しい!

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“クウさん”は「私は医学に関しては全く分からないので・・・」とおっしゃる。
「いえ、大丈夫ですよ。私は医学に関しては多少は知識があるから・・・」と拙者は生意気にも答えちゃった・・・(大笑)

幸いにも、この建物の沿革等については日本語のパネル展示があり、助かった。(笑)
この建物は、日本統治時代は台湾総督府医学校(現在の台湾大学医学部の前身)の校舎で、日本人建築家・近藤十郎によって設計されたという。
1907年(明治40年)にこの建物の西側部分が完成した。
西側部分というのは現在、展示スペースになっている場所ではないかと思われる。
この部分は建設当時は「医化学教室」だった場所だそうである・・・・
主要部分(ロビー部分等)は、1913年(大正2年)に完成したという。
戦後に、この建物は「医学院二号館」と改名され、その後閉鎖・・・・
廃墟同然となったが、1995年に修復工事が始まり、その後「医学人文館」として使用されることになったそうだ。

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ロビーに、第3代校長の堀内次雄氏の銅像がある。

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調べてみたら・・・・
明治6年生まれで、明治28年(台湾総督府が開庁した年)に軍医として台湾に来たそうで、当時はコレラが流行していたようである。
これに影響されたのか、退役後は細菌学を専攻して、再び台湾に戻ってきて台湾初のペスト患者を確認したり、デング病を確認したという。
で・・・1915年(大正4年)に医学校の第3代校長に就任し21年間ほど在任したらしい。
お亡くなりになったのは拙者が生まれる5年前の昭和30年だそうである。

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台湾の寄生虫に関する展示コーナー
日本人寄生虫学者の業績について中国語で展示されていた。(残念ながら日本語での表記はなかった)
横川定(よこかわ・さだむ)氏は、明治16年生まれの方で、台湾のアユから寄生虫を発見、この寄生虫は人間の小腸に寄生する寄生虫の一種で、「横川吸虫(よこかわきゅうちゅう)」と名付けられた。
横川定氏は、この学校の講師として赴任して、台大医学院で初めての寄生虫学講座を始め、のちに教授になる。
その息子さんの横川宗雄氏は昭和16年にこの学校を卒業後、のちに客員教授となり、やはり寄生虫の研究をされている。
そのお二人を顕彰した、寄生虫の研究に関する展示コーナーがあった。

580_convert_20160629144020.jpg (台大医学院の毒蛇の研究のコーナー)

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人間の頭骨の展示・・・・
人類の進化について中国語で何か書いてある・・・(大笑)

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このパネルは、人類がどこから来て、どこへ行ったかを示す展示パネルである。
“クウさん”が「南の島へは、この台湾から流れて行ったので、台湾は中心地、発祥の地となります」と言う。
ん?何だって?・・・・それはおかしいでしょ?(苦笑)
アフリカが人類発祥の地なのはわかるが・・・・
そこからマレー半島を通って、一部は北に向かい、フィリピン、台湾に流れていったはず。
フィリピン人の祖先(古代フィリピン人)は、このマレー系のはずで・・・
その一部が台湾にも流れていると拙者は理解している。
さらに、沖縄にも流れたかも・・・・
もう一つのグループは、マレー半島から南に下ってインドネシアに向かい、インドネシア人の祖先になったはずである。
同じマレー系のはずである。
このパネルには、マレー半島からフィリピンに向かったという矢印がない!(汗)
いきなり、台湾人が太平洋上の島々の民族の祖先になっちゃうのか?
そりゃ、ちょっと理解しがたい・・・
それでは、まるで「中華思想」のようではなかろうか?(大汗)
異論を唱えたら「私の妻は言語学の観点から南の島の民族のルーツを調べて、ハワイ大学で博士号を取ったんですから、この説に間違いはありません」と言う。(汗)
ありゃ・・・稚拙な拙者が、博士号を取った人の説に反論しちゃった!(大笑)
が・・やっぱり自説を述べねば気が済まぬ・・・(大笑)
「フィリピンから台湾へ点線の矢印がありますから、その説も間違いないということではないでしょうか?」と“クウさん”(苦笑)
う~ん・・・南方の島々の民族については知識がないから、何とも言えないが・・・(汗)
フィリピンと台湾の原住民との関係は、なんとかもう少し詳しく知りたいものである・・・・
何かあると思うんだよねぇ~

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台湾の各人種の頭骨・・・・
一番左の「台湾河洛人」の意味がわからないが・・・その右から「平埔人」「布農族」「雅美族」
う~ん・・・明らかに頭蓋骨の形が違う・・・
同じ人種・民族でも、その形には多少の個人差はあろうが、大きく根本的に違うということは、ルーツは全く別ということになるか?
これもまた興味が湧くところで面白い・・・

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これは「耳垢」の違いに関しての研究・・・
「耳垢」が“ジクジク”と湿っているか、それとも“カサカサ”に乾いているかの分布と分類である。
こういう観点からのルーツ探しというのも面白い。

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後藤新平と濱野彌四郎という二人の日本人に関しては、中国語のパネルで、その経歴のみが紹介されていた。
後藤新平は「台湾衛生環境改善及基礎建設的推手」、濱野彌四郎は「“都市的医生”水道建設者」と紹介されている。
中国語がわからなくても、この漢字から十分想像はつく・・・(笑)
後藤新平は日本でも著名な人物だが、濱野彌四郎という人は、あまり知られていない人物ではなかろうか?
「浜野弥四郎」は、明治2年生まれ、東京帝国大学を卒業した土木技師で、台湾の上下水道や浄水場などの建設計画にかかわった人・・・・
おかげで台湾の衛生状況が良くなったそうで、台湾では「都市の医師」と呼ばれているようである。
そういえば・・・その昔に訪れた岩手県の「後藤新平記念館」で、この人の胸像を見た覚えがあるぞ・・・(笑)

時刻は午後4時・・・・
ここで、ちょっと遅いが「おやつ」にしようか・・・(笑)
ロビーにある喫茶で、コーヒーとワッフルを食べる・・・
と・・・“クウさん”が、原住民博物館で買って拙者がプレゼントした本にぜひサインをして欲しいという。(唖然)
サインと一緒に何か思い出になるような一言を書いてくれという・・・(大汗)
いやぁ~・・・拙者は字が下手だし・・・・(大涙)
何度も頼まれ、やむなく汚い字で・・・(涙)・・・サインをしてあげる。
こういうの苦手なんだよなぁ~(大涙)

一休みして、今度は外から、この建物を見ることにする。

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庭の方から見た景色・・・・
ここには講堂があったが、1980年(昭和55年)に台湾大学医学院と附属病院の建物の拡張工事のため取り壊されたそうである。
で・・・・壁のところに見えるのが、その講堂の「ステージ」部分・・・
古写真を見ると、講堂は、こうなっていた・・・

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「医学人文博物館」の建物は、2階建てで、ルネッサンス後期の建築様式を採用しているという。
屋根はマンサード式を採用し、スレートと銅で葺き、斜面に小さな丸窓をデザインしていたというが、1930年(昭和5年)に館内で火災が発生し、屋根が焼け落ちてしまったという。
その後、修復はしたが、建設当初の姿ではないという。

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古写真・・・・

517_convert_20160630223955.jpg (建設当初の姿)

520_convert_20160630224033.jpg (火災後、修復した姿)

なんだかんだで、この「医学人文博物館」には1時間以上も滞在してしまった・・・(汗)
拙者が古い建物が好きということで、“クウさん”が当初の予定にない「台大医院旧館」を案内してくれるという。
博物館の近くだとのことで徒歩で向かう。

途中で「景福門」という門を見かける・・・・

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この門は清朝時代に建てられた台北城の「東門」でだが、戦後にやってきた国民党政府により取り壊されて、新たに建てられた門だそうである。
そのため、清朝時代の門とは全く形が違う。
が・・・これを国の第一級古蹟に指定しているというのだから呆れてしまう。
清朝時代のままならわかるが・・・(大汗)
太平洋戦争後に建てられたのなら、とてもじゃないが「古蹟」などとは呼べない代物ではなかろうか?
こういうところが、大陸からやって来た“中国人”の横柄なところではなかろうかという気がしてならない・・・(苦笑)

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台大医院旧館は1924年(大正12年)に竣工した建物で、設計者は近藤十郎。
いやぁ~立派な建物である。
その後、台湾大学医学部の附属病院となったが、今でも現役の病院である。(驚)

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「医学人文博物館」に展示されていた古写真は・・・・

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で・・・現役の病院なのだが、内部の見学は可能とのこと。
写真を撮っても大丈夫だという。(驚)
さすがに、“患者さん”にカメラを向けないように写真を撮るのには神経を使った・・・(大汗)

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各部屋など、面白い意匠の場所もあったのだが、診察室になっていたり、受付窓口になっていたりしていて、人も多い・・・
こうなると、常識的に写真を撮るわけにはいかない・・・(涙)
かろうじてロビー部分と中庭部分のみの撮影となる、(涙)
それにしても、重厚な、なかなかいい雰囲気の病院である。
他の人は、こんな“古臭い”建物より、近代的な建物の病院のほうが好きなのだろうが・・・(苦笑)

ここを20分ほど見学して、今日の予定は終了!

夕食は市内の大衆居酒屋のような場所でとる。
ここも“クウさん”が友人とよく来るお店で、観光客などは来ない場所・・・(笑)
ワイワイガヤガヤと現地人で賑やかな海鮮料理のお店である。

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このお店の看板が面白い・・・
「生猛活海鮮」と書いてある・・・(大笑)
猛烈に活きが良いという意味か?(大笑)

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ちょうど、お店に「アサヒビール」のキャンペーンガールが来ていて、各テーブルを回って「アサヒビール」を売り込んでいた。(笑)
いわゆる“拡販”というやつだろうか?
拙者のテーブルにもやってきて「アサヒビールはいかがですか?」と言う。(当然、中国語で・・・)
なんで台湾に来て日本のビールを飲まなくちゃならんのかね?(涙)
できれば、台湾のビールを飲みたいのだが・・・・
しかし、日本人が日本のビールを飲まないとなると、さぞかし美味しくないのだろうと、周囲の人が思うかも・・・(考えすぎか?)(苦笑)
ここは「アサヒビール」さんにご協力して飲むしかあるまい・・・・ということで、「アサヒビール」を頼む。
本当は、このキャンペーンガールが可愛かったからなのだが・・・(大笑)
しかも、この“拡販”がスゴイのである・・・・
売り込むだけではなく、その後、各テーブルの間を歩きながら、「アサヒビール」を頼んだお客さんのグラスが空になったら、お酌するのである!(驚)
で・・・ビール瓶が空になったら・・・・「もう1本いかがですか?」とニコリ・・・(笑)
へぇ~・・・すごい営業である・・・(笑)
が・・・拙者は、あまり酒は飲まないので、1本だけしか頼まなかったが・・・
ちなみに、「アサヒ・スーパードライ」は100元(約400円)だった。
滅多にビールなど飲まないので、日本では1本いくらなのか、日本より高いのか安いのかは知らないが・・・(大笑)
食事全部で、2人で610元(約2400円)・・・・

さて、今日は台湾最後の夜である!(笑)
ということで・・・“クウさん”と二人で飲みに行くことにした。
彼がよく行く“日本式の居酒屋”へ行く・・・・
拙者は日本でも滅多に居酒屋などには行かないので、よく知らないのだが・・・
行ってみたら、昔懐かしいという日本の居酒屋である。(写真が撮れなかったのが残念)
日本各地の日本酒がズラリと並んでいるのには驚いた。
オーナーは沖縄出身の日本人で、従業員は台湾人だとか・・・・
で・・・お客さんは全員が現地の台湾人・・・しかも全員が若い女性である!(驚)
普通、居酒屋って“おっさん”が行くところだと思っていたのだが・・・・(大笑)
“クウさん”に尋ねたら、ここには台湾人しか来ないそうで、台湾駐在の日本人駐在員などは中華レストランかクラブにしか行かないという。(唖然)
日本を懐かしんで日本式の居酒屋へ・・・・なんてことはないそうだ。

ここでも“お勉強”・・・・メモを取りながら酒を飲む・・・・(笑)
プライベートな話や政治的な話に及んだので、ここには書けないが・・・・(苦笑)
大いに勉強になった。
店を出た時に“クウさん”から「本当はあまり政治的な話はしないほうがいいんですけどね」と後悔めいたご発言・・・
確かに、拙者も大学の海外研修団員として初めて海外に行くときに、現地では政治的な話だけはしてはいけない、マナー違反だと言われたことがあるが・・・・(苦笑)
しかし、それでは、いつまでたっても理解しあえないのではなかろうか?・・・・という気もするのである。
何が正しいとか間違っているとか、批判するとかしないとかではなく・・・・
その国の人の言動の根底に流れるものが何かということを知るのも大事ではなかろうか?
納得できるかどうかは別であるが・・・

そういう点では大いに勉強になる充実した時間が過ごせた。(喜)
感謝、感謝である。

旅行 | 15:18:07 | Comments(0)
芝山巌へ行く
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今日の朝食・・・・
昨晩のうちにホテルの近くのコンビニで購入しておいた。
どうも、ホテルのバイキングの朝食というのは落ち着かないので嫌なのである。
しかも、食べたいものもないし・・・・(苦笑)
コンビニのサンドイッチで十分である。

今日は、これから「芝山厳(しざんがん)」に向かう・・・・

午前9時30分前には「士林」という町に到着する。

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ここが士林(シーリン、またはスーリン)の旧市街地らしい。
昔の士林の街の跡で、道路がかなり狭い・・・
ここを少し散策してみる。

「士林」って、どこかで聞いたような覚えがある・・・・「夜市(ナイト・マーケット)」で有名だっけ?(汗)
“クウさん”に尋ねたら、確かに夜市で有名で日本人観光客も多いという。
へぇ~である。
すぐ近くには「芝山厳」があるが、日本人観光客は何も知らないのだろうなぁ~
明治29年1月1日に、「芝山厳」にあった「芝山厳学堂(国語教習所)」の先生と用務員の7名が現地人に惨殺された。
6人の先生なので台湾では「六氏事件」とも呼ばれている事件である。
“クウさん”の話では、六氏先生たちは、芝山巌の学校で殺されたのではなく、この士林の街のなかで殺されたという。
台北で開催される新年の祝賀行事に参列するため、芝山巌を出発して、この士林の街に来た時に殺されたという。
が・・・諸説あって、正確なところはわからない・・・・
そういうことなら、日本統治時代に殺害現場跡に「遭難の碑」か何かを建てていてもおかしくはないと思うのだが・・・
“クウさん”も「確かにそれは言える・・・」と同意・・・・
何も建てなかったということは、殺害現場は正確にはわからなかったからなのではなかろうか?
いずれにせよ、夜市を楽しむだけの日本人観光客は何も興味を持たないだろうね・・・こんな話・・・・
仕方がないか・・・・(汗)

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「慈誠宮(ツー・チェン・コン)」という名の神社・・・・
中国語の説明板を読んでみると・・・
この廟は「天上聖母」を祀っているのだそうだ。
「天上聖母」は「媽祖(まそ)」のことで、航海や漁業の守護神で道教の女神だそうだ。
拙者には何のことやらさっぱりわかりませぬが・・・・(大汗)
この廟は1796年(日本では寛政8年)」に創建されたそうで、場所は、今の士林旧市街だそうである。
1864年(日本では元治元年)に潘永清や潘盛清など信心深い人たちが八芝蘭という新市街地に遷して再建したという。
あれ?・・・・ここが旧市街だと思っていたんだけど・・・(大汗)
そうなると・・・どこからどこまでが旧市街地だったのやら・・・よくわからん・・・(汗)
「八芝蘭」は「芝蘭(ツー・ラン)とも呼ばれ、士林の昔の呼び名らしい・・・
もう、こうなると、益々訳が分からなくなってきた・・・(涙)
明治29年当時の士林(芝蘭)は、どこだったんだ?

さて、この「芝山厳事件」に関しては、「漳州人(しょうしゅうじん)」と「泉州人(せんしゅうじん)」との確執から話を始めなくてはならないと“クウさん”・・・・
さかのぼること・・・清朝時代(?)
福建省から、「漳州人」と「泉州人」が台湾にやって来たが、この二つの民族(?)は仲が悪かったそうである。
ただの仲の悪さというものではなく、殺し合いをしたそうである。
「漳州人」は台北城の北側に住んでいて、「泉州人」は台北城の南側に住んでいた。
どちらも淡水川沿いに住み、水運業などをしていたらしい。
で・・・この戦いで、「泉州人」が最終的に勝ち、、「漳州人」は北へ逃れたという。
ところが、その地にも、「泉州人」がやってきて、戦いを挑み、殺し合いと焼き討ちを行ったそうである。
で・・・、「漳州人」は一部が現地に残り、一部が更に北へ逃れ・・・・
最終的に、“潘さん”という人がリーダーになって、ここ士林に来たそうである。

“クウさん”が、その“潘さん”の家があった場所を探したいと言う。
なかなか、ここに来るチャンスがないので、できれば、この機会に探してみたいと言う。
拙者に異存があるわけがない!(大笑)
そういうのは大好きである!(大笑)
近所の人に聞き込みをしたが、教えてくれる人がそれぞれ違う場所を言うので困った・・・(苦笑)
“潘さん”は、この街の有力者だったんだよね?
あれ?・・・・である。
街頭に立っている観光地図にも「古蹟・士林潘宅」として載っているのだが、略図のため正確な位置を示していない。(唖然)
「このあたり・・・」である。
で・・・・「このあたり」とは・・・「このあたり」ではなかろうかということになった。(大笑)

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「士林潘宅」は「古蹟(史跡)」に指定されているはずなのだが、、どこを探しても「史跡」を示す説明板が見当たらない・・・・(汗)
う~ん・・・結局、正確な場所が分からないままとなってしまった。

その後、ウロウロしていたら、赤レンガの建物を見つけた!(笑)
こういうのは、すぐに目に飛び込んでくるんだよねぇ~(笑)
行ってみたら「士林市場」と書いてあった。

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この「士林市場」は1910年に建築されたものらしい。
明治43年のことだから、日本統治時代のものである。
観光地の「士林夜市」も「士林市場」というらしい・・・
そちらは新たに作られた「士林市場」である。
拙者は、ガイドブック片手に「夜市」に行くようなミーハーな日本人観光客ではない・・・(大笑)
歴史的な建物である「士林市場」のほうが好き!(笑)

すぐ近くに基隆河からの水路のようなものがあったそうで、この町は、各地から水運で運ばれてきた物資の荷揚げ場所で、その昔は倉庫が立ち並んでいたとか・・・
ここから農作物などを南の台北方面へ運んでいたという。
いわゆる物流の拠点として栄えた町のようである。

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車との待ち合わせ場所に向かう途中で見た建物・・・・
う~ん・・・・こういうの、いいねぇ~(喜)

で・・・・ようやく本命の「芝山厳」へ向かう。

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「芝山巌(しざんがん)」は、昔は「芝山岩」とも書かれたそうで、小高い丘である。
現在は「芝山公園」と名付けられている。
この石段は102段あるそうで、さすがに運動不足の拙者には堪える・・・・(涙)

249_convert_20160626211557.jpg(展望台から見た士林の街)

日本が台湾を統治した時に「学務部」(日本でいえば文部省ということになるか?)をこの地に置いた。
なぜ、こんな辺鄙な場所に置いたのだろう?
“クウさん”も不思議だと言う。
で・・・二人で、あ~でもねぇ、こ~でもねぇと、意見を出し合ってオシャベリ・・・・(笑)
こういうのが、また楽しいのである。(嬉)
「本来ならば、総督府の近くに中央官庁という役所は置くのではないか?なんで台北ではなく、この場所なんだろう?これでは中央とのやり取りに何かと不便はなかろうか?」と“クウさん”・・・・
「ごもっともです!私もそう思います!」・・・・という具合である。
で・・・考えた・・・・
“潘さん”というのがキー・パースンではなかろうか?
学部部長の伊澤修二が彼と親しかったのかも・・・で、彼のアドバイスで、ここにしたのではなかろうか?
また、「士林」の名前の由来は、「文士」「学士」の「士」が、「林」のごとく大勢住んでいたので「士林」と名付けられたいう。
ということは、学のある人、向学心のある人が多く住んでいたので、ここで日本語の教育をしたほうが、「同化政策」(?)はうまくいくと思ったのではあるまいか?
これには、“クウさん”も、「なるほど、可能性はありますね」(笑)・・・と大いに話が盛り上がる。(大笑)

台湾に来る前に、水戸藩士の“シミズくん”から「芝山厳の写真を撮ってきてほしい」と頼まれていた・・・
キッチリと写真を撮って来いとの「厳命」である!
が・・・・アアアッ!(大汗)
「どうしたんですか?」と“クウさん”
「カメラのバッテリーが減り始めた!」
「予備は?」
「アアッ!やっちゃった!持ってくるのを忘れた!」(涙)
「充電器は?」
「それも持ってきてない!」(大汗)
「ええっ!なんで持ってこなかったんですか!」と“クウさん”に怒られた・・・・(大泣)

カメラが壊れた時のことを想定して予備のカメラは持ってきているが、予備のバッテリーを忘れるとは・・・
なんというドジを踏んだものか・・・
すでに写真は300枚も撮っているんだから、バッテリーが減り始めるのは当然である。
減り始めたら早いぞ・・・あっという間に無くなるぞ・・・(大汗)
後輩の「厳命」を優先するしかない・・・・(苦笑)
撮れるだけ撮って・・・あとは、予備の古いデジカメで撮影するか・・・(これも予備バッテリーは無いが・・・笑)

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『学務官僚遭難之碑』・・・・伊藤博文の揮毫である。
「殉難」ではなく「遭難」なのである。
なんで「遭難」としたのだろう?
ここは、一つのポイントではなかろうか?
日本が台湾を統治するにあたっての考え方というか・・・
今後の「同化政策」を慮ってか・・・
何か理由があるような気がしてならない。

台座の部分に中国語で書かれた「芝山巌事件始末」のプレートが貼りつけられていた。

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これを“クウさん”に訳してもらいながら、おしゃべり・・・・(笑)
1895年に日本が台湾を略奪(?)し・・・・
6月17日に台湾総督府が始政式を挙行・・・・
翌日、学務部長の伊澤修二が大稲埕に学務部を創立・・・
7月下旬、学務部は芝山巌恵濟宮、並びに廃文昌祠に「芝山巌学堂」を改設し、植民政府の視点から統治、および台湾人を同化させるための重要な手段としての日本語教育をおこなった・・・
1895年の大晦日に台湾北部の義軍が台北城を攻撃・・・
1896年元旦に芝山巌学堂の日本人教師6名が抗日民衆に殺害された・・・
これを「芝山巌事件」という・・・

といった具合に書かれており・・・・
そのあとは、この「学務官僚遭難之碑」が伊藤博文の揮毫によるものである・・・とか・・・
日本人教師を殺害した民衆を「土匪」と称している・・・とかと書かれている。

ちなみに・・・この「土匪」の文字を誰かが削ろうとしたらしく傷がついていた・・・(苦笑)

その後、ここに祭祀場が設けられ、参道ができ、、現在の102段の道ができ、続いて「故教育者姓名碑」「台湾亡教育者招魂碑」などが建てられた・・・
1930年に「芝山厳祠」が建てられ、6名の教師の他、台湾で亡くなった教育者を合祀・・・
台湾の教育の為に犠牲になったことを奉献するという形を作り、定期的に参拝(2月1日が例祭日)・・・
芝山厳事件はこの地を「台湾教育の発揚の地」「台湾教育の聖地」として「台湾国語読本」にも取り入れられ、これによって日本国民の「忠君愛国」の精神を台湾人の教育にも行なおうとした・・・・

こんな感じの話だと思う・・・・(なかなか説明を完ぺきに覚えられなかったのだが・・・大汗)

その後に書かれているのは、戦後、台湾が中華民国となった後の話で・・・・
「学務官僚遭難碑」は捨て置かれ、「芝山厳祠」は取り壊されて「雨農閲覧室」をその後に建て、現在は「芝山公園」となった・・・
民国47年(日本では昭和33年)、中華民国政府は、日本に同化することを甘んじず、義民が立ち上がって起こった事件であることを改めて明確にするために「芝山厳事件碑記」を建てた・・・・
民国90年(日本では平成13年)に目の前にある「学務官僚遭難碑」が復元された・・・

「芝山厳事件」は、日本の植民統治に毅然と立ち向かったことの表れである・・・とか・・・
「学務官僚遭難碑」は日本の植民地統治の歴史的証拠であるとか・・・・
台北市政府は「芝山厳事件始末特別展」の展示を雨農閲覧室で長期にわたって展示する・・・とか・・・・
この説明文を碑前に設置することで、日本の植民地史観を脱することを図るんだとか・・・
なんだか、そういうことが書かれていた・・・(汗)

“クウさん”が「後半部分は、国民党政府の考え方でして・・・・」と恐縮していたが・・・
なんの、なんの、いたってまともに近い書き方ではあるまいか?
前半には日本側としての「土匪」という言葉も使っているし・・・普通は、この言葉は書かないだろう・・・
「そうですよね、前半部分は、それほどひどい書き方ではないですよね?」と“クウさん”
「一応、事実に従って書いてあるんじゃなかろうか?」と拙者・・・
前半は、それほど「感情的」ではないと思いますけど・・・・
後半は、仕方がないんじゃないかな・・・中国からやって来た国民党の中国人が書いた文章なんだろうから・・・(苦笑)

このプレートは中華民国95年6月(日本では平成18年6月)に台北市政府によって書かれてものである。
拙者は、台北政府が書いた説明板なのに、ここまでバランスを取って書いたとは大したものだと思うのである。
歴史的事実を「改竄」しようとはしていないし・・・・
過度に反日を煽るような書き方や日本を侮辱することを避けながらも、一部の(?)台湾人には立場上、気を遣ったという書き方ではなかろうか?
やはり平成18年の作成・・・ということだからかな?

それ以前に中華民国政府が建てた碑が近くに建っていたが・・・
これは明らかに反日感情を前面に出した碑文であろう・・・
“クウさん”は、あえて、この碑には気づかないふりをして避けている様子だった。(苦笑)
これを“クウさん”に訳してくれというのは酷だから、拙者も気づかないふりをする・・・(大笑)

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『学務官僚遭難之碑』のすぐ後ろに「雨農閲覧室」という建物があった。
ここに、その昔、台湾で亡くなった日本人教育者を祀る社が建っていた。
「資料の展示は、期限が決まっていないので、いつまで展示しているかわかりませんが・・・もう終わっているかな?」と“クウさん”
建物内を覗いてみたら、まだ展示はしているようで、鍵もかかっていなかったので中に入る。

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内部は「教室」のようになっていて、壁に「芝山厳事件」に関するパネル展示がされていた。
資料は、このパネルだけである。(汗)
しかし、貴重な古写真などが盛り込まれたパネルなので、これは貴重な資料だろう。
このパネルに書かれている文章をすべて日本語に訳して説明してくれるように頼む。(大笑)
が・・・“クウさん”は、時々、2~3行飛ばして訳すのである。(苦笑)
「あれ?ここ2行は?なんて書いてあるの?」
「いやぁ・・・これは、ちょっと偏った考え方が書いてありますので・・・」
「いいから訳して!・・・怒らないから・・・」(大笑)
「はぁ・・・・」
「僕が自己流で訳すと・・・こんな感じになりますが・・・間違ってない?」
「いや、ちょっとそれは違いますね」(苦笑)
こんな調子で、じっくりと見学・・・・

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殺害された6人の先生の写真・・・・
たまたま偶然だったのか、犠牲となった6人の先生の集合写真である。(驚)
誰が誰なのかは知らないが・・・・写っているのは・・・
楫取道明(39歳)、関口長太郎(38歳)、中島長吉(27歳)、井原順之助(24歳)、桂金太郎(27歳)、平井数馬(18歳)と書いてある。
関口長太郎は、以前、水戸藩士の“シミズくん”と一緒に西尾市に行ったときに「顕彰碑」を見た・・・
西尾市立西尾小学校の初代校長である。
この写真を撮った時の年齢が38歳ということは、もっと若い時に校長先生をしたのだろう。
拙者の父方の祖父も小学校の校長だったが、たしか当時、茨城県最年少の校長だったと聞いたことがある。
たしか20代、30歳にはなっていなかったと思う・・・・
昔の人はすごい・・・今は、校長といったら・・・・
う~ん・・・50歳ぐらいにならないとなれないのではなかろうか?(苦笑)
驚きは、平井数馬で・・・18歳で先生である!
すごい!
そう考えると・・・・現代人は、年齢の割には、かなり幼稚であると言えるかも・・・・(苦笑)
当時、風土病が蔓延しているような猖獗の地に日本語を教えるためにやってくるとはかなりの勇気がいることである。
そういう日本人教師の中には、かなりの校長経験者がいたと聞いたことがあるが・・・
30代の校長経験者ならバリバリの熱血先生であろう。
現在の「校長経験者」とは、ちょっと違うような・・・
定年退職後に、南の島でのんびりと・・・というのとはわけが違う。
どれほど日本が台湾の教育に力を注ごうとしたか・・・明確であろう。

「ここに書かれていることには、かなり個人的意見が含まれているんですよねぇ~」と“クウさん”・・・・
それで日本語に訳すのに抵抗を感じていたのか・・・
で・・・・問題は、「文責」として、この文章を書いた人の個人名が記されていないこと。
この特別展は「台北市文化局」が行っているものだが、どう考えても文化局の組織としての意見ではない・・・
明らかに、この文章を書いた「個人」の意見がかなり含まれている。
「これ、マズイよね?・・・本来は執筆者の名前を明記すべきだよね?ここまで書くんなら・・・」と拙者。
「でしょ?私もそう思います!」と“クウさん”・・・・
またまた大いに盛り上がる。

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「芝山厳学堂」で日本語教育を受けた第1期生の7名の台湾人と、4名の日本人教師(最前列)の集合写真・・・・
この第1期生の名前はわからないと“クウさん”は言っていたが・・・・
そんなことはないだろう・・・(苦笑)
判っていても、ここに明記するわけにはいかなかったのではなかろうか?
日本統治と同時に、自ら進んで日本語教育を受けに行きました・・・というのは、現在の物差しで測ったら・・・マズイでしょ?(苦笑)
名前を明らかにしたら、子々孫々まで苛めに遭うかもしれないしね・・・・

暑い中、締め切った部屋の中での“お勉強会”・・・・
いやぁ~汗をかきかき・・・で大変だったが・・・
付き合わされた“クウさん”も災難だっただろう・・・・申し訳なし・・・・(苦笑)

ここは「閲覧室」となっていて、何冊かの本が置かれていたが・・・「芝山厳事件」に関する本は無かった・・・
何のための「閲覧室」なのか・・・よくわからない・・・(苦笑)
隣の「教室」に中華民国軍の情報部に関するパネル展示がされていた。

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この展示は、中国国民党の蒋介石の片腕ともいわれた戴笠(たい・りゅう)という軍人の顕彰と情報部の歴史について簡単に展示してある。
この人の別名が「雨農」というので、「雨農閲覧室」と名付けられているそうだ。
彼は、日本軍に対する攪乱工作や、親日の中国人軍人や政治家の暗殺や、共産党への秘密工作などをしていたらしい。
ということは・・・・我が日本人にとっては敵ということになりますが・・・(大汗)
終戦後の1946年に飛行機事故で48歳で死亡したという。
戦時中に国民党軍の特務機関を作って育て活躍した人なので、中華民国軍情報部の開祖ということでの顕彰なのだろう。

この「雨農閲覧室」の裏の方に「故教育者姓名」碑がある。

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台湾で教育に当たり、この地で亡くなった日本人教育者の名前がズラリと刻まれている。
はっきりと読めるものもあれば、かなり薄れてしまい判読不明の人もいる。
すぐ近くには、破壊された碑の残骸が放置されていた。

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しかし、なんだかんだと言っても、完全に破壊して捨ててしまうことをしないのだから台湾人は大したものだ。
破壊されたとはいえ、その残骸は、そのまま置いてあるのだから・・・・
これが大陸の中国人だったら、共産党政府だったら、韓国人だったらどういう扱いをするかは明白であろう。
解釈は別としても、「歴史的遺物(歴史史料)」として残しているんだから感謝、感謝である。

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芝山公園の最高点(?)の展望台から下を見ると、そこに軍情報部(情報局?)の建物が見える。
あ~あれがそうか・・・・(大笑)
拙者が、あそこに用事でもあるのかと勘違いされた情報部ね・・・・(苦笑)

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この「芝山公園」は「自然公園」で、“クウさん”の話では、かなり貴重な希少植物などがたくさんあるのだそうだ。
原生林のような公園の中に柵で仕切られた遊歩道がある。
その原生林の中にポツンと戴笠の顕彰碑のようなもの(事跡碑)が建っていた。
あら・・・なんと目立たないところに・・・(汗)
しかも遠くなので碑文が読めない・・・・

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公園の中に「お寺」のようなものが・・・・
「同帰所」と言うらしい・・・・
「漳州人」と「泉州人」の殺し合いで亡くなった方々を祀ってあるのだそうだ。
太平洋戦争中、中国戦線で戦った方から聞いたことがあるのだが、中国兵は戦友の死体をそのまま置き去りにするのだそうだ。
日本兵は何とかして戦友の遺体を回収しようとするのだが、中国兵は、そのまま置き去りにして逃げてしまうのだそうだ。
おかげで初めて駐屯地に来た時に、その周囲に白骨化した中国兵の死体が一面にあったのを見て驚いたと言っていた。
ここ台湾も同じ様なものだったのだろうか?
「漳州人」と「泉州人」の殺し合いで亡くなった人の遺体が、そこらじゅうに散乱していたらしい。
誰も遺体を引き取らなかったようである・・・
その骨を拾い集めて敵味方の区別なく、お祀りしたのが、この「同帰所」なのだそうだ。
というわけで・・・・お参りをする・・・・

先ほどの「雨農閲覧室」から、結構離れたところに「六氏先生の墓」があった。

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遊歩道の柵が邪魔していて近づくことはできないが・・・・
6人の先生の名前が書かれた板状のものが貼りつけてあった。
この形式は、フィリピンで見た台湾人戦没者の慰霊碑でも見たことがある。
当時、台湾は日本だったはずなのだが、米比軍(米軍の指揮下にいたフィリピン軍もしくはゲリラ?)に加わっていた台湾人がいたらしい。
その戦没者の慰霊碑を台湾(中華民国)が建てているのだが・・・・
碑の台座の部分に戦没者の名を記した板状のものを貼りつけてあった・・・・
同じ形式である・・・・
日本語を教えた「芝山厳学堂」は、のちに、「士林国民小学」になり現在まで続いている。
ということで・・・「士林小学創立100周年」を記念して、学校関係者によって建てられたものらしい。
もちろん、初代校長は学務部長だった伊澤修二である・・・・
日本統治時代の先生のお墓を台湾の人たちが建ててくれるとはねぇ~
驚きでもある。
実際には遺骨は事件後に日本に帰還されていると思うので、ここは荼毘に付した後の残骨を埋めた場所なのだろうか?
よくわからないけど・・・・
遠くから・・・お参りする・・・・

419_convert_20160627211038.jpg(公園内の遊歩道)

次に、この「芝山公園」の中にあるというか、隣接しているというか・・・・
「恵濟宮(フェイ・チー・コン)」を訪問・・・・
この「お宮」は、「漳州人」が作ったそうである。

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内部は2階建てになっていて、どうも神様は一人だけではなさそうである・・・・(苦笑)
“クウさん”が、神様について、いろいろ話してくれたのだが、興味がないというのは恐ろしいもので(汗)、チンプンカンプン・・・
道教の神様の文昌帝君がナントカナカントカとか・・・・観音様だか仏教の神様がナントカカントカとか・・・

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文昌帝君というのは、学問の神様だそうで・・・・
何やら箱が置いてあって、その中に顔写真付きの証明書のようなものが入っていた。
話によると、「合格祈願」なのだそうだ。
ん?大学受験の受験票か何かなのだろうか?
それにしてもガラス張りの箱でいいのでしょうか?(汗)
顔写真も名前も・・・丸見えなんですけど・・・「個人情報保護」というのは、どうなっているんだろ?(苦笑)

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お参りを済ませ、正面に回ったら・・・・ガッカリ・・・・
外装の改装中らしくネットで覆われて、写真の撮りようがない・・・(大涙)
水戸藩士の“シミズくん”から、この建物の写真を撮ってきてくれと頼まれていたのだが・・・
仕方がない・・・・またいつか再訪問するようだな・・・・
その時は“シミズくん”に旅費を出してもらおう!(大笑)

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恵濟宮の前の広場から見た景色・・・・・
左奥に見える山の向こう側に日本統治時代は「台北神社(台北神宮)」があった。
現在は「圓山大飯店」という歴史の古い由緒ある高級ホテルが建っている。
昔は国賓クラスの人が泊まる高級で宿泊料も高く、一般の人は泊まれないホテルだと思ったが・・・
今は、お手頃な値段で、誰でも泊まることが出来るんだとか・・・
へぇ~・・・・である。
今度、泊まってみようかなぁ~(笑)

芝山厳の見学は、これで終了!
石段を下りる・・・・
来た時とは別のルートで帰ることになる。

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苔むした城壁のような石垣と石門・・・・
これは『芝山岩隘門』という門で、三級古蹟に指定されている。
三級古蹟は、日本でいうと、県指定史跡もしくは市指定史跡に相当するらしい・・・・
芝山厳には、4つの門があったらしいが、これは「西門」で、現存する唯一の門である。
造られたのは、1825年、日本では文政8年、明治維新の元勲・岩倉具視が生まれた年である。(笑)

「漳州人」が「泉州人」からの攻撃に備えて、ここに城壁のようなものを作ったらしい。
で・・・・「泉州人」から襲われたら、町からここへ避難して、この城壁内に立て籠もって戦うために作ったようである。
中国の説明板には「銃眼もある」と書いてあった。

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芝山厳を下りてきて振り返ったら、立派な門が・・・・
恵濟宮に行くには、ここから入るのか…・
時刻は、なんと、午後1時!
あらぁ~どうりで腹が空くわけだ…・
今日のドライバーは“キューさん”
毎日ドライバーが変わるので、顔も名前も覚えられない・・・(苦笑)
お昼を御馳走してあげようと思っていたのだが、待ちくたびれたのだろう、ベンチに座って一人で食べていた!
いやぁ~申し訳ない!(大汗)

我々は近くの食堂へ・・・・

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「牛肉麺(ニュー・ロー・メン)」というのを食べる。
これもまた、なかなか美味しかった・・・・(大喜)

旅行 | 12:55:36 | Comments(0)
国立歴史博物館(台北)
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国立歴史博物館(台北)

精選所蔵の文物展

国立歴史博物館は1955年12月4日に設立されました。
当時の名称は国立歴史文物美術館で、台湾で最初の国家博物館です。
設立当初は、標本や図で中華文化を展示していました。
1956年、教育部より戦後日本国から返還された文化財の寄贈を受けたり、また戦前、台湾に運ばれて来た元河南省立博物館の文化財などを所蔵品に加え、更に政府や民間の寄付などで、これまで約6万点を超える規模に成長しました。
その中には、文化部から指定された国宝が5点、重要文化財が42点含まれています。

所蔵品のジャンルは多岐に渡り、春秋時代の青銅器、玉器、洛陽の唐三彩や各時代の異なる貨幣など、主に庶民生活と密接したもので構成されています。
この度の展示は所蔵品の中から精選した文化財を中心に、先人たちの知恵や世界観を感じ取っていただくと同時に、皆様に中華文化の美をお伝えできればと思います。

(リーフレットより)

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建物 | 21:59:32 | Comments(0)
元・国立台湾科学館
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「元国立台湾科学館」の役割

設立当初の名称は「国立台湾科学館」でしたが、1962年に「国立台湾科学教育館」に改称されました。
当時、台湾における科学的、社会的教育を推進する教育部(文部省)の重要な附属機関として設置され、「科学観覧会」、「中小学科学展覧」、「台湾国際科学展覧会」、「全国発明・創作展覧会」の開催、全国初となる「4D体感劇場」といった科学関連のアイデアあふれる活動を次々と催し、台湾の科学教育面において成果を収めるという重要な役割を果たしてきました。

國立臺湾工藝研究発展中心

(説明碑・碑文より)


元科学館立面の風格

この建物の立面の風格は次のように大きく3つに分けられます。
1、1~4階は壁材に人造石を採用することで、穏健着実な「土台」のイメージを作り上げた。
2、5~7階は、伝統的な建造物によく使われている赤レンガと木枠にガラス窓・螺旋状のスロープで構造物の「本体」を表現。
3、陶器瓦で幾層にも重なった寄棟造の象徴とも言える「重檐攢尖頂」という屋根を葺き、正面からは大型の階段でそのまま2階に上がれるようにした。
ここは正門の上に建てられた木造の楼閣につながっており皇帝に拝謁するかのような入口の造りになっている。
周りを石望柱と欄干で囲み、全体的に中国北方の「官式建築」の様相を呈している。

国立台湾工藝研究発展中心
臺北當代工藝設計分館

市定古蹟『南海学園科学館』

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(説明板より)

建物 | 20:36:06 | Comments(0)
国立台湾博物館
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国立台湾博物館

沿革と建築

本館は1908年に設置され、台湾では最も歴史ある博物館である。
当時の日本政府は台湾南北縦貫鉄道の開通を記念するために、1908年10月24日に「台湾総督府博物館」を設立し、開館当時の収蔵品は一万点以上あった。
1915年、博物館の新館が台北の新公園に落成し、日本植民政府が台湾で建築した公共建築物の代表傑作の一つになった。

中華民国政府が台湾に来てから、本館は1949年に台湾省教育庁の所属となり、「台湾省立博物館」に改名した。
1961年と1994年の二回の閉館修繕を経て、1999年に中央行政機関の所管に格上げ、「国立台湾博物館」に改名し、今日に至っている。
各年代によって名前が違っても、台湾では日本統治時代から戦争と政権交代を乗り越え、今日まで同所で運営されている博物館である。

本館の建物は1915年に落成され、設計者は建築士の野村一郎で、施工者は高石組などであった。
建築仕様はルネッサンス時期のギリシャドリス(Doric)式の模倣で、中央ドームの高さは三十メートル程で、非凡で迫力に満ちた様は、人々の目を引いた。
建築構造は鉄鋼コンクリートとレンガを組合せ、主要建材は日本の赤坂の黒大理石と水戸の白寒水石で、木材は現地の台湾ヒノキを使用し、外壁には洗い石をあしらった。
博物館が建築された当時としては、構造技術及び資材において他に右に出る建物は無く、その壮観な建築形態と優美な古典彫刻工芸もこの九十年来、台湾近代に於いてとても貴重な建築宝物である。

多くの古典西洋建築要素を組み合わせた博物館は建物本体の平面が「一」の文字になっており、正面北側が館前路、南側が228平和公園に面し、館内からは園内で最も多くの自然な景色が眺められる。
また、台湾の夏の炎熱気候に合わせるため、南北一直線の建物の配置は西側からの日照面積を減らすことができ、これも建築者が都市計画と現地の気候を十分に考えた結果であった。
博物館の主要出入口とロビーは中央にあり、展覧室はロビーを中心として両側にあり、左右対称、シンプルで力強い形になっている。

博物館の外部構造はギリシャ古典形式で、入口の正面はギリシャ神殿式の建築仕様である。
上に続く階段、巨大なドリス式(Doric)柱と華麗な花と葉の模様をあしらったペディメントが主な特徴で、ローマドーム式の天井を合わせて、荘厳で神聖な権威あるムードを漂わせている。

中央ロビーは博物館建築の真髄である。
ロビーの四方は32本の高いコリント式(Corinthian)柱に囲まれ、柱の頭には繊細なアカンサスと螺旋状の模様があしらわれている。
中央ロビーに立ち、頭を上げるとドームの下にステンドグラスの天井が見える。
これは、凝った装飾であるというだけでなく、ステンドグラスには採光の効果もあり、日の光が間接的にステンドグラスを通り、ロビーのフロア全体に眩しい光を投射し、豪華で華麗な雰囲気を醸し出している。

元々はロビーの両側にある床の間に当時の台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平二人の銅像が置かれており、児玉家と後藤家の家紋を組み合わせた図案が一階の主要階段の柱の土台に装飾として彫刻されていた。
このことから当時この館が建てられた目的を垣間見ることができる。

この20世紀初めから台北駅の正面にあった博物館は、清代の台北城の東西と南北の交差点に位置し、古典的で荘厳な建築、豊富で多様な展示収蔵品と核心的な地理位置で重要な歴史ランドマークの一つとなり、1998年、内政部は博物館を「国家古跡(国の指定文化財)」に指定した。
日本統治時代の「台湾総督府博物館」から、今の「国立台湾博物館」、本館は台湾の歴史歳月を目撃してきたと同時に、この地の自然と人文の出来事も記録してきた。
窓のような博物館を通して、台湾の人文、地質、動物及び植物など発展の軌跡と表情を見ることが出来る。

(リーフレットより)

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建物 | 19:39:42 | Comments(0)
博物館めぐり!(大喜)
023_convert_20160622212136.jpg (部屋から見た景色)

午前6時に起床!
レストランへ行き、バイキングの朝食を食べる。
これといって食べたいというものがない・・・・(涙)

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部屋に戻り、TVを見たら、午前4時半頃に、なにやら台南・台中あたりで震度4の地震があったようだ。
熊本の地震が、いずれ台湾、フィリピンのほうへ影響を及ぼすだろうとは思っていたが、いくらなんでも早すぎる気がする。(大汗)
拙者の部屋は最上階の16階にある。
台北で大地震なんていうことになったらマズイ・・・(大汗)

中国語のニュースなので、言っていることがさっぱりわからない。
字幕だけで内容を想像するしかないのだが、これが結構面白い。
「何の話しなのか?」を想像する・・・・
澎湖島の花火大会で何やら事故があったようだ。
すべて「なにやら・・・」になってしまうのだが・・・・(大笑)
天気予報は、最低気温と最高気温の差が10℃くらいあるので、悩むところ・・・・
最低気温17℃、最高気温28℃と言われると、う~ん・・・何を着ればいいのやら・・・(苦笑)
半袖にしようか・・・長袖にしようか・・・

日本のTVも3チャンネル(BS放送)が映るが、あえて見ない・・・(笑)
折角、海外に来ているのに日本語のテレビを見たんじゃ面白くない。
台湾のTVは何チャンネルもあるが、それぞれ流しているニュースに若干の違いがある。
メインのニュースは同じだが、その他の小さなニュースは各局、違うようである。
日本のテレビ局の場合は、各局、流すニュースは同じ・・・
各局とも放送時間も合わせているのか、どのチャンネルに切り替えても、同じニュースとなる場合が多い。
日本のマスコミは異常としか思えない・・・(大汗)
同じニュースを流すのなら、テレビ局は1局で十分のような気がするんですけど・・・
各民放の特徴が全くないに等しい。(ニュースや情報番組など・・・)
熊本の震災のニュースを台湾のTV局のニュースで流しているが、局によって取り上げる時間に差がある。
被災者の声を中国語の字幕付きで流す局もあれば、さらりと短時間しか流さない局もあった。
TV局によって、それぞれ特色があっていいと思う。
そう考えると、やっぱり日本のテレビ局のニュース番組の編成は異常だ・・・

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午前8時45分、迎えの車が来て、いざ、出発!
最初に向かうのは国立台湾博物館である!(大喜)
早めに到着したので、この博物館のある「二・二八和平公園」を軽く散策する。

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この公園は日本統治時代に作られたもので、完成は明治41年(1908年)・・・・
当時は「台北新公園」と呼んでいたらしいが、現在は「二・二八和平公園」という名称である。
これは、戦後の1947年(昭和22年)2月28日に台北市で起こった事件で、本省人(台湾人)と外省人(中国大陸から台湾に移り住んだ中国人)との大規模な抗争事件らしい。
中国大陸から台湾にやって来た蒋介石率いる国民党による弾圧事件ともいえる事件のようである。
が・・・拙者はあまり興味がないので・・・よく知らない・・・(笑)
以前、ツアーで来た時に、この公園内にある「二・二八祈念館」を見学したことがあったが、よくわからなかった・・・(大汗)
今回は、この「祈念館」の見学は予定に入れていない。
それより、国立台湾博物館の見学に時間を割きたい・・・・

029_convert_20160622224220.jpg (国立台湾博物館)

この博物館正面に2頭の「牛の像」がある。
これは日本統治時代の台湾神社(台湾神宮?)にあったものらしい。
で・・・“クウさん”は拙者に説明するため事前に下見して調査したらしい。(汗)
この2頭の牛は、まったく同じものではない。

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片方は、紅牛(赤牛?)で、赤銅製、1935年に作られたもの・・・・
もう片方は、青牛で、青銅製、1937年に作られたものらしい・・・
で・・・角の形も違うのだが、大きな違いは、目である!
片方の牛は一重瞼で、もう片方は二重瞼なのである。(笑)
で・・・片方の牛は台湾在住の日本人の寄付で作ったもので、もう片方は北海道の仏教団体「弘安海」が箱館戦争の犠牲者を弔うために作って台湾に寄付したものらしい。
台湾と箱館戦争の関連がちょっとわからないが・・・(汗)
で・・・・説明を聞いているうちに混乱してきて・・・
さて・・・どっちの牛がどっちだったのやら・・・(大汗)
たぶん、左の写真が紅牛で、右の写真が青牛だったような気がするが・・・
情けないことに、このブログに書く段になって、訳が分からなくなった・・・(大涙)
「ただ者ではないVIP]どころではない・・・「ただ者以下」である・・・・(大涙)

“クウさん”が「新兵器」を持参してきた・・・(笑)
携帯サイズのホワイトボードである。
これにいろいろ書きながらの説明・・・
これが非常に便利なのである。
口頭で聞いているだけではわからない・・・
図などを書いて説明してくれるのでわかりやすい・・・・
しかも、地名や固有名詞を、その場で書いて教えてくれるので、非常にわかりやすいのである。
「これを使って説明した方が分かりやすいと思って持参してきました」と言う。
いやぁ~いろいろと工夫をしてくれて感謝、感謝である。

もう、朝から大学の講義並みの猛烈な「お勉強会」となる。
が・・・こっちの知識不足で追いつけない・・・というのが情けない・・・(大涙)

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博物館のすぐ近くに銅像があるのを発見!(大喜)・・・
孔子の銅像である!
銘板によれば、これは、台北市第6(中区)の国際獅子会と日本国高崎市のロータリークラブによって建立されたものだそうである。
「国際獅子会」というのは「国際ロータリークラブ」のことらしい。
建立された時期は「中華民国64年2月28日」となっている。
「民国64年」は、日本では昭和50年(1975年)である。
「中華民国暦」は日本の「和暦」の大正元年(明治45年)が民国元年となっている。
ということで・・・・今年でいうと、今年は大正105年なので、台湾では「民国105年」ということになる。

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この建物は、ギリシャ風の建築だが、日本統治時代に日本人建築士によって設計された建物である。
ようやく、本命の博物館を見学!

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朝一番に来たせいか、ロビーはガラガラ・・・
ほとんど誰もいない・・・(笑)
会ったのは、掃除のおばちゃんと、博物館の職員だけ・・・(笑)

047_convert_20160623115513.jpg (天井のステンドグラス)

この博物館の床は、当時のものとは違うので、第一級古蹟ではなく第三級古蹟にランクが落ちているそうだ。
う~ん・・・・床だけのせいでランクが落ちてしまうとは・・・・(汗)

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中央の“くぼみ”のところに、昔は後藤新平の銅像が立っていた。(反対側の壁には児玉源太郎の銅像)
今は・・・壺が置いてあるだけ・・・(苦笑)
後藤新平、児玉源太郎の銅像は博物館内の別の場所に保管・展示されているようなのだが、改装か何かで見学は不可とのこと。
残念である・・・次回、再訪問するようかな?

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柱に取り付けられている照明・・・・
この意匠の中に、後藤新平と児玉源太郎の家紋が取り入れられているというのだが・・・
う~ん・・・どれが家紋なのか、さっぱりわからなかった。(苦笑)

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二階の回廊の床は当時のままである。

この博物館は、他国の「国立博物館(ナショナル・ミュージアム)」同様に、歴史や自然、生物、民族などに関する、その国の全体的なものがわかるような展示内容である。

先週、原住民に関する特別展が開かれていたとか・・・
「先週来ればよかったのに!なんで先週来なかったんですかぁ~?」と“クウさん”が連発・・・・(笑)
だいたい、そういう展示があるなんて知らなかったもん!(笑)
全然、調べていなかったし・・・
常設展示だけで十分だと思っていたし・・・(笑)
が・・・今回も、何やら特別展示のようなものが行われていた・・・
日本統治時代の建物に関する展示である!(大喜)
薄暗い中での間接照明の展示なので、写真が撮れなかったのが残念だが・・・
パネル展示が主体の展示だが・・・これ・・・なかなかいい!(大喜)
明治時代の洋風建築が好きな拙者としては、大興奮である!

ミュージアムショップで、この展示に関する何かしらの小冊子とか、図録のようなものはないかと探したが、残念ながらなかった。
その代わり、中国語と日本語が併記されている図録が1種類だけあったので、それを購入する。

あっという間にお昼である!(大笑)
こんなに、たっぷりと時間を取って博物館を見学するなんて、ツアーでは考えられないことである。
これを実際にツアーでやったら・・・・ツアー客は怒るだろうねぇ~と二人で大笑い。

博物館の近くのお店で食事をすることにする。

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看板に「雲呑」と書いてあったので、「ウンドン」と読めるから・・・日本で言うところの「うどん屋」かと思ったら違うようで・・・(大汗)
「雲呑」は広東語で「ワンタン」のことを指す言葉だそうだ。(笑)

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で・・・何を頼んだかと言うと・・・・知らない・・・・(大笑)
とにかく、メニューを見てもわからないから、“クウさん”に任せた・・・

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昼食は・・・2人で220元(約870円)でした・・・・(笑)

今日のドライバーは昨日の人とは別の人・・・“カンさん”・・・・
彼は別の場所で時間をつぶしていたようなので、昼食をごちそうできなかった。(笑)
で・・・・彼との合流場所まで徒歩で移動する・・・

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こういう古い建物・・・・好きなんだよなぁ~(大喜)
見ていて楽しんだよねぇ~

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「スターバックス・コーヒー」も古い建物の中に店を構えていた・・・
いいなぁ~こういうの・・・(笑)
食後のコーヒーを飲みたくなったので、行ってみたかったのだが・・・・
“クウさん”は・・・「時間がもったいないですから・・・」と近くのコーヒーショップで「お持ち帰り」のコーヒー・・・・(笑)
コーヒー2つで70元(約280円)なり・・・・
とにかく、喫茶店でのんびりとコーヒーを飲むなんてもったいない・・・(苦笑)・・・勉強!勉強!

次に向かったのは「国軍歴史文物館」・・・・
いわゆる「軍事博物館」である。
「軍事博物館」好きの拙者としては、絶対、来たかった場所である。
以前、ツアーで来たときになぜか閉館していて見学できなかった・・・・2回来て2回ともダメだった・・・
“右に偏った”人たちのツアーだったからだろうか?(大笑)
ようやく3度目の訪問で見学できる!(喜)

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館内の写真撮影はOKとのこと・・・・
ここは中華民国軍の歴史と装備品等についての展示がされていて、日中戦争時のものから、現在の中華民国軍に関するものまで、一連の「歴史」がわかるようになっている。

“クウさん”にとっては、非常に通訳しずらい内容で・・・・「これは国民党軍から見た歴史でして・・・」と冷や汗をかいていた。(苦笑)
いや、いや、文句をつけに来たわけじゃないんだから・・・(大笑)

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「盧溝橋事件」のジオラマ模型・・・・
左が日本軍、右が国民革命党軍(のちの国民党軍)である。
この事件は、昭和12年(1937年)7月7日に起こったので、ここ台湾では「七七事変」と称している。
宋哲元が率いる国民革命党軍の第29軍と日本軍が戦った事件で、これが日中戦争の発端となった。
この事件は、中国共産党・コミンテルンの策略だったそうだが・・・・説明版には、当然、そういうことは書かれていない。
「日本軍の侵略」ということになっている・・・(汗)
まぁ・・・そんなものでしょう。(苦笑)

日中戦争に関する一部の展示品に関しては、別に日本語の説明板が用意されていた。
そこには、次のように書かれていた。


第二陳列室
苦難の「八年抗戦」

8年に及ぶ抗日戦争は中華民族がその生存と国家の独立をかけた聖戦でした。
統計によれば、抗日戦争期間中に重要な会戦は22、主な遊撃作戦は175、大規模な戦闘は1100以上、小規模な戦闘は3万8900以上、兵士の損失は計320万人以上、軍民同胞の死傷者(行方不明者を含む)は2100万人以上であり、損失はまことに大きかったというほかありません。
しかし、その意義も決して少なくありません。
抗日戦争の勝利により、清末以来の恥辱をそそいで当時からの不平等条約を撤廃させ、中華民国を「世界の五大国」の地位にのしあげたのです。

(説明文より)



日本語で書いてあるということは・・・・
日本人見学者に向けての「お話し」ということだと思いますが・・・・
損失人数の多さには正直言って唖然・・・・
2100万人以上の死傷者?
中国人は、なんでも話を大きくする性格なのかな?
「世界の五大国にのし上がった」にも唖然・・・・
台湾が「五大国」???
まぁ、中国人・・・国民党が書くことですから、何とも言いようがありませんが・・・・
ちょっとやりすぎのような気がしますが・・・・(大汗)

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「南京大虐殺」と「百人斬り」に関する展示・・・・・
日本語の説明板には以下のように書かれていた。


南京大屠殺日軍軍刀

1937年12月13日、谷寿夫に率いられた日本軍が南京に入城した後、血なまぐさい大虐殺が始まりました。
この大規模な大虐殺、姦淫、虐殺により、中国側軍民の死傷者は30数万人に上りました。
中国抗日戦史において首都・南京の攻防戦は「南京保衛戦」、日本では「南京の役」と呼ばれます。
この「南京の役殺一〇七人」の日本軍の軍刀は南京大虐殺の証人といえるでしょう。
日本の尉官級の軍人が身に着けていた98式軍刀です。
刀身を固定する鋼片部分には「南京の役殺一〇七人」の文字が刻まれており、まるで殺人を人にひけらかすかのようです。

(説明文より)


もう、笑うしかないという展示・・・・
だいたい、「南京の役」って・・・何?(苦笑)
「南京攻略戦」ならわかるが・・・・「慶長の役」でもあるまいし、「役」なんていう字を使ったっけ?
日本の軍人が「南京の役殺一〇七人」なんて自分の軍刀に刻むかねぇ~
しかも九八式軍刀だというのだが・・・・
「九八式」というのは皇紀2598年の下二ケタの「98」から取られたもので、元号でいえば昭和13年に制式化された軍刀である。
で・・・・「南京事件」は、この日本語の説明板にも書かれているように1937年、つまり昭和12年の「事件」なのである。
う~ん・・・・昭和12年には存在しないはずの軍刀で斬ったのか?
日本軍は大したものである・・・・未来から武器を持ってくる・・・(大笑)
あまりにも“お粗末な”話に笑ってしまうが、知識のない日本人観光客が見たら信じちゃうんだろうなぁ~(大汗)
中国語の展示パネルの説明文を自分流に解読して“クウさん”に「私が訳すとこういう意味に受け取れるが、これで正しいか?」と確認を取りながら“お勉強”・・・・
「国民党の言い分ですから・・・」と“クウさん”は、しきりに恐縮される。
いや、いや、双方、それぞれの言い分があるでしょから構いませんが・・・・(苦笑)
この軍刀だけはダメだよ・・・・これ・・・嘘だもん!・・・偽物を展示しちゃダメだよねぇ~(大笑)

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これは「竹林遺書」と呼ばれるもの・・・・
これも日本語の説明板では以下のように説明されている。


1940年の桂南会戦時、広西学生軍は南寧・莫陳村の前線で日本軍に攻撃されて国に殉じましたが、生前に竹林内の一本の竹の表面に「いつの日か我々の青天白日旗を富士山の頂に立ててみせる」とその意気を刻み付けていました。
日本軍は「遺書」ともとれるこれら壮士たちの意気と愛国精神に心を打たれ、竹を切り取って日本に持ち帰り、祭っていました。
この竹は26年を経た1966年2月に旧日本軍人の宮崎宮司・田村克喜両氏が「神道国際友好代表団」に参加し、一行27人が台湾を訪れた際に返還され、同月23日に当時の教育部政務次長・鄧傳楷が受け取りました。
これは当時大きな話題となり、国民が初めて学生軍の壮烈な殉死の事跡を知ることになったのです。

(説明文より)


これまた、どうなんだろうねぇ~・・・・本物かどうかは知らないけど・・・・(苦笑)
なにせ、今も昔も他国に媚びる日本人はいるもので、結託して偽物を作った可能性がないとは言えまい?(苦笑)
ここに出てくる田村克喜という人物は実在する人物で、筥崎宮の宮司さんをしていたと思う。
が・・・・「宮崎宮司・田村克喜の両氏」という記述は間違っているのではなかろうか?
「宮崎宮司(みやざき・みやじ)」という名前の人ではなく、「筥崎宮の宮司」という意味ではなかろうか?
そうなると「両氏」とは言わないと思うが・・・・どうだろうか?
そうなると、「27人」という、もっともらしい人数なども披露しているが、この人数も怪しいものである。
ここには「青天白日旗(中華民国の旗)を富士山の頂に立ててみせる」と刻んでいるとのことですが・・・・
それでは中国人が日本を侵略するという意味になってしまう気もしますが・・・・いいのでしょうか?(苦笑)
それに・・・「遺書」なら自分の名前を刻むと思うんだけどねぇ~
日本の“右に傾いた”方々は、この一文を見て激怒したりするのですが・・・・
そう考えると、“眉唾もの”・・・・怒るほどの大したものではないと思いますが・・・・(苦笑)

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驚いたのは・・・・これ・・・・(日本語の説明板には記載はない)
日本軍の第18師団司令部の印鑑である!(唖然)
中国語の説明文によれば、民国33年(昭和19年)3月にインドに駐留していた中華民国軍の戦車部隊が第18師団司令部を襲い壊滅させ、その戦利品として入手したものらしい。
第18師団は「菊兵団」と呼ばれ、ビルマ戦線で戦っていたが・・・・中国軍の戦車に師団司令部がやっつけられちゃったの?(汗)
それは、知らなかった・・・・(苦笑)

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「国軍兵器室」には、各種の携帯兵器などの小火器、武器等の展示がされていて、旧日本陸軍の九二式重機関銃も展示されていた。

ここは約1時間程度の見学・・・・
次の博物館に向かう・・・
途中、“クウさん”が、「どうしても立ち寄ったほうがいい」という場所があるので、そこに立ち寄る。

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ここは「中山堂」と呼ばれる建物・・・・
この建物は、日本統治時代に日本人の設計で建設され、当時は「台北公会堂」と名付けられていたが、戦後に「中山堂」に改称されたものである。
で・・・・ここに、日本が統治した時の最初の「総督府」があったのである。
建物は全く別のもので、その跡地に「台北公会堂」が建てられたらしい。
「最初の総督府がここにあったということをまず知っておかないといけません」と“クウさん”・・・・(笑)
日本の統治以前、台湾は清国に統治されていて、その時に建てた建物で行政を行っていたが、台湾割譲後、日本軍が進駐して、この建物を接収し、「台湾総督府」として使用したという。
現在、観光名所となっている「台湾総督府」の建物は、その後に建てられたものだそうで、それまでは、ここで執務を執っていたのである。
樺山資紀(初代)、桂太郎(2代)、乃木希典(3代)、児玉源太郎(4代)等々の、我々がよく知っている台湾総督は、みなさん、ここで仕事をしていたわけだ・・・・
あの赤煉瓦の立派な「台湾総督府」は、まだ出来上がっていなかったのである。
第8代の明石元二郎総督までが、ここで・・・第9代の田健治郎総督から、あの「総督府」での執務となった。
「みなさんは、最初からあの立派な総督府で働いていたと思っているでしょう?それは間違いなのです!最初はここなんですよ!それを知っていただかないと・・・・」と“クウさん”
へぇ~初めて知った!いやぁ~勉強になるねぇ~(大喜)

「中山堂」の目の前に「抗日戦争戦勝利台湾光復紀念碑」というのが建っていた。

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う~ん・・・どうだろうねぇ~・・・・これ・・・・
その昔は台湾は日本だったんだよねぇ~
「抗日」はあり得ないと思うんだけどねぇ~(汗)
戦後に大陸からやって来た中華民国(蒋介石の国民党)からの、ものの見方なんでしょうが・・・(汗)

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この場所は「台北城」の「西門」があった場所である。
現在は、その門は消滅していて、それを示す古写真の展示がされていた。

次に向かうのは「台湾歴史博物館」である。(喜)
で・・・・すぐ隣に、面白い形の建物があった。
どうも「科学館」らしい・・・・
説明板には日本語も併記されていた。
それによると・・・この建物は「台湾国立科学館」という建物だったらしい・・・・

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道路の反対側に洒落た建物が・・・・(笑)
どうも、キョロキョロすると余計なものばかりに興味が行って、なかなか目的の博物館にたどり着けない・・・(大笑)
拙者の悪い癖である。

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この建物は「台北市立建国高等中学」の建物・・・・
「高級中学」とは、日本でいうところの「高等学校」だそうだ。
で・・・・この学校は、台北で最古の公立の高等学校だそうで、設立されたのは1898年(明治31年)・・・・
日本統治時代は、「台北中学」「台北第一中学(台北一中)」と呼ばれていた。
現在はエリート男子校で、台湾の最難関高校、台北大学への入学者数全国トップだという・・・・
へぇ~・・・・である。(大汗)
日本でいうと・・・・「開成高校」という感じかな?
ちなみに、初代校長の町田則文さんは、我が茨城県の方である!(実家が茨城県!)(大喜)

ようやく「国立歴史博物館」に到着!(大笑)

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到着して、すぐに見学できるかと思いきや、そういうわけにはいかない・・・(笑)
“クウさん”の「講義」を拝聴してからの見学である・・・(苦笑)

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まずは、ロビーの中にある扉に描かれている「神様」のお話しから始まる・・・・(汗)
左の人がウェイ・スー・コンという神様で・・・・右の人がチン・スー・パオという神様・・・・
ここまでは、わかったが・・・・(笑)
この先は・・・・?????
どうも、こういうのは苦手な分野で・・・・(大汗)
わかったような・・・わからないような・・・・さっぱり頭に入らない・・・・
旧帝国軍人の名前ならスルッと頭に入ったりするんだけどねぇ~(大笑)
で・・・・結局・・・・「魔除け」の神様?(苦笑)

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この博物館は、昔は「国立歴史文物美術館」と呼ばれていた・・・
設立されたのは1955年だから・・・拙者の生まれる5年前のこと・・・・それほど歴史的に古いとは言えない。
「歴史博物館」という割には、内容は「美術工芸品」「発掘品」である。
台湾の歴史について何か勉強になるかと思っていたのだが、ちょっと期待外れ・・・・
「文物美術館」という名称のままで良かったんじゃないか?(笑)
時代別に展示されているからって「歴史」と名付けられると、勘違いを起こしちゃうんですけど・・・(苦笑)

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これなんぞは、見ごたえある展示品である。
中央の物は・・・「三彩加藍人面鎮墓獣」というもので、唐の時代(618年~907年)のものだそうだ。
で・・・「重要古物」・・・・日本でいう「重要文化財」である。

ここはサラッと見学し・・・(それでも1時間はたっぷりとかかった・・・笑)
その後、館内の喫茶でコーヒーを飲んで一休み・・・・(笑)

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喫茶から見た風景・・・・
博物館の裏に「自然公園」がある。
この後は、この公園に行く。

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この「台北植物園」の中に「欽差行臺」という建物がある。
“クウさん”は、「これを見せたかったんですよ!」と言う。
この建物が、さっき立ち寄った「中山堂」の所にあった建物・・・・
清朝時代に、台湾視察の清朝の中央役員の接待用として建てられた建物だそうである。
で・・・・日本統治時代の“最初の”総督府として使われた建物なのである。
が・・・内部の見学は午後4時半まで・・・・今は、午後5時!
「いやぁ~残念だぁ~」と“クウさん”が連発・・・(大笑)
コーヒーなんて飲んで一休みをしたのがいけなかったか?(苦笑)
門扉が閉まっていて、内部の様子がわからないが・・・まぁ、仕方があるまい・・・・
機会があったら、また来ればいい・・・

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ここの門扉にも「魔除け」の神様が描かれていた・・・・(汗)

これで、今日の博物館めぐりは終了!(笑)
なんとも充実した一日が過ごせた。
なにせ、一日中“講義”である・・・・・(大笑)
もう、楽しくて仕方がなかった。

今日の夕食も、町の中に出て、適当な食堂で食事をすることにした。

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う~ん・・・・このお店の看板の「猪の血の湯」って何だろ?(大汗)
ドライバーさんと“クウさん”と3人での夕食・・・・
ド~ンと頼んだ・・・・(大笑)

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「猪血湯」「魯肉飯」「魯猪足」「嘴邊肉」「油豆腐」「魯豆皮」「燙高麗菜」「涼拌小黄瓜」「酸梅湯」・・・・
で・・・・合計、3人で540元(約2200円)なり!(笑)

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右側のスープの中に入っている「こんにゃく」みたいなのが、どうも「猪血湯」らしい・・・(笑)
地元では、かなりの人気がある食べ物だそうである。
「血」という字が付いているだけに、本当に「血」で作ったものらしいが、臭みもなく、さっぱりとした食べ物である。
が・・・ツルンとしていて、箸で掴みづらかった・・・(苦笑)

左側のが「魯肉飯」・・・
これが、また、なかなか美味しいのである!(大喜)
結局、追加でもう1杯注文し、2杯も食べてしまった!(大笑)
1杯40元(約160円)である。

旅行 | 19:19:26 | Comments(0)
到着早々、予定変更!(笑)
今日から台湾旅行!(大喜)
しかも、一人旅である!(笑)

以前、ツアーで台北には来たことがあるが、博物館などはササッと短時間で回るので、博物館好きの拙者としては、かなりの「欲求不満」が溜まってしまった。
それなら、一人で、じっくりと博物館を巡りたいものだ・・・と、ふと思い立ち・・・(大笑)
3泊4日で「台北の博物館めぐり」を考えたのである。
で・・・どこに頼もうか・・・(汗)
試しにネットで見積もりを取ってみることにした。
こちらの要望等を伝えて、「コンシェルジュ」にコーディネートしてもらうのである。
いわゆる「オーダーメイドの旅行」である。
ネット上の評判では、かなり割高な旅費になるらしいが、目的が目的だからねぇ~(苦笑)

通常なら、ネットで飛行機とホテルを予約する方が台湾なら安いだろう。
で・・・バスや地下鉄を使って目的地に行けば現地での交通費も安いだろう。
食事する場所は、ガイドブックに載っている店にでも行けばいい。
ほとんど全日程がフリータイムという格安のツアーで申し込んむのもいいかもしれない。

しかし、それでは拙者としては面白くない。(笑)
単なる観光とグルメだけなら、それでもいいのだが・・・・
博物館では、キッチリと解説もしてもらいたいのである。
というわけで・・・普通の観光ガイドではなく、歴史に詳しいガイドさんを希望・・・・
だめなら、歴史に興味があって、博物館に2~3時間いても飽きないというガイドさん・・・
それもだめなら、日本語が話せないが英語なら話せるという歴史が得意な大学生のアルバイトでもいい・・・と希望を出した。(大笑)
とにかく博物館の展示品等の説明文は中国語なので、これを日本語か、最悪の場合、英語に訳してくれる人がいないと困る。
せっかく行っても面白くない・・・・(笑)

おおよそ、格安のネットで頼む旅行代金の2倍はかかると思っていたが、案の定、見積もりを見たら、ほぼ2倍・・・
しかし、全日程、ドライバー付きの車で効率的に回ろうという提案をいただいての見積もりである。
たしかに、その方が、時間の無駄がなくていい。
というわけで・・・即決!(大笑)

旅費を送金したが、やっぱりネットでの申し込みというのは不安なものである。
店舗での申し込みなら安心できるが・・・・
本当に大丈夫なのだろうか?(大汗)
出発直前に突然の“雲隠れ”・・・なんてことにはなるまいな?(大汗)

結局、出発直前まで担当の「コンシェルジュ」がメールをくれていたので、杞憂だったが・・・・(大笑)

午前8時半の特急に乗り上京。
品川駅で京急線に乗り換えて羽田空港へ。

すでに「ウェブ・チェックイン」というのをやっておいたので、そのまま荷物を預けるカウンターへ向かう。
「ウェブ・チェックイン」っていうのは初めてやってみたので、正直言って何のことやらわかっていない・・・・(苦笑)
パスポートとパソコンからプリントアウトした搭乗券をカウンターの女の子に提出する。
と・・・・
「何かプリントアウトしたものとかはありませんか?」と女の子・・・・
ん?・・・・搭乗券の他に何かプリントアウトしなくちゃならないものなんかあったかな?
「あなたが今見ているのが、そのプリントアウトしたもの・・・だけど・・・」
「あ!そうでした!これです!」と女の子が大笑い。
あ・の・ね・・・・大丈夫?(苦笑)
「さすがは、お客様のほうがよくご存じで・・・」と、またもや女の子が大笑い。
拙者は、生まれて初めてウェブ・チェックインというのをやったんですけど・・・(汗)
「よくご存じ」のわけがないんですけど・・・・(苦笑)

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喫煙所で一服して・・・・11時15分・・・・検査場と出国手続きを完了
腹が減ったので、空港内で「ヒレカツサンドイッチ」とコーヒーの軽い昼食をとる・・・・(笑)
機内食を食べるまで、この空腹には耐えられそうもない・・・(大笑)
搭乗案内は12時50分・・・・
1時間以上も前に搭乗口に到着してしまった。(汗)
まぁ、このくらいの余裕がある方が心配性の拙者には、ちょうどいいかも・・・(大笑)
読書して時間をつぶす・・・・

午後1時20分、全日空NH853便で台北の松山空港に向かう。

008_convert_20160620200816.jpg (機内食)

日本と台北の時差はマイナス1時間・・・・
現地時間の午後4時(日本時間では午後5時)に台北・松山空港に到着する。

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空港で出迎えのガイドさん・・・“クウさん”に無事に会えた。(笑)
挨拶早々、「VIPがいらっしゃるとのことで、非常に緊張して待ってました!」とガイドさん・・・
VIP????(苦笑)
拙者がVIP?
理由を尋ねてみたら、こちらからの要望を伝えられた台北の旅行社の社長が驚いたそうだ・・・
「これは、ただ者ではない・・・普通の日本人観光客ではないぞ、この人は」と言ったとか・・・(苦笑)
で・・・“クウさん”に白羽の矢が立ったらしい。
彼は私より3歳年上の58歳。
ガイド歴3年で、前職は台湾の「文部省」の官僚だったという。(唖然)
55歳で年金がもらえるようになったので「文部省」を退職してガイドになったそうで・・・・
歴史が大好きだという。
「このお客さんをガイドできるのは、お前しかいない」と社長に言われたとか・・・(大笑)
今回は、博物館の他に1か所、別に行くところがある。
「芝山厳(しざんがん)」という場所・・・
ここで明治29年の正月に、日本語を教える日本人教師たちが原住民に惨殺された。
この現場を訪ねたいと要望を出しておいたのである。
ところが、他のガイドは、この場所のことや「事件」のことをは知らないという。
しかも台湾で「芝山厳」と言うと、すぐに頭に思い浮かぶのは「台湾の軍情報部の本部がある場所」なのだそうだ。
いわば、米国でいうと、「ラングレー」と聞けば、頭に思い浮かぶのは「CIA本部がある場所」というのと同じ・・・
「なんで、日本人が台湾の情報部の本部がある場所に行きたがるんだ?」と他のガイドから言われたとか・・・(大笑)
歴史好きの“クウさんは「芝山厳事件」のことは、ご存じだったそうだが・・・
「芝山厳」に行こうなんていう日本人なのだから、なおさら、これは“ただ者”ではない」となって・・・・
拙者は「VIP」ということになったらしい・・・(大笑)
すごい勘違いである・・・(大笑)

当初の予定では、この後は、「民芸店」に行くことになっていた。
台北の旅行社のほうからの提案で、「民芸店」に立ち寄ってくれると、少し旅費を安くできるので、立ち寄ってくれとのことだった。
ここで台湾の「元」と両替をすることになっていたのだが・・・・
“クウさん”が両替用のお金を少しはもってきているというので、彼に両替してもらう。
(1万円=2550元)

「時間がもったいないですから、民芸店に行くのはやめて、忠烈祠に行きましょう」と言う。
「忠烈祠」は、日本でいえば、「靖国神社」のようなもの、と思っていいのではなかろうか?
中華民国のために戦って亡くなった英霊たちをお祀りしている場所である。
ここには何度か行ったことがあるが・・・・久しぶりに訪問するのもいいだろう。

空港に到着した時は、土砂降りの雨が降っていたのだが、空港から出たら雨は止んでいた。
ラッキーである。
送迎車は黒塗りのベンツ・・・・(唖然)
え?・・・まさか、拙者がVIPだからか?(大笑)

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この忠烈祠の観光の見どころは、衛兵の交代式である。
ピクリとも動かずに立っている衛兵は大したものだと毎度見るたびに思う。
今日は雨が降ったせいなのか、衛兵交代式は中止との看板が出ていた・・・

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ここに初めて来たのは20歳の時・・・・今から35年も前のことである。
大学の海外研修団の一員として、やってきた・・・・
確か、この敷地内に資料室のようなものがあって、そこで引率教授の北沢先生から「君、これは何と書かれているのか訳してくれ」と言われて真っ青になったことを思い出す。
拙者は中国語など知らないし・・・・
展示されていた古文書(?)らしきものを漢文と同じように判読すればいいのだろうと、勝手に訳して適当に概略を説明したことを覚えている・・・(大笑)
「先生は教授なんですから、先生の方が読めるでしょ?」
「いや、目が悪くなって、よく見えないんだよ」
「あ・・・そうなんですか」(笑)
北沢先生は、あの時は70歳を過ぎていた「おじいちゃん先生」だったから・・・・
今もご健在なら100歳は超しているだろう・・・
う~ん・・・あり得ないか・・・もう、お亡くなりになってるよなぁ~(汗)
北沢先生とのやり取りを昨日のように思い出す・・・(涙)

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“クウさん”に正式なお参りの仕方を教えていただきながら、お参りをする。
(3回、お辞儀をするのだそうだ)
ここは靖国神社と同じような場所・・・
国のために亡くなられた英霊には国が違っても敬意を表すべきであると拙者は思っている。
間違っても「謝罪」ではない・・・・「敬意」である。

ここに最後に訪れたのは、もう20年以上も前のことである。
あの時は・・・青年会議所の後輩の“サイトウくん”と2人で来た・・・
拙者の「祖父の足跡を辿る旅」に彼が便乗したのである。(大笑)
あの時は・・・日本人観光客がキャーキャー騒ぎながらやって来たので怒ったことを覚えている。
関西弁をしゃべる連中だったが・・・・
「英霊に対して失礼だろ!静粛にしなさい!」
日本の恥である!(怒)
その時のガイドが、「私たちは立場上、お客さんには何も言えないのです。ありがとうございました」と言われたことを覚えている。

どうも、関西人というのはうるさい・・・
フィリピンでもホテルのレストランでフィリピン人の女の子を従えて大声でしゃべりながら食事をしているのは「関西弁をしゃべる連中」である。
どうして「関西人」は、状況の把握ができないのかね?
どうして平然と恥をさらせるのかね?
(明らかに拙者の偏見でしょうが・・・・)(苦笑)

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敷地内に銅像があった・・・・
以前に来たときは、なかったと思うんだけど・・・・誰だろう。
碑文を見たら、プレートに英語と中国語と日本語で説明文が書かれていた!(驚)
日本語でも書いてあるなんて・・・嬉しい限りである!(喜)


史堅如烈士 1879年~1900年

先烈の名は文緯と申し、広東省の者で、史可法の後裔であります。
少年の時から革命に志し、その後興中会に参加し、日本に赴いて、国父孫文先生に謁見を賜わり、復国の大計を企てました。
1900年、広東と広西の総督である徳寿の謀殺を企てたが、失敗して逮捕され、従容として死につきました。
国父孫文先生は「共和革命の為に殉難なされた第二の勇将」と誉め称えました。

(碑文より)


午後5時過ぎ・・・・「三徳大飯店(サントスホテル)」にチェックイン。

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今回の旅の宿泊先・・・
博物館めぐりに便利な場所であれば、どんなホテルでも構わないと伝えておいた。(笑)
高かろうが安かろうが・・・大事なのは移動の便利・・・これが、最優先・・・
で・・・このホテルが台北市内のどのあたりにあるのかは知らない・・・(大笑)
教えてもらったけど、確認していない・・・(大笑)
空港からホテルまで自力で移動しなくてはならないのなら、必死で調べて覚えるのだろうが・・・
どうせ迎えに来てもらうし、送ってもらえるんだし・・・ということで所在地を覚えなかった。(大笑)
あまり期待しなかったが、なんの、なんの、結構、素敵な部屋である。(喜)
しかも最上階である。

で・・・・夕食・・・・
通常は、「食事」は含まない「オーダーメイドの旅」だそうだ。
一人でレストランを探してウロウロするのも面倒だし・・・・
一人で黙々と食事をするのも楽しくない・・・
かといって、ツアー旅行客が使うようなレストランには行きたくはない。
適当な「食堂」で十分である。
というわけで・・・・
昼食、夕食は、ガイドさんの案内で適当なお店に行き、拙者が現地で支払う。ガイドさんもドライバーも一緒に食事をしましょう・・・ということでお願いしておいた。
拙者にとっては「安く旅をする」より「高くても楽しく旅をする」のほうが大事・・・
こういうところが、「経済観念がない」「金銭感覚がマヒしている」と呆れられる所以である。(大笑)

で・・・・夕食・・・・
“クウさん”が職場の友人とよく行くお店に行くことにした。
「本当に、ここでもいいのですか?」と気にされていたが、こういうところで食事をするのがいいのである。(笑)
ドライバーの“チンさん”も一緒・・・・3人で食事をする。
支払いは3人で2000元(日本円で約8000円というところか?)

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旅行 | 15:48:43 | Comments(0)
今度は台湾に行ってきます!
突然ですが・・・

明後日(18日)から21日まで・・・・

台湾に行ってきます!

しかも、珍しいことに・・・今回は一人旅!(笑)

目的?

今回の目的は・・・

台北のマイナーな博物館を時間をかけてジックリと見てきます!

2日間・・・・

博物館だけを見てサッサと帰って来るという旅です!(大笑)

では、皆様とは、しばしのお別れ!

行ってきます!

日記 | 22:05:18 | Comments(0)
熊本で震度7!
昨晩、熊本で大きな地震があった・・・・
震度7だそうである。
「東日本大震災」の後に起こるなら九州地方の鹿児島当たりではあるまいかと思っていたが・・・・
まさかの熊本・・・・
熊本城の石垣の崩壊を見て唖然である。
以前、熊本に行ったときに熊本城をじっくり見ようと思っていたが、時間がなくて断念・・・・
次回、来た時には、じっくり見ようと思っていたのに・・・・
あらら・・・当分の間は、修復のため見学は無理かもしれないな・・・

「東日本大震災」の後、延々と「忘れないでくれ」という内容のTV番組がしつこく放映されていた。
もう4年も経つのに・・・
「あの日、あの時」とか・・・
震災の体験談やら、復興を頑張っていますとか・・・・
特に、この手の番組はNHKに多いような気がしますが・・・
拙者にとっては、「同情を買うため」にやっているとしか思えない。
見ていて気分が悪くなるので、チャンネルをすぐに切り替えることにしている。

「忘れないでくれ」を言うなら、「阪神淡路大震災」はどうなんだ?
奥尻島は?
「奥尻島で何かありましたっけ?」などという間抜けなことを言う人も多いのではないだろうか?
「雲仙普賢岳の噴火」はどうなんだ?
これらの災害の話は取り上げ続けないのか?

「東日本大震災」では福島県がしつこく「同情買い」を続けいていた。
が・・・・今回の熊本の大震災が起こったら・・・パタリと途絶えた・・・
ははぁ~ん・・・・
次の震災が起こるまで引っ張るだけ引っ張ってカネを巻き上げようという魂胆だったのだろう。
このタイミングで「福島を忘れないでください!」などと言ったら大ヒンシュクを買うことを知ってのことだろう。
「田舎の人」は素朴だと誰が決めたのか知らないが・・・
これは単なる幻想である。
「田舎の人」は結構、したたかな人が多い・・・

以前、「田舎」に工場を進出させた会社の社長が拙者に愚痴をこぼしたことがあった・・・
「田舎の人は素朴で純情かと思っていたが、とんでもない!いやぁ~したたかな連中が多くて参った」と愚痴っていた。
なるほどね・・・そうなんだぁ~
あの社長の言葉は今もって忘れられない・・・
だから「田舎の人は素朴ではない、したたか者だ」と思い込んでしまっているのかもしれないが・・・(苦笑)

熊本の方々には大変失礼な話になるが・・・・
熊本の震災のおかげで、福島の「同情買い」のTV番組が消えてくれて助かった。

日記 | 22:21:16 | Comments(0)
『茶の間の正義』




はたして代議士は犬畜生か
株式会社亡国論
ポッカレモン
核家族礼讃を排す
税金感覚
テレビ料理を叱る



わが社わがビルを放り出す
ニッポン写真狂時代
新薬の副作用ナンバーワン
テレビは革命の敵である
年賀状だけは着くだろう
昔話や童話を改竄するな
読めない書けない話せない
繁栄天国というけれど
やはり職業には貴賤がある
首相の月給は安すぎる
衣食足りて礼節いまだし
世代の違いと言うなかれ
ラーメンと牛乳で国滅びる
言論すべてが空しくきこえる



人か犬か
悪ふざけ
男 女
もしもあの時
広告
レイアウト
非情
おしゃべり
大取次
金切声
父よ笑え
私の言文一致
西遊記
銀行
ご贔屓 その1
ご贔屓 その2

笑いつづけて14年 (山崎洋子・童話作家・ミュージカル脚本家)


「茶の間の正義」くらい、うさん臭いものはない・・・・
ということで書かれたエッセイ集・・・・
私の読解力では、ちょっと言い回しに難のあるようなところもないではないが・・・
でも面白かった。


今年の読書:21冊目



読書 | 16:45:39 | Comments(0)
究極の携帯電話
携帯電話というのが、この世に出てきて久しい・・・
なんと便利な時代になったことかと、つくづく思う・・・

その昔は、電話機を持ち歩くなんて夢にも思わなかった。
携帯して会話する機械は、トランシーバーしかなかったのである。

そのうちに、ポケットベル(ポケベル)というのが現われた。
これは便利なものだと思った・・・
ポケベルの呼び出しを受けたら急いで公衆電話を探して電話をしたものである。

続いて、自動車電話というのが現われた。
が・・・
これは運転手付きの車の後部座席に乗らねば、格好がつかないような気がしたものである。

それが進化したものだと思うのだが・・・
この自動車電話が取り外し可能になって、肩から下げて持ち運び出来るようになったのが、ショルダーフォンだと思うのだが・・・
これも便利なものだった。
その昔、体調不良にアルコールが加わり、訳が分からなくなった“O先輩”・・・・
この先輩が、京都の四条畷で迷子になった。
唯一、ショルダーフォンを持っていた“F先輩”のところに電話がかかってきた・・・
我々も四条畷をうろついていたのだが・・・
「どこにいるんですか?」の問いに「わからない!」と悲痛なSOS・・・・
「何が近くに見えますか?」の問いに「大きな赤提灯!」との応答・・・
しかし、赤提灯は、どこにでもある・・・
「他には何か目印はないんですか?」の問いに“O先輩”は完全にパニックに陥っていた・・・
「何も見えない!ここがどこなのかわからない!」と悲痛な叫びである。
それ!探せ!
我々4~5名の後輩たちが四方に散って「赤提灯」探しで走り回った。
ショルダーフォンを肩から下げた先輩に、我々・・・全員がスーツ姿・・・
まるで犯人を追いかけている刑事みたいなことになり・・・・(大笑)
「いたか!」「いません!」「バカ野郎!しっかり探せ!」の怒声が飛び交ったのを今でも鮮明に覚えている。
散々走り回り、ようやく見つけ出して無事にホテルに連れて帰ったが・・・・
あの時は、本当にショルダーフォンって便利だなぁ~と感心したものである。(笑)

そして、さらに小型化して、次は軍用トランシーバーのような携帯用電話機が出てきたと記憶している。
が・・・これはあまり普及しなかったような気がする。

で・・・ついに、今のようなポケットサイズの「携帯電話」に進化した・・・・
いやぁ~本当に携帯に便利な電話になったものである。
どこにでも持ち運び便利・・・・
しかし、この便利さが逆に“不便”となったこともあった。
その昔・・・業界の海外視察で中国に行ったときのことである。
“M先輩”の携帯に日本から電話がかかってきた・・・
確か、この日は金曜日・・・
相手が「飲みに出て来いよ!」と誘っているらしい・・・(笑)
先輩は「今、中国にいるんだ」と何度も説明しているのだが、相手は全く信じていない様子・・・(大笑)
冗談だと思われているらしい・・・
結局、「おい、君、代わりに説明してくれ!あのやろう、全然俺の言っていることを信じてくれねぇんだ!」と電話を渡された。(大笑)
拙者が代わりに説明したら・・・
「えっ!本当に中国にいるんですか!」と恐縮された・・・・
携帯電話は便利だが、そうそう海外で使うのは珍しい頃だったので、信じてもらうのに苦労した・・・
便利なのも良し悪しである。

拙者自身も信じてもらえなかった経験がある。
パプアニューギニアから帰国する時に、飛行機に乗れず、やむなくポートモレスビーに泊まる破目になったことがある。
午前8時に乗る飛行機がラバウルの空港にやって来ない・・・
ようやく乗れたのは午後3時・・・・
週に1便しかない、ポートモレスビー発成田行きのパプアニューギニア航空の飛行機は午後3時に離陸・・・
当然、間に合うはずはない・・・・
結局、航空会社の方でホテルと、翌日のオーストラリア行きの便、オーストラリアから成田行きのJALの便の手配を無料でやってくれて、翌日帰国となった。
が・・・ふと、その日に宿泊する予定の上野駅近くのホテルを予約していたことを思い出し、慌てて携帯でホテルに連絡をしたのである。
「申し訳ないのですが、今晩の宿泊をキャンセルさせてください」
「はぁ・・・キャンセルですか?」
「いやぁ~今晩、成田に着くはずが、飛行機の都合で帰国できなくなっちゃいまして・・・今、ポートモレスビーにいるんですよ」
「ポートモレスビー?」
電話の音声はクリアー・・・全く雑音もないしタイムラグもない・・・
海外からだとお互いの音声が遅れて届き、間が開きすぎるか、音声が被るはずだが・・・
それが全くない!
まるで国内で電話をしているのと同じ感じなのである。
これでは「海外からかけています」と言っても相手は信じていない様子・・・・
明らかに疑っているような返事の仕方なのである。(涙)
これには参った・・・・
1週間後、上京した際に同じホテルに泊まったので、改めて事の次第をフロントの人に説明したが・・・
あんまり音声が綺麗なのも良し悪しである。

便利になったのはいいが・・・
最近は、電話本来の機能以外の部分ばかりが目立って進化してしまったような気がする。
携帯電話でテレビを見るとか・・・
携帯電話でゲームをするとか・・・
携帯電話で写真を撮るとか・・・
これは、電話ですよね?
電話なら電話らしく、電話として進化すべきではあるまいか?(大笑)

残された道は・・・一つしかない・・・
「究極の携帯電話」である。
すなわち・・・あの世に持って行く事が出来る携帯電話!
これしかあるまい?(大笑)

“あの世”に行った家族に連絡を取る・・・・
「葬儀の仕方はどうする?」「誰に訃報の連絡をしてもらいたい?」「指名焼香は誰にする?」・・・・
携帯電話で天国と話をして・・・(大笑)・・・・故人と相談!(大笑)
そうなったら便利だと思うんだよねぇ~
遺産相続でも揉めることもないかも・・・・(笑)
故人から・・・「死ぬ前に言っておくのを忘れてたんだけど・・・遺産は全部お前にやるから!」とか・・・(大笑)
通牒や印鑑、契約書等々、場合によっては各種暗証番号・・・・
「しまった!生前に聞いておくべきだった!」と思ったら、携帯で“あの世”に電話をすればいい・・・(大笑)
しかし、問題が一つある・・・・
バッテリーの充電をどうするかである・・・(大笑)
“あの世”にコンセントはないだろうから・・・・
う~ん・・・バッテリーが切れるまでは使えるという、本当の「使い捨て」携帯となるか・・・・
故人とは、必要最小限の打ち合わせはできますよ・・・・という携帯電話で良いかも・・・

こういう携帯電話を開発してもらいたいものである!(大笑)

エッセイ | 00:05:26 | Comments(0)
『ドキュメント秘匿捜査』


読者の皆様へ

プロローグ
     異変
     秘撮
     作戦中止
     篭絡された内調職員
     ホシ
     「モグラ」
     攻防
     漏洩ルート
     戦場なき戦争

第1章 ゾルゲの亡霊
     狸穴ナンバー
     外事第1課第4係
     「オモテ」と「ウラ」
     アクヴァリウム
     スパイの巣
     「毒ウォッカ事件」
     報復
     英雄の墓前で

第2章 運命の狭間で・・・・
     見当たり
     弔い合戦
     宣告
     接近
     リクルート
     死の影
     逡巡
     2日間の休戦

第3章 冷酷なるスパイの犠牲者
     因縁の辣腕機関員
     追尾中止命令
     知的な恫喝
     籠絡の手口
     総理の病
     ホットライン
     米国との比較
     失尾の屈辱
     「ウラ」の秘術
     法要
     警報
     スカイレストランで
     秘匿録音
     MICE
     背乗り
     「イリーガル」

第4章 この国の真実
     最後の職人
     キャリアとノンキャリア
     渦巻く怨嗟
     幻の着手予定日
     情報漏洩疑惑
     流刑の徒
     冷たい微笑
     「PNG」
     見逃がされた決定的瞬間
     急転

第5章 三百四十四日目の結末
     黒コートの男
     黄色いシャツの追尾者
     点検
     完全包囲
     決行
     通告
     不逮捕特権
     暗涙
     陥落
     氷解
     懺悔
     罪と苦痛
     消えたスパイハンター
     新たな任務

エピローグ
     練熟と孤独
     老スパイのロマンとは
     人波の彼方に・・・・

あとがき

参考文献


警視庁公安部には外国のスパイなどを摘発する部署があるらしい・・・
部内では「ウラ」と呼ばれているらしいのだが・・・
先日読んだ本は、「テロ」に対する公安部捜査官の話だったが、本書は、ロシアのスパイに籠絡され、ロシアのスパイとして協力した自衛官を1年間追い続けて逮捕した捜査の全貌を明らかにしたノンフィクションである。
これまた小説みたいな話・・・・であるが・・・・
国民は、少しはこういう「スパイ戦」について知っていたほうがいいかも・・・
多少の知識を持った上で「外国人」とは付き合ったほうがいいかも・・・・(笑)


今年の読書:20冊目



読書 | 23:34:42 | Comments(0)
収拾がつかない・・・・(涙)
私は、物を捨てることが出来ない人間である・・・・
私は、物を整理整頓することが出来ない人間である・・・・
どうして、こういう性格に生まれてきてしまったのかと愕然とする。

思い切って「不要な物」を捨ててみたら、捨てた物ほど何年も頭に残ってしまうのである。
捨てる前は何年も、その存在を忘れていたというのに・・・

もう35年も前の事・・・
確かシンガポールでのことだったと思うが、そこで出会ったインド人少年からTシャツを貰った・・・
その少年からもらったヨットの絵が描いてある黄色いTシャツは、長年、タンスの引き出しの奥に眠っていた。
一度洗ったら縮んでしまい、二度と着ることのなかったTシャツだったが、あの少年との思い出の品である。
捨てるに捨てられず、そのまま30年ちかく眠っていたのである。
それを思い切って捨てたのであるが、捨ててから、何度も思い出してしまうのである。
あれから35年も経つから、あの少年も47歳ぐらいになっているだろう・・・
仮にシンガポールの町を歩いていてすれ違ったとしても気がつくことはない。
彼に再会する可能性は皆無に等しい。
しかし、もしかして偶然会うかもしれないなどという思いが頭の片隅に存在しているのである。
もし、バッタリと彼に会ったら「君がくれたTシャツは今でも持っているよ」と伝えたい・・・
「35年も持っていてくれてるんですか!」と驚く彼の顔が見てみたい・・・
そんな映画かドラマのストーリーみたいなことは起こるはずはないのだが・・・
彼の気持ちのこもったあのTシャツを捨てたのである。
彼の気持ちを踏みにじってしまったような罪悪感が今頃になって出てきている。
もう捨ててから何年も経つのに・・・・

こういう思いをすると、もう何も捨てることができなくなってしまう。
捨てれば捨てたものだけが何年も頭に浮かんできて罪悪感で後悔ばかりの日々を送りそうな気がしてしまうのである。

これは本も同じ・・・・
もう読むことはない本だとわかっているけど・・・・捨てられない・・・
大学時代に読書家の友人からもらった本がある。
彼は大学を卒業して数年後にこの世を去った。
こうなると、捨てられない。
彼との思い出を捨てるようで、申し訳なくて捨てられないのである。
そして本棚を30年以上も占拠しているのである。
もう読まないんだから処分してもいいとは思っているのだが、捨てられないでいる。
最近、蔵書を整理し始めたのだが、こんな調子だから、いつまで経っても整理がつかない。
捨てられないんだから“物”は減らないのである。
右に置いてあった物を左に置くだけ・・・という感じ。
これでは意味が無い。

どうして“物”に固執してしまうのか・・・
困った性格である。
片や世の中には何でもかんでもポンポン捨てる人もいるというのに・・・・
この違いはどこから来るものなのだろうか?

考えてみれば、私もまもなくこの世を去ることになる。
55年も生きてきて、さらに55年も生きるとは思えない。
110歳は無理だろう。
いずれにせよ、いつかは死ぬわけだし・・・
死んだら全てを手離し、死に装束だけで棺桶の中に納まって焼かれるのである。
生前に手に入れたものは全て手離すことになる。
だから、いつかは捨てなければならないとは分かっているのだが・・・・
それがなかなか出来ないのである。

その気持ちの葛藤で、いつまでたっても収拾がつかない・・・
医者から「余命3ヵ月」と宣告されても、始末が付けられないような気がする。
困ったものだ・・・
本当に困ったものだ・・・
そろそろ身辺整理をしなくてはと思っているのに・・・

エッセイ | 22:35:25 | Comments(0)
軍馬慰霊祭に行く
今日は、年に1回の、恒例の「軍馬慰霊祭」が靖国神社で開催される。
正式名は『軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭』である。
今年も、拙者は参列しなくてはならない・・・・
上京直前に、同じ騎兵連隊の“オオクボさん”に電話をしたら、今年は出られないという。
まぁ、96歳か97歳だから無理はないかも・・・
“オオクボさん”は毎年、軍馬の碑の慰霊顕彰会代表ということで参列されていて、拙者は昨年から騎兵第14連隊会代表という形で参列することになった。
ついに、騎兵関係者の参列は拙者一人だけになってしまったのか?(大汗)

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今年も午前中、雨が降った・・・・
このところ毎年、4月の第一日曜日は天気が悪い・・・・
今年も昨年同様、軍馬、軍犬、軍鳩の慰霊像の前ではなく、遊就館の軒下(?)で開催することとなった。

騎兵関係の参列者は拙者だけかと思ったら、もうお一人、参加者がおられた。
以前にもお会いしたことがあるような気がするのだが、お名前は存じ上げていない。
隣の連隊、騎兵第13連隊の方である。
以前は、こちらの連隊は、我々の部隊より多くの人が参加されていたこともあったが、ついにお一人となってしまったようである。
ということで・・・
騎兵第13連隊のこの方と騎兵第14連隊の拙者が一緒に前に出て「軍馬」の代表として玉串を捧げることとなった。
二人で息を合わせて・・・というのは緊張するものである。
一人で行なうのとは、また違った緊張感である。

無事にお役目を果たし、その後、参加者全員で昇殿参拝・・・
その後、有志だけで、いつものように偕行社で「直会」・・・・
騎兵は我々2名しかいないと思ったら、もうお一人、騎兵の遺族の方がおられて、偶然にも3名でおしゃべりする機会を得た。
いやぁ~もし、拙者一人だけだったらどうしようと心配していたが助かった!(喜)

日記 | 14:55:14 | Comments(0)
“旅行”とは・・・
「旅行」や「旅」を意味する英語の「トラベル(travel)は「トラブル(trouble)」と語源が同じなのだそうだ。
つまり、「旅行」と「トラブル」は同じということか?
旅行にはトラブルが付き物・・・すなわち、それくらい旅というのは大変なことだということか?
それが「旅」というものだ・・・ということか?

となると・・・・
「安全な旅行」というのは、そもそも間違った考え方という事になるなぁ~
トラブルに巻き込まれてこそ「旅」と言えるわけである・・・・(大笑)
あらら・・・
どうやら私は今まで間違ったことをしていたようである。
とにかくトラブルに巻き込まれないようにと注意して旅行を計画し実行してきたのである。
それでは「旅」とは言えなくなる・・・
自分では「旅」をしていたつもりでいたが・・・あれは「旅」じゃないな・・・(大笑)

あ~なんたることぞ!
私は「旅人」ではなかったのである!(大汗)

「旅行に行ってきます!」は間違った言い方である・・・
トラブルに巻き込まれて苦労してこそ「旅行」なのであるから・・・
何の問題もなく帰宅したのでは「旅行」ではないのである!
知らなかったぁ~
不覚であった・・・・

ちなみに、語源が語源ということになると・・・
「旅行社」というのは別名「トラブルを起こす会社」ということになるのか?(大汗)
トラブルを起こしてこそ「旅行社」と言えるか?(大笑)
う~ん・・・納得である・・・

語源を知ると怖い・・・(大笑)

エッセイ | 01:10:15 | Comments(0)
『知的余生の方法』


はじめに
 見た目の変化の不思議
 高齢化と「不死」
 新しい知的生活の方法

第1章 年齢を重ねて学ぶことについて
 年をとることを見つめる
 天才の老い
 山本夏彦さんの思い出
 喜ぶ母と「家」の制度
 「壮」にして学ぶために
 退職後も活躍できる人とは
 お酒より「内発的興味」を楽しむ
 「壮」の過ごし方をまちがえるな
 楽しむ者にしかず
 知的生活を送れないインテリたち

第2章 健康と知恵について
 精神と肉体について
 義務より自由を選ぶ風潮
 不完全義務とは
 長生きと呼吸の関係
 知的余生のための肉体について
 白川静先生の「脳健康法」
 宗教と余生
 自分の世界の自覚
 五官を超越した世界
 人生の秋、空き、飽き
 物事が明らかに見える
 精神を鍛える
 老人が転倒すること
 ストレス不要論は誤り

第3章 余生を過ごす場所について
 田舎は老人に相応しいか
 遠きにありて思うもの
 今の場所で快適に暮らす
 別荘よりエアコンを買う

第4章 時間と財産について
 老いていく時間
 「内なる時間」を使う
 朝の時間を使え
 早起きと朝寝坊
 お金とベストセラー
 本多静六式蓄財術
 財産の考え方
 自由は富の蓄積から
 財産を持つためのヒント
 余生の財産相続について

第5章 読書法と英語力について
 読書家は長寿が多い
 電子書籍と紙の本
 知を求めて生きる
 読書は脳細胞と精神の鍛錬
 『パンセ』を読む
 神と人間との関係
 『人間―この未知なるもの』
 最初の英文法書
 貴重な本の発見
 英語ができない訳
 読む能力と書く能力

第6章 恋愛と人間関係について
 曖昧な愛情
 愛という言葉の深い意味
 女性の美と生き方
 女性と労働
 美の源について
 友情とは何か
 持ちたくない友
 支払能力の差
 知的レベルの高い友
 夫婦は組み合わせの妙
 出世しないが幸せな夫
 夫婦の絆
 それぞれの部屋を持つ
 学歴は無用である
 リーダーの誕生
 リーダーの条件

第7章 余生を極める
 「人生の道」
 「道」の先にある何か
 日常に「道」を見出す
 余生に見る夢

あとがき


今年の読書:19冊目



読書 | 00:01:48 | Comments(0)

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