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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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帰るぞぉ~(笑)
岡崎城を出て・・・・
ここからは最寄り駅まで徒歩で行く事にした。
タクシーばかりに乗らず、少しは歩かねば・・・・(大笑)

と・・・・何やら発掘現場が・・・・

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ここは、岡崎城の菅生曲輪の切り通し跡らしい・・・・
が・・・近くに掲示されている「埋蔵文化財発掘調査中」の張り紙には「東曲輪」と書いてある。
ん?・・・・「菅生曲輪」なのか「東曲輪」なのか・・・どっちなんだ?(苦笑)
発掘調査の工期は11月30日までだそうで・・・
それが終わったら、ここはどうするんだろう?
また埋め戻すのかな?
発掘した状態で残してもらいたいものである。

いずれにせよ、タクシーに乗って一気に駅に向かったら、これは見ることが出来なかったぞ!
やっぱり歩かねば・・・・ねぇ~(笑)

すぐ近くに、またまた珍しいものを発見!

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これは「浄瑠璃姫(じょうるりひめ)の墓」だそうである・・・・
はぁ・・・(汗)・・・・誰?・・・それ・・・・


浄瑠璃姫の墓

薬師如来の申し子である浄瑠璃姫は源氏の御曹司義経と別れた後、恋慕の余り菅生川に身を沈めてしまう。
姫の墓は平泉の方に向けて建てられている。
その姫の庵があったところが岡崎城の浄瑠璃曲輪といわれ瑠璃光山安西寺である。
のち光明院と改められる。
通称「浄瑠璃寺」である。

(説明板より)


この世界の話は、拙者には、よくわからないんですけど・・・・(大汗)
この「浄瑠璃姫」というのは、伝説上の人物ではなかろうか?
「お話」の中の人物のような気がするのだが・・・・
お墓があるの?
え?・・・・実在の人物?
よくわからん・・・・
「桃太郎のお墓」と聞いたら、誰も信じないのと同じくらい信じられないお墓なんですけど・・・(笑)
珍しいものを見つけてしまった・・・(苦笑)

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川を渡る・・・・
向うのビルの陰に、チラリと岡崎城の天守閣が見える。

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う~ん・・・・景観が悪いなぁ~(汗)
誰があんな所にビルを建てちゃったのかねぇ~(苦笑)

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まもなく、「名鉄東岡崎駅」に到着!
なんともレトロと言うか、オンボロと言うか・・・(失礼!)
昔懐かしいビルが「東岡崎駅」らしい・・・(汗)
なんでしょ・・・「岡ビル百貨店」という看板・・・(苦笑)
「百貨店」ですよ・・・・「百貨店」・・・
「デパート」じゃないんですよ・・・(笑)
いいなぁ~こういうの・・・好きなんだよなぁ~
こういう古くて趣のあるビルって好きなんだよなぁ~
今は、なんでも直ぐに建替えて近代的なビルにしちゃうけど・・・
「ビルディング」じゃなくて「ビルヂング」という表記が似合うような建物・・・
いいなぁ~・・・・ワクワクしちゃうんだよなぁ~(大笑)

時刻は午後3時・・・・
「おやつ」の時間である!(大笑)
というわけで・・・・この「百貨店」の中のレトロな雰囲気満点の喫茶店でコーヒー飲んで一服する。(大喜)

ここから名古屋駅に向かい、新幹線に乗って・・・・帰宅!
夕食は・・・・駅弁である!(喜)

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わが町に着いたのは午後9時半・・・・
“シミズくん”の奥さんが車で迎えに来てくれて、我が家まで送ってくれた・・・
いやぁ~こんな遅い時間なのに申し訳なし・・・
感謝、感謝である。

お疲れ様でした!

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旅行 | 19:39:51 | Comments(0)
岡崎城へ行く
一服して・・・
ここから3kmほど離れたところにある岡崎城に向かうことにする。
折角、岡崎に来たんだから・・・・お城を見ないとねぇ~
で・・・・歩くのは当然面倒くさいので・・・
(拙者は苦ではないが、“シミズくん”が嫌がるので・・・)(大笑)
タクシーを呼んでタクシーで向かう。

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時刻は12時・・・・ちょうど、お昼である・・・・
で・・・ちょうど「からくり時計」が動き出した・・・
この岡崎城には過去に2~3回訪れているが、なかなか、お昼ちょうどにはぶつからないので、このカラクリを見たことがないのであります。
お~・・・・なんというグッドタイミング!(喜)
これは、拙者の日頃の行いの良さが招いたのでありましょう!(“シミズくん”じゃなくて・・・)(大笑)

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本多忠勝の銅像・・・
これは、以前に写真を撮ってHPに載せた・・・

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「三河武士のやかた家康館」・・・・ここを見学する。
ここも過去に見学したことがあるが・・・・う~ん・・・
今回、訪問したら展示内容に全く記憶がない・・・(大汗)
あれ?・・・・である。
情けない・・・・この記憶の悪さ・・・(涙)

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徳川家康の産湯の井戸・・・・
う~ん・・・以前、見たことがあるような、ないような・・・(汗)

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産湯の井戸

天文11年12月26日(1542年)徳川家康公が岡崎城内で誕生した。
この井戸の水を汲み、産湯に使用した。

(説明板より)


なんともアッサリとした説明文である。(笑)
この説明板には、日本語の他に英語、韓国語、中国語でも解説が書かれている。
日本語以外に漢字で書かれた説明文が2つあるのだが・・・
どちらかが中国語だと思うが、もうひとつの方は何語なんだろう?(苦笑)
それにしても、この外国語の説明文は日本語の直訳なのである・・・
“Ieyasu Tokugawa”とだけしか書かれていない・・・
我々日本人には「トクガワ・イエヤス」が誰なのかは分かるが・・・
外国人観光客にはわかるだろうか?(苦笑)
「ショーグン」という言葉は海外でも有名だから、どこかに「徳川幕府の初代将軍」であるということを入れないと分からないのではなかろうか?
・・・・という気がした・・・・
が・・・外国語の説明文を併記するのは、いいことだと思う。

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えな塚

この城で生まれた徳川家康のえな(胞衣)を埋めた塚で、もと本丸南にあったものを、ここに移して記念とした。

(説明板より)


誠に、お恥かしい話しだが・・・・「えな塚」の胞衣(えな)って何のことなのか知らない・・・(大汗)
たぶん、文字の感じから想像すると、赤ん坊を包んでいた布の事ではあるまいかと思った。
つまり「産着(うぶぎ)」の事だと思ったのだが・・・
こういう場合は、英文では何と説明されているかを見ると参考になる。
で・・・併記されていた英文を読んでみると、umbilical cord(アンビリカル・コード)と書かれていた。
「アンビリカル・コード」は日本語に訳すと「へその緒」である。
胞衣(えな)とは「へその緒」のことなのか?
調べてみたら胞衣(えな)とは「胎児を包んでいた膜や胎盤」のことらしい。
“包んでいた”から「胞」という字が使われているのだろう。
となると・・・ちょっと疑問が・・・・
「へその緒」と「胎盤」は同じものなのか?
拙者は女性の体についてはサッパリわからない・・・〈苦笑)
しかも独身だし・・・嫁が子供を産んだところなんか見たことないし・・・(大笑)
「胞衣(えな)」は「へその緒」かなぁ?
「へその緒」は紐状だから、「胞」とか、「衣」なんていう字は使わないと思うんだよね。
使うんなら「条」という漢字を使うんじゃないかと思うんですよね。
今度は「胎盤」を調べてみたら・・・英語で「胎盤」のことを、placenta(プラセンタ)と言うらしい。
ということは・・・
「胞衣(えな)」=「胎盤」ならば、英語での表記は「plasenta(プラセンタ)」となり、「umbilical cord(アンビリカル・コード)(へその緒)」は厳密に言うと間違いではなかろうか?
英語の苦手な拙者が指摘するのも僭越ですが・・・・(苦笑)
多分、英語の専門家が、英訳したのだと思うのですが・・・・
どうなんだろ?・・・これ・・・・
ちなみに、中国語の説明文では「胞衣塚」を「胎盤墳塚」と記しているから・・・やっぱり「胎盤(プラセンタ)」だと思うんですけど・・・
もしかしたら、家康の場合は胎盤じゃなくて「へその緒」を埋めたのだろうか?

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石垣が結構あるのだが・・・植栽で邪魔されて、よくわからない・・・(苦笑)

「慰霊碑」のようなものを見つけ!(喜)
碑の「忠義護邦家」の文字は山縣有朋の揮毫のようである。

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さぁ!天守閣に到着だ!
が・・・・
あれ?・・・・天守閣の横に、こんな建物なんかあったっけ?(苦笑)

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で・・・毎度、ここに来るたびに思うのだが・・・
この松の木!・・・・写真を撮るのに邪魔なんだよなぁ~(苦笑)

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不謹慎な言い方になりますが・・・早く枯れてくれないかなぁ~と思ったりするのであります。(苦笑)

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東照公遺訓碑由来

この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和18年3月98歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て建立に至った。
碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には竜城を象徴する竜を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和11年4月16日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年は、遺訓碑が建立されて50年、また、岡崎市制70周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。

昭和61年12月26日
岡崎市長 中根鎮夫

(説明板より)


東照公遺訓碑

人の一生は重荷を負(お)いて遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望(のぞみ)おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍(かんにん)は無事長久(ちょうきゅう)の基(もとい)、怒りは敵とおもえ勝事(かつこと)ばかり知りてまくる事しらざれば害(がい)其身(そのみ)にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。

慶長8年正月15日
人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな。

(説明板より)


すぐ近くに井戸があった・・・
こんな井戸なんかあったっけ?(苦笑)
「出世開運」と書いてある・・・・
特にこの井戸の水が飲めるというわけではなさそうである。(汗)
どうしたら「出世開運」できるんだろう?
わからん・・・・全然、わからん・・・(苦笑)

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出世開運 龍の井

康生、元正(西暦1455年)岡崎城竣成の日 龍神の出現により別名を龍ヶ城とした
天文11年(西暦1542年)家康公 城内にご誕生の刻 金の龍が昇天したと伝える
吉兆の度に この井戸が噴出し 龍神に注ぐ不可思議にこれを祈り 出世開運の井と称えられている

(説明板より)


続いて天守閣を観覧・・・・
写真撮影できるのは、1階の入り口のところと、最上階のみである。

最後にここに来たのは何年前だっただろうか?
「生還者と遺族の会」のツアーで訪問した。
帰りの集合時間に間に合わない人がいるのではないかと、この天守閣に取り残された人がいないかどうか確認に来たことがある。
チケットなど買わず・・・タダで入った。(大笑)
「取り残されている人がいるかどうか確認したい」と言ったらタダで入れてくれた。(笑)
必死に階段を駆け上り、各階フロアーに、うちのツアー客が残っていないか確認をした。
なにせ、この会の会員は高齢者ばかり・・・(大笑)
集合時間を伝えても忘れてしまう人も出るし、方向を見失い迷子になる人も出る。
バスガイドやツアーの添乗員、会の比較的若手の役員たちは迷子が出てから大騒ぎして周囲を探しまくる。
拙者は、そういうのが許せないのである!
事前に迷子を出さないようにするべきではないか?
迷子になるのは「個人の責任」というのは高齢者には酷だろう。
一度でも「迷子」になって迷惑をかけた高齢者は、次回はツアーに参加しづらくなる。
年1回の親睦旅行・・・楽しみにして毎回参加されているのである。
「皆さんに迷惑をかけるから参加は我慢する」と言わせてしまっては可哀相である。
本来の目的に逸脱しているのではなかろうか?
“最期の時”まで楽しんでいただくための「親睦ツアー」ではないのか?
そういうために、参加者中、最年少者の拙者が迷子を出さないため事前に手を打つ。(笑)

拙者は人の顔や名前を覚えるのが大の苦手である。
だから、どうしてもツアー参加者の顔も名前も覚えられない。
しかし、逆に皆さんの方が拙者の顔を覚えてくれているので・・・
「私はいつも最後尾を歩きますから、私の背中を見かけたら、“自分は遅れている”と思ってください」
「私が走り回っていたら、その時は完璧に“集合時間に遅れている”と思って急いでバスに戻ってください」
・・・と言ってある。(大笑)
前回ここに来た時も、拙者は、この城内を走りまくった・・・(大笑)
だから・・・史跡も何も見ていないのである。
おかげで迷子を出さずに済んだが、最後にバスに戻ってきたので、一部の役員から「何やっているんだ!」と白い目で見られた。
今では、この会とは縁を切っているので、もう、こういうことをすることはなくなったが・・・・(笑)
ある参加者から「あなたが走り回っているのを見て、こりゃマズイと思ってバスに戻ったんですよ。遅れずに済んで助かりました」と言われたのは嬉しかった。
あの時に参加された方々のうち、何人もの方々がすでに鬼籍に入られている。
なんとも寂しい・・・・

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天守と礎石

岡崎城の天守は、田中吉政(よしまさ)が城主の時代に創建され、その後地震等で倒壊したと考えられています。
1617年(元和3)本多康紀(やすのり)が城主の時、三層三階、地下一階で東に井戸櫓、南に付け櫓を付属した複合天守で再建され、250余年後の1873~1874年(明治6~7)に破却されました。
現在1階にある大きな石は旧天守の心柱(しんばしら)の礎石といわれ、心柱は3階まであったと考えられています。
心柱を有した天守の例は少なく、現存するのは世界文化遺産の姫路城のみです。
また現在の城郭(じょうかく)内の石垣のなかでも天守台の石垣は古く、1592~1596年(文禄年代)以前といわれています。

(説明板より)


天守閣の最上階・・・・
床に地図が描かれていたとは・・・以前来た時には気がつかなかった・・・(大汗)

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天守閣(資料館)の見学を終え外に出る・・・・
と・・・・片隅に小さな石碑が・・・
「アラモの碑」だ!(驚)

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【碑文】

三州長篠古戦場鳥居強右衛門ノ墓畔ニ二石を獲一ヲ米國テクサス州殉難烈士ノ碑ニ充テ一ヲ 龍城神社ニ奉納ス鳥居ノ忠烈ハ
當時我ガ 両公ノ嘉ミサセラレタル所ナレバナリ

大正三年七月
  岡崎 志賀重昻 識
  水戸 北條時雨 書


アラモの碑

この碑は、郷土岡崎出身の世界的地理学者志賀重昻氏が建立されたものです。
志賀重昻氏は、テキサス独立戦争アラモの戦いと日本の三州長篠城の戦いがよく似ていることに深い感心を寄せられました。
アラモの砦から援兵を求め友軍の下に走った青年ボナムと長篠城を脱出し、岡崎城の家康公に危急を知らせた鳥居強右衛門の両者の「強い使命感に東西の別はない」と感動し建碑を思い立ち、岡崎の石と長篠の石を使って、自作の漢詩を彫刻し、大正3年(1914年)にサンアントニオ市アラモ砦史跡の一角に記念碑を建立されました。
また、同時に、ここ岡崎公園の地にもアラモの碑を建立されたものです。

(説明板より)


この碑・・・・岡崎の方が関わるのは分かるが、碑文の書は、我が茨城県の水戸の方である。
どうして水戸の人が関わったんだろう?(笑)
それにしても、縁を感じちゃうなぁ~(笑)

今から30年ほど前、拙者は一人で1ヶ月間、全米を旅していた・・・
その時に、テキサス州にも訪れ、サンアントニオ市も放浪したが・・・(大笑)
ついでに「アラモ砦」にも立ち寄った。
当時は「アラモ砦」って何だか知らなかった。(苦笑)
なにやらアメリカ人にとって貴重な史跡らしい・・・程度である。
どうやって「アラモ砦」に行ったのか・・・全く覚えていない・・・
一人でバスに乗って行ったのか?(大汗)
あの日は格別に暑い日で、喉が渇いてどうしようもなく、「アラモ砦」の目の前に立つ大木の下でコカコーラを飲んだことしか覚えていない。(大笑)
このコカコーラの空き缶・・・どこに捨てればいいのだろうかと散々悩んだことを鮮明に覚えている。
どうして、こういう、どうでもいいことだけは鮮明に覚えているのかねぇ~(汗)

気楽な一人旅だから、砦の中を隅から隅まで見て廻ったはずなのだが・・・
なぜか、記憶は断片しか残っていない・・・・
日本に帰国して数年後、何かの本を読んで、「アラモ砦」に日本人が建立した石碑があるのを知って愕然としたのだから、多分、現地では見ていないのだと思う。(涙)
じっくりと見学したはずなんだけどなぁ~
どうして見落としたのかなぁ~・・・・
大失敗である!(大泣)
「アラモ砦」が何なのかは、その後、レンタルビデオ屋でジョン・ウェイン主演の『アラモ』というビデオを見て、初めて知った・・・(大笑)

へぇ~・・・そういう史跡だったのか・・・・である。(笑)
事前に何の知識も持たずに史跡を見に行くというのも、いかがなものかという気がするが・・・
逆に、余計な知識がないから、後から興味が湧くということもあろう。
あの時に「アラモ砦」に行っていなかったら、間違っても『アラモ』なんていう映画は見なかったに違いない・・・

ああ・・・これが「アラモ砦」に建立した石碑と同じものなのか・・・
我が青春の1ページ・・・・「アラモ砦」・・・・・
懐かしさがこみ上げてきた・・・・

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時刻は午後1時半を過ぎた・・・・
ハラヘッタァ~(大笑)
敷地内の「お食事処」で遅い昼食を食べることにする。

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これは何だっけぇ~(苦笑)
豆腐の田楽だったような気がするが・・・・
これ、なかなか美味しかった。(喜)

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新たな石像を発見!(喜)
「出世ベンチ」というらしい・・・・
石像は、「竹千代」と「家康」だそうだが・・・・「竹千代」って誰?(大笑)
それにしても、なんでベンチの真ん中に座っているのかね?
邪魔なんですけど・・・・(苦笑)


天下人家康公 出世ベンチ

徳川家康公はここ岡崎城で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。
このベンチは「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、地元産の良質な御影石を使い、造り上げられています。
家康公とこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の魂を感じてください。

平成24年2月

(碑文より)


そして・・・・最後に、徳川家康の銅像を見学・・・・(苦笑)
最後に「お会いする」というのでは、家康さんに失礼かもしれないが・・・・(大笑)

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徳川家康公銅像

天文11年12月26日(西暦1542年)岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。
幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600年)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。
以後持前の才能を生かし、天下統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2年4月17日(西暦1616年)75才でこの世を去った。
この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。

(説明板より)


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今時、珍しい電話ボックス・・・・
いいデザインだとは思うけど・・・・
ちょっと圧迫感があるような・・・・(大笑)

これで今回の旅は終わりである。
あとは・・・・帰るだけである。
岡崎城公園から外に出る・・・・

旅行 | 15:45:58 | Comments(0)
大樹寺多宝塔
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国指定重要文化財 大樹寺
建造物 大樹寺多宝塔(付棟札) 一棟

多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。
大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものである。
松平七代清康(きよやす)により天文4年(1535)に建立された。
下層は方三間、総円柱、斗組二手先尾垂木(ますぐみふたてさきおだるき)付として、また上層は白漆喰(しっくい)塗りの亀腹(かめばら)上に円柱の塔身(とうしん)を立て、四手先(よてさき)で軒をささえる。
屋根は檜皮葺(ひわだぶき)、鉄製相輪(そうりん)を上げ、軒隅には風鐸(ふうたく)がつるされている。
塔内部には禅宗様の須弥壇(しゅみだん)を置き、その上には春日厨子(かすがずし)を据え、本尊の多宝如来像を安置する。
この多宝塔は上下層の釣り合いもよく、蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風でていねいに作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。

明治37年2月18日指定
岡崎市教育委員会

(説明板より)


【愛知県岡崎市鴨田町広元5-1・大樹寺】

史跡 | 14:25:11 | Comments(0)
「大樹寺」に行く
今日は・・・・
水戸藩士“シミズくん”の希望で「大樹寺」に行く。
このお寺は有名なお寺だそうだが、拙者は全く知らなかった。(汗)
知らない所に行くのは大いに結構・・・
しかも「歩く百科事典」ともいえる博学の“シミズくん”が一緒ならなおさら面白い。

151_convert_20160302181957.jpg(岡崎駅)

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このホームの×印のすごいこと・・・・(大笑)
「ここには立つな!」ということなのかな?
それにしても、しつこいくらいの×印である・・・(苦笑)
愛知の人って列に並ばず、脇から割り込んでくる人が多いということなのだろうか?(大汗)

午前9時20分、JR「岡崎駅」から「愛知環状鉄道」で「大門駅」に向かう。
10分程度の乗車で「大門駅」に到着!

154_convert_20160302182921.jpg(大門駅)

ここから徒歩で「大樹寺」」に向かう。
徒歩で20分程度で現地に到着・・・・
遠くに「大樹寺」の多宝塔が見えた!

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なだらかな坂道は、運動不足の身には堪える・・・・(苦笑)

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おお!なんと立派な山門でしょう!(驚)

山門の反対側に「岡崎市立大樹寺小学校」がある。

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大樹寺の土塀
校門横の白壁の塀は大樹寺の塔頭(たっちゅう)(境内にある小寺)であった善揚院(ぜんよういん)と開花院(かいかいん)のものでした。
かつては、南の総門まで続き「旗かけの松」をはじめ、大小の松が生いしげっていました。(昭和52年修復)

岡崎城を望む
三(さん)門から総(そう)門を通して一直線上に岡崎城(三層三階地下一階)の天守閣が見えます。
徳川氏と大樹寺の関係の深さがうかがえます。

(説明板より)


ほぉ~・・・・山門から一直線に岡崎城が見えるのですか?
というわけで・・・・境内の中から山門を通して見てみた・・・

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あぁ~・・・・ちょっとわかりづらいが・・・確かにチラッと天守閣が見える・・・(汗)

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思ったより境内は広いと言うべきか、それとも歴代徳川将軍の位牌がある寺の割には狭いと言うべきか・・・(笑)



大樹寺沿革

應仁元年(1467)8月23日井田野の合戦で多くの戦死者が出て、悪疫が流行したので松平親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念佛会を修し、敵味方の別なく千人塚をつくって葬った。
その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
それ以来、大樹寺は松平家・徳川家の菩提寺として1千石近い禄を受け、大樹公寺と称し、20有餘の末寺を持つ東海の名刹となった。
現在でも岡崎城の天主閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。
本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている、親忠公は愚底上人より在家としてはじめて五重相伝(ごじゅうそうでん)を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。
松平第9代の家康公は19才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。
大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」の教えを説き、家康公の浄土念佛の教えの尊さを教えた。
それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。
この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖洞和尚が門の貫木を引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。
これを大樹寺の陣という。
家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが今もこの貫木は大樹寺に安置されている。
家康が陣中において人知れず書いた「陣中名號」はたくさんあるが、この寺にも珍蔵されている。
松平の御8代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓も岡崎市民により建てられた。
三門と鐘楼は3代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。
西方に身ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平清康公の建立で、重要文化財に指定されている。
本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年、13代将軍家定公の時に再建された。
大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭(れいぜいためちか)の描いたもので、146面あり、重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。
その他、多くの文化財を持ったこの寺は、毎年8月6、7、8日の3日間、宝物の曝涼をかね一般に公開している。
なお毎月17日には別時念佛会を修し、住職の法話がなされている。

(説明板より)


209_convert_20160303151706.jpg(本堂)


岡崎市指定文化財
大樹寺

建造物 大樹寺本堂 一棟
桁行(けたゆき)七間、梁間(はりま)七間、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)。
安政2年(1855)の火災で三門、総門、裏門、鐘楼(しょうろう)、多宝塔(たほうとう)、開山堂(かいざんどう)などを除いて伽藍(がらん)を焼失するが、安政4年(1857)やや規模を縮小して再建されました。
この本堂は、外陣が方丈のように三区分するもの、さらに凹字型のものの、二つの形式の要素を取り入れている点が特徴です。

建造物 大樹寺開山堂 一棟
桁行三間、梁間三間、宝形造(ほうぎょうづくり)、桟瓦葺(さんかわらぶき)。
内部はひとつの空間となっており、背面に半間幅の箱仏壇を一面に設けています。
天井は格天井で、床は畳敷となっています。
屋根の頂上には露盤(ろばん)・宝珠(ほうじゅ)を上げています。
建立年代は不明ですが、木鼻(きばな)・実肘木(じつひじき)などの絵様や彫刻から江戸時代前半と考えられています。

平成20年6月16日指定
岡崎市教育委員会

(説明板より)


本堂の前に「徳川家康公霊夢像」という石像が建っていた。
おお!ここで家康さんと会えるとはねぇ~(喜)

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徳川家康公(東照大権現)霊夢像

天文11年(1542)12月26日、三河国 岡崎城に誕生し、幾多の艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越え戦国乱世を平定、265年に及ぶ天下泰平の江戸時代の礎を築いた徳川家康公は、元和2年(1616)4月17日、74年の生涯を駿府城に閉じると翌元和3年、後水尾天皇より「東照大権現」の神号を勅許されました。

祖父家康公への崇敬の念が強かった徳川三代将軍 家光公がしばしば夢に現れる家康公の御姿を絵師 狩野探幽(かのうたんゆう)に写させた一連の画像が「東照大権現霊夢像」と呼ばれる作品群です。

この石像は、十数点に及ぶ東照大権現霊夢像のうち、寛永16~18年(1639~1641)頃に制作された正面向きの束帯像(そくたいぞう)(徳川記念財団 蔵)をもとに、石都 岡崎産の花崗(みかげ)(御影)石にて、徳川家康公顕彰四百年記念事業の一環として建立したものです。

「厭離穢土 欣求浄土」 家康公立志の地 大樹寺に
    平成27年(2015)4月17日
        徳川家康公霊夢像建立の会

(説明石碑・碑文より)


このお寺は「浄土宗」だそうだ。
で・・・拙者は「曹洞宗」である・・・まぁ・・・いいか・・・・(笑)
本堂に入ってお参りして、内部を“見学”する。
ここには「位牌堂?(位牌室?)」があって、歴代の徳川将軍の位牌が安置されている。
しかも、この位牌は、その将軍達と同じ背丈・・・つまり等身大の位牌なのである!
これには驚いた。
こういうの、いいなぁ~・・・・拙者も死んだら等身大の175cmの位牌を作ろうかな・・・
と、思ったが、置くところがないわ・・・(大汗)
歴代将軍の中で、ひときわ目立つ、かなり背の低い位牌があった。
この某将軍は、ちょっと精神的にも問題があった方だそうで・・・
年齢の割には背が低いということは、何らかの障碍があったのだろうか?・・・心身ともに発達障碍とか・・・
“歩く百科事典”の“シミズくん”の解説などをいただきながらの見学・・・・
う~ん・・・・楽チンであるが・・・
3歩も歩くと忘れてしまうというのが問題だ・・・(大汗)
マズイ・・・紙に書いてくれ・・・(苦笑)

約1時間弱ほど時間をかけての“見学”である。(驚)
本堂の中で1時間弱も時間をかけるんだから、我々は大したものである。
何らかの御利益もあろうというものである。〈笑)

外に出て、境内を散策・・・・
松平氏の墓所を参拝する。

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岡崎市指定文化財
大樹寺

史跡 松平八代墓(まつだいらはちだいぼ) 8基
松平氏の菩提寺であるこの寺に元和元年(1615)徳川家康が先祖8代の墓を再建したもので、元和3年には天領代官畔柳寿学が奉行となり現在の姿に整備された。

初代 親氏(ちかうじ)(生没年不詳) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)
二代 泰親(やすちか)(生没年不詳) 宝篋印塔
三代 信光(のぶみつ)(1404~1488) 宝篋印塔
四代 親忠(ちかただ)(1431~1501) 五輪塔
五代 長親(ながちか)(1473~1544) 五輪塔
六代 信忠(のぶただ)(1486~1531) 五輪塔
七代 清康(きよやす)(1511~1535) 五輪塔
八代 広忠(ひろただ)(1526~1549) 無縫塔(むほうとう)

大樹寺は、文明7年(1475)安城松平家初代親忠が浄土宗鎮西派の勢誉愚底に帰依して開創し、同家の菩提寺とした。
長親の代に安城家が松平総領家となったことにより、本寺は松平宗家菩提寺となった。
元和2年家康の遺言により歴代将軍の位牌所とされ、以後14代将軍家茂(いえもち)までの位牌が納められている。

昭和37年6月15日指定
岡崎市教育委員会

(説明板より)



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墓地の一番左端にあるのは、徳川家康のお墓らしい・・・・
あとから造ったようだが・・・ちょっと立派過ぎて、ご先祖様のお墓が霞んでしまうんですけど・・・(汗)
当然、文化財には指定されていない。
ここに家康のお墓を造りたい気持ちはわからないでもないが・・・
これは、本当にお墓なのだろうか?
家康の骨が埋葬されているのだろうか?
日本全国、あちこちに「徳川家康の墓」が出来ても困ると思うんだけどねぇ~
どうなんだろう?・・・・これ・・・・

時刻は午前11時を過ぎた・・・
お寺の駐車場の脇にある茶店で一服・・・・
とりあえず、「五平餅」を食べて、お茶を飲んで空腹を満たす事とする。(笑)

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旅行 | 10:15:02 | Comments(0)