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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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水任流保存会会長松平賴明顕彰碑
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高松市指定無形文化財
水任流保存会会長松平賴明顕彰碑

当保存会初代会長松平賴明公は讃岐高松藩松平家13代当主にて 明治42年8月13日生誕
学習院を経て早大卒
伯父12代賴寿伯爵の嗣子となり昭和19年9月13日賴寿伯他界のあとを継ぐ
さすがに天性温情至誠高潔にして春の如く而も気品高くして尊皇敬神崇祖の念極めて深く 且庶民的親交厚く慈父の如くに欽慕景仰を受く
その全生涯の大半を教育活動に専念せられ東都にありては本郷学園の学校教育に全力を注ぎ 他方ボーイスカウト活動にも格別の貢献をされ青少年育成に多大の成果を収む
また郷土高松にては当水任流保存会会長を始め松平公益会会長 香川県教育会 高松市教育会両会長 香川県育英会会頭 ボーイスカウト香川連盟長等として尽力 玉藻公園開設にも協力され 広く郷土の発展に寄与し県民と友情を温む
平成2年2月23日朝惜しくも80年の天寿を全うせらる
当会はゆかり深きこの地に碑を建てて永く公の偉績を顕彰せんとす

平成2年10月吉日
水任流保存会

当クラブ結成20周年記念事業として この碑を贈呈します

高松葵ライオンズクラブ
高松葵ライオネスクラブ

(碑文より)


【香川県高松市・高松城跡・玉藻公園】

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史跡 | 17:59:16 | Comments(0)
昭和天皇・皇后 御手植松
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昭和天皇・皇后 御手植松

御手植えの松樹について謹んで碑に記す
松樹2株は東西に相対している

東の方は
今上(現在の天皇、昭和天皇)が植えられたもの
大正11年、皇太子・摂政宮であった時に
讃岐で陸軍大演習が行なわれ、披雲閣が
大本営として使用され、摂政宮が3日滞在された
賴寿は感激し、その恩栄を記すため、樹を植えて
いただくことをお願いした

西の方は
皇后(昭和天皇の皇后)が結婚される前に
生家(久邇宮家)の父に従って讃岐に来られた際
披雲閣に滞在された(大正12年)その時に
小さな松を植えられた

松樹が植えられてから10年以上も過ぎ樹はともに茂っているが、この由緒について久しく何も記していないことは恐れ多い
よって、石の柵を設け、鉄の鎖を施して松樹が汚されることを防ぎ、子孫にまで永くこの恩栄を伝え、その恩に報いようとするものである
また、昔のことを忘れないように鎖は古い城に用いられていた大きな釘を使って作り、中央の柱をつなぐ

昭和8年7月 正三位勲三等伯爵 松平賴寿 記す

協力 香川県立ミュージアム学芸課

(説明板より)


【香川県高松市・高松城跡 披雲閣】

史跡 | 16:36:18 | Comments(0)
高松城へ行く
「琴電」の車内の中・・・・
面白い掲示物を発見!

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さぬき弁の「マナー講座」である!(笑)
これ、いいなぁ~
こういうの、茨城にも欲しいなぁ~(大笑)
車内を歩き回って全部の掲示物を写真に撮りたい気分だったが、他に乗客もいたので恥かしいから止める・・・(大笑)

午後1時過ぎ・・・「高松築港駅」に到着。
ここが終点・・・

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ホームのギリギリまで石垣が迫っている・・・
いや・・・お城の石垣ギリギリにホームを作ったのか・・・(笑)
ということは・・・ここは昔は「お堀(お濠?)」があった場所ではなかろうか?
お堀を埋めた上に線路を引いたか?

695_convert_20160205204543.jpg(高松築港駅)

というわけで、駅を出ると、すぐ後ろが「高松城」である!
なんと便利なことか・・・(喜)

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内掘

現在緑地帯として整備されている一帯は、かつて高松城の本丸と二の丸を囲むように設けられた内掘の跡です。
特に、本丸はこの内掘によって四方を囲まれており、鞘橋(さやばし)のみで二の丸とつながっていました。
大正時代までは内堀はその姿をとどめていましたが、大正14年(1925年)に完成した皇太子殿下御成婚記念道路の建設に伴い、本丸西側が埋立てられ堀幅が狭くなりました。
昭和3年(1928年)には埋立てられた内掘を含む高松城跡の西側一帯において全国産業博覧会が行なわれました。
さらに戦後には本丸西側は完全に埋立てられてしまいました。
内掘のうち本丸西側部分の堀幅は絵図や文献によって異なり詳細は不明ですが、寛永15~16年(1638~39)頃の絵図では14間という最も狭い幅が記載されており、少なくとも25m余りあったと考えられます。

贈・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)



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高松城は公園のような感じだった・・・あら・・・面白くない・・・(苦笑)



史跡 高松城跡

高松城は天正15年(1587)豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)によって、翌16年(1588)に築城が開始されました。
その縄張(なわば)り(設計)は藤堂高虎(とうどうたかとら)、黒田孝高(くろだよしたか)、細川忠興(ほそかわただおき)など諸説があります。
生駒氏は4代54年続きますが、寛永17年(1640)に出羽国矢島(でわのくにやしま)(今の秋田県由利本荘市)1万石に移されます。
その後、寛永19年(1642)に松平賴重(まつだいらよりしげ)(水戸光圀の兄)に東讃12万石が与えられ、高松城に入りました。
以後、明治2年(1869)の版籍奉還(はんせきほうかん)までの11代228年の間、松平氏の居城として威容を誇ってきました。
賴重は、寛永21年(1644)に高松城の改修を開始し、寛文10年(1670)に天守改築、寛文11年(1671)からは東ノ丸・北ノ丸の新造を行い、2代賴常(よりつね)が完成させました。
これに伴い、大手(おおて)を南から南東へ移し、藩主の住居と政庁(せいちょう)を一体化した御殿(ごてん)を三ノ丸に作ることも行われました。
江戸時代には、内掘、中堀、外堀の三重の堀を有し、約66万㎡(約20万坪)という広さでした。
明治初期に外堀が埋立てられ、さらに徐々に中掘の一部が埋立てられ市街化が進み、現在約8万㎡のみが城跡として残っています。
昭和29年(1954)に高松市の所有となり、昭和30年(1955)に国の史跡に指定されています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)



あら・・・我が水戸藩の水戸黄門のお兄さんがいたお城だったのか・・・(笑)
そういえば・・・何やら、そういうことを聞いたことがあるような・・・ないような・・・(苦笑)
う~ん・・・縁があるといえば縁があるお城ということになるかな?


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鞘橋(さやばし)

鞘橋は、ニノ丸から本丸へ続く唯一の動線であり、この橋を落すことによって本丸だけを守ることもできるようになっていました。
絵図等によると高松城築城当時から同位置に橋が架けられていたことがわかります。
当初は「らんかん橋」と呼ばれ、1640年代半ばの絵図でも欄干(らんかん)が描かれており、屋根のない橋でした。
その後、文政6年(1823)の絵図では屋根付きの橋として描かれており、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。
現在の鞘橋については明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっており、大正期には橋脚(きょうきゃく)が木製から石製に替えられたことが古写真から判明しています。
昭和46年(1971)には老朽化による解体修理がなされ、平成18年から開始した天守台石垣の修理工事に伴って本丸側の一部が解体され、平成23年に修理されました。
橋の架かっていた石垣が修理されたことに伴って、解体前よりもやや全長が長くなっています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)



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(天守台の石垣)

722_convert_20160207115945.jpg(天守台・地下1階部分)

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(天守台跡から見た景色)

天守閣跡(天守台跡)を降りて、今度は周囲を散策・・・・
庭園があったので覗いてみる・・・

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披雲閣(ひうんかく)庭園
平成25年10月17日名勝指定

披雲閣庭園は、大正3~6年(1914~17)に松平家第12代当主松平賴壽(よりなが)が高松城の三ノ丸に「披雲閣」を建設した際に、東京の庭師大胡勘蔵(おおこかんぞう)によって作庭された庭園です。
三ノ丸には江戸時代に御殿があり、北東側2箇所の築山(つきやま)(庭園内の小山)が絵図に描かれていることなどから、一部江戸時代の庭園を残しながら作られたと考えられます。
マツ・ウバメガシを中心とした植栽の中に多数の景石(けいせき)・石造物を配置しています。
景観を大きく特徴づける構成物として、北東から南西方向に流れる枯川(かれがわ)と、北東に2箇所、西に1箇所、披雲閣蘇鉄(そてつ)の間(ま)北側に1箇所の築山が見られます。
枯川の周囲には多くの石造物が配置されています。
特に、枯川の中ほどには一つの花崗岩(かこうがん)を刳(く)り抜いて作った精巧な石橋があるほか、披雲閣の大書院北側には高さ2メートル、重量11トン余りと言われる大型の手水鉢(ちょうずばち)があります。
庭園内には経路に沿って飛石(とびいし)が縦横に配され、建物の軒先には沓脱(くつぬぎ)石が配されていますが、これらも大型の花崗岩を用いています。
また、庭園内には昭和天皇・皇后陛下がお手植えになられた松もあります。

贈・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)


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重要文化財
披雲閣(旧松平家高松別邸)

松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約二倍)があり、藩の政庁および藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のため取り壊されました。
その後、松平家第12代当主で貴族院議長も務められた松平賴壽(まつだいらよりなが)氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。
この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院をはじめ、槙の間・蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊なられたこともあります。
昭和29年(1954年)に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。

(説明板より)


この披雲閣の入口の前で盆栽展と、なにやら盆栽の実演講座みたいなことをしていた。
説明板によると、高松の松の盆栽は日本一なのだとか・・・
え?・・・ほんと?(苦笑)

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日本一を誇る高松の松盆栽

高松市西部の鬼無(きなし)・国分寺地区の松を中心にした盆栽作りは、文化年間に、土地の愛好家が、山野に自生する松を掘り、鉢植えに仕立てたのが始まりとされています。
今日では、全国の黒松、五葉松の盆栽の大半、また錦松の大部分が高松で生産されるまでに発展しています。
これは、高松が瀬戸内に位置し、雨が少なく、花崗岩系の土壌が主体で松の育成に適していることと、素材が身近に入手できたためと思われます。
また、旧高松藩主松平家第12代頼寿公が、日本盆栽協会の前身である国風盆栽会初代会長に就任するなど盆栽会のために尽力されたことを始め、いち早く地場産業として全国屈指の生産地に育て上げた先覚者の努力に負うところが大きいといえます。

(説明板より)


へぇ~・・・・そうなんだぁ~・・・と大いに勉強になった・・・(喜)
その昔、小学6年生の時に祖父にねだって、祖父のサツキか何かの盆栽を貰ったのだが、その後枯らしてしまった・・・(汗)
20歳のとき、成人の記念として梅の盆栽を自分で買ったが、これも手入れが出来ず庭に植えたあげく枯らしてしまった・・・(大汗)
盆栽には興味があるのだが・・・どうも育てるというのは無理なようである。(苦笑)
今から始めたのでは、遅いよなぁ~
あと30年生きるかどうかわからんからなぁ~(笑)
あの12歳の時にもらった盆栽を育てていたら・・・もう43年だからねぇ~
かなりのベテランになっていたかも・・・(大笑)
う~ん・・・拙者の場合は・・・鑑賞だけで我慢したほうが良さそうである。(大笑)

城跡を歩き回り・・・遂に発見!(笑)
櫓である!(大喜)
ありましたか建造物が・・・(大笑)

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重要文化財
高松城北之丸月見櫓(続櫓)、水手御門(みずてごもん)、渡櫓(わたりやぐら)
昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

高松城(玉藻城(たまもじょう)ともいう)を築城した生駒(いこま)氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に出羽の国の矢島(やしま)1万石(秋田県由利本荘市矢島町)に移封されました。
その後、寛永19年(1642年)松平賴重(よりしげ)公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、明治2年(1869年)まで11代228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城(みずしろ)の一つに数えられています。
月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋立てて作られた郭(くるわ)の隅櫓(すみやぐら)として延宝4年(1676年)2代賴常(よりつね)公の時代に、完成されたものです。
ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。
かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみて、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。
月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに梁をかけて組立てていることや外壁に装飾的な黒い長押(なげし)を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。
これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年(1954年)1月に高松市が譲り受け、翌年3月から国庫・県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1700万円を費やして同32年(1957年)3月に竣工しました。

(説明板より)


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水手御門(重要文化財)

江戸時代、この石垣の北側まで海でした。
藩主は、水手御門から小舟で出て、沖に停泊する御座船「飛龍丸」に乗船し遊覧を楽しんだり参勤交代に出かけたりしたようです。
水手御門は直接海に向かって開く海城独特の門で全国唯一の現存例です。

(説明板より)


ぐるっと回って・・・今度は天守閣跡が見える場所に出た・・・
ちょうど復元イメージの看板も設置されていた。
こういうのも面白い。
が・・・出来れば本当に復元してもらいたいものだ。(笑)

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そのままずっと歩いていったら、「桜御門」という場所に出た・・・
が・・・石垣の工事中!(涙)
しかも工事期間の終了は10月16日と看板に書いてある!
あ~あ~1週間早く来てしまった!!(大涙)
1週間遅ければ、修復後の桜御門が見られたわけか・・・残念・・・

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さらに進むと・・・・あれ?・・・・新たな櫓が・・・
え?・・・・ただの公園だろうと思っていたら、ちゃんと櫓が残っている城跡ではないか!(喜)

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重要文化財
高松城旧東之丸 艮櫓(うしとらやぐら)
三重、三階、隅櫓、入母屋造、本瓦葺
昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

高松城は、讃岐の国(香川県)の国主だった生駒親正(いこまちかまさ)公が築城したもので、生駒氏が寛永17年(1640年)に出羽の国(秋田県)に移封せられた後、寛永19年(1642年)に東讃岐12万石の領主として入府した松平氏が本丸、東之丸、北之丸などを修築し、規模を整えたといわれます。
東之丸は現在の県民ホールのあたりをいい、寛文11年(1671年)頃より行われた大改修の際、新たに堀を開削して、海に面して新たに構えられた郭です。
艮櫓は、もともと東之丸の北東の隅櫓として建てられたもので、北東の方角のことを丑寅(うしとら)(艮)ということから、この名前があります。
記録によれば延宝5年(1677年)に完成されたようで、現在残されている月見櫓と同時期に建てられたものです。
昭和40年(1965年)8月に当時の所有者であった日本国有鉄道より高松市が譲渡を受け、国庫、県費の補助金を得て昭和40年10月より工期2年、工事費2,800余万円を費やして解体修理を行い、東之丸の東北隅より現在の旧太鼓櫓跡に移築復元されました。
この移築にあたって、艮櫓の規模に合わせて城内側に石垣の拡張工事を行ったほか、石落しの取付の関係上、建物を右に90度回転させています。
櫓の構造としては南北に大きな千鳥破風(ちどりはふ)を設けているほか、各階の窓の土戸に特異な形状をもち、さらに2、3階には城内側にも銃眼を設けるなどの特徴が見られます。
移築修理の際、この櫓は建立直後に補強的な改造を受けているほか、安政3年(1856年)には、ほとんど解体に近い大修理を受けていることがわかりました。

(説明板より)


説明文を読んでみると、この櫓は、もともとここにあったわけじゃやないそうで・・・・
しかも、向きも変えてるし・・・
石垣も拡張して変えちゃっているし・・・
う~ん・・・建物自体は「重要文化財」なんでしょうが、お城全体から考えたら価値は半減のような気がしますが・・・(苦笑)

でも、この櫓・・・・
大きな千鳥破風があるせいなのか、天守閣っぽい形なんですけど・・・
天守閣を小型にしたような・・・そんな感じ・・・
この形・・・いいねぇ~

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そのまま進んで・・・「旭門」という門から城外に出る。
拙者は、お城の中心部から、グルグルと廻りながら城外に出て、さらにお城の周囲を歩くのが好き・・・
時間に余裕があれば、そういうことをするのである。(笑)

で・・・・おや?

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この風景からいうと・・・こちらが正面・・・「大手口」のような気がしますが・・・(苦笑)
近くの説明板を読んでみたら、やっぱり、ここが「大手」だった・・・
ということは・・・拙者は「裏口」から城内に入ったのか?(大汗)
どこからお城に入ったかで、そのお城の印象って変わるんだよねぇ~
過去の経験からいうと・・・・(笑)

812_convert_20160209232215.jpg(大手跡)


大手

高松城の大手(表門)は築城当初南側にありましたが、寛文11年(1671)から始まった松平賴重・賴常による東ノ丸・北ノ丸の新造に伴い、城の南東側に移されました。
現在駐車場のある場所はかつて下馬所(げばしょ)であり、高松城へ登城する人はここで馬を下りて徒歩で入っていきました。
城内に入る橋は旭橋(あさひばし)と呼ばれています。
橋は堀に対して斜めになっており、敵の直進を防ぎ、側面から攻撃できるような仕組みになっています。
江戸時代には木製でしたが、明治45年(1912年)に高松松平家第12代当主賴壽(よりなが)により石橋に架け替えられました。
橋北側の親柱(おやばしら)に賴壽による「旭橋」、南側に同夫人昭子による「あさひばし」の文字が彫り込まれています。
橋を渡ると、旭門と呼ばれる高麗門(こうらいもん)が見られます。
この門を入ると、来訪者を威圧するかのような切石の石垣による枡形(ますがた)(石垣で囲まれた空間)となっており、左手に曲がるとかつては太鼓門と呼ばれる櫓門(やぐらもん)がありました。
また、枡形の北側には石垣をトンネル状に構築した埋門(うずみもん)を設けています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)


さて、今度は、城外をぐるっと廻ってみることにする。(笑)
大手を出て、左に曲がったあたりは、東之丸があった場所らしい・・・

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東ノ丸

生駒氏の後、高松に入った松平賴重は、3年目の寛永21年(1644)年から城の修築に取り掛かり、寛文10年(1670)に天守の改築を行いました。
賴重は翌11年(1671)以後、さらに北ノ丸、東ノ丸といった新たな曲輪(くるわ)(区画)を造るなど、大規模な改修や拡張を行っています。
現在の県民ホールから県立ミュージアム付近がその東ノ丸の跡地です。
武家屋敷と町人街が混在するエリアでしたが、町人街を城外に移動させ、中掘を延長して新たに造られた曲輪です。
その北半分は米蔵丸(こめぐらまる)(食糧貯蔵施設)、南半分は作事丸(さくじまる)(城内の建築工事関係施設)として利用されており、これまでの発掘調査で、米蔵や作事舎の建物の礎石などが見つかっています。
また、東ノ丸の北辺と東辺の石垣の一部が現存しており、史跡に指定されています。
なお、東ノ丸北西隅に位置していた重要文化財の艮櫓(うしとらやぐら)が、保存などの問題から昭和42年(1967)に桜ノ馬場南東隅の太鼓櫓台に移築されています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)


県立ミュージアムの前を歩く・・・
う~ん・・・博物館好きとしては、ちょっと立ち寄りたい気分なのだが・・・
あまり時間がない・・・・夕方の電車で帰らねばならぬのだ・・・
ここは、心を鬼にして・・・(大笑)・・・・博物館は無視することにする。
気が付かなかったことにしよう・・・(大笑)
いつか、また高松に来ることがあったら、その時に見学しよう・・・

そのまま県民ホールの裏(?)に行って見たら、石垣があった。
県民ホールの敷地内に食い込むような形で石垣が残っている。
いや・・・正確には、石垣に食い込んでいるのは県民ホールのほうか?(笑)
でも、こういう残し方というのもいいよなぁ~
普通は埋めてしまうか撤去してしまうから、石垣を保存したまま新たな施設と混在させてしまうというのは、なかなか面白い保存の仕方だと思う。

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香川県県民ホール小ホールと高松城

玉藻公園(たまもこうえん)として市民に親しまれている高松城跡は、昭和30年3月2日に国史跡に指定されました。
この高松城は、豊臣秀吉の家臣であった生駒親正(いこまちかまさ)が天正16(1588)年に築いたもので、城の北側が海に面し、海水を引き入れた三重の堀をもつなど、城造りに海を取り入れていることを大きな特色としています。
生駒氏が御家騒動(おいえそうどう)によって出羽国(でわのくに)矢島(やじま)(秋田県)に転封(てんぽう)されると、水戸の徳川光圀(みつくに)(水戸黄門)の兄であった松平頼重(まつだいらよりしげ)が東讃(とうさん)12万石の領主となり、高松藩が成立しました。
頼重は、城下に上水道を敷設し、天守閣を改築するなどして、城と城下町の整備に努めましたが、寛文11(1671)年からは、城の東側の侍屋敷(さむらいやしき)や町屋(まちや)のあったところに「東の丸」と呼ばれる郭(くるわ)を築造しました。
東の丸の北東の隅には三重三層の艮櫓(うしとらやぐら)が建てられましたが、現在は桜馬場(さくらのばば)の南東部にある太鼓櫓(たいこやぐら)跡に移築復原されています。
現在地は、東の丸の北東にあたり、県民ホール小ホールの建設工事の前に実施された発掘調査によって、江戸時代の絵図に描かれたとおり、海に突き出した石積みの突堤が発見されました。

香川県教育委員会

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(説明碑より)


時刻は午後2時半を過ぎた・・・・
もう限界である・・・・腹が減ったぁ~(涙)
ちょうどお店を見つけたので入る。
香川県に来たのだから・・・やっぱり、うどんを食べよう・・・・(笑)

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さて・・・“燃料”も補給したし・・・“パワー”も戻ってきたので、再び歩くことにする。
広い道路沿いに、高松駅に向かって歩く・・・

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間もなく、櫓が見えてきた・・・
これは、月見櫓だろう。
城内からではなく、外から見る櫓もいいなぁ~

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斜め前・・・海側にも小さな櫓が見えた・・・
こちらは工事用の柵なのか、柵があって近づけない!(涙)
何やら「重要文化財」という説明板が建っているようなのだが、遠くてよく見えない・・・(涙)
持参のタブレットで調べたら「報時鐘」というらしい・・・
この海側の空き地?公園?・・・に移築されたらしいが・・・
なにもこんな辺鄙なところにポツ~ンと移築しなくても・・・という気がしますけど・・・(苦笑)

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道路は片側2車線で、両方で4車線・・・
道路を渡って向こう側に行きたくとも、なかなかタイミングがつかめない。
仕方がないので、横断歩道のある場所まで進んでから、再び月見櫓の位置に戻ることにした。
やっぱり、いろんな角度から写真は撮りたいものである。(笑)

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左から月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓・・・・である。
堀に水がないのが残念!(涙)
ここに水を張って、当時の藩主の小舟を復元して浮かべたら、絵になると思うんだけどねぇ~(笑)

午後3時過ぎ・・・・JR高松駅前に到着・・・

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松の木の所に石碑が・・・・
「高松市の木 黒松」と刻まれている。
へぇ~高松市の木は黒松なんだぁ~

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駅前広場に池が・・・・・
この池・・・・海から海水を引いてきた「海水池」だそうである。
瀬戸内の砂浜も再現しているとかで、江戸時代の護岸や石垣に使われた石も使われているのだそうだ。
海水の池・・・ねぇ~
ということは・・・理論的には、この池の中でカツオやサンマが泳ぐことも可能ということですね?(大笑)

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JR高松駅・・・・やっぱり「顔」が描かれているよな?

まだ電車に乗るには1時間弱の余裕がある。
我が戦友会のおじいちゃんやおばあちゃんに、お土産を買って送ってあげようか・・・
徳島では買わず、ここ高松で買おうと思っていたのだが・・・・どこにもそれらしき店が見当たらない。(大汗)
駅の案内所で尋ねたら「キヨスクの一角で売ってます」と言う。
キオスクで?(汗)
行って見たら・・・・う~ん・・・・コンビニの片隅にお土産が少しだけ置いてあるという感じ・・・
唖然である。
これといったお土産がないのである!
しかも、宅配便で全国に送ろうと思っていたのだが・・・
この雰囲気では宅配はやってないだろうねぇ~(汗)
大失敗である!
こんなことになるなら徳島でお土産を買って送っておけば良かった・・・・
今さら後悔しても遅いが・・・(大涙)
まぁ、今回はお土産なし・・・だな。

「青鬼君のおもてなし」はお土産までは気が回らなかったのか?(大笑)

コーヒーショップで一服・・・・
やはり疲れたときはコーヒーを飲まねば・・・・(笑)

午後5時10分発の「快速マリンライナー」で岡山に向かう。
1時間弱で岡山駅に到着。
ここで新幹線「のぞみ」に乗り換え東京の品川駅へ・・・
品川駅で、午後8時44分発の特急に乗り、午後11時に自宅に戻る。
ということは・・・・高松から実質7時間もかかったってことか・・・・
これを、高松は7時間もかかる遠い場所と考えるか、7時間程度で行ける場所と考えるかだな。(笑)
飛行機を使えば、もう少し短い時間で移動できるんでしょうけど・・・(笑)

今回もまた、楽しい旅行ができた!
旅は最高である!(大喜)

旅行 | 14:34:46 | Comments(0)
源内ゆかりのホルトノキ
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源内ゆかりのホルトノキ

ホルトノキ科
常緑高木
本州(千葉県以西)四国、九州、沖縄、中国に分布する
根皮、枝葉の煎汁をねずみ色の染料にする

源内は宝暦10年(1760)7月、高松藩主松平頼恭に従って江戸から帰る途中、紀州湯浅のある寺でこの木を発見した。
源内はこの苗木を持ち帰り栗林公園内に植えたと言われるが、実はこのホルトノキを「オリーブの木」と思っていたらしい。
著書「紀州産物志」に出ている。
間違って植えたという源内ゆかりのホルトノキがこれである。

財団法人平賀源内先生顕彰会
さぬき市観光協会

(説明板より)


【香川県さぬき市志度46-1・平賀源内先生遺品館】

史跡 | 13:57:04 | Comments(0)
石鎚山奉納灯籠
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石鎚山奉納灯籠

自然石を使ったこのユニークな灯籠は、志度町間川、雲附山に祀られている石鎚神社の奉献と、志度の海辺から玉浦川の河口にかけて繋留する漁船のしるべのため、もとや醤油初代当主小倉嘉平が、石鎚神社の信仰に燃える実弟、高松藩士田山助蔵のすすめによって、弘化3年(1846年)に建立したものである。
小倉嘉平を中心にはじまった石鎚講は、間川を中心にいまもつづいている。

さぬき市
さぬき市観光協会

(説明板より)


【香川県さぬき市志度新町】

史跡 | 13:31:26 | Comments(0)
「志度」に行く
次に向かったのは「瓦町駅」・・・・
琴平電気鉄道・・・通称、「琴電」の駅である。

609_convert_20160201110345.jpg(瓦町駅)

これから「琴電」に乗って、「志度」という町に向かう。
当初は、高松市内を観光するだけにしようと思っていたのだが・・・・
つい、欲が出てきてしまった・・・(大笑)
志度は、あの平賀源内の出身地なのである。
旧邸と資料館、銅像などがあるらしいので・・・・う~ん・・・行って見たい・・・(笑)
また次回にでも・・・となったら、いつになるかわからんし・・・
主要都市なら、また来る機会があるかもしれないが、ちょっと離れた“田舎”(失礼!)には、わざわざ行く機会など訪れることはないだろう。
ならば・・・今回が最初で最後のチャンスかもしれない。(笑)
行って見たら大したことがなくてガッッカリ・・・ということもあるかもしれないが、行って見なけりゃわからない。(笑)
期待はずれの無駄骨となるかどうかどうかは・・・賭けである。(笑)

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午前10時過ぎ、志度に向かう。
約、40分後、志度駅に到着・・・
と・・・駅前を神輿が・・・・
おや?・・・何かの祭りだろうか?

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静かな町である・・・誰も歩いていない・・・・(汗)

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何やら、由緒あるお寺さんを見つけたので、ちょっと覗いてみる。

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史跡と伝統の寺 地蔵寺

景行天皇23年、土佐の海に棲んでいた怪魚が瀬戸内海にはいりこみ神出鬼没、時には海岸にまで押しよせて悪事を働いた。
天皇は心配して、日本武尊の御子霊子に討伐を命令した。
悪魚退治に成功した霊子は、天皇より褒美として讃岐一国を貰い受け国司となり、里人から讃留霊王(さるれおう)と呼ばれた。
後に悪魚のたたりを恐れた里人が、お堂を建て地蔵菩薩を安置したのが地蔵寺(別名魚霊堂)の始まりだと伝えられている。
開祖は、文殊菩薩の化身といわれる薗子尼で、近江の国より流れてきた霊木から志度寺本尊十一面観音を刻ませたお方で、当寺が志度寺奥の院といわれる由縁である。
本堂には本尊文殊菩薩と、中世から江戸時代にかけての巡礼で(当時は日本は66の国で構成されていた)日本全ての国を拝むことにより願い事が叶うといわれた「日本廻国六十六体尊」の本尊が祭られ密教仏としては、全国で唯一のものといわれている。

(説明板より)


さらに閑静な町の中を歩く・・・
本当に、ここに平賀源内の旧居や資料館なんかがあるのだろうか?・・・とちょっと不安になる。(苦笑)

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「皇紀二千六百年記念」と刻まれた石柱(コンクリート柱?)を見かける。
皇紀2600年は・・・昭和でいうと・・・・昭和15年・・・西暦では1940年である。
へぇ~・・・ずいぶん古いものが残っているんだぁ~・・・・
で・・・その記念ということだけど・・・この石柱は何かの横に建てられたものではなかろうか?
そのメインの物が見当たらないんですけど・・・(汗)
石柱には、ゴミネット(網)が縛り付けられていた。
ここが「燃えるゴミ」等の集積所になっているようである。
う~ん・・・・こういう使い方もあるか・・・記念碑・・・(笑)

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大きな石灯篭に出遭う・・・・
「石鉄大権現」と刻まれているように見える・・・
江戸時代の頃のものだろうか?・・・

平賀源内旧邸に向かう道すがら、所々に平賀源内に関する掲示物が貼られていた。

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これなどは、小学生が描いた絵や作文などが載っている。
いいね・・・こういうの・・・

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またまた、お神輿(山車?)に出遭った・・・
さっき、駅前で見かけたのは「幸組」だったが、こちらは「寶組」らしい・・・
どうも“組”が違うようだ・・・
お神輿(山車?)の中に、子供達が乗っていて、太鼓を叩きながら、何やら難しい歌を大声で唄っている。
いやぁ~その上手なこと・・・
大したものである。

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さらに歩いていくと、空き地に別の“組”がいた。
「旭組」というらしい・・・
この町にはいくつ“組”があるんだ?(汗)
それにしても、この神輿・・・一緒に歩くのは法被(はっぴ)を着た町の青年団(?)の人たちだけ・・・
別に沿道に観客がいるわけでもない・・・(汗)
なのに、神輿に乗った子供達は大声で歌を唄いながら町の中を通っていく・・・
なんだろ・・・これ・・・・
祭りなんだよね?・・・一応・・・
な~んか、寂しい気がしないでもない・・・
カメラを向けて写真を撮っているのは、拙者しかいないというのも・・・ねぇ~・・・・(大汗)

拙者は、基本的に「お祭り」は好きではない・・・(大笑)
神輿に乗るのも、担ぐのも好きじゃない・・・
盆踊で踊るのも好きじゃない・・・(笑)
しかし、裏方のスタッフをするのは大好きなのである。(大笑)
地元の「まつり」でも裏方のスタッフをやったことが何度もある。
もう、ワクワク・・・である。
企画、運営、当日の采配・・・もう血が騒いじゃうんですけど・・・(大笑)
表舞台に出るのは嫌いだが、裏方は大好き!(大笑)
う~ん・・・私に出来ることがあれば、飛び入りでお手伝いをしたい衝動にかられた。(大笑)

偶然にも、この空き地の隣りが「平賀源内の旧邸」だった・・・(苦笑)

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早速、平賀源内の銅像とご対面である。
で・・・その直ぐ隣りが旧邸である。

672_convert_20160201201817.jpg(平賀源内旧邸)


平賀源内先生旧邸

今から二百数十年前、日本の夜明けとも言うべき時代に現われ、数奇な運命をたどった源内先生は、高松藩の軽輩御蔵番の子として、ここ志度町新町に生れた。
先生は幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)。
元服して国倫(くにとも)。
通称を源内と呼んだ。
また号を鳩渓、風来山人、天竺浪人。
作家として福内鬼外、俳諧では李山と称した。
宝暦2年、新知識の輸入地である長崎に留学し、主として医学、本草学を修め、帰郷後は磁針計、量程機の発明、陶器の製造など藩に新風を吹き込んだが、世間の風当たりは強く、27才の時退官を願い出て江戸に立ち、田村藍水に師事する一方、昌平黌(こう)にも学んだ。
宝暦7年、藍水と共に日本で最初の物産会を江戸湯島で開催、その後は自ら会主となった。
高松藩では先生が名声を博するや、一方的に薬坊主格、切米銀十枚、四人扶持の藩士に召しかかえたが、先生は再び俸禄を辞した。
その後伊豆に於ける芒硝の発見、紀州物産誌の編纂(さん)、物類品隲(しつ)の刊行をはじめ、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の発掘、寒熱昇降器の発明、源内焼、西洋画の教授、日本で初めてのエレキテルの復原など世人を驚ろかせた。
この外滑稽小説「根南志草」、「放屁論」、「風流志道軒伝」や浄瑠璃「神霊矢口の渡」、「弓勢智勇湊」、「忠臣伊呂波実記」などの作品をつぎつぎに発表して江戸の人気を博した。
安永8年、ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、伝馬町の獄中で52才の心なじまぬ生涯を終えた。
友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に埋葬。
そのほとりに碑を建て「あゝ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる」と記し、先生の一生を讃えた。
この旧邸は昭和54年3月25日源内先生二百年祭にあたり修復したものである。

財団法人 平賀源内先生顕彰会

(説明板より)


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この旧宅の受付の方に「お祭」について尋ねたら・・・
この町には7つほどの地区に分かれているそうで、今年は、この地区が「お接待役」の当番で大変なのだそうだ。(笑)
なにせ、若い人が少なくなっているし・・・とのこと。
日本全国、どこの町でも同じような悩みがあるようである。
それでも、ああやって小学生が元気良く太鼓を叩いて歌を唄ったりしているんだから大したものである。
この子供たちの“出番”は日が沈む夕方までだそうで、その後は中学生が行なうのだそうだ。
へぇ~そりゃ大変だ・・・・
どうやら昼の部、夜の部があるらしい・・・
丸一日がかりかと思ったら、明日もやるそうで・・・2日がかりだそうだ。(汗)
そりゃ、なおさら大変ですねぇ~・・・などと、おしゃべりをする。(笑)

旧邸の裏に「薬草園」があったので見学する。
拙者は薬草に関しては全く知識がないが・・・
ん?・・・・薬草園で思い出したが・・・
以前、どこかの誰かの薬草園を見学したんだよなぁ~(笑)
誰だったか、誰かの記念館の裏に薬草園があって、職員の人に案内してもらったことがある。
が・・・どうしても思い出せない!(涙)
どこへ行った時に見たんだっけ?
「へぇ~?この草も薬草なんですか?」なんて話したことは覚えているのだが・・・
あれは何という草だったっけ?
最近は物忘れ、物覚えが、さらにひどくなってしまったようで・・・(大汗)
参ったなぁ~・・・・
あと何年か経ったら、ここに来た事も忘れてしまうのだろうか?(大汗)

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薬草園由来記

高松藩蔵番(くらばん)の家に生まれた平賀源内は、陶(すえ)村の三好喜右衛門に本草学(ほんそうがく)(薬学・医術)を学んだという。
寛延2年(1749)父茂左衛門の逝去によって役を継いだ源内は、しだいに藩内で頭角を表し、本草学の才能を認められていった。
宝暦2年(1752)長崎に赴いた源内は、広い世界への目を見開かれ、同4年に蔵番退役願いを提出する。
同6年江戸に出て当時日本有数の本草学者であった田村藍水に入門した。
藍水のもとで本草学に出精した源内は、世界最初の博覧会とも呼ばれる「薬品会(やくひんえ)」を提唱し、宝暦9年(1759)には主催者となった。
翌月、高松藩から与えられた三人扶持(ふち)を源内は「学問料」ととらえていたようだが、実質的な再仕官であり、藩主の命で薬種採集を続けることになる。
相模(神奈川県)や紀伊(和歌山県)への採集行のほか、藩内で巴戟天(はげきてん)(ジュズネ)を発見するなどの業績を上げ、宝暦10年(1760)には薬坊主格に昇進した。
源内の手で御薬園(栗林公園)の整備も一段と進んだことだろう。
ただし、宝暦11年(1761)に再び高松藩を辞して江戸に戻った源内は、翌12年に第5回目の薬品会を主催し、これは壬午(じんご)の大物産会(え)と呼ばれた。
その大物産会の成果を中心に、5回の薬品会を集大成したものが、源内の本草学の主著であるのみならず、当時の本草書の逸品ともなった『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(宝暦13年刊)である。
本文4巻、図絵1巻、付録1巻の計6巻より成るこの大作は、源内の本草学の質の高さと斬新さを余す所なく物語る記念碑的な著作であった。
中でも付録に記された砂糖製造法は、のちの和三盆に結実する讃岐地方の製糖との深い関わりの歴史に記された第一歩として記憶される。
昭和54年(1979)、源内先生二百年祭記念に当たり、その偉業を偲ぶため、旧邸の一隅に、ゆかりの薬草園を新設したものである。
そして平成19年(2007)源内薬草研究会によって、高潮被害の薬草園を再生する。

(説明板より)


この旧邸に隣接して「平賀源内先生遺品館」というのがある。

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平賀源内先生遺品館

源内先生は、日本文化の爛熟した江戸時代中期に生まれ、まず本草家として日本初の博覧会=薬品会を開催して名を挙げ、鉱山開発を行い、戯作・浄瑠璃を作っては作家の親玉と言われ、西洋画を描いては秋田蘭画の仕掛人となり、陶器を造っては源内焼の流れを作り、エレキテルの復元をはじめ数々の発明品を創り出し、変化龍の如く、その多彩な才能を発揮して、広範囲の分野で活躍しました。
先生は獄中で悲劇の生涯を閉じられましたが、洋学の黎明期に果たされたその偉業は広く認められ、その死は惜しまれました。
先生を顕彰する思いは明治13年の没後百年祭から始まり、昭和4年には百五十年祭とともに平賀源内先生顕彰会が発足しました。
松平頼寿(貴族院議長)を会長に、東京での墓地修復、「平賀源内全集」の発刊、地元では旧邸・遺品の保存、銅像の建設などが行われました。
そしてこの遺品館は、ニ百年祭記念にあたり昭和54年3月25日新築しました。
源内先生の先見性や独創性、また広い視野と柔軟な発想で現実に立ち向かった行動力を、ご来館の皆様に感じ取っていただければ幸いです。

財団法人 平賀源内先生顕彰会

(説明板より)


時刻は午前10時半・・・・
続いて、もう一つの「資料館」に向かうことにする。

途中で見かけた景色・・・
大きな絵馬みたいな看板が設置されていた。
たぶん・・・お祭のために設置したんだろう。

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で・・・「平賀源内記念館」を見学・・・・

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記念館を見学後、駅に向かう途中、またもや神輿(山車?)に出遭った。
こちらは「鳳組」らしい・・・
この狭い道を曲がるんだから大変である。
この長い棒・・・担ぐためにあるんだよね?
今日は神輿を担がないけど、明日は担ぐのかな?
こちらも神輿に乗った小学生が太鼓を叩きながら大きな声で唄っている。
いやぁ~元気があって聞いていて気持ちがいいねぇ~(喜)

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お昼過ぎに「琴電・志度駅」に到着・・・
う~ん・・・昼飯を食べている暇などない・・・(苦笑)
時間に余裕があったら「栗林公園」に行ってみたいとも思ったが・・・
このタイミングでは、「栗林公園」に行っては、「高松城」を見る時間がなくなってしまう・・・
う~ん・・・参ったなぁ~・・・・
今日中に帰宅しなくちゃならんしなぁ~(汗)
やむなく・・・・高松城を優先することにした。

691_convert_20160203171050.jpg(志度駅)

琴電の「志度駅」は小さな駅舎である・・・・(笑)

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しかも、単線で・・・・しかも、この駅が「終点」である・・・・

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この電車・・・20分間隔で運行しているらしい・・・
折り返し12時20分発に乗って高松に向かう。

旅行 | 12:59:27 | Comments(0)
椋園先生遺愛之碑
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椋園先生遺愛之碑

椋園先生は、本名を赤松 渡と言った。
赤松家は、代々医術をもって高松藩に仕えていた。
先生は幼い時から勉強を好み、片山冲堂先生に学んだ。
武術も習得したが、槍術が得意であった。
家業をついで御殿医に進んだ。
明治の初め藩知事のもとで判事を兼務した。
松平家11代頼聰公は先生に文武の才能があるのを知り、御殿医の兼任を解き、専ら政治に当たらせることにした。
少参事に選任され、大変感激して精励した。
先生は香川県、徳島県の会計検査院に奉職、その後、明治23年5月5日、初代高松市長に任命された。
常に、市民の暮らしを心配し、産業の振興、福祉の充実に努めた。
功績は大きく、特に顕著な業績は、高松から脇町までの立派な道路(現在国道193号)を作ったことである。
高松港を修築しようとして計画書を完成させたが、市長の任期が満了し、退任した。
57歳であった。
先生は各地に出かけて、すぐれた文人と交わり、見聞を広めた。
その名声は諸国に広がり、教えを請うものが後を断たず、そのため、養浩塾を開き、優れた人材を輩出した。
先生は、世俗の名誉や利益にまったく無関心で、門弟たちの教育に打ち込むこと10年余りに及んだが、病気になり、不帰の人となった。
享年75歳。
府中村(坂出市府中町)の信義に厚い門弟たちが相談して、鼓岡顕彰会を作った。
旧友、門人は先生を慕い、先生の遺徳を後世に伝えるため、大正6年5月、植田倬にこの文章を書かせ、入谷暘の書による碑を先生のお墓の側に建てることになった。

(注記)
初代高松市長赤松椋園先生の墓は、三番丁の大本寺境内(現在の四番丁小学校西北端)にあった。
復興土地区画整理事業の為、姥ヶ池墓地に移され、この碑もその傍にあったが、昭和61年4月、中央公園完成を記念して、此処へ移設した。

(説明碑文より)


【香川県高松市・中央公園内】

史跡 | 10:13:05 | Comments(0)
亀井戸跡
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亀井戸跡

生駒家4代高俊のとき、伊勢藩士西嶋八兵衛によって石清尾山塊の東西に分流していた香東川の流れを西側に合流させた。
このとき城下町の給水源として給水池や井戸をつくった。
その後、高松城下の飲料水が乏しくなったのを心配して、高松藩初代藩主松平頼重は正保元年(1644)水源七か所を選び土管、木樋・竹管を埋めて水道をつくった。
この亀井戸はわき水の出る穴が甕形の穴なので甕井(亀井)霊泉と呼び、その大きさはほぼ東西18メートル・南北36メートルあり、土地の人々は井戸と呼び、主として高松市の東北部に給水したという。
その井戸のそばに、頼重は水神社をまつり敬神した。
祭神は伊弉册命の御子である水波能売神である。

高松市教育委員会

(説明板より)


【香川県高松市鍛冶屋町】

史跡 | 09:48:23 | Comments(0)
高松の銅像巡り
ホテルをチェックアウトして、近くの「高松市立中央公園」へ向かう。
高松ではゆっくりしている時間はない・・・
今日中に帰宅しなければならないのである。(涙)
というわけで・・・朝から、大急ぎで飛びまわることになる。
とにかく限られた時間内で、いろいろと見て回らねば・・・・(笑)

この中央公園には、いくつかの銅像が建っていることは事前の調査で知っていたので、わざわざ、この公園の近くのホテルに宿泊した。(笑)
それでも不安なので、自分としては珍しく早起きしての観光となる。(大笑)
すべて、時間との競争なのである。(大笑)

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まずは公園の外周からグルッと歩いてみる。
と・・・・公園の反対側に何かの史跡が・・・
行って見たら、「菊池寛の生家跡」と説明板が建っていた。

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菊池寛 生家跡

「文壇の大御所」と言われた菊池寛は明治21年、香川郡高松7番丁6番戸の1(高松市天神前4)に生まれた。
生家は、敷地200坪、母屋はわら葺、まわりは板塀に囲まれていた。
寛は明治41年に上京するまで、ここに住んでいた。
石碑の「菊池寛 生家の跡」は、友人の小島政二郎(作家)の筆による。
寛自筆の「不実心不成事 不虚心不知事」(実心ならざれば事成さず 虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘。

高松市教育委員会

(説明板より)


へぇ~菊池寛って高松の人だったんだ・・・
とはいうものの・・・菊池寛って、どんな本を書いたんだっけ?(苦笑)
読んだことがないから知らない・・・(大笑)
偉い作家さん・・・というイメージしかないのだ・・・(大汗)

公園の中を歩く・・・・

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野球のユニフォームを着た人の銅像・・・
誰かと思ったら・・・三原脩(みはら・おさむ)(右の人)と水原茂(みずはら・しげる)(左の人)だった・・・
と・・・言うものの・・・(大笑)
拙者は全く知らない。(大笑)
だいたい野球に全然興味がないのである。
だいたい、この間、ホテルで王貞治さんと目が合ったのに気がつかなかったくらいなのだから・・・(大笑)
へぇ~・・・銅像になるってことは、有名な選手だったのでしょうね?(大汗)


野球王国高松を築いた名将

水原茂・三原脩は終生相対峙し、数々の名ドラマを演じ、我国野球史に栄光の足跡を印刻する。
往いて再び帰らぬ往年の両雄の功績を讃え、ここ高松球場跡地に銅像を建立する。

(銅像・碑文より)


三原 脩(1911~1984)

満濃町に生まる。
旧制高松中学校時代遊撃手で甲子園に出場、早稲田大学に進み二塁手となり1年からレギュラーとして活躍。
プロ野球第1号選手として契約巨人に入団。
現役引退後再び巨人を始め西鉄・大洋・近鉄・ヤクルトの各球団監督を歴任し、作戦統率の妙に優れた知将として名声を博す。
1983年野球殿堂入り。

監督歴
1947~1949巨人 1951~1959西鉄 1960~1967大洋 1968~1970近鉄 1971~1973ヤクルト
通算26年 3,248試合(歴代1位) 1,687勝(2位) 1,453敗 108分 勝率 .537
優勝6回 日本シリーズ優勝4回

(説明板より)


水原 茂(1909~1982)

高松市に生まる。
旧制高松商業学校時代全国優勝2回、慶応大学時代優勝5回。
投手・三塁手として学生野球の黄金時代を築く。
プロ野球巨人に入団、俊敏・強肩の名三塁手として活躍した天才的スタープレーヤー。
巨人・東映・中日の各球団監督を歴任し、洗練された誇り高き勇将として名声を博す。
1977年野球殿堂入り。

監督歴
1950~1960巨人 1961~1967東映 1969~1971中日
通算21年 2,782試合(歴代4位) 1,586勝(4位) 1,123敗 73分 勝率 .585
優勝9回 日本シリーズ優勝5回

(説明板より)


碑文によれば、この公園は、昔は球場だったんですか?(唖然)
へぇ~・・・・である。

次に見つけたのが「玉楮象谷先生」の像・・・・
ん?・・・この方は何をした人なんだろう?

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漆芸家 玉楮象谷(1806~1869)

文化三年、高松市磨屋町に生まれ、性格は豪放磊落(ごうほうらいらく)で鬼才に富んでいました。
二十歳の時、高松藩主に天分を認められ京都へ遊学し、中国伝来の漆塗技法の研究を重ねながら自らの漆芸を創作しました。
帰高後、三代の藩主に仕え、香川漆芸の礎を築いたばかりか、日本漆芸界に不朽の名をとどめました。
藩主に献上した「蒟醤(きんま)料紙箱」「硯箱」の意匠と巧妙の高さは、神技とさえいわれています。

高松市
高松観光協会

(説明板より)


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この銅像の台座の部分に何やら貼り紙が・・・
どうも小学生のグループが社会科の勉強の一つとして調べたものを掲示したようである。
ビニール袋で保護したらしいが、残念ながら雨水が入り込んだのか滲んでしまっていた。
あらら・・・もったいない・・・
こういうのは、できればもっと丁寧に扱って、半恒久的に掲示してあげるといいんだけどねぇ~
せっかく、子供達が作ったんだから・・・
教育委員会の説明板並みに扱ってあげてもいいんじゃないのかな?
子供たちの励みにもなるんじゃないのかな?
将来、優秀な郷土史家が彼らの中から出てくるかも・・・(大笑)

次に見つけたのが「國東照太翁」の像・・・・

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どこから見ても政治家の銅像だなとわかる銅像である。(大笑)



元高松市長 従四位勲三等 高松市名誉市民第一号の國東照太翁は 明治二十年一月一日 旧中野村に生まれ 昭和四十七年六月十一日 八十五歳で永眠された。
高松市議会議長を経て 第十二代官選市長となり 昭和二十二年四月 初代公選市長に当選 以来連続五期二十一年間にわたり 戦災復興 町村合併 玉藻公園開設など高松市政の発展に多大の功績を挙げられた。
市長をやめられてからも 市長はん おやっさん と市民から慕われ 優れた庶民市長であった。

(碑文より)


で・・・・次が・・・ド~ンと・・・「菊池寛」の銅像である!
菊池寛って、こういう人だったのかぁ~・・・である。(笑)
なんで拙者は名前だけ知っていて外見も中身も業績も何も知らないのだろう?(大汗)
教科書か何かだけでしか習わなかったからなのかな?(苦笑)

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文豪 菊池 寛

明治二十一年高松市生まれ、香川県立高松中学卒業、大正五年京都大学英文科卒業。
中央公論に“無名作家の日記”を発表して作家生活に入り、文藝春秋を創刊します。
“藤十郎の恋”“忠直卿行状記(ただなおきょうぎょうじょうき)”“父帰る”“義民甚兵衛”“屋上の狂人”等多くの作品を残し、昭和二十三年六十一歳で死去。
菊池寛顕彰会により、昭和三十一年この銅像が建てられました。

(説明板より)


説明板には「菊池寛記念館」への案内図が載っていた。
う~ん・・・どんな記念館なのか博物館・資料館好きの拙者としては行きたい気になるのだが・・・
時刻はまもなく午前10時・・・・
記念館に行っていたのでは、次の予定がこなせなくなる。
ここは我慢して、当初の予定通りの行動をするか・・・(涙)
改めて次回来た時に・・・ということになるが・・・
それが10年後になるか20年後になるか・・・(苦笑)

そろそろ、次の場所に移動しようかと思ったら、変な銅像(石像?)を見かけた・・・
「ハゲさん」と言うらしい・・・
どこから見てもタヌキに見えるのだが・・・
なんで「ハゲ」なのか?(苦笑)

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ハゲさん

その昔、この辺りは、浄願寺の広大な境内で大木の茂った森があった。
この寺は殺生が禁じられていたので狸の住むにはあつらいむきの場所であった。
昔この森の中に一匹の狸が住みついていた。
ある年の暮近く貧しい老夫婦の生活を救うため、茶釜に化けたまま売られて行った。
茶釜は毎日磨かれるので狸の頭はつるつるに禿げてしまい痛い痛いと泣いていた。
住職は、かわいそうに思って鏡餅を三つ与えたところ泣きやんだ。
それから「今泣いたのだあれ・・・お鏡三つでだまあった」と子供をなだめる歌となった。

平成5年8月28日
高松市四番丁校区
地域おこし事業推進委員会

(説明板より)


へぇ~・・・・なるほどね・・・それで「ハゲ」?(笑)
道理で頭の上に誰かが帽子を乗せたわけだ・・・(大笑)

1時間弱、公園内をウロウロして銅像めぐりをした・・・
さて、次は、「琴電」の駅に行って「志度」という町に向かうことにする。

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途中、「高松国税総合庁舎」を見つけたので、歩道橋の上から写真を撮る。(大笑)
この総合庁舎の中に「高松税務署」があるらしい。
なんで、国税局の建物なんかを撮影するのかというと・・・・
この間、九州へ行った時に、たまたま臼杵税務署や佐伯税務署の前を通ったので写真を撮ったのである。
で・・・・これはいけるかも・・・と、ひらめいた・・・(笑)
法人会の会報に税務署の写真を載せて・・・題して「全国税務署めぐり」!(大笑)
別に税務署を訪問して署長にお話を伺おうなんていう気はさらさらない・・・(大笑)
外観だけを撮影するだけ・・・・(笑)
しかも、「巡り」という割にはわざわざ訪問するわけではない。
旅行中に、たまたま偶然、税務署を見かけたら写真を撮るというだけ・・・
広報委員としては、楽な仕事である。(大笑)
これで、簡単な記事ができるので、紙面の余白を埋めるには、ちょうどいいのではなかろうか?

徳島税務署は撮影できなかったが、高松税務署はゲットしたぞ!(喜)

旅行 | 09:04:13 | Comments(0)