FC2ブログ
 
■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2ブログランキング
■ブロとも申請フォーム
■最近のコメント
■小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

■ブログ内検索

■リンク
■RSSフィード
■FC2カウンター

明治天皇の歌碑
212_convert_20160110201655.jpg

明治天皇の歌碑

明治天皇は舞子の景勝をことのほか愛され、1885年以来、7回にわたって行幸(ぎょうこう)されました。
その最初の時の様子が、歌碑に3首の御製と共に刻まれています。
有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁親王殿下が御別邸を建てられるまでは、舞子有数の料理旅館だった亀屋旅館がよく御在所となっていましたが、1928年の国道2号の拡幅工事で移転することとなり、1936年の国道工事竣工に合わせて、この旅館の跡に明治天皇の歌碑が建立されました。
また、この歌碑は1998年の国道拡幅により、舞子公園内の位置に移築されました。

正面の御歌
播磨潟(せき) 舞子の浜に 旅寝して 見し夜恋しき 月の影哉

右面の御歌
あしたづの 舞子の浜の 松原は 千代を養ふ 處(ところ)なりけり

左面の御歌
播磨潟 舞子の浜の 浜松の かげに遊びし 春惜しぞ思ふ

裏面の記載
恭シク惟ルニ 明治天皇舞子ニ行幸アラセラルルコト御七回舞子風景御追憶ノ御製三首アリ舞子及ビ縣民ノ榮誉之ニ過タルハ莫シ殊ニ明治十八年七月山口廣島岡山三縣御巡幸ノ御砌畏クモ陸路蹕ヲ本縣ニ進ノタマヒ八月八日姫路ニ九日明石ニ御駐輦アラセラレ翌十日神戸ニ向ハセタマヒ御途次舞子河合卯兵衛宅(亀屋旅館)ニ御小休アリ漁民捕魚ノ状ヲ叡覧アラセラル蓋シ破格ノ聖恩ナリ大正年間國道擴張ノ工起ルニ及ヒ当年ノ御遺跡其名残ヲ留メサルニ至ル洵ニ恐懼ニ耐ヘサルナリ因リテ舞子御追憶ノ御製ヲ刻シ奉リタル碑ヲ此地ニ建テ以テ之ヲ永遠ニ傳フ庶クハ聖徳拜慕ニ資スルコトヲ得ン

昭和十一年十一月三日

兵庫縣知事岡田周造謹ミテ誌ス

碑設計者神戸高等工業学校長 古宇田 實

(説明板より)

【兵庫県神戸市垂水区東舞子・兵庫県立舞子公園内】

スポンサーサイト



史跡 | 20:15:32 | Comments(0)
孫文書「天下為公」の碑
146_convert_20160110200154.jpg

孫文書「天下為公」碑

「天下為公」(天下を公と為す)は『礼記(らいき)』(前漢)の「礼運」篇にみえ、孫文が好んだ言葉の一つです。
この碑の除幕式は、1948(昭和23)年、孫文生誕にちなんで11月12日行なわれました。
碑の建立には池田豊(民論社)や陳徳仁(神戸中華青年会)らが尽力しました。
この碑の元とされた「天下為公」の書は、1924(大正13)年11月、孫文が兵庫県立神戸高等女学校で「大アジア主義」の講演を行ったとき、請われて揮毫したもので、現在は兵庫県立神戸高等学校の「校宝」とされています。

(説明板より)

【兵庫県神戸市垂水区東舞子町2051・孫文記念館】

史跡 | 20:00:33 | Comments(0)
「舞子」で道草
088_convert_20160110111506.jpg

午後3時、「高速舞子」に到着・・・
このバス停・・・橋の上にある・・・(汗)
バスターミナルで降りるんじゃなくて、橋の上に降りるのか?(苦笑)
階段を伝って下に降りると、ちょうど、喫煙所があったので、そこで一服・・・(笑)
橋を下から眺めるのって・・・女性のスカートを下から覗くようで、なんだか変な気分である。
(そういうことを考えるのは拙者だけか?)(大笑)

091_convert_20160110112233.jpg 090_convert_20160110112200.jpg

時間に余裕はある・・・
今晩中に徳島に到着すればいいのだから、何もそう急ぐこともあるまい。(笑)
ここで、ちょっと“道草”をすることにする。

092_convert_20160110115303.jpg 094_convert_20160110115117.jpg

公園の案内板を見てみると、どうも近くに「孫文記念館」という建物があるようである。
「孫文」って・・・あの孫文か?
「孫文は立派な人だ」という好評価と「あの男はとんでもない男だ」という悪評がある・・・
どちらが正しいか拙者にはわからない。
人間には二面性があるし・・・評価する側の立場によって、その評価も違うだろうから・・・
明治維新の志士も、徳川幕府側から見たら、ただのテロリストである。(苦笑)
坂本龍馬も、現在はチヤホヤされているが、彼はテロリストである。(笑)

100_convert_20160110121249.jpg

向うに見えるのが、淡路島か?(喜)

101_convert_20160110121827.jpg(孫文記念館)


孫文記念館(重要文化財)
(旧称:孫中山祈念館)~移情閣~

孫文記念館は中国の革命家であり思想家の孫文(1866年~1925年、号は中山または逸仙、英文名 Sun Yat-sen)を記念する日本で唯一の博物館である。
この建物は神戸で活躍した中国人実業家、呉錦堂(1855年1926年)の別荘[松海荘]を前身としている。
還暦を迎えた同氏は当時の建築の粋を尽して増築した八角三層の楼閣に、故郷への想いを込めて[移情閣]と命名した。
松海荘の本館には1913年(大正2年)3月、準国賓として来日中の孫文が、神戸在住の中国人および財界有志による歓迎昼食会に招かれ立ち寄った。
本館はその後、神明国道(現国道2号)の拡幅により撤去されたが、移情閣と付属棟はそのまま残された。
戦後は神戸華僑総会によって管理され、1982年(昭和57年)に日中国交正常化十周年を記念して兵庫県に寄贈された。
孫文ゆかりのこの建物は1984年(昭和59年)11月12日に孫中山記念館として再び公開された。
この記念館では、神戸との関わりを中心とした孫文の生涯、呉錦堂の事業、移情閣の復原などについての展示がおこなわれている。
移情閣は1993年(平成5年)12月10日、兵庫県の「重要有形文化財」に、2001年(平成13年)11月14日には国の「重要文化財」に指定された。
建物は木造軸組に、外装材として無筋中空のコンクリートブロックを緊結して積み上げた構造となっている。
コンクリートブロックを用いた建物としては最初期のものであり、その構造や技術を伝える遺構として重要である。

重要文化財 移情閣(指定番号 建第2402号)
木骨コンクリートブロック造り 八角三階建 正面玄関ポーチ付側面階段室付 スレート葺及び銅板葺 建築面積105.7㎡

(説明板より)


150_convert_20160110142643.jpg 103_convert_20160110143013.jpg

107_convert_20160110143127.jpg 132_convert_20160110143540.jpg

時刻は午後4時15分・・・・
まだ、もう少し時間に余裕がある。(苦笑)
よし、すぐ近くにある「旧・武藤山治邸」を見学することにする。
ところで・・・武藤山治って・・・誰?(苦笑)

154_convert_20160110150025.jpg(旧・武藤山治邸)

最終入場時間ギリギリだったせいか、見学者は誰もいなかった。
「孫文記念館」もそうだったが、見学客は殆どいない・・・(汗)
外には、観光バスで中国人の団体が乗り付けているのにねぇ~
誰も見学しないのか?・・・孫文の記念館・・・・(汗)

163_convert_20160110150733.jpg 172_convert_20160110150919.jpg

173_convert_20160110151049.jpg 179_convert_20160110151301.jpg

さて・・・武藤山治って・・・誰なんだろう?
食堂に飾られている肖像画の下に説明文があった・・・


武藤山治(むとうさんじ)
慶応3年(1867年)~昭和9年(1934年)

美濃国安八郡(現在の岐阜県海津市)に生まれる。
三井銀行を経て鐘淵紡績へ入社、社長を勤め、外資導入など新しい経営手法を取り入れ、鐘紡をわが国有数の大企業に育てあげた。
温情主義、家族主義的経営で知られる。
大正13年から昭和7年まで衆議院議員を3期勤め、政界引退後は福沢諭吉の残した時事新報を立て直すべく社長を勤めました。

(展示説明文より)


204_convert_20160110152342.jpg 205_convert_20160110152423.jpg

時刻は午後4時40分・・・
見学時間は30分弱・・・
あっさりと見終わった。(笑)
で・・・そろそろ徳島に向かおうかなぁ~(大笑)

224_convert_20160110153830.jpg

帰り道もまた橋の下をくぐる・・・・
ん?・・・この景色・・・
以前、下関に行った時に関門橋の下をくぐった時に見た景色に似てるなぁ~(笑)
まぁ、橋の下から見た景色なんて、みんな同じか?(苦笑)

「高速舞子バス乗り場」に隣接する「ティオ舞子」という商業施設の中の喫茶でコーヒーとケーキを食べて一休み。(笑)

226_convert_20160110154818.jpg

午後5時40分発の徳島駅行きの高速バスに乗る。
沈みゆく夕陽を見ながら再び橋を渡り淡路島へ・・・・

227_convert_20160110155328.jpg

淡路島を一気に横断(縦断?)して、午後7時に徳島駅に到着!
今晩のホテルは駅から離れたところ・・・・
徒歩で20分程度だろうか?
駅前のホテルに宿泊するのが便利なのだが、今回は繁華街に近い場所にあるホテルを予約した。

229_convert_20160110155952.jpg

駅前からテクテクと夜道を歩き橋を渡る。
並行して向うに橋が・・・
明るくライトが点いている橋なので、おお、これは綺麗だと写真を撮ったが・・・・
いざ写真を見ると全然綺麗じゃない・・・(大笑)
やっぱり何でも実際に見るのががいいようである。

ホテルにチェックインし、夕食・・・
外で食事処を探すのは面倒なので、ホテル内のレストランで夕食を食べる。
で・・・夜の街へ“出動”!!(大笑)
なにせ、明日は“シミズ委員長”がやってくるのである。
で・・・大会に参加し、懇親会に参加し・・・
次は、二次会となるだろうから・・・・下見をしておかねばならぬ。(大笑)
前日に来ているんだから、どこか適当な店を下見していなかったら、拙者は“役立たず”となろう?(大笑)
で・・・夜のネオン街を一人でウロウロ・・・・(大笑)

旅行 | 18:07:54 | Comments(0)
淡路島へ行く
徳島で開催される大会に参加するのだが・・・
まだ徳島には行かない・・・(大笑)
そうそう簡単に行ってたまるか・・・である。

今日は淡路島在住の我が戦友会の副会長宅を訪問することにした。
この副会長の“イズミヤさん”は確か・・・95歳だったと思う。
5年ぐらい前に慰霊祭でお会いしたのが最後・・・
温泉宿に一緒に泊まって、大浴場の温泉に一緒に入って、健康法と長生きの秘訣などを延々と話してもらったことがある・・・(大笑)
その後、高齢のため外出を控え、慰霊祭には出てこなくなってしまったが・・・
我が茨城で地震が起こり、TVの速報でわが町の名前が出ると、「大丈夫かぁ~!」と電話をしてくださる。
90歳を過ぎた方に「ガンバレよぉ~!」と励まされるのも、おかしな気分だが・・・(苦笑)
拙者のことを、いつも心配してくださる“戦友”なのである。

随分前から会いに来てくれと言われていたが、どうも電車の通っていないというのがネックで・・・(大笑)
拙者は電車で移動することはできるのだが、バスの移動は苦手なのである。(汗)
どうも、あの料金箱に小銭を入れるというのが苦手で・・・(苦笑)
バス会社によって乗車口が前だったり後ろだったり・・・
料金も前払いだったり後払いだったり・・・
電光掲示板の料金表示が、降りる予定の手前のバス停で料金が変わったりするとドキッとして心臓に悪いのである。(大笑)
で・・・財布の中の小銭を確認すると・・・「10円足りない!!」(大汗)
これが嫌なのである・・・
乗っている間、外の景色も見ずに料金表示とにらめっこ・・・
で・・・降りるバス停の名前を聞き逃すまいと必死に耳をそばだてなくてはならない。
バスに乗っている間、ず~っと緊張していなければならないのである。
というわけで・・・拙者は副会長に請われても会いに行かなかったのだが・・・(大笑)

今回の機会を逃したら永遠に会えなくなるかもしれないと思い、思い切って会いに行く事にしたのである。

午前8時、ホテルをチェックアウトして、三ノ宮駅にある「三宮バスターミナル」に向かう。
色々調べたら、ここから乗るのが一番わかりやすそうなので三宮にした。
というわけで・・・・昨晩はJR三ノ宮駅近くに宿泊したのである。

それにしても、ここは「三宮駅」と「三ノ宮駅」と名称が二つあるから、迷ってしまう。
結局は、繋がっているんだろうけど・・・
田舎者には、こういうのは本当に困る。
一つの名前に統一してもらえないだろうか?(大笑)

076_convert_20160103172425.jpg(ターミナルのバス乗り場)

バスターミナルの待合室は大混雑・・・
なんでこんなに並んでいるのか?
まさか、淡路島に行く人たちじゃないよね?(汗)
どうやら、大阪の「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」に行く人達らしい・・・
で・・・拙者は淡路島に行きたいんですけどぉ~・・・(汗)
どうすればいいのでしょうか?(大汗)
窓口で尋ねたら、自販機で切符を買ってくれとのこと。
おお、前払い・・・助かった・・・これで安心してバスに乗っていられる。(笑)

077_convert_20160103172513.jpg

「洲本高速バスセンター」行きの高速バスに乗り込む。
乗客は拙者を含めて4名程度しか乗っていなかった・・・(汗)
午前8時50分・・・発車!(喜)

080_convert_20160103200229.jpg

橋を渡って・・・・淡路島に向かう・・・・
この橋が「明石海峡大橋」か?
橋は、実際に渡るより遠くから見たほうがいいかも・・・(苦笑)
立派な橋なのか・・・さっぱりわからん・・・・

「洲本」までは行かず、途中のバス停で降りる。
時刻は午前10時・・・
降りたのは、当然、拙者一人だけ・・・(苦笑)
この閑散としたバス停から“イズミヤさん”宅までは、それほど遠くはない・・・
得意のタブレットのマップを確認しながら向かうが・・・
あ・・・やっぱり迷った・・・行き過ぎた・・・(笑)

やっと到着!
「おお!よく来た!よく来た!」と“イズミヤさん”は大喜び・・・・
こんなに喜んでもらえると、こちらのほうが嬉しくなる(大喜)

“イズミヤさん”は機動砲兵第2連隊の一員としてフィリピンで戦った。
昭和18年1月1日・・・元旦の午前6時に召集令状が届き、正月どころではなかったという。(唖然)
まさか元旦の朝に召集令状とはねぇ~・・・・驚きである。
氏は第二乙種・・・
普通、徴兵で兵隊にとられるのは甲種合格者が多い。
氏はその下の乙種で、その乙種には第一乙種と第二乙種というのがあり、氏は後者のほうである。
視力が悪かったために第二乙種になったようだが・・・
ついにその第二乙種の氏にも召集令状が来たのだから、かなり兵隊が足りなくなっていたということだろう。
氏もそこまで戦局が悪くなっていたことに驚いたそうだ。
そのころ氏は代用教員をしていたそうで、そのせいもあり、入隊1年後、上官から無理矢理に幹部候補生試験を受験させられたそうである。
そして、将校になり部隊に配属となるが、部隊がフィリピンに移動する時に、自分の所属する大隊は残務整理のため、他の大隊より進出が遅れた。
ここからが氏の運命の別れ道・・・ということになるのではないかと拙者は思うのだが・・・
この時に、中隊配属だった氏は大隊本部に配属替えとなったのである。
フィリピン進出後、今度はレイテ島へ部隊の一部を派遣することになる。
氏の属する大隊から派遣部隊を編成することになったのだが、大隊本部要員だったこともあったと思うが、たまたま病気にかかって寝込んでいたため編成から外されたそうである。
このレイテ島派遣部隊は、ルソン島のマニラ港から出撃したが、コレヒドール島を回りこんで、外洋に出る瞬間、米軍の潜水艦に撃沈されてしまったという。
この時の生存者を中心に再度部隊を編成し直し、第二次派遣としてマニラ港を出港・・・
今度は無事にレイテ島に到着し、当時米軍と激戦中の守備隊に合流したが、玉砕してしまった。
生還者はいなかったようなので、レイテ島におけるこの部隊の行動は今もって不明である。
氏は運良くレイテ島に行かずに済み、そのままルソン島で戦うこととなる。
その後、山岳地帯に入って戦うことになるが、この時に、同じ戦場のすぐ近くに拙者の祖父の部隊がいた。
昭和20年5月22日、突然、命令を受け、氏は「連絡将校」として師団司令部に派遣されることとなる。
何故自分が選ばれたのか本人もわからなかったそうだが、命令は命令である。
第一線の大隊から後方に陣取る師団司令部に向かうこととなる。
しかし、後方に下がれるから運がいいとは言えない・・・
当番兵と2人っきりでジャングルの中を移動するのである。
場合によってはフィリピンゲリラに襲撃される可能性があるし・・・
食糧を得るため友軍の兵を襲って殺し、食糧を奪う“遊兵”化した日本兵たちも出没していたのである。
第一線で仲間達と一緒にいるほうが安全という場合もある。
どっちがいいかは神のみぞ知る・・・である。
氏が師団司令部に向かった3日後、5月25日にサラクサク第一峠で戦っていた大隊は全滅してしまった。
生き残ったのは、僅差で後方へ下がった氏と当番兵の2名だけ・・・
「あの時に情報将校に選ばれていなかったら多くの戦友達と一緒に俺も死んでいただろう」と言う。
氏が今もって戦友の慰霊をされる理由がよくわかる・・・

この頃のサラクサク峠は戦線が錯綜し混戦状態にあった・・・
第一峠より最前線の第二峠で拙者の祖父は戦っていた。
連隊長である祖父の下には80名程度の将兵しかいなかったが、50名、100名、500名、いくつかの部隊が補充要員として祖父の下に派遣された。
延数で言ったら1千名は超していたのではなかろうか?
が・・・1日に80名近くが戦死するという状態で、結局、残ったのは連隊長である祖父以下30名程度、しかもその半数は傷病兵だった。
そういう時に、師団司令部から第二峠を放棄して第一峠に下がり、現地の部隊の指揮を取るようにとの命令が届いた。
この命令は5月21日付だったと記憶している。
が・・・あくまでも「5月21日付」なのであって、実際に祖父たち30名がサラクサク第一峠に達したのがいつなのかは拙者は知らない。

サラクサク第一峠では三瓶少佐が指揮する機動砲兵第2連隊が戦っていたが・・・
5月19日に連隊本部は全滅、連隊長である三瓶少佐も戦死された。
このため、指揮が取れる階級の将校がいなくなってしまったのだろう。
同じ少佐で連隊長をしていた祖父に白羽の矢が立ったのではあるまいか?
我が師団ではこの「三瓶部隊」玉砕の日(5月19日)に靖国神社で永代神楽祭を開催することにしている。
それほどの激戦だったということだろう。
しかし、氏の属していた大隊は連隊長戦死後5日間も戦っていたとは知らなかった・・・
氏が記憶している「5月25日」が間違いのない日付なら、拙者の祖父は25日以降に現地に到着したと思う。
到着後、祖父が指揮した部隊の中に砲兵部隊はいなかったのだから・・・
というわけで・・・戦場で拙者の祖父と“イズミヤさん”は会うことはなかった。
さらに戦況は悪化し、日本軍は奥地のジャングルに退却・・・
そのドサクサで氏は一人になってしまったようで、たまたまジャングル内をさまよっているときに3人の日本兵に出会い、戦争が終わったことを知ったという・・・時に、昭和20年9月14日・・・
“終戦”から1カ月ほど経っていたのである。

“イズミヤさん”は、母一人、子一人の母子家庭だったそうで・・・
息子が出征している間、お母さんは毎日「陰膳」を供えていたそうである。
そのおかげかどうかは知らないが、無事にと言うか奇跡的にと言うべきか・・・“イズミヤさん”は生還した。
その「陰膳」に使っていたお茶碗が・・・これ・・・

082_convert_20160105125308.jpg

「家宝」として大事にとってある・・・・
紙には「母心有難い」と書かれている・・・
“イズミヤさん”は「ありがたいこっちゃぁ~、ありがたいこっちゃぁ~」が口癖・・・(大笑)
いつでも、何にでも感謝の言葉をいう。
拙者が尊敬するところは、そこのところで・・・(笑)
なんとか少しでも近づけられるよう、見習うことにしている。(なかなか難しいのだが・・・)
拙者にとって“イズミヤさん”は「感謝教」の「教祖様」なのである。(大笑)

そのお母さんは96歳でお亡くなりになられたという・・・
だから・・・自分は母親より、チョットだけ長生きして・・・97歳ぐらいまでは生きたいとおっしゃる。
「そんな中途半端な年齢じゃなくて、切りのいいところで・・・100歳まで生きてくださいよ!」(大笑)

途中、昼食をご馳走になりながらの楽しい“対談”・・・・
“イズミヤさん”は95歳だが、お酒がお好きなようで・・・
食事をしながら缶ビールを2本も飲み干し、3本目をねだったら、奥さんに叱られた・・・(大笑)
拙者は普段は全くアルコールを飲まない・・・
缶ビールなど1本空けることが出来ないのであるが・・・(汗)
隣りに“オネエチャン”が座るようなお店で飲む時と、戦友会の時だけは、なぜか飲めるのである。(大笑)
今回も、話が弾み・・・飲んじゃった・・・(大笑)

これから徳島に向かわねばならんのに・・・酔ったらどうしようと思っていたが・・・
結構飲んだ割にはシッカリしたものである。(苦笑)
どうも“戦友”とは一緒に飲んでも乱れないのだから不思議である。

ここから「洲本」まで行って、そこで徳島行きの高速バスに乗ればいいと当初は考えていたが・・・
地図上で近いといっても、便数が少なく乗り換えの待ち時間が長すぎるようなので・・・
1時間に1本しかない高速バスで、再び、本州側に戻ることにする。
午後2時少し前にお宅を辞し・・・・
バス停へ向かうが、酔い覚ましを兼ねて、少し歩くことにした。(笑)

向かったのは「津名港」のバスターミナル・・・

086_convert_20160105133350.jpg 085_convert_20160105133511.jpg

建物の中は閑散としていた・・・(汗)
ここから本州側に戻るが、「三宮」までは戻らず、明石海峡大橋の付け根にある「舞子」で降りて、そこから徳島行きの高速バスに乗り換えるのが早いようだ・・・
午後2時20分発のバスで「高速舞子」へ行く。

旅行 | 16:29:41 | Comments(0)