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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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自動運転の車?
自動車メーカー各社が「自動運転」の車を開発しているそうだ。
それって、どうなんだろう?
“良いこと”なのだろうか?(苦笑)

「自動運転」は、ハンドルやブレーキを操作しなくても走るのだそうだ。
事故の9割は人為的ミスだと某自動車メーカーの外国人社長が言っている。
その人為的ミスをカバーするということらしいが・・・
そもそも、事故を起こす人は、自動車の運転に適していない人なのではなかろうか?(苦笑)
誰にでも運転免許を発行するから事故が起こるんじゃないか?
不適な人には運転免許を与えず運転させなければ事故は減るんじゃなかろうか?

自動運転となると・・・運転手はただ乗っているだけ?
ということは・・・この人を「運転者」と言っていいものやら・・・(汗)
そうなると、極端な話し、免許を持っていない小学生でもエンジンをかけて、ナビに目的地を設定できれば、路上を“運転”することができてしまうのではなかろうか?(大汗)

マンガを読みながらでも、携帯電話のメールを読みながらでも“運転”出来てしまうのではなかろうか?
「運転者」は前をみていなくてもいいことになる。
寝ていてもいいということになる。
これを「運転」とは呼ばないよね?
「運転」しないのなら「運転免許証」というのは不要だと思うんですけど・・・
いいのでしょうか?・・・・そういうことで・・・

あまり便利になりすぎるのもいかがなものか・・・

もし、その状態で事故が起こった場合、責任は「運転者」ではないよね?
「運転者」は“運転”していないんだから・・・
責任は、自動車メーカーということになるのではなかろうか?
大丈夫でしょうか?・・・自動車メーカーは・・・責任取れるのだろうか?(汗)

車の「位置情報」はGPSを使うと思うのだが・・・
このGPSで確認した自分の位置を基準にナビの地図にあわせて「道路上」を走るとしたら・・・
もし、事故が起こったときはGPSの人工衛星に責任を取らせるのかな?

車をぶつけたくらいなら、まだいいけど・・・
もし通学途中の子供を何人も轢き殺すという事故を起こした場合・・・
誰が責任を取るんだろう?
結局、責任の所在が曖昧のまま、被害者は泣き寝入り・・・ということにならないか?

以前、運転中に運転者が意識を失う、もしくは急死するという事故があった。
路線バスの運転手で、そういう事例が数件あったような記憶がある。
こういう場合、運転者の状況を感知して、自動運転で路肩に寄せて停車するというような「自動運転」ならわかるが・・・
つまり、暴走を食い止めるための「自動運転」ならわかるが・・・
目的地に向かっての「自動運転」は、よろしくないのではないでしょうか?(苦笑)

自動車に慣れてしまって、”運転”に対する意識が少し甘くなってしまっているのではなかろうか?
誰でも運転できるという「お手軽さ」を追求するのは間違っているのではあるまいか?
運転は「特殊技能」という意識に戻すべきではなかろうか?

誰にでも運転免許を与えるというのは見直したほうがいい。
運転に適しない人には運転させない・・・
そういう“不適格者”は、プロのドライバーの運転する車に乗せてもらう・・・
このあたりをキチッとしたほうが、「雇用」も生まれるんじゃないのかなぁと思うのですが・・・
車の運転が得意で無事故無違反の人が「運転手」という職業で生活できるようにすべきじゃなかろうか?

機械はいつ壊れるかわかったものじゃない・・・
使うのなら最悪を避けるための補助的な使い方のほうがいいと思うのですが・・・
全てを機械に任すようなことは避けるべきでは?

というわけで・・・私は現在自動車メーカーがしのぎを削っている「自動運転」には反対である。

それより、運転者が酒気を帯びていたらエンジンがかからないとか・・・・
シートベルトを装着しないとエンジンがかからないとか・・・
居眠りをしたら、自動運転で路肩に停止させてしまうとか・・・
そういう“装置”の開発に力を入れるべきだと思うのですけど。

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エッセイ | 23:43:44 | Comments(0)
『公安は誰をマークしているか』


はじめに

序章 公安とは何か
        わかりにくい組織
        なぜ国家「警察」委員会ではないのか
        「特高」の流れ
        指令はダイレクト

第1章 警視庁公安部 公安総務課VS共産党
        共産党ビラ配り事件
        盗撮でなく「秘撮」
        「筆頭課」の大手柄
        なぜ共産党を追い続けるのか
        「秘聴」「基調」の意味
        ナカノからゼロへ
        オウム真理教の監視
        統一教会も対象
        オウム似の白装束集団
        過激な環境団体
        グリーンピースの窃盗
        広がる守備範囲

第2章 公安一課VS過激派
        清和寮爆破事件
        別の寮でも爆発
        極左暴力集団の源流
        機関紙3紙が「解放」
        黒ヘルと白ヘル
        住宅街の密造工場
        明大教授を襲撃
        東京サミットと迫撃弾
        威信をかけた捜査態勢
        逃亡29年の活動家
        成田でのゲリラ
        武装闘争から地方議会へ
        よど号グループとの闘い
        金日成の命令
        コードネーム「KYC」
        よど号事件とダッカ
        日本赤軍は終わったのか

第3章 公安二課VS革マル
        押収された警察無線傍受機
        革マルの秘密工作
        浦安アジト・ショック
        警察最大の敵に
        反天皇制団体
        公務執行妨害の使い方
        議論を呼んだ動画

第4章 公安三課VS右翼
        石井紘基代議士殺害事件
        注目の論客
        語られた動機
        様々な「右翼」
        右翼との関係
        自爆テロ、上京右翼
        危険な潜在右翼
        一体、どこの組織が?
        日本刀愛好団体、逮捕
        ネット上の「活動」

第5章 外事一課VSロシアスパイ
        「黒羽一郎」背乗り事件
        デッド・ドロップ・コンタクト
        アナログ捜査の強さ
        狙われた東芝
        ボガチョンコフ事件
        スパイと不法逮捕特権
        オモテ作業班とウラ作業班
        イランへの不正輸出
        輸出禁止リスト

第6章 外事二課VS北朝鮮工作員
        「韓国向け」と偽る
        ウラン濃縮に使える装置
        拉致事件と工作員
        「土台人」の働き
        拷問が捜査の壁
        ピョンヤン放送の暗号
        北のサイバー戦能力
        中国スパイは「真空掃除機」

第7章 外事三課VSアルカーイダ
        穏やかな青年の素顔
        判明した通話先
        来日テロリストの目的
        リオネル・デュモンも潜入
        狙われたサッカーW杯
        すっきりしない米極秘情報
        イスラム教と管理者対策
        海外口座を洗う
        公安四課の仕事

第8章 事件現場に臨む公安機動捜査隊
        警察内でも隠密行動
        判断を誤った事件
        隊員を翻弄した白い粉
        有数の頭脳集団
        消えた放射性物質
        国際テロリズム緊急展開班

終章 公安調査庁の実力は
        破防法というカード
        年に一度の冊子
        権限の乏しさ
        道府県警の公安部門

おわりに



今年の読書:60冊目



読書 | 23:08:24 | Comments(0)
帰るぞぉ~(笑)
岡崎城を出て・・・・
ここからは最寄り駅まで徒歩で行く事にした。
タクシーばかりに乗らず、少しは歩かねば・・・・(大笑)

と・・・・何やら発掘現場が・・・・

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ここは、岡崎城の菅生曲輪の切り通し跡らしい・・・・
が・・・近くに掲示されている「埋蔵文化財発掘調査中」の張り紙には「東曲輪」と書いてある。
ん?・・・・「菅生曲輪」なのか「東曲輪」なのか・・・どっちなんだ?(苦笑)
発掘調査の工期は11月30日までだそうで・・・
それが終わったら、ここはどうするんだろう?
また埋め戻すのかな?
発掘した状態で残してもらいたいものである。

いずれにせよ、タクシーに乗って一気に駅に向かったら、これは見ることが出来なかったぞ!
やっぱり歩かねば・・・・ねぇ~(笑)

すぐ近くに、またまた珍しいものを発見!

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これは「浄瑠璃姫(じょうるりひめ)の墓」だそうである・・・・
はぁ・・・(汗)・・・・誰?・・・それ・・・・


浄瑠璃姫の墓

薬師如来の申し子である浄瑠璃姫は源氏の御曹司義経と別れた後、恋慕の余り菅生川に身を沈めてしまう。
姫の墓は平泉の方に向けて建てられている。
その姫の庵があったところが岡崎城の浄瑠璃曲輪といわれ瑠璃光山安西寺である。
のち光明院と改められる。
通称「浄瑠璃寺」である。

(説明板より)


この世界の話は、拙者には、よくわからないんですけど・・・・(大汗)
この「浄瑠璃姫」というのは、伝説上の人物ではなかろうか?
「お話」の中の人物のような気がするのだが・・・・
お墓があるの?
え?・・・・実在の人物?
よくわからん・・・・
「桃太郎のお墓」と聞いたら、誰も信じないのと同じくらい信じられないお墓なんですけど・・・(笑)
珍しいものを見つけてしまった・・・(苦笑)

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川を渡る・・・・
向うのビルの陰に、チラリと岡崎城の天守閣が見える。

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う~ん・・・・景観が悪いなぁ~(汗)
誰があんな所にビルを建てちゃったのかねぇ~(苦笑)

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まもなく、「名鉄東岡崎駅」に到着!
なんともレトロと言うか、オンボロと言うか・・・(失礼!)
昔懐かしいビルが「東岡崎駅」らしい・・・(汗)
なんでしょ・・・「岡ビル百貨店」という看板・・・(苦笑)
「百貨店」ですよ・・・・「百貨店」・・・
「デパート」じゃないんですよ・・・(笑)
いいなぁ~こういうの・・・好きなんだよなぁ~
こういう古くて趣のあるビルって好きなんだよなぁ~
今は、なんでも直ぐに建替えて近代的なビルにしちゃうけど・・・
「ビルディング」じゃなくて「ビルヂング」という表記が似合うような建物・・・
いいなぁ~・・・・ワクワクしちゃうんだよなぁ~(大笑)

時刻は午後3時・・・・
「おやつ」の時間である!(大笑)
というわけで・・・・この「百貨店」の中のレトロな雰囲気満点の喫茶店でコーヒー飲んで一服する。(大喜)

ここから名古屋駅に向かい、新幹線に乗って・・・・帰宅!
夕食は・・・・駅弁である!(喜)

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わが町に着いたのは午後9時半・・・・
“シミズくん”の奥さんが車で迎えに来てくれて、我が家まで送ってくれた・・・
いやぁ~こんな遅い時間なのに申し訳なし・・・
感謝、感謝である。

お疲れ様でした!

旅行 | 19:39:51 | Comments(0)
岡崎城へ行く
一服して・・・
ここから3kmほど離れたところにある岡崎城に向かうことにする。
折角、岡崎に来たんだから・・・・お城を見ないとねぇ~
で・・・・歩くのは当然面倒くさいので・・・
(拙者は苦ではないが、“シミズくん”が嫌がるので・・・)(大笑)
タクシーを呼んでタクシーで向かう。

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時刻は12時・・・・ちょうど、お昼である・・・・
で・・・ちょうど「からくり時計」が動き出した・・・
この岡崎城には過去に2~3回訪れているが、なかなか、お昼ちょうどにはぶつからないので、このカラクリを見たことがないのであります。
お~・・・・なんというグッドタイミング!(喜)
これは、拙者の日頃の行いの良さが招いたのでありましょう!(“シミズくん”じゃなくて・・・)(大笑)

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本多忠勝の銅像・・・
これは、以前に写真を撮ってHPに載せた・・・

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「三河武士のやかた家康館」・・・・ここを見学する。
ここも過去に見学したことがあるが・・・・う~ん・・・
今回、訪問したら展示内容に全く記憶がない・・・(大汗)
あれ?・・・・である。
情けない・・・・この記憶の悪さ・・・(涙)

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徳川家康の産湯の井戸・・・・
う~ん・・・以前、見たことがあるような、ないような・・・(汗)

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産湯の井戸

天文11年12月26日(1542年)徳川家康公が岡崎城内で誕生した。
この井戸の水を汲み、産湯に使用した。

(説明板より)


なんともアッサリとした説明文である。(笑)
この説明板には、日本語の他に英語、韓国語、中国語でも解説が書かれている。
日本語以外に漢字で書かれた説明文が2つあるのだが・・・
どちらかが中国語だと思うが、もうひとつの方は何語なんだろう?(苦笑)
それにしても、この外国語の説明文は日本語の直訳なのである・・・
“Ieyasu Tokugawa”とだけしか書かれていない・・・
我々日本人には「トクガワ・イエヤス」が誰なのかは分かるが・・・
外国人観光客にはわかるだろうか?(苦笑)
「ショーグン」という言葉は海外でも有名だから、どこかに「徳川幕府の初代将軍」であるということを入れないと分からないのではなかろうか?
・・・・という気がした・・・・
が・・・外国語の説明文を併記するのは、いいことだと思う。

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えな塚

この城で生まれた徳川家康のえな(胞衣)を埋めた塚で、もと本丸南にあったものを、ここに移して記念とした。

(説明板より)


誠に、お恥かしい話しだが・・・・「えな塚」の胞衣(えな)って何のことなのか知らない・・・(大汗)
たぶん、文字の感じから想像すると、赤ん坊を包んでいた布の事ではあるまいかと思った。
つまり「産着(うぶぎ)」の事だと思ったのだが・・・
こういう場合は、英文では何と説明されているかを見ると参考になる。
で・・・併記されていた英文を読んでみると、umbilical cord(アンビリカル・コード)と書かれていた。
「アンビリカル・コード」は日本語に訳すと「へその緒」である。
胞衣(えな)とは「へその緒」のことなのか?
調べてみたら胞衣(えな)とは「胎児を包んでいた膜や胎盤」のことらしい。
“包んでいた”から「胞」という字が使われているのだろう。
となると・・・ちょっと疑問が・・・・
「へその緒」と「胎盤」は同じものなのか?
拙者は女性の体についてはサッパリわからない・・・〈苦笑)
しかも独身だし・・・嫁が子供を産んだところなんか見たことないし・・・(大笑)
「胞衣(えな)」は「へその緒」かなぁ?
「へその緒」は紐状だから、「胞」とか、「衣」なんていう字は使わないと思うんだよね。
使うんなら「条」という漢字を使うんじゃないかと思うんですよね。
今度は「胎盤」を調べてみたら・・・英語で「胎盤」のことを、placenta(プラセンタ)と言うらしい。
ということは・・・
「胞衣(えな)」=「胎盤」ならば、英語での表記は「plasenta(プラセンタ)」となり、「umbilical cord(アンビリカル・コード)(へその緒)」は厳密に言うと間違いではなかろうか?
英語の苦手な拙者が指摘するのも僭越ですが・・・・(苦笑)
多分、英語の専門家が、英訳したのだと思うのですが・・・・
どうなんだろ?・・・これ・・・・
ちなみに、中国語の説明文では「胞衣塚」を「胎盤墳塚」と記しているから・・・やっぱり「胎盤(プラセンタ)」だと思うんですけど・・・
もしかしたら、家康の場合は胎盤じゃなくて「へその緒」を埋めたのだろうか?

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石垣が結構あるのだが・・・植栽で邪魔されて、よくわからない・・・(苦笑)

「慰霊碑」のようなものを見つけ!(喜)
碑の「忠義護邦家」の文字は山縣有朋の揮毫のようである。

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さぁ!天守閣に到着だ!
が・・・・
あれ?・・・・天守閣の横に、こんな建物なんかあったっけ?(苦笑)

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で・・・毎度、ここに来るたびに思うのだが・・・
この松の木!・・・・写真を撮るのに邪魔なんだよなぁ~(苦笑)

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不謹慎な言い方になりますが・・・早く枯れてくれないかなぁ~と思ったりするのであります。(苦笑)

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東照公遺訓碑由来

この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和18年3月98歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て建立に至った。
碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には竜城を象徴する竜を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和11年4月16日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年は、遺訓碑が建立されて50年、また、岡崎市制70周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。

昭和61年12月26日
岡崎市長 中根鎮夫

(説明板より)


東照公遺訓碑

人の一生は重荷を負(お)いて遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望(のぞみ)おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍(かんにん)は無事長久(ちょうきゅう)の基(もとい)、怒りは敵とおもえ勝事(かつこと)ばかり知りてまくる事しらざれば害(がい)其身(そのみ)にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。

慶長8年正月15日
人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな。

(説明板より)


すぐ近くに井戸があった・・・
こんな井戸なんかあったっけ?(苦笑)
「出世開運」と書いてある・・・・
特にこの井戸の水が飲めるというわけではなさそうである。(汗)
どうしたら「出世開運」できるんだろう?
わからん・・・・全然、わからん・・・(苦笑)

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出世開運 龍の井

康生、元正(西暦1455年)岡崎城竣成の日 龍神の出現により別名を龍ヶ城とした
天文11年(西暦1542年)家康公 城内にご誕生の刻 金の龍が昇天したと伝える
吉兆の度に この井戸が噴出し 龍神に注ぐ不可思議にこれを祈り 出世開運の井と称えられている

(説明板より)


続いて天守閣を観覧・・・・
写真撮影できるのは、1階の入り口のところと、最上階のみである。

最後にここに来たのは何年前だっただろうか?
「生還者と遺族の会」のツアーで訪問した。
帰りの集合時間に間に合わない人がいるのではないかと、この天守閣に取り残された人がいないかどうか確認に来たことがある。
チケットなど買わず・・・タダで入った。(大笑)
「取り残されている人がいるかどうか確認したい」と言ったらタダで入れてくれた。(笑)
必死に階段を駆け上り、各階フロアーに、うちのツアー客が残っていないか確認をした。
なにせ、この会の会員は高齢者ばかり・・・(大笑)
集合時間を伝えても忘れてしまう人も出るし、方向を見失い迷子になる人も出る。
バスガイドやツアーの添乗員、会の比較的若手の役員たちは迷子が出てから大騒ぎして周囲を探しまくる。
拙者は、そういうのが許せないのである!
事前に迷子を出さないようにするべきではないか?
迷子になるのは「個人の責任」というのは高齢者には酷だろう。
一度でも「迷子」になって迷惑をかけた高齢者は、次回はツアーに参加しづらくなる。
年1回の親睦旅行・・・楽しみにして毎回参加されているのである。
「皆さんに迷惑をかけるから参加は我慢する」と言わせてしまっては可哀相である。
本来の目的に逸脱しているのではなかろうか?
“最期の時”まで楽しんでいただくための「親睦ツアー」ではないのか?
そういうために、参加者中、最年少者の拙者が迷子を出さないため事前に手を打つ。(笑)

拙者は人の顔や名前を覚えるのが大の苦手である。
だから、どうしてもツアー参加者の顔も名前も覚えられない。
しかし、逆に皆さんの方が拙者の顔を覚えてくれているので・・・
「私はいつも最後尾を歩きますから、私の背中を見かけたら、“自分は遅れている”と思ってください」
「私が走り回っていたら、その時は完璧に“集合時間に遅れている”と思って急いでバスに戻ってください」
・・・と言ってある。(大笑)
前回ここに来た時も、拙者は、この城内を走りまくった・・・(大笑)
だから・・・史跡も何も見ていないのである。
おかげで迷子を出さずに済んだが、最後にバスに戻ってきたので、一部の役員から「何やっているんだ!」と白い目で見られた。
今では、この会とは縁を切っているので、もう、こういうことをすることはなくなったが・・・・(笑)
ある参加者から「あなたが走り回っているのを見て、こりゃマズイと思ってバスに戻ったんですよ。遅れずに済んで助かりました」と言われたのは嬉しかった。
あの時に参加された方々のうち、何人もの方々がすでに鬼籍に入られている。
なんとも寂しい・・・・

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天守と礎石

岡崎城の天守は、田中吉政(よしまさ)が城主の時代に創建され、その後地震等で倒壊したと考えられています。
1617年(元和3)本多康紀(やすのり)が城主の時、三層三階、地下一階で東に井戸櫓、南に付け櫓を付属した複合天守で再建され、250余年後の1873~1874年(明治6~7)に破却されました。
現在1階にある大きな石は旧天守の心柱(しんばしら)の礎石といわれ、心柱は3階まであったと考えられています。
心柱を有した天守の例は少なく、現存するのは世界文化遺産の姫路城のみです。
また現在の城郭(じょうかく)内の石垣のなかでも天守台の石垣は古く、1592~1596年(文禄年代)以前といわれています。

(説明板より)


天守閣の最上階・・・・
床に地図が描かれていたとは・・・以前来た時には気がつかなかった・・・(大汗)

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天守閣(資料館)の見学を終え外に出る・・・・
と・・・・片隅に小さな石碑が・・・
「アラモの碑」だ!(驚)

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【碑文】

三州長篠古戦場鳥居強右衛門ノ墓畔ニ二石を獲一ヲ米國テクサス州殉難烈士ノ碑ニ充テ一ヲ 龍城神社ニ奉納ス鳥居ノ忠烈ハ
當時我ガ 両公ノ嘉ミサセラレタル所ナレバナリ

大正三年七月
  岡崎 志賀重昻 識
  水戸 北條時雨 書


アラモの碑

この碑は、郷土岡崎出身の世界的地理学者志賀重昻氏が建立されたものです。
志賀重昻氏は、テキサス独立戦争アラモの戦いと日本の三州長篠城の戦いがよく似ていることに深い感心を寄せられました。
アラモの砦から援兵を求め友軍の下に走った青年ボナムと長篠城を脱出し、岡崎城の家康公に危急を知らせた鳥居強右衛門の両者の「強い使命感に東西の別はない」と感動し建碑を思い立ち、岡崎の石と長篠の石を使って、自作の漢詩を彫刻し、大正3年(1914年)にサンアントニオ市アラモ砦史跡の一角に記念碑を建立されました。
また、同時に、ここ岡崎公園の地にもアラモの碑を建立されたものです。

(説明板より)


この碑・・・・岡崎の方が関わるのは分かるが、碑文の書は、我が茨城県の水戸の方である。
どうして水戸の人が関わったんだろう?(笑)
それにしても、縁を感じちゃうなぁ~(笑)

今から30年ほど前、拙者は一人で1ヶ月間、全米を旅していた・・・
その時に、テキサス州にも訪れ、サンアントニオ市も放浪したが・・・(大笑)
ついでに「アラモ砦」にも立ち寄った。
当時は「アラモ砦」って何だか知らなかった。(苦笑)
なにやらアメリカ人にとって貴重な史跡らしい・・・程度である。
どうやって「アラモ砦」に行ったのか・・・全く覚えていない・・・
一人でバスに乗って行ったのか?(大汗)
あの日は格別に暑い日で、喉が渇いてどうしようもなく、「アラモ砦」の目の前に立つ大木の下でコカコーラを飲んだことしか覚えていない。(大笑)
このコカコーラの空き缶・・・どこに捨てればいいのだろうかと散々悩んだことを鮮明に覚えている。
どうして、こういう、どうでもいいことだけは鮮明に覚えているのかねぇ~(汗)

気楽な一人旅だから、砦の中を隅から隅まで見て廻ったはずなのだが・・・
なぜか、記憶は断片しか残っていない・・・・
日本に帰国して数年後、何かの本を読んで、「アラモ砦」に日本人が建立した石碑があるのを知って愕然としたのだから、多分、現地では見ていないのだと思う。(涙)
じっくりと見学したはずなんだけどなぁ~
どうして見落としたのかなぁ~・・・・
大失敗である!(大泣)
「アラモ砦」が何なのかは、その後、レンタルビデオ屋でジョン・ウェイン主演の『アラモ』というビデオを見て、初めて知った・・・(大笑)

へぇ~・・・そういう史跡だったのか・・・・である。(笑)
事前に何の知識も持たずに史跡を見に行くというのも、いかがなものかという気がするが・・・
逆に、余計な知識がないから、後から興味が湧くということもあろう。
あの時に「アラモ砦」に行っていなかったら、間違っても『アラモ』なんていう映画は見なかったに違いない・・・

ああ・・・これが「アラモ砦」に建立した石碑と同じものなのか・・・
我が青春の1ページ・・・・「アラモ砦」・・・・・
懐かしさがこみ上げてきた・・・・

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時刻は午後1時半を過ぎた・・・・
ハラヘッタァ~(大笑)
敷地内の「お食事処」で遅い昼食を食べることにする。

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これは何だっけぇ~(苦笑)
豆腐の田楽だったような気がするが・・・・
これ、なかなか美味しかった。(喜)

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新たな石像を発見!(喜)
「出世ベンチ」というらしい・・・・
石像は、「竹千代」と「家康」だそうだが・・・・「竹千代」って誰?(大笑)
それにしても、なんでベンチの真ん中に座っているのかね?
邪魔なんですけど・・・・(苦笑)


天下人家康公 出世ベンチ

徳川家康公はここ岡崎城で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。
このベンチは「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、地元産の良質な御影石を使い、造り上げられています。
家康公とこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の魂を感じてください。

平成24年2月

(碑文より)


そして・・・・最後に、徳川家康の銅像を見学・・・・(苦笑)
最後に「お会いする」というのでは、家康さんに失礼かもしれないが・・・・(大笑)

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徳川家康公銅像

天文11年12月26日(西暦1542年)岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。
幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600年)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。
以後持前の才能を生かし、天下統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2年4月17日(西暦1616年)75才でこの世を去った。
この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。

(説明板より)


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今時、珍しい電話ボックス・・・・
いいデザインだとは思うけど・・・・
ちょっと圧迫感があるような・・・・(大笑)

これで今回の旅は終わりである。
あとは・・・・帰るだけである。
岡崎城公園から外に出る・・・・

旅行 | 15:45:58 | Comments(0)
大樹寺多宝塔
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国指定重要文化財 大樹寺
建造物 大樹寺多宝塔(付棟札) 一棟

多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。
大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものである。
松平七代清康(きよやす)により天文4年(1535)に建立された。
下層は方三間、総円柱、斗組二手先尾垂木(ますぐみふたてさきおだるき)付として、また上層は白漆喰(しっくい)塗りの亀腹(かめばら)上に円柱の塔身(とうしん)を立て、四手先(よてさき)で軒をささえる。
屋根は檜皮葺(ひわだぶき)、鉄製相輪(そうりん)を上げ、軒隅には風鐸(ふうたく)がつるされている。
塔内部には禅宗様の須弥壇(しゅみだん)を置き、その上には春日厨子(かすがずし)を据え、本尊の多宝如来像を安置する。
この多宝塔は上下層の釣り合いもよく、蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風でていねいに作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。

明治37年2月18日指定
岡崎市教育委員会

(説明板より)


【愛知県岡崎市鴨田町広元5-1・大樹寺】

史跡 | 14:25:11 | Comments(0)
「大樹寺」に行く
今日は・・・・
水戸藩士“シミズくん”の希望で「大樹寺」に行く。
このお寺は有名なお寺だそうだが、拙者は全く知らなかった。(汗)
知らない所に行くのは大いに結構・・・
しかも「歩く百科事典」ともいえる博学の“シミズくん”が一緒ならなおさら面白い。

151_convert_20160302181957.jpg(岡崎駅)

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このホームの×印のすごいこと・・・・(大笑)
「ここには立つな!」ということなのかな?
それにしても、しつこいくらいの×印である・・・(苦笑)
愛知の人って列に並ばず、脇から割り込んでくる人が多いということなのだろうか?(大汗)

午前9時20分、JR「岡崎駅」から「愛知環状鉄道」で「大門駅」に向かう。
10分程度の乗車で「大門駅」に到着!

154_convert_20160302182921.jpg(大門駅)

ここから徒歩で「大樹寺」」に向かう。
徒歩で20分程度で現地に到着・・・・
遠くに「大樹寺」の多宝塔が見えた!

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なだらかな坂道は、運動不足の身には堪える・・・・(苦笑)

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おお!なんと立派な山門でしょう!(驚)

山門の反対側に「岡崎市立大樹寺小学校」がある。

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大樹寺の土塀
校門横の白壁の塀は大樹寺の塔頭(たっちゅう)(境内にある小寺)であった善揚院(ぜんよういん)と開花院(かいかいん)のものでした。
かつては、南の総門まで続き「旗かけの松」をはじめ、大小の松が生いしげっていました。(昭和52年修復)

岡崎城を望む
三(さん)門から総(そう)門を通して一直線上に岡崎城(三層三階地下一階)の天守閣が見えます。
徳川氏と大樹寺の関係の深さがうかがえます。

(説明板より)


ほぉ~・・・・山門から一直線に岡崎城が見えるのですか?
というわけで・・・・境内の中から山門を通して見てみた・・・

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あぁ~・・・・ちょっとわかりづらいが・・・確かにチラッと天守閣が見える・・・(汗)

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思ったより境内は広いと言うべきか、それとも歴代徳川将軍の位牌がある寺の割には狭いと言うべきか・・・(笑)



大樹寺沿革

應仁元年(1467)8月23日井田野の合戦で多くの戦死者が出て、悪疫が流行したので松平親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念佛会を修し、敵味方の別なく千人塚をつくって葬った。
その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
それ以来、大樹寺は松平家・徳川家の菩提寺として1千石近い禄を受け、大樹公寺と称し、20有餘の末寺を持つ東海の名刹となった。
現在でも岡崎城の天主閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。
本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている、親忠公は愚底上人より在家としてはじめて五重相伝(ごじゅうそうでん)を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。
松平第9代の家康公は19才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。
大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」の教えを説き、家康公の浄土念佛の教えの尊さを教えた。
それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。
この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖洞和尚が門の貫木を引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。
これを大樹寺の陣という。
家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが今もこの貫木は大樹寺に安置されている。
家康が陣中において人知れず書いた「陣中名號」はたくさんあるが、この寺にも珍蔵されている。
松平の御8代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓も岡崎市民により建てられた。
三門と鐘楼は3代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。
西方に身ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平清康公の建立で、重要文化財に指定されている。
本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年、13代将軍家定公の時に再建された。
大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭(れいぜいためちか)の描いたもので、146面あり、重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。
その他、多くの文化財を持ったこの寺は、毎年8月6、7、8日の3日間、宝物の曝涼をかね一般に公開している。
なお毎月17日には別時念佛会を修し、住職の法話がなされている。

(説明板より)


209_convert_20160303151706.jpg(本堂)


岡崎市指定文化財
大樹寺

建造物 大樹寺本堂 一棟
桁行(けたゆき)七間、梁間(はりま)七間、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)。
安政2年(1855)の火災で三門、総門、裏門、鐘楼(しょうろう)、多宝塔(たほうとう)、開山堂(かいざんどう)などを除いて伽藍(がらん)を焼失するが、安政4年(1857)やや規模を縮小して再建されました。
この本堂は、外陣が方丈のように三区分するもの、さらに凹字型のものの、二つの形式の要素を取り入れている点が特徴です。

建造物 大樹寺開山堂 一棟
桁行三間、梁間三間、宝形造(ほうぎょうづくり)、桟瓦葺(さんかわらぶき)。
内部はひとつの空間となっており、背面に半間幅の箱仏壇を一面に設けています。
天井は格天井で、床は畳敷となっています。
屋根の頂上には露盤(ろばん)・宝珠(ほうじゅ)を上げています。
建立年代は不明ですが、木鼻(きばな)・実肘木(じつひじき)などの絵様や彫刻から江戸時代前半と考えられています。

平成20年6月16日指定
岡崎市教育委員会

(説明板より)


本堂の前に「徳川家康公霊夢像」という石像が建っていた。
おお!ここで家康さんと会えるとはねぇ~(喜)

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徳川家康公(東照大権現)霊夢像

天文11年(1542)12月26日、三河国 岡崎城に誕生し、幾多の艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越え戦国乱世を平定、265年に及ぶ天下泰平の江戸時代の礎を築いた徳川家康公は、元和2年(1616)4月17日、74年の生涯を駿府城に閉じると翌元和3年、後水尾天皇より「東照大権現」の神号を勅許されました。

祖父家康公への崇敬の念が強かった徳川三代将軍 家光公がしばしば夢に現れる家康公の御姿を絵師 狩野探幽(かのうたんゆう)に写させた一連の画像が「東照大権現霊夢像」と呼ばれる作品群です。

この石像は、十数点に及ぶ東照大権現霊夢像のうち、寛永16~18年(1639~1641)頃に制作された正面向きの束帯像(そくたいぞう)(徳川記念財団 蔵)をもとに、石都 岡崎産の花崗(みかげ)(御影)石にて、徳川家康公顕彰四百年記念事業の一環として建立したものです。

「厭離穢土 欣求浄土」 家康公立志の地 大樹寺に
    平成27年(2015)4月17日
        徳川家康公霊夢像建立の会

(説明石碑・碑文より)


このお寺は「浄土宗」だそうだ。
で・・・拙者は「曹洞宗」である・・・まぁ・・・いいか・・・・(笑)
本堂に入ってお参りして、内部を“見学”する。
ここには「位牌堂?(位牌室?)」があって、歴代の徳川将軍の位牌が安置されている。
しかも、この位牌は、その将軍達と同じ背丈・・・つまり等身大の位牌なのである!
これには驚いた。
こういうの、いいなぁ~・・・・拙者も死んだら等身大の175cmの位牌を作ろうかな・・・
と、思ったが、置くところがないわ・・・(大汗)
歴代将軍の中で、ひときわ目立つ、かなり背の低い位牌があった。
この某将軍は、ちょっと精神的にも問題があった方だそうで・・・
年齢の割には背が低いということは、何らかの障碍があったのだろうか?・・・心身ともに発達障碍とか・・・
“歩く百科事典”の“シミズくん”の解説などをいただきながらの見学・・・・
う~ん・・・・楽チンであるが・・・
3歩も歩くと忘れてしまうというのが問題だ・・・(大汗)
マズイ・・・紙に書いてくれ・・・(苦笑)

約1時間弱ほど時間をかけての“見学”である。(驚)
本堂の中で1時間弱も時間をかけるんだから、我々は大したものである。
何らかの御利益もあろうというものである。〈笑)

外に出て、境内を散策・・・・
松平氏の墓所を参拝する。

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岡崎市指定文化財
大樹寺

史跡 松平八代墓(まつだいらはちだいぼ) 8基
松平氏の菩提寺であるこの寺に元和元年(1615)徳川家康が先祖8代の墓を再建したもので、元和3年には天領代官畔柳寿学が奉行となり現在の姿に整備された。

初代 親氏(ちかうじ)(生没年不詳) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)
二代 泰親(やすちか)(生没年不詳) 宝篋印塔
三代 信光(のぶみつ)(1404~1488) 宝篋印塔
四代 親忠(ちかただ)(1431~1501) 五輪塔
五代 長親(ながちか)(1473~1544) 五輪塔
六代 信忠(のぶただ)(1486~1531) 五輪塔
七代 清康(きよやす)(1511~1535) 五輪塔
八代 広忠(ひろただ)(1526~1549) 無縫塔(むほうとう)

大樹寺は、文明7年(1475)安城松平家初代親忠が浄土宗鎮西派の勢誉愚底に帰依して開創し、同家の菩提寺とした。
長親の代に安城家が松平総領家となったことにより、本寺は松平宗家菩提寺となった。
元和2年家康の遺言により歴代将軍の位牌所とされ、以後14代将軍家茂(いえもち)までの位牌が納められている。

昭和37年6月15日指定
岡崎市教育委員会

(説明板より)



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墓地の一番左端にあるのは、徳川家康のお墓らしい・・・・
あとから造ったようだが・・・ちょっと立派過ぎて、ご先祖様のお墓が霞んでしまうんですけど・・・(汗)
当然、文化財には指定されていない。
ここに家康のお墓を造りたい気持ちはわからないでもないが・・・
これは、本当にお墓なのだろうか?
家康の骨が埋葬されているのだろうか?
日本全国、あちこちに「徳川家康の墓」が出来ても困ると思うんだけどねぇ~
どうなんだろう?・・・・これ・・・・

時刻は午前11時を過ぎた・・・
お寺の駐車場の脇にある茶店で一服・・・・
とりあえず、「五平餅」を食べて、お茶を飲んで空腹を満たす事とする。(笑)

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旅行 | 10:15:02 | Comments(0)
吉良さんの墓参り
お茶を飲んで一服し・・・今度は「吉良さん」の墓参りに行く事にした。
「吉良さん」とは、あの赤穂浪士に殺された「吉良さん」である。

当初の予定では駅まで戻って電車で近くの駅まで向かうつもりだったのだが・・・
駅まで歩くのは面倒だ・・・
あっさりと、その計画は破棄して、タクシーで向かうことにする。

この「吉良さん」の墓参りは、7年前に来た時には時間がなくて断念したのである。
ようやく今回、念願が叶う・・・・

午後3時過ぎ、「吉良さん」のお墓のある「華蔵寺(けぞうじ)」に到着。

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片岡山 華蔵寺

慶長5年(1600)吉良義定公、妙心寺の高僧月船禅師を請(しょう)じて、吉良家菩提寺として華蔵寺を開基する。
当寺は吉良家13代から18代までの墓を護る。
吉良氏は源家嫡流足利氏の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり吉良荘(現在の西尾市一帯)に住み、吉良を称した。
室町時代には有力大名の一として、常に室町幕府を支えた。
江戸時代には旗本高家に列し、その筆頭として栄えたが、不幸な元禄事件により断絶した。
当寺には県指定の文化財を数多く伝えている。
吉良上野介義央(よしひさ)自らの彩色といわれる木像をはじめ、江戸期南画の第一人者とされる池大雅の作品群、吉良家寄進の品等、その代表的なものである。
また、本堂裏の枯山水は、小堀遠州流といわれ、古来から有名である。

西尾市教育委員会

(説明板より)


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境内に『真実を求めて』という石碑があった。
その碑文は・・・・


人を斬る刀はあっても 時の流れを断ち切る刀はないといわれる如く 風習と観念は 時代と共に変遷する
元禄時代に吉良義央公と浅野長矩公との間に不和を生じ その処理に冷静さを欠き 殿中で浅野公が刃傷に及んだ事から 幕府の掟に触れ 家は断絶 身は切腹という事になった
浅野公の舎弟大学氏の後継が不首尾になった結果 旧臣たちは禄を離れることになり 一か八かで吉良公を討ちとったが 当時の学者と協議して赤穂浪士に切腹を命じた
吉良公は 治水等の功績が大で 評判の良い名君であったからである
名君を暗殺した者を忠臣としたのでは 武士道にも反し 芝居にならないので 小説家 劇作家たちが 興味本位にいろいろのつくりごとをして 吉良公を極悪人に仕立て上げ 忠臣蔵として世間に広めたものである
日常交際のイザコザを 殺し合いで解決したのでは 人間としてもっとも恥ずべき事であり 世の中が殺伐となる
お互いが腸のにえくりかえるような事があっても どちらかが「汝の敵をも許す」といった人類愛に目ざめたならば 世の中は明朗となる
現在吉良と赤穂の人々は お互いに恩讐をのり越えて交歓をしているが これは喜ばしい限り
本事件の犠牲となって亡くなられた吉良家々臣の二十余士の方々も 誠に気の毒の極みであり このたび供養の塔が建立されたのは せめてものつぐないといえる
ここに吉良公遺徳の一端を述べ 世の誤解を解き 霊の安らかならん事を心から希うものである


碑文の意味はわかるが、どことなく偽善ぶっていて拙者には納得ができない・・・(笑)
原爆を2発も落とされ、人体実験よろしく大量虐殺をされたにもかかわらずケロリとしているのと同じ思考のような気がしてならないのである。
こういう思考は日本人独特のものなのか?
そうそう簡単に恩讐を越えることができるのだろうか?
結局、この碑文からでは「赤穂事件」の本当の事はわからない・・・
誤解は全く解けていないと言っていいのではなかろうか?
結局、中央政界では“嫌な奴”でも、地元では“とてもいい人”だったんですよという話である。
現代に例えて言うなれば、そういう国会議員は今もいるだろうから・・・
この碑文では全然「誤解を解く」ことにはなっていないんじゃなかろうか?

吉良上野介というと、意地の悪い、陰険なジジイという印象が強い。
これは映画やドラマのせいなのだろうが・・・
果たして本当に、そういう人物だったのだろうかと拙者は以前から疑問に思っている。
忠臣蔵の、あの赤穂浪士は“義士”なのだろうか?
ただのテロリストなのではあるまいか?
・・・という気もしているのである。
本当の“義士”は、不利な態勢でも逃げずに吉良さんを守ろうとして死んでいった吉良さんの家臣たちではなかろうか?
彼らの方が「忠臣」ではなかろうか?
拙者は、単なる「判官びいき」なのだと重々承知の上で・・・吉良さんのお墓参りをする。
『忠臣蔵』ではなく、本当の史実を知りたいものだ・・・

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義央公墓

義冬子
母は酒井忠吉の娘
高家職(肝煎)を継ぐ
「吉良が勤め見習うべし」と称えられる(徳川実紀)
元禄事件で非業の死を遂げる

(説明板より)



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吉良家の墓所には家臣の供養塔と、忠死した家臣たちの名を記した碑が建っていた。
この「桐の花影」と名付けられている忠死者の名を記した碑は地元の吉良ライオンズクラブが寄贈建立したものである。
偉い!素晴らしい!
こうでなくては!
やっぱり、名前がわかるのであれば、その名前を記して供養してあげなければねぇ~

吉良家墓所に30分ほど滞在して・・・・寺を辞する。
お寺の前の空き地(駐車場?)に吉良さんの騎馬像を見つけた!
う~ん・・・この写真が撮りたかったのである!(大喜)
これで、我がホームページに吉良上野介義央のページが作れる。(喜)

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今日の史跡巡りは、これで終了!
時刻はまもなく午後4時となる・・・
ここから携帯電話でタクシーを呼び、上横須賀駅へ向かう。

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ここから西尾方面に戻るのではなく、今度は蒲郡方面に向かう。
同じ景色を見ても面白くないでしょ?(笑)
駅の直ぐ脇の踏切を渡り反対側のホームへ・・・・

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午後4時20分発、名鉄西尾線急行で終点の「吉良吉田駅」へ。
ここで名鉄蒲郡線で終点の「蒲郡駅」に向かう。
どうして一気に蒲郡まで走らないのかねぇ~・・・と思ったら、線路が「吉良吉田駅」までしかないのである!
駅を出て隣りに向かい、改札を通って隣りのホームから別の線路の折り返し始発の電車に乗るのである。
よくわからん・・・・線路を繋いじゃえば簡単だと思うのだが・・・(笑)
「蒲郡(がまごおり)駅」で今度はJR東海道線に乗り換え「岡崎駅」へ向かう。

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午後6時半、「岡崎駅」に到着。
駅構内に「家康公400年祭」の幟が・・・
へぇ~400年ねぇ~
ん?・・・なんで400年祭だ?
調べてみたら、徳川家康が亡くなったのは1616年なので、多分「没後400年」ということらしい。
それならそうと「没後」って書いてくれればいいのに・・・(苦笑)

今晩は、岡崎駅近くのホテルに宿泊する。
夕食は、ホテルを出て外食・・・
テクテクとかなり歩いて見つけた焼肉屋さん。
で・・・
会計後、帰る時に店員からティッシュボックスをプレゼントされた・・・(大汗)
どういうサービスなのか知らないけど・・・(苦笑)
我々は旅行客だから・・・と言ったのだが、この若い店員は意味がわからなかったようである。(涙)
「はい、どうぞ」と渡してきた・・・
こんな、かさばる物を持って旅行を続けるのか?(苦笑)
カバンに入らないんだけど・・・・
ということで・・・・
無理矢理・・・“シミズくん”に持たせることにした。(大笑)
これで一件落着である。(大笑)

旅行 | 19:47:29 | Comments(0)
西尾城二之丸鍮石門
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西尾城二之丸鍮石門(ちゅうじゃくもん)

二之丸御殿の玄関の前にあった門で、古くは「中柵門」、「玄関前門」と呼ばれていました。
大給松平氏が入城した際、江戸城の本丸御殿の前門であった鍮石門の名に因み、この文字を充てたと考えられます。
御殿に至る高貴な門という意味です。
門は楼門(ろうもん)式で、規模が、東西2間2尺(4.2メートル)、南北4間半(8.2メートル)で、高さ2丈2尺5寸(6.2メートル)でした。
この門前の長さ18.4メートルを測る内掘に架けられた欄干付きの土橋は、城郭中で最も規模の大きなものでありました。
二之丸は西尾城で最も重要で中心となる郭で、中央に西尾藩の政庁である二之丸御殿を置き、北西隅には三重四階の天守を配置していました。

平成18年2月
西尾市教育委員会

(説明板より)


【愛知県西尾市・西尾城】

史跡 | 11:55:30 | Comments(0)
今度は「西尾」を旅行
今日から1泊2日で水戸藩士の“シミズくん”と国内旅行・・・
つい先日、旅行したばかりで、またもや旅行・・・
なんという“ご身分”か・・・(大笑)

早朝の特急で上京。
“水戸藩士くん”は、隣りの駅から乗ってくるので車内で待ち合わせ。
拙者は早朝となると、ちょっと自信がない・・・もしかしたら寝坊するかも・・・(笑)
と・・・言っておいたので、さぞかし彼は気を揉んでいたことだろう。(大笑)
が・・・無事に合流できた・・・

東京で新幹線に乗り換え、名古屋へ向かう。
名鉄名古屋駅ビルで昼食・・・

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名鉄名古屋駅から西尾駅に向かう。
西尾には平成20年に一度だけ来たことがあるので、拙者が「案内役」なのだが・・・
7年も経つとねぇ~・・・・殆ど覚えていないんだよねぇ~(大笑)

003_convert_20160225173538.jpg(西尾駅)

午後1時・・・西尾駅を降り立ったが・・・・う~ん・・・記憶がない・・・(大汗)
ちょうど駅舎は改築中だが、駅前の様子がねぇ~・・・・記憶にないのである。
あれ?・・・・以前は、どんな感じだったっけ?

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(7年前の名鉄西尾駅)

ここからテクテクと西尾城に向かって歩く。
当時は桜が満開だったことだけはよく覚えているのだが・・・その他の事は断片的にしか記憶にない。

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ここは西尾城の三の丸新門跡である。
ここは記憶にある!(笑)
現在、駐車場になっている場所は、7年前は確か空き地になっていた。


西尾城三之丸新門跡

城下町の東側から城内への入口にあって、城の裏方に当たる搦手(からめて)と呼ばれる役割を持っていました。
門は土居の塁線より内部に縦6間(10.8メートル)・横10間(18.0メートル)の空き地を持つ内枡形の門で、門内の四方を高さ9尺5寸(2.85メートル)の石垣が囲んでいました。
堀側に「一の門」と呼ばれた高麗門(こうらいもん)、郭内に北向きの「ニの門」と呼ばれた楼門(ろうもん)式の門を配置しています。
規模は、楼門が、東西5間(9.1メートル)、南北2間3尺5寸(4.7メートル)、高さ2丈3尺8寸(7.2メートル)、高麗門が、東西2間半(4.5メートル)、高さ1丈5尺(4.5メートル)です。
この門から内部に入ると、南に帯曲輪が伸び、西に向かうと太鼓門前に至ります。

平成18年2月
西尾市教育委員会

(説明板より)


すぐ近くに「西尾市歴史公園・尚古荘」というのがあったので覗いてみる。

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う~ん・・・ここは全く記憶にないから、多分、7年前には来た事はないだろう。
(あとで調べたら、7年前にもここに来て写真を撮っていた・・・)(唖然)

裏道を歩いて出てきたところが、「西尾市立西尾小学校」・・・
おお!ここに来たことは覚えている。(笑)

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7年前に、どこから写真を撮ったかも何故か覚えていたので、同じ位置から今回も写真を撮ってみる。(笑)
ここは「太鼓門跡」である。


西尾城東之丸太鼓門跡

三之丸より東之丸への入り口にあって、二階建ての楼門式の門で、田中吉政の三之丸造成以前には、この門は「追手門」、すなわち大手門の役割を担っていました。
門は、土橋を渡ると突きあたる石垣上に築かれた土塀に接続して東向きに建てられていました。
規模は、東西2間半(4.5メートル)、南北5間半(9.9メートル)、高さ2丈5尺5寸(7.65メートル)です。
塀の向こうの東之丸内には報時報知の太鼓を打ち鳴らす「時之櫓」ともいわれた太鼓櫓があり、この門の名前の由来となっています。
また門を入ると立ち並ぶ西尾藩米蔵の横を通り、外喰御門(そとぐらいごもん)・内喰御門(うちぐらいごもん)を経て、二之丸鍮石門前に至ります。
軍事上の配慮からいくつもの屈折や多くの門をくぐる複雑な通路となっていました。

平成18年2月
西尾市教育委員会

(説明板より)


小学校のところからテクテクと更に進むと「城址」に着く。
が・・・・あれ?
こんな景色だったっけ?(大汗)

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え?・・・こんなに綺麗に整備されていたっけ?(唖然)

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天守台?
7年前に来た時は、そんなものあったっけ?(苦笑)
どうも記憶力が悪い・・・・
水戸藩士の“シミズくん”と分かれて、ここを一人で散策・・・
折角だから天守台にも登ってみる。(笑)

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西尾城天守台

西尾城天守は二之丸北西隅に築かれました。
天守は本丸におかれることが多いですが、二之丸に天守が配置されたことは西尾城の特徴でもあります。
絵図によると、天守は三重で南と東に多聞櫓が付いています。
1階は東西9間(約16m)、南北7間(約13m)で、高さは8間2尺(約15m)と記されています。
石垣の高さは土居と合わせて6間半(約12m)と記されています。
明治時代になると天守は取り壊されてしまいましたが、発掘調査では天守台の最下部の石垣などが見つかっています。
二之丸には天守や藩主の御殿、藩庁が設けられ、西尾城の中心的な場所でした。
西尾城天守は西尾城内で最も高い建造物で、城下を見渡すことができたのでしょう。

(説明板より)


天守台跡から周囲を見る。

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直ぐ隣りに門が・・・「鍮石門(ちゅうじゃくもん)」である。
これは覚えている・・・(笑)

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門の前を通過して、「西尾市資料館」の方へ向かう。
今回の、この「西尾」訪問は“シミズくん”の希望によるものである。
「西尾小学校」の近くに「関口長太郎の碑」があるらしく、それを見たいとのこと。
で・・・過去に「西尾」を訪れたことがある拙者が“ご案内”することになったのだが・・・
「関口長太郎の石碑ねぇ~そんなものあったかなぁ~」
殆ど記憶がないのだから“ご案内”にならない・・・(大笑)

先に拙者と分かれて別行動をしていた“シミズくん”が、お目当ての石碑を見つけたと言う。

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ん?・・・ここ?
7年前にも、ここに来て写真を撮ったけど・・・
関口長太郎の石碑なんかあったかなぁ~
と・・・思ったら、設置されていた説明板に、ちゃんと書いてあった!(驚)
この説明板も7年前に読んでいたんだけどねぇ~
全然覚えていないとは・・・・(大汗)


姫丸辰巳櫓跡

姫丸は、南・東・北は塀により、西は内掘により囲まれる狭小な縄張りで、本丸表門前の馬出しの役割を担っていた。
そして、西尾資料館の北方東側に姫丸門があり、鍮石門前の広場と通じていた。
木立の茂る部分は庭園風に改造されているが、南東隅の平坦な場所に辰巳櫓があった。
隅櫓は東西7.3メートル、南北5.5メートル、高さ8.2メートルの二重の建物である。

 筒井秋水碑
旧西尾藩士で、諸国を歴遊し、儒学者篠崎小村、斉藤拙堂、野田笛浦に学んだ漢学者である。
明治期には子弟の教育に当り、多くの逸材を育てた。
また詩文にすぐれ、書家としても活躍した。
 松田君碑
西尾警察署の模範的な巡査である。
明治22年、上矢田町の人家の出火現場へかけつけ、身を挺して消火に当たった。
その際、倉庫が倒れて圧死してしまった。
この時30歳であった。
 関口長太郎碑
旧西尾藩士、藩校修道館で秋山恬堂に学び、後に西尾尋常高等小学校の初代校長となった。
その後、台湾において親日派を育成して台湾の同化を図ることを目的とする台湾総督府学務部に奉職した。
明治29年、芝山巖の学堂が台湾島民に襲撃され、死亡した。

西尾市教育委員会

(説明板より)


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これが関口長太郎の碑・・・・
7年前に見てるわ・・・この碑・・・(苦笑)
なんで覚えていないのかねぇ~
台湾の「芝山巖事件」で犠牲になった6人の日本人教師「六氏先生」のうちの一人である。
3年前に台湾に行ったときに「六氏先生の墓」に行った・・・(苦笑)
が・・・この6人の先生の名前までは覚えていなかった。(大汗)
拙者は、どうもダメだねぇ~
水戸藩士の“シミズくん”は、この碑が見たかったらしい。
が・・・碑の建っている場所には柵があって近づけないので、碑文が読めないのが残念・・・

直ぐ目の前にある「資料館」を見学・・・・

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「芝山巖事件」もしくは「六氏先生」もしくは「関口長太郎」に関する資料の展示はないものかと思ったが、見当たらなかった。
この資料館には7年前にも来たが、なぜか展示品の内容は記憶にない・・・・(涙)
資料館の方に「関口長太郎」に関する資料の有無を尋ねたら、やっぱりないとのこと。
郷土の「偉人」だと思うんだけどなぁ~
すぐ近くには初代校長を務めた西尾小学校もあるんだし・・・
何かしらの展示をしてもらいたいなぁ~(笑)
一応、販売書籍の中に関口長太郎に関して書かれているものがあったので、“シミズくん”が大金をはたいてこれを購入した。(笑)

あとは・・・西尾小学校へ行って尋ねてみるか、市立図書館にでも行って調べてみるかということになるが・・・
彼が、そこまでしなくてもいいと言うので、ここで目的達成ということになる。

「尚古荘」まで戻り、ここで軽くお茶を飲んで休憩・・・・

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旅行 | 10:30:51 | Comments(0)
そこのところを、なんとか・・・
我が弟に手紙を送る。
普通の封筒より、大きめの封筒・・・
切手は、買い置きしてある82円の記念切手を貼る・・・
まぁ、82円では済むはずがないと思うので、いつも利用している特定郵便局へ持参する。

「82円で届くよね?」
「いや、これは定形外ですから82円じゃ無理です」と女子局員・・・
「え?82円じゃダメ?」(笑)
「あと32円お願いします」
「32円?」
「はい、32円不足です」
「32円くらいなら何とかならない?」
「無理です!」(苦笑)
「そこのところをさぁ~あなたの力で何とかならない?」(笑)
「これ、料金不足で差出人に戻っちゃいますよ」
「え?戻ってくるの?」
「はい、多分、差出人に戻っちゃいます」
「え~わざわざ戻すくらいなら宛先に送ってくれてもいいじゃん!」(笑)
「なんですかそれ・・・」(大笑)
「手間暇かけて戻すより、そのまま宛先に届けたほうがいいんじゃないかなぁ~」
「そんな・・・」(汗)
「その経費って32円以上かかっちゃうんじゃないかなぁ~だったら、32円不足のまま届けたほうがいいんじゃないかなぁ~」(笑)
「確かに、一理ありますが・・・でも、ダメです。」(汗)
後ろに控える局長も苦笑い・・・
「無理矢理送っても受取人が不足分を払うことになりますよ」
「いいよ、相手は弟だし・・・弟に不足分を払わせちゃおうよ」(笑)
「今度は、そうきましたか・・・」(唖然)

結局、ちゃんと32円払って切手を貼って送りましたが・・・(大笑)
お客さんが誰もいない時は、こうして女子局員をからかうのが最近の拙者の楽しみなのである。(大笑)
嫌な“オジン”になったものだ・・・(大笑)
でも、反省はしない・・・(大笑)

日記 | 01:01:51 | Comments(0)
『ロシアは今日も荒れ模様』


プロローグ

第1章 酒を飲むにもほどがある
1 ロシア人がロシア人であることの証
2 瓶の中の祖国
3 ショスタコービッチとウォトカ
4 百薬の長?
5 ロシア人=大酒喰らい説、有力証言
6 ウォトカの飲み方
7 エリツィンとウォトカ
8 スペルドロフスクという名のウォトカ
9 マルメラードフ症候群
10 なぜそんなに飲むのか
(コラム1)座右の書

第2章 反アルコール・キャンペーンの顛末
1 ペレストロイカと節酒令
2 禁酒令ではないのに
3 内務大臣みずからテレビ出演
4 飲酒はますます促進されるのだった
5 ウォトカの復権
6 節酒令の雲散霧消
7 8月クーデター失敗の陰にウォトカあり
8 酔っぱらいの視点で見返すロシア社会
9 アイデンティティ・クライシス
10 そして今・・・・
(コラム2)ロシア文学における「ひもじさ」の系譜

第3章 その前夜
1 タクシー・ドライバーの場合
2 映画監督の場合
3 炭鉱夫の場合
4 文学者の場合
5 兵士の母の場合
6 「楯の会」活動家の場合
7 元宇宙飛行士の場合
番外篇「わたしたちはみな、潜在的な難民なんです」
(コラム3)ああ、若鶏のタバカ焼き

第4章 連邦壊(くにわ)れてまだ日の浅ければ
1 理想郷(ユートピア)破れた果てに・・・・
2 だんなは代わるが、しめつけは同じ?―ロシア新聞配達事情
3 気宇壮大とズボラのあいだ
4 オウムとロシアの不幸な出会い
(コラム4)輝かしい前科

第5章 肖像画コレクション
1枚目〈ムスチスラフ・レオポルドビッチ・ロストロポービッチ〉
2枚目〈秤を持つ男〉
3枚目〈ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ〉
4枚目〈ボリス・ニコラーエビッチ・エリツィン〉
(コラム5)食べずにはいられない

第6章 ロシア人との交渉術
1 アゼルバイジャン・コニャックの味
2 手は口ほどにモノをいい・・・・
3 ロシア人との交渉術
4 ジパングの寒々とした風景
(コラム6)自分の舌がこわくなる

エピローグ ― 日本海を挟んでボケどうしの漫才

初出一覧
あとがき
   解説 袴田茂樹


ロシアというのは、なぜか気になる国である。
魅力があるとまでは言わないが、なぜか気になるのである。

著者は、ロシア語会議の同時通訳者でエッセイストだそうで、ロシア語同時通訳の第一人者とも言われているらしい。
当然、ロシア通の第一人者でもあったに違いない・・・
が・・・2006年に56歳で他界されている。
なんとも惜しい気がする方である。
本書は、その方が書いたエッセイ・・・

ロシア人の酒好きは確かに言えてるなと思う。
私もウラジオストックで知り合ったロシア人に「一緒に酒を飲もう」と誘われたことがあるが・・・
相手は日本語も英語も話せない。
私はロシア語が話せない。(大笑)
よくそれで話が通じたものだと思うのだが、身振り手振りを交えての“会話”が30分以上も続いた挙句のお誘いだった。
本書の著者のようにロシア語が話せたり聞き取れたらなぁ~と彼女をうらやましく思う。
語学の能力のある人がうらやましい。
私と彼との“会話”を彼女が見ていたら、どんな感想を述べただろうか?
彼は同じホテルの3階に宿泊していて、私は2階・・・
酒を飲もう・・・って、ロシアで酒といったらウォトカ(ウォッカ)だろう?
そんな強い酒を飲んだら醜態を晒した挙句、自分の部屋番号も忘れて戻れなくなりそうだ・・・
ということで、お誘いを断ったが・・・
彼がジェスチャーで、しきりに残念がっていた事を思い出す。
本当にロシア人は酒が好きなようだ・・・

来日したロシア人が著者に、こう言ったらしい・・・
「日本は資本主義国なんかじゃない。日本こそ理想的な社会主義に一番近い国だ。われわれには社会主義は向かなかった」と・・・
まさしく、その通り!
以前から、日本は社会主義国ではなかろうかと思っていたので、わが意を得たり・・・である。
なにかあれば、すぐに「国が何とかしてくれ」と叫ぶ日本国民・・・
国民が社会主義を望んでいるのである。(汗)
そして、上からの指示待ちをする国民・・・・
自分では何も考えない、何もしない・・・
で・・・自分に都合のいい「自由」だけは求める。
う~ん・・・まさしく“理想的な社会主義”である。(大笑)
ロシア人が社会主義や共産主義には向いていない人種だという話は以前、どこかでも聞いたことがある。
確かに、そうなのかもしれない・・・
そのロシア人が“社会主義”をやっているから、面白くて、謎めいていて、興味深くて・・・気になるのかもしれないなぁ~
・・・・と思った。
だから「荒れ模様」なのかも・・・・


今年の読書:59冊目



読書 | 01:36:47 | Comments(0)
『米中論 何も知らない日本』


第1章 米中冷戦を仕掛けるアメリカ
 前線基地・シモジジマ
 沖縄の海兵隊縮小と引き替え
 背景に米軍の新軍事構想
 自衛隊誘致との奇妙な一致
 ブッシュ政権の「コンゲージメント」政策
 海南島事件の真相
 「米中冷戦」に持ち込みたいアメリカ
 「911」で息を吹き返した右派
 アフガン攻撃の隠された意図
 中央アジアと中国の蜜月「上海会議」
 ブッシュと中央アジアの石油利権
 「アメリカの援助なんて要らない」
 タリバンの陰にアメリカ高官
 ブッシュ一族とビンラディン一族との接点
 戦争も冷戦も事業
 米軍支配下のフィリピン軍
 百人程度を相手に軍隊を出動させたアメリカ
 フィリピンの「浮沈空母」化

第2章 アメリカの挑発に乗らない中国
 使われることのなかった中国の「エアフォース・ワン」
 犯人はアメリカか内部保守派か
 政府が先導した3日だけの抗議行動
 アメリカの敵になれない中国の内部事情
 忘れられた東西の要所・マクラン海岸
 アメリカも手を出せなかった
 中国の中東進出の橋頭堡
 親米より親中に傾くパキスタン
 「世界支配のライン」を脅かす中国
 パレスチナに口を挟みはじめた中国
 ミャンマーでも同じパターン
 太平洋にも中国の影
 「パナマ運河が中国に奪われてしまう」

第3章 米中、相思相愛の歴史
 世界一周していた鄭和の艦隊
 海洋大国だった中国
 宦官の頂点にいた鄭和
 中国の外交の基本「冊封」
 儒家対宦官
 ヨーロッパに渡った鄭和の世界地図
 「経済」の誕生
 植民地か工業国か
 飛ばされた改革派・林則徐
 「冊封体制」から抜け出せなかった清
 各家の血脈
 何度も敗れた洋務派
 なぜ中国は近代化できなかったのか
 中国の分割を許さなかったアメリカ
 中国分割禁止で敵となった日本
 世界の風向きを読めなかった日本
 国民党も共産党も親米になった

第4章 中国という果実
 アメリカの考えたようにならなかった世界秩序
 ソ連も支持していなかった中国共産党
 「選挙をやれば共産党が勝ってしまう」
 アジアで冷戦をどう展開するか
 意図されていた朝鮮戦争
 「麻薬」と「CIA」
 産軍複合体の誕生とケネディ暗殺
 資本家たちに担がれたニクソン
 ニクソン訪中の隠された目的
 ウォーターゲート事件の陰にも産軍複合体
 アメリカが待ちに待った好機
 李登輝の高等戦略
 経済で結びつく米中
 資本の論理と軍事の論理

第5章 張りぼての中国経済
 生産性アップのためだった農民選挙
 かたちだけの民主化
 なぜ市町村で選挙を行えないのか
 問題となる沿岸部と内陸部の格差
 一党独裁と腐敗防止は両立しない
 深刻な中国の不良債権問題
 「法治」が実現しない
 ミサイルを握りしめた自由の女神像
 報じられなかった天安門以来最大のデモ
 WTO加盟で切り捨てられる国内エネルギー産業
 農村から崩壊する中国

第6章 中国のマーケットを歩く
 「鉄飯椀」と「親方日の丸」
 中国企業が代金を払ってくれない理由
 企業改革を妨害する中国人の面子
 中国の三大マーケット
 値引き交渉は果たし合い
 膨張するニセモノ・マーケット
 功を奏さない取り締まり
 台湾と関係ありそうな大問屋街の歴史
 ネクタイ1本で全中国を制覇する
 日本より過激な中国の地方分権
 お寺に参拝する人たち
 宗教に寛容になった中国共産党
 消費人生を謳歌する南京東路
 社会主義をめざす新聞
 中国で感じる台湾の存在感
 パソコンパーツの価格速報も台湾発祥
 中国の中の台湾・広東省東莞市
 台湾独立を認める上海人
 あちこちで台湾を感じる中国沿岸部経済
 逆転する中台経済関係
 アメリカ経済落ち込みが原因
 金融自由化の負の部分

第7章 台湾という火種
 中国4千年で初だった選挙による政権交代
 蔣介石の「永遠のお通夜」
 息子の蔣経国はなぜ民主化を目指したのか
 アメリカに見捨てられないための民主化
 「李登輝は半分日本人だったんだ」
 連戦こそが党首に最適な人物
 連戦の「永遠のお通夜」発言
 長らく「化外の地」だった台湾
 腐敗とともに外省人がやってきた
 北京語をおしゃれに感じる台湾の若者
 台湾の経済が悪いほど都合がいい外省系メディア
 故宮博物館は誰のものか

エピローグ 何も知らない日本
 林則徐像と世界貿易センタービル
 切っても切れない米中関係
 日本は世界的変化を見落としているのではないか

参考文献



今年の読書:58冊目



読書 | 01:34:20 | Comments(0)
水任流保存会会長松平賴明顕彰碑
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高松市指定無形文化財
水任流保存会会長松平賴明顕彰碑

当保存会初代会長松平賴明公は讃岐高松藩松平家13代当主にて 明治42年8月13日生誕
学習院を経て早大卒
伯父12代賴寿伯爵の嗣子となり昭和19年9月13日賴寿伯他界のあとを継ぐ
さすがに天性温情至誠高潔にして春の如く而も気品高くして尊皇敬神崇祖の念極めて深く 且庶民的親交厚く慈父の如くに欽慕景仰を受く
その全生涯の大半を教育活動に専念せられ東都にありては本郷学園の学校教育に全力を注ぎ 他方ボーイスカウト活動にも格別の貢献をされ青少年育成に多大の成果を収む
また郷土高松にては当水任流保存会会長を始め松平公益会会長 香川県教育会 高松市教育会両会長 香川県育英会会頭 ボーイスカウト香川連盟長等として尽力 玉藻公園開設にも協力され 広く郷土の発展に寄与し県民と友情を温む
平成2年2月23日朝惜しくも80年の天寿を全うせらる
当会はゆかり深きこの地に碑を建てて永く公の偉績を顕彰せんとす

平成2年10月吉日
水任流保存会

当クラブ結成20周年記念事業として この碑を贈呈します

高松葵ライオンズクラブ
高松葵ライオネスクラブ

(碑文より)


【香川県高松市・高松城跡・玉藻公園】

史跡 | 17:59:16 | Comments(0)
昭和天皇・皇后 御手植松
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昭和天皇・皇后 御手植松

御手植えの松樹について謹んで碑に記す
松樹2株は東西に相対している

東の方は
今上(現在の天皇、昭和天皇)が植えられたもの
大正11年、皇太子・摂政宮であった時に
讃岐で陸軍大演習が行なわれ、披雲閣が
大本営として使用され、摂政宮が3日滞在された
賴寿は感激し、その恩栄を記すため、樹を植えて
いただくことをお願いした

西の方は
皇后(昭和天皇の皇后)が結婚される前に
生家(久邇宮家)の父に従って讃岐に来られた際
披雲閣に滞在された(大正12年)その時に
小さな松を植えられた

松樹が植えられてから10年以上も過ぎ樹はともに茂っているが、この由緒について久しく何も記していないことは恐れ多い
よって、石の柵を設け、鉄の鎖を施して松樹が汚されることを防ぎ、子孫にまで永くこの恩栄を伝え、その恩に報いようとするものである
また、昔のことを忘れないように鎖は古い城に用いられていた大きな釘を使って作り、中央の柱をつなぐ

昭和8年7月 正三位勲三等伯爵 松平賴寿 記す

協力 香川県立ミュージアム学芸課

(説明板より)


【香川県高松市・高松城跡 披雲閣】

史跡 | 16:36:18 | Comments(0)
高松城へ行く
「琴電」の車内の中・・・・
面白い掲示物を発見!

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さぬき弁の「マナー講座」である!(笑)
これ、いいなぁ~
こういうの、茨城にも欲しいなぁ~(大笑)
車内を歩き回って全部の掲示物を写真に撮りたい気分だったが、他に乗客もいたので恥かしいから止める・・・(大笑)

午後1時過ぎ・・・「高松築港駅」に到着。
ここが終点・・・

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ホームのギリギリまで石垣が迫っている・・・
いや・・・お城の石垣ギリギリにホームを作ったのか・・・(笑)
ということは・・・ここは昔は「お堀(お濠?)」があった場所ではなかろうか?
お堀を埋めた上に線路を引いたか?

695_convert_20160205204543.jpg(高松築港駅)

というわけで、駅を出ると、すぐ後ろが「高松城」である!
なんと便利なことか・・・(喜)

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内掘

現在緑地帯として整備されている一帯は、かつて高松城の本丸と二の丸を囲むように設けられた内掘の跡です。
特に、本丸はこの内掘によって四方を囲まれており、鞘橋(さやばし)のみで二の丸とつながっていました。
大正時代までは内堀はその姿をとどめていましたが、大正14年(1925年)に完成した皇太子殿下御成婚記念道路の建設に伴い、本丸西側が埋立てられ堀幅が狭くなりました。
昭和3年(1928年)には埋立てられた内掘を含む高松城跡の西側一帯において全国産業博覧会が行なわれました。
さらに戦後には本丸西側は完全に埋立てられてしまいました。
内掘のうち本丸西側部分の堀幅は絵図や文献によって異なり詳細は不明ですが、寛永15~16年(1638~39)頃の絵図では14間という最も狭い幅が記載されており、少なくとも25m余りあったと考えられます。

贈・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)



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高松城は公園のような感じだった・・・あら・・・面白くない・・・(苦笑)



史跡 高松城跡

高松城は天正15年(1587)豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)によって、翌16年(1588)に築城が開始されました。
その縄張(なわば)り(設計)は藤堂高虎(とうどうたかとら)、黒田孝高(くろだよしたか)、細川忠興(ほそかわただおき)など諸説があります。
生駒氏は4代54年続きますが、寛永17年(1640)に出羽国矢島(でわのくにやしま)(今の秋田県由利本荘市)1万石に移されます。
その後、寛永19年(1642)に松平賴重(まつだいらよりしげ)(水戸光圀の兄)に東讃12万石が与えられ、高松城に入りました。
以後、明治2年(1869)の版籍奉還(はんせきほうかん)までの11代228年の間、松平氏の居城として威容を誇ってきました。
賴重は、寛永21年(1644)に高松城の改修を開始し、寛文10年(1670)に天守改築、寛文11年(1671)からは東ノ丸・北ノ丸の新造を行い、2代賴常(よりつね)が完成させました。
これに伴い、大手(おおて)を南から南東へ移し、藩主の住居と政庁(せいちょう)を一体化した御殿(ごてん)を三ノ丸に作ることも行われました。
江戸時代には、内掘、中堀、外堀の三重の堀を有し、約66万㎡(約20万坪)という広さでした。
明治初期に外堀が埋立てられ、さらに徐々に中掘の一部が埋立てられ市街化が進み、現在約8万㎡のみが城跡として残っています。
昭和29年(1954)に高松市の所有となり、昭和30年(1955)に国の史跡に指定されています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)



あら・・・我が水戸藩の水戸黄門のお兄さんがいたお城だったのか・・・(笑)
そういえば・・・何やら、そういうことを聞いたことがあるような・・・ないような・・・(苦笑)
う~ん・・・縁があるといえば縁があるお城ということになるかな?


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鞘橋(さやばし)

鞘橋は、ニノ丸から本丸へ続く唯一の動線であり、この橋を落すことによって本丸だけを守ることもできるようになっていました。
絵図等によると高松城築城当時から同位置に橋が架けられていたことがわかります。
当初は「らんかん橋」と呼ばれ、1640年代半ばの絵図でも欄干(らんかん)が描かれており、屋根のない橋でした。
その後、文政6年(1823)の絵図では屋根付きの橋として描かれており、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。
現在の鞘橋については明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっており、大正期には橋脚(きょうきゃく)が木製から石製に替えられたことが古写真から判明しています。
昭和46年(1971)には老朽化による解体修理がなされ、平成18年から開始した天守台石垣の修理工事に伴って本丸側の一部が解体され、平成23年に修理されました。
橋の架かっていた石垣が修理されたことに伴って、解体前よりもやや全長が長くなっています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)



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(天守台の石垣)

722_convert_20160207115945.jpg(天守台・地下1階部分)

721_convert_20160207123432.jpg 724_convert_20160207123507.jpg
(天守台跡から見た景色)

天守閣跡(天守台跡)を降りて、今度は周囲を散策・・・・
庭園があったので覗いてみる・・・

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披雲閣(ひうんかく)庭園
平成25年10月17日名勝指定

披雲閣庭園は、大正3~6年(1914~17)に松平家第12代当主松平賴壽(よりなが)が高松城の三ノ丸に「披雲閣」を建設した際に、東京の庭師大胡勘蔵(おおこかんぞう)によって作庭された庭園です。
三ノ丸には江戸時代に御殿があり、北東側2箇所の築山(つきやま)(庭園内の小山)が絵図に描かれていることなどから、一部江戸時代の庭園を残しながら作られたと考えられます。
マツ・ウバメガシを中心とした植栽の中に多数の景石(けいせき)・石造物を配置しています。
景観を大きく特徴づける構成物として、北東から南西方向に流れる枯川(かれがわ)と、北東に2箇所、西に1箇所、披雲閣蘇鉄(そてつ)の間(ま)北側に1箇所の築山が見られます。
枯川の周囲には多くの石造物が配置されています。
特に、枯川の中ほどには一つの花崗岩(かこうがん)を刳(く)り抜いて作った精巧な石橋があるほか、披雲閣の大書院北側には高さ2メートル、重量11トン余りと言われる大型の手水鉢(ちょうずばち)があります。
庭園内には経路に沿って飛石(とびいし)が縦横に配され、建物の軒先には沓脱(くつぬぎ)石が配されていますが、これらも大型の花崗岩を用いています。
また、庭園内には昭和天皇・皇后陛下がお手植えになられた松もあります。

贈・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)


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重要文化財
披雲閣(旧松平家高松別邸)

松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約二倍)があり、藩の政庁および藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のため取り壊されました。
その後、松平家第12代当主で貴族院議長も務められた松平賴壽(まつだいらよりなが)氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。
この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院をはじめ、槙の間・蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊なられたこともあります。
昭和29年(1954年)に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。

(説明板より)


この披雲閣の入口の前で盆栽展と、なにやら盆栽の実演講座みたいなことをしていた。
説明板によると、高松の松の盆栽は日本一なのだとか・・・
え?・・・ほんと?(苦笑)

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日本一を誇る高松の松盆栽

高松市西部の鬼無(きなし)・国分寺地区の松を中心にした盆栽作りは、文化年間に、土地の愛好家が、山野に自生する松を掘り、鉢植えに仕立てたのが始まりとされています。
今日では、全国の黒松、五葉松の盆栽の大半、また錦松の大部分が高松で生産されるまでに発展しています。
これは、高松が瀬戸内に位置し、雨が少なく、花崗岩系の土壌が主体で松の育成に適していることと、素材が身近に入手できたためと思われます。
また、旧高松藩主松平家第12代頼寿公が、日本盆栽協会の前身である国風盆栽会初代会長に就任するなど盆栽会のために尽力されたことを始め、いち早く地場産業として全国屈指の生産地に育て上げた先覚者の努力に負うところが大きいといえます。

(説明板より)


へぇ~・・・・そうなんだぁ~・・・と大いに勉強になった・・・(喜)
その昔、小学6年生の時に祖父にねだって、祖父のサツキか何かの盆栽を貰ったのだが、その後枯らしてしまった・・・(汗)
20歳のとき、成人の記念として梅の盆栽を自分で買ったが、これも手入れが出来ず庭に植えたあげく枯らしてしまった・・・(大汗)
盆栽には興味があるのだが・・・どうも育てるというのは無理なようである。(苦笑)
今から始めたのでは、遅いよなぁ~
あと30年生きるかどうかわからんからなぁ~(笑)
あの12歳の時にもらった盆栽を育てていたら・・・もう43年だからねぇ~
かなりのベテランになっていたかも・・・(大笑)
う~ん・・・拙者の場合は・・・鑑賞だけで我慢したほうが良さそうである。(大笑)

城跡を歩き回り・・・遂に発見!(笑)
櫓である!(大喜)
ありましたか建造物が・・・(大笑)

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重要文化財
高松城北之丸月見櫓(続櫓)、水手御門(みずてごもん)、渡櫓(わたりやぐら)
昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

高松城(玉藻城(たまもじょう)ともいう)を築城した生駒(いこま)氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に出羽の国の矢島(やしま)1万石(秋田県由利本荘市矢島町)に移封されました。
その後、寛永19年(1642年)松平賴重(よりしげ)公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、明治2年(1869年)まで11代228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城(みずしろ)の一つに数えられています。
月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋立てて作られた郭(くるわ)の隅櫓(すみやぐら)として延宝4年(1676年)2代賴常(よりつね)公の時代に、完成されたものです。
ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。
かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみて、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。
月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに梁をかけて組立てていることや外壁に装飾的な黒い長押(なげし)を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。
これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年(1954年)1月に高松市が譲り受け、翌年3月から国庫・県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1700万円を費やして同32年(1957年)3月に竣工しました。

(説明板より)


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水手御門(重要文化財)

江戸時代、この石垣の北側まで海でした。
藩主は、水手御門から小舟で出て、沖に停泊する御座船「飛龍丸」に乗船し遊覧を楽しんだり参勤交代に出かけたりしたようです。
水手御門は直接海に向かって開く海城独特の門で全国唯一の現存例です。

(説明板より)


ぐるっと回って・・・今度は天守閣跡が見える場所に出た・・・
ちょうど復元イメージの看板も設置されていた。
こういうのも面白い。
が・・・出来れば本当に復元してもらいたいものだ。(笑)

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そのままずっと歩いていったら、「桜御門」という場所に出た・・・
が・・・石垣の工事中!(涙)
しかも工事期間の終了は10月16日と看板に書いてある!
あ~あ~1週間早く来てしまった!!(大涙)
1週間遅ければ、修復後の桜御門が見られたわけか・・・残念・・・

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さらに進むと・・・・あれ?・・・・新たな櫓が・・・
え?・・・・ただの公園だろうと思っていたら、ちゃんと櫓が残っている城跡ではないか!(喜)

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重要文化財
高松城旧東之丸 艮櫓(うしとらやぐら)
三重、三階、隅櫓、入母屋造、本瓦葺
昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

高松城は、讃岐の国(香川県)の国主だった生駒親正(いこまちかまさ)公が築城したもので、生駒氏が寛永17年(1640年)に出羽の国(秋田県)に移封せられた後、寛永19年(1642年)に東讃岐12万石の領主として入府した松平氏が本丸、東之丸、北之丸などを修築し、規模を整えたといわれます。
東之丸は現在の県民ホールのあたりをいい、寛文11年(1671年)頃より行われた大改修の際、新たに堀を開削して、海に面して新たに構えられた郭です。
艮櫓は、もともと東之丸の北東の隅櫓として建てられたもので、北東の方角のことを丑寅(うしとら)(艮)ということから、この名前があります。
記録によれば延宝5年(1677年)に完成されたようで、現在残されている月見櫓と同時期に建てられたものです。
昭和40年(1965年)8月に当時の所有者であった日本国有鉄道より高松市が譲渡を受け、国庫、県費の補助金を得て昭和40年10月より工期2年、工事費2,800余万円を費やして解体修理を行い、東之丸の東北隅より現在の旧太鼓櫓跡に移築復元されました。
この移築にあたって、艮櫓の規模に合わせて城内側に石垣の拡張工事を行ったほか、石落しの取付の関係上、建物を右に90度回転させています。
櫓の構造としては南北に大きな千鳥破風(ちどりはふ)を設けているほか、各階の窓の土戸に特異な形状をもち、さらに2、3階には城内側にも銃眼を設けるなどの特徴が見られます。
移築修理の際、この櫓は建立直後に補強的な改造を受けているほか、安政3年(1856年)には、ほとんど解体に近い大修理を受けていることがわかりました。

(説明板より)


説明文を読んでみると、この櫓は、もともとここにあったわけじゃやないそうで・・・・
しかも、向きも変えてるし・・・
石垣も拡張して変えちゃっているし・・・
う~ん・・・建物自体は「重要文化財」なんでしょうが、お城全体から考えたら価値は半減のような気がしますが・・・(苦笑)

でも、この櫓・・・・
大きな千鳥破風があるせいなのか、天守閣っぽい形なんですけど・・・
天守閣を小型にしたような・・・そんな感じ・・・
この形・・・いいねぇ~

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そのまま進んで・・・「旭門」という門から城外に出る。
拙者は、お城の中心部から、グルグルと廻りながら城外に出て、さらにお城の周囲を歩くのが好き・・・
時間に余裕があれば、そういうことをするのである。(笑)

で・・・・おや?

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この風景からいうと・・・こちらが正面・・・「大手口」のような気がしますが・・・(苦笑)
近くの説明板を読んでみたら、やっぱり、ここが「大手」だった・・・
ということは・・・拙者は「裏口」から城内に入ったのか?(大汗)
どこからお城に入ったかで、そのお城の印象って変わるんだよねぇ~
過去の経験からいうと・・・・(笑)

812_convert_20160209232215.jpg(大手跡)


大手

高松城の大手(表門)は築城当初南側にありましたが、寛文11年(1671)から始まった松平賴重・賴常による東ノ丸・北ノ丸の新造に伴い、城の南東側に移されました。
現在駐車場のある場所はかつて下馬所(げばしょ)であり、高松城へ登城する人はここで馬を下りて徒歩で入っていきました。
城内に入る橋は旭橋(あさひばし)と呼ばれています。
橋は堀に対して斜めになっており、敵の直進を防ぎ、側面から攻撃できるような仕組みになっています。
江戸時代には木製でしたが、明治45年(1912年)に高松松平家第12代当主賴壽(よりなが)により石橋に架け替えられました。
橋北側の親柱(おやばしら)に賴壽による「旭橋」、南側に同夫人昭子による「あさひばし」の文字が彫り込まれています。
橋を渡ると、旭門と呼ばれる高麗門(こうらいもん)が見られます。
この門を入ると、来訪者を威圧するかのような切石の石垣による枡形(ますがた)(石垣で囲まれた空間)となっており、左手に曲がるとかつては太鼓門と呼ばれる櫓門(やぐらもん)がありました。
また、枡形の北側には石垣をトンネル状に構築した埋門(うずみもん)を設けています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)


さて、今度は、城外をぐるっと廻ってみることにする。(笑)
大手を出て、左に曲がったあたりは、東之丸があった場所らしい・・・

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東ノ丸

生駒氏の後、高松に入った松平賴重は、3年目の寛永21年(1644)年から城の修築に取り掛かり、寛文10年(1670)に天守の改築を行いました。
賴重は翌11年(1671)以後、さらに北ノ丸、東ノ丸といった新たな曲輪(くるわ)(区画)を造るなど、大規模な改修や拡張を行っています。
現在の県民ホールから県立ミュージアム付近がその東ノ丸の跡地です。
武家屋敷と町人街が混在するエリアでしたが、町人街を城外に移動させ、中掘を延長して新たに造られた曲輪です。
その北半分は米蔵丸(こめぐらまる)(食糧貯蔵施設)、南半分は作事丸(さくじまる)(城内の建築工事関係施設)として利用されており、これまでの発掘調査で、米蔵や作事舎の建物の礎石などが見つかっています。
また、東ノ丸の北辺と東辺の石垣の一部が現存しており、史跡に指定されています。
なお、東ノ丸北西隅に位置していた重要文化財の艮櫓(うしとらやぐら)が、保存などの問題から昭和42年(1967)に桜ノ馬場南東隅の太鼓櫓台に移築されています。

贈・・・・公益財団法人松平公益会

(説明板より)


県立ミュージアムの前を歩く・・・
う~ん・・・博物館好きとしては、ちょっと立ち寄りたい気分なのだが・・・
あまり時間がない・・・・夕方の電車で帰らねばならぬのだ・・・
ここは、心を鬼にして・・・(大笑)・・・・博物館は無視することにする。
気が付かなかったことにしよう・・・(大笑)
いつか、また高松に来ることがあったら、その時に見学しよう・・・

そのまま県民ホールの裏(?)に行って見たら、石垣があった。
県民ホールの敷地内に食い込むような形で石垣が残っている。
いや・・・正確には、石垣に食い込んでいるのは県民ホールのほうか?(笑)
でも、こういう残し方というのもいいよなぁ~
普通は埋めてしまうか撤去してしまうから、石垣を保存したまま新たな施設と混在させてしまうというのは、なかなか面白い保存の仕方だと思う。

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香川県県民ホール小ホールと高松城

玉藻公園(たまもこうえん)として市民に親しまれている高松城跡は、昭和30年3月2日に国史跡に指定されました。
この高松城は、豊臣秀吉の家臣であった生駒親正(いこまちかまさ)が天正16(1588)年に築いたもので、城の北側が海に面し、海水を引き入れた三重の堀をもつなど、城造りに海を取り入れていることを大きな特色としています。
生駒氏が御家騒動(おいえそうどう)によって出羽国(でわのくに)矢島(やじま)(秋田県)に転封(てんぽう)されると、水戸の徳川光圀(みつくに)(水戸黄門)の兄であった松平頼重(まつだいらよりしげ)が東讃(とうさん)12万石の領主となり、高松藩が成立しました。
頼重は、城下に上水道を敷設し、天守閣を改築するなどして、城と城下町の整備に努めましたが、寛文11(1671)年からは、城の東側の侍屋敷(さむらいやしき)や町屋(まちや)のあったところに「東の丸」と呼ばれる郭(くるわ)を築造しました。
東の丸の北東の隅には三重三層の艮櫓(うしとらやぐら)が建てられましたが、現在は桜馬場(さくらのばば)の南東部にある太鼓櫓(たいこやぐら)跡に移築復原されています。
現在地は、東の丸の北東にあたり、県民ホール小ホールの建設工事の前に実施された発掘調査によって、江戸時代の絵図に描かれたとおり、海に突き出した石積みの突堤が発見されました。

香川県教育委員会

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(説明碑より)


時刻は午後2時半を過ぎた・・・・
もう限界である・・・・腹が減ったぁ~(涙)
ちょうどお店を見つけたので入る。
香川県に来たのだから・・・やっぱり、うどんを食べよう・・・・(笑)

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さて・・・“燃料”も補給したし・・・“パワー”も戻ってきたので、再び歩くことにする。
広い道路沿いに、高松駅に向かって歩く・・・

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間もなく、櫓が見えてきた・・・
これは、月見櫓だろう。
城内からではなく、外から見る櫓もいいなぁ~

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斜め前・・・海側にも小さな櫓が見えた・・・
こちらは工事用の柵なのか、柵があって近づけない!(涙)
何やら「重要文化財」という説明板が建っているようなのだが、遠くてよく見えない・・・(涙)
持参のタブレットで調べたら「報時鐘」というらしい・・・
この海側の空き地?公園?・・・に移築されたらしいが・・・
なにもこんな辺鄙なところにポツ~ンと移築しなくても・・・という気がしますけど・・・(苦笑)

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道路は片側2車線で、両方で4車線・・・
道路を渡って向こう側に行きたくとも、なかなかタイミングがつかめない。
仕方がないので、横断歩道のある場所まで進んでから、再び月見櫓の位置に戻ることにした。
やっぱり、いろんな角度から写真は撮りたいものである。(笑)

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左から月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓・・・・である。
堀に水がないのが残念!(涙)
ここに水を張って、当時の藩主の小舟を復元して浮かべたら、絵になると思うんだけどねぇ~(笑)

午後3時過ぎ・・・・JR高松駅前に到着・・・

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松の木の所に石碑が・・・・
「高松市の木 黒松」と刻まれている。
へぇ~高松市の木は黒松なんだぁ~

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駅前広場に池が・・・・・
この池・・・・海から海水を引いてきた「海水池」だそうである。
瀬戸内の砂浜も再現しているとかで、江戸時代の護岸や石垣に使われた石も使われているのだそうだ。
海水の池・・・ねぇ~
ということは・・・理論的には、この池の中でカツオやサンマが泳ぐことも可能ということですね?(大笑)

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JR高松駅・・・・やっぱり「顔」が描かれているよな?

まだ電車に乗るには1時間弱の余裕がある。
我が戦友会のおじいちゃんやおばあちゃんに、お土産を買って送ってあげようか・・・
徳島では買わず、ここ高松で買おうと思っていたのだが・・・・どこにもそれらしき店が見当たらない。(大汗)
駅の案内所で尋ねたら「キヨスクの一角で売ってます」と言う。
キオスクで?(汗)
行って見たら・・・・う~ん・・・・コンビニの片隅にお土産が少しだけ置いてあるという感じ・・・
唖然である。
これといったお土産がないのである!
しかも、宅配便で全国に送ろうと思っていたのだが・・・
この雰囲気では宅配はやってないだろうねぇ~(汗)
大失敗である!
こんなことになるなら徳島でお土産を買って送っておけば良かった・・・・
今さら後悔しても遅いが・・・(大涙)
まぁ、今回はお土産なし・・・だな。

「青鬼君のおもてなし」はお土産までは気が回らなかったのか?(大笑)

コーヒーショップで一服・・・・
やはり疲れたときはコーヒーを飲まねば・・・・(笑)

午後5時10分発の「快速マリンライナー」で岡山に向かう。
1時間弱で岡山駅に到着。
ここで新幹線「のぞみ」に乗り換え東京の品川駅へ・・・
品川駅で、午後8時44分発の特急に乗り、午後11時に自宅に戻る。
ということは・・・・高松から実質7時間もかかったってことか・・・・
これを、高松は7時間もかかる遠い場所と考えるか、7時間程度で行ける場所と考えるかだな。(笑)
飛行機を使えば、もう少し短い時間で移動できるんでしょうけど・・・(笑)

今回もまた、楽しい旅行ができた!
旅は最高である!(大喜)

旅行 | 14:34:46 | Comments(0)
源内ゆかりのホルトノキ
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源内ゆかりのホルトノキ

ホルトノキ科
常緑高木
本州(千葉県以西)四国、九州、沖縄、中国に分布する
根皮、枝葉の煎汁をねずみ色の染料にする

源内は宝暦10年(1760)7月、高松藩主松平頼恭に従って江戸から帰る途中、紀州湯浅のある寺でこの木を発見した。
源内はこの苗木を持ち帰り栗林公園内に植えたと言われるが、実はこのホルトノキを「オリーブの木」と思っていたらしい。
著書「紀州産物志」に出ている。
間違って植えたという源内ゆかりのホルトノキがこれである。

財団法人平賀源内先生顕彰会
さぬき市観光協会

(説明板より)


【香川県さぬき市志度46-1・平賀源内先生遺品館】

史跡 | 13:57:04 | Comments(0)
石鎚山奉納灯籠
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石鎚山奉納灯籠

自然石を使ったこのユニークな灯籠は、志度町間川、雲附山に祀られている石鎚神社の奉献と、志度の海辺から玉浦川の河口にかけて繋留する漁船のしるべのため、もとや醤油初代当主小倉嘉平が、石鎚神社の信仰に燃える実弟、高松藩士田山助蔵のすすめによって、弘化3年(1846年)に建立したものである。
小倉嘉平を中心にはじまった石鎚講は、間川を中心にいまもつづいている。

さぬき市
さぬき市観光協会

(説明板より)


【香川県さぬき市志度新町】

史跡 | 13:31:26 | Comments(0)
「志度」に行く
次に向かったのは「瓦町駅」・・・・
琴平電気鉄道・・・通称、「琴電」の駅である。

609_convert_20160201110345.jpg(瓦町駅)

これから「琴電」に乗って、「志度」という町に向かう。
当初は、高松市内を観光するだけにしようと思っていたのだが・・・・
つい、欲が出てきてしまった・・・(大笑)
志度は、あの平賀源内の出身地なのである。
旧邸と資料館、銅像などがあるらしいので・・・・う~ん・・・行って見たい・・・(笑)
また次回にでも・・・となったら、いつになるかわからんし・・・
主要都市なら、また来る機会があるかもしれないが、ちょっと離れた“田舎”(失礼!)には、わざわざ行く機会など訪れることはないだろう。
ならば・・・今回が最初で最後のチャンスかもしれない。(笑)
行って見たら大したことがなくてガッッカリ・・・ということもあるかもしれないが、行って見なけりゃわからない。(笑)
期待はずれの無駄骨となるかどうかどうかは・・・賭けである。(笑)

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午前10時過ぎ、志度に向かう。
約、40分後、志度駅に到着・・・
と・・・駅前を神輿が・・・・
おや?・・・何かの祭りだろうか?

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静かな町である・・・誰も歩いていない・・・・(汗)

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何やら、由緒あるお寺さんを見つけたので、ちょっと覗いてみる。

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史跡と伝統の寺 地蔵寺

景行天皇23年、土佐の海に棲んでいた怪魚が瀬戸内海にはいりこみ神出鬼没、時には海岸にまで押しよせて悪事を働いた。
天皇は心配して、日本武尊の御子霊子に討伐を命令した。
悪魚退治に成功した霊子は、天皇より褒美として讃岐一国を貰い受け国司となり、里人から讃留霊王(さるれおう)と呼ばれた。
後に悪魚のたたりを恐れた里人が、お堂を建て地蔵菩薩を安置したのが地蔵寺(別名魚霊堂)の始まりだと伝えられている。
開祖は、文殊菩薩の化身といわれる薗子尼で、近江の国より流れてきた霊木から志度寺本尊十一面観音を刻ませたお方で、当寺が志度寺奥の院といわれる由縁である。
本堂には本尊文殊菩薩と、中世から江戸時代にかけての巡礼で(当時は日本は66の国で構成されていた)日本全ての国を拝むことにより願い事が叶うといわれた「日本廻国六十六体尊」の本尊が祭られ密教仏としては、全国で唯一のものといわれている。

(説明板より)


さらに閑静な町の中を歩く・・・
本当に、ここに平賀源内の旧居や資料館なんかがあるのだろうか?・・・とちょっと不安になる。(苦笑)

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「皇紀二千六百年記念」と刻まれた石柱(コンクリート柱?)を見かける。
皇紀2600年は・・・昭和でいうと・・・・昭和15年・・・西暦では1940年である。
へぇ~・・・ずいぶん古いものが残っているんだぁ~・・・・
で・・・その記念ということだけど・・・この石柱は何かの横に建てられたものではなかろうか?
そのメインの物が見当たらないんですけど・・・(汗)
石柱には、ゴミネット(網)が縛り付けられていた。
ここが「燃えるゴミ」等の集積所になっているようである。
う~ん・・・・こういう使い方もあるか・・・記念碑・・・(笑)

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大きな石灯篭に出遭う・・・・
「石鉄大権現」と刻まれているように見える・・・
江戸時代の頃のものだろうか?・・・

平賀源内旧邸に向かう道すがら、所々に平賀源内に関する掲示物が貼られていた。

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これなどは、小学生が描いた絵や作文などが載っている。
いいね・・・こういうの・・・

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またまた、お神輿(山車?)に出遭った・・・
さっき、駅前で見かけたのは「幸組」だったが、こちらは「寶組」らしい・・・
どうも“組”が違うようだ・・・
お神輿(山車?)の中に、子供達が乗っていて、太鼓を叩きながら、何やら難しい歌を大声で唄っている。
いやぁ~その上手なこと・・・
大したものである。

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さらに歩いていくと、空き地に別の“組”がいた。
「旭組」というらしい・・・
この町にはいくつ“組”があるんだ?(汗)
それにしても、この神輿・・・一緒に歩くのは法被(はっぴ)を着た町の青年団(?)の人たちだけ・・・
別に沿道に観客がいるわけでもない・・・(汗)
なのに、神輿に乗った子供達は大声で歌を唄いながら町の中を通っていく・・・
なんだろ・・・これ・・・・
祭りなんだよね?・・・一応・・・
な~んか、寂しい気がしないでもない・・・
カメラを向けて写真を撮っているのは、拙者しかいないというのも・・・ねぇ~・・・・(大汗)

拙者は、基本的に「お祭り」は好きではない・・・(大笑)
神輿に乗るのも、担ぐのも好きじゃない・・・
盆踊で踊るのも好きじゃない・・・(笑)
しかし、裏方のスタッフをするのは大好きなのである。(大笑)
地元の「まつり」でも裏方のスタッフをやったことが何度もある。
もう、ワクワク・・・である。
企画、運営、当日の采配・・・もう血が騒いじゃうんですけど・・・(大笑)
表舞台に出るのは嫌いだが、裏方は大好き!(大笑)
う~ん・・・私に出来ることがあれば、飛び入りでお手伝いをしたい衝動にかられた。(大笑)

偶然にも、この空き地の隣りが「平賀源内の旧邸」だった・・・(苦笑)

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早速、平賀源内の銅像とご対面である。
で・・・その直ぐ隣りが旧邸である。

672_convert_20160201201817.jpg(平賀源内旧邸)


平賀源内先生旧邸

今から二百数十年前、日本の夜明けとも言うべき時代に現われ、数奇な運命をたどった源内先生は、高松藩の軽輩御蔵番の子として、ここ志度町新町に生れた。
先生は幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)。
元服して国倫(くにとも)。
通称を源内と呼んだ。
また号を鳩渓、風来山人、天竺浪人。
作家として福内鬼外、俳諧では李山と称した。
宝暦2年、新知識の輸入地である長崎に留学し、主として医学、本草学を修め、帰郷後は磁針計、量程機の発明、陶器の製造など藩に新風を吹き込んだが、世間の風当たりは強く、27才の時退官を願い出て江戸に立ち、田村藍水に師事する一方、昌平黌(こう)にも学んだ。
宝暦7年、藍水と共に日本で最初の物産会を江戸湯島で開催、その後は自ら会主となった。
高松藩では先生が名声を博するや、一方的に薬坊主格、切米銀十枚、四人扶持の藩士に召しかかえたが、先生は再び俸禄を辞した。
その後伊豆に於ける芒硝の発見、紀州物産誌の編纂(さん)、物類品隲(しつ)の刊行をはじめ、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の発掘、寒熱昇降器の発明、源内焼、西洋画の教授、日本で初めてのエレキテルの復原など世人を驚ろかせた。
この外滑稽小説「根南志草」、「放屁論」、「風流志道軒伝」や浄瑠璃「神霊矢口の渡」、「弓勢智勇湊」、「忠臣伊呂波実記」などの作品をつぎつぎに発表して江戸の人気を博した。
安永8年、ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、伝馬町の獄中で52才の心なじまぬ生涯を終えた。
友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に埋葬。
そのほとりに碑を建て「あゝ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる」と記し、先生の一生を讃えた。
この旧邸は昭和54年3月25日源内先生二百年祭にあたり修復したものである。

財団法人 平賀源内先生顕彰会

(説明板より)


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この旧宅の受付の方に「お祭」について尋ねたら・・・
この町には7つほどの地区に分かれているそうで、今年は、この地区が「お接待役」の当番で大変なのだそうだ。(笑)
なにせ、若い人が少なくなっているし・・・とのこと。
日本全国、どこの町でも同じような悩みがあるようである。
それでも、ああやって小学生が元気良く太鼓を叩いて歌を唄ったりしているんだから大したものである。
この子供たちの“出番”は日が沈む夕方までだそうで、その後は中学生が行なうのだそうだ。
へぇ~そりゃ大変だ・・・・
どうやら昼の部、夜の部があるらしい・・・
丸一日がかりかと思ったら、明日もやるそうで・・・2日がかりだそうだ。(汗)
そりゃ、なおさら大変ですねぇ~・・・などと、おしゃべりをする。(笑)

旧邸の裏に「薬草園」があったので見学する。
拙者は薬草に関しては全く知識がないが・・・
ん?・・・・薬草園で思い出したが・・・
以前、どこかの誰かの薬草園を見学したんだよなぁ~(笑)
誰だったか、誰かの記念館の裏に薬草園があって、職員の人に案内してもらったことがある。
が・・・どうしても思い出せない!(涙)
どこへ行った時に見たんだっけ?
「へぇ~?この草も薬草なんですか?」なんて話したことは覚えているのだが・・・
あれは何という草だったっけ?
最近は物忘れ、物覚えが、さらにひどくなってしまったようで・・・(大汗)
参ったなぁ~・・・・
あと何年か経ったら、ここに来た事も忘れてしまうのだろうか?(大汗)

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薬草園由来記

高松藩蔵番(くらばん)の家に生まれた平賀源内は、陶(すえ)村の三好喜右衛門に本草学(ほんそうがく)(薬学・医術)を学んだという。
寛延2年(1749)父茂左衛門の逝去によって役を継いだ源内は、しだいに藩内で頭角を表し、本草学の才能を認められていった。
宝暦2年(1752)長崎に赴いた源内は、広い世界への目を見開かれ、同4年に蔵番退役願いを提出する。
同6年江戸に出て当時日本有数の本草学者であった田村藍水に入門した。
藍水のもとで本草学に出精した源内は、世界最初の博覧会とも呼ばれる「薬品会(やくひんえ)」を提唱し、宝暦9年(1759)には主催者となった。
翌月、高松藩から与えられた三人扶持(ふち)を源内は「学問料」ととらえていたようだが、実質的な再仕官であり、藩主の命で薬種採集を続けることになる。
相模(神奈川県)や紀伊(和歌山県)への採集行のほか、藩内で巴戟天(はげきてん)(ジュズネ)を発見するなどの業績を上げ、宝暦10年(1760)には薬坊主格に昇進した。
源内の手で御薬園(栗林公園)の整備も一段と進んだことだろう。
ただし、宝暦11年(1761)に再び高松藩を辞して江戸に戻った源内は、翌12年に第5回目の薬品会を主催し、これは壬午(じんご)の大物産会(え)と呼ばれた。
その大物産会の成果を中心に、5回の薬品会を集大成したものが、源内の本草学の主著であるのみならず、当時の本草書の逸品ともなった『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(宝暦13年刊)である。
本文4巻、図絵1巻、付録1巻の計6巻より成るこの大作は、源内の本草学の質の高さと斬新さを余す所なく物語る記念碑的な著作であった。
中でも付録に記された砂糖製造法は、のちの和三盆に結実する讃岐地方の製糖との深い関わりの歴史に記された第一歩として記憶される。
昭和54年(1979)、源内先生二百年祭記念に当たり、その偉業を偲ぶため、旧邸の一隅に、ゆかりの薬草園を新設したものである。
そして平成19年(2007)源内薬草研究会によって、高潮被害の薬草園を再生する。

(説明板より)


この旧邸に隣接して「平賀源内先生遺品館」というのがある。

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平賀源内先生遺品館

源内先生は、日本文化の爛熟した江戸時代中期に生まれ、まず本草家として日本初の博覧会=薬品会を開催して名を挙げ、鉱山開発を行い、戯作・浄瑠璃を作っては作家の親玉と言われ、西洋画を描いては秋田蘭画の仕掛人となり、陶器を造っては源内焼の流れを作り、エレキテルの復元をはじめ数々の発明品を創り出し、変化龍の如く、その多彩な才能を発揮して、広範囲の分野で活躍しました。
先生は獄中で悲劇の生涯を閉じられましたが、洋学の黎明期に果たされたその偉業は広く認められ、その死は惜しまれました。
先生を顕彰する思いは明治13年の没後百年祭から始まり、昭和4年には百五十年祭とともに平賀源内先生顕彰会が発足しました。
松平頼寿(貴族院議長)を会長に、東京での墓地修復、「平賀源内全集」の発刊、地元では旧邸・遺品の保存、銅像の建設などが行われました。
そしてこの遺品館は、ニ百年祭記念にあたり昭和54年3月25日新築しました。
源内先生の先見性や独創性、また広い視野と柔軟な発想で現実に立ち向かった行動力を、ご来館の皆様に感じ取っていただければ幸いです。

財団法人 平賀源内先生顕彰会

(説明板より)


時刻は午前10時半・・・・
続いて、もう一つの「資料館」に向かうことにする。

途中で見かけた景色・・・
大きな絵馬みたいな看板が設置されていた。
たぶん・・・お祭のために設置したんだろう。

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で・・・「平賀源内記念館」を見学・・・・

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記念館を見学後、駅に向かう途中、またもや神輿(山車?)に出遭った。
こちらは「鳳組」らしい・・・
この狭い道を曲がるんだから大変である。
この長い棒・・・担ぐためにあるんだよね?
今日は神輿を担がないけど、明日は担ぐのかな?
こちらも神輿に乗った小学生が太鼓を叩きながら大きな声で唄っている。
いやぁ~元気があって聞いていて気持ちがいいねぇ~(喜)

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お昼過ぎに「琴電・志度駅」に到着・・・
う~ん・・・昼飯を食べている暇などない・・・(苦笑)
時間に余裕があったら「栗林公園」に行ってみたいとも思ったが・・・
このタイミングでは、「栗林公園」に行っては、「高松城」を見る時間がなくなってしまう・・・
う~ん・・・参ったなぁ~・・・・
今日中に帰宅しなくちゃならんしなぁ~(汗)
やむなく・・・・高松城を優先することにした。

691_convert_20160203171050.jpg(志度駅)

琴電の「志度駅」は小さな駅舎である・・・・(笑)

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しかも、単線で・・・・しかも、この駅が「終点」である・・・・

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この電車・・・20分間隔で運行しているらしい・・・
折り返し12時20分発に乗って高松に向かう。

旅行 | 12:59:27 | Comments(0)
椋園先生遺愛之碑
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椋園先生遺愛之碑

椋園先生は、本名を赤松 渡と言った。
赤松家は、代々医術をもって高松藩に仕えていた。
先生は幼い時から勉強を好み、片山冲堂先生に学んだ。
武術も習得したが、槍術が得意であった。
家業をついで御殿医に進んだ。
明治の初め藩知事のもとで判事を兼務した。
松平家11代頼聰公は先生に文武の才能があるのを知り、御殿医の兼任を解き、専ら政治に当たらせることにした。
少参事に選任され、大変感激して精励した。
先生は香川県、徳島県の会計検査院に奉職、その後、明治23年5月5日、初代高松市長に任命された。
常に、市民の暮らしを心配し、産業の振興、福祉の充実に努めた。
功績は大きく、特に顕著な業績は、高松から脇町までの立派な道路(現在国道193号)を作ったことである。
高松港を修築しようとして計画書を完成させたが、市長の任期が満了し、退任した。
57歳であった。
先生は各地に出かけて、すぐれた文人と交わり、見聞を広めた。
その名声は諸国に広がり、教えを請うものが後を断たず、そのため、養浩塾を開き、優れた人材を輩出した。
先生は、世俗の名誉や利益にまったく無関心で、門弟たちの教育に打ち込むこと10年余りに及んだが、病気になり、不帰の人となった。
享年75歳。
府中村(坂出市府中町)の信義に厚い門弟たちが相談して、鼓岡顕彰会を作った。
旧友、門人は先生を慕い、先生の遺徳を後世に伝えるため、大正6年5月、植田倬にこの文章を書かせ、入谷暘の書による碑を先生のお墓の側に建てることになった。

(注記)
初代高松市長赤松椋園先生の墓は、三番丁の大本寺境内(現在の四番丁小学校西北端)にあった。
復興土地区画整理事業の為、姥ヶ池墓地に移され、この碑もその傍にあったが、昭和61年4月、中央公園完成を記念して、此処へ移設した。

(説明碑文より)


【香川県高松市・中央公園内】

史跡 | 10:13:05 | Comments(0)
亀井戸跡
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亀井戸跡

生駒家4代高俊のとき、伊勢藩士西嶋八兵衛によって石清尾山塊の東西に分流していた香東川の流れを西側に合流させた。
このとき城下町の給水源として給水池や井戸をつくった。
その後、高松城下の飲料水が乏しくなったのを心配して、高松藩初代藩主松平頼重は正保元年(1644)水源七か所を選び土管、木樋・竹管を埋めて水道をつくった。
この亀井戸はわき水の出る穴が甕形の穴なので甕井(亀井)霊泉と呼び、その大きさはほぼ東西18メートル・南北36メートルあり、土地の人々は井戸と呼び、主として高松市の東北部に給水したという。
その井戸のそばに、頼重は水神社をまつり敬神した。
祭神は伊弉册命の御子である水波能売神である。

高松市教育委員会

(説明板より)


【香川県高松市鍛冶屋町】

史跡 | 09:48:23 | Comments(0)
高松の銅像巡り
ホテルをチェックアウトして、近くの「高松市立中央公園」へ向かう。
高松ではゆっくりしている時間はない・・・
今日中に帰宅しなければならないのである。(涙)
というわけで・・・朝から、大急ぎで飛びまわることになる。
とにかく限られた時間内で、いろいろと見て回らねば・・・・(笑)

この中央公園には、いくつかの銅像が建っていることは事前の調査で知っていたので、わざわざ、この公園の近くのホテルに宿泊した。(笑)
それでも不安なので、自分としては珍しく早起きしての観光となる。(大笑)
すべて、時間との競争なのである。(大笑)

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まずは公園の外周からグルッと歩いてみる。
と・・・・公園の反対側に何かの史跡が・・・
行って見たら、「菊池寛の生家跡」と説明板が建っていた。

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菊池寛 生家跡

「文壇の大御所」と言われた菊池寛は明治21年、香川郡高松7番丁6番戸の1(高松市天神前4)に生まれた。
生家は、敷地200坪、母屋はわら葺、まわりは板塀に囲まれていた。
寛は明治41年に上京するまで、ここに住んでいた。
石碑の「菊池寛 生家の跡」は、友人の小島政二郎(作家)の筆による。
寛自筆の「不実心不成事 不虚心不知事」(実心ならざれば事成さず 虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘。

高松市教育委員会

(説明板より)


へぇ~菊池寛って高松の人だったんだ・・・
とはいうものの・・・菊池寛って、どんな本を書いたんだっけ?(苦笑)
読んだことがないから知らない・・・(大笑)
偉い作家さん・・・というイメージしかないのだ・・・(大汗)

公園の中を歩く・・・・

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野球のユニフォームを着た人の銅像・・・
誰かと思ったら・・・三原脩(みはら・おさむ)(右の人)と水原茂(みずはら・しげる)(左の人)だった・・・
と・・・言うものの・・・(大笑)
拙者は全く知らない。(大笑)
だいたい野球に全然興味がないのである。
だいたい、この間、ホテルで王貞治さんと目が合ったのに気がつかなかったくらいなのだから・・・(大笑)
へぇ~・・・銅像になるってことは、有名な選手だったのでしょうね?(大汗)


野球王国高松を築いた名将

水原茂・三原脩は終生相対峙し、数々の名ドラマを演じ、我国野球史に栄光の足跡を印刻する。
往いて再び帰らぬ往年の両雄の功績を讃え、ここ高松球場跡地に銅像を建立する。

(銅像・碑文より)


三原 脩(1911~1984)

満濃町に生まる。
旧制高松中学校時代遊撃手で甲子園に出場、早稲田大学に進み二塁手となり1年からレギュラーとして活躍。
プロ野球第1号選手として契約巨人に入団。
現役引退後再び巨人を始め西鉄・大洋・近鉄・ヤクルトの各球団監督を歴任し、作戦統率の妙に優れた知将として名声を博す。
1983年野球殿堂入り。

監督歴
1947~1949巨人 1951~1959西鉄 1960~1967大洋 1968~1970近鉄 1971~1973ヤクルト
通算26年 3,248試合(歴代1位) 1,687勝(2位) 1,453敗 108分 勝率 .537
優勝6回 日本シリーズ優勝4回

(説明板より)


水原 茂(1909~1982)

高松市に生まる。
旧制高松商業学校時代全国優勝2回、慶応大学時代優勝5回。
投手・三塁手として学生野球の黄金時代を築く。
プロ野球巨人に入団、俊敏・強肩の名三塁手として活躍した天才的スタープレーヤー。
巨人・東映・中日の各球団監督を歴任し、洗練された誇り高き勇将として名声を博す。
1977年野球殿堂入り。

監督歴
1950~1960巨人 1961~1967東映 1969~1971中日
通算21年 2,782試合(歴代4位) 1,586勝(4位) 1,123敗 73分 勝率 .585
優勝9回 日本シリーズ優勝5回

(説明板より)


碑文によれば、この公園は、昔は球場だったんですか?(唖然)
へぇ~・・・・である。

次に見つけたのが「玉楮象谷先生」の像・・・・
ん?・・・この方は何をした人なんだろう?

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漆芸家 玉楮象谷(1806~1869)

文化三年、高松市磨屋町に生まれ、性格は豪放磊落(ごうほうらいらく)で鬼才に富んでいました。
二十歳の時、高松藩主に天分を認められ京都へ遊学し、中国伝来の漆塗技法の研究を重ねながら自らの漆芸を創作しました。
帰高後、三代の藩主に仕え、香川漆芸の礎を築いたばかりか、日本漆芸界に不朽の名をとどめました。
藩主に献上した「蒟醤(きんま)料紙箱」「硯箱」の意匠と巧妙の高さは、神技とさえいわれています。

高松市
高松観光協会

(説明板より)


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この銅像の台座の部分に何やら貼り紙が・・・
どうも小学生のグループが社会科の勉強の一つとして調べたものを掲示したようである。
ビニール袋で保護したらしいが、残念ながら雨水が入り込んだのか滲んでしまっていた。
あらら・・・もったいない・・・
こういうのは、できればもっと丁寧に扱って、半恒久的に掲示してあげるといいんだけどねぇ~
せっかく、子供達が作ったんだから・・・
教育委員会の説明板並みに扱ってあげてもいいんじゃないのかな?
子供たちの励みにもなるんじゃないのかな?
将来、優秀な郷土史家が彼らの中から出てくるかも・・・(大笑)

次に見つけたのが「國東照太翁」の像・・・・

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どこから見ても政治家の銅像だなとわかる銅像である。(大笑)



元高松市長 従四位勲三等 高松市名誉市民第一号の國東照太翁は 明治二十年一月一日 旧中野村に生まれ 昭和四十七年六月十一日 八十五歳で永眠された。
高松市議会議長を経て 第十二代官選市長となり 昭和二十二年四月 初代公選市長に当選 以来連続五期二十一年間にわたり 戦災復興 町村合併 玉藻公園開設など高松市政の発展に多大の功績を挙げられた。
市長をやめられてからも 市長はん おやっさん と市民から慕われ 優れた庶民市長であった。

(碑文より)


で・・・・次が・・・ド~ンと・・・「菊池寛」の銅像である!
菊池寛って、こういう人だったのかぁ~・・・である。(笑)
なんで拙者は名前だけ知っていて外見も中身も業績も何も知らないのだろう?(大汗)
教科書か何かだけでしか習わなかったからなのかな?(苦笑)

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文豪 菊池 寛

明治二十一年高松市生まれ、香川県立高松中学卒業、大正五年京都大学英文科卒業。
中央公論に“無名作家の日記”を発表して作家生活に入り、文藝春秋を創刊します。
“藤十郎の恋”“忠直卿行状記(ただなおきょうぎょうじょうき)”“父帰る”“義民甚兵衛”“屋上の狂人”等多くの作品を残し、昭和二十三年六十一歳で死去。
菊池寛顕彰会により、昭和三十一年この銅像が建てられました。

(説明板より)


説明板には「菊池寛記念館」への案内図が載っていた。
う~ん・・・どんな記念館なのか博物館・資料館好きの拙者としては行きたい気になるのだが・・・
時刻はまもなく午前10時・・・・
記念館に行っていたのでは、次の予定がこなせなくなる。
ここは我慢して、当初の予定通りの行動をするか・・・(涙)
改めて次回来た時に・・・ということになるが・・・
それが10年後になるか20年後になるか・・・(苦笑)

そろそろ、次の場所に移動しようかと思ったら、変な銅像(石像?)を見かけた・・・
「ハゲさん」と言うらしい・・・
どこから見てもタヌキに見えるのだが・・・
なんで「ハゲ」なのか?(苦笑)

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ハゲさん

その昔、この辺りは、浄願寺の広大な境内で大木の茂った森があった。
この寺は殺生が禁じられていたので狸の住むにはあつらいむきの場所であった。
昔この森の中に一匹の狸が住みついていた。
ある年の暮近く貧しい老夫婦の生活を救うため、茶釜に化けたまま売られて行った。
茶釜は毎日磨かれるので狸の頭はつるつるに禿げてしまい痛い痛いと泣いていた。
住職は、かわいそうに思って鏡餅を三つ与えたところ泣きやんだ。
それから「今泣いたのだあれ・・・お鏡三つでだまあった」と子供をなだめる歌となった。

平成5年8月28日
高松市四番丁校区
地域おこし事業推進委員会

(説明板より)


へぇ~・・・・なるほどね・・・それで「ハゲ」?(笑)
道理で頭の上に誰かが帽子を乗せたわけだ・・・(大笑)

1時間弱、公園内をウロウロして銅像めぐりをした・・・
さて、次は、「琴電」の駅に行って「志度」という町に向かうことにする。

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途中、「高松国税総合庁舎」を見つけたので、歩道橋の上から写真を撮る。(大笑)
この総合庁舎の中に「高松税務署」があるらしい。
なんで、国税局の建物なんかを撮影するのかというと・・・・
この間、九州へ行った時に、たまたま臼杵税務署や佐伯税務署の前を通ったので写真を撮ったのである。
で・・・・これはいけるかも・・・と、ひらめいた・・・(笑)
法人会の会報に税務署の写真を載せて・・・題して「全国税務署めぐり」!(大笑)
別に税務署を訪問して署長にお話を伺おうなんていう気はさらさらない・・・(大笑)
外観だけを撮影するだけ・・・・(笑)
しかも、「巡り」という割にはわざわざ訪問するわけではない。
旅行中に、たまたま偶然、税務署を見かけたら写真を撮るというだけ・・・
広報委員としては、楽な仕事である。(大笑)
これで、簡単な記事ができるので、紙面の余白を埋めるには、ちょうどいいのではなかろうか?

徳島税務署は撮影できなかったが、高松税務署はゲットしたぞ!(喜)

旅行 | 09:04:13 | Comments(0)
高松へ行く
駅まで戻り・・・
“シミズ委員長”が「何かお土産を買いたい」と言う・・・
「はい、それでは地下に名品店がありますから覗いて見ますか?」と拙者・・・
「よく知ってるねぇ~」
「はい、昨日、下調べしておきましたから・・・」(笑)

地下の名品店でお買い物をして・・・
まだバスに乗るまでに時間がある。
「どこかでコーヒーでも飲もうか?」と委員長・・・
「いや、その前に空港行きのバスがどこから出るのか確認したほうがいいんじゃないですか?」
「大丈夫だろ?ここまで来たら・・・」
「いや、その気の緩みで飛行機に乗り遅れるんですよ」(笑)
「細かいねぇ~君は・・・」(唖然)
「今度、帰りの飛行機に乗り遅れたらマズイんじゃないですか?」
「あ・・・もうお金がないから航空券は買えない・・・」(汗)
「でしょ?僕は知りませんからね!」(苦笑)

駅前のバス乗り場へ行く・・・
路線バス、高速バス、空港シャトルバス等、いろいろあるようだが・・・
「さて・・・空港へ行くバスは何番乗り場だ?」(汗)
「ほら・・・やっぱり、イザとなったら迷うでしょ?」(笑)
実際にこの目で確認しないとね・・・
ここで間違いなし・・・という確認を取らねば安心できぬ。

「あと15分ぐらい時間があるからコーヒーでも飲めるんじゃないか?」と委員長・・
「いや、やめたほうがいいでしょう」
「え?ここまで来たら、もう大丈夫だろ? 1~2分もあればここに戻れるだろ?」
「その考えが甘いんですよねぇ~もしかしたら、1~2分早くバスが出ちゃうかもしれませんよ」(笑)
「おい、おい、脅かすなよ・・・」(苦笑)
「だって、コーヒーを注文するでしょ?飲むでしょ?片付けるでしょ?レジで支払うでしょ?・・・これを10分程度で済ますというのは忙しいでしょ?この時にレジが混んでいたらアウトですよ。で・・・泡食って飛び出して、行き先を確認せずにギリギリでバスに飛び乗ったら空港行きじゃなかった・・・とか・・・・」(大笑)
「おい、おい、お前は本当に細かいねぇ~」(唖然)
「だから・・・コーヒーは諦めて下さい」(笑)
ということで・・・バス乗り場のベンチに座って、おしゃべりをして時間を潰すことにした。(大笑)

まもなく、空港シャトルバスのようなバスが向うの方に停車したのが見えた・・・
「あれ?あれが空港行きのバスじゃないか?乗り場はあっちじゃないか?」と委員長・・・
「いや、ここでいいと思うんですけど・・・」
「いや、向こうじゃないの?あそこにバスが止まったし・・・」
「あれは時間調整で、あそこに止まっただけかも知れませんよ。もしかしたら回送するバスかも・・・」
「ほんと?」
「いや、知りませんけど・・・」
「・・・・・・」(汗)
「ほらね。焦るでしょ?コーヒーなんか飲んでるどころじゃないでしょ?」(笑)
「・・・・・」(苦笑)

まもなく空港行きのバスが到着・・・・
おやべりしているうちに、あっという間に時間が過ぎた。
で・・・さっきのバスは空港行きのバスではなかったようである。(大笑)
「じゃ!」と委員長・・・
「空港に行ったら早めに搭乗口に行ってくださいよ。ノンビリして遅れないように!」(笑)
「わかってるって!」(苦笑)
「乗り遅れたら大変ですからね」
「わかってるって・・・・で・・・君はこれから高松か?」
「はい、JRで向かいます」
「おお、じゃ、気をつけて!」
「はい!どうもお世話になりました。お疲れ様でした!」
「じゃぁね」
「くれぐれも乗り遅れないで下さいよ。早めに搭乗口へ・・・」(苦笑)
「わかってるって!」(苦笑)

まるで、小学生の子供を初めて飛行機に乗せるような騒ぎとなってしまった・・・・(大笑)
先輩に対して失礼だったかな?(大笑)

さて・・・委員長を無事見送ったし・・・・
拙者の乗る特急までは時間がかなりある。
ということで・・・・駅構内のコーヒーショップでコーヒーを飲んで時間調整・・・(笑)
う~ん・・・・“シミズ委員長”に申し訳なし・・・(大笑)

15時28分発、「うずしお」20号に乗って高松へ向かう・・・
約1時間後にJR高松駅に到着。

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駅構内のモニュメント・・・・
「うどん県さぬきうどん駅」と書いてある・・・・(唖然)
いつから「高松駅」は「さぬきうどん駅」になったんだ?(大汗)
いかがなものか・・・このネーミング・・・(苦笑)
我が茨城県の水戸駅を「納豆駅」と言うようなものではないか?(大笑)

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JR高松駅の駅舎・・・
目玉が描かれているようなのですが・・・・
なんだろ・・・これ・・・・(唖然)

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駅前の広場に石像が・・・(汗)
「ようこそ香川へ 親切な青鬼くん」と台座に書いてある。
親切な青鬼?
鬼が親切なのか?(笑)
親切な鬼などがいるのか?
ということは・・・
高松には「親切な鬼ババァ」とか「親切な詐欺師」とか「親切なヤクザ」とか・・・そういうのもいるのかな?(大笑)
これは香川県の「観光客を温かく迎える親切運動」のマスコットなのだそうである・・・(唖然)
観光客を鬼が迎えちゃうのかい?(笑)
この青鬼くんは、童話の「泣いた赤鬼」に登場する青鬼だそうである。
あらら・・・そもそもの「泣いた赤鬼」の童話を拙者は知らない・・・(大涙)
故郷を去った青鬼が、香川県の「おせったいの心」に感動して、笑顔で親切の輪を広げているのだそうだ。
へぇ~・・・・青鬼くんが感動してねぇ~(笑)
で・・・・赤鬼くんのほうは、どうしているんだろう・・・・(笑)

どうもJR高松駅というのは、不思議なものが、いくつもあるなぁ・・・・(大笑)

駅から30分ほど歩いてホテルに到着・・・
今回は、わざと駅から離れたホテルを予約した。
ちょうどいい運動になる・・・(笑)

午後5時過ぎに無事にチエックインを果たす・・・

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旅行 | 18:46:36 | Comments(0)
駆逐艦追風の記念マスト
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大日本駆逐艦追風
記念マスト
昭和7年 徳島市海軍班創建
昭和43年 徳島県海交会復元

徳島市海軍班は 国家の興隆と民族の安泰を希い日清 日露に歴戦した駆逐艦追風の檣をここに移し その象徴とする
昭和四十一年 台風により倒壊し修復に■えす
旧海軍々人の有志相謀り明治百年を期としてこれを原形に復元し殉国の霊を慰め 永遠の平和を祈念する

(碑文より)


【徳島県徳島市・徳島城跡】

史跡 | 16:38:52 | Comments(0)
徳島城鷲の門
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徳島城鷲の門

徳島城(別名 渭津城)は、天正13年(1585年)に阿波に入国した蜂須賀家政が築城した屋形造りの平山城であった。
幕藩時代を通じ蜂須賀家が14代にわたって居城し、280余年の間、阿波・淡路両国25万7800石を支配した。
鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付きの薬医門であった。
幕府に鷲を飼うからと申し立て建造したところから鷲の門の名があると伝えられている。
廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和20年(1945年)7月4日早暁の徳島大空襲によって焼失した。
現在の鷲の門は、平成元年(1989年)9月27日、徳島市制百周年を記念して、吉井ツルヱ氏(徳島市出身)より復元寄贈されたものである。

徳島市

(説明碑・碑文より)


【徳島県徳島市・徳島城跡】

史跡 | 14:21:33 | Comments(0)
錦竜水
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錦竜水(きんりょうすい)

この眉山のふもとの湧き水を錦竜水(きんりょうすい)と言います。
徳島には、この錦竜水のほか、東山手町の瑞厳寺の鳳翔水(ほうしょうすい)、西冨田の八幡神社の八幡水などの湧き水があります。
江戸時代の徳島城下の人々は、これらの眉山の湧き水を買って飲み水としていました。
特に歴代の阿波藩主は、この錦竜水を愛用し、水番所を置いて保護しました。
今も、錦竜水は、歴史的名水として多くの市民に親しまれています。

(説明板より)


【徳島県徳島市寺町】

史跡 | 13:31:17 | Comments(0)
八木瑞堂先生之碑
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揚心流創祖
八木瑞堂先生之碑

【主碑・碑文】

揚心流日本朗詠会信条
誠実  和敬  謙譲

瑞堂八木顕先生は明治40年徳島市八百屋町の老舗印判店八木家の嫡男として出生。
徳島県立工業学校卒業後家業に専念する傍ら古杉天真先生に師事して棒術を修め古杉天真流二世を拝授される。
更に眉山錬武館に於て柔道を修得。
亦詩吟剣舞道に精進し、その奥義を極められた。
昭和3年徳島健児社を創立。
詩吟剣舞を以て青少年の心身の練磨と情操の深化に努められ、乞われて徳島県嘱託となり県民修練所講師として県下を東奔西走県民の士気の昂揚に尽された。
太平洋戦争後の混乱期にはいち早く社会秩序の浄化と若人の健全育成と必要を痛感され健児社を揚心流日本朗詠会と改称。
学校など教育機関を通じて詩吟剣舞の再興を図り誠実和敬謙譲の三信条の下明るい人造り、社会造りを推進し情操教育と人格の陶冶に献身的に努力された。
昭和33年徳島県詩吟剣詩舞道連盟を創立。
初代理事長に就任。
徳島県邦楽協会副会長、中四国剣舞道連盟徳島県本部長、全日本剣舞道連盟顧問、日本吟詠総連盟運営委員等の要職を兼任。
県内は勿論全国的に斯道発展の為活躍された。
先生は昭和47年病没されるまで実に65年の生涯を通じて常に自己に厳しく、人を愛し和を尊び社会奉仕の一念に徹し、その崇高な精神は偉大にして不滅であり我等揚心流日本朗詠会々員一同先生の遺徳を偲び茲に顕彰碑を建立するものである。

昭和57年5月30日

【副碑・碑文】

用地由来記

当地は徳島市眉山町茂助が原二番地、地目山林である。
所有者は徳島市北矢三町二丁目五番地の五、
高畠正己氏であり、このたび揚心流創祖八木瑞堂先生之碑建立にあたり所有者より、揚心流日本朗詠会に永代無償使用として提供された。
ここにこの碑を建て感謝の意を表す。

昭和57年5月30日
揚心流日本朗詠会々員一同


【徳島県徳島市・眉山山頂】

史跡 | 11:31:40 | Comments(0)
モラエス顕彰碑
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【碑文】

ヴェンセスラオ デ モラエスは1854年ポルトガルのリスボンに生れ海軍中佐マカオ港務副司令を経て神戸総領事となった
大正2年その職を辞して亡妻ヨネの郷里である当市に来りヨネの姪コハルと共に純日本的生活に浸りながら文筆に親しんだがやがて同女とも死別の後は両人の追慕と著述に孤独の余生を送り1929年(昭和4年)7月1日逝去した
著書に『日本精神』『徳島の盆踊』『おヨネと小春』等20冊あり「日本の魂に取替えた人」と評される程日本を心から愛し「故国の銀河を遠く離れて燦と輝く明星」と讃えられた麗筆でわが国の文化や人情風俗などを広く海外に紹介した。
碑の附近一帯は翁が朝夕好んで逍遥したゆかりの地である

昭和29年7月1日
徳島市長 長尾新九郎


【徳島県徳島市・「阿波おどり会館」前】

史跡 | 10:06:17 | Comments(0)
徳島を市内観光
今日の午後、“シミズ委員長”が帰宅する。
半日ほど余裕があるので、その間、市内観光をすることにした。

ホテルをチェックアウトして・・・・
さて・・・どこに行きますか・・・(笑)
まずは、駅から遠い観光地から始めて、だんだん駅に近づいて、最後に駅前からバスで空港に向かうというのがいいだろう。
ということで・・・最初に向かったのが「眉山」・・・

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(駅前通から見た「眉山」)

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この山の山頂へはロープーウェイで登る。
このロープーウェイ乗り場は「阿波おどり会館」でもある。
いや、「阿波おどり会館」がロープーウェイ乗り場を兼ねているのか・・・(笑)

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想像以上に小さなロープーウェイだった・・・(笑)
たまたま、一緒に乗ったのが、長崎のほうの法人会の会員さんと、「お遍路」をされているオバサン・・・
しばし、オシャベリを・・・(大笑)
「お遍路のオバサン」は昨晩、15箇所ほどホテルに電話をかけまくったが空室がなくて苦労したとおっしゃる。
あらら・・・我が法人会の全国大会でどこもかしこも満室だったのだろう。
「いやぁ~それは申し訳ないことをしました」・・・・
とは言うものの、拙者は大会役員じゃないんだから何の責任もないのだが・・・(大笑)

見ず知らずの初対面だが、狭い空間の中で黙っていつづけるというのは息苦しいものである。
何だかんだと、おしゃべりしたり、冗談を交わすと旅というのは楽しくなるものなのだが・・・
最近の人は、そういうことはしないようだ。
自分にとって都合のいいときだけ「一期一会」、「これも何かの縁」・・・・という言葉を使い・・・
それ以外の時は・・・スマートフォンと睨めっこ・・・か?(苦笑)
幸い、気さくに話せる方々が同乗してくれたので、楽しかった・・・(喜)

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眉山(びざん)の頂上・・・・
この眉山の由来について説明板には、こう書かれていた。


眉山(びざん)は、徳島市のほぼ中央にあります。
東西約6.5キロメートル、南北約3キロメートル、標高276.7メートル(一等三角点)で徳島市の緑のシンボルになっています。
佐古山、富田山、八万山、名東山等と部分的に呼ばれていた山地一帯を、藩政末期頃から眉山と呼ぶようになりました。
「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて漕ぐ舟とまり知らずも」万葉の歌人船王(ふねのおおきみ)により、眉のように雲のあるところに見える阿波の山と万葉集に詠まれています。
稜線が緩やかで眉の形のように見えるため、眉山と名付けられたようです。


う~ん・・・「眉毛山(まゆげやま)」とは名付けなかったんだ・・・(苦笑)

頂上には「パゴダ」があった。

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平和祈念塔 パゴダのご案内

このパゴダ(仏塔)は、かつてビルマ戦線で散華した戦友をしのび、恒久の平和を願うシンボルとして、徳島県ビルマ会により、昭和33年に建立されました。
高さ25米、円錐形ドームのビルマ独特の様式で、国内のパゴダの中では、最大級唯一のものです。
塔内には、仏舎利(お釈迦様の遺骨)が祀られ、戦没者の英霊が奉安されています。
この仏舎利は、当時のウ・ヌー ビルマ首相より贈られたものです。
また、ミャンマーを始め、東南アジア各国の生活の紹介や戦争資料などを展示しています。
このパゴダは、平成元年に徳島県ビルマ会より、徳島県仏教会に移管され、現在に至っています。
このたび、パゴダ建立50周年を記念して、大改修を行い、塔内外の景観を一新しました。

平成21年3月
社団法人 徳島県仏教会
       徳島県ビルマ会

(説明板より)


話によると、内部は資料館のようになっているそうだが、改修中のため見学は出来ないとのこと。
う~ん・・・残念だ・・・(涙)
説明板には、平成21年に大改修をしたと書いてあるんだけど・・・また改修したのか?(苦笑)

この山頂で、景色を見ながらブラブラと30分ほど時間を潰して、再びロープーウェイに乗って山を降りる。

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町の真ん中にある緑の小山は・・・あれが、徳島城がある場所かな?

ロープーウェイ乗り場を兼ねている「阿波おどり会館」は、阿波踊りに関する資料などが展示されている資料館になっているので、ここを見学する。

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“シミズ委員長”は、館内の売店で阿波踊りのDVDを購入・・・
これを見て、阿波踊りを覚えるのだと言う・・・
ゲゲッ・・・ウソ・・・(唖然)
「また必ず徳島に来ますから!今度は踊りに参加しますから!」と店員さんなどに言うのである。
それ・・・マジ?(大汗)
どうも委員長は阿波踊りに“はまって”しまったようである。
あ~・・・昨晩の懇親会がいけなかったんだよなぁ~(大笑)
中途半端で終わっちゃったから・・・(大笑)
「また来るのなら・・・私は踊りませんけど・・・お供しますよ」(大笑)
「おお!また来るよ!」と軽くおっしゃるが・・・本気かなぁ~(大汗)

時刻は11時・・・・
会館から出て街中をブラブラ歩きながらホテルに戻る。

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(歩道橋の上から駅を見る)

ここで、フロント預けておいたカバンを受取り・・・
さて・・・お昼はどうしましょうか?
「ラーメンを食べたいねぇ~」と委員長・・・
またですか?・・・昨晩も食べたのに?(唖然)
また別の店で「徳島ラーメン」を食べてみないと・・・と、言うのでフロントの女の子にお店を紹介してもらい、ホテル近くのお店へ行く。

446_convert_20160119154230.jpg(徳島ラーメン)

昨晩行ったラーメン屋さんの「徳島ラーメン」は、コッテリしていて、かなり濃いスープ・・・
ホテルのフロントの女の子は、その店より、こっちのお店のほうがサッパリしていて食べ易いと言っていた。
たしかに・・・昨晩のお店のものよりサッパリしている。
で・・・「徳島ラーメン」には生卵を入れるのが普通だそうで・・・
この生卵をかき混ぜて食べるのだそうだ。

食後・・・まだ時間があるので、今度は駅の向こう側にある「徳島城」に向かうことにする。

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国指定史跡(平成18年1月26日指定)
徳島城跡

徳島城は、天正13年(1585)に阿波国(17万6千石 ※ )の領主となった蜂須賀家政(はちすかいえまさ)(1558~1638)によって建設されました。
築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景(こばやかわたかかげ)や土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)、比叡山の僧侶が協力しました。
徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。
徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。
藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく麓の御殿でした。
御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りの世話をした女中たちが住む「奥」に分かれていました。
「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることができませんでした。
藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治8年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。

※ 元和元年(1615)、初代藩主至鎮は、大坂の陣の功績により淡路一国を加増され、蜂須賀氏は阿波・淡路25万7千石の大名となりました。

(説明板より)


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徳島城には天守閣が残っていない・・・復元もされていない・・・
石垣と堀・・・内部は公園・・・・いわゆる「城址公園」になっているようである。

この城跡に「徳島市立徳島城博物館」があるので、早速、内部を見学・・・

490_convert_20160119223943.jpg(徳島城博物館)

その後、「表御殿庭園」を眺める・・・

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旧徳島城表御殿庭園
昭和16年12月13日 国指定名勝

この庭園は、近世に阿波・淡路を領した徳島藩蜂須賀家の居城・徳島城の内部に位置し、表御殿の書院と、藩主が普段暮らす中奥(なかおく)に面して築かれたものです。
庭園作りを手がけたと伝えられる上田宗箇(うえだそうこ)は織豊(しょくほう)時代から江戸時代初期にかけての武将で、「利休七哲(りきゅうひちてつ)」に数えられる茶人、作庭の名手など、様々な顔を持つ当時第一級の文化人でした。
その様式は、水を用いずに自然風景を表現した枯山水庭(かれさんすいてい)と、池と築山を備える泉水庭(せんすいてい)が組み合わされたもので、見方によって異なる趣を楽しめる工夫が凝らされています。
庭園には阿波特産の「青石」(緑泥片岩)(りょくでいへんがん)が数多く使用され、中でも枯山水庭に悠然とよこたわる、初代藩主の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)が踏み割ったという伝説がのこる巨大な石橋は、圧倒的な存在感を誇っています。
また、庭園最奥部にある観音山を源流とする渓谷と、それが注ぎ込む心字池(しんじいけ)は、無数の青石を用いた石組によって鮮やかに彩られた、力強い壮麗さを湛(たた)えるものです。
青石という地方的特色を見事に取り入れた本庭園は、桃山様式を伝える数多くの庭園の中でも、傑出したものといえるでしょう。

庭園指定面積 5024.79㎡(1520坪)

(説明板より)



この庭園・・・なかなかいいのですが・・・
角度によっては・・・この景色・・・

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後ろに見えるビル(マンション?)が目障りなんだよなぁ~(苦笑)
なんとか出来なかったのかね?
よく建築許可を出したものだ・・・・(苦笑)
景観が台無しである。(怒)

公園の中で銅像を見っけ!(大喜)
“シミズ委員長”は、拙者がお城好き、博物館好き、銅像好きなのは先刻ご承知・・・
その上で、“お付き合い”してくれているので、気を遣わないですむのである。(笑)
「銅像だ!」・・・・で、大笑い・・・・

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蜂須賀家政公銅像

蜂須賀家政公(藩祖)は、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国をたまわり、天正14年(1586)に一宮城から中世に築造された渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地とした。
入国の後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、新しく製塩・製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広めた。
また、全国でも有名な阿波踊りも家政公の時代に始まったと伝えられる。
戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていたが、戦時中に供出されてしまった。
それが昭和40年(1965)に裃姿の家政公の銅像に生まれ変わった。

台座 高さ2m、幅1.8m
銅像 約2m
竣工 昭和40年1月1日

徳島市公園緑地課

(説明板より)



時刻は、まもなく午後2時となる・・・
公園内の茶店で飲み物を買って一服し・・・
駅へ戻ることにする。

旅行 | 09:28:46 | Comments(0)
大汗の全国大会・・・
午前11時・・・・
会場の「徳島県立産業観光交流センター」に到着・・・
が・・・・早く着きすぎた・・・(苦笑)
スタッフしかいない・・・(大汗)

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受付開始までにはかなり時間がある。
あらら・・・(大汗)
仕方がないので周囲をブラブラ・・・・

“シミズ委員長”は午後一番で徳島空港に到着する予定・・・
多分、開会ギリギリに駆け込むことになるだろう・・・
と・・・思っていたところ、携帯電話が鳴った!
出てみたら・・・事務局からである。
なんと!
“シミズ委員長”が飛行機に乗り遅れたと言うではないか!(唖然)
話によると・・・
東京行き、1時間に1本しかない特急に乗るため時間通りに駅に行ったそうだが、たまたま知り合いの市議会議員と遭ってしまい、少し話し込んだら・・・特急列車に乗り遅れたという・・・(唖然)
あ・の・ね・・・・・(大笑)
なんと「人のいい」人か・・・(涙)
1時間後の特急に乗りなおして羽田に向かったが、当然、飛行機は離陸した後・・・・
次の飛行機に乗って、こちらに向かうらしいという・・・(唖然)
次の飛行機が何時発かは知らないが・・・どう考えても、式典に間に合わないんじゃなかろうか?(大汗)
あらら・・・こりゃまずい・・・(苦笑)

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この場所で、大会に参加したという“証拠写真”を撮るつもりでいたが・・・
ゲゲッ・・・委員長が遅刻となるとマズイかも・・・(苦笑)
というわけで・・・最悪の場合を想定して、拙者一人だけでもということで・・・
ここに一人で座り(大笑)・・・「阿波おどり大使」の女の子に「記念写真」を撮ってもらうことにした。

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写真を撮ってくれた「阿波おどり大使」の女の子と「ご当地キャラ」・・・・
で・・・このキャラクターは何だろう?(苦笑)
尋ねてみたら・・・「ちくわ」の「ちっか~ず」と言うのだそうだ・・・(汗)
あら・・・言われて初めてわかった・・・「ちくわ」って・・・(大笑)

まだ受付開始まで時間があるので、会場の通路に設置された各法人会の活動記録や、ご当地の名産品売り場を覗いて歩く。
何度も行き来するので、各名産品売り場の人たちに笑われた・・・(恥)

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ようやく受付開始時刻となり、受付を済ませ、「弁当引換券」を持って、お弁当の引き換場所へ・・・
今日のお昼は、用意された「お弁当」である。(笑)

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食事を終え、急いで会場へ・・・
座席は各都道府県別に場所が決まっている。
今回、「茨城県」は2階席である。

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第1部はパネルディスカッション
テーマは『日本の山里に、こんな仕事・移住企業がありますよ ~地方創生の独創的ビジネスモデル~』・・・・
なかなか面白い話で・・・業種によっては参考になる話ではなかろうかという内容・・・
とにかくこの「講演」内容をメモをしなければならないし、写真も撮らねばならぬ。(大汗)
居眠りをしている暇はない・・・(大笑)
他に誰かが一緒なら、あとで内容の確認をし合えるのだが、拙者一人だからなぁ~(大汗)
会報に載せる記事は拙者一人の責任・・・(大涙)
さすがに、久し振りに必死にメモを取った・・・(大笑)
で・・・途中で何度も“シミズ委員長”から携帯に電話が入る。
その度に会場の外に出なければならぬ・・・(汗)
会場の外に出ると・・・話の内容がわからなくなる・・・(大汗)
ヒェ~・・・記事が書けなくなっちゃうんですけど・・・(大涙)
いやぁ~・・・参った・・・このタイミング・・・
“シミズ委員長”は、無事に徳島空港に到着したらしい・・・
なんとか式典の途中で合流できるだろう。

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第2部は「式典」・・・・
式典が始まり、来賓の挨拶中に・・・なんと!・・・
茨城県のメンバー達が次々と退席していくのである!!(驚)
嘘だろ・・・(大汗)
66名分ほどの「茨城県」の座席はガラン・・・と空席・・・・
残ったのは拙者を含めて10人にも満たない・・・・(唖然)
周囲からも「何をやってるんだ!茨城は・・・」との声が上がった・・・
おかげで残っているこっちが恥かしい思いをさせられた。(怒)
マナーが悪いんだよなぁ~・・・茨城!!
この会場の中で「茨城県」の席だけがガラガラに空いてしまったのである!
目立つだろう・・・これ・・・
我が会の会員は基本的には会社の経営者たちである。
その「経営者」が、こんなマナーの悪いことでいいのか?
だから中小企業の経営者は馬鹿にされるんじゃないのか?
みなさん、拙者より年長の先輩経営者であるが・・・
どのくらいの規模の会社なのかは知らないが・・・
どれほど偉い“社長さん”なのかは知らないが・・・
「茨城県」を代表して来ているという意識はないのかね?
いったい、この人たちは何をしにここに来たんだろう?
周囲の他県の会員から非難の声が上がるんだから・・・茨城の恥さらしである!(怒)

昨年に引き続いての「恥さらし」・・・
昨年の栃木県宇都宮市で開催された全国大会では、開式の時間になっても「茨城」の席はガラガラ状態。
式典の途中からパラパラと入ってくるという、みっともないことを仕出かしている。
これで2年連続である!(怒)
この恥知らずな行為は、キッチリと会報に書いてやらねばなるまい!(怒)

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式典の途中で“シミズ委員長”から「会場に到着した」と電話が入る。
急いで会場の外に出て合流し・・・
急いで「記念写真」を撮る。
今度は「阿波おどり大使」の女の子2人にも入ってもらい、4人で写る。
これで会報用の写真はOK!・・・格好がついた!(大笑)
で・・・会場内に案内・・・
「茨城県」の座席はガラガラに空いている。
「え?茨城って・・・これしか参加していないの?」
「いや、さっきまで満席だったんですけどね。一斉に帰っちゃったんですよ」
「うそぉ~!」
「でしょ?」
さすがの委員長も唖然である。

第3部は・・・「大懇親会」・・・・
アトラクションは「阿波踊り」である!

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笠を被っていると、全員が美人に見えてしまうのは何故だろう?(大笑)

ここで、会場の参加者から「飛び入り歓迎」のアナウンスが・・・
“シミズ委員長”が、散々迷う・・・(大笑)
「どうしようかなぁ~・・・あ~・・・どうしようか?・・・行っちゃう?・・・いや、チョットやめとくか?」
「行っちゃってくださいよ!思い切って・・・」(苦笑)
散々迷った挙句、ようやく途中から委員長殿がステージに上がる。(大笑)
拙者は人ごみを掻き分けて、ステージ前の最前列を確保してカメラを構える・・・
委員長の踊っている姿を写真に収めて、これも会報に載せよう・・・(大笑)
と・・・まもなく・・・音楽が終わり・・・終了!!(汗)
委員長は多くの踊り手の中に紛れ込んでしまい、まったく見えず仕舞い・・・
「撮った?写真撮ってくれた?」とステージから降りてきた委員長・・・
「あの・・・最前列に出てきてくれないと・・・一番後ろで揉みくちゃになっているんだもん!撮れないですよ!」(大笑)
折角、人ごみを掻き分けてベストポジションを確保したのに・・・残念・・・(涙)

以上で今回の全国大会は終了!
会場の外のシャトルバス乗り場、タクシー乗り場には長蛇の列が・・・(汗)
我々は、会場からかなり離れたところまで歩いていく・・・
「え?どこへ行くの?」と委員長・・・
「タクシーを呼びます!」
午前中に乗ったタクシーの運転手から会社の電話番号を教えてもらっていたのである。(笑)
行列に並んでいるより、直接タクシーを呼んだ方が早いだろう。(笑)
「おお、さすが、手回しがいいねぇ~」(笑)と委員長・・・

タクシーで今晩宿泊する駅前のホテルに向かい、チェックイン・・・
この日のホテルは事務局のほうで手配してくれた。
拙者も、この1泊だけは“公務”ということで・・・(笑)・・・予算を使わせていただく。
あとは、拙者の旅行も兼ねての参加なので、交通費、宿泊代共に自腹である。

チエックイン後、昨晩、拙者が“偵察”しておいた繁華街のお店にご案内・・・
タクシーで向かい、降ろしてくれる場所を細かく言ったら・・・
「よく知ってるねぇ~」と委員長に言われた・・・
「だって、昨晩、事前調査で歩き回りましたから・・・・」(笑)
繁華街の中を歩くと客引きから「昨晩はどうもぉ~」と声をかけられ委員長が苦笑・・・
「君は何をしていたの?」(苦笑)
「いや、同じところをグルグル歩き回ったので、顔見知りになっちゃいまして・・・」(苦笑)
委員長に呆れられた・・・(大笑)
で・・・委員長は飛行機に乗り遅れたため航空券が無駄となってしまったのであるが・・・
取り直し分の飛行機代は事務局からは出ない・・・(大笑)
自腹である・・・
片道・・・3万円も支払ったので、「飲み代」がなくなったとこぼす・・・(苦笑)
拙者に「おごる」つもりだったらしいが、わざわざ来てくれただけでも感謝である。
普通なら、乗り遅れた段階で、「行くのをやめた」と言ってもいいわけで・・・(笑)
拙者が先に来ているから止めるわけにはいかなかったのだろうと思う。
昨晩、一人で飲んでいくらぐらいかかるかは確認済み・・・
「ここは割り勘で行きましょう!」(大笑)
帰り道・・・「ラーメンが食べたい」と言うので、「徳島ラーメン」を食べに行き、タクシーでホテルに戻る。
う~ん・・・なんと充実した一日か!(大笑)
“シミズ委員長”に感謝、感謝である。

旅行 | 11:49:15 | Comments(0)
徳島県護国神社に行く
今日は、法人会の全国大会が午後に開催される。
というわけで・・・午前中に徳島県護国神社を参拝することにした。
ホテルをチェックアウトして、タクシーで護国神社に向かう。

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午前9時45分、護国神社に到着・・・
早速、本殿を参拝して・・・境内にある慰霊碑を参拝・・・

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ここには・・・
海軍飛行予科練習生第12期前期で鹿児島航空隊に入隊した徳島出身者の戦没者慰霊碑である「桜飛会徳島戦没者慰霊碑」
「関東軍防疫給水部呉支部戦友会」の碑
「軍馬の霊」碑
「硫黄島戦没者之碑」
「徳島市傷痍軍人会・同夫人之会」が建立した歌碑
「ソロモン群島戦没者慰霊碑」
陸軍少年飛行兵の「若鷲の碑」
徳島船砲会という船舶砲兵部隊の「慰霊碑」
「歩兵第43連隊戦没者慰霊碑」
歩兵第62連隊第2大隊の「戦友之碑」
「海軍戦没者慰霊碑」
海軍甲種飛行予科練習生の「殉国の若鷲慰霊之碑」
などが建立されていたが・・・
その中に、フィリピン関係の慰霊碑が一つあった・・・(喜)

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徳島県遺族会青年部が昭和54年1月に建立した「比島戦没者」の碑である。
あれ?・・・・この銘板、見たことがある!(汗)
「徳島県遺族会青年部」というのも記憶にある名前である。
説明碑文にはこう書かれていた。


太平洋戦争における比島戦没者の内、本県出身者の多くは首都マニラの東部に位置する山岳地帯で散華されました。
昭和54年、徳島県遺族会が主催した第2回比島戦跡巡拝団によって戦没者の山々が望めるアンチポロの丘陵地に鎮魂の碑を建立しました。
しかし、時代の経過の中で碑の建立地周辺が市街化によって慰霊環境の悪化が進んだため、鎮魂碑を平成16年に日本に持ち帰り、当護国神社境内に再建立しました。


あらら・・・もしかして、拙者が平成16年にテレサという町で参拝した「慰霊碑」ではなかろうか?
あの時は住宅密集地の中の、ある家の庭の中に、この碑が建立されていた。
「比島戦没者之碑・昭和54年1月建立・徳島県遺族会青年部」としか書かれていない碑だったので、いったい、この町とどういう関係があるのかが全くわからず、もう少し内容のある碑文も一緒に設置してくれればいいのにと思っていたので、なおさらよく記憶に残っていたのである。
あの時お参りした碑かな?・・・・
再建立の経緯を刻んだ碑文には「市街地化」と書いてある。
確かに周囲は住宅街・・・民家の庭先なので全く目立たなくなっていた。
しかし「アンチポロの丘陵地に建立した」と書かれているのだが・・・あの住宅街は丘陵地だったかな?
ずいぶん低い位置にあった気がするが・・・
拙者が訪問したとき、この慰霊碑は現地住民の洗濯物の物干し場として使用されていて、周囲にはゴミが散乱していた。(唖然)
住民が慌ててやって来て洗濯物を取り込み、箒でゴミを掃いて掃除をし始めたのには苦笑した。
いくばくかのカネを渡して、どうか慰霊碑の周囲は綺麗に掃除して管理してくれるよう頼んだのだが・・・・
翌年、再び、この地を訪れた時には、住民も替わっていて、慰霊碑も消滅していたので驚いた。
関係者が日本に持ち帰っていたらいいのだが・・・と思っていたのだが・・・
ここに移転されていましたか!(大喜)
約10年ぶりの再会である。
うわぁ~感激!(大喜)

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同じ境内に「大國神社」というのがあったが・・・・
その近くには「大國神社発祥の地」の標柱が建つ祠がある。
さて・・・この場合、どちらをお参りすればいいのか?
京都の「生八橋」を「本家」の店で買うべきか、「総本家」の店で買うべきかと悩むのと同じくらい悩むな・・・(大笑)

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境内の隅に「徳島県戦没者記念館」という建物があったので見学する。

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内部には、パネル展示と若干の遺品の展示・・・
一番多いのが、戦没者の遺影の展示である。
「今流行の・・・」と言っては失礼に当たるだろうが・・・・
たぶん、鹿児島県の知覧にある「特攻平和祈念館」の遺影の展示がその先駆けかもしれない。
靖国神社の遊就館でも、リニューアルの時に遺影の展示をするようになったし・・・・
しかし、これだけの遺影を一人一人見て歩くのは大変である。
フィリピンのルソン島で戦死された方々を探しながら、遺影を拝見させてもらうことにした。
あ~・・・・この写真に写っている人たちは、みんな戦死しちゃったんだよなぁ~
この写真を撮影した時には、まさか自分がフィリピンなんかで戦死するなんて夢にも思っていなかっただろうなぁ~
現地へ慰霊に行った時にみなさんのお顔を思い出しながら慰霊をしたいが・・・
どうも顔と名前を覚えるのが苦手で・・・・(大汗)
申し訳なし・・・

「戦死者数」を数字だけでカウントするとピンと来ないが・・・
こうしてズラリと並ぶ遺影を見ると・・・
戦争というのは、こういう若い人たちが、これほど多く死んでしまうのだぞ・・・ということがビジュアル的にわかる。
単に「戦争反対」を叫ぶのではなく、ここに来て、よく見学してもらいたいものだ。
実感として、よくわかると思う・・・
拙者は護国神社や靖国神社に参拝しない人間に「戦争反対」や「平和」を言う資格はないと思っているのである。

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社務所の近くに顕彰碑が・・・・
「川崎阿佐恵女史顕彰碑」とある。
碑文を読んでみたら、平成12年に、城山から護国神社が移転することになった時、この川崎阿佐恵さんという人が、この場所の土地を寄進したそうで、この新社地に護国神社が遷座したらしい。
それを顕彰する碑ということか・・・
なんとすごいことをする人だろう。
今の人は、財をなしても、そういうことはしないよなぁ~
あの“ホリエモン”と呼ばれた人も、こういうことをしてれば、少しはバッシングが弱まったと思うのだが・・・(苦笑)
川崎さんは明治41年生れの方だそうで、さすがは明治生まれの人は違うなと思った・・・・
もともと護国神社があった「城山」という場所は、徳島城のあった場所だろう。
城址公園(正式には徳島中央公園)にあったほうが、観光客など多くの人が参拝してくれるからいいと思うのだが、どうして移転(遷座)することになったのだろう?
「城山」って言うんだから、山の頂上にでもあったのか?
それでは不便だということで移転したのかな?(笑)

時刻は午前10時半・・・
護国神社の参拝に45分ほどかけたが、その間、タクシーには待っていてもらった。(笑)
なにせ、辺鄙な場所にあるので・・・(苦笑)

さて、まだ時間に余裕があるということで、もう一度、市内に戻ってもらい・・・
観光マップに載っている「某史蹟」に向かったが、結局見つけられなかった・・・・
場所は間違いないと思うのだが・・・なにせ、この観光マップは「イラストマップ」なのである。(汗)
正確な位置が描かれているわけではない。
距離も、いいかげんなものだろう。
一応、このあたりだと思われる場所に行ったが、個人住宅が建っているだけ。
「史蹟」の看板もプレートも何も見当たらない・・・
そんな・・・いい加減な・・・
観光マップを不正確な「イラストマップ」で描くのだけはやめて欲しいものである。

仕方がないので、再び、護国神社方面へ向かい・・・
時間的には早すぎるのだが、本日の全国大会会場に行く事にする。

ちなみに、タクシーの運転手さんに尋ねたところ・・・
今日、全国大会があることを知らないという。
1千人以上が全国から集まるんですけど・・・・(汗)
こういう情報は大事だと思うんですけど・・・
タクシー会社は何をしておるのかね?
売上げを上げるチャンスではないか?(苦笑)
シャトルバスは運行することになっているが、多分、それでは間に合わないはず。
会場のタクシー乗り場は長蛇の列になるのでは?
今日は“稼ぎ時”だと思うんだけど・・・(苦笑)
一応、余計なお節介で・・・大会終了予定時間と懇親会終了予定時間を教えてあげる。(大笑)

旅行 | 09:57:51 | Comments(0)
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