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■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
58歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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『最後の飛行艇』


第1章 筑波山ヨーソロ
 ふるさと
 血書事件と海兵入学
 海兵時代の航空実習
 待望の飛行学生
 水上機学生
 教官からほめられた失敗
 希望機種と潜在適性

第2章 「神川丸」水偵隊
 実戦目標の練成段階
 「高砂丸」一等船客
 「神川丸」に着任
 初陣
 華南沿岸封鎖作戦
 ジャンク狩り
 臨検隊長となる
 陸上輸送攻撃
 クーニャンよ許せ
 沿岸急襲作戦(K作戦)
 7月16日、急襲作戦の開始
 急襲作戦たけなわ
 海南島基地
 海軍特別根拠地隊の戦闘
 仏印進駐作戦(IC作戦)
 バクロンビ島隠密偵察
 南寧撤退作戦
 陸上戦闘協力と水上機
 南寧撤退戦闘開始
 海鷲きたる
 十九路軍を追う
 山岳戦と神武天皇戦法
 推車嶺の激戦
 さらば華南よ
 高雄市と「神川丸」
 酒と女と搭乗員
 「神川丸」の地味な戦果

第3章 飛行艇隊の変遷
 飛行艇の歴史―開戦まで
 大艇に死所を定めたり
 飛行艇部隊
 特殊訓練
 出動直前の悲劇
 全機出動
 大艇隊の変遷と基地展開
 開戦後の変遷
 飛行艇隊の転進

第4章 戦う飛行艇
 開戦第一撃と事前偵察
 悲壮!九七大艇雷撃隊
 相沢飛行長の最後
 飛行艇で輸送船を拿捕
 大艇基地を襲った米潜
 ジャワ沖海空戦と夜間接触
 米濠輸送船団の昼間触接
 零戦隊の猛襲、米飛行艇隊の潰滅

第5章 ハワイ作戦の全貌
 ハワイ第二次攻撃
 「K」作戦の着想
 二式大艇、真珠湾上空に在り
 ミッドウェー強行偵察
 第二次「K」作戦とミッドウェー海戦事前偵察

第6章 戦場往来
 ビールの山!ここ掘れワンワン
 アンダマン基地の悲劇
 北方作戦・マラリア
 第一線を去る

第7章 ソロモンの死闘
 悲運!横浜航空隊、玉砕
 ソロモンの血闘
 残るはわれただ一人
 病床に出撃を見送る
 おれも征く
 “巨鯨”対“空の要塞”の一騎打ち
 米大艦隊に昼間触接
 海軍機最初のレーダー索敵
 あの落下傘を撃て
 悲壮な自爆
 戦闘機搭乗員を救え
 うらみは深しソロモン海

第8章 神風特別攻撃隊の出撃
 最後の飛行艇隊、詫間空
 焼き芋隊長
 敵戦闘機に拳銃で応戦
 通信科総員に鉄拳を見舞う
 特攻梓隊を偲ぶ
 梓特攻隊の誕生
 1番機、神風の名を残して散る
 再編成、指揮官・生田中尉
 重大なつまづき
 決行
 われ突入す!
 戦闘を回顧して

第9章 沖縄の空に死す
 沖縄攻防戦と二式大艇
 夜間レーダー索敵の遺功
 夜間戦闘機と二式大艇の死闘
 第三次丹作戦と大艇挺身誘導隊

第10章 最後の飛行艇
 終戦の大聖断下る
 宇垣長官、沖縄に突入す
 湖底に眠る二式大艇
 二式大艇最後の飛行

あとがき


今年の読書:51冊目



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読書 | 22:07:06 | Comments(0)
『異端の空』


秋水一閃(しゅうすいいっせん)
   「呂」号の示すもの
   ほとんど徒手空拳
   予定された人々
   タンクに入れられた
   余裕は皆無
   名刀をめざして
   赤トンボで風を切る
   新機材おめみえ
   軽は重を兼ねるか?
   新兵器のうつわ
   土方仕事も実験協力も
   指揮官とお告げ
   危険な曳航
   いきなり二つ折り
   山形に「秋水」あり
   主翼に神やどる
   まぎわの情景
   離陸は成功したが
   うわ言を残して
   飛行を論評すれば
   主因はタンクに
   基地選びの問題点
   耐えてきた半世紀
   事故後の動き
   ふえる人員、変わる戦法
   自爆やむなし
   再度の機会は来らず

無敵伝説へのプロローグ
   三回のカラ振り
   陸偵、敵戦闘機を発見
   敵翼をちぎる20ミリ弾
   撃墜数トップは大木二空曹
   勝利の回想

ユングマンの満州
   高練でスタート
   なぜ「ユングマン」を?
   安全地帯は満州だけ
   いいのか悪いのか
   候補生、海をわたる
   教官たちは空から
   教育の始まり
   教える者と教わる者と
   整備のあれこれ
   訓練、未完
   あまい予測を裏切って
   いきなり実戦態勢に直面
   特攻準備を下命
   敵戦車が迫る
   敗戦の日
   シベリア抑留

過負担空域に苦闘す
   先輩機の好成績
   零観、登場
   ソロモン航空戦
   米戦闘機を迎え撃つ
   悲壮な進攻
   トラック壊滅す
   「ボーファイター」と戦う
   三号爆弾を使って

大艇、多難のとき
   墜落の背景は?
   雷撃などナンセンス
   御賜(おんし)のテストパイロット
   グラマンの待つ空へ
   象徴的な短命

最高速レシプロ機「研三(けんさん)」
   [「研三」の計画]
     高速機の立案
     基礎設計と製作準備
   [「研三」の設計、製作]
     主翼の構造と材料
          〈翼断面〉
          〈フラップ〉
          〈主翼桁〉
     胴体の構造と材料
          〈エンジン)
          〈発動機架〉
          〈冷却器〉
          〈内部構造部材、外板、外形〉
          〈脚関係、プロペラ〉
     機体、部品の製作
     強度、振動試験
   [「研三」の飛行]
     初飛行に成功
     初飛行の結果
     その後の飛行試験
     「研三」の操縦方法
     最高速度記録の樹立
     「研三」第2号機の計画
     「研三中間機」飛行経過

前翼型戦闘機「震電」
   エンテこそ次代の戦闘機だ
   前翼機に燃える
   時間と技術との戦い
   盛りこまれた新機軸
     [主翼、前翼、側翼、爆弾架]
     [エンジン、プロペラ]
     [主脚、前脚]
     [燃料系統、防弾]
   空襲にまげず
   「震電」完成す
   ついに飛んだぞ!
   無念の敗戦処理

あとがき


今年の読書:50冊目



読書 | 22:05:16 | Comments(0)
ID過熱テンダ機関車
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IDテンダ過熱機関車 9628号

機関車のせつめい
ここに展示されている機関車は9628号でID過熱テンダ機関車と呼ばれているものです。
9628号という番号は5000以上がテンダ機関車という規程から9600形式となりこの機関車は29両目の製作ということを示します。
ID過熱テンダ機関車は動輪上の重量をシリンダの直径の割合を大きくし動輪の直径を小さくしてあり、馬力は約1000と大きくその反面速度が低く水と石炭を別に搭載した炭水車をもっているので貨物列車用としてかつ長距離運転に適しています。
9628号は大正3年10月27日川崎造船所兵庫工場で製作され貨物列車けん引用として当時国産機関車のホープとして登場し重用され活躍しました。
9628号の走行距離は何んと24,654,247KMで国鉄の使命を全うしました。
この機関車の仲間は大正3年から大正13年迄に700両余り製作され中には中国や満州でも活躍した機関車もあります。

この機関車の新製以来の主な働き場所
1 新製~昭和9年8月 直江津機関区配置
2 昭和9年11月~昭和25年3月 高山機関区配置
3 昭和25年4月~昭和45年8月 富山機関区配置
4 昭和45年8月6日 廃車

主要寸法
全長 16.563M
重量 94.85トン
動輪上重量 52.73トン
機関車重量 60.35トン
石炭積載量 6トン
水槽容量 13㎥
シリンダ直径×行程 508×610MM
火格子面積 2.32㎡

注)
タンク機関車は機関車自身に石炭と水を積んでいる。(列車番号は5000未満)
テンダ機関車は石炭と水を積む炭水車を別にひっぱっている。(列車番号は5000以上)

(説明板より)

【富山県富山市・富山城址公園】

史跡 | 17:34:03 | Comments(0)
千歳御門
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市指定文化財(建造物)
千歳御門(ちとせごもん)(埋門)(うずみもん)

富山藩10代藩主前田利保(としやす)が隠居所として造営した千歳御殿(現、桜木町に所在)の正門で、嘉永2年(1849)に建築されました。
当時は、下図に示すとおり城址大通りの東側に位置していました。
総欅(けやき)造りの三間薬医門(さんげんやくいもん)で、屋根は切妻造本瓦葺(きりづまづくりほんかわらぶき)、桁行(けたゆき)6メートル、梁間(はりま)1.9メートルになります。
同一建築様式の城門は「東大の赤門」として知られる旧加賀屋敷御守殿門(ごしゅでんもん)(国重要文化財・東京都文京区)など数少ないことから、県内はもとより全国的に見ても貴重な江戸時代の城門です。
この門は、明治時代初期に赤祖父家に移されました。
その後、富山市が所有者から寄附をうけ、平成18年から20年にかけて城址公園内に移築しました。
富山城で唯一現存する千歳御殿の創建当初の建造物です。
江戸時代後期の御殿正門の様式や意匠及び技法を知るうえで価値が高く、平成20年10月29日に指定されました。
富山城や千歳御殿に関する展示は、郷土博物館で行っています。

平成24年12月
富山市教育委員会

(説明板より)

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【富山県富山市・富山城址公園】

史跡 | 16:48:35 | Comments(0)
富山県・県会議事堂跡
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旧県会議事堂跡
~富山の近代化を支えた土台~

この建物は、明治42年(1909)に完成した木造2階建ての洋風建築物です。
竣工当初は県会議事堂として利用され、計56回の県会(今の県議会)が開催されました。
昭和10年(1935)に現在の県庁舎に議事堂が移ると、「大正会館」と改名し、会議場や図書館などとして広く市民にも利用されました。
しかし、昭和20年(1945)の富山空襲の際、建物の木造部分は焼失してしまいました。
平成22年(2010)の城址公園芝生広場の園路工事の際に、本館建物南側の一部(竣工時の議員控室と正副議長室など)と、その南西で別棟の建物「汽鑵(きかん)室(ボイラー室)」の煉瓦(れんが)積みの土台部分が発掘されました。
建物の基礎が見つかったことで、その位置を特定することができたのです。
富山の近代化を物語る、貴重な歴史遺産です。

平成23年 富山市

(説明板より)

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【富山県富山市・富山城址公園】

史跡 | 15:25:07 | Comments(0)
富山城へ行く
富山県護国神社にはタクシーで来たが・・・・
帰りもタクシーというのでは芸がない。(笑)
やっぱり旅は歩かねば面白くない。
というわけで、徒歩で富山城に向かうこととする。

時刻はお昼を過ぎている・・・どうりで腹が空いてるわけだ・・・
たまたま喫茶店が目に入ったので、そこで昼食を食べることにした。

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食後にタバコを一服したいなぁ~(苦笑)
すぐ近くに灰皿があったが・・・
このお店の他のお客さんは女性が多い・・・
どう見てもタバコを吸うようには見えない・・・(汗)
「ちょっと、灰皿をお借りして・・・外でタバコを吸ってきていいですかね?」とお店のお婆ちゃんに尋ねた・・・
「いえ、ここで吸って構いませんよ」
「いや、食事をしている人もいますから、外で吸いますので・・・」
「どうぞ遠慮なく、ここで吸ってください。構いませんから・・・」
「いや、タバコの煙の嫌いな人もいるでしょうから外で吸いますので・・・」(苦笑)
他のお客が、こちらを見てニヤリと笑ったところを見ると、やっぱり・・・・(笑)
いくらお店の人に「どうぞ」と言われても、あとから客にグダグダ言われたら不愉快である。
何度も同じ経験をしているので、少しは“学習”した・・・(大笑)

で・・・外でタバコを一服・・・
もう1本吸いたいところだが、食い逃げと間違えられたら困るので急いで店に戻る。(大笑)

やはり旅は徒歩がいい・・・
車で移動すると面白くない。
今日中に帰宅しなくてはならないので、余り時間がないからタクシーで移動するほうがいいのだが・・・
いや、やっぱり徒歩だな・・・(笑)
富山城に向かう方向だけを確認して、あとは適当に歩く・・・
路地を抜けたり、商店街を通ったり・・・
フラフラ、フラフラ・・・行き当たりバッタリの散策である。

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無事に富山城に辿り着いた・・・時刻は午後1時・・・

富山には、ずいぶん昔に一度だけ来たことがある。
友人の結婚式に招かれて来たのだが、そのついでに石川県のほうまで旅をした記憶がある。
当然、富山市内も見て歩いたはずである・・・
当然、拙者が富山城を訪れないわけがないのだが・・・記憶にない!!(啞然)
全く・・・全然・・・記憶がない!(大汗)
拙者が「お城」を目的地から外すというわけはないはずなのだが・・・
痴呆症か?・・・これ・・・・

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野面積(のずらづ)
「野面積み」とは、自然石を石垣とした積み方です。
富山城では、河川の玉石の丸い面を残していることが特徴です。
石と石の隙間は、小石や割石などで埋められており、排水や積石の安定をはかっています。
鉄門(くろがねもん)の内枡形(うちますがた)では、方形に加工した石材を水平に積む「布積(ぬのづ)み」の部分もみられ、巨石の雄大さを演出しています。
石垣の内部は、外側から積石、栗石(ぐりいし)、土塁(どるい)の三重構造となっています。
鉄門石垣の通路面以外は、明治初め頃大きく積み直されたことが発掘調査からわかりました。

富山市教育委員会

(説明板より)


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245_convert_20151216205916.jpg(本丸跡)

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銅像を見っけ!(大喜)
「前田正甫公像」である・・・・


富山藩第二代藩主 前田正甫(まさとし)
~売薬を花咲かせたお殿様~

前田正甫 1649生~1706没
【藩主在任:1674~1706】

富山藩第二代藩主。
初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました。
正甫本人は古銭収集家という文化人としての性格も知られています。
正甫は富山売薬の基礎を築いた人物としても有名です。
それは「反魂丹(はんこんたん)伝説」という形で語り継がれています。
元禄3(1690)年、正甫が参勤交代で江戸城に登城氏た折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。
そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りました。
その様子を見た諸大名は「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山売薬の始まりであるという伝説です。
この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」として、いまでも市民の間から親しまれているのです。
この正甫像は、昭和29(1954)年に建てられました。
原型は佐々木大樹、鋳造は高岡鋳芸社によるもので、台石を合わせて高さ約10mに及びます。

富山市

(説明板より)


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本丸跡の公園の一角に、小さな庭園があった・・・
う~ん・・・全然記憶にない・・・・(汗)
もう何十年も前の事だからなぁ~(苦笑)

282_convert_20151216221550.jpg(千歳御門)

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国登録文化財
富山市郷土博物館(富山城)
昭和29年、富山城址一帯で富山産業大博覧会が開催されました。
これは、昭和20年8月2日未明の空襲によって、壊滅的な被害を受けた富山市街の復興事業完了を機に開催されたものです。
その際、記念の恒久建築物として建設されたのが富山市郷土博物館(富山城)です。
旧本丸鉄門(くろがねもん)跡の石垣上に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、望楼(ぼうろう)を乗せた三重四階の天守、二重二階の小天守など、城郭の意匠でまとめられています。
その外観は、彦根城や犬山城などの現存天守を参考に設計されており、戦後の天守閣建設のさきがけとなりました。
博覧会の会期中は、「美の殿堂」として各種の展覧会が開催され、最上階の展望台からは富山市街のみならず立山連峰が一望できたため、多くの人で賑わいました。
会期終了後は郷土博物館として活用され、郷土の事を紹介する中心的な博物館であるとともに、中心市街地のランドマークとして広く市民に親しまれています。
平成15年からは約2年をかけて耐震改修工事行なうとともに、内装を一新し、富山城の歴史を紹介する常設展示が整備されました。
建設から半世紀を経た平成16年、本建物は富山市のシンボルとして、また戦災復興期を代表する建築物として国の登録文化財として登録されました。

平成27年3月

富山県教育委員会
富山市教育委員会

(説明板より)


鉄筋コンクリートの郷土博物館が、国の登録文化財???(大汗)
「戦災復興の代表的建築物」という考え方もあるのか・・・
そういうことでも指定が受けられるとは驚いた。

早速、郷土資料館を見学する。

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富山城唯一の現存建築物
千歳御門の瓦葺き技法
千歳御門の屋根瓦は、3枚重ねの本瓦葺(ほんかわらぶ)きとなっています。
これは、上の1枚が割れても下の1枚が水を受けることで、雨漏りを防ぐ構造となっています。
現在の家屋では2枚重ねで屋根材が水を受ける構造となっており、本瓦葺きは文化財建築以外ではほとんどみられなくなっています。
瓦は屋根板に取り付けられた桟(さん)に銅線で留めてあります。
さらに丸瓦(まるがわら)は葺き土の上にのせられています。
昔の瓦は仕上がり等にバラツキがあり、並びを整えるため土を用いたのです。
また、この土には、雨の吹き込みを防ぐという、もう1つの目的もありました。

(説明パネルより)


302_convert_20151217130443.jpg(館内)

いつもの如く、最上階まで行き、町を見回す・・・が・・・・金網が・・・(汗)
これ、邪魔なんだよなぁ~(苦笑)

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時刻は午後3時・・・・郷土博物館(模擬天守閣)を見学後、周囲を散策することにする。

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おお?・・・洒落た公衆トイレか・・・と思ったら・・・
どうも地下にある駐車場の出入り口らしい。
いやぁ~こういうデザインっていいよなぁ~(笑)

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ふと、道路の向こう側を見たら・・・・
昨晩、拙者が宿泊したホテルが・・・・(汗)
どうせここを歩くことになるのなら、カバンをフロントに預かってもらえばよかった・・・(汗)
重いショルダーバックを肩にテクテク歩くこともなかっただろう・・・
いつも要領が悪いんだよなぁ~(涙)

お城跡の側を流れる松川沿いの緑地帯に行ってみる。

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櫓を模した建物・・・
たぶん「佐藤記念美術館」の建物ではなかろうか?
でも、時間がないので、ここは見学しない・・・(苦笑)

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千歳(ちとせ)桜の碑石
江戸時代 富山10代藩主前田利保(としやす)が藩主の座を第六子利友(としとも)にゆずったあと嘉永2年(1849年)5月28日新しく東出丸(現在の桜木町一帯)に千歳御殿を築城した。
利保は千歳御殿に移り、桜を多く植えて風致を添えたので千歳桜といった。
後年、桜が老化したので昭和9年風雅会が35周年を記念してこの碑を建て新しく松川の堤に桜の植樹をおこなったので、県下でも有数の桜の名所になっている。

松川のまつのちとせをその名にて
  つつみのさくらとはにかをらむ
     田村直喜

昭和60年 富山市

(説明板より)


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さすがに喉が渇いたので、松川沿いにある「松川茶屋」でコーヒーを頂く・・・
ここは松川に架かる7つの橋を巡る観光遊覧船の乗り場・・・
乗ってみたい気もするが・・・・帰りの電車に乗り遅れたら大変なことになるのでやめておく。(笑)

時刻は午後3時半・・・・
ちょうど良い時間である。
テクテクと散策しながら富山駅に向かう。

339_convert_20151217160102.jpg(JR富山駅)

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富山駅前は、駅前の整備事業の工事中だった。
これが完成すると、また雰囲気が変わるんだろうなぁ~
で・・・
いつか、再び、この地を訪れた時、拙者は「記憶にない!」を連発するようになるのだろう。(大笑)
一応、念のため、ここに写真を載せておこう!(笑)

午後4時13分発、新幹線「かがやき530号」で上野駅へ・・・
帰りは新幹線で一気に帰ることが出来る。
なんと便利なことだろうか。
約2時間後に上野駅に到着・・・
午後7時の特急「ひたち25号」で午後9時前に自宅に到着!

旅行 | 14:48:25 | Comments(0)
富山県護国神社に行く
ホテルをチェックアウト・・・
ホテルの目の前に富山城があるので、見学したい気分だが・・・
天気予報によれば、どうも天気が崩れるらしい。
ならば・・・先に護国神社をお参りしたほうが良いだろう。
ということで・・・タクシーで護国神社に向かう。

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鳥居の近くの境内に、いくつもの碑が建っていた!(喜)
一つ一つ丁寧に見て歩く・・・

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「嗚呼 トラック島」の碑は、金沢の第52師団司令部と富山の歩兵第69連隊が中心とする「トラック諸島戦友会」が建立したもの。
そうかぁ~富山の連隊はトラック島に派遣されていたのか・・・
トラック島には過去に二度ほど行く機会があったが、タイミングが合わず断念したので、まだ行ったことがない・・・
トラック島はグアム島より更に南へ1000キロぐらい行った所にある。

157_convert_20151214171230.jpg(馬魂碑)

「馬魂碑」は、昔、歩兵第69連隊が建立したものだが、戦後、行方不明になっていたらしい。
で・・・昭和51年に富山大学の構内で見つかったそうで、ここに移設したそうだ。

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境内の片隅・・・目立たないところに「石柱」が・・・
うっかり見落とすところだったが、「戦八慰霊祭記念碑」と刻まれていた。
「戦八」は・・・戦車第8連隊か?
碑の裏を覗いてみたら「戦車第8連隊戦友会北陸富山大会」の文字が・・・
おお!やっぱり戦車第8連隊か!(喜)
なぜか、嬉しくなっちゃうんだよなぁ~
我が戦友会・・・戦車第2師団には、戦車6、戦車7、戦車10、戦車11の4つの戦車連隊があった。
そのうち戦車第11連隊は、北千島の占守島(シュムシュ島)に転属となり、残り3個連隊はフィリピンへ派遣され壊滅した。
戦車第8連隊は・・・中国大陸からラバウルへ移動し、ニューアイルランド島で戦うことなく終戦を迎えたようである。
この碑が建てられたのは昭和54年8月25日・・・拙者が高校を卒業して浪人していた頃である。(苦笑)
今は、この戦友会はどうなっているのだろう・・・
もう解散しちゃっているのかなぁ~
「慰霊碑」や「記念碑」を建てる割には、さっさと解散してしまう戦友会が多い・・・
残された碑は誰が責任を持つのだろう?
細々と戦友会を維持している事務局長としては、ちょっと気になるところである。

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何の碑とは刻まれていない碑・・・・
銘板には「不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも甚だしい 印度国判事 ラダビノード・パール」と刻まれている。
あの「極東軍事裁判(東京裁判)」を指しての言葉である。
ごもっともの御言葉である。
この「東京裁判」は、戦後70年経っても、まだ日本人を縛っている・・・・
この碑を建立したのは富山県憲友会・・・・平成9年1月の建立である。
「憲友会」とは、陸軍の憲兵の戦友会である。

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「嗚ニューギニア」の碑・・・
富山県ニューギニア戦友会および遺族が昭和55年10月に建立したもの。
ニューギニアでは富山県出身者もお亡くなりになっているようである。
「戦友会」を組織するくらいだから、かなりの人数なのだろう。
ニューギニアでも、東部のほうには行ったことがあるので、現地の景色を思い出した。
なんとも感慨深い・・・

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富山県護国神社の社殿は、他の護国神社の社殿とは、ちょっと形が違う。
面白いといえば面白い・・・
これは何という造りなんだろう?

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境内には「遺芳館」と名付けられた遺品館があった。
社務所に見学を申し出て、鍵を開けていただいた・・・
お手数をおかけして恐縮・・・

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展示ケースの中に、懐かしい名前が・・・・
「武田友治(たけだ・ともはる)」である・・・・

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彼は、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に参加した海軍の航空兵である。
空母「加賀」の九七式艦上攻撃機(雷撃機)に乗り、真珠湾に碇泊する戦艦に魚雷を放った・・・
九七式艦上攻撃機は3人乗りで、彼は最後部の通信兼後部機銃手だったと記憶している。
この時の攻撃では、九七式艦上攻撃機が5機、未帰還となっている。
その中の1機が、武田友治の乗った攻撃機だった。
彼は、この時、17歳である。
現在で言えば、高校2年生である。(汗)
多分、真珠湾攻撃に参加して戦死した最年少の航空兵だろう。
開戦早々に戦死するとは本当にかわいそうだ・・・
以前、彼の最期の地を調べるためハワイに行ったことがある。
拙者にとっては、生まれて初めてのハワイだった。
現地で米国人の戦史研究者からの聞き取りもおこなったが・・・
やっぱり4機の墜落現場は米軍側が調査して記録しているが、武田が乗った飛行機だけが墜落現場がわからないという。
ある証言によれば、オアフ島沖を煙を吐きながら飛んで墜落したというので、ヘリコプターをチャーターして似たコースを飛んでみた。
が・・・どうしても考えられない距離を飛んでいる。
被弾して煙を吐きながら、こんなに遠くまで飛べるとは思えない・・・
いったいどこに墜落してしまったのやら・・・
魚雷を放った後、そのまま敵艦に体当たりしてしまったのか・・・
被弾して敵艦の上を通過して山のほうへ飛んで墜落したのか・・・
だとしたら、あのハワイの切り立った山の全てを踏査しなければならない。
結局、わからず仕舞い・・・
とりあえず、空から慰霊を行なった・・・
彼とは、不思議な縁がある・・・
彼の誕生日と拙者の誕生日が同じなのである!(驚)
当然、生まれた年は違うが・・・(大笑)
彼は大正生まれ・・・拙者は昭和生まれである。
不思議なこともあるもんだ・・・誕生日が一緒とは・・・
まさか、拙者も死ぬのは12月8日じゃあるまいな?(大汗)
あ~懐かしい名前を見つけて・・・大感激である。

見学中に、雨が降ったようだが・・・・
その後も降ったり止んだり・・・
傘をささねばならぬほどのひどい雨ではなかったので助かった。

遺品館の見学を済ませ・・・今度は富山城に向かう・・・・

旅行 | 10:42:13 | Comments(0)