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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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『ビルマ敗戦行記』


まえがき

1 ビルマ戦線へ

帝立丸に乗って
     召集令状
     父の訓え
     出立
     意見書
     悪夢の一夜
     南シナ海
     一条の黒煙
泰緬国境をこえて前線へ
     サイゴン
     バンコック
     泰緬鉄道
     ビルマ北上
     マンダレー
     サガイン
     転属
カタン村にて
     下男役
     マチチの家
     異国の人情
     時局談
     亀の子爆雷
     牛飼い
     出動
     戦闘要図描き
     南下命令

2 マンダレー脱出

一足先の脱出行
     南下行
     火花
     特別作業隊
     心境の変化
     時局概要
弾薬回収作戦
     キンベット
     弾薬運び
     索敵
     退路守備
     撤収
孤軍山中を行く
     部隊解散
     火の山
     サボテン林
     右か左か
     食糧調達
     バナナ畑
     奇遇
     行路推定

3 モールメン集結

猛暑の行軍
     トングー出発
     敵機
     意外な収穫
     カレン人の家
     華僑の家
     死神
部隊集結
     モールメン到着
     猛爆
     爆弾の跡
     第二次宿舎
     看護
     若い少尉の死
     骨の磧
     弟の戦死
モールメン宿営地にて
     作文
     当番兵辞退
     将校人種
     決戦に備えて
     敗戦

4 「被武装解除日本兵」

最初の労役
     みじめなマスター
     最初の労役
     モン人部落
     ビルマ人の生活
捕虜収容所
     ふたたびモールメンへ
     寺院
     食事
     仕入れ
     所持品
     労役
労働の日々
     港湾荷役
     建築
     砂利積み
     残業に及ばず
     営倉
     備品作り
     木工作業

5 捕虜生活さまざま

インド兵と英人将校
     マドラス兵
     バーシャの涙
     ある英人隊長
     赤鰯
     刀研ぎ
     目利き
余暇の生活
     管理体制
     親しかった人々
     楽団
     故国を偲ぶ
     作詞作曲
     演芸会
     刃物作り
     内地の情報
     英軍の態度
     病気

6 帰還

     見送り
     キャンデーの甘さ
     復員
     現実
     帰郷
     爪切り

おわりに

     日本軍の本領
     猛獣と人
     身勝手な話
     人間勉強
     浮かばれない魂

あとがき


今年の読書:55冊目



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読書 | 23:48:21 | Comments(0)
『われレパルスに投弾命中せり』


序章 軍艦旗のもとに
 旗艦乗組員の誇り
 眠れぬ一夜
 整備術練習生を命ず

第1章 大空への挑戦
 隊員の心意気
 一言の弁明もなく
 嫌がらせの中で
 人生の岐路
 易者の見立て
 顔の長い試験官

第2章 青春の血は燃えて
 操縦員の資格
 度肝を抜かれた宣告
 暗雲はれて
 魔の月曜日
 宇佐空の空
 友永大尉の薫陶

第3章 深い信頼の絆
 実用機での第一歩
 白銀の飛行場
 渡洋爆撃の勇士
 甘美な一日
 大陸の砲火

第4章 海鷲隊、雲上を征く
 初陣の武者震い
 山脈を越えて
 炎暑の飛行場で
 暗夜の飛行
 成都をめざして
 武運つたなし
 郷里の駅に立つ
 まことしやかな噂

第5章 マレー沖の凱歌
 出撃の火蓋
 対空砲火の中を
 戦果を祝う野宴
 機長よ、安らかに
 飛行機の墓場
 束の間の休養
 絶海の珊瑚礁
 死の島へ

第6章 ラバウルの蒼い空
 ガ島上空を哨戒せよ
 檜貝飛行長、自爆す
 暗い空を眺めて
 ソロモンの海
 武人の本懐
 憧れの八重桜
 負け犬のように

第7章 忘れざる出来事
 戦争と結婚と
 領収飛行の顛末
 硫黄島からの脱出行
 ヤンキー魂の片鱗
 那覇被爆の日
 神の声
 火の海地獄
 運命の序曲

第8章 最後の救出飛行便
 別れのハンカチ
 無気味な予感
 発光信号きたらず
 傷ついた愛機とともに
 神があたえた不時着場
 断雲を紅に染めて
 死者たちの声
 九死に一生を得て
 新たなる任務
 暗黒の大地
 燃えつきた陸軍機
 基地指揮官の心情
 黒い影

第9章 生と死のはざまで
 大西長官のこと
 死への告別式
 己を知る人のために
 敵機の跳梁下で
 風評とびかって
 殺戮の償い

あとがき


今年の読書:54冊目



読書 | 09:41:20 | Comments(0)
参議院は不要かも(汗)
安全保障関連法案が参議院で可決され成立した。
それはそれで結構なことだと思うが・・・

これに先立って参議院の平和安全法制特別委員会でのドタバタ劇は見苦しいものだった。
怒鳴りあい、つかみ合い・・・
何をギャーギャーやっているのかと、正直言って白けた・・・

続いて、参議院本会議・・・
グダグダ、グダグダと野党が抵抗し・・・大幅に時間がずれ込む。
議会関係諸施設の光熱費や関係職員の人件費が余計にかかるんですけど・・・
決められた時間内で仕事をこなせないような人間は「能力がない」と民間企業では評価されるんですけど・・・(苦笑)
国民に「一生懸命頑張っています」というアピールのつもりなんだろうけど・・・
見苦しいだけ・・・
しかも税金の無駄遣いをしているのである。

本当に参議院というのは必要なのかね?
衆議院で可決された議案を参議院で否決できないようなら参議院なんて必要ない・・・という意見もあるでしょうが・・・
私の場合は、そういう観点ではない。
あの見苦しいつかみ合いや、デレデレ、ノロノロとした採決である。
「参議院は良識の府」という言葉を聞いたことがあるが、どこが「良識」なのか?
衆議院と、どこが違うんだろう?

「衆議院」が「衆愚院」」になってしまうのは仕方がないとしても・・・(大笑)
参議院は、もう少し何とかならないか?
いっそのこと、昔の「貴族院」を復活させたほうがいいのではなかろうか?(大笑)
もう少し、品がある人たちに議員をしていただきたいものである!
国会が「衆愚院」と「参愚院」の二院制では、先々が不安である。

国会の外では「戦争法案反対!」と叫んでいるバカが多数集まっていたようである。
戦争法案?・・・・いつから「戦争法案」になったんだ?
「安保法案」のはずだけど・・・
言葉をすり替えて“感情論”で大騒ぎ・・・
その“仕掛け”にも気付かず、それに乗ってしまう人がいるんだから呆れる。
どうりで「オレオレ詐欺」に引っかかるバカが今もっているのも納得である。

街頭インタビューでは「よくわからない」との声を取上げているが・・・
そもそも知識のない奴に何を言っても理解は難しいだろう。(苦笑)
だいたい学校教育の場でも「戦争論」や「軍事論」「安全保障論」を取上げていないんだから無理もない。
私がノーベル物理学賞の記念講演を聞いてもチンプンカンプンなのと同じである。(大笑)

だから「賢人」にお任せしたいのだが・・・・
怒鳴りあい、つかみ合い、牛歩戦術では・・・・ねぇ~(大汗)
やっぱり参議院はいらないんじゃなかろうか?(苦笑)

エッセイ | 21:50:29 | Comments(0)
『戦争遺産探訪 日本編』


口絵
    要塞/建築/モノの肖像/戦争末期の風景/トーチカ

はじめに

凡例

第1部 激動の舞台を歩く

1 日本のいちばん長い日を歩く
2 館山に昭和の戦争を見にいく
3 千葉からアジアへ~鉄道聯隊の軌跡をたどる
4 そして遺構はなくなった~軍需工場地帯を歩く
5 1945 都心の接収建築探検

第2部 戦争遺産が語る陸海軍史

1 明治健軍期
     城を鎮台に
     北方警備
     要塞の築造
     学校の開設
     偕行社(かいこうしゃ)と水交社(すいこうしゃ)
2 日清・日露戦争期
     広島大本営
     銅像の運命
     軍港の警備
     要塞地帯法の誕生
     鉄道と戦争
3 大正軍縮期
     第一次世界大戦と東京駅
     軍縮で廃止された要塞
     無線設備の軍事使用
4 昭和戦前期
     戦艦主砲の意外な使い道
     要塞廃止と工場誘致
     無条約時代の工廠(こうしょう)拡充
5 戦中・占領期
     急造された航空基地
     地下壕の建設
     トーチカ築城
     ホテル接収

第3部 戦争遺産を探偵する

1 かなしき要塞
2 掩体壕(えんたいごう)の戦後
3 無用の長物
4 隠された戦争
5 戦争と地図
6 戦争遺産の歩き方

あとがき

主な参考文献


今年の読書:53冊目



読書 | 00:35:41 | Comments(0)
『これで話せる 英会話の基本文型87』


はじめに

本書の使い方

Part1 「人」が中心の表現

Part2 「もの」が中心の表現

Part3 助動詞を使った表現

Part4 命令表現

Part5 疑問詞を使った表現



今年の読書:52冊目



読書 | 13:49:46 | Comments(0)
『最後の飛行艇』


第1章 筑波山ヨーソロ
 ふるさと
 血書事件と海兵入学
 海兵時代の航空実習
 待望の飛行学生
 水上機学生
 教官からほめられた失敗
 希望機種と潜在適性

第2章 「神川丸」水偵隊
 実戦目標の練成段階
 「高砂丸」一等船客
 「神川丸」に着任
 初陣
 華南沿岸封鎖作戦
 ジャンク狩り
 臨検隊長となる
 陸上輸送攻撃
 クーニャンよ許せ
 沿岸急襲作戦(K作戦)
 7月16日、急襲作戦の開始
 急襲作戦たけなわ
 海南島基地
 海軍特別根拠地隊の戦闘
 仏印進駐作戦(IC作戦)
 バクロンビ島隠密偵察
 南寧撤退作戦
 陸上戦闘協力と水上機
 南寧撤退戦闘開始
 海鷲きたる
 十九路軍を追う
 山岳戦と神武天皇戦法
 推車嶺の激戦
 さらば華南よ
 高雄市と「神川丸」
 酒と女と搭乗員
 「神川丸」の地味な戦果

第3章 飛行艇隊の変遷
 飛行艇の歴史―開戦まで
 大艇に死所を定めたり
 飛行艇部隊
 特殊訓練
 出動直前の悲劇
 全機出動
 大艇隊の変遷と基地展開
 開戦後の変遷
 飛行艇隊の転進

第4章 戦う飛行艇
 開戦第一撃と事前偵察
 悲壮!九七大艇雷撃隊
 相沢飛行長の最後
 飛行艇で輸送船を拿捕
 大艇基地を襲った米潜
 ジャワ沖海空戦と夜間接触
 米濠輸送船団の昼間触接
 零戦隊の猛襲、米飛行艇隊の潰滅

第5章 ハワイ作戦の全貌
 ハワイ第二次攻撃
 「K」作戦の着想
 二式大艇、真珠湾上空に在り
 ミッドウェー強行偵察
 第二次「K」作戦とミッドウェー海戦事前偵察

第6章 戦場往来
 ビールの山!ここ掘れワンワン
 アンダマン基地の悲劇
 北方作戦・マラリア
 第一線を去る

第7章 ソロモンの死闘
 悲運!横浜航空隊、玉砕
 ソロモンの血闘
 残るはわれただ一人
 病床に出撃を見送る
 おれも征く
 “巨鯨”対“空の要塞”の一騎打ち
 米大艦隊に昼間触接
 海軍機最初のレーダー索敵
 あの落下傘を撃て
 悲壮な自爆
 戦闘機搭乗員を救え
 うらみは深しソロモン海

第8章 神風特別攻撃隊の出撃
 最後の飛行艇隊、詫間空
 焼き芋隊長
 敵戦闘機に拳銃で応戦
 通信科総員に鉄拳を見舞う
 特攻梓隊を偲ぶ
 梓特攻隊の誕生
 1番機、神風の名を残して散る
 再編成、指揮官・生田中尉
 重大なつまづき
 決行
 われ突入す!
 戦闘を回顧して

第9章 沖縄の空に死す
 沖縄攻防戦と二式大艇
 夜間レーダー索敵の遺功
 夜間戦闘機と二式大艇の死闘
 第三次丹作戦と大艇挺身誘導隊

第10章 最後の飛行艇
 終戦の大聖断下る
 宇垣長官、沖縄に突入す
 湖底に眠る二式大艇
 二式大艇最後の飛行

あとがき


今年の読書:51冊目



読書 | 22:07:06 | Comments(0)
『異端の空』


秋水一閃(しゅうすいいっせん)
   「呂」号の示すもの
   ほとんど徒手空拳
   予定された人々
   タンクに入れられた
   余裕は皆無
   名刀をめざして
   赤トンボで風を切る
   新機材おめみえ
   軽は重を兼ねるか?
   新兵器のうつわ
   土方仕事も実験協力も
   指揮官とお告げ
   危険な曳航
   いきなり二つ折り
   山形に「秋水」あり
   主翼に神やどる
   まぎわの情景
   離陸は成功したが
   うわ言を残して
   飛行を論評すれば
   主因はタンクに
   基地選びの問題点
   耐えてきた半世紀
   事故後の動き
   ふえる人員、変わる戦法
   自爆やむなし
   再度の機会は来らず

無敵伝説へのプロローグ
   三回のカラ振り
   陸偵、敵戦闘機を発見
   敵翼をちぎる20ミリ弾
   撃墜数トップは大木二空曹
   勝利の回想

ユングマンの満州
   高練でスタート
   なぜ「ユングマン」を?
   安全地帯は満州だけ
   いいのか悪いのか
   候補生、海をわたる
   教官たちは空から
   教育の始まり
   教える者と教わる者と
   整備のあれこれ
   訓練、未完
   あまい予測を裏切って
   いきなり実戦態勢に直面
   特攻準備を下命
   敵戦車が迫る
   敗戦の日
   シベリア抑留

過負担空域に苦闘す
   先輩機の好成績
   零観、登場
   ソロモン航空戦
   米戦闘機を迎え撃つ
   悲壮な進攻
   トラック壊滅す
   「ボーファイター」と戦う
   三号爆弾を使って

大艇、多難のとき
   墜落の背景は?
   雷撃などナンセンス
   御賜(おんし)のテストパイロット
   グラマンの待つ空へ
   象徴的な短命

最高速レシプロ機「研三(けんさん)」
   [「研三」の計画]
     高速機の立案
     基礎設計と製作準備
   [「研三」の設計、製作]
     主翼の構造と材料
          〈翼断面〉
          〈フラップ〉
          〈主翼桁〉
     胴体の構造と材料
          〈エンジン)
          〈発動機架〉
          〈冷却器〉
          〈内部構造部材、外板、外形〉
          〈脚関係、プロペラ〉
     機体、部品の製作
     強度、振動試験
   [「研三」の飛行]
     初飛行に成功
     初飛行の結果
     その後の飛行試験
     「研三」の操縦方法
     最高速度記録の樹立
     「研三」第2号機の計画
     「研三中間機」飛行経過

前翼型戦闘機「震電」
   エンテこそ次代の戦闘機だ
   前翼機に燃える
   時間と技術との戦い
   盛りこまれた新機軸
     [主翼、前翼、側翼、爆弾架]
     [エンジン、プロペラ]
     [主脚、前脚]
     [燃料系統、防弾]
   空襲にまげず
   「震電」完成す
   ついに飛んだぞ!
   無念の敗戦処理

あとがき


今年の読書:50冊目



読書 | 22:05:16 | Comments(0)
ID過熱テンダ機関車
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IDテンダ過熱機関車 9628号

機関車のせつめい
ここに展示されている機関車は9628号でID過熱テンダ機関車と呼ばれているものです。
9628号という番号は5000以上がテンダ機関車という規程から9600形式となりこの機関車は29両目の製作ということを示します。
ID過熱テンダ機関車は動輪上の重量をシリンダの直径の割合を大きくし動輪の直径を小さくしてあり、馬力は約1000と大きくその反面速度が低く水と石炭を別に搭載した炭水車をもっているので貨物列車用としてかつ長距離運転に適しています。
9628号は大正3年10月27日川崎造船所兵庫工場で製作され貨物列車けん引用として当時国産機関車のホープとして登場し重用され活躍しました。
9628号の走行距離は何んと24,654,247KMで国鉄の使命を全うしました。
この機関車の仲間は大正3年から大正13年迄に700両余り製作され中には中国や満州でも活躍した機関車もあります。

この機関車の新製以来の主な働き場所
1 新製~昭和9年8月 直江津機関区配置
2 昭和9年11月~昭和25年3月 高山機関区配置
3 昭和25年4月~昭和45年8月 富山機関区配置
4 昭和45年8月6日 廃車

主要寸法
全長 16.563M
重量 94.85トン
動輪上重量 52.73トン
機関車重量 60.35トン
石炭積載量 6トン
水槽容量 13㎥
シリンダ直径×行程 508×610MM
火格子面積 2.32㎡

注)
タンク機関車は機関車自身に石炭と水を積んでいる。(列車番号は5000未満)
テンダ機関車は石炭と水を積む炭水車を別にひっぱっている。(列車番号は5000以上)

(説明板より)

【富山県富山市・富山城址公園】

史跡 | 17:34:03 | Comments(0)
千歳御門
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市指定文化財(建造物)
千歳御門(ちとせごもん)(埋門)(うずみもん)

富山藩10代藩主前田利保(としやす)が隠居所として造営した千歳御殿(現、桜木町に所在)の正門で、嘉永2年(1849)に建築されました。
当時は、下図に示すとおり城址大通りの東側に位置していました。
総欅(けやき)造りの三間薬医門(さんげんやくいもん)で、屋根は切妻造本瓦葺(きりづまづくりほんかわらぶき)、桁行(けたゆき)6メートル、梁間(はりま)1.9メートルになります。
同一建築様式の城門は「東大の赤門」として知られる旧加賀屋敷御守殿門(ごしゅでんもん)(国重要文化財・東京都文京区)など数少ないことから、県内はもとより全国的に見ても貴重な江戸時代の城門です。
この門は、明治時代初期に赤祖父家に移されました。
その後、富山市が所有者から寄附をうけ、平成18年から20年にかけて城址公園内に移築しました。
富山城で唯一現存する千歳御殿の創建当初の建造物です。
江戸時代後期の御殿正門の様式や意匠及び技法を知るうえで価値が高く、平成20年10月29日に指定されました。
富山城や千歳御殿に関する展示は、郷土博物館で行っています。

平成24年12月
富山市教育委員会

(説明板より)

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【富山県富山市・富山城址公園】

史跡 | 16:48:35 | Comments(0)
富山県・県会議事堂跡
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旧県会議事堂跡
~富山の近代化を支えた土台~

この建物は、明治42年(1909)に完成した木造2階建ての洋風建築物です。
竣工当初は県会議事堂として利用され、計56回の県会(今の県議会)が開催されました。
昭和10年(1935)に現在の県庁舎に議事堂が移ると、「大正会館」と改名し、会議場や図書館などとして広く市民にも利用されました。
しかし、昭和20年(1945)の富山空襲の際、建物の木造部分は焼失してしまいました。
平成22年(2010)の城址公園芝生広場の園路工事の際に、本館建物南側の一部(竣工時の議員控室と正副議長室など)と、その南西で別棟の建物「汽鑵(きかん)室(ボイラー室)」の煉瓦(れんが)積みの土台部分が発掘されました。
建物の基礎が見つかったことで、その位置を特定することができたのです。
富山の近代化を物語る、貴重な歴史遺産です。

平成23年 富山市

(説明板より)

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【富山県富山市・富山城址公園】

史跡 | 15:25:07 | Comments(0)
富山城へ行く
富山県護国神社にはタクシーで来たが・・・・
帰りもタクシーというのでは芸がない。(笑)
やっぱり旅は歩かねば面白くない。
というわけで、徒歩で富山城に向かうこととする。

時刻はお昼を過ぎている・・・どうりで腹が空いてるわけだ・・・
たまたま喫茶店が目に入ったので、そこで昼食を食べることにした。

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食後にタバコを一服したいなぁ~(苦笑)
すぐ近くに灰皿があったが・・・
このお店の他のお客さんは女性が多い・・・
どう見てもタバコを吸うようには見えない・・・(汗)
「ちょっと、灰皿をお借りして・・・外でタバコを吸ってきていいですかね?」とお店のお婆ちゃんに尋ねた・・・
「いえ、ここで吸って構いませんよ」
「いや、食事をしている人もいますから、外で吸いますので・・・」
「どうぞ遠慮なく、ここで吸ってください。構いませんから・・・」
「いや、タバコの煙の嫌いな人もいるでしょうから外で吸いますので・・・」(苦笑)
他のお客が、こちらを見てニヤリと笑ったところを見ると、やっぱり・・・・(笑)
いくらお店の人に「どうぞ」と言われても、あとから客にグダグダ言われたら不愉快である。
何度も同じ経験をしているので、少しは“学習”した・・・(大笑)

で・・・外でタバコを一服・・・
もう1本吸いたいところだが、食い逃げと間違えられたら困るので急いで店に戻る。(大笑)

やはり旅は徒歩がいい・・・
車で移動すると面白くない。
今日中に帰宅しなくてはならないので、余り時間がないからタクシーで移動するほうがいいのだが・・・
いや、やっぱり徒歩だな・・・(笑)
富山城に向かう方向だけを確認して、あとは適当に歩く・・・
路地を抜けたり、商店街を通ったり・・・
フラフラ、フラフラ・・・行き当たりバッタリの散策である。

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無事に富山城に辿り着いた・・・時刻は午後1時・・・

富山には、ずいぶん昔に一度だけ来たことがある。
友人の結婚式に招かれて来たのだが、そのついでに石川県のほうまで旅をした記憶がある。
当然、富山市内も見て歩いたはずである・・・
当然、拙者が富山城を訪れないわけがないのだが・・・記憶にない!!(啞然)
全く・・・全然・・・記憶がない!(大汗)
拙者が「お城」を目的地から外すというわけはないはずなのだが・・・
痴呆症か?・・・これ・・・・

232_convert_20151216200503.jpg


野面積(のずらづ)
「野面積み」とは、自然石を石垣とした積み方です。
富山城では、河川の玉石の丸い面を残していることが特徴です。
石と石の隙間は、小石や割石などで埋められており、排水や積石の安定をはかっています。
鉄門(くろがねもん)の内枡形(うちますがた)では、方形に加工した石材を水平に積む「布積(ぬのづ)み」の部分もみられ、巨石の雄大さを演出しています。
石垣の内部は、外側から積石、栗石(ぐりいし)、土塁(どるい)の三重構造となっています。
鉄門石垣の通路面以外は、明治初め頃大きく積み直されたことが発掘調査からわかりました。

富山市教育委員会

(説明板より)


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245_convert_20151216205916.jpg(本丸跡)

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銅像を見っけ!(大喜)
「前田正甫公像」である・・・・


富山藩第二代藩主 前田正甫(まさとし)
~売薬を花咲かせたお殿様~

前田正甫 1649生~1706没
【藩主在任:1674~1706】

富山藩第二代藩主。
初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました。
正甫本人は古銭収集家という文化人としての性格も知られています。
正甫は富山売薬の基礎を築いた人物としても有名です。
それは「反魂丹(はんこんたん)伝説」という形で語り継がれています。
元禄3(1690)年、正甫が参勤交代で江戸城に登城氏た折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。
そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りました。
その様子を見た諸大名は「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山売薬の始まりであるという伝説です。
この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」として、いまでも市民の間から親しまれているのです。
この正甫像は、昭和29(1954)年に建てられました。
原型は佐々木大樹、鋳造は高岡鋳芸社によるもので、台石を合わせて高さ約10mに及びます。

富山市

(説明板より)


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本丸跡の公園の一角に、小さな庭園があった・・・
う~ん・・・全然記憶にない・・・・(汗)
もう何十年も前の事だからなぁ~(苦笑)

282_convert_20151216221550.jpg(千歳御門)

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国登録文化財
富山市郷土博物館(富山城)
昭和29年、富山城址一帯で富山産業大博覧会が開催されました。
これは、昭和20年8月2日未明の空襲によって、壊滅的な被害を受けた富山市街の復興事業完了を機に開催されたものです。
その際、記念の恒久建築物として建設されたのが富山市郷土博物館(富山城)です。
旧本丸鉄門(くろがねもん)跡の石垣上に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、望楼(ぼうろう)を乗せた三重四階の天守、二重二階の小天守など、城郭の意匠でまとめられています。
その外観は、彦根城や犬山城などの現存天守を参考に設計されており、戦後の天守閣建設のさきがけとなりました。
博覧会の会期中は、「美の殿堂」として各種の展覧会が開催され、最上階の展望台からは富山市街のみならず立山連峰が一望できたため、多くの人で賑わいました。
会期終了後は郷土博物館として活用され、郷土の事を紹介する中心的な博物館であるとともに、中心市街地のランドマークとして広く市民に親しまれています。
平成15年からは約2年をかけて耐震改修工事行なうとともに、内装を一新し、富山城の歴史を紹介する常設展示が整備されました。
建設から半世紀を経た平成16年、本建物は富山市のシンボルとして、また戦災復興期を代表する建築物として国の登録文化財として登録されました。

平成27年3月

富山県教育委員会
富山市教育委員会

(説明板より)


鉄筋コンクリートの郷土博物館が、国の登録文化財???(大汗)
「戦災復興の代表的建築物」という考え方もあるのか・・・
そういうことでも指定が受けられるとは驚いた。

早速、郷土資料館を見学する。

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富山城唯一の現存建築物
千歳御門の瓦葺き技法
千歳御門の屋根瓦は、3枚重ねの本瓦葺(ほんかわらぶ)きとなっています。
これは、上の1枚が割れても下の1枚が水を受けることで、雨漏りを防ぐ構造となっています。
現在の家屋では2枚重ねで屋根材が水を受ける構造となっており、本瓦葺きは文化財建築以外ではほとんどみられなくなっています。
瓦は屋根板に取り付けられた桟(さん)に銅線で留めてあります。
さらに丸瓦(まるがわら)は葺き土の上にのせられています。
昔の瓦は仕上がり等にバラツキがあり、並びを整えるため土を用いたのです。
また、この土には、雨の吹き込みを防ぐという、もう1つの目的もありました。

(説明パネルより)


302_convert_20151217130443.jpg(館内)

いつもの如く、最上階まで行き、町を見回す・・・が・・・・金網が・・・(汗)
これ、邪魔なんだよなぁ~(苦笑)

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時刻は午後3時・・・・郷土博物館(模擬天守閣)を見学後、周囲を散策することにする。

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おお?・・・洒落た公衆トイレか・・・と思ったら・・・
どうも地下にある駐車場の出入り口らしい。
いやぁ~こういうデザインっていいよなぁ~(笑)

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ふと、道路の向こう側を見たら・・・・
昨晩、拙者が宿泊したホテルが・・・・(汗)
どうせここを歩くことになるのなら、カバンをフロントに預かってもらえばよかった・・・(汗)
重いショルダーバックを肩にテクテク歩くこともなかっただろう・・・
いつも要領が悪いんだよなぁ~(涙)

お城跡の側を流れる松川沿いの緑地帯に行ってみる。

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櫓を模した建物・・・
たぶん「佐藤記念美術館」の建物ではなかろうか?
でも、時間がないので、ここは見学しない・・・(苦笑)

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千歳(ちとせ)桜の碑石
江戸時代 富山10代藩主前田利保(としやす)が藩主の座を第六子利友(としとも)にゆずったあと嘉永2年(1849年)5月28日新しく東出丸(現在の桜木町一帯)に千歳御殿を築城した。
利保は千歳御殿に移り、桜を多く植えて風致を添えたので千歳桜といった。
後年、桜が老化したので昭和9年風雅会が35周年を記念してこの碑を建て新しく松川の堤に桜の植樹をおこなったので、県下でも有数の桜の名所になっている。

松川のまつのちとせをその名にて
  つつみのさくらとはにかをらむ
     田村直喜

昭和60年 富山市

(説明板より)


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さすがに喉が渇いたので、松川沿いにある「松川茶屋」でコーヒーを頂く・・・
ここは松川に架かる7つの橋を巡る観光遊覧船の乗り場・・・
乗ってみたい気もするが・・・・帰りの電車に乗り遅れたら大変なことになるのでやめておく。(笑)

時刻は午後3時半・・・・
ちょうど良い時間である。
テクテクと散策しながら富山駅に向かう。

339_convert_20151217160102.jpg(JR富山駅)

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富山駅前は、駅前の整備事業の工事中だった。
これが完成すると、また雰囲気が変わるんだろうなぁ~
で・・・
いつか、再び、この地を訪れた時、拙者は「記憶にない!」を連発するようになるのだろう。(大笑)
一応、念のため、ここに写真を載せておこう!(笑)

午後4時13分発、新幹線「かがやき530号」で上野駅へ・・・
帰りは新幹線で一気に帰ることが出来る。
なんと便利なことだろうか。
約2時間後に上野駅に到着・・・
午後7時の特急「ひたち25号」で午後9時前に自宅に到着!

旅行 | 14:48:25 | Comments(0)
富山県護国神社に行く
ホテルをチェックアウト・・・
ホテルの目の前に富山城があるので、見学したい気分だが・・・
天気予報によれば、どうも天気が崩れるらしい。
ならば・・・先に護国神社をお参りしたほうが良いだろう。
ということで・・・タクシーで護国神社に向かう。

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鳥居の近くの境内に、いくつもの碑が建っていた!(喜)
一つ一つ丁寧に見て歩く・・・

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「嗚呼 トラック島」の碑は、金沢の第52師団司令部と富山の歩兵第69連隊が中心とする「トラック諸島戦友会」が建立したもの。
そうかぁ~富山の連隊はトラック島に派遣されていたのか・・・
トラック島には過去に二度ほど行く機会があったが、タイミングが合わず断念したので、まだ行ったことがない・・・
トラック島はグアム島より更に南へ1000キロぐらい行った所にある。

157_convert_20151214171230.jpg(馬魂碑)

「馬魂碑」は、昔、歩兵第69連隊が建立したものだが、戦後、行方不明になっていたらしい。
で・・・昭和51年に富山大学の構内で見つかったそうで、ここに移設したそうだ。

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境内の片隅・・・目立たないところに「石柱」が・・・
うっかり見落とすところだったが、「戦八慰霊祭記念碑」と刻まれていた。
「戦八」は・・・戦車第8連隊か?
碑の裏を覗いてみたら「戦車第8連隊戦友会北陸富山大会」の文字が・・・
おお!やっぱり戦車第8連隊か!(喜)
なぜか、嬉しくなっちゃうんだよなぁ~
我が戦友会・・・戦車第2師団には、戦車6、戦車7、戦車10、戦車11の4つの戦車連隊があった。
そのうち戦車第11連隊は、北千島の占守島(シュムシュ島)に転属となり、残り3個連隊はフィリピンへ派遣され壊滅した。
戦車第8連隊は・・・中国大陸からラバウルへ移動し、ニューアイルランド島で戦うことなく終戦を迎えたようである。
この碑が建てられたのは昭和54年8月25日・・・拙者が高校を卒業して浪人していた頃である。(苦笑)
今は、この戦友会はどうなっているのだろう・・・
もう解散しちゃっているのかなぁ~
「慰霊碑」や「記念碑」を建てる割には、さっさと解散してしまう戦友会が多い・・・
残された碑は誰が責任を持つのだろう?
細々と戦友会を維持している事務局長としては、ちょっと気になるところである。

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何の碑とは刻まれていない碑・・・・
銘板には「不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも甚だしい 印度国判事 ラダビノード・パール」と刻まれている。
あの「極東軍事裁判(東京裁判)」を指しての言葉である。
ごもっともの御言葉である。
この「東京裁判」は、戦後70年経っても、まだ日本人を縛っている・・・・
この碑を建立したのは富山県憲友会・・・・平成9年1月の建立である。
「憲友会」とは、陸軍の憲兵の戦友会である。

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「嗚ニューギニア」の碑・・・
富山県ニューギニア戦友会および遺族が昭和55年10月に建立したもの。
ニューギニアでは富山県出身者もお亡くなりになっているようである。
「戦友会」を組織するくらいだから、かなりの人数なのだろう。
ニューギニアでも、東部のほうには行ったことがあるので、現地の景色を思い出した。
なんとも感慨深い・・・

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富山県護国神社の社殿は、他の護国神社の社殿とは、ちょっと形が違う。
面白いといえば面白い・・・
これは何という造りなんだろう?

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境内には「遺芳館」と名付けられた遺品館があった。
社務所に見学を申し出て、鍵を開けていただいた・・・
お手数をおかけして恐縮・・・

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展示ケースの中に、懐かしい名前が・・・・
「武田友治(たけだ・ともはる)」である・・・・

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彼は、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に参加した海軍の航空兵である。
空母「加賀」の九七式艦上攻撃機(雷撃機)に乗り、真珠湾に碇泊する戦艦に魚雷を放った・・・
九七式艦上攻撃機は3人乗りで、彼は最後部の通信兼後部機銃手だったと記憶している。
この時の攻撃では、九七式艦上攻撃機が5機、未帰還となっている。
その中の1機が、武田友治の乗った攻撃機だった。
彼は、この時、17歳である。
現在で言えば、高校2年生である。(汗)
多分、真珠湾攻撃に参加して戦死した最年少の航空兵だろう。
開戦早々に戦死するとは本当にかわいそうだ・・・
以前、彼の最期の地を調べるためハワイに行ったことがある。
拙者にとっては、生まれて初めてのハワイだった。
現地で米国人の戦史研究者からの聞き取りもおこなったが・・・
やっぱり4機の墜落現場は米軍側が調査して記録しているが、武田が乗った飛行機だけが墜落現場がわからないという。
ある証言によれば、オアフ島沖を煙を吐きながら飛んで墜落したというので、ヘリコプターをチャーターして似たコースを飛んでみた。
が・・・どうしても考えられない距離を飛んでいる。
被弾して煙を吐きながら、こんなに遠くまで飛べるとは思えない・・・
いったいどこに墜落してしまったのやら・・・
魚雷を放った後、そのまま敵艦に体当たりしてしまったのか・・・
被弾して敵艦の上を通過して山のほうへ飛んで墜落したのか・・・
だとしたら、あのハワイの切り立った山の全てを踏査しなければならない。
結局、わからず仕舞い・・・
とりあえず、空から慰霊を行なった・・・
彼とは、不思議な縁がある・・・
彼の誕生日と拙者の誕生日が同じなのである!(驚)
当然、生まれた年は違うが・・・(大笑)
彼は大正生まれ・・・拙者は昭和生まれである。
不思議なこともあるもんだ・・・誕生日が一緒とは・・・
まさか、拙者も死ぬのは12月8日じゃあるまいな?(大汗)
あ~懐かしい名前を見つけて・・・大感激である。

見学中に、雨が降ったようだが・・・・
その後も降ったり止んだり・・・
傘をささねばならぬほどのひどい雨ではなかったので助かった。

遺品館の見学を済ませ・・・今度は富山城に向かう・・・・

旅行 | 10:42:13 | Comments(0)
高岡城へ行く
043_convert_20151211090503.jpg(高岡駅)

午後3時・・・
高岡駅から徒歩で高岡城へ向かう。
駅からはそれほど遠くない・・・
10分も歩けばお城に到着する。

044_convert_20151211091116.jpg(大手口)

「大手口」の所に銅像が・・・
おお!高山右近の銅像だ!(喜)

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が・・・
どうして「高山右近像」って、みんな同じポーズなんだろう?(苦笑)
フィリピンのマニラにある高山右近像も同じポーズである。
正直言って、面白くない。
違うポーズの銅像に会いたいんだけどねぇ~(苦笑)

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富山県史蹟高岡畳城趾
慶長3年(1598)利家の後をついて加越能三国の大守となった前田家二代の藩主利長は慶長10年封を利常に譲り富山城に隠退したが慶長14年3月同城は火災にかかり新たに高岡に築城して町づくりを行なった
設計はキリシタン大名高山南坊(みなみのぼう)右近が行ない約半年後の同年9月13日入城した
総面積71,261坪(内水濠22,400坪)あり、城内は本丸、二の丸、鍛冶丸、三の丸、明丸などに分かれていた
慶長19年5月利長薨りしまもなく廃城となり明治維新後民間に拂下げされんとしたが時の高岡区長服部嘉十郎等の奔走により明治8年7月公園とし保存されることになった
昭和14年7月富山県史蹟に指定、往年の水濠はそのまま遺存
水のある城趾公園として全国にも稀である。

高岡市
古城公園を愛する会

(説明板より)


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まず最初に向かったのは、公園内にある「高岡護国神社」!(笑)
まずは御英霊にご挨拶をせねば・・・
地元出身の戦没者を祀る護国神社・・・
思ったより小さな神社である。
境内には、部隊関係の慰霊碑等はない・・・(涙)

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高岡城跡 石垣
高岡城は元和元年(1615年)廃城となったが、当時の城壁の名残りとして、二の丸と本丸を結ぶこの地に土橋の石垣が見られる。
この石垣の石にはいろいろな文字や文様が刻印されており、キリシタンに関係があるという説もあるが、石工が石を切り出した時につけた目印だと考えられる。
石垣の積み方は乱積みという素朴ながら堅固な方法を用いている。

高岡市

(説明板より)


081_convert_20151212145910.jpg(本丸跡)

本丸跡に銅像を発見!(大喜)
前田利長の騎馬像である。

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112_convert_20151212150623.jpg(本丸の井戸)

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緑の中を歩くのは気持ちのいいものではあるが・・・
どう見ても「自然公園」・・・
とても「城跡」を歩いているという気分になれない。(汗)
正直言って、面白くない・・・(苦笑)

濠の脇を歩いていたら、ちょうど携帯が鳴った・・・
フィリピン在住の日本人、“ナカムラさん”からである。
「どうも茨城県が大変なことになっているそうですね。大丈夫ですか?」とおっしゃる・・・
さて・・・何事なんだろう?
話によれば、台風の影響で大雨が降り洪水が起こっているとか・・・(唖然)
「さぁ~・・・私は今、富山県に来ておるのもですから・・・どうなっているのか・・・知らないんですけど・・・」(汗)
「え?・・・ということは、お父さん一人でいるってこと?大丈夫?お父さん・・・」
「え?・・・さぁ~どうなんでしょう・・・」(大汗)

この後も、次々に知人から電話が入った・・・
で・・・必ず言われるのが・・・「お父さんを一人にしていて大丈夫なのか?」である。(苦笑)
マイッタァ~・・・タイミングが悪過ぎ・・・である。(大涙)
息子は老いた親父を一人にして旅を楽しんでいるとバレてしまった!(大笑)

時刻は午後4時半・・・
松本の“ミヤザワさん”宅訪問を急遽変更して高岡城を見学したが・・・
う~ん・・・こんなものか・・・
ちょっとガッカリ・・・
ここから再び高岡駅に戻り、電車で富山駅に向かう。
午後6時、駅前のホテルにチェックイン・・・

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(夕食はヤキソバ!!)

旅行 | 14:02:55 | Comments(0)
小松導平翁頌徳碑
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舊笛吹川廢河敷拓殖者
小松導平翁頌徳碑
向獄寺派管長敬學書

頌徳碑建立由来
明治四十年八月山梨県河川氾濫者四日就中石和邑一帯最甚家屋人畜亡失無算沃野万頃化為砂磧乃拡張旧剃鵜川遷笛吹川以治水而廃河身一百二十余町委棄二十余年小松導平翁慨然奮起挺身当其衝説県衙得其允許準拠耕地整理法■貲施工試科学的大農組織建農戸数十以誘致住民創設理想的農場栽植甲陽八珍果謀其繁盛我石和邑今日富厚実翁一代恵賚也郷民感其徳胥謀卜開拓地之中心建設頌徳碑欲伝功徳于後昆銘曰
 天殃地変 洚水滔天 新疏流域 河身東遷笛吹廃迹 砂礫充填
 此翁興起 能拓石田 建屋移民 栽果開阡 恵徳千古 豊碑屹然
 昭和二十三年歳次戊子十一月
          蘇峰徳富正敬撰
    医学博士物外佐藤恒二書

明治四十年八月山梨県河川氾濫は四日にわたる。
就中(なかんずく)石和邑(むら)一帯最も甚だし。
家屋人畜の亡失算(かぞ)ふる無く、沃野万頃化(よくやばんけいか)して砂磧(されき)と為り乃(すなわち)拡張して旧剃鵜川は笛吹川に遷(うつ)り、以(も)って水を治めて河身(かしん)を廃す。
一百二十余町二十余年を委棄(いき)す。
小松導平(どうへい)翁慨然(がいぜん)として奮起し、挺身其の衝(しょう)に当たり、県衙(けんが)を説き、其の允許(いんきょ)を得て耕地整理法に準拠して■貲施工(ぶんしせこう)し、科学的大農場組織を試(し)し、農戸(のうこ)数十を建て、以って住民を誘致し、理想的農場を創設す。
甲陽八珍果(こうようはっちんか)を栽植し、その繁盛を謀る。
我が石和邑(むら)が今日富厚(ふこう)なるは、実(まこと)に翁の恵賚(けいらい)なり。
郷民(きょうみん)其の徳に感じ、胥謀卜(みなぼうぼく)し、開拓地の中心に頌碑を建設し、功徳を後昆(こうこん)に伝へんと欲す。
銘(めい)に曰(いわ)く
 天殃地変(てんおうちへん) 洚水滔天(こうすいとうてん) 新疏流域(しんそりゅういき)
 河身(かしん)は笛吹に東遷(とうせん)して廃迹(はいしゃく)し、砂礫(されき)は充填す。
 此の翁興起(こうき)し、能(よ)く石田(せきでん)を拓(ひら)き、屋(や)を建て民を移し、果を栽(う)え、阡(あぜみち)を開く。
 恵徳(けいとく)は千古まで、豊碑屹然(ほうひきつぜん)たり。
 昭和二十三年歳次(さいじ)戊子(つちのえね)十一月
          蘇峰(そほう)徳富正敬撰
     医学博士物外(ぶつがい)佐藤恒二書

1999年9月

(説明板より)


【山梨県笛吹市石和町八田】

史跡 | 12:31:14 | Comments(0)
八田御朱印屋敷
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八田家御朱印屋敷と書院
山梨県指定有形文化財建造物
   八田家書院(附土蔵棟札、永々日記、家政暦年誌、地相絵図面、八田村古絵図)
   昭和36年指定
山梨県指定史跡
   八田家御朱印屋敷
   昭和44年指定

八田氏は八田権頭宗綱(常陸国、宇都宮氏流)の末裔とされるが詳細は不明である。
戦国期に武田氏に仕え、信玄の頃は蔵前衆の要職にあった。
家重のときに一宮町末木の地を武田氏から拝領し姓を末木に改めたが、武田滅亡のあとも徳川家康の庇護を受け、末木政清は八田に復姓した。
天正11年(1583)4月兄政清が、同9月には弟の新左衛門尉が棟別の免許を受けている。
新左衛門尉には男子がなく、政清の二男政俊(菅太郎)が両家を相続し、苗字帯刀を許されるとともに、3千4百坪の屋敷地が御朱印地として安堵された。
現在の八田家屋敷地は御朱印地の西の一画で、旧笛吹川に面する北辺には高い部分で約2mある水防堤を兼ねた土塁が残る。
八田家の由緒書によれば、天正10年(1582)3月、織田軍の兵火により建物はことごとく焼失してしまったという。
しかし徳川幕府より万力(山梨市)や富士裾野の木材の使用許可を得て建物は再建された。
現在残っている書院はこのときに建築されたようである。
伝承によれば屋敷地には主屋のほか、西座敷、西蔵、中味噌蔵、文庫蔵、御方屋、酒部屋などがあったという。
主屋については安政水害後に取り壊された際の記述で「間口十一間、奥行四間、カンバ葺」となっており、石置屋根で内部は柱と壁が密に配されていたらしい。
茅葺入母屋造の本書院の間取りは西から九畳の奥間、十五畳の中間、八畳の三の間が並び、これに一間の入側、式台玄関などが配される。
柱には栂材を用い、各間の内装は長押打ち、竿縁天井張りの書院造の造作を維持する。
ただし奥間の柱のみ径四寸の杉の面皮柱を用い、付書院、肘掛窓とあわせて数奇屋風を醸し出している。
書院の建築年代は特定されていないが、東隣の願念寺より2年古いという伝承がある。
様式、木割、残る建具の一部など古い要素をとどめる一方、天井の竿縁が太いこと、数奇屋風の奥間などは17世紀後半の特徴を具えている。
古文書は多く、永禄12年(1569)の末木家重譲状を筆頭に、絵図まで含まれている。
慶長11年(1606)の家財・人別・牛馬の目録のほか、安永~寛政年間の「永々日記」、寛政~明治年間の「家政暦年誌」、土蔵棟札(文久元年)などがある。

笛吹市教育委員会

(説明板より)

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八田家書院と表門
八田家は昔武田氏の蔵前奉行として、年貢の収納、軍糧の輸送を司っていたため、天正10年(1582)3月織田軍の兵火に罹り居宅其他を悉く焼失した。
同年7月徳川家康入国の際、徳川家に隷属し、家康から万力御林の材木を賜って主屋《この建物は安政6年(1859)7月笛吹川洪水のため大破したので取り壊す》を造立し、又慶長6年(1601)都留郡富士根の材木を賜って書院を構築した。
この書院は茅葺入母屋造、桃山時代末期の武家書院様式で現在まで補修が完備して、よく当時の格調を保存しているとの理由で昭和36年12月7日山梨県指定文化財となった。
同家表門は寛文元年(1661)石和代官所創設の際代官平岡勘三郎良辰が石和陣屋表門として建立したものを、明治7年(1874)11月払い下げを受けて当家の表門としてここに移築したものである。

笛吹市

(説明板より)


【山梨県笛吹市石和町八田334】

史跡 | 11:45:53 | Comments(0)
富山県高岡市に向かう
部屋の前のお庭も素敵だったが、旅館の中庭も素敵なお庭である。
朝から、庭を見ていい気分・・・(喜)

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旅館をチェックアウトして、徒歩で駅へ向かう。
旅館の女将さんから駅まで車で送りますと言われたが、いや、いや、ここはブラブラと散策しながら駅に向かったほうが面白い。
「え?歩いていくんですか?」と怪訝な顔で見送られてしまった・・・(苦笑)

駅に向かう途中、「八田御朱印屋敷」という看板を見つけた・・・
何だろ?・・・御朱印屋敷って・・・
立ち寄ってみることにした。

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う~ん・・・何もない・・・・(汗)
ここは「屋敷跡」なのか?・・・林だけである。

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すぐ近くに門が・・・
陣屋の門を明治になって移築したらしい。
う~ん・・・ちょっと趣が・・・・ない・・・(大汗)

門をくぐると、書院が・・・

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この書院は、有形文化財に指定されているらしい。
ちょうど、管理者が朝一番のお掃除をされていたが、内部の見学は可能なようである。
が・・・ここでジックリと見学などをしたら電車に間に合わなくなりそうである。
というわけで、ここは我慢、我慢・・・・
見学を諦めて駅に向かう。

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途中で、大きな石碑を見つける・・・
『舊笛吹川癈河敷拓殖者 小松導平翁頌徳碑』と刻まれていた。
ほぉ~・・・よくわからんけど・・・ほぉ~立派な人だったんだろうね?(笑)
石碑の台座に登り、碑文を読んでいたら・・・ちょうど観光バスが通りかかった・・・
で・・・全員がこっちを見ている!(大汗)
「何をやっているんだ?あいつ・・・」と思っているんだろう。(笑)
へぇ?・・・そんなに目立ちますか?・・・私・・・・(大汗)

さらに歩くと、橋の所に石像が・・・・
「笛吹権三郎」という人の石像らしいが、歴史上の人物かと思ったら「伝説」のようである。
「桃太郎」のようなものか?(大笑)

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笛吹権三郎の伝説
およそ600年ほどむかし 上釜口の芹沢(現三富村)に母親と二人暮らしの権三郎という孝行息子がいました
笛がたいそう好で また上手でした
ある晩 豪雨のため氾濫した子西(ねとり)川の濁流に母子はのみ込まれてしまいました
けれども若い権三郎は 権三郎の名を呼びながら流されていった母親のことが片時も忘れられず毎日毎晩母親を探しました
母親の好きだった曲を吹きながら ずっと川下の方まで川辺を探しまわったのです
疲れきった権三郎は ある日 川の深みで足をすべらすと そのまま帰らぬ身となったのです
夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになったのは 権三郎が死んでからのことでした
村人たちは いつかこの流れを笛吹川と呼ぶようになりました

現在の笛吹川は この地より東南方向800メートルのところを流れていますが 明治40年の大水害の前には この地を流れていました

平成3年3月

(説明石板より)


う~ん・・・朝から、なんとも悲しい話を読んでしまった・・・(涙)

拙者が乗る電車の時刻までには、まだ時間があったので、駅前の土産物屋さんに立ち寄る。
お店の人が、あれこれと商品の説明をしてくれたが・・・
「はい、わかってます」
「え?」
「以前来た時に、ここでお土産を買って宅急便で全国各地に送ってもらったんですよ」(笑)
「あらぁ~そうなの!」
「で・・・これから富山に行くんで、お土産を買うと荷物になるから・・・すみません!」(大笑)
「いいえ、いいんですよ。今から富山に行くんですかぁ~」(笑)
・・・と、お店のオバチャンとオシャベリして時間を潰す。(大笑)

10時10分発の「あずさ7号」で塩尻に向かう。
塩尻駅で乗り換えだが、40分以上時間がある。(汗)
昼食を食べるには40分では中途半端な時間である。
仕方がないので、一度、駅を出て、駅前をサラッと見て駅弁を買いホームに戻る。(笑)

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向うのホームに、何やら緑が・・・
よ~く見てみたら・・・ブドウ棚である!(驚)
へぇ~・・・ホームに、ブドウの棚がねぇ~
乗降客に食べられちゃうんじゃないの?(大笑)・・・・大丈夫かね?

11時53分発「ワイドビューしなの7号」で長野に向かう。
電車の中で駅弁をいただく・・・(喜)

038_convert_20151207112417.jpg (釜飯!)

塩尻を出てから1時間ほどで長野駅に到着・・・
で・・・ここでまた乗り換え・・・(笑)
20分ほど待ち合わせて、13時15分発の「はくたか561号」で新高岡駅に向かう。

新高岡駅で、再び乗り換え!(涙)
とにかく乗換えが多い・・・(苦笑)
新高岡駅から、今度は高岡駅に向かうが、駅舎は別のようで・・・
新高岡駅の駅舎から一度外に出て、高岡駅に向かう駅舎に行く。
これ・・・・連絡通路か何かで繋げないのかねぇ~(苦笑)

041_convert_20151207120127.jpg(新高岡駅)

旅行 | 09:44:31 | Comments(0)
ちょいと旅行に・・・
ちょうど時間が取れそうなので、長野県松本市に在住の“ミヤザワさん”の奥様に会いに行こうかと思った。
“ミヤザワさん”は我が戦友会の会員だったが、4年前にお亡くなりになった。
戦車第6連隊の指揮班長・・・
太平洋戦争緒戦のマレー・シンガポール作戦の「勝ち戦」も大戦末期のフィリピン防衛戦の「負け戦」も、どちらも経験された方である。
初年兵の時には、あの2・26事件の決起部隊の一員だった経歴も持つ。

以前、マレー・シンガポール攻略戦の足跡を辿る旅をしたとき、“ミヤザワさん”が戦車で通ったであろう道を、バスで通った・・・
そういえば、その報告をしていなかった・・・(汗)
ご存命の時に、現地の写真をお見せしながら、オシャベリがしたかったが・・・
残念ながら拙者がマレーシアを縦断したのは、“ミヤザワさん”がお亡くなりになった後だった・・・

奥様はお一人でお住まいである。
久し振りにお顔を拝見して・・・ご主人の仏前にマレー半島縦断のご報告に行こうかな・・・
と思い、今回、旅に出る事にした・・・

1カ月ほど前に、事前に訪問する旨を連絡をしておいたが、念のため、出発直前に再度ご連絡したら・・・
なんと!
明日から千葉県の親戚のところに行く事になったと言う。(唖然)
あらら・・・もっと早く連絡をくれたら良かったのに・・・
もう、旅行の手配は済んでいるし・・・
列車の切符も、宿泊先も・・・全て手配済み・・・
さらには、留守中、親父の面倒を見てくれるようヘルパーさんの手配も済んでいる・・・
今さら中止するわけにも行かぬ・・・(涙)

松本行きは取り止めるが、旅行は実行することにした。(笑)

今日は、山梨の石和温泉に宿泊する。
以前、団体旅行でここに来た時に、気に入ってしまったのである。(笑)
というわけで・・・松本に向かう途中で温泉に一泊する予定を組んだ・・・

またまた台風がやって来て日本に上陸・・・
いやぁ~こりゃ、踏んだり蹴ったりだな・・・豪雨の直撃を受けるか?(大汗)
・・・と思っていたのだが、雨にはまったく遭遇せずに石和温泉駅に降りる。

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あれ?・・・駅舎って、こんな感じだったっけ?(苦笑)
いつの間にか建て直されているような気がする・・・(苦笑)

ホテルまでテクテク歩いて移動・・・
どうも雨は午前中に降ったらしい・・・・
空は台風一過の晴天!(大笑)
なんと運のいいことか・・・
この間の九州もそうだったが、うまく台風の直撃を避けている。(大笑)
ご先祖様と英霊のおかげだな・・・感謝、感謝・・・

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なんと想像以上に立派なお部屋で・・・・
ここに一人で泊まるのは、もったいないような・・・(大笑)
こういう部屋には“彼女”と泊まりたいものだが、そういう時に限って“彼女”というのがいない・・・(大笑)
世の中はうまく出来ている・・・(大笑)

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お料理も、ちょうどいい量で・・・
ただ、一人で食べるのは、つまらないが・・・(笑)

仲居さんに尋ねたら、昨日は100人以上が宿泊していたそうで、明日も100人以上の予約が入っているとか・・・
で・・・不思議なことに、今日は、それほどお客さんはいないと言う。
おお!ラッキー!(喜)
どうりで静かなわけだ・・・
ちょうど団体客の宴会時間だったのだろう。
大浴場に行ったら誰もいない・・・(笑)
貸しきり状態である!
露天風呂も貸切である!(大喜)
う~ん・・・拙者の普段の行いが良いからなんだろうねぇ~(大笑)

夜、“ウメちゃん”から電話が・・・
台風の影響で散々な目に遭っているのではないかと、心配(?)して電話をかけてきてくれた。
「え?台風?・・・そんなものないよ・・・こっちは晴れ!雨は一滴も降らなかったけど」
「うそぉ~・・・何だよそれ!」
「日頃の行いがいいからさぁ~・・・俺・・・」
「どこが?・・・普段から遊んでばかりいて・・・こっちは仕事が大変でさぁ~」
「まぁ、頑張ってね。こっちは、ゆったりと温泉に浸かって・・・いやぁ~天国!」(大笑)
「世の中、間違ってるよな!」(怒)
「いや・・・そんなことないよ。人徳!これは俺の人徳!」
「・・・・・」(汗)

旅行 | 21:38:10 | Comments(0)
『訪ねて見よう!日本の戦争遺産』


はじめに

序章 日本各地に残っている戦争の痕跡
   世界文化遺産となった広島の原爆ドーム
   二つの時代に分けられる戦争遺跡
   15年戦争期に軍事施設が急増
   数多く残っているのは本土決戦用のもの

第1章 沖縄・九州地方に残る戦争遺産
 沖縄県
   沖縄戦の壮絶さを象徴する避難壕として使われたガマ(自然洞窟)
 鹿児島県
   特攻隊にゆかりの土地で隊員への想いを馳せる
 宮崎県
   平和台公園の「八紘一宇の塔」は戦争遂行のための精神的支柱だった
 熊本県
   火薬というキーワードで戦争を痛感する遺跡が多く残る
 大分県
   「ミュージアムパーク丹賀」は戦争遺跡を展示物として公開
 長崎県
   原子爆弾の爆風に耐えた一本足の鳥居が悲惨さを訴える
 佐賀県
   特攻隊員の実話が映画化された目達原基地の正門は貴重な存在
 福岡県
   西日本の防衛拠点として多種多様の戦争遺跡が残る
 コラム①
   特攻隊員が見た風景、本土最後の開聞岳

第2章 中国・四国地方に残る戦争遺産
 山口県
   周南市・大津島の人間魚雷「回天」の基地跡は涙を誘う
 島根県
   安全な日本海側に急造された大社基地の滑走路が現存
 広島県
   原爆ドームなど数多い遺跡が残る中、大久野島の毒ガス工場は特異な存在
 岡山県
   師団庁舎や偕行社などの建物が岡山大学周辺に移築されて残る
 鳥取県
   飛行場周辺に残る掩体壕や通信関連施設壕が興味深い
 愛媛県
   公園整備された今治の小島砲台。松山に残る掩体壕は住宅街に現存
 高知県
   高知空港周辺には7基の掩体壕、海岸線には水上特攻の格納壕が残る
 徳島県
   戦争での生き様を考えさせられるドイツ人収容の板東俘虜収容所の兵舎跡
 香川県
   四国最大の軍都・善通寺市の建物群や三豊市の珍しい航空灯台はオススメ!
 コラム②
   女学生の作った慰問人形と妹想いの特攻隊員。

第3章 近畿地方に残る戦争遺産
 兵庫県
   淡路島に残る生石山砲台跡。傷みが激しく、寂寥感が漂う
 大阪府
   陸軍の戦略が透けて見える八尾市の掩体壕は興味深い
 和歌山県
   戦争遺跡が数多く残る友ヶ島は一日散策に持ってこいの場所
 奈良県
   本土決戦に備えて造られた軍事施設はリアル感いっぱい
 京都府
   舞鶴軍港関連のほか、宇治市の赤レンガ造りの給水塔も必見
 滋賀県
   陸軍八日市飛行場跡周辺に本土決戦用の掩体壕が2基残る
 三重県
   小説「潮騒」で有名な神島に残る監的哨は印象深い
 コラム③
   地下壕から見えてくる終戦間際の徹底抗戦の構え。

第4章 中部地方に残る戦争遺産
 愛知県
   圧倒的な迫力で住宅地に鎮座する豊橋のコンクリートのトーチカ
 静岡県
   少年戦車兵学校跡に展示された生々しい戦車が激戦を物語る
 岐阜県
   関ヶ原の山間に建設された火薬庫の遺跡がひっそりと眠る
 長野県
   本土決戦の意義を考えさせられる松代大本営地下壕は必見
 山梨県
   韮崎の七里岩地下壕などに、東京から疎開した軍事施設が残る
 福井県
   敦賀連隊跡に残る門番用の立哨舎は愛嬌があり、心を和ませる存在
 石川県
   徒歩で見学できる金沢城周辺の陸軍関係の風雅な建物が目を引く
 富山県
   立野ヶ原演習場跡地に唯一残る監的壕は貴重な戦跡
 新潟県
   スキーを広めた長岡師団長の官舎は自由に見学可
 コラム④
   日本の領土だが自由に行けない激戦の地・硫黄島の現状。

第5章 東京都に残る戦争遺産
 東京都(都心部)
   日立航空機立川工場の変電所跡は東京の戦跡のシンボル的存在
 東京都(小笠原諸島)
   山中に残る陣地壕や大砲が圧倒的なインパクトで迫る!
 コラム⑤
   40年の歳月をかけて造られた帝都防衛の要・東京湾の海上要塞。

第6章 関東地方に残る戦争遺産
 神奈川県
   帝都を守るための重要な要塞が猿島や観音崎などに数多く存在
 千葉県
   東京近郊のため戦争遺跡も多く、訪ね歩くには事欠かない
 埼玉県
   意外と遺跡は少ないが、吉見百穴の中島飛行機地下工場は必見!
 茨城県
   航空隊が多くあった霞ヶ浦湖畔。跡地を巡り、歴史を実感したい
 栃木県
   地下で飛行機生産を行った大谷地下工場は見学可能
 群馬県
   火薬工場の建物や土塁跡が残る群馬の森は散策にも最適
 コラム⑥
   終戦間際の資材難で苦肉の策。普通の岩をくり貫いたトーチカ

第7章 東北・北海道地方に残る戦争遺産
 福島県
   軍馬養成のための支部事務所が西郷村の歴史民俗資料館として現存
 宮城県
   仙台城跡に立つ「昭忠碑」は天皇への忠誠を表した象徴的存在
 岩手県
   花巻市に残る聴音壕は珍しい円筒形レンガ造り
 山形県
   終戦間際に空襲を受けた山形飛行場周辺に残る防空壕跡
 秋田県
   念願だった陸軍能代飛行場の跡地に唯一残る無蓋掩体
 青森県
   津軽海峡を守る北の要所、東北のなかでも多くの戦跡が残る
 北海道
   海岸線に残るトーチカは米軍上陸阻止を目的とした作戦の象徴

最後に「戦跡を訪ねる旅を終えて」
   危険な場所はガイドや複数の人と一緒に

あとがき

主な戦争遺跡保存運動団体リスト
主な平和資料館・博物館リスト
参考文献



著者の安島太佳由(やすじま・たかよし)氏はプロのフリーカメラマン。
ということで・・・本書には192点の戦跡の写真が簡単な説明とともに掲載されている。
氏とは以前、氏の案内で韓国・済州島にある日本軍の戦跡を巡った事がある。
氏は、この戦跡の写真撮影をライフワークとして10年以上に亘って写真を撮り続けているそうで・・・
10年ほどの間に撮り溜めた日本国内の戦跡の写真がが、本書となる。
私も戦跡をよく撮影するが、私が知らない場所がいくつも掲載されていた。
正確な戦跡の位置が表記されていないのが、ちょっと残念だが、それでも、参考になる資料である。
ふと、済州島を巡っていたときにオシャベリしたことなどを思い出した・・・
安島さんは、その後体調を崩されたそうだが、今はどうしておられるのだろう?


今年の読書:49冊目



読書 | 00:38:26 | Comments(0)
『ある遺族の二・二六事件』


まえがき

第1章 平穏な日々

生い立ち
   父、海軍を退く
   熊本の生活
学生時代のあれこれ
   水泳のアルバイト
   野球部を創立
   商大を卒え松坂屋へ
   福岡へ移った父母の死
   母の想出
   弟、寿の死
第二の人生への出発
   あっさり松坂屋を辞める
   本領信治郎氏のこと
   松坂屋の三羽烏
   銀座の艶話
   競馬場通い
   結婚。夜の世界との別れ
   吉原とのつながり
   やくざとの交際

第2章 波乱人生の幕開け

護国仏心会の設立
   護国仏心会の誕生まで
   栗原安秀中尉との関係
   護国仏心会の誕生
2・26事件因縁の人々
   賢崇寺と藤田住職
   百日祭、卒哭忌の法要
   一周忌法要
   その後の法要
   一周忌後の、幸楽の会
   幸楽女将のことども
   龍土軒、岡野甚内さん
遺家族訪問―対策と資料蒐集
   安田少尉姉宅の訪問
   その他遺家族の訪問など
受刑者の調査と家族宅の慰問訪問
2・26事件の将校たち―自決者と刑死者の死後
   自決者の死後
   刑死者の死後
   栗原家の出来事
   お骨騒動の数々
   栗原家の57日忌
満州落ち
   満州落ちを決める
   蒐集資料の処置
   満州への旅出
   安東での生活
   岡部君来満
   安東での法要
   家族を満州に呼ぶ
   両児の死
   満州から蒙彊へ
   大谷尊由師の死
   蒙彊の想出
   水上未亡人との出会い
   満州雲母を退く
   姜君姿を消す
   南進への準備―さらば安東
   満州の想出―競馬とゴルフ
海南島での6年間
   渡南を前に
   海南島に赴任
   石碌鉄山の開発
   中村新八郎氏のこと
   三亜の生活
   開発の進展と街造り
   多数の犠牲者
   初期の現地
   沖縄への大名旅行
   長谷川総督の視察
   新入島社員のボス、チンピラ
   鉄道の開通
   僧侶の派遣を要請
   列車転覆事故で遭難と内地帰還
   療養名目の内地帰還―追放
   東京本社へ転勤
   戦時下の東京生活と抜道
   再び海南島復帰がきまる
   福岡への疎開と海南島復帰
   帰島して見る完成近い石碌開発
   戦局悪化と鉱石船来らず
   空襲の激化
   事業中止命令来る
   緊急事態への対策
   生産隊の発足
   三度目の遭難
   終戦を知る
   接収準備の諸問題
   円満な接収完了
   香港苦力問題の跡始末
   海南寺始末記
   六郷村集中営あれこれ
   故国の土を踏む
   東京本社での清算事務

第3章 新たなる苦難

賢崇寺の罹災
   原好さんのこと
坂井中尉生存説のニュース
『湯河原襲撃』の公表
戦後、栗原勇氏との連絡再開
   戦中―戦後の栗原さん
   栗原勇氏の死
仏心会の再興
   戦後初の法要を行う
   丹生家と岡田首相
   林家の場合
「二十二士之墓」建立の悲願
   建立の経過
   再興仏心会、合同埋葬へ始動
   香田大尉の分骨のこと
   「二十二士之墓」建立へ
   難航する建墓
   「二十二士之墓」開眼供養
立野信之氏の『叛乱』との握手
芝浦親分衆とのつきあい
   海南島と浅生山組
   親分衆からの好意
勾坂検察官の死
   賢崇寺の法要と勾坂氏
   藤田師と勾坂氏の霊前へ
   勾坂氏と事件との因縁
善通寺に平石看守を訪れる
陸軍省保管の遺書綴還る―日本国土開発役員落第記
   政界ジープ事件の落し子
   通謀犯人は誰か
   2・26事件の獄中遺書集、仏心会へ
   処刑後、軍が保管した遺書
   高価な代償―大阪転勤
   東京復帰と詰腹
   高木会長と懇談
   あっさり役員辞任
弟、正五の非業の死
   正五の想出
   正五、諫死の血書
   運命児、正五の終焉
   正五の葬儀

第4章 執念の結実

『二・二六事件』の刊行
   出版への苦難
   謹んで霊前に捧ぐ
   出版記念会
大赦報告墓前祭
「磯部浅一行動記」仏心会へ
刑場跡、初の慰霊祭
   防衛庁と米軍司令部への訪問
   『7月12日の記録』
   初の刑場跡慰霊祭
刑場跡地一角払下げに成功
   残っていた供養塔
   慰霊塔用地の獲得
2・26事件記念慰霊像の建立
   建立案を練る
   建設準備事務所の発足
   石碑案から立像案へ
   川元良一先生に相談
   アトリエ通い
   難産の資金問題
   募金計画
   募金活動の開始
   計画齟齬の原因
   地方同志の献身的な協力
   慰霊像の銘名と由緒書
   万端の準備を終える
宿願達成の日
   慰霊像除幕式
   慰霊像碑文
熱海、自決現場の慰霊祭―30年目の再会
   想出の地を訪れる
   慰霊祭を思い立つ
   現地慰霊祭の模様
   小室看護班長の手紙
   後記
35回忌法要と殉難警察官遺族の参列
三島由紀夫氏の合祀
元皇族賀陽恒憲氏を迎える
藤田俊訓師の死
   最後のお手紙
事件満45周年記念追悼法要
二十二士諸霊墓参行脚
   野中四郎大尉の墓
   河野寿大尉の墓
   磯部浅一、登美子の墓
   北輝次郎の墓
   西田税の墓
   安田優少尉の墓
   中橋基明中尉の墓
   中島莞爾少尉の墓
   香田清貞大尉の墓
   田中勝中尉の墓
   竹嶌継夫中尉の墓
   坂井直中尉の墓
   渋川善助の墓
   村中孝次の墓
   相沢三郎中佐の墓
   栗原安秀中尉の墓
   水上源一の墓
   安藤輝三大尉の墓
   林八郎少尉の墓
   対馬勝雄中尉の墓
   高橋太郎少尉の墓
   丹生誠忠中尉の墓
   二十二士の墓詣でを終って

あとがき



著者は、2・26事件で湯河原の牧野伯爵を襲撃した後に自決した河野寿大尉のお兄さん。
本書は、著者本人の人生記と、戦後の2・26事件犠牲者等の慰霊の話・・・
河野司氏の波瀾万丈の人生記は、こう言っては失礼かもしれないが面白い。
この波瀾万丈な人生になったのには身内が2・26事件に参加したということも大いに関係しているだろう。
軍人の家庭に育ちながら大学卒業後は、なぜかデパートの松坂屋に就職。
もうその段階で面白いと笑いたくなる。
その後、海南島など外地で生活・・・
やくざとの関わりも面白い話。
「あの2・26事件の河野大尉のお兄さんですか!」ということで一目置かれてしまうところも面白い。
必ずしも、事件の首謀者の兄だから不幸な人生を歩んだというわけでもないと思う。
人生、色々だが、読んでいるうち、こういう波瀾に満ちた人生に、ついつい憧れてしまう。(笑)

2・26事件処刑者と犠牲者の遺族会「仏心会」についても詳しく書かれている。
また慰霊像の建立の経緯等は、いい記録である。

実は、本書の著者、河野司氏とは一度だけお電話でお話をしたことがある。
20年ほど前だろうか・・・
2・26事件の慰霊像の存在を知り、お参りに行った時に名刺入れに名刺を入れたのである。
私の祖父は、2・26事件後、軍法会議が開かれた留守第1師団の副官を務めていた。
事件の首謀者の処刑にも関わり、遺体を遺族に引き渡す役も務めたという。
また、それに先立ち、2・26事件に参加しないかと誘われてもいたという。
当時、祖父は習志野の騎兵連隊の中隊長代理の中尉だった。
決起への参加を断った理由を尋ねたが教えてはくれなかった。
2・26事件の首謀者の一人である栗原安秀中尉が士官学校に在学していた同じ時期に祖父も士官学校に在学していた。
ただ、祖父は少尉候補者制度で士官学校に入校していたので、かれらより10才ほど年長である。
各連隊の中から優秀な下士官を1名だけ士官学校に進学させるという制度での入学。
すでに長い軍隊生活を送っているので、中学校からストレートに陸軍士官学校に入って来た「エリート」とは少々毛並みが違う。
少尉候補者は、そういうわけで一般学生より10才ほど年を食っていたのだ。
たぶんそういうことも関係していたと思う。
心情的にはわかるが・・・というところだったのだろう。
「あの時参加していたら、俺はこうして生きてはおらんよ」とだけ言っていた・・・
決起部隊に参加していたら、当然指揮官として参加したということだろう。
決起への参加を拒否した祖父が、どういう運命の悪戯か、処刑する側に回ることになったのである。
そういうことを名刺の裏に書いて名刺受に入れたところ、数日後、河野氏から会社にお電話をいただいたのである。

その時に、連絡先を教えいていただいたのだが、仕事中に電話を受けたせいか・・・
そのメモを失くしてしまったので、とうとう、その後、連絡を取ることが出来ず、そのままとなってしまったのである。
本書を、もっと早いうちに読んでいれば・・・と今頃になって後悔している。
あの時は、河野氏が、どういう方か知らなかったのである。
が・・・これも運命だと諦めるしかない。
本書の著者、河野司氏は、もうお亡くなりになっているだろうと思うが・・・
本書を読んでいて、もっと直接お話を伺いたかったと思った。
久し振りに河野氏との電話でのやり取りを思い出した・・・・

今は「仏心会」はどうなっているのだろう?
多くの方に本書を読んでいただいた上で、東京の渋谷税務署脇にある慰霊像にお参りに足を運んでいただきたい・・・
そう思う・・・・


今年の読書:48冊目



読書 | 01:24:26 | Comments(0)
五輪エンブレム撤回!
2020年に開催される予定の「東京オリンピック・パラリンピック」の大会エンブレム・・・
ベルギーにある劇場のロゴに似てると指摘を受けて大騒ぎ・・・
大会エンブレムの制作者は模倣でも盗作でもないと言い張っていたが、別の仕事で模倣や盗作、いわゆる「パクリ」が発覚してしまった。(大汗)
あれは確かにパクリだが、こちらは真面目に自分で考えてデザインしました・・・は通用しないでしょうねぇ~(大笑)
というわけで・・・・
ついに、大会エンブレムは白紙撤回となり、再度選考し直すことになったという。
なんとお粗末な結末か・・・

いっそのこと、指摘を受けたときに「このくらいのパクリは業界の常識です!」と開き直ったらどうだっただろう・・・(大笑)
丸や四角や三角を組み合わせてデザインすると、どうしたって同じようなものが出てくるんじゃないの?

朝日新聞の社旗を見たまえ!
どう見たって軍艦旗・旭日旗のパクリではあるまいか?(大笑)
なんで誰も指摘しないのかねぇ~

いずれにせよ、ある程度の類似は避けられないと思うんだけど・・・
完璧なオリジナルっていうのは難しいと思うんですけど・・・
じゃぁ、どこまでの類似は認めるのかとなると、その線引きは難しい。
しかし、同一人物の他の仕事もチェックして、他の仕事で模倣や盗作をしていないかは事前に調べられたのではなかろうか?
そういう“前科”がある人物には依頼しないという方法もあったのではなかろうか?

とにかく、今回のエンブレムのデザインだけではなく、新国立競技場の設計でも、散々お騒がせしたあげく、結局、再度見直しとなっている訳で・・・
こうなると、デザイナーの個人の問題、設計者(建築士)の個人の問題というより、この東京五輪関係者の問題のほうが大きいのではなかろうか?
組織委員会とか、事務局とか、審査委員会とか・・・
色々な組織名があがってくるが、最終的な責任者がよくわからない・・・
どいつもこいつも“名誉職”なのではなかろうか?
人間の質がだいぶ劣化しているような気がしますが・・・(苦笑)

東京オリンピックの誘致が決まったときの、あの馬鹿騒ぎ・・・
あの「はしゃいでいる」姿をTVで見たとき、実は気になっていたのである・・・
どこかで大きなドジを踏むんじゃなかろうか・・・と・・・
どうもああいう軽薄なお調子者の馬鹿騒ぎを見ると、私は昔から不安になってしまうのである。

しかし、どうでもいいことである。
「万国博覧会」だって、それほど騒ぐほどのイベントではなくなったし・・・
「オリンピック」もそのうち、そういう末路を辿ることになろう。
しかも2020年・・・ねぇ~
多分、関東大震災が起こって、オリンピックは中止することになると思うから・・・・(笑)
どうでもいいや・・・(大笑)

エッセイ | 22:41:31 | Comments(0)

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