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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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連合艦隊機動部隊 真珠湾攻撃発進の地
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聯合艦隊機動部隊 眞珠湾攻撃發進之地

碑文
日米関係が緊迫し、時の大勢に抗し難く、意を決した聯合艦隊司令長官山本五十六大将は、有事の作戦を想定して各地で激しい訓練を重ね、佐伯湾に集結した聯合艦隊の旗艦 「長門」から聯合艦隊機密作戦命令を発令した。
昭和16年11月5日命令第一号「対米英蘭戦争ニ於ケル聯合艦隊ノ作戦ハ別冊ニ依リ之ヲ実施ス」。
同11月7日命令第二号「第一開戦準備ヲナセ。Y日ヲ十二月八日ト予定ス」。
発令に並び、11月4日から6日にかけて、山本長官査閲のもとに、佐伯湾在泊中の聯合艦隊主力と佐伯航空隊を真珠湾の敵戦力と仮定し、飛行機隊による最終の攻撃訓練が行なわれた。
11月17日の午後には、湾内の機動部隊旗艦 空母「赤城」艦上において壮行会が開かれ、山本長官の切々たる訓辞を受け、翌18日、山本長官らに見送られて、南雲忠一中将の率いる機動部隊が、真珠湾攻撃の秘策を胸に、三三五五、択捉島単冠湾に向けて発進したのが、ここ佐伯湾である。
一縷の望みを託した日米最後の交渉も空しく、昭和16年12月8日未明、機動部隊は真珠湾を急襲し、遂に悲劇的な太平洋戦争に突入した。
戦後はや五十数年の月日は流れ、明治の末から昭和にかけて度々聯合艦隊が演習のため入港し、また太平洋戦争の起点となった佐伯湾は、過去の戦争も知らぬげに波静かである。
かつて国の存亡を賭けた戦いに、死を覚悟して出撃した雄々しくも哀しい海のつわもの達が、波枕に夢を結んだ風光明媚な佐伯の海よ永遠に平和なれと願い、戦没者の御霊安らかならんことを祈るものである。

平成9年11月18日建之
  歴進会

建碑の趣意
佐伯湾は、豊後水道の喉元に位置する天然の良港で、古くから海軍の重要な港であり、明治の末から昭和にかけて、度々連合艦隊が演習のため入港した。
世界の歴史を塗り替えた太平洋戦争の開戦に際しては、真珠湾攻撃の機動部隊発進の地として、佐伯湾がその起点となった。
歴進会は、戦後半世紀余の歳月の流れを思い、太平洋戦争に於ける佐伯湾の秘められた史実を後世に伝え、併せて恒久平和を願い、戦没者の冥福を祈るため、ここに記念碑の建立を計画、これを実施した。


碑銘を揮毫された山本義正氏は、太平洋戦争開戦当時の聯合艦隊司令長官山本五十六元帥の長男で、予備学生出身の元海軍士官である。

記念碑建立委員
  佐伯市下久部  檜垣 七郎
  佐伯市向島    赤松 勇二
  佐伯市常盤南町 宮田 光夫 
  佐伯市長島町  市野瀬 仁
  佐伯市常磐東町 増村 貞一郎
歴進会会長
  佐伯市中野西  河野 豊
設計施工
  株式会社 佐伯墓石販売
公園管理者
  佐伯市長 佐藤 佑一

(碑文より)


【大分県佐伯市・佐伯市平和祈念館やわらぎ】

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史跡 | 16:58:08 | Comments(0)
矢野龍渓顕彰碑
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矢野龍渓顕彰碑

龍渓矢野文雄について
(1850~1931)
嘉永3年山手区に生まれる。
佐伯藩校四教堂に学び常に成績抜群であった。
上京して慶応義塾に入学、福沢諭吉の薫陶を受け、大隈重信の知遇を得て国会開設に力を注いだ。
郵便報知新聞を主宰し藤田茂吉(佐伯出身)、箕浦勝人、犬養毅、尾崎行雄など三田派の気鋭を集め政府系新聞東京日日に対し自由民権の論陣を張った病中口述した政治小説「経国美談」は当時の政治的自由を求める全国の青年に愛読され多大の影響を与えた他に浮城物語、新社会等の著書がある。
後年大阪毎日新聞副社長となり社の発展に尽力した。
鶴谷中学館への国木田独歩招へいは龍渓の依頼を受けた徳富蘇峰の人選によるものである。
碑文の詩は佐伯中学開校に帰郷の際、佐伯湾を望み尺間彦岳を仰いで佐伯の風土を歌ったものである。

結成15周年記念事業
佐伯ライオンズクラブ

昭和50年10月26日

(説明板より)


【大分県佐伯市・佐伯城三の丸跡】


史跡 | 15:25:28 | Comments(0)
独歩文学碑
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独歩文学碑

佐伯と国木田独歩
文豪国木田独歩は、矢野竜渓、徳富蘇峰の推挙で毛利高範旧藩主が創建した鶴谷学館の教師として赴任した。
佐伯在任はわずか1年足らずであったが、彼ほど佐伯の山野を深く愛し、遍く歩き、広く天下に紹介した作家は他にない。
源おぢ、春の鳥、鹿狩、小春、忘れ得ぬ人々、豊後の国佐伯、欺かざる記などの名作は湖畔詩人ワーズワースの詩境と佐伯の自然とを結んだからこそ生まれた独歩独特の文学作品である。
傑作春の鳥ゆかりの城山に此の碑を建てて独歩文学発祥の記念とする。
    佐伯史談会
    佐伯独歩会

設計主旨
私にとって、作家独歩は、「自然」への求道者と銘している。
求道の意は、自然への愛着や没入が、自己表現に於て、自然への憎悪や拒否と相克し ― 限りなく矛盾的自己同一的に昇華した、この作家の生きざまを看る故である。その故に作家独歩のイメージが、形態として焦点を結像するのは、楕円 ― 決して一つではなく、二つの点を結んで軌跡の合理する楕円形である。
私は、その終焉の日まで、■れむことなく続けられたあの相克を ― 独歩の世界の全てを、その軌跡の中に封じこんでいると考える。
    清田文永

基金協力者 安藤賢外265名
撰文■書   東階狩■熊義
刻石      (株)大洋石材 ■川 洋

昭和57年8月

(碑文より)


【大分県佐伯市・佐伯城二の丸跡】

史跡 | 14:39:18 | Comments(0)
佐伯城三の丸櫓門
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県指定有形文化財
佐伯城三の丸櫓門

指定年月日 昭和51年3月30日
所在地    佐伯市鶴谷79番地1

この櫓門は、三代藩主毛利高尚(たかなお)の時に、藩主の居館を山頂から三の丸に移した寛永14年(1637年)に藩庁の正門として創建された。
佐伯城の城郭建築物として唯一現存する遺構として城下町佐伯の面影を伝えている。

佐伯市教育委員会

(説明板より)


【大分県佐伯市・佐伯文化会館】

史跡 | 14:21:41 | Comments(0)
佐伯に行く
当初の予定より、1時間早く駅に着いたので、予定より1本早い電車で佐伯に向かうことにする。
なにせ、午後から雨が降るというんだから急がねば・・・(笑)

電車に乗って、しばらくして・・・何か違和感を感じる・・・(汗)
なんだろう?・・・と思ったら、わかった!(笑)

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原因は窓である!
車内がガラガラに空いていたので、わかったのだが・・・(苦笑)
窓は大きなガラスが1枚だけ・・・つまり窓に“柱”がないのである。
どうも落ち着かないと思ったら、これだ・・・(笑)

1時間程度で、佐伯に到着・・・

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ホームには、大きな看板が・・・・
佐伯は、2008年に映画『釣りバカ日誌』のロケ地になったらしい。
へぇ~・・・・と感心したが・・・この映画を見たことがないので、実は何も知らない・・・(大笑)

でも、こういうのって嫌いじゃないんだよねぇ~(大笑)
その町の駅に降りたとき、この町がどういう町なのかがわかる・・・
これって、いいと思うんだよねぇ~
アピールするものがないという町は、何かアピールするものを見つけるなり、作るなりする・・・
それが“町づくり”に繋がると思うんですよねぇ~
翻って、我が町の場合・・・どうなんだろう?
何もなかったような気がする・・・・(大汗)

ついでに、招き猫までお出迎え・・・(大笑)
いいな・・・・これも・・・(大笑)
これ、効果あるかも・・・拙者が茨城県からノコノコとやって来たんだから・・・(大笑)

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佐伯というのは「さえき」と読むのかと思ったら、「さいき」と読むのだそうである。
あら・・・どうも拙者にとっては発音しづらい・・・(苦笑)
以前、松阪市に行ったことがあるが、ここを拙者は「まつざか」と呼んでいたが、正しくは「まつさか」と呼ぶと聞いて驚いた。(笑)
濁音がないと、どうも発音しづらい・・・(大笑)
無理して発音しようとすると・・・「まつさか」ではなく、「まっさか」になってしまうのである。
これでは「まっさかさま」の「まっさか」である・・・(苦笑)
固有名詞の読み方というのは、なかなか難しい・・・

駅から徒歩で佐伯城へ向かうことにした。
午後から雨が降ると天気予報で言っていたが・・・そういう雰囲気がない・・・(汗)
晴れてるし・・・暑いし・・・喉は渇くし・・・
途中でコンビニに寄って飲み物を調達・・・
ついでに佐伯城までの道順を店員のオニイチャンに尋ねる。
駅から歩いてきたといったら呆れられた・・・(大笑)

駅から歩いて、約30分ほどで佐伯城に到着・・・(だと思った・・・)

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遠くに見えるのは、三の丸の櫓門らしい・・・
で・・・後ろに回ってみると・・・櫓が!

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「御下櫓」と言うらしい・・・
ん?・・・未だかつて聞いたことのない櫓の名前だが・・・
よく見たら、公衆便所だった・・・(大笑)
それで「おしもやぐら」か・・・(笑)
なかなか洒落ていて好きだなぁ~・・・・こういうの・・・
説明板に「平成2年3月建立」と書いてあった・・・(笑)

ここにきて、初めてわかったのだが・・・
佐伯城は・・・山城?(唖然)
事前に何の勉強もせずに来たからねぇ~(苦笑)

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この山の頂上にある「本丸」まで登るには、3つのルートがあるらしい・・・
さて、どのルートを使おうかと迷った挙句、一番右のルートを登ることにした。

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まあまあ、なだらかな山道である・・・・
しかし、この「なだらかさ」が、運動不足の我が身には堪えるのである・・・(苦笑)
しかも・・・
スーツ姿に重くて大きいショルダーバッグを肩から下げて、革靴で歩いているのである。(大笑)
どこから見ても場違いな格好である!(大汗)
しかも暑い・・・
しかし・・・雨が降らなかっただけ感謝すべきか?
これで傘を差して歩くのは無理・・・(苦笑)

30分ほどかかって、ようやく頂上に辿り着いた・・・

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おお、立派な石垣である!

頂上から見た景色・・・・

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なかなかの眺め・・・・
やっとの思いで登ってきた甲斐があったというものである・・・(笑)

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本丸跡には、二つに分かれた立派な石垣に木製の橋が渡されていた。
う~ん・・・天守閣から二の丸に渡る橋か?
どこにも説明板が見当たらないのが残念・・・
少し、説明が欲しいんですけど・・・・(苦笑)
これだけの石垣が残っているんだから、天守閣を復元したらすごいだろうなぁ~と思う。(笑)

さて、帰りは、同じ道を歩くのも芸がないので・・・(笑)
3本の道のうち、真ん中の道を下りる事にする。
が・・・・この選択は、ちょっとマズかったかも・・・(苦笑)

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この石畳は、当時からあったのかな?

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道は狭いわ、下り坂は急だわ、落ち葉で滑り易いわ、石がゴロゴロしていて歩きづらいわ・・・・
間違ってもビジネスシューズの革靴で歩くような場所ではない・・・(大笑)
しかし・・・時間は短縮できた。
20分で下りて来た!
下りなんだから当然か?(苦笑)

時刻は午後3時・・・
さて・・・どうするか・・・
とにかく、ブラブラと大通りに向かって歩いてみる。

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途中で「矢野龍渓生家跡」の碑に出遭う。
矢野龍渓って・・・誰?(苦笑)



矢野龍渓(1850~1931)

文学者・政治家・ジャーナリスト。
本名矢野文雄。慶應義塾卒。
【碑文】
龍渓矢野先生誕生之地
舊藩主毛利公所賜之邸地也
先生祖父多門厳父光儀之二
君居之先生因寄附以為本校
之属地也矣
(藩主より賜った先祖の地を佐伯小学校に寄附する)

明治45年1月建設

(説明板より)



まだ時間的に余裕がありそうなので「佐伯市平和祈念館・やわらぎ」というところへ行く事にする。
が・・・大通りを歩いても“流しのタクシー”に出遭わない・・・(汗)
山歩きをしたせいもあって、クタクタである・・・・(涙)
そのうち、偶然にもタクシー会社を見つけた!
ラッキーである!(喜)
降るはずの雨は降らないわ、タクシー会社を偶然にも見つけるわ・・・
やっぱり拙者の日頃の行いがいいのではあるまいか?(大笑)

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平和祈念館は、ちょっと珍しい形の建物だった。(笑)

館内はロビー部分だけが撮影可能・・・(涙)
館内のその他の場所は撮影禁止。
期待していた佐伯海軍航空隊等の資料の販売は・・なし!(涙)
無料の資料の配布も・・・なし!(涙)
そういう資料が手に入ると思ったのだが・・・残念である。

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ロビーに展示されている丸い物体は・・・
九三式機雷の残骸だそうである。(汗)

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屋外に展示されているのは、米軍機の残骸・・・・

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建物の裏(?)に、「聯合艦隊機動部隊 眞珠湾攻撃發進之地」の碑があると、職員の方に案内していただいた。
「佐伯海軍航空隊跡」の碑のようなものはどこかにないかと尋ねたら、そういうものはないとのこと・・・
あら・・・残念・・・(涙)
「佐伯海軍航空隊」もしくは「佐伯航空隊基地」というのは、結構、有名だと思うんだけどなぁ~
「平和祈念」という名の付く施設がある場所というのは、結構、左翼的、もしくは反戦的な場所が多い気がする。
この町もそうなのか?
そうなると“顕彰”することになりかねないということで「碑」などは建てないのか?
でも、この真珠湾攻撃発進の地」の碑はあるんだよねぇ~(苦笑)
不思議である・・・
戦跡の保存とかしないのかね?・・・この町は・・・
戦争遺構等のマップとか作らないのかねぇ~
ちょっと残念・・・かなり残念・・・・(苦笑)

閉館ギリギリまで見学し、この「平和祈念館」の周辺を歩いてみる。
どうも、隣りの自衛隊敷地にある建物が、佐伯海軍航空隊の庁舎らしいが・・・・

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なんか違うなぁ~(苦笑)
どうも、庁舎は取り壊されて、その後に新たに、“それっぽい”デザインの建物を建てたようである。
敷地内に碑が建っていたが、勝手に敷地内に立ち入るわけにも行かず・・・
門の近くに守衛がいるわけでもないので、許可を得ることもできず・・・・
やむなくデジカメの望遠で碑文を撮影して読んでみたら「庁舎跡」となっていたから、間違いないだろう。
当時のものは取り壊されたのだろう・・・・

近くの橋・・・・

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橋の所に、教育委員会が作製した説明プレートが貼り付けてあった。(苦笑)
その説明文によれば・・・
この橋の向うに佐伯海軍航空隊の陸上班の飛行場があったそうだ・・・・
多分、興人という会社の敷地になっている場所だと思う・・・・
で・・・そこまで歩く気力もないので、ここから駅に戻ることにした。

この道を真っ直ぐ歩けば駅に着くはず・・・
駅まで歩くだけの体力は残しておかねば・・・・(大笑)

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途中、反対車線に白い標柱を見る。
何かと思ったら・・・・佐伯海軍航空隊の正門を示す標柱だった!(喜)

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振り返って撮影・・・・
道路の向かう先が、航空隊の敷地ということになる。

30分ほど歩いて・・・(苦笑)・・・・佐伯駅に到着。
もうクタクタである・・・(汗)
これから宮崎へ移動するが、予定の電車に乗るまで1時間ほど時間がある。
どこかでコーヒーを飲みたい!
というわけで・・・・駅周辺を歩き回り、ようやく見つけた喫茶店でコーヒーを飲んで一服・・・
最近は「駅前の喫茶店」というのが、どの町でも滅法減ってしまい、喫茶店探しに苦労する。(苦笑)
ここで、お店のオバサンとオシャベリを楽しみながら時間を潰す。(大笑)

357_convert_20151027205522.jpg (佐伯駅)

午後6時過ぎの特急で宮崎に向かう・・・
約2時間後・・・・宮崎駅に到着・・・
ホテルにチェックインして、ホテルのレストランで夕食・・・
いやぁ~腹が減ったなぁ~と思ったら、午後9時を過ぎていた!(驚)
昼に臼杵駅でパンを齧っただけなんだから・・・腹が減って当然か・・・・(大笑)

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旅行 | 13:51:58 | Comments(0)
勤皇臼杵隊之碑
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勤皇臼杵隊之碑

明治十年六月一日薩軍三千臼杵ニ迫ル 舊臼杵藩士八百之ヲ邀撃シテ利アラス 死スル者四十三 當時薩将西郷ノ勢望天下ヲ壓シ 人皆歸趣ニ迷フノ時 臼杵藩士ハ克ク順逆ヲ誤ラス 必死ヲ期シテ寡以テ衆ニ敵ス 其ノ勤皇ノ精神ト悲壮ノ決意トハ炳乎鬼神ヲ哭カシム 郷黨ノ有志時勢ニ鑑ル所アリ 茲ニ碑ヲ建テ以テ其ノ忠烈ヲ後昆ニ貽サントス

昭和十七年六月
臼杵隊義戦顕彰會
   戦死者 片切八三郎
   遺腹 中根貞彦撰竝書

(碑文より)

勤皇臼杵隊之碑

この碑は、明治10年(1877)に起きた西南戦役において、順逆を誤らず大義のために郷土を守り、東上してきた薩軍と戦い、その進撃をはばみ敗走させたものの、この臼杵における戦いにおいて、尊い命を落とした臼杵隊隊士43名の功績を永く伝えるために建てられたものです。
当時、臼杵に侵攻してきた薩軍の数は約3千人、これを迎え撃った臼杵隊は785人、来援の警視隊百人と薩軍の三分の一にも満たない人数であったと記されています。

(説明板より)


【大分県臼杵市・臼杵城】

史跡 | 12:16:28 | Comments(0)
佛狼機砲(国崩)
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佛狼機(フランキ)砲 (国崩)

天正4年(1576年)ポルトガル人より大友宗麟侯に佛狼機砲が贈られたが、これが日本初の大砲と云われています。
宗麟侯は、これを「国崩」と命名し、臼杵城の備砲として備えつけていました。
この国崩は、廃藩置県後、国に献上し、現在は靖国神社境内に展示されておりますが、これを複製したものであります。

昭和61年9月
大分県臼杵市

(銘板より)


【大分県臼杵市・臼杵城】

史跡 | 11:56:39 | Comments(0)
村瀬庄兵衛政績碑
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村瀬庄兵衛政績碑

この石碑は、天保2年(1831)臼杵藩の藩政改革の総元締に抜てきされ、藩財政の建直しを成功させた村瀬庄兵衛の功績を永く讃えるために建てられたものです。
この碑には、藩が多額の借金を抱え、赤字財政で困窮し、その建直しを迫られていたとき、担当責任者として抜てきされた庄兵衛が、「量入制出」の制度を取り入れ、無駄を省き、殖産にも力を注ぎ財政再建に努めたこと。
さらに学古館及び講武場を設け、学問や武技を習わせ、人材育成に努めたことなどが記されています。

(説明板より)


【大分県臼杵市・臼杵護国神社】

史跡 | 11:05:00 | Comments(0)
鑰屋(かぎや)
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慶長5年(1600年)創業の鑰屋(かぎや)可児醤油のお話

美濃の藩主(岐阜県)稲葉貞通が臼杵に移封される1年前
臼杵の町を偵察に来た7人の侍がいた
俗に言う7人の先遣隊である。
行商人に変装していた可児孫右衛門は
1年後に藩主の御供をして来た次男と共に
鑰屋可児傳右衛門店(可児醤油)を本町のこの場所で創める
鑰屋可児醤油は以後、醸造(酒、味噌、醤油)、両替商等手広く商い
城下町商人として稲葉藩に献納し繁栄をもたらし
名字、帯刀を許された。
殿様御家督の折には、金、3000疋献納
1794年江戸邸消失の折には、金、壱百両献納などがある。
本社二階の窓には鉄扉があり四百年建物を守っていましたが
戦時中鉄砲の弾にと供出しました。
白壁は米軍のB29戦闘機の目標になると軍から達しがきて
墨で黒く塗った名残です。
右端の店舗には孫右衛門や丁稚が歩いた「三和土(たたき)」があります。
歩くと石がグラグラと揺れます。

(説明板より)

【大分県臼杵市臼杵・本町商店街(八町大路)】

建物 | 10:29:03 | Comments(0)
石敢當
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石敢當

臼杵町では「せっかんとう」、沖縄では「いしかんとう」と呼ばれるこの石塔は、古代中国の武将にあやかった魔除けの石塔です。
この石塔は4百有余年前の戦国時代に明国の商船が入港して南蛮貿易の市場が開かれ、取引上の喧嘩、口論を鎮める為に石敢當を建てたと言われています。
大きく上品で整っている文字は中国人の書であると言われ、筆跡に大陸的な風格があります。

臼杵市

(説明板より)


臼杵の商店街の街角に珍しいお宝発見!

石敢當(せっかんとう)
4百余年の昔から畳屋町の人々は、町角の石敢當を、魔除け、商いの神、福の神尊び崇めて大事に守り継いでまいりました。
臼杵市の文化財にも指定されている大変貴重な塔で、歴史の上からも、観光の上からも大事に守り継ぎたいと思います。

石敢當とは
石敢當は中国伝来の悪魔除けの法で九州南部から沖縄・台湾にかけての路傍にあり、九州では鹿児島市内に数個あります。
沖縄では石敢當(いしかんとう)と呼ばれ、家庭でも門柱、玄関などに三文字を書いて張る魔除けの風習が今も残っています。
大辞典に、向かうところ敵なしの義、石敢當は古の勇者の名、その名を石に刻して守護神とす、とあります。
畳屋町の塔はその姿の美と形の大きいこと、特に筆跡が唐人の名筆家の作であることから書道界においては典雅な書体であると有名です。

なぜ臼杵に
大友宗麟が臼杵に居城を構えた頃、臼杵は早吸瀬戸の難所を往来する船の潮待ち、風待ちで港は賑わい、また、町には大阪堺にも店をもつ西日本随一の豪商で分限者の仲屋宗悦のお店や、唐人のお店が並び農水産物を始め色々な品物の一大集散地として栄えていました。
また南蛮船、大明国の商船も入港して市場を開き遠く豊・筑の人々等も集めて交易をし象をはじめ虎、孔雀や陶器、書画など珍しい品々が荷揚げされました。
取引の上で喧嘩・口論が度々あり皆が迷惑をしていたのを「中国にこれを治める法がある」とで石敢當の三文字を石に刻して建てたところ以後喧嘩が治まったと言われています。

(説明板より)


【大分県臼杵市臼杵畳屋町】

史跡 | 10:16:57 | Comments(0)
臼杵を歩く
今日は、半日だけ臼杵を見て回り、その後、佐伯に移動予定・・・・
朝の天気予報では、午後から雨が降るような話である。
う~ん・・・台風が近づいているからなぁ~(汗)
できるだけ、早目に佐伯に移動したほうがいいだろう。

ホテルをチェックアウトして、タクシーで「吉丸一昌記念館」に向かう。
午前8時半・・・オープン早々の訪問である。(笑)
この吉丸一昌という人・・・拙者は知らない・・・(大笑)
水戸藩士の“シミズくん”は博学だから「あの“早春賦”の吉丸一昌ですよ」と簡単に言う。
「早春賦?・・・なんだそりゃ?」
「知らないんですか!」と馬鹿にされた・・・(大笑)
う~ん・・・面白くない・・・(大笑)
ということで、この記念館を訪問することにした。
特に興味もないのだが・・・(苦笑)

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この記念館の建物は、吉丸一昌の奥さんの実家だそうだ・・・(笑)

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で・・・この人が吉丸一昌という人・・・(笑)
「早春賦」という歌の作詞者だが、ただの“作詞家”ではなさそうである。
童謡の先駆けとなる『新作唱歌』(全10集)を発表した人だそうで・・・
臼杵市が生んだ有名な国文学者なのだそうだ。(汗)
胸像を見るとかなり若い人のように見えるが・・・と思ったら・・・
大正5年に43歳の若さでお亡くなりになっている。
ちょっと早いよなぁ~
才能のある人に限って早死にしたりするのである・・・
長生きしている人は“凡人”ということになるか?(苦笑)
拙者は55歳・・・・無駄に歳を取ってるなぁ~(大汗)
記念館の方の説明などいただきながら見学・・・
ジックリと見学してしまったので、ここだけで1時間も潰してしまった。(大笑)
帰りに、水戸藩士の“シミズくん”へのお土産に資料集などを買う。

帰りに「タクシーを呼びましょうか?」・・・と記念館の方に言われたが・・・
いや、いや、それじゃ面白くない・・・
やはり旅は歩かねば・・・(笑)
ということで、テクテクと歩いて臼杵城に向かうことにした。

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万里橋を渡る・・・・
向うに何やら雰囲気の良さそうな中洲が見える・・・
松島神社と住吉神社があるらしいが・・・今さら向うまで行くのは面倒だ。(笑)
縁がなかったということで無視して歩く・・・(大笑)
まもなく、町の中に入った・・・

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向うに三重塔が見える・・・あら、すごい・・・いい景色・・・・
観光マップを取り出し、見てみる・・・
だいたい、拙者は観光マップを持っていながら、これに従って歩くということはしない。(大笑)
適当に、右に曲がって・・・左に曲がって・・・と勘に頼って歩く。
だから道に迷って迷子になるのだが・・・(大笑)
縁があれば出会えるし、縁がなければ出会えない・・・それで良いと思っている。(笑)

この三重塔は、九州に2つしかない江戸期に建てられた三重塔の一つだそうだ。
あら・・・すごい・・・(笑)

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臼杵の商店街を歩く・・・
平日のせいか、誰も歩いていない・・・(苦笑)
古い建物が並んで・・・これ・・いいなぁ~(喜)
キョロキョロしながら歩くので、明らかに“不審者”だな・・・俺・・・(苦笑)

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こういう建物・・・・好きだなぁ~(笑)

臼杵には「歴史資料館」や「野上弥生子文学記念館」や国の登録有形文化財の「稲葉家下屋敷」など、見所があるようだが・・・
行ってみたいが・・・パス!(大笑)
時間がない!(汗)
臼杵には「臼杵城」くらいしかないのだろうと思っていたが、そうでもなさそう・・・
拙者の場合、何だかんだで全てをジックリと満足行くまで見学したら2日はかかるだろうな・・・(大汗)
半日程度で十分だと思っていたのは、ちょっと甘かったかな?(苦笑)

商店街を抜けると、そこに「辻広場」と呼ばれる場所があった。

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説明板にある昭和中期のころの古写真と比較してみたが・・・どの方向から撮影したものか残念ながらわからなかった。
説明板によれば、寛永4年(1627)に臼杵城の外周を整備するため菊屋町という町を壊して空き地にしたそうだ。
で・・・この空き地に「辻の大井戸」という井戸があって、昭和の初期頃まで飲用や醸造用に使われていたそうだ。
現在ロータリーになっている「辻の広場」は、江戸時代から多くの人が行き交い、語らう広場だったそうである。
今は・・・道路・・・・残念である。

と・・・目の前にお城が・・・・!!

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臼杵城である。
あれ?・・・・こちらが正面か?
昨日は、裏から登ったのか?(笑)



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大分県指定史跡 臼杵城跡

臼杵城は弘治2年(1556年)、大友義鎮(よししげ)(宗麟)によって建てられた城です。
臼杵城が築かれた丹生島(にゅうじま)は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。
守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。
大友氏改易後は、福原直高(ふくはらなおたか)、太田一吉(おおたかずよし)と城主が替わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。
以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。
その後、明治政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓(たたみやぐら)以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。
現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。

臼杵市教育委員会

(説明板より)



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二の丸跡に「臼杵護国神社」があった。(喜)
小さな神社だが、周囲は綺麗に手入れされている。
ちょうどお参りにきていた地元の“オバサン”と、世間話をする。(大笑)

どこまでが境内なのか、よくわからないが・・・(笑)
「慰霊碑」の代わりだろうか、「説明板」の形で、戦没者の顕彰がされていた。
こういう形は珍しいが、大したものだと思う。
臼杵の人たちは戦没者に対する慰霊の念が強いのだろうと思った。



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武功抜群
木梨鷹一(たかいち)海軍少将の戦死

鷹一は、明治35年3月7日臼杵町野田753番地で生誕した。
大正9年臼杵中学から、当時受験競争率最高30倍に達したと言われる海軍兵学校に進学(海兵51期生)、大正12年卒業。
昭和5年航海学校航海学生(大尉)となり同6年に卒業後、潜水艦航海長になったが、同12年11月海軍少佐となり、同15年3月潜水学校甲種学生を命ぜられた。
卒業時には、成績優秀により恩賜の銀時計(各種学校首席卒業者に天皇が与える銀製の時計)を拝受している。
太平洋戦争勃発するや、潜水艦長として各海洋に進出し転戦偉功を奏す。
伊号19潜水艦長として、昭和17年9月15日ソロモン海峡で敵機動部隊を捕捉し、魚雷6本を発射うち5本命中で敵空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナ、駆逐艦オブライエンを大破させた。
昭和18年11月には、重大な使命を負いドイツへ向かった。
インド洋上で補給船から補給を受け、昭和19年3月11日フランスのロリアンに入港。
そこで、新兵器操作技術の習得のほか、ジェット機の設計図等新世代兵器設計資料を受取った。
その時の軍服には、ヒトラーから贈られた二級鉄十字勲章が輝いていた。
87日を経て、7月12日シンガポールに入港。
空輸可能な設計資料は、巌谷技術中佐が取りまとめ空路帰国。
7月26日にバシー海峡で米潜水艦と遭遇、鷹一の乗った艦は魚雷を受けて沈没した。
この旨が上聞に達し、生前の殊勲を嘉せられ二階級特進海軍少将に任ぜられた。
行年43歳。

「近代臼杵人物辞典」より

(説明板より)



木梨鷹一さんは、戦記の中にもよく出てくる、有名な潜水艦長である。
へぇ~木梨さんって、臼杵出身だったんだぁ~



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臼杵護国神社

御祭神は稲葉良通ならびに歴代藩主と國家公共につくした人の神霊をお祀りしています。
明治10年西南の役で戦死した臼杵藩士43名の御霊をお祀りするため明治11年6月に招魂社が創建されました。
後に事変や戦争で亡くなった御柱が祭神として祀られています。
稲葉神社は稲葉家の祖、稲葉良通公(一鉄)を祭神として明治12年11月に創建されました以後歴代(15代)藩主も祀られています。
昭和35年4月には稲葉神社と招魂社を合併して社名を臼杵護国神社と改称しました。
御祭神は2千柱になります。

臼杵護国神社

(説明板より)


稲葉良通(一鉄)公

一鉄の祖父・稲葉塩塵(通貞)は伊予国の名族越智河野氏の一族で、美濃に流れ国主土岐成頼に仕えて土豪になったとされている。
永正12年(1515年)、一鉄は稲葉通則の六男彦六(良通)として、美濃国に生まれる。
幼少時に僧侶となり学んでいたが、大永5年(1525年)に父と5人の兄たちが全て牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため還俗して家督と曽根城を継いだ。
はじめ土岐成頼の子土岐頼芸に、次にそれを追い出し継承した斉藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の一人として活躍する。
永禄10年(1567年)に三人衆は道三の娘婿でもある織田信長へ内応し、道三の孫龍興が稲葉山城の戦いで美濃からの敗走を決定的にした以後、信長に従う。
永禄11年(1568年)、信長の上洛に第一隊として従い、姉川の戦いでは徳川家康と共に戦功を挙げた。
一鉄の号の初見はこの後の頃である。
その後も、殿軍を指揮、軍使も務め、後詰め、先鋒など各地に転戦して武功を発揮したことから、美濃清水城を新たに与えられた。
天正5年(1577年)には有岡城の戦い(織田信孝の副将として安土城の留守居役を務める)に参加し、武功を挙げた。
各地の戦に参加しその戦功は、20年負けなし言われるほどである。
天正7年(1579年)、家督と曽根城を嫡子の稲葉貞通に譲り、美濃清水城に移る。
天正10年(1582年)、武田攻めより凱旋した信長を、領内の呂久の渡しにて饗応する。
本能寺の変の後、織田信孝と対立を深める羽柴秀吉に従うようになる。
天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、法印に叙され「三位法印」と称した。
同15年(1587年)、「島津攻め」から凱旋してきた秀吉を、西宮に出迎え、大坂城山里丸の茶室に招かれる。
天正16年(1588年)11月19日、美濃清水城にて死去。
享年74。
後を子の稲葉貞通が継いだ。
一鉄は敬神崇祖の心も厚く伊勢神宮への寄進や寺の建立保護に努めた。
又歌道や茶道のみならず、医道においても造詣が深く、覚書きを伝えている。
頑固な一面があり、そのことから号の「一鉄」にかけられて、「頑固一徹」の言葉が生まれたとされている。
文武両道、知勇兼備の名将と言われる由縁である。
臼杵では廃藩にあっても、なお一鉄の威徳を仰ぎ稲葉神社を設立した。

(説明板より)



稲葉一鉄ねぇ~・・・・どこかで聞いたことがある名前である。
曽根城ねぇ~・・・・あれ?・・・行った事があるような気がする・・・・(苦笑)
あ~・・・・曽根城へ行った時に、説明板か何かに書かれていたな・・・・(汗)
なにせ、自分でホームページを作っておきながら、そこに書いた内容は全く覚えていないのである。(大笑)
「知らないなぁ~」などと言うと、人から「あなたのホームページに書いてありますけど・・・」と言われ恥をかくこと、しばしばである・・・(大汗)
曽根城・・・春日局・・・・稲葉一鉄・・・梁川星巌の銅像・・・モヤモヤ~っと記憶にあるぞ・・・(苦笑)

すぐ近くに、大友宗麟のレリーフが・・・・

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どうして大友宗麟のレリーフなんかがここにあるんだろう?
あっ・・・そうか・・・臼杵城は大友宗麟が築城したんだっけ?(苦笑)
どうも3歩歩くと直ぐに忘れてしまう・・・
これが拙者の最大の欠点か・・・(苦笑)

レリーフのすぐ側に、「国崩(くにくずれ)」とも名付けられたオランダから贈られた「フランキ砲」という大砲のレプリカもあった。

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昨日の夕方、途中まで見学した臼杵城跡の「臼杵公園」の残り半分(笑)を見学・・・・
文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑・・・等々が建っていた・・・

日名子実三という人が造った「廃墟」という名の像・・・・・
久家常蔵の「俳諧塚」の句碑・・・
アララギ派の歌人・中根貞彦の「歌碑」・・・・
勤皇臼杵隊の碑
臼杵城跡の払い下げに資金を提供して貢献した人・田中豊吉の「顕彰碑」・・・・
教育者・野中蘭畹(らんえん)という人の「顕彰碑」・・・・
剣道の先生だったらしい「河崎義教先生剣道記念壽表」という碑・・・・
野上弥生子の「文学碑」・・・・

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これらをパァ~ッと見て歩き、城跡を下りる・・・・

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なかなか素晴らしい石垣である!(喜)

城跡を出て北上・・・
しばらく歩くと、市役所が・・・(笑)

222_convert_20151023125337.jpg (臼杵市役所)

う~ん・・・・どこかに大友宗麟とか、初代市長とか、初代名誉市民とかの銅像がド~ンと建っていないものかと思ったが、何もない様子・・・・(苦笑)
あら・・・・つまらない・・・(笑)
仕方がないので、Uターン・・・・
今度は市民会館に向かう。
何かないか?・・・・銅像とか・・・(苦笑)

見つけたのは「吉丸一昌先生の歌碑」・・・・

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ここ歌碑は、臼杵ロータリークラブが創立20周年を記念して昭和55年に建立したものである。

時刻は11時20分・・・腹が空いた・・・・(笑)
駅に向かって歩きながら、どこかに適当な店があったら入ろうと歩き出す。
途中で、ずっと先の歩道に何かが横たわっているような・・・(汗)
大きな犬かと思ったら、そうではないようだ・・・
段々近づいたら・・・・一人の“お婆さん”が歩道に寝そべっている!(唖然)
はぁ?・・・・(汗)
すぐに救急車が到着!
あらら・・・もしかして、この暑さだから熱中症で倒れたのかも・・・・
人通りが全くないという駅前通り・・・・
もうちょっと早い時間に拙者がここを通りかかったら、拙者が第一発見者になり救急車を呼ぶことになったかも。(大汗)
人通りが殆どないという場所では、発見が遅れたら命を落としかねない・・・
この“おばあさん”は運が良かったと言っていいだろう。
この後、大事に至らなければいいのだが・・・

と・・・・そのうち駅についてしまった・・・・(汗)
食事する場所はない!(唖然)
もしかしたら、昨晩宿泊した駅前のホテルのレストランなら開いてるかも・・・とも思ったが・・・
チェックアウトした後、ふたたび訪れるというのもねぇ~
それなら最初からフロントに荷物を預けたのに・・・・(苦笑)
なんとなく“くやしい”ので(大笑)、ホテルには行かず、駅の売店で売っていたパンを買って、これを「昼食」とする。(苦笑)

待合室でパンを食べながら電車を待つことにする。
で・・・地元の乗客の方とおしゃべり・・・(笑)
「どちらから来たんですか?」
「茨城県です」
「へぇ~・・・・茨城県?・・・・そりゃ、遠いところからわざわざ・・・」(汗)
ん?もしかして、茨城県と聞いても、この人はピンときてないかも・・・・(大笑)
「茨城県・・・茨城ねぇ~・・・・何が有名でしたっけ?・・・・公園?・・・後楽園?」
「いや・・・後楽園じゃなくて、偕楽園っていうんですけど・・・」(汗)
「へぇ~・・・・他に何かありましたっけ?」
「納豆!」
「納豆?・・・・あ~納豆・・・納豆ねぇ・・・・」(苦笑)
う~ん・・・茨城県はマイナーな県だからなぁ~・・・・仕方がないか・・・(大笑)
「昨日、このあたりで地震があったようですが、どうでしたか?」と尋ねてみた。
と・・・・他の乗客の方々や売店の“オバチャンまで話しに加わり、「大おしゃべり大会」となる。(唖然)
結局、結構揺れはすごかったらしいが、被害はなかったそうだ・・・(苦笑)

タバコが吸いたくなったので尋ねてみたら、喫煙場所はホームにあるという。(唖然)
じゃぁ・・・ということで皆さんとお別れし・・・ホームへ行く。

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ん?・・・・・乗客が誰もいないけど・・・・本当に電車は来るんだろうな?
先ほどオシャベリしていた皆さんは隣りのホームへ・・・・
あっちは、大分方面だよな?・・・・北へ向かうんだよね?(汗)
拙者はこれから南に向かって、佐伯に行くのだが・・・・
あれ・・・・なんとも不安・・・・南下する乗客は拙者一人だけなのか?(大汗)

ホームには・・・・ここにも「早春賦」!(驚)
やっぱり吉丸一昌という人は有名な人なんだ・・・・(笑)

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旅行 | 09:56:05 | Comments(0)