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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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『二・二六事件軍法会議』


1 消えた裁判記録
      軍法会議の倉庫で
      行方不明となった裁判記録
      60年ぶりの発見

2 雪の2月26日
      上野図書館に飛び込んできた報せ
      惨殺された重臣たち
      残された「謎」

3 大臣告示の疑点
      大臣告示はいつ下達されたか
      一触即発の危機
      改竄された記録

4 指揮権発動
      放置された反乱
      2枚の奇妙な付箋

5 軍法会議とは何か
      戦争とは、軍隊とは何か
      法律に従わない軍人
      軍法会議は暗黒裁判か
      戦場での軍法会議

6 裁かれる陸軍大将
      無罪となった真崎大将
      「磯部は嘘を言っております」
      お前たちの精神はよくわかっておる

7 幻の昭和維新詔勅
      教育総監罷免
      詔勅をめぐる策動

8 対決
      「青年将校は私を買いかぶっているのです」
      国士になれ
      異様な姿で磯部は現れた

9 無罪への道
      川島前陸軍大臣出廷す
      異例の判決文

10 兵への判決
      下士官兵の責任
      違法な命令とは
      命令の適否を判断するのは誰か
      命令に絶対服従した兵たち
      英米法における「命令・服従」

11 苦悩する法務官
      法務官とは何か
      総帥と軍司法のはざまで
      私の法務官時代
      バターン死の行軍
      戦時国際法と捕虜虐待
      戦争で人を殺しても罪にならないのは何故か

12 豪北の戦場で
      斬り殺された米軍パイロット
      阿南大将と東条大将
      8月15日
      山に立てこもった部隊
      厳しい戦犯追及
      収容所の中の軍法会議

あとがきに代えて



著者は、元・陸軍の法務官だった方である。
が・・・2・26事件の裁判には直接には関わっていない。
著者は昭和15年に高等文官試験司法科(今の司法試験)に合格し、大学を中退して法務官試補となった人であるから、昭和11年の2・26事件の時には、まだ学生だったはずである。
法務官試補となった著者は、配属となった第1師団で、2・26事件の裁判記録を目にする。
この時に、2・26事件裁判について研究をしてみようと思ったそうである。
ところが、戦後、この和綴じの100冊以上もある裁判記録は消えてしまった。
昭和20年2月25日の空襲で第1師団司令部庁舎が焼失したときに、一緒に焼失してしまったという。
しかし、これが平成5年に見つかったそうで・・・
戦後60年目に著者は資料に再会する。
2・26事件については多くの書籍があるが、2・26事件の“裁判”となると、珍しいのではなかろうか?
この話に、自分の戦時中の体験談等を織り交ぜた本書は、読み物としても面白かった。


今年の読書:40冊目



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読書 | 00:42:02 | Comments(0)
親父が死んだ夢を見た!(汗)
日が昇り、朝になったのに親父はまだ寝ている・・・・
が・・・どうも様子がおかしい・・・・
どこから見ても死んでいるのである。
あら・・・死んじゃったのか・・・・
どうやら昨晩、寝ている間にス~ッと息を引き取ったようである。

さて・・・これからどうしよう?
母が亡くなった時にはどうしたのか・・・思い出せない・・・

と・・・ふと顔を上げたら、親父が部屋を片付けている・・・
「何してるんだ?」
「これから、いろいろと人が来るから、少しは部屋を片付けないといけないだろう」と言う。
あ~・・・そうだな・・・と思う。
「で・・・親父が死んだんだけど、これからどうすればいい?」と親父に尋ねた・・・
「葬儀屋には、もう連絡はしておいたから、そろそろ来ると思う」と親父が言う。
ほぉ~なんと手回しのいいことか・・・
「そりゃ、助かった」・・・・

あれ?
親父は死んだんだよな?
なんで親父と会話してるんだろう?(汗)

日が暮れて・・・夜になった・・・
さて、明日は土曜日だから、明日、通夜をして、日曜日に告別式をすればいいか・・・
と・・・思った瞬間、気が付いた!
いけねぇ!
忘れてた!
妹に親父が死んだことを連絡してない!(大汗)
やっちまったぁ~!
死んでから何時間経ったのだろう?
こりゃ、怒られるぞ・・・・

と・・・思った瞬間・・・・夢から覚めた!(大汗)

う~ん・・・・これ・・・正夢にならねばいいが・・・(大笑)

今日は「土用の丑の日」である。
変な夢を見ちゃったので・・・ここは奮発して一尾、2,000円もする国産ウナギを買って親父に食べさせる。(大笑)
定価は2,400円なのだが、2割引のものを買った・・・(大笑)
こういうところが、拙者のセコイところであるが・・・(苦笑)
親父には長生きしてもらわねば困るのである。
一応、100歳まで生きてもらうことを目標としているので、あと13年は生きてもらわねばならぬ。
なんで、100歳まで生きてもらわねば困るのかというと・・・
「俺の親父は100歳まで生きたんだぜ!」と自慢したいのである・・・(大笑)
先に“あの世”に行った母は、今は天国で楽しく過しているに違いない・・・
そこへ我儘な親父がノコノコとやってきたら、母にとっては「天国」が一転して「地獄」になるかもしれない・・・(大笑)
何としても、親父が“あの世”に行く時間稼ぎをせねばならぬのである!(大笑)

そういうわけで・・・長生きをしてくれるよう、親父にウナギをご馳走する。
決して「冥土の土産」というわけではない・・・(汗)
決して「最期の晩餐」というわけではない・・・(大笑)

日記 | 10:45:05 | Comments(0)
『一筆啓上 瀬島中佐殿』


『幾山河』は売れても
     「太平洋戦争戦没者慰霊協会」会長

瀬島参謀本部参謀式慰霊祭
     沈黙の三笠宮とわずかな海軍側参加者

特攻戦没者の悲願に適う慰霊祭

林冨士夫の自殺志願
     試しに自殺志願者募集のこと
     決断
     父の本心
     721空着任とその後
     九州展開後
     罪の意識
     私の責任と死後
     桜花の開発と搭乗員の準備
     桜花の正体
     私が天皇なら即刻降伏する
     悔しくも悲しくもない終戦
     慰霊祭
     各団体の慰霊祭での印象深いできごと
     慰霊祭に参加した特攻作戦指導者
     遺族の家を訪問した特攻作戦指導者
     特攻の戦果を知ってどう思ったか

出撃指名人と被指名人

予備学生は本チャンの尻ぬぐい
     死刑囚のような8カ月
     残っているこだわり

角田和男の零戦特攻隊員物語
     出撃前夜の下士官搭乗員たち
     残酷飛行長との対決
     無戦果でも死ねばよい
     慰霊祭
     慰霊祭で何と祈るか
     慰霊祭に参加しない遺族の声
     遺族を訪問したことがあるか
     特攻訓練の思い出
     出撃待機中の心理
     遺書
     出撃する隊員たちの姿
     終戦時に自殺した特攻隊員
     終戦時の心理
     大西瀧治郎中将
     特攻作戦はやるべきではない不祥事ではなかったか
     どういう慰霊祭を望むか

心で泣く特攻出撃
     慰霊祭
     慰霊祭で何を祈り、何を誓うか
     特攻隊員に任命された経緯
     特攻作戦に対する意見
     出撃待機中の心境
     遺書
     出撃時の心理
     終戦時の気持
     備考

「回天」にかけた小灘利春の夢
     志願ではなく命令された特攻隊員
     人間魚雷の正式兵器化
     艇内生存人体実験
     1カ月後に全員突撃せよ
     第一次出撃者の選抜
     われに百基の回天あらば
     謎のままの洋上作戦戦果
     八丈島で米海軍士官と和解

「死に損い」の遺族係
     慰霊祭
     慰霊祭で何を祈るか
     参列した遺族、回天隊指揮官
     特攻隊員に任命されたこと
     回天という兵器
     特攻待機中の心理
     終戦時に自決した回天隊員
     終戦時の心境
     特攻作戦指導者たちの責任の取り方
     今までの慰霊祭は、戦没者や遺族の願いに適うものであったか
     瀬島龍三氏主催の慰霊祭

幻の土佐沖回天作戦
     追悼式・慰霊祭
     慰霊祭で何と祈るか
     遺族の思い出
     回天の兵器としての評価
     発表されている回天の戦果
     出撃を指名されるまでの心理
     出撃する隊員を送るとき
     特攻作戦はやるべきではなかったのではないか
     終戦時の思い出
     指揮官・参謀で遺族の家を慰問した人
     慰霊祭で遺族の世話に献身した指揮官

生涯心に残る慰霊法要

突入成功を望めない兵器
     戦後の慰霊祭
     慰霊祭で何を祈り、何を誓うか
     慰霊祭に参加した遺族、特攻作戦指導者で印象に残ったこと
     慰霊祭に参加しない遺族の声
     兵器としての震洋に対する評価
     遺書
     終戦時の心理と行動
     特攻作戦はやるべきではない不祥事ではなかったか
     瀬島龍三氏を会長とする財団法人の慰霊祭は正当適切か

自決せずに生きよ
     震洋隊の慰霊祭
     慰霊祭で何を祈るか
     元特攻隊作戦指導者の行為で心に残ったこと
     震洋隊長の意志決定について
     兵器としての震洋に対する評価
     遺書
     震洋の結果をどう考えるか
     特攻隊戦没者は特攻作戦指導者たちの身代りにされた犠牲者ではなかったか

あとがき

参考・引用文献

解説    妹尾作太男



本書の副題である「無反省の特攻美化慰霊祭」でもわかるように、本書は“慰霊祭”について延べられている珍しい部類に入る本である。
一般の方々は、この「慰霊祭」というのがどういうものか、よくわからないと思うので、あくまでも、その一面でしかないとは思うが、そこに言及している本書を読んでみるのもいいかもしれない。
瀬島龍三という“有名人”が関わる慰霊祭・・・いかがなものかという話も出てくるが、確かに、同感する部分はある。
私も各種の慰霊祭に関わっているが、“純粋さ”に欠けているのではなかろうかと思う慰霊祭もないわけではない。
自分でも慰霊祭を主催するので、この点には十分気をつけねばと常に気を使っているつもりである。
“純粋さ”を失ったら英霊に申し訳ない・・・
一昔前の、瀬島氏など“指導的立場の人”や“命令を下した人”が関わった慰霊祭・・・
「無反省の慰霊祭」と言われても否定できないような内容だったようである。
慰霊祭に参列した生還者、遺族・・・敢えて慰霊祭に参列しなかった遺族などからの取材も盛り込まれた本書は貴重な“資料”かもしれない。
本書には源田実についても言及している部分がある。
瀬島も源田も、戦時中は「佐官クラス」のエリート参謀である。
彼らに“傲慢さ”はなかったか?
彼らは戦後、“反省”をしているか?
べた褒めする人がいる一方、ぼろ糞に批判する人もいる点では両人ともソックリである。
著者が「一筆啓上」と題名に付けたくなる気持ちはよくわかる。


今年の読書:39冊目



読書 | 20:34:54 | Comments(0)
新聞社の取材に付き合う
先日、読売新聞の千葉支社から連絡を頂いた・・・
「戦後70年」ということで、地元に駐屯していた騎兵第14連隊の従軍経験者にインタビューをしたいとの事。
中国戦線での従軍体験を聞かせてくれる人はいないかと言う。
騎兵第14連隊の方で生きている人っていたっけ?(苦笑)
よくよく考えたら・・・・一人だけいた!(笑)
今年の春の「軍馬の慰霊祭」に来ておられた“オオクボさん”!!
95歳になられるが、お元気である。
連絡を取ったところ、乗る気満々・・・(大笑)
ということで・・・新聞記者を“オオクボさん”宅までご案内することとなった。

昨日のうちに上京し、東京に一泊・・・
地下鉄の駅で新聞記者と待ち合わせ。
遅れては申し訳ないので、早目に待ち合わせ場所に向かう。

途中・・・なにやら由緒あるお寺を見かけたので覗いてみる。(笑)

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瑞鳳山祥雲寺

祥雲寺は後北条氏の重臣江戸城主遠山隼人正景久によって、永禄7年(1564)に江戸城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建されたのが始りで、開山は吉祥寺安充和尚である。
当初は景久の室(北条上総綱成の娘)の菩提所として法号にちなみ浄光院と称し、永禄7年に戦死した景久の法号から瑞鳳山浄光院と号した。
天正18年(1590)後北条氏滅亡にともない遠山氏も退転したため、しばらく吉祥寺の隠居所となり、神田台(駿河台)、小日向金杉、小石川戸崎台と移転した。
寛永6年(1829)に信州松本藩主戸田氏は壇越(だんおつ)となり、数度の火災の復興に際しても多大な尽力をした。
宝永6年(1709)、五代将軍徳川綱吉の死により御台所が落飾して浄光院殿と称したのち憚かり、戸田氏最初の壇越康長の法号により瑞鳳山祥雲寺と改号した。
当地への移転は明治39年であり重宝類は昭和9年の火災に焼失した。
現在の本尊の薬師如来は胎内銘によれば、天正17年(1589)の造立になるという。
墓地には戸田家代々の墓、酒豪として知られた三浦樽明、首斬り浅右衛門の七代山田浅右衛門などの墓がある。

昭和56年3月
東京都豊島区教育委員会

(説明板より)



時間に余裕があったので、墓地も覗いてみたが、説明板に載っている方々のお墓が見つからず残念・・・
説明板に載せるなら、墓石の近くにも何かわかるようなものを設置していただきたいものだ。

地下鉄の出口で待ち合わせして、近くの喫茶店で、まずは下打ち合わせを・・・(笑)
それから“オオクボさん”宅に向かう。
ご自宅には、一度だけ行ったことがある。
戦友会の集まりで、酔っ払ってしまった“オオクボさん”を自宅まで送り届けたのだが・・・
その時に、拙者も酔っ払っていたので・・・(苦笑)
自宅の正確な場所は・・・ちょっと自信がない・・・(大笑)
「とにかく、こっちの方向です」などと、知ったような口をきいたが・・・
いつの間にか自宅の前を通過して見知らぬ景色・・・(唖然)
慌てて引き返し、ようやく見つける・・・(大汗)
あれ?・・・建て直した?(大笑)
拙者の記憶している家と少し違っている・・・(大笑)

ご自宅には、“オオクボさん”お一人が待っていてくれた・・・
春にお会いして以来の再会である。
で・・・挨拶もそこそこにインタビュー開始・・・
ところが、本人としては、「先祖代々」からの話をしたくて仕方がない・・・(大笑)
特に、お父様の話・・・
お父様は文官で軍人ではなかったが、東郷平八郎には特に目をかけてもらっていたそうで・・・
「日露戦争の時には・・・」という話から始まって、なかなか先に進まない・・・(大笑)
「あのぉ~日露戦争の話はそのくらいにして、本題は太平洋戦争なんですけど・・・」と、ついつい拙者が口を挟むことに・・・(苦笑)
「あ・・・そうだった!すまん、すまん」と“オオクボさん”・・・
「では・・・・・お願いします」
「あ、そうそう、それでね・・・うちの親父は日露戦争の時に・・・」と話がやっぱり戻っちゃう・・(大涙)
さすがは95歳である・・・やっぱり95歳である・・・・(苦笑)

そうこうしているうちにお昼になってしまった・・・(汗)
息子さんが事前にお昼の出前を頼んでおいてくれていたので、遠慮なくご馳走になる。(喜)
食後、インタビュー再開・・・・
午後3時で、一応、終了ということにした。
ご高齢だし、あまり長時間のインタビューはキツイと思ったからだが・・・
本人は、まだまだ話し足りないらしい・・・
「また、来てくれる?まだまだ話し足りないから・・・」とおっしゃる。
「いや、いや、いつまでも取材ばかりしていたら、いつまで経っても記事になりませんよ」と拙者・・・
3人で大笑い・・・

新聞記者の“ハラさん”に「これで記事が書ける?」と尋ねたら大丈夫との事なので、取材は終了とした。
本人は、もっといろいろと話したい様子・・・
「なかなか話を聞いてくれる人がいない」とおっしゃる。

こりゃ、取材とは関係無しに話を聞きに再訪問するようかなぁ~(大笑)

日記 | 10:59:56 | Comments(0)
四ツ倉へ行く
今日は、福島県いわき市四ツ倉へ行く・・・
いつも、このブログを見てくださっている“ニシヤマさん”から書き込みがあった。
確か、1年前にも一度コメントを頂いていたと思う。
で・・・いろいろメールで御話を伺ったところ・・・
なんと!戦車第11連隊の関係者だったのである!(驚)
戦車第11連隊は、当初は我が戦車第2師団に所属していたのだが、大戦末期に北千島の占守島(シュムシュ島)に派遣され、戦車第2師団の指揮下から離れた部隊である。
終戦後の8月18日、ロシア軍が上陸して攻撃をしてきたため島の守備隊は武装解除を急遽取りやめて反撃をした。
戦いは日本軍の優勢で、そのままの勢いが続いたらロシア軍を島から追い落とせたかもしれない・・・
しかし、“戦後”ということもあったのだろう、軍の命令で現地部隊は降伏し「停戦」ということになる。
戦車第11連隊は連隊長以下多くの将兵をこの戦闘で失い、生還者はシベリアへ送られる。
“ニシヤマさん”のお父さんは、この戦闘の「生き残り」だったそうだが、すでに他界されているという。
いやぁ~・・・お父さんに会いたかったなぁ~
我が戦車第2師団と縁のある方だからなぁ~
直接、お話を伺えないのは残念だが、息子さんの“ニシヤマさん”に会って、おしゃべりをすることにしたのである。
で・・・今日、電車に乗って北上する。(笑)

南下して東京に向かうのは何十回、何百回とあるが、北に向かうことは滅多にない。(大笑)
いわき市ならば、車でもいいのだが、電車で行ったほうが楽でいい・・・
拙者は昔から初対面の人と会うのが大の苦手・・・
「見知らぬ人」との出会いは苦痛で仕方がないというのが数あるコンプレックスの中の一つだったが・・・
人間とは面白いもので・・・(苦笑)
戦友会の事務局長を受けてからは、なぜか、「見知らぬ人」に会うのが楽しくなってしまったのである!(大笑)
これは初対面でも親しくしてくださった、多くの戦友(生還者)の皆さんのおかげかもしれない。
初対面の人に会うのは緊張はするが、ワクワクもする・・・
そういう体験を積んでいくと、昔、苦手だったものが、いつの間にか楽しみに変わってしまっているのである。
不思議だなぁ~と思うが・・・これまた生きていて良かったと思う瞬間でもある。(大笑)
本来ならば、拙者はとうの昔にこの世を去っている予定の人間だったのである。
何の因果か生き残っている・・・そこが戦友(生還者)の皆さんと気が合うところなのかも知れないが・・・
今日は久し振りにワクワク気分・・・(大笑)

各駅停車の「鈍行」に乗ること1時間チョットで四ツ倉駅に到着!

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駅で待ち合わせ・・
迎えに来ていただき、早速、海岸の近くの喫茶店(レストラン?)へ行き、コーヒーをいただきながらオシャベリ!(喜)

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お店の前の海岸は、先の大震災の津波で被害を受けたらしい・・・
復興工事の真最中・・・・
ここに大きな堤防が出来るのか?
景観が損われるような気がしないでもないが・・・・(苦笑)

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“ニシヤマさん”は事前に拙者のブログで調べて・・・拙者が史跡好きだということをご存知・・・(大笑)
というわけで・・・近くの史跡、波立薬師にちょっと立ち寄って下さった。(喜)

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波立薬師(はったちやくし)

臨済宗妙心寺派意医王山 波立寺(ばりゅうじ)

薬師如来を本尊とする当山は大同元年、徳一大師の開基にて海中より出現の霊像なりという
十方の信仰篤く、安産、厄除、無病息災はもとより特に海に縁因あるところから海上鎮めの守護として海上安全大漁祈願の信仰が多い
仁王門、庫裏、其他の建造物は文明年間、磐城平城主親隆公の寄進によって造営せられ、其后全城主代々の祈願所と定められ、内藤公に至って大修理を行い、陰暦6月14日、15日の縁日には家老を差遣して法要を営弁せしめたのである
如之慶安2年には3代将軍家光公御朱印を下し国土安泰、万民豊楽の鎮護道場とせる霊刹なり

(説明石碑・碑文より)



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周囲を少し散策して、昼食・・・・
これまた拙者のブログで拙者がカツ丼好きということをご存知で・・・(大笑)
昼食はカツ丼!・・・しかも味噌カツ!

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至れり尽くせりの“ご接待”をいただき、感謝、感謝・・・
その後、ご自宅にお邪魔して、さらにオシャベリ・・・
午後3時ごろまでオシャベリして帰途に着く・・・
今日は、本当に充実した一日だった!
感謝、感謝である。

日記 | 10:58:00 | Comments(0)
『不滅のネービーブルー』


第1部 指揮官の決断
      シーマンシップ
      勝機を逸した艦隊
      奇跡の撤退

第2部 二人の海の防人
      Uボートの遺書
      不世出の英才
      航空技術の鬼

第3部 異色の海鷲
      青春の遍歴
      秘められた情熱
      寸鉄人を刺す
      具眼のアドミラル
      殲滅作戦の顛末
      大陸の空せまし
      南海の空に散る

第4部 中攻隊の至宝
      裂帛の怒声
      野中一家の異名
      指揮官の心情
      激闘前の一夜
      車懸かり龍巻戦法
      入佐中佐への心酔
      人間爆弾「桜花」
      神雷隊の出撃

第5部 呪われた潜水艦
      奇しき運命
      不気味な符合
      黒い疑惑と深い謎
      3名の生存者
      海底からの脱出
      信じられぬ結末

あとがき



著者は潜水艦の艦長。
その艦長が海軍の「英傑伝」を書いたのが本書なのだが、なぜか潜水艦関係者ばかりではない。
第1部では、最初に、判断ミスを犯したと筆者が指摘する神重徳参謀について痛烈な批判を述べている。
私も、同意見である・・・・
対してキスカの撤退を指揮した木村昌福少将の名指揮官ぶりを述べている。
第2部は、友永技術中佐と庄司技術中佐について・・・
第3部は、海軍の中型攻撃機の搭乗員の奥山正市について・・・
私は、この人の事を知らなかった・・・
あまり有名な人ではないと思うが、こういう人を取り上げているところに好感が持てる。
第4部は、特攻機「桜花」で有名な神雷部隊の指揮官である野中五郎について・・・

異色なのは、最後の第5部・・・
「英傑」という個人より伊33潜水艦自体を取上げている。
潜水艦乗りの間では「3」という数字は「呪われた数字」だとされていたそうで、伊33潜水艦はまさしく、その「呪われた潜水艦」となってしまった。
この潜水艦は2回、沈没事故を起こして多数の死者を出している。
2度目の事故が起こったのは昭和19年6月の事・・・
急速潜航した伊33は事故により(その原因がまた不思議なのだが)、浮上できずそのまま沈没してしまったのである。
で・・・引き上げられたのは終戦後の昭和28年6月・・・
実は、この「事件」について私には思い出がある。
私が小学3年生のときに市立図書館の分館ができて、私は毎日のように図書館に通ったのであるが・・・
多分、小学3年か4年のことだと思う。
ある雑誌を偶然目にしたところ、この伊33潜水艦引揚の写真が載っていたのである。
ショックだった・・・
艦内で首をつった乗組員の遺体の写真とか、ベッドに横たわっている乗員の遺体の写真は、今でも目に焼きついている。
密閉されたまま海底に眠っていたため、多分、冷凍保存のようになっていたのだろう・・・
まるでまだ生きているような姿のままベッドに横になっているが、頭髪には白く霜がついているような写真だった。
確か、キャプションには頭髪も爪も伸びていたと書かれていたように記憶している。
人間は死んでも髪の毛や爪は伸びるのかと驚いたことを覚えている。
この潜水艦の生存者は、潜水艦から脱出した2名と、潜水艦に乗らなかった1名の計3名だと本書に書かれていた。
本書では、脱出したのは10名で8名が行方不明となり、2名が生還したとの事。
私の記憶では、くじ引きをして2名だけが脱出したと思っていたのだが、小学生の頃の記憶だから記憶違いを起こしているかもしれない。
いずれにせよ、あの伊33の沈没事故の様子が詳しく書かれていて、懐かしい思いをした。
今でも、古書店に行くたび、この写真が載っていた雑誌を探してみるのだが、残念ながら今もって見つからないでいる。
あの写真は鮮明に頭に焼き付いているんだが・・・
肝心の雑誌の名前が曖昧・・・「太陽」だったような気がするのだが・・・
記事には、遺体を外に運び出したら、あっというまに腐ってしまったと書かれていたと記憶している。
あ~なんということをするんだと思った・・・
そのままの姿で家族に渡す方法はなかったのかと思ったことを記憶している。
とにかく伊33潜水艦の引き上げについては、心の奥に今もって残っているのである。
この事故はあまり有名な話ではないのだが・・・ここで、久し振りに伊33に「出会えて」嬉しかった。


今年の読書:38冊目



読書 | 20:32:06 | Comments(0)
宮崎特攻基地慰霊碑
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碑文

この地は「旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊跡地」である。
昭和20年8月15日の終戦にいたるまで日本防衛の南九州最大の航空基地として陸海軍共同作戦を含む数多くの戦闘作戦に特別攻撃隊及ひ雷撃隊出撃の基地となって大東亜戦の戦史に残る偉跡の地である。

私共 現在平和と繁栄の生活を享受しております。
然しこの平和と繁栄の陰には大戦中における数多くの国民の犠牲と数百万の戦死戦没戦傷病者、大多数の国民の困苦欠乏の生活があったことを忘れてはならない。
なかでも特に祖国の悠久の平和と最後の勝利を信じて“祖国のために”を合い言葉に南海の空で散った陸海軍特別攻撃隊員及び雷撃隊員たちの崇高なる精神と遺徳は永く後世に伝承したい。

赤江飛行場は昭和18年12月1日付で海軍航空隊の練習基地として開隊、昭和19年7月赤江基地は練習基地から第一線の作戦基地への編成方針が打ち出され正式に作戦基地として開隊したのは、昭和19年10月10日である。

昭和19年10月12日台湾沖航空戦に突入した。
当日赤江基地に展開していた陸海軍機の攻撃隊及び雷撃隊の出撃となった。
赤江基地を主軸として発進又は中継基地として作戦に参加した海軍機は、「一式陸上攻撃機」をはじめ344機、陸軍機は「飛龍」延200機、総機数544機である。
この作戦における戦死者数は海軍635名、陸軍80名である。

戦局はこの作戦終結とともに勝機が空しく去った。
一死これが戦局の好転をもたらすとは思わない。
徒死を待つより大空に散るを潔しとする特別攻撃隊にすべてを托し国に報ゆる信念に燃える陸海の若鷲は愛機とともに敵空母に体当り攻撃を敢行した。
それは総力をあげて比島レイテ湾に突入する帝国連合艦隊に悲運の翼なき第一航空艦隊が送る最後のはなむけであった。

昭和19年10月25日第一神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣である。
海軍における神風特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は布告第59号を始め布告第259号を最後に2,507名になる。
陸軍における特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は1,392名になる。
特別攻撃隊の隊員のほとんどがこの赤江基地を飛びたち直接攻撃に参加したもの、或いは中継基地として比島・台湾・沖縄で特攻作戦に参加し、我が身命を捧げることにより愛する肉親や懐かしい故郷そして祖国を救い得るならばの一念に燃え未曾有の国難に殉じて散華した特別攻撃隊員若鷲の最後の地である。

昭和20年3月18日宮崎初空襲である。
米艦載機による銃撃は午前5時48分夜戦1機の銃撃に始まり午前8時までグラマン戦闘機延150機、午前10時まで延540機、正午より午後4時45分まで延200機、これを反撃したのが、第721航空隊の戦闘306、307両飛行隊の「零戦」90機である。

この初空襲以後の宮崎空襲による民間人の人的被害は死亡123名、負傷者176名である。

今大東亜戦において、有能な人材を失った戦争の責任は大きい。
若桜の蕾のまま散華した献身無私の先輩同期そして後輩の崇高な精神を今再び結び合い白砂青松の海岸線、無限に広がる紺碧の赤江灘と青い空は今もなお美しい姿を留めているこの地に無量の感をもって当時を偲び我々同志相集い宮崎県民及び全国の有志の浄財によって碑を建立し愛国の赤誠に殉じた友たち、宮崎大空襲における民間戦災犠牲者の鎮魂と世界恒久の平和と旅するものの空の安全の祈りをこめて民間航空空の殉職者の霊を合祀し忘れ去らんとする先人の偉業を顕彰し永く後世に伝え希うためゆかりのこの地に碑を建立し碑名を『鎮魂之碑』と銘記しここに碑を捧ぐ。



鎮魂碑合祀者名簿及び及び御芳名者名簿本堂に収納
一、陸海軍宮崎基地在籍部隊合祀名簿
一、海軍神風特別攻撃隊戦死者名簿
一、陸軍特別攻撃隊戦死者名簿
一、宮崎県出身陸海軍搭乗員戦死戦没者名簿
一、宮崎空襲時における戦災死亡者名簿
一、宮崎特攻基地慰霊碑建立基金芳名者名簿
          以上

昭和58年3月吉日
   宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟会一同


【宮崎県宮崎市本郷北方樋渡・宮崎空港の西側】

史跡 | 19:30:10 | Comments(0)
呆れた宮崎空港・・・
今日は帰宅する日・・・・
台風は更に九州に近づいている・・・
さて・・・飛行機は飛ぶだろうか?(大汗)
気になるところである・・・

が・・・朝、目が覚めたら外は相変わらずの快晴である!(驚)
あれ?・・・かなり強力な台風が近づいているはずなんですけど・・・(大汗)

ここで、予定を急遽変更することにした。
当初は、宮崎駅から電車で空港に向かおうと思っていたのだが、それをやめて・・・
タクシーで空港に向かうことにする。
で・・・途中、空港のすぐ近くにあるという「宮崎航空隊の慰霊碑」を参拝することにした。
今日は当然、朝から雨か、下手すりゃ土砂降りになると思っていたが、快晴なら慰霊碑を参拝しよう!

タクシーの運転手さんに慰霊碑の場所を言ったが、「知らない」という。
会社に無線で連絡して、誰か場所を知っているドライバーがいないかと尋ねるありさま・・・
仕方がないか・・・
戦後70年だの、戦争反対、平和平和を連呼する割には、こういう慰霊碑に全く興味を示さない人が多い。
慰霊碑を参拝することで、戦死した方々を思い、気持ちも新たに改めて平和について心に刻むべきだと思うのだが・・・
今の「平和運動」は、どうもミーハーのような気がしてならない・・・(汗)

午前8時30分、ようやく空港の片隅にある慰霊碑の場所に到着・・・

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大きな看板が出ている。
キチンと管理されている方々がおられるようで、なんとも嬉しい。

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ここは、海軍の宮崎航空隊、宮崎航空基地(当時は赤江飛行場)があった場所。
通常攻撃のほか、特攻隊もここから飛び立っていて、その方々の名前が刻まれた碑も建立されていた。

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空港のすぐ近くなので、タクシーには帰っていただき・・・(笑)
参拝後、徒歩で空港に向かうことにする。

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(左側が宮崎空港の滑走路、右が慰霊碑のある場所)

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タクシーで乗り付けた時には全く気がつかなかったが・・・門柱が残っていた!



史跡

此の門柱は、昭和18年12月1日赤江海軍練習航空隊発足時に設置されたものと伝えられています。
四十余年の風雪を物語る唯一の遺跡と言えましょう。

平成2年4月1日
宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会

(碑文より)



やっぱり、歩いてみないといけないな・・・(苦笑)
車で横付けしちゃダメだな・・・

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不審者と思われるんじゃないかとビクビクしながら空港の敷地沿いを歩く・・・・(大笑)
なにせ、周囲は倉庫のようなものしかないような、どこかの企業の敷地のような感じなのだ。
ようやくそこを抜け出して道路に出たら・・・
あら・・・ちゃんと大きな看板が出てたじゃないの。(苦笑)

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案内図の隣りには掲示板・・・
平成26年4月6日に開催された第31回慰霊祭の様子の写真が掲示されていた。
へぇ~・・・・さすが、今でも慰霊祭を開催しているんだ・・・

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門柱に「宮崎空港」のプレートが・・・
はぁ?・・・・もしかしたら、この敷地が古い宮崎空港の入口だったのかな?
で・・・隣りに新しい空港ターミナルを造ったのかな?(笑)

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ここを歩いていいのでしょうか?・・・・と不安になるような歩道をテクテク歩く・・・
まぁ、徒歩で空港に行こうという人は滅多にいないだろうから仕方がないか・・・
空港に直通しているらしい電車が見えた・・・
本当は、あれに乗るつもりだったんだけど・・・
あれに乗って、空港に来てから徒歩で慰霊碑を探そうとしたら、無理だったかも・・・
この順番でよかったと今さらながら自分の幸運を喜ぶ。(笑)

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15分ぐらい歩いて空港に到着・・・・
ん?「宮崎ブーゲンビリア空港」?
この空港は、そういう名前なのか?
「宮崎空港」じゃなくて「宮崎ブーゲンビリア空港」が正式名称なのか?(汗)
う~ん・・・
ならば、我が茨城空港も何か別称を考えねばなるまい!(笑)
「茨城納豆空港」!
う~ん・・・糸が引いてスムーズに離陸できないイメージだな・・・(大笑)
ならば、「茨城あんこう鍋空港」っていうのはどうだ?
筑波山が近いから「茨城ガマのあぶら空港」っていうのは?
いずれにせよ、垢抜けない名称になるか・・・ダメか・・・
一人で想像しながらニヤニヤ・・・(苦笑)

チェックインするまで時間に余裕がある。
こういう時は、コーヒー飲んで時間潰しをするより、“探検”したほうがいい。(大笑)
どこかに「宮崎海軍航空隊跡」の碑でもないかと空港の端から端まで歩いてみる。(笑)

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が・・・結局、何も見当たらなかったので、今度はターミナルビルの中を散策・・・(笑)

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空港のターミナルビルというより、どこかのデパートのような雰囲気である。(大笑)

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これは、「のぼり猿」という郷土玩具だそうだ・・・
空港の天井から吊るされていた。(笑)
面白い・・・



のぼり猿について

「のぼり猿」とは、宮崎県延岡市に古くから伝わる郷土玩具で、江戸時代から延岡藩の武士の妻たちが手内職として作り始めたとされ、張り子の猿は菖蒲(しょうぶ)絵の幟(のぼり)にさげられ、風を受けると竿を伝って昇ります。
これは、子供の立身出世、無病息災、五穀豊穣を願ったもので、端午の節句に一緒に揚げられていた宮崎県を代表する郷土玩具です。
宮崎空港の「のぼり猿」は、延岡市の郷土玩具「のぼり猿」をモデルに、平成8年、今から19年前に誕生しました。
体長は83cm。
旗の部分は、宮崎をモチーフに宮崎市の花「花菖蒲」、宮崎県の花「はまゆう」、宮崎市の花木「椿」を描いています。
チャームポイントは、青い烏帽子(えぼし)と、可愛いお尻にしっかり締めた赤いフンドシ!!
子供たちの健康を願って上空から見守ります。

(説明パネルより)



まだまだチェックインするまでには時間がある。(汗)
今度は屋上にある「エアプレーンパーク・飛行機のある展望公園」に行ってみる。(大笑)

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屋上にあったのはセスナ機・・・ガッカリ・・・(苦笑)
ここに零戦が置いてあったらいいのにねぇ~(大笑)
九六式陸上攻撃機でもいいけど・・・ちょっと大きすぎるか・・・(大笑)

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屋上から見た景色は、大して面白くもない・・・・(苦笑)
でも、マニアにとっては、垂涎の場所なのかも・・・
拙者には、よくわからないが(苦笑)・・・一眼レフを構えて写真を撮っている人たちがいた。(苦笑)

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宮崎空港って、海に飛び出しているんだ・・・(大汗)
昭和31年当時は、A滑走路が1300m、B滑走路が1340mあったらしい。
多分、戦時中とたいして変わっていなかったのではあるまいか?
その後、B滑走路がなくなり、滑走路が1本となって、更に長さも長くなり・・・
現在は2500mの滑走路1本となっている。
内陸に伸ばせなかったので海側へ伸ばしたわけか・・・

そろそろチェックインをしようかと思い、その前にトイレへ・・・(笑)
と・・・洗面台に黒いカバンが置いてある。
が・・・トイレには誰もいない・・・
はぁ????
しばらく様子を見ていたが、誰も取りに戻ってこない・・・
忘れ物か?・・・それとも不審物か?
仕方がないので近くのお土産屋に行って、カバンが置き去りにされていることを伝える。
「警備員か誰かに伝えてください。忘れ物だとかわいそうだし、不審物だとマズイでしょ」
で・・・もう一度、トイレに戻ってみたが、やっぱり黒いカバンは洗面台に置かれたまま・・・
この持ち主は置き忘れて搭乗口に入っちゃったのか?
再び戻って売り場のオバサンにどうなったか尋ねた。
「一応・・・伝えたと思うけど・・・」と答えが曖昧・・・
自分で伝えず、さらに誰かに伝えたらしい・・・
「それじゃ、ここにそのカバンを持ってきてください」と言う。
「あのね、不審物だったら勝手に動かすわけにはいかないでしょ!」(怒)
「あ・・・そうか・・・」とオバサン・・・
警備員に伝えたのかと尋ねたが返事が曖昧・・・
もう一度、トイレに確認に行く・・・
と・・・トイレの近くでキョロキョロしている人が・・・
「あのぉ~カバンをお探しでしょうか?」と声をかけたら、「違うけど・・・どうしたんですか?」と言う。
事情を話してトイレに入ったら、手を洗っているオッサンがいた・・・
「あのカバン、ずっとあそこに放置されていたんで、今、警備員を呼ぶように言ったんですけどね」と拙者が言ったら・・・
このオッサン・・・「これは俺のだよ!このカバンだろ?俺のだよ!」と憮然としている。
「ここに置きっぱなしになっていたので不審物かと思いましたよ」
「え?・・・俺のだって言ってるだろ!」
なんだ、このやろう!・・・・である。(怒)
例の如く“常識のない団塊の世代”のオッサンである!
洗面台にカバンを置いたままウンコをしてたのか?
「すみません」くらい言えないのかねぇ~
よく洗面台にカバンを置いたままトイレに入れるものだ・・・
盗まれるとは考えないのだろうか?
事の次第をお土産売り場のオバサンに伝えたら、呆れた顔で睨まれた・・・(驚)
余計なことで騒ぎやがって!・・・という顔である。
とうとう、警備員も警官も空港職員も誰もトイレに来なかった・・・・(唖然)
どうなってるの?・・・宮崎空港の危機管理は?(怒)
これが外国だったら大騒ぎである。
過去に日本人の学生が海外でベンチに自分のリュックを鎖で固定して放置したまま、近くに買物に行っていたという事件があった。
当然、ベンチに置き去りになっているリュックは不審物として通報され、警官が集まり、大騒ぎ・・・
この学生は身柄を拘束されて、(逮捕はされなかったと思うが・・・)こってり絞られた。
これが世の中の常識である。
平和ボケした日本人は危機管理が甘い・・・
どうしてカバンを放置した人ではなく通報した拙者が睨まれなくっちゃならないんだ?
いずれ、もし、宮崎空港でテロ事件が発生して犠牲者が出ても拙者は絶対同情はしない・・・・
自業自得である!
いつまで経っても警備員も職員も不審物の確認に来ない空港ってどういう空港なんだろ?
宮崎空港・・・呆れた空港である!(怒)
危ないから二度と使わないようにしよう・・・(大笑)

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午前11時の便で羽田に向かう・・・・
窓の外を見たら海が見えた・・・
台風の接近でかなり荒れている。

で・・・・機内だが・・・・空席ばかりで貸しきり状態である。
拙者は主翼より後ろの席だが、周囲を見渡しても拙者を含めて5人しか乗客がいない!(唖然)
前方の席も似たようなものだろう・・・
全部で20名いるかどうかではなかろうか?(唖然)
スチュワーデスに尋ねたら・・・
「台風の影響で運休するかもしれないということで皆さん早朝の便に切り替えたりキャンセルしたようです」との事。
台風の事をすっかり忘れていて、運休するかもしれないなどという心配をしなかった拙者はマヌケか?(大笑)

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まもなく腹が減ってきた・・・(苦笑)
時刻は12時である・・・・
あ!・・・昼飯を食べるのを忘れていた!
マヌケである。
空港内を“探検”する暇があったら、食事をしておくべきだった・・・
機内食が出るものと勝手に思い込んでいたが、これは国内線だっけ!(大汗)
いつも国際線にしか乗らないので、ついつい機内食が出るものと思ってしまう・・・(涙)
失敗したぁ~(涙)
別の意味の危機管理ができていないな・・・(大汗)
仕方がないので、機内でスナック菓子を買い、空腹を満たすことにする・・・(涙)

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12時45分・・・無事に羽田空港に着陸・・・
台風が接近している割には飛行機は揺れなかった・・・・(笑)

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空港からは、初日同様にバスに乗ってJR蒲田駅まで行ってみることにする。
行きと帰り、両方を経験して、今後の羽田空港利用の際の参考にしようと思う。

蒲田に着いたら、道路はビショビショ・・・・
どうも午前中にかなりの雨が降ったようである。
いやぁ~なんとタイミングのいいことか・・・(大喜)
今回の旅行は、台風接近で大荒れの予想だったが、傘も差さずに終わってしまった!
なんと運のいいことか・・・と嬉しくなったが、まてよ・・・
もし、今回の旅行で運を使い果たしていたら・・・今後が恐い・・・(苦笑)

旅行 | 10:33:21 | Comments(0)
安井息軒旧宅
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国指定史跡
安井息軒旧宅
指定年月日 昭和54年5月22日

この地は幕末の儒学者安井息軒(やすいそっけん)の旧宅である。
息軒は寛政11年(1799)1月1日ここで生まれた。
諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
学問所で子弟の教育にあたっていた父滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘痕面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。
22才で大阪の篠崎小竹(しのざき・しょうちく)に師事、26才で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
29才で帰郷した息軒は、森鴎外著『安井夫人』に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわぞえ・さよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校明教堂(めいきょうどう)創建に携わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。
天保2年(1831)、明教堂創建の実績が評価され、藩校振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥(おび)城下(現日南市飫肥)に転居する事となる。
天保7年(1836)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、永年に渡り書生を教授し、谷干城(たに・たてき)、陸奥宗光(むつ・むねみつ)ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙(はなわ)代官を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢等を理由に辞退したこともあった。
この間「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」等多くの書を著している。
明治9年9月23日、77才で東京に没し、遺骸は家族や門人たちの手で東京都文京区千駄木の養源寺(ようげんじ)に葬られた。
現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
この地は息軒等が飫肥に転居後居住者も幾度か替わったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。
平成4年度から5年度には国及び県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内のもとの位置に移動させるとともに、屋根を茅葺きにするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。

宮崎市教育委員会

(説明板より)


【宮崎県宮崎市清武町加納甲3368-1】

史跡 | 13:41:07 | Comments(0)
聖跡顕彰歌碑
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聖跡顕彰歌碑

日の本の本の光と仰ぐかな
     朝日たださすみや崎の宮

この歌碑は、宗教法人国柱会創立者田中智学先生が、皇宮屋の聖跡参拝の折よまれた感詠を、地元有志によって歌碑建設を志し、昭和10年5月26日除幕されたものである。
碑の背面にその顕彰記が、田中先生によって左記のごとく録されている。
本年、この地に国柱会会員宮崎大会を催すにあたりこの解説版を設置する。
  昭和11年10月 日     宗教法人 国柱会

聖跡顕彰歌碑之記
日向の国宮崎の丘上なる皇宮屋(こぐや)の地は、神武天皇宸居(しんきょ)の跡なりと伝えられ、わづかに一小字ありて荒廃年久し。
昭和4年7月、予、神宮参拝の時此跡を訪ひ、感懐の腰折(こしおれ)一首を寄せて、地方の有志に聖跡顕彰(せいせきけんしょう)の事を勧説す。
明治会宮崎支部委員長赤間與三次(あかま・よさじ)氏、先ず発奮唱導して有志に計りて其議を立つ。
参同忽ち臻(あつま)り、君島知事及び明治会宮崎支部委員長新原(にひはら)少将等同志協力して、遂に本年10月御東遷(ごとうせん)二千六百年の大慶典挙行に伴ひ、皇宮屋聖跡の事も実現し得て、尊祖追遠(そんそついおん)の風化を扶(たす)け、民心作興(さっこう)に資益する所大なるものあるは、洵(まこと)に昭代(しょうだい)の一美擧なり。
茲(ここ)に有志相議し、聖跡の光揚と共に国体精神の涵養(かんよう)を助けんため、初発の因縁たる予の歌を刻して、傍(かたわら)に建つべく予の揮毫を需(もと)めらる。
予は吾愚詠(わがぐえい)悪筆の神域を汚さんことを恐れて躊躇(ちゅうちょ)せるも、顕彰の起因拙詠(せつえい)より発せる由縁(ゆえん)を思ひ、其懇請を納(い)れ、自ら歌詞を書し、因(ちな)みに縁起を碑背に記す。
   昭和9年12月    田中智学

(説明板より)


【宮崎県宮崎市下北方町横小路・皇宮神社】

史跡 | 11:55:00 | Comments(0)
聖跡皇宮屋の碑
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聖跡皇宮屋

恭シク惟フニ
神武天皇肇國ノ大業ヲ恢弘シ給ハンガ
為メニ日向國ヲ御進發アラセラレシヨリ
正ニ二千六百年茲ニソノ當日十月五日
宮崎神宮ニ於テ記念ノ大祭ヲ奉修ス此ノ
皇宮屋ノ地ハ 天皇御進發以前天下ヲ知シ
タシ給ヒシ處ト傳ヘラルゝ霊域ナリ今之ヲ祓浄シ
施設新ニ成ル乃チ碑ヲ立テ其ノ由ヲ記ス

  昭和九年十月五日
    宮崎縣知事  君島清吉
    神武天皇御東遷記念 二千六百年祭全國協賛會長伯爵 松平頼壽

(碑文より)


【宮崎県宮崎市下北方町横小路・皇宮神社】

史跡 | 11:29:25 | Comments(0)
宮崎を歩く
午前6時起床・・・8時、ホテルを出発!
今日は宮崎の観光である。(喜)

まず、最初にタクシーで宮崎神宮に向かう。

361_convert_20151031101444.jpg (神池)

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境内は鬱蒼とした森である・・・・
朝から森林浴・・・気持ちがいい・・・
案内板も出ているので助かった。(笑)
これがないと道に迷いそうである。



宮崎神宮略記

当神宮は神武天皇(神日本磐余彦尊)(かみやまといわれひこのみこと)を主祭神とし、相殿には鸕■草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)(御父君)と玉依姫命(たまよりひめのみこと)(御母君)が奉斎されている。
天皇は45歳の御時、天下統治に応しい地(ところ)を求めて日向国を御出発、数々の苦難の末に大和地方を平定され、第1代の天皇として即位された。
後に皇子神八井耳命(かむやいみみのみこと)の御子(建磐龍命)(たけいわたつのみこと)により、天皇の御神霊が当地(皇居高千穂宮の霊地)に鎮祭され今日に至っている。
古来より神武天皇宮或は神武天皇廟と称されて歴代領主の尊崇篤く、明治維新に際し神武創業の昔に復えるという事で、特に注目、重視された。
明治18年、官幣大社に昇格、社名も同11年、宮崎神社から宮崎宮と改称され、大正2年に現在の宮崎神宮となった。
その間の明治31年、神武天皇御降誕大祭会(総裁公爵二条基弘、会長伯爵島津忠亮、幹事長男爵高木兼寛)が発足し、社殿の造営・境内地拡張等の大工事が進められた。
特に明治天皇には御内帑金を下賜あらせられ、これを契機に全国的規模の募金活動が展開された。
同40年に竣工、遷座奉告祭が斎行され、更に同年11月、嘉仁親王殿下(大正天皇)の御参拝を給わった。
以後皇族方の御参拝が続いた。
殊に昭和天皇には皇太子裕仁親王殿下の御時、大正9年を始めとして六度の御参拝を給わった。
又皇太后陛下には大正12年、久邇宮良子女王殿下として御成婚御奉告を始めとして陛下と共に二度の御参拝を給わっている。

(説明板より)



どうも、神様の名前というのは難しくてよくわからん・・・(汗)
振り仮名が振ってあってもねぇ~・・・・発音しづらいわ、覚えられないわ・・・(苦笑)

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ん?・・・なんか、神社自体はこじんまりしている感じなんですが・・・(苦笑)
想像以上に・・・遥かに・・・小さい・・・(大汗)
ちょっと拍子抜け・・・(大笑)

それでも、朝に神様に御参拝とは、身が引き締まる・・・
が・・・
本来の拙者の目的地は、実は、ここではない・・・(大笑)
すぐ近くにある護国神社のほうなのである。(苦笑)
神様には申し訳ないのですが・・・
拙者にとっては、英霊のほうが“上位”でして・・・(汗)

367_convert_20151031111841.jpg (宮崎県護国神社)

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ちょうど、神社は拝殿の増築工事中だった・・・・



宮崎県護国神社

祭神
国家公共に尽した人の神霊

由緒
護国神社は全国道府県に52社あって、他県の場合は明治維新の当時に創立され、既に戦前より慰霊の祭儀が行なわれていた。
しかし、宮崎県の場合は諸般の事情により創立が遅れ、昭和18年に至り宮崎市下北方の高台に創建することになって建設工事を始めたのであるが、建設の途上に昭和20年8月15日終戦となり、連合軍の占領下にこの建設は取り止めることになった。
講和条約の発効に伴って、県民からの護国神社再建の要請が高まり、昭和28年4月より浄財を募って再建に着手し、昭和30年3月10日竣工し、同日御祭神の鎮座祭を斎行した。

例大祭  4月10日
みたま祭 8月14日・15日
命日祭  毎日午前11時

(説明板より)



境内にはいくつもの慰霊碑が建立されている。

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これは永峯肇という人の慰霊碑・・・・
彼は昭和19年10月25日、日本で初めての特攻隊である神風特別攻撃隊敷島隊の4番機として散った人である。
彼が飛び立った、フィリピンのルソン島マバラカットの飛行場跡に建つ慰霊碑には何度もお参りに行っているが・・・
あらぁ~彼は宮崎出身だったのか・・・
慰霊碑があるとは知らなかった。(驚)

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こちらは歩兵第72連隊の慰霊碑・・・
フィリピンのルソン島で戦った部隊である。
拙者の祖父が戦っていた同じルソン島で戦った部隊・・・・
おかしな話しだが、懐かしいなぁ~という気がしてしまう。

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こちらは、ブーゲンビル島で戦った陸海軍部隊の鎮魂碑。
碑文によれば、宮崎県出身の戦没陸海軍将兵は5千名に達するそうだ・・・
ブーゲンビル島には以前、行ったことがあるので、これまた何とも懐かしい・・・・

この他にも、いくつもの慰霊碑があるので、一つ一つ丁寧に見て歩く。

で・・・境内に「遺品館」もあり、見学できるとの事なので、内部を見学させてもらう。

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時刻は午前10時になる・・・
この護国神社だけで1時間半も時間をかけてしまった・・・(大汗)

続いて向かったのは、総合文化公園・・・・
護国神社から、道路を挟んだ向こう側・・・という位置である。(笑)
この公園には銅像が数体建っておるのだ。
この写真を撮りに行くのが目的・・・(笑)

461_convert_20151031205816.jpg (安井息軒)

安井息軒・・・この人は江戸時代の儒学者である。

471_convert_20151031210332.jpg (高木兼寛)

高木兼寛・・・・この人の名は知らないのだが・・・
日本最初の医学博士だそうで、脚気の原因の研究をしたそうだ。
その研究の延長線上に「ビタミン」があるので、この人は「ビタミンの父」と呼ばれたと碑文にある。
「ビタミン」と聞くと、つい思い出すのが鈴木梅太郎・・・・
「ビタミンB1」を発見した人だったと思う。
小学6年生の時に、鈴木梅太郎の伝記を読んだことを覚えている。
内容は・・・すっかり忘れてしまったが・・・(大笑)
「鈴木梅太郎」と「ビタミン」だけは覚えている・・・
ビタミンを発見したのだから、鈴木梅太郎はすごい人だと思うのだが、有名ではない・・・(涙)
野口英世くらい有名になってもいいと思うのだが・・・(汗)
高木兼寛に至っては、もっと知られていないと思う。(拙者の勝手な推測ですが・・・)
にもかかわらず・・・「ビタミンの父」なのである。
鈴木と高木・・・どっちが「元祖」なんだろう?(苦笑)

この公園には、この他に、歌人の若山牧水、宮崎県初代県議会議長の川越進、明治期の慈善事業家で孤児院を作った石井十次、外務大臣をやった小村寿太郎などの銅像が建っている。

石井十次の銅像は、その昔、岡山に行った時に胸像をカメラに収めたことがある。
久しぶりの石井十次である・・・(喜)

515_convert_20151031215650.jpg (小村寿太郎)

小村寿太郎の銅像を見たときに・・・・あれ?
誰かに似てる・・・・と思ったら、そうだ!・・・・加藤友三郎の銅像だ!
広島に行った時に撮影した加藤友三郎の銅像に似ている・・・(大汗)

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(広島市中央公園にある加藤友三郎の銅像)

制作者は別人なんだけど・・・シルクハットにフロックコートとなると、どうしても似ちゃうかも・・・(大笑)

次に向かったのは、平和台公園・・・・
ここにあの有名な「八紘一宇」の塔がある。
一度、この目で見て見たいと思っていたので、それが実現すると思うと、つい興奮してしまう。(大笑)
歩いて行けないこともない距離だろうと思い、徒歩で向かったが・・・
なだらかな坂道を登る破目に・・・
この“なだらかさ”が、運動不足の拙者の足には堪えるのである。(涙)

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住宅街の向うに森が見える・・・
その森の中から、ニョキッと塔の頭が・・・
ある意味、異様な風景である・・・(大笑)

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変な話しだが・・・どこかの異星人の宇宙船が森の中に着陸しているっていう感じ・・・(大汗)
どう表現すればいいのか・・・正直言って、ブルブルッと身震いするような“感動”・・・・

近くまで来たが、入り口がわからない・・・・(笑)
大きな看板でも建っていると思ったのだが・・・
あとは勘に頼るしかない・・・・

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公園の入口と思われる場所に銅像を発見!(喜)
相川勝六という宮崎の振興に尽力した政治家の銅像である。

長い石段を半分貧血を起こしながら登りきったら・・・あった!
「八紘一宇」の塔である!(大喜)

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県立平和公園

この公園は、紀元2,600年記念事業として県奉祝会が中心となり県内はもとより広く国内外の有志の協賛をえて、「八紘之基柱(あめつちのもとばしら)」の建設と広場2,600坪(8,580平方メートル)の■成を行ない昭和15年11月25日に完成した。
この台地は、神武天皇ご東征当時の宮居の跡といわれる「皇宮屋(こぐや)」の北部に位置し、海抜60メートル、下北方古墳群に■まれている。
台上の塔は、高さ36.4メートルで■内各地をはじめ当時世界各地に在住した日本人団体及び友好諸国から寄せられた切石1,789個を含む石材834立方メートルで築かれ、作業員は奉仕団を含め延べ66,500人、総工費67万円を費やしている。
塔は日名子実三氏の設計になり、外形は神事に用いるご幣を象徴しており、左に向かって荒御魂(あらみたま)(武人)、奇御魂(くしみたま)(漁人)、幸御魂(さちみたま)(農人)、和御魂(にぎみたま)(工人)の四像を配し、昔の生活風俗をしのばせている。
正面には、秩父宮雍仁親王殿下の真筆による「八紘一宇(はっこういちう)」の文字が永遠の平和を祈念して刻みこまれているが、終戦の昭和20年8月にはその精神が戦争目的に利用されたとして削除され、「荒御魂」像もまた武力を象徴するものとして取り除かれ、その後、塔は「平和の塔」と呼ばれるようになった。
しかし、昭和32年4月9日に都市公園の決定をうけて公園整備が進むにつれ、美術工芸品としての塔の完全復元と保存の機運が台頭し37年10月5日に「荒御魂」像が、40年1月31日には「八紘一宇」の文字が復元された。
また、37年3月31日に、はにわ園、はにわ館が設置され39年のオリンピック東京大会の際は、国内聖火リレー第2コースの起点に選ばれ、9月9日この地に運ばれた聖火は翌10日県民歓送のうちに東京への第一歩をふみ出した。
これが機縁となり、オリンピックの主会場であった東京都の日比谷公園と姉妹公園の縁を結んでいる。
なお、県立都市公園としては、昭和35年度から45年度まで数次にわたる年次整備計画に基づき、県・市民の憩の場として拡充整備をすすめ、神話の国みやざきを象徴するにふさわしい姿を整えるにいたっている。

昭和46年3月31日
   宮崎県知事 黒木 博

(説明石板・碑文より)



拙者は「八紘一宇の塔」と呼ぶのだと思っていたが、説明文を読んでみると、「八紘之基柱(あめつちのもとばしら)」と言うらしい。
が・・・いつの間にか「平和の塔」・・・・(唖然)
「平和の塔」では、意味がわからないと思うんですけど・・・
そういう名称にしないと、塔自体の存続が危ぶまれたのだろうか?(汗)
塔の設計は、日名子実三という人・・・
ん?・・・聞いたことがある名である・・・
あ・・・・臼杵城に行った時に、この人が作った銅像があった・・・
日名子さんは大分県臼杵市出身の方である。(苦笑)
「八紘一宇」の文字は秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや・やすひとしんのう)殿下の真筆だったそうで・・・
「やすひと」というのは、ちょっと読めない字かも・・・(苦笑)
殿下は大正天皇の2番目のお子さん・・・・
当然、1番目のお子さんは・・・昭和天皇となられたわけで・・・(笑)
大正天皇には4人の男子のお子さんがおられ、末子の4番目のお子さんが、拙者が尊敬し敬愛する三笠宮崇仁親王(みかさのみや・たかひとしんのう)殿下である。
三笠宮殿下は、たしか、99歳・・・拙者が最後に殿下にお会いしたのは、殿下が92歳の時だったと思う。
今年の12月の誕生日を迎えると100歳になられる!(大喜)
残念ながら、秩父宮殿下のほうは昭和28年に50歳でお亡くなりなられており、現在は秩父宮家は断絶してしまっている。
その秩父宮殿下の真筆が戦後の「左翼思想」のせいで削られたのか?
復元された文字は、秩父宮殿下がお書きになられた文字なのだろうか?

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まもなく時刻は12時・・・
この公園に来るまでに、食事ができそうな場所は見当たらなかったので、公園内の売店で食事をすることにする。

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この公園には「はにわ館」なるものがあるそうだが・・・・・
余計なものを見ていると時間がなくなる・・・(大笑)
歩き疲れてはいるが・・・もうひと頑張り・・・(苦笑)
この公園に来るときとは別のルートを歩いて下に降りることにする。

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途中で「オロン坂」の説明板に出会う・・・・
どうも拙者が今、下ってきた坂道が「オロン坂」らしい・・・
説明板によれば、「さののみこと(神武天皇)」がそぞろ歩きをした坂だから「皇路坂」と呼ばれるようになったとか・・・
「スサノオノミコト(牛頭大王)」が、たどたどしい足取りで歩いた坂だから「オロの坂」と言われたとか・・・
どうも“神話”の世界の話は興味がないのでチンプンカンプン・・・(苦笑)
何の話やらサッパリわからん・・・
いずれにせよ・・・・「オロン」って、とてもじゃないが日本語とは思えない・・・(汗)

更に歩いていると、目立つ看板がある駐車場に出会った・・・・(笑)

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皇宮神社?・・・
神武天皇御東征進発の地?・・・・
う~ん・・・よくわからないから、このまま通り過ぎようと思ったのだが、なんとなく気になった・・・(笑)
やっぱり、ちょっと立ち寄ってみるか・・・

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石段を登って先に進むと・・・・あれ?・・・・何もない・・・(汗)
原っぱに塔が建っているだけ・・・

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「皇軍発祥之地」と刻まれた塔・・・・
帝国陸海軍が、この地で生まれたとは思えませんが・・・(大汗)
“皇軍”って、神武天皇が率いた軍勢のことかな?(苦笑)
何の説明板も建っていないのは残念である。
宮崎市の教育委員会で何かしらの説明板を建ててくれるといいんだけどなぁ~
「紀元二千六百年 宮崎縣奉祝會」と「紀元二千六百年 陸軍大将杉山元書」の文字が刻まれているだけ。
この揮毫は杉山さんか・・・・
杉山元(すぎやま・げん)は、陸軍大臣を歴任し、日米開戦時には参謀総長だった人。
皇紀2600年は、昭和15年のことだから、ちょうど参謀総長になった頃に、この塔が建てられたのかも。
終戦後、しばらくしてから拳銃自殺をした。
その直後、国防婦人会の役員をしていた奥さんも自殺をし、夫婦で戦争の責任を取られた・・・
杉山大将(元帥)に対してその指導力について批判する人もいるが・・・
散々好き勝手なことをして、いい加減な方針と作戦を立てて多くの将兵を殺しておきながら、その責任を取らず自決もせず、平然と戦後を生き永らえた連中と比べたら、拙者は、死を持って責任を取った、この人は偉いと思う。

さて・・・神社はどこだ?(大笑)
奥のほうに鬱蒼とした森があるので、その中かな?(笑)
向かってみたら、勘が当たった。(喜)

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あれ?・・・・拍子抜けするほど小さな神社だった・・・(苦笑)


宮崎神社 摂社
皇宮(こうぐう)神社

1.御祭神
   神日本磐余彦天皇(かみやまといわれひこのすめらみこと)(神武天皇)
2.相殿
   吾平津姫命(あひらつめのみこと)
   手研耳命(たぎしみみのみこと)
   渟名川耳命(ぬなかわみみのみこと)
3.特殊神事 はやま祭(旧正月14日)
4.御鎮座は、宮崎市下北方町皇宮地で神武天皇宮崎の宮の跡(江戸時代の碑)と伝えられる聖地である。
5、明治10年3月、宮崎神宮の摂社に列せられた。
  昭和9年境域の拡張整備が行われて「聖跡皇宮屋」の記念碑が建てられた。
  昭和10年11月の陸軍大演習の際には、昭和天皇のご巡覧という光栄を得た。
  現在の社殿は昭和51年に竣工、同年7月遷座祭が行なわれた。

(説明板より)



皇宮神社を参拝後、さらに歩く・・・・(笑)
まもなく「宮崎県総合博物館」のところまで戻ってきた。(笑)
博物館好きの拙者としては、見学したい衝動にかられるのだが・・・
時刻は午後1時を過ぎた・・・・
ここで博物館を見学すると、それだけで今日一日が終わりかねない・・・(汗)
博物館には気がつかなかったことにしよう・・・・(大笑)

さて・・・次は、清武という場所にある「きよたけ歴史館」に行く事にした。
この歴史館のそばに安井息軒の生誕地があり、歴史館にも彼についての資料が展示されているらしい。

清武まで電車に乗って行こうと思い、近くの「宮崎神宮駅」に行く。

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ん?・・・・駅に駅舎がない!(汗)
どうもホームで切符を買うようである・・・・
ホームに行って時刻表を見たら・・・・電車がない!
1時間に1本あるかどうか・・・である。
このホームで1時間も待つようなのか?
いやぁ~宮崎って大都市だと思っていたのに何て不便なんだろう。
たまたま居合わせたオバサンに、この時刻表は正しいのかを確かめたら、本当に正しいそうだ・・・(唖然)
この地元のオバサンも、この本数の少なさには呆れていた。(笑)
・・・・電車に乗るのを諦め宮崎駅方向に歩くことにする。

とにかく今日も暑い・・・・
暑くてフラフラ、歩き疲れてフラフラ・・・(大笑)
大通り沿いを歩いているのに、タクシーと全く出会わない!!(怒)
電車は本数が少ないわ、タクシーは走っていないわ・・・・なんと不便な町なんだ!(怒)
疲れが溜まってイライラしてくる。
もう歩くのも限界か・・・と思ったらタクシー会社を見つけた!(大喜)
なんと運がいいんだろう・・・・・
タクシーで清武まで向かう・・・・

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「きよたけ歴史館」は、民家が点在する田舎の高台にポツンと建っていた。
全然目立たない場所にあるので、タクシーの運転手さんが「知らない」と言ったのも無理はないかも・・・・(苦笑)
「安井息軒の旧宅」と言って、ようやく通じた次第である。(笑)

館内は撮影禁止だが、ロビーの銅像はOKとのこと。(大喜)

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安井息軒
1799~1876

安井息軒は幕末から明治初期にかけて活躍した日本を代表する儒学者です。
寛政11年(1799)に、飫肥藩士安井滄洲の次男として清武中野に生まれました。
幼くして学問を志し、大坂、江戸で苦学して帰郷、清武郷校「明教堂」、飫肥藩校「振徳堂」で飫肥藩の教育に尽くし、後に江戸に移住して私塾「三計塾」を開きました。
「三計塾」は“江戸に集う書生が最後に門を叩くところ”と評価され、全国から俊英が集い、紀伊の陸奥宗光、土佐の谷干城、長州の品川弥二郎、米沢の雲井龍雄など、新時代を切り開いた幾多の人材を育てました。
文久2年(1862)には幕府儒官として昌平坂学問所教授となり、晩年は『論語集説』『管子纂詁』等業績的な著書を著し、江戸期の儒学研究を集大成するとともに、近代漢学の礎を築きました。
明治9年(1876)9月23日、77歳で東京に没し、その墓所は現在東京都の史跡に指定されています。
この像は、清武町文化会館前に建立された安井息軒像の原型です。
製作者である清武町出身の宮崎大学名誉教授平原孝明氏から寄贈されたものです。

(説明プレートより)


それほど大きな資料館ではないので、40分ほどで見学を終了。(笑)
この歴史館と道を挟んだ反対側に「旧居」があるというので見に行く。

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604_convert_20151102212739.jpg (安井息軒先生誕生地碑)

「きよたけ歴史館」に戻って職員の方にタクシーをお願いする。
職員の方が過去の図録をタダでくれた・・・(驚!)(大喜!)
普通はお金を払って買うものなんですけど・・・
「差し上げます」とのこと・・・・なんと親切な方か・・・・(大喜)
拙者のホームページを教えてあげて、事務所のパソコンで見てもらう。
このサイトの管理者が拙者でございます・・・(大笑)
で・・・・ご感想は?
「内容が多すぎて見切れない」と笑われた・・・・(大笑)
ごもっともでございます・・・・友人にも大変不評なサイトなのです・・・・(苦笑)
タクシーが来るまで、かなり時間がかかるようなので、歴史館の周囲をウロウロ・・・
(実はタバコが吸いたかったので灰皿を探していたんですけど・・・)(笑)
建物の裏に、安井息軒と夫人の“廟”があった・・・
立派な廟に驚いた。

623_convert_20151102214037.jpg (安井息軒廟)

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(安井息軒廟から見た景色)

今日の観光は、ここまで・・・・
さすがにクタクタ・・・・
タクシーで宮崎駅まで行き、ホテルに戻る。

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宮崎駅前で見かけた看板・・・・
やっぱり宮崎といったら「神話のふるさと」ということになるか・・・・・(汗)

631_convert_20151102220210.jpg (今日の夕食)

旅行 | 10:09:39 | Comments(0)
連合艦隊機動部隊 真珠湾攻撃発進の地
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聯合艦隊機動部隊 眞珠湾攻撃發進之地

碑文
日米関係が緊迫し、時の大勢に抗し難く、意を決した聯合艦隊司令長官山本五十六大将は、有事の作戦を想定して各地で激しい訓練を重ね、佐伯湾に集結した聯合艦隊の旗艦 「長門」から聯合艦隊機密作戦命令を発令した。
昭和16年11月5日命令第一号「対米英蘭戦争ニ於ケル聯合艦隊ノ作戦ハ別冊ニ依リ之ヲ実施ス」。
同11月7日命令第二号「第一開戦準備ヲナセ。Y日ヲ十二月八日ト予定ス」。
発令に並び、11月4日から6日にかけて、山本長官査閲のもとに、佐伯湾在泊中の聯合艦隊主力と佐伯航空隊を真珠湾の敵戦力と仮定し、飛行機隊による最終の攻撃訓練が行なわれた。
11月17日の午後には、湾内の機動部隊旗艦 空母「赤城」艦上において壮行会が開かれ、山本長官の切々たる訓辞を受け、翌18日、山本長官らに見送られて、南雲忠一中将の率いる機動部隊が、真珠湾攻撃の秘策を胸に、三三五五、択捉島単冠湾に向けて発進したのが、ここ佐伯湾である。
一縷の望みを託した日米最後の交渉も空しく、昭和16年12月8日未明、機動部隊は真珠湾を急襲し、遂に悲劇的な太平洋戦争に突入した。
戦後はや五十数年の月日は流れ、明治の末から昭和にかけて度々聯合艦隊が演習のため入港し、また太平洋戦争の起点となった佐伯湾は、過去の戦争も知らぬげに波静かである。
かつて国の存亡を賭けた戦いに、死を覚悟して出撃した雄々しくも哀しい海のつわもの達が、波枕に夢を結んだ風光明媚な佐伯の海よ永遠に平和なれと願い、戦没者の御霊安らかならんことを祈るものである。

平成9年11月18日建之
  歴進会

建碑の趣意
佐伯湾は、豊後水道の喉元に位置する天然の良港で、古くから海軍の重要な港であり、明治の末から昭和にかけて、度々連合艦隊が演習のため入港した。
世界の歴史を塗り替えた太平洋戦争の開戦に際しては、真珠湾攻撃の機動部隊発進の地として、佐伯湾がその起点となった。
歴進会は、戦後半世紀余の歳月の流れを思い、太平洋戦争に於ける佐伯湾の秘められた史実を後世に伝え、併せて恒久平和を願い、戦没者の冥福を祈るため、ここに記念碑の建立を計画、これを実施した。


碑銘を揮毫された山本義正氏は、太平洋戦争開戦当時の聯合艦隊司令長官山本五十六元帥の長男で、予備学生出身の元海軍士官である。

記念碑建立委員
  佐伯市下久部  檜垣 七郎
  佐伯市向島    赤松 勇二
  佐伯市常盤南町 宮田 光夫 
  佐伯市長島町  市野瀬 仁
  佐伯市常磐東町 増村 貞一郎
歴進会会長
  佐伯市中野西  河野 豊
設計施工
  株式会社 佐伯墓石販売
公園管理者
  佐伯市長 佐藤 佑一

(碑文より)


【大分県佐伯市・佐伯市平和祈念館やわらぎ】

史跡 | 16:58:08 | Comments(0)
矢野龍渓顕彰碑
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矢野龍渓顕彰碑

龍渓矢野文雄について
(1850~1931)
嘉永3年山手区に生まれる。
佐伯藩校四教堂に学び常に成績抜群であった。
上京して慶応義塾に入学、福沢諭吉の薫陶を受け、大隈重信の知遇を得て国会開設に力を注いだ。
郵便報知新聞を主宰し藤田茂吉(佐伯出身)、箕浦勝人、犬養毅、尾崎行雄など三田派の気鋭を集め政府系新聞東京日日に対し自由民権の論陣を張った病中口述した政治小説「経国美談」は当時の政治的自由を求める全国の青年に愛読され多大の影響を与えた他に浮城物語、新社会等の著書がある。
後年大阪毎日新聞副社長となり社の発展に尽力した。
鶴谷中学館への国木田独歩招へいは龍渓の依頼を受けた徳富蘇峰の人選によるものである。
碑文の詩は佐伯中学開校に帰郷の際、佐伯湾を望み尺間彦岳を仰いで佐伯の風土を歌ったものである。

結成15周年記念事業
佐伯ライオンズクラブ

昭和50年10月26日

(説明板より)


【大分県佐伯市・佐伯城三の丸跡】


史跡 | 15:25:28 | Comments(0)
独歩文学碑
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独歩文学碑

佐伯と国木田独歩
文豪国木田独歩は、矢野竜渓、徳富蘇峰の推挙で毛利高範旧藩主が創建した鶴谷学館の教師として赴任した。
佐伯在任はわずか1年足らずであったが、彼ほど佐伯の山野を深く愛し、遍く歩き、広く天下に紹介した作家は他にない。
源おぢ、春の鳥、鹿狩、小春、忘れ得ぬ人々、豊後の国佐伯、欺かざる記などの名作は湖畔詩人ワーズワースの詩境と佐伯の自然とを結んだからこそ生まれた独歩独特の文学作品である。
傑作春の鳥ゆかりの城山に此の碑を建てて独歩文学発祥の記念とする。
    佐伯史談会
    佐伯独歩会

設計主旨
私にとって、作家独歩は、「自然」への求道者と銘している。
求道の意は、自然への愛着や没入が、自己表現に於て、自然への憎悪や拒否と相克し ― 限りなく矛盾的自己同一的に昇華した、この作家の生きざまを看る故である。その故に作家独歩のイメージが、形態として焦点を結像するのは、楕円 ― 決して一つではなく、二つの点を結んで軌跡の合理する楕円形である。
私は、その終焉の日まで、■れむことなく続けられたあの相克を ― 独歩の世界の全てを、その軌跡の中に封じこんでいると考える。
    清田文永

基金協力者 安藤賢外265名
撰文■書   東階狩■熊義
刻石      (株)大洋石材 ■川 洋

昭和57年8月

(碑文より)


【大分県佐伯市・佐伯城二の丸跡】

史跡 | 14:39:18 | Comments(0)
佐伯城三の丸櫓門
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県指定有形文化財
佐伯城三の丸櫓門

指定年月日 昭和51年3月30日
所在地    佐伯市鶴谷79番地1

この櫓門は、三代藩主毛利高尚(たかなお)の時に、藩主の居館を山頂から三の丸に移した寛永14年(1637年)に藩庁の正門として創建された。
佐伯城の城郭建築物として唯一現存する遺構として城下町佐伯の面影を伝えている。

佐伯市教育委員会

(説明板より)


【大分県佐伯市・佐伯文化会館】

史跡 | 14:21:41 | Comments(0)
佐伯に行く
当初の予定より、1時間早く駅に着いたので、予定より1本早い電車で佐伯に向かうことにする。
なにせ、午後から雨が降るというんだから急がねば・・・(笑)

電車に乗って、しばらくして・・・何か違和感を感じる・・・(汗)
なんだろう?・・・と思ったら、わかった!(笑)

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原因は窓である!
車内がガラガラに空いていたので、わかったのだが・・・(苦笑)
窓は大きなガラスが1枚だけ・・・つまり窓に“柱”がないのである。
どうも落ち着かないと思ったら、これだ・・・(笑)

1時間程度で、佐伯に到着・・・

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ホームには、大きな看板が・・・・
佐伯は、2008年に映画『釣りバカ日誌』のロケ地になったらしい。
へぇ~・・・・と感心したが・・・この映画を見たことがないので、実は何も知らない・・・(大笑)

でも、こういうのって嫌いじゃないんだよねぇ~(大笑)
その町の駅に降りたとき、この町がどういう町なのかがわかる・・・
これって、いいと思うんだよねぇ~
アピールするものがないという町は、何かアピールするものを見つけるなり、作るなりする・・・
それが“町づくり”に繋がると思うんですよねぇ~
翻って、我が町の場合・・・どうなんだろう?
何もなかったような気がする・・・・(大汗)

ついでに、招き猫までお出迎え・・・(大笑)
いいな・・・・これも・・・(大笑)
これ、効果あるかも・・・拙者が茨城県からノコノコとやって来たんだから・・・(大笑)

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佐伯というのは「さえき」と読むのかと思ったら、「さいき」と読むのだそうである。
あら・・・どうも拙者にとっては発音しづらい・・・(苦笑)
以前、松阪市に行ったことがあるが、ここを拙者は「まつざか」と呼んでいたが、正しくは「まつさか」と呼ぶと聞いて驚いた。(笑)
濁音がないと、どうも発音しづらい・・・(大笑)
無理して発音しようとすると・・・「まつさか」ではなく、「まっさか」になってしまうのである。
これでは「まっさかさま」の「まっさか」である・・・(苦笑)
固有名詞の読み方というのは、なかなか難しい・・・

駅から徒歩で佐伯城へ向かうことにした。
午後から雨が降ると天気予報で言っていたが・・・そういう雰囲気がない・・・(汗)
晴れてるし・・・暑いし・・・喉は渇くし・・・
途中でコンビニに寄って飲み物を調達・・・
ついでに佐伯城までの道順を店員のオニイチャンに尋ねる。
駅から歩いてきたといったら呆れられた・・・(大笑)

駅から歩いて、約30分ほどで佐伯城に到着・・・(だと思った・・・)

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遠くに見えるのは、三の丸の櫓門らしい・・・
で・・・後ろに回ってみると・・・櫓が!

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「御下櫓」と言うらしい・・・
ん?・・・未だかつて聞いたことのない櫓の名前だが・・・
よく見たら、公衆便所だった・・・(大笑)
それで「おしもやぐら」か・・・(笑)
なかなか洒落ていて好きだなぁ~・・・・こういうの・・・
説明板に「平成2年3月建立」と書いてあった・・・(笑)

ここにきて、初めてわかったのだが・・・
佐伯城は・・・山城?(唖然)
事前に何の勉強もせずに来たからねぇ~(苦笑)

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この山の頂上にある「本丸」まで登るには、3つのルートがあるらしい・・・
さて、どのルートを使おうかと迷った挙句、一番右のルートを登ることにした。

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まあまあ、なだらかな山道である・・・・
しかし、この「なだらかさ」が、運動不足の我が身には堪えるのである・・・(苦笑)
しかも・・・
スーツ姿に重くて大きいショルダーバッグを肩から下げて、革靴で歩いているのである。(大笑)
どこから見ても場違いな格好である!(大汗)
しかも暑い・・・
しかし・・・雨が降らなかっただけ感謝すべきか?
これで傘を差して歩くのは無理・・・(苦笑)

30分ほどかかって、ようやく頂上に辿り着いた・・・

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おお、立派な石垣である!

頂上から見た景色・・・・

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なかなかの眺め・・・・
やっとの思いで登ってきた甲斐があったというものである・・・(笑)

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本丸跡には、二つに分かれた立派な石垣に木製の橋が渡されていた。
う~ん・・・天守閣から二の丸に渡る橋か?
どこにも説明板が見当たらないのが残念・・・
少し、説明が欲しいんですけど・・・・(苦笑)
これだけの石垣が残っているんだから、天守閣を復元したらすごいだろうなぁ~と思う。(笑)

さて、帰りは、同じ道を歩くのも芸がないので・・・(笑)
3本の道のうち、真ん中の道を下りる事にする。
が・・・・この選択は、ちょっとマズかったかも・・・(苦笑)

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この石畳は、当時からあったのかな?

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道は狭いわ、下り坂は急だわ、落ち葉で滑り易いわ、石がゴロゴロしていて歩きづらいわ・・・・
間違ってもビジネスシューズの革靴で歩くような場所ではない・・・(大笑)
しかし・・・時間は短縮できた。
20分で下りて来た!
下りなんだから当然か?(苦笑)

時刻は午後3時・・・
さて・・・どうするか・・・
とにかく、ブラブラと大通りに向かって歩いてみる。

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途中で「矢野龍渓生家跡」の碑に出遭う。
矢野龍渓って・・・誰?(苦笑)



矢野龍渓(1850~1931)

文学者・政治家・ジャーナリスト。
本名矢野文雄。慶應義塾卒。
【碑文】
龍渓矢野先生誕生之地
舊藩主毛利公所賜之邸地也
先生祖父多門厳父光儀之二
君居之先生因寄附以為本校
之属地也矣
(藩主より賜った先祖の地を佐伯小学校に寄附する)

明治45年1月建設

(説明板より)



まだ時間的に余裕がありそうなので「佐伯市平和祈念館・やわらぎ」というところへ行く事にする。
が・・・大通りを歩いても“流しのタクシー”に出遭わない・・・(汗)
山歩きをしたせいもあって、クタクタである・・・・(涙)
そのうち、偶然にもタクシー会社を見つけた!
ラッキーである!(喜)
降るはずの雨は降らないわ、タクシー会社を偶然にも見つけるわ・・・
やっぱり拙者の日頃の行いがいいのではあるまいか?(大笑)

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平和祈念館は、ちょっと珍しい形の建物だった。(笑)

館内はロビー部分だけが撮影可能・・・(涙)
館内のその他の場所は撮影禁止。
期待していた佐伯海軍航空隊等の資料の販売は・・なし!(涙)
無料の資料の配布も・・・なし!(涙)
そういう資料が手に入ると思ったのだが・・・残念である。

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ロビーに展示されている丸い物体は・・・
九三式機雷の残骸だそうである。(汗)

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屋外に展示されているのは、米軍機の残骸・・・・

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建物の裏(?)に、「聯合艦隊機動部隊 眞珠湾攻撃發進之地」の碑があると、職員の方に案内していただいた。
「佐伯海軍航空隊跡」の碑のようなものはどこかにないかと尋ねたら、そういうものはないとのこと・・・
あら・・・残念・・・(涙)
「佐伯海軍航空隊」もしくは「佐伯航空隊基地」というのは、結構、有名だと思うんだけどなぁ~
「平和祈念」という名の付く施設がある場所というのは、結構、左翼的、もしくは反戦的な場所が多い気がする。
この町もそうなのか?
そうなると“顕彰”することになりかねないということで「碑」などは建てないのか?
でも、この真珠湾攻撃発進の地」の碑はあるんだよねぇ~(苦笑)
不思議である・・・
戦跡の保存とかしないのかね?・・・この町は・・・
戦争遺構等のマップとか作らないのかねぇ~
ちょっと残念・・・かなり残念・・・・(苦笑)

閉館ギリギリまで見学し、この「平和祈念館」の周辺を歩いてみる。
どうも、隣りの自衛隊敷地にある建物が、佐伯海軍航空隊の庁舎らしいが・・・・

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なんか違うなぁ~(苦笑)
どうも、庁舎は取り壊されて、その後に新たに、“それっぽい”デザインの建物を建てたようである。
敷地内に碑が建っていたが、勝手に敷地内に立ち入るわけにも行かず・・・
門の近くに守衛がいるわけでもないので、許可を得ることもできず・・・・
やむなくデジカメの望遠で碑文を撮影して読んでみたら「庁舎跡」となっていたから、間違いないだろう。
当時のものは取り壊されたのだろう・・・・

近くの橋・・・・

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橋の所に、教育委員会が作製した説明プレートが貼り付けてあった。(苦笑)
その説明文によれば・・・
この橋の向うに佐伯海軍航空隊の陸上班の飛行場があったそうだ・・・・
多分、興人という会社の敷地になっている場所だと思う・・・・
で・・・そこまで歩く気力もないので、ここから駅に戻ることにした。

この道を真っ直ぐ歩けば駅に着くはず・・・
駅まで歩くだけの体力は残しておかねば・・・・(大笑)

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途中、反対車線に白い標柱を見る。
何かと思ったら・・・・佐伯海軍航空隊の正門を示す標柱だった!(喜)

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振り返って撮影・・・・
道路の向かう先が、航空隊の敷地ということになる。

30分ほど歩いて・・・(苦笑)・・・・佐伯駅に到着。
もうクタクタである・・・(汗)
これから宮崎へ移動するが、予定の電車に乗るまで1時間ほど時間がある。
どこかでコーヒーを飲みたい!
というわけで・・・・駅周辺を歩き回り、ようやく見つけた喫茶店でコーヒーを飲んで一服・・・
最近は「駅前の喫茶店」というのが、どの町でも滅法減ってしまい、喫茶店探しに苦労する。(苦笑)
ここで、お店のオバサンとオシャベリを楽しみながら時間を潰す。(大笑)

357_convert_20151027205522.jpg (佐伯駅)

午後6時過ぎの特急で宮崎に向かう・・・
約2時間後・・・・宮崎駅に到着・・・
ホテルにチェックインして、ホテルのレストランで夕食・・・
いやぁ~腹が減ったなぁ~と思ったら、午後9時を過ぎていた!(驚)
昼に臼杵駅でパンを齧っただけなんだから・・・腹が減って当然か・・・・(大笑)

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旅行 | 13:51:58 | Comments(0)
勤皇臼杵隊之碑
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勤皇臼杵隊之碑

明治十年六月一日薩軍三千臼杵ニ迫ル 舊臼杵藩士八百之ヲ邀撃シテ利アラス 死スル者四十三 當時薩将西郷ノ勢望天下ヲ壓シ 人皆歸趣ニ迷フノ時 臼杵藩士ハ克ク順逆ヲ誤ラス 必死ヲ期シテ寡以テ衆ニ敵ス 其ノ勤皇ノ精神ト悲壮ノ決意トハ炳乎鬼神ヲ哭カシム 郷黨ノ有志時勢ニ鑑ル所アリ 茲ニ碑ヲ建テ以テ其ノ忠烈ヲ後昆ニ貽サントス

昭和十七年六月
臼杵隊義戦顕彰會
   戦死者 片切八三郎
   遺腹 中根貞彦撰竝書

(碑文より)

勤皇臼杵隊之碑

この碑は、明治10年(1877)に起きた西南戦役において、順逆を誤らず大義のために郷土を守り、東上してきた薩軍と戦い、その進撃をはばみ敗走させたものの、この臼杵における戦いにおいて、尊い命を落とした臼杵隊隊士43名の功績を永く伝えるために建てられたものです。
当時、臼杵に侵攻してきた薩軍の数は約3千人、これを迎え撃った臼杵隊は785人、来援の警視隊百人と薩軍の三分の一にも満たない人数であったと記されています。

(説明板より)


【大分県臼杵市・臼杵城】

史跡 | 12:16:28 | Comments(0)
佛狼機砲(国崩)
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佛狼機(フランキ)砲 (国崩)

天正4年(1576年)ポルトガル人より大友宗麟侯に佛狼機砲が贈られたが、これが日本初の大砲と云われています。
宗麟侯は、これを「国崩」と命名し、臼杵城の備砲として備えつけていました。
この国崩は、廃藩置県後、国に献上し、現在は靖国神社境内に展示されておりますが、これを複製したものであります。

昭和61年9月
大分県臼杵市

(銘板より)


【大分県臼杵市・臼杵城】

史跡 | 11:56:39 | Comments(0)
村瀬庄兵衛政績碑
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村瀬庄兵衛政績碑

この石碑は、天保2年(1831)臼杵藩の藩政改革の総元締に抜てきされ、藩財政の建直しを成功させた村瀬庄兵衛の功績を永く讃えるために建てられたものです。
この碑には、藩が多額の借金を抱え、赤字財政で困窮し、その建直しを迫られていたとき、担当責任者として抜てきされた庄兵衛が、「量入制出」の制度を取り入れ、無駄を省き、殖産にも力を注ぎ財政再建に努めたこと。
さらに学古館及び講武場を設け、学問や武技を習わせ、人材育成に努めたことなどが記されています。

(説明板より)


【大分県臼杵市・臼杵護国神社】

史跡 | 11:05:00 | Comments(0)
鑰屋(かぎや)
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慶長5年(1600年)創業の鑰屋(かぎや)可児醤油のお話

美濃の藩主(岐阜県)稲葉貞通が臼杵に移封される1年前
臼杵の町を偵察に来た7人の侍がいた
俗に言う7人の先遣隊である。
行商人に変装していた可児孫右衛門は
1年後に藩主の御供をして来た次男と共に
鑰屋可児傳右衛門店(可児醤油)を本町のこの場所で創める
鑰屋可児醤油は以後、醸造(酒、味噌、醤油)、両替商等手広く商い
城下町商人として稲葉藩に献納し繁栄をもたらし
名字、帯刀を許された。
殿様御家督の折には、金、3000疋献納
1794年江戸邸消失の折には、金、壱百両献納などがある。
本社二階の窓には鉄扉があり四百年建物を守っていましたが
戦時中鉄砲の弾にと供出しました。
白壁は米軍のB29戦闘機の目標になると軍から達しがきて
墨で黒く塗った名残です。
右端の店舗には孫右衛門や丁稚が歩いた「三和土(たたき)」があります。
歩くと石がグラグラと揺れます。

(説明板より)

【大分県臼杵市臼杵・本町商店街(八町大路)】

建物 | 10:29:03 | Comments(0)
石敢當
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石敢當

臼杵町では「せっかんとう」、沖縄では「いしかんとう」と呼ばれるこの石塔は、古代中国の武将にあやかった魔除けの石塔です。
この石塔は4百有余年前の戦国時代に明国の商船が入港して南蛮貿易の市場が開かれ、取引上の喧嘩、口論を鎮める為に石敢當を建てたと言われています。
大きく上品で整っている文字は中国人の書であると言われ、筆跡に大陸的な風格があります。

臼杵市

(説明板より)


臼杵の商店街の街角に珍しいお宝発見!

石敢當(せっかんとう)
4百余年の昔から畳屋町の人々は、町角の石敢當を、魔除け、商いの神、福の神尊び崇めて大事に守り継いでまいりました。
臼杵市の文化財にも指定されている大変貴重な塔で、歴史の上からも、観光の上からも大事に守り継ぎたいと思います。

石敢當とは
石敢當は中国伝来の悪魔除けの法で九州南部から沖縄・台湾にかけての路傍にあり、九州では鹿児島市内に数個あります。
沖縄では石敢當(いしかんとう)と呼ばれ、家庭でも門柱、玄関などに三文字を書いて張る魔除けの風習が今も残っています。
大辞典に、向かうところ敵なしの義、石敢當は古の勇者の名、その名を石に刻して守護神とす、とあります。
畳屋町の塔はその姿の美と形の大きいこと、特に筆跡が唐人の名筆家の作であることから書道界においては典雅な書体であると有名です。

なぜ臼杵に
大友宗麟が臼杵に居城を構えた頃、臼杵は早吸瀬戸の難所を往来する船の潮待ち、風待ちで港は賑わい、また、町には大阪堺にも店をもつ西日本随一の豪商で分限者の仲屋宗悦のお店や、唐人のお店が並び農水産物を始め色々な品物の一大集散地として栄えていました。
また南蛮船、大明国の商船も入港して市場を開き遠く豊・筑の人々等も集めて交易をし象をはじめ虎、孔雀や陶器、書画など珍しい品々が荷揚げされました。
取引の上で喧嘩・口論が度々あり皆が迷惑をしていたのを「中国にこれを治める法がある」とで石敢當の三文字を石に刻して建てたところ以後喧嘩が治まったと言われています。

(説明板より)


【大分県臼杵市臼杵畳屋町】

史跡 | 10:16:57 | Comments(0)
臼杵を歩く
今日は、半日だけ臼杵を見て回り、その後、佐伯に移動予定・・・・
朝の天気予報では、午後から雨が降るような話である。
う~ん・・・台風が近づいているからなぁ~(汗)
できるだけ、早目に佐伯に移動したほうがいいだろう。

ホテルをチェックアウトして、タクシーで「吉丸一昌記念館」に向かう。
午前8時半・・・オープン早々の訪問である。(笑)
この吉丸一昌という人・・・拙者は知らない・・・(大笑)
水戸藩士の“シミズくん”は博学だから「あの“早春賦”の吉丸一昌ですよ」と簡単に言う。
「早春賦?・・・なんだそりゃ?」
「知らないんですか!」と馬鹿にされた・・・(大笑)
う~ん・・・面白くない・・・(大笑)
ということで、この記念館を訪問することにした。
特に興味もないのだが・・・(苦笑)

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この記念館の建物は、吉丸一昌の奥さんの実家だそうだ・・・(笑)

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で・・・この人が吉丸一昌という人・・・(笑)
「早春賦」という歌の作詞者だが、ただの“作詞家”ではなさそうである。
童謡の先駆けとなる『新作唱歌』(全10集)を発表した人だそうで・・・
臼杵市が生んだ有名な国文学者なのだそうだ。(汗)
胸像を見るとかなり若い人のように見えるが・・・と思ったら・・・
大正5年に43歳の若さでお亡くなりになっている。
ちょっと早いよなぁ~
才能のある人に限って早死にしたりするのである・・・
長生きしている人は“凡人”ということになるか?(苦笑)
拙者は55歳・・・・無駄に歳を取ってるなぁ~(大汗)
記念館の方の説明などいただきながら見学・・・
ジックリと見学してしまったので、ここだけで1時間も潰してしまった。(大笑)
帰りに、水戸藩士の“シミズくん”へのお土産に資料集などを買う。

帰りに「タクシーを呼びましょうか?」・・・と記念館の方に言われたが・・・
いや、いや、それじゃ面白くない・・・
やはり旅は歩かねば・・・(笑)
ということで、テクテクと歩いて臼杵城に向かうことにした。

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万里橋を渡る・・・・
向うに何やら雰囲気の良さそうな中洲が見える・・・
松島神社と住吉神社があるらしいが・・・今さら向うまで行くのは面倒だ。(笑)
縁がなかったということで無視して歩く・・・(大笑)
まもなく、町の中に入った・・・

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向うに三重塔が見える・・・あら、すごい・・・いい景色・・・・
観光マップを取り出し、見てみる・・・
だいたい、拙者は観光マップを持っていながら、これに従って歩くということはしない。(大笑)
適当に、右に曲がって・・・左に曲がって・・・と勘に頼って歩く。
だから道に迷って迷子になるのだが・・・(大笑)
縁があれば出会えるし、縁がなければ出会えない・・・それで良いと思っている。(笑)

この三重塔は、九州に2つしかない江戸期に建てられた三重塔の一つだそうだ。
あら・・・すごい・・・(笑)

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臼杵の商店街を歩く・・・
平日のせいか、誰も歩いていない・・・(苦笑)
古い建物が並んで・・・これ・・いいなぁ~(喜)
キョロキョロしながら歩くので、明らかに“不審者”だな・・・俺・・・(苦笑)

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こういう建物・・・・好きだなぁ~(笑)

臼杵には「歴史資料館」や「野上弥生子文学記念館」や国の登録有形文化財の「稲葉家下屋敷」など、見所があるようだが・・・
行ってみたいが・・・パス!(大笑)
時間がない!(汗)
臼杵には「臼杵城」くらいしかないのだろうと思っていたが、そうでもなさそう・・・
拙者の場合、何だかんだで全てをジックリと満足行くまで見学したら2日はかかるだろうな・・・(大汗)
半日程度で十分だと思っていたのは、ちょっと甘かったかな?(苦笑)

商店街を抜けると、そこに「辻広場」と呼ばれる場所があった。

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説明板にある昭和中期のころの古写真と比較してみたが・・・どの方向から撮影したものか残念ながらわからなかった。
説明板によれば、寛永4年(1627)に臼杵城の外周を整備するため菊屋町という町を壊して空き地にしたそうだ。
で・・・この空き地に「辻の大井戸」という井戸があって、昭和の初期頃まで飲用や醸造用に使われていたそうだ。
現在ロータリーになっている「辻の広場」は、江戸時代から多くの人が行き交い、語らう広場だったそうである。
今は・・・道路・・・・残念である。

と・・・目の前にお城が・・・・!!

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臼杵城である。
あれ?・・・・こちらが正面か?
昨日は、裏から登ったのか?(笑)



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大分県指定史跡 臼杵城跡

臼杵城は弘治2年(1556年)、大友義鎮(よししげ)(宗麟)によって建てられた城です。
臼杵城が築かれた丹生島(にゅうじま)は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。
守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。
大友氏改易後は、福原直高(ふくはらなおたか)、太田一吉(おおたかずよし)と城主が替わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。
以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。
その後、明治政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓(たたみやぐら)以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。
現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。

臼杵市教育委員会

(説明板より)



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二の丸跡に「臼杵護国神社」があった。(喜)
小さな神社だが、周囲は綺麗に手入れされている。
ちょうどお参りにきていた地元の“オバサン”と、世間話をする。(大笑)

どこまでが境内なのか、よくわからないが・・・(笑)
「慰霊碑」の代わりだろうか、「説明板」の形で、戦没者の顕彰がされていた。
こういう形は珍しいが、大したものだと思う。
臼杵の人たちは戦没者に対する慰霊の念が強いのだろうと思った。



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武功抜群
木梨鷹一(たかいち)海軍少将の戦死

鷹一は、明治35年3月7日臼杵町野田753番地で生誕した。
大正9年臼杵中学から、当時受験競争率最高30倍に達したと言われる海軍兵学校に進学(海兵51期生)、大正12年卒業。
昭和5年航海学校航海学生(大尉)となり同6年に卒業後、潜水艦航海長になったが、同12年11月海軍少佐となり、同15年3月潜水学校甲種学生を命ぜられた。
卒業時には、成績優秀により恩賜の銀時計(各種学校首席卒業者に天皇が与える銀製の時計)を拝受している。
太平洋戦争勃発するや、潜水艦長として各海洋に進出し転戦偉功を奏す。
伊号19潜水艦長として、昭和17年9月15日ソロモン海峡で敵機動部隊を捕捉し、魚雷6本を発射うち5本命中で敵空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナ、駆逐艦オブライエンを大破させた。
昭和18年11月には、重大な使命を負いドイツへ向かった。
インド洋上で補給船から補給を受け、昭和19年3月11日フランスのロリアンに入港。
そこで、新兵器操作技術の習得のほか、ジェット機の設計図等新世代兵器設計資料を受取った。
その時の軍服には、ヒトラーから贈られた二級鉄十字勲章が輝いていた。
87日を経て、7月12日シンガポールに入港。
空輸可能な設計資料は、巌谷技術中佐が取りまとめ空路帰国。
7月26日にバシー海峡で米潜水艦と遭遇、鷹一の乗った艦は魚雷を受けて沈没した。
この旨が上聞に達し、生前の殊勲を嘉せられ二階級特進海軍少将に任ぜられた。
行年43歳。

「近代臼杵人物辞典」より

(説明板より)



木梨鷹一さんは、戦記の中にもよく出てくる、有名な潜水艦長である。
へぇ~木梨さんって、臼杵出身だったんだぁ~



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臼杵護国神社

御祭神は稲葉良通ならびに歴代藩主と國家公共につくした人の神霊をお祀りしています。
明治10年西南の役で戦死した臼杵藩士43名の御霊をお祀りするため明治11年6月に招魂社が創建されました。
後に事変や戦争で亡くなった御柱が祭神として祀られています。
稲葉神社は稲葉家の祖、稲葉良通公(一鉄)を祭神として明治12年11月に創建されました以後歴代(15代)藩主も祀られています。
昭和35年4月には稲葉神社と招魂社を合併して社名を臼杵護国神社と改称しました。
御祭神は2千柱になります。

臼杵護国神社

(説明板より)


稲葉良通(一鉄)公

一鉄の祖父・稲葉塩塵(通貞)は伊予国の名族越智河野氏の一族で、美濃に流れ国主土岐成頼に仕えて土豪になったとされている。
永正12年(1515年)、一鉄は稲葉通則の六男彦六(良通)として、美濃国に生まれる。
幼少時に僧侶となり学んでいたが、大永5年(1525年)に父と5人の兄たちが全て牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため還俗して家督と曽根城を継いだ。
はじめ土岐成頼の子土岐頼芸に、次にそれを追い出し継承した斉藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の一人として活躍する。
永禄10年(1567年)に三人衆は道三の娘婿でもある織田信長へ内応し、道三の孫龍興が稲葉山城の戦いで美濃からの敗走を決定的にした以後、信長に従う。
永禄11年(1568年)、信長の上洛に第一隊として従い、姉川の戦いでは徳川家康と共に戦功を挙げた。
一鉄の号の初見はこの後の頃である。
その後も、殿軍を指揮、軍使も務め、後詰め、先鋒など各地に転戦して武功を発揮したことから、美濃清水城を新たに与えられた。
天正5年(1577年)には有岡城の戦い(織田信孝の副将として安土城の留守居役を務める)に参加し、武功を挙げた。
各地の戦に参加しその戦功は、20年負けなし言われるほどである。
天正7年(1579年)、家督と曽根城を嫡子の稲葉貞通に譲り、美濃清水城に移る。
天正10年(1582年)、武田攻めより凱旋した信長を、領内の呂久の渡しにて饗応する。
本能寺の変の後、織田信孝と対立を深める羽柴秀吉に従うようになる。
天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、法印に叙され「三位法印」と称した。
同15年(1587年)、「島津攻め」から凱旋してきた秀吉を、西宮に出迎え、大坂城山里丸の茶室に招かれる。
天正16年(1588年)11月19日、美濃清水城にて死去。
享年74。
後を子の稲葉貞通が継いだ。
一鉄は敬神崇祖の心も厚く伊勢神宮への寄進や寺の建立保護に努めた。
又歌道や茶道のみならず、医道においても造詣が深く、覚書きを伝えている。
頑固な一面があり、そのことから号の「一鉄」にかけられて、「頑固一徹」の言葉が生まれたとされている。
文武両道、知勇兼備の名将と言われる由縁である。
臼杵では廃藩にあっても、なお一鉄の威徳を仰ぎ稲葉神社を設立した。

(説明板より)



稲葉一鉄ねぇ~・・・・どこかで聞いたことがある名前である。
曽根城ねぇ~・・・・あれ?・・・行った事があるような気がする・・・・(苦笑)
あ~・・・・曽根城へ行った時に、説明板か何かに書かれていたな・・・・(汗)
なにせ、自分でホームページを作っておきながら、そこに書いた内容は全く覚えていないのである。(大笑)
「知らないなぁ~」などと言うと、人から「あなたのホームページに書いてありますけど・・・」と言われ恥をかくこと、しばしばである・・・(大汗)
曽根城・・・春日局・・・・稲葉一鉄・・・梁川星巌の銅像・・・モヤモヤ~っと記憶にあるぞ・・・(苦笑)

すぐ近くに、大友宗麟のレリーフが・・・・

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どうして大友宗麟のレリーフなんかがここにあるんだろう?
あっ・・・そうか・・・臼杵城は大友宗麟が築城したんだっけ?(苦笑)
どうも3歩歩くと直ぐに忘れてしまう・・・
これが拙者の最大の欠点か・・・(苦笑)

レリーフのすぐ側に、「国崩(くにくずれ)」とも名付けられたオランダから贈られた「フランキ砲」という大砲のレプリカもあった。

179_convert_20151023114849.jpg (城跡から見た景色)

昨日の夕方、途中まで見学した臼杵城跡の「臼杵公園」の残り半分(笑)を見学・・・・
文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑・・・等々が建っていた・・・

日名子実三という人が造った「廃墟」という名の像・・・・・
久家常蔵の「俳諧塚」の句碑・・・
アララギ派の歌人・中根貞彦の「歌碑」・・・・
勤皇臼杵隊の碑
臼杵城跡の払い下げに資金を提供して貢献した人・田中豊吉の「顕彰碑」・・・・
教育者・野中蘭畹(らんえん)という人の「顕彰碑」・・・・
剣道の先生だったらしい「河崎義教先生剣道記念壽表」という碑・・・・
野上弥生子の「文学碑」・・・・

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これらをパァ~ッと見て歩き、城跡を下りる・・・・

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なかなか素晴らしい石垣である!(喜)

城跡を出て北上・・・
しばらく歩くと、市役所が・・・(笑)

222_convert_20151023125337.jpg (臼杵市役所)

う~ん・・・・どこかに大友宗麟とか、初代市長とか、初代名誉市民とかの銅像がド~ンと建っていないものかと思ったが、何もない様子・・・・(苦笑)
あら・・・・つまらない・・・(笑)
仕方がないので、Uターン・・・・
今度は市民会館に向かう。
何かないか?・・・・銅像とか・・・(苦笑)

見つけたのは「吉丸一昌先生の歌碑」・・・・

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ここ歌碑は、臼杵ロータリークラブが創立20周年を記念して昭和55年に建立したものである。

時刻は11時20分・・・腹が空いた・・・・(笑)
駅に向かって歩きながら、どこかに適当な店があったら入ろうと歩き出す。
途中で、ずっと先の歩道に何かが横たわっているような・・・(汗)
大きな犬かと思ったら、そうではないようだ・・・
段々近づいたら・・・・一人の“お婆さん”が歩道に寝そべっている!(唖然)
はぁ?・・・・(汗)
すぐに救急車が到着!
あらら・・・もしかして、この暑さだから熱中症で倒れたのかも・・・・
人通りが全くないという駅前通り・・・・
もうちょっと早い時間に拙者がここを通りかかったら、拙者が第一発見者になり救急車を呼ぶことになったかも。(大汗)
人通りが殆どないという場所では、発見が遅れたら命を落としかねない・・・
この“おばあさん”は運が良かったと言っていいだろう。
この後、大事に至らなければいいのだが・・・

と・・・・そのうち駅についてしまった・・・・(汗)
食事する場所はない!(唖然)
もしかしたら、昨晩宿泊した駅前のホテルのレストランなら開いてるかも・・・とも思ったが・・・
チェックアウトした後、ふたたび訪れるというのもねぇ~
それなら最初からフロントに荷物を預けたのに・・・・(苦笑)
なんとなく“くやしい”ので(大笑)、ホテルには行かず、駅の売店で売っていたパンを買って、これを「昼食」とする。(苦笑)

待合室でパンを食べながら電車を待つことにする。
で・・・地元の乗客の方とおしゃべり・・・(笑)
「どちらから来たんですか?」
「茨城県です」
「へぇ~・・・・茨城県?・・・・そりゃ、遠いところからわざわざ・・・」(汗)
ん?もしかして、茨城県と聞いても、この人はピンときてないかも・・・・(大笑)
「茨城県・・・茨城ねぇ~・・・・何が有名でしたっけ?・・・・公園?・・・後楽園?」
「いや・・・後楽園じゃなくて、偕楽園っていうんですけど・・・」(汗)
「へぇ~・・・・他に何かありましたっけ?」
「納豆!」
「納豆?・・・・あ~納豆・・・納豆ねぇ・・・・」(苦笑)
う~ん・・・茨城県はマイナーな県だからなぁ~・・・・仕方がないか・・・(大笑)
「昨日、このあたりで地震があったようですが、どうでしたか?」と尋ねてみた。
と・・・・他の乗客の方々や売店の“オバチャンまで話しに加わり、「大おしゃべり大会」となる。(唖然)
結局、結構揺れはすごかったらしいが、被害はなかったそうだ・・・(苦笑)

タバコが吸いたくなったので尋ねてみたら、喫煙場所はホームにあるという。(唖然)
じゃぁ・・・ということで皆さんとお別れし・・・ホームへ行く。

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ん?・・・・・乗客が誰もいないけど・・・・本当に電車は来るんだろうな?
先ほどオシャベリしていた皆さんは隣りのホームへ・・・・
あっちは、大分方面だよな?・・・・北へ向かうんだよね?(汗)
拙者はこれから南に向かって、佐伯に行くのだが・・・・
あれ・・・・なんとも不安・・・・南下する乗客は拙者一人だけなのか?(大汗)

ホームには・・・・ここにも「早春賦」!(驚)
やっぱり吉丸一昌という人は有名な人なんだ・・・・(笑)

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旅行 | 09:56:05 | Comments(0)
臼杵に行く
午後5時過ぎの特急で臼杵に向かおうと思ったら、特急は出て行った直後・・・
仕方がないので、各駅停車の”鈍行”で行く事にした。
で・・・ホームに入って来た電車を見て驚いた!
2両編成なのである!
たった2両しか車両がないのか?
田舎を走る我が常磐線だって、最低、6両か8両の編成だったと思うが・・・(汗)
温泉地・別府ですよ・・・拙者の住んでいるような何もない町を走る電車ではない・・・
あらぁ~・・・・なんだろう、この格差・・・・(大汗)

車内は通学の学生と仕事帰りのサラリーマンで満員!
エアコンがガンガン効いて寒い・・・
だからさぁ~こんなに乗るならもう少し車輌を増やしたら?
・・・と思ったら、名も知らぬ辺鄙な駅でドドッと乗客が降りてしまい、車内には殆ど誰もいなくなってしまった・・・
あ・・・これだから2両でいいのかと納得・・・(苦笑)

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午後6時、臼杵駅に到着。
臼杵駅は、100周年を迎えるのだそうだ・・・

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駅前のロータリー(?)に何やら石仏が・・・(汗)
国宝の臼杵石仏のレプリカだそうだ。
ははぁ~ん・・・これか・・・
この旅に出かける前に水戸藩士の“シミズくん”と夕食を共にしたのだが・・・
その時に「臼杵石仏は見に行かないんですか?」と言われた。
何やら有名な石仏だそうで・・・臼杵に行って、これを見ないのは間違っていると言わんばかりの言い方である。(大笑)
どうせ、山奥にあるんだろう?
そんな遠くまでわざわざ見に行くほど拙者は暇ではない・・・(大笑)
ちょうどいい・・・ここにあった・・・
レプリカであろうとも、こんなものだとということはわかったから・・・これでよし・・・(大笑)
よくぞ駅前に設置してくれたと感謝、感謝・・・(笑)



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【国宝臼杵石仏】
古園石仏大日如来像(ふるぞのせきぶつだいにちにょらいぞう) 複製(レプリカ)

この像は、日本を代表する臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)(臼杵石仏)のなかでも中心的存在である「古園石仏大日如来像」の複製(レプリカ)です。
この複製は、傷みがひどくなった臼杵磨崖仏の保存修理(1980~1994)を実施する際、落ちていた古園石仏大日如来像頭部の復位が可能かどうかを調べるために作製されました。
当初は、臼杵磨崖仏のある深田地区に設置されていましたが、保存修理が終わり、平成8年3月に臼杵の玄関口である臼杵駅前広場に移設されました。
保存修理の終わった臼杵磨崖仏は、その姿を一変し、本来の姿に近い、見事な出来ばえとなったことが高い評価を受け、59体の磨崖仏が1995年6月15日に、石仏としては我が国ではじめて「国宝」の指定を受けました。
厳かな雰囲気を醸し出す仏の里・深田へ、ぜひお越しください。

(国宝臼杵石仏まで)
JR臼杵駅からバス・タクシーで約20分
問合わせ先 大分県臼杵市深田
         臼杵石仏事務所
         TEL (0972)65-3300

(説明板より)



「是非お越しください」と説明板に書いてあるけど・・・やっぱり、やめる・・・
拙者は頑固なのである。(大笑)

駅のすぐ目の前のホテルにチェックイン・・・・
部屋から駅全体が見渡せる。
な~んにもない・・・寂しい駅前である・・・・(大笑)

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午後6時を過ぎてもまだ外は明るい・・・
この時期の旅行は陽が長いので助かる。
臼杵城を見るため、今回、臼杵に立ち寄ったのだが・・・・
今日のうちに少し観ておこうか・・・(笑)

ホテルからテクテク歩いて臼杵城に向かう。
思ったより近かったので助かった。

行って見たら、城跡は公園のようになっていた・・・
まぁ、どこでも城址というのはそういうものだが・・・(笑)

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天守櫓(てんしゅやぐら)

この場所にはかつて、3層4重(外観3層、内部4階)の天守櫓がありました。
最近の発掘調査によって、はじめて天守櫓が造られたのが豊臣秀吉配下の福原直高(ふくはらなおたか)が臼杵城主であった文禄3年~慶長2年(1594~1597)ごろである可能性が高くなっています。
その後、稲葉(いなば)氏により天守櫓が何度か修理された記録があります。
このうち明暦元年(1655)の修理は大規模なものであったようで、天守櫓本体だけでなく、本丸の北西隅部の付櫓(つけやぐら)(天守櫓に付属するやや小規模な櫓)がそれぞれ独立的に建てられていたものを、すべて櫓でつなぐように改築されたことが江戸時代の臼杵城絵図と発掘調査の成果から判明しました。
天守櫓がどのような形状であったかは、正確な図面が残っていないためわかりませんが1階の平面が6間四方(約11.7m)、土台部分から最上階(4階)までの高さが6間1尺(約12.0m)であったことが記録されています。
ここでは発掘調査で判明した天守櫓と付櫓の位置を、一段高くして表示しています。

(説明板より)


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本丸(ほんまる)

江戸時代、空堀から東側の一帯を「本丸」と呼んでいました。
この一帯が大友氏時代にどのような姿だったのかはっきりしていません。
ただ、江戸時代の二之丸よりも標高が低いところにあるため、大友氏の時代には、こちらが二之丸だった可能性があります。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主となりましたが、初代藩主・稲葉貞通(いなばさだみち)と典通(のりみち)(のちの2代目藩主)は本丸防衛のため、空堀を整備し、二之丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設けました。
土橋を渡るとすぐのところに鉄門(くろがねもん)という櫓門をもうけ、本丸の出入口を固めました。
空堀は、天守櫓から見おろす位置とし、二之丸からの進入に備えたのです。
明治維新後、公園として整備され、今のような姿となりました。

(説明板より)


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空堀の石垣がなんとも素晴らしい・・・(喜)

かなり日も沈み始めたのか、それとも怪しい雲行きのせいか・・・
薄暗くなり、そろそろ限界かな?
なにかヤバイ気がするんですけど・・・
雨が降りそうな気がする・・・(大汗)



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卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)

卯寅口門脇櫓の外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰(しっくい)下見板張り、屋根は切妻(きりづま)屋根の櫓です。
現在の櫓は、棟札(むなふだ)から嘉永7年(1854年)に建てられたことがわかりましたが、17世紀前半の城絵図には既にその姿が描かれていることから、江戸時代の間に何度か建て替えられたと考えられます。
延宝4年(1676年)ごろの本丸御殿指図(当時の平面図)を見ると、「御鉄炮薬櫓(おんてっぽうくすりやぐら)」と記されており、その機能も時期によって変わっていったようです。

(説明板より)



ここでアクシデント!(大汗)
あれ?・・・・カメラの調子がおかしい・・・あれ?
モニター画面にエラーのメッセージが・・・(大汗)
ウソ!・・・ギョェ~!!(大汗)
これから旅行が始まるというのに・・・壊れたのか?
こういう時は・・・叩くしかないな・・・(笑)
カメラを叩いたら直ったようだ・・・(大笑)
しかし、ちょっと大丈夫だろうか・・・こんな調子で・・・大いに不安・・・(大汗)



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卯寅口(うとのぐち)

いわゆる「搦手口(からめてぐち)」と呼ばれる城の裏門にあたるところで、井戸が設けられていたことから「井戸丸」とも呼ばれていました。
本丸・二之丸があった場所は、かつて「丹生島(にうじま)」と呼ばれ、周囲を海に囲まれていました。
卯寅口には海へ通じる「卯寅口門」や階段が設けられていました。
緊急時はここから船を出して、海へ脱出することを考えていたようです。
「卯寅口」の名前の由来は、大友宗麟が築城時に「卯寅(うとら)」の方角(ほぼ東北東)に向けて門を造ったからであると記録には書かれていますが、なぜ「うとのぐち」という読み方なのかは定かではありません。
なお、港町側から現在の卯寅口明神への参道は、明治以降に新たに開削された道です。

(説明板より)



え?・・・このあたりは海だったのか?(唖然)

卯寅口から出て、ホテルに戻り始めたら・・・・雨が降り出した!(汗)
しまった・・・傘はホテルに置いてある・・・
まさか、雨が降るとはねぇ~(涙)
近くのコンビニで買物をしている間に、幸いにも直ぐに雨がやんでくれた・・・
なんと幸運な・・・
やっぱり拙者の日頃の行いが良いせいに違いない・・・(大笑)

夕食はホテル内のレストランで・・・
駅の周辺に食事できそうな場所はないし・・・(笑)
探すのは面倒くさいので、ホテル内で済ませることにしたが、正解だった。(笑)

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豚肉の生姜焼き定食!
800円なり!(笑)
値段の割には豪華だと思うんですけど・・・色々と付いて・・・
大満足である!!(喜)

旅行 | 12:29:34 | Comments(0)
別府の“戦友”に会いに行く
午前3時少し前だろうか・・・
大分県臼杵市あたりで震度5の地震があったらしい・・・(大汗)
おい、おい・・・である。
これから大分に向かうというのに・・・
しかも、臼杵市にも立ち寄る予定なのに・・・(汗)

東京は快晴!しかも暑い・・・猛暑といっていいほどである。
しかし、九州のほうは台風が接近している影響で、場所によっては大雨だと天気予報が言っている・・・
なんたることか・・・
日ごろの行いが悪いわけではないと思うのだが・・・(大笑)
地震に台風かよ・・・(大涙)

ホテルをチェックアウトして鎌田駅前のバス停・0番へ・・・
ここから路線バスで羽田空港に向かう。
今まで、羽田空港へ行く場合は、JR浜松町駅からモノレールを使って行っていたのだが・・・
バスで行くというのも面白いかなと思いやってみた。(大笑)
料金は280円なり!
しかし、バスの中は満員!
しかも大きなスーツケースを持った乗客が何人も乗っている。
みなさん羽田に行くのだろう。
スーツケースのおかげで、立つ場所が更に少なくなりギューギュー詰めである。
あらら・・・バスでの移動は失敗したかも・・・(苦笑)

無事に羽田空港に到着したが・・・
さて・・・どうやって搭乗するんだっけ?(苦笑)
完璧に忘れている・・・(涙)
ネットでホテルと飛行機を予約したのであるが・・・
「Skipでチェックインできます」って・・・どうやるんだっけ?(笑)
パソコンの画面をプリントアウトした紙だけで乗れるんだっけ?(汗)
どうも、航空券とかを持っていないと不安で仕方がない・・・
ANAの係員を探して、搭乗の仕方を教えてもらう・・・(大笑)
1年に1回くらいしか国内線に乗らないから、すぐやり方を忘れてしまう・・・
なんと情けないことか・・・

今回の九州旅行・・・
大分県別府市に住んでいる我が戦友会の“戦友”に会いに行く旅である。
“戦友”は師団司令部で電話交換手をしていた92歳のおばあちゃん・・・
この“ヤスダさん”が昨年の暮に病院に入院されたのだが、そのままこの病院でお世話になり、ここで余生を送ると手紙が届いた。
拙者は生来の筆不精者・・・
返事を書く前に「手紙は届いてますか?」の第二信が届くというありさま・・・
多分、一人で“入院”されて寂しいのだろう。
毎週手紙が届いたのでは、返事を書くのが面倒である!(苦笑)
ええい!いっそのこと直接会ったほうが話が早い・・・(大笑)
というわけで、今回、“ヤスダのおばあちゃん”に会いに行く事にしたのである。
で・・・そのままとんぼ返りでは、ちょっともったいない・・・(大笑)
“悪い虫”が騒ぎ出し・・・宮崎県に行ったことがないので、宮崎までついでに旅行をしようと思った・・・
これで、この旅は、何が目的なのかわからなくなったが・・・(大笑)

大分空港行きの便は30分ほど遅れて離陸した。
台風の影響か?

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無事に大分空港に到着・・・
この空港に来るのは、今回で2回目である。
どうも午前中にかなりの雨が降ったようであるが、到着した時には雨はあがり、曇天・・・
う~ん・・・やっぱり拙者の日ごろの行いが良いせいなのかも・・・(大笑)

リムジンバスで別府駅に向かう。

003_convert_20151016135411.jpg (JR別府駅)

JR別府駅に来たのは、これで3回目である。
いずれも“ヤスダさん”に会うためである。(笑)
実の祖母ではないのだが、不思議なことに何度も会いに来ている・・・(大笑)
自分でも、どう考えても不思議なのだ。
相性がいいのか・・・前世で何か縁でもあったか?(苦笑)

さて・・・昼食を食べねば・・・
初回は、駅構内でスパゲティを食べた・・・(笑)
2回目は、福岡県の中津からJRに乗ってやってきて、“ヤスダさん”の家でご馳走になった・・・
なんで、そういうことを良く覚えてるんだろ?(苦笑)
3回目の今回は・・・どこで食べようか・・・
ウロウロした挙句、結局、駅前の食堂で食べることにする。(大笑)

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なにやら「とり天」というのが名物らしい・・・というわけで、「とり天定食」(800円)を頼む。
正直言って、「とり天」って何だか知らないのだが・・・(大笑)
出てきたものを見たら「鶏の唐揚げ」のようにも見えたが、そうじゃなさそうで・・・
「鶏の天ぷら」なのかな?・・・これ・・・(笑)
想像以上に肉が柔らかく、美味しかった・・・(喜)

食後、“ヤスダさん”の入院している病院へ向かう。
病院の位置は事前にネットで調べておいた・・・
駅から歩いていける距離だったので歩いていく・・・
遠くに病院が見えた・・・
2階の窓のところに誰かが立っているように見えたが・・・もしかしたら“ヤスダさん”かも・・・
と・・・すぐ近くにコンビニが・・・(笑)
う~ん・・・病院では禁煙だろうから、ここで一服してから向かおう・・・(大笑)
これが失敗・・・・
病院に到着し、看護婦に病室を教えてもらい2階の部屋を訪問したら・・・・
「さっきまで玄関の所で待っていたのに、なかなか来ないから部屋に戻ったところなんですよ!」と怒られた・・・(大笑)
あ・・・やっぱり窓のところに立っていたのは“ヤスダさん”だったのか・・・(大汗)
拙者が来るのを首を長くして待っていたんだ・・・・あらら・・・申し訳ないことをしてしまった・・・(大汗)

“ヤスダさん”のお話によると、この病院の院長先生とは長いお付き合いだそうで・・・
いつまでも、ここに居ていいと言われたので、ここで最期を迎えることにしたという。(唖然)
自宅も引き払ったとのこと・・・
“入院”というのは、そう長期間は無理なはずなので、“特老”みたいな感じなのだろうか?
それにしても幸せな人である。
晩年になって、生活のことを考えると不安で仕方がないという人も多いはず。
若い時にかなりの苦労したが、晩年はその分、幸せを得ることができたように思える。
こうであるべきだと拙者は常々思っていたが・・・いや、本当に良かった・・・

“ヤスダさん”は、若い時に好きでもない人と結婚させられそうになり朝鮮半島に“逃げた”そうである。
朝鮮で郵便局に勤めて電話交換手をしていたそうだが・・・
満洲に駐屯していた戦車第2師団が電話交換手を募集していることを知り応募したという。
当時、師団司令部の電話交換手は通信兵が行なっていた。
岡田師団長が「軍属を使ったらどうか?」と発案したらしい。
そこで女子軍属の募集となったらしい。
“ヤスダさん”はこの採用試験に合格して師団司令部の電話交換手に採用された。
師団創設初の女子軍属の電話交換手で、しかも紅一点・・・
「うちの部隊の兵隊さんは気が荒くてねぇ~実戦を経験している方々ばかりだから・・・まだ繋がらんか!って怒鳴られてねぇ~。そう言われても相手が電話に出ないんじゃどうしようもないんだけど・・・いやぁ~恐くて恐くて・・・」と笑っておっしゃった。
“ヤスダさん”の勤務評価が高かったのだろう、その後、女子軍属の電話交換手は6名ほどまでに増やされた。
20歳そこそこの当時の“ヤスダさん”の写真を見ると、キリッとした美人さんである。
「私としては、この頃にお知り会いになりたかったですねぇ~」と言ったら笑われた。(大笑)
師団がフィリピンに派遣されることになり、女子軍属は解雇された・・・
「連れて行ってくれ」と頼んだが、「フィリピンへ行ったら生きては帰れないからダメだ」と言われたという。
兵隊さんたちも、フィリピンに行ったら九分九厘生還は無理だとわかっていたようである。
その後、別の部隊の電話交換手になって終戦を迎える。
ところが、満洲にソ連軍(現・ロシア軍)が侵入・・・
彼らロシア兵は女と見れば片っ端からレイプして回ったという。
“ヤスダさん”はロシア兵が来るという情報を掴むと、床下に掘った穴に隠れたというが、彼らもそれに気が付くようになり、床下を点検するようになったため安全な場所がなくなった・・・
それで、家の裏の草むらに潜んだり林の中に潜んだりと逃げ回るのが大変だったという。
女子軍属の電話交換手6名のうち、戦後、生きて日本に還って来たのは“ヤスダさん”だけだという。
他の5名は、今もって消息不明である・・・・
その後、中国人の経営する食堂に匿ってもらい、そこで生活をすることとなったが・・・
まもなく中国国内の内乱が始まる。
毛沢東率いる共産党軍と蔣介石率いる国民党軍の「国共内戦」である。
彼らのドンパチで家の中まで銃弾が飛び込んでくるありさまだったという。
間もなく、日本に戻ることができ、日本人と結婚・・・
ところが、この相手があまり“良くない”人だったそうで・・・
散々苦労をしたが・・・まもなくご主人は他界・・・
貧乏暮らしで苦労していた頃、「戦友会」に入会しないかと誘われて入ったという。
戦友仲間は、旅費一切はこちらが出すから参加しろと言う。
年に1回の戦友会の旅行が楽しみとなったそうで・・・
それがあったから頑張れたとおっしゃる。
だから“ヤスダさん”は「戦友会」の最大の理解者なのである。(喜)
一人息子を女手一つで育て上げ、息子さんは結婚したが、まもなく他界・・・
幸い、孫はできていたので良かった。
その孫も結婚して最近子供ができたと言う・・・つまり「曾孫」である。
年に何回か孫が曾孫を連れて会いに来てくれるという。
不思議な縁というか何というか・・・・このお孫さんは拙者と同じ茨城県に住んでいるという。(唖然)
今年の誕生日には会いに来れなかったらしく、お誕生日にプレゼントの花束が送られてきたと嬉しそうに語る。
年老いてから、少しずつではあろうが、幸せな思いを重ねているようで・・・拙者としても嬉しい・・・
しかも、戦友会の事務局長である拙者がわざわざ会いに来るんだから・・・最高でしょ?(大笑)

色々とおしゃべりをしているうちに、あっという間に時間が過ぎていった・・・
拙者はこれから臼杵に向かって、臼杵に泊まる予定である。
考えてみると、温泉地・別府に来ているのに一度も別府に泊まったことがない・・・(大笑)
次回は別府に泊まろうか・・・

「私が死ぬ前にもう一度会いに来てくださいね」と言われたが・・・
なかなか難しいお願いである。
「で・・・いつ死ぬ予定でしょ?」と尋ねたら大笑い・・・
「その元気ならあと2年ぐらいは大丈夫ですよね?」と言ったらまた笑われた。(大笑)

あまり早く会いに行くと「もうそろそろ死ぬと思って来たんじゃないか?」と思われそうだし・・・(苦笑)
かといって、タイミングを逃したら二度とお会いすることはできなくなるだろうし・・・
92歳・・・微妙なんだよなぁ~(大汗)
「死ぬ前に」と言われてもねぇ~・・・・(大汗)

旅行 | 12:09:54 | Comments(0)
妹のライブを聴いてから旅行!
明日から九州に旅行に行くのだが・・・・
その直前、我が妹からメールが・・・・(汗)
ライブをやるという・・・
う~ん・・・そうなると、兄としては行かねばなるまい・・・(笑)

明日は羽田午前発の便に乗る予定なので、当然、東京に前泊する予定だったが・・・
夜泊まるだけだから夕方にでも上京すればいいと思っていたので、ライブに行くとなれば、そういうわけにはいかなくなる。
というわけで、半日早く家を出る事となった。
親父は拙者が日中から留守になるので、不安げな顔をしていたが・・・(大笑)
「娘のライブ」となれば、「行くな」とは言えない・・・・(大笑)
「行ってやれ」と珍しく優しい言葉を吐いた。
歳を取るごとに、年々気弱になっている親父だが、“最後の力”を振り絞ったか?(苦笑)

上京するなら、少し早めの電車で上京しようとしたのは正解だった・・・
駅まで行ってから、携帯電話を忘れたことに気が付いた!(大汗)
慌てて家に戻る・・・
電車は1時間後の特急に変更する。
これでもライブ開始の時間には間に合う。
やっぱり何事も余裕を持って行うことが肝心である。(笑)

「大泉学園」のライブハウス・・・
20名も入ると満員となる小さな場所だが、おかげさまで満員!
兄としては、ホッとした・・・(大笑)
これでガラガラに空いていたら目も当てられない・・・(苦笑)

このハウス・・・今月でオープン20周年を迎えるという。
というわけで、ライブ後、親しい仲間が残り、ささやかな祝賀パーティーを開く。

今日は、妹のライブを聴いてから、蒲田駅前のホテルに宿泊・・・
明早朝、羽田から大分に向かう。

日記 | 11:48:03 | Comments(0)
お知らせ!
またまた突然ですが・・・

12日(日)から16日(木)まで、大分・宮崎へ出かけます!

今度は国内旅行です!(笑)

というわけで・・・またまたブログの更新が遅れます。(苦笑)

恐縮です・・・(汗)

台風が接近しているようなのですが・・・大丈夫だろうか?

日記 | 15:25:49 | Comments(0)
『巡洋艦入門』


第1章 日本最初の重巡「古鷹」型
      (古鷹 加古 青葉 衣笠)

 巡洋艦とはなにか
 軽巡として作られた「古鷹」型
 巧妙な船体の軽量化
 新機軸の主砲配置
 排水量の大幅な超過問題
 新造時の船体の特徴
 近代化された構造物
 「青葉」と「衣笠」の竣工
 大改装で1万トン重巡に
 第一次ソロモン海戦の大戦果

第2章 世界を驚倒させた「妙高」型
     (妙高 那智 足柄 羽黒)

 しのぎをけずる1万トン重巡
 画期的な船体構造
 合理的な耐弾防御
 重要区画と上部構造物
 斬新強力な兵装
 ロンドン海軍軍縮条約
 第一次改装で戦力向上
 条約廃棄と第二次改装
 スラバヤ沖海戦の殊勲

第3章 超重装備の「高雄」型
     (高雄 鳥海 愛宕 摩耶)

改「妙高」型として建造
「妙高」型と異なる特徴
強化された戦力改装
パラワン水道の悲劇

第4章 軽量級重巡の「最上」型
     (最上 鈴谷 三隈 熊野)

重巡計画で軽巡をつくる
性能がよかった三連装主砲
ミッドウェーで露見した主砲
攻撃と防御の日米比較
暴露された設計の弱点
航空巡洋艦になった「最上」

第5章 重巡の極致・名艦「利根」型
     (利根 筑摩)

「最上」型から新型艦へ
合理化された防御と兵装
理想的な主砲塔の配置
「利根」「筑摩」ついに死す

第6章 実用性の高い5500トン型
     (球磨型 長良型 川内型)

軽巡の役割
本格軽巡の「球磨」型と重雷装艦
航空兵装のはしり「長良」型
唯一の防空巡洋艦となった「五十鈴」
4本煙突の「川内」型

第7章 世界注視の小型軽巡「夕張」型
     (夕張)

試作実験用として建造
ユニークな設計と艦型
地味な戦歴

第8章 水雷戦隊旗艦の最高傑作
     (阿賀野 矢矧 酒匂 能代)

新鋭軽巡の必要性
軍令部からの要求
絶妙な配置とバランス
「阿賀野」型の奮戦

第9章 連合艦隊の旗艦を務めた「大淀」
     (大淀)

潜水戦隊の旗艦として建造
改「阿賀野」型の「大淀」
最新式の高角砲と航空兵装
ミンドロ島に一矢を報いる

終章 最後の軽巡・練習巡洋艦「香取」型
     (香取 鹿島 香椎)

あとがきー連合艦隊の系譜



今年の読書:37冊目



読書 | 14:04:03 | Comments(0)
女性部会の研修会に同行する
今日は法人会の「女性部会」の研修会・・・(笑)
この研修会に参加することになった・・・拙者は「男」なのに・・・(大笑)

会の広報誌に女性部会の記事を載せるため、我が広報委員会の女性委員に記事を書いてくれるよう頼んだのだが断られた。(大笑)
記事なんか書けないというのである!(唖然)
いっそのこと、拙者が参加して記事を書いてくれれば助かるという。
冗談で言っていると思っていたのだが・・・半分本気らしい・・・(汗)
しかも、研修会の直前にドタキャンが出たという。
今回の研修会は、「バス旅行」(大笑)
東京のほうまで行くのだという・・・
事務局からも、欠員が出たので、参加してくれたらありがたいとのこと。
あらら・・・マジで?(大汗)

ということで・・・急遽、女性部会の研修会に参加することとなった・・・(大笑)

早朝にバス会社の営業所に集合・・・
ここで観光バスに乗り換え「研修会」に出発!
参加者は、当然女性ばかり・・・(苦笑)
みなさん会社経営者の奥様達である。(大笑)
男性の参加者は・・・事務局の“アサヒ君”と、広報委員会の拙者の2名だけ・・・(汗)
もう、出発前から大騒ぎ・・・(笑)
みなさん、“差し入れ”持参なので、それを配るのが大変なのである。
まぁ~その種類と量の多さには唖然・・・・
出発前なのに、もう“お土産”の山である。
「あのぉ~・・・もうお土産も沢山もらったし・・・バスを降りてもいいですかね?」(大汗)と言ったら笑われた。(大笑)

この研修会・・・
資料も何も頂いていないので、一体どこへ行くのか、拙者は知らない・・・(大笑)
これで記事が書けるか、ちょっと不安・・・(大汗)

最初に向かったのは、県内の五霞町にある「キューピー」の工場・・・
この工場見学が最初の研修地である。
県内にある工場なのだが・・・場所が県境なので、一度、我が茨城県から出て栃木県内を走って向かうこととなる。
あらら・・・県内の道路を使ったんじゃ不便なようである。(唖然)
「キューピー」はマヨネーズやドレッシングで名の知られている会社である。
「キューピー」の正式の書き方は「キユーピー」と、「ユ」の字は大文字である。
そうなると、なんとも発音しづらいな・・これ・・・(大笑)

012_convert_20151015175619.jpg(キユーピーの工場)

006_convert_20151015191201.jpg 巨大なマヨネーズ!!(笑)

010_convert_20151015191403.jpg

会議室で待機・・・
工場見学会は、我々だけではなく、一般の見学者も一緒のようである。
会議室で簡単な会社の概要説明などを受けて工場内を見学する。
当然であるが、工場内は撮影禁止・・・(涙)
オートメーション化された製造工程に驚く・・・
こんなに早いスピードで作るのか?(唖然)

最後は、「お買物コーナー」
ここでドレッシングをかけたサラダなどの試食と、お買物・・・
皆様・・・主婦ですから・・・お買い物がすごい・・・(唖然)
工場からのお土産をいただき、次の訪問地へ向かう・・・

次は・・・どこへ行くのかな?(苦笑)
どうも東京の銀座に向かうらしい・・・(唖然)
で・・・そこで昼食を食べるのだそうだ・・・(大汗)
え?・・・ここから、わざわざ東京の銀座まで行ってお昼を食べるのか?(唖然)

013_convert_20151015192634.jpg

到着したのは、銀座の「加賀屋」・・・
結構、高級そうなお店である・・・まぁ、銀座だから当然か・・・(笑)
さすがは女性部会である・・・食事は大いなる楽しみということかな?(大笑)

017_convert_20151015193130.jpg 016_convert_20151015193045.jpg

昼食後に向かったのは・・・
警視庁の交通管制センター!(笑)
またまた、面白いところを見学しに行くものだ・・・(笑)

021_convert_20151015195748.jpg

担当の警察官から説明を聞きながら、巨大なモニター画面を見学・・・
このモニター画面・・・50mプールぐらいの大きさがあるのだそうだ・・・(唖然)

022_convert_20151015195838.jpg

東京都内の監視カメラとセンサーによって交通状態を確認・・・
で・・・信号機の点灯時間を調節しているそうだ。
青信号の時間を長くするとか、短くするとか・・・
へぇ~そういうことをしてたのか・・・(驚)

023_convert_20151015195932.jpg

しかしながら・・・である。
東日本大震災時の交通状態をモニター画面に表示してくれて、説明してくれたのだが・・・
幹線道路は、どこもかしこも大渋滞で真っ赤!!
こうなると交通管制などできないそうで・・・お手上げだという・・・(汗)

025_convert_20151015200022.jpg

最後に、巨大モニター画面に「ようこそ、女性部会のみなさん!」の文字が表示された・・・(驚)
オバチャンたち・・・いや、失礼・・・女性部会の皆さんは大喜び。(苦笑)
警察も粋なことをするものだ・・・
このモニター画面をバックに記念撮影をする。
拙者は、写りたくなかったのだが、皆さんから「一緒に!」との声がかかり、やむなく記念写真に収まったが・・・(涙)
なんとも恥かしい・・・(照)
“紅一点”ではなく・・・“黒一点”である・・・・(大笑)

031_convert_20151015202909.jpg (警視庁のマスコット)

これで、今回の「研修会」は終了とのこと。
常磐自動車道を走り、一路、わが町へご帰還・・・・
となるはずだったが・・・(大笑)
途中で、つい最近リニューアルしたパーキングエリアがあるので、そこで「お買物」をしたいという声が上がった・・・(苦笑)
またお買い物ですか?(笑)
笑えなかったのは、事務局の“アサヒ君”・・・顔面蒼白である・・・
このバス・・・時間制で借りているらしく、営業所に到着する時間が予定より遅れた場合、延長料金がかかるのだそうだ。
で・・・予算がないので延長料金を払うわけにはいかないそうで・・・
何があっても予定の時間内には戻らねばならないのだそうである。
あらら・・・そりゃ、顔面蒼白になるわなぁ~(大笑)
しかし・・・女性のパワーというのは凄まじいもので・・・(苦笑)
「いいから寄りなさいよ!」である・・・(大汗)
あ~・・・・やっぱり独身で正解だったと思った瞬間である・・・(大笑)
この強引さを毎日経験させられたら、拙者は多分長生きできまい・・・(大笑)

032_convert_20151015202947.jpg

なんとか、ほんの僅かだが立ち寄る時間が取れそうなので、パーキングエリアに立ち寄ることになった。
この時、車内は大歓声に溢れた・・・(大汗)
拙者は今晩の夕食用に親父と拙者の分のお弁当を購入・・・
こういう買物・・・なんとなく・・・わびしい気がしないでもないが・・・(苦笑)

さすがは女性部会・・・・
集合時間キッカリにバスに戻ってきた!(驚)
予定通りの時間に出発、無事に予定時間内にバス営業所に到着する。
で・・・ここで解散・・・
参加者の皆さんにお礼を言って、皆さんを見送る。
「じゃぁ、あとはお願いね!頑張って記事を書いてください!」と言われたが・・・(涙)
皆さんは気楽でいいでしょうが・・・(大涙)
え~と・・・この研修会の報告記事・・・どんなふうに書こうか・・・(汗)
参ったなぁ~・・・・拙者は新聞記者じゃないし・・・(大笑)
文才はないし・・・

「お疲れ様でした!」は結構ですが・・・
これからが大変なんだよね・・・拙者は・・・(大涙)

日記 | 21:02:24 | Comments(0)
『改訂版 世紀の自決』


   安岡正篤

序文  岡 潔

まえがき

留魂 終戦自決五百六十八柱の芳名

第1部

陸軍航技中尉 肥田 武(24歳)
   陸軍航空工廠木津分工場長・京都高等工芸卒
   滋賀県出身
海軍技術中尉 安平敏隆(23歳)
   釜山海軍航空基地・第352設営隊副長・三高、京大工学部卒
   兵庫県出身
海軍技術大佐 友永英夫(36歳)
   ドイツ駐在・東大工学部卒
   愛知県出身
海軍技術大佐 庄司元三(42歳)
   イタリー駐在・東大工学部卒
   山梨県出身
陸軍軍曹 土屋 寛(24歳)
   飛行第16戦隊・爆撃機操縦
   群馬県出身
陸軍大尉 小野寺謙介(22歳)
   航空士官学校教官
   岩手県出身
陸軍上等兵 鈴木 堅(24歳)
   近衛工兵第2連隊
   千葉県出身
陸軍少佐 古賀秀正
   近衛第1師団参謀・陸士52期
   佐賀県出身
陸軍技術軍曹 別役(べっちゃく) 保(24歳)
   善通寺兵器補給廠
   高知県出身
陸軍中尉 橘 健康(23歳)
   第29戦闘隊・特攻隊長・東京高等工芸学校卒
   東京都出身
陸軍主計大尉 金成 武
   茨城県出身
陸軍少尉 大出五郎(29歳)
   マレー第3教育飛行隊・明治大学卒
   栃木県出身
陸軍伍長 宮崎要吉
   パレンバン防衛司令部
   群馬県出身
海軍大尉 橋口 寛(22歳)
   海兵72期・平生回天特別攻撃隊
   鹿児島県出身
陸軍主計少尉 松井 巖(25歳)
   浜松飛行隊・京都帝大卒
   富山県出身
陸軍少佐 後藤達美
   陸士52期
陸軍主計曹長 芳賀弘毅(29歳)
   北支派遣新郷陸軍病院・第168兵站病院・中央大学卒
   東京都出身
陸軍一等兵 加瀬善久(20歳)
   関東軍野戦補充馬廠
   千葉県出身
陸軍技術少佐 竹林達登(30歳)
   第7方面軍野戦自動車廠
   広島県出身
陸軍上等兵 有住 葦(30歳)
   第7方面軍野戦自動車廠
   大阪府出身
海軍少佐 吉村甲子郎(49歳)
   22特根・岐阜県坂下町実業学校卒
   鹿児島出身
陸軍大尉 池葉東馬(49歳)
   猛10375部隊長・真岡中学校卒
   栃木県出身
陸軍少佐 野中国男(34歳)
   ビルマ烈兵団参謀
   佐賀県出身
陸軍伍長 間山己八
   青森県出身
海軍大尉 森下弘信(24歳)
   父島海軍根拠地隊・大阪商大卒
   和歌山県出身
陸軍少尉 岩崎邦夫(24歳)
   ジャワ島マラバル・上杉部隊作業隊長・横浜高商卒
   東京都出身
陸軍軍属 野口政雄(33歳)
   特務機関・駐蒙軍独立守備隊
   岡山県出身
海軍少佐 松浦 勉
   岡山県出身
陸軍憲兵曹長 佐野 勇(30歳)
   中支武昌憲兵隊・北京憲兵学校卒
   静岡県出身
陸軍少佐 大石猪太郎
   兵器行政本部・陸士52期
   福岡県出身
陸軍兵長 池田実広
   近衛歩兵第3連隊
   鹿児島県出身
陸軍憲兵軍曹 笹本東作(27歳)
   久江憲兵隊
   茨城県出身
海軍主計大尉 鈴木真一郎(24歳)
   朝鮮海軍航空隊・光州基地主計長・仙台一中、海軍経理学校卒
   仙台市出身
陸軍軍曹 酒井久雄(26歳)
   北支第12独立警備隊
   群馬県出身
陸軍少佐 晴気 誠
   大本営陸軍参謀・陸士46期
   佐賀県出身
海軍大尉 細田春中(28歳)
   海軍第10通信隊・ペナン島第4分遣隊長・東京外語大卒
   山梨県出身
海軍上等兵曹 田中錬次(35歳)
   第12特根
   佐賀県出身
海軍大尉 伊藤寅司(42歳)
   ウェーキ島第65警備隊・中隊長
   神奈川県出身
海軍警部 修多羅(しゅたら) 浩(34歳)
   静岡県出身
陸軍憲兵軍曹 近藤 巖(24歳)
   陸軍中野憲兵学校
   愛知県出身
陸軍見習士官 関口重二郎(23歳)
   線87部隊・中央大学専門部卒
   東京都出身
海軍軍属 窪田典人(30歳)
   中尉相当官・25根拠地隊・福岡蚕糸学校卒
   福岡県出身
海軍上等衛生兵曹 小川和一(40歳)
   千葉県出身
海軍一等主計兵曹 折上良雄(25歳)
   台湾高雄警備隊
   徳島県出身
陸軍少佐 折田 優(36歳)
   関東軍総司令部・陸軍士官学校卒業
   鹿児島県出身
陸軍少佐 植田善幸(43歳)
   在満山中連隊大隊長
   香川県出身
陸軍中尉 山岡健一(23歳)
   航空本部兵器総局・軍需省軍需官
   兵庫県出身
海軍技術中佐 長島秀男
   航空本部九州海軍監督部
   埼玉県出身
海軍少尉 寺尾博之
   九州海軍軍需監理局
   兵庫県出身
陸軍憲兵曹長 上遠野(かどの)勇吉(28歳)
   ジャワ駐屯・第16軍憲兵隊
   福島県出身
海軍少尉 森崎 湊(22歳)
   三重海軍航空隊・満洲建国大学出身
   長崎県出身
陸軍技術中尉 藤田正雄(22歳)
   陸軍航空本部明石出張所・川崎航空機会社・浜松高工卒
   千葉県出身
陸軍憲兵軍曹 猪田竜蔵(25歳)
   武昌憲兵隊
   滋賀県出身
陸軍衛生伍長 片野 博(25歳)
   ジャワ独立歩兵第1556大隊
   神奈川県出身
陸軍軍曹 中村金一郎(26歳)
   ジャワ独立歩兵第1556大隊
   福岡県出身
陸軍軍曹 藤岡 豊(みのる)(26歳)
   セレベス島海軍工廠
   愛媛県出身
陸軍曹長 滝川一式(かずのり)(28歳)
   バンコック駐屯森7900部隊・福島高商卒
   三重県出身
海軍中尉 長島良次(23歳)
   徳島海軍航空隊・明治学院高商部
   神奈川県出身
海軍中尉 中原一雄
   徳島海軍航空隊・関西学院大学経済科
   兵庫県出身
陸軍少尉 那須一郎(24歳)
   南支槍第7152部隊・早稲田大学政経学部卒
   千葉県出身
陸軍大佐 吉成 弘
   李■公御付武官・陸士37期
   大分県出身
陸軍憲兵中佐 堀江正章(27歳)
   東京本所憲兵分隊長・陸士51期
   埼玉県出身
海軍一等主計兵曹 (いい) 稀績(きせき)(29歳)
   大村海軍病院小浜分院
   熊本県出身
陸軍少佐 小寺次郎平(32歳)
   歩兵225連隊
   岡山県出身
陸軍中尉 野上正一(23歳)
   奉天第1高射砲第2大隊・第5中隊小隊長
   大分県出身
陸軍憲兵中佐 山本 学(38歳)
   第16軍憲兵隊長・陸士41期
   福岡県出身
陸軍大佐 安木亀二
   在満中村師団参謀長・陸士32期
海軍大尉 小山悌二(22歳)
   ヤップ島警備隊
   長野県出身
海軍少尉 牧野周次郎(40歳)
   名古屋市出身
   昭和24年1月19日「アンボン」に於て自決
陸軍憲兵中佐 時松(ときまつ)先志(はやし)(35歳)
   ハルマヘラ島・憲兵隊長・大分県立日田中学卒
   大分県出身
陸軍大尉 谷口 章(22歳)
   陸士56期・野戦重砲15連隊
   滋賀県出身
陸軍大尉 国吉真幸(21歳)
   陸軍輜重兵学校教官・陸士56期
   東京都出身
陸軍憲兵曹長 久米 武三(30歳)
   ジャワ憲兵隊
   愛知県出身
海軍中尉 森下 茂(23歳)
   徳島海軍航空隊・秋田鉱専卒
   岩手県出身
陸軍憲兵大尉 岩政真澄(41歳)
   ジャワタンジョンプリオク憲兵隊長
   山口県御井市出身
陸軍大尉 吉川忠義(26歳)
   支那派遣軍独立歩兵122大隊
   島根県出身
陸軍憲兵大尉 関口藤吉(42歳)
   北セレベス憲兵隊
   栃木県出身
陸軍少尉 金原重夫(32歳)
   第6方面軍(第5航空軍)・第26野戦航空修理廠
   静岡県出身
陸軍少佐 村田孝義(32歳)
   スマトラ派遣淀4081部隊・陸士56期
   兵庫県出身
陸軍兵長 石岡正信(25歳)
   釜山憲兵隊蔚山分隊・立命館大学法政学科卒
   兵庫県神戸市出身
陸軍中尉 大原忠彦(26歳)
   ジャワ独立歩兵第150大隊
   大阪府出身
海軍上等兵曹 藤井 豊(37歳)
   山口県下松市出身
陸軍兵長 長田健治(33歳)
   香港独立歩兵第69連隊
   兵庫県出身
海軍警部 石田光行(41歳)
   県立鹿児島中学校卒業
   佐賀市出身
陸軍伍長 宮本司馬夫(29歳)
   九州高等簿記学校卒業
   熊本県
陸軍教授 橋口兼夫(34歳)
   陸軍予科士官学校教官・東京大学文学部卒
   鹿児島県出身

第2部

海軍少佐 國定謙男(33歳)
   海軍軍令部参謀
   岡山県出身
          夫人 喜代子(31歳)
          長男 隆男(2歳)
          長女 緋桜子(5歳)
陸軍中佐 銕尾 隆(28歳)
   決師団第203連隊第2大隊長・陸士51期
   兵庫県出身
          夫人 玉憙(23歳)
陸軍中佐 川村 進(56歳)
   ハルピン鉄道警護旅長・満州国陸軍少将・陸士22期
   東京都出身
          夫人 幸子(46歳)
陸軍中尉 内倉光秀(38歳)
   第1航測連隊(浜松~滋賀県日野)
   鹿児島県出身
          夫人 ヤス子(33歳)
          長男 格治(8歳)
          長女 秀代(7歳)
          次女 滋子(2歳)
陸軍大佐 親泊朝省(43歳)
   大本営報道部員・陸士37期
   沖縄出身
          夫人 英子(37歳)
          長男 朝邦(9歳)
          長女 靖子(2歳)
陸軍大佐 渋谷三郎(58歳)
   元歩兵第3連隊長・満州国治安部次長・ハルピン学院長
   陸士20期
          夫人 文子(51歳)
          次男 泰(16歳)
海軍主計大尉 下村良策(27歳)
   舞鶴鎮守府人事部・京都大学卒
   滋賀県出身
          夫人 孝子(21歳)
海軍中佐 宇田川秋次郎(41歳)
   佐世保海軍工廠
   佐賀県出身
          夫人 ふく子(33歳)
          長女 皓子(生後6ヵ月)
海軍大尉 長瀬 武
   佐世保軍需部・海軍機関学校卒
   石川県出身
          夫人 外志子
陸軍少佐 藤井權吉(37歳)
   飛行第61戦闘隊長・陸士44期
   富山県出身
          夫人 歌子(35歳)
          長女 幸子(11歳)
          長男 公平(3歳)
陸軍少将 隈部正美(49歳)
   航空技術審査部総務部長・陸士30期
   東京都出身
          夫人 可知(42歳)
          母堂 絹子(69歳)
          長女 佐和子(19歳)
          次女 純江(17歳)
元帥陸軍大将 杉山 元
   陸軍大臣・教育総監・参謀長・第1総軍司令官・陸士22期
   福岡県小倉市出身
          夫人 啓子

第3部

陸軍大将 本庄 繁(68歳)
   侍従武官長・枢密顧問官・陸士9期
   兵庫県出身
陸軍法務中将 島田朋三郎(63歳)
   東部軍法務部長・東大法学部卒
   徳島県出身
陸軍大将 阿南惟幾
   陸軍大臣・陸士18期
   大分県出身
海軍中将 宇垣 纏
   第5航空艦隊司令長官
   岡山県出身
陸軍中将 山田精一
   第5師団長・陸士26期
   岐阜県出身
陸軍中将 上村幹男(53歳)
   第4軍司令官・陸士24期
   山口県出身
陸軍中将 人見秀三
   第12師団長・陸士23期
   山形県出身
陸軍中将 浜田 平
   18方面軍参謀副長・陸士28期
   高知県出身
陸軍大将 吉本貞一
   第1総軍司令部付・陸士20期
   徳島県出身
陸軍中将 秋山義兊(58歳)
   第137師団長・陸士20期
   京都府出身
陸軍中将 寺本熊市
   航空本部長・陸士22期
   和歌山県出身
陸軍中将 篠塚義男
   軍事参議官・陸軍士官学校長・陸士17期
   東京都出身
陸軍大将 安藤利吉
   台湾軍司令官、台湾総督・陸士16期
   宮城県出身
陸軍中将 大西滝治郎
   軍令部次長
   兵庫県出身
陸軍中将 安達二十三(はたぞう)(57歳)
   ニューギニヤ派遣軍司令官・陸士22期
   東京都出身
陸軍大将 田中静壹
   東部軍司令官・陸士19期
   兵庫県出身
海軍少将 升田仁助(54歳)
   第64警備隊司令
   山口県出身

第4部(補遺篇)

留魂
(補遺)終戦自決31柱の芳名を追加 合計599柱

『安達二十三の自決』 (田中兼五郎)

陸軍憲兵少佐 稲田 誠
   新義州憲兵隊長
海軍軍属 井上弘芳
   第4海軍気象隊
陸軍大佐 大久保朝雄
   南方軍独立大隊長
海軍上等工作兵曹 岡崎清吉
   第2郡山海軍航空隊
海軍上等飛行兵曹 片山公正
   第1081海軍航空隊
海軍少将 木山辰雄
   第81警備隊司令
海軍軍属 小林繁樹
   第4海軍気象隊
海軍軍属 佐保田正行
   第4海軍気象隊
陸軍警部 猿渡靏喜
   スマトラ軍政監部
海軍大佐 多田久爾夫
   海軍省軍需局
陸軍大佐 棚橋真作
   西部軍教育隊
海軍少尉 中濱松夫
   第21特別根拠地隊
海軍大尉 長瀬 武
   佐世保海軍軍需部
海軍軍医少佐 鍋谷禮次郎
   第4艦隊司令部
海軍二等兵曹 野上 清
   大湊海兵団
陸軍少佐 林野民三郎
   陸軍航空本部
海軍少尉 平畑裕朗
陸軍軍曹 廣瀬義輝
   大阪俘虜収容所淀川派遣所長
海軍技手 藤田加茂恵
   第4海軍気象隊
陸軍大佐 布施谷要作(夫妻、二女共)
   石川県世話部長
陸軍少佐 松浦友好
   関東軍第2遊撃隊長
海軍中尉 松島貞雄
   攻撃第501飛行隊
海軍嘱託 三浦 襄
   小スンダ民政部
海軍少佐 山田九七郎
   第302海軍航空隊飛行長
海軍少尉 山本静二
   川棚海軍突撃隊
海軍軍属 山脇常三
   第4海軍気象隊

陸軍生徒 新子(あたらし)堅司(けんじ)(18歳)
   昭和2年3月5日生
陸軍看護婦 井上鶴美(26歳)
   以下22名
   新京・第8陸軍病院
陸軍大佐 河瀬繁太
   第107師団参謀長
   山口県出身
陸軍中将 小泉恭次(61歳)
   山形県米沢市出身
   東京都三鷹市の自宅に於て自決
陸軍大佐 菅 辰次
   ボルネオ、クチン俘虜収容所長
   ラブアン収容所に於て自決
   広島県出身
海軍中尉 中原一雄(23歳)
   徳島海軍航空隊・関西学院大学商経学部
   兵庫県出身
陸軍中将 納見敏郎
   宮古島第28師団長・陸士27期生
   広島県出身
陸軍大将 若松満則
   在満・機動第3連隊長
   福岡県出身


本書は、終戦後に自決した軍人・軍属などの方々の遺書や家族宛の手紙、遺族の言葉や関係者の追憶等などが載せられている本である。
当初は568名が掲載されていたらしいが、その後31名が追加となり、この「改訂版」で599名の掲載となったそうである。
が・・・数えてみると、追加は31名ではなく、33名ほどいる・・・(笑)
となると・・599名ではない。
確か、戦後に自決した人は600名を超えると何かの本で読んだことがあるので、ほぼその全員が掲載されているといっていいかもしれない。

第1部は、内容の多さから見て、これがメインということになろう。
陸海軍問わず、階級も年齢も肩書きもさまざま・・・
自決した場所も内地(日本国内)外地(海外)とさまざま・・・
自決の理由も様々であるが、基本的には「戦争に負けた責任を感じて」ということが多いようである。
一部、戦犯として収容された方は、上官として自決して責任を取り、同じ戦犯容疑で収容された部下を救おうという考えた方もおられたようであるが・・・
しかし、「敗戦の責任」は、なにも、あなたのような「下級兵士」が責任を感じることもあるまいに・・・とも思うような人が多いのには驚いた。

この中に「森崎 湊」という人の名を見つけて懐かしさが甦った。
彼が書いた、確か『遺書』という題名の本を小学6年生の時か中学1年生の時に読んだことがある。
通常、書名や著者が全く記憶できない私なのだが、不思議なことに「森崎 湊」という名前は今でもよく覚えている。
内容はよく覚えていない。(苦笑)
彼の日記がそのまま本になったものだったような気もするのだが・・・
その中の一文、ごく一部だけはよく覚えている。
「学問とは立身出世のためにするものではなく・・・」という部分・・・
この部分だけはよく覚えている。
確か、学問は自分の立身出世のためにするのではなく、国のために役に立つ人間になるためするべきものだ・・・とか何とか、そういうことが書かれていたと思う。
それを読んで大いに共感したことを覚えている。
彼は終戦後、海岸の松林に向かい、割腹自決を遂げた・・・
折角、生き残ったのに、どうして死んだのだろうと理解し難かった。
家に帰れるのに・・・
家に帰ればお父さんやお母さんや兄弟にも会えるのに・・・
どうして自決なんかしたのだろう・・・
ショックだったので、よく覚えている・・・
「森崎 湊」・・・・久し振りの“再会”である。

第2部は、同じ自決でも家族を道連れにした方々が収められている。
はっきり言って、読んでいて腹が立って仕方がなかった。
なんで幼い子供まで道連れにして「自決」などをしなくてはならないのか?
死ぬなら自分ひとりで死ねばいいものを・・・
家族を置いて死ぬのが忍びないのなら、死ぬのは諦めるべきだ。
夫として、父親として生き抜いて家族を養う“義務”があるはずである。
天皇陛下は「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」とおっしゃたではないか?
その陛下の言葉に背いて、「敗戦の責任を取る」のは“不忠”ではあるまいか?
最終的に死んで責任を取るのなら、最初から結婚して子供を作ったりしなければいいのである。
幼い子供には判断力がないのである。
それを道連れにするとは・・・言語道断である。
どんなに綺麗事を言ってもただの一家心中に過ぎない。
「立派な最期」などと褒め称えているが、とんでもないことだ。
一人で死ぬ度胸がないのなら軍人などにならねばいいのである。
軍人になった以上は死ぬのは覚悟せねばなるまい。
いつ死んでもいいように、私のように家族を持たず独身でいるべきだと思う。
この2部に掲載された方々に対しては、誠に申し訳ないが、私は彼らの行動は全く容認できない。
「家族揃って立派な最期」など、とんでもないことである。
読んでいて腹が立って仕方がなかった・・・

第3部には、将官クラスの、いわゆる“お偉いさん”の自決者が掲載されている。
その中の何人かは、確かに自決して責任を取らねば仕方がないだろうなぁ~と思う方々もおられる。
が・・・多くは、「別にあなたが責任を取って死ななくても・・・」と言いたくなる方々である。
その代わり、本来ならば死んで詫びるべき人たちの名が全く見当たらない。
あえて具体的なお名前は差し控えるが・・・
部下を置き去りにして安全な場所にサッサと逃げた軍司令官や・・・・
常識的に考えても無茶な作戦を強いて多くの将兵を無駄死にさせた司令官や・・・
素人並のお粗末な作戦指導を行ない多くの将兵を死なせた参謀連中など・・・
そういう人たちは「自決」していない・・・
戦後も知らぬ顔して平然と生きながらえ余生を送っている。
彼らから比べたら、本書に掲載されている人たちは自決する必要のない人たちである。
ある意味、憐れさを感じてしまう。
バカ正直なものが損をし、厚顔無恥で、こずるい奴が得したような気がしてならぬ。
これが戦後日本の“原点”となっているから、今のような世の中になってしまったのではなかろうか?
本来ならば責任を取って処罰、処刑されねばならぬ人を、そのままにしたことが大きな間違いだったと思う。
ある意味、「悪い前例」を残してしまったような気がしてならない。
そう思うと、本書に掲載された「自決者」がなんとも憐れに思えてくる。
大変失礼な言い方になるが、「世紀の自決」ではなく、これは「世紀の無駄死に」ではなかろうか?


今年の読書:36冊目



読書 | 23:02:14 | Comments(0)
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