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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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国歌拒否の東京都教職員
卒業式などで校長の職務命令に反して、国旗に向かっての起立や国歌斉唱をしなかった東京都の教職員・・・
定年後の再雇用選考で、このことを理由に不採用になったという。
当たり前のことだと思うけど・・・(大笑)

ところが、この常識の無い東京都の教職員たち22人が都を相手取り、不合格は違法だとして、一人当たり520万円から1300万円の損害賠償を求めて訴訟を起こした。
「非常識な奴」は、どこまでいっても「非常識な奴」である。(大汗)
「選考」は「選考」であって、「テスト」ではない。(大笑)
「テスト(試験)」で100点満点取ったのに不合格とは納得いかないというなら理解出来ますが・・・
あくまでもこれは「選考」である。
「選考」とは、その人の能力や性格やらを、よく調べて”選び出す”ことであろう?
この「非常識でバカな定年退職した教職員たち」の中に「国語の先生」はいなかったのだろうか?(大汗)
「選考」の意味がわからないようでは、教師の能力に問題あり・・・である。(大笑)

加えて「損害賠償」である・・・・
選考に漏れたからって、その人にどんな「損害」があるのか?
仮に私が私の花嫁選考会を開催したとしよう!(大笑)
“選考”から漏れた女性から“損害賠償”の請求をされたのでは、堪ったものじゃない。(大笑)
私の妻になれなかったことで、彼女にどんな「損害」が発生したんだ?(大笑)
というわけで・・・
損害賠償を請求した段階で、この人たちは「子供に物事を教える能力がない」ことは明確・・・
「選考」から漏れるのは当然であろう?(大笑)

にもかかわらず・・・
東京地裁の裁判長は、「再雇用への期待を違法に侵害した」と指摘・・・(唖然)
原告が再雇用された場合に得られる1年分の報酬を賠償額として、それぞれ200万円を超える賠償を都に命じたという。
バカなのは、教職員だけではなく裁判官も・・・とは呆れる。

都の教職員というのは、都の公務員でしょ?
公務員が日本の国旗に敬意を払わなくていいの?
国旗ではなく、都立の学校だから「都の旗を掲揚すべきだ!」というなら一理ある・・・(笑)
君が代ではなく「都の歌(そういうものがあるかどうかは知らないが・・・)を歌うべきだ!」というなら、これまた一理あろうが・・・(大笑)
そういうことを言って国旗・国歌に背を向けたわけではなさそうである。
となると・・・公務員としては失格者ではなかろうか?
税金で生計を立てているんだから・・・・(大笑)

こういう「バカ」にカネを払うように命じた裁判官に「損害賠償」を請求できないのかね?
賠償金は都民の税金で支払われるのだから、都民は「損害」を受けたことになるんじゃないか?(笑)
で・・・この裁判官を教育した教師にも「損害賠償」を請求すべきかも・・・(大笑)
小・中・高・大学・司法研修所の教官・・・・過去を辿って、どこのバカが、こういうバカを育てたのかを調べ・・・
おかげで「都民は損害を受けた」ということで、「損害賠償」を請求できないものか?(大笑)

都の教育委員会は、国旗に向かって起立すること、国歌を斉唱することを義務付けている。
「義務」ですよ!(大笑)
この義務に従わない教職員は服務上の責任を負うことも事前に通達している。
にもかかわらず・・・信念を持って(かなり間違った信念ですが・・・)従わなかったので、原告達22人は懲戒処分を受けたわけである。
その「懲戒処分者」が定年後に再雇用を申請したわけで・・・(唖然)
「懲戒処分」の経歴を持つ者を再雇用するほうがおかしい・・・(大笑)
選考で採用されないのは当然である。
・・・ということもわからないようでは、教職員としての資質に問題ありである。(笑)

どうしても教職員をやりたいのなら、私立校へ行けばいいのではなかろうか?
私立校でも採用されないのなら、潔く諦めるべきである。
「子供に物事を教える能力がない」ということなんだから・・・

『渡る世間はバカばかり』・・・である。

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エッセイ | 13:40:19 | Comments(0)
久しぶりの震度5!
昨日の午後2時半頃・・・
庭で雑草を抜いて掃除をしていたら・・・(大笑)
いきなり、携帯電話が鳴り出した・・・
緊急地震速報のチャイム音である。
あら・・・珍しい・・・と思った瞬間、我が家がガタガタ、ミシミシと揺れ始めたのである。
おお!・・・こりゃ、久しぶりの揺れである。
どうやら震源地は埼玉県の北部らしい・・・
へぇ~内陸部が震源地というのも、久しぶりのことで珍しい・・・(笑)

その後のことであるが・・・
この「緊急地震速報」が、地震が起こった後に通知されたと、なにやら問題視している人たちがいるそうだ・・・
「緊急地震速報」は、地震が発生する前に通知すべきだということなのだろう。

しかし、考えてもみたまえ!
天気予報すら当らない気象庁が地震の発生を予知できるわけがないではないか。(大笑)
騒いでいる人は、そのことに思い至らないのだろうか?

だいたい、これは「緊急に地震が起きたことを速報」しているだけの話で、「地震発生予知」とは違うのではなかろうか?
だから、地震の後でも問題はあるまい?
震源地に近い場所では当然間に合わないが、地盤の状態にもよろうが、震源地から離れていれば、今回のように地震で家が揺れる数秒前にメールが届くこともある。
所詮、その程度のものである。
私個人としては、別に「速報」なんてしてくれなくていいと思っている。
そんなことにカネをかけるくらいなら、他のことにかけたほうがいいのではないかとすら思っているのである。(苦笑)

我々は「天気予報」というのを、よく利用するが・・・
だいたい前日に翌日の天気を確認する・・・
明日は洗濯物を外に干してもいいかどうか・・・(笑)
これが、雨が降る数分前になってから「雨が降りますので洗濯物に気をつけてください」と言われても意味はない。(大笑)
メールが届いても数分間の余裕では洗濯物を家の中に取り込むのは難しいだろう。
そんな「天気予報」なら必要は無い。(大笑)

我々に必要なのは「天気予報」であって、「たった今、雨が降り出しました!」というような「速報」ではない。
そんなこと言われなくとも見りゃわかるわい!(怒)・・・である。

我々に必要なのは、「地震速報」ではなく「地震発生予報」である。
プレートの動き、火山の様子、その他のデーターの解析から「来週、かなり大きな地震が起こる可能性があります。十分ご注意下さい」と予報が出れば、心構えも違ってこよう。
停電に備えて懐中電灯の確認をするとか、断水に備えてミネラルウォーターを買ってくるとか・・・
家の中を点検して、余計なものが頭上に落ちないようにするとか・・・
そういう「準備」ができる。
かりに予報が外れても、決して無駄ではなかろう?(笑)

地震が発生したことを報せる速報にケチをつける人たちの見当違いの認識に呆れる・・・(大汗)

日記 | 13:01:44 | Comments(0)
予科練の慰霊祭
今日は土浦で予科練の慰霊祭がある。
拙者はこの予科練の戦友会の会員でもあるが、未だかつて一度も慰霊祭に参列したことがない。(大汗)
一度くらいは参列せねば申し訳がないので・・・
今回、思い切って参列することにした。

土浦へは車で行ってもいいのだが・・・運転するのが面倒くさいので・・・・(大笑)
鉄道を利用する。
鉄道のほうが時間が正確だし、道に迷って焦ることもない・・・(大笑)
午前8時半過ぎ、JR土浦駅に到着。

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駅からは慰霊祭会場まで送迎バスが出ているので、これに乗り、会場である陸上自衛隊武器学校へ向かう。
この武器学校は、その当時、予科練が置かれていた場所である。

9時より受付・・・
思ったより若い参列者が目立つ。
目立つだけに、その自分たちの態度には注意を払わねばならないと思うが・・・
やっぱり若い連中のことである・・・気にしない様子・・・(汗)

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003_convert_20150922205827.jpg(90式戦車)

受付後、式典開始まで時間があったので資料館を見学・・・

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フィリピンの郷土史家で画家、神風特攻隊の顕彰に尽力されているディソンさんの絵も展示されていた!(喜)

会場で、“戦友”に会う。
確か水上機に乗っていた“ワキタさん”、零戦搭乗員だった”イワクラさん”・・・
いずれも、過去に一緒に海外旅行をした仲間である。
もう一緒に旅行をする機会も無くなり、お会いする機会がなくなっていたので、久しぶりの再会である。
“イワクラさん”は、フィリピン上空でグラマンに撃墜され、火傷を負いながらパラシュートで脱出し生還された猛者である。
久し振りにおしゃべりをする。

式典開始前に「慰霊飛行」があった。
海上自衛隊下総教育航空群の通称「日の丸飛行隊」が式場上空を旋回する・・・
が・・・「飛行隊」なのだが、1機しか飛んでこなかった・・・(笑)
たぶん、予算の関係なのだろう・・・(汗)

午前10時、式典開始・・・

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想像以上に参加者が多いという印象だったが、以前から参加されている方の話によれば、以前よりかなり参加者が減っているとのこと。
半分以下じゃないか?・・・との声もあったが・・・
この倍以上の参加者が昔はいたの?(唖然)

式次第は・・・
「開会の辞」
「国旗掲揚(国歌吹奏)」
海上自衛隊下総教育航空群隊員による「儀仗(弔銃)」
陸自・武器学校教導隊員と海自・下総教育航空群隊員が合同で「献火」
「高松宮妃殿下御歌奉詠」
「式辞」
来賓、遺族、各会代表による「献花」
「来賓挨拶」は陸自武器学校校長と海自教育航空集団司令官・・・
教育航空集団司令官の挨拶はビシッとしていて、さすがは司令官という素晴らしい挨拶だった。

その間、拙者の後ろに座っている年配者が延々とオシャベリ・・・
たぶん、従軍経験者だと思うが、それにしても不謹慎な人である。
延々と隣の人と自慢話・・・
みなさん遠慮されているのか注意しないので・・・
さすがに堪忍袋の緒が切れ・・・(大笑)
拙者から注意をさせていただいた。
たとえ従軍経験者であろうと、戦死した“戦友”の慰霊祭の場である。
不謹慎であろう?
どうも最前線には行っておらず、予科練を卒業してすぐに終戦になったような話をしていたから・・・
拙者の親父と同期かもしれない・・・
「静かにしなさい!」(怒)・・・・(大笑)

引き続き「ご遺族の言葉」・・・
「遺書等の朗読」は“アドバイザー”の女性が行なったが・・・
“アドバイザー”とは偉そうな肩書きだと思ったら、どうも防衛省の女性職員らしい。(唖然)
“アドバイザー”ねぇ~・・・・その肩書き、何とかなりませんかね?(苦笑)
一部の従軍経験者からも「違和感があるねぇ~」との声が上がっていた・・・

「若鷲の歌・奉唱」・・・参列者全員で歌う・・・・
「奉納行事」として、献歌と舞踊の奉納・・・・

参列者の参拝となるが・・・
司会者から、「時間がないので・・・」と言われても、意に介せず、続々と若い連中が列に並ぶ・・・
あ~あ~・・・あんなに並んだら、いつまで経っても終わらないだろ・・・(汗)
どうしても「参拝」しないと気が済まないらしい・・・
ある程度、時間が制限されたら、従軍経験者と戦没者遺族を優先させて、その他の人は遠慮すればいいのに・・・
そういう気配りはない・・・・(唖然)
見ていて不愉快・・・
当然拙者は、列には並ばない・・・
この場に座っているだけでも十分、慰霊することになると思う。
なにも、祭壇まで進んで手を合わせなければ慰霊にならないなどとは思っていない。
一般参加者は、従軍経験者や戦没者遺族より一歩下がるべきである・・・・と思うのである。

野外での慰霊祭・・・無事に終了・・・
まるで真夏日のような暑さの下でのことだったので、さすがにキツかった・・・
ご高齢の方々は大変だったのではあるまいか?
女性団体の方々がテントを張って飲み物のサービスをしていたので、遠慮なく頂く・・・
いやぁ~喉が渇いてツラかったぁ~(苦笑)

この後、武器学校の体育館(講堂?)で「直会」・・・・
来賓挨拶は町長さん・・・
乾杯の発声は町議会議長さん・・・
そして会食・・・

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従軍経験者御二人と一緒に食事をしながら、おしゃべり・・・
いやぁ~楽しい時間が過せた・・・
お弁当も豪華だし・・・(大笑)

今回、参加して本当によかった。(喜)

日記 | 18:23:05 | Comments(0)
『発掘アジア歴史講談』


はじめに

ホセ・リサールと臼井勢以子の恋

1 日本に魅せられた亡命青年
     「スペイン人・リサール」
     カランバの生家
     オール・エクセレント
     『ノリ・メ・タンヘレ』
     旗本の娘・おせい
     日比谷公園の記念碑
     22ヵ国語に通ずる
     「東京はパリより広い」
     人力車の今昔
2 明治21年、水ぬるむ春
     路上で待ち受ける
     言葉と“身の上”の縁
     “出会いの場”に三説
     オルテガスでの対面
     日光、箱根そして墨絵
     反故紙に残された文字
     「忠臣蔵」に感動する
     恋か祖国か、安定か波瀾か
     目黒の寺の別れ
     4月12日の手記
3 戦禍を越えて咲き香る愛
     末広鉄腸との船旅
     『南洋の大波瀾』など
     処刑までの8年間
     バグンバヤンの鮮血
     その後の「おせいさん」
     激戦地“フィリピン”
     70数年後の復活
     愛は歴史を開く―
参考図書・資料および註釈

マゼラン、ラプラプの戦い

1 人類初の世界一周航海
     “マゼラン世界周航”の三説
     地球一巡して母国の地へ
     “大航海時代”の衝撃
     目指すは“香料の島”
     マゼラン遠征隊の出航
     丸3年がかりの地球一周
     飢えに漂う太平洋航路
     幽霊船寸前の地獄
     “泥棒群島”でのひと息
2 マクタン島の決戦
     砲声威嚇でセブ上陸
     ダトゥとラジャの時代
     ラプラプ、帰順要求を蹴る
     サンゴ礁に轟く銃声
     放火作戦に怒り猛る
     “足ねらい”戦法
     マゼラン、ついに倒れる
     記念碑が告げるもの
     惨劇“セブの大虐殺”
     ビクトリア号帰国す
3 “侵略者”対“土人”
     地球一周で1日のズレ
     語り継がれたラプラプ像
     「土人に殺害さる」説
     絵画“マクタンの戦い”
     昔話ではない“昔話”
参考図書・資料および註釈

おたあジュリア物語

1 行長に連れ去られた幼女
     韓国映画の徳川家康
     戦火に拾われた孤児
     団体“買”春宿の一室にて
     悲運を貫く殉教の生涯
     史実とシナリオの間
     なぜ「おたあ」なのか
     「いらっしゃいませ」説
     小西行長と加藤清正
     「オトッタ=拾った」説
     倭奴が来た(ウァッタ)!
2 西洋にまで知られた貞女
     朝鮮使節との対面
     帰国を拒んだ理由
     豊国神社前の「耳塚」
     大樽に塩漬けされた鼻
     “慈仁博愛”への粉飾
     文化庁管理下の「史蹟」
     “信仰深さ”の底流
     権力中枢部の情報源
     布教アドバイザー
     “皇帝の妾”説の虚実
3 “家康の寵”を振った美女
     “高麗の産”への執着
     拒絶をめぐる愛憎の念
     ジュリアだけは許せぬ
     “遠島”への道行き
     残された“最後の城”
     覇者と弱者の図
     殉教への旅立ち
4 島民に敬慕された聖女
     「女一人では住めない」
     流人墓地の宝塔様
     石田一族の保護説
     濤響寺に残る過去帳
     “末裔”としての松江姓
     家康の“手心”説
     “殉教者”への軌跡
     海を渡るジュリア祭
     島民、教皇に謁見す
     ソウル切頭山の嵐
参考図書・資料および註釈

あんぱん、海を渡る

     ヤオハン景品大当たり
     人種を混じえての行列
     実演販売で人気呼ぶ
     明治7年、あんぱん誕生す
     鉄舟、普及に一役買う
     “和魂洋才”の象徴
     チンドン屋の元祖
     替わっては“タイヤキ”

グリコマークは誰の顔?

     60年越しの親しみ
     牡蠣の栄養分に着目
     この強味、この宣伝!!
     女学生ら、酷評の一撃
     “幻の笑顔”を発見
     レイテ島出身の俊足
     笑顔は国境を越える

「ターリー」ところ変われば

     初めに芸名ありき―
     南海先生、酒ばかり
     「大力」変じてターリー
     オー・ノータリン
     久米町経由福建省
     「らっきょう」の渡来先
     南北の「かけはし」
     イムジンガンの今昔
     「米はナシ」の国では・・・・
     “バナナ・ボート”の思い出
     「タカノを喰え!!」の叫び
     「ヌンベル・ワン」に冷汗
     転じては「危険な男」

未集録演目とその概要(発表順)
     「光化門の月」
     「チョロ・デリー」
     「びいどろ屋繁さん」
     「木口小平の謎」
     「李方子の“すぎた歳月”」
     「布引丸余聞」
     「サンダカンの今昔」
     「梅・常陸時代の大陰謀」

あとがき


題名にある「発掘」・・・
確かに「発掘」である。
なかなか面白いテーマを取上げている。
以前からホセ・リサールについて、わかりやすく書かれたものはないかと思っていたのだが、本書はその期待を裏切らなかった。
マゼランとラプラプについても同様である。
意外にも面白かったのは。「グリコ」のマークのモデルが誰だったかという話・・・
意外や意外・・・これは面白かった。
著者は「講談」という形で書いたようだが、文字にすると、これが「講談」なのかどうか、さっぱりわからなかった。(大笑)
読み易いことは読み易い・・・
拍子がついた肉声で聴くと、また違った雰囲気になるのかも・・・
第2弾、第3弾を期待するくらい勉強になる面白い本だった。


今年の読書:31冊目



読書 | 00:08:54 | Comments(0)
『謎解き 少年少女世界の名作』


まえがき

第1章 経済原理と世界戦略

フランダースの犬・貧しかった日本人にとっての「癒し系」
作者 ウィーダ(1839~1908)
刊行 1872年 イギリス
     読まれているのは日本だけ
     挫折した二宮金次郎
王子と乞食・偽王が偽造される民主主義への批判
作者 マーク・トウェイン(1835~1910)
刊行 1881年 イギリス
     きわめてアメリカ的な作品
     「成り上がり」トウェインの不安
小公子・日清戦争後の母子家庭を魅了した夢物語
作者 フランシス・H・バーネット(1849~1924)
刊行 1886年 アメリカ
     天才的よい子・セディ
     『小公子』のネガとしての物語
宝島・「契約」の原理に貫かれたビジネスの苛酷さ
作者 ロバート・L・スティーブンスン(1850~1894)
刊行 1883年 イギリス
     これは経済小説だ!
     日本人が輸入しそこなった思想
吸血鬼ドラキュラ・「伯爵=カウント」に隠された怪物の正体
作者 ブラム・ストーカー(1847~1912)
刊行 1897年 イギリス
     コウモリの世界地図
     吸血鬼と搾取の理論

第2章 冒険の中の家族、民族、国家

家なき子・19世紀末フランスの正当な統治者は誰か
作者 エクトル・H・マロ(1830~1907)
刊行 1878年 フランス
     「親に対する教訓集」だった
     第二帝政下のフランスゆえの
十五少年漂流記・少年も無縁でいられない英米仏の領土問題
作者 ジュール・ヴェルヌ(1828~1905)
刊行 1888年 フランス
     サバイバルとは無縁の無人島生活
     15人の政治ゲーム
ドリトル先生物語・物語に刻まれた無意識の侵略思想
作者 ヒュー・J・ロフティング(1886~1947)
刊行 1920年 アメリカ
     金儲けには結びつかない能力
     ドリトル流コモンセンス
西遊記・大衆が内包する異民族蔑視の中華思想
作者 伝・呉承恩(1500?~1582)
刊行 16世紀(明代)にほぼ確立 中国
     源泉は玄奘の冒険行
     大衆消費の対象だった『西遊記』
最後の授業・帝国主義の尖兵としての国語教育
作者 アルフォンス・デーデー(1840~1897)
刊行 1873年 フランス
     独に編入された“フランス領”
     フランスばんざい!?
クオーレ・真の国家確立のために必要だった物語
作者 エドモンド・デ・アミーチス(1846~1908)
刊行 1886年 イタリア
     けなげな子供と甘える大人
     貧しい国家、よく死ぬ国民

第3章 「本当の自分」探しのはじまり

ピーターパンとウェンデー・成長を義務づけられた近代人の無間地獄
作者 ジェームズ・M・バリ(1860~1937)
刊行 1911年 イギリス
     中流階級の不安と苛立ち
     失われたのは「可能性」
若草物語・喜びと恐怖の狭間で揺れる「女の自立」
作者 ルイーザ・M・オールコット(1832~1888)
刊行 1868年 アメリカ
     あっぱれな翼賛姉妹
     解放されたのは黒人ではない
野生の叫び声・資本家の飼い犬か、自由な労働者か
作者 ジャック・ロンドン(1876~1916)
刊行 1903年 アメリカ
     棍棒の意味するもの
     日本人は昆虫だ
少女パレアナ・孤児が生き抜くための巧妙な思想戦略
作者 エレナ・H・ポーター(1863~1920)
刊行 1913年 アメリカ
     戦略的「よい子」
     国をあげての「喜び」運動

あとがきにかえて―「ハリー・ポッター」はなぜ受けるのか


「少年少女世界の名作」、つまり児童書の中に秘密があって、その謎を捜し出して解くのかと思っていたのだが・・・・
どうも、ちょっと違う・・・
「謎解き」というより、解釈の違い、もしくは“こじつけ”に近いような気がするのだが・・・(笑)
つまり角度を変えて、これら「名作」を見てみると、その“裏”には、こんな事情があるというような話である。
「謎解き」という題名は、ちょっと勘違いを起こし易い題名の付け方のような気がする。
ミステリーや推理という感覚で本書を手に取るとガッカリするかも。(笑)
本書を読み出して、肝心なことに気がついた・・・
ここに取上げられている本を読んだことがないのである!(大汗)
題名は知っているが、正確なあらすじは記憶にない。
ということは、多分、読んではいないか、もしくは昔のことなので忘れてしまっているか・・・なのである。
そうなると、本書を読んでもサッパリわからない・・・(苦笑)
一体、何の話をしているのか?・・・・ということになる。
本書を読む前に、ここで取上げられている本を読んでおいたほうがいい。
そういう、ちょっと面倒臭い本だった・・・(大笑)


今年の読書:30冊目



読書 | 20:47:34 | Comments(0)
東京大学発祥の地
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我が国の大学発祥地

当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。
すなわち、明治10年(1877年)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。
創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられていた。
明治18年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。
このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年までに本郷への移転を完了した。
従って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。
明治19年3月東京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の6分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。
更に、明治30年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。
爾後明治40年に東北帝国大学、明治44年に九州帝国大学、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪帝国大学、昭和14年に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正13年に京城帝国大学、昭和3年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。
昭和22年(1947年)に至って、右の7帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。
明治19年7月創立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当っている。

平成3年(1991年)11月 学士会

(説明板より)

【東京都千代田区神田錦町3-28・学士会館】

史跡 | 12:45:44 | Comments(0)
新島襄先生生誕之地
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新島襄先生 生誕地記念の碑

京都同志社の創立者 新島襄先生は1843年(天保14年)上州安中藩主板倉伊豫守の江戸藩邸に誕生せられた。
先生は幕末における国家多難の際、わが国の前途をうれいキリスト教の信仰と海外事情研究を志して21才(1864年)函館より密かに脱国、米国に渡航し新英州キリスト教文化の根本を体得せられた。
母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済の改革のみによって達せられるものではなく、人民の一人一人が「知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め」うるものであり「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)」となることによってその目的を達しうるものであることを痛感せられた。
留学10年、1874年(明治7年)帰朝、翌75年11月29日、京都に同志社を建てキリスト教をもって徳育の基本とした教育のためにその生涯を捧げられた。
この碑は新島襄先生生誕百年を記念して建てられたが、神田錦町出身の偉大な先覚者をしのび、この解説を掲示するものである。

昭和40年11月
同志社創立90周年を記念して
  錦町3丁目町会
  錦華小学校
  小川小学校

(説明板より)

【東京都千代田区神田錦町3-28・学士会館】

史跡 | 11:44:47 | Comments(0)
永代神楽祭
今日は、我が「戦車第二師団の会」の永代神楽祭開催の日・・・
毎年、5月19日に靖国神社で執り行われる。
で・・・・これまた毎年のことだが、拙者は前日のうちに上京してホテルに宿泊。(笑)
永代神楽祭は午後からなので、当日の朝に家を出れば十分間に合うのだが・・・
JR東日本が信用できない・・・(大笑)
拙者が使う「常磐線」は、しょっちゅう人身事故だの、踏切事故だの、車輌から異音が出ただのといって遅れたり運休になったりするのである!(怒)
このレベルの低さ・・・何とかならんかと思うのだが・・・何十年経っても何ともならん・・・(笑)
新幹線も結構だが、在来線のレベルをもう少し上げていただきたいのですが・・・
当日、相変わらずのトラブルで間に合わなかったら大変である。
事務局長の拙者が行かねば、話が進まぬ・・・(大笑)
だから、5月18日と19日には絶対他のスケジュールを入れるわけにはいかない。
風邪を引くという体調不良も許されない。(大笑)
何があっても行かねばならんのです!(大笑)

例年は、上野駅の近くのホテルに宿泊して、そこから靖国神社に向かうのだが・・・
今回は、上野のホテルが取れなかった・・・(涙)
ということで、全く別の場所に宿を取った・・・
こういうのもいいものである。
午前中は時間があるのでブラブラ歩きながら靖国神社に向かうことにした。

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途中で、古い建物が見えた・・・
「学士会館」だそうである。(笑)
なんとなく名前は聞いたことがあるが・・・ここにあったのか・・・(笑)
「学士会館」は、「学士会」のための会館だそうである。
学士?
拙者は大学の経営学部を卒業しているので「経営学士」なんだけど・・・
同じ「学士」でも「学士会」には入会できないらしい。(大笑)
旧帝国大学の出身者じゃないとダメだそうだ・・・(大笑)
う~ん・・・残念・・・(大笑)

この学士会館のところに石碑らしきものが見えたので見に行ってみる・・・
と・・・・
建物の角の所に「新島襄先生生誕之地」碑があった。
へぇ~新島襄って、ここで生まれたのか?
反対側の角には「東京大学発祥の地」碑があった。
へぇ~ここが発祥の地なのか・・・

ブラブラ歩くというのも、意外なものに出会えて楽しいものである。(喜)

まだ、十分時間があったので・・・
「九段会館」に行く。
ここには何度も来たことがある。
昔の「軍人会館」である。
門が閉まっているが・・・今は使われていないのだろうか?

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お昼は、台湾料理のレストランで「五目焼きそば」を食べる。(笑)

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が・・・・
ウェイトレスたちの態度が気に入らん・・・(怒)
愛想が悪すぎ!(怒)
「ここは台湾料理の店ですよね?」
「はぁ~」
「じゃ、あなたは台湾人?」
「いいえ、ここには台湾人はいません。全員中国人!」と言う。
はぁ?
中国人なのに何で台湾料理の店なんだ?
尋ねたら・・・「日本語わかりません!」とプイ!(唖然)
こういう奴等が我が国に住み付いているのである!(怒)
中国人のクセに何で台湾料理なんだ?
何で堂々と「中華料理」と看板を出さない?

午後2時から「永代神楽祭」・・・・
今年の参加者は拙者を含めて7名である。
いやぁ~一桁の参加人数になってしまったが、でも、嬉しい・・・(笑)
拙者の他に6名もいるのである!(大喜)
一時期、先々、どうなるかと“戦友たち”から心配された。
「後は頼むぞ」と言うのは簡単だが、俺たちが死んだ後は、あんた一人になるからなぁ~とおっしゃっていた。
「一人になっても、やりますよ」(大笑)・・・と言ったら苦笑されていたが・・・
そう心配してくれていた“戦友たち”も、本当にこの世を去ってしまい、今は誰もいない・・・
一人でやるようかなぁ~・・・と思っていたら、なんと6名も参加してくれたのである!!
会員ではないが従軍経験者が1名・・・
遺族が4名・・・
遺族ではないが趣旨に賛同して入会してくれた賛助会員が1名・・・
合計6名である!
こんな嬉しい事はない。
感謝、感謝である。

いつものように、「遊就舘」でコーヒーを飲みながら雑談をして解散する。

日記 | 10:40:54 | Comments(0)
叔父の一周忌法要
今日は、叔父の一周忌の法要・・・
叔父の住んでいる市の中にある観光ホテルが会場・・・
顔の広い叔父だったので、多くの方々が集まった。
大会場は満杯である!(驚)
食事をいただきながら思い出話をして、故人を偲ぶ・・・

と・・・
拙者の席に挨拶に来られた方がいた・・・
はて?どなたでしょう?(苦笑)
拙者は他人の顔と名前を覚えるのが大の苦手で、よく失礼してしまうのである。(汗)
名刺を頂き、見たら・・・なんと!
この市の市議会の議長さん!(驚)
ん?初対面ですよね?(苦笑)

市議会議長さん・・・拙者のホームページ(このブログもかな?)をよく訪問してくれているのだそうで・・・(驚!)
拙者の事は、拙者の従弟から聞いていたので、是非一度、直接会ってご挨拶したかったとおっしゃる。(汗)
恐縮である・・・(大汗)
このお粗末なブログとホームページの管理者は拙者でございます・・・(大汗)
穴があったら入りたい気分・・・(大笑)

ついに、拙者も「有名人」になったのか・・・(大笑)

と思ったら、拙者と同い歳の、このホテルの社長が「何で君がここにいるの?」と言う。(唖然)
「え?・・・だって、俺、親戚だもん!」
「え~!そうなの?」
「はぁ?俺は甥っ子だよ」
「いやぁ~知らなかったぁ~・・・なんでここにいるんだろうって不思議だったんだよね。親戚なの!」
あれ?・・・なにそれ・・・・(苦笑)
彼とは昔から知っていて、法人会の会議でもよく顔を合わせる。
この間の会議の時に、今回の法事について「お世話になります」と挨拶しておいたのだが・・・
彼は、何で拙者が「お世話になります」といったのかわからなかったが、適当に返事をしたそうだ・・・(大笑)
おい、おい・・・(汗)

叔父は、この町では顔も名前も知られている「有名人」である。(笑)
「あの方の甥っ子さんとは知らなかった・・・」と言われたのでは・・・
やっぱり拙者はまだ「有名人」ではないようである。(大笑)

日記 | 22:39:58 | Comments(0)
『戦争と外邦図』


はじめに

戦前のルソン島 外邦図「最新比律賓大地図」
現在のフィリピン・ルソン島

1 父の戦地ルソン島へ―50年後の訪問
 マニラからキアンガンへの道のり
     昭和17年(1942)「フィリピン詳密地図」(ルソン島部分)
 ルソン島への出征
 遺骨なき骨箱
 玉砕必至の持久拘束作戦
 熱帯雨林の山岳地帯とモンスーンの島嶼
 日本人によって完成した「ベンゲット道」
     「最新比律賓大地図」
 戦没者は犬死にか
 リンガエン湾上陸の明暗
 兵站の任務は物資の配給
 持久拘束作戦とは
 尚武集団最後の防御陣地バギオ
 惨劇・ラムット川の大虐殺
 山下大将は複廊陣地へ転進
 アシン川複廊陣地
 塩川ではなく涙川
 山下大将降伏のキアンガン小学校へ
 複廊陣地プログ山に伝わる神話
     昭和17年(1942)のマニラ市街
 マニラ湾のサンセット

2 渡辺はま子と上遠野寛子―モンテンルパと南方留学生
 モンテンルパの戦犯収容所
 あゝモンテンルパの夜は更けて
 戦犯たちを救った歌
 戦犯収容所の全員釈放
 南方特別留学生たち

3 大本営は地誌・地形を読めたのか―ガダルカナルはどこだ
 地誌を読めない大本営作戦参謀
 ガバルアン丘の玉砕
 熱地作戦地帯でも防寒は必要
 本土決戦と地形① 「陸海作戦用図」
 本土決戦と地形② 大本営の松代疎開計画
 東部ニューギニアの死闘
 無謀な作戦の裏には
 地形・風俗習慣を知って地図をみる
     昭和4年(1929)「フィリピン全図」

4 大東亜共栄圏と外邦図―残された華麗な地図たち
 外邦図とは何か
 焼却を免れた「外邦図」
 外邦図を求める長蛇の列
 多くの外邦図を生んだ大東亜共栄圏
 大東亜共栄圏構想の背景
 測量と外邦図作製の流れ

 戦前戦中の南方地図【外邦図図録】
     オランダ領東インド諸島詳図
     昭和4年(1929)「南洋地方全図」
     昭和10年(1935)「台湾及び呂宋島(其二)」
     昭和16年(1941)「最新南洋詳細図」(日本統制地図株式会社)
     昭和16年(1941)「最新太平洋要図」
     昭和17年(1942)「蘭領東印度諸島詳図」
     昭和17年(1942)「大東亜共栄圏周域 太平洋大地図」
     昭和17年(1942)「太平洋全島精図」
     昭和18年(1943)「ソロモン群島珊瑚海精密図」
     昭和18年(1943)「標準大東亜分図・ボルネオ」
     昭和18年(1943)「標準大東亜分図・マライ」
     昭和18年(1943)「標準大東亜分図・パプア(ニューギニヤ)」
     昭和18年(1943)「標準大東亜分図・セレベス・モルッカ諸島」
     昭和19年(1944)「フィリピン共和国」
     昭和19年(1944)「仏領印度支那」
     昭和19年(1944)「マライ半島及スマトラ島」
     昭和19年(1944)「南洋庁所管太平洋諸島」

 外邦図にみる国・島の改名
 南洋と日本の関係
 当時の各地域の背景
   蘭領東インド諸島
   ボルネオ島
   仏領シンドシナ
   スマトラ島
   マリアナ諸島と小笠原列島
 大東亜共栄圏の教育について
 進まない遺骨収集
 戦没者の慰霊

あとがき

主な参考文献


本書は、ちょっと面白い本である。
著者の父親が戦死したフィリピンの戦跡を訪問した「旅行記」なのかというと、それだけの本ではない。
題名にある「外邦図」というのは、陸軍の参謀本部が制作した占領地等の日本国以外の「外地」の地図で、軍事目的に作られた地図のことだという。
また、これは軍事目的ではないとは思うのだが、民間が作製した「外邦図」というのもある。
本書の著者は、これら「外邦図」の研究者だそうである。
というわけで、貴重なこれらの地図の縮小版がカラーで多数、掲載されている。
縮小されているので細かい文字は全く判読できないが・・・(苦笑)
地図に興味のある人は、見ているだけで楽しいのではなかろうか?
本書は、その点でも資料的価値は高いと思う。
少なくとも、戦前・戦中に、こういう地図があったことがわかるから、原本を見つけるにも役に立つだろう。
題名は「戦争と外邦図」ということで、ちょっと堅苦しいように思えるが、中身は非常に簡潔な内容・・・
あまり専門的過ぎていないので、ごく一般の人も読みやすいと思った。
よって、逆に「外邦図」の読み方の“手引書”ではないので、そういう目的で本書を入手するとガッカリすることになると思う。


今年の読書:29冊目





読書 | 00:38:42 | Comments(0)
『阿片王』


序章 団子坂の怪人

第1章 異形の人脈

第2章 男装の麗人

第3章 魔都放浪

第4章 秘密工作

第5章 アヘンの国

第6章 不逞者

第7章 風雲の上海

第8章 孤高のA級戦犯

第9章 女人変転

第10章 家系図の迷路

終章 石つぶて

あとがき

主要参考文献
里見甫・略年表


「阿片王」と呼ばれた里見甫という人について書かれたノンフィクション。
多くの取材を通して人物像に迫るという、「ルポルタージュ」と言っていいと思うのだが・・・
内容もさることながら取材力のすごさに驚いた。


今年の読書:28冊目



読書 | 22:22:26 | Comments(0)
『バターン戦』


第1部 フィリピン進攻の開始

開戦
 太平洋戦争に突入
出撃
 名ばかりの機械化師団
 65旅団の編成
 福山兵営を出陣
 宇品港、台湾へ
 台湾の基地で待機
 普段の服装で入営
 爆撃機発進
 霧で出撃計画変更
 緒戦は一方的勝利
上陸
 比島へ第一歩
 爆撃思わす大地震
 戦争に投入された青年たち
 65旅団上陸
 第一線へ出動命令
 夜行軍で20キロ前進
 死臭鼻をつく戦場
 2百キロを超す強行軍
 不見識な追撃命令

第2部 不運の65旅団

誤算のマニラ進撃
 第14軍主力上陸
 軍の作戦参謀を追い返す
 作戦混乱す
 アグノ川に進出
 マ司令部コレヒドール島へ移動
 米軍の5つの防御線
 マニラ攻撃を決定
 逃げる米軍を追わず
 第14軍の“政治的配慮”
バターンへの苦闘
 16師団破竹の進撃
 米軍マニラを放棄
 混乱するマニラ市街
 敵を軽視
 米比軍を追撃へ
 65旅団と戦線交代
 独力攻撃が決まる
 バターン戦最初の命令
 密林に苦闘
 2日ぶりに敵陣発見
 敵の地雷にかかる
 続出する死傷者
 斥候選出に涙
兵士にとっての戦場
 マバタンの戦闘は特級戦
 第一線を知らぬ司令官
 兵士にも不満の声
 友軍見失い孤立
 重火器のない大隊
 浮田隊が高地奪取
 142連隊も一線進出
 米比軍の戦意旺盛
 薄暮攻撃通用せず

第3部 バターン攻略の光と影

勝利と死と
 近距離で撃ち合い
 是田小隊が全滅
 全戦線で突撃
 急増する収容患者
 密林で道に迷う
 9連隊と連絡つく
 「今夜こそ戦死か」
 1ヵ月ぶりに体洗う
 軍人の面子
 悲惨な敵前逆上陸
 上陸地点わからず
 撤退の電報届かず
混迷する作戦指導
 無意味な海上作戦
 攻撃か封鎖かで動揺
 大勢占めた消極論
 戦線を放棄し撤退
 日ごとに兵力増強
 まず警戒陣地奪う
 総攻撃の態勢整う
落日のコレヒドール要塞
 河をはさんで対陣
 猛砲撃にさらされて
 火砲3百門で総攻撃
 渡河に成功
 破竹の勢いで進撃
 敵の投降者が続出
 捕虜殲滅を命令
 捕虜9万人超える
 「死の行進」
 13時間で戦闘終了
 ウ中将が投降命令
 戦死者は4130人
 民衆離反し敗北へ

《対談》 バターン戦をめぐって(村松 喬・御田重宝)
 犠牲を多くした用兵の誤り
 兵を捨てて逃げた4航軍首脳
 自滅の道を歩む
 戦後にも共通する“貧の論理”

あとがき

文庫版あとがき


今年の読書:27冊目



読書 | 16:43:40 | Comments(0)
元カノの花
今年も“ある花”が咲いた・・・
特に何も手をかけず、ほったらかしにしている鉢なのだが・・・(苦笑)
今年も大きな花を咲かせた。
花が咲いたのを見て、「あら、生きてたの?」という花である。(大汗)

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この花・・・
今から18年前に、当時付き合っていた“彼女”から別れ際にプレゼントされた花なのである。(大笑)
それから18年間・・・・毎年、大きな花を咲かせる。
花の名は・・・多分、「アマリリス」ではなかったかと思うが・・・(苦笑)

彼女と別れて18年も経つのか?(大汗)
今もって未練があって、この花を育てているわけではない。(大笑)
元カノからもらった花だからといって捨てたのでは可哀想だから捨てずにいただけ・・・
花には罪はない・・・(大笑)

拙者は、いつも鉢を枯らせてしまう“常習犯”なのだが・・・
なぜか、“こいつ”は枯れずに18年間も生き続けている。(大笑)

「アマリリス」の花言葉・・・
「輝くばかりの美しさ」というのがあるそうだ・・・・(唖然)
それを知っていて拙者に贈ったわけではあるまいが・・・(大笑)

拙者は、この花に新しい花言葉を与えたい・・・
それは・・・「したたかさ」・・・・(大笑)
18年間も枯れずに花を咲かせ続けているのである!(大笑)
「したたかさ」しかないでしょ?
元カノにも重なるところもあるし・・・(大笑)

日記 | 12:14:28 | Comments(0)
明日は20日?
わが親父は1日に最低1回以上、翌日の予定の確認をする。
カレンダーに書いてあるのに、、毎回、拙者に「明日は何もないよな?」と尋ねるのである。(汗)
で・・・今日も・・・

「明日は、水曜日だから・・・何もないよな?」
「ああ、特に予定はないよ」
「そうだよな・・・明日は20日、水曜日・・・」
「ん?・・・なんだって?」
「なにが?」
「明日は何日だって?」(笑)
「20日だろぉ~」
「20日?」(笑)
「明日は20日だろ!何がおかしいんだ?」(怒)
「よぉ~く、考えろよ・・・親父・・・」(苦笑)
「何が?・・・今日は火曜日だろ?19日の火曜日なんだから明日は20日だろ?お前、馬鹿じゃないのか?」
「へぇ?」(苦笑)

「随分、時間が過ぎるのが早いねぇ~」
「何が?」
「今はまだゴールデンウィーク中のはずなんだけど・・・もう、20日になっちゃうのか?」
「ん?・・・・あれ?・・・へへへ・・・やっちまった・・・」(苦笑)
「今日は火曜日だけど、5日の火曜日だぞ」(大笑)
「あれ?・・・・なんだなぁ~頭がおかしくなっちまったようだなぁ~・・・こんなことじゃ、生きてても仕方がねぇなぁ~」
「そうだねぇ~・・・そろそろだねぇ~」(大笑)
「いやぁ~参った・・・ボケちまったぁ~!」(苦笑)
「ボケた割には、曜日は当っているんだから・・・不思議だよな?」(大笑)

「なんで今日は19日だと思ったんだろ?」(汗)
「う~ん・・・何でそんなに早く歳を取りたがるんでしょ?・・・ん?・・・なんでそんなに死に急ぐのかね?」(大笑)
「・・・・・」(ムッ!)(怒)

親父のボケは不思議である・・・
曜日だけは当っているのである・・・・(大笑)
「半ボケ」というのは、こういうことを言うのかね?(大笑)

日記 | 20:38:34 | Comments(0)
ついに55歳!(大笑)
今日は拙者の誕生日!(大笑)
ついに55歳になってしまった・・・(涙)

その昔・・・高校3年生の時・・・
拙者は45歳まで生きれば、それでいいと思っていた。
自分の人生は45歳で終えるべきだと思っていた。
なぜ45歳なのかと言うと・・・・三島由紀夫が45歳で亡くなったからである。
彼に合わせて、自分も45歳で死のうと思っていたのだが・・・
あらら・・・“予定日”から10年も長生きしてしまった・・・(苦笑)

18歳の自分から見ると、45歳というのは、かなりの“年寄り”のような気がしていたのである。
もう人生の“末期”だと思っていた・・・
それ以上生きても仕方がないだろうとすら思っていたのである。
が・・・こうして55歳になってみると、45歳って・・・ガキだよなぁ~(大笑)
まだまだ“ケツが青い”よなぁ~(大笑)

会社を閉じてから、約11年が経つ・・・
そういう意味では、ほぼ予定通りに“死んだ”ことになるかも・・・(笑)

会社を閉じたとき・・・
自分の貯金から計算してみて、なんとか今後10年間は働かなくても生きていけるだろうと予想した。
が・・・10年を過ぎたら一文無し・・・(大笑)
そうなったらどうしようか・・・ということは、そうなった時に考えよう・・・などと思っていた。(大笑)
で・・・実際は・・・
まだ、大丈夫である。(大笑)
不思議である。
仕事をしていないのに、なんとかなっているのである。(大笑)
もう一文無しになっていいはずなのに・・・まだ大丈夫なのである。(苦笑)
当初の計算では、今年には首を吊っているはずなのだが・・・
世の中、計算どおりにはいかないという“見本”みたいなものである。(苦笑)
これは誰かが守ってくれているからに違いない・・・
ご先祖様か・・・誰かが拙者を守ってくれているのだろう。
感謝、感謝である。

ご先祖様が守ってくれているのかもしれないので・・・
お墓参りは欠かせない。(笑)
もしかしたら祖父の部下の英霊たちが守ってくれているのかもしれない。
「連隊長の孫を少し助けてやるかぁ~」と言って守ってくれているのかもしれない・・・
だからフィリピンへの慰霊も欠かせない。(笑)
これを止めたら、ドカ~ンと不幸がやってくるような気がして恐い・・・(大笑)

当初の予定の「これからの10年間は遊んで暮らす」はあっという間に過ぎてしまった・・・(汗)
さて・・・これからはどうしよう・・・・(大笑)
問題である・・・(大笑)

今日、東京から妹と姪っ子たちが遊びに来てくれた。
いつものように誕生日のケーキを買ってくれて・・・(大笑)
拙者の「お誕生会」である。(大笑)

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母の仏壇にも何かお供えしようという事になり、花を飾ることにした。
当初は、1鉢だけの予定だったのだが、妹が「あれもいい、これもいい」と3鉢も買うことになった。
「クレマチス」という花である。

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しかし・・・母への花は“ついでに”買ったはずなのだが・・・
なぜか仏壇のほうが豪華ではないか?(苦笑)
今日は拙者の誕生日なんですけど・・・(大汗)
一体、誰が主役なんだ?(大笑)

いずれにせよ感謝、感謝の一日・・・

日記 | 20:32:34 | Comments(0)
またまた無事に帰国しました!
一部の方々はガッカリしたと思いますが・・・(大笑)

昨日・・・

またまた無事に帰国してしまいました!

すみません・・・(大笑)



日記 | 08:07:17 | Comments(0)
GHQ焚書図書開封2


第1章 従軍作家が見たフィリピン戦場最前線
 火野葦平「バタアン半島総攻撃従軍記」を読む
 アメリカ軍は食糧不足で自壊した
 荒涼とした戦場に甘やかなアメリカ映画音楽が流れた
 最前線で兵たちはユーモラスな家族の話などを交わす
 「死」に親和した兵士の肉体
 炎熱下、火山灰地を必死の行軍

第2章 「バターン死の行進」直前の状況証言
 最初にフィリピンの独立を承認したのは日本である
 怪しいフィリピン人捕虜、疲れきったアメリカ人捕虜
 バターン半島に逃げ込んだフィリピン難民たち
 捕虜の群れは延々と続いた
 トリガン、チン、ドン、サドラーという珍客
 アメリカ人捕虜の安らかな夜
 運命と闘った人々を貶めることは許されない

第3章 オランダのインドネシア侵略史①
 「蘭領インドシナ」の地政学
 イギリスとオランダの間の領土の分けっこ
 欧州内戦をやめる代わりに植民地収奪合戦へ
 悪魔の「強制栽培制度」
 収奪への反省も生まれるものの―
 オランダ人学者が告発したオランダ植民地経営
 西洋諸国のしたたかさ

第4章 オランダのインドネシア侵略史②
 「植民地支配」三つの段階
 強制栽培制度から自由生産への移行
 マラッカ海峡をめぐるイギリスの狡猾
 40年続いたアチェ戦争でオランダは消耗し没落した
 大東亜戦争への流れ
 イギリスにしてやられた「20世紀の歴史」

第5章 日本軍仏印進駐の実際の情景
 仏印進駐の目的は何であったか
 ベトナムを中心とした当時の情勢
 日本軍進駐後のサイゴンの変貌
 にわかに対日協力を訴えだしたベトナムのフランス語新聞
 日本民族は「世界でも最も道義的であり、公明だ」という評
 日本軍の規律に驚くサイゴン市民
 悪宣伝に惑わされず日本軍の真の姿を知ってほしい

第6章 日本軍仏印進駐下の狡猾惰弱なフランス人
 イギリスとフランスの植民地獲得競争前史
 フランスがインドシナを足場に狙う先は中国
 「抗日」の手伝いをするフランスのセメント会社
 クローデルの「ペタン元帥賛歌」
 援蔣物資を流し続ける抜け目のないフランスの卑劣
 シナ人のふてぶてしいまでの生命力
 植民地におけるフランス兵の姿
 日本の外務官僚は当時から弱腰で歯がゆかった

第7章 人権国家フランスの無慈悲なる人権侵害
 いま「歴史解釈上の侵略」がはじまった
 自分の過去の悪を意識しようとしないフランス人
 独立したくてもまだできない現代の植民地ニューカレドニア
 ちりじりにされたニューヘブライズ諸島の先住民たち
 核実験とゴーリズム
 プライド高いベトナム人
 上流ベトナム人がフランス仕込みの「自由」を訴えたとたん―
 政治犯収容所の悲惨な地獄
 「無慈悲で、不親切で、利己的な」フランス人
 西洋人の批判精神に遅れをとっている日本の知識人、官僚たち

第8章 アジア侵略の一全体像①
 「侵略国家」は欧米に付けられるべき
 開戦前英仏米ソの4か国の領土が地表の58%だった
 シナ人奴隷の悲惨と清朝政府の無自覚
 ロシアの暴虐と侵略に苦しむ中国の民衆
 国王まで幽閉されたビルマの悲嘆
 欧米諸国は4百年かけ太平洋の島々を手に入れた

第9章 アジア侵略の一全体像②
 侵略の4段階とは何か
 新興勢力ロシアの中央アジア席巻
 イスラム諸国を騙し続けた英仏の悪辣
 イギリスとロシアが甘言を弄して籠絡したアフガニスタンとイラン
 新疆をむしり取るロシアの貧欲
 チベットを食い物にしたイギリスの手口
 英露から現中国政府が学んだチベット抑圧法

第10章 『太平洋侵略史』という6冊本シリーズ
 「世界興廃大戦史」という壮大なシリーズ本
 『太平洋近代史』概観
 海外でも知られていた日本人の「勇武」
 仲小路彰という人
 『太平洋侵略史』第1巻~日本北進の先駆者たち
 『太平洋侵略史』第2巻~高まる国防論、攘夷論
 日本を救った林子平の先見力
 今の日本にこそ『海国兵談』の精神を

第11章 大川周明 『米英東亜侵略史』を読む
 マハン 『海上権力史論』について
 ロンドン軍縮会議に注目した大川周明
 アメリカの狙いは「太平洋支配→シナ進出」
 日本を追い詰めたのはアメリカの尊大横暴である
 ロンドン軍縮会議でほめ殺しでバカにされた日本
 アメリカに日本の決意をなぜ早めに知らせなかったのか
 幣原喜重郎の「弱腰外交」が墓穴を掘った
 ロシアから中国や朝鮮の領土を守ったのは日本である
 甦る大川周明の予見

第12章 『米本土空襲』という本
 追い込まれた日本人の絶叫
 「米本土撃つべし」の怪気炎
 もし巨艦の代わりに大型爆撃機を開発していたなら―
 昭和18年当時の状況
 B29「空襲」の思い出
 次第に「精神論」に傾いていった日本人
 野依秀市という人
 昭和18年時点での「日本人の焦り」を伝えた書
 一つの人間劇を見る思い

あとがき

文献一覧

解説 宮崎正弘(評論家・作家)


簡単に一言で言うと・・・・
われわれはGHQが「禁書」とした本を読むべきであると言える。
何が「正しい歴史」で、何が「正しくない歴史」なのか、線引きが難しいところだが・・・
今の日本と日本人を見ると・・・・
GHQが「禁書」にした本を読んでいないから、こういう日本になり、こういう日本人が溢れかえった・・・と言えるかも。(笑)
ならば、その反対をすれば、「まともな」日本人と日本国になるかも・・・(笑)
またこれも「まとも」と「まともじゃない」の線引きは難しいが・・・


今年の読書:26冊目




読書 | 21:06:16 | Comments(0)
日本男子の恥
予定通り無事に(笑)・・・午前3時に起床!(大笑)
まぁ~こんな早朝によく起きることが出来たと我ながら感心する。(大笑)

ホテルをチェックアウト・・・
フロントの女の子に送迎の件を再確認。
「確かに承っております。まもなく車が来るので外でお待ち下さい」と言う。
で・・・玄関の外に立ち、タバコを一服しながら車を待つ。
午前4時は、まだ暗い・・・
う~ん・・・やっぱり、流しのタクシーなどを拾わないことにして正解だと思う。

警備員と雑談をしながら車を待つ・・・
と・・・彼が「車を待っているんですか?」と尋ねてきた・・・
「そうだけど・・・遅いなぁ~」
「何時に迎えに来ることになっているんですか?」
「4時だけど・・・」
もう10分以上過ぎている・・・
「迎えに来る“お友達”の携帯の番号は知らないんですか?電話をかけてみたら?」と警備員・・・
「お友達?」
「え・・・“彼女”が迎えに来るんじゃないんですか?」
「彼女?・・・俺は女に会いに来たんじゃないよ」(苦笑)
「え?・・・ガールフレンドに会いに来たんじゃないんですか?」(汗)
「俺はミリタリー・ヒストリアン!第二次大戦の勉強の為に来たの!」(大笑)
「あ・・・これは失礼しました!」

だいたい、日本人の男と見れば、フィリピン人の“彼女”に会いに来たと思われるのが常である。
こういう時には、「俺はミリタリー・ヒストリアンだ!」はかなり効果がある。
一瞬にして、相手の態度が変わるのである。(大笑)

「で・・・どこの車が迎えに来るんですか?」と警備員・・・
「はぁ?・・・このホテルの車だけど・・・」
「え?」
「昨晩、フロントに送迎を頼んで、さっきフロントの女の子が外で待てっていうから待ってるんだけど・・・」
「時間は?」
「4時の予定なんだけど・・・もう15分も遅れてるよ。マズイなぁ・・・空港に行くのに・・・間に合うかなぁ~」
「ええっ!」(大汗)
警備員が慌ててホテル内に走っていった!(大笑)

直ぐに書類を持参した男性ホテルマンが走ってきた!(苦笑)
「申し訳ございません!直ぐに車を呼びます!」とのこと・・・(唖然)
あのフロントの女め!・・・担当者に連絡していなかったな!(怒)
なんたる不手際か!(怒)

まもなく車がやって来た・・・
「急いで空港へ飛ばしてくれ!!」(笑)
彼に尋ねたら、彼はホテルの近くに車を停めてホテルからの連絡が来るまでずっと待っていたそうである。
いつまで経っても連絡が来ないので心配していたと言う。(唖然)
なんで、玄関前に横付けして待っていないんだ?(唖然)

空港で朝食を食べようと思っていたのだが・・・
なんと!
朝早すぎて、拙者がいつも利用しているタバコの吸える“喫茶”はまだ開店していない!(涙)
朝食抜きか・・・(大涙)

午前6時45分発、フィリピン航空428便に搭乗・・・
こんな朝早い便に乗ったのは初めてである。
やろうと思えばやれるものである。(大笑)
しかし・・・早朝便のせいなのかどうかは知らないが、この便のスチュワーデスの愛想の悪いこと・・・(唖然)
しかも早口の英語で話しかけてくるので、何を言っているのかサッパリわからん・・・(汗)

まもなく、拙者の後方の席に座っていた男性日本人3名の「バカ話」が聞こえて来た・・・
昨晩“買った”フィリピン女性の話で盛り上がっているのである!
バカじゃなかろうか?(怒)
機内の中で、大声で得意気に話しているのである!(唖然)
しかも「18歳の女でさぁ~」という調子・・・
ん?それ・・・犯罪じゃないの?(苦笑)

なにも大声で他の乗客に“ご披露”しなくとも、お前ら3人の顔を見れば、真面目な観光で来たなんて誰も思わねぇって!
こちらは朝食抜きで腹が減ってイライラしているのである!(怒)
いい加減にしろ!と怒鳴りつけたい気持ちを抑えているのである。
あと、もうちょっとのところで爆発寸前・・・(苦笑)
あまりの“品のなさ”にイライラ・・・
2~3発ぶん殴ってやろうかというところで、会話が終わった・・・(大笑)

本当に腹が立つんだよなぁ~
女を買おうが買うまいが、個人の勝手だから構わないが・・・
くだらん“武勇伝”は聞きたくはない・・・(怒)
そんなことで自慢合戦しているようでは日本男児の恥である。
しかも、狭い機内である!
場所をわきまえろ・・・と言いたい!(怒)
この飛行機が墜落して、この3人だけが死んで、他の人は全員助かる・・・そういういわけにはいかないものか?(苦笑)

お昼過ぎ・・・無事に成田空港に到着・・・
我が家に帰る・・・

旅行 | 11:02:34 | Comments(0)
「クラーク」、「バターン半島」
今日は、またまた早朝の出発・・・・(涙)
午前6時半である。
朝食会場のレストランのオープンと同時、午前6時に朝食・・・

297_convert_20150907115515.jpg (ホテル・JEN)

今日は、これから「クラーク地区」に向かう。

「マバラカット」の町に入り・・・
日本海軍第201航空隊(略して「201空」)の士官宿舎だったという家の前を通過する。
慌ててバスの中から写真を撮ったので、上手く撮れなかった・・・(涙)

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ホテルを出発して約2時間後・・・マバラカットの「東飛行場跡」に到着。

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「神風特攻隊記念碑」(記念像?)を参拝・・・
ここには何度も来ているが、敷地の右隅の塀の裏に「資料」の展示があるという。
あら・・・それは知らなかった・・・(苦笑)

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次に向かったのは、タルラック州の「カパス」(キャパス?)という場所・・・
ここは初めて訪れる・・・
「デス・マーチ・メモリアル・ピープルズ・パーク」という幕が張られていた・・・
つまり・・・「死の行進記念市民公園」・・・という意味かな?(苦笑)

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この公園のモニュメントに「死の行進」の大きなレリーフが設置されている。

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「死の行進」のプロパガンダのレリーフである。
まぁ、なんと醜悪に日本兵を描いていることか・・・
一体、誰が建てたのだろう?(大汗)

“行進”から多くのフィリピン人が逃亡したらしいが、日本兵たちは見逃したという。
そんなことに構っている余裕はなかったのだろう。
“行進”する側は手ぶらでいいが、引率する日本兵は重い銃を担いだ完全武装なのである。
どちらが苦しかったか・・・
一人の日本兵で200人ほどの捕虜を“輸送”したと聞いたことがある。
う~ん・・・捕虜を殴る蹴るなんて出来たかねぇ~
大勢の捕虜の前でそんなことをしたら、自分が逆に殺されちゃうんじゃないかね?(苦笑)
日本兵のほうがビビリながら捕虜を“輸送”したんじゃなかろうか?(大笑)

次に向かったのは・・・「カパス・ナショナル・シュライン」という場所。
先ほどの公園から車で30分弱のところにある。
日本語に訳すと「カパス国立霊廟」(?)・・・
バターン半島から最終目的地である「キャンプ・オドネル」まで捕虜たちが歩いたわけだが、その“終点”に、この「死の行進」の犠牲となったフィリピン兵や米兵の為に建てたものだという。
いわゆる「慰霊碑」がある場所・・・ということになるのかな?

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遠くに、鉛筆のようなものが見えてきた・・・
あれが、「慰霊塔」のようである。
あらら・・・すごいこと・・・(唖然)

日本も、こういう巨大な塔を造ればいいのに・・・
高さ100メートルの塔を広島の原爆投下地点に建てるとか・・・(笑)
で・・・「民間人を大量殺戮した原子爆弾の投下地点」って看板も建ててさぁ~(笑)

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皆さんが敷地内を見学している間に、拙者は敷地内の売店でコーヒーを飲む・・・
いやぁ~コーヒー好きの拙者は、コーヒーを飲まないと、どうも調子が出ないのです・・・(苦笑)
やっとコーヒーが飲めた!(大喜)
で・・・当然、それからタバコを一服して・・・(大笑)
ようやく見学スタート・・・

敷地内には、「死の行進」で使われたという貨車が展示されていた。

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BATAAN DEATH MARCH BOXCAR

After the Death March which claimed many lives, Filipino and American prisoners of war, having walked 105 kilometers from Mariveles and Bagac, Bataan under the intense April heat, were assembled in San Fernando, Pampangaand were loaded into boxcar.

This boxcar, and many like it, were used to transport Filipino and American prisoners of war - the defenders of Bataan and Corregidor - from San Fernando Pampanga to prison camps in Capas, Tarlac after the long march.

It was one of the many freight cars of the Manila Railroad Company before the World War Ⅱ .
Measuring about six feet long, eight feet wide and six feet high, this boxcar had wooden walls and metal roof.
A larger version made of steel, was 33 feet long, seven feet high and eight feet wide.

At San Fernando, the prisoners were loaded into the boxcars by the Japanese guards who used their rifle butts and bayonets to squeeze more people than the capacity of the boxcars.
Fifty to sixty men were forced into this particular type of car.
As many as one hundred fifty to one hundred sixty men were crammed into the larger version of this boxcar.
The boxcars so tightly packed that it became impossible to sit down.
The only source of ventilation and air was a tiny slit in the door of each boxcar.

The car, under the sweltering sun, rapidly became an oven, and men suffocated in the heat.
Those afflicted with dysentery could not control their defecation and soon the floor of the car was filthy with excrement, urine and vomit.
Many died where they stood in the boxcars.

This boxcar is the last known surviving freight car of its kind, and is a mute witness to the human sacrifice and heroism of all those who were victims of the Bataan Death March.
It serves as memorial to the horrors of war and to man's inhumanity to his fellow man.

(説明板より)



324_convert_20150908210954.jpg (オベリスク)

330_convert_20150908211233.jpg (メモリアル・プラザ)


CAPAS NATIONAL SHRINE

Established as Camp O'Donnel in 1940 as cantonment center for the military training of the Filipino youth.
Became cantonnent and mobilization center of the 71th Division, PA, USAFFE on July 15, 1941, as ordered by the U.S.A. president ERANKLIN DELANO ROOSEVELT.
Transformed into a Prisoner of War Camp by the Japanese Imperial forces after the “Fall of Bataan” and the surrender of the Filipino and American troops.
Renamed Capas Prisoners of War Concentration Camp.
Around 60,500 Filipino and American prisoners of war were herded in this camp.
Many became weak, sick and eventually passed away.
On July 25, 1942, approximately 30,000 Filipino and American prisoners died of sickness and malnutrition while under detention.
Became Part of Clark Air Base Military Reservation after World War Ⅱ.
Turned over to the Philippine Government on the occassion the 40th Anniversary of Bataan Day on April 9, 1982.
Declared as capas National Shrine by Proclamation No. 842, dated December 7, 1991 by President CORAZON C. AQUINO.


DESIGN FEATURES AND COMPONAENTS

MEMORIAL MONUMENT
The “Obelisk” is the focal center of the entire shrine site which stands for peace.
The needle-like tower consist of three sections symbolizing the Filipino, American and Japanese people in this modern age of global peace, who have learned the lessons of war from the past.
Regulatory signal beacons is installed atop the obelisk, to symbolize the height of nationalistic aspiration of Filipinos towards peace and freedom.

The Mini-Forest
( Nature Park)
to date, approximately 35 hectares of land hane been utilized for the reforestation of the shrine.
About 25,000 trees of various species (Mahogany, Duhat, Allbangbang, Mango, etc ) have been planted.
The reforestation of the shrine area is a very appropriate action of the government so as to invoke invironment consciousness among the people in the province.

MEMORIAL PLAZA
A solemn gathering place to remember and honor the war heroes.
The large space provided allows the people to view the magnificence of the peace monument ( Obelisk ) .
The scale and proportion of the site will create a monumental effect to excite the spectators imagination.

ESPLANADE
A wide mall along central axis from the front ( main ) gateway, to the Ceremonial Plaza, to the Flag pole and stretching to the Memorial Plaza and the Obelisk.
This central walk is flanked on both sides by mini-flagpole to accentuate the approach to the Obelisk.

(銘板より)



時刻は午前10時を過ぎた・・・
ここから再び「クラーク」へ戻る。

335_convert_20150908222333.jpg (クラーク国際空港)

ここ「クラーク」には「クラーク国際空港」という空港がある。
戦時中は日本軍の航空基地があった場所である。
で・・・この「国際空港」には日本からの直行便はない・・・
その代わり、韓国から直行便が就航している。
そのせいか・・・フィリピンに来る韓国人が多い・・・(汗)
空港の周辺には、ハングル語の看板も結構見かけるから、韓国人相手の店なのだろうか・・・「ネオン街」がある。

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我が「観光バス」は、この「飲み屋街」(ネオン街?ピンク街?)(大笑)を行ったり来たり・・・
何をしているのかと思ったら・・・
ガイドが携帯で何やら連絡をとっている。
どうやら、これから向かうレストランの場所がわからないようである。
あのね・・・自分も行ったことがない店に我々を連れて行くのか?(唖然)
下見はしていないのか?(怒)

20分以上ウロウロして、ようやく店の場所がわかったらしい・・・
向かったのは、近くにある「チャイナタウン」ならぬ「コリア・タウン」である。

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多くの韓国人がやってきて、ここに住み付き、「コリア・タウン」を作ってしまったらしい。
もともと、ここに住んでいたフィリピン人を追い出して「朝鮮人街」を作ったため、トラブルが多発しているという話もある。
東京でも似たような街があったような・・・朝鮮人が住み付いて「コリア・タウン」になってしまった場所・・・(苦笑)
あれと同じかな?

で・・・今日の昼食は「韓国料理」だという・・・(唖然)
どうしてフィリピンで韓国料理を食べねばならぬのか・・・拙者としては正直言って面白くない!
案の定、レストランに着いたが昼食の用意は全くされていなかった・・・
携帯電話でやり取りしてたんでしょ?
我々がまもなく到着することはわかっていたよね?
散々待たされ・・・愛想のない店員がようやく準備を始める・・・
そこへ、韓国人のお客が・・・ウェイトレスは、同国人には愛想がいい・・・
ん?俺たちが日本人だから愛想悪くしたのか?
だから・・・韓国料理店なんかには行きたくないんだよね!(怒)
侮日感情丸出しの店の料理・・・何を混ぜられているか分かったもんじゃない・・・(苦笑)
かといって・・・全く手をつけないというわけにもいかぬ・・・
ここがツアー旅行のツライところである・・・(大涙)

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午後1時、高速道路を使ってバターン半島の「マリベレス」へ向かう。
いつの間に高速道路なんて出来たんだろう?(笑)
拙者が前回、初めてバターン半島へ行ったのは11年前のことである。
あの時は、一般道を走り、かなり時間がかかったと記憶している。
いやぁ~便利になったんだぁ~(笑)

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高速を降りて一般道を走る。
まもなく、「サマット山」が見えてきた。

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山頂に大きな十字架が建っている。
あの十字架は・・・展望台・・・
11年前に登ったことがある。(笑)
この「サマット山」は大戦初頭のフィリピン攻略戦の時の激戦地である。
この展望台には「資料館」もあって、日本軍の兵器等の展示もあるのだが・・・
どうも、この山には行かないようである。(笑)
軽く通過する・・・・

海の向うにチラリと「コレヒドール島」が見えた・・・

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午後2時過ぎ、「死の行進」の出発地点に到着。

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(出発地点を示す「00km」の道標)

ここは、ちょっとした“公園”になっていた。

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ここに、“記念碑”(?)もある。
英語とフィリピン語の2ヶ国語で刻まれた「死の行進」についての記述があるが・・・・
ちょっと話が長いので・・・
ここには書かない・・・(大笑)

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ここでトイレ休憩・・・
しかし、公園内のトイレは、かなり汚いらしく、女性陣は使えないとのこと・・・(唖然)
“この手の公園”にしては管理が杜撰である。
我が家の近くの児童公園の公衆便所よりヒドイ・・・(大笑)
まぁ、フィリピン人のやることだから仕方がないか・・・
やむなく、少し歩いたところにあるファストフード店のトイレを拝借・・・(笑)

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公園の前の道路・・・
ここから、この道を向うに向かって歩き・・・
はるか向うに見える山を越えて「行進」したのだろう。

午後3時過ぎに公園を出発・・・
「死の行進」のルートを走る。

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374_convert_20150912190535.jpg (5km地点)

「スタート地点」を出発して、まもなく山道となる・・・
延々と上り坂・・・
スタートして、炎天下の中、直ぐに上り坂とはねぇ~
拙者は「死の行進」とは、スタートから終点まで、延々と平坦な道を歩いたのだと思っていた・・・
実際に“現地”に足を運ぶというのは大事なことだと思う。
まさか、こんな道を歩いたとはねぇ~(汗)
拙者なら、5km地点の遥か手前で脱落だな・・・(大笑)

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山道の途中から下界を見る・・・
ちょうど工場のようなものがある辺りに捕虜たちが集まったらしい。
周囲の丘や山から続々と投降してきたらしい。
捕虜は7万人?
唖然である・・・
実際にこの地形を見たら、すぐにドンドン移動させないと、とてもじゃないが収拾がつくまい。
周囲はマラリアが蔓延している場所・・・
食料が無くなり栄養失調でガリガリに痩せ、マラリアに冒されて衰弱してからの投降である。
そうなるまで抵抗しておいて・・・
「あとは日本軍がなんとかしてくれますよね?」・・・か?(唖然)
それから、この山道を歩くんでしょ?・・・死んでもおかしくないな・・・(笑)
死なせるために歩かせたのではないだろう?
一方的に日本軍を責められてもねぇ~・・・・米軍のほうにだって責任はあるんじゃないのか?
死に至るほど衰弱してからの降伏ではねぇ~

終戦時、日本軍も餓死寸前まで戦い衰弱して投降した。
拙者の祖父も終戦まで戦い続け、栄養失調で衰弱していたため捕虜収容所の病院に入院させられた。
捕虜収容所では、千人単位で死者が出たのである。
これに対して、米軍を責める人はいない。
死に至ったのは本人の責任である・・・ということか。
死に至るほど衰弱するまで戦い続けた日本兵が悪いのである・・・ということか。

日本軍は衰弱している捕虜を歩かせたから死なせたというわけである。
歩かせなければ死ななかった・・・ということが前提とされていると思う。
が・・・このまま、あの場所に留め置いていたら、マラリアの蔓延する地である・・・
ドンドン死者が出たのではないだろうか?
移動してもしなくても、いずれにせよ死者は出たのではなかろうか?
どっちに転んでも「非人道的」と言われることになる・・・
なんで、こんな場所に投降してきたのかねぇ~
もう少し交通の便のいいところに出てきてくれれば少しは違ったかも・・・(笑)

それにしても・・・不思議なのは・・・
あの「出発地点」の公園は海岸の近くにあるのである。
どうして日本軍は船を使わなかったんだろう?
そういう発想があってもおかしくはないと思うが・・・その船が無かったのか?(大汗)

376_convert_20150912201133.jpg (16km地点)

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右の道が、「マリベレス」から来た道・・・・
左の道が「カブカーベン」へ向かう道(だと思う)・・・・
ここがちょうどその分岐点だと思う。
「カブカーベン」という場所で本間司令官とウェンライト司令官が会見をしたという。
まさか、この分岐点で会談したわけではあるまい?(大笑)
その場所へ行くのかと思ったら、あっさりと通過・・・
多分、どこで会見が行なわれたのか正確な場所がわからないのかも。(苦笑)

384_convert_20150912202754.jpg (58km地点)

午後5時・・・「58km地点」を通過する。
ここは「デナルビアン」という町らしい。
ここのロータリーにモニュメントが・・・
米軍の兵士が戦っているモニュメント・・・・
この地点が、米軍の最初に作られた防衛線らしい。
ということは、日本軍の猛攻を受けて、ここから50kmほど後退して山の中に入ったということか?
となると・・・何やら勇猛果敢に戦っている姿のモニュメントだが・・・(苦笑)
50kmも逃げたのでは・・・・ねぇ~・・・・
あまり威張れたものじゃないと思うけど・・・(大笑)

午後6時・・・「サンフェルナンド駅」に到着する。

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ここは「死の行進」の出発点から102kmの地点となる。
昔は、マニラからここまで鉄道が敷かれていた。
今は廃線となっていて、レンガ造りの旧駅舎が「資料館」として残っている。

バスを降りて写真を撮っていたら、地元の“オジチャン”が日本語で声をかけてきた。
あ~日本語が話せるのかと日本語で話しかけたら・・・
日本語はわからない・・・と言う。(大笑)
日本語は挨拶だけしか知らないというのだが、その日本語は訛りもない完璧な発音だった。(驚!)
「完璧な発音だったので日本語が話せるのかと思いましたよ」と言ったら大いに喜んでくれた。
すると・・・彼が1枚のカードを手渡してきた。
名刺かと思ったら、そうじゃない・・・
この駅舎の写真のカード・・・
尋ねて見たら、彼はこの駅舎が好きで仕方がないのだそうで・・・(笑)
自分で写真を撮って、パウチでカードを自作して、ここに来る人にタダで配っているのだという。
へぇ~・・・奇特な人がいたものだ・・・(笑)
いわば、“非公式”の「なんちゃって保存会会長」みたいなものかな?(大笑)
わざわざ、この駅舎を見に来てくれる人がいるのが嬉しいのだそうだ。
もっと、おしゃべりをしたかったが、拙者の低レベルの語学力では、このくらいが限界・・・
こういうのが悔しいのである・・・
もう少し流暢かつ自由に英語が操れればなぁ~・・・・もっと色々と話が出来るのに・・・(大涙)
毎度のことだが・・・なんとも悔しい・・・
何年経っても英語力が上達しない・・・(涙)

旧駅舎の内部はガランとしているが、一応、資料館になっている。

392_convert_20150912211900.jpg (駅舎内部)

「死の行進」の等身大(?)のジオラマがあった・・・
「マリベレス」から100kmほど“行進”した捕虜たちは、ここから鉄道輸送で収容所へ送られたそうで、その当時の様子を再現したものだそうである。

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日本兵なんかは、なかなかの顔つきである。(大笑)

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このジオラマの展示については、その説明版には英語と一緒に日本語が併記されていた。
他のものに関しては英文のみの表記である。
たぶん、日本人の誰かが協力して説明板を作製したのだろう。

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ここには、昭和20年のマニラ攻防戦の時の写真の展示もあった。
廃墟と化したマニラ市内の様子を写した写真である。

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また、「死の行進」の貴重な写真も展示されていた。
多分、これは日本の報道班員が撮影したものだろう。
まさか、捕虜に写真を撮る余裕などあるまい。(大笑)

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(説明文)
Japanese troops guard American and Filipino prisoners after their surrender on April 9, 1942, and before the harrowing Bataan Death March began.



それにしても、この写真を見る限り、餓死寸前でガリガリに痩せて・・・・という米兵は見当たらないのだが・・・
あえて、そういう兵隊にはカメラを向けなかった可能性はあるが・・・
どうなんだろうねぇ~
あの痩せ衰えた姿が「死の行進」のイメージだが・・・
なにか、ちょっと違うような気がする。
いつもキャデラックかベンツに乗っている人が、軽自動車に乗せられたので「粗末な扱いを受けた」と文句を言っているのと、たいして変わらない話なのかもしれないなぁ~・・・・という気がした・・・・(苦笑)
この「死の行進」・・・3日間ほど歩いたらしい。
「マリベレス」から「サンフェルナンド」まで88kmの距離を歩いたという話があるが・・・
この駅にある「道標」では、「102km」となっている。
何で違うんだろ?(苦笑)
だいぶ距離が延びてるんですけど・・・・(大汗)
新たに測定したら・・・ということなのか?
20kmもの誤差というのは、いかがなものかと思うが・・・
このあたりが、よくわからない。
「100km以上歩かされた」と言う方がインパクトはあるからなぁ~(苦笑)

時刻は午後6時を過ぎ、日も沈み始め暗くなり始めた・・・・
今日の見学はこれで終了。
高速道路を使って、マニラに戻る。

本来の理想のコースは、午前中に、「マリベレス」を訪問し・・・・
出発地点から「死の行進」のコースを辿って、今日の午前中に訪れた、捕虜収容所のある終着地である「オドネル」を午後に見学すると、非常にわかり易かったと思うが・・・・
どうして逆のコースになったのだろう?(苦笑)

午後8時、市内のレストランで夕食・・・

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ツアーの皆さんと一緒に食事をするのは今晩が最後となる。
ツアーは明日、コレヒドール島を観光し、明後日、帰国する。
拙者は明日のコレヒドール島観光には参加せず、皆さんより1日早く明早朝に帰国する。
ジャーナリストの“タカヤマさん”さんから「何かあったのか?」と心配されてしまったが・・・(苦笑)
当初からの予定なのである。
いつもは最後まで参加するのだが、今回は親父が一人で留守番するのが寂しくてどうしようもないらしいので、やむなく1日早く帰国することにした。
ツアーと一緒だと、成田でもう1泊しないと帰宅できないので、帰宅が5月5日になってしまうのだ。(涙)

参加者の某氏から旅費について個人的に質問された。
拙者の旅費は、ツアーの料金とは殆ど変わらないのである。
某氏が「それはありえないだろう」と言う。
1泊分のホテル代と、明日のコレヒドール島観光の費用、明日の朝食から帰国の日の朝食までの4食・・・
これらを差し引いたら、かなり旅費は安くなるはずだという。
しかし、明朝は、午前4時ごろにはチェックアウトして空港に向かわねばならないので、多分、旅行社のほうで送迎車とガイドを用意しているだろうから、その分と相殺になるのではなかろうかと思っていた。
「それでも、安くなるはずだけど・・・」と言われた。(苦笑)
それに、航空券も一日早く一人で乗るから、団体料金とは違って値段が高くなり、それでツアー料金と差のない金額になったのではないか・・・と言ったら・・・(苦笑)
「いや、それもあり得ない。団体だろうが個人だろうが、このツアーの航空券は値段が同じはずだ」とおっしゃる。(唖然)
う~ん・・・そう言われちゃうと、ちょっと気になる・・・(大笑)

ホテルに戻り添乗員に確認したら・・・
送迎は予定にはないので、一人でタクシーでもつかまえて空港へ行ってくれとのこと。(唖然)
「送迎は・・・ない?」(大汗)
午前4時に、そこらのタクシーを拾って乗ったら、強盗してくれと頼むようなものである。(大汗)
運良く(笑)、まともなタクシーを拾えたら300ペソ(800円弱)くらいで空港へ行けるかも知れないが・・・
身の安全を考えたら、ここで冒険はしたくない。(大笑)
ホテルに頼めば、契約している運転手なので、まず安心だろうが、3倍もの高額である。
う~ん・・・約2400円のタクシー代・・・自腹である・・・(涙)
しかし、安全を考えたら已むを得まい・・・
フロントに午前4時に送迎してくれるよう頼む・・・(大涙)

時刻は午後10時・・・・
明日は午前3時には起床である・・・(涙)
さっさと寝る!(大笑)

旅行 | 11:51:09 | Comments(0)
「オルモック」「リモン峠」、マニラに戻る
今日はレイテ島最後の日・・・
何ヶ所か回って、マニラに戻る予定。
出発は午前8時とのこと・・・助かった・・・(笑)
このところ「早朝」の連続で睡眠不足気味・・・
他の参加者からも、かなりハードスケジュールだとの声も上がっていた。

ギリギリまで寝ていようかな・・・(笑)・・・という気持ちもあったが・・・
“習慣”とは怖ろしいもので・・・(大笑)
早起きしてしまった!(大笑)

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午前6時半、急いで朝食を食べ、早速、ホテル周辺の散策に出かけることにする。
拙者は、これをしないと、どうもストレスが溜まってしまうのである。(笑)
バスに乗って横付けし、バスから降りて説明を聞いて写真を撮って、すぐにバスに戻る・・・
そういうことばかりだとストレスが溜まる・・・
ホテルの周辺だけでもいいから、どこかをブラブラと歩き回りたいのである。(笑)
これは、一種の病気か?(大笑)

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(我々が宿泊したホテル)

同じようなことを考える人は、どこにでもいるもので・・・
バッタリと添乗員の“アサダさん”に会う・・・
「やっぱり、考えることは同じですね!じゃ、また一緒に散策しますか」・・・ということになる。
以前、オーストラリアに行った時も、早朝に、一緒にホテル周辺を歩き回ったことがある。
一人では、ちょっと不安になる場所でも、二人なら何故か行けてしまう。
「あの時の地下道は、一人では歩けなかったですよねぇ~」などと思い出話をしながら散策する。(笑)

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朝早くから海に入っている奴がいる・・・
何をしているのかと見ていたら、投網で魚を獲っていた・・・(笑)

226_convert_20150903133925.jpg(オルモック湾の海岸)

朝から地元の人々がたむろしている・・・
この海岸はルソン島から多くの兵員や物資が陸揚げされた場所である。
米軍の攻撃が激しくなった頃には、この湾内に多くの日本の艦船が沈没したという・・・

227_convert_20150903134546.jpg (オルモック港)


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231_convert_20150903135018.jpg (旧市役所)

海岸の直ぐ眼の前にあった市役所は、台風の高波の被害を受けたそうで、今では廃墟状態・・・
窓などはボロボロに壊れている・・・
歴史的にも古い貴重な建物のような気がするが・・・
いいデザインだと思うんですけどねぇ~・・・取り壊されないで復元されることを期待する。
新市役所は、別の場所に建て直したらしい。

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市役所の近くにある教会・・・
結構古い教会だと思う。
当然、ここも台風の被害を受けたものと思われる。
鐘楼の塔は修復され綺麗になっている。
教会本体は、石造りのため、被害は少なかったのだろうか、そのまま使用されているようである。

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教会の内部を、ちょっと覗いてみた・・・(笑)
こんな感じ・・・

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不思議なのは、教会のすぐ近くに建っていた、この家である。
戦時中から、ここにあったのではないかと思うような古い建物である。
もしかしたら、日本軍が使用したことがあるかもしれないと思わせる建物であるが・・・
よく台風で破壊されなかったものだ・・・
不思議である・・・(大笑)
吹き飛ばされるか、崩れてもおかしくはないと思うのだが・・・(苦笑)

30分ほどホテル周辺を散策して早めにホテルに戻る。
予定通り、午前8時にホテルをチェックアウトして出発!

最初に向かったのは「カルロタヒル」と呼ばれる場所・・・
この丘は、オルモックの金持ちの邸宅が建ち並ぶ住宅街になっている。
その一角に、日本の慰霊碑が建っている。

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(平和の塔)


【碑文】
第二次世界大戦のみぎり、フィリッピン群島とその海域において戦没されました幾多の日本の将兵とフィリッピン共和国の方々の“御霊”よ安らかにお眠り下さい。
こゝに日比平和之碑を建立し、日比両国の永遠の平和と親善を願い、両国の繁栄を祈念いたします。

1978年
岐阜県慰霊碑建立奉賛会



この丘の周辺で、第26師団所属の独立歩兵第12連隊(岐阜で編成)が戦ったので、岐阜の慰霊碑が建てられているのだろう。
10年前に、ここに来たが・・・
この丘の隣りの丘に確か警察学校のような施設があり、そこに日本軍の九二式重機関銃が何丁も野外展示されていた。
あれはどうなっているのだろうと、ガイドに尋ねたら「あ~あれは移転して、今は何もありません」とのこと。
彼女に尋ねると、なんでもかんでも、すべて「何もありません」「何も残っていません」・・・である。(苦笑)
本当かねぇ~
ちょっと信用できないんですけど・・・(大笑)

時刻はまもなく午前8時半・・・
次に向かったのは「コンクリート・ハウス」と呼ばれる戦跡・・・・

254_convert_20150903221202.jpg 244_convert_20150903221316.jpg

10年前にもここに来たが、あの時と、さほど変わっていない。
銃弾や砲弾の跡が生々しく残っている・・・
よくこの残骸が残っていたものだと感心・・・
ここは台湾系の華僑が所有している土地だそうだ。
現在は何に使われているのかは、知らないが、以前来たときは「コプラの加工工場」だと聞いたことがあるが・・・
その工場らしき建物も廃墟化していた。
それでも警備員が常駐している敷地である。

このコンクリート製の建物は、戦前は地元の国会議員の邸宅だったらしい。
ここを陣地として米軍と戦ったのは第26師団の独立歩兵第12連隊の「立石大隊」で、ここはオルモック最大の激戦地だったという。

次に向かったのは「リモン峠」・・・・
正確には「北リモン峠」というらしいが、ここの第1師団の慰霊場に行く。
オルモックのコンクリートハウスを出て約1時間後に到着・・・

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ここには10年前にも来たことがあるが・・・
周囲の樹木が無くなって、ずいぶんスッキリした感じ・・・・
あらら・・・変わっちゃったなぁ~

PICT4718_convert_20150903231349.jpg (10年前)

10年前にここに来た時、この丘の斜面から戦後に、かなりの遺骨が収集されたという話を聞いた・・・
丘を登ったところに慰霊碑がある。

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10年前と違って、当時あった慰霊碑は消えてなくなっており、その跡に、新たに「鎮魂碑」と個人の慰霊碑が建っていた。

PICT4709_convert_20150903231443.jpg (10年前)

ここは第1師団の激戦地・・・・
慰霊場の反対側にある丘の斜面、多分、このあたりが千葉県佐倉で編成された歩兵第57連隊が戦った場所だと思うが、そこに登って、カリガラ湾を見る。

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この「北リモン峠」は「ブレイク・ネック・リッジ」(=首折り尾根)とも呼ばれる場所だそうで、道路がクネクネと曲がって通っている。
この道は、レイテ島の西海岸から東海岸へ向かう道である。
我が戦車第2師団から、軽戦車中隊が抽出され、ここレイテ島へ派遣されている。
実際に戦車として戦ったというより、大砲を牽引したり、弾薬を運んだり、連絡用に使われたりしたらしい。
となると・・・・この道を走った可能性が高い・・・
う~ん・・・感無量・・・・

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レイテ島の戦跡めぐりは、これで終了・・・
時刻は午前10時・・・・
この「北リモン峠」を出発し、「タクロバン」へ向かう・・・
約1時間後、「タクロバン」にあるホテルのレストランに到着。
ちょっと早めに到着したためか、テーブルの用意が出来るまで待たされたが、ここで昼食をとる・・・・

290_convert_20150903235526.jpg (マンゴー・ジュース!)

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昼食後、一休みして空港へ向かう。

空港でチェックインし、荷物検査・・・
これが、なんと煩い・・・
ライターの持ち込みは禁止とのこと。
こちらに来る時には問題がなかったのに、帰るときは持ち込み禁止とはどういうことか・・・(唖然)
フィリピンのいい加減なところが、こういうところ・・・
X線検査担当の太っちょオバチャンに、あっさりと取上げられる・・・(大涙)

搭乗口で待つが・・・マニラからこちらに来る飛行機が遅れているという・・・(汗)
どうも昨日も何か問題があったらしく、飛行機に乗れなかった人たちがいたようである。
昨日乗れなかったので、今日に延期したら、その飛行機がまた大幅に遅れているんだから、ざわめくのも無理はないか・・・
そのうち、昨日乗れなかった乗客だけにコーヒーとスナック菓子が特別に配布され、皆さん大喜び。
う~ん・・・粋な取り計らいだね・・・(笑)

どうも我々が乗る予定の飛行機は2時間ほど遅れるそうだ・・・(大汗)
う~ん・・・タバコが吸いたい!
タバコは空港の外に出ないと吸えないと言うので、ちゃっかりと荷物検査場を逆行して空港の外に出る事にする。
ついでに・・・
X線検査担当の太っちょオバチャンに、さっき取上げられたライターを借りる。
「戻ってきたら必ず返しなさいよ!」と係員・・・
「わかってるって!」(苦笑)
外で一服し・・・再び空港内へ・・・
これを繰返すこと数回・・・(大笑)
空港の職員達もガードマン達も呆れ顔で、もう拙者のことをチェックする気がなくなったらしい。
フリーパスとなったが、太っちょオバチャンは、必ず「ライターを返せ」と毎回言ってくる。(大笑)

と・・・・女性ガードマンが、いきなり自己紹介してきた・・・
「私は×××といいます。よろしく」
「はぁ?」
次に別の女性係官2人が、これまた自己紹介してきた・・・(大汗)
へぇ?・・・なに?・・・どうしちゃったの?(苦笑)
ずいぶん丁寧な扱いなんですけど・・・
3人の女性係官に取り囲まれて言われたのが・・・・
「あなたは、もしかして、あの有名な歌手の×××さんじゃないですか?」
はぁ?(苦笑)
「ですよね?歌手の×××さんですよね!」(ニコニコ顔)
どう見たって、拙者は日本人にしか見えないと思うんだけどなぁ~(苦笑)
その×××という外国名の歌手ってフィリピン人?
「歌手?」
「はい、歌手の×××さんでしょ!」(キャーキャー!)
「いやぁ~・・・俺・・・歌手じゃないけど・・・」(大汗)
「え・・・!!」(3人して絶句)
「やだぁ~間違えたぁ~!この子があなたはあの有名な歌手だって言ったから・・・え~やだぁ~!」(大笑)
と・・・2人の女性係官が、もう一人の女性係官を指さした・・・(苦笑)
検査場は大爆笑!(唖然)

いやぁ~参ったなぁ~(苦笑)
よく軍人に間違えられることはあるが・・・歌手というのは初めてである。(大笑)
しかし、その「有名な歌手」って・・・誰なんだろ?・・・(苦笑)
人違いするほど拙者と似てるのか?
ということは・・・拙者はどこの国の人間に見えたのだろうか?(大笑)

偉そうに、空港を“顔パス”で、出たり入ったりしていたのがいけなかったのかなぁ~(大笑)

ようやくマニラから飛行機がやってきて・・・まもなく搭乗開始・・・
と・・・スコール!!
いきなりの雨である・・・
どうするのかと思ったら、乗客一人一人に傘を貸してくれた・・・(笑)
傘をさして飛行機に向かう。

294_convert_20150904223600.jpg 295_convert_20150904223847.jpg

午後4時15分・・・「タクロバン」の空港を離陸!
機内食は・・・・やっぱり、クラッカー一袋だけだった・・・(苦笑)

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午後6時少し前にマニラ空港に到着・・・
そのまま市内のレストランで夕食を食べ・・・
午後8時過ぎ、一昨日に泊まったホテルに再度チェックインして、フロントに預けておいたスーツケースを持って部屋に入る。
明朝は早朝の出発なので、サッサと寝る・・・(大笑)

旅行 | 13:12:49 | Comments(0)

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