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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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「ダガミ」と「ビリヤバ」、「カンギポット」
「ブラウエン」を出発して、「ダガミ」に向かう途中・・・
多分、出発して10分程度走った程度だと思うが、日本の慰霊碑がある場所へ到着・・・
一瞬、この時は気がつかなかったのだが・・・
あれ?・・・ここには以前来たことがある・・・・
あまりの景色の違いにビックリした・・・

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10年前に来た時は、椰子の林の中に建っていたのである。

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(10年前)

台風で椰子の木が全部倒れちゃったのかな?

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平和の塔

This is memorial of all country where soldiers dead on these field during the world war Ⅱ
erected by the Japanese memorial Service

こゝは太平洋戦争に於て、比、日米の多くの戦士達が祖国の為に、激しい攻防戦の中で無残に散り果てた痛恨の地である。
人類が再びあの愚かにして悲惨な殺戮を繰返さぬ為に、不戦の誓いをこめて、■魂の誠を捧げると共に、悠久の平和を祈念してこの塔を建立するものである。

1977年7月建立
京都 比島桃陵遺族会
    垣兵団生還者

(碑文より)



碑文にある「垣兵団」というのは、京都で編成された第16師団のことである。
昭和16年の開戦直前まで、拙者の祖父はこの師団の副官を務めていた。
そういう意味では、第16師団は縁のある部隊である。

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「平和の塔」の道路を挟んだ向こう側に山が見えるが・・・
あの辺りに一時期、第16師団司令部が置かれていたと思う。

午前9時半、「ダガミ」の慰霊碑のある場所に到着!
ここにも10年前に来たことがあるが・・・
あらぁ~綺麗になっちゃって!・・・驚きである。

155_convert_20150830134037.jpg (現在)
PICT4807_convert_20150830134322.jpg (10年前)

慰霊碑は、この建物の裏にある・・・
位置は昔と変わっていないが、雑草に覆われ、ゴミ捨て場になっていた・・・(唖然)
黄色の建物は、どうやら警官の宿舎のようで、我々の後にくっ付いて警官たちが集まってきた。(笑)
「マズイところを見られちゃったなぁ~」という雰囲気・・・・
数名の警官が、我々と一緒になって雑草やゴミを取り除いてくれた。
予算が付けば、慰霊碑の周辺は整備して綺麗にします・・・とか、なんとか言い訳を言っていたが・・・どうなりますか・・・(大笑)

154_convert_20150830135436.jpg (現在)
PICT4805_convert_20150830135803.jpg (10年前)

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英霊碑
京都第二次比島方面慰霊団

This is a memorial of all country unknown soldiers died on these field during the World War Ⅱ
erected by The Japanese memorial service tour.

(碑文より)



次にどこに向かうのか、拙者は知らないが・・・・(笑)
「パロ」の町を通過する・・・・
向うに見える山が、日本軍が「十字架山」と呼んだ山・・・
頂上に十字架が建っているから、そう呼んでいたようである。
米軍は「522高地」と呼んでいる。

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山の向こう側の麓に日本の慰霊碑があって、そこを10年前にお参りした。
山の頂上に日本軍の陣地跡が残っているらしいが、頂上まで登った事はない。
ここで歩兵第33連隊の鈴木辰之助連隊長が戦死している。
で・・・
ここに向かうのかなと思ったら素通り・・・(唖然)
え?・・・行かないの?(苦笑)

バスは30分以上も走り続ける・・・
途中でスコールに遭う・・・
外の景色が見えないので・・・寝る!(笑)

で・・・到着したのは・・・レイテ島とサマール島を結ぶ橋・・・(汗)

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この橋は、戦後賠償ということで日本が架けた橋だそうである。
橋の上に大型観光バスを停め、急いで写真撮影をするのだそうだ・・・(汗)
で・・・・向うに見えるのは・・・サマール島?それともレイテ島?
ついさっきまで寝ていて説明を聞いていなかったのでわからない・・・(大笑)

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サマール島の「戦跡」でも見るのかと思ったら、ただこの橋を見るだけで戻るとのこと・・・(大汗)
この橋を見るだけの為に延々と走ったのか?(唖然)

時刻は11時を過ぎた・・・昼食会場に向かう・・・

166_convert_20150830152643.jpg (中華の昼食)

昼食を終え、次に「リモン」方面へ向かっていると思うのだが・・・
地図等の資料はないので、どこをどう走っているのかわからない・・・(笑)
しかも、頼りのタブレットのGPSは携帯電話の電波が入らず、現在地も地図も表示できない!(涙)
今回のレイテ島では、タブレットはただの「お荷物」と化した・・・(苦笑)

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移動途中で見た橋・・・・
台風の被害がまだ残っている・・・
バスは仮設の橋ではなく、そのまま川の浅瀬を渡る・・・(驚)
今は乾季だから川の水も少なくていいが、雨季になったら、こんな渡り方は出来まい。
雨季に入る前に橋を架け直さないと大変なことになると思うのだが・・・
どうも、まだ架け替え工事に着手していないみたい・・・(汗)
俺・・・しらねぇよ・・・(苦笑)

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場所によっては、今もって路肩が崩れたままになっている場所もあった・・・(汗)

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午後3時・・・・「工兵の碑」に到着。
ここにも10年前に来たが、ここは当時と殆ど変わっていなかった・・・(笑)

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鎮魂

1944年此の峠で工兵第一連隊及師団防疫給水部が奮戦し大半の将兵が戦没した
英霊よ安らかに眠り給え
祖国の平和に御加護あらんことを
合掌

1983年8月

(碑文より)



次に向かったのは・・・「ビリヤバ」・・・・
ここは日本の第68旅団(通称:星兵団)が米軍と戦った場所である。

「ビリヤバ」には10年前に来たことがあるが、ここは初めてである。
「日比合同慰霊碑」なんていうものが、あったのか・・・
あの時は、ウロウロ走り回って、ようやく見つけたのが・・・「フィリピンゲリラの慰霊碑」!(大笑)
日本兵の慰霊をするつもりが、フィリピンゲリラの慰霊になった・・・(苦笑)

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日比合同慰霊碑の由来

第二次世界大戦におけるレイテ戦は、比類無き激戦であり、日比双方の兵士は大儀のため身を挺し、多くの犠牲者をだしました。
西海岸山岳周辺の日本軍兵士は、弾尽き、食無く、病魔に倒れ、ひたすら望郷思念に、待つものは死以外のものはありませんでした。
この慰霊碑は多くの諸霊の冥福を祈るとともに、再びこの非を繰り返さないことを誓って、当会会長永田勝美さんと、かつて敵と味方で戦った、当地戦友会の方々が協力し、多くの遺族や戦友の方々の浄財によって1995年7月に建設されたものです。

管理 佐賀県・・・・(以下:略)
    NPO法人 戦没者追悼と平和の会
    電話・・・(以下:略)
    E-mail:・・・・(以下:略)

(設置説明板より)



日本のNPO法人が建立した「慰霊碑」だそうである。
で・・・ひと言・・・・
説明文の中の「大儀のために」の「大儀」は誤字だと思う・・・
「大儀」では「おっくうだ、面倒くさい」という意味になってしまうと思う。(苦笑)
「おっくうだ」・・・ではマズイでしょ?(苦笑)
正しくは「大義」だと思う。
ついでに、住所・電話番号、メールアドレスは、拙者の独断で省略しました。
あとで、何か迷惑をかけたら大変ですから・・・(苦笑)

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日比合同慰霊碑建立の由来

緑豊かで静寂なレイテ島、このレイテ島は1944年10月20日、アメリカ軍の上陸作戦開始と共に、日米決戦の激戦地となり1945年8月の終戦まで修羅の島と化し、日本軍将兵八万人とレイテ島の住民に多大なる犠牲者を生み、太平洋戦争の中でも有数の悲劇の地となりました。
1994年の秋に、レイテ島在郷軍人会の皆様と相談して、戦後50年を契機に日比両国戦争犠牲者の鎮魂と永遠の平和を誓う記念碑建立の運びとなりました。
建立にさいしては、遺族、戦友のご支援とレイテ島住民の暖かいご理解とご支援により、ここバリティの丘に日比両国の戦争犠牲者慰霊碑を建立し、日比両国の永遠の信頼と友情の絆となり、日比両国の友好を確立し、両国の繁栄と幸福を祈ってやみません。

1995年7月1日
日比合同慰霊碑建設委員会一同
顧問 元日本国内閣総理大臣 中曾根康弘

(展示パネルより)



これが「合同慰霊碑」らしい・・・
あまりのシンプルさに皆さん唖然・・・(笑)
まるで「給水タンク」に慰霊碑のプレートを貼っただけのように見えてしまうんですけど・・・(汗)

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ツアーの女性参加者から「トイレに行きたいんですけど・・・」と声をかけられた。(汗)
なんで、拙者に尋ねるのか理由がわからんが・・・(笑)
探してみたら、裏のほうに、トイレらしきものがあったが、廃墟のようになっていて使用できない状態・・・(大汗)
ガイドに、トイレに行きたい人がいる旨を伝えて・・・
ここに来る途中、海岸に、公衆トイレのような建物がバスから見えたので、あれがトイレならあそこがいいのではと言ったら・・・
「そう、あれはトイレです。あそこにしましょう」とガイド・・・
で・・・帰りにそこに立ち寄ると思ったら・・・全然違う場所にバスを止めた・・・(唖然)
「はい!ここでトイレ休憩をします!」
え?・・・・話が違うんじゃないの?(唖然)

そこは、小さなドライブインのような場所・・・・
ガソリンスタンドと売店が建ち並ぶ・・・
そこのトイレを使ってくれとのことだが、なんと・・・使えないシロモノだった・・・
“ウンチ”が便器にタップリと溜まっているのである!!(驚)
ガイドに店員の言うことを通訳してもらったら、水不足のため流せない・・・という。(唖然)
「使えませんか?だめですか?」とガイド・・・
あのね・・・もう少しまともなトイレがある場所を知らないのか?(怒)
我慢にも限界があるから・・・(笑)・・・これから再びトイレ探しをするわけにもいかぬ・・・
とにかく、、皆さんに先に使ってもらい・・・
最後に拙者が使うことにした・・・(涙)
更に“こんもり”とウンチが溜まっている・・・(大泣)
ゲゲッ・・・オエェ~・・・・である。

どうも、ここはガイドの知り合いの場所のようである・・・
“顔を売る”か・・・“恩を売る”ために、ここに我々を連れて来たのだろう。
「お客をつれて来てやったよ」・・・・ということなのだろう・・・
ツアー客がお店で何か買物をすれば、バックマージンが入るのかもしれない・・・
過去に何度か慰霊団に参加したことがあるが、フィリピン人の女性ガイドは、よくこういうことをする。
ツアー参加者のことより自分の都合を優先することがよくあるのだ・・・(怒)

いずれにせよ、レイテ島のトイレ事情はあまり良くないことは確かなようだ。

レイテ島を走り回っているときに、別のトイレにも行った。
ガイドが「有料のトイレですが、いいですか?」とガイドが言う。
有料なら、さぞかし綺麗なトイレだろうと思ったら・・・大間違い・・・
小さな小屋のトイレ・・・
電球が切れていて電気はつかない、便器は汚い、ドアの鍵はかからない・・・
これで有料なのかよ!(怒)
「みなさん、ちゃんとお金を払ってください!払いましたか?」とガイド・・・
このトイレの持ち主は彼女の“友だち”だそうである。
つまり、このトイレの持ち主の小遣い稼ぎにガイドが協力してやっただけのことである。(怒)
我々男はいいが・・・女性は、このトイレではキツイかっただろうなぁ~

実は、拙者の戦友会の会員の中で、お父さんがレイテで戦死された方がいる。
いつか現地に慰霊に行ってみたいと仰っていたので、実は、今回のツアーの参加は、この下見も兼ねての事・・・
機会があれば拙者が案内してあげようと思っているのだが・・・
遺族は女性なので・・・このトイレ事情には参った・・・
もう少しまともなトイレがある場所を調べておかねば、安心して案内も出来やしない・・・(涙)

おかげで・・・トイレに関しては、全く参考にならないツアーとなる・・・(苦笑)

午後4時半過ぎ・・・・
「カンギポット」の慰霊場に到着・・・・
ここは「カンギポット山」がよく見える場所で、ここに「慰霊場」を作り、慰霊碑や卒塔婆が建てられていた。
が・・・見るも無残・・・今は何も残っていない・・・・(唖然)
台風で完全に破壊されてしまったようである。

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ここにも10年前に来たことがあるが・・・
記憶の中の景色と全く違っているので、本当にここなのか?・・・と、とても信じられない・・・(唖然)

PICT4742_convert_20150831131829.jpg PICT4740_convert_20150831131744.jpg
(10年前)

レイテ島で戦っていた日本軍は、米軍の猛攻に追われ、最終的に、このカンギポット山に籠もって抗戦したという。
一部の将兵は隣りのセブ島へ脱出したようだが、その数は少ない・・・
カンギポット山に立て籠もった将兵は、その後、壊滅・・・・
一人も生還しなかったという話を聞いたことがあるが・・・本当かどうかは知らない・・・
その最期の様子を書き残すような生還者がいなかったことは確かなようで、このため最期の様子はよくわからない。
いずれにせよ、病死、餓死で玉砕したのだろうということになっている。

203_convert_20150831133057.jpg (カンギポット山)
PICT4736_convert_20150831131949.jpg (10年前)

たまたま、10年前とほぼ同じ場所から写真を撮ったようで・・・・
比較してみたら、ほぼ同じく見えるから、この場所で間違いないと思うが・・・・
いやはや・・・この荒れようには驚いた。
その後、「慰霊場」は復興されないようで・・・
どうも土地の持ち主と揉めているというような噂を聞いたが、どうなんだろう?
10年前に来た時は、ここに民家があって、目つきの悪い連中が住んでいたから、そういう噂が出ても不思議ではない気がする。
その家も、今は消滅している・・・

時刻は午後5時を過ぎた・・・
今日の戦跡めぐりは、これで終了し、今晩の宿泊場所のある「オルモック」へ向かう。

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「オルモック」も2年前の台風で大被害を被ったはずだが・・・
一見すると、全く傷跡が残っていないような感じである。
都市機能は復旧しているように思える。

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午後6時・・・「オルモック」の港近くのレストランで夕食・・・・
改装したのか、新しく建てたのか・・・綺麗なレストランである。

午後7時45分・・・すぐ近くにあるホテルにチェックイン・・・
ここもまた、綺麗なホテルである。

214_convert_20150831142437.jpg (ホテルのロビー)

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かなり綺麗なホテルであるが・・・・
台風の直撃を受けたときは、3階建てのうち2階まで高波(津波?)が押し寄せてメチャクチャになったとホテルのボーイ・・・・
拙者の部屋は2階にあるが、2階まで波にぶち抜かれたという割には、結構、綺麗に修復されている。
ホォ~・・・・大したものだ・・・
このホテルなら、ご遺族を案内して宿泊してもいいかも・・・(笑)

ボーイにマッサージが呼べるかどうか尋ねたら呼べると言うのでお願する。
やってきたマッサージ師・・・・オバチャンなのだが、やたらと明るい性格・・・(大笑)
英語は拙者と同じくらいの片言英語なので、会話はいつの間にかビサヤ語になってしまうのが玉に瑕・・・(笑)
こちらはビサヤ語だろうがタガログ語だろうが、フィリピンの言葉は全くわからない。(大笑)
話によると、セブ島から出稼ぎに来ているらしい。
で・・・拙者を揉みながらケラケラ笑いながらビサヤ語で話しかけてくる・・・
あのね・・・何言ってるかわからないんですけど・・・・(汗)
「なんで笑ってるの?」
「×○■△※・・・」(大笑)
「へ?・・・何よ?・・・何?」
こちらも仕方がない、ビサヤ語でやられたときは日本語で返す・・・(大笑)
すると、また彼女は大笑い・・・・
おい、おい、英語に切り替えろって・・・(大汗)
しかし、気のいい楽しいオバチャンだった・・・・

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旅行 | 14:39:12 | Comments(0)
「ドラグ」と「ブラウエン」
次に向かったのは「ドラグ」という場所・・・

途中で見かけた家・・・
バスの中から撮影したので、うまく撮れなかったが・・・(苦笑)

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レイテ島は、2年前の台風のおかげで大被害を受けたが・・・
かなり復興が進んでいるようである。
屋根が飛ばされる被害が多いので、フィリピン政府は屋根に使用するトタン板を無償で支給したという。
というわけで・・・この家の屋根もピカピカ!
どの家も・・・こう言っては失礼だが、物置小屋に近いオンボロ住宅でも・・・屋根だけは銀色にピカピカに輝いているのである!(笑)
これに太陽の日差しが当たるから眩しいほどの輝きを放つ・・・
ちょっと周囲の景色にそぐわない感じだが・・・・(苦笑)
フィリピン人の逞しさを感じる・・・
あ~頑張ってるなぁ~と思うのである。
どこかの国(どこかの県人?)のように補償金だか補助金をもらってパチンコ屋に通うような連中とは出来が違うかも・・・(大笑)

午前8時半・・・「ドラグ」の「HILL120(120高地)」に到着!
10年前に、ここに一人で来たことがある、懐かしい場所・・・

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丘の麓に真新しい看板が・・・
おお!なんとわかり易い標識か・・・
「津波の避難場所の指定」をしているようだ。

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10年前に来た時は、このような碑はなかったと思うが・・・
米軍の記念碑らしい・・・


ATOP THE HEIGHT OF THIS HILL 120, BLUE BEACH, DULAG, LEYTE, PHILIPPINES AT 1042 A.M. 20 OCTORBER 1944, ONLY 42 MINUTES HAD ELAPSED SINCE THE FIRST ASSAULT TROOPS OF THE 3RD BN 382D INFANTRY , 96TH DIVISION OF THE AMERICAN FORCES OF LIBERATION HAD LANDED 1ST LT. CLIFFORD W. MILLS RAISED THE AMERICAN FLAG IN PHILIPPINES SOIL AFTER IT HAD BEEN LOWERED AT BATAAN ON 9 APRIL 1942 FLOATING HIGH AND PROUD WAS TANGIBLE PROOF THAT THE AMERICANS HAD MADE GOOD THEIR PROMISE TO THE FILIPINOS.

(碑文より)



この「HILL 120(120高地)」の麓に日本の慰霊碑がある。
10年前と変わらず綺麗なまま建っている。
いや、以前より綺麗になっているかも・・・(笑)

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レイテイ島 戦歿者慰霊碑

7-5-37
比島に眠る
  勇者たちに捧ぐ

平成16年3月15日
7-3-37
秋田市山王 佐々木辰雄
秋田市川尻 川村 暢



「レイテイ島」という表記が気になるところですが・・・(笑)
この地区では、京都の第16師団・歩兵第20連隊第3大隊が米軍と戦い全滅したという。
この碑を建立した方は秋田の人で京都の人ではない・・・
部隊名も何も書かれていないので、わからないが・・・秋田の部隊もここにいたのか?
建立者は遺族なのだろうか?
どういう関係の慰霊碑なのかよくわからない・・・
台座の部分に英文の碑文が嵌め込まれていた。


-CENOTAPH-
DEDICATED TO CONSOLE ALL SOULS OF FILIPINOS, JAPANESE AND AMERICAN WHO PASSED AWAY IN LEYTE DURING WORLD WAR Ⅱ.
SWORN THAT THE SAME TRAGEDY AND MISTAKE SHOULD NEVER BE REPEATED.
PRAYER FOR THE TRUE WORLD PEACE AND FRIENDSHIP FOREVER.
THE GENEROUS ARRANGEMENT AND THE PERMISSION BY HON. MAYOR MANUEL "BOY" SIA OUE DULAG, LEYTE, PHILIPPINES ARE SINCERELY APPRECIATED.
JANUARY 08, 2003
CONTRIBUTED BY:
MR. SASAKI TATSUO AKITA CITY JAPAN
MR.NAGAMINE KATSURO NAGANO KEN



こちらの英文のほうには「勇者たち」などという文字はない・・・(汗)
とにかく「過ちは繰り返しませぬ」・・・という言い方である。
まぁ、こう言っては失礼かもしれないが、妥当な“二枚舌”である。
この碑文の寄贈者2名のうち一人は長野県の人・・・
これまた、京都の人ではない・・・
英文のほうは平成15年、慰霊碑のほうは平成16年と、作られた年が違うので、以前は別の碑が建っていたのかも。
いずれにせよ、中心人物は、どちらにも名前が刻まれている秋田の方のようだ・・・

10年前に、ここに来た時に、偶然、「マニラ新聞」の記者と出会った。
彼も慰霊碑を訪ね歩いていた。
どうしても位置がわからない慰霊碑があるので教えてくれと頼まれ、教えてあげたのだが・・・
後でわかったのだが、日本政府からの依頼で慰霊碑の撤去の為の調査をしていたらしい。
教えて失敗したぁ~と後悔した・・・(笑)
その後、彼は新聞社を辞めているようだが・・・今はどうしているのだろう?

ここに10分程度いて・・・次に向かう・・・・

その途中で、日本軍人の慰霊碑がある場所に立ち寄る。
ちょうど我々が通る道路の側に建っていた・・・
ここの地名は、拙者は知らない。
こういう慰霊碑があることも今回初めて知った。

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「CAPT, ISAO YAMAZOE SHRINE」と書かれている鳥居・・・
ヤマゾエ・イサオ大尉の廟・・・ということらしい。


記念碑
第2次大戦の傷跡が今なお残り住民の反日感情も根強いレイテ島ドラグ市を日本軍が占領中に公平で友好的な態度を貫き市民の信望を集めた日本兵山添勇夫陸軍大尉並びに勇士達の遺徳を偲び記念碑を地元の人々の手で建立された
1943年4月18日この地点で戦死された

出身地 京都府与謝郡岩滝町石田

寄贈者 坂本■計
      河野アメリア



碑文によれば、山添大尉は、ここで戦死されたそうだが、昭和18年のことらしい・・・
米軍がレイテ島に上陸したのは昭和19年である。
米軍が来る前に、ここで戦死したのか?
フィリピンゲリラに殺されたのか?
それにしても、地元のフィリピン人が「記念碑」を建てたというのには驚いた。
添乗員の“アサダさん”は、以前にもこの地を訪れたそうだが、その時より碑が立派になっているとか・・・

115_convert_20150827221518.jpg (山添大尉)

次に向かったのは、「ブラウエン」・・・・
ここは平坦な場所で、飛行場があった。
この飛行場の争奪戦が行なわれた激戦地である。
「ブラウエン北飛行場」があった場所にある慰霊碑をお参りに行く・・・・

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あれ?・・・この場所には、10年前に来たことがあるような気がする・・・
周囲の景色が、少々変わっているが・・・(10年も経っているんだから当然だ・・・・笑)

128_convert_20150827231142.jpg (現在)
PICT4819_convert_20150827230115.jpg (10年前)

電信柱と街灯の位置関係から、やっぱり、10年前に来たのはここだよなぁ~(苦笑)

その時に、ここにあった慰霊碑は高千穂空挺隊の供養碑と大阪府遺族会が建立した慰霊碑・・・
風の便りでは、撤去されたと聞いていたので、今は更地になってしまっていると思っていたのだが・・・
これらの慰霊碑は撤去され、今は静岡県関係の「平和之碑」が新たに建立されていた。

PICT4813_convert_20150828133813.jpg(10年前)
125_convert_20150828135256.jpg(現在)


平和之碑
静岡県知事 石川嘉延

日比両国の永遠の平和と繁栄を祈念し建之

戦後60年 2006年1月
静岡県議会英霊にこたえる議員連盟

(碑文より)



どうも日本人というのは「平和」という言葉が好きなようで・・・(大笑)
平和!平和!平和!・・・・である。
正直言って、ここで何があったのか、どういう部隊が戦ったのか、どのくらいの戦死者が出たのか・・・
そういうことを記してもらいたいのだが・・・
当時の“ものさし”で計れば、「よく頑張りましたね。御苦労様です」ということになる。
これだけでは、「顕彰碑」になってしまうかもしれないが・・・(苦笑)
その次に、日本、米国、フィリピンの戦死者、犠牲者への追悼の言葉で、最後に「平和」を祈ることで「供養」「慰霊」ということになると思うのである。
いきなり「永遠の平和を!」って言われたんじゃ、戦没者は何のことやらわからないと思うんですけど・・・(大汗)
まぁ、「平和」と言っておけば無難だけど・・・・(大笑)

左の碑が「主碑」で・・・・
「右の碑は何だろう?」とツアー参加者・・・
慰霊団が来るたびに、ここにプレートを貼り付けているようである。
こういうやり方で、定期的にお参りに来ていますというのを残すのは良いことだと拙者は思う。

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時刻は午前8時半・・・・・
次に向かったのは、もう一つの「ブラウエン飛行場」跡・・・・
ブラウエンには3つの飛行場があったという。
多分、東にあった「サンパブロ飛行場」ではないかと思うが・・・
拙者は、ここは初めてである。
小学校の敷地内に碑があるとのこと。

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この小学校の敷地内に「第114飛行場大隊終焉の地」の木柱が建っていた。
文字が消えかかっていて読みづらいが、平成13年に建立されたようである。
木製なので、そのうち文字も完全に消え、朽ち果てて消滅してしまうだろう。

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「飛行場大隊」とは航空機の整備や補給、飛行場の警備を担当した陸軍の部隊である。
第114飛行場大隊は、満洲の牡丹江で昭和19年に編成され、フィリピンに派遣された部隊。
兵力は350名程度だったらしい。

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(小学校の前の道)

どのあたりに飛行場があったのだろう?
もしかしたら、この直線の道が、当時の滑走路跡か?

校長先生など、先生方に挨拶し、ちょっと教室を見学させてもらう。(笑)
教室の中に生徒が一人だけいた・・・
ん?・・・・どういうことだ?(笑)
声をかけてみたら「今日は学校はお休みだ」と言う。
へ?・・・じゃぁ、なんで君はここにいるの?(大笑)
補習?(笑)
彼は、大人しく椅子に座ったまま、じっと黒板を見ていた・・・
わからん・・・さっぱり、わからん・・・(苦笑)
「ちょっと教室内を見せてね」と言ったら、頷いた・・・
口数の少ない子だが・・・まぁ、いきなり“外国人”に遭ったら、こういう対応になるよな・・・
拙者が彼の立場なら、教室から逃げ出すに違いない・・・(大笑)

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教室の壁には、ホセ・リサールの肖像画が貼られていた。
フィリピンの学校には、必ずホセ・リサールの銅像や肖像画がある。
日本で言えば・・・二宮金次郎に当たるか?
最近では、日本の小学校では二宮金次郎の銅像を見かけなくなったが・・・
ちょっと日本はフィリピンを見習うべきかも・・・(苦笑)
文科省が悪いのか、日教組が悪いのか・・・

なぜか、ここでの時間がやたらと長い・・・・
ガイドは校長先生たちとオシャベリしてるし・・・
他の参加者は、トイレを借りに行っているのか、なかなかバスに戻ってこない・・・

というわけで、バスのところに集まった子供達とオシャベリして時間を潰す・・・(笑)
やたらと積極的に声をかけてきた少年がいた。
ここの生徒だと言う・・・
で・・・向うのほうから、ちょっと太目のオバチャンが歩いた来た・・・(笑)
彼のお母さんだそうで、しかも、この小学校の先生だと言う。
なので・・・このお母さんに「グッドモーニング!」と挨拶したのだが・・・・
キッ!と自分の子供を睨んで校内に入っていった・・・(大汗)
かなりご機嫌斜めである・・・
何で?・・・・???
「もしかして・・・お前、何かしたんじゃないか?お母さんが怒っているようだけど・・・」
「ん?何もしていないよ」と少年はニヤニヤしている。(笑)
「いや、お前、何かしたろう?怒ってるもん!お母さん・・・・」
「いやぁ~・・・・」と、またもやニヤニヤ・・・
「あのね、この子は僕の妹!」と少年・・・
あっ・・・こいつ、話をそらしやがった!(大笑)
「お前、ちゃんと勉強しているの?」
「・・・・・」
周囲の子供達がヤンヤ、ヤンヤ・・・どうも、彼をからかったようである。(笑)
少年は、一瞬、ムッとして、周囲の子供達に何か言ったようだ・・・(笑)
「ちゃんと勉強しろよ」
「イエス・サー!」(ニコニコ・・・)
本当に、調子のいい奴だ・・・(苦笑)
日本でもフィリピンでも、どこの国でも・・・子供は可愛い・・・(笑)

このブラウエンには3つの飛行場があったらしいが、拙者が10年前に来た時に訪れた場所は、ここではない・・・
第26師団の卒塔婆などが建ち並ぶ場所に行ったのだが・・・・
あそこが「サンパブロ飛行場」跡だと思っていたのだが・・・
飛行場は広いからなぁ~
ここもサンパブロ・・・あそこもサンパブロだったのかも・・・(苦笑)
あれは、どの辺りだったろうか?
フィリピン人の女性ガイドに尋ねてみたが、よくわからないようで・・・
「たぶん、この近くだと思います」と言う。
「そこには行かないのか?」と尋ねたら「あ~あそこは台風で何もなくなってしまいました」と言う。(汗)
怪しい・・・どうも、その言い方は怪しい・・・(苦笑)
過去の経験から言うと、フィリピン人のガイド、特に女性のガイドというのはプライドが高いのか「知らない」とは滅多に言わない。
「知らない」と言う代わりに適当な理由をつけて平然と誤魔化したり嘘をつく・・・
「卒塔婆が建ち並んでいる場所」と言ったら首をかしげていたのだから、正確な場所を知らないのだと思う。
にもかかわらず、「何も無くなっっています」と言い切るというのはおかしいだろ?
「近いのなら、そこへ行く事はできないのか?何も無くてもいいから」と言ったら無視された・・・(唖然)
「さぁ、次に行きま~す!バスに乗ってください!」・・・である。
やっぱり、知らないんだ・・・
誤魔化したな・・・
これだからガイドといっても信用できないのである。(怒)
特に戦跡巡りの場合は・・・・
過去に何人かのガイドに会っているが、比較的、誤魔化しや嘘が少ないのは“ステラさん”なので、個人旅行の時は、必ず彼女をガイドとして使うことにしているのである。
他のガイドは、しょっちゅう適当に誤魔化して御茶を濁すから使えない・・・(苦笑)

旅行 | 10:30:47 | Comments(0)
レイテ島へ行く
午前2時起床!・・・午前3時に出発!(唖然)
今日から1泊2日でレイテ島に行く。
で・・・スーツケースは、このままホテルに置いて、着替えと身の回りのものだけを持参してくれとのこと。(唖然)
おい、おい、そういうことは、日本を出国する前に知らせてくれなくては・・・
こちらは、いつものようにスーツケースに小さなショルダーバッグなのである。
そうと知ってりゃ、小さなリュックか、大き目のショルダーバッグを持って来たのに・・・(怒)
この小さなショルダーバッグにどうやって着替えを入れようか・・・(唖然)
参ったなぁ~(涙)

なんとか必要最小限・・・「超」が付くほどの最小限のものをバッグになんとか詰め込み出発する。
朝食は、「お弁当」を持って、空港内で食べるのだそうだ。(汗)
このツアーは、いつもこんな調子・・・(大笑)
過去に何回も経験しているが・・・毎回、落ち着かない・・・

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空港は早朝だというのに大混雑・・・
フィリピン人というのは早起きなのか、それとも寝ないのか?(大笑)
とにかく、座って食べる場所を確保するのに苦労する。
「お弁当」の中身は、サンドイッチとバナナとスナック菓子とミネラルウォーター・・・
午前3時では、ちょっと食欲が湧かないが、無理して食べる。(苦笑)

午前4時35分発のフィリピン航空2981便でレイテ島のタクロバンに向かう。

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機内食は・・・クラッカー一袋だけ・・・(笑)

マニラから1時間半弱でレイテ島に到着する。
時刻は午前6時・・・・

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乗ってきた飛行機はプロペラ機・・・・
これがジェット機だったら、もっと早く着くんだろうが・・・・(笑)
それでは料金が高くなってしまうか・・・・
30分程度早くなっても意味はないか・・・
いずれにせよ、このレシプロエンジンの音が拙者は好きである。
飛行機に乗っている!・・・っていう感じがする。

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レイテ島は10年ぶり、2回目の訪問である!(喜)
で・・・・空港・・・・全然記憶にない・・・(苦笑)
本当に記憶力が悪いったらありゃしない・・・

空港の建物には「DANIEL Z. ROMUALDEZ AIRPORT」って書いてある・・・
あれ?・・・・「タクロバン空港」という名前ではないのか?
よくわからん・・・・

バスに乗り、最初に向かったのは「パロ海岸」・・・
反攻する米軍の上陸地点である。
時刻は午前6時半。

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MACARTHUR LANDING MEMORIAL
PARK
RED BEACH, PALO PROVINCE OF LEYTE

The
MACARTHUR LANDING MEMORIAL
built to commemorate the historic return of Gen. Douglas Macathur to Philippine shores on October 20, 1944, is a joint project of the Department of Tourism, the Philippine Tourism Authority, the Province of Leyte and the Bureau of Forest Development upon direction of President Ferdinand E. Marcos.

BENJAMIN ROMUALDEZ
Governor Province of Leyte

JOSE D. ASPIRAS
Secretary Department of Tourism

COL. RODOLFO A. CACDAC
Acting General Manager
Philippine Tourism Authority


This marker is dedicated to the men and women who fought for freedom and democracy on these shores 50 years ago.

It is a reminder to present and future generations to cherish the legasy of these patriots who paid the ultimate sacrifice in the name of peacee.

Let the memory of the scourge of war suffered by Filipino guerrillas, allied soldiers, Japanese and innocent civilians be a lesson of history.

Lest their heroism be in vain, let peoples of all nations strive to work together for peace and a better world.

FIDEL V. RAMOS
President
Republic of the Philippines

VICENTE J. CARLOS
Secretary
Department of Tourism.

Octorber 20, 1994
Palo, Leyte

(銘板より)



ここは、「マッカーサー・ランディング・メモリアル・パーク」と言うらしい。
「マッカーサー上陸記念公園」という意味だろう。
我が日本人にとっては、「上陸記念」なんて、とんでもない話しだ・・・(笑)
「パロのレッドビーチ」という言い方でで十分である。(大笑)
ここに、昭和19年10月20日にマッカーサーたちが上陸したシーンの銅像が建っている。
2年前の平成25年11月に、ここレイテ島は台風30号(フィリピン名は「ヨランダ」)の直撃を受けて大きな被害を受けた。
う~ん・・・この時にこの像は破壊されなかったのか?・・・(汗)
かなり頑丈なんだなぁ~・・・(残念)(苦笑)

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LEYTE LANDING

ON THIS SPOT, PALO, LEYTE, GENERAL DOUGLAS MACARTHUR RETURNED TO THE PHILIPPINES ON 20 OCTOBER 1944.
AND PERSONALLY LED THE SWIFT DRIVE AGAINST THE JAPANESE FORCES IN THE PHILIPPINES.
PRESIDENT SERGIO OSMENA AND SOME MEMBERS OF THE GORNERNMENT IN-EXILE ARRIVED WITH GENERAL MACARTHUR AND PROCEEDED TO REORGANIZE RESTORE AND ADMINISTER THE GOVERNMENT OF THE COMMONWEALTH OF THE PHILIPPINES.
DECLARED A NATIONAL HISTORICAL LANDMARK 2004.

(銘板より)


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(レッドビーチ)

向うのほうでカヌーを漕いでいる人がいたので・・・望遠で・・・パチリ!(笑)

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皆さんは、結構熱心に見学していたが・・・(何を見学していたのかは知らないが・・・笑)
拙者は、面白くないので・・・(笑)
近くにいた警察官たちとおしゃべり・・・(大笑)
ちょうど、その時、隊列を組んでタッタッタッと走っている連中が拙者の眼の前に来た。
ん?・・・フィリピン軍の早朝ジョギングか?(笑)
警察官に尋ねたら、彼らは警察学校の学生だと言う。
「へぇ~そうなんだ~」
「ところで、あんたは軍人か?」と尋ねられた。(大笑)
拙者は、よく軍人と間違えられる・・・(苦笑)
「いや、ミリタリー・ヒストリアンだ」と答えたら驚かれた上に敬礼までされてしまった。(苦笑)
そのせいなのか・・・
ジョギングの学生たちは拙者の前を通過する時に口々に「グッドモーニング・サー!!」と挨拶して通り過ぎる。
あら・・・こりゃイカン・・・(汗)
こちらも姿勢を正して「グッドモーニング!」と応える。(笑)

まもなく、ツアーの皆さんが戻ってきた・・・
「何してたんですか?」と聞かれたので「警官達とおしゃべりしていた」と答えたら少し呆れ顔・・・
さて・・・バスに乗りますか・・・
「それじゃ!行くね!」と警官達に別れの挨拶をしたら全員に敬礼されて見送られた!(笑)
仕方がない・・・こちらも答礼!(苦笑)
益々、ツアーの仲間から呆れた顔をされてしまった・・・(大笑)

旅行 | 09:46:54 | Comments(0)