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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「マリコ村」に宿泊
「プンカン」を出発し・・・・
途中の「バレテ峠」は、そのまま通過して・・・(笑)
国道5号線上の「サンタフェ」から左に折れて山道を走る。
「マリコ村」に向かう、この山道・・・
前回来た時に道路拡幅工事をしていたが、今回も工事をしていた・・・
「サンタフェ」から「マリコ村」に向かう途中に「イムガン」という集落があるが・・・
戦時中は、ここに日本軍の戦闘指揮所が置かれたことがある。
この集落までの道路は完全に拡幅・舗装も完了していた。
「マリコ村」までも、もう少しのところまで工事が進んでいる。
この拡幅工事が完了したら、かなり交通の便が良くなるだろうなぁ~

しかし・・・途中に、“けもの道”のような狭い道が山の斜面からこの道路に繋がっている場所があったのだが・・・
拡幅工事で、山の斜面が削られたせいで消滅している!(涙)
なんと!・・・・ショック!
この狭い小路は当時の「サラクサク道」なのである。
人間一人が一列にならねば通れないこの道を、日本軍の兵士たちが歩いたのである。
「サラクサク峠」で戦っている祖父達の部隊に食糧や弾薬等を運ぶ輜重兵が背中に重い荷物を背負って登っていった道・・・
その道が消えている!・・・あ~ショック!(涙)

午後5時過ぎに無事に「マリコ村」に到着・・・
今晩は、この村の“オマリオさん”の家に宿泊して、明朝、目の前の「サラクサク第二峠」に登る予定・・・
「サラクサク峠」に登るときは、いつも“オマリオさん”の家に泊めてもらっている。
もう10年以上のお付き合いである。
前回訪問した時は、ご主人の“オマリオさん”はこの家に住んでいなかった。
週にに3回、人工透析をするため、大きな病院のある「バギオ」に住んでいると奥さんが言っていた。
今回、拙者が来るというので、“オマリオさん”は1日だけ自宅に帰っていた。
いやぁ~何年ぶりだろう・・・久しぶりの再会である。(大喜)

その他、自宅には多くの人たちがいた・・・
何事かと思ったら、“オマリオさん”から紹介されたが・・・
え~と・・・・彼の英語は全く理解不能・・・(大汗)
どうも、どこかの偉い人らしい・・・(大笑)
本人と話をして見たら、以前は地方議員(日本でいうと市議会議員かな?)だったらしいが、政治の世界に嫌気がさして、政治家を辞め、自分の会社の利益を少し回してボランティアをしているという。
彼は中国系のフィリピン人・・・
さすがは中国系は商売上手だ・・・(笑)
が・・・この人は話してみたら拙者の思っているイメージとちょっと違った。
「政治は汚いから政治家を辞めた」とハッッキリ言うとはねぇ・・・
「政治家としてより、ボランティアで人の役に立つほうがいい」と言う。
おや?・・・ちょっと違うな・・・この人・・・
中国人は大嫌いという偏見を持っている拙者だが・・・(大笑)
ん?・・・ちょっと違うな・・・この人・・・
結構、好感を持てちゃうな・・・この人・・・(大笑)

今回、この村の人に配る為の物を、いろいろと持ってきたようで・・・
“オマリオ夫人”に渡していた。
“オマリオさん”の奥さんは、この村で若い時から教師をしていて、校長先生にまでなった方である。
今は定年退職しているが、今でも村のまとめ役をしているようである。
そういうこともあって、昔からの知り合いらしい。

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寄付の品々の贈呈をした記念写真を撮っているところを、後ろから撮影する・・・(大笑)
すると・・・・「お前も入れ!」と無理矢理、拙者も記念写真に加わることになってしまった・・・(大汗)
あのぉ~・・・拙者は何も寄付してませんけど・・・(苦笑)

一人の青年がニコニコしながら声をかけてきた。
ん?・・・誰?(苦笑)
「前回、うちの親父がガイドをしたんだ」と言う。
「あ~・・・あのおじいさんの息子さん?」
「今回も、ガイドをするからよろしく」とのこと。
英語が全然話せないというおじいさんだが・・・
拙者も同じようなもの・・・(大笑)
そういうわけで、会話は成り立たないのだが、あの時は、なぜか話が通じたのだから不思議である。
知った顔がまたガイドをしてくれるならありがたい・・・
「OK!OK!よろしく!」(大笑)

日が暮れて夜になる・・・・
ここは標高1500mの山中・・・・
朝、晩はかなり冷え込む。
事前にその話もして、長袖のシャツくらいは用意するように言っておいたのだが・・・
誰も拙者の話を信じていない・・・(唖然)
拙者はジャージ持参だからね・・・と言っておいたのだが・・・
ドライバー君に至っては薄手のTシャツである!
「もう、寒くて、寒くて・・・」と震えている。
“ステラさん”ですら、半袖、夏仕様・・・
前回も一緒に来て泊まったんだけど・・・その時のことをすっかり忘れている。
「寒い!寒い!」を連発・・・(大笑)
“デグチ支局長”も「ちょっと甘く考えてました」とのこと・・・(笑)
「俺はしらねぇ~よぉ~・・・ちゃんと事前に教えておいたんだから・・・」(大笑)

“オマリオさん”家族と一緒に夕食・・・・
明日の山登りの打ち合わせと、“デグチ支局長”と現地人へのインタビュー取材の打ち合わせを行なう。

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旅行 | 20:09:02 | Comments(0)
「プンカン」に立ち寄る
昼食は「カバリシアン」から「サンニコラス」を経由して車で20分ほど引き返した「タユグ」という町にあるファストフード店で食べることにする。
この店には前回も来たことがあるので、知っている店のほうが気が楽である。(笑)

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で・・・・食後のデザートは・・・
“デグチ支局長”が近くの店で買ってきてくれた「ヤクルト」!(大笑)

065_convert_20150727200822.jpg

日本では「ヤクルト」をじっくり見たことなんてないので、何が書かれているかなんて気にもしませんでしたが・・・
「CURTURED MILK」って書いてある・・・
CURTURED MILK?
日本語にすると・・・「教養のあるミルク」?・・・「洗練されたミルク」?・・・「培養されたミルク」?(大笑)
ヤクルトって・・・どんな飲み物だ?・・・これ・・・
この「ヤクルト」は「ヤクルト・フィリピン」という会社が販売している。
ヤクルトの現地法人らしい・・・
住所は「Calamba, Laguna, Philippines」・・・・
ラグナ州のカランバに会社があるらしい。
ラグナ州のカランバと言えば、終戦時に投降した日本兵が収容された捕虜収容所があった場所である。
拙者の祖父も、この捕虜収容所に収容されていたのである。
あら・・・お懐かしい地名・・・(喜)

ここから30分ほど走り「サンホセ」まで戻る。
分かりやすく言うと・・・今回はY字に移動しているのである。
Y字の付け根のところがマニラで、そこから上(北)に向かい、Y字の左(北西)の枝に進む・・・
そこが「サンニコラス」「カバリシアン」である。
で・・・今度は引き返し、Y字のVの部分、つまり分岐点が「サンホセ」・・・
今度は「サンホセ」から右(北東)へ向かい上って行くのである。(これでわかるかな?)(苦笑)

067_convert_20150727215912.jpg (サンホセ)

ここから国道5号線を北上する。
この国道は、マニラから北部ルソンへ退避する日本軍や民間人が通った道である。
その国道5号線上に「プンカン」があるのだが、ここは町ではなく、小さな集落という程度の場所である。
で・・・この道路わきに慰霊碑があるので、そこに立ち寄ってお線香をあげようと思うが・・・
目印になるようなものもない場所なので・・・うっかり通り過ぎてしまうかも・・・
と・・・思っていたら、途中で道路工事にぶち当たってしまった!
で・・・迂回路を示されたが、これが田んぼの畦道のような狭くてクネクネとした道・・・
あらら・・・国道上を走っても見落としやすい慰霊碑なのに・・・
迂回路を走ったら、もっとわからなくなる・・・
得意のタブレットを使って、ナビの地図を表示し、現在位置を確認していたが・・・
なんと・・・このあたりから電波が入らなくなり、現在位置がわからなくなった・・・(涙)
万事休す・・・・である。
ウロウロ走り回った挙句、ようやく国道に戻る。
が・・・ここがどの辺りなのかがわからない!(大汗)
通り過ぎちゃったかも・・・・

「サンホセ」を出て1時間後・・・・迂回路を走ったため、かなり時間をロスしたが・・・
ん?見覚えのある景色・・・
「プンカン」である!
あった!あった!(喜)
通過してなかった!(大笑)
まぁ~いい加減な道案内・・・支局長に申し訳なし・・・
慰霊碑の所で車を停め慰霊をする。

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070_convert_20150727224446.jpg (『内藤大隊並金子中隊追悼之碑』)

(碑文)
私達は第二次世界大戦におけるフィリピン共和国 アメリカ合衆国 日本国 三国の不幸な犠牲者を此処にお祀りします
願わくは総ての世界の国民が手を携えて日日希望に輝き明日の幸を築き絶えることのない永遠の平和をもとめます
昭和55年1月吉日

大変失礼な言い方になるが・・・何を言っているのかサッパリ理解できない碑文である。
「内藤大隊」と「金子中隊」を追悼する碑のはずだが・・・
これら二つの部隊に関しては全く記載されていない。
これで「追悼」になるのやら・・・(大汗)

ちなみに「内藤大隊」とは、歩兵第10連隊第2大隊(内藤大隊)のことで、「金子中隊」とは独立歩兵第356大隊の第4中隊(金子中隊)ではないかと思うが、確証はない・・・
なにせ、部隊に関しては何も記されていないのだから・・・
「内藤」とか「金子」と言われても、どこの部隊かわからないというのでは「追悼」にならないのでは?

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(『鉄歩兵第十連隊比島戦没者追悼之碑』)

(碑文)
連隊本部
  通信中隊
  速射砲中隊
  連隊砲中隊
  作業中隊
第1大隊本部
  第1中隊
  第2中隊
  第3中隊
  第1機関銃中隊
  第1大隊砲小隊
第2大隊本部
  第5中隊
  第6中隊
  第7中隊
  集成第8中隊
  第2機関銃中隊
  第2大隊砲小隊
第3大隊本部
  第9中隊
  第10中隊
  第11中隊
  第3機関銃中隊
  第3大隊砲小隊
右の歩兵第10連隊は戦没者2942名
実に92%の多きに達しております
ご冥福をお祈りいたします
岡山バレテ会有志之建立  

碑に書かれている「鉄歩兵第十連隊」の「鉄」とは、姫路で編成された第10師団のことで、秘匿名(通称号)を「鉄兵団」と言った。
拙者の祖父の連隊も、この鉄兵団(第10師団)に所属する部隊である。
そういう意味でも、歩兵第10連隊は拙者にも縁のある部隊といえる。

ここ「プンカン」には、当初、拙者の祖父の部隊が配置された。
しかし、地形的に米軍の進攻を食い止められるような場所ではないことを進言し、結局、先ほど訪れた「サンニコラス」「カバリシアン」に陣地を転換することとなった。
第10師団の主力から遠く離れた場所に飛ばされたのである・・・(苦笑)
余計なことを言ったせいなのか?(笑)

米第25歩兵師団は北へ北へと逃げる日本軍と民間人を後ろから追いかけてくる。
これを食い止める最大の場所は、この先にある「バレテ峠」・・・
ここに第10師団主力が展開する。
このメインの防衛線の前面に前哨陣地を設定するのだが、その場所に「プンカン」を選んだのである。
米第25歩兵師団はハワイで編成された部隊で、ガダルカナル島で日本軍と戦った部隊である。
愛称は「トロピック・ライトニング」・・・部隊のマークは稲妻の図柄である。
その部隊が南から北へと日本軍を追い上げてくる。
そして、西から東に向かい第32歩兵師団がこの国道5号線を寸断するため進撃する。
それを食い止めることになったのは、我が祖父の連隊である。
陣地転換をしたが、結局は真正面から米軍と戦うことになったのである。

祖父が去った後の「プンカン」には、新たな部隊が配置された。
通称「プンカン守備隊」と呼ばれた部隊である。
兵力は約2000名、祖父の部隊(600名)の約3倍強の兵力である。
人数が多ければなんとかなると思ったのだろうか?
命令を下したのは第14方面軍の参謀だったらしい。
兵力より地形に問題があるから、ここはダメだと祖父は進言したのに、参謀は耳を貸さなかったようである。
こういうお粗末な“作戦”を立てる奴に限って、イザとなったらフィリピンを脱出して日本にいち早く逃げ帰るのである。
そして、戦後も生き長らえ・・・慰霊祭にも顔を出さず、生涯を終えるのである。
バカを見たのは命令に従い戦死した人たちということになる・・・
「上官の命令は陛下の命令」というなら、それなりによく熟慮して命令を出してもらいたいものだ。
天皇陛下に失礼であろう?・・・お粗末な命令を出しちゃ・・・

「プンカン守備隊」の指揮官は勤兵団(第105師団)の井上大隊長。
この守備隊の主力は鉄兵団(第10師団)の歩兵10連隊、歩兵39連隊、歩兵63連隊や野砲兵第10連隊から抽出された、いくつかの大隊や中隊なのだが、なぜか勤兵団の大隊長が指揮官なのである。
これが拙者には理解できない・・・
こう言っては失礼だが、“よそ者”の勤兵団の大隊長に全体の指揮をとらせるのか?
統一指揮を取らせるなら鉄兵団の部隊から指揮官を出させるべきではないか?
各種雑多な部隊で編成されている「プンカン守備隊」だが、主力は鉄兵団の部隊なのである。

結局、国道5号線を挟んで両側の丘に勤兵団の井上大隊と鉄兵団の内藤大隊が分かれて配置に付いた・・・
心情的に、そうなるのは当然かも・・・・

米第25歩兵師団の米第161歩兵連隊が内藤大隊の正面から攻撃を開始・・・
これに対して内藤大隊は必死の防戦をするが、陣地のある丘の最南端の「ネコ陣地」を放棄する。
これを知った小沼少将は激怒し、陣地の奪還を命ずる。
一歩も下がるな・・・がモットーの小沼少将の相変わらずの命令である。
鉄兵団司令部は歩兵第63連隊主力に反撃を指示するが、連隊主力が「プンカン」に到着した時には、すでに守備隊は撃破された後だったそうである。
内藤大隊長は生存者75名を率いて最後の突撃を敢行し戦死・・・
歩兵第63連隊は連隊長の独断で反転して撤退・・・
これにまたもや小沼少将が怒った・・・
この「プンカン」は、どうやっても地形的に守りづらい地形なのである。
モタモタしていたら、周囲から米軍が浸透し、丘ひとつ丸々包囲され殲滅されてしまうような場所なのである。
しかも、この「プンカン守備隊」の任務は敵の進撃を遅延させるはずなのだが・・・
陣地を取られたら取り返せ・・・では、遅延作戦にならないのでは?
一箇所だけでの損害ばかりが多くなり、敵の進撃を食い止める兵力がなくなってしまう・・・
そのあたりを考えて歩兵第63連隊の連隊長は独断で反転したのではあるまいか?

小沼少将の激怒に遭い、鉄兵団司令部は改めて歩兵第63連隊に反撃を命じた。
が・・・すでに戦線は崩壊・・・
大苦戦していた井上大隊も大隊長が戦死・・・
歩兵第63連隊には反撃の中止命令が出される。
2000名を擁した「プンカン守備隊」は約1ヵ月の戦闘で120名ほどに減り、撤退することとなった。
実質、壊滅である・・・
それでも、よく皆さんは頑張ったものである。
この不利な地形にもかかわらず・・・
かわいそうだと同情するより、よく頑張ったと褒めてやらねば・・・

小沼少将は、その後、さらに戦況が悪化したころ、さっさと日本に脱出した・・・・(唖然)
これは大本営からの命令による人事異動らしいが・・・・

この「プンカン」には、歩兵第10連隊関係の「追悼碑」はあるが、「プンカン守備隊」全体の慰霊碑はない。
なぜなのかは知らないが・・・
歩兵第10連隊の「追悼碑」の碑文を読むと、この地で連隊の92%が戦死したような誤解を受けてしまうが、実際は、ここから北のバレテ峠までを含め、さらにフィリピン到着前に輸送船と一緒に沈んだ将兵も含めての数字であろう。

“デグチ支局長”に戦史を説明し・・・さらに北上する。
途中、「バレテ峠」を通過するが、時刻は午後3時を過ぎているので、ここに立ち寄るのはマニラに帰る時にして、先を急ぐことにする。

旅行 | 15:52:58 | Comments(0)
「カバリシアン」へ行く
祖父の連隊がいた場所を祖父は「カバリシアン」と言っていたが、戦史の中では「サンニコラス」もしくは「サンタマリア」とも書かれている。
本当は、一体、どこにいたのやら・・・(汗)
その答えは15年ほど前に現地に来て初めてわかった。
当初、祖父は「サンニコラス」に連隊本部を置いていたようだが、ここから一本道を東に向かって後退・・・
途中に「サンタマリア」という集落があり、川に突き当たって対岸に「カバリシアン」という集落があった。
「サンニコラス」と「サンタマリア」は道路沿いにほぼ繋がっていて、一見しただけでは区別がつかない。
たぶん、そういうわけで、戦史によっては、この2つのどちらかの名前が使われているのだろう。

043_convert_20150724213808.jpg (サンニコラスからの道)

この写真の向こう側が「サンタマリア」、さらにその奥が「サンニコラス」・・・・
向うからこっちに向かって祖父は撤退し、米軍は、それを追って向うからこっちに向かって進撃してきた・・・

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道路はここまで・・・川で寸断されている。
当時もそうだったのか・・・それは知らない・・・(笑)
戦後間もない頃に撮影されたと思われる写真を見たことがあるが、そこには橋すら写っていなかった。
橋は戦闘で破壊されたのか?
この川の向こう岸に祖父は抵抗陣地を構築したらしいが・・・・・
当時は乾季である。
今と同じだとすると、川は干上がっていたはずで・・・そうなると、この川は何の意味もなかったかも・・・(汗)
それとも、まだ多少は水が流れていたか?
祖父の下に米軍の砲弾が飛来してきたのは2月1日だったという。

061_convert_20150724220041.jpg

対岸の左奥・・・小高い丘の上に家が建っていた!
前回来たときは、森だったのに・・・(唖然)
いつの間に、あんなところに家を建てたんだ?
あの丘のある辺りに祖父の部隊の物資集積所があったと思うのだが・・・
家を建てる時に地中から何か遺品が出てこなかったかと住人に尋ねたい気がしたが・・・
今回は、戦跡の案内なので、余計な時間は無い・・・(涙)

祖父の連隊は配属部隊を含めて約600名である。
戦史には1000名と書かれているものもあるが、その根拠は不明である。
我が祖父の部隊に対する米第32歩兵師団は「師団」だから・・・1万名はいただろう・・・
600名対1万名の戦いである。
明らかに祖父には勝算はない・・・

この川の対岸は「サラクサク峠」への“西の入口”となる。
当時は、“けもの道”程度の狭い道が山に向かってダラダラと続いていた。
その地形のおかげで全滅を免れたといえる。
“けもの道”ていどの道では、米軍は大部隊を一気に進撃させることは出来ない。
極端な話し・・・一列縦隊で登ってくるしかない・・・
この“西の入口”で米軍を食い止めることが、マニラから北上する民間人と友軍の退路を遮断されるのを防ぐことになる。

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吊橋を渡って対岸に向かう・・・
拙者は“高所恐怖症”どころか・・・たいして高くもない、そこそこの高さも怖いという男である。(大汗)
だから、こういう吊橋って怖いんだよねぇ・・・
しかも、竹を割った板を敷いているだけなのである。
歩いていてバリッっと割れたらどうしようと気が気ではない。(大汗)
すでに板が割れてポッカリと穴が開いている場所もあるのである!(大涙)
もう少しまともな橋を架けてくれよ・・・(涙)

へっぴり腰になりながら、恐る恐る橋を渡る・・・
祖父の部下たちが、この姿を見たら何と言うだろうか・・・(汗)
連隊長の孫は意気地がねぇなぁ~と笑っているか呆れているか・・・(苦笑)

045_convert_20150725105753.jpg 046_convert_20150725105955.jpg

対岸の祖父の部隊の陣地入口附近に米第32歩兵師団(レッド・アロー)の記念碑がある。
この碑は、まだ「サラクサク峠」で戦闘をしている最中に建てられたものである。
米軍の“余裕”が伺われる・・・・
小さい碑に見えるが、建立された当時は立派な台座を含めて高さ3mほどの大きな碑だった。
今から35年ほど前に祖父が最初で最後の慰霊に、ここに来た時に撮影した写真を見て知っている・・・
で・・・15年ほど前に拙者が初めて来たときは半分近くが土砂に埋まっていた。

ここはカバリシアン川が大きくカーブする頂点に位置する。
よって、戦後の川の氾濫で、かなり土砂に埋まってしまったのだろう。
今回は、その記念碑が傾いている。
あの大きな記念碑が、ここまで埋まっているということは・・・・
この河川敷で戦死した日本兵たちの遺体は数メートルもの地下に埋まっているか、土砂とともに下流に流されてしまっているか・・・
ここでの遺骨収集は不可能だろう。
実際に、ここでの日本政府による遺骨収集は行なわれていないようである。

048_convert_20150725112835.jpg

橋から右のほう(東側)へ回り込んでみる・・・
正面の森の奥の小高い丘あたりも我が軍の陣地跡のはず・・・
祖父の連隊本部があったあたりか?

047_convert_20150725113306.jpg

乾季で干上がり、水溜りと化した川を渡って、更に東の方向を見る。
15年ほど前に来たときは、ここには土手があり、その上を歩いたのだが、いつの間にか、その土手は消滅していた。
それほどまでに雨季で増水した時は、凄い流れになるということか・・・
あの土手が消えてなくなっているとは・・・(唖然)

川を渡って向こう側・・・写真の右の丘方面に、祖父は斬り込み隊を派遣している。
祖父の部隊には野砲兵第10連隊から野砲が2門配属されていた。
対する米軍には70門の砲を持つ砲兵部隊がいた。
単純に言うと、こちらが2発撃つと70発の“お返し”が来るのである!(唖然)
米軍の戦法は基本的には今も昔も変わりない・・・
最初に砲爆撃で徹底的に叩いてから歩兵が進撃してくるのである。
今でもアフガニスタン、中東で米軍は同じことをやっている。
祖父は敵の砲兵陣地に、1個分隊(9名程度)の斬り込み隊を、いくつか出して攻撃をかけている。
最初のうちは効果があり戦果もあがったようだが・・・
所詮、“焼け石に水”である。

祖父の部隊に配属されていた砲兵62名は、米軍の砲撃により、弾薬集積所が誘爆・・・
一瞬にして50名が吹き飛んだという。
生き残った12名は、祖父とともに転戦したらしいが、以前、砲兵の戦友会に尋ねたら、「生還者に会ったことはない」との回答だった。
転戦中に全員が戦死したものと思われる・・・

祖父の部隊は米軍の猛攻に耐えられず後退を始める・・・
それに先立ち、部隊に配属されていた工兵1個小隊を先に後退させている。
これは、先に後退させて、適当な場所に陣地を構築させ、完成次第、その場所まで後退するという戦法だと思う。
いわば、“尺取虫”のようにジワジワと後退するのである。
これを一気に後退させると、兵達は一目散に逃げ始め、戦線は一気に崩壊してしまう。
それでは、当初の任務である敵の進撃を食い止めることは出来なくなる。

祖父が撤退した正確なルートを拙者は知らないが・・・
多分、写真の奥に見える山のほうへ向かったのではないかという気がする・・・
この撤退・・・・祖父の独断である・・・(汗)
祖父のこの撤退に対し、第14方面軍の参謀である小沼少将が驚愕したと戦史にある。
命令なしで勝手に後退した・・・と怒ったらしいが、すでに400名が戦死し、残っているのは200名程度しかいなかったのである。
ここで頑強に抵抗すれば、1日足らずで壊滅してしまっただろう。
そうなったら、米軍は一気に峠を突破し、マニラから北上する避難経路を寸断してしまう。

小沼少将はガダルカナル島でも作戦の指揮を取ったことのある参謀である。
彼のやり方は、一歩も退かず、全滅するまで戦う・・・というもの。
第一線、第二線、第三線と陣を敷き、第一線は後退することなく全滅するまで戦い、第一線が全滅したら第二線が同様に全滅するまで踏みとどまって戦うというもの。
これを作戦といえるかどうか・・・甚だ疑問であるが・・・
小沼少将は、ガダルカナルの戦いが、手の施しようが無いとわかった段階で日本に帰国している。
ガダルカナル島では兵士たちの多くは戦死より餓死したのだが・・・彼は餓死することなく生き残った。
エリートと呼ばれる連中は、所詮、そんなものである。

その小沼少将が今度はフィリピンへ来て作戦の指揮を取った・・・
「全滅するまで後退するな」という彼のやり方に祖父は逆らったことになる。(苦笑)
本来の目的は、米軍の進撃を少しでも遅らせることである。
600名の兵力で敵の1個師団に勝てるわけがない。
勝てないまでも敵の進撃を遅延させれば、目的は達成したことになる。
いかに時間稼ぎをするか・・・
その具体的な戦い方は現地に任せてもらいたい・・・ということだろう。
現地の状況を知らぬ安全な場所にいるエリート参謀にとやかく言われたくはない・・・と思ったのではなかろうか?
(拙者なら、そう思う・・・)
エリートは教科書通りの作戦しか立てないが、それで勝てる相手じゃない・・・
現地の状況に合わせて臨機応変に作戦を立てるのが、本来の“作戦”ではあるまいか?

敵の進撃を遅らせる時間稼ぎをするにはこの手しかない・・・拙者もそう思うのである。
祖父の部隊が200名にまで減ったことに驚いた小沼少将は、当時、戦車を失い歩兵化していた戦車第2師団を祖父の部隊の後方、「サラクサク峠」に向かわせ陣地構築に当らせる。
その間、祖父は更に時間稼ぎの戦いをすることになる。
「サラクサク峠」まで直線コースで15km程度のところを2週間近くかけてジワジワと後退しながら米軍の進撃を遅らせた。
「サラクサク峠」に到着した時には兵力は80名にまで減少していたという。

この当時、避難路を北上する兵士の間では、祖父の名前はよく知られていたようである。
「今、鈴木部隊が米軍を食い止めてるから、今のうちに早くここを通過しろ」と言われたことを覚えていると言ってくれた生還者がいた。
「あんたのおじいさんには会った事はないが、“鈴木部隊”というのは覚えている。あんたのおじいさんのおかげで生きて帰ってこれた。そういう意味では恩がある」と言ってくれた人もいた。

祖父が偉いのではない・・・
祖父の指揮下で砲撃に叩かれながらも時間稼ぎの戦いをおこなった部下たちが偉いのである。
よく逃げ出さなかったものだと感心する。
よくぞ戦ったと褒めてやりたい・・・
そして・・・500名もの兵士がここから「サラクサク峠」に向かうまでの山中に眠っているのである。
お線香の煙をなびかせながら、この山中をズ~ッと歩いて慰霊してあげたいのだが、いい現地ガイドが見つからないでいる。
それよりも、直線コースで15kmとなると、クネクネと曲がった“けもの道”であるから、実際には倍の30kmくらいは歩かねばならないだろう・・・
山道を30kmも歩き続けることができるだろうか?(大汗)
う~ん・・・体力に自信がない・・・・情けないことに・・・・
もっと若かったらなぁ~(大涙)
夢は夢だけで終わってしまうか・・・

この場所での戦史について“デグチ支局長”に解説・・・・
時刻はまもなく12時になる・・・そろそろ昼飯を食べねば・・・(笑)

「また、あの吊橋を渡って帰るのかぁ~怖くて嫌なんだけどなぁ~」と言ったら・・・
「川を歩いて渡れるんじゃないですか?水が無いですから・・・」と支局長・・・
ん?・・・あれ?・・・・そう言われれば、そうだ・・・(苦笑)
川は干上がり、水は流れていないのである・・・
なんで気が付かなかったんだろうねぇ~(大笑)
バカ丸出しである。

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旅行 | 11:32:57 | Comments(0)
「サンニコラス」へ行く
いつも日本では親父と早朝に散歩をしている・・・
そのせいか、フィリピンに来ても早起きしてしまった!(笑)
午前5時過ぎには目が覚めた・・・(大笑)

で・・・部屋から見た外の景色・・・
う~ん・・・・面白くない景色である。(大笑)

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朝食は午前6時半からだというので、オープンと同時にレストランへ・・・

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レストランから見た景色・・・
う~ん・・・こういう景色・・・嫌いではない・・・(笑)

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午前8時、“ステラさん”、“デグチ”支局長が迎えにきてくれて、共同通信の車で、イザ出発!
パンガシナン州の「サンニコラス」に向かう・・・

029_convert_20150721142138.jpg (ホテルの前の様子)

マニラを出発して北上すること約3時間後・・・
「サンニコラス」に到着した。
ここには戦時中の昭和20年2月頃に祖父の部隊の本部が置かれていた場所である。
たぶん、町役場がある中央公園あたりに本部があったのではないかと思うが、正確な場所は拙者は知らない。(涙)
昭和20年1月、「アイ・シャル・リターン」を合言葉にマッカーサーが率いる米軍がルソン島西部の海岸に上陸した。
本格的な米軍の反攻である。
米軍はいくつかのルートに分かれて進撃・・・
そのひとつが西海岸から真っ直ぐルソン島を横断するルートで進撃してきた米第32歩兵師団である。
祖父の連隊は、マニラから北上する避難ルートを米軍に寸断されないために、ここで米軍の進撃を食い止める任務を与えられたのである。

「サンニコラス」の中央公園の片隅に米軍の記念碑があったはずだが・・・と探してみたら・・・
あら・・・なんとドカンと鎮座ましましていた・・・(唖然)

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(碑文)
ERECTED BY THE OFFICERS AND MEN OF THE 32d INFANTRY DIVISION
UNITED STATES OF ARMY IN MEMORY OF THEIR GALLANT COMRADES
WHO WERE KILLED ALONG THE VILLA VERDE TRAIL
JANUARY 30, 1945 - MAY 28, 1945

以前に訪問した時は、草むらの中に朽ち果てていたような記念碑だったが、いつの間にか新しく作り直されて、周辺も綺麗に整備されていたのには驚いた。
米第32歩兵師団の“戦友会”がやったのかな?
この記念碑であるが、形は「赤い矢」を模している。
これは米第32歩兵師団が別名(ニックネーム?)「レッド・アロー(赤い矢)」なので、その師団のマークをデザインしたものである。
碑文に書かれている「VILLA VERDE TRAIL」は日本語では「ビリヤ・ベルデ道」と言っているが、日本軍は「サラクサク道」と呼んだ場所のことで、我が祖父の連隊と、祖父を応援に駆けつけた戦車第2師団の戦場となった地域のことを指す。
米軍は1945年1月28日から1945年5月28日まで、ここで戦闘したとしている。

この米軍の記念碑の道を挟んだ反対側に高校がある。
その名も「レッド・アロー高校」!!(驚)
米軍の師団名から名付けられたということは、“戦友会”が寄付でもして作った高校なのだろうか?
う~ん・・・ちょっと悔しいなぁ・・・(苦笑)

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(レッド・アロー高校)

041_convert_20150722222242.jpg (町役場の前の道)

この道を写真の手前から向うに向かって車で10分ほど走ると「カバリシアン川」にぶつかる。
この「サンニコラス」には祖父の捜索第10連隊の連隊本部が置かれ、他の分派された小部隊も駐屯していた。
ルソン島に上陸した米軍に対し、戦車第7連隊などが反撃をしたが、第14方面軍のお粗末な作戦のおかげで壊滅・・・
これは方面軍参謀達の稚拙な作戦のせいである。
だから、拙者はテストの成績が良いというだけで「エリート」と呼ばれる連中が好きではない。
そういう連中に限って、「まともな」ことが出来ない。
日本が戦争に負けたのは、彼ら参謀達の出来の悪さのせいだとすら思っている。
米軍に返り討ちに遭い、辛うじて生き残った敗残兵は、ここ「サンニコラス」まで撤退して収容され、さらに後方へ送られた。
同時に、ここへ米軍が進撃してくるのは明白となり、各部隊は一斉に退却・・・
ここに連隊本部を設置していた祖父も、「カバリシアン川」の対岸に構築していた“抵抗陣地”の線まで移動したのである。

次に「カバリシアン川」の“抵抗陣地”に向かう・・・・

旅行 | 10:28:30 | Comments(0)