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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「ダガミ」と「ビリヤバ」、「カンギポット」
「ブラウエン」を出発して、「ダガミ」に向かう途中・・・
多分、出発して10分程度走った程度だと思うが、日本の慰霊碑がある場所へ到着・・・
一瞬、この時は気がつかなかったのだが・・・
あれ?・・・ここには以前来たことがある・・・・
あまりの景色の違いにビックリした・・・

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10年前に来た時は、椰子の林の中に建っていたのである。

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(10年前)

台風で椰子の木が全部倒れちゃったのかな?

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平和の塔

This is memorial of all country where soldiers dead on these field during the world war Ⅱ
erected by the Japanese memorial Service

こゝは太平洋戦争に於て、比、日米の多くの戦士達が祖国の為に、激しい攻防戦の中で無残に散り果てた痛恨の地である。
人類が再びあの愚かにして悲惨な殺戮を繰返さぬ為に、不戦の誓いをこめて、■魂の誠を捧げると共に、悠久の平和を祈念してこの塔を建立するものである。

1977年7月建立
京都 比島桃陵遺族会
    垣兵団生還者

(碑文より)



碑文にある「垣兵団」というのは、京都で編成された第16師団のことである。
昭和16年の開戦直前まで、拙者の祖父はこの師団の副官を務めていた。
そういう意味では、第16師団は縁のある部隊である。

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「平和の塔」の道路を挟んだ向こう側に山が見えるが・・・
あの辺りに一時期、第16師団司令部が置かれていたと思う。

午前9時半、「ダガミ」の慰霊碑のある場所に到着!
ここにも10年前に来たことがあるが・・・
あらぁ~綺麗になっちゃって!・・・驚きである。

155_convert_20150830134037.jpg (現在)
PICT4807_convert_20150830134322.jpg (10年前)

慰霊碑は、この建物の裏にある・・・
位置は昔と変わっていないが、雑草に覆われ、ゴミ捨て場になっていた・・・(唖然)
黄色の建物は、どうやら警官の宿舎のようで、我々の後にくっ付いて警官たちが集まってきた。(笑)
「マズイところを見られちゃったなぁ~」という雰囲気・・・・
数名の警官が、我々と一緒になって雑草やゴミを取り除いてくれた。
予算が付けば、慰霊碑の周辺は整備して綺麗にします・・・とか、なんとか言い訳を言っていたが・・・どうなりますか・・・(大笑)

154_convert_20150830135436.jpg (現在)
PICT4805_convert_20150830135803.jpg (10年前)

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英霊碑
京都第二次比島方面慰霊団

This is a memorial of all country unknown soldiers died on these field during the World War Ⅱ
erected by The Japanese memorial service tour.

(碑文より)



次にどこに向かうのか、拙者は知らないが・・・・(笑)
「パロ」の町を通過する・・・・
向うに見える山が、日本軍が「十字架山」と呼んだ山・・・
頂上に十字架が建っているから、そう呼んでいたようである。
米軍は「522高地」と呼んでいる。

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山の向こう側の麓に日本の慰霊碑があって、そこを10年前にお参りした。
山の頂上に日本軍の陣地跡が残っているらしいが、頂上まで登った事はない。
ここで歩兵第33連隊の鈴木辰之助連隊長が戦死している。
で・・・
ここに向かうのかなと思ったら素通り・・・(唖然)
え?・・・行かないの?(苦笑)

バスは30分以上も走り続ける・・・
途中でスコールに遭う・・・
外の景色が見えないので・・・寝る!(笑)

で・・・到着したのは・・・レイテ島とサマール島を結ぶ橋・・・(汗)

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この橋は、戦後賠償ということで日本が架けた橋だそうである。
橋の上に大型観光バスを停め、急いで写真撮影をするのだそうだ・・・(汗)
で・・・・向うに見えるのは・・・サマール島?それともレイテ島?
ついさっきまで寝ていて説明を聞いていなかったのでわからない・・・(大笑)

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サマール島の「戦跡」でも見るのかと思ったら、ただこの橋を見るだけで戻るとのこと・・・(大汗)
この橋を見るだけの為に延々と走ったのか?(唖然)

時刻は11時を過ぎた・・・昼食会場に向かう・・・

166_convert_20150830152643.jpg (中華の昼食)

昼食を終え、次に「リモン」方面へ向かっていると思うのだが・・・
地図等の資料はないので、どこをどう走っているのかわからない・・・(笑)
しかも、頼りのタブレットのGPSは携帯電話の電波が入らず、現在地も地図も表示できない!(涙)
今回のレイテ島では、タブレットはただの「お荷物」と化した・・・(苦笑)

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移動途中で見た橋・・・・
台風の被害がまだ残っている・・・
バスは仮設の橋ではなく、そのまま川の浅瀬を渡る・・・(驚)
今は乾季だから川の水も少なくていいが、雨季になったら、こんな渡り方は出来まい。
雨季に入る前に橋を架け直さないと大変なことになると思うのだが・・・
どうも、まだ架け替え工事に着手していないみたい・・・(汗)
俺・・・しらねぇよ・・・(苦笑)

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場所によっては、今もって路肩が崩れたままになっている場所もあった・・・(汗)

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午後3時・・・・「工兵の碑」に到着。
ここにも10年前に来たが、ここは当時と殆ど変わっていなかった・・・(笑)

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鎮魂

1944年此の峠で工兵第一連隊及師団防疫給水部が奮戦し大半の将兵が戦没した
英霊よ安らかに眠り給え
祖国の平和に御加護あらんことを
合掌

1983年8月

(碑文より)



次に向かったのは・・・「ビリヤバ」・・・・
ここは日本の第68旅団(通称:星兵団)が米軍と戦った場所である。

「ビリヤバ」には10年前に来たことがあるが、ここは初めてである。
「日比合同慰霊碑」なんていうものが、あったのか・・・
あの時は、ウロウロ走り回って、ようやく見つけたのが・・・「フィリピンゲリラの慰霊碑」!(大笑)
日本兵の慰霊をするつもりが、フィリピンゲリラの慰霊になった・・・(苦笑)

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日比合同慰霊碑の由来

第二次世界大戦におけるレイテ戦は、比類無き激戦であり、日比双方の兵士は大儀のため身を挺し、多くの犠牲者をだしました。
西海岸山岳周辺の日本軍兵士は、弾尽き、食無く、病魔に倒れ、ひたすら望郷思念に、待つものは死以外のものはありませんでした。
この慰霊碑は多くの諸霊の冥福を祈るとともに、再びこの非を繰り返さないことを誓って、当会会長永田勝美さんと、かつて敵と味方で戦った、当地戦友会の方々が協力し、多くの遺族や戦友の方々の浄財によって1995年7月に建設されたものです。

管理 佐賀県・・・・(以下:略)
    NPO法人 戦没者追悼と平和の会
    電話・・・(以下:略)
    E-mail:・・・・(以下:略)

(設置説明板より)



日本のNPO法人が建立した「慰霊碑」だそうである。
で・・・ひと言・・・・
説明文の中の「大儀のために」の「大儀」は誤字だと思う・・・
「大儀」では「おっくうだ、面倒くさい」という意味になってしまうと思う。(苦笑)
「おっくうだ」・・・ではマズイでしょ?(苦笑)
正しくは「大義」だと思う。
ついでに、住所・電話番号、メールアドレスは、拙者の独断で省略しました。
あとで、何か迷惑をかけたら大変ですから・・・(苦笑)

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日比合同慰霊碑建立の由来

緑豊かで静寂なレイテ島、このレイテ島は1944年10月20日、アメリカ軍の上陸作戦開始と共に、日米決戦の激戦地となり1945年8月の終戦まで修羅の島と化し、日本軍将兵八万人とレイテ島の住民に多大なる犠牲者を生み、太平洋戦争の中でも有数の悲劇の地となりました。
1994年の秋に、レイテ島在郷軍人会の皆様と相談して、戦後50年を契機に日比両国戦争犠牲者の鎮魂と永遠の平和を誓う記念碑建立の運びとなりました。
建立にさいしては、遺族、戦友のご支援とレイテ島住民の暖かいご理解とご支援により、ここバリティの丘に日比両国の戦争犠牲者慰霊碑を建立し、日比両国の永遠の信頼と友情の絆となり、日比両国の友好を確立し、両国の繁栄と幸福を祈ってやみません。

1995年7月1日
日比合同慰霊碑建設委員会一同
顧問 元日本国内閣総理大臣 中曾根康弘

(展示パネルより)



これが「合同慰霊碑」らしい・・・
あまりのシンプルさに皆さん唖然・・・(笑)
まるで「給水タンク」に慰霊碑のプレートを貼っただけのように見えてしまうんですけど・・・(汗)

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ツアーの女性参加者から「トイレに行きたいんですけど・・・」と声をかけられた。(汗)
なんで、拙者に尋ねるのか理由がわからんが・・・(笑)
探してみたら、裏のほうに、トイレらしきものがあったが、廃墟のようになっていて使用できない状態・・・(大汗)
ガイドに、トイレに行きたい人がいる旨を伝えて・・・
ここに来る途中、海岸に、公衆トイレのような建物がバスから見えたので、あれがトイレならあそこがいいのではと言ったら・・・
「そう、あれはトイレです。あそこにしましょう」とガイド・・・
で・・・帰りにそこに立ち寄ると思ったら・・・全然違う場所にバスを止めた・・・(唖然)
「はい!ここでトイレ休憩をします!」
え?・・・・話が違うんじゃないの?(唖然)

そこは、小さなドライブインのような場所・・・・
ガソリンスタンドと売店が建ち並ぶ・・・
そこのトイレを使ってくれとのことだが、なんと・・・使えないシロモノだった・・・
“ウンチ”が便器にタップリと溜まっているのである!!(驚)
ガイドに店員の言うことを通訳してもらったら、水不足のため流せない・・・という。(唖然)
「使えませんか?だめですか?」とガイド・・・
あのね・・・もう少しまともなトイレがある場所を知らないのか?(怒)
我慢にも限界があるから・・・(笑)・・・これから再びトイレ探しをするわけにもいかぬ・・・
とにかく、、皆さんに先に使ってもらい・・・
最後に拙者が使うことにした・・・(涙)
更に“こんもり”とウンチが溜まっている・・・(大泣)
ゲゲッ・・・オエェ~・・・・である。

どうも、ここはガイドの知り合いの場所のようである・・・
“顔を売る”か・・・“恩を売る”ために、ここに我々を連れて来たのだろう。
「お客をつれて来てやったよ」・・・・ということなのだろう・・・
ツアー客がお店で何か買物をすれば、バックマージンが入るのかもしれない・・・
過去に何度か慰霊団に参加したことがあるが、フィリピン人の女性ガイドは、よくこういうことをする。
ツアー参加者のことより自分の都合を優先することがよくあるのだ・・・(怒)

いずれにせよ、レイテ島のトイレ事情はあまり良くないことは確かなようだ。

レイテ島を走り回っているときに、別のトイレにも行った。
ガイドが「有料のトイレですが、いいですか?」とガイドが言う。
有料なら、さぞかし綺麗なトイレだろうと思ったら・・・大間違い・・・
小さな小屋のトイレ・・・
電球が切れていて電気はつかない、便器は汚い、ドアの鍵はかからない・・・
これで有料なのかよ!(怒)
「みなさん、ちゃんとお金を払ってください!払いましたか?」とガイド・・・
このトイレの持ち主は彼女の“友だち”だそうである。
つまり、このトイレの持ち主の小遣い稼ぎにガイドが協力してやっただけのことである。(怒)
我々男はいいが・・・女性は、このトイレではキツイかっただろうなぁ~

実は、拙者の戦友会の会員の中で、お父さんがレイテで戦死された方がいる。
いつか現地に慰霊に行ってみたいと仰っていたので、実は、今回のツアーの参加は、この下見も兼ねての事・・・
機会があれば拙者が案内してあげようと思っているのだが・・・
遺族は女性なので・・・このトイレ事情には参った・・・
もう少しまともなトイレがある場所を調べておかねば、安心して案内も出来やしない・・・(涙)

おかげで・・・トイレに関しては、全く参考にならないツアーとなる・・・(苦笑)

午後4時半過ぎ・・・・
「カンギポット」の慰霊場に到着・・・・
ここは「カンギポット山」がよく見える場所で、ここに「慰霊場」を作り、慰霊碑や卒塔婆が建てられていた。
が・・・見るも無残・・・今は何も残っていない・・・・(唖然)
台風で完全に破壊されてしまったようである。

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ここにも10年前に来たことがあるが・・・
記憶の中の景色と全く違っているので、本当にここなのか?・・・と、とても信じられない・・・(唖然)

PICT4742_convert_20150831131829.jpg PICT4740_convert_20150831131744.jpg
(10年前)

レイテ島で戦っていた日本軍は、米軍の猛攻に追われ、最終的に、このカンギポット山に籠もって抗戦したという。
一部の将兵は隣りのセブ島へ脱出したようだが、その数は少ない・・・
カンギポット山に立て籠もった将兵は、その後、壊滅・・・・
一人も生還しなかったという話を聞いたことがあるが・・・本当かどうかは知らない・・・
その最期の様子を書き残すような生還者がいなかったことは確かなようで、このため最期の様子はよくわからない。
いずれにせよ、病死、餓死で玉砕したのだろうということになっている。

203_convert_20150831133057.jpg (カンギポット山)
PICT4736_convert_20150831131949.jpg (10年前)

たまたま、10年前とほぼ同じ場所から写真を撮ったようで・・・・
比較してみたら、ほぼ同じく見えるから、この場所で間違いないと思うが・・・・
いやはや・・・この荒れようには驚いた。
その後、「慰霊場」は復興されないようで・・・
どうも土地の持ち主と揉めているというような噂を聞いたが、どうなんだろう?
10年前に来た時は、ここに民家があって、目つきの悪い連中が住んでいたから、そういう噂が出ても不思議ではない気がする。
その家も、今は消滅している・・・

時刻は午後5時を過ぎた・・・
今日の戦跡めぐりは、これで終了し、今晩の宿泊場所のある「オルモック」へ向かう。

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「オルモック」も2年前の台風で大被害を被ったはずだが・・・
一見すると、全く傷跡が残っていないような感じである。
都市機能は復旧しているように思える。

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午後6時・・・「オルモック」の港近くのレストランで夕食・・・・
改装したのか、新しく建てたのか・・・綺麗なレストランである。

午後7時45分・・・すぐ近くにあるホテルにチェックイン・・・
ここもまた、綺麗なホテルである。

214_convert_20150831142437.jpg (ホテルのロビー)

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かなり綺麗なホテルであるが・・・・
台風の直撃を受けたときは、3階建てのうち2階まで高波(津波?)が押し寄せてメチャクチャになったとホテルのボーイ・・・・
拙者の部屋は2階にあるが、2階まで波にぶち抜かれたという割には、結構、綺麗に修復されている。
ホォ~・・・・大したものだ・・・
このホテルなら、ご遺族を案内して宿泊してもいいかも・・・(笑)

ボーイにマッサージが呼べるかどうか尋ねたら呼べると言うのでお願する。
やってきたマッサージ師・・・・オバチャンなのだが、やたらと明るい性格・・・(大笑)
英語は拙者と同じくらいの片言英語なので、会話はいつの間にかビサヤ語になってしまうのが玉に瑕・・・(笑)
こちらはビサヤ語だろうがタガログ語だろうが、フィリピンの言葉は全くわからない。(大笑)
話によると、セブ島から出稼ぎに来ているらしい。
で・・・拙者を揉みながらケラケラ笑いながらビサヤ語で話しかけてくる・・・
あのね・・・何言ってるかわからないんですけど・・・・(汗)
「なんで笑ってるの?」
「×○■△※・・・」(大笑)
「へ?・・・何よ?・・・何?」
こちらも仕方がない、ビサヤ語でやられたときは日本語で返す・・・(大笑)
すると、また彼女は大笑い・・・・
おい、おい、英語に切り替えろって・・・(大汗)
しかし、気のいい楽しいオバチャンだった・・・・

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旅行 | 14:39:12 | Comments(0)
「ドラグ」と「ブラウエン」
次に向かったのは「ドラグ」という場所・・・

途中で見かけた家・・・
バスの中から撮影したので、うまく撮れなかったが・・・(苦笑)

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レイテ島は、2年前の台風のおかげで大被害を受けたが・・・
かなり復興が進んでいるようである。
屋根が飛ばされる被害が多いので、フィリピン政府は屋根に使用するトタン板を無償で支給したという。
というわけで・・・この家の屋根もピカピカ!
どの家も・・・こう言っては失礼だが、物置小屋に近いオンボロ住宅でも・・・屋根だけは銀色にピカピカに輝いているのである!(笑)
これに太陽の日差しが当たるから眩しいほどの輝きを放つ・・・
ちょっと周囲の景色にそぐわない感じだが・・・・(苦笑)
フィリピン人の逞しさを感じる・・・
あ~頑張ってるなぁ~と思うのである。
どこかの国(どこかの県人?)のように補償金だか補助金をもらってパチンコ屋に通うような連中とは出来が違うかも・・・(大笑)

午前8時半・・・「ドラグ」の「HILL120(120高地)」に到着!
10年前に、ここに一人で来たことがある、懐かしい場所・・・

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丘の麓に真新しい看板が・・・
おお!なんとわかり易い標識か・・・
「津波の避難場所の指定」をしているようだ。

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10年前に来た時は、このような碑はなかったと思うが・・・
米軍の記念碑らしい・・・


ATOP THE HEIGHT OF THIS HILL 120, BLUE BEACH, DULAG, LEYTE, PHILIPPINES AT 1042 A.M. 20 OCTORBER 1944, ONLY 42 MINUTES HAD ELAPSED SINCE THE FIRST ASSAULT TROOPS OF THE 3RD BN 382D INFANTRY , 96TH DIVISION OF THE AMERICAN FORCES OF LIBERATION HAD LANDED 1ST LT. CLIFFORD W. MILLS RAISED THE AMERICAN FLAG IN PHILIPPINES SOIL AFTER IT HAD BEEN LOWERED AT BATAAN ON 9 APRIL 1942 FLOATING HIGH AND PROUD WAS TANGIBLE PROOF THAT THE AMERICANS HAD MADE GOOD THEIR PROMISE TO THE FILIPINOS.

(碑文より)



この「HILL 120(120高地)」の麓に日本の慰霊碑がある。
10年前と変わらず綺麗なまま建っている。
いや、以前より綺麗になっているかも・・・(笑)

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レイテイ島 戦歿者慰霊碑

7-5-37
比島に眠る
  勇者たちに捧ぐ

平成16年3月15日
7-3-37
秋田市山王 佐々木辰雄
秋田市川尻 川村 暢



「レイテイ島」という表記が気になるところですが・・・(笑)
この地区では、京都の第16師団・歩兵第20連隊第3大隊が米軍と戦い全滅したという。
この碑を建立した方は秋田の人で京都の人ではない・・・
部隊名も何も書かれていないので、わからないが・・・秋田の部隊もここにいたのか?
建立者は遺族なのだろうか?
どういう関係の慰霊碑なのかよくわからない・・・
台座の部分に英文の碑文が嵌め込まれていた。


-CENOTAPH-
DEDICATED TO CONSOLE ALL SOULS OF FILIPINOS, JAPANESE AND AMERICAN WHO PASSED AWAY IN LEYTE DURING WORLD WAR Ⅱ.
SWORN THAT THE SAME TRAGEDY AND MISTAKE SHOULD NEVER BE REPEATED.
PRAYER FOR THE TRUE WORLD PEACE AND FRIENDSHIP FOREVER.
THE GENEROUS ARRANGEMENT AND THE PERMISSION BY HON. MAYOR MANUEL "BOY" SIA OUE DULAG, LEYTE, PHILIPPINES ARE SINCERELY APPRECIATED.
JANUARY 08, 2003
CONTRIBUTED BY:
MR. SASAKI TATSUO AKITA CITY JAPAN
MR.NAGAMINE KATSURO NAGANO KEN



こちらの英文のほうには「勇者たち」などという文字はない・・・(汗)
とにかく「過ちは繰り返しませぬ」・・・という言い方である。
まぁ、こう言っては失礼かもしれないが、妥当な“二枚舌”である。
この碑文の寄贈者2名のうち一人は長野県の人・・・
これまた、京都の人ではない・・・
英文のほうは平成15年、慰霊碑のほうは平成16年と、作られた年が違うので、以前は別の碑が建っていたのかも。
いずれにせよ、中心人物は、どちらにも名前が刻まれている秋田の方のようだ・・・

10年前に、ここに来た時に、偶然、「マニラ新聞」の記者と出会った。
彼も慰霊碑を訪ね歩いていた。
どうしても位置がわからない慰霊碑があるので教えてくれと頼まれ、教えてあげたのだが・・・
後でわかったのだが、日本政府からの依頼で慰霊碑の撤去の為の調査をしていたらしい。
教えて失敗したぁ~と後悔した・・・(笑)
その後、彼は新聞社を辞めているようだが・・・今はどうしているのだろう?

ここに10分程度いて・・・次に向かう・・・・

その途中で、日本軍人の慰霊碑がある場所に立ち寄る。
ちょうど我々が通る道路の側に建っていた・・・
ここの地名は、拙者は知らない。
こういう慰霊碑があることも今回初めて知った。

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「CAPT, ISAO YAMAZOE SHRINE」と書かれている鳥居・・・
ヤマゾエ・イサオ大尉の廟・・・ということらしい。


記念碑
第2次大戦の傷跡が今なお残り住民の反日感情も根強いレイテ島ドラグ市を日本軍が占領中に公平で友好的な態度を貫き市民の信望を集めた日本兵山添勇夫陸軍大尉並びに勇士達の遺徳を偲び記念碑を地元の人々の手で建立された
1943年4月18日この地点で戦死された

出身地 京都府与謝郡岩滝町石田

寄贈者 坂本■計
      河野アメリア



碑文によれば、山添大尉は、ここで戦死されたそうだが、昭和18年のことらしい・・・
米軍がレイテ島に上陸したのは昭和19年である。
米軍が来る前に、ここで戦死したのか?
フィリピンゲリラに殺されたのか?
それにしても、地元のフィリピン人が「記念碑」を建てたというのには驚いた。
添乗員の“アサダさん”は、以前にもこの地を訪れたそうだが、その時より碑が立派になっているとか・・・

115_convert_20150827221518.jpg (山添大尉)

次に向かったのは、「ブラウエン」・・・・
ここは平坦な場所で、飛行場があった。
この飛行場の争奪戦が行なわれた激戦地である。
「ブラウエン北飛行場」があった場所にある慰霊碑をお参りに行く・・・・

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あれ?・・・この場所には、10年前に来たことがあるような気がする・・・
周囲の景色が、少々変わっているが・・・(10年も経っているんだから当然だ・・・・笑)

128_convert_20150827231142.jpg (現在)
PICT4819_convert_20150827230115.jpg (10年前)

電信柱と街灯の位置関係から、やっぱり、10年前に来たのはここだよなぁ~(苦笑)

その時に、ここにあった慰霊碑は高千穂空挺隊の供養碑と大阪府遺族会が建立した慰霊碑・・・
風の便りでは、撤去されたと聞いていたので、今は更地になってしまっていると思っていたのだが・・・
これらの慰霊碑は撤去され、今は静岡県関係の「平和之碑」が新たに建立されていた。

PICT4813_convert_20150828133813.jpg(10年前)
125_convert_20150828135256.jpg(現在)


平和之碑
静岡県知事 石川嘉延

日比両国の永遠の平和と繁栄を祈念し建之

戦後60年 2006年1月
静岡県議会英霊にこたえる議員連盟

(碑文より)



どうも日本人というのは「平和」という言葉が好きなようで・・・(大笑)
平和!平和!平和!・・・・である。
正直言って、ここで何があったのか、どういう部隊が戦ったのか、どのくらいの戦死者が出たのか・・・
そういうことを記してもらいたいのだが・・・
当時の“ものさし”で計れば、「よく頑張りましたね。御苦労様です」ということになる。
これだけでは、「顕彰碑」になってしまうかもしれないが・・・(苦笑)
その次に、日本、米国、フィリピンの戦死者、犠牲者への追悼の言葉で、最後に「平和」を祈ることで「供養」「慰霊」ということになると思うのである。
いきなり「永遠の平和を!」って言われたんじゃ、戦没者は何のことやらわからないと思うんですけど・・・(大汗)
まぁ、「平和」と言っておけば無難だけど・・・・(大笑)

左の碑が「主碑」で・・・・
「右の碑は何だろう?」とツアー参加者・・・
慰霊団が来るたびに、ここにプレートを貼り付けているようである。
こういうやり方で、定期的にお参りに来ていますというのを残すのは良いことだと拙者は思う。

121_convert_20150828174246.jpg

時刻は午前8時半・・・・・
次に向かったのは、もう一つの「ブラウエン飛行場」跡・・・・
ブラウエンには3つの飛行場があったという。
多分、東にあった「サンパブロ飛行場」ではないかと思うが・・・
拙者は、ここは初めてである。
小学校の敷地内に碑があるとのこと。

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この小学校の敷地内に「第114飛行場大隊終焉の地」の木柱が建っていた。
文字が消えかかっていて読みづらいが、平成13年に建立されたようである。
木製なので、そのうち文字も完全に消え、朽ち果てて消滅してしまうだろう。

129_convert_20150829102642.jpg 135_convert_20150829102940.jpg

「飛行場大隊」とは航空機の整備や補給、飛行場の警備を担当した陸軍の部隊である。
第114飛行場大隊は、満洲の牡丹江で昭和19年に編成され、フィリピンに派遣された部隊。
兵力は350名程度だったらしい。

138_convert_20150829105804.jpg 137_convert_20150829105546.jpg
(小学校の前の道)

どのあたりに飛行場があったのだろう?
もしかしたら、この直線の道が、当時の滑走路跡か?

校長先生など、先生方に挨拶し、ちょっと教室を見学させてもらう。(笑)
教室の中に生徒が一人だけいた・・・
ん?・・・・どういうことだ?(笑)
声をかけてみたら「今日は学校はお休みだ」と言う。
へ?・・・じゃぁ、なんで君はここにいるの?(大笑)
補習?(笑)
彼は、大人しく椅子に座ったまま、じっと黒板を見ていた・・・
わからん・・・さっぱり、わからん・・・(苦笑)
「ちょっと教室内を見せてね」と言ったら、頷いた・・・
口数の少ない子だが・・・まぁ、いきなり“外国人”に遭ったら、こういう対応になるよな・・・
拙者が彼の立場なら、教室から逃げ出すに違いない・・・(大笑)

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教室の壁には、ホセ・リサールの肖像画が貼られていた。
フィリピンの学校には、必ずホセ・リサールの銅像や肖像画がある。
日本で言えば・・・二宮金次郎に当たるか?
最近では、日本の小学校では二宮金次郎の銅像を見かけなくなったが・・・
ちょっと日本はフィリピンを見習うべきかも・・・(苦笑)
文科省が悪いのか、日教組が悪いのか・・・

なぜか、ここでの時間がやたらと長い・・・・
ガイドは校長先生たちとオシャベリしてるし・・・
他の参加者は、トイレを借りに行っているのか、なかなかバスに戻ってこない・・・

というわけで、バスのところに集まった子供達とオシャベリして時間を潰す・・・(笑)
やたらと積極的に声をかけてきた少年がいた。
ここの生徒だと言う・・・
で・・・向うのほうから、ちょっと太目のオバチャンが歩いた来た・・・(笑)
彼のお母さんだそうで、しかも、この小学校の先生だと言う。
なので・・・このお母さんに「グッドモーニング!」と挨拶したのだが・・・・
キッ!と自分の子供を睨んで校内に入っていった・・・(大汗)
かなりご機嫌斜めである・・・
何で?・・・・???
「もしかして・・・お前、何かしたんじゃないか?お母さんが怒っているようだけど・・・」
「ん?何もしていないよ」と少年はニヤニヤしている。(笑)
「いや、お前、何かしたろう?怒ってるもん!お母さん・・・・」
「いやぁ~・・・・」と、またもやニヤニヤ・・・
「あのね、この子は僕の妹!」と少年・・・
あっ・・・こいつ、話をそらしやがった!(大笑)
「お前、ちゃんと勉強しているの?」
「・・・・・」
周囲の子供達がヤンヤ、ヤンヤ・・・どうも、彼をからかったようである。(笑)
少年は、一瞬、ムッとして、周囲の子供達に何か言ったようだ・・・(笑)
「ちゃんと勉強しろよ」
「イエス・サー!」(ニコニコ・・・)
本当に、調子のいい奴だ・・・(苦笑)
日本でもフィリピンでも、どこの国でも・・・子供は可愛い・・・(笑)

このブラウエンには3つの飛行場があったらしいが、拙者が10年前に来た時に訪れた場所は、ここではない・・・
第26師団の卒塔婆などが建ち並ぶ場所に行ったのだが・・・・
あそこが「サンパブロ飛行場」跡だと思っていたのだが・・・
飛行場は広いからなぁ~
ここもサンパブロ・・・あそこもサンパブロだったのかも・・・(苦笑)
あれは、どの辺りだったろうか?
フィリピン人の女性ガイドに尋ねてみたが、よくわからないようで・・・
「たぶん、この近くだと思います」と言う。
「そこには行かないのか?」と尋ねたら「あ~あそこは台風で何もなくなってしまいました」と言う。(汗)
怪しい・・・どうも、その言い方は怪しい・・・(苦笑)
過去の経験から言うと、フィリピン人のガイド、特に女性のガイドというのはプライドが高いのか「知らない」とは滅多に言わない。
「知らない」と言う代わりに適当な理由をつけて平然と誤魔化したり嘘をつく・・・
「卒塔婆が建ち並んでいる場所」と言ったら首をかしげていたのだから、正確な場所を知らないのだと思う。
にもかかわらず、「何も無くなっっています」と言い切るというのはおかしいだろ?
「近いのなら、そこへ行く事はできないのか?何も無くてもいいから」と言ったら無視された・・・(唖然)
「さぁ、次に行きま~す!バスに乗ってください!」・・・である。
やっぱり、知らないんだ・・・
誤魔化したな・・・
これだからガイドといっても信用できないのである。(怒)
特に戦跡巡りの場合は・・・・
過去に何人かのガイドに会っているが、比較的、誤魔化しや嘘が少ないのは“ステラさん”なので、個人旅行の時は、必ず彼女をガイドとして使うことにしているのである。
他のガイドは、しょっちゅう適当に誤魔化して御茶を濁すから使えない・・・(苦笑)

旅行 | 10:30:47 | Comments(0)
レイテ島へ行く
午前2時起床!・・・午前3時に出発!(唖然)
今日から1泊2日でレイテ島に行く。
で・・・スーツケースは、このままホテルに置いて、着替えと身の回りのものだけを持参してくれとのこと。(唖然)
おい、おい、そういうことは、日本を出国する前に知らせてくれなくては・・・
こちらは、いつものようにスーツケースに小さなショルダーバッグなのである。
そうと知ってりゃ、小さなリュックか、大き目のショルダーバッグを持って来たのに・・・(怒)
この小さなショルダーバッグにどうやって着替えを入れようか・・・(唖然)
参ったなぁ~(涙)

なんとか必要最小限・・・「超」が付くほどの最小限のものをバッグになんとか詰め込み出発する。
朝食は、「お弁当」を持って、空港内で食べるのだそうだ。(汗)
このツアーは、いつもこんな調子・・・(大笑)
過去に何回も経験しているが・・・毎回、落ち着かない・・・

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空港は早朝だというのに大混雑・・・
フィリピン人というのは早起きなのか、それとも寝ないのか?(大笑)
とにかく、座って食べる場所を確保するのに苦労する。
「お弁当」の中身は、サンドイッチとバナナとスナック菓子とミネラルウォーター・・・
午前3時では、ちょっと食欲が湧かないが、無理して食べる。(苦笑)

午前4時35分発のフィリピン航空2981便でレイテ島のタクロバンに向かう。

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機内食は・・・クラッカー一袋だけ・・・(笑)

マニラから1時間半弱でレイテ島に到着する。
時刻は午前6時・・・・

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乗ってきた飛行機はプロペラ機・・・・
これがジェット機だったら、もっと早く着くんだろうが・・・・(笑)
それでは料金が高くなってしまうか・・・・
30分程度早くなっても意味はないか・・・
いずれにせよ、このレシプロエンジンの音が拙者は好きである。
飛行機に乗っている!・・・っていう感じがする。

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レイテ島は10年ぶり、2回目の訪問である!(喜)
で・・・・空港・・・・全然記憶にない・・・(苦笑)
本当に記憶力が悪いったらありゃしない・・・

空港の建物には「DANIEL Z. ROMUALDEZ AIRPORT」って書いてある・・・
あれ?・・・・「タクロバン空港」という名前ではないのか?
よくわからん・・・・

バスに乗り、最初に向かったのは「パロ海岸」・・・
反攻する米軍の上陸地点である。
時刻は午前6時半。

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MACARTHUR LANDING MEMORIAL
PARK
RED BEACH, PALO PROVINCE OF LEYTE

The
MACARTHUR LANDING MEMORIAL
built to commemorate the historic return of Gen. Douglas Macathur to Philippine shores on October 20, 1944, is a joint project of the Department of Tourism, the Philippine Tourism Authority, the Province of Leyte and the Bureau of Forest Development upon direction of President Ferdinand E. Marcos.

BENJAMIN ROMUALDEZ
Governor Province of Leyte

JOSE D. ASPIRAS
Secretary Department of Tourism

COL. RODOLFO A. CACDAC
Acting General Manager
Philippine Tourism Authority


This marker is dedicated to the men and women who fought for freedom and democracy on these shores 50 years ago.

It is a reminder to present and future generations to cherish the legasy of these patriots who paid the ultimate sacrifice in the name of peacee.

Let the memory of the scourge of war suffered by Filipino guerrillas, allied soldiers, Japanese and innocent civilians be a lesson of history.

Lest their heroism be in vain, let peoples of all nations strive to work together for peace and a better world.

FIDEL V. RAMOS
President
Republic of the Philippines

VICENTE J. CARLOS
Secretary
Department of Tourism.

Octorber 20, 1994
Palo, Leyte

(銘板より)



ここは、「マッカーサー・ランディング・メモリアル・パーク」と言うらしい。
「マッカーサー上陸記念公園」という意味だろう。
我が日本人にとっては、「上陸記念」なんて、とんでもない話しだ・・・(笑)
「パロのレッドビーチ」という言い方でで十分である。(大笑)
ここに、昭和19年10月20日にマッカーサーたちが上陸したシーンの銅像が建っている。
2年前の平成25年11月に、ここレイテ島は台風30号(フィリピン名は「ヨランダ」)の直撃を受けて大きな被害を受けた。
う~ん・・・この時にこの像は破壊されなかったのか?・・・(汗)
かなり頑丈なんだなぁ~・・・(残念)(苦笑)

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LEYTE LANDING

ON THIS SPOT, PALO, LEYTE, GENERAL DOUGLAS MACARTHUR RETURNED TO THE PHILIPPINES ON 20 OCTOBER 1944.
AND PERSONALLY LED THE SWIFT DRIVE AGAINST THE JAPANESE FORCES IN THE PHILIPPINES.
PRESIDENT SERGIO OSMENA AND SOME MEMBERS OF THE GORNERNMENT IN-EXILE ARRIVED WITH GENERAL MACARTHUR AND PROCEEDED TO REORGANIZE RESTORE AND ADMINISTER THE GOVERNMENT OF THE COMMONWEALTH OF THE PHILIPPINES.
DECLARED A NATIONAL HISTORICAL LANDMARK 2004.

(銘板より)


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(レッドビーチ)

向うのほうでカヌーを漕いでいる人がいたので・・・望遠で・・・パチリ!(笑)

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皆さんは、結構熱心に見学していたが・・・(何を見学していたのかは知らないが・・・笑)
拙者は、面白くないので・・・(笑)
近くにいた警察官たちとおしゃべり・・・(大笑)
ちょうど、その時、隊列を組んでタッタッタッと走っている連中が拙者の眼の前に来た。
ん?・・・フィリピン軍の早朝ジョギングか?(笑)
警察官に尋ねたら、彼らは警察学校の学生だと言う。
「へぇ~そうなんだ~」
「ところで、あんたは軍人か?」と尋ねられた。(大笑)
拙者は、よく軍人と間違えられる・・・(苦笑)
「いや、ミリタリー・ヒストリアンだ」と答えたら驚かれた上に敬礼までされてしまった。(苦笑)
そのせいなのか・・・
ジョギングの学生たちは拙者の前を通過する時に口々に「グッドモーニング・サー!!」と挨拶して通り過ぎる。
あら・・・こりゃイカン・・・(汗)
こちらも姿勢を正して「グッドモーニング!」と応える。(笑)

まもなく、ツアーの皆さんが戻ってきた・・・
「何してたんですか?」と聞かれたので「警官達とおしゃべりしていた」と答えたら少し呆れ顔・・・
さて・・・バスに乗りますか・・・
「それじゃ!行くね!」と警官達に別れの挨拶をしたら全員に敬礼されて見送られた!(笑)
仕方がない・・・こちらも答礼!(苦笑)
益々、ツアーの仲間から呆れた顔をされてしまった・・・(大笑)

旅行 | 09:46:54 | Comments(0)
やっぱりチャイナタウンに行くんだ・・・(笑)
時刻は午後5時・・・・
これから、どこへ行くのかと思ったら・・・
チャイナタウン!(笑)
やっぱり・・・(大汗)
評論家で作家の“ミヤザキさん”とジャーナリストの“タカヤマさん”、中国を専門としている大学教授の“ヒイズミさん”の「仲良し」3人が参加すると、なぜか、必ず「チャイナタウン」へ行く事になるのである。(大笑)
オーストラリアのツアーの時もそうだったし・・・
カンボジアとベトナムへのツアーの時もそうだったし・・・(苦笑)
中国に関する著書の多い“ミヤザキさん”が希望したに違いない・・・(大笑)
旧日本人街ではなく、わざわざ中国人街へ行くというのは、いかがなものかという気がするが・・・(笑)
まぁ・・・仕方がないか・・・(大笑)

059_convert_20150825133825.jpg (チャイナタウン)

う~ん・・・ここは「市場」なのだろうか?
路地にある店を見て歩く・・・・
それだけのことなのであるが・・・(苦笑)

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帰り道、小さな目立たない橋を渡る・・・
その橋のところに英語と中国語で書かれた説明板が建っていた。
この橋は、どうもフィリピンと中国の「友好の橋」らしい・・・・
いや、もしかしたら、中国系フィリピン人同士だけの「フレンドシップ」の橋かもしれない・・・(大笑)

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FILIPINO-CHINESE FRIENDSHIP BRIDGE

Her Excellency President Gloria Macapagal Arroyo proclaimed June 9 of every year as Filipino-Chinese Friendship Day by virture of Proclamation No. 148 during the 2nd Biennial Convention of the Chinese-Filipino Business Club, Inc. at the Ceremonial Hall, Malacanang Palace, Manila on January 24, 2002.
In commemoration of this historic event, thee Chinese-Filipinos Business Club, Inc., in sooperation with the Embassy of the people's Republic of China, Honorable Mayor Lito Atienza, the City Council of Manila, the chinatown Development Authority and the Manila Chinatown Barangay Organization, have renovated and renamed the Ongpin South Bridge to the Filipino-Chinese Friendship Bridge
This bridge shall symbolize the fruitful and enduring friendship linking the republic of the Philippines and the People's Republic of China.
June 09, 2002, City of Manila

Chinese-Filipino Business Club, Inc.

(説明板より)



066_convert_20150825171734.jpg (チャイナタウン)

フィリピンの中国人は、全人口の2%程度しかいないそうだが、政財界の有力者が多いのだそうだ。
というわけで・・・影響力はかなり大きいらしい。
フィリピンの日本人(もしくは日系フィリピン人)で、政財界の有力者になったという人はいるのだろうか?
そういうところは中国と日本の国民性の違いかも・・・
“国際化”と言う割には、“グローバル”なんて言う割には、日本人は全く「国際化」していないのではあるまいか?(苦笑)


このチャイナタウンで1時間も時間を潰した!(驚)
興味のない拙者には退屈な時間であったが・・・(笑)
まぁ、二度と来ることもないだろうから、いい経験だったかも・・・(苦笑)

マニラ市内に戻り、夕食・・・
向かったレストランは・・・・あれ?・・・
拙者が一人でマニラに滞在しているときに何回も来たことのあるお気に入りのレストラン・・・
なんという偶然か・・・(笑)
バイキング形式のレストランだが、「勝手知ったる他人の家」である・・・

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タバコが吸える場所は1箇所だけ・・・・
正面ドアの脇の灰皿がある場所だけ・・・
「勝手知ったる他人の家」だから・・・知っている・・・(大笑)
そこでタバコを吸い始めたら、店の外を横切った女の人が驚いた顔で叫んだ!(汗)
「あらぁ~久しぶり!」(笑)
これには、正面ドアのところにいたガードマンも苦笑い・・・
誰かと思ったら、スナックのママである・・・(大笑)
「マニラに来てたの?」
「今回はツアーでね・・・・」(大汗)
「なんでお店に来ない?暇だから今晩来て!」
「ダメ!」(大笑)

彼女からすればグッドタイミング・・・拙者にとってはバッドタイミングである・・・(大涙)
あと1分でも時間がずれていたら遭う事はなかったのに・・・(涙)
まさか、ここで遭うとはねぇ~(唖然)
昨年、6年ぶりぐらいで彼女のお店に行ったきり・・・1年も経つのに・・・
どうして拙者のことを覚えているのかねぇ~(大汗)
とにかく今回は飲みに行かない!(大笑)
なにせ、明日は午前2時起床、3時に出発なのである!(汗)
お酒なんか飲んだら寝坊してしまう。(大笑)
絶対お断りである。

午後8時、ホテルにチェックイン・・・
以前、このツアーに参加したときと同じホテル「JEN」である。
このホテルのいいところは・・・部屋でタバコが吸えること・・・(大笑)

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このホテル、タバコが吸えるし、部屋も広くて綺麗で、決して悪いホテルではない・・・(笑)
が・・・残念ながら立地場所がイマイチ・・・・
近くには昔は、レストランだったのか、飲み屋だったのか・・・という廃屋・・・
コンビにまでも遠いし・・・・
裏のほうは、「ここは貧民街か?」と思うようなトタン屋根の家がゴチャゴチャとしている。(苦笑)
対して、我が定宿のほうは、隣が両替所、その隣がコンビニ・・・・
道の向こうは中華レストランとファストフード店、交差点の向かい側はコーヒーショップ・・・
ホテルから歩いて1~2分ですべてが事足りる・・・
そうなると、部屋が古くても、タバコが吸えなくても・・・やっぱり今までの定宿のほうがいいかな・・・(苦笑)

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(部屋の窓から見た夜景・・・・)

旅行 | 16:28:29 | Comments(0)
マニラ市内観光
午後1時過ぎにマニラ空港に到着するが・・・・
健康チェックの「イエロー・カード」の提出場所が、なんと、飛行機を降りた空港の通路部分・・・
このため、他の飛行機からのお客も合流したので、通路は大混雑で動かない・・・(汗)
ただ、カードを提出するだけなのだが・・・
カードに記載漏れがあったのか、それともカード自体を無視して何も書かなかったのか・・・
そういう乗客がその場で記入をし始めたりするので、ますます混雑・・・
カードを受け取る職員の方も手際が悪い・・・
どうして、こういう場所で、こういうことをするのかねぇ~・・・(唖然)
国民性なのか、この手際の悪さにはイライラする・・・

ようやく空港から出て、迎えに来たバスに乗り、早速、市内観光となる。

最初に向かったのは「リサール公園」

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モニュメントは、スペイン統治時代に、ここで銃殺されたホセ・リサールの記念像。
この公園は、戦時中は確か「ルネタ広場」と呼ばれていたと思う。
米軍がマニラに進攻した時、この公園を中心として日米の攻防戦が繰り広げられた。
この公園は日本軍のタコツボと米軍の砲撃で出来た穴で、メチャクチャな状態だったという。
ここで1000人だか2000人だかの日本兵が戦死したという話を聞いた覚えがある。



JOSE RIZAL NATIONAL MONUMENT
(1913)

ACT No.243 GRANTED THE USE OF PUBLIC LAND IN LUNETA AS A SITE FOR THE JOSE RIZAL MONUMENT, 28 SEPTEMBER 1901.
THE MONUMENT, ENTITLED "MOTTO STELLA," WAS THE ENTRY OF SWISS SCULPTOR RICHARD KISSLING TO THE INTERNATIONAL DESIGN CONTEST FOR THE RIZAL MONUMENT, 1905-1907.
THE MONUMENT WAS CONSTRUCTED OF BRONZE AND GRANITE, 1912.
THE RIMAINS OF RIZAL WERE TRANSFERRED FROM BINONDO TO THE BASE OF THE MONUMENT, 30 DECEMBER 1912.
UNVEILED, 30 DECEMBER 1913.
DECLARED A NATIONAL MONUMENT, 15 APRIL 2013 AND NATIONAL CULTURAL TREASURE, 14 NOVEMBER 2013.

(解説碑・碑文)



バスを降りて暑い中・・・(苦笑)・・・公園の端でモニュメントをチラリと見て、再びバスに戻る。
相変わらず「物売り」がしつこい・・・

続いて「サンチャゴ要塞」に向かう。

敷地内で、どうも歴史的な建物らしきものを発見!(笑)
ここには何度も来ているが・・・今まで全然気がつかなかった・・・(大笑)
この建物は、1591年に建てられた倉庫らしい。

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ALMACENES REALES

The Almacenes Reales or Royal Warehouses were built in 1591 and used as storehouses for goods unloaded along Pasig River.
In 1690, new warehouses were built closer to the riverbank and continually renovated until its completion in 1739.
The former almacen remained in use until the building was renovated as soldiers' quarters after the 1863 earthquake.
The riverside section of the walls lasted until 1903 when American military engineers demolished the walls for river wharves.

(説明板より)



そして、もう一つ・・・銅像が・・・
これまた、いつここに作られたのか・・・(汗)

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左がオスメニア大統領で、右がマッカーサー・・・・
マッカーサーは「アイ・シャル・リターン」の言葉通り、フィリピン亡命政府のオスメニア大統領を伴ってフィリピンに上陸した。
というわけで、二人の銅像なのだろうが・・・
このベンチに座る二人の「距離」が微妙な感じ・・・
しかも、オスメニア大統領が何やら説教していて、マッカーサーがイジケテいるようにも見える・・・(大笑)

さらに進んで、サンチャゴ要塞の城門に到着・・・

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FORT SANTIAGO

One of the oldest fortifications in Manila.
Built in 1571, on the site of the native settlement of Raja Soliman.
First fort was a palisaded structure of logs and earth.
Destroyed in the Limahong attack in 1574.
Stone fort built between 1589 and 1592.
Damaged in the 1645 earthquake.
Repaired and strengthened from 1658 to 1663.
Became the headquarters of the British occupation army from 1762 to 1764.
Repaired and renovated in 1778.

Former headquarters of the Philippine Division of the U.S. Army.
Occupied by the Japanese military in 1942 where hundreds of civilians and guerillas were imprisoned, tortured and executed.
Destroyed in the Battle of Manila in 1945.

Used as depot of the U.S. Transportation Corps before turnover to the Philippine Government in 1946.
Declared Shrine of Freedom in 1950.
Restoration and maintenance of the fort began in 1951 under the National Park Development Committee.
Management was turnned over to the Intramuros Administration in 1992.

(説明板より)



この門を潜り、中庭に入ると、その隅のほうに「リサール記念館」がある。
何度か訪れたことがあるが・・・・
いつの間にか綺麗にリニューアルされていた!(驚)
写真撮影禁止なのが残念だが・・・
売店でリサールに関する本でも買おうかと思っていたのだが・・・
売店には誰もいない・・・
なんと、商売気のないことか・・・(唖然)
皆がサッサと行ってしまうので、残念ながら売り子を探すことも出来ず何も買えなかった・・・(涙)
こういう時は、団体行動は不便である・・・

バスに戻る途中・・・古い建物が・・・・

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説明板などはどこにも設置されていないが、この建物は戦時中のマニラ憲兵隊本部の建物である。

020_convert_20150822184424.jpg (観光用の馬車)

次に向かったのは、ユネスコの世界遺産に登録されている「サン・アグスチン教会」・・・
フィリピン最古の石造り、バロック様式の教会で、フィリピンで最初に世界遺産に登録されたそうである。
1606年に完成した教会とのことだから・・・日本でいうと慶長11年、関ヶ原の戦いも終わって落ち着いちゃった頃か?(笑)

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この教会には何度か訪れたことがあるのだが・・・あまり記憶に残っていない・・・(汗)
興味がないから・・・ねぇ・・・人間とは正直な生き物である。(大笑)
建物も、「バロック様式」って言ってもねぇ~
なんだか、面白みのないデザインなのである。(苦笑)

内部の見学・・・・
今回は、少しは真剣に見てみるか・・・(苦笑)

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029_convert_20150822195229.jpg (天井)

032_convert_20150822195322.jpg (祭壇から後ろを見る)

天井は凸凹に立体的な装飾がされているように見えるが、実は「騙し絵」で、実際は平らなのだとか・・・(汗)

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教会の内部は「博物館」にもなっている・・・

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2階へ向かう階段・・・この雰囲気は・・・好きである。(笑)

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高山右近が国外追放となり、ここマニラに来た時、この部屋に一時期住んでいた・・・というようなことをガイドが言っていたような気がするが・・・
相変わらず真剣に話を聞いていなかったので・・・確証はない・・・(大汗)

047_convert_20150822202701.jpg (教会の中庭)


SAN AUGSTIN CHURCHAND CONVENT

San Augstin Church is the oldest church in the philippines.
Known as the Church of Saint Paul, the first church of the Augustinian Order was built in 1571.
Destroyed by Chinese pirates in 1574.
Rebuilt a year later.
Venue of the First Dioceson Synod in 1581.
Burned in 1583.
Third church destroyed by fire in 1586.

Fourth church mede of stone was designed by Juan Macias and built from 1587 to 1604.
Looted during the British invasion 1■62.
Terms of surrender of Manila to the Americans were discussed in the vestry in 1898.

Damaged inthe Battle of Manila in 1945.
Repaired after the war.
Became the site of the first Philippine Plenary Council in 1953.
Declared a UNESCO World Heritage Site in 1994.

(説明板より)



教会の見学を終えて、外に出て迎えのバスが来るのを待つ・・・
その間、急いでタバコを吸う!(大笑)
今回も、喫煙者は、拙者と評論家で作家の“ミヤザキさん”の二人・・・(大笑)

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サン・アグスチン教会の道路を挟んだ反対側に洒落た建物が・・・
あら・・・こういう建物があったっけ?(苦笑)
以前は、車で教会に乗り付けていたので全然気がつかなかった・・・
やっぱり歩かないとダメだなぁ~
車なんかを横付けしてピンポイントで観光なんかしたのでは・・・
次回は、一人で、この辺りを歩いてみようかな・・・・

旅行 | 14:14:44 | Comments(0)
まさかのトラブル
今日から、フィリピンへ行く。
今回は、いつものツアー旅行・・・・
レイテ島とルソン島のバターン半島へ行く。

今回も、朝早い便のため、いつものように京成成田駅近くのホテルに前泊。
田舎からの参加だと(笑)、どうしても前泊、後泊が必要となる。
今回の「歴史ツアー」はレイテとバターン半島、コレヒドール島へ行く5泊6日の旅なのだが、これだと、前・後泊が必要となるので、拙者の場合は7泊8日の旅になってしまうのである。
当然、8日間も拙者が留守になるとなると・・・親父の顔が引きつる・・・(大笑)
「8日間?8日間も出かけるのか・・・」とブツブツ・・・(苦笑)
一人で留守番するのが耐えられないのだと言う。
ということで・・・仕方がない・・・少し縮めることにして・・・
今回は、出発は皆と一緒・・・コレヒドール島へは行かず皆さんと別れて、途中で帰国することにした。
早朝の便に乗れば、その日のうちには家に帰れるから・・・
前泊を含めても5泊6日に抑えることが出来る。
6日間の不在なら親父も我慢できるだろう・・・・(大笑)

午前7時半、成田空港集合・・・
今回も、常連さんが多いので、「お久しぶりです!」の挨拶・・・・
知った顔が多いというのは、楽しいものである。

Y氏も、その中のお一人・・・
以前、同じツアーで一緒だった。
ということで、一緒にチェックインすることにしたのだが・・・・
我々が利用するフィリピン航空のチェックインカウンターの前は、いつものように長蛇の列・・・・
順番が来るまで、オシャベリしていたら、S氏が妙なことを言った・・・
「このパスポートも、あとわずかで切れるんですよ」と言うのである。
有効期間の残りは3ヵ月あるかないか、だそうである。
「え?残りの有効期間が半年以上ないとダメなんじゃなかったでしたっけ?」
「そう?・・・だって、添乗員に確認したら大丈夫だって言ってたぞ」
「え?フィリピンは半年じゃなくて、3ヶ月でも大丈夫なのかな?」

順番が来て、二人でチェックインの手続き・・・
カウンターの職員というのは大したもので、ちゃんとパスポートの有効期間を確認するんですね。(大笑)
「これ・・・有効期間が足りませんけど・・・」
「ツアーだから大丈夫じゃないの?」とY氏・・・・
「申し訳ございませんが、搭乗はできません・・・」
あらら!やっぱり!
「そこを何とかならんかね?」とY氏も顔面蒼白で食い下がる。
この女子職員の話しだと、百歩譲って、出国したとしても間違いなくマニラで入国拒否をされて強制帰国(送還送還?)になるという・・・(大汗)
「強制帰国」の記録が残ったら、後々海外旅行の時にマズイんじゃあるまいか?
ここは引き下がったほうがいいだろう・・・

チェックインは拙者の分だけ・・・となる。
で・・・Y氏が添乗員に確認に行ったら、「え!まさか!」ということになった・・・
添乗員は「パスポートの有効期間は確認して置いてください」と言っておいたという・・・
Y氏は「確認したら、大丈夫って言ったよね?」と言う・・・
言った言わない、聞いた聞いていない・・・で、全く埒が明かない・・・
いずれにせよ、Y氏はそこそこの“高齢者”なので、聞き違い、勘違いをしたのだろうということになった。(汗)
結局、どう逆立ちしても出国は出来ないので・・・
Y氏はスーツケースを転がして帰宅・・・
後ろ姿を見送るが・・・こういうのはツライよなぁ~

拙者が個人でフィリピンに行く時にいつも利用する旅行社は、いつも出入国カードを事前に作成してくれて郵送してくれる。
あとは、拙者が署名すればいいという状態である。
これなら、旅行社側でもパスポートの有効期限は作成時点でわかるので、手の打ちようもあろうが・・・
このツアーは、出入国カードなどは、機内で配られたものに自分でその場で書かなくてはならない。
そうなると、パスポートの有効期限の確認は自己責任ということになる。
しかし・・・事前にパスポートのコピーを旅行社に送ってあるはずだから、旅行社でも気がつくと思うのだが・・・
全く旅行社側には否はないとは言い切れないような気がする。
参加を申し込んだ人のパスポートの有効期限ぐらいは確認するだろう・・・と思うのは甘いか?
そこまで親切なことはしないか?(苦笑)
Y氏とツアーの添乗員は知り合いなので、Y氏も安心して任せていたのだろう。
それにしても可哀想に・・・6日間、予定を空けて旅行に参加することにしたのに、即日帰宅とは・・・

本人もショックだろうが・・・一緒にいた拙者もショックである。(大汗)

ついつい、拙者も有効期限の残りを気にせず海外旅行を計画するところがある。
これは、大いに戒めねば・・・と改めて思う。

今回は添乗員を含め17名のツアーだが、そういうわけで、1名欠員し、16名となった・・・

午前9時半・・・フィリピン航空431便でマニラに向けて出発!

001_convert_20150820144757.jpg (機内食)

旅行 | 13:25:11 | Comments(0)
またまた留守になります!
ついこの間、フィリピンから帰国したばかりですが・・・(大笑)

再びフィリピンに行きますので、留守になります!(唖然?)

4月29日から5月3日まで、レイテ島とルソン島のバターン半島の戦跡を巡ってきます。

というわけで・・・

またまたブログはお休みします!(大汗)

では、行ってきます!

日記 | 21:42:57 | Comments(0)
市議会議員選挙投票日
今日は、市長選と市議会議員選の投票日・・・
はっきりいって・・・つまらない・・・(苦笑)
市長選のほうは、今回も選挙にならなかったのである。

毎度、毎度、我が市の市長選は、「選挙」にはならない・・・
一人しか立候補しないので、選挙にならず、そのまま市長は決まってしまうのである。

前回の選挙の時は、拙者が町内会会長の時で、その町内から立候補者が出た・・・
先輩から「おまえも立候補したら?」とけしかけられたが・・・(大笑)
まさか、町内会会長と、町内会会員の一騎討ちというのは、マズイだろ?(大笑)

市長選は、今回で4回連続無投票となる。(唖然)
基本的に、市長の“なり手”がいないというわけである。
で・・・・市役所の職員の中から立候補者が出る・・・
で・・・副市長は市役所の職員・・・
今度の選挙も、1期で辞める現職市長からの“ご指名”で、副市長が市長に立候補・・・(汗)

この図式の良いところは、歴代、市役所職員が市長になるから、実務をよくご存知・・・
というわけで、とんでもない失敗を犯すことは、まずありえない・・・
市の運営は安定・・・・
しかし、デメリットは・・・活気が出ない!(大笑)
冒険もしないから何の変化もない・・・
ただただ、平穏無事に日々を送るというだけ・・・
可でもなく不可でもなく・・・
今年も去年と同じ・・・去年は一昨年と同じ・・・である。

とにかく、「安定」していれば、それでいい・・・と市民が望むならそれでいいかも・・・(苦笑)
その安定が「低め」になると「何とかしてくれ」と市民は他力本願・・・
「何とかする」ような人物が市役所職員の中にいるとは思えませんが・・・(大笑)

現職は、在職中、まったく目立たなかった・・・
各種会合でも、どこに市長がいるのかわからないほど目立たなかったらしい・・・
いつの間にか来て、いつの間にか帰り、誰も気が付かなかった・・・という話を聞いたことがある。(汗)
「とにかく市長になってみたかっただけらしい。だから1期でさっさと辞めるんだそうだ」という陰口も聞いたことがある。
あらら・・・である。

前回も、今回も、候補者は新人候補である。
こういう場合は、やっぱり選挙は必要だと思う。
我が市の人口は約18万人、そのうち有権者は約15万人である。
(ということは・・・青少年、子供というのは3万人程度しかいないということになる・・・)(大汗)
その有権者15万人のうち、何人が自分を支持してくれるのかを知るのは大事なことではあるまいか?
それを知っていたほうが仕事がやり易いんじゃあるまいか?
無投票では、場合によっては15万人の有権者の誰もが支持していなかったとしても本人は知らないままになる・・・(大笑)
まぁ、「知らぬが仏」がいい・・・という場合もあるが・・・

市議会議員の中から誰か立候補する人はいないのか・・・と思うのだが・・・
“事情通”の先輩に聞いたら、「そういう馬鹿はいない」とのこと・・・(大笑)
下手に市長なんかになるより、市議会議員のままでいたほうが、何かといいのだそうだ・・・
ここにその具体的な話は書けないが・・・(大笑)
とにかく「居心地」がいいそうだ。

それなら・・・拙者が立候補しようか?(大笑)
友人や先輩に言ったら・・・「本気か?」と呆れられた・・・(大笑)
「市長になるつもりなのか?」
「いや、選挙になることが目的だから立候補するだけですけど・・・」
選挙運動なんてまっぴらである・・・(笑)
自分の顔写真が入ったポスターが町中に貼られるんですよ!・・・恥かしいったらありゃしない・・(大笑)
とても人前で演説なんか・・・ねぇ・・・(大笑)
だから・・・届出を出すだけ・・・(大笑)
これで選挙になるでしょ?

「もし、当選しちゃったらどうするんだよ」と先輩・・・
「そこなんですよねぇ~・・・問題は・・・多分、落選するから大丈夫だと思うんですが・・・」(苦笑)
「わからんぞぉ~」(笑)
「一応、初登庁の時に職員に対する訓示の原稿は考えてはいるんですけどね」(笑)
「アホか・・・」(唖然)

いずれにせよ、事前の「説明会」に後援者が出席していないと立候補できないとかと“事情通”・・・・
あれ・・・そうなの?(笑)
「じゃぁ、届出は無理だね。あ~残念だ!」(大笑)
「う~ん・・・いや、あの人は説明会に出ているから・・・あの人に頼んでみるか」と“事情通”・・・
おっとっと・・・真面目に考えられては困るんですけど・・・(大汗)

拙者と同じ考えを持つ人は必ずいるもので・・・
どうも対抗馬を擁立する動きがあったらしい。
ところが、ある人物(誰なのかは知っているが・・・ここには書けない)が裏で手を回し、対抗馬の立候補を阻止したらしい。
どうも「後援者」「支持者」を一人一人“脅し”て、対抗馬の擁立を支持しないようにしたらしい・・・
なんということか・・・(唖然)

二期目、三期目なら無投票でも構わないと拙者は思うのである。
その人の市政に問題がなければ、対抗馬が出てこなくてもおかしくはない。
しかし、候補者が新人の場合は、やはり選挙で選ぶべきである。
事前に、どこかの誰か、もしくは勢力が、“ふるい”にかけて一本化するというのはおかしい。
選挙で堂々と戦うべきであろう。
そして当選した候補者は、自分の得票数を確認して、これからの市政方針に生かすべきである。
そうしないと、新市長は、肩書きだけの「市長」となり、ボ~ッと4年間を過すだけ・・・ということになりかねないのでは?
緊張感に欠けてしまうのではなかろうか?

いずれにせよ、「フィクサー(黒幕)」気分で立ち回る、ジジイたちが大手を振っているようでは、この町はダメだな・・・
選挙は何で必要なのかという道理をわきまえないようなジジイの言いなりになるようでは・・・ダメだな・・・
それに対して反抗するような根性がない市民じゃ、この町は良くならんでしょ。
(ちなみに、拙者は“この人物”に、以前から反発しているので煙たがられている)(大笑)

というわけで・・・・今回の投票・・・・
つまらない!(大笑)

市会議員は、「え?この人、市会議員だったの?」というくらい仕事をしていない議員が多い・・・(汗)
べつに、いてもいなくても関係ない・・・というくらい市政に何もしていない人が多い・・・
全員が・・というわけではない。
一部には頑張っている人もいるが、残念ながら拙者とはちょっと考えが合わなかったりする・・・(苦笑)
え~と・・・この中から選ぶの?(苦笑)
気分が乗らないが、「投票」は義務だから・・・仕方なく投票所に行く・・・(大汗)

日記 | 13:55:35 | Comments(0)
30年以内に大地震?
関東地方の活断層でマグニチュード6.8以上の地震が起きる確率が発表された。
これは政府の地震調査委員会という所が行なった評価結果だそうで・・・
関東全域のどこかで、今後30年以内に活断層地震が起こる確率は50~60%なのだそうだ。

まぁ・・・50%と言ったら、“半か丁か”のレベルだから、いい加減と言えばいい加減な話しだと思いますが・・・(苦笑)
町の占い師に「そのうち素敵な恋人が現われますよ」と言われ、その確率は半々・・・50%だと言われたら、馬鹿にするなと怒るでしょ?(大笑)
素敵な恋人が現われるかもしれないし、現われないかもしれない・・・なんていう話は聞いてられない。
カネなんか払いたくもない・・・(大笑)
それと同じレベルの“予測”なのである。(大汗)

が・・・これからの30年の間に大きな地震が起きる可能性は否定できまい。
だって・・・日本は地震大国なんだから・・・
いつ地震が起こってもおかしくないことは、経験値として我々は持っているのである。
というわけで・・・インチキ占い師が言うような事を真面目な顔して言われてもねぇ~(汗)

どうして30年以内・・・なんだろうか?
10年以内とか、2年以内とかではないのだろうか?
やっぱり「30年」というのが、誤魔化すのにも都合のいい年数なんだろうねぇ~
2年以内に50%の確率で・・・と言われると、ちょっと真剣になるんだけど・・・(苦笑)
まぁ、今さら騒ぎ立てるほどの「発表」ではないな・・・(大笑)

しかし、これから大きな地震に遭ったらどうしよう・・・という不安は拭えない。
今から30年以内と期限を切った場合、私の場合は55歳から85歳の間に被災者になるということである。
気力も体力も弱ってくる年齢に被災者になるのか・・・(汗)
若い時なら「いつでもかかってこい!」と言えるんだが・・・(大笑)
もし、85歳で大震災に遭ったら最悪である。
生き残れるかね?
あ~・・・歳は取りたくねぇもんだ・・・・

エッセイ | 22:48:25 | Comments(0)
タケノコ泥棒から盗む!(笑)
今日は“ウメちゃん”の奥さんの実家の山のタケノコ掘りを手伝う。
毎年、タケノコを掘る時期に拙者が海外へ出かけてしまうので、いつも“ウメちゃん”に怒られる。(大笑)
「イザという時に役にたたねぇんだよなぁ~」(笑)
はい、はい、今年は早めにお手伝いしますよ・・・(苦笑)

“ウメちゃん”の義母である“おばさん”も、もう亡くなって久しい・・・
寂しいんだよねぇ~
いつもなら、「あらぁ~来てくれたのォ~!」と声をかけてくれるのだが・・・・・
その声が聞けない・・・
寂しく、トボトボと裏山に登る・・・

「勝手知ったる他人の家」・・・・である。(大笑)
二手に別れ、山の中でタケノコを探す。
毎年やっていると、どのあたりに生えてくるのかがわかる・・・

と・・・山の中で見知らぬ“オヤジ”がタケノコを掘っている!
あれ?・・・
声をかけてみたら、シドロモドロ・・・

“ウメちゃん”を呼んで更に“オヤジ”を詰問するが・・・
この“オヤジ”・・・ケロケロとした顔して平然としている。
拙者の嫌いな“団塊の世代”の非常識な“オヤジ”である・・・・
どこの誰の許可を得てタケノコを掘っているのかを尋ねたら、山の持ち主でもない、知らない名を言う・・・
その許可を出した人はどこに住んでいるのかを尋ねたら、「あっち!」とのこと・・・
まるで子供の答え方である。(唖然)
どうせ、口からでまかせで言っているのだろう。
「すみません」でもない・・・
こういう“団塊の世代”を見ると腹が立つんだよなぁ~(怒)

この“オヤジ”の掘ったタケノコを見ると、どう見ても素人の掘り方ではない。
明らかに「売り物」にするために綺麗に切り口を削ってある。

とりあえず、1~2本は、あげるから、残りは全部置いていけ・・・と命ずる。
“オヤジ”は、何も言わず、ふて腐れながら立ち去っていった・・・

と・・・・拙者は思っていたのだが・・・
再び、我々がタケノコ堀りを始めたら、隙を見て、また山に入って掘っている。
このやろう!(怒)
近くには“ウメちゃん”はいないので、拙者が叱りつける・・・
反発してきたらタダじゃすまさねぇぞ・・・
再び追い払ったが・・・信用ができない・・・
木の陰に隠れて様子を見ていたら、タケノコを隠している!
その数は軽く20本以上!
小さくて形の悪いものは、そのまま置き去り、いいものばかりを選んで隠しているのである。

まもなく、2本どころじゃなく5本くらいを抱えて山から出て行った・・・
「すみませんでした」の挨拶も、「いただいていきます」の挨拶もない・・・
さすがは非常識な“団塊の世代”である。

隠したタケノコは、あとで取りに来るつもりなのだろう・・・
“オヤジ”が立ち去った後、“ウメちゃん”を呼んで報告・・・
隠している場所は拙者が確認しているので、行ってみると、あるわ、あるわ・・・
こずるい“オヤジ”である・・・
なにも、このまま渡してやる必要はあるまい・・・
ということで・・・このタケノコは拙者が盗むことにした。(大笑)
あとで“オヤジ”が取りに戻ったら悔しがるだろう・・・(大笑)
ざまぁみろ・・・である。

日記 | 14:08:46 | Comments(0)
『自衛隊が国軍になる日』
自衛隊が国軍になる日―「兵役」を「神聖な任務」とし普通の国に自衛隊が国軍になる日―「兵役」を「神聖な任務」とし普通の国に
(2015/01)
柿谷 勲夫

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はじめに

第1編 自衛隊を取り巻く国内外の変化

第1章 都知事選における元空幕長の善戦
1 空幕長が「大将」に
2 自衛官に対する見方の変化
3 国内外情勢の変化
4 最高顧問に見放されたが、支持率は50%増大

第2章 東日本大震災で自衛隊に助けられ自衛隊を見直した国民
1 朝日新聞すら自衛隊に感謝
    自衛隊は想定していた
    遅すぎる「想定外」の感謝
    乱にて自虐史観を忘れず
    愛国心を取戻せ
2 自衛隊と米軍の不要扱いに反省がない「反日」国民
    50年経っても反省しない大江
    特殊武器防護部隊、予備自衛官不要
    大綱で陸自を削減
    閑話休題
    日米共同訓練に反対
3 自衛官に責任を押し付けた民主党政権
4 存亡の危機にも「反自衛隊」を忘れず
5 「危機」にあっても「乱」を忘れる
6 占領下でも活躍した“予備自衛官”

第3章 「漁船」と「イージス艦」衝突事故で自衛隊を正当に評価した裁判所
1 “冤罪”の尖兵・朝日新聞
2 福田首相、石破防衛相、防衛省の士官叩き
    ①福田首相
    ②石破防衛相
    ③防衛相
3 海保が海自を捜査する「珍現象」
4 横浜地検の起訴、防衛省の処分、士官の反論
    起訴
    懲戒処分
    初公判
    求刑
    最終弁論と最終意見陳述
5 横浜地裁の無罪判決
    後潟三佐
    長岩三佐
6 東京高裁も無罪判決
    後潟三佐
    長岩三佐
    河野克俊海上幕僚長
    東京高検の青沼隆之次席検事
7 上告断念、無罪確定も謝罪なき検察と海保
    検察
    小野寺五典防衛相
    後潟三佐
    長岩三佐
8 無罪確定後も処分も撤回もしない防衛省
    “冤罪”を招く自衛隊叩き免罪符
    軍法会議の必要性を痛感
    防衛相幹部は見放し、救ったのは高校の同級生

第4章 元大臣を尻目に、元統幕議長を「勲一等」に
1 画期的な勲一等
2 驚いた官僚

第5章 中国の我が国への復讐心の増大
1 支那事変は終わっていない
2 日清戦争
3 満洲とは、満洲事変とは
4 支那事変
    盧溝橋事件
    通州虐殺事件
5 大東亜戦争
    我が国の仏印進駐
    ハルノート
    戦争による成果と損失
    戦後の発展は中国抜き
6 「戦略的互恵関係」で得たものー中国は軍備と富、日本はパンダとトキ
    中国は「4つの現代化」を達成
    日本はパンダとトキを得、「日本精神」を喪失
7 侮日の背景は劣等感
8 自力防衛が嫌なら日米同盟の強化を
9 大陸から撤退ー再び「大東亜」の発展に貢献を

第6章 韓国が我が国への「劣等感・逆恨み・怨念」の拡大
1 平成の「三国干渉」
2 反日は終わらない
3 伊藤博文の暗殺
4 我が国の新聞は伊藤殺害をどのように報じたか
5 日清戦争が韓国の独立をもたらし「大韓帝国」に
6 日露戦争が韓国の「ロシア属国化」を阻止
7 日韓併合が「東洋平和」と韓国の近代化を進めた
8 安重根に寛大だった当時の日本人
9 「慰安婦」を煽り国の名誉を貶めた国内の勢力
    河野談話
    加藤談話
    朝日新聞
10 帝国陸軍将校を上回る慰安婦の収入
    慰安婦は従軍していない
    慰安料は高額、兵士よりは自由
    強制連行はしていない
11 歴史を直視しない朴槿惠大統領
12 朝鮮名のまま帝国陸軍の中将に
13 謝罪はもうごめんだ

第7章 靖國神社参拝を拒絶する防衛相と防大校長
1 参拝を止めた防衛庁長官、英霊を貶めた元長官
2 首相参拝反対者が二代続けて防大校長に
3 伝統を守り50年参拝を続ける防大生
    閑話休題

第8章 防大建学の精神に著しく反する校長による防大潰し
1 180度違う初代校長と前・現校長の歴史観
2 校長の副業専念と学生の詐欺事件
3 無頼漢も驚く防大生の蛮行
4 士官教育に心血を注いだ初代校長・槇智雄氏
5 防大の一般大学化を目論んだ前校長・五百旗頭真氏
6 修業の道場「学生舎」を「ネグラ」化した現校長・国分良成氏
7 自衛官校長の手で再建を

第2編 太平の眠りから目覚め普通の国に

第9章 惰眠をむさぼり続ける敗戦意識
1 ボタンを掛け違えた「軍隊」(警察予備隊・保安庁)の創設
2 座して自滅を待つ「専守防衛」は成り立たない
3 精神年齢占領下の政治家たち
4 「自衛隊」でいけない理由

第10章 「防衛省」は目覚めの第一歩
1 第一次安倍内閣の功績
2 「不敗の態勢」の確立に失敗した第一次安倍内閣

第11章 集団的自衛権の行使は目覚めの第二歩
1 防大卒業式訓示に見た安倍首相の本気度
2 いつまでも自衛隊を「苦役」扱いする政治家と官僚
3 自衛官を「歩」扱いする国家安全保障局
4 「秘密」漏洩防止よりも暴露を目論む特定秘密保護法論議
    朝日新聞のミスリード
    特定秘密保護法も自衛隊だけを圧迫
    防衛秘密のチェックは素人には無理
    「免責特権」とは「特権意識」なり
5 説明は十分―理解できないのは国民の無知
6 戦争できる国に
7 軍隊(自衛隊)と警察・海保の本質的違い
    軍隊の相手は正義、警察の相手は不正義
    行使する力は、軍隊は実力、警察は権力
    使用する武器は、軍隊は無制限、警察は限定
    軍隊は命を懸けるが、警察は懸けなくてもいい
8 自衛官に「軍人」として「名誉・敬意・処遇」を
    法律で兵役を神聖な任務と明記
    陸、海、空将を認証官に
    陸、海、空将に桐花大綬章、旭日大綬章
    防衛功労勲章の新設
    軍法会議の設置
    戦死者を靖國神社に合祀
    防大校長を自衛官に
    皇居の警護は自衛隊で
    統帥権は天皇に

第12章 完全目覚めは自主憲法の制定と国防軍の設置
~自主憲法を制定するか、亡国を選ぶか~

第13章 総選挙で圧勝、自主憲法制定に歩を進める安倍首相
1 解散の狙い
2 不敗の態勢を確立して「アベノミクス解散」
3 勝兵は勝った後に戦いを求め、敗兵は戦って後に勝を求める
4 戦いの原則に則った「奇襲」「集中」「主動」

おわりに

参考文献



著者の言っていることは、よくわかるのだが・・・
しかし、やっぱり、憲法を改正しなければ何事も始まらないのではなかろうか?
が・・・多分、憲法改正は難しいだろう。
なぜならば、軍事オンチの国民が相手では話しにならない・・・
その国民が政治家を選ぶわけで・・・
で・・・その政治家が憲法改正をするわけで・・・
結局、「根っこ」が腐っているんだから花は咲くまい・・・
というわけで・・・
自衛隊が「国軍」になるには、一度、侵略されてヒドイ目に遭わないと無理なのではなかろうか?(大汗)
国民が「目覚める」ということではなく、「自衛隊じゃダメなんだ」と“お勉強”することで、「国軍」の創設を望む声が上がるんじゃないだろうか?
かなりの犠牲を伴うことになると思うが・・・已むを得まい・・・
まさしく「自業自得」・・・
本当の「自衛隊が国軍になる日」は、実際に侵略された時に迎えるのではないかと思うのである。


今年の読書:25冊目



読書 | 00:45:55 | Comments(0)
『日中ビジネス摩擦』
日中ビジネス摩擦 (新潮新書)日中ビジネス摩擦 (新潮新書)
(2003/05)
青樹 明子

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プロローグー中国から帰ってみると
5年ぶりの日本。何かとカルチャーギャップを感じる日々が始まった。

第1章 思わぬことが民族差別にー日本航空の試練
懸命に手配した夜食のサンドイッチ。精一杯のサービスがなぜ中国人から「日航・悪夢の旅」と猛反発を浴びてしまったのか。

  忍耐強かった中国人
  「工商時報」の衝撃
  「それは悪夢の旅だった」
  当日何があったのか
  サンドイッチは冷たい
  冷たいモノは残飯だ!
  マスコミの嵐
  和解

第2章 信用経済は成立しないー東方リースの悲劇
ファイナンス・リース。国営企業相手のこの新商売は債権回収でつまづいた。法律の未整備ゆえではない。問題は法律が機能するかしないかにあったのだ。

  性悪説の国
  オリックスの悲劇
  「払ってくださいよ」
  物件にいちゃもんを
  現金主義対信用経済

第3章 行政処罰を怖れるなー北京遊楽園の奮戦
ナニ、儲けすぎたから罰金を払え?知らないよ、そんなもんー。四個不(不合理、不公平、不誠実、不愉快)に挑んだ江戸っ子ビジネスマン。

  発電所から遊園地へ
  アタシャ知らないよ!
  何故「不愉快」と感じるか
  自由市場の交渉術
  気を抜くと危険

第4章 ショー・ビジネスは可能かー劇団四季の挑戦
日本とはなにもかもが絶望的に異なっていた。はたしてこの土地で合作ミュージカル『美女と野獣』を上演することは可能だろうか。

  舞台裏の葛藤
  スタッフは「国家幹部」
  言い訳に疲弊
  非を認めると
  チケットは何枚くれるんですか

第5章 広報のプロをー東芝中国の教訓
今やトラブルは弁護士だけでは解決できなくなっている。ノートパソコン事件で揺れた東芝中国はいかにして再建の道を歩んだのか。

  問題勃発
  バッシングのなかで
  再建への道
  消費者とのコミュニケーション

第6章 同文同種は錯覚であるー北京師範大学の選択
言葉の感覚も異なれば、もてなしの感覚も異なる。名門の北京師範大学が日本の新設大学を姉妹校に選んだのには理由があった。

  漢字が生む誤解
  中国人的日本人
  礼節の国
  北師大姉妹校選択
  もてなし感覚の相違

第7章 ニセモノと闘えー日系企業の難題
模造品にやられて大きなダメージを受けるか、もしくは彼らを摘発し叩きのめすか。中国進出企業にとっては二つに一つのサバイバル。

  ニセモノ市場
  ニセモノ天国
  日本企業の被害
  闇の大組織
  欧米企業の対策
  私立探偵が活躍する

第8章 無料は投機を煽るー日本的商法の陥穽
福引き、商品の無料配布・・・・・。日本ならどこでも見られる賑わいだが、ときにはそれは暴動に発展し、公安(警察)までが出動する結果となる。

  危ないクリスマス
  エスティローダー事件
  Congratulations!

第9章 政治から経済・文化へー日中外交官の声
わが外務省にチャイナ・スクールが存在するように、中国外交部にもジャパン・スクールが存在する。外交のプロである彼らは日中関係をどう捉えているのか。

  7月7日は?
  瀋陽事件に見る中国の対日外交
  大陸中国派?
  チャイナ・スクールの苦悩
  ジャパン・スクール

エピローグ 94jpop.com



中国人というのが、どういう連中なのかは、もうわかりきっている話なのですが・・・(笑)
我々日本人から見て、一方的に中国人が悪いと言い切れるかどうか・・・
著者はお互いの「ものさし」の違いだと言う。
たしかに、それは言えると思うが・・・
「嘘をついたり騙したりすることは悪いことではありません。中国の常識です」と言われて我々日本人は容認できるだろうか?(大笑)
だから摩擦が起きるわけで・・・
これを解決するには「相互理解」では無理ではなかろうか?
そもそも「理解」の範囲を超えているのであるから・・・
中国とは、中国人とは、こういうものですから、理解したうえでお互いにビジネスをやっていきましょう・・・
そうしないと、いつまで経ってもお互いがうまくいきませんよ・・・と著者は言いたいようである。
やっぱり、ここはハッキリとしたほうがいい・・・
中国とビジネスをするなら、中国と同じやり方をしましょう!・・・と言ったほうがいいかも・・・
騙しましょう!嘘をつきましょう!盗みましょう!(大笑)

中国を批判したり叩くような、どちらかというと過激な本が最近は多いが・・・
本書は、そういう“バッシング本”ではない。
日中の摩擦は摩擦として、その存在の事実を認めた上で、その背景を丁寧に述べているという、極めて温厚な本だと思う。

が・・・だからと言って、私は彼らと付き合う気は起こらないな・・・(大笑)


今年の読書:24冊目



読書 | 22:35:48 | Comments(0)
『ポケットに外国語を』
ポケットに外国語を (ちくま文庫)ポケットに外国語を (ちくま文庫)
(2013/11/06)
黒田 龍之助

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第1章 鏡の国の外国語

リトアニア語の夏休み
ウクライナ語のウォッカ
スウェーデン語の挿絵
フランス語のカセットテープ
舌はキエフへ導く
言語の秘める力
鏡の国の外国語
明治大正露語辞典事情
ロシア語ってこんな感じ
  文法について
  文化について
誰がベラルーシ語を話すのか
誤解されるキリル文字
ペルシャ語の神、タジク語の神
ロシア語はふつうです!
間違いにもいろいろある
クイズを一つ
わーるど・いんぐりっしず
  1 誰もが英語を学ぶ理由
  2 英語の失ったもの
  3 World English は複数である
ポケットに外国語を

第2章 レトロな語学も悪くない

どんな外国語を学ぶのか
「外国語会話」を考えてみる
「体育会系英語」と「文系英語」
英語学習者の心理分析
  1 愛される英語
  2 急ぐ英語
  3 恨まれる英語
  4 捜す英語
  5 競う英語
レトロな語学も悪くない
台所から見える中国語
辞書を選ぶときに
サマセット・モームの「外国語学習小説」

第3章 言語学どうでしょう

にぎやかな言語学
言語多様性について
  外国語選択
  多言語社会
  人工語
  英語
  日本語とその方言
  税金と教育
  個人による言語多様性
純血主義者と原理主義者
英語は英語で?
言語学どうでしょう
  失礼は許されない?
  コミュニケーションは文脈
  理論は大雑把でも言語観はしっかりと

第4章 わたしが大学教師を辞めたワケ

スラヴ「モツ煮込み」考
通訳はつらいよ
モスクワ、シベリア
大学英語も使いよう
わたしが大学教師を辞めたワケ
語学をクールに
チャラい外国語
留学先の『幸福論』
ボクには早い『カラマーゾフ』
ミツヲ君にとって言葉の本とは?
英語が嫌いなモトキくんへ
多言語なボサノヴァ
生物と文章表現のあいだ

第5章 ことばへの異常な愛情

文庫版あとがき

解説 ポケットのぬくもりー黒田君のこと (堀江敏幸)



英語を何年も勉強していてもサッパリである・・・
いつまでも英語だけに執着するのは時間と労力の無駄ではなかろうか?
そういうことなら、見たことも聞いたこともないような外国語を勉強したとしても同じではなかろうか?(笑)
いっそのこと、そういう英語以外の外国語に触れたほうが同じ時間の無駄となるにしても、その内容が違うような気がする。
いつまでもダラダラと英語に執着するのはやめようかな・・・(笑)
そう思わせるような、面白いエッセイである。


今年の読書:23冊目



読書 | 22:29:30 | Comments(0)
帰国しました
昨晩、またまた無事に帰国いたしました。

「あ~残念だぁ~」という声が聞こえないこともないですが・・・(笑)

また、ボチボチとブログの更新を始めます。



日記 | 17:58:30 | Comments(0)
羽田に帰国・・・・
今日はマニラ空港午前8時55分発のフィリピン航空422便で帰国予定・・・・
で・・・目的地はいつもの成田ではなく羽田である。(笑)
今回、初めて羽田に到着する便を利用してみた。(大汗)
ちゃんと帰宅できるかねぇ~・・・・とちょっと心配・・・(大笑)
この歳になると、どうも“新しいこと”に挑戦するとなると極端に緊張するのである。(大笑)

“ステラさん”に迎えに来てもらい空港へ・・・
マニラ空港はフィリピン航空専用の第2ターミナル・・・
久しぶりの利用だが、慣れているので問題なし・・・(大笑)
いつものパターンである。

午後2時・・・無事に羽田空港に到着・・・
羽田は国内線しか利用したことがないので、キョロキョロ、キョロキョロ・・・(大笑)
しかし、思ったよりスムーズにモノレール乗り場に到着する。
あらら・・・意外にも便利である!(大喜)

浜松町から東京駅へ向かい、東京駅から特急で帰宅しようとしたのだが・・・
さて・・・どこで特急券が買えるのか?
構内をウロウロしたが、「みどりの窓口」が見当たらず、やむなく一度改札を出て外にある「みどりの窓口」で切符を購入し、再度構内に戻る。
う~ん・・・意外にも東京駅のほうが不便だった・・・(笑)

旅行 | 22:39:27 | Comments(0)
マニラに戻りながら戦跡巡り
我々が宿泊したホテルのある町「バヨンボン」は「ヌエヴァ・ヴィスカヤ州」の州都なのだそうである。
で・・・この州・・・
困ったことに、いつの間にか「禁煙都市」となっていた。(大汗)
人目に触れる場所でタバコを吸っていたら捕まるのだそうで・・・(唖然)
かなりの罰金を取られるとか・・・
喫煙者の拙者としては、甚だ迷惑である!(怒)

が・・・どこにでも「抜け穴」というのはあるもので・・・(笑)
ホテルの裏のゴミ置場の脇に灰皿とベンチが用意されていた。
「人目に触れてはいけない」のだから、ホテルの裏の駐車場近くの「人目に触れない」ゴミ置場ならいいわけである。(笑)

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で・・・ここで堂々とタバコを吸っていたら・・・
ガードマンが、肩を怒らせながら、こちらに歩いてくる・・・
「おい、ちょっと、あんたに注意することがある!」という感じである・・・
ハハァ~ン・・・・こいつ、俺に文句をつける気だな・・・(苦笑)
「おい!ここは喫煙場所だよな?灰皿があるからタバコを吸っていいんだよな?」とこちらから先手を打つ。(笑)
彼は新米のガードマンなのだろう・・・
「あ!・・・OK!OK!]と首を振りながらUターン・・・(苦笑)
やっぱり、拙者の喫煙に文句をつけようとしたらしい・・・(大笑)
本当に面倒くさい州になっちまったなぁ~
もう二度とこんなところにゃこねぇぞ!・・・と言いたいが、「サンタフェ」もこの州の町なので、そういうわけにも行かない・・・(涙)
北部ルソンの戦跡を巡るとなると、どうしてもこの州内に宿泊するしかない・・・(涙)

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午前7時にホテルのレストランで朝食・・・・
フィリピン料理かパンケーキのどちらかを選べというので、パンケーキを選ぶ。
朝から「ご飯」を食べる気がしないが、かといってパンケーキ(日本で言うところのホットケーキ)というのも・・・ねぇ~(苦笑)
他に選択肢がないから仕方がない・・・朝からホットケーキである・・・(苦笑)

午前8時、ホテルをチェックアウトして、これからマニラに戻る予定・・・
途中、時間の許す限り、往路では立ち寄らなかった戦跡に寄ることにする。

国道5号線を南下・・・
ホテルを出発して約1時間後・・・
「サンタフェ」の手前にある「南ボネ」に立ち寄る。
「ボネ」は英語表記では「BONE」なので、もしかして現地では「サウス・ボーン」と発音しているかもしれないが・・・
我々日本軍は「南ボネ」と呼んでいた。

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ここには20歳そこそこの士官候補生約500名を中心とした「戦車撃滅隊」が米軍の北上を食い止めるため、爆弾を抱えて米軍の戦車に体当たり攻撃をかけた場所である。
この攻撃では、我が戦車第2師団の残存戦車数両も攻撃に参加したが全滅・・・・
士官候補生たちの体当たり攻撃で数両の米軍の戦車を破壊したらしいが、ほとんどは戦車に行き着く前に機銃掃射でやられて全滅した・・・・
慰霊碑は個人の敷地内にあるので、家主に挨拶をしてお参りをする。

さらに南下し、「サンタフェ」を通過し、九十九折の山道を登っていくと・・・「バレテ峠」・・・
「南ボネ」を出発して約1時間後の午前9時40分ごろに到着・・・
この「バレテ峠」は北部ルソンの戦いでも著名な場所である。

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展望台から見たバレテ峠、国道5号線・・・・
一応、写真は例の如く、パノラマのように繋がっている・・・(笑)
左が北の「サンタフェ」方向、右が南の「マニラ」方向・・・・
右から左に向かって、マニラから北上する日本軍と在留邦人がこの峠を越していったのである。
で・・・米軍も後ろから追いかけて来た・・・
で・・・2枚の写真のちょうど、くっ付いたあたりが「バレテ峠」の頂上となる。

マニラ方面から追撃する米軍を阻止するため、この峠を中心とする山々に鉄兵団(姫路で編成された第10師団)を中心とする日本軍が防御線を敷いた。

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日本の慰霊碑をお参り・・・
碑には「鉄兵団」「撃兵団(戦車第2師団)」「泉兵団(中国・華北で編成された第26師団)」の名が刻まれているが・・・
撃兵団の主力は「サラクサク峠」で戦っているし、泉兵団の主力はレイテ島で戦っていたと思う。
なんで、この2つの師団名がここに刻まれているのか知らないが・・・
多分、一部の部隊がここで戦っていたためだろうが、3個師団が戦っていたように勘違いされるのではなかろうかと、毎回ここに来るたびに思うのである。
それより、雑多な細々とした部隊が参加していたと思うのだが・・・
そういう部隊名を記してあげるべきではなかったかと思うのである・・・・

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碑の由来

この地は 昭和48年(1973)日本政府派遣の戦没者遺骨収集団が この地域の戦没英霊のご遺骨を荼毘に附し 残灰を埋葬した所である
この十字形追悼之碑は 日比親善慰霊会が住民の協力に感謝し サンタフェ町に公民館を寄贈したことに対し 当時の町長 トム・チェンガイ氏が 日比親善と永遠の平和を願って土地を提供し建てたものである

日比親善慰霊会



この日本の追悼碑などの碑が建つ場所の、直ぐ近くに、中国人の慰霊碑が建っている。
米軍に協力して戦った中国系フィリピン兵8名の慰霊碑で、「抗日義士」の記念碑だそうだ。
いつまでたっても「抗日」の文字を使いたがる“中国人”の神経が拙者には理解できませんが・・・
それで「日中友好」なんて無理だと思うんですけどねぇ~

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DEDICATED TO THE MEMORY OF
OUR 8 COMRADES-IN-ARMS, WHO FOUGHT ALONG SIDE ALLIED LIBERATING ARMY (25 DIVISION, 161 INFANTRY) AND PAID THE SUPREME SACRIFICE DURING MOP-UP OPERATIONS IN THE SUMMER OF MAY 1945, AGAINST REATREATING JAPANESE FORCES AT STA.FE, NUEVAVISCAYA. MAY THEIR BRAVE HEROIC EFFORTS INFIGHTING FOR FREEDOM SERVE AS A SHINING MODEEL FOR ALL PEACE-LOVING MEN AND WOMEN FOR ALL TIMES TO COME.
EX-CHINESE OVERSEAS WARTIME HSUEKAN MILITIA
(EX-COWHN)
ERECTED THIS 7th DAY OF MAY 2001



ちょっと面白いのだが・・・
この碑に英文の碑文と並んで中国語の碑文があるが、読んでみると、書いてある内容が微妙に違うのである。(唖然)
中国語で書かれている内容が、そのまま英文で書かれているわけではないのである。
英文の方には平和というような文面があるが、中国文のほうには、そういう文言は入っていない・・・
“建前”と“本音”?
“外面”と“内面”?
二面性がチラリと見える碑文のような気がする・・・・(汗)

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国道5号線のバレテ峠頂上脇には、昔から「塔」が建っている。
ちょっと低めの展望台のような塔であるが・・・
ここに「ダルトン・ヒル」の文字がどこかにあったような気もするのだが、見当たらない。
米軍側の司令官であるダルトンが戦死した場所なので、「バレテ峠」は「ダルトン・ヒル」とも呼ばれている。
どこかにそういうことが書かれていたから拙者は、その事を知ったと思うのだが・・・
どうも人間の記憶というものは当てにならない・・・(大汗)
というより・・・拙者の記憶はかなり当てにならない・・・が正しい言い方か?(苦笑)

ようやく、嵌め込まれていたプレートを発見・・・


ERECTED IN HONOR OF THOSE SOLDIERS OF THE 25th DIVISION WHO SACRIFICED THEIR LIVES IN WINNING THIS DRSPERATE STRUGGLE.

BALETE PASS

IN TAKING THIS PASS 7403 JAPS COUNTED KILLED 2365 25th DIV. KILLED & WOUNDED
MAY 13, 1945



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ここ「バレテ峠」は、「ヌエヴァ・ヴィスカヤ州」と「ヌエヴァ・エシハ州」との州境にあたる。
国道5号線上に見える“門”に「NUEVA ECIJA」(ヌエヴァ・エシハ)の文字が見える・・・
写真の向うがマニラ方向・・・・あの“門”から向うが「ヌエヴァ・エシハ州」となり、こちら側は「ヌエヴァ・ヴィスカヤ州」ということである。

午前10時半過ぎに、この峠を出発し南下・・・
往路で立ち寄った「プンカン」の慰霊碑前を通り過ぎ・・・
まもなく道路工事の大渋滞に巻き込まれながら「サンホセ」に到着・・・・
ちょうどお昼なので、いつも立ち寄るレストランに今回も立ち寄り昼食をとる。

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食後、マニラに戻るまで、まだ余裕があったので、折角なので「サンホセ駅」の駅舎跡を見に行く事にする。
ずいぶん昔に一度だけ行ったことがあるが、正確な場所は覚えていない・・・(苦笑)
“ステラさん”も、しばらく来ていないので、記憶があやふやだというので、通行人に尋ねながら向かう・・・

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駅舎の前の道は、心なしか、少し広くなっているような気がするが・・・
拙者の気のせいかも・・・(苦笑)
駅舎も、以前、拙者が来た時とは雰囲気が変わっていた・・・
あの時は、そのまま倉庫か何かに使われていたような感じだったのだが、今回来て見たら、駅舎の外壁にトタン板で雑貨屋のような小屋が併設されていて誰かが住みついているように見える。
あらら・・・変わっちゃったなぁ~(汗)

この「サンホセ」という町は交通の要衝にあたる。
日本軍占領当時は、この町は各種物資の集積所となっていた。
この「サンホセ駅」は、そういう物資が鉄道で運ばれてきた駅である。
で・・・終戦後は、この駅から多くの日本兵捕虜がマニラ方面に輸送された。
小さな駅舎なのだが、貴重な「史跡」だと拙者は思っているのだが・・・・
どうも「史跡」扱いにはなっていないようである。

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「サンホセ駅」のプラットホーム跡・・・
写真の左端に線路があったが、今は消滅している。

この駅舎跡は、以前はフェンスなどでは囲まれていなかったのだが、今はしっかりとフェンスで囲まれている。
どうも個人の所有地になっているようなので、わずか5分程度でササッと写真を撮って立ち去ることにした。(苦笑)

ここから真っ直ぐマニラに向かう。
マニラ市内に入ったら、かなりの渋滞に巻き込まれるだろうと覚悟していたが、なんと幸運なことにほとんど渋滞していない。
“デグチ支局長”も「普段は、このあたりで大渋滞に巻き込まれるはずなんですが、今日はスムーズですね」と驚いていた。
ん?・・・我々の日ごろの行いが良いからじゃないのかな?(大笑)

午後5時過ぎにはホテルに到着!
初日に宿泊したホテルと同じホテルを予約しておいた。
このほうがドライバー君も拙者を送り届けるのが楽だろうと思ったからである・・・(笑)

さて、今晩の夕食はどうしようか・・・
2泊3日の取材旅行御苦労様でした・・・と、ここでお別れしてもいいのだが、いろいろとお世話になったし・・・
お礼を兼ねて支局長に夕食をご馳走しよう!
一旦、お別れして、夜、改めてお会いして食事をすることにする。
“ステラさん”も食事に誘ったが、遠慮されたので、2人で食事に行く事になった。
で・・・“ステラさん”にはこの3日間のガイド代を支払う。
今回は、航空券とホテルの手配と、空港からホテルまでの送迎のみを旅行社にお願いして、ガイドは拙者が個人的に雇う形にしていたのである。

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今回宿泊する部屋から見た景色・・・
おお・・・なかなかいい景色である・・・(笑)

午後7時過ぎ、改めて支局長に迎えに来てもらい、食事に出かける。
お礼をするための夕食なのに迎えに来てもらったのでは迷惑か?(大笑)
迎えに来てくれたドライバー君は、今回の取材旅行のドライバー君とは別の人だった。
公用と私用とはキッチリと区別されている。
彼はプライベートに雇っているドライバー君だそうである。
あら・・・益々申し訳なし・・・(汗)

さて、夕食は拙者の希望でステーキを食べることにする。(大笑)
拙者がご馳走するはずなのだが・・・つい、自分の希望を言っちゃった・・・(大笑)

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「シカゴ・ステーキハウス」という、ちょっと高級なレストランで食事・・・
今回の取材記事は、適当なタイミングで配信するという。
あとは・・・各新聞社が、その配信記事を採用して掲載してくれるかどうかだが・・・
仮に「日の目」を見なくとも、支局長にサラクサク峠の戦闘について知っていただけただけでも嬉しい。
今回の旅行では何から何まで支局のほうで負担してもらったので、この食事代だけは拙者が出そうとしたのだが・・・
逆に世話になったのだからと固辞される。
じゃぁ、割り勘に・・・と提案したのだが、これまた却下・・・(涙)
結局、この夕食まで負担してもらって恐縮至極・・・・
いやぁ~参ったなぁ~(大汗)
何のために誘ったのやら・・・である・・・・

午後9時過ぎ、食事を終え、ホテルまで送ってもらいお別れ・・・
最後の最後まで大変お世話になってしまった・・・申し訳なし・・・感謝、感謝である。

旅行 | 10:22:03 | Comments(0)
「ラムット川の悲劇」の現場に行く
「マリコ村」から幹線道路上の「サンタフェ」に出て、国道5号線を北上する。
この「サンタフェ」は「ヌエバ・ビスカヤ州」の南の端に位置する町・・・・
昔は、この南にある「バレテ峠」から九十九折の坂道を下りてきた場所に位置する「宿場町」だったと思う。
交通の要衝でもある。
ここに戦時中は日本軍が戦闘指揮所や部隊本部などを一時期置いたのである。
また北上してくる雑多な日本兵たちを、この町で部隊として移動していないものを主に、憲兵隊が捕まえ、100人単位程度の臨時編成の部隊を作っては最前線のサラクサク峠に送り込んだのである。

我々はこの州を縦断し、北にあるお隣の州、「イフガオ州」に入る。
入ってすぐのところが、「ラムット」という町になる。
この「ラムット」の町に入る手前に川が流れていて、その河川敷きが『ラムット川の悲劇』の現場と思われる。

思われるというのは・・・・実は、拙者はここに来たことが過去に一度もないのである。(苦笑)
当時の「現場」の詳しい位置関係を示す地図も見たことがない。
話だけでしか聞いたことがないので、ちょっと案内するというのは「無謀」のような気もしたが・・・
こういう「悲劇」があったんですよ・・・ということを知って欲しいと思ったので、今回のコースに組み入れてみた。

“オマリオさん”の家を辞するのが予定より少し遅くなったため、ちょっと心配したが・・・
3時間ほど走り、午後5時には“現場”に到着できた!(喜)

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ここは『ラムット川の悲劇』と呼ばれる“事件現場”であるが・・・
「悲劇」という言葉が正しいかどうか、拙者としては、ちょっと疑問・・・
『ラムット川の惨劇』とか『ラムット川の虐殺』という言い方もあるようなので、そちらのほうが的を得ているような気がしますが・・・

昭和20年6月9日頃・・・
マニラ方面から北上してきた日本軍兵士や日本人の民間人らが、この川のところまでやって来たそうである。
今ではコンクリートの立派な橋が架かっているが、当時は粗末な木橋だったそうである。
6月は雨季・・・
川も増水して激しい濁流だったらしい・・・
正確な記録がなく、わずかな“目撃者”の「証言」のみしか残っていないのだが・・・
それによると、証言者によって微妙に内容が違うのだが、どうもこの橋の中央あたりでトラックが脱輪したのかエンジン故障かで立ち往生したらしく、写真のこちら側の岸に集まっていた“避難民”が川を渡ることが出来なかったという。
そこへ、次々と後方から“避難民”がやってきて、かなりの人数が川岸に滞留してしまったらしい。
6月10日に、濁流により、この木橋が崩れて流されてしまった。
万事休す・・・である。
日本兵や“避難民”がさらに、この岸に集まり身動きが出来なくなってしまったらしい。
そこへ後方から米軍が戦車を先頭に攻めてきたという。
マニラに立てこもる日本軍を撃破し、北へ避難する日本軍と民間人を追いかけて北上してきた米第37師団だったらしいが・・・
この師団の戦車隊だろうと思うが、川岸にいた日本人を戦車で轢き殺しまわったというのである。

米軍の主力戦車はM4シャーマン戦車(サラクサク峠で見たあの戦車である)・・・
この戦車・・・重量は30トンほどある・・・
30トンもの重さのもので轢き殺されると、人間はどうなるか・・・
ほとんど挽肉状態のグジャグジャ、ドロドロになるらしい・・・(汗)
それらが戦車のキャタピラにへばりつくそうである。
まさしく地獄絵図だったと「目撃者」の証言がある・・・
その主な犠牲者は、日本人の女性や子供達だったという。
ご主人が「現地召集」で軍に取られたために、奥さんは赤ん坊を抱き、幼い子供の手を引いて北へ北へと逃げてきた。
この川岸で逃げ惑う、そういう女性や子供を米軍の戦車は“面白がって”、追い掛け回し轢き殺したという。
その犠牲者の数は千人を超していたという・・・(唖然)
まさしく「虐殺」である。

しかし、なぜか戦史には大きく取上げらられていない・・・
米軍の第37師団の戦史でも、この件には触れていないそうだ・・・(民間人を虐殺したなら当然か・・・)
まぁ、広島、長崎に原爆を落として多くの民間人を殺しても「虐殺」とは誰も言わないんだから、民間人を千人くらい戦車で轢き殺しても、たいしたことではないということなのだろう。(大汗)

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現在の「アガット川」の河川敷・・・・
“証言”によれば、この川幅は増水のため、100メートルほどだったという・・・
このコンクリート橋の長さは、126.84mと橋の欄干に書いてあった・・・
ということは、この河川敷も、当時は川の中か?
ということは・・・もっと手前のほうが「虐殺現場」だったのかもしれない・・・
「勝てば官軍、負ければ賊軍」であるから・・・当然、慰霊碑なども建立されていない。
慰霊碑があれば、お線香をあげられるのだが・・・
他人の土地に勝手にお線香を立てたら、ちょっとマズイだろう・・・(汗)
残念・・・・

この場所は、拙者の祖父とは全く関係がない場所だが、余り知られていない戦史の一つとして支局長をご案内した。

ここから、今来た国道5号線を戻り、本日宿泊するホテルのある「バヨンボン」という町に向かう。

途中、「ボンハル」という町を通過・・・・

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走る車窓から撮影したので、ちょっとよく撮れなかったが・・・(苦笑)
この「BONFAL」という町(集落?)は、当時の日本語では「ボンハル」と言っているが、正確には「ボンファル」かも?
ここはマニラから北へ北へと逃れてきた在留日本人たちが、いくつかの村(集落?)を作って自給自足の生活をした場所である。
今は日本人は住んでいないと思う・・・
北上する米軍に追われて、村を捨てて北上したはずである。
ということは・・・「ラムット川」で“虐殺”された日本人たちは、ここに住んでいた人たちかも・・・

「ボンハル」から車で20分弱で「バヨンボン」のホテルに到着する。

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このホテルは、昔から、よく日本の慰霊団が宿泊したホテルだそうである。
拙者も16年前、生まれて初めてフィリピンに来た時に一度だけ宿泊した記憶がある。
あの時は、我が戦車第2師団の戦友会の最後の慰霊巡拝旅行ということで、拙者も同行を希望したが、仕事の関係で後から一人で追いかける形となった。
ガイドを雇い、バスに乗ってマニラを午後5時ごろ出発し、このホテルに到着したのは真夜中の1時過ぎだった・・・
夜中の移動は危険だと旅行社から言われていたが、そういうわけにもいかぬ・・・(苦笑)
とにかく、皆に追いつかねばと必死の移動だった・・・
あの「冒険旅行」が良かったのかもしれない・・・
もし、最初の滞在地がマニラの繁華街だったら、今のような人間にはなっていなかっただろう。(大笑)
生まれて初めての滞在地が北部ルソンの田舎の町である。(苦笑)
それが良かったんだろうねぇ~・・・・田舎に行く事に全く抵抗がないし、どちらかと言えば好きになったのだから・・・

真夜中の真っ暗闇の町の中をホテルを探して移動した時は、果たして辿り着けるのかと心細かったが・・・
なんとか辿り着き、慰霊団に参加していた伯父の部屋に転がり込んだが、翌朝5時には出発ということで・・・・(大汗)
結局、ホテルのことは、よく覚えていない・・・(大笑)

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というわけで・・・・ホテルの前の道の様子も全く記憶にない・・・(大笑)

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部屋も16年前から比べると、リニューアルされたのか、随分、拙者の記憶と比べると良くなっているような気がする。
変わっていないのは・・・・シャワーの装置かな?
新しいタイプだが・・・基本的には昔のままである。(笑)

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この機械のタイマーみたいなダイヤルを回すと、機械の中の電熱ヒーターが温まり・・・
そこを通過する水がお湯になって出てくるようである。(実はよくわかっていない・・・)(笑)
で・・・このダイヤルが元の位置に戻るまでに手早く体を洗わねば、電熱ヒーターが切れて水になってしまう・・・
(・・・と、拙者は思って急いで体を洗った・・・)(苦笑)
不思議なことに、温度を調節するようなものはどこにも見当たらない・・・(苦笑)
いずれにせよ、たいしたことのないヒーターだから、熱湯になるほどは温まらないのだろう。(・・・と、勝手に思っている)
ぬるめのお湯が出てくるだけ・・・である。
何やら英文で説明書きがされているのだが(多分、使用方法だと思うが・・・)・・・高い位置に取り付けられているので、文字が読めない!(大汗)
これでは、意味がないと思うが・・・
16年前にやった使い方で、今回もとりあえず、シャワーを無事に浴びる・・・(大笑)

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夕食は町の中の洒落たレストランで食べる・・・

今日は、山登りもしたし・・・(大笑)
栄養補給をして・・・・(笑)
しかし、さすがに疲れた・・・ホテルに戻り爆睡である。
歳を取っちゃったなぁ~(大笑)

旅行 | 23:13:59 | Comments(0)
「サラクサク第2峠」に登る
一旦、途中まで戻ってから「サラクサク第2峠」に登ることとなる・・・
その途中・・・
山道にバイクを止めて何やら話しこんでいる若い連中に遭う。
我々のガイド役を務めている高校生の“アンディ”が彼らに我々のことを説明・・・
若者連中の中の一人が握手を求めてきた。
「バランガイ・キャプテン」だという。
「バランガイ」とは、フィリピンの行政区分の最小単位だから・・・日本でいうと部落、集落、村、地区・・・にあたるだろうか?
つまり、彼は「区長」もしくは「村長」ということになるかな?
拙者よりどう見ても10歳以上は若く見える。
「どこのバランガイのキャプテンなの?」と英語で尋ねたら、山の向うを指さす・・・
え?・・・ここから更に山奥に「村」があるのか?(唖然)

拙者は何度も「サラクサク第2峠」には登っているので、一人で行く事も可能だが・・・
毎回、村の中から「案内役」を出してもらって、毎回2名を雇って山に登ることにしている。
理由は、このように突然、現地人とバッタリ会った時のための対策なのである。
見知らぬ“外国人”が一人でウロウロと山中を歩いていたら怪しいでしょ?(大笑)
逆の立場で考えれば、当然、そうなるとおもうが・・・
しかも、山といえども、誰の土地かわからないわけで・・・
勝手に立ち入ったらトラブルの元である。
しかも、拙者は現地語が全く話せないので、英語で説明するしかないが、その英語が通じるかどうか・・・(大汗)
というわけで・・・現地人を同行させるのである。
ガイド兼ボディーガードである。(大笑)

最初、怪訝そうな顔をしていた彼らもニコニコ顔になり・・・
「気をつけて!」
「おお!サンキュー!」(笑)
フィリピン人のこういうフレンドリーなところが拙者は好きである・・・(笑)

まもなく子牛2頭と鉢合わせ・・・
以前は、滅多に牛に出会うことがなかったが、最近は村も少しは豊かになったのだろうか?(笑)
誰かが牛を放牧している・・・
我々に興味津々の子牛が、こちらに近づいては逃げ、また近づいては逃げ・・・を繰り返す。
そのうち、1頭が親牛の元に“報告”に向かった・・・

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まもなく、草むらから親牛が出てきて、我々の行く手を遮った・・・
「あの・・・急いでるんですけど・・・」(汗)
子牛め・・・親に何と“告げ口”したのか知らないが・・・
親牛はなぜか拙者を威嚇するのである・・・(大汗)
「何もしてねぇって!俺は何もしてねぇよ」(大汗)
幸いにも親牛はロープで繋がれていたので良かったが・・・
そうでなけりゃ、突進してきそうな怒り方である・・・(大汗)
「おい!アンディ!何とかしろ!」(大笑)
「虎の威を借る狐」ならぬ「親の威を借る子牛」・・・・(笑)
2頭の子牛は親にピタリと寄り添って、すまし顔で、こちらを見ている・・
「お前さぁ~・・・親に何て言ったの?」

ようやく“危機”を脱し・・・(大笑)
「サラクサク第2峠」に向かい登山を開始!(喜)

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右の写真の正面が「サラクサク峠」の「アキ陣地」がある日本軍名「天王山」・・・
この「天王山」には歩兵第39連隊の乾(いぬい)大隊が陣地を構築していた。
乾さんは、確か中尉だったと思うが・・・
フィリピン到着前に輸送船が撃沈され、大隊の大半が海に沈んでしまい大隊長も戦死、そのため、中尉の乾さんが大隊長となって再編成された部隊(約100名)である。(これを通称「海没組」と呼ぶ)
米軍にさんざん叩かれ80名までに減りヘトヘトになって後退してきた祖父は、この乾大隊に“収容”され、一息つく・・・
階級では祖父は少佐、乾さんは中尉なので・・・
その後、乾大隊は祖父の指揮下に入った。

乾さんは、20代半ばの若い人だが、かなりの人物だったようで・・・
死を覚悟して必死に「天王山」に陣地を構築していた。
当時の参謀は、ちょくちょく命令を変更する。
陣地が出来上がった頃に「陣地転換」(陣地移動)の命令を出し、部隊を移動させるのである。
とにかく一貫した命令が出せない参謀が多い・・・腹が据わっていないと言うか・・・
これを繰り返されると、現地の兵士たちは、もう真面目に陣地を造ろうなんて思わなくなる。
「どうせ出来上がった頃には別の場所に移動させられるんだろう」と・・・・
ところが、そういう時に限って米軍の攻撃を受け、易々と全滅したりするのである。
それもこれも、不出来な参謀のせいである。
そのような目には遭わせたくないと、他の部隊の指揮官たちから異例の上申が司令部に行なわれている。
「本人は死を覚悟して陣地の構築をしているので、乾中尉を絶対、他の場所へは移動させないで欲しい」と・・・
元々は第1大隊第2中隊の中隊長だった「中尉」なのに、再編成された大隊の「大隊長代理」として「乾大隊」と戦史に残るくらいなのだから、それだけでも、どういう人物だったかわかろうというものである。

「天王山」の争奪戦で、乾中尉は戦死した・・・
敵に包囲され、捕虜になる恐れがあったため自刃したとも言われているが拙者は真相は知らない。
祖父から聞くのを忘れた・・・(涙)
拙者が中学生の頃だったと思うが・・・
祖父が戦死した乾中尉のお母さんに、乾さんの戦死の状況を報告に行った話を聞いたことがある。
確か、姫路にお住まいだったと思う・・・
乾さんは母一人、子一人の「母子家庭」だったと記憶している。
乾さんのお母さんは祖父の話を聞いても、一人息子を亡くした悲しさより、戦死したのに二階級特進しなかったことが不満だったそうで、かなり祖父を責めたらしい。
「いくら説明してもわかってもらえなくてなぁ~」と祖父は言っていた。
お母さんの言い分では、立派に戦って戦死したなら二階級特進していいはずで、そうなれば少佐という階級になったはずである・・・とのこと・・・
「一人息子を失ったことより、階級のほうを気にするとは・・・あのお母さんには参った」と祖父が言ったことを覚えている。
お母さんは「軍国の母」だったのかもしれないが・・・
二階級特進ということで、息子の死は無駄ではなかった、お国の為に役に立ったのだと思いたかったのではなかろうか?
なんとも寂しい気がしたことを記憶している。

この「天王山」に米軍が攻撃を仕掛けてきたのは昭和20年3月初旬・・・
ここを攻撃したのは、祖父の部隊をカバリシアンで散々叩いて追いかけてきた米第32歩兵師団の米第127歩兵連隊(約4000名)であるが、1ヵ月の間に何度も山頂を取ったり取られたりを繰り返すという激戦となる。
米第127歩兵連隊は大隊長、中隊長のほとんどが戦死し、戦闘に耐えうる兵力が1,500名程度までに減少・・・・
ついに米第128歩兵連隊と交替することになった。
4月1日に「天王山」は完全に敵の占領するところとなったが、この日、米第128歩兵連隊連隊長のヘティンガー大佐が戦死している。
この時点で乾大隊も実質の玉砕となった。(終戦時に生き残っていたのは8名のみ)

右の写真の左端の窪んだところが「サラクサク第2峠」の頂上である。
左の写真は右の写真に繋がっているのだが・・・(パノラマ写真が撮れなかったので、こうなった)(苦笑)
左の写真の中央が「サラクサク第2峠」の「フユ陣地」の日本軍名「高田山」である。
「高田山」は、戦車第10連隊の高田中隊(佐藤さんの旧姓)51名が守っていた山だったので「高田山」と名付けられた。
祖父は、この「高田山」まで後退し、高田中隊を指揮下に入れ、ここを陣地として、追いかけてきた米軍と戦ったのである。
この写真を撮った場所は、ちょうど戦車第10連隊の蒲田中隊がいた「蒲田山」あたり・・・
我々は、この蒲田中隊が斬り込みのため通った道を歩いて「サラクサク第2峠」に向かう・・・

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正面に見える山が「フユ陣地」の「高田山」・・・
「サラクサク第2峠」頂上から登る。
初めてここに来た時に、このあたりで米軍の手榴弾を見つけた。
当時は、この山も「昼なお暗い密林」と言われるほどの木々に覆われていたが、今では頂上は禿山である。
70年前の米軍の攻撃がいかに激しかったか・・・
70年経っても森は再生されない・・・
山の形も、猛砲爆撃で形が変わってしまっているという。

「アキ陣地」の「天王山」を攻撃する前に、米軍は、この「高田山」を攻撃している。
写真の右側の斜面を這い登って攻撃を仕掛けてきたようであるが、祖父たちは、これをうまく撃退した。
その後も米軍は攻撃を仕掛けている。
三列横隊になって、「高田山」を銃を撃ちながら登る姿が「天王山」ふもとの日本軍陣地から良く見えたという。
ということは・・・そのときの米軍の攻撃ルートは、今、我々が登っているルートかも・・・

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「高田山」の頂上に到着!・・・祖父の陣地跡である!(喜)
写真の左奥・・・霞がかかってよく見えないが・・・あの辺りが「カバリシアン」・・・
あそこから祖父たちは、敵の猛砲撃を受けながら、拙者の後方に見える山々を移動して、ここまで後退してきたのである。
拙者のすぐ後方に見える山が「天王山」・・・・

拙者が立っている場所の少し左の斜面に砲兵観測所の壕があった・・・
この山の斜面にはいくつもの横穴壕があったそうだが、今ではその痕跡は皆無である・・・
すべて潰れているため、何の痕跡も無い・・・
当時は素掘りの横穴だったのだから仕方がないかも・・・土も柔らかいし・・・
ここに砲兵観測班がやって来たときの話しを生前、佐藤中隊長から聞いた事がある。
多分、やってきた砲兵は、野砲兵第10連隊の将兵だと思うのだが・・・
観測器材を担いでやってきて、早速、観測を始め、後方の砲兵陣地に試射の諸元を伝えた・・・
1発だけ、試射をする・・・
と・・・ちょうど、その1発が、「天王山」の斜面を登っている米兵の一団のど真ん中に命中!
米兵が空高く吹き飛ぶ姿がここから見えたという。
まさしく、その場所に拙者は今、立っている・・・
「あの正確さには驚いた」と佐藤中隊長・・・
すでに日本軍は弾薬の補給も絶え、所有する砲弾も少ない・・・
貴重な砲弾の1発を試射に使ったら、よりによってど真ん中に命中である!
「日本の砲兵はたいしたもんだと感心したねぇ~」と言う。

佐藤中隊長の話によると、自分に真っ直ぐ向かってくる砲弾というのは音がしないそうである。
ヒュルヒュルヒュル~と飛翔音がする砲弾は、自分の頭上を通過する弾か、自分の位置より離れた場所に着弾する弾なのだそうである。
じゃぁ、どうしてわかるのか・・というと・・・
これは勘しかないそうである。(苦笑)
「ん?何かおかしい・・・来る!来るぞ!」と思い、連隊長である祖父を後ろからタコツボに突き飛ばし、その上から覆いかぶさったら、数メートル離れたところに敵の砲弾が着弾したことがあったという。
爆発の時に飛び散った土が佐藤さんの首にめり込んだそうでそうで・・・
「あの時の痛みは今でも忘れられない」と仰っていた・・・
砲弾の破片じゃなく土で良かった・・・

日本兵にも米兵にも言えることだろうが・・・
勘が働かないと、砲弾が自分のところに飛んでくることには気が付かない。
日本軍の試射で吹き飛んだ米兵達は、その瞬間まで何も気付かなかったのだろう。
身を隠すこともなく悠然と歩いていたら・・・突然プツンと記憶が切れた・・・という感じか?
本人は自分が死んだことすら気が付いていないかも・・・・
勘の良し悪しで生死が分かれる・・・か・・・・

ここ「高田山」に座って景色を見ていると、日本兵達の姿が見える・・・
変な話なのだが・・・(大汗)
タッタッタッと銃を片手に拙者の目の前を横切る日本兵が見える・・・
拙者の右手前方には機関銃陣地があったのだが、そこに向かって弾薬箱を背にした日本兵が走っていく後ろ姿が見える・・・
「天王山」の北斜面に、へばりつくようにしながら頂上に向かって突撃をする何百という日本兵の姿が、チラチラと見える・・・
暑さのせいで頭が少しおかしくなったのか?(苦笑)
彼らは自分が戦死したことに気が付かないまま、今も戦っているのだろうか?
拙者は、ガダルカナル、ニューギニア、サイパン、グアム・・・等々、多くの戦跡を訪問しているが、日本兵が走り回っているのを見たことは一度もない・・・(汗)
まるで映画のワンシーンのように鮮明に見えるのだが・・・それは、ここだけでしか見えないのである。
他の戦跡では全く何も見えない・・・不思議なのだが・・・
思い込みが激しすぎるせいなのかもしれない・・・・
だから・・・祖父の指揮下で戦った将兵達を見に何度でもここに来てしまうのである。

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「高田山」から見た「天王山」・・・
山の中腹のように見えるあたりに崖崩れの跡のようなものが見える。
崖崩れのように見える場所には、大きな横穴があった。
戦後間もない写真に写っていたが、今はその横穴はない。
崖崩れのように見えるのは、その横穴の崩落した痕跡である。
その辺りに、わずかに「ビリヤ・ベルデ道」の痕跡が一部だが残っている。
祖父が歩いた道である・・・・
「天王山」にも登りたかったが、ちょっと時間が無いので、今回、ご案内するのは諦めた。

「天王山」の争奪戦は、写真の右側・・・緑の深い斜面を日本軍がよじ登って攻撃を仕掛けている。
その斜面と山の麓には日本軍の横穴陣地がいくつもあった。
今はその痕跡は残っていない・・・
山頂を占領された日本軍としては、「馬乗り」された格好になるため、なんとも落ち着かなかっただろう。
自分の壕のすぐ上から米兵のおしゃべりが聞こえてくるんだから・・・
最終的には、この「天王山」の麓で頑張っていた日本軍も玉砕してしまった。

「高田山」の頂上には、も「タコツボ」がいくつも残っている。
それを見て“デグチ支局長”が驚いていた。(笑)

この「高田山」を中心とした「フユ」陣地は4月11日には完全に米軍に占領されてしまった。
この時、ここを攻撃した米第128連隊第2大隊の記録によれば・・・
この「フユ」陣地では223名の日本兵の死体を確認したそうで、137個の横穴陣地にも日本兵を封じ込めたという。
つまり、壕の入口を爆破して塞ぎ、生き埋めにしたということか・・・
ここに陣を構えた祖父の連隊は、固有の残存兵80名に、佐藤中隊長率いる51名が加わり、さらにいくつもの部隊が祖父の指揮下に配属され、500名ほどまで兵力を回復して米軍と戦ったが・・・・
祖父がここを撤退する時には、生き残りは30名しかいなかったという。
そのうちの約半数が負傷兵である。
祖父たちは「サラクサク第1峠」に向かい、そこでまた戦うが、我々がこれから第1峠までは行くのは無理・・・
もし行こうとするなら1日がかりになってしまう・・・
時刻は11時半・・・・
もう戻らねばならない・・・

“オマリオさん”の家に戻る途中、「サラクサクの慰霊碑」に立ち寄りお参りする。

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この碑は昭和53年5月20日に、戦車第2師団の戦友会を中心とした生還者達によって建立された。
碑文は日本語、英語、タガログ語の3ヶ国語で、マニラで大理石に刻まれた。
前回、この碑文が消えかかっていたので拙者が修復したのだが・・・
今回確認したら、もう消えかかってしまっており、前回の修復は無駄骨であった・・・(大涙)
今回、気が付いたのだが・・・この碑文のプレートを留めている金属のピンが1ヶ所抜き取られており、もう1ヶ所は半分壊されていた。(驚)
金属はカネになるので、どこかのバカがやりやがったのだろう・・・(怒)

この「サラクサク峠」での米第32師団の戦死者は825名、重傷者を含めた損害は3200名だと言われている。
これに対して日本軍の損害は、昭和20年3月から5月末(戦闘の終了=米軍の占領宣言)までの3ヶ月間の戦死者は4600名と言われている。
が・・・日本軍の損害は、あくまでも推測、概算であろう。
そこまで正確にカウントしていたわけがない・・・
ここに投入された戦車第2師団の参加兵力は約4000名と言われている。
祖父の連隊のように戦車第2師団に配属になった兵力は、4400名・・・・
総数で8800名という説もあるが、根拠がハッキリしない。
多くの補充兵が、現地に到着する前にジャングルの中に雲隠れして逃げたという話を聞いている。
彼らが、その後、生きて帰れたか、それともジャングルの中でフィリピンゲリラに襲われ命を落としたか・・・・・
確たる記録は無いからわからない・・・

戦車第2師団ですら、生還率は20%程度である。
配属部隊に至っては、ほとんどが玉砕して壊滅している。
祖父の部隊ですら生還したのは11名だけである。
そう考えると、投入兵力と戦死者の比率が合わないのである。(汗)
8800名の投入で戦死者が4600名では、生還率が50%になってしまうのだが・・・・(大汗)

この碑が建っている丘は、“オマリオさん”の家のすぐ目の前にある。
ここは日本軍名「サル陣地」だというのだが・・・
拙者の勘では、「サル陣地」ではないと思う。(汗)
この辺りの正確な陣地配置図は作製されていない。
略図だけなのだ・・・・
戦車第10連隊の蒲田中隊長に生前、確認をしたら、氏も「あそこはサル陣地じゃないと思う」と仰っていた。
なぜならば、蒲田中隊は2度にわたり「サル陣地」に応援の部下を派遣しているからである。
戦車第2師団司令部から「サル陣地に応援部隊を派遣せよ」の命令を受け、部下を派遣し、陣地に到着して声をかけたら相手は米兵だった!(唖然)
一斉射撃を受け、部下の多くが戦死した・・・
これを師団司令部に報告したが、司令部では「米軍に占領されてはいない。ここに伝令が来て応援を要請しているんだから、もう一度、兵を派遣せよ」と命令・・・
再度、部下を派遣したが、陣地はすでに米兵が占拠しており、今度もまた撃たれて多くの部下を死なせてしまった。
結果からいうと、師団司令部の言っている「サル陣地」の位置と、第一線の蒲田中隊の言う「サル陣地」が全く違う場所だったのである。
「現場に来ず、確認もせず、地図だけ見て命令をするからこういうことになるんだ!」と怒っていた。
「あのいい加減な命令さえなければ、多くの部下が死なずにすんだのに・・・」とも言っておられた・・・
蒲田中隊長は死ぬまで師団司令部を恨んでいたのである。
中隊長としては多くの部下を無駄に死なせてしまった悔しさが今も残っている・・・
そういうわけで、現場が混乱するほど陣地の位置が不明確なのである。
戦後、どこかの誰かが(本当は名前を知ってるけど・・・)「ここがサル陣地です!」と言ったが為に、それが定着している。
“声の大きな奴”に押し切られた形である。(汗)

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慰霊碑の丘から見た景色・・・(一応、2枚の写真は繋がっている・・・)(笑)
左の写真の中央、奥にある山に「サラクサク第1峠」がある。
その手前に見える一段平らに見える場所辺りが「スズメ陣地」だと思うのだが・・・
「スズメ陣地」は、向うからこちらに向けてかなり広い範囲にわたっていたようである。
右の写真の中央に道路が見えるが、あの辺りまで続いていたのではないかと思われる。
その「スズメ陣地」は、「高田山」を撤収した祖父が次に指揮を取った陣地でもある。
あの場所が「スズメ陣地」となると・・・この慰霊碑のある丘あたりは「東スズメ」もしくは「北スズメ」と呼ばれた陣地になると思うのだが・・・確証は無い・・・(涙)
左の写真の、一段平らになっている場所の脇にある尾根に登って、こちらを見たことがある。
そのときの印象では、この丘は、まるでライオンが寝ているような形に見えるのである。
「スズメ陣地」の北東に「シシ陣地」というのがあったのだが・・・
形からいうと、このライオンが寝そべっているように見える、この丘こそ「シシ」と名付けるに値するのだが・・・
これまた確証は無い・・・(涙)
生還者ですら、戦後20年も経って来た時、自分の陣地跡を確認するのに苦労したというのだから、拙者にわかろうはずもない。
しかし・・・あくまでも勘であるが・・・拙者の勘では、この丘は「サル陣地」ではない・・・(苦笑)

右の写真の中央、瘤のように見える場所が、さきほど我々が登った「高田山」、その右の頂上が平らな山が「天王山」である。

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慰霊碑の場所から、北西の方向を見る・・・
左の写真中央の青い屋根の建物がある場所が学校である。
その後ろに見える、ちょっと尖がった山が「ナツ陣地」である。
初めてここに来た十数年前は、もっと山頂は尖がっていたのだが、いつの間にか先端部が崩れてしまったようである。
元々は、もっと大きな山だったのではあるまいか?
米軍の砲撃や爆撃でかなり山が崩れてしまい、あのような形になっているような気がする。
尖がっている山頂のように見える部分は、実は山の真ん中が吹き飛ばされ、山の斜面の一部があのように見えているのではないかという気がする。
日本軍は北から「ハル(春)」「ナツ(夏)」「アキ(秋)」「フユ(冬)」と陣地名を付けていた。
その他には指揮官の名前や花の名前(「サクラ」とか「ウメ」)、動物の名前などを付けていた。
右の写真中央の赤い屋根の家が“オマリオさん”の家である。
その後ろの山の裾野が「ハル陣地」があった辺りである。

時刻は12時半を過ぎた・・・・急いで戻らねば・・・

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慰霊碑のある丘・・・・
う~ん・・・・この辺りの土地が売りに出ているから買えと“オマリオ氏”は言ってたのかな?
ここに家を建てて、「墓守」ならぬ「慰霊碑守」になれってか・・・(苦笑)

「オマリオ宅」に戻り、昼食・・・・
食後、“デグチ支局長”の取材・・・・
“オマリオ夫人”から「昔は日本から生還者がよく来て山に登ったが、今では鈴木さんしか、あの山に登る日本人はいない」と笑いながら言われてしまった・・・(照)
日本から小グループの慰霊団が時々来るが、「サラクサク峠」に登る人はいない・・・
時間の関係で、慰霊碑をお参りするのが精一杯なのである。
山に登るには村に一泊しなければ無理である。
また、戦友会の生還者たちは、もう高齢になってしまい、慰霊にも遺骨収集にも来る事ができない。
この村では、日米の戦闘と、日本軍が畑の農作物等食糧を奪った為に、餓死者も出たという話である。
その罪滅ぼしの意味もあって、戦友会では公民館を寄付したり、学校にオルガンを寄付したりと、来るたびにも何らかのカネも落としていったのだろうが・・・・
今は、そういう人もいなくなってしまった・・・
“オマリオ夫妻”は、当初から日本の慰霊団の為に、いろいろと世話を焼いてくれた方である。
「誰も来なくなって寂しくなった」と奥さんが言う。
もう30年以上も前に、よく来ていた生還者たちの名前もよく覚えていた。
その記憶力の良さには驚いたが・・・・
これらの方々は、もう既に他界されている・・・

戦時中のことを知っている村の高齢者を紹介してくれるよう事前に拙者から“オマリオ夫人”に頼んでおいたが・・・・
残念ながら、該当する人物はいないそうで・・・・(汗)
どうもフィリピン人は長生きをしないのか・・・・お年寄りに会う事は滅多にいない・・・
この村で戦時中の事を知っているのは、今回、ガイドをしてくれたおじいさんだが・・・・
彼はマリコ村出身ではなく、戦時中は「サンニコラス」の近くに住んでいたそうである。
当時は、子供だったそうだが、その当時の思い出話を語ってもらった。
こういう時にガイドの“ステラさん”が役に立つ・・・(笑)
日本語と英語とタガログ語が出来るから・・・・

とりあえず、戦跡の訪問、戦史の説明、エピソード、現地人の体験談・・・と、拙者が考えていた“取材”は無事に完了!(大喜)
一応、これだけセッティングしましたが・・・・記事に出来ますかね?(大笑)
あとは、支局長の“腕”次第である・・・・(大笑)
支局長からは「鈴木さんと一緒じゃないと、あの戦跡は歩けなかったから、それだけでもかなりの収穫ですよ」と喜んでもらえた。
記事になろうとなるまいと、とにかく少しでも祖父達の戦いをわかっていただけたら、それだけでもありがたい・・・・
記事は適当なタイミングを見て、配信するとのこと。
共同通信社が配信する記事を、新聞各社が購入して掲載してくれないと、今回の取材は日の目を見ることはない・・・
さて・・・どうなりますか・・・(苦笑)

当初の予定から、少し遅くなってしまったが、そろそろ、おいとませねば・・・・
これから、更に北上する予定なのである。
“オマリオ夫人”には宿泊代と食事代を「謝礼」という形で、“デグチ支局長”から支払ってもらう。
拙者自身はは、ガイド料のような謝礼をいただかない。
そういうつもりも全くない・・・
その代わりに、経費はすべて社のほうで持ってくれるという。
謝礼以上の「厚遇」である・・・
いやぁ~、もう、感謝、感謝・・・である。

旅行 | 12:14:44 | Comments(0)
「池の台」のM4戦車
夜が開け切らない午前5時前には、もう目が覚めてしまった。(大笑)
何度も寝直すが、すぐに目が覚めてしまう・・・(大笑)
もう、嬉しくて仕方が無いのである!(大笑)
そのうち、鶏が鳴き始め、ようやく外が明るくなった・・・

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これはカメラのレンズが曇っている訳ではない・・・
霧がかかっているのである。(笑)
数メートル先は真っ白で何も見えない・・・
これは毎度のこと・・・
この時期は、ちょうど祖父たちが戦っていた時期と同じ時期である。
昭和20年・・・戦時中も同じように霧が深かったのだろうか?
以前、生還者に確認したことがあるが、当時も朝は霧が深かったという。
う~ん・・・・まさしく「追体験」である。
この早朝の霧の中、日本軍は移動をしたり、伝令を走らせたりしたのだろう。

朝もまた寒い・・・・
Tシャツ1枚の運転手君・・・やっぱり昨晩は寒くて寝られなかったという。(大笑)
「だから言ったでしょ?・・・寒いって・・・」
「フィリピンに、こんな寒いところがあるなんて信じられない」と言う。(大笑)
ルソン北部の山岳地帯をナメてもらっては困る・・・(大笑)
「日が昇れば暖かくなるから、それまで我慢して!」と慰める。(笑)

“オマリオ氏”は、我々が山に登っている間に「バギオ」に帰るという。
そういえば、いまだかつて一度も二人で写真を撮ったことがないので、記念写真を“デグチ支局長”に撮ってもらう。

ここに来る前に道路がかなり拡幅され便利になるようなので、この村の地価も上がり、村も活気が出るのではないか?土地を買うなら今のうちかも・・・という話を“ステラさん”に話したのだが・・・
そのことを“ステラさん”が“オマリオ氏”に話したところ、彼が大いに乗る気になってしまった・・・(大汗)
「ちょうど慰霊碑の丘の下あたりに適当な土地があるから、それを買って家を建てたらどうか?」と言う。(唖然)
へ?・・・拙者は、ここに移住するなんて言ってないんですけど・・・(汗)
「俺が何とか手を打ってやるから・・・家を建ててここに住んだらいい」と言う。
「で・・・ぼくがここに住みついて、慰霊碑の管理をするのか?」と言ったら、ニヤリと笑う・・・(汗)
おい、おい、・・・それ、マジで言ってるの?
「でも、外国人は土地を買うことは出来ないから無理ですね」と言ったら・・・
「大丈夫!書類は全部俺が揃えるし、俺がサインすれば買えるから安心しろ」と言う。(唖然)
う~ん・・・まだ、本気で自分の人生設計を考えていないんですけど・・・(笑)
晩年は、ここに住んで・・・慰霊碑を守って・・・・ここに骨を埋めることになるのか?
それも悪くはないが・・・(笑)
ちょっと、まだ気が早いような気がしますが・・・(汗)

前回来た時に、彼が透析を受けている話を聞いたので、「御見舞い」として奥さんに多少の額を手渡したことがある。
人工透析は、結構カネがかかると話では聞いていたので、今回も「御見舞い」と称して、治療代に使ってくれるよう、多少の額をお渡しした。
それで、なんとかお礼をせねばと思っているのだろうか?
「俺が手を貸すから、ここの土地を買って家を建てて住め」としきりに勧めるのである・・・(大汗)
いやはや・・・参った・・・(苦笑)

朝食を済ませ、家の外にあるテーブルで食後のコーヒーを飲みながら、しばしおしゃべり・・・
今回のガイド役のおじいさんと高校生の青年がやってきた・・・
この二人に先導してもらい、拙者と“デグチ支局長”の2人で「サラクサク峠」の戦跡を見に行く。
“ステラさん”とドライバー君にはお留守番・・・(大笑)

午前8時過ぎ、“オマリオさん”の家を出発!
最初に向かうのは、日本軍が「池の台」と呼んでいた場所・・・
ここに米軍のM4シャーマン戦車の残骸が今でも残っているのである。

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午前8時を過ぎた頃から霧が流され晴れてくる・・・
これまた、いつものこと・・・
山の斜面に道が見える。
ここを歩いて行くのだが、この道は多分、祖父たちが米軍を引き付けながらジワジワと後退してきた道だと思う。

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この道は、祖父たちが歩いた頃は、もっと狭い道だったのではあるまいか?
その後、後ろから追いかけてきた米軍はブルドーザーを導入して、道幅を拡幅し、トラックや戦車が通れるようにした。
その当時は急げ、急げの戦闘中であるから急造の道路だったに違いない。
そして戦後の何十年もの間に崖崩れや路肩が崩れ、今の道幅が残ったものと思われる。

ちょうど、この写真を撮影した辺り・・・
拙者が初めてここに来た時は、ここは崖が崩れていて道が消滅していた場所である。
ここは谷底に向かっての真っ直ぐな斜面になっていて、ここを通るときには山肌にへばりつくようにして渡った・・・
それでなくとも高所恐怖症なのである!(大汗)
足を滑らせれば、真っ逆さまに谷底に滑り落ちていく・・・・
下を見ちゃったのがいけなかった・・・(大笑)
腰が抜けたと言うか、足が凍りついたと言うか・・・(苦笑)
なかなか次の一歩が出せなくて、この場所を通り抜けるのに苦労したことを覚えている。
本当に、あの時は怖かった・・・(涙)
その後、再び道を造ったのだろう。
今では、あの崖崩れの痕跡は残っていない・・・
今回は楽に通り抜けることができた・・・(大笑)

出発してから1時間弱で「池の台」に到着・・・・

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戦車の残骸は今も残っていた・・・
その戦車の前に土手があるが、その土手の脇に人工的に造られたと思われる窪みがあるのを“デグチ支局長”が発見した。
「これは何ですかね?」
拙者が以前、来たときには、こういうものは見なかった・・・
というのも・・・この辺りには草木が茂っていて、土手があることすら知らなかったのである。

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写真の向こう側・・・つまり、土手の向こう側に日本軍の陣地がある「サラクサク峠」がある。
土手のこっち側が米軍の陣地で、横穴の痕跡は、こちら側にある。
日本軍の攻撃から身を守るための退避壕の跡か、それとも弾薬等を集積した壕の跡か?
可能性としては後者のほうだろう。
あくまでも拙者の推測であるが・・・(笑)
弾薬などをそのまま野積みしていたのでは、日本軍の攻撃を受けたときに簡単に誘爆してしまうだろう。
土手の横穴壕に入れておけば、その心配はなくなるはずである。

ここには米軍のM4戦車が1両だけ残されているが、当時は、何両かが横一線に並んで日本軍陣地に対して砲撃をしていたと思われる。
土手の横穴跡が等間隔にあるところを見ると・・・そういう気がする・・・

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この戦車・・・
いつの間にか砲塔の部分が緑色に塗られていた!(唖然)
村のガキどもらの仕業だな・・・
以前に来た時は、当時のままだったのだが・・・
わざわざ緑色のペンキをここまで持ってきて塗ったのか?(唖然)
まったく、とんでもねぇことをしてくれたものだ・・・

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後ろから見た戦車・・・
戦車第10連隊の佐藤(旧姓・高田)中隊長の話によると、この戦車を破壊するために1週間も近くの草むらに隠れて、攻撃のタイミングをみていたという。
ようやく隙を見つけ、戦車の左後方から走ってきて、この戦車に飛び乗り手榴弾をぶち込んだという。
ここで、ジッとこの戦車を見ていると、そのときの様子が目に浮かぶのである。(笑)
最初にここに来た時に、佐藤中隊長が、どのあたりに隠れていたのか、どうやってこの戦車に飛び乗ったのかと、戦車の周囲をウロつき、自分ででも試しに「戦車攻撃」をやってみたり、歩数を測ったりしてみた・・・
次に来た時には、なんとこの戦車の周囲にいくつもの穴が掘られていた。
ガイド役をした村の青年に尋ねたら、前回、拙者がこの戦車の周囲をウロウロしていたので、たぶん「山下財宝」(山下将軍がフィリピンに持ち込んだという金銀財宝)が、この辺りに埋められているに違いないということで、村の若い連中が「宝探し」をしたそうだ・・・(唖然)
ここは米軍の陣地である・・・・日本軍が財宝なんて隠せるわけがないだろうに・・・(苦笑)
戦車の周囲をうろつく拙者の挙動がかなり怪しかったんだろうねぇ~(大笑)
距離を歩数で測ってみたりしていたから・・・(苦笑)
日本人が、歩数を測ったりしているんだから、きっと財宝を埋めた場所を探していたに違いないということになったらしい。(大笑)
今は、その穴も崩れたのか埋めたのか・・・残っていない・・・(笑)

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戦車の後ろにある台地・・・
日本軍が「池の台」と名付けたこの場所・・・池はどこにも見当たらない・・・(苦笑)
池が無いのに「池の台」と名付けたのか?
何でだろう?
それとも、当時は池があったのか?
「池の台」の名前の由来は不明・・・
生還者がもう一人もいない今となっては、永遠の謎か・・・(汗)

それにしても、この戦車・・・どこからやって来たのだろう?
唯一の道は、先ほど我々が歩いた、あの狭い道しかないのである。
あそこを通ってきたんだろうなぁ~(大笑)
この「池の台」は、今では孤立した一つの丘となっている・・・
山道からこの台地に入る道は消滅していて、我々も大きく迂回して日本軍陣地方向からこの台地にたどり着いた。
戦後70年の間に何度も崖崩れや土砂の流出があって台地に繋がる道は消えてしまったようである。

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今回、新たな発見をした!
この写真では、ちょっと見づらいが・・・
「池の台」の端から下を見た写真である。
この写真の右側に狭い小路が1本通っている・・・・
「池の台」の外周部をグルリと回りこむ道である・・・
これは、まさしく祖父が歩いた道!(大喜)
生存者80名を引き連れて、祖父は、この道を歩いてきたのである!
この「池の台」の外周部の小路を通り、「サラクサク第2峠」に向かって後退していったのである。
どんな事を考え、どんな景色を見ながら、ここを歩いたのだろう・・・
あそこまで降りて、あの道を歩いてみたい衝動にかられたが・・・時間が無い・・・(大涙)
う~ん・・・残念だ・・・・
次回、一人でもう一度来るしかないな・・・

時刻は9時半・・・・そろそろ「サラクサク第2峠」に向かわねばならない・・・
「池の台」から一度降りて、そのまま進むと「サラクサク第2峠」の日本軍名「アキ陣地」のある山の裾野にたどり着くのだが・・・
以前は、問題なく歩けたが、今回、そこへ向かう道は密林に囲まれていた!(汗)
あれ?・・・・いつの間にこんなに木が育ったんだ?
誰かが植えたんじゃあるまいな?・・・・と思うくらいの森林と化していた・・・(唖然)
わずかに歩幅程度の細い道(多分当時の道)は残っているようだが、ガイド役のおじいさんは、この道を通るのを拒否・・・(大笑)
密林の中では先の見通しもきかず、万が一のことがあってはマズイと思ったのだろう。
先ほど通った道をそのまま引き返すことになる。
この最短コースを取れば、時間的には半分以下で陣地に到着するのだが・・・
やむを得ない・・・
現地の人に従うのが、こういう時は賢明である。
拙者に万が一のことが起こっても構わないが・・・(大笑)・・・・“デグチ支局長”にケガでもされたら困る・・・

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帰り道の途中で見た景色・・・・
写真の一番奥の山は、形から言って、日本軍名「ゲリ山」ではないかという気がするが、確証は無い・・・(汗)
「ゲリ山」も日本軍の陣地が置かれていた。
その手前の山の裾野の台地部分・・・・禿山となっているが・・・
たぶんここも日本軍の陣地跡だろう。
というのは・・・米軍は砲撃と空からの爆撃で徹底的に日本軍の陣地を攻撃し森を焼き払った。
おかげで、そういう場所は、今でも木が育っていない・・・
だから、周囲が密林なのに、一部が禿ているような場所は、日本軍の陣地跡の可能性が高いということになるのである。

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ここに来る時に見た景色・・・・帰り道に振り返って見る・・・
もう完全に霧は晴れた・・・・これから暑くなるぞ・・・(笑)

旅行 | 10:22:24 | Comments(0)
「マリコ村」に宿泊
「プンカン」を出発し・・・・
途中の「バレテ峠」は、そのまま通過して・・・(笑)
国道5号線上の「サンタフェ」から左に折れて山道を走る。
「マリコ村」に向かう、この山道・・・
前回来た時に道路拡幅工事をしていたが、今回も工事をしていた・・・
「サンタフェ」から「マリコ村」に向かう途中に「イムガン」という集落があるが・・・
戦時中は、ここに日本軍の戦闘指揮所が置かれたことがある。
この集落までの道路は完全に拡幅・舗装も完了していた。
「マリコ村」までも、もう少しのところまで工事が進んでいる。
この拡幅工事が完了したら、かなり交通の便が良くなるだろうなぁ~

しかし・・・途中に、“けもの道”のような狭い道が山の斜面からこの道路に繋がっている場所があったのだが・・・
拡幅工事で、山の斜面が削られたせいで消滅している!(涙)
なんと!・・・・ショック!
この狭い小路は当時の「サラクサク道」なのである。
人間一人が一列にならねば通れないこの道を、日本軍の兵士たちが歩いたのである。
「サラクサク峠」で戦っている祖父達の部隊に食糧や弾薬等を運ぶ輜重兵が背中に重い荷物を背負って登っていった道・・・
その道が消えている!・・・あ~ショック!(涙)

午後5時過ぎに無事に「マリコ村」に到着・・・
今晩は、この村の“オマリオさん”の家に宿泊して、明朝、目の前の「サラクサク第二峠」に登る予定・・・
「サラクサク峠」に登るときは、いつも“オマリオさん”の家に泊めてもらっている。
もう10年以上のお付き合いである。
前回訪問した時は、ご主人の“オマリオさん”はこの家に住んでいなかった。
週にに3回、人工透析をするため、大きな病院のある「バギオ」に住んでいると奥さんが言っていた。
今回、拙者が来るというので、“オマリオさん”は1日だけ自宅に帰っていた。
いやぁ~何年ぶりだろう・・・久しぶりの再会である。(大喜)

その他、自宅には多くの人たちがいた・・・
何事かと思ったら、“オマリオさん”から紹介されたが・・・
え~と・・・・彼の英語は全く理解不能・・・(大汗)
どうも、どこかの偉い人らしい・・・(大笑)
本人と話をして見たら、以前は地方議員(日本でいうと市議会議員かな?)だったらしいが、政治の世界に嫌気がさして、政治家を辞め、自分の会社の利益を少し回してボランティアをしているという。
彼は中国系のフィリピン人・・・
さすがは中国系は商売上手だ・・・(笑)
が・・・この人は話してみたら拙者の思っているイメージとちょっと違った。
「政治は汚いから政治家を辞めた」とハッッキリ言うとはねぇ・・・
「政治家としてより、ボランティアで人の役に立つほうがいい」と言う。
おや?・・・ちょっと違うな・・・この人・・・
中国人は大嫌いという偏見を持っている拙者だが・・・(大笑)
ん?・・・ちょっと違うな・・・この人・・・
結構、好感を持てちゃうな・・・この人・・・(大笑)

今回、この村の人に配る為の物を、いろいろと持ってきたようで・・・
“オマリオ夫人”に渡していた。
“オマリオさん”の奥さんは、この村で若い時から教師をしていて、校長先生にまでなった方である。
今は定年退職しているが、今でも村のまとめ役をしているようである。
そういうこともあって、昔からの知り合いらしい。

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寄付の品々の贈呈をした記念写真を撮っているところを、後ろから撮影する・・・(大笑)
すると・・・・「お前も入れ!」と無理矢理、拙者も記念写真に加わることになってしまった・・・(大汗)
あのぉ~・・・拙者は何も寄付してませんけど・・・(苦笑)

一人の青年がニコニコしながら声をかけてきた。
ん?・・・誰?(苦笑)
「前回、うちの親父がガイドをしたんだ」と言う。
「あ~・・・あのおじいさんの息子さん?」
「今回も、ガイドをするからよろしく」とのこと。
英語が全然話せないというおじいさんだが・・・
拙者も同じようなもの・・・(大笑)
そういうわけで、会話は成り立たないのだが、あの時は、なぜか話が通じたのだから不思議である。
知った顔がまたガイドをしてくれるならありがたい・・・
「OK!OK!よろしく!」(大笑)

日が暮れて夜になる・・・・
ここは標高1500mの山中・・・・
朝、晩はかなり冷え込む。
事前にその話もして、長袖のシャツくらいは用意するように言っておいたのだが・・・
誰も拙者の話を信じていない・・・(唖然)
拙者はジャージ持参だからね・・・と言っておいたのだが・・・
ドライバー君に至っては薄手のTシャツである!
「もう、寒くて、寒くて・・・」と震えている。
“ステラさん”ですら、半袖、夏仕様・・・
前回も一緒に来て泊まったんだけど・・・その時のことをすっかり忘れている。
「寒い!寒い!」を連発・・・(大笑)
“デグチ支局長”も「ちょっと甘く考えてました」とのこと・・・(笑)
「俺はしらねぇ~よぉ~・・・ちゃんと事前に教えておいたんだから・・・」(大笑)

“オマリオさん”家族と一緒に夕食・・・・
明日の山登りの打ち合わせと、“デグチ支局長”と現地人へのインタビュー取材の打ち合わせを行なう。

旅行 | 20:09:02 | Comments(0)
「プンカン」に立ち寄る
昼食は「カバリシアン」から「サンニコラス」を経由して車で20分ほど引き返した「タユグ」という町にあるファストフード店で食べることにする。
この店には前回も来たことがあるので、知っている店のほうが気が楽である。(笑)

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で・・・・食後のデザートは・・・
“デグチ支局長”が近くの店で買ってきてくれた「ヤクルト」!(大笑)

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日本では「ヤクルト」をじっくり見たことなんてないので、何が書かれているかなんて気にもしませんでしたが・・・
「CURTURED MILK」って書いてある・・・
CURTURED MILK?
日本語にすると・・・「教養のあるミルク」?・・・「洗練されたミルク」?・・・「培養されたミルク」?(大笑)
ヤクルトって・・・どんな飲み物だ?・・・これ・・・
この「ヤクルト」は「ヤクルト・フィリピン」という会社が販売している。
ヤクルトの現地法人らしい・・・
住所は「Calamba, Laguna, Philippines」・・・・
ラグナ州のカランバに会社があるらしい。
ラグナ州のカランバと言えば、終戦時に投降した日本兵が収容された捕虜収容所があった場所である。
拙者の祖父も、この捕虜収容所に収容されていたのである。
あら・・・お懐かしい地名・・・(喜)

ここから30分ほど走り「サンホセ」まで戻る。
分かりやすく言うと・・・今回はY字に移動しているのである。
Y字の付け根のところがマニラで、そこから上(北)に向かい、Y字の左(北西)の枝に進む・・・
そこが「サンニコラス」「カバリシアン」である。
で・・・今度は引き返し、Y字のVの部分、つまり分岐点が「サンホセ」・・・
今度は「サンホセ」から右(北東)へ向かい上って行くのである。(これでわかるかな?)(苦笑)

067_convert_20150727215912.jpg (サンホセ)

ここから国道5号線を北上する。
この国道は、マニラから北部ルソンへ退避する日本軍や民間人が通った道である。
その国道5号線上に「プンカン」があるのだが、ここは町ではなく、小さな集落という程度の場所である。
で・・・この道路わきに慰霊碑があるので、そこに立ち寄ってお線香をあげようと思うが・・・
目印になるようなものもない場所なので・・・うっかり通り過ぎてしまうかも・・・
と・・・思っていたら、途中で道路工事にぶち当たってしまった!
で・・・迂回路を示されたが、これが田んぼの畦道のような狭くてクネクネとした道・・・
あらら・・・国道上を走っても見落としやすい慰霊碑なのに・・・
迂回路を走ったら、もっとわからなくなる・・・
得意のタブレットを使って、ナビの地図を表示し、現在位置を確認していたが・・・
なんと・・・このあたりから電波が入らなくなり、現在位置がわからなくなった・・・(涙)
万事休す・・・・である。
ウロウロ走り回った挙句、ようやく国道に戻る。
が・・・ここがどの辺りなのかがわからない!(大汗)
通り過ぎちゃったかも・・・・

「サンホセ」を出て1時間後・・・・迂回路を走ったため、かなり時間をロスしたが・・・
ん?見覚えのある景色・・・
「プンカン」である!
あった!あった!(喜)
通過してなかった!(大笑)
まぁ~いい加減な道案内・・・支局長に申し訳なし・・・
慰霊碑の所で車を停め慰霊をする。

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070_convert_20150727224446.jpg (『内藤大隊並金子中隊追悼之碑』)

(碑文)
私達は第二次世界大戦におけるフィリピン共和国 アメリカ合衆国 日本国 三国の不幸な犠牲者を此処にお祀りします
願わくは総ての世界の国民が手を携えて日日希望に輝き明日の幸を築き絶えることのない永遠の平和をもとめます
昭和55年1月吉日

大変失礼な言い方になるが・・・何を言っているのかサッパリ理解できない碑文である。
「内藤大隊」と「金子中隊」を追悼する碑のはずだが・・・
これら二つの部隊に関しては全く記載されていない。
これで「追悼」になるのやら・・・(大汗)

ちなみに「内藤大隊」とは、歩兵第10連隊第2大隊(内藤大隊)のことで、「金子中隊」とは独立歩兵第356大隊の第4中隊(金子中隊)ではないかと思うが、確証はない・・・
なにせ、部隊に関しては何も記されていないのだから・・・
「内藤」とか「金子」と言われても、どこの部隊かわからないというのでは「追悼」にならないのでは?

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(『鉄歩兵第十連隊比島戦没者追悼之碑』)

(碑文)
連隊本部
  通信中隊
  速射砲中隊
  連隊砲中隊
  作業中隊
第1大隊本部
  第1中隊
  第2中隊
  第3中隊
  第1機関銃中隊
  第1大隊砲小隊
第2大隊本部
  第5中隊
  第6中隊
  第7中隊
  集成第8中隊
  第2機関銃中隊
  第2大隊砲小隊
第3大隊本部
  第9中隊
  第10中隊
  第11中隊
  第3機関銃中隊
  第3大隊砲小隊
右の歩兵第10連隊は戦没者2942名
実に92%の多きに達しております
ご冥福をお祈りいたします
岡山バレテ会有志之建立  

碑に書かれている「鉄歩兵第十連隊」の「鉄」とは、姫路で編成された第10師団のことで、秘匿名(通称号)を「鉄兵団」と言った。
拙者の祖父の連隊も、この鉄兵団(第10師団)に所属する部隊である。
そういう意味でも、歩兵第10連隊は拙者にも縁のある部隊といえる。

ここ「プンカン」には、当初、拙者の祖父の部隊が配置された。
しかし、地形的に米軍の進攻を食い止められるような場所ではないことを進言し、結局、先ほど訪れた「サンニコラス」「カバリシアン」に陣地を転換することとなった。
第10師団の主力から遠く離れた場所に飛ばされたのである・・・(苦笑)
余計なことを言ったせいなのか?(笑)

米第25歩兵師団は北へ北へと逃げる日本軍と民間人を後ろから追いかけてくる。
これを食い止める最大の場所は、この先にある「バレテ峠」・・・
ここに第10師団主力が展開する。
このメインの防衛線の前面に前哨陣地を設定するのだが、その場所に「プンカン」を選んだのである。
米第25歩兵師団はハワイで編成された部隊で、ガダルカナル島で日本軍と戦った部隊である。
愛称は「トロピック・ライトニング」・・・部隊のマークは稲妻の図柄である。
その部隊が南から北へと日本軍を追い上げてくる。
そして、西から東に向かい第32歩兵師団がこの国道5号線を寸断するため進撃する。
それを食い止めることになったのは、我が祖父の連隊である。
陣地転換をしたが、結局は真正面から米軍と戦うことになったのである。

祖父が去った後の「プンカン」には、新たな部隊が配置された。
通称「プンカン守備隊」と呼ばれた部隊である。
兵力は約2000名、祖父の部隊(600名)の約3倍強の兵力である。
人数が多ければなんとかなると思ったのだろうか?
命令を下したのは第14方面軍の参謀だったらしい。
兵力より地形に問題があるから、ここはダメだと祖父は進言したのに、参謀は耳を貸さなかったようである。
こういうお粗末な“作戦”を立てる奴に限って、イザとなったらフィリピンを脱出して日本にいち早く逃げ帰るのである。
そして、戦後も生き長らえ・・・慰霊祭にも顔を出さず、生涯を終えるのである。
バカを見たのは命令に従い戦死した人たちということになる・・・
「上官の命令は陛下の命令」というなら、それなりによく熟慮して命令を出してもらいたいものだ。
天皇陛下に失礼であろう?・・・お粗末な命令を出しちゃ・・・

「プンカン守備隊」の指揮官は勤兵団(第105師団)の井上大隊長。
この守備隊の主力は鉄兵団(第10師団)の歩兵10連隊、歩兵39連隊、歩兵63連隊や野砲兵第10連隊から抽出された、いくつかの大隊や中隊なのだが、なぜか勤兵団の大隊長が指揮官なのである。
これが拙者には理解できない・・・
こう言っては失礼だが、“よそ者”の勤兵団の大隊長に全体の指揮をとらせるのか?
統一指揮を取らせるなら鉄兵団の部隊から指揮官を出させるべきではないか?
各種雑多な部隊で編成されている「プンカン守備隊」だが、主力は鉄兵団の部隊なのである。

結局、国道5号線を挟んで両側の丘に勤兵団の井上大隊と鉄兵団の内藤大隊が分かれて配置に付いた・・・
心情的に、そうなるのは当然かも・・・・

米第25歩兵師団の米第161歩兵連隊が内藤大隊の正面から攻撃を開始・・・
これに対して内藤大隊は必死の防戦をするが、陣地のある丘の最南端の「ネコ陣地」を放棄する。
これを知った小沼少将は激怒し、陣地の奪還を命ずる。
一歩も下がるな・・・がモットーの小沼少将の相変わらずの命令である。
鉄兵団司令部は歩兵第63連隊主力に反撃を指示するが、連隊主力が「プンカン」に到着した時には、すでに守備隊は撃破された後だったそうである。
内藤大隊長は生存者75名を率いて最後の突撃を敢行し戦死・・・
歩兵第63連隊は連隊長の独断で反転して撤退・・・
これにまたもや小沼少将が怒った・・・
この「プンカン」は、どうやっても地形的に守りづらい地形なのである。
モタモタしていたら、周囲から米軍が浸透し、丘ひとつ丸々包囲され殲滅されてしまうような場所なのである。
しかも、この「プンカン守備隊」の任務は敵の進撃を遅延させるはずなのだが・・・
陣地を取られたら取り返せ・・・では、遅延作戦にならないのでは?
一箇所だけでの損害ばかりが多くなり、敵の進撃を食い止める兵力がなくなってしまう・・・
そのあたりを考えて歩兵第63連隊の連隊長は独断で反転したのではあるまいか?

小沼少将の激怒に遭い、鉄兵団司令部は改めて歩兵第63連隊に反撃を命じた。
が・・・すでに戦線は崩壊・・・
大苦戦していた井上大隊も大隊長が戦死・・・
歩兵第63連隊には反撃の中止命令が出される。
2000名を擁した「プンカン守備隊」は約1ヵ月の戦闘で120名ほどに減り、撤退することとなった。
実質、壊滅である・・・
それでも、よく皆さんは頑張ったものである。
この不利な地形にもかかわらず・・・
かわいそうだと同情するより、よく頑張ったと褒めてやらねば・・・

小沼少将は、その後、さらに戦況が悪化したころ、さっさと日本に脱出した・・・・(唖然)
これは大本営からの命令による人事異動らしいが・・・・

この「プンカン」には、歩兵第10連隊関係の「追悼碑」はあるが、「プンカン守備隊」全体の慰霊碑はない。
なぜなのかは知らないが・・・
歩兵第10連隊の「追悼碑」の碑文を読むと、この地で連隊の92%が戦死したような誤解を受けてしまうが、実際は、ここから北のバレテ峠までを含め、さらにフィリピン到着前に輸送船と一緒に沈んだ将兵も含めての数字であろう。

“デグチ支局長”に戦史を説明し・・・さらに北上する。
途中、「バレテ峠」を通過するが、時刻は午後3時を過ぎているので、ここに立ち寄るのはマニラに帰る時にして、先を急ぐことにする。

旅行 | 15:52:58 | Comments(0)
「カバリシアン」へ行く
祖父の連隊がいた場所を祖父は「カバリシアン」と言っていたが、戦史の中では「サンニコラス」もしくは「サンタマリア」とも書かれている。
本当は、一体、どこにいたのやら・・・(汗)
その答えは15年ほど前に現地に来て初めてわかった。
当初、祖父は「サンニコラス」に連隊本部を置いていたようだが、ここから一本道を東に向かって後退・・・
途中に「サンタマリア」という集落があり、川に突き当たって対岸に「カバリシアン」という集落があった。
「サンニコラス」と「サンタマリア」は道路沿いにほぼ繋がっていて、一見しただけでは区別がつかない。
たぶん、そういうわけで、戦史によっては、この2つのどちらかの名前が使われているのだろう。

043_convert_20150724213808.jpg (サンニコラスからの道)

この写真の向こう側が「サンタマリア」、さらにその奥が「サンニコラス」・・・・
向うからこっちに向かって祖父は撤退し、米軍は、それを追って向うからこっちに向かって進撃してきた・・・

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道路はここまで・・・川で寸断されている。
当時もそうだったのか・・・それは知らない・・・(笑)
戦後間もない頃に撮影されたと思われる写真を見たことがあるが、そこには橋すら写っていなかった。
橋は戦闘で破壊されたのか?
この川の向こう岸に祖父は抵抗陣地を構築したらしいが・・・・・
当時は乾季である。
今と同じだとすると、川は干上がっていたはずで・・・そうなると、この川は何の意味もなかったかも・・・(汗)
それとも、まだ多少は水が流れていたか?
祖父の下に米軍の砲弾が飛来してきたのは2月1日だったという。

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対岸の左奥・・・小高い丘の上に家が建っていた!
前回来たときは、森だったのに・・・(唖然)
いつの間に、あんなところに家を建てたんだ?
あの丘のある辺りに祖父の部隊の物資集積所があったと思うのだが・・・
家を建てる時に地中から何か遺品が出てこなかったかと住人に尋ねたい気がしたが・・・
今回は、戦跡の案内なので、余計な時間は無い・・・(涙)

祖父の連隊は配属部隊を含めて約600名である。
戦史には1000名と書かれているものもあるが、その根拠は不明である。
我が祖父の部隊に対する米第32歩兵師団は「師団」だから・・・1万名はいただろう・・・
600名対1万名の戦いである。
明らかに祖父には勝算はない・・・

この川の対岸は「サラクサク峠」への“西の入口”となる。
当時は、“けもの道”程度の狭い道が山に向かってダラダラと続いていた。
その地形のおかげで全滅を免れたといえる。
“けもの道”ていどの道では、米軍は大部隊を一気に進撃させることは出来ない。
極端な話し・・・一列縦隊で登ってくるしかない・・・
この“西の入口”で米軍を食い止めることが、マニラから北上する民間人と友軍の退路を遮断されるのを防ぐことになる。

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吊橋を渡って対岸に向かう・・・
拙者は“高所恐怖症”どころか・・・たいして高くもない、そこそこの高さも怖いという男である。(大汗)
だから、こういう吊橋って怖いんだよねぇ・・・
しかも、竹を割った板を敷いているだけなのである。
歩いていてバリッっと割れたらどうしようと気が気ではない。(大汗)
すでに板が割れてポッカリと穴が開いている場所もあるのである!(大涙)
もう少しまともな橋を架けてくれよ・・・(涙)

へっぴり腰になりながら、恐る恐る橋を渡る・・・
祖父の部下たちが、この姿を見たら何と言うだろうか・・・(汗)
連隊長の孫は意気地がねぇなぁ~と笑っているか呆れているか・・・(苦笑)

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対岸の祖父の部隊の陣地入口附近に米第32歩兵師団(レッド・アロー)の記念碑がある。
この碑は、まだ「サラクサク峠」で戦闘をしている最中に建てられたものである。
米軍の“余裕”が伺われる・・・・
小さい碑に見えるが、建立された当時は立派な台座を含めて高さ3mほどの大きな碑だった。
今から35年ほど前に祖父が最初で最後の慰霊に、ここに来た時に撮影した写真を見て知っている・・・
で・・・15年ほど前に拙者が初めて来たときは半分近くが土砂に埋まっていた。

ここはカバリシアン川が大きくカーブする頂点に位置する。
よって、戦後の川の氾濫で、かなり土砂に埋まってしまったのだろう。
今回は、その記念碑が傾いている。
あの大きな記念碑が、ここまで埋まっているということは・・・・
この河川敷で戦死した日本兵たちの遺体は数メートルもの地下に埋まっているか、土砂とともに下流に流されてしまっているか・・・
ここでの遺骨収集は不可能だろう。
実際に、ここでの日本政府による遺骨収集は行なわれていないようである。

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橋から右のほう(東側)へ回り込んでみる・・・
正面の森の奥の小高い丘あたりも我が軍の陣地跡のはず・・・
祖父の連隊本部があったあたりか?

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乾季で干上がり、水溜りと化した川を渡って、更に東の方向を見る。
15年ほど前に来たときは、ここには土手があり、その上を歩いたのだが、いつの間にか、その土手は消滅していた。
それほどまでに雨季で増水した時は、凄い流れになるということか・・・
あの土手が消えてなくなっているとは・・・(唖然)

川を渡って向こう側・・・写真の右の丘方面に、祖父は斬り込み隊を派遣している。
祖父の部隊には野砲兵第10連隊から野砲が2門配属されていた。
対する米軍には70門の砲を持つ砲兵部隊がいた。
単純に言うと、こちらが2発撃つと70発の“お返し”が来るのである!(唖然)
米軍の戦法は基本的には今も昔も変わりない・・・
最初に砲爆撃で徹底的に叩いてから歩兵が進撃してくるのである。
今でもアフガニスタン、中東で米軍は同じことをやっている。
祖父は敵の砲兵陣地に、1個分隊(9名程度)の斬り込み隊を、いくつか出して攻撃をかけている。
最初のうちは効果があり戦果もあがったようだが・・・
所詮、“焼け石に水”である。

祖父の部隊に配属されていた砲兵62名は、米軍の砲撃により、弾薬集積所が誘爆・・・
一瞬にして50名が吹き飛んだという。
生き残った12名は、祖父とともに転戦したらしいが、以前、砲兵の戦友会に尋ねたら、「生還者に会ったことはない」との回答だった。
転戦中に全員が戦死したものと思われる・・・

祖父の部隊は米軍の猛攻に耐えられず後退を始める・・・
それに先立ち、部隊に配属されていた工兵1個小隊を先に後退させている。
これは、先に後退させて、適当な場所に陣地を構築させ、完成次第、その場所まで後退するという戦法だと思う。
いわば、“尺取虫”のようにジワジワと後退するのである。
これを一気に後退させると、兵達は一目散に逃げ始め、戦線は一気に崩壊してしまう。
それでは、当初の任務である敵の進撃を食い止めることは出来なくなる。

祖父が撤退した正確なルートを拙者は知らないが・・・
多分、写真の奥に見える山のほうへ向かったのではないかという気がする・・・
この撤退・・・・祖父の独断である・・・(汗)
祖父のこの撤退に対し、第14方面軍の参謀である小沼少将が驚愕したと戦史にある。
命令なしで勝手に後退した・・・と怒ったらしいが、すでに400名が戦死し、残っているのは200名程度しかいなかったのである。
ここで頑強に抵抗すれば、1日足らずで壊滅してしまっただろう。
そうなったら、米軍は一気に峠を突破し、マニラから北上する避難経路を寸断してしまう。

小沼少将はガダルカナル島でも作戦の指揮を取ったことのある参謀である。
彼のやり方は、一歩も退かず、全滅するまで戦う・・・というもの。
第一線、第二線、第三線と陣を敷き、第一線は後退することなく全滅するまで戦い、第一線が全滅したら第二線が同様に全滅するまで踏みとどまって戦うというもの。
これを作戦といえるかどうか・・・甚だ疑問であるが・・・
小沼少将は、ガダルカナルの戦いが、手の施しようが無いとわかった段階で日本に帰国している。
ガダルカナル島では兵士たちの多くは戦死より餓死したのだが・・・彼は餓死することなく生き残った。
エリートと呼ばれる連中は、所詮、そんなものである。

その小沼少将が今度はフィリピンへ来て作戦の指揮を取った・・・
「全滅するまで後退するな」という彼のやり方に祖父は逆らったことになる。(苦笑)
本来の目的は、米軍の進撃を少しでも遅らせることである。
600名の兵力で敵の1個師団に勝てるわけがない。
勝てないまでも敵の進撃を遅延させれば、目的は達成したことになる。
いかに時間稼ぎをするか・・・
その具体的な戦い方は現地に任せてもらいたい・・・ということだろう。
現地の状況を知らぬ安全な場所にいるエリート参謀にとやかく言われたくはない・・・と思ったのではなかろうか?
(拙者なら、そう思う・・・)
エリートは教科書通りの作戦しか立てないが、それで勝てる相手じゃない・・・
現地の状況に合わせて臨機応変に作戦を立てるのが、本来の“作戦”ではあるまいか?

敵の進撃を遅らせる時間稼ぎをするにはこの手しかない・・・拙者もそう思うのである。
祖父の部隊が200名にまで減ったことに驚いた小沼少将は、当時、戦車を失い歩兵化していた戦車第2師団を祖父の部隊の後方、「サラクサク峠」に向かわせ陣地構築に当らせる。
その間、祖父は更に時間稼ぎの戦いをすることになる。
「サラクサク峠」まで直線コースで15km程度のところを2週間近くかけてジワジワと後退しながら米軍の進撃を遅らせた。
「サラクサク峠」に到着した時には兵力は80名にまで減少していたという。

この当時、避難路を北上する兵士の間では、祖父の名前はよく知られていたようである。
「今、鈴木部隊が米軍を食い止めてるから、今のうちに早くここを通過しろ」と言われたことを覚えていると言ってくれた生還者がいた。
「あんたのおじいさんには会った事はないが、“鈴木部隊”というのは覚えている。あんたのおじいさんのおかげで生きて帰ってこれた。そういう意味では恩がある」と言ってくれた人もいた。

祖父が偉いのではない・・・
祖父の指揮下で砲撃に叩かれながらも時間稼ぎの戦いをおこなった部下たちが偉いのである。
よく逃げ出さなかったものだと感心する。
よくぞ戦ったと褒めてやりたい・・・
そして・・・500名もの兵士がここから「サラクサク峠」に向かうまでの山中に眠っているのである。
お線香の煙をなびかせながら、この山中をズ~ッと歩いて慰霊してあげたいのだが、いい現地ガイドが見つからないでいる。
それよりも、直線コースで15kmとなると、クネクネと曲がった“けもの道”であるから、実際には倍の30kmくらいは歩かねばならないだろう・・・
山道を30kmも歩き続けることができるだろうか?(大汗)
う~ん・・・体力に自信がない・・・・情けないことに・・・・
もっと若かったらなぁ~(大涙)
夢は夢だけで終わってしまうか・・・

この場所での戦史について“デグチ支局長”に解説・・・・
時刻はまもなく12時になる・・・そろそろ昼飯を食べねば・・・(笑)

「また、あの吊橋を渡って帰るのかぁ~怖くて嫌なんだけどなぁ~」と言ったら・・・
「川を歩いて渡れるんじゃないですか?水が無いですから・・・」と支局長・・・
ん?・・・あれ?・・・・そう言われれば、そうだ・・・(苦笑)
川は干上がり、水は流れていないのである・・・
なんで気が付かなかったんだろうねぇ~(大笑)
バカ丸出しである。

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旅行 | 11:32:57 | Comments(0)
「サンニコラス」へ行く
いつも日本では親父と早朝に散歩をしている・・・
そのせいか、フィリピンに来ても早起きしてしまった!(笑)
午前5時過ぎには目が覚めた・・・(大笑)

で・・・部屋から見た外の景色・・・
う~ん・・・・面白くない景色である。(大笑)

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朝食は午前6時半からだというので、オープンと同時にレストランへ・・・

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レストランから見た景色・・・
う~ん・・・こういう景色・・・嫌いではない・・・(笑)

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午前8時、“ステラさん”、“デグチ”支局長が迎えにきてくれて、共同通信の車で、イザ出発!
パンガシナン州の「サンニコラス」に向かう・・・

029_convert_20150721142138.jpg (ホテルの前の様子)

マニラを出発して北上すること約3時間後・・・
「サンニコラス」に到着した。
ここには戦時中の昭和20年2月頃に祖父の部隊の本部が置かれていた場所である。
たぶん、町役場がある中央公園あたりに本部があったのではないかと思うが、正確な場所は拙者は知らない。(涙)
昭和20年1月、「アイ・シャル・リターン」を合言葉にマッカーサーが率いる米軍がルソン島西部の海岸に上陸した。
本格的な米軍の反攻である。
米軍はいくつかのルートに分かれて進撃・・・
そのひとつが西海岸から真っ直ぐルソン島を横断するルートで進撃してきた米第32歩兵師団である。
祖父の連隊は、マニラから北上する避難ルートを米軍に寸断されないために、ここで米軍の進撃を食い止める任務を与えられたのである。

「サンニコラス」の中央公園の片隅に米軍の記念碑があったはずだが・・・と探してみたら・・・
あら・・・なんとドカンと鎮座ましましていた・・・(唖然)

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(碑文)
ERECTED BY THE OFFICERS AND MEN OF THE 32d INFANTRY DIVISION
UNITED STATES OF ARMY IN MEMORY OF THEIR GALLANT COMRADES
WHO WERE KILLED ALONG THE VILLA VERDE TRAIL
JANUARY 30, 1945 - MAY 28, 1945

以前に訪問した時は、草むらの中に朽ち果てていたような記念碑だったが、いつの間にか新しく作り直されて、周辺も綺麗に整備されていたのには驚いた。
米第32歩兵師団の“戦友会”がやったのかな?
この記念碑であるが、形は「赤い矢」を模している。
これは米第32歩兵師団が別名(ニックネーム?)「レッド・アロー(赤い矢)」なので、その師団のマークをデザインしたものである。
碑文に書かれている「VILLA VERDE TRAIL」は日本語では「ビリヤ・ベルデ道」と言っているが、日本軍は「サラクサク道」と呼んだ場所のことで、我が祖父の連隊と、祖父を応援に駆けつけた戦車第2師団の戦場となった地域のことを指す。
米軍は1945年1月28日から1945年5月28日まで、ここで戦闘したとしている。

この米軍の記念碑の道を挟んだ反対側に高校がある。
その名も「レッド・アロー高校」!!(驚)
米軍の師団名から名付けられたということは、“戦友会”が寄付でもして作った高校なのだろうか?
う~ん・・・ちょっと悔しいなぁ・・・(苦笑)

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(レッド・アロー高校)

041_convert_20150722222242.jpg (町役場の前の道)

この道を写真の手前から向うに向かって車で10分ほど走ると「カバリシアン川」にぶつかる。
この「サンニコラス」には祖父の捜索第10連隊の連隊本部が置かれ、他の分派された小部隊も駐屯していた。
ルソン島に上陸した米軍に対し、戦車第7連隊などが反撃をしたが、第14方面軍のお粗末な作戦のおかげで壊滅・・・
これは方面軍参謀達の稚拙な作戦のせいである。
だから、拙者はテストの成績が良いというだけで「エリート」と呼ばれる連中が好きではない。
そういう連中に限って、「まともな」ことが出来ない。
日本が戦争に負けたのは、彼ら参謀達の出来の悪さのせいだとすら思っている。
米軍に返り討ちに遭い、辛うじて生き残った敗残兵は、ここ「サンニコラス」まで撤退して収容され、さらに後方へ送られた。
同時に、ここへ米軍が進撃してくるのは明白となり、各部隊は一斉に退却・・・
ここに連隊本部を設置していた祖父も、「カバリシアン川」の対岸に構築していた“抵抗陣地”の線まで移動したのである。

次に「カバリシアン川」の“抵抗陣地”に向かう・・・・

旅行 | 10:28:30 | Comments(0)
ガイド役としてフィリピンへ
今日からフィリピン旅行・・・
今回は、共同通信のマニラ支局長の取材の案内役を務める。
ただそれだけのためにフィリピンに向かうのである!(笑)
なんという贅沢な旅であろうか。(大笑)

いつもは夕方に成田を出発するANA(全日空)を使ってマニラに行くが、それでは到着が遅くなる。
仕方が無いので、前泊し、午後1時半に成田を離陸するフィリピン航空を使用することにした。
少し早めに到着して支局長と打ち合わせをせねばなるまい・・・

使用機材はエアバスA321-200・・・
通路を挟んで左右に3列という座席配置である。
が・・・座席にはモニター画面が付いていない・・・
あ~つまらん・・・映画が見られないか・・・(悲)
仕方がないので読書をしながら4時間半のフライト・・・

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日本とフィリピンの時差は1時間・・・日本時間よりマイナス1時間となる。

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マニラ空港到着予定時刻は午後5時だが、実際に空港から外に出て来れたのは午後6時である。
このあたりの時間を考慮しておかないと、大変なことになる。(笑)
いつものように“ステラさん”に迎えに来てもらい、マニラ市内のホテルに向かう。
今回宿泊するホテルは、拙者がいつも使っているホテルではない。

この間、支局長に会いにホテルまで来てもらった時、拙者の定宿は彼の会社からかなり離れていたため、大渋滞に巻き込まれて苦労したという。
そこで今回は、支局長の会社に近いホテルを予約した。
初めて宿泊するホテルだが、翌日の行動の便利のほうを優先する。

今日の夕食は支局長にお願いしてレストランをセッティングしてもらった。
ホテルで支局長と落ち合い、“ステラさん”も一緒に3人で明日からの取材旅行の打ち合わせを兼ねて食事をする。

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打ち合わせを終え、ホテルまで送ってもらい解散・・・
明朝、共同通信の車で迎えに来てくれるという。
明日からの取材旅行は、社の運転手付きの車で移動する。
拙者が支払う経費は、個人的にガイドを頼んだ“ステラさん”の日当のみである・・・

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このホテルの良い所は・・・
なんと!喫煙ルームがあるということ!(大笑)

旅行 | 10:13:08 | Comments(0)
留守になります!
13日(月曜日)から17日(金曜日)まで・・・
またまた、フィリピンに行ってきます!

今回は、マスメディアの取材のお手伝い・・・
戦後70年の取材ということで・・・
私の祖父が戦った陣地跡などを中心に、北部ルソンの山岳地帯を案内します。

というわけで・・・
しばらくブログはお休みします。
(今までも、お休みと同じようなものでしたが・・・)(大笑)

日記 | 23:27:27 | Comments(0)
『アメリカの論理』
アメリカの論理 (新潮新書)アメリカの論理 (新潮新書)
(2003/04/10)
吉崎 達彦

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はじめに

第1章 「悪の枢軸」の誕生
 鈍かった日本の反応
 事実上の宣戦布告
 一般教書の重み
 なぜイラクなのか
 スピーチライターの告白
 受け止められなかったメッセージ

第2章 イラク攻撃の準備と中東情勢
 米国がイラク攻撃にこだわった理由
 揺れる中東情勢
 パウエルの屈辱
 「バグダッド経由エルサレム行き」の切符
 イラク攻撃のための三条件
 戦争の目的対中東感情の悪化

第3章 壮大なオセロゲーム
 ウェストポイントの演説の衝撃
 テロに対しては「先制攻撃」も辞さず
 米軍の伝統は「横綱相撲」
 ブッシュ支持の国内世論
 経済問題より安全保障
 アメリカが目指すオセロゲーム

第4章 カタ派集団「PNAC」の外交思想
 政策の陰にシンクタンクあり
 「新しいアメリカの世紀のための計画」
 イラク攻撃は長年の主張
 浮かび上がる保守タカ派人脈
 「欧州とは袂を分かとう」論文
 目立つ民主党からの転向組

第5章 政権を産んだ共和党内の力学
 ブッシュ政権と2000年選挙
 減税を求める共和党内の構造
 ブッシュなら党内一本化が可能
 「温情ある保守主義」で中道派を装う
 共和党内の4つの勢力

第6章 ブッシュ流「草の根保守派」の本質
 レーガン以上に保守的
 “司令塔”カール・ローブという男
 テキサスで始まった落ちこぼれの二人三脚
 ジェフォーズ上院議員の叛乱
 立ち往生に陥ったブッシュ

第7章 「9・11」という転換点
 世界が変わった日
 指導力を確立したブッシュ
 テロとの戦いの始まり
 アフガニスタン戦線
 ハンドルを切った米国経済
 再発見された「強すぎるアメリカ」

第8章 パウエルの逆襲と対イラク国連決議
 安保理決議の裏側
 パウエル国務長官の逆襲
 リングに立ったアメリカとイラク
 怒れるタカ派たち
 読めないサダムの出方
 制服組の意向が通る
 一敗地にまみれたタカ派人脈
 国防長官に勝った司令官

第9章 「ナイーブな帝国」の行方
 「単独行動主義」と「例外主義」
 ブッシュ外交は「先祖返り」
 日本とのファースト・コンタクト
 「ペリー来航」と「真珠湾攻撃」の相似性
 もうひとつの真珠湾
 「行き過ぎ」と「復元力」
 振り子が戻るとき

おわりに



今年の読書:22冊目



読書 | 21:24:01 | Comments(0)
東京農業大学開校の地
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【東京都千代田区飯田橋4丁目】

東京農業大学 開校の地

明治24年(1891)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸10番地に東京農業大学の前身、育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。
初代黌主は榎本武揚でした。
明治25年(1892)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため大塚窪町に移転しました。

(碑文より)

史跡 | 13:55:39 | Comments(0)
私が騎兵連隊の代表?(苦笑)
地下鉄から地上に出ると・・・・雨!
最近は4月の第一日曜日って天気が悪いことが多いような気がする・・・

近くの喫茶店に入ってみたら・・・あれ?
内装が変わってしまっているが、確か、この店には何度も通ったことがあるぞ・・・(笑)
もう随分前の話しになるが、佐々淳行さん主宰の危機管理セミナーに月に2回、1年間通った時に、このお店で必ずコーヒーを飲んでいた・・・(笑)
あらら・・・こんなところにあったの?・・・このお店・・・(苦笑)
方向音痴というか、記憶力のどこかが狂っていると言うか・・・
店の場所や地名は全く覚えられないのだが、不思議なことに店の内部や自分が座っていた場所はよく覚えているのである。(大笑)
何年かぶりに、この懐かしいお店でコーヒーを飲み一服・・・・

小雨の中を靖国神社に向かって歩く・・・・
と・・・・日本歯科大学の前に銅像を発見!(喜)
なにせ、方向だけを決めて適当に歩いているので、この道は初めて通る道・・・
そういう時に、こういう偶然の出会いをするというのは、なんとも楽しい!

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この銅像は「中原市五郎」という人の銅像で、この日本歯科大学の前身である私立共立歯科医学校を明治40年に創設した人である。

さらにテクテクと歩いて無事に靖国神社に到着!
いつも使っているルートとは全く違うルートで向かうというのも緊張感と新鮮味があっていいものである。(笑)

「戦没馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭」に余裕を持って間に合った。
受付でリボンを渡される・・・・
「え?・・・何でしょうか?・・・これ・・・」(汗)
「騎兵第14連隊の代表ということでお願いします」
「え?私が代表?」(大汗)
「はい・・・」
「それ・・・何かの間違いでは?」(大汗)

確認させたが、間違いないと言う。
うそ・・・(唖然)
同じ騎兵14連隊会から97歳の“オオクボさん”が参列されていた。
久しぶりの再会である!(大喜)
お元気でしたか!
で・・・“オオクボさん”が適任だと思ったら、氏は「戦没馬奉賛会」の代表なのだと言う。
もうお一人の方は騎兵13連隊の代表・・・
あれ・・・じゃ、やっぱり拙者が代表として玉串奉奠をするのか?(大汗)
55歳の戦後生まれが連隊の代表?(苦笑)

グズグズ言っても、どうしようもない・・・
最前列の座席には拙者の名前が記されている・・・結局、“指定席”に座らせられてしまった・・・
いつもは最後部に座って写真を撮るのだが・・・
今回は、まさかの最前列・・・
「来賓待遇」なのにカメラを構えるわけにはいくまい・・・
神妙に座っているしかない・・・
参った・・・(涙)

玉串奉奠の作法は知っているが、困ったことに拍手を打つのが下手なのである。(大笑)
拙者は、ちょっと手が不自由なので・・・(苦笑)・・・いい音が出ないのである。
参ったなぁ~
パン!パン!・・・と鳴ればいいのだが、パン!ペシャ・・・となることがしばしば・・・
大緊張である。(苦笑)
早々と拙者の番が来てしまい・・・玉串奉奠・・・
思いっきり拍手を打ったら、うまく鳴ったが、音が大き過ぎ!(大笑)
神主さんがビックリした顔でこちらを見たのを目の端で感じた・・・(大汗)
ちょっと、やりすぎちゃったか・・・
我が両手もビンビンに痺れてしまい痛い・・・・(苦笑)
マズかったかな・・・これ・・・・

慰霊祭後、直会・・・・
いつものように偕行社へ移動・・・
騎兵13連隊、騎兵14連隊の我等3名でまとまって、おしゃべりを楽しむ。
が・・・来年はどうなるんだろう?
騎兵関係者は拙者一人になっちゃうかも・・・(汗)
そういうのは寂しくて嫌なのだが・・・
“オオクボさん”も97歳だからなぁ~
そういうことは考えたくないと思っても、ついつい頭をよぎってしまう・・・

日記 | 12:08:52 | Comments(0)
最近の母親は・・・・(怒)
昨日は、土浦駅前の古書店で「大古本まつり」・・・・
水戸藩士の“シミズくん”の運転で、古本を買いに行った。
で・・・今日は靖国神社で「戦没馬慰霊祭」がある。
これに参列しなくてはならないので、昨日のうちに上京せねばならなかった。
古本を買った後、拙者は土浦駅から特急列車で上野に向かう。
というわけで、買った古本は“シミズくん”に持ち帰ってもらい、一時、彼の自宅に保管してもらう。
いやぁ~申し訳なし・・・感謝、感謝・・・
かわいそうに、“シミズくん”には一人で帰ってもらわねばならないが・・・勘弁してもらおう。

上京して、ホテルに一泊し、今日は地下鉄で飯田橋に向かう。

地下鉄・飯田橋駅で呆れた光景を見た・・・(大汗)
ホームを歩き・・・長~いエスカレーターに乗った時、後ろから「ママ!ママ~!」と子供の叫び声が・・・
振り返ったら、拙者の直ぐ後ろから母親らしき女性が後ろを振り返ることなく一目散に走ってきた。
ん?・・・・なんだ?
かなり遅れて小学校1年生ぐらいの女の子が叫びながら走ってきた・・・・(汗)
エスカレーターの所で、この子はようやく“母親”に追いついたが、この母親はかなりご立腹・・・
どうも自分の言う事を子供が聞かないので、怒っているらしい。
「ゴメンなさい。ゴメンなさい」と驚くほど丁寧な言葉でこの少女は謝っているのだが、この“母親”はブツブツ文句を言っているだけ・・・
と・・・いきなり、エスカレーターの階段を駆け上がった!!(驚)
え?・・・と思ったときには、拙者の脇を通り抜け・・・この急角度で長いエスカレーターを駆け上がって行ったのである!(驚)
子供がそれを追って「ママ!ママ!」と叫びながらエスカレーターを必死に駆け上って“母親”を追いかけていく。
追い越された拙者は下から彼らを見上げたのだが・・・
いやぁ~この急角度を駆け上るのは危険だろう~
もし、子供が足を踏み外して転落したら、一気に拙者の所まで転がり落ちてくるぞ・・・(大汗)

一度も子供のほうを振り返らず、この“母親”はエスカレーターを駆け上がっていく・・・(唖然)
この子供に万が一のことがあっては・・・と思い、拙者も子供の後から駆け上ろうかと思ったのだが・・・
まてよ・・・変質者が少女を追いかけているように見えるのではなかろうか?(大笑)
こりゃ、マズイ・・・(汗)

一応、子供が足を踏み外した場合を想定して、身構えながら注視していたが・・・
それにしても、この「バカ女」・・・・何を考えているのか・・・
どういう事情があるのかは知らないが・・・子供が大怪我をしたらどうするんだ?
エスカレーターに指を挟んで切断ということにでもなったらどうする?
転んで顔に怪我でもしたら、女の子のことである・・・一生、後悔することになるぞ・・・
転落して首の骨でも折ったら、良くて半身不随、悪ければ死ぬかもしれないのである。
そういうことは考えないのかね?(怒)
こういう「バカ女」を“母親”に持った子供は不幸である。
これじゃ、まともな子供が育たないのもわかる気がする・・・(怒)

ようやく、エスカレーターが“終点”に到着・・・
エスカレーターを降りて、構内に一歩踏み出したら、先ほどの女の子の声が・・・
「ママ!ママ~!」と構内に響いている。(唖然)
しかし、人混みで、この少女の姿はどこにも見当たらない・・・
え?・・・うそ・・・・
“母親”は完全に娘を振り切ってしまったのか?
この人混みの中で?
なにせ、出口がいくつもある構内である。
拙者ですら、どっちに行っていいのか迷っているのだが・・・・
ズ~ッと「ママ~!」の声が構内に響き続いているのである。
ここで振り切ったら、子供は完璧に迷子になっちゃうでしょ?
うそぉ~・・・・やっちゃったの?(唖然)
悲しげな声を聞くのは、なんともツライ・・・
かといって・・・この子供がどこにいるのかが見えないのだからどうしようもない・・・
いやぁ~呆れた“母親”である。
母親失格だな・・・あの「バカ女」・・・・(怒)

以前、スーパーに買物に行った時に、でっぷりと太った“母親”が、まだ保育園に行くか行かないかという年齢の幼児を足で蹴っている姿に遭遇したことがある。
「早く歩けよ!なにモタモタしてんだよ!」と大声を上げながら幼児を後ろから蹴っているのである。(唖然)
その言葉遣い・・・とても女性とは思えない言葉遣いなんですけど・・・(唖然)
どこかの女子プロあがりのタレントのマネでもしてるの?
でっぷりと太っているからねぇ~
品がないったらありゃしない・・・(大汗)
ヨチヨチ歩きの幼児を後ろから足蹴りするとはねぇ~(怒)
この子の代わりに、てめぇのデカイ尻を蹴り飛ばしてやろうか?・・・(怒)・・・とつい思ってしまったが・・・・

最近の母親って、どういう育ちをしてきたんだろう?
少子化対策?・・・そんなこと、しなくていいんじゃないか?
こういう「バカ女」に、どんどん子供を生んでもらってもねぇ~
子供がまともに育つとは思えないんですけど・・・
一見、虐待には見えないという虐待もあるんじゃないか?
それが、その子の人格形成に大きく影響を与えるんじゃなかろうか?
猫や犬などのペットはバカ可愛がるが自分の子供は可愛がらない・・・というタイプじゃなかろうか?
(・・・という人を拙者は知っている・・・)

あ~嫌だ、嫌だ・・・
あの少女の切ない母親を呼ぶ声が耳に残っている・・・(涙)
こっちが泣きたくなるくらい辛いわ・・・これ・・・

日記 | 11:08:05 | Comments(2)
『撃沈された船員たちの記録』
撃沈された船員たちの記録―戦争の底辺で働いた輸送船の戦い (光人社NF文庫)撃沈された船員たちの記録―戦争の底辺で働いた輸送船の戦い (光人社NF文庫)
(2008/04)
土井 全二郎

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はじめに

第1章 「12月8日」の海
     空白の航海日誌
     最後の定期船
     故国遥かなり
     悲電しきり
     米貨物船秘話
     漂流の記憶
     南海に果てる

第2章 ガダルカナルの海
     第一次強行輸送作戦
     戦場の孤児
     相次ぐ直撃弾
     第二次強行輸送作戦
     炎上また炎上
     残るは4隻のみ
     死の島に果つ

第3章 ダンピールの海
     八一号作戦
     近づく艦影
     思いを残して
     運まかせの輸送作戦
     越すに越されず
     漂流3日間
     恨みは深しダンピール

第4章 武器なき海
     声なき帰還
     明日はわが身か
     「船員を殺せ」
     北の海に戦う
     軍令に抗して
     特攻船団がゆく

第5章 苦闘の海
     奇跡の生還
     擱座14ヵ月
     間一髪の命
     生きていた英霊
     船上の生と死
     絶望の海で
     孤立無援

第6章 「8月15日」の海
     敢闘空しく
     捕虜と泳ぐ
     米潜に救助さる
     敗残の海で
     禁断の海をゆく
     国破れて
     栄光も名誉もなく

あとがきにかえて

文庫版のあとがき

主要参考文献

船名索引



太平洋戦争(大東亜戦争)では、2500隻以上の船が沈み、6万1200余名の船員が“戦没”したという。
帝国海軍の軍艦の戦いぶりや、その最期については、多くの本が出ているが、一般の商船や輸送船などについての話はあまり見かけない。
本書は、そういう“縁の下の力持ち”の役割を果たしていた船員について、生存者の証言を交えて書かれた記録である。
貴重な話しだと思う。

日本は地下資源や食糧をはじめ、あらゆるものを輸入に頼っている国だといってよいと思う。
そして、それらの物資を運ぶのは、商船や輸送船を動かす船員達である。
日本に有事が起きた場合、“国防”は自衛隊だけの問題ではない。
これら一般船員たちも大きく関わるのである。
彼ら先人達の体験談に耳を傾けておくことも大事なことではあるまいか?
本書を読んでそう思った・・・・


今年の読書:21冊目



読書 | 17:39:17 | Comments(0)
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