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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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『ジャーナリズム崩壊』
ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書)ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書)
(2008/07)
上杉 隆

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プロローグ

第1章 日本にジャーナリズムは存在するか?

第1節 空想でしかない「客観報道」
        ジャーナリズムとワイヤーサービス
        日本の新聞記者は多すぎる?
        締め切りのない米国の新聞
        事実を知りながら報道しない政治記者
        担当した政治家が出世すれば自分も出世
        国民ではなく権力側に寄り添う新聞
第2節 メモ合わせ
        記者たちが堂々とカンニング
        スクープ連発、「一部週刊誌」という雑誌
        なんでも「わかった」スピリチュアル報道
        自己防衛としてのブログ開設
第3節 自由な言論を許さないメディア
        貴様のような奴は訴えてやる!
        「落とし前がついていない」から取材拒否
        海老沢一座の大芝居
第4節 編集と経営
        常に厳しくチェックされる米国の記者たち
        記事より重要な社内の権力闘争
        大連立の仕掛人、渡邉恒雄
第5節 しばり、癒着
        宮内庁による「申し合わせ」要請
        流出した「メモ」
        宮内庁記者クラブをめぐる悲喜劇
        国民を欺く談合
        日本固有の記者クラブ制度
        メディア環境の激変に迷走
        「イタい日本」=JAPAIN

第2章 お笑い記者クラブ

第1節 笑われる日本人記者
        『笑われる日本人』
        日本贔屓のクリストフ支局長が日本嫌いになるまで
        ハワード・フレンチ支局長の驚き
        喜多川氏ひとりにひれ伏す日本メディア
第2節 メディア界のアパルトヘイト
        日本外国特派員協会と日本メディア
        外国人記者やフリー記者を阻む堅固な壁
        非「記者クラブ」ジャーナリストたちの責任
        会社員かジャーナリストか
        健全な政治家、不健全なメディア

第3章 ジャーナリストの誇りと責任

第1節 署名記事
        秘書経験のせいで不採用
        上杉君はどの政治家の推薦状を出したの?
        誰によって書かれたかが重要
        朝日新聞「素粒子」の<死に神>報道
        「書かせてやる」という意識
第2節 実名報道
        安全地帯から人を批判
        「公人」と「準公人」
        『官邸崩壊』に入った3つのチェック
        面白すぎるのはルール違反
第3節 均一化されたエリート記者
        議員と秘書は多士済々
        政治記者たちの奇妙な同質性
        同じような記事しか生まれないわけ

第4章 記者クラブとは何か

第1節 記者クラブの誕生
        仲間はずれがいちばん怖い
        記者クラブ略史
第2節 日米メディアをめぐる誤解
        論争を避ける記者たち
        アメリカでは取材で自由に誰にでも会える?
第3節 英訳・キシャクラブ
        なめられるエリート記者
        「出入り禁止」恐怖症
        海外の記者クラブ
第4節 都庁記者クラブの場合
        知事主催の火曜会見
        都庁記者クラブの妨害
        あるのは面子と評価のみ
        妨害が生んだ喜劇
        牢獄「キシャクラブ」

第5章 健全なジャーナリズムとは

第1節 アフガニスタン・ルール
        ニューヨーク市民にとってのニューヨーク・タイムズ
        ふたつの記事
        メモワール文学の大流行
        現在を切り取ることこそ本来の仕事
第2節 過ちを認めない新聞
        誤報を隠す悪しき体質
        訂正欄で原因まで徹底的に検証
        ニューヨーク・タイムズのイラク報道検証
        ジェイソン・ブレア事件の衝撃
        不可解だったNHK番組改変報道の対応
        最後まで誤報を認めなかった朝日新聞
第3節 日本新聞協会の見解

エピローグ



この日本に「ジャーナリズム」というのは、あるのだろうか?
以前から疑問に思っていたことなのである。
なにかというと「知る権利」「報道の自由」を声高に叫ぶが・・・
その割には、我々の知りたいことなどは報道しない・・・
最近では、「マスコミ」ではなく「マスゴミ」と揶揄されるありさまである。

新聞などは、その内容は陳腐極まりない・・・
最近は新聞記事ではなくネットでニュースを見るそうな。
そのネットの記事も果たして、どこまで信頼していいものか甚だ疑問ではあるが・・・
テレビに至っては、低俗極まらぬ。(笑)
「報道番組」なども、コメンテーターの言うことは、どの局の番組でもほぼ同じ・・・
政府を叩くニュースでは、各局のコメンテーターが異口同音に政府を叩く・・・
他の角度からの見解などはない・・・
こうなると、どこのテレビ局を見ても同じなんだから、見る気もなくなる・・・
話しに聞くと、すでに各コメンテイターの発言は局のほうから指示されているそうな。
いかにも専門家の意見のように見せかけたり、一般市民としての感覚があるように見える「タレント」を使ったりしているが、報道機関の指図で動くただの「代弁者」にすぎないのではないか?
これを「ジャーナリズム」と言っていいものやら・・・

大手報道機関の「ジャーナリズム」っぽく見せかけた偏向報道の隙間を埋めるとなると、「フリージャーナリスト」の健闘に期待するしかないのだが・・・
その「フリージャーナリスト」も、なかなか厳しい状況におかれているらしい。
著者は、「記者クラブ」制度の存在が、日本のジャーナリズムを駄目にしていると本書で指摘している。
この「記者クラブ」の壁は、なかなか厚そうである。
海外のジャーナリストからも呆れられるらしいから、かなりの厚さの壁なのだろう。(笑)

なかなか面白い本だったが・・・
たぶん、政府の圧力のみならず、業界団体や利益団体、市民団体と称されるよくわからぬ連中の圧力に屈して日本の「ジャーナリズム」は何も変らず、護送船団方式で、「みんなで渡れば怖くない」式の報道が、これからも垂れ流されるんだろうなぁ~・・・と思った・・・・(笑)


今年の読書:71冊目



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読書 | 00:20:39 | Comments(0)
回覧板が町内を2周!
旅から帰ってきて・・・
今朝、台所に行ったら、町内会の回覧板が置いてあった。

今年は、拙者が市報配布と回覧板の担当なので、旅に出る前に市報を各家庭に配布し、回覧板を回しておいたので、旅行中に回覧板が戻ってきたのだろう。
と・・・思っていたら・・・
どうも、親父の様子がおかしい・・・(汗)
ん?・・・・

「いやぁ~不思議なことがあってさぁ~・・・その回覧板・・・」と親父・・・
「何が?」
「その回覧板がさぁ~・・・戻ってきたんだよな・・・」
「そりゃ、戻ってくるのは当然でしょ。俺が回しておいたんだから・・・」
「はぁ?・・・・」
「ん?何かあったのか?」

「いやぁ~お前が留守中に回覧板が回ってきたからね・・・こりゃ、大変なことになったと思ってさぁ~」(苦笑)
「え?・・・まさか・・・」(汗)
「いや、急いで“ヒルタさん”のところに回したから大丈夫だけど・・・」
「ナヌ?回した?」
「そう、ちゃんと、回したけど、それがまた回って来てなぁ~」
「はぁ?」(苦笑)
「おかしだろ?・・・また戻って来てよぉ~・・・おかしいんだよなぁ~・・・これは、どうしたものかと・・・お前が帰ってきたら聞こうと思っていたんだよな。これ、なんでまた回ってきたんだ?」

「へぇ?・・・だって、これ、俺が回したんだもの・・・」(汗)
「お前が?」
「そう、今年は、うちからスタートするの!だから、1周回って戻ってきたの!旅行に行く前に言っておいたでしょ?」
「いや、覚えがないな・・・そんな話し・・・」
「それをまた回しちゃったの?」(大笑)
「だって、回ってきたんだから・・・」
「それじゃ2周しちゃったんだ!」
「そうなんだよ・・・おかしいだろ?・・・これ、また来たんだよ・・・これ、いつになったら止まるんだ?」
「だ・か・ら・・・・うちのところで止まるの!」(大笑)
「うちで?・・・なんで?・・・・うちからスタートしたんだろ?」
「そうだよ・・・スタートしたのは・・・うち!」
「何でうちで止まるんだ?・・・うちはスタートだよな?」
「スタートしたところに戻って来て、それでオシマイ・・・でしょ?」
「え?・・・わからねぇなぁ~・・・そうなのか?」
「そうじゃないと、いつまでもグルグル回り続けちゃうでしょ?」(苦笑)
「そうなんだよ・・・だから聞いてるんだよ!・・・おかしいんだよ、これ・・・いつになったら、これは止まるんだって!」(怒)

あ~あ~ダメだこりゃ・・・(大笑)
やっちゃったなぁ~・・・町内を2周しちゃった・・・
まぁ、3周しなかっただけ、いいと思うか・・・(大笑)
町内会ではみんな首を傾げただろうなぁ~(大汗)

日記 | 10:27:01 | Comments(0)
お知らせ
昨晩、無事に(当たり前ですが・・・)帰宅いたしました!

これから、ボチボチとブログを更新しようかなと思いますが・・・

今日は、これから大学の同窓会の役員会があるので出かけるし・・・

その後は、また東京に出かけるし・・・

戦友会の会報の編集も遅れているし・・・(泣)

法人会の事務局に今回の秋田大会の報告書を作成して提出しなくちゃならないし・・・(苦笑)

あっ!・・・年賀状の印刷を頼まなくちゃならないのに、まだ原稿作ってないし・・・(大泣)

というわけで・・・多分、なかなか更新できないかも・・・(大涙)

皆様、気長に続きをお待ちいただけたら幸いです・・・(謝)

日記 | 10:01:22 | Comments(0)
『技術中将の日米戦争』
技術中将の日米戦争―陸軍の俊才テクノクラート秋山徳三郎 (光人社NF文庫)技術中将の日米戦争―陸軍の俊才テクノクラート秋山徳三郎 (光人社NF文庫)
(2006/08)
石井 正紀

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プロローグ

第1章 志操堅固にして粋な人
     8キロの道を歩いて
     軍人を志した優等生
     工兵第10大隊の士官候補生
     軍事技術者に徹する思い
     サーベルを下げた東大生

第2章 多彩な人脈を誇って
     花の陸士24期生
     エリート以外の人脈にも恵まれて
     技術者重用を説く軍人がいた
     技術者が軽んじられた陸軍にあって

第3章 陸軍での数々の事績
     土木技術者として
     技術駐在官としての使命
     陸軍のテクノクラートとして
     その他の事績

第4章 秋山徳三郎の太平洋戦争
     山本五十六長官との会談
     苦悩の果ての飛行場建設
     拙速だったわが国初の機械化部隊
     飛行場設定練習部の発足と事績
     結局は海蜂の群に負けた日本軍
     戦前の日本に建設機械はなかったか

第5章 不死鳥は舞い上がった
     米軍ウルフ司令官との交流
     挫折感と家族のきずな
     会社経営の陣頭に立って

秋山徳三郎生涯年譜
あとがき
参考文献・資料



本書の主人公は、秋山徳三郎という土木技術の“大家”・・・
陸軍中将である。
こういう人が陸軍にもいたのかと、感心した・・・
東京大学で学び、陸軍では決して花形とは言えない工兵になり、近代化の遅れている我が陸軍に機械力を導入した人である。
日本軍はモッコとツルハシを使って人力で飛行場を造る・・・
何ヶ月もかかってようやく出来かけたところを米軍に奪われ・・・
米軍はブルドーザーであっという間に滑走路を完成させ、航空機を発着させる。
工業力の差と言ってしまえば、それまでのことだが・・・
その顕著な例がガダルカナル島の争奪戦である。
いくら我が日本軍が砲爆撃で滑走路を破壊しても、あっという間にブルドーザーで修復してしまう。
対する日本軍は人力なので、いつまで経っても修復できず、修復途中でさらに攻撃を受け・・・
結局、航空機の発着に支障をきたし作戦自体が成り立たない・・・
鉄砲をドンパチするだけが戦争ではない。
日米の土木技術力による戦争と言ってもいいだろう。
秋山中将はこの土木技術、特に飛行場設営の機械化導入を図るが・・・これが、なかなか・・・
エリートと呼ばれる上層部の“出来の悪い”連中がネックである。
ようやく日本でもブルドーザーを造り機械化が本格的になってきた頃には戦局は最悪・・・
飛行場を造る南方の島々は米軍の手中にあるし・・・
仮に飛行場を造ったところで、もう、飛行機を飛ばすための燃料はないし、飛行機自体もない・・・(汗)
残念ながら、遅すぎた・・・
もう少し、早くから手を打っていればなぁ~・・・とつくづく思う。
すべては、エリートと呼ばれるテストの成績はいいが、本当は頭が悪いという上層部の幕僚達の責任であろう。
戦後、彼らの責任は追及したのだろうか?
エリート幕僚の方針、施策、作戦、命令のおかげで、どれだけの兵士が無駄な死に方をしたか・・・
戦後、その反省はなされただろうか?
現代の「エリート官僚」と呼ばれる連中の“出来の悪さ”を考えると疑問である。
今も昔も変っていない・・・戦中、戦後・・・どこも変っていない・・・
そのような気がする。
仮に勝てなくても、あのっようなお粗末な形での敗戦は避けられたのではなかろうか?
本書の主人公の秋山中将も「エリート」と呼ばれる一人だが、「エリート」とは本来、こういう人を指す言葉だと思うのである。
いわば「技術戦」という戦いと言っていいと思うが、なかなかいいテーマの本だった。
一読の価値あり・・・と私は思う。


今年の読書:70冊目



読書 | 22:31:43 | Comments(0)
『ハーバードで語られる世界戦略』
ハーバードで語られる世界戦略 (光文社新書)ハーバードで語られる世界戦略 (光文社新書)
(2001/11)
田中 宇、大門 小百合 他

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はじめに ハーバード好き嫌い

第1章 ハーバードへ 大門小百合
     「知のパワー」を1年間堪能する
     どれだけ世界のことを知っているのだろうか
     亡命中のコロンビア人記者が急遽仲間に
     「人生で最高の年になる」
     大人のための大学
     夫の立場~田中宇

第2章 アメリカの国家神話とハーバード 田中宇
     アメリカの「分断なき四百年の歴史」
     清教徒の聖なる共同体・マサチューセッツ
     不満がある人は別の土地に行けばいい

第3章 コースショッピング 大門小百合
     留学生は元代議士
     大統領にアドバイスするための授業
     学ぶ側がいて初めて教育が成り立つ

第4章 知のディズニーランド 田中宇
     出入り自由、でもどこにも行けない
     百花繚乱(りょうらん)のセミナー
     たくさんのアトラクションからお好きなものを
     「看板倒れ」のセミナー

第5章 ハーバードの民主主義 大門小百合
     選挙応援はベースボールの応援
     戸別訪問
     「大統領の器」は2年間で作られる
     リンカーンと感謝祭
     一票の重みですべてを決めてよいものか
     ドレスアップする黒人エリート夫妻

第6章 競争する授業 田中宇
     日本人はアメリカが大好きか、大嫌い
     さまざまに工夫される授業
     「宇さん、ジゾウを知っているか」
     MITの“教材ネット無料公開”

第7章 拍手を受ける授業 大門小百合
     現実とアカデミズム
     教授の成績表を学生がつける
     チリのジャーナリストとアニメソングを歌う
     貧困と軍隊と
     日本からのため息まじりのメール

第8章 ハイフネーションの国 田中宇
     世の中で揺らぐ「単一民族神話」
     カフカスの三つの国
     アルメニア人はアメリカで三番目の勢力
     論争も最後は拍手
     アルメニアにつくか、トルコにつくか
     アルメニア、祖国の絆
     抑圧された歴史が蓄積された国・アメリカ
     EUが目指すハイフネーション型連邦国家
     アメリカの和平策がいつも失敗する理由

第9章 コンピューター記者と報道カメラマン 大門小百合
     エクセルで記事をつくる
     全米で広がるコンピューターを使った調査報道
     報道カメラマンの嘆き
     ジャーナリズムとは命をかけるだけの仕事か

第10章 ハーバードのパワーゲーム 田中宇
     「生臭い」ハーバードの教官たち
     自己弁護しにきたタリバン
     ハーバードの中国・台湾問題
     「イギリスより日本が重要な国だ」

第11章 授業で大統領側近になる 大門小百合
     ビジネス・スクールは別格
     経営危機の神学部
     演説に魅せられる
     計算しつくされたキングのスピーチ
     ビジョンの六つの要素
     担当教授がインド大使になった
     ケーススタディは「イラク爆撃」
     授業はミニ国連

第12章 アメリカの大学と戦争 田中宇
     戦争を支える大学
     冷戦時代の戦争協力
     「理想の国」から「普通の国」へ
     セミナーは実は「プロ」の集まり
     「善行外交」の裏の顔

第13章 留学生と歴史の重み 大門小百合
     CIAに誘われたら
     アメリカ批判オンパレード
     調査も諜報も英語では同じ意味
     トイレでカルチャーショック
     「あいつら(アメリカ人)がまじめすぎるんだよ」
     日韓はラブ&ヘイト・リレーションシップ
     国よってさまざまな戦争の影
     「日本はもっと誇りをもつべきだよ」

第14章 ケネディ・スクールの国旗騒動 大門小百合
     入学式に掲揚されなかった台湾の旗
     卒業式

第15章 東京に戻って 田中宇
     理論的なアメリカ人、雑学的な日本人
     アメリカのエリートは「システムマニア」
     雑学的庶民性が日本の強み

第16章 テロ事件後に考える
     ハーバードとテロリズム ~ 田中宇
     1年前から分かっていたテロの危険性
     孤立主義と国際主義の戦い
     次々と敵を作る戦略
     ハーバード的なオサマ・ビンラディン
     テロ事件と記者たち ~ 大門小百合


本書は田中宇(たなかさかい)という人と大門小百合という人の共著。
このお二人はご夫婦である。
奥さんのほうがハーバードのジャーナリストプログラムの特別研究員に選ばれハーバードに留学・・・
ご主人は家族として同行し、夫婦で授業や研究会に出席したという。
そういうことで、ご夫婦で各章を交互に執筆したようである。
が・・・・
「ハーバードで語られる世界戦略」という題名・・・
これは、ちょっといくらなんでも“誇大広告”ではあるまいか?(苦笑)
この書名だと、ハーバードで、いかなる世界戦略が語られているのだろう、その授業の内容が書かれているものと誰でも想像するのではあるまいか?
しかし、その中身は、殆ど“世界戦略”とは程遠いもののように私には思える。
奥様のほうは、かの有名なハーバードに留学したと、どちらかというと、はしゃぎ気味・・・
ご主人のほうが冷静にものを見ている感じで、クールな書き方・・・
内容的には、留学体験記が大半を締めている。
辛うじて御主人の記述で多少“世界戦略”的なものに触れられているという程度である。
ちょっと書名に騙されたという感じ・・・
内容はともかく、別の書名にしてもらいたかったと、つくづく思った・・・・


今年の読書:69冊目



読書 | 22:27:45 | Comments(0)
旧白崎医院
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酒田市指定有形文化財(建造物)
旧白崎医院 附 両便所供待所

大正8年(1919年)に建てられたもので、大正時代の建物では、酒田に残る唯一の木造洋風建築です。
デザイン、材料とも優れ、しかも大正期の原型がこれほど完全な形で残っている例は少ないといわれる貴重な建物です。
名外科医として活躍された白崎重治氏の外科医院(1階は医院、2階は住居)として造られました。
昭和51年の酒田大火後、建物は白崎家より酒田市に寄贈され、保存のために昭和55年に本町通りから現在地に移転しました。

昭和53年9月8日指定

開館日 4月1日~11月30日(12月~3月は休館)
開館時間 午前9時~午後4時30分
入館料 無料

酒田市教育委員会

(説明板より)

【山形県酒田市南新町1-6-13】

史跡 | 18:56:00 | Comments(0)
酒田招魂社
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招魂祭殿(招魂社)の由来

明治14年 酒田神宮協会所が新町旧籾蔵跡地に壮大な社殿を建立し 神宮奉斎会酒田支部と称した
同27年10月の大地震でその社殿を悉く失ったため 29年小規模の社殿を再建した
日清戦役後の30年 その境内に忠魂碑が建立された
明治37年日露戦争が起きると酒田奉公義会が組織された
大正10年7月 神宮奉斎会酒田支部は維持困難となり社殿を酒田奉公義会に売却
同会は社殿を招魂祭殿(通称招魂社)と改め 国難に殉じた英霊をお祀りし奉仕した
昭和17年 招魂祭殿を酒田市義勇奉公会から酒田市遺族会が引き継いだ
遺族会では毎月1日と15日の早朝に社殿内外の清掃と月例祭を催し「遺族の誓い」を朗唱し 戦後は特に慰霊と遺族の心の拠り所として今日に至る
昭和21年 旧酒田商業学校の奉安庫を譲り受け本殿とし その地下にかつて同地にあった忠魂碑を納め 以後 拝殿に遺影と名簿を奉納 本市出身2,341柱の英霊を合祀している
私達遺族は 戦争のない世界平和の実現こそ尊い英霊に報いる道と信じ 平成10年社殿を一部修復 慰霊奉仕と社殿の永久護持に努めている。

平成14年9月彼岸中日
酒田市遺族会

(説明板より)

【山形県酒田市南新町1丁目】

史跡 | 18:34:37 | Comments(0)
志士 斉藤元宏君之碑
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志士 斉藤元宏碑

斉藤元宏は明治20年(1887)平田町山谷に生まれ、広島幼年学校陸軍士官学校を経て旭川歩連26連隊に配属。
後、中尉に進み陸軍大学を中退しアジア平和の悲願から満蒙独立運動に参画し指導的役割を果たし、蒙古独立運動を指揮し大正5年5月25日ホロンバイルの激戦で戦死した。
昭和9年4月20日満州国建国に当たり同期生石原莞爾ら有志が建立した。
表題は粛親王の書。

(説明板より)

【山形県酒田市南新町1丁目・酒田招魂社】

史跡 | 18:15:45 | Comments(0)
松林銘
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松林銘

宝暦8年(1758)、本間光丘が下の山王社境内を中心とし、南は最上川岸より北は高砂の境に至る地域に西浜砂防林の造成を自力を以って着手した。
延長約1千間(約1.8キロ)東西約二百五十間(約450メートル)で、海風に強いといわれる能登の黒松を取り寄せて植え付けた。
ぐみの木、合歓の木の苗を植え、定着をまって黒松の苗木を植え、枯れた木は直ちに補植するなど、艱難辛苦の苦労も遂に実り、ここに一大松林が形成され、住民の悲願であった風砂の害を漸く克服するに至った。
光丘の没後、15年を経た文化13年(1816)、酒田町民の有志は光丘の偉業を巨石に刻み、その公益を永世に伝えんとした。
撰文者の公厳は本間家の菩提寺浄福寺の住職である。
碑文は神戸で刻み、海路運ばれたものである。

(説明板より)

【山形県酒田市日吉町】

史跡 | 17:53:36 | Comments(0)
バッテリーが切れた!(大涙)
「光丘文庫」の建物を眺め・・・
次に向かったのは、すぐ近くにある「光丘神社」・・・

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神社の入口・・・参道の方へ回ってみる。
イチョウの大木が素晴らしいが・・・
う~ん・・・ここに紅葉の大木も欲しいなぁ~・・・などと勝手に植栽を考えたりする。(笑)
神社の「社名標」には「郷社 光丘神社」とある。
戦後、マッカーサー率いるGHQ様のおかげで、神社の“社格”の文字が削られたり、コンクリートで埋められたりしているのをよく見るが、ここの神社は「郷社」の文字がそのまま残っている。
う~ん・・・嬉しい・・・(大笑)

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拝殿の前に立派な門構えのある神社である。
が・・・説明板らしきものが見当たらない・・・
ネットで調べてみたら・・・
この「光丘神社」・・・
拙者は「みつおかじんじゃ」と読むと思っていたのだが、なんと・・・「ひかりがおかじんじゃ」と読むそうな。
なんだか、どこかの住宅団地みたいな読み仮名だが・・・(汗)
で・・・ご祭神は本間光丘さん・・・
この本間光丘さんの本名は「本間四郎三郎」と言う。
珍しい名前である・・・・
四郎なんだか三郎なんだか、ハッキリしてくれと言いたくなるお名前である。(笑)
「光丘」は諱(いみな)だそうだ・・・
へぇ~・・・である。
すぐ近くの「日枝神社」を寄進した、お方がご祭神・・・
でも、何で日枝神社に祀る事にしなかったんだろう?
他の神様と一緒にしちゃいけないとか・・・そういう決まりがあるのだろうか?
本間光丘という人は、すごい人だよな・・・神様になっちゃうんだから・・・
『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや御殿様』という歌を、以前、“シミズくん”から聞いた記憶がある。
御殿様よりすごい人だったそうだから、神社に祀られてもおかしくはないか・・・
でも、どうせなら、この神社に光丘さんの顕彰碑があってもいいと思うけど・・・(笑)

すぐ近くの丘に登ってみる。
遊歩道があり、どうも「日和山公園」から続く「文学の散歩道」になっているらしい。

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この丘の中に、立派な土台の上に乗った石碑が・・・
「松林銘」という名の石碑だそうで、説明板によれば、本間光丘さんが自力で砂防林を造ってくれたことに対して、地元の人たちが、その偉業を巨石に刻んだものだそうである。
で・・・この石・・・碑文を神戸で刻んで船で運んできたそうだ。(唖然)
そこのところが、ちと、わからん・・・(笑)
どうして神戸で碑文を刻んだのだろう?
地元にも石工はいるだろうし・・・石もあると思うんだけど・・・(汗)
わざわざ神戸からねぇ~(汗)

この遊歩道沿いには文学碑も建ち並んでいる。
その中の一つに吉田松陰のものがあった・・・・

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文学碑の説明文によると・・・
吉田松陰は東北遊歴の旅に出た時、嘉永5年2月21日に、ここ荘内に入って来たという。

遊歩道をブラブラ歩き、丘を下ったところに何やらモニュメントが・・・

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ちょっと薄汚れているし・・・よく見ると、あちらこちらがボロボロだが・・・(汗)
これは“慰霊塔”らしい。
碑文には、こう書かれている・・・


やすらぎの塔

戦争で死んだ人たちは
平和の限りない尊さを
身をもって
生き残ったわれわれに教えた。

いまわれわれは反省する
果たしてわれわれは
死者のこの遺志に対して
どれほど報いるところがあったか

そして、もう一度その霊前に誓おう
子らのため、明日の世界のため
ひたすら平和を大切にすることを

昭和40年11月3日
酒田市長 小山 孫次郎

(銘板より)



昭和40年に建てられたものだから、こういう文章になるのだろうが・・・
関係者には大変失礼な言い方になるかもしれないが、拙者は、こういう文章は好きではない・・・(苦笑)
「ひたすら平和・・・」ねぇ~・・・・
よく戦った、よく頑張ったとは誰も誉めてやらないのか・・・・

メインの碑文は『戦火の中に散った数多くの人の霊に捧げる』とある。

すぐ近くに“お社”が・・・

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この神社は、「招魂社」だった・・・・(汗)
あらら・・・ポツ~ン・・・とね・・・

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直ぐ目の前に、ちょっと古い洒落た建物が・・・
「旧白崎医院」という病院の建物で、市の文化財に指定されているそうだ。
大正時代に建てられた建物で、「酒田の大火」でも被害を受けず生き残り、この地に移築されたそうである。
で・・・内部の見学も出来るようなので、早速お邪魔してみる。
館長さんがご親切にも案内してくださった。

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これは・・・手術室・・・

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こちらの部屋には、「酒田の大火」の時の貴重な写真資料が展示されていた。
で・・・なんと、ここでアクシデント!(大汗)
デジカメのバッテリーが切れた!!(驚)
ゲゲッ・・・・
しかし、拙者のセカンドバッグには、予備のバッテリーが入っているのである!(喜)
やっぱり、万が一に備えないとねっ!
・・・と、バッテリーを交換したのだが・・・ギャァ!
空っぽである!
あ~あ~あ~!!(大汗)
以前の旅行の時にバッテリーが切れたので交換したことを思い出した!(大汗)
その時のまま、充電していなかったのである!
これじゃ、予備でも何でもないジャン!(大泣)
しかも、予備のバッテリーを持ってきているので、充電器は家に置いてきてしまっている・・・
万事休す・・・である。(大涙)

時刻は11時半を過ぎた・・・・

ここから徒歩でテクテクと駅のほうへ向かう。
かなり距離があるが・・・やはり町の中を歩かねば旅は面白くない。

商店街で昼食をとろうと思ったが、優柔不断な拙者のこと・・・
どこで何を食べようか・・・なかなか決められない・・・(大笑)
ということで、次の角を曲がったところで最初に見かけたお店に入ろう・・・と決めて道を歩く・・・
で・・・バッタリと目に入ったのが「お好み屋さん」
お好み焼き?
まぁ、いいか・・・自分で決めた“ルール”だから・・・(苦笑)

お好み焼き・・・ねぇ~・・・・(汗)
最後に食べたのは、いつだったろう?
大学生の時に食べたのは覚えているのだが、それ以降に食べたという記憶がない・・・・
ということは・・・・30年以上も前?(大笑)
いやぁ~久しぶりなこと・・・(大笑)
で・・・このお好み焼き・・・美味しかったぁ~
が・・・写真が撮れない!(大涙)
あ~・・・バッテリー・・・・
お店の人と相変わらずの雑談少々・・・(笑)
そのせいか・・・「また、是非、来てください!」と言われたが・・・
拙者は旅人・・・酒田にまた来るかどうか・・・・(大汗)

食後の運動に、さらに徒歩でテクテク・・・
今度は、「酒田市立資料館」へ行ってみる。
それほど大きくもない資料館だが、内容は悪くない・・・
が・・・写真が撮れない!(大涙)
情けないことに・・・バッテリーが切れている・・・

あ~ドジッたなぁ~
ガックリである。
カメラは電池がないと動かないのである!(大笑)
バッテリーが切れたデジカメは、ただの鉄の小箱なのである・・・
あ~不便だ!(涙)

こりゃ、もう一度、酒田に来なさい・・・ということなのか?(大笑)

ササッと資料館を見学して、駅に向かい特急に乗って新潟へ・・・・
あともう1泊できれば、新潟も歩き回りたかったが・・・
いや、そういう計画を立てなくて良かった・・・バッテリーが切れてるから写真撮れないし・・・(大笑)
新潟で新幹線に乗り換え上野駅へ、さらに特急に乗り換え・・・夜、帰宅!

ちょっと不思議な気分・・・
昼間は日本海側にいて、夜は太平洋側にいるのである。(笑)

旅行 | 16:38:36 | Comments(0)
日枝神社(酒田市)
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日枝神社

人々の幸福と街の繁栄・社会の平和を祈り、お守りいただくために大已貴命(おおなむちのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・胸肩仲津姫命(むなかたなかつひめのみこと)の三柱の神をおまつりしております。
最上川の対岸、宮の浦の地から川を渡って今の酒田の街をつくった四百五十年前から産土様(うぶすなさま)として深く信仰されて来ました。
本殿・拝殿の建物は、明治27年の酒田大地震後、大修理を加えましたが、天明年間(二百年前)本間光丘翁が造営寄進されたもので、社殿のまわりに土を盛り松林を育て、防災に工夫をこらしております。
神社では、元旦祭から除夜祭まで四季それぞれのお祭りを行い、国の隆昌と世界の共存共栄を祈りますが、年に一度の例大祭は5月20日、酒田山王祭として市民あげての盛大な神事が行われます。

(説明板より)

【山形県酒田市日吉町1丁目】

史跡 | 15:30:16 | Comments(0)
大川周明博士顕彰碑
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大川周明博士顕彰碑

題額 酒井忠明
大川周明顕彰会・大川周明博士生誕百年祭実行委員会 建之
昭和61年10月吉日



哀輓三章

識見文章 共に絶倫
多年興亜経綸を展ふ
痩躯六尺 英雄漢
睥睨す 東西古今の人

危言 厄に遭うも道何ぞ窮せん
幾度か身を投ず 囹圄の中
筆は秋霜を挟み 心は烈日
果然頽世 清風を起す

立言何ぞ遜らん 立朝の勲
時 艱難に際して嗟す
君を喪うを
渺々たる魂兮 招けとも返らず
哀歌空しく対す 暮天の雲
               哀輓
大川博士周明君  土屋久泰

昭和33年2月15日、東京青山斎場に於て行われた葬儀の日、霊前に捧げられた弔詞。
土屋竹雨久泰先生は、明治20年鶴岡に生れ、荘内中学校・第二高等学校・東京帝国大学に学ぶ。
漢詩は当代第一。
書家として亦一家をなす。
長年大東文化大学々長として東洋文化の振興に寄与す。
昭和33年11月、71歳にて逝去

(説明銘板より)


大川周明博士を偲ぶ

鳥海山の秀峰を仰ぎ世界に通ずる日本海に浴した大川周明博士は此地酒田に生を受け育ち、第五高等学校、東京帝国大学に学んだ。
博士は少年期より求道の志固く、その精進は宗教、学問に及び政治、特に国際政治に甚大な感心を持たれた。
その学問行動の軌跡は、新井白石、吉田松陰に比適されるものがある。
博士の悲願とされたアジア諸民族の独立は既に達成され人類は未曾有の科学文明の時代に突入せんとしている。
先生の霊安らかならん事を祈ると共に後昆の領導を希ふ所以である。

昭和61年10月
拓殖大学総長
高瀬侍郎

(銘板より)


アジア植民地解放の父 大川周明の略歴

明治19年酒田西荒瀬村藤塚に生まれた。
荘内中学時代角田俊次の家塾に起居『南洲翁遺訓』に影響を受け、また横井小楠の卓抜なる見識に傾倒した。
熊本五校、東京帝大インド哲学科に学んだ。
ふとした縁でヘンリー・コットンの『新インド』を読んで、イギリス植民地下のインドの悲惨を知り、植民地政策の研究へと人生の転換を志した。
昭和4年時の満鉄総裁山本条太郎を説いて、満鉄から調査局を分離し東亜経済調査局を主宰、理事長となり、アジア、アフリカの政治経済、社会、文化の調査研究の指導に当り、また盟友北一輝と共に「猶存社」を創立。
更に「行地社」「神武社」を主宰、五・一五事件に連座、獄中で不朽の名著『近世欧羅巴(ヨーロッパ)殖民史』を著した。
昭和13年4月、東亜経済調査局附属研究所を設立主宰。
日支間の和平、アジア問題に献身し、大東亜戦争では東條に極力開戦阻止を進言したが果さず、戦後A級戦犯容疑者に指名されたが、昭和23年暮、不起訴で釈放された。
日本は敗戦したが、アジア、アフリカ諸国は独立し、大川の植民地解放の夢は実現した。
大川著『回教概論』はイスラム研究の最高水準をいっている。
晩年『古蘭(コーラン)』の翻訳に没頭し、昭和25年に岩崎書店より刊行している。
昭和32年12月24日神奈川県中津に於て逝去。
71歳。

大川周明顕彰会

(説明板より)



【山形県酒田市日吉町1丁目・日枝神社】

史跡 | 14:15:14 | Comments(0)
日枝神社周辺を散策
日和山公園の向かい側に神社が・・・
なにやら立派そうなので(笑)・・・行ってみる。

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日枝神社・・・・
説明板によれば・・・


先人 ここに街を開き鎮守日吉山王大権現を祀る。
以来四百九十年風砂を除き砂嚢を積み松林を経営して境内とす。
神佛両殿を祀り山王両宮と称せし時代を経て明治に至り日枝神社と改称県社に列せらる。
街の繁栄と社会の安寧を祈り ここに祖先の偉業を称う。

平成9年7月
日枝神社

(説明板より)


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山王鳥居

神域を表徴する鳥居には極めて多種の様式があるが山王鳥居は明神鳥居の上部に三角形の合掌或は破風の如きものが加わった当社独特の鳥居である。
昭和36年秋強風により従前の木造大鳥居を失ない今回篤志の御奉納をいたゞき20年ぶりに再建された。
御神号額は陸軍大将西郷隆盛公御筆 明治17年新調のものを再掲した。

昭和56年5月吉日
日枝神社

(説明板より)



いやぁ~面白い形の鳥居である。(笑)
この鳥居を潜って、ふと右手を見ると・・・

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地面が、イチョウの落ち葉で一面、黄色!!(感激)
この感動は、写真で見るより、現場に立たないと、わからないかも・・・
う~ん・・・こりゃすごい・・・・(喜)
向うに何やら石碑が・・・
近づいてみたら・・・
この石碑は『大川周明博士顕彰碑』!
えっ!こんなところに、何で?(驚)

大川周明という人は、思想家だったと思うが・・・
拙者の記憶にあるのは、東京裁判でA級戦犯として起訴された時、法廷の前の席に座っている東條英機の頭を叩いたシーンである。(大汗)
パジャマ姿で出廷したり、いきなりパジャマを脱ぎだしたり、訳のわからんことを口走ったり・・・とその異常な行動により、「精神異常」と判断、病院に送られ、訴追を免れて生き残った。
診断によると梅毒による精神障害とのことだが、わざと精神異常者のふりをして罪を免れたとも言われたと記憶しているが、結局、真相はわからず仕舞いだったと思う。
なにせ、裁判の前と、「精神障害」ということで無罪放免となった裁判後は、まことに“まとも”だったそうだ。
梅毒による精神異常が、裁判終了後にピタリと治ってしまう事なんてあるのだろうか?(大汗)
まぁ~おかしな人であるが・・・(大汗)
ここに、この人の顕彰碑があるとは・・・驚いた。

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隋神門(ずいしんもん)

神社の尊厳と境内の警護を願い太玉命(ふとたまのみこと)戸屋根命(こやねのみこと)の神像を安置するもの、この門をくぐり参道が曲折しておるのは俗界と聖境を区分し参拝者の精神統一を計ったものである。
天明7年本間光丘建立のものが明治27年10月22日酒田大地震にて全潰、現在の門は8年の歳月をかけて、材質を吟味し、工匠の術を集めて明治35年本間光輝が再建したものである。
楼門二層造総欅材で威厳と優美の調和が特徴と云われる。
門の中央で拍手を打つとこだまが返るが、天井の微妙なわん曲による反響であり「鳴き天井」は名工の秘術とされ、反響の大小により神意をうかがったとも云う。
「至誠通神」の掲額は東郷平八郎元帥の親筆であり御参拝の本義を示している。

日枝神社

(説明板より)



門を潜ると、カギの手に曲がり・・・切り通しのような道を歩くと・・・向うに本殿が・・・
なんとも面白い配置である。

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この本殿もまた素晴らしいものである。
特に彫刻!
う~ん・・・水戸藩士の“シミズくん”に見せたかったなぁ~(笑)

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この近くに「光丘文庫」というのがあるらしいので行ってみる。
途中、紅葉の落ち葉が綺麗な場所があったので、写真を撮ろうとしたら・・・
向うから境内の清掃を担当している方々が10名ほど歩いてきた!
ゲゲッ!!
紅葉の落ち葉の上をザックザックと歩かれ・・・踏み荒らされた!!(大泣)
それが・・・これ・・・

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と・・・この作業者達の中の一人が、携帯電話を差し出して・・・
「ほら、これ、綺麗だろう?さっき、ここを撮ったんだ。こっちのほうが綺麗だろ?」と言う。
あのね・・・あんたたちが、今、踏み荒らしたんじゃねぇかよ!!(怒)・・・と言いたかったが・・・(苦笑)
そりゃねぇよなぁ~
自分だけ、いい写真を撮ってさぁ~
拙者が撮ろうとしたら目の前で踏み荒らしておいてさぁ~
こっちの写真のほうが、お前のより綺麗だ・・・なんて・・・(唖然)
そりゃねぇよなぁ~(涙)

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秋だ!秋だ!(大喜)
この色!・・・・いやぁ~綺麗である!感動ものである!(大喜)
なんだろう・・・見ていて、気持ちがいいんだよねぇ~
なんだろう・・・さわやかな気分になるんだよねぇ~
こんなふうに色づくのは、東北ならでは・・・だろうか?
我が家の「大庭園」にも(大笑)、大きな紅葉の木があるのだが・・・綺麗に色づかないんだよねぇ~(悲)
最近は、とくによろしくない・・・真っ赤じゃなくて、どちらかというと茶色なんだよねぇ~(大笑)
これじゃ、色づいているのか枯れているのか区別がつかん・・・(大笑)

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「光丘文庫」・・・・面白い形の建物である。
こういう建物も好きだなぁ~(大喜)
建築士の“ウメちゃん”や“シミズくん”には、是非、こういう建物を設計していただきたいものである!
が・・・建て主さんが“貧乏人”では無理か・・・(大汗)
大富豪・・・いねぇな、うちの町には・・・(笑)

この「光丘文庫」の案内板には、こう書かれていた・・・


本間家3代当主光丘翁は、修学のために文庫を兼ねた寺院の建立を江戸幕府に願い出たが、ついに果たさなかった。
その意志を受け継ぎ、8代当主本間光弥は、大正14年(1925年)にこの光丘文庫を建てられ、その後、昭和33年(1958)に建物と蔵書は酒田市に寄贈された。
光丘文庫は、和書、漢書、郷土資料、個人蔵書など、貴重な図書を6万余冊所蔵し、主として学術研究調査のために利用されている。


で・・・この建物の内部も見て見たいと思ったが、ドアの所に「本日は閉館日です」の札が・・・
え?何で?・・・案内板によれば、閉館日は月曜と祝日・・・
で・・・今日は日曜日・・・なんで閉館なの?(汗)
あれ?・・・・あっ!・・・・今日は祝日か!
“毎日が日曜日”という生活を送っていると、祝日も何も関係なくなってしまうのである・・・(大汗)

休館日かぁ~・・・残念・・・

旅行 | 13:14:47 | Comments(2)
日和山六角灯台
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日和山六角灯台

明治28年(1895)対岸の宮浦最上川河口に置かれたがその後北岸の大浜に移され、さらに近代灯台の完成によって移築保存された。
明治の木造建築では日本最古の灯台の一つである。
(山形県指定文化財)

(説明文より)


山形県指定文化財
(旧)酒田の灯台

この灯台は、木造六角様式灯台で明治28年(1895)10月20日に最上川左岸河口に竣工した。
棟梁は佐藤泰太郎といわれている。
その後対岸に移され、昭和33年(1958)高砂に近代灯台が完成するとともに、町内会連合会の熱意によりこの地へ移築保存された。
この灯台の光源は、当初石油ランプであったが、大正8年(1919)アセチレンガス明暗紅光に改良され、さらに大正14年(1925)電化された。

高さ 12.83m
周囲 18.45m

昭和63年8月23日指定 酒田市教育委員会

(説明板より)



【山形県酒田市・日和山公園】

史跡 | 12:42:59 | Comments(0)
石井君紀功碑
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石井君紀功碑

明治34年(1901)建立。
石井虎治郎は千葉県の生まれ内務省の技手。
明治18年8月最上川と酒田港の改修工事が開始されると同時に来酒して工事の監督にあたった。
工事は粗木打杭をもって水勢を導き泥砂をさらい、河口の交通をよくするもので同25年に完成。
その後洪水の被害がなくなったといわれる。
大正5年61歳酒田で没す。
撰文は依田百川、書は巌谷一六である。

(説明板より)


石井虎治郎

虎治郎は安政3年(1856)7月、千葉県松戸に生まれた。
松戸は江戸川氾濫による水害地で幼児からその苦労をあじわった。
青年時代、政府の江戸川治水工事に従事し河川改良のため政府が招いたオランダ人ファン・ドールンから河川改修の知識や技術を学んだ。
その後、内務省に入り宮城県の石巻湾野蒜港建設にたずさわる。
明治12年7月、最上川は大洪水となり、その被害は甚しく、山形県では政府に最上川治水工事を陳情した。
17年、政府はこの実施をきめ、翌18年8月、内務省御用掛(のち技手)虎治郎を派遣した。
彼は生誕地・古ヶ崎地方で行われていた、突堤をきずきあるいは粗朶(伐り取った樹の枝)を用いて防水し、水勢を押さえ、もしくは誘水転流させる方法に、ファン・ドールンから教わった西洋工法、それに自分の独創を加えて最上川の低水高水工事に力を注いだ。
工事の目的は最上川から洪水をなくすることと酒田港に大型汽船の出入を可能とすることであった。
彼はこまかな計画を立て、先頭に立って事業を指導監督した。
彼は照っても降っても吹雪でも毎日、最上川の水を測り、あるときなど濁流に落ちて大さわぎになった。
16年後の明治34年、さすがの難工事も一応完工し最上川はおだやかとなり、近代港湾としての酒田港の基礎が固まった。
明治38年には山形県工手として最上川及び赤川の治水工事を指導したが、彼の手になると推定される最上川赤川実測平面図(建設省酒田工事事務所蔵)は、現在の技術から見ても立派なものだという。
虎治郎は最上川・赤川治水並びに酒田築港の一大功労者であり、これに感じた市民はここに紀功碑をたてるとともに龍厳寺の墓に墓碑銘をきざみ、その功績にむくいた。
また本間家は彼に家屋敷を与えて酒田に永住させた。
大正5年10月27日、61歳で没する。

田村寛三 撰文

(説明板より)



【山形県酒田市・日和山公園】

史跡 | 11:43:35 | Comments(0)
河村瑞賢庫跡
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河村瑞賢庫跡

寛文12年(1672)河村瑞賢が幕府の命によって出羽の天領米の置場を設け、西廻り航路を開いて江戸に運んだ。
御米置場は通称、陣屋と呼ばれたが、その広さは東西150メートル、南北82メートルで、ここに川運を利用して、御城米が続々集められた。
この碑の特徴は上部から見ると、米の字をかたどっていることである。

(説明板より)

【山形県酒田市・日和公園】

史跡 | 11:23:40 | Comments(0)
捨てたら「あ缶」
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捨てたらあ缶

暑き日に
涼を楽しむそのジュース
たとえ空いても
捨てたら あ
(読み人知らず)

名も知らぬ 遠き島より
流れしは
土にもどらぬ アルミ
(島崎父さん)

※ゴミと空き缶は、持ち帰りましょう

酒田ライオンズクラブ

【山形県酒田市・日和山公園】

看板・標識・標語など | 10:14:45 | Comments(0)
日和山公園に行く!
ホテルをチェックアウトし、荷物はホテルに預かってもらって・・・(笑)
今日は、この酒田に来た本来の目的地である「日和山公園」にタクシーで向かう。(大喜)

この「日和山(ひよりやま)公園」にある河村瑞賢の銅像の写真を以前から撮りたいと思っていたのである!
ようやく夢が叶いそうである!(大喜)

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で・・・最初に出会ったのが・・・松尾芭蕉の銅像!(大笑)
あら・・・松尾芭蕉の銅像もあったの?(大笑)

この公園の碑文によると、この日和山公園は「日本の都市公園100選」に選ばれているのだそうである。


日本の都市公園100選
日和山公園

この公園は遠く芭蕉来遊以来最上川と日本海を望む港の日和を眺めたところで 永く人びとに親しまれ公園として名勝地に指定されてきた
1983年 市制50周年に当り更に改造し文学の散歩道をつくり整備してきた
1989年 わが国を代表する都市公園として緑の文明学会と社団法人日本公園緑地協会が全国から公募して「日本の都市公園100選」の一つに選定された
この公園が永遠に愛され親しまれ誇りとなり後世に引き継がれることを念願する

1989年7月28日
酒田市長 相馬大作

(碑文より)



へぇ~である。
日本には、かなりの公園が存在していると思いますが・・・
その中から100の公園を選んだわけで・・・(なんで120とか200でないのかは知りませんが・・・)
そのうちの一つに選ばれたそうな。
で・・・山形県で選ばれたのは2ヵ所・・・その1箇所がこの公園なのである。
ちなみに・・・我が茨城県の場合は、水戸市の偕楽園1箇所だけ・・・
茨城県には、他に公園がないわけではありませぬが・・・(大汗)
たった1箇所だけかよ!!(怒)
面白くないのは、神奈川県では6箇所も選ばれているのである!(怒)
あ~面白くねぇ~なぁ~(大笑)

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他に荒木彦助という人の胸像もあった。


荒木彦助胸像

米穀商荒木彦助は嘉永5年(1852)生まれ。
町会議員、商業会議所会頭をつとめ、築港、河川改修に尽力し大正7年67歳で没す。
昭和8年有志が建立し戦後再建した。

(説明板より)



ようやく念願の河村瑞賢さんを発見!(大喜)
で・・・銅像の所に向かったら・・・

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なんと!・・・逆光である!!(大汗)
デジカメのモニター画面で見ると、真黒で何が映っているやらわからない・・・
過去の経験からいうと、こういう状態でも、パソコンに取り込んでパソコンの画面で見ると、なんとか見えるものだが・・・
それでも、やっぱり画像はよろしくない・・・
このカメラ・・・逆光の時には、どうすればいいのだろう?(汗)
プロのカメラマンなら、上手に設定して撮影するんでしょうが・・・
拙者には、そういう能力はない・・・(笑)
誰かプロのカメラマンに教えてもらおうなんていう「向学心」もない・・・(苦笑)
2歩、右に行って・・・1歩前に出て・・・ダメなら4歩下がって・・・(笑)
なんとか、逆光の影響を受けない撮影ポイントを探す。(大笑)
誰かに見られたら、銅像の前で何をやっているのかと怪しまれる行動・・・(大笑)
不審者丸出し状態である。(涙)
時刻は午前9時50分・・・
なんたることか・・・この時間で逆光とは・・・
銅像の向きというのには「決まり」がないようである。
河村瑞賢さんは・・・海のほうを向いて建てたのだろうねぇ~
少なくとも、もう少し南に向いて建ててくれていたら、それほどの影響はなかったと思うんだけど・・・(笑)
午後、夕方近くになれば、ちょうどいいのかもしれないが・・・
マイッタァ~(大涙)

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なんだかんだと苦労をし・・・太陽が雲に隠れる瞬間を待って・・・ようやく撮影に成功!(喜)
よっしゃ!目的完遂!!(大喜)

今後は、銅像は必ず南向きに建てること・・・という法律でも作ってくれないかなぁ~(大笑)

公園の端に行ってみたが・・・
なんとも面白くない景色である・・・
全然、見晴らしは良くないし・・・・(唖然)
なに・・・これ・・・である。

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この公園には、やたらと文学碑が建っている・・・(笑)
全部とはいかないが・・・(笑)
ほとんどの文学碑を見て回る。(大笑)

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「案内板」によれば、この公園の反対側の地域も含め30基の「文学碑」が建っている。

①松尾芭蕉 ②幸田露伴 ③秋沢猛 ④与謝蕪村 ⑤斉藤茂吉 ⑥野口雨情 ⑦若山牧水 ⑧鹿児島寿蔵 ⑨常世田長翠 ⑩東宮殿下 ⑪松尾芭蕉 ⑫松尾芭蕉 ⑬松尾芭蕉 ⑭井上靖 ⑮高山彦九郎 ⑯正岡子規 ⑰伊東不玉 ⑱正岡子規 ⑲斉藤茂吉 ⑳吉田松陰 21竹下夢二 22小倉金之助 23伊藤吉之助 24結城哀草果 25時雨音羽 26伊佐湖南 27佐藤十弥 28田山花袋 29宝夏静 30読み人知らず



文学の散歩道案内板

酒田市には今から1100年前の平安時代・出羽の国府がおかれ現在の山形秋田両県の政治、経済、文化の中心であったと推定される。
室町時代、すでに酒田港には三十六人衆と称する豪商たちが海船を諸国に走らせ、早くから京都文化を受け入れていた。
とくに寛文12年(1672)河村瑞賢が幕命により、西廻り航路を開発してから日本海有数の港として繁栄した。
日本海に沈む太陽、秀峰鳥海山、日本三大急流の最上川、景勝を誇る酒田には、芭蕉をはじめ多くの文人墨客が足をとどめ、すぐれた文芸作品を残している。
酒田市では市制50周年記念事業の一つとして、日和山公園を整備するに当り、来遊文人の文学碑を建立し、「文学の散歩道」をつくり、往時をしのび後世に伝えようとするものである。

昭和59年10月
酒田市

(案内板より)



504_convert_20150315162817.jpg(幸田露伴の文学碑)

公園内には復元されたと思われる「千石船」が展示されていたが・・・
池の水は殆どないし・・・船体も、荒れているような雰囲気なんですけど・・・
大丈夫?酒田市役所さん・・・(笑)
100選に選ばれた公園なんですよね?(悔し紛れに・・・イヤミを少々・・・)(笑)

492_convert_20150315163329.jpg(千石船)

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公園内をブラブラ散策・・・・
この公園に到着して、もう30分以上も歩き続けているのである。(大笑)
まぁ、いい運動である。(大笑)

この公園に沿った坂道・・・・
「芭蕉坂」と名付けられているそうだ。

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標柱の説明文によると・・・


芭蕉坂

昔、鶴岡・酒田間は赤川を走る日通し船で主に往来していた。
旅人は御米置場付近から上陸するとこの坂を歩き、鶴岡街道とよばれる出町・六間小路を通って町に出た。
古い石段はそれを物語る。
俳聖芭蕉も曽良とともにこの坂を歩いて伊東不玉宅を訪れたのであろう。

昭和63年2月
酒田市

(標柱の説明文より)



この「芭蕉坂」を登りきったところに、神社の入口が・・・

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標柱によれば、この辺りは昔、「出町(でまち)」と呼ばれた場所らしい・・・


旧出町

明暦図や天和3年(1683)巡見使覚書には漁師町(りょうしまち)と出ている。
元禄以降船場町が栄えると共にできたものであろう。
ここから秋田町に至る通りを鶴岡街道といい、鶴岡から赤川を下ってくる旅人で賑わった。
芭蕉翁もここを通ったものと思われる。

昭和61年3月 (平成7年3月修補)
酒田市

(標柱の説明文より)



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現在は、イマアイチ、パッとしない、この通りは、その昔は賑わっていたんだろうねぇ~

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神社に向かう石段・・・・
この石段の石は、綿積石(わたつみいし)というらしい。
調べてみたら・・・この綿積石というのは綿を積んで航海する船が、船の安定性のため船底に積む石のことをいうらしい。
そういうわけで、この綿積石は「海神石(わたつみいし)」とも書くらしい。
ということは・・・
船底に積む石で、この石段を造ったということか?
この石の本当の名前は「笏谷石(しゃくだにいし)」という火山の噴火で発生した火砕流などに含まれる火山岩や灰が堆積して凝縮されて出来た石らしい。
石段の直ぐ脇に「酒田スワンロータリークラブ」が設置した「酒田湊繁栄の証」という名の看板が設置されていたが・・・
「綿積石(笏谷石)の石段」との表記しかされていない。
“ふりがな”が欲しいし、どういう石なのかの説明も欲しかった。
ちょっと単純すぎる説明板なのが残念である。
どうせなら、もう少し詳しい説明が欲しいなぁ~(苦笑)
この石段が築造されたのは1833年とのこと・・・
日本の元号でいうと・・・天保3年から4年ごろになるかな?
2013年9月20日に修復されたのだそうだ・・・・

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石段を登ってたところにある神社は・・・「皇大神宮(こうたいじんぐう)」・・・・
う~ん・・・名前の割には小さな神社である・・・(汗)

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再び日和山公園に戻る・・・・
公園の一角に白い灯台が・・・
「酒田の灯台」もしくは「六角灯台」と呼ばれる木造の灯台である。



日和山六角灯台

明治28年(1895)対岸の宮浦最上川河口に置かれたがその後北岸の大浜に移され、さらに近代灯台の完成によって移築保存された。
明治の木造建築では日本最古の灯台の一つである。
(山形県指定文化財)

(説明文より)



ここに灯台があったわけではなく、移築されたものらしい・・・・
それにしても、明治時代の木造の灯台ねぇ~
へぇ~すごいもんだ・・・

旅行 | 09:58:50 | Comments(0)
松山城大手門
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松山藩及び築城の沿革

中世この地方一帯を遊佐郡平田郷中山地方と称す
江戸期初頭庄内藩主酒井忠勝(ただかつ)公の遺命により第三子酒井忠恒(ただつね)公に庄内の所領の中中山村外35ヶ村及び村山郡の中左澤地方74ヶ村併せて知行2万石を与え中山に分封せんことを幕府に出願す
正保4年(1647年)12月11日其の許可を得たり
依って寛文元年(1661年)中山地内稲荷沢古舘の跡を選び此処に館を構築し中山陣所と公称し政庁を開く
翌2年忠恒公家臣団と倶に鶴ヶ岡より移駐し鶴ヶ岡亀ヶ崎に因み中山を松山に改め以後松山藩と公称す
超えて第三代藩主酒井石見守忠休(ただやす)公幕閣に列し若年寄の重職を歴任す
安永8年(1779年)12月15日幕府忠休公永年の勤功を嘉し上州の地桐生地方5千石を加増し城主を命じ松山に築城を許可す
以後松山藩2万5千石の表高となる
よって宗藩鶴ヶ岡の軍師長坂十太夫正逸為に築城の縄張を行い執政上野織右ヱ門安邦を総奉行に任命し天明元年(1781年)5月工事に着手す
以来巨額の工費と人力を動員し天明7年(1787年)9月に至り本丸仮御殿を落城し第一次の築城工事を終わる
時巳に忠休公逝去し第四代忠崇(ただたか)公之に替る以来庄内松山城としてその偉容を近隣に誇り幕末に至る
時に藩主第七代紀伊守忠良(ただよし)公たり世情まさに王政復古の動乱期に当り慶應4年(1868年)の春以来宗藩と共に武門の誉れを守る
明治元年(1868年)維新後宗藩鶴岡と共に官軍に抗した理由により時の政府に城池没収取り毀しの厳命を受け遂に全城郭を破却の止むなきに至りここにその当時の偉観を全く失うに至る
実に創藩以来2百年余築城以来80有余年に亘る松山藩の命運であった

松山城大手門

天明元年(1781年)築城に当り本丸西方外濠に面し城郭の正面として翌2年9月に竣工し通常端門又は多聞楼と称される
完成以来9年目即ち寛政2年(1790年)秋10月10日の早暁屋上に落雷し之を焼失す
時に酒田在住の庄内藩士並びに松山藩財政方本間四郎三郎光丘同次郎四郎重利の両士大手門再建を藩庁に出願す
藩庁為に幕府の許可を俟ち寛政4年(1792年)6月26日再建完成す
現存の城門即ち大手門これなり
翌5年山形銅町の鋳工庄司氏造るところの青銅の鯱一対
屋上に飾り再建の主旨を銘記す
鯱の高さ4尺8寸(約1.45米)造形極めて優美なり(現在屋上にある鯱は大手門再建2百年を記念して平成4年4月山形市銅町庄司逸雄氏により制作されたものである)
藩政時代階上に非常の兵具を配置し階下の門扉(現在無し)の両側に下士12名門番として昼夜常駐せり中1名は面番役又1名は下座見役とし常に拍子木を持ちその打数により時刻及び登城の士の通過を門番に通報する
但し藩主不在中は大門扉を閉じ側の潜り戸より通行することを例とせり
明治2年城郭破却中来松の按察使坊城俊章閣下による格別の取り計らいにより破却を免れ得たものと伝えられる
後に旧藩校の流れを汲む松嶺正心学校の校舎として子弟教育の場となり貢献長期に亘る
再建以来実に2百有余年の風雨に耐え当時の城郭を偲ぶ唯一の建物として今尚毅然として城跡に建つ
昭和45年(1970年)2月4日山形県文化財の指定を受け現在に至る

平成23年6月
酒井市教育委員会

(説明板より)

【山形県酒田市字新屋敷36-2 歴史公園内】

史跡 | 15:10:35 | Comments(0)
松山城跡へ行く
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「松山町歴史公園」・・・・ここが松山城の跡らしい・・・(汗)
あれ?
ハッキリ言って・・・・期待はずれ・・・(大笑)
石垣も何もないしなぁ~
ここにお城があったの?(苦笑)

423_convert_20150307215534.jpg(松山城本丸御殿跡)

この松の木があるあたりが「本丸御殿」跡なのか?
う~ん・・・全然、ピンとこないんですけど・・・(苦笑)
標柱の説明文は・・・



松山城本丸御殿跡

松山藩の藩主が居住した場所と政庁があった場所です。
松山城は、松山藩3代藩主酒井忠休(ただよし)が26年間、幕府の要職を勤めた功績により、安永8年(1779)に築城が許されました。
また、大手門には「鯱(しゃち)」を上げることが許されました。
築城は、天明元年(1781)、本丸・二の丸の総面積が約3万8千坪の広大な計画で着工し、7年の歳月をかけて進められましたが、ついに未完成のまま築城を終えました。

(標柱の説明文より)




かなり大きなお城を造るつもりだったらしいが・・・未完成のまま?
あらら・・・計画倒れ?(大笑)

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どこから見ても、ただの公園だな・・・・(汗)

日本庭園のような中に大手門があった!
おお!・・・こりゃ、すごい・・・

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この大手門の目の前に、「馬出(うまだし)跡土塁」が残っている。
う~ん・・・土塁と言われれば土塁かも・・・という土塁であるが・・・(大汗)
この「馬出」の場所に、いくつか石碑があった!(喜)

401_convert_20150307222909.jpg(馬出の土塁跡)

394_convert_20150307223140.jpg(川俣茂七郎碑)



川俣茂七郎碑

川俣茂七郎
天保10年(1839)~元治元年(1864)
松山藩主の侍医川俣玄璞(げんぼく)の三男として江戸に生れ、早くから尊皇攘夷の思想を抱き、文久3年25歳の時、江戸藩邸を脱して、上州赤城山麓で挙兵を企図したが失敗し、江戸長州藩邸に匿われた。
これより水戸勤王派と通じ、元治元年筑波山に挙兵し幕府軍と戦う。
その後水戸藩の志士らと分かれて再び幕府軍と戦ったが敗北、同志は四散し、茂七郎は、志半ばにして、茨城郡大橋村羽衣(現在の茨城県笠間市)で自刃した。
享年26歳。
大正4年11月従五位を贈られ同9年靖国神社に合祀された。
大正13年勤王家川俣茂七郎功績顕彰会が結成され、同15年彼の勤王愛国の精神を顕彰するため砂山公園に顕彰碑が建立され、平成2年歴史公園整備事業により当地に移転した。
川俣茂七郎の所持の槍には時世の句が刻まれてあった。

みちのくの木の間かくれの山桜
     ちりてぞ人や夫と知るらん

(説明板より)



いやぁ~!ここで我が茨城県と縁のある方の顕彰碑に出会うとはねぇ~(大喜)
これだから、石碑を見るのは楽しいんだよねぇ~(笑)
笠間市で自刃されたのですかぁ~
笠間市には何か、この方に関する史跡でも残っていないかなぁ~
「自刃の地」の碑とか説明板とか・・・
ん?“シミズくん”なら知ってるかな?・・・水戸藩士だし・・・(大笑)
それにしても、素朴な疑問なんですけど・・・・
三男なのに、なんで「茂七郎」なんだろう?(大笑)
「茂三郎」ならわかるんだけど・・・(汗)

391_convert_20150307230149.jpg(愛山頌徳碑)



愛山頌徳碑

斉藤元経(げんけい)(愛山)
嘉永5年(1848)~大正15年(1926)
素封家
松山の豪商斉藤弥右衛門の子として生まれ、明治22年市町村制度の施行により松嶺町の町会議員として当選する。
明治24年から明治28年まで飽海郡会の大地主議員に選出された。
さらに明治32年から同34年迄松嶺町第六代の助役として町政進展に活躍した。
また、町内子弟の教育に意を用い、義務教育施設の整備に対し貢献する所大きく、地域産業の振興にも寄与し、乾田馬耕(かんでんばこう)の奨励を始め農業の振興にも尽力した。
風雅を好み俳諧をよくした。
大正11年8月、彼を慕う人たちにより、愛山頌徳碑が建立され、平成2年歴史公園整備事業により砂山公園から当地に移転した。

(説明板より)



この人は、地元で大活躍をした方のようである。
生前に「頌徳碑」を建ててもらうなんてねぇ~
豪商の息子に生まれて・・・かぁ~
拙者も「豪商の息子」に生まれたかったなぁ~(大笑)
それにしても、全国各地を歩き、いろんな石碑を見ているが・・・
なんとなく大正時代に建てられた「顕彰碑」や「頌徳碑」って多いような気がするんですけど・・・
「大正時代」は短かった割には、多いような気がするんだよねぇ~
何でだろう?
景気が良くて、石碑の建立にみんながカネを出しやすかったのか?(笑)
それとも、この時代は、そういう偉い人を顕彰しようというのが流行ったのか?(笑)
大正時代に碑を建てるのだから、そういう人たちは江戸時代末期か明治生まれの人たちか?
となると、その時代の人の気概なのだろうか?
今は、そういうのは少ないような気がするなぁ~
平成なんて、皆無に近いかも・・・(大汗)
人間の質の問題かね?(苦笑)

少し離れた所にも、ちょっと小さな石碑が・・・・

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この碑は「震災記念碑」・・・・
碑文は漢文でかなり薄れて読みづらいが、どうやら明治27年10月22日に、庄内で起こった大地震のことが刻まれているようである。
焼失家屋数などの被害状況などが見られる・・・・
こういう石碑は貴重だよなぁ~
常に多くの人に見てもらい、災害に対する気持ちを新たにするには、もってこいだと思うんですけど・・・
さて・・・現在はどうだろうか?
「東日本大震災」などは、テレビで、「語り継ぐ」と称して今でも相変わらず番組が流れていますが・・・
50年、100年先まで・・・と考えたら、やっぱり石碑に刻むのがいいんじゃないか?
ちょっと残念なのは、この碑の「説明板」が設置されていない点である。
是非、読み下し文の説明板を設置してもらいたいものである。

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この公園の敷地内に「松山文化伝承館」というのがあった。
というわけで・・・ちょっと館内を見学・・・
松山藩に関して少々・・・郷土の偉人についてが少々・・・(笑)
地元出身の画家の絵の展示が、かなり・・・(大笑)
あっという間に見終わってしまう程度の展示だが、まぁまぁの内容だった。
松山藩に関する詳しい資料などの販売がなかったのが残念・・・(涙)

で・・・なんと!
約1時間も、タクシーの運転手さんを、ほったらかしにして見学していた!(大笑)
時刻は午後2時半・・・・
今日のところは、このくらいにして・・・(笑)
市内に戻って駅前のホテルにチェックインすることにする。

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帰り道に見た景色・・・
道路わきの柵のようなものは、どうやら吹雪き除けの柵らしい・・・(唖然)
正式には何ていうの?・・・「防雪柵」かな?(笑)
雪の多いところは、こういうものを設置するんですねぇ~
拙者の所のように、年に1回から2回、雪が降るかどうかという場所では、決して見かけない風景である。
こういう「その土地ならではの景色」を見るのって楽しいものである。(喜)
が・・・いやぁ~大変だろうなぁ~・・・こういうところに住んでいる人は・・・

無事に駅前のホテルに到着!
運転手さん、お疲れ様でした・・・(喜)

ホテルにチェックイン後、近くのコンビニへ買物にいくついでに、駅前周辺を散策するが・・・・
これといって何もない・・・(汗)
閑散としていて・・・なんとも・・・いやはや・・・・
日本全国、どこでも似たような感じ・・・
やっているんだか、やっていないんだか、よくわからぬシャッターが閉まった店とか・・・(苦笑)
酒田は“粋なまち”のはずなのだが・・・

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ホテルの部屋から見た駅前の景色・・・・
右手向うに見える大きな建物は、別のホテル・・・(汗)
あとは、民家と駐車場・・・(唖然)

夕食はホテルの1階にある「居酒屋」で食事しようと思ったら・・・
どうも地元の団体さんか何かで満席!(汗)
いつになったら席が空くかわからないと言う・・・(唖然)
仕方がないので、外に出たが・・・
食事が出来そうな店が・・・ない!(大汗)
それじゃ、ホテル内の居酒屋が混むのも無理はないか・・・(苦笑)
今は、どの町へ行っても居酒屋ばかり・・・
拙者は居酒屋は好きではないのだ・・・(涙)
うるさいし・・・

明るいうちに、少し周辺を歩き回ったので、おおよその位置関係は分かったので、再び町の中を歩き回る。
歩き回ること1時間以上!(唖然)
そのうち町外れまで行ってしまい、歩道は真っ暗で足元が見えない・・・(大汗)
しまった!
しかも・・・またもや方向を見失った!(大笑)
やっちまった!
真っ直ぐ歩いて・・・左、左、左・・・と曲がれば元の位置に戻るはずなのだが・・・
あれ?(汗)
ここは、どこ?(冷汗)

自分が想像していたより、かなり遠くまで歩いてしまったようである!
「商店街」とか「繁華街」というのは、どこにあるんだ?
駅前が一番賑わっていると思ったのだが、全く閑散としている・・・
町の中が真っ暗なので、道路表示の看板の文字が読めない!
とにかく、駅の方向はどっちだ?(大汗)
線路、線路・・・線路を探さねば・・・(大汗)

散々迷子になって、ようやく駅にたどり着く・・・
拙者は、いったいどこを歩いていたのやら・・・(唖然)
クタクタである・・・
結局、駅の近くに1軒だけあるラーメン屋さんで食事をすることにする。(苦笑)

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旅行 | 14:46:09 | Comments(0)
中山神社
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中山神社

由緒・沿革
慶安元年(1648)4月1日創建。
寛文元年(1661)松山藩主酒井大学頭(だいがくのかみ)忠恒(ただつね)は、羽黒山の天宥別当(てんゆうべっとう)に松山法護山(ほうごさん)修善寺(しゅぜんじ)を開かせ、寺禄(じろく)16石2斗5升を与え、天台修験(てんだいしゅげん)の法をもって中山神社に奉仕させ、藩内鎮護(ちんご)の祈願をさせた。
延宝4年(1676)庄内酒井藩は分封(ぶんぽう)した松山藩に命じ、中山の大明神に徳川家康の嫡男(ちゃくなん)「徳川三郎源信康(のぶやす)公」を配祀(はいし)し、「源鎮霊社」と称した。
元文3年(1738)松山藩は社殿を現在地に造営し、宗源宣旨(そうげんのせんじ)を得て「中山大明神」と称した。
明治4年県社、同9年2月24日郷社、昭和22年1月8日宗教法人となり神社本庁に属した。

祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
配祀 徳川三郎源信康公
    酒井左門尉(さえもんのじょう)忠次(ただつぐ)公 (酒井藩祖)
相殿(あいどの) 中山神社
            祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
                伊弉冉尊(いざなみのみこと)
            配祀 酒井忠恒(ただつね)公 (松山藩祖)
                酒井忠豫(ただやす)公 (松山二代)
                酒井忠休(ただよし)公 (松山三代)
境内社 稲荷社、山神社(やまのかみしゃ)、厳島神社
祭典日 神輿(みこし)渡御(とぎょ)あり、武者行列供奉(ぐぶ)

平成3年 秋
中山神社社務所
松山町観光協会

(説明板より)

【山形県酒田市字内町3】

史跡 | 14:44:57 | Comments(0)
総光寺庭園
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国指定名勝總光寺庭園

作庭年代 江戸時代後期
指定年月日 平成8年3月29日
指定面積 176,442平米

説明
總光寺は、14世紀後半創建の禅宗寺院で、庄内松山藩酒井家の城下町であった松山町の東山麓にある。
庭園は江戸時代に流布した築山泉水庭の作庭法に基いており、寺の歴史の変遷から推定すれば、江戸時代後期の作庭と考えられる。
本堂、庫裏書院から鑑賞する庭であり、自然の景観を構成する山、渓、海などの要素を築山、滝、流れ、池などに代えて立体的に表現したもので優れた庭景を成している。
借景として山間に「中の薬師堂」、山頂に「峰の薬師堂」を置き、拝石より遥拝する形をとっている。
鳥海山、月山、最上川、庄内平野、日本海の恵まれた景勝地にあり、自然との調和を特色とする日本庭園の好例として価値が高く貴重なものである。

平成8年10月  松山町教育委員会

(説明板より)

【山形県酒田市総光寺沢8】

史跡 | 13:15:01 | Comments(0)
史跡めぐり
市内に戻ってきたときには、時刻は、ちょうど12時・・・・
運転手さんのお勧めの食事処へ案内してもらう。
で・・・ついでに一緒にお昼でもどうですか?・・・(笑)

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お昼は「カツ丼」を食べる。
拙者の大好物なのである!(大喜)
で・・・御会計・・・・
どうせだから、運転手さんの分もご馳走してあげる。(笑)
さすがに運転手さんは驚いていたが・・・
まぁ、タクシーの運転手さんに食事をご馳走するような客は滅多にいないでしょうねぇ~(大笑)
いいんじゃない?・・・楽しくオシャベリしながら食事できたし・・・(笑)

食後に、まず向かったのは・・・「近江屋三郎兵衛宅跡」・・・・
運転手さんは、知らなかったようだが・・・(笑)
「庄内證券の建物の所!」と言ったら、わかってくれた。(笑)

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酒田を訪れた松尾芭蕉が、この地を去る前日に、このお宅で開かれた納涼会に招かれているのである。
拙者はべつに松尾芭蕉のファンというわけではない・・・・(苦笑)
が・・・ここは一応、史跡だよね?(笑)
「なにも残ってませんけど・・・」(苦笑)・・・と、運転手さん。
「標柱が建っているでしょ?史跡の・・・」
「あ~・・・・あれねぇ~・・・・あれを見に来たんですか?」(唖然)
わからん人には、わからんでしょうねぇ~・・・・拙者はワクワクするんですけど・・・(大笑)
説明板が何もないので、ちょっと不満ではありますが・・・(汗)

この近くに「不玉亭跡」もあるはず・・・
「あ~・・・それは、そっちの道を入ったところにありますよ。でも、何もないですよぉ~。あ、石か何かがあったかな?」と運転手さん・・・
「そう!そう!それ!石碑でしょ?それを見たいの!」(笑)
「石碑・・・ねぇ~」(またもや唖然)
タクシーはそのまま適当な場所で待っていてもらい、一人で徒歩で「不玉亭跡」を探しに向かう。(大笑)

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芭蕉遺跡 不玉亭

元禄2年(1689)の夏、芭蕉と曽良が訪れた伊東玄順(俳号不玉)宅跡である。
象潟行の前後を通じ9泊した「奥の細道」ゆかりの地であり、この間翁は左の名句を残した。
不玉の墓は妙法寺に再建されている。

暑き日を海に入たり最上川
温海山や吹うらかけてゆふ涼
初真桑四にや断ン輪に切ン

(説明板より)


この「不玉宅跡」の石碑は、酒田観光協会により昭和35年6月13日に建立されたものである。
ん?・・・拙者の生まれた年に建てたのか・・・
50年以上も、ここに頑張って立っていたわけだ・・・
なぜか、嬉しい・・・(笑)

「不玉亭跡」を見て・・・(笑)
タクシーの所まで戻る途中、なにやら大きな看板を見つけた!
酒田の「三十六人衆」というものについて解説している看板だった。

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酒田のまちづくりと三十六人衆

中世以降、酒田のまちづくりを支えてきたのが「酒田三十六人衆」といわれる自治組織でした。
京との流通に携わった地元の商人や全国各地から酒田の地に移住した商人たちで構成されていたようです。
16世紀初頭、最上川南岸の向(むこう)酒田(袖の浦)から最上川北岸の当(とう)酒田への移転が始まり、約百年の間に湊、町、人が移動し、現在の酒田市中心部を形作りました。
江戸期には、町奉行の下、廻船問屋の経済力を背景に、殿様入部のお出迎え、御用荷物積船の付添い、御城米の最上川下し、巡見使や大名通過の際の本陣・脇本陣、亀ヶ城の堀浚(さら)い、土手の草刈、夜回り、火消しなど幅広い役割を担いました。
三十六人衆に名を連ねるには、本町通りに屋敷を構え、人柄と資力を備えた問屋であることが条件でしたが、商人たちの浮き沈みも激しく、17世紀末から明治元年まで存続したのは10家のみで、残る26の家株を巡って、91家が入れ替わりました。

(説明板より)



こういう看板はいいねぇ~・・・大いに勉強になりますよ。
でも、これ、誰が建てたんだろう?
市役所とか観光協会とか、設置者の名前がどこにも見当たらない・・・(汗)
でも、すばらしい!

次に向かうのは・・・「松山町歴史公園」・・・・
ここは「松山城跡」らしいので、どんなところか時間に余裕があったら行ってみようと思った場所。
ちょうど、時間に余裕がある・・・(大笑)

タクシーの運転手さんから、お寺や神社にも興味があるなら・・・と提案が出た・・・
ようやく、拙者の“趣味”がわかってくれましたね?(大笑)
ということで・・・歴史公園に向かう途中、運転手さんお勧めの「総光寺」に立ち寄ることにする。

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このお寺の庭園は有名だそうで、国指定の名勝だそうである。
が・・・・時刻は午後1時・・・
庭園を眺めて時間を潰すと、「歴史公園」を見る時間がなくなりそうなので、庭園の見学は諦める。(笑)

ここの山門が・・・すごい!(喜)
“重厚”という表現が当てはまるんじゃないか?

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山門

文化8年(約200年前)3歳を要して落慶
扁額「洞瀧山」は第5代松山藩主酒井忠禮公の揮毫

(説明板より)



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この門には、仁王様が安置されている。
ちょっと漫画っぽい、お顔であるが・・・(大笑)
目が光っているようで、ちょっと不気味である・・・(大汗)
仁王様って・・・正確には「金剛力士像」って言うんだっけ?
口を開いている方を「阿形(あぎょう)」、口を閉じている方を「吽形(うんぎょう)」と呼ぶらしい・・・
で・・・この2体で一対ということになるが・・・
「阿吽の呼吸」というのは、ここから来た言葉なのだろうか?
いや、神社の狛犬の方か?(汗)

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境内に「伊勢守佐藤正信公之墓」というのがあったが・・・・
「佐藤正信」って誰?(苦笑)
“公”って付くんだから、偉い人なんだろうなぁ~
これは水戸藩士の“シミズくん”なら、わかるか?(笑)
いずれにせよ、説明板がないのが残念である。

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有名な庭園があるのは・・・あの本堂の向こう側だろうか?
人気(ひとけ)がないので、静かに・・・Uターンする・・・(大笑)
拙者は、結構、気が小さいのである・・・(大笑)

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お寺の参道に杉の木の並木が・・・(笑)
「総光寺のキノコスギ」で有名なのだそうである。
へぇ~・・・・
そういう杉があったのかと思ったら、元和年間に、ここの和尚が植えてから、毎年刈っているうち、キノコの形になったので「キノコ杉」と呼んでいるそうだ・・・(唖然)
それは、わざとキノコの形に刈ったということではないか?(汗)
本当の名前は「土湯スギ」あるいは「山ノ内スギ」というそうで、最上川のどこかに自生しているものを植栽したのだとか。
これで樹齢は350年だという・・・(唖然)
その割には、背が低いが・・・巨大なスギの盆栽だと思えば納得できるかな?(大笑)

そうか・・・我が家の庭木も、こんなふうにキノコの形に刈るのも面白いかも・・・(大笑)

次に向かったのが「中山神社」・・・・
運転手さんの話しだと、ここも有名だとか・・・

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ちょっと、どこにでもある小さなパッとしない神社のような気がするが・・・(苦笑)
説明板を読んでみると、かなり昔からの由緒ある神社のようである。

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おお!小さな石碑が!・・・(大喜)
手前の石碑には「威風流砲術十代目 庄司惣次郎重政碑」と刻まれていて・・・弘化3年に建立されたもの。
その隣りの碑には「威風流砲術十一代目 庄司惣右衛門元継碑」と刻まれている。
威風砲術?・・・・
聞いたことがないけど・・・どういう砲術だったのだろう?
廃れちゃったのか?
この2つの碑の、最後の「碑」の部分は、削った跡に、あらためて「碑」の字を刻んでいる。
ということは、もしかしたら、最初は「庄司惣次郎墓」と「墓」の字でも刻まれていたのだろうか?
当初は「墓」と刻んだが、実は墓じゃないから、これじゃマズイということで「碑」に直したのかも・・・と想像してみる。
こういうのも楽しんだよねぇ~(笑)

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この碑は「舊松嶺藩戊辰戦死之碑」・・・・
碑文は薄くなっていて、ちょっと読み取れない・・・(涙)
明治14年7月に建立されたもの。
それにしても、「松嶺藩」ねぇ~・・・・そういう藩があったんだ・・・へぇ~
チョット調べてみたら・・・(笑)
庄内藩の支藩の松山藩(出羽松山藩)が明治2年に「松嶺藩」と名前を変えたそうな。
ちなみに、庄内藩も同年に「大泉藩」と名前を変えているそうな・・・(笑)
なんとも、ややっこしい話である・・・(苦笑)

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この碑は「舊藩松嶺侯酒井氏遺徳碑」・・・・
碑文が薄くてよく読めなかった・・・(涙)

で・・・・この近くに・・・この看板・・・(唖然)

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『この付近にクマ出没 注意! 酒田市』・・・・
ここ・・・熊が出るのか?(大汗)
帰ろう・・・さっさと帰ろう・・・

旅行 | 12:42:37 | Comments(0)
南洲神社に行く
駅からタクシーに乗り・・・
まず最初に向かったのは「南洲神社」!
今回予定している訪問地の中で一番遠い所から行く事にする。(笑)

車内で運転手さんと、いつものようにおしゃべり・・・
運転手さんは「酒田の大火」のことを、延々と話してくれ、「ご存知だと思いますが・・・」と言われても、答えようがないので、適当に返事をしていたが・・・
そのうち、さらに話が進んできたら・・・・
あれ?・・・(大笑)
どうも話が噛み合わないと思ったら、拙者の大勘違いに気が付いた・・・(大汗)
「酒田の大火」って、江戸時代の頃の話しだと思い込んでいたのである!(大汗)

「このあたりまで焼けましてね・・・」
「へぇ~・・・よくご存知ですねぇ~」(江戸時代のことを・・・)
「そりゃ、すごい火事でしたからねぇ~」
「はぁ・・・」(江戸時代の火事を見たの?)
「で・・・道も広くなってねぇ~」
「はぁ・・・」(そりゃ、江戸時代から比べればねぇ~)
「で・・・消防自動車がね・・・」
「へぇ?・・・」(江戸時代に消防自動車???)
「火元が映画館でしてね・・・」
「はぁ?・・・・・」(映画館?こりゃ江戸時代じゃなさそうだ・・・汗)

「酒田の大火」というのは、昭和51年10月29日に発生した大火事だそうで・・・(苦笑)
あれ?・・・拙者が高校1年生の時のことなのか?(大汗)
記憶がない・・・(大汗)
「酒田の大火」という名前は聞いたことがあるのだが・・・・いつの話しなのかは知らなかった。
映画館から出火し、強風に煽られて一気に市内中心部に燃え広がった大火事だったそうである。

運転手さんは何か勘違いをされていたようで・・・(大笑)
酒田の大火の件で、この町に来たんでしょ?・・・と言わんばかりの話しっぷり・・・(苦笑)
拙者は大火の後の復興状況を調査に来た調査官ではないんですけど・・・(大笑)
拙者が火傷を負っているので、消防関係者だと思い込んだのかも・・・(大笑)

「で・・・なんで南洲神社に?・・・何かご用事でも?」
「え?・・・私は歴史が好きでして・・・史跡めぐりが好きなんですよねぇ~」
「へぇ~・・・・こっちのほうまでは火の粉は来なかったんですけどね・・・」(なんでまた「酒田の大火」に話が戻っちゃうのかね?)

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午前11時過ぎ、「南洲神社」に到着・・・
ここにある西郷隆盛の銅像の写真を以前から撮影したいなぁ~と思っていたのだ!(喜)
この銅像の石膏型は鹿児島に行った時に見たことがあるんだけどね。(笑)
やっぱり実物の銅像を見たかったんだよねぇ~(笑)

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西郷さんと向かい合って座っている人は、菅実秀という人・・・
で・・・何をしているのかというと・・・碑文を読むと分かる。(大笑)


徳の交わり
西郷隆盛(南洲)と菅実秀(臥牛)が対話しているこの坐像は 鹿児島武西郷屋敷において両翁が親睦を深め「徳の交わり」を誓いあったことを記念して製作したものである
庄内藩は戊辰戦争で官軍に激しく抵抗したため厳しい処分を覚悟していたが 南洲翁の公明正大な極めて寛大な処分となった
この南洲翁の大徳に感じ臥牛翁は明治8年自ら旧庄内藩士と共に訪鹿して南洲翁の教えを受け後にその教えを受けた人達の手記を集め「南洲翁遺訓」を発刊した
旧藩主酒井忠篤公は数名の人を各地に行脚させ全国に頒布した
南洲翁の偉大さに傾倒し生涯のすべてを尽された庄内南洲会の創始者である長谷川信夫先生の遺志を継ぎ今庄内の一角に両翁の遺徳を偲び不易の教訓である「敬天愛人」の精神を永く後世に伝えるため 有志相諮り浄財を募り対話の坐像を建立した

平成13年9月吉日
財団法人 庄内南洲会



『南洲遺訓』という名前は聞いたことがあるが、庄内藩の人が作ったのかぁ~
へぇ~・・・

神社の隣りに資料館らしき建物が・・・
以前、水戸藩士の“シミズくん”が、某大先生と一緒にこの地を訪れたそうな。
ところが休館日に訪れた為、内部を見学できなかったとか・・・(大笑)
事前調査が甘いな・・・(大笑)

ちょうど館長さんがおられ、案内をしてくださった。(大喜)
写真撮影も許可が出たので、ここに“シミズくん”の為に写真を掲載しよう!(笑)
最近、無断で写真をパクる非常識な人間がいるので、あまり写真を載せたくはないのだが・・・(苦笑)

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何て書いてあるのか知らないが・・・
こういうのは“シミズくん”なら読めるだろうが・・・(笑)
一応、念のため、説明文を載せましょう。(大笑)

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で・・・展示品の中に「赤間ヶ関硯」というのがあった。
これは、西郷隆盛が愛用していたものだとか・・・
下関の「長府博物館」へ貸し出したことがあるとか・・・(笑)
おお!長府博物館!行きました、行きました・・・・(笑)
「赤間ヶ関」というのは山口県下関にある地名だそうで、平家の終焉の地だそうだ。
へぇ~・・・・である。

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この資料室は、建物の隅にある小さな部屋・・・・
建物の大部分は、集会場のような会議室になっていた。

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ここで勉強会を開いているのかな?(笑)
室内の展示品を見学している間に、館長さんが資料をコピーしてくれて、プレゼントしてくださった。
感謝!(喜)

なんだかんだと30分ほど、ここで館長さんとおしゃべり・・・(大笑)

ようやく、資料館から出てきたら、タクシーの運転手さんが半ば呆れ顔で「ご用事はすみましたか?」と言う。(大笑)
さて・・・これからどうするか・・・
今日、回る予定地はメモをしてきたので、運転手さんと打ち合わせ。
タクシーはもちろん貸切とする。(大笑)
拙者は、史跡めぐりにはカネに糸目はつけぬのだ!(大笑)
時間がないときにはタクシーで一気に回るほうがカネがかかっても効率がいい・・・
いつ来るかわからない路線バスを待つのは時間の無駄でしょ?
こういう経済観念だから、亡き母に心配をかけちゃったんだよねぇ~(大笑)

とりあえず・・・市内に戻ることとする・・・

旅行 | 11:19:41 | Comments(0)
山形県酒田市へ行く
法人会青年部の全国大会も無事に終わり・・・
我がメンバーは車で帰宅しただろう・・・(笑)
「一緒に帰りませんか?」と誘われたが・・・素直に真っ直ぐ帰る拙者ではない・・・(大笑)
「あ・・・やっぱりね・・・」と言われた・・・(笑)

今日は、これから山形県の酒田市に向かうことにしている。
秋田県に来ているのに、秋田県内を旅せず、山形県に行くとは・・・と、半ば呆れられたが・・・(笑)
酒田市・・・以前から行ってみたかったのである。(笑)
写真に撮りたい銅像があるんだよねぇ~(大笑)

秋田駅から特急で酒田に向かう・・・・
駅ビルの中のデパート(?)の中に改札口が・・・(汗)
はぁ?・・・・なんだろ、これ・・・である。

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ん?・・・ここは連絡通路?
あれ?・・・拙者はどこを歩いていたのか・・・(汗)

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この「特急いなほ」で向かうのである。
拙者は“鉄ちゃん”とかという「鉄道マニア」ではないが・・・
う~ん・・・結構、いい色の電車だと思う・・・(笑)
不思議なことに、東日本の電車って、落ち着いた地味な色が多いような気がする。
これが、九州だと、赤や青、黄色など原色を使った派手な色の電車が多いような気がする。(大笑)
あれは、何でだろう?
人種が違うのか?(大笑)

約1時間半ほどで、JR酒田駅に到着!

と・・・・ホームに大きな埴輪が・・・・(汗)

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日本最大の土偶・・・『縄文の女神』というのだそうだ・・・
平成24年に国宝に指定されたとか・・・(汗)
でも、ここに展示されている土偶の複製品・・・実際の土偶の5倍の大きさに拡大したものだと説明板に書いてある。(唖然)
5倍にしたら大きくなるわなぁ~(大笑)
それにしても、この「土偶」って何なのだろう?
古代の発掘物は土器でも何でも「祭祀」に使用された・・・となるので、拙者は納得できないんですけど・・・(笑)

たとえば・・・「リカちゃん人形」・・・(大笑)
これが、4000年後に土中から見つかったとする・・・
と・・・昔、この地には「日本」という国があって、その国の女王様を模した人形である・・・とか・・・
当時の日本人を模った人形で、4000年前の日本人は金髪で、足が異様に長かった・・・とか・・・
この「リカちゃん人形」が各地で続々と見つかった場合、4000年前の日本には女しか住んでいない国だった・・・とか・・・
そういうことを言われたら笑っちゃうよなぁ~(笑)
拙者は、土偶を見るたびに、思うのである・・・
これは、もしかしたら古代の「リカちゃん人形」ではなかろうか?
いや、もしかしたら、宇宙人かも・・・(笑)
どう見ても“人間”の姿じゃないようなんだけど・・・
「女神」ねぇ~・・・・(大笑)
「国宝」ねぇ~・・・・(大笑)

285_convert_20150225202124.jpg(紅花)

「紅花」は山形県の花だそうで・・・
説明板によれば・・・


紅花は、アザミに似た菊科の花で、古名を末摘花(すえつみばな)、紅藍(べにあい)、久礼奈為(くれない)とも呼ばれます。
紅花は7月の梅雨の時期から梅雨明けにかけて、真黄色の花を咲かせます。
紅花は昭和57年に山形県の花として定められました。
山形県内の村山・置賜地方を中心に栽培されています。
(説明板より)



へぇ~・・・紅花って聞いたことはあるが、見たことはない・・・(汗)
で・・・ここにあるのはドライフラワーみたいな感じなのだが、本当はどんな感じなんだろう?(笑)

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この看板によると、酒田は「おくりびと」という映画のロケ地だったらしい・・・
で・・・何?・・・その「おくりびと」って・・・(大笑)
拙者は邦画には、あまり興味がないので全然知らないんですけど・・・(大汗)

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『ようこそ 粋なまち 酒田へ』・・・・!!
へぇ~・・・ここは「粋な町」なんだ・・・(笑)

大きな「酒田傘福(かさふく)」のポスター!
説明文によると・・・・


「傘福」は日本三大つるし飾りのひとつ。
商売繁盛、わが子の健やかな成長、無病息災を願い、女性が一針一針真心を込めて縫い上げ、神社仏閣に奉納しました。
酒田の商人、女性の切なる祈りを託すつるし飾りの文化です。
(説明文より)



へぇ~・・・・こりゃ、すごい・・・実物を見たいものだ・・・(笑)

などと、電車を降りてから、ホームに飾られているものを見て回り・・・
いつまで経っても改札口を通らないので、駅員にちょっと怪訝な顔をされてしまった・・・(大笑)

288_convert_20150226152044.jpg(JR酒田駅)

駅舎の上に「農業の力で地元に元気を!」の看板・・・(汗)
ん?・・・・農業の力???・・・
「粋なまち」なんだよね・・・酒田は・・・あれ?(大笑)

旅行 | 10:08:49 | Comments(0)
PR活動!
昼食を終え、式典会場である秋田県文化会館へ戻り、他のメンバーと合流する。
これから式典までの間に会場内外で「PR活動」をするのである。
で・・・一旦、我が茨城県の法人会は控え室に集合したのだが・・・
誰が責任者なのかもよくわからん・・・
各法人会の役割は既に「役割分担表」が配布されているので、何をすればいいのかは、おおよそ分かってはいるが・・・
え?・・・責任者からの挨拶とか、注意事項とか、何も話が無いの?(唖然)
「さぁ!がんばるぞ!エイ、エイ、オー!」みたいなこともないの?
タイムスケジュールに従って、いつのまにか、ゾロゾロと控え室を出て行き、各自の持ち場に付く・・・
はぁ?・・・なに、この盛り上がらない動きは・・・(汗)

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で・・・我々の“チーム”は、会場の外をウロウロ・・・
拙者はOBですから・・・(笑)、当然、幟旗を持って立つなんていうことはしない・・・・(大笑)
ブラブラしながら、適当に写真を撮って時間を潰す・・・
と・・・そのはずだったのだが・・・
「すみません!ちょっとお願い出来ますか?」とカメラを渡されたのが運のつきである。
会場に続々とやってくる各法人会の「記念写真」撮影係になってしまった!(大汗)
次々と、「じゃぁ、うちもお願いします!」ということになり、途切れない・・・
怠けるはずが、一番、忙しくなってしまった!(大泣)

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この写真などは、まだいいほうである・・・(笑)
他の人が撮影しているのを横から撮ってみたのだが・・・
拙者が担当した時には、先輩である“ケムちゃん”などのメンバーに、後ろに立つように勝手に指示を出し・・・
我が茨城県の幟を何本も後ろに並べてしまったので・・・
これでは「秋田大会」なのか「茨城大会」の記念写真なのか区別がつかなくなったかも?
あとになって気が付いた・・・(大汗)
やっちまったぁ~・・・やりすぎちまったぁ~(大笑)
あの時、記念撮影をした皆さん・・・申し訳ございません・・・
この場をお借りして謝ります・・・(苦笑)

一緒に映っている着物姿の女性は、我が茨城県水戸から来た「梅大使」の女の子・・・
昔は「梅むすめ」という名称だったが、どこかのオバタリアンたちが文句を言ったのだろう・・・
「ナントカ娘」とか「ミスなんとか」というのは女性蔑視だとかなんだとか・・・(笑)
で・・・「大使」になったのだと思う。
拙者としては、昔ながらの「梅むすめ」のほうがいいと思うんだけどなぁ~(笑)
「大使」?・・・じゃぁ、ついでに「総領事」とか「領事」っていうのも作ったら?
と・・・突込みを入れたくなるのである。(大笑)
だいたい、「大使」と聞くと、子供の頃にテレビで見た「マグマ大使」を思い出しちゃうんだよねぇ~(大笑)
そういうわけで、どうも「大使」という言葉がシックリこない・・・

拙者は、べつに「梅大使」に興味が無いので・・・(大笑)
例年の「梅大使」のことは全く知らないのだが・・・
ことしの彼女達は粒ぞろい・・・美人である。(大喜?)
聞くところによると、彼女たちの任期最後の仕事が、ここの仕事だそうで・・・
いわば、今回のPRの仕事が“仕事納め”だとか・・・
1年間、御苦労様でした。
で・・・彼女達は美人ぞろい、笑顔が素敵ということもあってか、彼女達との記念写真を望む人達が多い・・・(大笑)
開催地、秋田にも「秋田観光レディー」という女の子達もいたのだが・・・
彼女達に勝るとも劣らぬほどの人気・・・(笑)
「来年、茨城に行きますから!また会いましょう!」などという“客”も結構いたが、彼女達は1年任期である。(汗)
来年は新たに選出された女の子たちが「梅大使」になっちゃうんですけど・・・(大笑)
もう会うことはないんですけど・・・
まぁ、いいか・・・教えてやらなくても・・・(大笑)

こういう“観光大使”は、また会いたいなぁ~と思わせるような人がいい・・・
そういう点では、水戸は大したものである。
我が町にも「桜むすめ」というのが昔あって、これもまた、多分、オバタリアン達のせいだろう、「桜メイツ」と名を変えている。
「メイツ」だか、「タイツ」だか知らないけど・・・やっぱり「桜むすめ」のほうがいいと思うんですけど・・・
まだ「桜むすめ」と呼ばれていた頃、拙者は選考委員会に関わったことがある。
直接、選考する立場ではなかったが、拙者が「この子は合格だな」と思った女の子達がことごとく落とされた・・・(唖然)
まぁ、拙者の“好み”が悪いのかもしれないが・・・(大笑)
とにかく外見が一番である!(大笑)
美人でなければならないのだが、ツンツンした愛想の無い美人はいくらでもいる。
美人でも、そういう人はダメ・・・
笑顔(作り笑顔?)が素敵で、嫌なオッサンに近づかれても、にこやかに「よろしくおねがいしまぁ~す!」と笑顔で接することができる人でなければいけない。
これが拙者個人の選定基準なのだが・・・
笑顔が素敵な、ちょと可愛い子とか、パッと目立つ人目を引くような子は、ことごとく落選である・・・(唖然)
選考員に個人的に確認してみたら、婦人団体代表というオバタリアンたちが、そういう女の子に×を付けていたのである!(唖然)
自分たちが年取って醜くなったからといって、可愛い子を目の敵にすることもあるまいに・・・(大笑)
結局、この年に選ばれた女の子は、パッとしない愛想の無い子ばかりとなった・・・
それじゃ、意味が無いじゃん!(汗)
一体、どういう選考基準で選んでいたのか・・・
男性陣が○を付けても、オバタリアンの×のせいで、多数決で負けたのである・・・
オバタリアンたちの「女の嫉妬」は怖いと改めて感じたものである。(大汗)
随分昔の話であるから、今はどうなっているのかは知らないが・・・(大笑)
さすが、県庁所在地水戸のレベルは高いものだと、今さらながら感心した・・・・

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式典入口の前でもPR活動!
で・・・この後は式典が始まるが、我々は会場に入らず、外で待機・・・
「PRタイム」に場内に入るので、隊列を組んで待つのである。
当然、拙者は、その中には入らない・・・(大笑)
記録写真を撮る為、別行動・・・・(大笑)

249_convert_20150223211308.jpg(式典)

251_convert_20150223211746.jpg(次回開催地PRタイム!)

「来年の全国大会の開催地は茨城です!ぜひお越し下さい!」という式典会場でのPR活動も終え、次の予定までに少し時間の余裕がある・・・
今のうちに今晩宿泊するホテルにチェックインせねば・・・(汗)
今晩宿泊するホテルは法人会が手配してくれたホテルだが・・・
他のメンバーは“高級ホテル”に昨晩から二連泊・・・
拙者は、ちょっと“ショボい”ビジネスホテルに宿泊だそうで・・・(汗)
なんで拙者だけ安いビジネスホテルなんだ?(唖然)
まぁ、いいか・・・宿泊代は法人会が出してくれるんだし・・・(大笑)

チェックインを済ませ、「タイムスケジュール表」にしたがって、次のPR活動場所へ行ったが・・・
なんと!・・・いつの間にか予定が変更となり、そこでのPR活動は中止になっているという・・・
あのね・・・情報伝達はどうなっているの?(唖然)
携帯電話というものがあるというのに・・・(怒)

仕方がないので、会場であるホテル内の喫茶店で一人で“おやつ”を食べて休憩・・・(笑)

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これ・・・・ホットケーキ・・・(笑)
う~ん・・・満腹である。
こうなるとタバコを一服したくなるのだが、ホテル内は禁煙と言う。
あ~あ~どこもかしこも「禁煙」・・・せめて「分煙」にしてもらえないものか・・・(涙)

「タイムスケジュール表」によれば、次のPR活動は懇親会場前で行うことになっている。
時刻は午後4時過ぎ・・・懇親会までには時間があるので、ちょっと外を散策することにする。(笑)

257_convert_20150224151826.jpg(大手門跡)



大手門跡
久保田城正門にあたる大手門の跡である。
城下町から外堀に架かる上土橋(うわどばし)を渡り、、かぎの手を左に曲がった所に二層の大手門があったが明治初期に取り壊された。
(標柱の説明文より)



懇親会場会場に戻り・・・PR活動開始!
といっても・・・相変わらず拙者は加わらないが・・・(大笑)
我が法人会の広報誌に載せる写真撮影のほうが忙しいのだ。
なにせ、ストロボを使わず写真を撮るのって難しいのである。
ブレる、ブレる・・・(涙)

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どうもホテル側から、あまり派手な活動はしないで欲しいと言われたらしい・・・(大笑)
なにせ、幟旗の数が凄いもんだから・・・「秋田大会」なのか「茨城大会」なのか、さっぱり分からぬ状態・・・
言われても仕方がないか・・・(大笑)

当初の予定では、懇親会場内でもPR活動をすることになっていたようだが・・・
どうも中止になったらしい・・・(ラッキー!)(大笑)
これで、我等の“お勤め”は終了である!
はい、御苦労様でした!(喜)

我々は懇親会には参加せず、外に食事に行く事になっているという。
今晩も、昨晩に引き続き、「支店長」さんが夕食の接待・・・
いやぁ~二晩もお世話になってしまった・・・申し訳なし・・・
夕食後は「二次会」ということで酒を飲みに行くということだそうだが、今晩は“秋田最後の夜”である・・・
まぁ、現役メンバーだけで楽しく飲んだほうがいいのでは?
口うるさい拙者がいたのでは、つまらないだろう・・・(大笑)
どうせ、拙者だけ別のホテルだし・・・(大笑)
というわけで、お誘いを辞退し、皆さんに見送られタクシーでホテルに帰る。

で・・・
部屋でゴロゴロしていたら・・・
隣りの部屋の客が、どうも「ホテトル」を呼んだようで・・・(大汗)
壁が薄いので、話し声から“ナニ”から、全部筒抜けなのである!(大汗)
聞くとはなしに聞こえてくる話によると・・・どうも他の法人会のメンバーらしい・・・(大汗)
ドタン、バタン、ギシ、ギシ・・・・ギシ、ギシ・・・うるさいんだけど・・・(大笑)
あ~眠れねぇだろ!(怒)
マイッタァ~・・・こんなことなら飲みに行けばよかったと大後悔・・・・(大泣)

旅行 | 14:17:11 | Comments(0)
久保田城表門
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久保田城表門

表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。
本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局(ごばんがしらべや)」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所(おものがしらばんしょ)」を置いて厳重な守りを固めていた。
久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。
その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。
この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門(やぐらもん)であり、佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。

平成13年3月
秋田市

(説明板より)

【秋田県秋田市・千秋公園】

史跡 | 13:09:02 | Comments(0)
御物頭御番所
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御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)

御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属する役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。
御番所の南側十四畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。
北側には七畳半の休息所や台所・便所があり、中二階には八畳の部屋が配置されている。
『国典類抄』などの資料によれば、御物頭御番所は宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。
久保田城内で旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。
昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。

形式 切妻造南庇付 こけら葺屋根
間口 約10.5m(5.5間)
奥行き 約9.5m(5間)
平面積 約100㎡(30坪)

平成13年11月  秋田市

(説明板より)

【秋田県秋田市・千秋公園】

史跡 | 12:49:56 | Comments(0)
12年ぶりの久保田城
東海林太郎の銅像を見た後、坂道を登り、「千秋公園(久保田城跡)」へ向かう。
途中、小さな石碑を見つけたので、それを見ていたら、いきなり後ろから声をかけられた!(汗)
声をかけてきたのは、久保田城跡の歴史ガイドをされている“キシさん”・・・・
こんな小さな目立たない石碑に興味を持つとは、“ただ者”ではないと思って声をかけてきたようである。(大笑)
それから、しばし、おしゃべり・・・
で・・・城跡をご案内してくれるという・・・
集合時間までには2時間ぐらい余裕があるが、普段、拙者は「ボランティアガイド」を利用することはない。
説明を聞いても3歩も歩けば忘れちゃうし・・・(大笑)
自由に写真を撮りながら歩けないので、逆に不便なのである。
が・・・どういうわけか、この時は、素直にお願いする気になっちゃった。(大笑)
この方の持つ雰囲気のせいだろうか?(笑)

150_convert_20150218174051.jpg(松下門跡)



松下門跡
中土橋(なかどばし)からの二の丸の入り口に位置する。
藩政時代、正式な登城路は黒門側であったが、土崎、城下町中央部に近い松下門側も多いに利用された。
門の周囲の縄張りは初代義宣(よしのぶ)自身が手がけた自慢の設計であったと伝えられる。
(標柱の説明文より)



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久保田城跡
久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城である。
秋田初代義宣(よしのぶ)が慶長7年(1602)入部し、翌8年現在地に築城した。
天守閣と石垣のない城として知られている。
本丸は明治13年(1880)7月の火災で全焼した。
同23年公園として解放されその後千秋公園と称し現在に至っている。
公園面積 162,900平方メートル
平成10年10月 秋田市
(説明板より)



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(黒門跡)

この場所は、記憶に残っている・・・(笑)
12年前に来た時、一緒だった“オダクラくん”が、この城には石垣がないという話をしてくれたのが、ちょうど、この門跡を歩いている時だった。(大笑)
茨城には石垣を積んで造られたという城はない・・・
石積みの技術がなかったのかどうかは知らないが・・・
茨城(常陸の国)から、ここにやってきた佐竹さんも石垣を築くということはしなかった。
茨城の伝統か?(大笑)
なぜそうなのかを“オダクラくん”が話してくれたような気もするのだが・・・
12年前のことなので、完璧に記憶から消え去っている・・・(大笑)

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(二の丸跡)

二の丸跡・・・・全く記憶にない!!(大汗)
ここを歩かなかったはずがないのだが・・・完璧に記憶から消え去っている・・・(大汗)



二の丸跡
本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内掘を渡って二の丸に集まった。
勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などがおかれ、特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、能や踊りの見物のために町人に開放されることもあった。
(標柱の説明文より)



我が法人会の青年部の全国大会で、かなりのメンバーが全国から集まっているはず・・・
ということは・・・この「久保田城」は、訪問客でかなり混雑するのだろうと思いきや・・・
あれ?・・・殆ど誰もいない・・・(大汗)
スーツ姿の“観光客”は、間違いなく、我が法人会の会員である・・・ということを“キシさん”に話していたら・・・
ちょうど、一組の“観光客”とすれ違った。
と・・・
「法人会の方ですか?こちらの方も法人会の方なんですよ。茨城から来た方です!」と“キシさん”・・・
あらら・・・(大汗)
そう言われちゃうと「来年の全国大会は茨城なんで、是非、来てください」と言わねばならない・・・(涙)
なんで、ここで拙者が“営業活動”をしなくちゃならんのか・・・(大涙)
まぁ、考えようによっては“キシさん”のおかげで“営業活動”が出来たのだから、感謝すべきかな?(大笑)

結局、ここで見かけた法人会のメンバーは3つのグループだけ・・・(大汗)
中小企業の若手経営者たちよ・・・歴史に興味は無いのかね?
あ~あ~情けねぇ・・・知的レベルを疑わざるを得ないな・・・(苦笑)

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170_convert_20150218203833.jpg(長坂門跡)



長坂門跡
長坂門は本丸の玄関口である表門(一の門)の前に設けられており、二の門とも呼ばれていた。
現在、久保田城跡に唯一残っている御物頭御番所(秋田市指定文化財)がこれらを管理していた。
長坂門の名称は、二の丸から本丸へとのぼる長い石段「長坂」にちなんで名付けられたものである。
(標柱の説明文より)



173_convert_20150219114826.jpg(久保田城表門)

おお!この門は覚えているぞ・・・(笑)
この場所から写真を撮った・・・
ここ、ここ、12年前にここに立って写真を撮った・・・
12年後に、またここに来て同じ場所に立つとはねぇ~
人間の未来なんてわからないものである。
今が苦しくても、10年後はどうなっているかなんて誰にも分からないのである。
その逆も、しかり・・・
そう考えると、人生は面白い・・・(大笑)
それにしても、どうも拙者は写真を撮った場所しか覚えていないようである。(大汗)

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この復元された門は、当時の位置と少しずれている場所に建っているようである。
昔の門の礎石が見える・・・・
いや、もしかして、昔の門の礎石のほうをずらしたのか?(汗)
3歩以上歩いたら“キシさん”の説明をすっかり忘れている・・・・(大汗)
申し訳なし・・・

185_convert_20150219132422.jpg(本丸跡)



久保田城本丸跡
久保田城が築かれた神明山(しんめいやま)は、三つの高地からなる標高約40メートル程の起伏のある台地で、別名三森山(みつもりやま)とも呼ばれていた。
築城は慶長8年(1603)5月から着工され、翌9年8月に完成した。
本丸は、最も高い所を削平や土盛をし、平らにして造られた。
東西六五間(約117メートル)、南北百二十間(約215メートル)のほぼ長方形を呈し、周囲には高さ四~六間半(約7.3メートル~11.8メートル)の土塁を構築している。
本丸の建造物には、表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿があった。
また、土塁の上を多聞長屋(たもんながや)と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓(おすみやぐら)を設けた。
西南隅の土塁上には櫓座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出(おだ)し書院」が造られた。
出入口は周囲に表門(一ノ門)、裏門、埋門(うずみもん)、帯曲輪門(おびくるわもん)の四門に通じる切戸口があった。
(説明板より)



本丸跡???・・・・これまた記憶に無い!(唖然)
が・・・これだけは、よく覚えている!
秋田藩最後の藩主の銅像!(笑)

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秋田藩最後の藩主、第12代藩主の佐竹義堯さんである。
ご無沙汰しております!お久しぶりでゴザイマス!(喜)

196_convert_20150219143234.jpg(御隅櫓)

さらに奥へ向かって坂を登っていくと・・・隅櫓が・・・
しかし・・・これまた記憶に無い!(大汗)
この目立つ建物が記憶に無いとは我ながら呆れるが・・・(大笑)
内部は資料館になっていて、最上階は展望室となっている。
内部を見学し、最上階から“天下”を眺める・・・(大笑)

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ササッと見学を済ませ、今度は丘を降りていく・・・

203_convert_20150219150937.jpg(埋門跡)



埋(うずみ)門跡
埋門は本丸の背面(西側)に設けられ、土手を切って出入口とし、その上に多門長屋を渡した一種の隠し門である。
門は西曲輪(くるわ)の兵具蔵に通じており、攻撃や防御、また緊急避難的な役割をはたしたと考えられる。
(標柱の説明文より)



本丸跡に戻る・・・・
と・・・あら!・・・こんなところに「歩兵第十七連隊」の碑が!(大喜)

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しかし・・・光沢のある石に刻まれた碑文は、陽の光に反射して読めないのである!(怒)
どうしてこういう石に刻むかなぁ~
読めなきゃ意味が無いだろうに・・・・
“キシさん”が、後日、碑文の資料を郵送で送ってくれるという。
いやぁ~かたじけない!
大感激である。(喜)

211_convert_20150219152559.jpg(八幡秋田神社)

歴代の藩主を祀る「八幡秋田神社」・・・
説明板によると、平成17年に放火のため焼失したという・・・(汗)
あらら?・・・ということは、拙者は焼失前の社殿を見ているはずだが・・・
いやぁ~全く記憶に無い!!(涙)
現在の社殿は平成20年に再建されたとのこと・・・
以前の社殿は、どんな感じだったのか・・・いくら頭を振っても記憶が甦らない・・・(大涙)

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二の丸にある「佐竹史料館」まで戻る・・・
ここは、安楽院、勘定所、境目方役所があった跡地である。
“キシさん”は、さらに案内したいようだったが、時刻は間もなくお昼になる・・・
今から昼食を食べるとなると、他のメンバーとの待ち合わせ時間ギリギリとなるので、ここで「史跡めぐり」は終了ということにする。
ご案内してくださった“キシさん”には感謝、感謝である。
佐竹史料館を見学できなかったのは残念だが、やむを得ない・・・(涙)
“キシさん”は今日、法人会青年部会の全国大会があることをご存知なかったようで、特設物産展などを見てみたいというので、一緒に、会場まで行き、そこでお別れする。
お世話になりました!

さて・・・お昼だが・・・・
ちょうど、知的障害者(?)がやっているお店を見つけたので、そこで食事をすることにする。
どうせなら、こういうところでお金は使いたい・・・(笑)
「何にしますか!」
「ピラフをお願いします」
「ピラフですね?」
「そうです」
「コーヒーもありますけど、どうしますか?」
「それは・・・セット?」
「はい!」
「じゃぁ、コーヒーもお願いします」
「いつにしますか?」
「一緒に持ってきてください」
「はい!・・・え~・・・ありがとうございます!」
大きな声でキッチリと話すのである。(笑)
まぁ~元気がいいこと・・・(大笑)
こちらも、ついつい、ハキハキと答えねばならなくなった・・・(大笑)
愛想の無いウェイトレスがポンと水を置いて、ボソボソとオーダーを取るような店には、カネを落とす気にはなれない。
どうせなら、こういう場所のほうがいい・・・(笑)
このお店は障害者の自立支援の一つなのであろう。
障害者が、社会に関わるということは、いいことである。
大いに頑張ってもらいたいものだ。
うまく“役を演じる”ことができて嬉しいのだろう。(笑)
ニコニコして楽しそうである。
食事を終えて会計を済ませ出て行くときには、みなさんが大きな声で「ありがとうございました!」と言ってくれた。
いやぁ~こちらが恥かしくなるほどの大きな声なのだが・・・(大笑)
でも、気持ちのいいものである。
いいところで食事が出来た・・・・満足、満足・・・・(喜)

旅行 | 11:26:38 | Comments(0)
午前中はフリー!(喜)
ホテルをチェックアウトして、徒歩で久保田城へ向かう。
ホテルからは結構、距離があるが、タクシーを使ったのではもったいない・・・
やはり町の中をウロウロ歩きながら・・・というのが楽しいのである。(笑)

他のメンバーは昨日の支店長さんの“ご接待”で、角館のほうへドライブに行くという。
拙者は遠慮させて頂き、一人で「ぶらり旅」・・・
今日は午前中はフリーなのだ!(大喜)

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可愛い赤ちゃんの銅像を見っけ!(笑)
で・・・どこに向かって“ハイハイ”しているのかというと・・・

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向かう先は消防署!(大笑)
これ・・・何か意味があって、ここに設置したのだろうか?(笑)
いずれにせよ、お尻まる出しでは風邪をひいてしまうと思うのですが・・・・(大笑)

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う~ん・・・秋だなぁ~という並木道・・・・

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面白い名前のお店を見つけた・・・
「靴の病院」!(笑)
いいネーミングである・・・・
「修理」じゃなくて「病院」ねぇ・・・
「病院」って言うんだから、“通院”とか“入院”というのがあるんだろうか?(大笑)
わが町にも、こういうネーミングのお店があると面白いと思うんだけどなぁ~

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さらに歩く・・・
ここは「旧下亀ノ丁」という場所・・・
標柱の説明文によると・・・


旧下亀ノ丁
慶長年間に町割りされた職人を中心とした町である。
江戸時代の社交場であった髪結い床(理髪店)も多く町人の憩いの場として賑い、城下の情報が集まった地域である。
(標柱・説明文より)


昔の名残は全く無い・・・(当然だろうが・・・)
それにしても、なんで「亀」という字が使われたのだろう?
職人の町なら、それなりの“町名”というのがあるだろうに・・・(笑)

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しばらく歩くと、また標柱を見つけた・・・
「旧茶町 菊ノ丁」とある。
こういう昔の町名の案内っていいよねぇ~


旧茶町 菊ノ丁
茶・紙・絹・砂糖などの専売権を持っていた商人の町である。
慶長12~3年(1807~8)ころに町割りされ、茶町1丁目と呼ばれた時もある。
(標柱・説明文より)



昔は商人の町だったのが、今では何も無い・・・駐車場・・・(汗)
こんなに変わろうとは、江戸時代の人は想像もできなかっただろうねぇ~(大笑)
昔の賑わいってどんな感じだったんだろう?

ここから更に10分ほど歩き、ようやく久保田城の一角に到着した。
「穴門」と呼ばれた門の跡である。

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穴門跡
穴門は、外町や土崎湊へ通じる重要な門である。
ここに二層の一の門があり、足軽番所を置いて警備をしていた。
その西方に二の門があり、そこから外堀の穴門橋(木橋)を渡って通町方面へ通じていた。
一の門は、当初湊城の門を移したものであったが、安永5年(1776)の外町(とまち)の大火で類焼した。
その後再建されたが、維新後とりこわされた。
(標柱の説明文より)



さらに進むと・・・
おお!東海林太郎の銅像が!(大笑)
12年前にもここを訪れているが・・・こんな感じだったっけ?(汗)
あの頃は、特に銅像などには興味がなかったので写真を撮らなかったのである。
そのことが、その後、ずっと気になっていて、いつか秋田に行ったら、是非写真を撮ろうと思っていたのである。
が・・・場所がどこだったのか全く記憶に無い・・・
こりゃ、見つけるのは大変だと思っていたのだが、意外にも、あっさりと見つかった・・・(笑)
が・・・・
12年前に来た時は、東海林太郎さんは帽子は被っていなかったぞ・・・(大汗)
誰が帽子を被せたのだろう?
もしかして、これから雪が降る季節になるから・・・ということで帽子を被せたのかな?

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(歌碑「母に捧ぐる歌」)

この歌碑の直ぐ横に、センサーがあり、センサーが感知すると歌が流れるのだそうだ。

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6曲の歌が流れるそうだが・・・・
う~ん・・・6曲も、ここに立って聴くほど拙者は暇ではない・・・(大笑)
申し訳ないが、写真を撮ってサッサと久保田城に向かう。

旅行 | 10:06:52 | Comments(0)
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