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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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ディソンさんお宅を訪問
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午後4時、約束の時間に“デイソンさん”のお宅を訪問する。
出迎えてくれた“ディソンさん”・・・・
何を勘違いしたのか拙者のことを柳本大隊長と思いこんでいた!(大笑)
「メイジャーヤナギモト!」と拙者を呼ぶ・・・(大笑)
いえ、いえ、違いますって・・・(大汗)
「柳本少佐の息子さんをお連れしたんですよ」
「え?・・・・あ・・・・あなたは・・・ミスター・スズキ?」
拙者がヤナギモトさんのお父さんだったらおかしいでしょ?
ヤナギモトさんのほうが拙者より年上なのに・・・(大笑)

「メイジャー・ヤナギモトはどうした?どこだ?」と言う。(汗)
「あのぉ~前回お会いした時に、もうお亡くなりになられていると話したはずですが・・・」
「あ・・・そう、そう、お亡くなりになっていたんだっけね」
ん?大丈夫でしょうか?・・・“ディソンさん”・・・・(汗)

“ディソンさん”は柳本少佐が息子さんを連れて二人でやってくると思っていたらしい。(大笑)

柳本大隊長は、戦後、この地に慰霊巡拝に来た時に“ディソンさん”のお宅を戦友と一緒に訪問したらしい。
その時のことが忘れられないのだろう。
嬉しかったんでしょうねぇ~
初めてお会いした時に「メイジャー・ヤナギモトがうちに来てくれたんですよ~」といきなり言われた。(大笑)
息子さんの“ヤナギモトさん”をご紹介して雑談して、記念写真撮影!(笑)
息子さんに会えてまたまた大喜びのご様子。
よかったぁ~引き合わせることが出来て・・・・

“ディソンさん”の家の中にある「神風特攻資料館(資料室かな?)」を見学・・・・
この時に“ディソンさん”から「日本からもらったんだが、日本語で書いてあるので意味がわからないので、英語に訳して説明してくれないか」と言われた・・・
え?拙者が翻訳するの?(大汗)
それが、この感謝状である。

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感謝状の文面は、まったく問題がない、まともな文章である。
が・・・「皇紀2674年」って何?
こういうのに“皇紀”を使うかねぇ~(汗)
皇紀2674年は、平成26年のことですけど・・・
で・・・・気になったのは、この感謝状を出した”組織”である。(汗)
「日本領土領海戦略会議」という組織が出した感謝状である・・・
う~ん・・・どうなんでしょ?
日本の領土と領海・・・・神風特攻隊と何か関係があるのでしょうか?(唖然)
こうなると、価値があるのかないのか、さっぱりわからない感謝状である。
この組織は、あとで調べてみたら、日本青年会議所のOBが作った組織らしい・・・(大汗)
で・・・“ディソンさん”が、天皇皇后両陛下の写真を指さし、この写真も一緒にもらったと言う・・・(唖然)
天皇皇后陛下のスナップ写真であるが・・・・
ちょっと、やりすぎなんじゃないか?・・・いくらなんでも・・・・天皇皇后の写真まで持ち出すか?
拙者も11年間、青年会議所におりましたが・・・(笑)
副理事長もやりましたが・・・(汗)
違和感を感じますなぁ~
どういう経緯で、この感謝状を渡されたのか・・・さすがに尋ねる気も起こらなかったので尋ねませんでしたが・・・(大汗)
とりあえず、「神風特攻隊の顕彰をしてくれているのことに感謝しているということが書いてあります」とだけお伝えした。
「そうか、そうか」と満足気に頷いている姿を見ると、なんとも可哀想な気がしてしまった・・・
変な利用のされ方をされていなければいいが・・・・

“ディソンさん”へのお土産にチョコレートを持ってきたのだが・・・
なんと、“ディソンさん”は糖尿病だそうで・・・(大汗)
あらら・・・チョコレートはマズイか?(苦笑)
でも、ご家族が召し上がるだろうし・・・小学生のお孫さんたちは喜ぶんじゃないかということで、お渡しする。(笑)

“ディソンさん”のほうでも“ヤナギモトさん”へのプレゼントを用意していた。
画家である“ディソンさん”が書いた特攻隊員などの絵を数枚・・・・
あらら・・・これは貴重な絵を・・・・(驚)
「是非プレゼントしようと思って用意していた」とおっしゃる。
“ヤナギモトさん”は大感激!・・・で・・・大恐縮!
こりゃ、額に入れて飾らねばなりますまい!(大喜)

“ディソンさん”から、軍服姿の戦時中の柳本大隊長の写真を1枚いただけないかという要望があった。
自分の資料館に飾りたいらしい・・・・
これは“ヤナギモトさん”が帰国後、写真を探してみるということで話は決まった。

“ディソンさん”の体調を考慮して、1時間程度の訪問ということにしていたので、そろそろ失礼する時間・・・
再会を約してお宅を辞する。

これからマニラに向かう。
途中で、“タケウチさん”を降ろし、お別れ・・・・
いろいろとお手数をおかけしたが、無事に今回の旅の目的が達成できた。(大喜)
感謝、感謝・・・
お礼に、ちょっとコーヒーでも飲んでから別れることにする。

ドライバー君にマニラのホテルまで送ってもらい無事に到着!
“ステラさん”が我々のチェックインのためにホテルに来てくれていた。
いやぁ~ありがたい・・・
で・・・夕食は、ホテルの外に出て、3人でバイキングの夕食・・・
いやぁ~いい旅が出来た。
無事に目的達成!満足、満足・・・
う~ん・・・コーラが美味い!(相変わらずお酒は飲まない)(大笑)

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旅行 | 20:17:26 | Comments(2)
大隊本部跡に行く
アンヘレスに向かう途中、「サパン・バトゥ」という場所を通過する。
“タケウチさん”の話では、この辺り一帯が「サパン・バトゥ」だそうで・・・・

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このサパン・バトゥというところで日本軍の戦車部隊が米軍の攻撃を受けて全滅したと“ディソンさん”が以前話してくれた。
その場所は、どこかなと思ったのだが・・・・
これじゃわからん・・・(汗)
日本軍の戦車隊が壊滅的打撃を受けたというと・・・
1月28日と29日の戦闘ではなかろうか?
28日に岩下戦車中隊(独立第8戦車中隊)がマルコット飛行場に進出した米軍に反撃を加え、岩下中隊長以下30名と戦車7両が返り討ちに遭い壊滅した。
29日にはストッチェンバーグに進出した米129連隊に対し、戦車6~8両が反撃に出たが、4両が撃破された。
この両日の戦闘のいずれかが、ここサパン・バトゥで行われたと思うのだが・・・
拙者の知る限り、戦史には、サパン・バトゥの名は出てこない。
が・・・“ディソンさん”の話では、そこで壊滅したという。
本人が破壊された戦車を見たというのだから、本当なんだろうなぁ~
この両日の戦闘で生き残ったのは35名、戦車は3両だったという。
柳本大隊指揮下の岩下戦車中隊はこの戦闘で実質、“玉砕”したという・・・・

サパン・バトゥという場所は思ったより広い地域のようである。
どこで日本軍の戦車が撃破されたのかは、“ディソンさん”に案内していただかないとわからないのだが、健康上の理由で、外出は出来ない様子・・・・
そこを何とか・・・というわけにはいかないから・・・ピンポイントで現場を確認するのは永遠に無理かも・・・
今さら、そんな場所を確認したところで、どうにかなるものではないのだが・・・
多くの戦車兵の血が染み込んだその場所で・・・出来れば慰霊をしたいものだ・・・
次回、機会があったら詳しく調べてみるか・・・

アンヘレスの市内に入り、ショッピングモールのレストランで昼食・・・
時刻は午後2時である!
もう腹ペコ・・・(大笑)

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“ディソンさん”宅を訪問するには、まだ時間が早い・・・(笑)
そこで、その前に、柳本大隊が駐屯していた場所に“ヤナギモトさん”をご案内することにする。
ここは前回、下見済みである。(笑)
向かったのは「ホーリー・ロザリー・パリッシュ・チャーチ・グランド」という教会・・・

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歴史のある古い教会である。
このすぐ隣りにあるのが「ホリー・ファミリー・アカデミー」という学校・・・・
ここに柳本大隊本部があった。

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柳本大隊が、ここに駐屯したのは昭和20年1月10日頃のことではないかと思う。
米軍がリンガエン湾に上陸した翌日あたりである。
ここに連隊本部と主力を置き、一部の兵力を「マガラン」という場所に配置した。
1月23日早朝、進撃する米軍と「マガラン」に配置された第8中隊の間で戦闘が開始された。
大隊本部は応援に急行、さらに「コンセプション」という場所まで追撃する。
「サンイシドロ」という場所で小休止中、別の方面から進撃してきた米軍の攻撃を受け交戦・・・・
この時に4名の兵士が戦死。
柳本大隊は、やむなくアンヘレスに撤収する。
1月25日、柳本大隊長は斬り込み夜襲を計画し、この教会の鐘楼に各中隊長を集め、鐘楼から周囲の景色を見ながら夜襲の進路等の指示をしている。
う~ん・・・右と左・・・どっちの鐘楼に登ったんだろう・・・(笑)

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これらの戦史を“ヤナギモトさん”に説明・・・
「へぇ~よく知ってますねぇ~」(唖然)
・・・と半分呆れられたが・・・(大笑)
実の息子より他人の拙者の方がお父さんの行動を知っているって、どういうことよ・・・ということかな?(大笑)

「あの鐘楼に登ってみたいですよねぇ~。お父さんがどんな景色を見たのか・・・見てみたいもんですよね?」
ということで・・・教会の中に入ってみる。(笑)

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教会の中では結婚式が執り行われていた・・・
あら・・・ちょっとマズイかも・・・(笑)
退散する!(大笑)

1月27日の夜半、柳本大隊は夜襲のためアンヘレスの北にある「偽飛行場」まで進出する。
その「偽飛行場」が、どこにあるのかは知らないが・・・(汗)
そこまで進出したが、当初の計画よりかなり時間がかかってしまったようで・・・・・
このまま進んでも敵陣に辿り着くころには日が昇ってしまうと判断・・・・
夜襲を断念する。
鐘楼から見たルートは、見た目より遠かったのかな?(笑)
夜襲を断念して反転する途中、当初、斬り込みをかける予定ではなかった別の敵砲兵陣地を背後から襲撃して敵陣の中を突破するという荒っぽいことをしたようである。
この時に戦死者36名を出しているというから、かなりの激戦だったに違いない。
柳本大隊は、敵陣を襲ったあと「ストッチャンバーグ」に入る。
「ストッチェンバーグ」は現在、クラーク博物館のある辺りである。

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柳本大隊本部が置かれた、この教会と学校の前の道は幹線道路となっているが、当時は、これほど道幅が広かったかどうかは知らないが、やはり幹線道路だったようである。
その道の教会とは反対側に、ちょっと古めかしい建物が・・・(笑)
“タケウチさん”の話では、“ディソンさん”の博物館だという。
ん?どういうことかな?(笑)

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“ディソンさんの博物館”と呼ばれている建物のエントランスは現在工事中だった。

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その隣りは、最近出来たのだろうか・・・警察署(交番かな?)

ちょっとその“ディソンさんの博物館”と呼ばれている建物の中に入ってみる。(笑)
受付の人と話をして見たら、どうも画家である“ディソンさん”の絵が展示されているのだとか。
ちょっと覗いてみたい気もしたが、時間に余裕がないので今回はやめておく。(汗)
雰囲気では、どうも郷土資料館のような気がする・・・(笑)
受付の青年に、このアンヘレスの歴史、特に戦時中のことについて書かれているような資料がないか尋ねてみたら、そういうものはないと言う。
が・・・1冊だけ、そういう本があると持ってきたのが、なんと、“ディソンさん”の著書だった!(驚)
しかし、もう絶版になっていて、ここに1冊あるだけなので売るわけにはいかないという。
まぁ~そうでしょうねぇ~(汗)
これから“ディソンさん”に会いに行くんだと話したら驚いていた。(大笑)
そこへ、“ヤナギモトさん”が入って来たので、彼は柳本大隊長の息子さんで、柳本大隊は目の前の教会に本部を置いていたのだが、当時のことに関して何かしらないかと尋ねてみた。
が・・・「日本軍がここにいたんですか!」と驚くばかり・・・(大笑)
あらら・・・まぁ仕方がないか・・・拙者より若いんだし・・・・戦時中の事なんか知らないよね・・・(汗)
尋ねた拙者がマヌケだった・・・(大汗)

時刻は午後3時45分・・・・そろそろ“ディソンさん”のお宅に向かう時間である。

旅行 | 17:27:58 | Comments(0)
戦跡がゴルフ場に!(汗)
次に向かったのは・・・・“レジャー施設”(笑)

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一応・・・西部劇の町を模しているらしいのですが・・・(笑)
誰もいない・・・・(唖然)
やってるのか、潰れているのか・・・・さっぱりわからん・・・(大笑)
ここで乗馬が出来るそうだが・・・
馬小屋に馬はいるみたいだけど・・・(笑)
人間がおらんのです!(大笑)
久し振りに乗馬をしてみたかったが・・・・残念・・・・(大笑)

さて、これからが本番!(笑)
これから柳本大隊の戦跡を探して歩く・・・・
まずは、川を渡って対岸に行ってみる。
この川が当時「パンパンガ川」もしくは「バンバン川」と呼ばれていた川ではないかと思うが確信は無い・・・(大汗)
ネットの地図上では「サコビア川」となっているようだ・・・・

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河川敷が灰色なのは、1991年に大噴火を起こしたピナツボ火山の火山灰である。
その昔、このあたりを走ったときは、厚く火山灰が積もっていて、スゴイ景色だったが、今は、ごく普通の川に見える。

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川の向うに見える丘あたりが柳本大隊の陣地があった場所だと思うのだが・・・
位置関係を確認するには、一度、離れたところから見ないとよくわからんのです。(笑)
これからまた引き返して、あの丘に向かうことにする。

我が戦車第2師団の機動歩兵第2連隊が満州からフィリピンに派遣されたのは昭和19年10月のこと。
この時の機動歩兵第2連隊第3大隊(柳本大隊)の編成は、大隊本部、第7、第8、第9中隊、第3機関銃小隊の合計530名である。
その後、第7中隊と第8中隊の約200名を連隊本部(連隊長の名を取り「高山支隊」と呼んでいた)に差し出し、代わりに独立戦車第8中隊(九七式中戦車8両と兵員130名)とマニラからの補充兵150名を指揮下に入れる。
昭和20年1月9日、米軍がフィリピンに上陸・・・
1月30日に柳本大隊は「南山」に陣を構える。

さて・・・この「南山」が、どこにあるのかが、よくわからない・・・(涙)
かなり開発されて近代化されちゃっているからなぁ~
70年前と全く変らないままでいてくれと頼むほうが無理か・・・
ここは川を基準にしてみるしかあるまい・・・
というわけで、「南山」の探索は諦めて川沿いにあった「400高地」を探しに向かう。

2月11日、「南山」の正面に戦車を伴った米軍が進出、大激戦となり山頂を占領されてしまう。
ここで柳本大隊長は、部下の第8中隊を督励し、自ら抜刀して突撃!
山頂を奪い返すが、この「南山」での戦闘では29名の戦死者を出した。
折角確保した「南山」だが、その4日後には命令により撤退・・・・「400高地」に向かう。

さて・・・その「400高地」は、どこだろうか?
多分、このあたりだろうと見当をつけて向かったのがゴルフ場・・・・(笑)

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このゴルフ場・・・・韓国資本のゴルフ場である。(汗)
勝手にクラブハウス内に入り・・・(大笑)
クラブハウスのテラスから川の向こう側を見る。

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ここが「400高地」とするならば・・・・
右側の写真、向うに見える高地が当時「バンバン高地」と呼ばれた辺りになると思うが・・・
その向うの奥には機動歩兵第2連隊主力の高山支隊が陣取っていた。
そして、彼の地で、柳本大隊から転出した第7中隊が玉砕している。
右側の写真の中央あたりに見える小高い山が「赤山」と名付けられた山ならば、左側の写真の右端あたりにあるのが「黄山」と名付けられた場所となる。
そうなると、あの周辺には、空挺部隊の高屋支隊が陣取っていたことになる。
拙者がよく行く、クラーク博物館には、この高屋支隊の空挺隊員が使用していた分解式の小銃が展示されている。
パラシュート降下の時に邪魔にならないよう、2つに分解できる通称「テラ銃」と呼ばれた珍しい小銃である。

基準点を間違えて景色を見ると、戦跡の場所を間違えることになる・・・・
柳本少佐がご存命の時に一緒に旅をしたら、正確な場所を教えていただけただろうが・・・
拙者が戦友会に入会する前に他界されたので、それは無理・・・・
交通事故に遭われていなかったらなぁ~
今もご存命なら、ここの写真をお見せして教えを請うことも出来たかもしれない・・・と思うと残念である。
最終的には自分の勘に頼るしかない。(汗)

その昔、祖父が戦っていた北部ルソンのサラクサク峠に登り、祖父の陣地跡を訪れた時に、陣地跡の写真を撮った。
で・・・それを、当時まだご存命だった佐藤中隊長にお見せして、「ここに機関銃陣地を置きませんでしたか?」と尋ねたところ、「よく知ってるねぇ~ここは機関銃陣地があった場所だよ」と言われたことがある。
現地の地形と米軍の進行方向から考えると、その場所に重機関銃を置けば米軍を制圧できると思ったのである。
あくまでも拙者の勘・・・・
その勘がズバリ当った・・・
それから以降、拙者は自分の勘を頼ることにしている。(大笑)

ということで・・・拙者の勘によれば・・・(笑)
ここは「400高地」ということになる。(大笑)

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左の写真の奥、ゴルフコースの切れ目の向う辺りが「五ノ谷」と呼ばれた場所ではないかと思う。
写真では、ちょっとわかりづらいが、ゴルフコースの向うに川が流れていて、その川の向うに山々がある。
右の写真の左端から左の写真にかけて、ゴルフコースは一段高い位置にある。
コース造成の時に、かなり山が削られていると想定すると、あの奥は深い谷・・・
「五ノ谷」と名付けるにふさわしい地形だったのではなかろうか?
それを確認するには・・・・あそこまで行かねばならない・・・
「私の読みが正しいかどうかを確認するには・・・ここでゴルフをするしかないですねぇ」(笑)
「で・・・ボールをわざと向うに打って、ボールを探す振りしてあのコースの端っこに行ってみる・・・というのはどうでしょ?」
“ヤナギモトさん”と二人で大笑い。

この「400高地」は「五ノ谷」から川を渡って向こう側の「赤山」「黄山」に向かう要衝の地である。
柳本大隊は、ここを40日間ほど占拠していたようである。
どういうわけかは知らないが、米軍はここへ直接陸上からの攻撃はかけてこなかった。
砲爆撃のみである。
3月25日、柳本大隊は「神風山」に移動する。

ここで、10分弱ほど景色を眺め、今度は、ここから少し西にあるゴルフ場に向かう。
ここも韓国資本のゴルフ場で・・・・
勝手にズカズカとクラブハウスに入っていったら「アンニョンハセヨォ~!」とフロントの人に挨拶された・・・(驚!)
あの・・・俺は日本人ですけど・・・(大汗)
どこへ行っても日本人より韓国人だと思われやすい拙者である・・・仕方がないか・・・(大笑)
我々が何をしに来たのかの説明は、ガイドの“タケウチさん”に任せて・・・・
またまた、“ヤナギモトさん”と二人で勝手にテラスに向かう。(大笑)

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川が大きく曲がっているところが「五ノ谷」と呼ばれたところではないかと思うのだが・・・
あくまでも推定だが・・・・
川岸の“半島”のように飛び出しているこちら側(西側)当りだと思うが、昭和20年9月15日の午後1時に山の中から降りてきた柳本大隊は、あのあたりで武装解除を受けている。
この時の生存者は大隊直属の将兵が17名、大隊に配属されていた戦車中隊の生き残りが13名、合計30名だった。
最大時の総兵力が650名だった柳本大隊(配属部隊を含む)は、終戦時にはたったの30名しか生き残らなかった・・・・
生還率は5%を切っている・・・・
ちなみに拙者の祖父の部隊の場合は、配属部隊を含めて600名いたが、生き残ったのは祖父を含めて11名、生還率は2%を切っている。(汗)

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川の向こう側に見える山々が「奥山」といわれる場所だと思うが・・・
これまた推定である。
なにせ、柳本大隊長が書き遺した手書きの地図では、大まか過ぎて距離も何もよくわからないのである。
加えて、海軍側の生還者が書き残した資料などの地図では山や地域の名称に違いが見える。
陸軍と海軍で、それぞれ自分達で日本名を付けて作戦行動を取っていたためだろう。
このため、陸軍と海軍の資料を突き合わせると混乱するばかり・・・(大笑)
向うに見える山々に“複郭陣地”が造られていたと思うが・・・・
川向こうの地域は、陸軍は高山支隊(機動歩兵第2連隊主力を基幹)と高屋支隊(空挺部隊である滑空歩兵第2連隊を基幹)が戦ったが、主に海軍の航空部隊の地上員で構成された各種部隊が戦った場所である。
海軍のほうまで調べているとキリがないので今回は目をつぶったが・・・・(笑)
陸海軍共に航空機搭乗員(パイロット)は貴重な存在なので優先的にフィリピンを脱出した。
本土決戦にはパイロットが一人でも多く必要だったのである。
これは無理もない話である。
しかし、それとともに、軍の“高級将校”たちも、我先にと台湾に逃れた。
エリートと呼ばれる“優秀な人間”だから、こんなところで死ぬわけにはいかない。
何のために競争に打ち勝って、この地位までに登りつめたか・・・
こんなところでは死んだら損だというわけだろう。
「後方へ下がって指揮を取る」というもっともらしい理由を残して部下を置き去りにしてサッサと飛び立った・・・
残された整備員などの地上要員は、かわいそうである。
航空部隊の地上員は「地上戦」には不慣れである。
それがいくつかの“戦区”に別れて地上戦を戦い“消滅”していった・・・・
あの向うに見える山々はそういう場所なのである・・・・

昭和20年4月9日、柳本大隊は「神風山」の陣地を撤収して移動することとなる。
ここが「神風山」だとすると・・・・
この目の前の川を渡り、左に折れて「馬の背」を通って「礼山」に向かったことになる。
「馬の背」と名付けているんだから“馬の背中”みたいな地形なのだろう・・・
ということは・・・あそこあたりではなかろうか?

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「馬の背」と名付けられておかしくない景色である・・・
あそこが「馬の背」ではなかろうか?
そうだとすると・・・・
あそこを通って、再び川を渡り、こちら側に戻って、さらに西に向かい、「礼山」の陣地に入る。
で・・・・そこで自活生活・・・・
食糧不足のため、軍は集団自活を解除し、小グループでの自活行動を認めることとなる。
敵の攻撃より餓死と戦うことになったようである。
その「礼山」と呼ばれた山はどの辺りか・・・・

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その方向を見てみると・・・・
小高い山が邪魔で向うが見えない!(涙)
現在造成中である。
あの頂上に上れれば、向こう側が見渡せるだろうから、「礼山」の位置がわかるかも・・・・
しかし、現在、造成中の場所に勝手に立ち入ったらトラブルを引き起こしかねないので諦める。
何が建つのかは知らないが、完成したころ、あそこに上ってみたいものだ。
「神風山」では頂上に陣地を築いたと柳本大隊長は記録を残している。
となると・・・・頂上というのは、この造成中の山のことだろうか?

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後ろを振り返ると・・・・この景色・・・・
遠くにクラークの平地が見える・・・・
ゴルフコース造成のため、かなり山が削られている。
ゴルフ場になる前の状態はどういう感じだったのだろうかと想像してみる。
ゴルフ場なんかに開発しやがって・・・と怒るのは簡単だが・・・(笑)
いや、ここがゴルフ場に開発されていなかったら、この場所に来る事は不可能だっただろう。
昔のまま、山のままだったら、とてもじゃないが登る事は無理だったに違いない。
そうなると、川向こうの景色も見られなかったわけで・・・
考え方を変えてみれば、ゴルフ場に開発してもらったおかげで足を踏み入れることが出来たといえる。
これは感謝すべきか?・・・・韓国企業に?(大笑)

さて、そろそろ帰ろうか・・・という時にゴルフ場の責任者が名刺を持ってやって来た!(笑)
「先ほどは失礼しました。日本の方でしたか・・・」と言う。(笑)
次回は是非、ゴルフをやりに来て下さいという。
この会社は日本の九州にも2箇所ほどゴルフ場を経営しているので、是非、日本人にもここでプレーしてもらいたいと言う。
まぁ、あの横柄な韓国人が・・・・(笑)
一生懸命、拙者を相手に営業活動をするとは・・・ねぇ・・・(笑)
彼の英語は綺麗な英語で、また物腰もごくごく丁寧・・・・決して卑屈な態度ではない。
韓国人にもこういう人がいるんだねぇ~(笑)
いや、こういう人物だからこそ、フィリピンのこのゴルフ場を任されているのかもしれない。
意外にも好感の持てるマネージャーさんだった。(大笑)
問題は・・・拙者のほうである・・・(泣)
まともな英語で応対できない・・・(大泣)
いやぁ~申し訳なし・・・・

彼の話では、ここはさらに開発を進めていて、最終的には一大リゾート地になる予定だそうだ。(唖然)

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あらら・・・ここが計画通りに完成したら、もうここが“戦跡”だなんて誰もわからなくなるだろう。
仕方がないか・・・・

それにしても日本の企業は何をしているのだろう?
韓国は、まぁ、半分ハッタリだとしても、スケールの大きな事をここでやっているというのに・・・・
日本の企業は元気がないのか?
下請けいじめのほうで忙しいのか?(大笑)

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遠くに見えるのは「アラヤット山」・・・・
戦時中は抗日ゲリラの本拠地で、戦後はフィリピン共産ゲリラの本拠地だった山である。
今も本拠地になっているかどうかは・・・・知らない。(笑)
手前の平野部にクラークの国際空港が見える。
この空港には韓国から直行便が運行しているそうだが、日本からの直行便はない・・・
だから韓国企業、韓国人ゴルファーや観光客がやってくるわけで・・・
う~ん・・・日本は負けてるな・・・(汗)

この地点から平野部が一望できるから、陣を構えるにはもってこいの場所であることは間違いない。
ここから空港が一望できるということは、当時、米軍に占領された我が軍の航空基地も一望出来たということになるか・・・

時刻は午後1時半を過ぎた・・・・
拙者の勘と推測を説明しながらご案内した柳本大隊の足跡・・・・
“ヤナギモトさん”は生前のお父さんから全く話を聞いていなかったそうなので、何もわからないと言っていた・・・
今回のご案内で少しでも喜んでもらえたなら幸いである。

ゴルフ場を辞し、これからアンヘレスの町に向かう・・・・

旅行 | 16:42:58 | Comments(0)
神風特攻隊の慰霊碑参拝
今日は、夕方に画家で郷土史家、神風特攻隊を顕彰してきた“デイソンさん”宅をお訪ねする予定・・・
”タケウチさん”に事前にアポを取っておいてもらった。
で・・・それまで時間があるので・・・・
その間に、戦跡めぐりをすることにした。

ホテルをチェックアウトして市内のファストフードで朝食をとる。

まず最初に向かったのは、マバラカット東飛行場跡・・・・

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我々は「陸軍」の関係者ですが・・・・(笑)
神風特攻隊となると、やっぱり日本人なら慰霊をしてあげないとね・・・・
陸軍も海軍もなく・・・・



【現地説明板】

太平洋戦争における「神風」が離陸したマバラカット飛行場

太平洋戦争における「神風特別攻撃隊」が離陸した「マバラカット東飛行場の西端」がこの地点であり、当時、パンパンガ州マバラカット町に駐屯の帝国海軍第一航空艦隊第二〇一航空隊所属の搭乗員二十四名からなる特別攻撃隊を、昭和十九年十月二十日第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将発令にて編成、関行男大尉を隊長とするこの隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と命名。

この神風特別攻撃隊を更に「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の四隊に分けられ、この最初の「神風」攻撃隊各隊は当初十三名の搭乗員によって編成され、当日午前十時頃、当地に在るサントス家の前庭において大西中将自身によって命名式が執り行われた。

翌、昭和十九年十月二十一日午前九時、関大尉率いる敷島隊はゼロ戦に二百五十キロ爆弾を爆装、フィリピン東方海上に展開中と報告された米国艦船群を目標に、この基地を飛び立つが目標の敵艦船は発見できず、マバラカット飛行場基地に帰還せざるを得なかった敷島隊は、翌日から三日間連日、この基地より敵艦索敵に離陸するが悪天候のため発見できずに終わった。
しかし、ついに昭和十九年十月二十五日午前七時二十五分、再びマバラカット基地を離陸した敷島隊は、同日午前十時五十二分、ついにレイテ島タクロバン沖にて目標の敵艦船を捕捉、関大尉は最初に空母セイント・ローに体当たりを敢行し、後続の長嶺(筆者注:永峰)飛長も同艦に突入し、これを撃沈した。

関大尉部下の隊員もサンガモン、スワニー、サンティー、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、キットカン・ベイらの空母に大破の損害を与えた。
この攻撃にはセブとダバオからの「神風」攻撃隊も参加した。

この日の「神風特別攻撃隊」の戦果はマバラカット基地から敷島隊の直掩戦闘機として攻撃に参加した西澤広義飛曹長によって確認・報告された。

関大尉の直卒の敷島隊員は中野磐雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛であった。
彼らの緒戦の成功は、その後、フィリピン、台湾、沖縄、日本本土の陸海軍搭乗員の多くが参加する「神風戦術」として広まっていった。

太平洋戦争中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。
外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。
この地に訪れる参拝者の皆様に謹んでお願いします。
全ての「神風」と比米軍を中心とする連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、そして、全世界の平和の為に祈りますと祈念して下さい。

(注記)
マバラカット観光局(MTO)神風平和祈念公園の建立を推進した理由は、神風特別攻撃隊の栄光を称賛する為ではなく、その歴史的事実を通じて世界の人々に平和と友好の尊さを訴える為であります。
神風平和祈念廟が神風特別攻撃隊のような不幸な出来事を二度と繰り返さないと誓う場所となる事を祈念するものです。

かつて、何の変哲も無く長閑なマバラカットの町が神風発祥の地として第二次世界大戦中の太平洋における戦場で歴史を刻むと誰が想像したでしょう。

かつて、覇権を争う外国列強の不条理な戦争にマバラカットの住民が巻き込まれる事を誰が想像したでしょう。

かつて 、マバラカット住民とフィリピン全体を苦しめ束縛していたものから解き離す重要な原因として、神風搭乗員の誕生と終焉があることを誰が想像したでしょう。

かつて この神風慰霊碑が戦争の不条理さと恐怖を痛切に思い出させるだけではなく、地域の観光振興と歴史認識に貢献している事を誰が想像したでしょう。

それゆえ、1998年10月のクラーク・フィールド、マバラカット“世界平和の都市”宣言は人種や国籍の区別なく地球上の全人類の恒久平和を守り、そして永続させるための継続的な努力です。

マバラカット観光局長
ガイ・“インドラ”・ヒルベロ



この地を訪問するのは4回目である。
初めて訪れたのは、平成13年だったと思う。
そのころは、まだ、この慰霊碑は建設途中だった・・・
次に訪れたのは平成15年(2003年)の5月・・・
この時に慰霊場の鳥居が完成していた・・・
翌年、また訪問したら、今度は門扉が取り付けられていた・・・
そして、あっという間に10年が経ち・・・今回で4回目!
え?・・・・いつの間に10年も経っちゃったんだろう?(汗)

慰霊碑の説明板の文章は全面的に書き直されて、新しい文面になっている!
慰霊碑の周辺も、大きく変わってしまっている・・・

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慰霊碑の前の道は、こんなに綺麗な道路ではなかったし・・・
家なんか建ってたっけ?(笑)

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ここなどは、11年前は、ただの草原・・・・
もしかしたらサトウキビ畑だったかもしれないが・・・(笑)
何もない場所だったのに、道路が走っている!!(驚)
この“草原”が当時の東飛行場跡だろうと思い、ここから写真を撮った覚えがある・・・
が・・・全くその当時の面影が無くなっている・・・・
いやぁ~10年も経つと、こういうことになるんだぁ~

時刻は午前11時15分・・・・
次は、マバラカット西飛行場跡の慰霊碑に向かう。

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ここにも何度も来たことがある。
最後に来たのは・・・2年前だったかな?(笑)

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【現地説明板】

第二次世界大戦における最初の「神風特別攻撃隊」が離陸した「マバラカット西飛行場の西端」がこの地点であり、当時、パンパンガ州マバラカット町に駐屯の帝国海軍第一航空艦隊第二〇一航空隊所属のパイロット二十四名からなる特別攻撃隊を、昭和十九年十月二十日第一航空艦隊司令長官大西滝治郎(筆者注:瀧治郎?)中将発令にて編成、関行男大尉を隊長とするこの隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と命名。

この神風特別攻撃隊を更に「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の四隊に分けられ、この最初の「神風」攻撃隊各隊は当初十三名のパイロットによって編成され、当日午後三時頃、当地に在るサントス家の前庭において大西中将自身によって任命式が執り行われた。

(筆者注:ここに上記文章が重複して刻まれているので、記載は省略)

翌、昭和十九年十月二十一日午前九時、関大尉率いる敷島隊はゼロ戦に二百五十キロ爆弾を爆装、フィリッピン東方海上に展開中と報告された米国艦船群を目標に、この基地を飛び立つが目標の敵艦船は発見できず、マバラカット東飛行場に帰還せざるを得なかった敷島隊は、翌日から三日間連日、この基地より敵艦索敵に離陸するが悪天候のため発見できずに終わった。
しかし、ついに昭和十九年十月二十五日午前七時二十五分、再び同基地を離陸した敷島隊は、同日午前十時五十二分、ついにレイテ島タクロバン沖いにて(筆者注:沖にて)目標の敵艦船を捕捉、関大尉は最初に空母セイント・ローに体当たりを敢行し、後続の長嶺(筆者注:永峰?)飛長も同艦に突入し、これを撃沈した。

関大尉部下の隊員もサンガモン、スワニー、サンティー、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、キットカン・ベイらの空母に大破の損害を与えた。
この攻撃にはセブとダバオからの「神風」攻撃隊も参加した。

関大尉直卒の敷島隊員は中野磐雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛であった。
彼らの緒戦の成功は、その後、フィリッピン、台湾、沖縄、日本本土の陸海軍パイロットの多くが参加する「神風戦術」として広まっていった。

この飛行場から最後の「神風」出撃は昭和二十年一月六日午後四時四十五分に離陸し、レイテ湾上にいた米軍上陸部隊艦船に対しての攻撃は中野勇三中尉率いる五機のゼロ戦で、部下の攻撃隊員は一小隊に後藤喜一上飛曹、谷内善之上飛曹(筆者注:この人名が重複して刻まれているのでここでは割愛)、二小隊に中尾邦為中尉、千原昌彦上飛曹であった。
他にアンヘレスとエチャエグ(筆者注:エチアゲ?)からの「神風」もこの攻撃に参加。
空母ロングは撃沈、大破した米国艦船はニュー・メキシコ、カリフォルニア、ルイスビル、ミネアポリス、コロンビア、アレン・エム・サムナー、■ルケ(筆者注:1文字判読不可)、オブライエン、サウサード、そして、ブルックス、ウオークであった。

昭和二十年一月八日の暁、この飛行場から最後の飛行機が離陸した。
「神風」の機密書類と人員を乗せた最後の二機の飛行機が脱出する為、この飛行場から低空飛行で台湾へと飛び立った。
他の全ての地上要員は地上戦闘員として、米陸軍部隊の攻撃からクラーク平原の全施設防衛の為、最後の一兵まで戦うべく残地(筆者注:残置?)された。
昭和二十年一月二十六日、マバラカット西飛行場は終に米国の手に落ちた。

第二次世界大戦の終わりまでに、「神風」、陸上、海上、海中すべての特攻は合計三百二十二隻の米軍船を撃沈または大破の損害を与え、米海軍水兵一万三千三百名を戦死させ、三万六千名に重大な戦傷を与えた。
一万三千二十二名の特攻隊員の内、四千六百名が「神風」として体当たり攻撃で戦死した。

第二次世界大戦中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。
外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。
この地に訪れる参拝者の皆様に謹んでお願いします、全ての「神風」と連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、そして、全世界の平和の為にいのりますと祈念して下さい。

歴史研究家 ダニエル・エッチ・ディソン
アンヘレス市 ビリア・グロリア在住



この碑文の前半は、東飛行場にある碑文と、ほぼ同じである。
内容や文章の如何はともかく・・・・(笑)
同じ文章が重複して書かれていたり、おかしなところで行変えや空白があったり、誤字があったり・・・
一体これはどういうわけだ?(汗)
日本語で書かれているから、この銘板作成には日本人が関わっていたと想像するが・・・・
現地で製作したものか、それとも日本で製作したものを、フィリピンに持ち込んだものかはわからないが・・・・
いくらなんでもヒドイ出来である。
これをプロが作ったというなら、プロとして失格だな。
完成した銘板のチェックはしなかったのだろうか?(唖然)
日本人の誰かが、これをチェックしていたら、そのまま取り付けるということはしなかったと思うが・・・

ちょうどこの時、上空を飛行機の編隊が飛んできた!!
ここに来るまでに、ヘリコプターの編隊やジェット機の編隊が上空を飛んでいた。
近くで「航空ショー」でもやっているのか?・・・・と思っていたが・・・・
なんと、いいタイミングでレシプロ(プロペラ機)の編隊が飛んできたのである!

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多分、軍の初等練習機ではあるまいか?
おお!このプロペラ・エンジンの爆音!!
ジェット・エンジンとは全く違う、この心地いい爆音!!(大喜)
その昔、多くの日本陸海軍の兵士たちが、この音を聞いたに違いない・・・
出撃!出撃!
この慰霊碑の前で、まさか爆音を聞くことになろうとは・・・大興奮である!
で・・・大戦末期には、この爆音は「悪魔の爆音」に変ったに違いない・・・
米軍の空襲である・・・・
敵襲!敵襲!

ふと気がついたら、この音を聞いて喜んでいるのは拙者だけ・・・(大汗)
“ヤナギモトさん”も“タケウチさん”も全く興味はないらしい・・・
キョトンとしている・・・・
え?わからないかなぁ~・・・感動しちゃうでしょ?・・・あれ?しない?(汗)

この慰霊碑のすぐ隣りの小高い丘にトンネルが掘られている。
「戦闘指揮所」と言われているバンカー・・・つまり横穴壕である。
昔、一度だけ内部に入ったことがあったが・・・・
あ・・・ペンライトを持ってくるのを忘れた・・・・(大汗)
でも、一応、行ける所まで行ってみようかということで入ってみる。(笑)

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一緒に入ったドライバーが、天井から落ちた巣を見つけた。
中に雛がいた・・・コウモリの赤ちゃんだろうか?

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064_convert_20141001145823.jpg(巣があった天井)

ドライバーが、この巣を自宅に持ち帰って、雛を自分で育てたい・・・と言う。(唖然)
彼は動物を育てるのが大好きだそうで・・・・(汗)
でも、どうやって育てるの?(汗)
いや、いや、このまま、ここに置いておいた方がいいんじゃないのぉ~?
ということで・・・諦めさせる。(大笑)

以前、入ったときは、この壕は、奥のほうで“L字”に曲がっていて、奥はかなり広くなっていた。
が・・・どうも、その後、かなり天井などが崩壊している様子なので、これ以上奥に入るのはやめる。(笑)

065_convert_20141001145919.jpg(内部から入口を見る)

以前、ここを訪れた時に、やたらと射撃音が聞こえた・・・・
この丘のすぐ隣りに射撃場が出来ていて、射撃をしている音だった。
で・・・・今回、そこを覗いてみることにした。(笑)

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射撃場に行ってみたが・・・・人の気配が無い・・・・(唖然)
潰れたのか?(大笑)
あれ?・・・

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馬はいるんだけど・・・人間がいない・・・(大笑)
向うに見える丘が、我々がさっき入った壕のある「戦闘指揮所」の丘である。

時刻は間もなくお昼になる・・・・
怪しい人間と思われるのも嫌なので・・・さっさと立ち去ることにした。(笑)
久し振りに射撃をしたかったが・・・残念・・・・

旅行 | 15:16:10 | Comments(0)