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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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帰国の途につく・・・
空港に向かう前に夕食・・・・
午後5時40分・・・・市内のレストランに立ち寄る。

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“最後の晩餐”は・・・・鍋である・・・・(笑)
この常夏の国で鍋とはねぇ~(苦笑)
なんでも「スチーム・ボード」とかというシンガポールの名物料理なんだとか・・・
グルメじゃない拙者には、サッパリわかりませぬが・・・(苦笑)
何だかんだと言っても鍋は鍋だよね?(笑)
味はどうかと尋ねられても困るくらい、特に印象に残らない鍋だった・・・・(大笑)

午後6時半過ぎまで夕食・・・・
食後、空港に向かう・・・

607_convert_20140924154434.jpg (町の景色)

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観覧車の向うに、あの有名な、大きなバスタブが屋上に乗っているように見えるホテルが見えるのだが・・・(大笑)
ちょっと角度が悪くて、うまく写せなかった・・・・(涙)

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午後7時10分・・・・
チャンギ空港に到着!

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(空港の中)

ここから真っ直ぐ成田に向かうわけではない・・・(笑)
ここからマレーシアのクアラルンプールに向かい、乗り換えて成田に向かうのである。
なんとも面倒くさい話しだが、多分、航空運賃を安くあげるためなのだろう。(笑)

クアラルンプール行きのマレーシア航空MH610便に乗るまで2時間ほどある。
空港内をブラブラ・・・・(笑)

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こういう飾り・・・・すごいよなぁ~(喜)
成田空港も、このくらいのことをしたらいいのにねぇ~

午後9時15分、クアラルンプールに向け出発!
約1時間後の午後10時10分、クアラルンプール空港に到着・・・
ここで成田行きに乗り換える。
成田行きマレーシア航空MH088便の離陸まで1時間半ほどある。
が・・・ツアー参加者のみなさんとオシャベリしているうちに、あっという間に搭乗時間となる。(笑)

午後11時55分、成田に向け離陸!

日付が変わって6月12日!!

で・・・・午前0時15分には機内食・・・である。(笑)
いやいや、夜中に食事をしたら太っちゃうでしょ?(大笑)
日本時間では、午前1時15分である!(唖然)

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機内食はサンドイッチだが・・・・
それでもやっぱり、これを食べたら太っちゃうでしょ?(大笑)
しかし、小腹が空いていたので・・・・(大笑)
軽く誘惑に負けて、平らげる・・・・(大笑)

食後、ウトウトしているうちに、またもや機内食!!(汗)
時刻は午前4時半・・・・(大涙)
日本時間では午前5時半であるが・・・・
朝食には、ちょいと早すぎるような・・・(笑)
サンドイッチを食べてから3時間程度しか経っていないんですけど・・・(大笑)

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食事を終えて、ホォ~・・・っとため息をついて、その1時間後・・・・
日本時間で午前7時10分、成田空港に無事着陸!
はぁ~・・・・・(汗)
ほとんど寝ていない・・・・(大汗)

半分どころではなく、殆ど寝ぼけた状態で帰宅する・・・(大笑)

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旅行 | 21:26:48 | Comments(0)
フォート・カニングに行く
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「日本人墓地公園」の周辺は住宅街・・・・
結構、高級な住宅街に接していた。

これから最後の訪問地・・・「フォート・カニング」に向かう。

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(途中の景色)

午後4時50分、「フォート・カニング」に到着。
小高い丘しかない場所ですが・・・・(笑)
ここに大東亜戦争当時、英軍の地下司令部があったという。

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この地下壕で、パーシバル将軍たちは日本軍に降伏しようかどうしようかと議論したらしい。(笑)
当時使用された地下司令部は見学出来るようだが、残念ながら、ちょうど修復中とのことで、現在は立ち入り禁止となっていた。
説明板の写真では、内部は蝋人形などを使って当時の様子を再現しているらしい。

596_convert_20140923202711.jpg(説明板より)

現地設置の説明板は、フォート・カニング全体の説明が英語で書かれていて日本語の表記はない・・・
が・・・なぜか・・・「サリー・ポート」の説明板だけ日本語で説明が書かれている。
ん?・・・・なんでだろう?(笑)



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サリー・ポート

サリー・ポートは城砦から弾丸を出し入れする小さな扉でした。
防御側が城砦に敵に気付かれることなく出入りすることを助け、攻撃の際にも使われていました。
「サリー」という言葉は、突然活発に攻撃をするという意味です。
敵が城砦を包囲している場合、防御側がサリー・ポートから突撃し、敵を外側から驚かせるというしくみでした。
フォート・カニングには少なくともこのようなサリー・ポートが3ヶ所ありました。
ここに1つ、丘の北西側に1つ、そしてヒル・ストリートの南側にもう1つありました。

(説明板より)



丘の上に登ると、そこはただの広場・・・・

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内部の見学が出来ないとなると・・・・(笑)
丘の外観をサラッと見るだけしかやることがない・・・(涙)
ここに英軍の司令部があったんですねぇ~・・・ということで・・・・

これでシンガポールでの見学は全て終り!
時刻は午後5時・・・

これから帰国の途につく・・・・

旅行 | 20:58:58 | Comments(0)
シンガポール日本人墓地公園に行く
次に向かったのは・・・『日本人墓地公園』
時刻は、まもなく午後4時になる・・・・

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『日本人墓地公園の沿革』という説明板には、この墓地の由来がこのように書かれていた。


日本人共有墓地は、娼館主、雑貨商として成功した二木多賀治郎が自己所有のゴム林の一部を提供したことに始まる。
それまで当地で死去した日本人の遺骨は牛馬の棄骨場に埋められており、そのことを悲しんだ二木は、1888(明治21)年、同胞の渋谷吟治、中川菊三と連名で英国植民地政庁に自己所有地8エーカー(約1万坪)を日本人共有墓地として使用する申請を行い、3年後に正式許可を得た。
南十字星の下、ここには、からゆきさん、戦前活躍した日本人、そして戦犯処刑者も眠っていて、明治、大正、昭和の日本人海外史が偲ばれる
(以下、年表は略)



この墓地ができるまでは、日本人の骨は牛馬の骨捨て場に埋葬されていたとはねぇ~
驚きである。
ちなみに・・・・
平成11年現在の墓地の面積は2万9359平方メートルで、墓標数は910基だそうである。

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公園内の案内板はイラストマップである。
これが良く出来ているマップで・・・・説明文は英語だが、わかりやすい!(喜)

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故大講義板倉タカ刀自之墓

板倉タカ(いたくら たか)
1867(明治元)年生ー1926(昭和2)年没

天理教シンガポール教会初代会長。
娘時代から人生の辛苦をなめたといわれている。
大連にて料理屋旅館を経営していた。
のちにマレー半島に渡るが母の病で日本に帰国、その際天理教に入信した。
その後シンガポールに渡り、テーブル・クロスなどの行商のかたわら、からゆきさんたちの良い相談相手となる。
1916(大正5)年には天理教の布教を開始。
1922(大正11)年、信者の献金によりキャセイ映画館近くに天理教教会を開き、55才で初代会長となる。
59才で没。
大柄な心の広い人であったという。
この板倉タカ刀自の墓近くには4基の天理教信者の墓がある。

(説明板より)


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南方軍総司令官寺内元帥之墓

寺内寿一(てらうち ひさいち)
1879(明治12)年生ー1946(昭和21)年没

山口県出身。
明治の元勲寺内正毅(てらうち まさたけ)の長男で、明治、大正、昭和に生きた軍人。
父と同じく陸軍大将、元帥となる。
台湾軍司令官、軍事参議官、北支方面軍事司令官を歴任し、1941年には南方軍総司令官に着任して太平洋戦争の南方作戦を指揮した。
1945(昭和20)年敗戦の年、サイゴン郊外で病にたおれ、英国軍マウントバッテン将軍の配慮でジョホール州レンガムのヒギンス氏別邸にて療養。
その為、日本軍の降伏式にも参加出来ず脳溢血で死去。
遺骨はマウントバッテン将軍の指示により、軍刀その他の遺留品と共に特別機で東京の遺族の元に送られ、この墓には、寺内元帥の遺髪、爪、襟章、肩章が納められている。

(説明板より)



ここにある寺内元帥の“お墓”は、いわゆる“遺髪墓”である。
“本当の”お墓は、山口県の護国神社の近くの高台に父親のお墓と並んで大きな立派なお墓が建っている。
昔、訪れたことがある・・・・
拙者としては、個人的には好きではない人ですが・・・・(苦笑)



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二葉亭四迷終焉之碑

二葉亭四迷(ふたばてい しめい)
1864(元治)年生ー1909(明治42)年没

本名、長谷川辰之助(ロシア文学家、翻訳家、小説家)
この碑はあくまでも記念碑であって墓ではない。
遺骨の全ては東京の染井墓地に埋葬されている。
文学は男子一生の仕事にあらずと軍人を志し、士官学校を三度受験し三度失敗した四迷であるが、文芸史上空前の業績を残す。
1887(明治20)年に近代ロシア文学の根本精神を把握、創作や翻訳に現実主義を導入した。
自らの小説総論に基づいた『浮雲』は言文一致体で書かれた日本で最初の近代散文小説である。
東京外国語学校教授を経て、1908(明治41)年朝日新聞特派員として渡露。
1909(明治42)年5月10日、肺を患った四迷は帰国途上の日本郵船賀茂丸(コロンボ~シンガポール間のベンガル湾洋上)船中にて死去。
13日、当地パシル・パンジャンの丘にあった火葬場で荼毘に付された。
1929(昭和4)年7月14日、古藤、富房、堀切の諸氏により自然石を用いたこの終焉の碑が建立される。
碑文は当時シンガポール在住の医師・西村竹四郎の筆である。
代表作品に『浮雲』、翻訳作品『あいびき』『うき草』『其面影』『平凡』などがある。

(説明板より)


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上山柑翁之墓

上山柑翁(うえやま かんおう)
1889(明治22)年生ー1942(昭和17)年没

1889(明治22)年9月17日蚊取り線香の発明者であり、大日本除虫菊(株)の創業者である上山英一郎の長男として生まれる。
本名上山英之助。
柑翁は雅号。
1913(大正2)年24才で東京高商(現一橋大学)卒業、同年上山商店に入社。
1930(昭和5)年第二代社長に就任。
1935(昭和10)年、社名を現在の大日本除虫菊(株)に変更する。
1942(昭和17)年、日本農産物輸出組合理事長、南洋ゴム拓殖(株)社長に就任、昭南島(シンガポール)に営業所を開設する。
同年12月30日陸海軍嘱託として東南アジアに出張の途上、シンガポールのセンバワン飛行場で搭乗機が墜落し死去。

(説明板より)

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(左奥の石碑=作業隊殉職者の碑)
(右奥の墓石=大寛院眞光義徹居士)

作業隊殉職者の碑

拓南の碑(たくなんのひ)

「東南アジアの隆盛を冀(こいねが)い拓南に生きた人々ここに眠る」と自然石に彫られている。
1980(昭和55)年代に石原産業が建てた。
石原産業は1919(大正8)年、バトゥ・パハのスリメダン(マレーシア)に石原廣一郎、東粂次、田所久吾が鉱脈を発見し興した鉄鉱石の採掘会社。
事業は成功し拡張を重ね、のちの石原産業海運となるが戦後の財閥解体により石原産業となった。

大寛院眞光義徹居士

西村吉夫(にしむら よしお)
1892(明治25)年生ー1934(昭和9)年没

京都府出身。
石原産業の前身スリメダン鉱山入社。
1933(昭和8)年より、石原産業シンガポールの支配人となる。
同年、日本人会会長となる。
1934(昭和9)年12月5日、軍港を撮影した為英領海峡植民地当局からスパイ容疑により出頭を命じられ、取り調べ先の中央警察でマラリア治療薬の猛毒のキニーネを大量に飲み死亡した。
当時は第二次世界大戦に向かって動いていた時代で、シンガポールもその流れの中にあった。
同年12月6日、日本人会は盛大な会葬をもって日本人社会の信頼厚かった故人の霊を弔った。
この会葬の写真は御堂内に掲げられている。

(説明板より)



569_convert_20140921133623.jpg(従軍南洋会員戦死者之墓)

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御堂前で、ささやかな慰霊祭を執り行い、「海ゆかば」を斉唱して黙祷を捧げる・・・・
あまり時間がないので、そうそうゆっくりと墓標を見て回ることができなかったが、結構「からゆきさん」と思われる女性の名のお墓が多かった・・・
それにしても、地元のシンガポール日本人会はすごい・・・
綺麗に整備して維持管理をされている。
さすがは「墓地」ではなく「墓地公園」である。
日本人観光客は必ずここを訪問して、つまらぬお土産などを買うお金の一部でも維持管理費として寄付してあげるべきだと思う。

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この墓地公園の一角に“メモリアル・プラザ”がある。
その説明プレートは以下の通り・・・


「先人を偲ぶ集いの場」拓く

日本人共同墓地は現在日本人墓地公園と名が改まり、シンガポール日本人会が責任母体となって、日常の管理・維持を行なっている。
他に日本人学校小・中学部をはじめとする団体、個人のボランティアの理解と協力もあって、墓地は篤く守られている。
その閑な一角にこの度、メモリアル・プラザ「先人を偲ぶ集いの場」が拓かれることになった。
戦前あまたの日本人が渡来した。
当地で命を落とし、この墓地に眠る人も多くいる。
一方日本人社会に足跡や功績を残しながらも、ここを永眠の地と成さなかった人もまた多い。
この度そのような人の記録を追蹤し、顕彰碑を建てることにした。
公園化計画の施行によって新装なった日本人墓地公園を一巡すれば、訪問者は当地での日本人社会の歴史が判ることになった。
南国の大樹が蔭を落とし、鮮やかな花が咲き乱れるこの碑のある広場が先人を偲び、己の今と行く末に思いを馳せる場となることを願う。
メモリアル・プラザの日本名「先人を偲ぶ集いの場」は日本人会史蹟史料部の座長を長らく務め、この墓地の維持管理、改善に尽力された安川一夫氏が今年3月に他界される数日前に病床で考えられたものである。

2002年8月22日
史蹟史料部

(銘板より)



ここに“ハリマオ”で有名な、谷豊(たに・ゆたか)の顕彰碑もあった。
誰かが、「谷豊のお墓だ!」と言っていたが・・・・あの・・・このメモリアル・プラザの説明文を読んでないのかな?(苦笑)
たしか、谷豊は、死亡後、その子分たちが遺体を担いでジャングルの中に消えて行ったとか・・・という話を聞いた事がある。
マレー各地にいくつかの「谷豊の墓」と呼ばれるものがあるそうだが、どれが本物かはわからないとも聞いたことがある。
遺髪墓なのか、分骨して建てられたものなのか・・・・わからないそうだ。
いずれにせよ、その遺体はどこに消えたのかわからないというのだから、なんともかわいそうである。
この日本人墓地に埋葬してあげることができたら、さぞかし喜んでくれただろうとも思うが、いや、生死を共にした子分たちの元に一緒にいるほうが幸せかな?

573_convert_20140922153427.jpg(谷豊の顕彰碑)


マレーのハリマオ 谷豊(たに ゆたか)
1911(明治44)年11月6日ー1942(昭和17)年3月17日

福岡県に生まれる。
幼年期に両親とともに英領マレーのクアラ・トレンガヌに移住。
豊が兵隊検査のために福岡に帰国中であった1933(昭和8)、満州事変勃発に怒った華僑暴徒による異母妹静子虐殺事件が発生した。
翌年にこれを知った豊は復讐を誓いトレンガヌに戻る。
生来血気盛んな豊は、次第にハリマオ(虎)という名で知られるようになり盗賊団の頭目となる。
一説では3000人の部下がいたという。
マレー人になりきるため、後にイスラム教に入信する。
1941(昭和16)年、南部タイのハジャイで英軍に拘束されるが、日本軍特務工作員・神本利男の助けで出獄。
同氏の説得により英軍の後方撹乱実行に同意し、日本軍藤原機関の一員となる。
マレー人、タイ人部下を率いて開戦直前の諜報・物資調達に従事。
開戦直後は、英軍による橋梁爆破を阻止するなどの日本軍進路確保、マレー人の日本軍への協力や英軍に同行するマレー義勇軍の中立化などに力を注ぐ。
その間持病のマラリアを悪化させ、1942(昭和17)年3月、陥落直後のシンガポール、タントクセン病院で死去した。
葬儀はイスラム教の教義にのっとり、病院のあるノベナ近くのパジラン・モスクでマレー人によって行われ、その後、当時その近辺にあったイスラム墓地に埋葬されたといわれるが、この墓地は現存せず、正確な墓の位置もわかっていない。
死後、その短い一生を描いた小説・映画などが多数作られ、現在のハリマオ伝説を生むこととなった。
ハリマオ・谷豊は死後「陸軍通譯」として判任官待遇を受けている。
生前の1942(昭和17)年2月1日に遡っての任官であった。

(銘板より)



あれ?
碑文によると、谷豊の遺体はちゃんと埋葬されたようである。(汗)
子分が担いで行った・・・というのは、あれは創作か?(苦笑)

それじゃ、そろそろ帰りましょうか・・・ということになったが・・・
拙者は、結構、皆さんと離れて行動するタイプなので・・・・(笑)
一人でブラブラ散策しているうち、敷地の奥のほうに、なにやら石碑群があるのを見つけた。
おお!軍関係のものではないか!(喜)
早速、添乗員の“アサダさん”を呼びとめ、軍関係の慰霊碑の存在を伝える。

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手前の3つの石碑・・・・
左から『作業隊殉職者之碑』、『陸海軍人軍属留魂之碑』『殉難烈士之碑』である。
説明板によれば・・・・
作業隊殉職者之碑は、終戦後シンガポール島内各作業隊において傷病死した者の遺骨と火葬の灰が収められているという。
「作業隊」というのは、終戦後、遺棄弾薬の処分や遺体の埋葬や、その他各種の作業をした日本兵捕虜のグループのことだろう。
折角、戦争で生き残ったのに、戦後に傷病死とは・・・・
陸海軍人軍属留魂之碑は、シンガポール攻略時の戦死病没者ならびに西本願寺保管の南方軍各地戦死者の遺骨が収められているという。
この「西本願寺」というのは、もしかしたら、当時、シンガポールに西本願寺の別院のようなものがあったのかも・・・
殉難烈士之碑には、終戦時自決した参謀以下の将兵の遺骨とチャンギ刑務所で処刑された100名以上の将兵の血の流された土が収められているという。
戦後自決したのは何名いたのか明記されていないのが残念である。

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小さな墓石・・・・
『殉難者納骨百三十五柱』とだけ刻まれている。
戦後、チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方々の遺骨が埋葬されているのか?

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左の写真は、『近歩五戦死者之墓』・・・・
近衛歩兵第5連隊の戦没者、元陸軍中佐・大柿正一をはじめとする連隊の戦死者396柱が納められているという。
大柿正一とは、あの「バクリ」近辺の戦いで壊滅的な損害を出した大垣大隊の大隊長である。
「納められている」ということは、遺骨は日本に運ばず、ここに埋葬されているということなのだろうか?
右の写真は『近衛歩兵第四連隊慰霊之碑』・・・・
これは慰霊碑だからお墓ではない・・・

ささやかな「慰霊祭」をするなら、御堂の前じゃなくて、ここでやるべきだったな・・・・
もっと拙者が早く気がついていれば・・・・失敗した・・・(涙)

時刻は午後4時半・・・・
約30分間という忙しい訪問であったが、とりあえず満足・・・

旅行 | 19:22:33 | Comments(0)
ブキテマ高地を登る
昼食をすませ、今度はブキテマ高地に向かう。

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530_convert_20140920081514.jpg  (町の中の様子)

午後2時20分・・・・ブキテマ高地に到着。
この「ブキテマ高地」はシンガポール島の天王山と呼ばれた場所である。
島内の最高地点で、この高地の周辺には食糧、燃料、弾薬および補給品の大集積所があったという。
その東北にはシンガポール島の市民100万人を養う水源地がある。
戦術的には、このブキテマ高地によって水源地は掩護されていると言ってよい。
ということは・・・このブキテマ高地を押さえると、敵の集積所も市民の水源も抑えることが出来、シンガポールを陥落させることができるということになるかな?
というわけで・・・日本軍は全力をあげてこのブキテマ高地周辺に攻撃をかける。
「ブキテマ高地」はシンガポールの大激戦地なのである。

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登山道入口に史跡の説明板があった。
幸いにも日本語の説明文があったので読んでみる・・・・


ブキテマ攻防戦

シンガポール中心市内街地への幹線道路を見おろすブキテマ高地は英軍と日本軍の双方にとって重要な戦略的要衝であった。
1942年2月10日夜、装甲部隊に支援された日本軍は、要衝防備のため再編成された英軍連合部隊に攻撃を加えた。
翌11日早朝までに日本軍はブキテマを攻略。
中心市街地への道は無防備となった。

(説明文より)



この説明文だと、わずか1日もかからず、日本軍は簡単にブキテマ高地を攻略したように感じるが・・・・(笑)
実際は、そんなに楽勝ではなかったはずである。

シンガポールに上陸後の日本軍3個師団は、シンガポール市街地に向かって進撃する。
が・・・戦闘は、このブキテマ高地で膠着状態となった。
特にブキテマ三叉路の争奪戦は第5師団と第18師団が猛攻しても容易に落ちなかったのである。
英軍の激しい砲撃で一進一退・・・・
「ブキテマ三叉路」というのは、現在はどのあたりか拙者は知らないが・・・・
11日から14日まで戦闘が続いていたはずである。
そして15日に突然、英軍は白旗を揚げたのである。
もしかして、「11日早朝までに日本軍はブキテマ高地を攻略した」という記述は、ブキテマ高地の頂上だけを占領したという意味かも・・・・
高地の頂上は占領したが、その周囲では激戦が繰返されていたと解釈したほうが良いかも・・・・

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この「ブキテマ高地」・・・・
どこかの自然公園みたいな感じである。(笑)
一応、拙者が“しんがり”を仰せつかって最後尾を歩くことになったが・・・・
このダラダラとした緩やかな傾斜の山道は、意外とキツイのである!(大笑)
足、腰、膝に来る・・・・(笑)
で・・・・わざとゆっくり歩いているわけではない・・・・
みんなに追いつかないのである!!(大笑)
息は切れるわ・・・めまいはするわ・・・(大笑)
普段の運動不足がここで現われた・・・・
なにせ、80歳を越した“高齢者”のほうがスタスタと歩き、最後尾の拙者との間隔がドンドン広がっていくのである!(大汗)
ひえぇ~・・・・格好が付かないぞ・・・これ・・・
完全に、拙者は“置いてけぼり”を食らっているではないか!(唖然)

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約25分ほどで頂上に到着!!(疲)
高地の最高地点なのだが・・・周囲の木々に阻まれ、眺望は最悪・・・
何も見えない・・・・
ただの山の中・・・あ~・・・・面白くない・・・・(大笑)
ここからシンガポールの市街地や水源地などが見渡せたらいいのに・・・
どうして展望台を建てないかねぇ~

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頂上の東屋の中にはブキテマ高地一帯の地図が掲示されていたが・・・
中国語と英語表記の地図である。
う~ん・・・ここに“戦跡”として日本語と英語で書かれた地図を掲示したいものである!(大笑)
日本軍の戦史では、85高地、434高地、220高地、155高地、180高地等々の“高地”の名前が出てくるが、それがどこなのか、サッパリわからない・・・・

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頂上の記念碑(記念石?)にはこの頂上の標高が刻まれている。
標高・・・163.63mとのことである。

英文の説明板によれば・・・
ここは、シンガポールで最も高い“ナチュラル・ポイント”で、標高は163.8メートルだという。
この頂上に初めて登ったのは現地在住の議員のジョン・プリンスという人と彼の仲間たちで・・・・
1827年(日本で言うと文政10年)の6月のことだという。
文政10年って・・・
後に長岡藩の家老になる河井継之助や、後に土佐藩主になる山内容堂が生まれた年で・・・(笑)
ベートーヴェンや小林一茶が亡くなった年で・・・
イギリスが小笠原諸島の領有を宣言した年といわれている・・・・(笑)
へぇ~そんな昔に、この高地に登ったのか?
何が楽しくて???(大笑)
で・・・・
彼らは南からこの高地に向かい、農園や丘や沼を進み、22.5kmの距離を5時間かけて登ったとかって書いてある。
(多分・・・そうだと思う・・・笑)
で・・・「フォート・カニングの丘」から見えるように白い旗を山頂の一番高い木に揚げたらしい・・・
それって、何の意味があったのか?・・・・と突っ込みたくなりますが・・・(大笑)
で・・・この山頂まで向かう“アクセス・ロード”(登山道という意味でしょう)は1843年に造られた・・・という。
1843年というと・・・(大笑)
日本は天保14年・・・・
江戸時代であります!
我々は江戸時代に造られた道を(舗装されていますが・・・笑)登ってきたのであります!(大笑)
いや・・・この広い舗装山道の脇にクネクネと折り曲がりながら山頂に向かっているような“獣道”のような道がチラチラ見え隠れしていたから、あっちのほうが当時の道かも・・・(大笑)

ここで小休止をし、再びもと来た道を降りる・・・・
次々と家族連れが登ってくるが、子供達が元気に駆け上ってくるのには参った・・・
なんと拙者は歳を取ってしまったものか・・・(大汗)
クタクタなのです・・・・(大笑)

旅行 | 16:55:30 | Comments(0)
旧フォード自動車工場に行く
次に向かったのは『旧フォード自動車工場』・・・・
拙者にとっては、念願の・・・といっていい訪問地なのである!
今から34年前・・・・(大笑)
この前の道を我がツアーバスは走っていた・・・
当時はもっと道幅が狭かったような気がするし、建物はもっと高台にあったような気もするが・・・
まぁ、34年前の記憶なんて当てにはならないか・・・(笑)

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上の写真の向うからこちらに向ってこの道を走っているときにガイドさんが説明してくれたことは今でも鮮明に覚えている。
「右手の高台にフォード自動車工場があるんですが・・・ちょっと見えないですかね?山下将軍とパーシバル将軍が、ここで降伏の会談を行なった場所です。ちょっと木が邪魔で見えないですかねぇ~」と言った・・・・
おお!あの有名な「イエスかノーか」と山下将軍が迫った場所だ!
必死になって窓から上を見上げたが森に遮られ、建物がチラリと見えたような気もするが・・・という程度・・・
あっという間にバスは通過!
あ~!残念!!(涙)

当時、ここを見学できたかどうかはわからない・・・
見てみたかったなぁ~
どうして見学コースに含まれてなかったんだろう。
悔しいなぁ~・・・・という思いが今までずっと続いていたのである。
ついに!念願かなって見学できるとは!(大喜)
大感激!!

現在、この建物は博物館となって一般に公開されているとのこと。
ということは・・・34年前はただの廃屋だったのかも・・・(笑)

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看板は4ヶ国語で書かれている・・・・
が・・・・その4ヶ国語の中に日本語は含まれていない!
一番上は中国語で、続いて英語、マレー語、そして一番下は多分インドのヒンズー語かタミール語だと思うが・・・
おい、おい、日本語はどこへ行った?(汗)
ここは、我が日本軍があの紳士面した腹黒いイギリス人を打ち負かした記念すべき場所なのである!(大笑)
日本語が見当たらないということは、日本人観光客は滅多に来ない場所ということなのか?
我が日本にとっては「戦勝記念」の地なんですけど・・・(大笑)
日本の旅行業界は何を考えておるのかね!(怒)
ここをツアーのコースに含めていないのか?(怒)
買物ツアーとグルメツアーばかりやって歴史を勉強しないから日本人はバカばかりになるんだよなぁ~
勝った歴史も負けた歴史も勉強すべきである!(怒)

487_convert_20140919204038.jpg(旧フォード自動車工場)

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(昔のフォード自動車工場の写真)

英文の説明板を意訳してみると・・・・(日本語の説明板も併設していただきたいものである!)
このフォード自動車工場の歴史は1941年(昭和16年)10月から始まる・・・という。
この工場はフォードが東南アジアで最初に作った自動車組み立て工場である。
マレー鉄道にも近く、港からの部品の輸送にも便利な場所で、マレーシアとシンガポールを繋ぐ幹線道にもつながる立地条件のいい場所だったため、ここに作られたらしい。
日本軍のマレー進攻作戦の時には、この工場は英空軍の戦闘機を組立てる工場として使われたらしい。
戦闘機は部品として木箱に入れられシンガポールに船で運ばれ、この工場で組み立てるという形だったらしいが、そのほとんどはマレーシアの防衛には間に合わず、役には立たなかったようである。
1942年(昭和17年)の末、日本軍がシンガポールの目前に迫った時には、彼らはここから飛び立ったか逃げ去ったか(笑)・・・したらしい・・・
フォード自動車工場は、降伏するイギリス極東軍(マレー軍)司令官のパーシバル将軍と日本の第25軍司令官である山下奉文(ともゆき)将軍の正式な降伏会場として使われた。
1942年(昭和17年)2月15日、降伏するまでの緊張した最後の数時間、山下将軍はこの工場で彼らを待ち、パーシバルとその幕僚たちはフォート・カミングの地下要塞で議論をしていたそうである。
そして、パーシバルたちはフォート・カニングからフォード工場までやってきたという。
英国の降伏による大英帝国のアジアにおける凋落と日本軍の占領は、シンガポールの近代史の暗黒の時代である・・・ということを書いてある。
「darkest period」っていうんだから、「もっとも暗い時代」・・・ということでしょう?
う~ん・・・そこまで言わなくてもいいんじゃないの?“最上級”を使っちゃう?(笑)
日本の統治時代は、本当に「暗黒の時代」だったのだろうか?
日本の占領時代は、フォード工場は「butai(部隊)」として、もしくは補給基地として使われていたという・・・
この「ブタイ(部隊?)」の意味がわからないが・・・・
「部隊」という日本語を特別なものとして勘違いして使っているような気もしますが・・・(汗)
日本の著名な「zaibatsu(財閥)」である「Nissan(日産)」が、この工場を引き継ぎ、ここで軍用トラックなどの車輌を組み立てていたという。
う~ん・・・簡単にいうと「部隊」と呼ばれる工場で「日産」が軍用トラックなどを組み立てていた・・・ということになるが、日本人にもこの「部隊」の意味が理解できませぬ・・・・こりゃ、中国人が作った文章か?(大笑)
このフォード工場は戦後の1947年(昭和22年)にフォードの自動車組み立て工場として作業が再開されたそうで、1980年(昭和55年)6月に最終的に工場は閉鎖されたという。
あら・・・
拙者がこの工場の前を通過したのは、1980年の夏である・・・・
ということは、工場が閉鎖されて2ヵ月後くらいに、この前を通過したということか・・・
ということは、見学したくても見学は出来なかったわけか・・・(笑)
そして、解体されず残されたこの工場跡は2006年2月15日に「ナショナル・モニュメント」として公示された・・・とある。
つまり、2006年に史跡として指定されたということのようである。

建物は資料館として活用されていて・・・・

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パーシバル将軍(左)と山下将軍(右)の銅像なども置かれていたが・・・・
山下将軍の顔は、似ても似つかないという顔・・・いったい誰をモデルに作ったんだ?(大汗)

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ここには、山下将軍とパーシバル将軍が会見した部屋がそのまま保存されている。
英軍の降伏の様子が英文で(!)詳しく書かれた説明板なども展示されている。
日本語じゃないから読むのに時間がかかるので、なんとも面倒くさい・・・・
見学時間は限られている・・・・
あ~あ~・・・・これがツアーじゃなくて、個人で来ていれば半日ぐらいかけて(大笑)じっくりと見学ができるんだけどねぇ~(大笑)
そういうことは贅沢か・・・・(大笑)

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ここには日本軍が使用した自転車も展示されていた。
いやはや・・・貴重な当時の自転車である!(驚)
かの有名な「銀輪部隊」の自転車・・・・
当時、日本軍は、数少ないトラックの他に、輸送手段として自転車を使っていたのである。
当時の日本は東南アジアに自転車を輸出していたのである。
で・・・当然、マレーシアにも大量の自転車が輸出されていた。
そこで足りない分は現地調達し、歩兵は自転車に乗ってマレー半島を疾走したのである。
説明文には「confiscate(没収・押収)」の文字が見られるが・・・
この時に、自主的に自転車を日本軍に提供したマレー人も多くいたと聞いている。
かならずしも、現地人から強制的に没収や押収したとは言い切れない。
自転車を提供してくれたのは、イギリス人に反感を持っていたマレー人たちか?(大笑)
進軍途中で自転車が故障しても、日本製なので部品の調達は難しくはなかったようである。
以前から自転車を輸出していたおかげ・・・ということになる。
マレーシアに輸出されていた自転車のおかげで勝てたといっても過言ではあるまい・・・(大笑)

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古写真や、記事や地図、インド国民軍に関する展示など、なかなか充実した内容である。
が・・・時間がないので、とにかくササッと見て回り・・・・
受付脇の「ミュージアムショップ」で何か資料はないものか・・・と探したが・・・
残念ながら日本語で書かれた書籍・資料等はない!
英文のものでもいいかぁ~と思い、買おうとしたら・・・シンガポールドルしか使えないと言う。
そこをなんとか・・・米ドルで・・・とお願いしたが・・・・ダメ!(大泣)
結局、何も買えなかった・・・・
米ドルが使えれば買おうという仲間もいたので、米ドルが使えないというのは失策であろう。
こういう観光地では米ドルも使えたほうがいいんじゃないのかなぁ~
折角、売上げが上がるチャンスだったのにねぇ~(大笑)

我々は半日しかシンガポールに滞在しないので、両替をしなかった・・・・
これが失敗であるが・・・・
半日しかいないのに1万円を両替するというわけにもいかぬから、やむをえなかったか?

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降伏する英軍使節を案内をする日本軍・・・・
この写真が撮られたほぼ同じ場所が右の写真・・・・

約30分程度の見学を終え、集合記念写真を撮り、次に昼食に向かう・・・・
時刻は12時45分・・・・

旅行 | 15:05:24 | Comments(0)
シンガポールに行く
午前10時、マレーシアの出国手続き・・・・

ここで思い出すのは34年前の出来事・・・・(笑)
この時、拙者は鉄道でクアラルンプールからシンガポールに向っていた・・・
ジョホールバルの駅で税関職員が列車に乗り込んできて全員のパスポートを受け取る。
で・・・まもなく、拙者が呼び出された・・・(汗)
「荷物を持ってホームに下りてください」と言う。(唖然)
「すでに出国していなければならないのに、何でまだマレーシアにいるのか?」と言うのである。(大汗)
つまり・・・拙者は“不法滞在”しているというのである!!(驚)
パスポートに書き込まれた滞在日数を越えて滞在していることになっているそうだ。(唖然)
どうも、ペナン島の空港で入国審査を受けたときに係官が記入した日付に問題があるらしい。
あの職員め!間違った日付を記入しやがって!
と・・・思ったが・・・
まぁ、彼の質問が聞き取れず、何でもかんでも「イエス!イエス!」と答えてしまった拙者にも問題があろうが・・・(大笑)
そこへ、胸に勲章(?)を一杯付けた偉そうな係官(?)がやってきて、勿体つけて拙者のパスポートを眺める。

と・・・・なんと!・・・・発車のベルがホームに鳴り響いたのである!!(うそぉ~!)
ヤバイ、ヤバイ・・・(大汗)
「ツアー旅行なのに俺だけが滞在予定の日数が違うと言うのはおかしいでしょ?これは入国の時のミステイクです」と必死に説明・・・
この偉そうなオジサンが、無表情のまま、ササッと何かをパスポートに書き込み・・・・「行って宜しい」と言う。
が・・・・列車は走り出してしまったのである!!(唖然)
今はどうかは知らないが、当時の客車のドアは手動式だったので、友人たちがドアを開けて待っていてくれた。
1ヵ月間の海外研修旅行であるから、拙者のスーツケースは特大のサイズ・・・・
これを持ってホームを走り・・・・スーツケースを客車に投げ込む!
続いて、ショルダーバッグを投げ込み、拙者は客車と平行にホームを走る!!
ヤバイ、ヤバイ・・・ホームがなくなる!・・・ホームの残りは、あとわずか!
で・・・タイミングを見計らって、列車に飛び乗る!!
まるでアクション映画のようである。(大笑)
今考えても、よくあんなことが出来たものだと不思議で仕方がない。(苦笑)
無事に“生還”し、車内は大拍手と大爆笑!!
さすがはアメフトの選手だと変な褒められ方をされた・・・(大笑)
今でも忘れられない思い出である。(大汗)

今回は陸路での出国だが・・・・
これが鉄道だったらなぁ~
あの時走ったホームの写真・・・・撮りたかったなぁ~(大笑)

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午前10時15分・・・
ジョホール水道の陸橋を渡って対岸に向う。

シンガポール側で、今度は入国審査・・・・
全ての荷物を持って行く。

シンガポールでは、酒とタバコに高額な税金がかけられるという。
そのため、これらの持込には注意を要す。
日本人の審査は、他の人種と比較すると、それほど厳しくはないようであるが・・・・
もし、隠し持って納税を免れようとしたのが見つかったら、かなりトンデモナイ目に遭うらしい。(大笑)
拙者の場合は、言うまでもなくタバコが引っかかる・・・・(苦笑)
というわけで・・・・マレーシアではタバコを“計画的”に吸い・・・(大笑)
残り1箱・・・というところで、シンガポールに入国!(大笑)
この1箱も封を切り、1本吸っておく・・・・(笑)
で・・・・ガイドさんの案内で納税申請カウンターへ・・・・
「申請するのはタバコ1箱です!封を切って1本吸ってまぁ~す!」(笑)
で・・・・それなら、納税の必要なし(?)(まぁ~いいかぁ~という態度・・・)ということで、税金を払わず無事に通過・・・(大笑)

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シンガポールからジョホールバルを見る・・・・

これから「KRANJI BEACH」(クランジ・ビーチ)に向う・・・・
そこは近衛師団が上陸した場所・・・・
時刻は午前11時10分・・・・

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「ビーチ」と言っても、砂浜があるわけではない・・・(笑)
そこは、“水辺の公園”という感じ・・・・
史跡の説明碑が建っていた。
ありがたいことに、日本語でも説明されている。

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クランジ海岸の戦い

1942年2月10日朝、侵攻する日本軍干潮に乗じてこの海岸線に上陸した。
混(筆者注:泥?)に足をとられた将兵らは英軍が流した油の中で立ち往生した。
第1陣は英軍が油に放った火にたっと(筆者注:よって)撃退された。
しかし、サンブンとジュロンに上陸しつつある日本軍に退路を断たれる恐れから、英軍連合部隊に南方退却が命じられた。
こうして日本軍は上陸を果たし、シンガポール侵攻の足場を固めた。

(説明文より)



多少の誤字が見受けられるが・・・・意味はわかる。(笑)

シンガポールはスマトラ産の石油の貯油地で、大量の石油を貯蔵していた。
英軍がこの多量の石油をジョホール水道に流して点火したら、日本軍の渡過は困難となることは日本軍も想定していた。
そのため、日本軍はクアラルンプール占領直後に、同地の湖沼で研究演習を行い、その様相と対策を研究している。

日本軍は、軍砲兵隊、師団砲兵隊など、砲兵の支援砲撃の下、第18師団、第5師団が2月8日の夜に渡過を開始。
近衛師団は、これらの部隊が使用した舟艇を回してもらい、翌9日の夜に渡過を開始する。
が・・・予定通りに事が進まない。
予定の舟艇が必要数集まらないとかで混乱・・・・
ようやく渡過をしたが、恐れていた通り、水道に油が流され火をつけられた・・・・
この時、前線から1個連隊が火炎のため全滅したとの報告が入る。
これに驚き、さらに師団は混乱をきたす。
実際は、数名の犠牲者が出ただけで、部隊は無事に渡過している。

この地の説明文では「撃退した」と書かれているが・・・・
どうしてそう書かれているのかが、よくわからない。
「撃退」はされず、無事に岸に辿り着いているはずなのだが・・・・(汗)
とは、いうものの、接岸時に舟艇から水に飛び込み、重油で顔も服も真黒になっての上陸だが・・・

「エリート」集団の近衛師団は、当初、師団の兵力不足と疲弊を訴え、第ニ線部隊(後方)配置を希望していたが、いざ、戦闘開始という時に、今度は一転して第一線部隊(最前線)配置を望む。
手柄が欲しくて気が変ったか?・・・・と嘲笑されても仕方がないか?
が・・・舟艇での輸送を担当する工兵部隊との打ち合わせが全く出来ていなかったため、渡過の時には大混乱・・・
そこに火炎から脱出してきた一人の下士官による「連隊が全滅した」という誤報で、師団司令部がビビッてしまい、軍司令部に泣きつくという失態を演じている。
格好がつかない・・・・“エリート師団”としては面子丸つぶれである。
その一因は、師団長と参謀長の人間関係が悪く、意思の疎通ができていなかったことにあると言われている。
この作戦後、西村師団長は予備役になり、今井師団参謀長は中国戦線の連隊長に左遷されたという。

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(上陸地の海岸)

ここから対岸のジョホールバルを見ると・・・・
あらら・・・・王宮の建物が良く見える!(笑)

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こちら側には、英軍の野戦砲兵部隊も配置されていたはずで・・・・
かなり激しい砲撃をジョホールバルに撃ち込んでいたはずだが、まさか、こちらから丸見えの、あの王宮の建物に日本軍の軍司令部が置かれていたとは知らなかったらしい。
狙い撃ちにしていたら、山下軍司令官は戦死していたかも・・・・(汗)
運が良かったと言うか何と言うか・・・・(笑)

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ちなみに・・・・
ジョホールバルでこちら側を見た、あの歩道橋も見える・・・(大笑)
あらら・・・・すごい・・・・丸見えである。(笑)
当時も、英軍は、こっちから日本軍の動きを見ていただろうなぁ~

時刻は午前11時半を過ぎた・・・・

旅行 | 13:33:40 | Comments(0)
ジョホールバル日本人墓地に行く
午前8時、ホテルをチェックアウト・・・・

まず最初に向かったのは、『ジョホールバル日本人墓地』・・・・

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ここは、戦後、荒れ果ててジャングル化していたそうであるが、その後、現地の日本人会の手によって整備され、現在も管理されているそうである。

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ここに、一つの石碑が横たわっている・・・・
山下奉文の筆になる『ジョホール水道敵前渡過戦跡記念碑』である。
ジョホールバルの海岸のどこかに建てられていたものが、戦後、ここに運び込まれて“遺棄”されたのではなかろうか?
碑の割れ目から木が生えている・・・・あらら・・・である。(唖然)

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左端の碑は、個人の顕彰碑のようである。
旧小田原藩士、慶應義塾出身で、「南洋護謨株式会社」という会社を起こし、この地で活躍した岡本貞烋という人を偲ぶ顕彰碑のようである。
「護謨」というのは「ゴム」のことを指す漢字なので、今風の言い方ならば「南洋ゴム株式会社」となるか?(笑)
密林を開拓し、ゴム園の開発に当っていたらしい。
碑は大正4年6月に貴族院議員で慶應義塾の塾長でもある鎌田栄吉の撰文で建立されたようである。
岡本氏は昨年9月に62歳で“長逝”したと書かれているから、岡本氏は大正3年9月に亡くなったのだろう。
ちなみに、鎌田栄吉氏は明治31年から大正11年までの約25年間、慶應義塾の塾長を務めた方で、塾長退任後の大正11年6月に文部大臣に就任している。
その後、昭和9年に78歳でお亡くなりになっている。
中央の碑は、「招魂碑」・・・・特に碑文の記載はない。
右端の碑(ちょっと見づらい)は、元帥陸軍大将・川村景明の書になる「招魂碑」である。
川村景明という人は日露戦争で活躍した日本陸軍の軍人である。
日露戦争と言えば・・・・第3軍の乃木希典司令官が有名であるが、これとは別に「鴨緑江軍」というのが編成されて、川村景明が司令官となった。
鴨緑江軍は、他の参加部隊と比べると、イマイチの部隊だったらしいが、川村司令官は草鞋姿で前線に赴き、兵士達に気さくに声をかけ、鼓舞したという逸話で有名・・・・
そのおかげかもしれないが・・・奉天会戦では、この部隊は大活躍をしたといわれている。
川村元帥は大正15年に76歳でお亡くなりになっている。

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左端の碑は『無名日本人之墓』・・・・
中央の碑には『土神』と刻まれている・・・・これは墓ではなさそうである。
土の神を祀った碑ということかな?(笑)
右端のものは、碑文が削られたのか、磨耗したのか、よく読めない・・・

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それが、この碑であるが・・・・
上のほうに二行にわたって何か彫られているが、全く読めない・・・
これは拓本でも取らねば、判読不可能か?
下には「自爆の地」と彫られている。
“自爆”とは、穏やかな話ではない・・・・(汗)
上に書かれている二行は、人名か?
碑の裏を見てみると「昭和十七年一月十七日」とわずかに読める。
その脇に二行にわたって何か刻まれているが、これも全く判読できない。
さて・・・昭和17年1月17日に誰が何で自爆したというのだろうか?
日本軍がジョホールバルに進出したのは、1月の末頃であるから、「自爆」はそれ以前の出来事ということになる。
気になる石碑である・・・・

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『倶会一處』と刻まれた碑があった・・・・
裏の碑文は・・・・


祖国に帰る夢叶わずに、此処に眠る先達の刻苦を偲び、マレイシアの発展及び、日 マ 親善・友好の為に尽力されたそのご遺志を受け継ぐことを誓い、鎮魂の碑を建立いたします。どうぞ安らかにお眠り下さい。
1994年5月
在マレイシア日本国大使館
ジョホール日本人会



「倶会一處(処)」(くえいっしょ)というのは、浄土真宗の教えの一つの言葉ではないかと思うのだが・・・
その碑に日本大使館の名が刻まれているというのは、ちょっと違和感を感じるんですけど・・・
「政教分離」に反しているんじゃなかろうか?(汗)
ケチを付けるようで申し訳ないですけど・・・いいのかなぁ~・・・これ・・・・

ここで30分ほど過ごし、次に海岸へ向う・・・・

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海岸沿いの道路に架かる歩道橋に上り、ここから対岸のシンガポールを見ながら“イズミ教官”の説明を聞く・・・
といっても・・・この位置から拙者は写真を撮っているので、当然、拙者は“イズミ教官”の戦史の説明は聞いていない。(大涙)
毎度のことですが・・・・(大笑)
全員が一点に集中してしまうと、周囲に気を配る人が皆無となってしまうのである。(笑)
というわけで・・・・拙者は勝手に一人、周囲を“警戒”する任に就くのである。(笑)
だから・・・説明を聞き逃してしまうのである。(大涙)

シンガポールは、ジョホール水道によってマレー半島から分断された東西約42キロ、南北約20キロの島である。
英軍は、ここに10年の歳月と多額の費用をかけて要塞を建設した。(昭和13年2月に完成)
なぜならば、ヨーロッパからアジアへ向う航路は、このシンガポールを軸としていたからである。
シンガポールは東洋を支配する英国の大動脈なのである。
当然、この島の守りは堅い・・・・
が・・・要塞の砲は、海からの攻撃を想定して、その多くは外洋に向けて設置されている。
そこで、日本軍は、その裏をかき、マレーシア半島を縦断して、いわば裏口から攻撃をかける作戦としたわけである。

マレー半島とシンガポールは、1本の陸橋で繋がっているだけである。
英軍はマレー半島から撤退を完了した1月31日に、この陸橋を爆破して日本軍の利用を妨げた。
おかげで、シンガポール攻略には、この陸橋を使うことが出来なくなった。
ジョホール水道は、幅600~1000メートルの水道であるが、ここを舟艇で渡って上陸するという作戦を取ることになる。

この攻撃に参加するのは、近衛師団、第5師団、遅れて到着した第18師団の3個師団である。
シンガポールの東側(こちらから見ると左手)に、セレター軍港があり、英軍は日本軍はそちらに直接攻撃をかけてくるのではないかと思っていたようである。
日本軍としては、そう思わせておく“欺瞞工作”“陽動作戦”を行なった。
荷物を乗せていない空のトラックなどをヘッドライトを煌々と点けてジョホールバルの東に向けて走らせるのである。
で・・・・帰りは、ヘッドライトを消して、引き返し、再びUターンして東に走る・・・(笑)
向うから見ると、大部隊が続々と東に向かっているように見えるわけで・・・・
ジョホールバルの東側海岸から上陸してくるだろうと思わせるのである。
実際、小部隊が渡過して、敵の目をこちらに向けるよう陽動している。

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歩道橋から左側(東方向)を見る。
向うの方角で陽動作戦が行なわれた。

で・・・・実際は、ジョホール水道の破壊された陸橋の、こちら側・・・・
つまり、西側の海岸からシンガポールに向け渡過するのである。

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近衛師団が渡過をしたのは、この歩道橋のある辺りからか?
海岸線も道路が走り、かなり当時とは変わってしまっているだろう。
渡過の戦跡は何も残っていない。

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歩道橋から右のほう(西の方角)を見る・・・・
近衛師団の向うに、第15師団が・・・・そしてそのず~っと向うに第18師団が渡過のため待機していた。

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真正面・・・・船の向うに見えるのがシンガポールである。
当時、あの辺りは密林と湿地帯だった。
こうして見てみると、対岸への距離は、それほど遠いとは感じられない。
結構、近くに見える・・・・(笑)
こちらから向うへ渡って上陸するのは簡単そうに見えるが、向こう側は湿地帯・・・・
当時は、上陸してから後の移動に困難をきたすと思われていた。
というわけで、英軍も、まさか、こちらの岸に上陸するとは思っていなかっただろう。
いくらかの小部隊が来るとしても、主力の大部隊が上陸をするとは思っていなかっただろう。
英軍も全く何もしていなかったわけではなく、とりあえず野戦部隊を、あの辺りには配置していたようである。

この水道を、日本軍は折畳みの舟艇に乗り込んで、向うに向かって突進したのか・・・・
映画のワンシーンのように、その姿が頭に浮かぶ・・・・

時刻は午前9時45分・・・・
これからシンガポールに向かう。

旅行 | 09:11:40 | Comments(0)