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■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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ジョホールバル旧王宮に行く
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午後5時半、ジョホールバルに入る。
対岸に見えるのはシンガポールである。

1月26日、松井第5師団長は、隷下の部隊にジョホールバルに向う追撃命令を下達・・・・
部隊は本道方面からと鉄道線路に沿う地区からの二方向から突進・・・・
途中、英軍の抵抗を受けることなく、1月31日の夕方にジョホールバルに突入した。
一方、近衛師団はバクリ、パリットスロン付近の戦闘で数日を費やしてしまい、進出が遅れる。
その間に第5師団のほうが先頭に立ったため、両師団が混交するのを避けるため、近衛師団は海岸道方面からジョホールバルに向かう。
途中、英軍を撃破しながら、1月31日の夕方から夜にかけて、近衛師団はジョホールバル西北地区に進出した。

第25軍司令部は、ジョホールバルに進出した時に、旧王宮の建物に司令部を置いたらしい。
ということで・・・・ここを見学・・・・
ここは現在、ジョホール州政庁となっているので、通常の観光では入場できないらしい。

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建物の中には入れないが、敷地内の立ち入りの許可はもらっていたようで、外観のみ特別に見学ができた。

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394_convert_20140903215654.jpg(旧王宮の正面から見た町の様子)

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第25軍の山下奉文司令官は、この建物の望楼に立って、対岸のシンガポールを視察しながら作戦の指揮をとったのだとか・・・・
う~ん・・・・あのてっぺんに上ってみたいなぁ~(笑)
あそこからは、シンガポールはどんな風に見えるんだろうか?

皆さんから離れて一人でブラブラする。
ちょうど警備員と話をする機会があり、ちょっとオシャベリをしたら、彼が建物の壁を指差して「日本軍の銃弾の跡だ」と言う。
はぁ?ここは日本軍の司令部のはずなのだが・・・・
日本軍がこの建物を攻撃したのか?
この建物を接収する時に戦闘でもあったのだろうか?
彼に尋ねたが「よくは知らないが、日本軍の銃弾の跡だといわれている」と言う。
拙者のヒヤリングが間違っていなければ、彼はそう言った・・・(笑)

403_convert_20140903223923.jpg(弾痕の修復跡が残る壁)

時刻は午後6時・・・・
見学を終え、参加者の希望で急遽、ショッピングセンターに行く事となる。(笑)
元新聞記者の“マツナガさん”は、辞書が買いたいので本屋に行きたいという。
拙者も興味があったので、一緒に行動・・・・
与えられた時間は20分程度・・・・
他の参加者と別れて急いで本屋を探す。
が・・・・わからない・・・ショッピングセンターが広すぎる!
しかも表記は英語だかマレーシア語だか・・・・お店の配置図はどこにあるんだ?
他のお店の店員に尋ねながら走り回る。(笑)

ようやく本屋を見つけ、辞書を探すが、どこにあるのかわからない。(笑)
店員に尋ねたが・・・拙者の英語が下手なのか・・・(大笑)
話がなかなか通じない・・・・
“マツナガさん”は、英語とマレーシア語の辞書が欲しいのだそうだ。
日本で言えば、「英和」と「和英」が一緒になっている辞書・・・・
こっちで言うと何ていえばいいの?(汗)
マレーシアは漢字の当て字では「馬来西亜」と書くから・・・・
「英馬」と「馬英」が1冊になっている辞書・・・ということになるか?(大笑)

店員のお兄ちゃんは、最初のうち、トンチンカンな本を案内してくれる。(大笑)
そうじゃないんだよなぁ~そういう本じゃなくてぇ~・・・・(涙)
あ~でもねぇ、こ~でもねぇと説明して、ようやく、「あ~辞書ですか?」って何よ!
さっきから「辞書」って言ってるじゃねぇか!(苦笑)

ようやく手頃な辞書を入手・・・
値段は、日本円で数百円らしい・・・・(唖然)
「この手の辞書は、日本じゃ軽く2千円はするんじゃないんでしょうか?」
「日本の本の値段は高いんだよねぇ~特に辞書は高すぎるよ。海外ではこの程度の値段が普通だよ」と“マツナガさん”はおっしゃる。
“マツナガさん”は、これでマレーシア語が理解できるとご満悦・・・
マレーシア語を英語に訳せれば、なんとか理解できるとおゃるのである。
あれ?“マツナガさん”・・・英語が出来るの?(汗)
さっきから拙者が四苦八苦して通訳してるんですけど・・・・(大汗)
拙者の通訳は必要なかった?(大笑)
年齢は拙者の親父とほぼ同じ年令である。
で・・・この向学心・・・・いやはや敬服する。

拙者も何か一冊買おうかなと思い広い店内を見て回るが・・・・歴史に関する本が見当たらない。
「フィクション」「ノンフィクション」「小説」「ファンタジー」等々の棚はあるのだが・・・・「ヒストリー」がない!(汗)
またまた店員のお兄ちゃんに尋ねたが、要領を得ない・・・(大汗)
「ヒストリーなんだけど・・・・」
「ヒストリー?」
「たとえば、マレーシアの歴史とか・・・第二次世界大戦の話とか・・・そういう本なんだけど・・・」
「ヒストリー?・・・・う~ん・・・・ありません!」
「はぁ?ない?マレーシアの歴史について書かれた本とか・・・ないの?」(唖然)
「マレーシアの歴史?・・・・ありません!」(真顔)
君達は歴史を勉強しないのかね?(唖然)
本当にどこにも歴史の本が置いてないのである!!(汗)
いやぁ~日本では考えられまい?
どこの本屋にも何かしらの歴史関係の本は置いてあるんだけど・・・・
そういう意味では日本の本屋はたいしたもんだよなぁ~
その割には日本人はマンガばかり読んでいるようだけど・・・・(汗)

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(ジョホールバルの町の中)

午後7時45分・・・・ホテルに到着・・・・
チェックインして、部屋に荷物を置いてすぐにホテル内のレストランで夕食をとる。

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エレベーターホールから見た景色・・・・
向うに見えるのが、シンガポールである!
う~ん・・・どうやって攻略しようか・・・・と山下司令官になったつもりで見ても・・・
ただの平たい陸地しか見えぬ・・・(笑)
どこをどう攻めりゃいいのか、さっぱりわからん・・・(大笑)

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バスタブ付きのお風呂である!!(喜)
どうも、シャワーだけの風呂というのは落ち着かぬ。
拙者は日本人ゆえ・・・・湯船に浸からねば、リラックスできぬ・・・(笑)

417_convert_20140904090836.jpg(部屋から見た景色)

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旅行 | 20:54:14 | Comments(0)
バクリ、パリットスロンの戦跡
午後12時半、食事を終えて、「ジョホールバル」に向けて出発する。

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「マラッカ」は海岸に沿って南下していた近衛師団によって占領されたが、さほどの戦闘はなかったのか、これといった戦跡は見当たらなかった。
もしかしたら、マラッカ占領時の日本軍に関する資料の展示などが博物館にはあったのではなかろうか・・・という気もするが・・・・
博物館を見学できなかったのは、やっぱり残念・・・・(涙)

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「マラッカ」を出発して約1時間後、「バクリ」地区に到着。
さっそく“イズミ教官”から戦史の説明を受ける。

昭和17年1月、近衛師団は、マラッカを経由してシンガポールに向って進撃することとなり、第5師団を超越して敵を追撃・・・・
この「バクリ」には、近衛歩兵第5連隊基幹の“岩畔追撃隊”と近衛歩兵第4連隊基幹の“国司追撃隊”が併進して進撃した。

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日本軍は写真の向うからこちらに向って進撃・・・・

1月18日早朝、近衛歩兵第4連隊第2大隊(伊藤大隊)は「バクリ」西方から南側高地にわたって陣地を展開していた約1,000名の敵と衝突、これらに対して攻撃をかけたが戦況は進展しなかった。
夕方に近衛歩兵第5連隊第2大隊(児島大隊)が到着し、伊藤大隊の左に展開して(写真では道路の右側)戦闘に参加した。
さらに、“岩畔追撃隊”の岩畔連隊長は、第3大隊(大柿大隊)を敵の退路遮断のため「バクリ」の東方に迂回進出させた。
1月20日午前10時頃、大柿大隊は「バクリ」から「パリットスロン」へ向かう道路の両側の高地を占領・・・
完全に敵の退路を遮断した。
児島大隊、伊藤大隊などの正面攻撃部隊による夜通しの攻撃で、英軍は、19日から逐次陣地を放棄して後退・・・
「バクリ三叉路」付近に圧迫されたとのこと。
ちょうど我々がいるあたりが、その三叉路だろうか?
ここでの戦闘も熾烈を極めたようである。
わが軍では戦車第14連隊第2中隊(五反田中隊)の九五式軽戦車9両が、この戦闘に参加していたが、19日の夜半に独力で一気に突進しようとしたところ、障害物に阻まれた挙句、敵の対戦車砲の餌食となり、9両のうち8両が撃破されたという。
ここでの戦闘では、この地に展開していた印度歩兵第45旅団の旅団長、ダンカン准将が戦死している。
英軍は1月20日夜、北方の湿地密林地帯と東方の「パリットスロン」に向けて、二手に分かれて退却した。

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写真手前から向うへ向って進撃・・・・この先が「パリットスロン」である。

「バクリ」から10分弱程度走った場所だったと思うが・・・・「大柿大隊」の戦跡に到着。
大柿大隊(近衛歩兵第5連隊第3大隊)が迂回して敵の退路を断った場所である。

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退路を遮断された英軍は必死になって退路の奪還を図る。
7回にわたり逆襲をかける英軍に対し、大柿大隊は逐次戦線を縮小しながら半円形に陣地を占領する。
大柿大隊は圧倒的な敵の集中砲火に加え空からの攻撃も受け死傷者が続出したが一歩も退かず、2日間にわたって退路を完全に遮断した。
しかし、陣頭指揮をしていた大柿大隊長は、1月20日、道路北側の陣地で壮烈な戦死を遂げる・・・・
この戦闘での大柿大隊の損害は、戦死226名、負傷106名の合計332名で、大隊戦力の6割を失った。
6割も失いながら一歩も退かず・・・とは・・・・(大汗)
この大柿大隊の頑張りがなかったら、マレー作戦も、ここにきてかなり苦戦したことだろう。
よくぞ耐えてくれたものだ・・・・
道路から少し入った場所で、ささやかな慰霊祭を執り行い、全員で『海ゆかば』を斉唱・・・黙祷を捧げる。

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大柿大隊は、この戦闘で、軍司令官から「感状」を授与されている・・・・
で・・・・思い出した・・・・(笑)
この間、オーストラリアへ行った時に、博物館に、この「感状」の看板(?)を見た記憶がある。
確か、キャンベラの「オーストラリア戦争記念館」だったと思うが・・・
江戸時代の高札のような形の木製の看板で、墨で書かれてあった。
「大柿部隊」とだけしか書かれていなかったので、どこの部隊のものだろう・・・程度にチラリと見ただけ・・・・
見学時間がなく、走り回って見ていたので、内容を読んでいない・・・当然、写真も撮っていない。(涙)
ここに来て、遂にわかった!(大笑)
「大柿部隊」は、近衛歩兵第5連隊第3大隊のことだったのか・・・・
で・・・・あの「高札」(?)は、このあたりに掲示されていたものだったのかもしれないなぁ・・・
それを戦後、オーストラリア軍が手に入れて博物館のショーケースの中に展示したのかも・・・・
説明文を読む余裕がなかったのが残念・・・・
やっぱり、もう一度、オーストラリアに行くべきか?(大笑)
博物館は、やっぱり、じっくりと時間をかけて見学すべきだよなぁ~(汗)
あの展示品に関連した場所に、今、自分が立っているとは・・・・感無量である・・・・

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この道を向うに向かって真っ直ぐ進むと・・・・「パリットスロン」である。
時刻は午後2時半・・・・

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20分ぐらい走ると「パリットスロン」に到着・・・・
橋を渡ったところにバスを停車させ、外に出る。
近くにある建物の看板を見てみたら、ここは間違いなく「パリットスロン」のようである。(笑)

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この建物の看板・・・・
「DEWAN ORANG RAMAI PARIT SULONG」と書いてある。
辞書で調べてみると・・・
DEWAN=家・建物
ORANG=人々
RAMAI=公共
PARIT SULONG=パリットスロン
ということであるから・・・この建物は「パリットスロン公民館」?(笑)

1月17日、海岸道を急進していた近衛歩兵第4連隊第3大隊(吉田大隊)は、バクリ付近で戦闘が盛んに行なわれているのを知り、急遽、独断でパリットスロンの東側に転進・・・・
1月20日、午後4時に、ここを流れる「シンパンキリ河」の橋梁を占領・確保した。

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この河が「シンパンキリ河」のようである。
橋のたもとの標識に『SIMPANG KIRI』と書いてあったから間違いないだろう・・・・
で・・・その橋梁とは、この橋のこと・・・・

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当時の橋が、こんなに立派なはずはなかろうから、この橋は当然、戦後に架け替えられたものだと思うが・・・(笑)
架かっていた場所は、同じこの場所ではなかろうか?

「バクリ」からいち早く退却をした英軍の機械化部隊は、1月21日に、このパリットスロン橋梁まで退いてきたが、間一髪、前日にこの橋を占領していた吉田大隊と遭遇・・・・
まさか日本軍が先回りしていたとは・・・(笑)
英軍は混乱に陥りながらも、死に物狂いでこの橋の突破を図ったが、ことごとく吉田大隊に撃退された。

後ろからは、「バクリ」から近衛歩兵第5連隊第2大隊(児島大隊)が迫り、「パリットスロン」西方約3キロ付近で英軍を捕捉・・・・
英軍は前には退路を断つ吉田大隊、後ろからは追撃してきた児島大隊という挟み撃ちに遭い、パリットスロンの西方地区に陣地を構えて必死の抵抗を開始した。
『窮鼠猫を噛む』・・・・という感じか?(笑)

371_convert_20140902204552.jpg(橋から西方を見る)

この橋の向うの方(西方)で、激戦があったのだろう・・・・
この戦闘には日本の第3飛行団も空から協力・・・
地上戦のほか、空爆も加わり、翌22日に、遂に英軍(印度歩兵第45旅団)は壊滅した。

この戦闘による戦果は・・・
捕虜が398名、野砲8門、速射砲(対戦車砲)9門、機関銃10挺、軽機関銃62丁、自動貨車(トラック)178台・・・・等々
対してわが損害は・・・・
戦闘参加人員、5千694名に対して、戦死348名、戦傷253名の合計601名だったそうである。

376_convert_20140902205416.jpg(東方を見る)

「パリットスロン」から東進すること約10分で「ペランドック峠」に差し掛かる・・・・

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写真の左奥に見える山が「ぺラー山」である。

近衛歩兵第5連隊は、「バクリ」の戦闘に先だち、第1大隊(山本大隊)を、この峠を占領するため、迂回前進させていた。
1月20日未明に、この峠西方の山腹に陣地を構えていた約800名の英軍を攻撃・・・・
敵陣を奪取して、この一帯を制圧・占領・・・・敵の退路をさらに遮断した。
「バクリ」の戦闘では本道を真正面から攻撃しながら、一部の部隊が迂回して、後方に回りこみ、次々と敵陣を奪取して、結局、三重に退路を遮断したことになる。
お見事といえばお見事・・・・である。(笑)

この一帯・・・・近衛師団が戦った「戦跡」を見学し終え、一路「ジョホールバル」に向かう。

マレーシアを移動中、「ゴム園」の見学を計画していたが・・・・
これが、なかなか見つからないのである。(笑)
昔は、どこにでも「ゴム園」が見られたが、今では皆無に近い・・・・
34年前、初めてマレーシアに来たときは、結構「ゴム園」があったんだけどなぁ~
ゴムの木から、その樹液を採って、それが「ゴム」となるわけだが、このゴムの樹液の採取が、なかなかたいへんなのだそうだ。
1日おきに、日が昇る前の早朝に採取しなくてはならないそうで・・・雨が降ったらダメ・・・・すべてがパーになる。(汗)
採取したゴムの樹液は保存が効かないので、すぐに加工に回さねばならない。
こちらの都合は聞いてくれないから(大笑)、この作業はなかなか大変である。
近年は、合成ゴムが幅を利かし、天然ゴムの需要は減少、手間をかけて採取する割には採算が取れなくなった。
結局、「ゴム園」は次々と「油椰子(オイルパーム)園」に姿を変えてしまったのである。
油椰子のほうが、簡単で、採算が取れるからだろう・・・やむを得ないとは思うが・・・・
マレーシアと言えばゴムのプランテーションというイメージは、もう無くなってしまった。
まぁ、少々寂しい気もするが・・・・
日本だって、田んぼが広がる田園風景が、休耕田と駐車場とアパートが目立つ風景に変っているんだから、他国のことを何だかんだとは言えないか・・・(大笑)

ようやく道路わきにゴムの木の林を見つけたので、バスを止め見学する。

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384_convert_20140903095750.jpg(ゴムの木)

「ゴム園」というよりは・・・・
絶滅を逃れたゴムの木が、ひっそりとジャングルの中に隠れて生き残っているという感じである。(大笑)
34年前に見学に行った「ゴム園」のことは、かすかに記憶に残っている。
下草は綺麗に刈られていて・・・・
ゴムの木には螺旋状に傷が付けられていて、人間の腰の高さに空き缶が括りつけられていた。
その空き缶に、樹液がポタリポタリと落ちて溜まる・・・・
作業者は、螺旋状の傷に溜まっている樹液をへらのようなもので削り取るようなことをしていたと思う。
かなり大規模なプランテーションだったが・・・・
ようやく見つけた“ゴム園”(ただのゴムの木の林?)は、昔日の面影をわずかに残している程度・・・という感じである。(汗)

ここ・・・・結構、蚊が多くて、皆さん、蚊に刺されたようで・・・・(大笑)
ちょっと大変な見学だった・・・・(大笑)
時刻は午後4時半を過ぎた・・・・

旅行 | 11:44:33 | Comments(0)
マラッカへ行く
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午前8時、宿泊先の「ルネッサンス・クアラルンプール・ホテル」を出発!
これから「マラッカ」に向う・・・・
あの「マラッカ海峡」の「マラッカ」である。

途中、古い飛行場が道路わきに見えた。
戦時中、日本軍が使用した飛行場とのことである。

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マラッカはマラッカ海峡に面する港湾都市で、東西貿易の要衝地・・・・
そういうこともあって、まぁ、多くの国に占領されている。
そもそもは「マラッカ王国」というのがあったらしいが・・・
その後、ポルトガルに占領され、その次はオランダ領となり、続いてイギリスの植民地となり、最後は、日本軍に占領統治されたのである。
要衝の地であることは間違いないのだろうが、戦前の時点で、すでにシンガポールの港湾が要衝の地として台頭し、ここマラッカは港湾都市としては衰退していたようである。
だいたい、日本軍はシンガポールを攻略するために、このマレー半島を南下したのだから・・・
マラッカが、昔のような重要都市であったなら、日本軍はここに一大海軍基地を設けたはずである。

我々は「マラッカ」と呼んでいるが、これはどうも英語読みのようである。
正式には「ムラカ」と呼ぶのが正しいようであるが・・・・ムラカ州の州都だし・・・・
でも、いまさら「ムラカ」って言ってもねぇ~(笑)

マラッカに到着して最初に向かったのは、「スタダイス広場」・・・
時刻は午前10時半・・・・

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ここはマラッカでも著名な観光名所らしい・・・・
「スタダイス」はオランダ語で「議事堂」とか「市役所」を意味するらしい・・・・
赤い建物がその建物で、現在は博物館になっているようだが、我々は見学はしないそうで・・・(涙)
博物館好きとしては何とも残念・・・・

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ここマラッカは、ペナン島のジョージタウンと共に、マレーシアの「世界文化遺産」に指定されているそうだ・・・・
あらら・・・へぇ~・・・・である。(笑)
歴史的町並み・・・ということらしい。
へぇ・・・知らぬうちに2箇所も世界遺産を見ちゃった・・・・(大笑)
マラッカには博物館が結構あるらしいが、それを見る時間が全くない・・・・(大泣)
また来るようなのか?・・・・一人で・・・・(大笑)

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ここには何台もの「輪タク」が客待ちをしていた・・・・
マレーシアでは、この「輪タク」を「トライシャ」と呼ぶそうだ。
フィリピンでは「トライシクル」と呼んでいる。(笑)
その中で、一番、派手だったのがこれ・・・
新婚旅行客用かアベック用か・・・・(大笑)
この「トライシャ」には34年前に一度だけペナン島で乗ったことがあるが・・・
キティちゃんの絵が描いてあるとなると・・・
う~ん・・・・拙者は恥かしくて乗れそうもないな・・・・これ・・・(大汗)

屋外展示されていた博物館の展示物を見っけ!!(喜)

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ひとつは「ブルドーザー」!!(笑)
英文の説明板を読んでみると・・・・
このブルドーザーは第2次世界大戦前にゴムのプランテーションで使われていたもので、ジャングルを切り開き、木を切り倒したりする作業者が歩く小路を造ったりするのに使われていたようである。
米国製の「オリバー」という名のブルドーザーで、製造されたのは1936年ではなかろうか・・・という。
1936年というと、日本は昭和11年・・・・「2・26事件」が起こった年であり、拙者の母が生まれた年である。(笑)
このころに日本にはブルドーザーなどという機械はない・・・・
ところがマレーシアの農園では使われていたのだから、日本はかなりの「後進国」だったのでは?(大笑)

戦前に米国のメーカーがブルドーザーを売り込みに来たという話を何かの本で読んだ覚えがある。
しかし、日本はブルドーザーを購入することはなかった。
なぜならば、不況の時には多くの労働者を道路を整備するなどの公共事業に使うことで、失業対策としていたわけで・・・・
そこに1台で100人分の仕事をします・・・などというブルドーザーを導入したのでは、失業対策が出来なくなるからだったそうである。
おかげで日本人はブルドーザーというものを知らずに戦争に突入した。
昭和17年、ガダルカナル島に上陸した日本軍は滑走路建設を、いつものようにスコップなどを使って人海戦術で行なっていた。
人力でジャングルを切り開き地面をならすんだから、時間がかかる・・・
モタモタしているうちに米軍の偵察機に発見され、ようやく滑走路が完成間近という時に米軍が上陸、滑走路を分捕られた。(汗)
もし、あの時にブルドーザーが日本軍にもあったら、あんな無様なことにはならなかっただろう。
米軍はブルドーザーであっという間に滑走路を拡張、すぐに完成し、飛行機が離着陸し始めた。
米軍のブルドーザーを見て、日本も同じものを作ろうと思ったが参考資料がない。(笑)
戦前に米国の営業マンが配ったパンフレット程度しかなかったようである。
が・・・京都大学かどこかの工学部に教材としてブルドーザーが2台ほどあったのを見つけ、これを参考に日本製のブルドーザーの開発を行なう・・・・
やることが遅いのである!
実は日本にもブルドーザーがあったなどと今頃気付くようではマヌケである!!(怒)
「総力戦」と言う割には大したもんじゃない・・・・
掛け声ばかり立派なところは今も昔も変っていない・・・・

マレーシアの農園では戦前からブルドーザーが使われていたとは・・・・
唖然・・・・である。

ブルドーザーの隣に展示されていたのは、かなり古い消防自動車!

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これまた英文の説明板によれば・・・(笑)
この消防自動車は、1937年ごろに作られた英国製の消防自動車だそうだ。
これが使われ始めたのが1939年とのこと。
日本は昭和14年、ノモンハン事件があった年である。
この消防車・・・・
その後、英国がシンガポールに持って行ってしまったらしいのだが、多分、日本軍が占領した後のことだと思うが、後に日本がこの消防車を再びマレーシアに取り戻してくれたと書いてある。
ん?よくわからん話しだが・・・・(笑)
侵略者だの極悪非道だのと非難されている日本が、戦時中にわざわざ消防自動車をシンガポールからマレーシアに取り返してくれたというのか?(大笑)
マレーシアの誰かが「取り返してきてくれ!」と日本軍に頼んだのか?(笑)
どういう経緯があったのだろう?
興味の湧くところである。
で・・・この消防自動車は、なんと!・・・・1974年まで現役として活躍していたらしい。(唖然)
1974年は昭和49年である。
拙者が14歳のときである!
小野田少尉がルバング島から生還した年である!(笑)
ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し、日本では田中角栄首相が辞任して三木内閣が成立した年である。(笑)

マレーシアにやってきて、途中でシンガポールに持って行かれ、再びマレーシアに戻ってくるという数奇な運命を経ながら35年間も現役で活躍した消防車なのか・・・
おお~・・・・感動である。(笑)

日本では戦前に消防自動車というのはあったのだろうか?
これはいつか「消防博物館」にでも行って確認せねばなるまい。(大笑)

他の参加者は、これらには全く興味がないようで・・・・(笑)
あっさりと通過して先に進んでいってしまったが、拙者はこの古いブルドーザーや消防車を見ていて楽しくて仕方がない。(笑)
このツアーでは、いつものように拙者は“しんがり”を務めているので、多少遅れても問題はない。
最後列を歩くわけだから・・・・
問題は、“イズミ教官”の戦史の説明が聞けないことが不便なだけである。(涙)

この「スタダイ広場」(通称、オランダ広場とも呼ばれている)の裏手の高台に登る。
ここからマラッカ海峡が見えるのだそうだ。

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遠くに見えるのが「マラッカ海峡」だそうだが・・・・
う~ん・・・・よくわからんなぁ~(苦笑)
タンカーらしき船も見えるが・・・・
う~ん・・・・よくわからんなぁ~(苦笑)
「マラッカ海峡」は、“海賊”が出る危険な海峡なんだよね?
そういう場所は、ここじゃなくて、もう少し離れたところか・・・・

この高台は「セントポールの丘」と呼ばれている。
頂上に廃墟となったセントポール教会がある。
ポルトガルが統治していた頃、キリスト教布教の拠点として、この教会が建てられたそうで・・・・
フランシスコ・ザビエルの遺体(遺骨の一部?)が一時期、ここに保管されたことがあるそうだ。
拙者は、まったく興味がなかったので・・・・(苦笑)・・・・写真を撮らなかった。(笑)
頂上には観光客がたくさんいて、鬱陶しいことこの上なし。(大笑)

丘を下って反対側に降りる・・・・
暑くて喉が渇くが・・・飲み物を買う余裕もない・・・・(涙)
ここは、飲み物持参で登るべきだな・・・

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「サンチャゴ砦」・・・・「ファモサ」とも呼ばれるポルトガルがオランダとの戦いに備えて造った要塞の跡である。
ここに日本語の説明板が設置されていた。



ポルタ・デ・サンティアゴ

ポルタ・デ・サンティアゴとは 出入り口を意味しており、まさに、“エイファモサ”(A'FAMOSA)の ポルトガル軍要塞への4つの入口の一つである。
ポルトガル軍のリーダーは1511年にマラッカを征服し、アルフォンソ・デ・アルバカーキは、マラッカのサルタンやアチェの攻撃からの防御策に1512年(A'FAMOSA)を建設した。

ポルトガル人達は廃墟となった宮殿、王族の霊廟やモスクからとなった(筆者注:取った?)建材を使って、幅3mの壁がついた、四角い砦を奴隷の労働者を使って建設した。
高さ40mの望楼は一時期要基(筆者注:要塞?)の北西角に位置していた時があった。
興味深い点は、このポルトガル風らしき建物にオランダ東インド会社の紋章が彫られていることである。
これは1670年にオランダの会社がこの砦を自分達の本社として利用していた為。

この砦は1795年に駐留した英国軍にあやうく跡形もなく取り壊されるところで、ウィリアム・ファークハといつ(筆者注:いう?)人物が火薬で砦を吹き飛ぼうと(筆者注:飛ばそうと?)したが、砦の破壊を止めるよう制裁(筆者注:制止?)した。
かつてこの他に(筆者注:この地に?)威風堂々と聳え立っていた要塞の面影を残す、ポルタ・デ・サンティアゴである。

ポルタ・デ・サンティアゴは、1977年5月12日に文化財保護法令第168/1976により、歴史記念文化財に指定された。

(説明板より)



この日本語・・・変な言い回しや誤字・脱字もあるが、意味はわかる。
あまり他人の文章を笑う資格は拙者にはない。(笑)
拙者の英語はもっとひどいだろう・・・・(大笑)
拙者がフィリピンの博物館に提供した英文の展示品説明文などは、米国人が読んだらどう思うか・・・・(大汗)
一生懸命、日本語で書いて展示してくれたんだから、こういう説明板はよく読んであげないとねぇ~
作ってくれた人に申し訳ない・・・
無視して通過するなんて・・・失礼だよねぇ~
自分がその立場になると、よくわかる。(汗)

近くの広場に装甲車が・・・・

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この装甲車(手前)と装甲兵員輸送車(奥の車輌)には、説明板がなかったが・・・
どうも戦後、マレーシア共産党と戦ったときに使用されたものらしい。

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時刻は午前11時半・・・・
空の雲行きが怪しくなってきた・・・・(汗)
生暖かい風も吹き始めた・・・・
こりゃ、ヤバイ・・・ザ~ッと来るぞ・・・・(大笑)

タイミングよく、これから昼食である!
市内のレストランで昼食・・・・

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ここの料理は「ニョニャ料理」という“郷土料理”だそうだ。
マレー料理と中華料理が混ざったものらしい。
が・・・拙者には、よくわからん・・・(笑)
中華料理との違いがわからんのです。(大笑)
拙者は“グルメ”じゃないから・・・とにかく腹が満たされれば、それでいい・・・・(大笑)

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(レストランの前の様子)

旅行 | 10:28:33 | Comments(0)