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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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34年ぶりのクアラルンプール
このクアラルンプールも34年ぶりの訪問であるが、どこに行ったのか全くと言っていいほど記憶にない。(大汗)
『バトゥー(またはバツー)洞窟』という観光名所に行ったことだけは覚えている。
その時に、この洞窟に至る急角度の階段を一気に駆け上がった・・・・
当時、拙者はアメフトの選手・・・・
一気に駆け上ってみるか!・・・と270段ぐらいある急角度の階段を駆け上ったのである。(笑)
そのとき、周囲の外国人観光客から驚きの目と笑いをもらったが・・・(恥)
あのころは若かったねぇ~
友人たちは途中で駆け上がるのを断念したが、拙者は最後まで一気に駆け上がった。
が・・・・その後がひどかった・・・・
心臓はバクバク・・・呼吸困難と貧血による目眩で、死にそうな目に遭ったのだ・・・(大笑)
というわけで・・・足腰立たず、へばってしまい・・・・
さて、洞窟の内部がどうなっていたのか、内部を見たのか見なかったのかすら記憶がない。(大笑)
洞窟の入口付近の石の上に座り込んだまま動けなくなっていたのである。(大笑)

死ぬんじゃあるまいかと思った、この時のことだけは昨日の事のように鮮明に覚えている。
やっぱり、記憶というのは、このくらいの苦しい思いをしないと残らないんだろうねぇ~(大笑)

今回のツアーでは、この観光名所は残念ながら含まれていない・・・・
う~ん・・・・懐かしいあの階段をもう一度見て見たいものだが・・・・
この歳では、多分、上までは登れないだろうなぁ~(大笑)
歩道橋を上っただけで息切れがするんだから・・・・(大汗)
あのころは若かったねぇ~

『日本人墓地』の次に向かったのは『王宮』・・・・・
しかし、まったく記憶がない・・・(大笑)
多分、ここには来なかったんだろうね?(大笑)

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『王宮』の見学は、柵越しに外から見るだけ・・・(笑)
わずか10分弱の見学であった。(笑)

次に向かったのは・・・・『国家記念碑』・・・・
時刻は午後3時半・・・暑い・・・・とにかく、暑い・・・(笑)

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289_convert_20140821225636.jpg(マレーシアの紋章)

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この「国家記念碑」の近くに、中国語と日本語の「説明碑」があった・・・


(碑文)

国家記念碑

国家記念碑建設の構想は1963年、マレーシア前首相YTMトウアンク・アブドル・ラーマン・プトラ・アルハジによって、国家独立のために戦って死んだ兵士を悼む碑として提案された
レイクガーデンに面した48,562スクエアメーター土地がこの記念碑の建設に割り当てられ、国家記念碑のまわりには噴水、パビリオン、戦争記念碑を配し、公園がこれら施設を取り囲んでいる
記念碑は7人のブロンズ像から成り、敵軍と戦う民主軍の勝利を表現するもので、1966年、アメリカ人彫刻家フェリックス・ド・エルドンによって制作された
同年2月8日に除幕式が行なわれ、それ以来毎年ここで、兵士を偲ぶ式典が催されている
この記念碑ができる以前にも、第1次世界大戦後、戦争で死んだ兵士を祀る別の記念碑が鉄道駅の近くに建設された
毎年11月11日にここで兵士の死と献身に敬意を表するため、簡単な式典がとり行なわれている
現在の国家記念碑ができる前は、第2次世界大戦で死んだ兵士たちの名前がこの記念碑に刻まれていた



悲しいことに・・・・ここも記憶がない・・・・(笑)
ここにも来た事がなかったのかも・・・・
ということは、拙者はクアラルンプールではどこに行ったのだろう???(大汗)

青年海外協力隊の本部かどこかで皆さんと会合を持ったことは覚えている・・・・
クアラルンプールから200kmほど離れた派遣地から、ホンダのスーパーカブというバイクで何時間もかけてやって来てくれた隊員がいたのをよく覚えている。
スーパーカブは、あの新聞配達の人が使っているバイクである。(大笑)
あれで200kmもの距離を走ってきたのか!(驚)
ガソリン満タンで100kmは走るので、途中で1回給油すればいいだけだと話してくれたのを覚えている。(笑)

奥地の辺鄙な村に裁縫の指導で派遣されている女性隊員に会いに行ったことも覚えている。
こんな辺鄙な村にたった一人、日本人の女性が派遣されているのには驚いた。
いやはや女性は強いもんだと思ったものである。
(それを見てから女性は強くて怖いと思うようになったのかも・・・大笑)
昼間はいいが、夜になったら、周囲は真っ暗闇でさぞかし怖いだろうなぁ~と思った・・・・

この村に向う途中、油椰子(オイル・パーム)のプランテーションの中を突っ走った・・・
広大なプランテーションで、いつまで走っても油椰子ばかり・・・・
道路わきに膨大な量の油椰子が捨てられていたのに驚いた。
1980年当時、ソ連はアフガニスタンに侵攻し、アフガニスタン戦争があって、これに抗議してアメリカなど西側諸国は、「モスクワ・オリンピック」をボイコットした。
さらに米国はソ連に経済制裁を加えて、米国からの穀物の輸出を停止した。
冷戦下の米国とソ連が貿易をしていたとは知らなかった・・・・(汗)
禁輸により、ソ連向けに輸出していたトウモロコシ等の穀物が国内にだぶついたのである。
当時、米国はマレーシアからヤシ油を輸入していたのだが、この国内にだぶついた穀物を油に加工して国内で消費することにしたそうで、このため、マレーシアのヤシ油は米国に買ってもらえなくなり、価格が暴落・・・・
やむなく殆どの油椰子は、そのまま、その場で廃棄処分とされたのだという。
価格が安すぎて市場や出荷港までの運送代すら出ないそうなので、捨てるしかないという話だった。
何ともったいないことかと思ったが・・・・
価格の大暴落を抑えるためにはやむをえなかったのだろうが、あのときの景色は今でも忘れられない。

ソ連のアフガニスタン侵攻が、マレーシアのヤシ油の価格に影響を与えるなんて誰が想像出来るだろう?
これが「国際関係」なのだということをこの時知ったのである。
この時の経験が、拙者に国際関係や国際政治に興味を持たせるきっかけとなっている。
この時の経験は良かった・・・・34年経った今でも記憶に残っているんだから、かなりのショックを受けていたのだろう。
若い人は大いに海外へ行き見聞を広めるべきだろう。
「国際化」は英語が話せりゃいいというものじゃないと思うのである。
自分の目で見て、肌で感じて、現地で話を聞いて・・・・という経験が大事である。
そして、それを自分の思考回路にどう取り入れて、どのように自分の判断や行動に生かすか・・・・
拙者は、その経験を生かせないまま、この歳までボケ~ッと生きてしまったが・・・・(大涙)

今日の宿泊するホテルに向う途中、「ツインタワーを見たい」という意見が上がったので、予定外の訪問・・・
とりあえず、外から写真だけを撮るだけでいいからということで向かう。

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この「ツインタワー」・・・・正式には「ペトロナスツインタワー」というらしい。
マレーシアの国営石油会社のペトロナスが建築したタワーで88階建て、高さは452mだという。
建設された時には世界一の高さだったそうだが、その後、台湾の「台北101」という高層ビルに追い抜かれたそうだが、ツインタワーとしてはいまだに世界一の高さだとか・・・
で・・・・なんでみんながこのビルを見たがったのかというと・・・・(笑)
写真の左のビルが日本のハザマ(間組)が建設して、右のビルが韓国のサムソンが建設したらしいのだが・・・・
サムソンが建てた方のビルが傾き始めているというのだ。(大笑)
それを確認したいということだそうだ・・・・(唖然)
で・・・・ツインタワーを見上げて・・・「おお!確かに傾いている!」と大騒ぎ・・・・
拙者にはさっぱりわかりませぬが・・・・(汗)
高層ビルの傾きなんて、目で見てわかるようなものだろうか?
ツアーの中で建設業界の方がおられ(日本人墓地で自分勝手な行動をした人ですが・・・汗)、この方が「確かに傾いてますね」と言ったものだから、「ほら、専門家が言うんだから間違いない」と大喜び・・・・
それでも、拙者にはよくわからない・・・・
目の錯覚じゃないの?(笑)
拙者が間違いなくこれは傾いているな・・・とわかったのはイタリアの「ピサの斜塔」を実際にこの目で見たときだけである。(大笑)
あれは、確かに傾いている!!(大笑)
「サムソンが造ったビルなんか、倒壊するのは時間の問題だ」と皆さんが喜ぶ姿は無邪気である。(唖然)

時刻は午後5時・・・・
ホテルにチェックイン・・・・・

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このホテル・・・・
ロビーも重厚で豪華だったが、驚いたのは、拙者の部屋である!

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この広さは何だ!(驚)
ここは大統領執務室か?(大笑)
う~ん・・・・今晩一晩しか泊まらないんですけど・・・・(笑)
こういう部屋なら、2~3日滞在したい気分である。(大笑)

307_convert_20140825134553.jpg(部屋から見た景色)

午後6時半・・・・
市内の中華レストランへ行き、海鮮中華の夕食をとる。

308_convert_20140825134639.jpg(中華レストラン)


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旅行 | 20:54:29 | Comments(0)
クアラルンプールの日本人墓地
午後1時、クアラルンプールに入る・・・・

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第一印象は・・・・
あれ?・・・はぁ?・・・である。(大笑)
クアラルンプールも34年ぶりの訪問なのだが・・・(大笑)
え?・・・・こんなにビルが建っていたっけ?(唖然)
当時の景色を思い出せないのだから、実際は比較のしようがないのではあるが・・・・(笑)
う~ん・・・・こんな感じの町だった?

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午後1時半、市内のレストランでマレー料理の昼食をとる。

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(レストランの前の景色)
レストランの前の道路は一方通行だが、大渋滞・・・
おい、おい・・・・(大汗)

このあと向かったのは、「日本人墓地」・・・・

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古い門の方の左の門柱には『明治三十二年三月吉日建設』と書かれている。
で・・・右の門柱は白ペンキで塗りつぶされているが、その下に『大日本帝國臣民之墓地』と書かれてあった。

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新しい門(?)のほうから敷地内に入る・・・・
入ると直ぐに「慰霊堂」があるので、先ずそこをお参りする。

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内部には“ご本尊”と位牌が並んでいる・・・・
「本堂」と呼ぶのが適当なのかどうかは知らないが・・・

ここで、ふと気になったので参加者の人数を勝手に確認してみた。
ここから少し離れたところでバスを降りて徒歩でここまで来たので、まさかとは思うが、途中で迷子になった人はいるまいな?・・・・と思ったのである。(笑)
と・・・どう数えても一人足りない!!(汗)
拙者は参加者全員の顔と名前を覚えているわけではない。
一言も会話を交わしたことがない人が何人もいる。
拙者が気を配るのは・・・“高齢者”(大笑)
迷子になったり、忘れ物をしたり、勝手にどこかにフラフラと行ってしまったり・・・(大笑)
そういうわけで、“要注意人物”として、数人の高齢者には目を配ることにしている。
が・・・・“行方不明者”は、これら“高齢者”の方々ではない。
添乗員に一人足りないようだと報せたところ、添乗員も焦ったようだ・・・・
「あれ?・・・いない!・・・○○さんがいない!」(大汗)
どこかで逸れたのかなぁ~と騒いでいたら、参加者の中から「そういえば、以前来たことがあるから俺は行かないと言っていましたよ」という声が上った。
「じゃぁ、バスに残っているんですかね?」と添乗員さん・・・・
「たぶんそうじゃないんですか?行かないって言っていたんだから・・・」との声・・・・
あのねぇ~・・・・なんという勝手な奴だ!(怒)
“団塊の世代”の参加者である!
だから、拙者は“団塊の世代”は好きではないのである。
バスに残って参加しないというなら、そういうことは添乗員さんに直接伝えるべきであろう?
近くに座っている人に独り言のように言っても意味ないでしょ?
どうして、そういう常識がないのかねぇ~・・・・団塊の世代は!(怒)
みなさんに迷惑をかけないようにするという気遣いができないのかねぇ~
どういうわけか、毎回、ツアーにはこういう人が少なくとも一人はいるのである。(唖然)
今回も一人いたか・・・・(涙)

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墓石を見てみると、女性の名前の古い墓石が多い・・・
どうやら“からゆきさん”のお墓らしい。
戦前のお墓は300ほどあるらしいが、そのうちの7割が“からゆきさん”だという話である。
どういう思いでマレーシアまでやって来て・・・・どういう思いでこの地で息を引き取ったのだろう・・・
こうして墓石に名前が刻まれている人は幸せなほうかも知れないなぁ~
墓石すらないまま、眠っている人もいるんだろうなぁ~
独身で子孫がいない拙者は「無縁仏予備軍」もしくは「無縁仏予定者」ですから・・・(笑)
う~ん・・・・拙者も人知れず、名も残せず・・・・どこかで眠ることになるんだろうなぁ~
彼女達の墓石や、朽ち果てている墓石・墓標を見ていると、他人事ではないような気がしてきた。(涙)

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敷地の一番奥に歩兵第11連隊の有志が建立した『慰霊塔』があった。
ここに日章旗、旭日旗を飾り、お線香をあげて、全員で「海ゆかば」を斉唱して慰霊を行なう。

(慰霊塔・碑文)
われわれは太平洋戦争の戦火に倒れたわが仲間および各国軍人と住民の霊を弔うとともにマレーシア連邦国民の平和と繁栄とを祈る

昭和53年9月建之
歩兵第11連隊有志

碑文は日本語と英語の併記である。

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この慰霊塔のすぐ隣りに『JA8051号機遭難者 慰霊碑』というのがあった。
お墓の形態だが、お墓ではなかろう。
このJA8051号機というのは、日本航空(JAL)の機体番号である。
昭和52年(1977年)9月27日、日本航空の715便(機体番号:JA8051)というダグラス社のDC-8旅客機が、クアラルンプール空港に着陸進入中、悪天候のため着陸に失敗しゴム園に墜落した。
37年ほど前のことである・・・・
この旅客機には乗員10名と乗客69名の計79名が搭乗していたが、この事故で乗員8名、乗客26名の計34名が死亡した。
その方々の慰霊碑である。
が・・・・碑文はない・・・・なんでだろう?
誰が建立したのかもわからない・・・・
墜落現場ではなく、日本人墓地に建立というのも珍しいと思うが、碑文がないのでは、何の慰霊碑なのかわからないだろう。
事故のこととか、いつ事故があったのかとか、亡くなった方々のお名前を記するとか・・・何か“説明”しないと“慰霊”にならないのではなかろうか?
思ったとおり、わが参加者たちは「何これ?」と言っただけでサッサと立ち去ってしまった・・・・(汗)

皆さんが、サッサと墓地を立ち去ってしまったので、一人ポツンと取り残されたが・・・(笑)
墓石や慰霊碑などを見るというのは、結構勉強になるんだけどなぁ~
皆さんがトイレに行っている間、まだ少し時間に余裕があるので、もう少し欲張って墓地内を駈足で見て歩く!(汗)

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『殉難碑』というのを見つけた!!
『陸軍中将 沼田多稼蔵 書』と刻まれている。
軍関係で『殉難』という言葉を使う場合、法務死・・・・特に戦後建立された場合は戦犯で処刑された方々に対して使うことが多い。
ということは・・・・戦犯として処刑された方々の「慰霊碑」だろうか?
残念ながら建立した日付のみで碑文は刻まれていない。(涙)
建立されたのは、昭和21年2月12日である。
ところが、この日付だと、ちょっと疑問が残る・・・・(汗)
クアラルンプールの戦犯法廷は英国が裁判国として日本軍を裁いたのだが・・・・
裁判は昭和21年1月29日から始まり昭和23年1月11日に終了している。
被告は77名、裁判の結果は死刑24名、有期刑37名、無罪14名、その他2名である。
建立した日付から見ると、裁判が始まって1ヵ月弱で「殉難碑」が建立されたことになる。
法廷は2年間も裁判を続けていたのに???
裁判が始まって直ぐに死刑判決が出て即刻処刑したのか???
おかしい・・・
こうなると、この「殉難碑」は戦犯で処刑された方のための碑なのかどうか怪しくなってしまう。
碑文がないからなぁ~・・・・・
何か碑文が書いてあればわかるのに・・・・
だから碑文は大事なのである。
建立した人はわかっていても、後世の我々には「殉難」が何のことやらわからない・・・
そういうことでいいのかね?
碑を建てた意味があるのかね?

沼田多稼蔵中将は、南方軍総参謀長として終戦を迎えた人である。
南方軍は東南アジア方面の全陸軍部隊を統括している。
フィリピンもマレーシアもシンガポールもインドネシアも、全てこの南方軍の傘下に入る。
司令部は仏印(現:ベトナム)のサイゴンにあった。
ちなみに総司令官は寺内寿一元帥である。
沼田中将は昭和22年、戦犯容疑で「巣鴨プリズン」に収監されている。
現在、「池袋サンシャイン」がある場所である。
で・・・翌昭和23年に「橘丸事件」で重労働7年の判決を受けたが、昭和25年に仮釈放となり、それから11年後の昭和36年(拙者が生まれた翌年)に69歳で他界された。
ということは・・・昭和22年以降は「殉難碑」に書を提供する余裕はなかったはずである。
自分が戦犯容疑で引っ張られる前でなければできないだろうから、昭和21年の建立は間違いないだろう。
わからん・・・・終戦後半年以内に「殉難」と言われるようなことが何かあったのだろうか?
こういうのは、もっと史料を探してみないとわからないが・・・・
なんともわからん「殉難碑」である。

時刻は午後3時を過ぎた・・・・
バスに乗り込み、次に向う・・・・

旅行 | 19:53:21 | Comments(0)
スリムの戦跡
トロラクに夜襲をかけたときの島田戦車隊の戦車は15両・・・
攻略後、戦車隊単独でスリムに向けて突撃を開始した時の兵力は、九七式中戦車9両と九五式軽戦車2両の11両、兵員は42名のみ・・・

トロラクを出発して間もなく、ゴムの木の林が続いていたようだが・・・・
現在は、ゴムの木の「ゴ」の字も見当たらない・・・(大笑)
このゴムの木の林(プランテーション?)の中に何百という敵の車輌と無数のテント・・・・
敵の歩兵の露営地となっていたという。
この中を戦車隊は戦車砲、車載機銃を撃ちながら蹂躙・・・・
前進、前進、また前進・・・・(笑)

当時は、このゴムの木の林が切れて、その次にジャングルが道路まで迫っている場所があり・・・・
そこを越すと「スリムリバー」という町に着いたらしいが・・・・
う~ん・・・70年以上も経つとねぇ~(大笑)
景色が変わっていて、当時の情報は何の役にもたたないか・・・(苦笑)

まもなく、「スリムリバー」らしき町に入るが・・・・
どうもおかしい・・・・拙者の勘がそう言うのである。(笑)
昔の略図では、T字路のような場所に町があったはずだが・・・
国道を外れ、旧道らしき道を走る・・・・
と・・・・それらしき地点に・・・・

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このあたりにスリムリバーの町があったそうだが・・・
今は何もない!
家がポツンポツンとあるくらいで、集落すら形作っていない・・・・
70年以上も経っているからなぁ~(汗)
国道1号線沿いのほうに町が移動してしまったのではなかろうか?
このスリムリバーの町の洋館に英軍の司令部が置かれていたというのだが・・・
洋館??・・・・そんなもの欠片すら見当たらない・・・・(笑)
トロラクからスリムリバーまでは、英印軍第3師団の第12旅団が防衛を担当していた。
この部隊はカンパル付近の戦闘にも参加していた部隊で、ここまで後退して防衛線を敷いていたようである。

ここから、さらに「スリム」に向うが・・・・
スリムリバーから左折して(つまり、東に向って)旧道を進む。
国道1号線は真っ直ぐ南に伸びているが、昔の道は、一度、東に向けて延び、グルっと回りこんで、また現在の国道1号線に繋がっているから、スリムリバーから旧道の合流地点までは、国道1号線は、いわゆるバイパスということになるか?

島田戦車隊は、時速30キロで突進する。
昨晩の夜間の攻撃の時はエンジン音を抑えるため、時速4キロから8キロである。
時速30キロで突っ走り、ゴム園の中に敵を見つければ戦車砲で射撃する。
敵の大砲がゴム林の中にあるのを見つけて戦車砲で攻撃しても、その大砲の数があまりに多すぎてキリがない・・・・
弾がもったいないから、ついには戦車で敵の大砲を踏み潰しながら走ったという。
戦車隊は休むことなく走り続けたのでエンジンの熱風で車内は40度を越していたというから、乗員も大変だったろう。

我々のバスは、スリムリバーから約10分ほど走ったところでスリムの集落に到着した。

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ここが、スリムの町があった場所らしいが・・・・小さな集落である。
戦後、幹線道路から離れてしまったので廃れてしまったのか?

228_convert_20140815174353.jpg(警察署)

「バライ・ポリス・スリム・ビレッジ」という看板がかかっているので、ここがスリムで間違いない。
ちなみに「バライ・ポリス」とは日本語で「警察署」のこと。
ビレッジというのには少々違和感があるが・・・・(笑)
なにせ、ここには英印軍第3師団の第28旅団が守備についていたのである。
ここでの戦闘について日本側の戦史では「スリムの殲滅戦」という言葉も使われている。
「殲滅戦」というくらいなんだから、相当の大戦闘が展開されたのだと思うのだが・・・・
う~ん・・・・この景色じゃ、当時の様子を想像することも出来ない。
村ねぇ~・・・・そこそこの大きい町だとばかり思っていたのだが・・・(笑)

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その昔、この警察署の向かい側に、「第二次世界大戦の史跡の説明看板」があったという。
何年か前に、添乗員の“アサダさん”がここに来た時に見たというのだが・・・・
いつの間にか、その説明看板は取り外されていて、設置枠だけが残されていた。
ここで日英の戦闘があったという現地マレーシアが設置した「歴史的な場所」を説明する史跡の説明板だったそうだが、どこのどいつが撤去したのやら・・・
反日華僑か?(笑)

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このスリムに架かる橋・・・・
多分、これが「スリム橋」だと思うが、この橋が英軍の手で爆破される前に、無事に戦車隊によって確保された。
戦史では「北橋」と「南橋」との記述が見られる。
この橋は、「北橋」ではないかと思う。

戦車隊に損害がなかったわけではない・・・・
「南橋」では佐藤小隊の小隊長車が真正面から敵の砲弾を喰らって犠牲になっている。
車内は血と肉片だけが残り、乗員は粉々に吹き飛んでいたという。
形を留めていたのは、機銃の引き金に長谷兵長の右手部分がぶら下がり、操縦席にはアクセルを踏んだ状態の飯田兵長の右足が残っていただけだったという。
戦車が直撃弾を喰らうと、こういう状態になるらしい・・・・(大汗)

多分、その「南橋」というのは、この先にあるのだろうが、我々は、ここでUターンして、国道1号線に戻る。

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バスの後部から後ろ向きに写真を撮ったので・・・・(笑)
こちらから向うに向って戦車隊は進んだということになる。
この道をねぇ~
我が戦車第6連隊が突き進んだんだよねぇ~

我が歩兵部隊はスリムリバーに於いて、歩兵第11連隊が歩兵第42連隊を超越して前進し、スリムに向った島田戦車隊の後を追った。
第5師団は、全縦深約30kmを、わずか一昼夜で突破し、スリムリバーやスリムに陣取っていた約3千名の英軍に壊滅的な打撃を与えた。

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この丘などは、英軍が陣地を構えるにには最適なような気がする・・・・

英軍側の記録では、この一連の戦闘での残存兵力は1,170名だったという。
日本側の記録では、敵の遺棄死体は約300名、捕虜は約1,000名・・・・
自動貨車(トラック)600台、装甲車84輌、その他各種砲など大量の兵器を鹵獲している。

国道1号線に戻り、我がツアーは、一気にクアラルンプールに向けて“進撃”する。
時刻は午前11時半を過ぎた・・・・

旅行 | 16:53:02 | Comments(0)
トロラクの戦跡
スンカイの橋を渡り、さらに南下・・・・
橋を渡ってから10分弱程度走った場所・・・・
我々が走る国道1号線は、当時の幹線道路だろう。
道幅は当然広くなっていると思うが・・・
この国道1号線に平行して現在では高速道路が走っている。

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この道路(国道1号線)沿いの、このあたりに当時、英軍の警戒陣地があったらしい。
写真の向うが北なので、日本軍は向うからこちらに向って進撃してきた。
この先、南下すると、「トロラク」という場所に辿り着く。
このあたりから、トロラクまでの道路の両側は、ゴム林と湿地帯の草原、その奥に深いジャングルがあったようである。

カンパル(もしくはカンパー)から後退した英軍は、このあたりから道路の両側に陣地を構築・・・・
昭和17年1月5日、カンパルから追撃してきた安藤支隊(歩兵第41連隊基幹)が英軍の抵抗を受けたのは、このあたりか?
安藤支隊は、歩兵第41連隊第2大隊(花輪大隊)を道路の右側、第3大隊(丸谷大隊)を道路の左側のジャングル内を切り開きながら迂回させて、敵陣地の背後に進出する作戦に出て・・・
連隊主力は本道上を進み正面から攻撃することとした。
当時、このあたりには3個大隊の英軍が幾重にも抵抗線を設けていたようである。
1月6日夕刻、追撃に移ろうとした時、英軍の熾烈な砲火を浴び、本道の前進が阻まれた。
そこで、1月7日の明け方(もしくは真夜中?)、島田戦車隊(戦車第6連隊の2個中隊)に歩兵と工兵を伴わせ、一気に英軍陣地の突破を図ることとなった。

歩兵と工兵の一部が戦車に先行して敵の対戦車障害物(コンクリート柱)や鉄条網を破壊・・・
島田戦車隊の中戦車(九七式中戦車14輌)中隊が敵の砲火の中を前進・・・・
約6キロにわたって七重に設けられた敵の陣地を、わずか3時間で突破し、トロラクに進出した。

英軍の警戒陣地跡からさらに南下・・・・
途中から旧道に入り、通称『1939の橋』に向う。
出発してから約15分後、現地に到着・・・・

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我々が呼ぶ『1939の橋』の正式名は知らない・・・・(笑)
橋はコンクリート製で、そこに「1939」と刻まれているので、そう呼んでいるのである。
「1939」は、普通に考えれば「1939年製」ということだろう。
ちなみに、1939年は日本では昭和14年であるから、当時からあった橋と考えてよかろう。
となれば・・・・橋の幅は当時と同じだから、道幅も当時と同じということになる。
ここを島田戦車隊は走り抜けたのである!(大喜)
当時の写真は残っていないものかねぇ~(笑)

ここをねぇ~我が戦車が走り抜けたのかぁ~・・・・・感無量である!!
当時に思いを馳せる・・・・

我が戦友会の会員、“戦友”の宮澤さんは、戦車第6連隊の一員として、このマレー進攻作戦に参加されていた。
もともとは近衛歩兵として軍隊に入ったのであるが、初年兵(入隊1年目)の時に2・26事件に関わってしまった。
上官の命令に従い、何がなんだかわからないまま、中隊は高橋是清邸を襲撃した。
事件後、指揮官である将校は処罰を受けたが、兵達は何も知らず参加させられたということで無罪となった。
が・・・それでもこの事件は何かしらの影響はあったのではないかと拙者は思うのである。
軍備の近代化により、航空機と戦車が増え、人員が不足したため、上からの命令で、飛行機か戦車か、どちらかを選べと言われたそうである。
近衛兵といえば、容姿端麗、頭脳明晰、家柄もよく、間違っても家族親戚の中に共産党員などがいたら絶対に選ばれない・・・・(憲兵が身辺調査をしたのである)
そういう特に優秀な人が選抜されて近衛兵となるのである。
なにせ、天皇陛下のお膝元で陛下をお守りするのが本来の使命である。
それが、転属をさせられるんだから、そこに2・26事件の影響がなかったとは言えないのではなかろうか?
宮澤さんは、飛行機は墜落すると100%死ぬが、戦車なら生き残れる確率が高いだろうと思って戦車を選んだのだと笑っておられた。
で・・・戦車第6連隊に配属されて、その後、ずっとこの部隊で戦い、終戦時はフィリピンで「指揮班長」として活躍し生還された。
当初は戦車に乗っていたが、その後、乗用車で走り回って指揮をとるようにとのことで、戦車から降ろされた・・・・
その乗用車も他の部隊に差し出せといわれて取上げられ、仕方がないので、徒歩で戦車を追いかけながら指揮をとったという。
このことが結果的には幸いし、戦車はことごとく敵の砲撃で爆発炎上・・・・戦車は全滅・・・・
宮澤さんは徒歩で走り回っていたので一命を取り留めた・・・
「あの時、戦車に乗って指揮を取っていたら、戦死していたよ」と、松本市のご自宅を訪ねた時におっしゃっていた。
で・・・・マレー進攻作戦の話は、次回に・・・・ということになったのだが・・・・
その“次回”は来なかった・・・・
まもなくお亡くなりになってしまったのである。(大悲)
すぐに再訪問すればよかったのだが・・・・モタモタしているうちに、永遠に会えなくなってしまった・・・・
いつも、このパターンである。
拙者はどうして、こんなに、のろまなのだろう・・・・(泣)
享年96歳だった・・・・90歳を超しているんだから、いつどうなってもおかしくなかったのに・・・・
大後悔である・・・・

宮澤さんが当時、どの中隊に所属していたか・・・・残念ながら拙者は知らない・・・・
が・・・もし、島田戦車隊の一員だとしたら、この橋を渡り、この道を走ったことだろう・・・・
宮澤さんは、この景色を見たに違いない・・・・
今回の旅の写真をお見せしながら、当時のお話を伺うということが出来ないのが何とも残念・・・・(大泣)
72年後の景色はこんなふうですよぉ~
俺、戦車隊が通った道を走ってきましたよぉ~
・・・・と報告できないのが何とも残念である・・・・・(涙)
宮澤さんに会いたいなぁ~・・・・橋を見て、宮澤さんを思い出したら悲しくなった・・・・

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この橋があるあたりは、「Pekan Trolak」(ペカン・トロラク?)という場所のようである。
当時、トロラクと呼ばれていた場所か、もしくはその地域の一部だったと思われる。
時刻は午前10時40分を過ぎた・・・・
この旧道を通り、さらに南下する・・・・

まもなくクネクネと曲がった道を走る・・・・
両側は椰子林・・・・
おぉ!!・・・・まるでタイムスリップしたみたい!!(大喜)
当時の記録写真などで見た雰囲気そのままである。
が・・・・どこかでバスを停めてもらえないか・・・と思っているうち通過・・・・
ペナン島に引き続き、またもやシャッターチャンスを逃した!!(大泣)

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あっという間に、国道1号線との合流地点に達してしまった・・・・
写真の左が国道1号線、右の細い道が旧道である。

国道1号線に乗ってから、まもなく、椰子林がよくわかる場所で停車して下車・・・・
ここでまた“イズミさん”の戦史の説明をいただく・・・・
さっきの旧道の曲がりくねった道のところのほうが、当時の雰囲気を残していて、写真を撮るにも説明するにもベストポイントなのだが・・・・
道幅が狭いためバスを停めることが出来ず、やむなくここにしたのだろう・・・・

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戦車は必ずしも本道上だけを走ったわけではない・・・・
敵は陣を敷き、対戦車砲を据えて待ちかまえているのである。
本道上を走れば、速く走れるだろうが、それでは狙い撃ちにされる・・・・
場合によっては、このような椰子林の中も走ったのである。
と・・・・
ここで“イズミ教官”から「戦車の大家がおられますので、是非ご意見を伺いたい」と言われた・・・・
“戦車の大家”とは・・・拙者のことのようである!(驚)
いきなりの指名にビックリしたが・・・・(大汗)
“戦車の大家”なんて、とんでもない・・・・拙者は戦車師団の戦友会の事務局長というだけで、“戦車兵”ではありませぬ。(大笑)
でも・・・話は戦車戦のことであるので・・・一応、拙者の意見を述べさせていただいた。(照)

夜間に戦車で突撃するという常識では考えられない攻撃で、敵陣を蹂躙して島田戦車隊はトロラクに進出した・・・
戦車は夜間は“目が見えない”ので、下手に動けば敵の餌食になりやすいのである。
操縦手は戦車の幅が狭く細長いスリットから外を見ながら操縦するので、どうしても視野が狭くなる。
だから見通しが利く昼間に移動して戦うというのが常識である。
また、戦車のエンジンの爆音は夜間は3キロ先まで響くので、下手に走れば敵に気づかれてしまう。
そこで、速度を極端に下げて、エンジン音を最低にしなければならない。
機動力が売りの戦車がノロノロ運転・・・・
しかも、ヘッドライトを点灯するわけにはいかない・・・・
車長が戦車から降り、白旗を手に戦車の前を歩きながら、白旗で操縦手を誘導したという。
これで“夜襲”になるのかと思ってしまうが・・・(苦笑)
今回のトロラク周辺での戦闘では真夜中、随伴する歩兵や工兵の協力のもとで、短時間で占領することが出来た。
島田戦車隊長としては、この勢いに乗って一気に、この先の「スリムリバー」「スリム」を攻略したいと考えた・・・
これ以前に、あのペラク川の鉄橋を、僅かの差で破壊されてしまった苦い経験がある。
この先には、スリム橋がある・・・・
ペラク橋梁の二の舞は避けねばならない。
なんとしても破壊される前に橋を確保しなくてはならない・・・・
そこで、歩兵や工兵の随伴をやめ、戦車単独で敵中を突破することにし、「スリム」に向う・・・・

我々も、その足跡を辿って、再び南下する・・・・

旅行 | 14:43:02 | Comments(0)
カンパルの戦跡
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我々が宿泊したホテル・・・・
「Impiana Casuarina Ipoh」という名のホテルである。
が・・・読めない・・・(大汗)
「インピアナ・カジュアリナ・イポー」でいいのか?(大笑)
結構、立派なホテルだった。

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ホテルの前の様子・・・・
何もない・・・(汗)

近衛師団は、隷下の近衛歩兵第4連隊を先発隊としてペラク川を渡河させ、イポーに進出させた。
昭和16年12月29日午前3時、近衛歩兵第4連隊は、ここイポーの町を占領。
昭和17年1月2日、続いて師団司令部と第25軍司令部がイポーに進出した。
ということは・・・・この町は結構大きな町だと思うのだが・・・
ホテルは町の中心街から外れていたのか・・・どうも大きな町という雰囲気が無い。(笑)
まぁ、70年も前のことだから、どこに駐屯したとかという“戦跡”は残ってはいないだろう。

午前8時にホテルをチェックアウトして、クアラルンプールに向けて南下する。

途中で、道路沿いに廃墟が目立ったが・・・・
これは戦後に建てられた建物かな?

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交差点の所に、たくさんの看板・標識が・・・・
え~と・・・これからどっちに行くのか・・・町の名前は?・・・
と・・・読もうとしてもアルファベットは読みづらい・・・(大泣)
え~と・・・・と読み始めたときにはバスが走り出してしまった。
アルファベットがパッと目に入った瞬間にすぐにわかるようなら大したものだが・・・
そのぐらいの能力があったら英語はペラペラか?(大笑)
漢字だったらなぁ~・・・・目に入った瞬間、直ぐにわかるんだけどなぁ~(笑)

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午前8時40分ごろ・・・・「カンパル」という場所に到着する。
ここは日本軍が初めて苦戦した激戦地といわれている。
日本の戦史では「カンパル」と呼んでいるが、アルファベットで書くと「Kampar」なので、「カンパー」が正確かも・・・

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このあたりが、英軍の陣地があったと思われる場所・・・・
現在は、住宅街になっていた。(笑)
英軍は、この手前の「ゴペン」「デイパン」に抵抗線を設け、日本軍の進撃を遅滞させる作戦・・・・
対する日本軍は第5師団の“河村部隊”・・・・
この部隊は第5師団・歩兵第9旅団の河村少将が指揮する部隊で、歩兵第11連隊の主力、歩兵第41連隊の主力、戦車第1連隊の戦車1個中隊、野砲兵第5連隊の主力などで編成された部隊である。
英軍は抵抗線から下がり、ここ「カンパル」に陣を敷いて最後の抵抗を図る。
その兵力は3個旅団・・・・
しかし、第5師団の松井師団長は、敵は1個旅団で、しかも緒戦の戦闘でかなり弱っていると判断していた。
これが日本軍が苦戦に陥った原因の一つでもある。
相手を甘く見たため、連日の戦闘で疲労困憊の河村部隊を当ててしまったようである。
カンパルでの戦闘は昭和16年12月28日から始まる。
日本軍はどうしてもこの抵抗線を突破できない。
数日にわたり足止めを食う。
イポーを占領後、同地の警備に当っていた近衛師団が協力を申し出てくるほど、第5師団は苦戦していた。

正面からの攻撃のほか、渡辺支隊(歩兵第11連隊長・渡辺大佐指揮の歩兵1個大隊と砲兵1個中隊基幹)を敵の退路を遮断する目的で海上機動で迂回させ、吉田支隊(近衛歩兵第4連隊第3大隊)はイポーを出発し、川を下り、迂回して攻撃に参加。
歩兵第41連隊の1個大隊はメラカ山の山中を突破し、歩兵第42連隊もジャングル内を突破して迂回・・・
これら、側背に迂回した部隊のおかげもあって、退路を遮断されることを恐れたのだろう、昭和17年1月2日の夜、英軍はついにカンパルの陣地を放棄して後退したのである。

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英軍の陣地跡から南に下ったところで撮影・・・
写真の向うからこっちに向って日本軍が進撃・・・
右奥の山が「メラカ山」の稜線だと思う。

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ここはカンパル(またはカンパー)の町の一部だと思うが・・・・
自分で写真を撮っておきながら自信がない・・・・(大笑)

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町を抜けて、次の町に向う間は、どこでも同じような景色でして・・・・(笑)
当時の道幅はこれほど広くはなかっただろうし、道の両側も、油椰子のプランテーションというわけではなかっただろう。
もっと道は狭く、周囲は深いジャングルだったはずである・・・・

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こういう小さな川が多い・・・・
英軍は撤退しながら、これらの川に架かっていた橋を破壊していく・・・
そうはさせまいと、日本軍は必死に追撃をする。

カンパルの戦闘後、疲弊した河村支隊を超越(追い抜いて・・・)代わりに先頭に立って追撃に移ったのは、歩兵第42連隊の「安藤支隊」だった。
この連隊には、速射砲(対戦車砲)1個中隊、野砲1個大隊、重砲1個中隊、工兵1個小隊、中戦車1個中隊と軽戦車1個中隊が配属され、「安藤支隊」を編成している。
ここに配属となった戦車隊は、我が戦車第6連隊の1中隊と4中隊・・・・いわゆる「島田戦車隊」である。

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カンパルを出発して約30分後・・・・午前9時20分ごろ「Tapah」(タパー)の町に入る。
どの町も華僑が多いのか、漢字が目立つ・・・・

さらに南下して「Sungkai」に向う。
当時の日本軍の呼び名は「スンカイ」だが、現在は「サングカイ」と呼んでいるかもしれない。(笑)
どうも地名の発音は難しい・・・・
こちらとしては、戦史の中で使用されている日本語の読み方しか知らないのであるから・・・

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スンカイに向う道路沿いには、油椰子のプランテーションが・・・・
このあたりは当時は密林だったはずである。

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スンカイの町を抜け・・・・「スンカイ橋」を渡る。
多分、この橋が「スンカイ橋」だと思うが・・・・(これまた自信がない・・・)(涙)
英軍はカンパルの陣地から橋や道路を破壊しながら撤退した。
この修理に当たったのが工兵第5連隊・・・・
しかし、英軍の破壊工作のほうが早く、修理が間に合わない・・・・
第一線の追撃部隊と、その後方から駆けつける師団主力の間に2日間行程もの開きが出来てしまった。
道路や橋の修理が間に合わず、師団主力が第一線部隊に追いつかないのである。
追いつくためには2日間もの開きがあるというのは、なかなか厳しい状況である。
そこに追求してきたのが独立工兵第15連隊・・・・
こうなると、工兵第5連隊としては格好がつかないか?(笑)
2つの工兵連隊が競争しながら道路や橋の修理にあたることになる。
おかげで猛スピードの橋梁修理となり・・・・
昭和17年1月6日、この「スンカイ橋梁」の修理を最後に全修理を完了したという。

旅行 | 13:22:02 | Comments(0)