投稿日:2014-06-30 Mon
昨日、無事に(?)フィリピンから帰国いたしましたが・・・・風邪を引いてしまい、今朝からダウン・・・・
咳、頭痛、関節の痛み・・・・
最悪の状況です・・・・
ん?
幻聴でしょうか?
ざまぁみろ・・・という声が聞こえてきますが・・・・(大笑)
そういうわけで、帰国しましたが、しばらくは病気療養をさせていただき・・・
ブログの更新は、しばらくお休みさせていただきます。(ゲホ、ゲホ・・・)
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投稿日:2014-06-29 Sun
今日は日本に帰る日・・・・(笑)午前9時25分発のJAL746便に乗るので、早起きする。(笑)
少なくとも午前7時半までには空港に到着していなくてはならない。
いつものように、半分寝ぼけた状態でホテルをチェックアウト・・・(大笑)
送迎車のドライバーは“マルコスさん”・・・・いつものドライバーである。
で・・・“ステラさん”も我々の見送りのため同行・・・・
いつもながら、朝早くから申し訳なし。(笑)
空港入口で“ステラさん”たちとはお別れ・・・
あとは、自分でチェックイン手続きをしなくてはならない。(笑)
久しぶりの利用だからなぁ~
う~ん・・・JALのチェックインカウンターってどこだ?(苦笑)
無事にチェックインの手続きを済ませ、出国審査を済ませ、搭乗口へ・・・
昔はお土産屋さんとかが結構あったのだが、気のせいか、随分少なくなっているような気がする。
時間を潰すために、昔はお金を払ってラウンジを利用したのだが・・・・
そのラウンジが見当たらない・・・(汗)
こころなしか、この空港、利用しづらくなったような気がする・・・(大笑)
無事に離陸し・・・(当然ですが・・・)
午後3時、成田空港に無事着陸・・・(これまた当然ですが・・・)(大笑)
“ヤナギモトさん”とは、ここでお別れ・・・・
「お疲れ様でした!」
いつものように、スカイライナーで上野へ向かい・・・・帰宅する。
めでたし、めでたし・・・・(大笑)
投稿日:2014-06-28 Sat

午後4時、約束の時間に“デイソンさん”のお宅を訪問する。
出迎えてくれた“ディソンさん”・・・・
何を勘違いしたのか拙者のことを柳本大隊長と思いこんでいた!(大笑)
「メイジャーヤナギモト!」と拙者を呼ぶ・・・(大笑)
いえ、いえ、違いますって・・・(大汗)
「柳本少佐の息子さんをお連れしたんですよ」
「え?・・・・あ・・・・あなたは・・・ミスター・スズキ?」
拙者がヤナギモトさんのお父さんだったらおかしいでしょ?
ヤナギモトさんのほうが拙者より年上なのに・・・(大笑)
「メイジャー・ヤナギモトはどうした?どこだ?」と言う。(汗)
「あのぉ~前回お会いした時に、もうお亡くなりになられていると話したはずですが・・・」
「あ・・・そう、そう、お亡くなりになっていたんだっけね」
ん?大丈夫でしょうか?・・・“ディソンさん”・・・・(汗)
“ディソンさん”は柳本少佐が息子さんを連れて二人でやってくると思っていたらしい。(大笑)
柳本大隊長は、戦後、この地に慰霊巡拝に来た時に“ディソンさん”のお宅を戦友と一緒に訪問したらしい。
その時のことが忘れられないのだろう。
嬉しかったんでしょうねぇ~
初めてお会いした時に「メイジャー・ヤナギモトがうちに来てくれたんですよ~」といきなり言われた。(大笑)
息子さんの“ヤナギモトさん”をご紹介して雑談して、記念写真撮影!(笑)
息子さんに会えてまたまた大喜びのご様子。
よかったぁ~引き合わせることが出来て・・・・
“ディソンさん”の家の中にある「神風特攻資料館(資料室かな?)」を見学・・・・
この時に“ディソンさん”から「日本からもらったんだが、日本語で書いてあるので意味がわからないので、英語に訳して説明してくれないか」と言われた・・・
え?拙者が翻訳するの?(大汗)
それが、この感謝状である。

感謝状の文面は、まったく問題がない、まともな文章である。
が・・・「皇紀2674年」って何?
こういうのに“皇紀”を使うかねぇ~(汗)
皇紀2674年は、平成26年のことですけど・・・
で・・・・気になったのは、この感謝状を出した”組織”である。(汗)
「日本領土領海戦略会議」という組織が出した感謝状である・・・
う~ん・・・どうなんでしょ?
日本の領土と領海・・・・神風特攻隊と何か関係があるのでしょうか?(唖然)
こうなると、価値があるのかないのか、さっぱりわからない感謝状である。
この組織は、あとで調べてみたら、日本青年会議所のOBが作った組織らしい・・・(大汗)
で・・・“ディソンさん”が、天皇皇后両陛下の写真を指さし、この写真も一緒にもらったと言う・・・(唖然)
天皇皇后陛下のスナップ写真であるが・・・・
ちょっと、やりすぎなんじゃないか?・・・いくらなんでも・・・・天皇皇后の写真まで持ち出すか?
拙者も11年間、青年会議所におりましたが・・・(笑)
副理事長もやりましたが・・・(汗)
違和感を感じますなぁ~
どういう経緯で、この感謝状を渡されたのか・・・さすがに尋ねる気も起こらなかったので尋ねませんでしたが・・・(大汗)
とりあえず、「神風特攻隊の顕彰をしてくれているのことに感謝しているということが書いてあります」とだけお伝えした。
「そうか、そうか」と満足気に頷いている姿を見ると、なんとも可哀想な気がしてしまった・・・
変な利用のされ方をされていなければいいが・・・・
“ディソンさん”へのお土産にチョコレートを持ってきたのだが・・・
なんと、“ディソンさん”は糖尿病だそうで・・・(大汗)
あらら・・・チョコレートはマズイか?(苦笑)
でも、ご家族が召し上がるだろうし・・・小学生のお孫さんたちは喜ぶんじゃないかということで、お渡しする。(笑)
“ディソンさん”のほうでも“ヤナギモトさん”へのプレゼントを用意していた。
画家である“ディソンさん”が書いた特攻隊員などの絵を数枚・・・・
あらら・・・これは貴重な絵を・・・・(驚)
「是非プレゼントしようと思って用意していた」とおっしゃる。
“ヤナギモトさん”は大感激!・・・で・・・大恐縮!
こりゃ、額に入れて飾らねばなりますまい!(大喜)
“ディソンさん”から、軍服姿の戦時中の柳本大隊長の写真を1枚いただけないかという要望があった。
自分の資料館に飾りたいらしい・・・・
これは“ヤナギモトさん”が帰国後、写真を探してみるということで話は決まった。
“ディソンさん”の体調を考慮して、1時間程度の訪問ということにしていたので、そろそろ失礼する時間・・・
再会を約してお宅を辞する。
これからマニラに向かう。
途中で、“タケウチさん”を降ろし、お別れ・・・・
いろいろとお手数をおかけしたが、無事に今回の旅の目的が達成できた。(大喜)
感謝、感謝・・・
お礼に、ちょっとコーヒーでも飲んでから別れることにする。
ドライバー君にマニラのホテルまで送ってもらい無事に到着!
“ステラさん”が我々のチェックインのためにホテルに来てくれていた。
いやぁ~ありがたい・・・
で・・・夕食は、ホテルの外に出て、3人でバイキングの夕食・・・
いやぁ~いい旅が出来た。
無事に目的達成!満足、満足・・・
う~ん・・・コーラが美味い!(相変わらずお酒は飲まない)(大笑)
投稿日:2014-06-28 Sat
アンヘレスに向かう途中、「サパン・バトゥ」という場所を通過する。“タケウチさん”の話では、この辺り一帯が「サパン・バトゥ」だそうで・・・・



このサパン・バトゥというところで日本軍の戦車部隊が米軍の攻撃を受けて全滅したと“ディソンさん”が以前話してくれた。
その場所は、どこかなと思ったのだが・・・・
これじゃわからん・・・(汗)
日本軍の戦車隊が壊滅的打撃を受けたというと・・・
1月28日と29日の戦闘ではなかろうか?
28日に岩下戦車中隊(独立第8戦車中隊)がマルコット飛行場に進出した米軍に反撃を加え、岩下中隊長以下30名と戦車7両が返り討ちに遭い壊滅した。
29日にはストッチェンバーグに進出した米129連隊に対し、戦車6~8両が反撃に出たが、4両が撃破された。
この両日の戦闘のいずれかが、ここサパン・バトゥで行われたと思うのだが・・・
拙者の知る限り、戦史には、サパン・バトゥの名は出てこない。
が・・・“ディソンさん”の話では、そこで壊滅したという。
本人が破壊された戦車を見たというのだから、本当なんだろうなぁ~
この両日の戦闘で生き残ったのは35名、戦車は3両だったという。
柳本大隊指揮下の岩下戦車中隊はこの戦闘で実質、“玉砕”したという・・・・
サパン・バトゥという場所は思ったより広い地域のようである。
どこで日本軍の戦車が撃破されたのかは、“ディソンさん”に案内していただかないとわからないのだが、健康上の理由で、外出は出来ない様子・・・・
そこを何とか・・・というわけにはいかないから・・・ピンポイントで現場を確認するのは永遠に無理かも・・・
今さら、そんな場所を確認したところで、どうにかなるものではないのだが・・・
多くの戦車兵の血が染み込んだその場所で・・・出来れば慰霊をしたいものだ・・・
次回、機会があったら詳しく調べてみるか・・・
アンヘレスの市内に入り、ショッピングモールのレストランで昼食・・・
時刻は午後2時である!
もう腹ペコ・・・(大笑)

“ディソンさん”宅を訪問するには、まだ時間が早い・・・(笑)
そこで、その前に、柳本大隊が駐屯していた場所に“ヤナギモトさん”をご案内することにする。
ここは前回、下見済みである。(笑)
向かったのは「ホーリー・ロザリー・パリッシュ・チャーチ・グランド」という教会・・・

歴史のある古い教会である。
このすぐ隣りにあるのが「ホリー・ファミリー・アカデミー」という学校・・・・
ここに柳本大隊本部があった。

柳本大隊が、ここに駐屯したのは昭和20年1月10日頃のことではないかと思う。
米軍がリンガエン湾に上陸した翌日あたりである。
ここに連隊本部と主力を置き、一部の兵力を「マガラン」という場所に配置した。
1月23日早朝、進撃する米軍と「マガラン」に配置された第8中隊の間で戦闘が開始された。
大隊本部は応援に急行、さらに「コンセプション」という場所まで追撃する。
「サンイシドロ」という場所で小休止中、別の方面から進撃してきた米軍の攻撃を受け交戦・・・・
この時に4名の兵士が戦死。
柳本大隊は、やむなくアンヘレスに撤収する。
1月25日、柳本大隊長は斬り込み夜襲を計画し、この教会の鐘楼に各中隊長を集め、鐘楼から周囲の景色を見ながら夜襲の進路等の指示をしている。
う~ん・・・右と左・・・どっちの鐘楼に登ったんだろう・・・(笑)

これらの戦史を“ヤナギモトさん”に説明・・・
「へぇ~よく知ってますねぇ~」(唖然)
・・・と半分呆れられたが・・・(大笑)
実の息子より他人の拙者の方がお父さんの行動を知っているって、どういうことよ・・・ということかな?(大笑)
「あの鐘楼に登ってみたいですよねぇ~。お父さんがどんな景色を見たのか・・・見てみたいもんですよね?」
ということで・・・教会の中に入ってみる。(笑)

教会の中では結婚式が執り行われていた・・・
あら・・・ちょっとマズイかも・・・(笑)
退散する!(大笑)
1月27日の夜半、柳本大隊は夜襲のためアンヘレスの北にある「偽飛行場」まで進出する。
その「偽飛行場」が、どこにあるのかは知らないが・・・(汗)
そこまで進出したが、当初の計画よりかなり時間がかかってしまったようで・・・・・
このまま進んでも敵陣に辿り着くころには日が昇ってしまうと判断・・・・
夜襲を断念する。
鐘楼から見たルートは、見た目より遠かったのかな?(笑)
夜襲を断念して反転する途中、当初、斬り込みをかける予定ではなかった別の敵砲兵陣地を背後から襲撃して敵陣の中を突破するという荒っぽいことをしたようである。
この時に戦死者36名を出しているというから、かなりの激戦だったに違いない。
柳本大隊は、敵陣を襲ったあと「ストッチャンバーグ」に入る。
「ストッチェンバーグ」は現在、クラーク博物館のある辺りである。



柳本大隊本部が置かれた、この教会と学校の前の道は幹線道路となっているが、当時は、これほど道幅が広かったかどうかは知らないが、やはり幹線道路だったようである。
その道の教会とは反対側に、ちょっと古めかしい建物が・・・(笑)
“タケウチさん”の話では、“ディソンさん”の博物館だという。
ん?どういうことかな?(笑)

“ディソンさんの博物館”と呼ばれている建物のエントランスは現在工事中だった。

その隣りは、最近出来たのだろうか・・・警察署(交番かな?)
ちょっとその“ディソンさんの博物館”と呼ばれている建物の中に入ってみる。(笑)
受付の人と話をして見たら、どうも画家である“ディソンさん”の絵が展示されているのだとか。
ちょっと覗いてみたい気もしたが、時間に余裕がないので今回はやめておく。(汗)
雰囲気では、どうも郷土資料館のような気がする・・・(笑)
受付の青年に、このアンヘレスの歴史、特に戦時中のことについて書かれているような資料がないか尋ねてみたら、そういうものはないと言う。
が・・・1冊だけ、そういう本があると持ってきたのが、なんと、“ディソンさん”の著書だった!(驚)
しかし、もう絶版になっていて、ここに1冊あるだけなので売るわけにはいかないという。
まぁ~そうでしょうねぇ~(汗)
これから“ディソンさん”に会いに行くんだと話したら驚いていた。(大笑)
そこへ、“ヤナギモトさん”が入って来たので、彼は柳本大隊長の息子さんで、柳本大隊は目の前の教会に本部を置いていたのだが、当時のことに関して何かしらないかと尋ねてみた。
が・・・「日本軍がここにいたんですか!」と驚くばかり・・・(大笑)
あらら・・・まぁ仕方がないか・・・拙者より若いんだし・・・・戦時中の事なんか知らないよね・・・(汗)
尋ねた拙者がマヌケだった・・・(大汗)
時刻は午後3時45分・・・・そろそろ“ディソンさん”のお宅に向かう時間である。
投稿日:2014-06-28 Sat
次に向かったのは・・・・“レジャー施設”(笑)
一応・・・西部劇の町を模しているらしいのですが・・・(笑)
誰もいない・・・・(唖然)
やってるのか、潰れているのか・・・・さっぱりわからん・・・(大笑)
ここで乗馬が出来るそうだが・・・
馬小屋に馬はいるみたいだけど・・・(笑)
人間がおらんのです!(大笑)
久し振りに乗馬をしてみたかったが・・・・残念・・・・(大笑)
さて、これからが本番!(笑)
これから柳本大隊の戦跡を探して歩く・・・・
まずは、川を渡って対岸に行ってみる。
この川が当時「パンパンガ川」もしくは「バンバン川」と呼ばれていた川ではないかと思うが確信は無い・・・(大汗)
ネットの地図上では「サコビア川」となっているようだ・・・・

河川敷が灰色なのは、1991年に大噴火を起こしたピナツボ火山の火山灰である。
その昔、このあたりを走ったときは、厚く火山灰が積もっていて、スゴイ景色だったが、今は、ごく普通の川に見える。

川の向うに見える丘あたりが柳本大隊の陣地があった場所だと思うのだが・・・
位置関係を確認するには、一度、離れたところから見ないとよくわからんのです。(笑)
これからまた引き返して、あの丘に向かうことにする。
我が戦車第2師団の機動歩兵第2連隊が満州からフィリピンに派遣されたのは昭和19年10月のこと。
この時の機動歩兵第2連隊第3大隊(柳本大隊)の編成は、大隊本部、第7、第8、第9中隊、第3機関銃小隊の合計530名である。
その後、第7中隊と第8中隊の約200名を連隊本部(連隊長の名を取り「高山支隊」と呼んでいた)に差し出し、代わりに独立戦車第8中隊(九七式中戦車8両と兵員130名)とマニラからの補充兵150名を指揮下に入れる。
昭和20年1月9日、米軍がフィリピンに上陸・・・
1月30日に柳本大隊は「南山」に陣を構える。
さて・・・この「南山」が、どこにあるのかが、よくわからない・・・(涙)
かなり開発されて近代化されちゃっているからなぁ~
70年前と全く変らないままでいてくれと頼むほうが無理か・・・
ここは川を基準にしてみるしかあるまい・・・
というわけで、「南山」の探索は諦めて川沿いにあった「400高地」を探しに向かう。
2月11日、「南山」の正面に戦車を伴った米軍が進出、大激戦となり山頂を占領されてしまう。
ここで柳本大隊長は、部下の第8中隊を督励し、自ら抜刀して突撃!
山頂を奪い返すが、この「南山」での戦闘では29名の戦死者を出した。
折角確保した「南山」だが、その4日後には命令により撤退・・・・「400高地」に向かう。
さて・・・その「400高地」は、どこだろうか?
多分、このあたりだろうと見当をつけて向かったのがゴルフ場・・・・(笑)

このゴルフ場・・・・韓国資本のゴルフ場である。(汗)
勝手にクラブハウス内に入り・・・(大笑)
クラブハウスのテラスから川の向こう側を見る。


ここが「400高地」とするならば・・・・
右側の写真、向うに見える高地が当時「バンバン高地」と呼ばれた辺りになると思うが・・・
その向うの奥には機動歩兵第2連隊主力の高山支隊が陣取っていた。
そして、彼の地で、柳本大隊から転出した第7中隊が玉砕している。
右側の写真の中央あたりに見える小高い山が「赤山」と名付けられた山ならば、左側の写真の右端あたりにあるのが「黄山」と名付けられた場所となる。
そうなると、あの周辺には、空挺部隊の高屋支隊が陣取っていたことになる。
拙者がよく行く、クラーク博物館には、この高屋支隊の空挺隊員が使用していた分解式の小銃が展示されている。
パラシュート降下の時に邪魔にならないよう、2つに分解できる通称「テラ銃」と呼ばれた珍しい小銃である。
基準点を間違えて景色を見ると、戦跡の場所を間違えることになる・・・・
柳本少佐がご存命の時に一緒に旅をしたら、正確な場所を教えていただけただろうが・・・
拙者が戦友会に入会する前に他界されたので、それは無理・・・・
交通事故に遭われていなかったらなぁ~
今もご存命なら、ここの写真をお見せして教えを請うことも出来たかもしれない・・・と思うと残念である。
最終的には自分の勘に頼るしかない。(汗)
その昔、祖父が戦っていた北部ルソンのサラクサク峠に登り、祖父の陣地跡を訪れた時に、陣地跡の写真を撮った。
で・・・それを、当時まだご存命だった佐藤中隊長にお見せして、「ここに機関銃陣地を置きませんでしたか?」と尋ねたところ、「よく知ってるねぇ~ここは機関銃陣地があった場所だよ」と言われたことがある。
現地の地形と米軍の進行方向から考えると、その場所に重機関銃を置けば米軍を制圧できると思ったのである。
あくまでも拙者の勘・・・・
その勘がズバリ当った・・・
それから以降、拙者は自分の勘を頼ることにしている。(大笑)
ということで・・・拙者の勘によれば・・・(笑)
ここは「400高地」ということになる。(大笑)


左の写真の奥、ゴルフコースの切れ目の向う辺りが「五ノ谷」と呼ばれた場所ではないかと思う。
写真では、ちょっとわかりづらいが、ゴルフコースの向うに川が流れていて、その川の向うに山々がある。
右の写真の左端から左の写真にかけて、ゴルフコースは一段高い位置にある。
コース造成の時に、かなり山が削られていると想定すると、あの奥は深い谷・・・
「五ノ谷」と名付けるにふさわしい地形だったのではなかろうか?
それを確認するには・・・・あそこまで行かねばならない・・・
「私の読みが正しいかどうかを確認するには・・・ここでゴルフをするしかないですねぇ」(笑)
「で・・・ボールをわざと向うに打って、ボールを探す振りしてあのコースの端っこに行ってみる・・・というのはどうでしょ?」
“ヤナギモトさん”と二人で大笑い。
この「400高地」は「五ノ谷」から川を渡って向こう側の「赤山」「黄山」に向かう要衝の地である。
柳本大隊は、ここを40日間ほど占拠していたようである。
どういうわけかは知らないが、米軍はここへ直接陸上からの攻撃はかけてこなかった。
砲爆撃のみである。
3月25日、柳本大隊は「神風山」に移動する。
ここで、10分弱ほど景色を眺め、今度は、ここから少し西にあるゴルフ場に向かう。
ここも韓国資本のゴルフ場で・・・・
勝手にズカズカとクラブハウスに入っていったら「アンニョンハセヨォ~!」とフロントの人に挨拶された・・・(驚!)
あの・・・俺は日本人ですけど・・・(大汗)
どこへ行っても日本人より韓国人だと思われやすい拙者である・・・仕方がないか・・・(大笑)
我々が何をしに来たのかの説明は、ガイドの“タケウチさん”に任せて・・・・
またまた、“ヤナギモトさん”と二人で勝手にテラスに向かう。(大笑)

川が大きく曲がっているところが「五ノ谷」と呼ばれたところではないかと思うのだが・・・
あくまでも推定だが・・・・
川岸の“半島”のように飛び出しているこちら側(西側)当りだと思うが、昭和20年9月15日の午後1時に山の中から降りてきた柳本大隊は、あのあたりで武装解除を受けている。
この時の生存者は大隊直属の将兵が17名、大隊に配属されていた戦車中隊の生き残りが13名、合計30名だった。
最大時の総兵力が650名だった柳本大隊(配属部隊を含む)は、終戦時にはたったの30名しか生き残らなかった・・・・
生還率は5%を切っている・・・・
ちなみに拙者の祖父の部隊の場合は、配属部隊を含めて600名いたが、生き残ったのは祖父を含めて11名、生還率は2%を切っている。(汗)

川の向こう側に見える山々が「奥山」といわれる場所だと思うが・・・
これまた推定である。
なにせ、柳本大隊長が書き遺した手書きの地図では、大まか過ぎて距離も何もよくわからないのである。
加えて、海軍側の生還者が書き残した資料などの地図では山や地域の名称に違いが見える。
陸軍と海軍で、それぞれ自分達で日本名を付けて作戦行動を取っていたためだろう。
このため、陸軍と海軍の資料を突き合わせると混乱するばかり・・・(大笑)
向うに見える山々に“複郭陣地”が造られていたと思うが・・・・
川向こうの地域は、陸軍は高山支隊(機動歩兵第2連隊主力を基幹)と高屋支隊(空挺部隊である滑空歩兵第2連隊を基幹)が戦ったが、主に海軍の航空部隊の地上員で構成された各種部隊が戦った場所である。
海軍のほうまで調べているとキリがないので今回は目をつぶったが・・・・(笑)
陸海軍共に航空機搭乗員(パイロット)は貴重な存在なので優先的にフィリピンを脱出した。
本土決戦にはパイロットが一人でも多く必要だったのである。
これは無理もない話である。
しかし、それとともに、軍の“高級将校”たちも、我先にと台湾に逃れた。
エリートと呼ばれる“優秀な人間”だから、こんなところで死ぬわけにはいかない。
何のために競争に打ち勝って、この地位までに登りつめたか・・・
こんなところでは死んだら損だというわけだろう。
「後方へ下がって指揮を取る」というもっともらしい理由を残して部下を置き去りにしてサッサと飛び立った・・・
残された整備員などの地上要員は、かわいそうである。
航空部隊の地上員は「地上戦」には不慣れである。
それがいくつかの“戦区”に別れて地上戦を戦い“消滅”していった・・・・
あの向うに見える山々はそういう場所なのである・・・・
昭和20年4月9日、柳本大隊は「神風山」の陣地を撤収して移動することとなる。
ここが「神風山」だとすると・・・・
この目の前の川を渡り、左に折れて「馬の背」を通って「礼山」に向かったことになる。
「馬の背」と名付けているんだから“馬の背中”みたいな地形なのだろう・・・
ということは・・・あそこあたりではなかろうか?

「馬の背」と名付けられておかしくない景色である・・・
あそこが「馬の背」ではなかろうか?
そうだとすると・・・・
あそこを通って、再び川を渡り、こちら側に戻って、さらに西に向かい、「礼山」の陣地に入る。
で・・・・そこで自活生活・・・・
食糧不足のため、軍は集団自活を解除し、小グループでの自活行動を認めることとなる。
敵の攻撃より餓死と戦うことになったようである。
その「礼山」と呼ばれた山はどの辺りか・・・・


その方向を見てみると・・・・
小高い山が邪魔で向うが見えない!(涙)
現在造成中である。
あの頂上に上れれば、向こう側が見渡せるだろうから、「礼山」の位置がわかるかも・・・・
しかし、現在、造成中の場所に勝手に立ち入ったらトラブルを引き起こしかねないので諦める。
何が建つのかは知らないが、完成したころ、あそこに上ってみたいものだ。
「神風山」では頂上に陣地を築いたと柳本大隊長は記録を残している。
となると・・・・頂上というのは、この造成中の山のことだろうか?

後ろを振り返ると・・・・この景色・・・・
遠くにクラークの平地が見える・・・・
ゴルフコース造成のため、かなり山が削られている。
ゴルフ場になる前の状態はどういう感じだったのだろうかと想像してみる。
ゴルフ場なんかに開発しやがって・・・と怒るのは簡単だが・・・(笑)
いや、ここがゴルフ場に開発されていなかったら、この場所に来る事は不可能だっただろう。
昔のまま、山のままだったら、とてもじゃないが登る事は無理だったに違いない。
そうなると、川向こうの景色も見られなかったわけで・・・
考え方を変えてみれば、ゴルフ場に開発してもらったおかげで足を踏み入れることが出来たといえる。
これは感謝すべきか?・・・・韓国企業に?(大笑)
さて、そろそろ帰ろうか・・・という時にゴルフ場の責任者が名刺を持ってやって来た!(笑)
「先ほどは失礼しました。日本の方でしたか・・・」と言う。(笑)
次回は是非、ゴルフをやりに来て下さいという。
この会社は日本の九州にも2箇所ほどゴルフ場を経営しているので、是非、日本人にもここでプレーしてもらいたいと言う。
まぁ、あの横柄な韓国人が・・・・(笑)
一生懸命、拙者を相手に営業活動をするとは・・・ねぇ・・・(笑)
彼の英語は綺麗な英語で、また物腰もごくごく丁寧・・・・決して卑屈な態度ではない。
韓国人にもこういう人がいるんだねぇ~(笑)
いや、こういう人物だからこそ、フィリピンのこのゴルフ場を任されているのかもしれない。
意外にも好感の持てるマネージャーさんだった。(大笑)
問題は・・・拙者のほうである・・・(泣)
まともな英語で応対できない・・・(大泣)
いやぁ~申し訳なし・・・・
彼の話では、ここはさらに開発を進めていて、最終的には一大リゾート地になる予定だそうだ。(唖然)

あらら・・・ここが計画通りに完成したら、もうここが“戦跡”だなんて誰もわからなくなるだろう。
仕方がないか・・・・
それにしても日本の企業は何をしているのだろう?
韓国は、まぁ、半分ハッタリだとしても、スケールの大きな事をここでやっているというのに・・・・
日本の企業は元気がないのか?
下請けいじめのほうで忙しいのか?(大笑)


遠くに見えるのは「アラヤット山」・・・・
戦時中は抗日ゲリラの本拠地で、戦後はフィリピン共産ゲリラの本拠地だった山である。
今も本拠地になっているかどうかは・・・・知らない。(笑)
手前の平野部にクラークの国際空港が見える。
この空港には韓国から直行便が運行しているそうだが、日本からの直行便はない・・・
だから韓国企業、韓国人ゴルファーや観光客がやってくるわけで・・・
う~ん・・・日本は負けてるな・・・(汗)
この地点から平野部が一望できるから、陣を構えるにはもってこいの場所であることは間違いない。
ここから空港が一望できるということは、当時、米軍に占領された我が軍の航空基地も一望出来たということになるか・・・
時刻は午後1時半を過ぎた・・・・
拙者の勘と推測を説明しながらご案内した柳本大隊の足跡・・・・
“ヤナギモトさん”は生前のお父さんから全く話を聞いていなかったそうなので、何もわからないと言っていた・・・
今回のご案内で少しでも喜んでもらえたなら幸いである。
ゴルフ場を辞し、これからアンヘレスの町に向かう・・・・
投稿日:2014-06-28 Sat
今日は、夕方に画家で郷土史家、神風特攻隊を顕彰してきた“デイソンさん”宅をお訪ねする予定・・・”タケウチさん”に事前にアポを取っておいてもらった。
で・・・それまで時間があるので・・・・
その間に、戦跡めぐりをすることにした。
ホテルをチェックアウトして市内のファストフードで朝食をとる。
まず最初に向かったのは、マバラカット東飛行場跡・・・・


我々は「陸軍」の関係者ですが・・・・(笑)
神風特攻隊となると、やっぱり日本人なら慰霊をしてあげないとね・・・・
陸軍も海軍もなく・・・・
【現地説明板】
太平洋戦争における「神風」が離陸したマバラカット飛行場
太平洋戦争における「神風特別攻撃隊」が離陸した「マバラカット東飛行場の西端」がこの地点であり、当時、パンパンガ州マバラカット町に駐屯の帝国海軍第一航空艦隊第二〇一航空隊所属の搭乗員二十四名からなる特別攻撃隊を、昭和十九年十月二十日第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将発令にて編成、関行男大尉を隊長とするこの隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と命名。
この神風特別攻撃隊を更に「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の四隊に分けられ、この最初の「神風」攻撃隊各隊は当初十三名の搭乗員によって編成され、当日午前十時頃、当地に在るサントス家の前庭において大西中将自身によって命名式が執り行われた。
翌、昭和十九年十月二十一日午前九時、関大尉率いる敷島隊はゼロ戦に二百五十キロ爆弾を爆装、フィリピン東方海上に展開中と報告された米国艦船群を目標に、この基地を飛び立つが目標の敵艦船は発見できず、マバラカット飛行場基地に帰還せざるを得なかった敷島隊は、翌日から三日間連日、この基地より敵艦索敵に離陸するが悪天候のため発見できずに終わった。
しかし、ついに昭和十九年十月二十五日午前七時二十五分、再びマバラカット基地を離陸した敷島隊は、同日午前十時五十二分、ついにレイテ島タクロバン沖にて目標の敵艦船を捕捉、関大尉は最初に空母セイント・ローに体当たりを敢行し、後続の長嶺(筆者注:永峰)飛長も同艦に突入し、これを撃沈した。
関大尉部下の隊員もサンガモン、スワニー、サンティー、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、キットカン・ベイらの空母に大破の損害を与えた。
この攻撃にはセブとダバオからの「神風」攻撃隊も参加した。
この日の「神風特別攻撃隊」の戦果はマバラカット基地から敷島隊の直掩戦闘機として攻撃に参加した西澤広義飛曹長によって確認・報告された。
関大尉の直卒の敷島隊員は中野磐雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛であった。
彼らの緒戦の成功は、その後、フィリピン、台湾、沖縄、日本本土の陸海軍搭乗員の多くが参加する「神風戦術」として広まっていった。
太平洋戦争中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。
外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。
この地に訪れる参拝者の皆様に謹んでお願いします。
全ての「神風」と比米軍を中心とする連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、そして、全世界の平和の為に祈りますと祈念して下さい。
(注記)
マバラカット観光局(MTO)神風平和祈念公園の建立を推進した理由は、神風特別攻撃隊の栄光を称賛する為ではなく、その歴史的事実を通じて世界の人々に平和と友好の尊さを訴える為であります。
神風平和祈念廟が神風特別攻撃隊のような不幸な出来事を二度と繰り返さないと誓う場所となる事を祈念するものです。
かつて、何の変哲も無く長閑なマバラカットの町が神風発祥の地として第二次世界大戦中の太平洋における戦場で歴史を刻むと誰が想像したでしょう。
かつて、覇権を争う外国列強の不条理な戦争にマバラカットの住民が巻き込まれる事を誰が想像したでしょう。
かつて 、マバラカット住民とフィリピン全体を苦しめ束縛していたものから解き離す重要な原因として、神風搭乗員の誕生と終焉があることを誰が想像したでしょう。
かつて この神風慰霊碑が戦争の不条理さと恐怖を痛切に思い出させるだけではなく、地域の観光振興と歴史認識に貢献している事を誰が想像したでしょう。
それゆえ、1998年10月のクラーク・フィールド、マバラカット“世界平和の都市”宣言は人種や国籍の区別なく地球上の全人類の恒久平和を守り、そして永続させるための継続的な努力です。
マバラカット観光局長
ガイ・“インドラ”・ヒルベロ
この地を訪問するのは4回目である。
初めて訪れたのは、平成13年だったと思う。
そのころは、まだ、この慰霊碑は建設途中だった・・・
次に訪れたのは平成15年(2003年)の5月・・・
この時に慰霊場の鳥居が完成していた・・・
翌年、また訪問したら、今度は門扉が取り付けられていた・・・
そして、あっという間に10年が経ち・・・今回で4回目!
え?・・・・いつの間に10年も経っちゃったんだろう?(汗)
慰霊碑の説明板の文章は全面的に書き直されて、新しい文面になっている!
慰霊碑の周辺も、大きく変わってしまっている・・・

慰霊碑の前の道は、こんなに綺麗な道路ではなかったし・・・
家なんか建ってたっけ?(笑)

ここなどは、11年前は、ただの草原・・・・
もしかしたらサトウキビ畑だったかもしれないが・・・(笑)
何もない場所だったのに、道路が走っている!!(驚)
この“草原”が当時の東飛行場跡だろうと思い、ここから写真を撮った覚えがある・・・
が・・・全くその当時の面影が無くなっている・・・・
いやぁ~10年も経つと、こういうことになるんだぁ~
時刻は午前11時15分・・・・
次は、マバラカット西飛行場跡の慰霊碑に向かう。

ここにも何度も来たことがある。
最後に来たのは・・・2年前だったかな?(笑)

【現地説明板】
第二次世界大戦における最初の「神風特別攻撃隊」が離陸した「マバラカット西飛行場の西端」がこの地点であり、当時、パンパンガ州マバラカット町に駐屯の帝国海軍第一航空艦隊第二〇一航空隊所属のパイロット二十四名からなる特別攻撃隊を、昭和十九年十月二十日第一航空艦隊司令長官大西滝治郎(筆者注:瀧治郎?)中将発令にて編成、関行男大尉を隊長とするこの隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と命名。
この神風特別攻撃隊を更に「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の四隊に分けられ、この最初の「神風」攻撃隊各隊は当初十三名のパイロットによって編成され、当日午後三時頃、当地に在るサントス家の前庭において大西中将自身によって任命式が執り行われた。
(筆者注:ここに上記文章が重複して刻まれているので、記載は省略)
翌、昭和十九年十月二十一日午前九時、関大尉率いる敷島隊はゼロ戦に二百五十キロ爆弾を爆装、フィリッピン東方海上に展開中と報告された米国艦船群を目標に、この基地を飛び立つが目標の敵艦船は発見できず、マバラカット東飛行場に帰還せざるを得なかった敷島隊は、翌日から三日間連日、この基地より敵艦索敵に離陸するが悪天候のため発見できずに終わった。
しかし、ついに昭和十九年十月二十五日午前七時二十五分、再び同基地を離陸した敷島隊は、同日午前十時五十二分、ついにレイテ島タクロバン沖いにて(筆者注:沖にて)目標の敵艦船を捕捉、関大尉は最初に空母セイント・ローに体当たりを敢行し、後続の長嶺(筆者注:永峰?)飛長も同艦に突入し、これを撃沈した。
関大尉部下の隊員もサンガモン、スワニー、サンティー、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、キットカン・ベイらの空母に大破の損害を与えた。
この攻撃にはセブとダバオからの「神風」攻撃隊も参加した。
関大尉直卒の敷島隊員は中野磐雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛であった。
彼らの緒戦の成功は、その後、フィリッピン、台湾、沖縄、日本本土の陸海軍パイロットの多くが参加する「神風戦術」として広まっていった。
この飛行場から最後の「神風」出撃は昭和二十年一月六日午後四時四十五分に離陸し、レイテ湾上にいた米軍上陸部隊艦船に対しての攻撃は中野勇三中尉率いる五機のゼロ戦で、部下の攻撃隊員は一小隊に後藤喜一上飛曹、谷内善之上飛曹(筆者注:この人名が重複して刻まれているのでここでは割愛)、二小隊に中尾邦為中尉、千原昌彦上飛曹であった。
他にアンヘレスとエチャエグ(筆者注:エチアゲ?)からの「神風」もこの攻撃に参加。
空母ロングは撃沈、大破した米国艦船はニュー・メキシコ、カリフォルニア、ルイスビル、ミネアポリス、コロンビア、アレン・エム・サムナー、■ルケ(筆者注:1文字判読不可)、オブライエン、サウサード、そして、ブルックス、ウオークであった。
昭和二十年一月八日の暁、この飛行場から最後の飛行機が離陸した。
「神風」の機密書類と人員を乗せた最後の二機の飛行機が脱出する為、この飛行場から低空飛行で台湾へと飛び立った。
他の全ての地上要員は地上戦闘員として、米陸軍部隊の攻撃からクラーク平原の全施設防衛の為、最後の一兵まで戦うべく残地(筆者注:残置?)された。
昭和二十年一月二十六日、マバラカット西飛行場は終に米国の手に落ちた。
第二次世界大戦の終わりまでに、「神風」、陸上、海上、海中すべての特攻は合計三百二十二隻の米軍船を撃沈または大破の損害を与え、米海軍水兵一万三千三百名を戦死させ、三万六千名に重大な戦傷を与えた。
一万三千二十二名の特攻隊員の内、四千六百名が「神風」として体当たり攻撃で戦死した。
第二次世界大戦中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。
外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。
この地に訪れる参拝者の皆様に謹んでお願いします、全ての「神風」と連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、そして、全世界の平和の為にいのりますと祈念して下さい。
歴史研究家 ダニエル・エッチ・ディソン
アンヘレス市 ビリア・グロリア在住
この碑文の前半は、東飛行場にある碑文と、ほぼ同じである。
内容や文章の如何はともかく・・・・(笑)
同じ文章が重複して書かれていたり、おかしなところで行変えや空白があったり、誤字があったり・・・
一体これはどういうわけだ?(汗)
日本語で書かれているから、この銘板作成には日本人が関わっていたと想像するが・・・・
現地で製作したものか、それとも日本で製作したものを、フィリピンに持ち込んだものかはわからないが・・・・
いくらなんでもヒドイ出来である。
これをプロが作ったというなら、プロとして失格だな。
完成した銘板のチェックはしなかったのだろうか?(唖然)
日本人の誰かが、これをチェックしていたら、そのまま取り付けるということはしなかったと思うが・・・
ちょうどこの時、上空を飛行機の編隊が飛んできた!!
ここに来るまでに、ヘリコプターの編隊やジェット機の編隊が上空を飛んでいた。
近くで「航空ショー」でもやっているのか?・・・・と思っていたが・・・・
なんと、いいタイミングでレシプロ(プロペラ機)の編隊が飛んできたのである!


多分、軍の初等練習機ではあるまいか?
おお!このプロペラ・エンジンの爆音!!
ジェット・エンジンとは全く違う、この心地いい爆音!!(大喜)
その昔、多くの日本陸海軍の兵士たちが、この音を聞いたに違いない・・・
出撃!出撃!
この慰霊碑の前で、まさか爆音を聞くことになろうとは・・・大興奮である!
で・・・大戦末期には、この爆音は「悪魔の爆音」に変ったに違いない・・・
米軍の空襲である・・・・
敵襲!敵襲!
ふと気がついたら、この音を聞いて喜んでいるのは拙者だけ・・・(大汗)
“ヤナギモトさん”も“タケウチさん”も全く興味はないらしい・・・
キョトンとしている・・・・
え?わからないかなぁ~・・・感動しちゃうでしょ?・・・あれ?しない?(汗)
この慰霊碑のすぐ隣りの小高い丘にトンネルが掘られている。
「戦闘指揮所」と言われているバンカー・・・つまり横穴壕である。
昔、一度だけ内部に入ったことがあったが・・・・
あ・・・ペンライトを持ってくるのを忘れた・・・・(大汗)
でも、一応、行ける所まで行ってみようかということで入ってみる。(笑)

一緒に入ったドライバーが、天井から落ちた巣を見つけた。
中に雛がいた・・・コウモリの赤ちゃんだろうか?


ドライバーが、この巣を自宅に持ち帰って、雛を自分で育てたい・・・と言う。(唖然)
彼は動物を育てるのが大好きだそうで・・・・(汗)
でも、どうやって育てるの?(汗)
いや、いや、このまま、ここに置いておいた方がいいんじゃないのぉ~?
ということで・・・諦めさせる。(大笑)
以前、入ったときは、この壕は、奥のほうで“L字”に曲がっていて、奥はかなり広くなっていた。
が・・・どうも、その後、かなり天井などが崩壊している様子なので、これ以上奥に入るのはやめる。(笑)

以前、ここを訪れた時に、やたらと射撃音が聞こえた・・・・
この丘のすぐ隣りに射撃場が出来ていて、射撃をしている音だった。
で・・・・今回、そこを覗いてみることにした。(笑)

射撃場に行ってみたが・・・・人の気配が無い・・・・(唖然)
潰れたのか?(大笑)
あれ?・・・

馬はいるんだけど・・・人間がいない・・・(大笑)
向うに見える丘が、我々がさっき入った壕のある「戦闘指揮所」の丘である。
時刻は間もなくお昼になる・・・・
怪しい人間と思われるのも嫌なので・・・さっさと立ち去ることにした。(笑)
久し振りに射撃をしたかったが・・・残念・・・・
投稿日:2014-06-27 Fri
レストランのスタッフの女性がオーナーから車を借りて、それを運転してホテルの近くまで送ってくれるらしい・・・その途中、「リリーヒルの慰霊碑」に立ち寄ってもらい、お参りをすることにした。
博物館から徒歩でレストランに戻り、彼女が仕事を終えるまで待つ・・・(笑)
時刻は4時45分・・・・

この慰霊碑の銘板には、柳本大隊長・柳本少佐のお名前も刻まれている。
前回、一人で訪れたときに、ここに柳本さんの息子さんを連れて来られたいいなぁ~・・・と思ったのだが・・・
まさか本当に一緒に訪れることが出来るとは・・・・(驚)
お線香をあげて参拝・・・・
ご好意で車に乗せてもらっているので、あまり長居しているわけにもいかぬ・・・・
運転手役の彼女にも都合というものがあろう・・・・
お線香をあげて、記念写真を撮って・・・ホテルに向かう・・・

ホテルがあるアンヘレスの町まで送ってもらう。
感謝、感謝・・・・
“ヤナギモトさん”は、今回の旅の直前に風邪を退いてしまったそうで、かなり咳き込んでいた。
急いで病院へ行って薬を処方してもらったそうであるが、ついに熱が出てきてしまったそうで・・・・
いやはや、こりゃ参った・・・
時刻は5時半・・・・
夕食にはまだ時間が早いので、ホテルで休んでもらうことにした。
少しでも体を休めておいたほうがいいだろう。
明日も人に会う予定があるのだから・・・・
で・・・拙者は、“タケウチさん”と二人でコーヒーを飲みに出かけ、カフェでおしゃべり・・・(笑)
どうもコーヒーを飲んで一服しないと、調子が出ないのである。
なんというか・・・シャキッとしないのである。(大笑)
このカフェは繁華街の中にある・・・・
ここは・・・いわゆる“色町”か?(笑)・・・“ピンク街”か?(大笑)
ミニスカートを履いた女の子がやたらと歩いている・・・(大喜)(大笑)
これから出勤するホステスか、客引きの売春婦か?(汗)
う~ん・・・いい目の保養である・・・(大笑)
観光客も結構見かける・・・
一番多いのが白人・・・・
その他には中国人か韓国人か、明らかに日本人ではない“東洋人”男性が目立つ・・・・
アンヘレスという町は“女遊び”で有名なところらしいが、拙者は初めて来た・・・
遊び目的の日本人はマニラより、この町に行くという話しを聞いたことがあるが・・・・
拙者はフィリピンに来るようになって15年経つが、いつも山の中か戦跡巡りばかり・・・・
こういうところには来たことがないので珍しくて仕方がない・・・・(大笑)
夕食はホテルの近くのレストランでとる・・・
時刻は午後7時半・・・・

食事を終えて・・・さて・・・どうしますか?(笑)
“ヤナギモトさん”はお酒が飲めない・・・
しかも風邪をひいて体調不良ということで、真っ直ぐホテルに戻り休むという・・・
で・・・拙者は“夜の社会科見学”をすることにした。(大笑)
“タケウチさん”に某パブに連れて行ってもらう。
お店はかなり広く、まぁ~きらびやかなステージでたくさんの女性が踊っている。
というか・・・デレデレと腰を振っている程度だが・・・(笑)
気に入った子がいれば、自分の席に呼んで、さらに気に入ればホテルに連れて行くのだそうだ。
しかし、これだけの女の子からどうやってお気に入りの子を指名すればいいのか?
店の中を巡回しているスタッフに頼むと、スタッフの“やり手ババア”が(笑)、レーザー光線を女の子に当てるそうで・・・
自分にレーザー光線が当った女の子は、それを合図にステージから降りて客の席に行くという。
ほうほう・・・そういうシステムですか・・・(笑)
「私のことは気にしなくていいですから。こういうことは慣れていますから・・・」と“タケウチさん”は、やたらと気を使ってくれる。
女性ガイドと一緒に来ては、女の子を“買う”のに気が引けていると思っているのだろう。(大汗)
しかし、拙者の目的は、女の子ではない・・・・(大笑)
お目当てはマジックショー!
女の子のダンスの合間にマジックショーが行われるという。
拙者はマジックショーをナマで見たことがない・・・
マジックショーが見られるのなら・・・ということでこの店を選んだのである。(笑)
このマジックショーがなかなか始まらない・・・(涙)
しばらくの間、客の様子を観察して楽しむ・・・
白人の客が多い・・・・英語が通じるからか、楽しそうに会話をしている。
次に多かったのは、韓国人の団体客・・・・
吹き抜けの二階席からステージにカネをばら撒く・・・(唖然)
それをキャーキャー言いながら必死に掴み取る女の子たち・・・・
悪趣味だよなぁ~(唖然)
品が無いよなぁ~(汗)
”タケウチさん”の話では、昔は日本人の団体が、よくこれをやったらしい。
1000ペソ(約2千円)を小額紙幣の20ペソ(約40円)に換えれば、20ペソ紙幣50枚となる。
これが2000ペソならば、100枚となる・・・・
両替したこの小額紙幣の束をばら撒くのだという・・・(唖然)
馬鹿じゃなかろうか?
それに群がる女も女だが・・・これじゃ、いくら美人でスタイルが良くても・・・見ていて冷めるよなぁ~(大汗)
そのうち韓国人団体・・・・ガイドと店のスタッフを相手に何やら大声で騒ぎ始まった・・・・
どうも女の子がなかなか決まらないご様子・・・(笑)
うるさいことを言っているんだろう・・・
横柄で、生意気で、我がままで、自分勝手で、加えてケチという韓国人である。
言葉がわからなくても想像はつく・・・(笑)
どいつでもいいから、さっさと女の子を決めて店から出て行ってくれねぇかなぁ~
鬱陶しんだよね・・・・(怒)
そこに、更に鬱陶しい連中が・・・・
日本人の少人数のグループ・・・・それも数組・・・・
あ~やっと出没してきましたか・・・日本人・・・・
鬱陶しい・・・・(大笑)
このお店には「マッサージ」を担当する女の子がいる。
声をかけられたが、”売り”に来たのかと思ったので断ってしまった。(笑)
“タケウチさん”に聞いたら、今のがマッサージをしてくれる子だという。
あら・・・かなりの美人さんだったのに断っちゃった・・・正直言って・・・後悔・・・(大笑)
“タケウチさん”が店のオーナーとおしゃべりしている間に、次にやってきたマッサージ嬢にマッサージを頼む。
マッサージと言っても肩を揉む程度だけなのだが・・・(大笑)
で・・・・飲み物を御馳走してあげて、おしゃべりをしていたら・・・
「え!いつの間に・・・」と”タケウチさん”に呆れられた・・・(大笑)
拙者は、それほどカチカチの真面目男ではありませぬ。(大笑)
遊ぶ時は遊ぶが、遊ばないときは絶対遊ばないと決めている・・・という男です。(大笑)
今回の旅行は(いつもそうですが・・・笑)、目的が違う・・・・
“女遊び”でやってきた他の日本人観光客とは違うのです!
ここは一線を画したい・・・・
マッサージの女の子も”お持ち帰り”ができるそうで・・・・
売り込んできたが丁寧にお断りする。(笑)
拙者の目的は慰霊と戦跡訪問である・・・・ということを説明してもわかってくれないだろうけど・・・(笑)
慣れない場所では、拙者はお酒は極力飲まないことにしている。
帰り道でトラブルに遭ったときに酔っていては対処ができなくなる。(笑)
まともな判断ができないとマズイ・・・ということで・・・・
コーヒーとコーラばかりを飲んでいた・・・(大笑)
ようやくマジックショー!!(喜)
青年が一人、ステージに立ち、ショーの始まりである!
なかなかの腕前である。
へぇ~・・・ほぉ~・・・・おお!・・・・である。(何のことやらわからんでしょうが・・・)(大笑)
大いに楽しませてもらった・・・
その後、このマジシャンは女の子を従えて店の中を挨拶回りする。
同行する女の子はチップを受け取る係らしい・・・(笑)
拙者のところにも来たので、マジックショーが素晴らしかったことを褒めてあげて、チップを弾む。(笑)
韓国人には、こういうスマートなことはできまい・・・(大笑)
いろいろと“目の保養”もさせていただき・・・・”夜の社会科見学”は終了!(大笑)
ホテルに戻り、マッサージを頼んで・・・・寝る!(笑)
マッサージをしてもらって、ウトウトして・・・そのまま寝るのが一番である!(大笑)
投稿日:2014-06-27 Fri
今日はクラークに向かう日・・・・ホテルのチェックアウトは“ステラさん”がわざわざ来てくれてやってくれた。
もう10年以上の付き合いであるが、毎度のことながら助かる。
感謝、感謝である。
ホテルにはクラークから迎えの車が来ることになっているが・・・・
どういう人物が来るかは全く知らされていない。
現地旅行社の“タケウチさん”の携帯に電話をしたがつながらない・・・(大汗)
おい、おい、本当に迎えは来るんだろうな?(大汗)
しばらくして、拙者のことを探しているフィリピン人がいると、ホテルの従業員に声をかけられた。
その人物が運転手だった・・・(唖然)
拙者は表玄関の外に立って車寄せに車が入ってくるんだろうと待っていたのだが・・・・
彼は別の場所に車を止めて徒歩で裏口からロビーに入って来たそうだ・・・・
あのね・・・そういう「お迎え」ってあるの?(唖然)
“ステラさん”は、我々が確実に出かけるのを確認するまで残っていてくれた。
他の旅行社に手配したことだから彼女には我々を心配する義務はないのだが・・・
最悪の場合は、彼女を頼れるので、心強かった・・・
大助かりである。
ドライバー君は英語しか話せないので、なかなか会話が大変であるが・・・・(笑)
まぁ、片言英語を駆使した楽しいドライブをして・・・・(大笑)・・・・本日宿泊予定のホテルへ・・・・
が・・・・ホテルで待ち合わせ予定の“タケウチさん”がいない!!(唖然)
ドライバーに尋ねたら、「これから来るんじゃなかろうか?」と言う・・・・
あらら・・・・
仕方がないので、勝手にチェックインの手続きをして先に部屋に入る。

部屋はかなり広い・・・・
このホテル、現在改装中のホテルで、フロントもロビーもレストランも閉鎖中・・・(笑)
仮設の机ひとつの“フロント”でチェックイン・・・
というわけで・・・・このホテル・・・・現在、宿泊代が半額なのである!(大笑)
それで、この部屋だからねぇ~・・・・満足である!
部屋で“タケウチさん”が来るまで待機・・・
まもなく“タケウチさん”がホテルにやってきた・・・
彼女の話によれば、ドライバーに途中で電話をしてくれるよう言っておいたのに、ホテルに着いてから電話をしてきたそうで・・・(唖然)
まぁ、フィリピンではよくある話かも・・・・
携帯電話がつながらなかったのは、数日前に携帯電話をバックごと盗まれたという。(唖然)
そういう場合は、拙者が日本を出る前にメールで新しい番号を教えてくれないと・・・・(大汗)
万が一というのは考えなかったのだろうか?(唖然)
日本人とはいえ、現地在住者となると、フィリピン人に似ちゃうのかな?(大笑)
博物館の館長さんと昼食を一緒に食べる約束をしていたので、急いで博物館に向かう。
館長さんをピックアップして近くのレストランで食事をする予定・・・・
館長さんは拙者の親父と同い年だが、かなり足が弱っていて、ほとんどヨチヨチ歩きに近い・・・
が・・・・気力は我が親父よりスゴイ・・・(大笑)
初対面の時は本当に怖かった・・・・(大汗)
が・・・今では気さくないいお婆ちゃんである。(喜)
博物館から出てきて・・・「おお!ミスタァ~スズキィ~!!」と大喜び。
こんなに喜んでくれるんだから来たくもなるというものである。(笑)
拙者は“ハグ”なんてしたことがないので・・・いきなり抱きつかれて、こっちはシドロモドロである。(大笑)

レストランには観光局の“ガイ局長”もお呼びして、一緒に食事をする。
“ガイ局長”には、以前、観光リーフレットの和訳を頼まれていたので、英語が下手な拙者が訳した文章をプロの翻訳家の“フルサワさん”にチェックしてもらい・・・・(汗)
散々手間をかけて作った「和訳原本」を渡す。
“フルサワさん”にはボランティアでやっていただき恐縮至極である。(喜)
いやぁ~本当に助かった・・・感謝、感謝である。
この原本をコピーしてもらい、英文の観光リーフレットを読むのが苦手という日本人観光客に配ってもらうことになっている。
う~ん・・・ちゃんと、やってくれるかどうかは知らないけど・・・(笑)
博物館館長が「あなたにお願いしたいことがあったのを伝えるのを忘れていた」と言う。
何かと思ったら、日本茶のティーパックを日本から持ってきてもらいたかったと言う・・・・
ん?(笑)
ジャジャジャァ~ン!・・・・ちゃんと持ってきましたよ!!お土産で~す!(大笑)
「おお!良く覚えていてくれたわねぇ~」と館長さんは大喜び・・・・
お茶程度でこんなに喜んでいただけるんだから安いものである。
で・・・・
前回お会いした時に「あなたのバイオグラフィーについて書いた物を持ってきてくれ」と言われた・・・
その“バイオグラフィー”の意味が拙者にはわからないのですが・・・(大汗)
履歴書みたいなものかな?自己紹介文?
辞書を片手に、これは独力で英文で書き上げた・・・・
それを手渡したら・・・・
「あら・・・本当に書いてきたの?それじゃ、本気で探さないとね・・・」と館長さん・・・
拙者の英語力はかなり貧弱だが・・・(笑)
確かにそう言ったような・・・・(大笑)
え?・・・あれは冗談だったのか?(大汗)
いつも、こんなお婆ちゃんと食事していたのでは申し訳ない、もっと若い女性と食事をしたほうがいい、ついては、あなたの“バイオグラフィー”を書いた物を読ませてもらい、あなたの経歴や学歴に見合う女性を探してあげるので、次回、必ず持ってきてくれ・・・・って言ったよね?(大汗)
あれ?・・・・拙者の聴き違い?・・・・(大笑)
拙者としては、若い女性とデートするより、館長さんの喜ぶ顔を見たくて来てるわけで・・・
紹介してくれなくても別に構わないのですが・・・・(大笑)

このレストランのオーナーは日本人の方で・・・・
館長さんがアポをとっていた・・・(唖然)
同じ日本人同士なら話もし易いだろうという、英語が苦手な拙者を気遣ってのことなのだろう。
で・・・・オーナーの“アリタケさん”が時間をやりくりして、わざわざお店に会いに来てくれた・・・・
で・・・・「それで、私に何の用でしょうか?」と言う。(大汗)
「へぇ?別に用事があるわけじゃないのですが・・・・」(大汗)
町の名士である館長さんから「会って欲しい」と言われたので、わざわざ時間を作ってくれたそうで、申し訳なし・・・
「館長さんから、紹介するからと言われただけでして・・・・」と恐縮・・・・
いやぁ~参った・・・・(大笑)
食事を終え、“ガイ局長”の事務所を“見学”・・・・

ここで、これからの町の開発計画や、その模型などを見せてもらう。
「で・・・ガイ!俺の家はどの辺に建ててくれるんだ?」とジョークを言ったら、通じたらしい・・・・大笑い・・・・
この周辺の建物は、日本軍が駐屯していた時に兵舎として使われた建物が残っている。
陸軍が使ったのか海軍が使ったのかは知らないが・・・・


戦後、かなり手を入れられているそうだが、基本的な部分は当時のままだという・・・・
時刻は午後3時・・・・
続いて、クラーク博物館に徒歩で向かう・・・
館長は先に戻っているので、改めて“表敬訪問”(笑)

ここに展示されている日本軍の遺品を“ヤナギモトさん”にお見せしたくて案内した・・・・
お父さんの部隊のものもあるのではなかろうかと思うのである。


さて、館長さんと別れ・・・・
次に向かいたいのは「リリーヒルの慰霊碑」なのだが・・・・
“足”がない!・・・・うまり、車がないのである!(大笑)
”タケウチさん”は、懇意にしている“ガイ局長”の車を運転手付きでタダで借りようと思っていたそうなのだが・・・(唖然)
なんと!彼の車は現在修理中とのこと・・・・(大笑)
あらら・・・どうする?
ここクラークフィールドは、その昔、米軍の空軍基地があった場所である。
1991年にフィリピンに返還されたが、基地の名残が残っている。
現在は「クラーク経済特別区」となっている。
博物館が建っている同じ地域に「リリーヒルの慰霊碑」があるので、歩いて行けない事もないが・・・・(汗)
敷地が広大すぎる・・・・(大汗)
結局、レストランのオーナーが特別に車を“提供”してくれた。(大喜)
通常は、そういうことはしないのだが、拙者が博物館長から信頼されている親しい“お客様”なので、特別に車を提供してくれたのだろうと“タケウチさん”が驚いていた。(笑)
投稿日:2014-06-26 Thu
先々週、マレーシアから戻って来て・・・・帰国早々、今度は・・・・フィリピン!(笑)
いやはや、友人達の呆れる顔が目に浮かぶというものである!(大笑)
今回は、ツアーではなく、以前から計画していた個人旅行での訪比である。
主目的は、例のクラーク博物館の館長に会うこと。(笑)
ご高齢なので、あと何回会えるかわからない・・・・
会えるときに会っておこうと思ったのである。
このことを先月、靖国神社で催行した我が戦友会の永代神楽祭で話したところ・・・
機動歩兵第2連隊の柳本大隊長のご子息から、同行させてもらえないかとの打診を受けた。
柳本大隊は、このクラーク地区で戦い壊滅したが、大隊長は無事に生還されている。
我が戦友会の会員だったが平成3年に交通事故で突然この世を去られた。
ご子息としては、お父さんが戦っていた場所を訪ねてみたいと思っていたそうで、ようやく定年退職となり時間も出来たので・・・とのこと。
いや、それは是非、一緒に行きましょう!
亡くなられたお父様も喜んでくれるのではあるまいか?
話はとんとん拍子に進み、2人でフィリピンに行く事となった。
問題はお父様の足跡である・・・・
この地区は日本軍の一大航空基地・・・・
陸軍の飛行機が間違って海軍の飛行場に着陸してしまったというエピソードが残るくらい、いくつもの飛行場があった場所である。
米軍がフィリピンに上陸し、反攻してきた時に、この地域はもちろん戦場となったが・・・・
なにせ陸海軍の航空関係者ばかりしかいなかった場所である。
陸戦には疎い・・・・
まともな陸上兵力は我が機動歩兵第2連隊の本部と柳本大隊くらいしかいなかったのである。
事前の調査をしようにも、柳本大隊に関する資料は皆無に等しい・・・・
大隊長自身が戦後に記した手記しかない・・・・
ご子息から、その手記をいただき、これを元に足跡を調べるが、これがなかなか難しい・・・・(涙)
「略図」はフリーハンドで描かれた本当の“略図”であるから、距離も位置関係も必ずしも正確ではない。
ネットでグーグルのマップとにらめっこしながら・・・・(大笑)
現在はどのあたりに位置するのかを探し出す。
大変は大変だが、結構、こういう作業は楽しい。(笑)
なにせ、間違った場所をご案内するわけにはいかないし・・・・
事前に現地調査に行く余裕もないから、ぶっつけ本番ということになる。
ご子息に満足していただけるような案内をせねば・・・・
神経を使うが、でも、楽しい!(喜)
今回は、いつも使うANA便が満席のため席が取れなかったので、やむなくJAL便を利用することにする。
JALでフィリピンに行くのは何年ぶりのことだろう・・・・(笑)
夕方、成田空港で“ヤナギモトさん”と待ち合わせ・・・・
無事に合流できた。(笑)
“ヤナギモトさん”は国内線は仕事でよく利用していたそうだが、国際線は初めてとのこと・・・
緊張しまくっていた・・・(大笑)
午後6時10分成田発、JAL745便でマニラに向かう。

午後9時50分、マニラに到着・・・・
マニラ空港には3つのターミナルがある。
第1ターミナルは、各国の航空会社が乗り入れている昔からあるターミナルで・・・・
古くてオンボロである。(大笑)
第2ターミナルはフィリピン航空専用の綺麗なターミナルである。
フィリピン航空を利用してマニラに入る場合は、このターミナルに到着する。
このターミナルの便利なところは、第1ターミナルと違って出国審査を終えて先に進むと、すぐに搭乗口に到着するというところ。
歩く距離が短くて便利なのである。
歩行に多少の不安があるご遺族をご案内して訪比したときは、このターミナルを使用するフィリピン航空にした。
が・・・成田発だと、早朝便になり、拙者の場合は成田空港周辺に前泊しなくてはならない。
帰国時も遅い時間なので、後泊しなくてはならず、結局、余計に2泊しなくてはならないので、最近ではフィリピン航空の利用はやむを得ない場合を除いて避けるようにしている。(大笑)
第3ターミナルは、一番新しいターミナルだが、乗り入れ航空会社がANAくらいしかない、寂しいターミナル。
おかげでターミナル内はガラガラだし・・・・(笑)・・・・
静かでいい・・・(笑)
今回はJALなので、古くてオンボロの第1ターミナルに到着・・・である。(大笑)
迎えには、いつものように“ステラさん”に来てもらった。
ホテルに向かう途中、いつものように市内の両替商のところに立ち寄り両替をする。
ホテルはいつもの拙者の定宿を指定。(笑)
慣れているところが一番落ち着く・・・・
いつものようにチェックインの手続きを済ませたらコーヒーラウンジでコーヒーを飲みながらオシャベリ・・・・(大笑)
今回の旅は、いつもの旅行社を使って、マニラ滞在部分だけをお願いした。
クラーク地区に関しては、前回お会いした、現地で旅行社を経営している日本人女性の“タケウチさん”にお願いした。
初めての利用で少々不安だが・・・・(汗)
折角知り合ったのだから、彼女にも何らかのメリットが出るようなことをしてあげようと思ったのである。
夕食は、いつものように機内食のみ・・・(笑)
さすがに少々腹が減ってきたが、我慢して寝る!(大笑)


投稿日:2014-06-24 Tue
またまた、お知らせいたします。多分、呆れかえると思いますが・・・・
6月26日から、今度はフィリピンに行ってきます!(大笑)
ふらふらと飛び回って、申し訳ございません・・・・
帰国は6月29日となります。
気のせいでしょうか?
皆様のシラッ~とした冷ややかな視線を感じるのですが・・・・
7月と8月は海外には行かず国内にいる予定ですのでご容赦を・・・・
(9月はどうするんだ?・・・とは突っ込まないでね)(大笑)
投稿日:2014-06-15 Sun
![]() | 蒼海に消ゆ 祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯 (2011/04/26) 門田 隆将 商品詳細を見る |
はじめに
プロローグ
第1章 カリフォルニア州サクラメント
新天地を目指して
生まれ出た剣士
日本人コミュニティ
遊びまわる子供たち
裏道で遊ぶ兄弟
アメリカの強大さ
第2章 剣士の誕生
やって来た剣道の師
天性の反射神経
ボーイスカウト活動
襲ってきた大恐慌
日系二世の苦難
帰国の決断
うねりの中へ漕ぎだした少年
第3章 現れた転校生
異国から来た剣士
猛稽古の中で
両親への思慕
第4章 戦時下の日本
軍事教練の日々
尊ばれる「質実剛健」の気風
見聞を広げた修学旅行
第5章 束の間の幸せ
やって来た母と弟
「学問」はできているのか
親友に救われた苦悩
第6章 別れのトランペット
堀校長の意外な要望
悲願の商大予科合格
涙の中の吹奏
跡目争いと個人優勝
第7章 始まった東京生活
武蔵野の大自然
“ストーム”という洗礼
目を見張る実力
「昭和の武蔵」の指導
第8章 迫りくる戦火の足音
漂い始めた暗雲
途絶えたアメリカからの仕送り
再会した恩師
圧迫される学生生活
糸島での束の間の休息
第9章 学徒出陣
北海道・千歳の原野
学徒出陣前夜
雨にけぶる神宮外苑競技場
「祖国」とは「家族」
出征の日
第10章 猛訓練の日々
佐世保・相浦海兵団
土浦航空隊と出水航空隊
第11章 元山航空隊
やって来た元山
集まった猛者たち
博打と酒と・・・・
元山での束の間の休暇
「神風特攻」の開始
ついに出た殉職者
第12章 特攻出撃
突然の「特攻」指名
優れていた松藤の技量
隠しがたい心の葛藤
さらば元山
頬を伝った涙
第13章 敵部隊見ゆ
故郷へ告げた別れ
爆撃痕だらけの鹿屋基地
最後の晩餐
稲荷ずしを一口食べて
「敵艦ニ必中突入中」
第14章 生きていた戦友の姿
「病室に現われた大治」
ありし日の松藤の姿
エピローグ
おわりに
本書の主人公は、アメリカで生まれ育った日系二世の松藤大治(まつふじ・おおじ)という人物である。
両親ともに日本人なので、ハーフという訳ではない・・・
アメリカで生まれ、15歳までアメリカで生活していたのだから彼は日系二世とはいえ「アメリカ人」である。
その彼は単身、両親の祖国である「日本」にやってきて、両親のふるさとの中学校に通い、東京商科大学に通う。
彼を「日本」に向かわせたのは何だったのか?
日本に対する憧れなのか、日本人の血が流れているというプライドなのか・・・・
慣れない日本での生活は大変だったのではあるまいか?
そして、日米開戦・・・・
彼は海軍に入り零戦のパイロットとなった。
日本と米国との懸け橋となる外交官になることが夢だったそうだが・・・・
その彼は母国・アメリカと戦う道を選んだのである。
学業は優秀、文武両道・・・まさしく“武士”の風格を備えた松藤は、そんじょそこらの日本人より日本人らしい。
そして、昭和20年4月6日、沖縄へ特攻・・・・23歳でこの世を去った・・・・
著者は、この松藤の足跡を丹念に辿り、関係者にインタビューをしている。
こういうところがノンフィクション作家のすごいところだと、いつも感心させられる。
驚いたことに、米国籍の松藤には兵役の義務はなかったのだそうだ。
にもかかわらず、なぜ、日本海軍に志願し、よりによって特攻隊にも志願したのだろうか?
沖縄戦の頃は、もう誰もが日本が負けることは、薄々気が付いていたころではないか?
にもかかわらず・・・なぜ特攻に志願したのか?
それを許可した上官は、どういう思いだったのだろう?
「米国人」の松藤は、当然、英語が堪能である。
戦後のことを考えれば、こういう有用な人物を温存しようとは思わなかったのだろうか?
まさか、姿かたちは日本人でも米国籍だから、いっそ嫌がらせ半分、米艦隊にぶつけてやれ・・・と思ったわけではあるまい?
松藤は「日本は戦争に負ける。でも、俺は日本の後輩のために死ぬんだ」と言ったという。
その後輩・・・・ちゃんと、その思いを受け止めているだろうか?
特攻は悲惨だ、あれはキチガイだという輩がいる・・・
可哀想だ・・・という人もいる。
彼ら戦没者に対して、同情心だけでいいのだろうか?
彼らのメッセージを受け止めて、襟を正して生きるのが、彼らに対する供養ではなかろうか?
「かわいそうな人」という扱いだけで終わってしまっては、まさしくかれらを「犬死」させることになるのではなかろうか?
常々、特攻で亡くなった方々、戦争で亡くなった方々を思うとき、そう感じるのである。
変った経歴の特攻隊員がいたんだねぇ~・・・・で終わっては困る。
“後輩”である我々は、彼の気持ちを汲んでやらねば・・・・と思うのである。
今年の読書:35冊目
投稿日:2014-06-14 Sat
ふと、思ったんですけど・・・・「薔薇色の人生」の薔薇色って、どんな色なんだろうか?(笑)
わずか半世紀程度の我が人生を振り返ってみると、年々、歳を取るごとに幸福感が増しているような気がする。
まさしく「薔薇色の人生」に近づきつつあるという気がする。
とんでもない勘違いを起こしている可能性も否定できないが、そういう勘違いも「薔薇色の人生」であろう?(大笑)
薔薇色の人生とは・・・・幸せということでしょ?
気になるのは、その“色”である。(大笑)
わかっているつもりで「薔薇色」って言っているけど、具体的には何色なんだろう?
そう考えると・・・わからないのである。
薔薇色って何色?
真っ先に思い浮かぶのが・・・“赤”・・・“真紅”・・・・
薔薇色を赤色に置き換えると、「真っ赤な人生」ということになる。(笑)
これ・・・幸せか?
真っ赤ねぇ~・・・・
「火の車」を連想しちゃうんですけど・・・・
「人生、火の車」????
「赤字続きの人生」?????
幸せそうな気がしない・・・・(大笑)
じゃぁ、ピンク色はどうだ?
「ピンク色の人生」・・・・(大笑)
非常にスケベっぽい人生を送っているような・・・・(大笑)
まぁ、それはそれで、私としては幸せですが・・・・(大笑)
あまり他人には自慢できそうもない・・・・
黄色い薔薇もあるから・・・・黄色はどうだ?
「黄色い人生」・・・・・(笑)
これも何かシックリといかないなぁ・・・・
「黄疸が出ている人生」?????
具体的な色に置き換えると、何色にしても幸せ感を感じないんですけど・・・
なんで「薔薇色」っていうと、幸せっていう気になっちゃうんだろうか?(笑)
投稿日:2014-06-13 Fri
昨日、無事に帰国しました。情けないことにクタクタに疲れております。(大笑)
歳はとりたくねぇもんだ・・・と痛感・・・・
これから、ボチボチとブログの更新を再開します。
投稿日:2014-06-11 Wed
空港に向かう前に夕食・・・・午後5時40分・・・・市内のレストランに立ち寄る。

“最後の晩餐”は・・・・鍋である・・・・(笑)
この常夏の国で鍋とはねぇ~(苦笑)
なんでも「スチーム・ボード」とかというシンガポールの名物料理なんだとか・・・
グルメじゃない拙者には、サッパリわかりませぬが・・・(苦笑)
何だかんだと言っても鍋は鍋だよね?(笑)
味はどうかと尋ねられても困るくらい、特に印象に残らない鍋だった・・・・(大笑)
午後6時半過ぎまで夕食・・・・
食後、空港に向かう・・・



観覧車の向うに、あの有名な、大きなバスタブが屋上に乗っているように見えるホテルが見えるのだが・・・(大笑)
ちょっと角度が悪くて、うまく写せなかった・・・・(涙)

午後7時10分・・・・
チャンギ空港に到着!


(空港の中)
ここから真っ直ぐ成田に向かうわけではない・・・(笑)
ここからマレーシアのクアラルンプールに向かい、乗り換えて成田に向かうのである。
なんとも面倒くさい話しだが、多分、航空運賃を安くあげるためなのだろう。(笑)
クアラルンプール行きのマレーシア航空MH610便に乗るまで2時間ほどある。
空港内をブラブラ・・・・(笑)


こういう飾り・・・・すごいよなぁ~(喜)
成田空港も、このくらいのことをしたらいいのにねぇ~
午後9時15分、クアラルンプールに向け出発!
約1時間後の午後10時10分、クアラルンプール空港に到着・・・
ここで成田行きに乗り換える。
成田行きマレーシア航空MH088便の離陸まで1時間半ほどある。
が・・・ツアー参加者のみなさんとオシャベリしているうちに、あっという間に搭乗時間となる。(笑)
午後11時55分、成田に向け離陸!
日付が変わって6月12日!!
で・・・・午前0時15分には機内食・・・である。(笑)
いやいや、夜中に食事をしたら太っちゃうでしょ?(大笑)
日本時間では、午前1時15分である!(唖然)

機内食はサンドイッチだが・・・・
それでもやっぱり、これを食べたら太っちゃうでしょ?(大笑)
しかし、小腹が空いていたので・・・・(大笑)
軽く誘惑に負けて、平らげる・・・・(大笑)
食後、ウトウトしているうちに、またもや機内食!!(汗)
時刻は午前4時半・・・・(大涙)
日本時間では午前5時半であるが・・・・
朝食には、ちょいと早すぎるような・・・(笑)
サンドイッチを食べてから3時間程度しか経っていないんですけど・・・(大笑)

食事を終えて、ホォ~・・・っとため息をついて、その1時間後・・・・
日本時間で午前7時10分、成田空港に無事着陸!
はぁ~・・・・・(汗)
ほとんど寝ていない・・・・(大汗)
半分どころではなく、殆ど寝ぼけた状態で帰宅する・・・(大笑)
投稿日:2014-06-11 Wed

「日本人墓地公園」の周辺は住宅街・・・・
結構、高級な住宅街に接していた。
これから最後の訪問地・・・「フォート・カニング」に向かう。


(途中の景色)
午後4時50分、「フォート・カニング」に到着。
小高い丘しかない場所ですが・・・・(笑)
ここに大東亜戦争当時、英軍の地下司令部があったという。



この地下壕で、パーシバル将軍たちは日本軍に降伏しようかどうしようかと議論したらしい。(笑)
当時使用された地下司令部は見学出来るようだが、残念ながら、ちょうど修復中とのことで、現在は立ち入り禁止となっていた。
説明板の写真では、内部は蝋人形などを使って当時の様子を再現しているらしい。

現地設置の説明板は、フォート・カニング全体の説明が英語で書かれていて日本語の表記はない・・・
が・・・なぜか・・・「サリー・ポート」の説明板だけ日本語で説明が書かれている。
ん?・・・・なんでだろう?(笑)

サリー・ポート
サリー・ポートは城砦から弾丸を出し入れする小さな扉でした。
防御側が城砦に敵に気付かれることなく出入りすることを助け、攻撃の際にも使われていました。
「サリー」という言葉は、突然活発に攻撃をするという意味です。
敵が城砦を包囲している場合、防御側がサリー・ポートから突撃し、敵を外側から驚かせるというしくみでした。
フォート・カニングには少なくともこのようなサリー・ポートが3ヶ所ありました。
ここに1つ、丘の北西側に1つ、そしてヒル・ストリートの南側にもう1つありました。
(説明板より)
丘の上に登ると、そこはただの広場・・・・

内部の見学が出来ないとなると・・・・(笑)
丘の外観をサラッと見るだけしかやることがない・・・(涙)
ここに英軍の司令部があったんですねぇ~・・・ということで・・・・
これでシンガポールでの見学は全て終り!
時刻は午後5時・・・
これから帰国の途につく・・・・
投稿日:2014-06-11 Wed
次に向かったのは・・・『日本人墓地公園』時刻は、まもなく午後4時になる・・・・

『日本人墓地公園の沿革』という説明板には、この墓地の由来がこのように書かれていた。
日本人共有墓地は、娼館主、雑貨商として成功した二木多賀治郎が自己所有のゴム林の一部を提供したことに始まる。
それまで当地で死去した日本人の遺骨は牛馬の棄骨場に埋められており、そのことを悲しんだ二木は、1888(明治21)年、同胞の渋谷吟治、中川菊三と連名で英国植民地政庁に自己所有地8エーカー(約1万坪)を日本人共有墓地として使用する申請を行い、3年後に正式許可を得た。
南十字星の下、ここには、からゆきさん、戦前活躍した日本人、そして戦犯処刑者も眠っていて、明治、大正、昭和の日本人海外史が偲ばれる
(以下、年表は略)
この墓地ができるまでは、日本人の骨は牛馬の骨捨て場に埋葬されていたとはねぇ~
驚きである。
ちなみに・・・・
平成11年現在の墓地の面積は2万9359平方メートルで、墓標数は910基だそうである。

公園内の案内板はイラストマップである。
これが良く出来ているマップで・・・・説明文は英語だが、わかりやすい!(喜)





故大講義板倉タカ刀自之墓
板倉タカ(いたくら たか)
1867(明治元)年生ー1926(昭和2)年没
天理教シンガポール教会初代会長。
娘時代から人生の辛苦をなめたといわれている。
大連にて料理屋旅館を経営していた。
のちにマレー半島に渡るが母の病で日本に帰国、その際天理教に入信した。
その後シンガポールに渡り、テーブル・クロスなどの行商のかたわら、からゆきさんたちの良い相談相手となる。
1916(大正5)年には天理教の布教を開始。
1922(大正11)年、信者の献金によりキャセイ映画館近くに天理教教会を開き、55才で初代会長となる。
59才で没。
大柄な心の広い人であったという。
この板倉タカ刀自の墓近くには4基の天理教信者の墓がある。
(説明板より)

南方軍総司令官寺内元帥之墓
寺内寿一(てらうち ひさいち)
1879(明治12)年生ー1946(昭和21)年没
山口県出身。
明治の元勲寺内正毅(てらうち まさたけ)の長男で、明治、大正、昭和に生きた軍人。
父と同じく陸軍大将、元帥となる。
台湾軍司令官、軍事参議官、北支方面軍事司令官を歴任し、1941年には南方軍総司令官に着任して太平洋戦争の南方作戦を指揮した。
1945(昭和20)年敗戦の年、サイゴン郊外で病にたおれ、英国軍マウントバッテン将軍の配慮でジョホール州レンガムのヒギンス氏別邸にて療養。
その為、日本軍の降伏式にも参加出来ず脳溢血で死去。
遺骨はマウントバッテン将軍の指示により、軍刀その他の遺留品と共に特別機で東京の遺族の元に送られ、この墓には、寺内元帥の遺髪、爪、襟章、肩章が納められている。
(説明板より)
ここにある寺内元帥の“お墓”は、いわゆる“遺髪墓”である。
“本当の”お墓は、山口県の護国神社の近くの高台に父親のお墓と並んで大きな立派なお墓が建っている。
昔、訪れたことがある・・・・
拙者としては、個人的には好きではない人ですが・・・・(苦笑)

二葉亭四迷終焉之碑
二葉亭四迷(ふたばてい しめい)
1864(元治)年生ー1909(明治42)年没
本名、長谷川辰之助(ロシア文学家、翻訳家、小説家)
この碑はあくまでも記念碑であって墓ではない。
遺骨の全ては東京の染井墓地に埋葬されている。
文学は男子一生の仕事にあらずと軍人を志し、士官学校を三度受験し三度失敗した四迷であるが、文芸史上空前の業績を残す。
1887(明治20)年に近代ロシア文学の根本精神を把握、創作や翻訳に現実主義を導入した。
自らの小説総論に基づいた『浮雲』は言文一致体で書かれた日本で最初の近代散文小説である。
東京外国語学校教授を経て、1908(明治41)年朝日新聞特派員として渡露。
1909(明治42)年5月10日、肺を患った四迷は帰国途上の日本郵船賀茂丸(コロンボ~シンガポール間のベンガル湾洋上)船中にて死去。
13日、当地パシル・パンジャンの丘にあった火葬場で荼毘に付された。
1929(昭和4)年7月14日、古藤、富房、堀切の諸氏により自然石を用いたこの終焉の碑が建立される。
碑文は当時シンガポール在住の医師・西村竹四郎の筆である。
代表作品に『浮雲』、翻訳作品『あいびき』『うき草』『其面影』『平凡』などがある。
(説明板より)

上山柑翁之墓
上山柑翁(うえやま かんおう)
1889(明治22)年生ー1942(昭和17)年没
1889(明治22)年9月17日蚊取り線香の発明者であり、大日本除虫菊(株)の創業者である上山英一郎の長男として生まれる。
本名上山英之助。
柑翁は雅号。
1913(大正2)年24才で東京高商(現一橋大学)卒業、同年上山商店に入社。
1930(昭和5)年第二代社長に就任。
1935(昭和10)年、社名を現在の大日本除虫菊(株)に変更する。
1942(昭和17)年、日本農産物輸出組合理事長、南洋ゴム拓殖(株)社長に就任、昭南島(シンガポール)に営業所を開設する。
同年12月30日陸海軍嘱託として東南アジアに出張の途上、シンガポールのセンバワン飛行場で搭乗機が墜落し死去。
(説明板より)

(左奥の石碑=作業隊殉職者の碑)
(右奥の墓石=大寛院眞光義徹居士)
作業隊殉職者の碑
拓南の碑(たくなんのひ)
「東南アジアの隆盛を冀(こいねが)い拓南に生きた人々ここに眠る」と自然石に彫られている。
1980(昭和55)年代に石原産業が建てた。
石原産業は1919(大正8)年、バトゥ・パハのスリメダン(マレーシア)に石原廣一郎、東粂次、田所久吾が鉱脈を発見し興した鉄鉱石の採掘会社。
事業は成功し拡張を重ね、のちの石原産業海運となるが戦後の財閥解体により石原産業となった。
大寛院眞光義徹居士
西村吉夫(にしむら よしお)
1892(明治25)年生ー1934(昭和9)年没
京都府出身。
石原産業の前身スリメダン鉱山入社。
1933(昭和8)年より、石原産業シンガポールの支配人となる。
同年、日本人会会長となる。
1934(昭和9)年12月5日、軍港を撮影した為英領海峡植民地当局からスパイ容疑により出頭を命じられ、取り調べ先の中央警察でマラリア治療薬の猛毒のキニーネを大量に飲み死亡した。
当時は第二次世界大戦に向かって動いていた時代で、シンガポールもその流れの中にあった。
同年12月6日、日本人会は盛大な会葬をもって日本人社会の信頼厚かった故人の霊を弔った。
この会葬の写真は御堂内に掲げられている。
(説明板より)


御堂前で、ささやかな慰霊祭を執り行い、「海ゆかば」を斉唱して黙祷を捧げる・・・・
あまり時間がないので、そうそうゆっくりと墓標を見て回ることができなかったが、結構「からゆきさん」と思われる女性の名のお墓が多かった・・・
それにしても、地元のシンガポール日本人会はすごい・・・
綺麗に整備して維持管理をされている。
さすがは「墓地」ではなく「墓地公園」である。
日本人観光客は必ずここを訪問して、つまらぬお土産などを買うお金の一部でも維持管理費として寄付してあげるべきだと思う。

この墓地公園の一角に“メモリアル・プラザ”がある。
その説明プレートは以下の通り・・・
「先人を偲ぶ集いの場」拓く
日本人共同墓地は現在日本人墓地公園と名が改まり、シンガポール日本人会が責任母体となって、日常の管理・維持を行なっている。
他に日本人学校小・中学部をはじめとする団体、個人のボランティアの理解と協力もあって、墓地は篤く守られている。
その閑な一角にこの度、メモリアル・プラザ「先人を偲ぶ集いの場」が拓かれることになった。
戦前あまたの日本人が渡来した。
当地で命を落とし、この墓地に眠る人も多くいる。
一方日本人社会に足跡や功績を残しながらも、ここを永眠の地と成さなかった人もまた多い。
この度そのような人の記録を追蹤し、顕彰碑を建てることにした。
公園化計画の施行によって新装なった日本人墓地公園を一巡すれば、訪問者は当地での日本人社会の歴史が判ることになった。
南国の大樹が蔭を落とし、鮮やかな花が咲き乱れるこの碑のある広場が先人を偲び、己の今と行く末に思いを馳せる場となることを願う。
メモリアル・プラザの日本名「先人を偲ぶ集いの場」は日本人会史蹟史料部の座長を長らく務め、この墓地の維持管理、改善に尽力された安川一夫氏が今年3月に他界される数日前に病床で考えられたものである。
2002年8月22日
史蹟史料部
(銘板より)
ここに“ハリマオ”で有名な、谷豊(たに・ゆたか)の顕彰碑もあった。
誰かが、「谷豊のお墓だ!」と言っていたが・・・・あの・・・このメモリアル・プラザの説明文を読んでないのかな?(苦笑)
たしか、谷豊は、死亡後、その子分たちが遺体を担いでジャングルの中に消えて行ったとか・・・という話を聞いた事がある。
マレー各地にいくつかの「谷豊の墓」と呼ばれるものがあるそうだが、どれが本物かはわからないとも聞いたことがある。
遺髪墓なのか、分骨して建てられたものなのか・・・・わからないそうだ。
いずれにせよ、その遺体はどこに消えたのかわからないというのだから、なんともかわいそうである。
この日本人墓地に埋葬してあげることができたら、さぞかし喜んでくれただろうとも思うが、いや、生死を共にした子分たちの元に一緒にいるほうが幸せかな?

マレーのハリマオ 谷豊(たに ゆたか)
1911(明治44)年11月6日ー1942(昭和17)年3月17日
福岡県に生まれる。
幼年期に両親とともに英領マレーのクアラ・トレンガヌに移住。
豊が兵隊検査のために福岡に帰国中であった1933(昭和8)、満州事変勃発に怒った華僑暴徒による異母妹静子虐殺事件が発生した。
翌年にこれを知った豊は復讐を誓いトレンガヌに戻る。
生来血気盛んな豊は、次第にハリマオ(虎)という名で知られるようになり盗賊団の頭目となる。
一説では3000人の部下がいたという。
マレー人になりきるため、後にイスラム教に入信する。
1941(昭和16)年、南部タイのハジャイで英軍に拘束されるが、日本軍特務工作員・神本利男の助けで出獄。
同氏の説得により英軍の後方撹乱実行に同意し、日本軍藤原機関の一員となる。
マレー人、タイ人部下を率いて開戦直前の諜報・物資調達に従事。
開戦直後は、英軍による橋梁爆破を阻止するなどの日本軍進路確保、マレー人の日本軍への協力や英軍に同行するマレー義勇軍の中立化などに力を注ぐ。
その間持病のマラリアを悪化させ、1942(昭和17)年3月、陥落直後のシンガポール、タントクセン病院で死去した。
葬儀はイスラム教の教義にのっとり、病院のあるノベナ近くのパジラン・モスクでマレー人によって行われ、その後、当時その近辺にあったイスラム墓地に埋葬されたといわれるが、この墓地は現存せず、正確な墓の位置もわかっていない。
死後、その短い一生を描いた小説・映画などが多数作られ、現在のハリマオ伝説を生むこととなった。
ハリマオ・谷豊は死後「陸軍通譯」として判任官待遇を受けている。
生前の1942(昭和17)年2月1日に遡っての任官であった。
(銘板より)
あれ?
碑文によると、谷豊の遺体はちゃんと埋葬されたようである。(汗)
子分が担いで行った・・・というのは、あれは創作か?(苦笑)
それじゃ、そろそろ帰りましょうか・・・ということになったが・・・
拙者は、結構、皆さんと離れて行動するタイプなので・・・・(笑)
一人でブラブラ散策しているうち、敷地の奥のほうに、なにやら石碑群があるのを見つけた。
おお!軍関係のものではないか!(喜)
早速、添乗員の“アサダさん”を呼びとめ、軍関係の慰霊碑の存在を伝える。

手前の3つの石碑・・・・
左から『作業隊殉職者之碑』、『陸海軍人軍属留魂之碑』『殉難烈士之碑』である。
説明板によれば・・・・
作業隊殉職者之碑は、終戦後シンガポール島内各作業隊において傷病死した者の遺骨と火葬の灰が収められているという。
「作業隊」というのは、終戦後、遺棄弾薬の処分や遺体の埋葬や、その他各種の作業をした日本兵捕虜のグループのことだろう。
折角、戦争で生き残ったのに、戦後に傷病死とは・・・・
陸海軍人軍属留魂之碑は、シンガポール攻略時の戦死病没者ならびに西本願寺保管の南方軍各地戦死者の遺骨が収められているという。
この「西本願寺」というのは、もしかしたら、当時、シンガポールに西本願寺の別院のようなものがあったのかも・・・
殉難烈士之碑には、終戦時自決した参謀以下の将兵の遺骨とチャンギ刑務所で処刑された100名以上の将兵の血の流された土が収められているという。
戦後自決したのは何名いたのか明記されていないのが残念である。

小さな墓石・・・・
『殉難者納骨百三十五柱』とだけ刻まれている。
戦後、チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方々の遺骨が埋葬されているのか?


左の写真は、『近歩五戦死者之墓』・・・・
近衛歩兵第5連隊の戦没者、元陸軍中佐・大柿正一をはじめとする連隊の戦死者396柱が納められているという。
大柿正一とは、あの「バクリ」近辺の戦いで壊滅的な損害を出した大垣大隊の大隊長である。
「納められている」ということは、遺骨は日本に運ばず、ここに埋葬されているということなのだろうか?
右の写真は『近衛歩兵第四連隊慰霊之碑』・・・・
これは慰霊碑だからお墓ではない・・・
ささやかな「慰霊祭」をするなら、御堂の前じゃなくて、ここでやるべきだったな・・・・
もっと拙者が早く気がついていれば・・・・失敗した・・・(涙)
時刻は午後4時半・・・・
約30分間という忙しい訪問であったが、とりあえず満足・・・
投稿日:2014-06-11 Wed
昼食をすませ、今度はブキテマ高地に向かう。


午後2時20分・・・・ブキテマ高地に到着。
この「ブキテマ高地」はシンガポール島の天王山と呼ばれた場所である。
島内の最高地点で、この高地の周辺には食糧、燃料、弾薬および補給品の大集積所があったという。
その東北にはシンガポール島の市民100万人を養う水源地がある。
戦術的には、このブキテマ高地によって水源地は掩護されていると言ってよい。
ということは・・・このブキテマ高地を押さえると、敵の集積所も市民の水源も抑えることが出来、シンガポールを陥落させることができるということになるかな?
というわけで・・・日本軍は全力をあげてこのブキテマ高地周辺に攻撃をかける。
「ブキテマ高地」はシンガポールの大激戦地なのである。

登山道入口に史跡の説明板があった。
幸いにも日本語の説明文があったので読んでみる・・・・
ブキテマ攻防戦
シンガポール中心市内街地への幹線道路を見おろすブキテマ高地は英軍と日本軍の双方にとって重要な戦略的要衝であった。
1942年2月10日夜、装甲部隊に支援された日本軍は、要衝防備のため再編成された英軍連合部隊に攻撃を加えた。
翌11日早朝までに日本軍はブキテマを攻略。
中心市街地への道は無防備となった。
(説明文より)
この説明文だと、わずか1日もかからず、日本軍は簡単にブキテマ高地を攻略したように感じるが・・・・(笑)
実際は、そんなに楽勝ではなかったはずである。
シンガポールに上陸後の日本軍3個師団は、シンガポール市街地に向かって進撃する。
が・・・戦闘は、このブキテマ高地で膠着状態となった。
特にブキテマ三叉路の争奪戦は第5師団と第18師団が猛攻しても容易に落ちなかったのである。
英軍の激しい砲撃で一進一退・・・・
「ブキテマ三叉路」というのは、現在はどのあたりか拙者は知らないが・・・・
11日から14日まで戦闘が続いていたはずである。
そして15日に突然、英軍は白旗を揚げたのである。
もしかして、「11日早朝までに日本軍はブキテマ高地を攻略した」という記述は、ブキテマ高地の頂上だけを占領したという意味かも・・・・
高地の頂上は占領したが、その周囲では激戦が繰返されていたと解釈したほうが良いかも・・・・


この「ブキテマ高地」・・・・
どこかの自然公園みたいな感じである。(笑)
一応、拙者が“しんがり”を仰せつかって最後尾を歩くことになったが・・・・
このダラダラとした緩やかな傾斜の山道は、意外とキツイのである!(大笑)
足、腰、膝に来る・・・・(笑)
で・・・・わざとゆっくり歩いているわけではない・・・・
みんなに追いつかないのである!!(大笑)
息は切れるわ・・・めまいはするわ・・・(大笑)
普段の運動不足がここで現われた・・・・
なにせ、80歳を越した“高齢者”のほうがスタスタと歩き、最後尾の拙者との間隔がドンドン広がっていくのである!(大汗)
ひえぇ~・・・・格好が付かないぞ・・・これ・・・
完全に、拙者は“置いてけぼり”を食らっているではないか!(唖然)

約25分ほどで頂上に到着!!(疲)
高地の最高地点なのだが・・・周囲の木々に阻まれ、眺望は最悪・・・
何も見えない・・・・
ただの山の中・・・あ~・・・・面白くない・・・・(大笑)
ここからシンガポールの市街地や水源地などが見渡せたらいいのに・・・
どうして展望台を建てないかねぇ~

頂上の東屋の中にはブキテマ高地一帯の地図が掲示されていたが・・・
中国語と英語表記の地図である。
う~ん・・・ここに“戦跡”として日本語と英語で書かれた地図を掲示したいものである!(大笑)
日本軍の戦史では、85高地、434高地、220高地、155高地、180高地等々の“高地”の名前が出てくるが、それがどこなのか、サッパリわからない・・・・

頂上の記念碑(記念石?)にはこの頂上の標高が刻まれている。
標高・・・163.63mとのことである。
英文の説明板によれば・・・
ここは、シンガポールで最も高い“ナチュラル・ポイント”で、標高は163.8メートルだという。
この頂上に初めて登ったのは現地在住の議員のジョン・プリンスという人と彼の仲間たちで・・・・
1827年(日本で言うと文政10年)の6月のことだという。
文政10年って・・・
後に長岡藩の家老になる河井継之助や、後に土佐藩主になる山内容堂が生まれた年で・・・(笑)
ベートーヴェンや小林一茶が亡くなった年で・・・
イギリスが小笠原諸島の領有を宣言した年といわれている・・・・(笑)
へぇ~そんな昔に、この高地に登ったのか?
何が楽しくて???(大笑)
で・・・・
彼らは南からこの高地に向かい、農園や丘や沼を進み、22.5kmの距離を5時間かけて登ったとかって書いてある。
(多分・・・そうだと思う・・・笑)
で・・・「フォート・カニングの丘」から見えるように白い旗を山頂の一番高い木に揚げたらしい・・・
それって、何の意味があったのか?・・・・と突っ込みたくなりますが・・・(大笑)
で・・・この山頂まで向かう“アクセス・ロード”(登山道という意味でしょう)は1843年に造られた・・・という。
1843年というと・・・(大笑)
日本は天保14年・・・・
江戸時代であります!
我々は江戸時代に造られた道を(舗装されていますが・・・笑)登ってきたのであります!(大笑)
いや・・・この広い舗装山道の脇にクネクネと折り曲がりながら山頂に向かっているような“獣道”のような道がチラチラ見え隠れしていたから、あっちのほうが当時の道かも・・・(大笑)
ここで小休止をし、再びもと来た道を降りる・・・・
次々と家族連れが登ってくるが、子供達が元気に駆け上ってくるのには参った・・・
なんと拙者は歳を取ってしまったものか・・・(大汗)
クタクタなのです・・・・(大笑)
投稿日:2014-06-11 Wed
次に向かったのは『旧フォード自動車工場』・・・・拙者にとっては、念願の・・・といっていい訪問地なのである!
今から34年前・・・・(大笑)
この前の道を我がツアーバスは走っていた・・・
当時はもっと道幅が狭かったような気がするし、建物はもっと高台にあったような気もするが・・・
まぁ、34年前の記憶なんて当てにはならないか・・・(笑)

上の写真の向うからこちらに向ってこの道を走っているときにガイドさんが説明してくれたことは今でも鮮明に覚えている。
「右手の高台にフォード自動車工場があるんですが・・・ちょっと見えないですかね?山下将軍とパーシバル将軍が、ここで降伏の会談を行なった場所です。ちょっと木が邪魔で見えないですかねぇ~」と言った・・・・
おお!あの有名な「イエスかノーか」と山下将軍が迫った場所だ!
必死になって窓から上を見上げたが森に遮られ、建物がチラリと見えたような気もするが・・・という程度・・・
あっという間にバスは通過!
あ~!残念!!(涙)
当時、ここを見学できたかどうかはわからない・・・
見てみたかったなぁ~
どうして見学コースに含まれてなかったんだろう。
悔しいなぁ~・・・・という思いが今までずっと続いていたのである。
ついに!念願かなって見学できるとは!(大喜)
大感激!!
現在、この建物は博物館となって一般に公開されているとのこと。
ということは・・・34年前はただの廃屋だったのかも・・・(笑)

看板は4ヶ国語で書かれている・・・・
が・・・・その4ヶ国語の中に日本語は含まれていない!
一番上は中国語で、続いて英語、マレー語、そして一番下は多分インドのヒンズー語かタミール語だと思うが・・・
おい、おい、日本語はどこへ行った?(汗)
ここは、我が日本軍があの紳士面した腹黒いイギリス人を打ち負かした記念すべき場所なのである!(大笑)
日本語が見当たらないということは、日本人観光客は滅多に来ない場所ということなのか?
我が日本にとっては「戦勝記念」の地なんですけど・・・(大笑)
日本の旅行業界は何を考えておるのかね!(怒)
ここをツアーのコースに含めていないのか?(怒)
買物ツアーとグルメツアーばかりやって歴史を勉強しないから日本人はバカばかりになるんだよなぁ~
勝った歴史も負けた歴史も勉強すべきである!(怒)



(昔のフォード自動車工場の写真)
英文の説明板を意訳してみると・・・・(日本語の説明板も併設していただきたいものである!)
このフォード自動車工場の歴史は1941年(昭和16年)10月から始まる・・・という。
この工場はフォードが東南アジアで最初に作った自動車組み立て工場である。
マレー鉄道にも近く、港からの部品の輸送にも便利な場所で、マレーシアとシンガポールを繋ぐ幹線道にもつながる立地条件のいい場所だったため、ここに作られたらしい。
日本軍のマレー進攻作戦の時には、この工場は英空軍の戦闘機を組立てる工場として使われたらしい。
戦闘機は部品として木箱に入れられシンガポールに船で運ばれ、この工場で組み立てるという形だったらしいが、そのほとんどはマレーシアの防衛には間に合わず、役には立たなかったようである。
1942年(昭和17年)の末、日本軍がシンガポールの目前に迫った時には、彼らはここから飛び立ったか逃げ去ったか(笑)・・・したらしい・・・
フォード自動車工場は、降伏するイギリス極東軍(マレー軍)司令官のパーシバル将軍と日本の第25軍司令官である山下奉文(ともゆき)将軍の正式な降伏会場として使われた。
1942年(昭和17年)2月15日、降伏するまでの緊張した最後の数時間、山下将軍はこの工場で彼らを待ち、パーシバルとその幕僚たちはフォート・カミングの地下要塞で議論をしていたそうである。
そして、パーシバルたちはフォート・カニングからフォード工場までやってきたという。
英国の降伏による大英帝国のアジアにおける凋落と日本軍の占領は、シンガポールの近代史の暗黒の時代である・・・ということを書いてある。
「darkest period」っていうんだから、「もっとも暗い時代」・・・ということでしょう?
う~ん・・・そこまで言わなくてもいいんじゃないの?“最上級”を使っちゃう?(笑)
日本の統治時代は、本当に「暗黒の時代」だったのだろうか?
日本の占領時代は、フォード工場は「butai(部隊)」として、もしくは補給基地として使われていたという・・・
この「ブタイ(部隊?)」の意味がわからないが・・・・
「部隊」という日本語を特別なものとして勘違いして使っているような気もしますが・・・(汗)
日本の著名な「zaibatsu(財閥)」である「Nissan(日産)」が、この工場を引き継ぎ、ここで軍用トラックなどの車輌を組み立てていたという。
う~ん・・・簡単にいうと「部隊」と呼ばれる工場で「日産」が軍用トラックなどを組み立てていた・・・ということになるが、日本人にもこの「部隊」の意味が理解できませぬ・・・・こりゃ、中国人が作った文章か?(大笑)
このフォード工場は戦後の1947年(昭和22年)にフォードの自動車組み立て工場として作業が再開されたそうで、1980年(昭和55年)6月に最終的に工場は閉鎖されたという。
あら・・・
拙者がこの工場の前を通過したのは、1980年の夏である・・・・
ということは、工場が閉鎖されて2ヵ月後くらいに、この前を通過したということか・・・
ということは、見学したくても見学は出来なかったわけか・・・(笑)
そして、解体されず残されたこの工場跡は2006年2月15日に「ナショナル・モニュメント」として公示された・・・とある。
つまり、2006年に史跡として指定されたということのようである。
建物は資料館として活用されていて・・・・

パーシバル将軍(左)と山下将軍(右)の銅像なども置かれていたが・・・・
山下将軍の顔は、似ても似つかないという顔・・・いったい誰をモデルに作ったんだ?(大汗)

ここには、山下将軍とパーシバル将軍が会見した部屋がそのまま保存されている。
英軍の降伏の様子が英文で(!)詳しく書かれた説明板なども展示されている。
日本語じゃないから読むのに時間がかかるので、なんとも面倒くさい・・・・
見学時間は限られている・・・・
あ~あ~・・・・これがツアーじゃなくて、個人で来ていれば半日ぐらいかけて(大笑)じっくりと見学ができるんだけどねぇ~(大笑)
そういうことは贅沢か・・・・(大笑)

ここには日本軍が使用した自転車も展示されていた。
いやはや・・・貴重な当時の自転車である!(驚)
かの有名な「銀輪部隊」の自転車・・・・
当時、日本軍は、数少ないトラックの他に、輸送手段として自転車を使っていたのである。
当時の日本は東南アジアに自転車を輸出していたのである。
で・・・当然、マレーシアにも大量の自転車が輸出されていた。
そこで足りない分は現地調達し、歩兵は自転車に乗ってマレー半島を疾走したのである。
説明文には「confiscate(没収・押収)」の文字が見られるが・・・
この時に、自主的に自転車を日本軍に提供したマレー人も多くいたと聞いている。
かならずしも、現地人から強制的に没収や押収したとは言い切れない。
自転車を提供してくれたのは、イギリス人に反感を持っていたマレー人たちか?(大笑)
進軍途中で自転車が故障しても、日本製なので部品の調達は難しくはなかったようである。
以前から自転車を輸出していたおかげ・・・ということになる。
マレーシアに輸出されていた自転車のおかげで勝てたといっても過言ではあるまい・・・(大笑)




古写真や、記事や地図、インド国民軍に関する展示など、なかなか充実した内容である。
が・・・時間がないので、とにかくササッと見て回り・・・・
受付脇の「ミュージアムショップ」で何か資料はないものか・・・と探したが・・・
残念ながら日本語で書かれた書籍・資料等はない!
英文のものでもいいかぁ~と思い、買おうとしたら・・・シンガポールドルしか使えないと言う。
そこをなんとか・・・米ドルで・・・とお願いしたが・・・・ダメ!(大泣)
結局、何も買えなかった・・・・
米ドルが使えれば買おうという仲間もいたので、米ドルが使えないというのは失策であろう。
こういう観光地では米ドルも使えたほうがいいんじゃないのかなぁ~
折角、売上げが上がるチャンスだったのにねぇ~(大笑)
我々は半日しかシンガポールに滞在しないので、両替をしなかった・・・・
これが失敗であるが・・・・
半日しかいないのに1万円を両替するというわけにもいかぬから、やむをえなかったか?


降伏する英軍使節を案内をする日本軍・・・・
この写真が撮られたほぼ同じ場所が右の写真・・・・
約30分程度の見学を終え、集合記念写真を撮り、次に昼食に向かう・・・・
時刻は12時45分・・・・
投稿日:2014-06-11 Wed
午前10時、マレーシアの出国手続き・・・・ここで思い出すのは34年前の出来事・・・・(笑)
この時、拙者は鉄道でクアラルンプールからシンガポールに向っていた・・・
ジョホールバルの駅で税関職員が列車に乗り込んできて全員のパスポートを受け取る。
で・・・まもなく、拙者が呼び出された・・・(汗)
「荷物を持ってホームに下りてください」と言う。(唖然)
「すでに出国していなければならないのに、何でまだマレーシアにいるのか?」と言うのである。(大汗)
つまり・・・拙者は“不法滞在”しているというのである!!(驚)
パスポートに書き込まれた滞在日数を越えて滞在していることになっているそうだ。(唖然)
どうも、ペナン島の空港で入国審査を受けたときに係官が記入した日付に問題があるらしい。
あの職員め!間違った日付を記入しやがって!
と・・・思ったが・・・
まぁ、彼の質問が聞き取れず、何でもかんでも「イエス!イエス!」と答えてしまった拙者にも問題があろうが・・・(大笑)
そこへ、胸に勲章(?)を一杯付けた偉そうな係官(?)がやってきて、勿体つけて拙者のパスポートを眺める。
と・・・・なんと!・・・・発車のベルがホームに鳴り響いたのである!!(うそぉ~!)
ヤバイ、ヤバイ・・・(大汗)
「ツアー旅行なのに俺だけが滞在予定の日数が違うと言うのはおかしいでしょ?これは入国の時のミステイクです」と必死に説明・・・
この偉そうなオジサンが、無表情のまま、ササッと何かをパスポートに書き込み・・・・「行って宜しい」と言う。
が・・・・列車は走り出してしまったのである!!(唖然)
今はどうかは知らないが、当時の客車のドアは手動式だったので、友人たちがドアを開けて待っていてくれた。
1ヵ月間の海外研修旅行であるから、拙者のスーツケースは特大のサイズ・・・・
これを持ってホームを走り・・・・スーツケースを客車に投げ込む!
続いて、ショルダーバッグを投げ込み、拙者は客車と平行にホームを走る!!
ヤバイ、ヤバイ・・・ホームがなくなる!・・・ホームの残りは、あとわずか!
で・・・タイミングを見計らって、列車に飛び乗る!!
まるでアクション映画のようである。(大笑)
今考えても、よくあんなことが出来たものだと不思議で仕方がない。(苦笑)
無事に“生還”し、車内は大拍手と大爆笑!!
さすがはアメフトの選手だと変な褒められ方をされた・・・(大笑)
今でも忘れられない思い出である。(大汗)
今回は陸路での出国だが・・・・
これが鉄道だったらなぁ~
あの時走ったホームの写真・・・・撮りたかったなぁ~(大笑)

午前10時15分・・・
ジョホール水道の陸橋を渡って対岸に向う。
シンガポール側で、今度は入国審査・・・・
全ての荷物を持って行く。
シンガポールでは、酒とタバコに高額な税金がかけられるという。
そのため、これらの持込には注意を要す。
日本人の審査は、他の人種と比較すると、それほど厳しくはないようであるが・・・・
もし、隠し持って納税を免れようとしたのが見つかったら、かなりトンデモナイ目に遭うらしい。(大笑)
拙者の場合は、言うまでもなくタバコが引っかかる・・・・(苦笑)
というわけで・・・・マレーシアではタバコを“計画的”に吸い・・・(大笑)
残り1箱・・・というところで、シンガポールに入国!(大笑)
この1箱も封を切り、1本吸っておく・・・・(笑)
で・・・・ガイドさんの案内で納税申請カウンターへ・・・・
「申請するのはタバコ1箱です!封を切って1本吸ってまぁ~す!」(笑)
で・・・・それなら、納税の必要なし(?)(まぁ~いいかぁ~という態度・・・)ということで、税金を払わず無事に通過・・・(大笑)

シンガポールからジョホールバルを見る・・・・
これから「KRANJI BEACH」(クランジ・ビーチ)に向う・・・・
そこは近衛師団が上陸した場所・・・・
時刻は午前11時10分・・・・


「ビーチ」と言っても、砂浜があるわけではない・・・(笑)
そこは、“水辺の公園”という感じ・・・・
史跡の説明碑が建っていた。
ありがたいことに、日本語でも説明されている。

クランジ海岸の戦い
1942年2月10日朝、侵攻する日本軍干潮に乗じてこの海岸線に上陸した。
混(筆者注:泥?)に足をとられた将兵らは英軍が流した油の中で立ち往生した。
第1陣は英軍が油に放った火にたっと(筆者注:よって)撃退された。
しかし、サンブンとジュロンに上陸しつつある日本軍に退路を断たれる恐れから、英軍連合部隊に南方退却が命じられた。
こうして日本軍は上陸を果たし、シンガポール侵攻の足場を固めた。
(説明文より)
多少の誤字が見受けられるが・・・・意味はわかる。(笑)
シンガポールはスマトラ産の石油の貯油地で、大量の石油を貯蔵していた。
英軍がこの多量の石油をジョホール水道に流して点火したら、日本軍の渡過は困難となることは日本軍も想定していた。
そのため、日本軍はクアラルンプール占領直後に、同地の湖沼で研究演習を行い、その様相と対策を研究している。
日本軍は、軍砲兵隊、師団砲兵隊など、砲兵の支援砲撃の下、第18師団、第5師団が2月8日の夜に渡過を開始。
近衛師団は、これらの部隊が使用した舟艇を回してもらい、翌9日の夜に渡過を開始する。
が・・・予定通りに事が進まない。
予定の舟艇が必要数集まらないとかで混乱・・・・
ようやく渡過をしたが、恐れていた通り、水道に油が流され火をつけられた・・・・
この時、前線から1個連隊が火炎のため全滅したとの報告が入る。
これに驚き、さらに師団は混乱をきたす。
実際は、数名の犠牲者が出ただけで、部隊は無事に渡過している。
この地の説明文では「撃退した」と書かれているが・・・・
どうしてそう書かれているのかが、よくわからない。
「撃退」はされず、無事に岸に辿り着いているはずなのだが・・・・(汗)
とは、いうものの、接岸時に舟艇から水に飛び込み、重油で顔も服も真黒になっての上陸だが・・・
「エリート」集団の近衛師団は、当初、師団の兵力不足と疲弊を訴え、第ニ線部隊(後方)配置を希望していたが、いざ、戦闘開始という時に、今度は一転して第一線部隊(最前線)配置を望む。
手柄が欲しくて気が変ったか?・・・・と嘲笑されても仕方がないか?
が・・・舟艇での輸送を担当する工兵部隊との打ち合わせが全く出来ていなかったため、渡過の時には大混乱・・・
そこに火炎から脱出してきた一人の下士官による「連隊が全滅した」という誤報で、師団司令部がビビッてしまい、軍司令部に泣きつくという失態を演じている。
格好がつかない・・・・“エリート師団”としては面子丸つぶれである。
その一因は、師団長と参謀長の人間関係が悪く、意思の疎通ができていなかったことにあると言われている。
この作戦後、西村師団長は予備役になり、今井師団参謀長は中国戦線の連隊長に左遷されたという。




(上陸地の海岸)
ここから対岸のジョホールバルを見ると・・・・
あらら・・・・王宮の建物が良く見える!(笑)


こちら側には、英軍の野戦砲兵部隊も配置されていたはずで・・・・
かなり激しい砲撃をジョホールバルに撃ち込んでいたはずだが、まさか、こちらから丸見えの、あの王宮の建物に日本軍の軍司令部が置かれていたとは知らなかったらしい。
狙い撃ちにしていたら、山下軍司令官は戦死していたかも・・・・(汗)
運が良かったと言うか何と言うか・・・・(笑)

ちなみに・・・・
ジョホールバルでこちら側を見た、あの歩道橋も見える・・・(大笑)
あらら・・・・すごい・・・・丸見えである。(笑)
当時も、英軍は、こっちから日本軍の動きを見ていただろうなぁ~
時刻は午前11時半を過ぎた・・・・
投稿日:2014-06-11 Wed
午前8時、ホテルをチェックアウト・・・・まず最初に向かったのは、『ジョホールバル日本人墓地』・・・・


ここは、戦後、荒れ果ててジャングル化していたそうであるが、その後、現地の日本人会の手によって整備され、現在も管理されているそうである。


ここに、一つの石碑が横たわっている・・・・
山下奉文の筆になる『ジョホール水道敵前渡過戦跡記念碑』である。
ジョホールバルの海岸のどこかに建てられていたものが、戦後、ここに運び込まれて“遺棄”されたのではなかろうか?
碑の割れ目から木が生えている・・・・あらら・・・である。(唖然)

左端の碑は、個人の顕彰碑のようである。
旧小田原藩士、慶應義塾出身で、「南洋護謨株式会社」という会社を起こし、この地で活躍した岡本貞烋という人を偲ぶ顕彰碑のようである。
「護謨」というのは「ゴム」のことを指す漢字なので、今風の言い方ならば「南洋ゴム株式会社」となるか?(笑)
密林を開拓し、ゴム園の開発に当っていたらしい。
碑は大正4年6月に貴族院議員で慶應義塾の塾長でもある鎌田栄吉の撰文で建立されたようである。
岡本氏は昨年9月に62歳で“長逝”したと書かれているから、岡本氏は大正3年9月に亡くなったのだろう。
ちなみに、鎌田栄吉氏は明治31年から大正11年までの約25年間、慶應義塾の塾長を務めた方で、塾長退任後の大正11年6月に文部大臣に就任している。
その後、昭和9年に78歳でお亡くなりになっている。
中央の碑は、「招魂碑」・・・・特に碑文の記載はない。
右端の碑(ちょっと見づらい)は、元帥陸軍大将・川村景明の書になる「招魂碑」である。
川村景明という人は日露戦争で活躍した日本陸軍の軍人である。
日露戦争と言えば・・・・第3軍の乃木希典司令官が有名であるが、これとは別に「鴨緑江軍」というのが編成されて、川村景明が司令官となった。
鴨緑江軍は、他の参加部隊と比べると、イマイチの部隊だったらしいが、川村司令官は草鞋姿で前線に赴き、兵士達に気さくに声をかけ、鼓舞したという逸話で有名・・・・
そのおかげかもしれないが・・・奉天会戦では、この部隊は大活躍をしたといわれている。
川村元帥は大正15年に76歳でお亡くなりになっている。

左端の碑は『無名日本人之墓』・・・・
中央の碑には『土神』と刻まれている・・・・これは墓ではなさそうである。
土の神を祀った碑ということかな?(笑)
右端のものは、碑文が削られたのか、磨耗したのか、よく読めない・・・

それが、この碑であるが・・・・
上のほうに二行にわたって何か彫られているが、全く読めない・・・
これは拓本でも取らねば、判読不可能か?
下には「自爆の地」と彫られている。
“自爆”とは、穏やかな話ではない・・・・(汗)
上に書かれている二行は、人名か?
碑の裏を見てみると「昭和十七年一月十七日」とわずかに読める。
その脇に二行にわたって何か刻まれているが、これも全く判読できない。
さて・・・昭和17年1月17日に誰が何で自爆したというのだろうか?
日本軍がジョホールバルに進出したのは、1月の末頃であるから、「自爆」はそれ以前の出来事ということになる。
気になる石碑である・・・・

『倶会一處』と刻まれた碑があった・・・・
裏の碑文は・・・・
祖国に帰る夢叶わずに、此処に眠る先達の刻苦を偲び、マレイシアの発展及び、日 マ 親善・友好の為に尽力されたそのご遺志を受け継ぐことを誓い、鎮魂の碑を建立いたします。どうぞ安らかにお眠り下さい。
1994年5月
在マレイシア日本国大使館
ジョホール日本人会
「倶会一處(処)」(くえいっしょ)というのは、浄土真宗の教えの一つの言葉ではないかと思うのだが・・・
その碑に日本大使館の名が刻まれているというのは、ちょっと違和感を感じるんですけど・・・
「政教分離」に反しているんじゃなかろうか?(汗)
ケチを付けるようで申し訳ないですけど・・・いいのかなぁ~・・・これ・・・・
ここで30分ほど過ごし、次に海岸へ向う・・・・


海岸沿いの道路に架かる歩道橋に上り、ここから対岸のシンガポールを見ながら“イズミ教官”の説明を聞く・・・
といっても・・・この位置から拙者は写真を撮っているので、当然、拙者は“イズミ教官”の戦史の説明は聞いていない。(大涙)
毎度のことですが・・・・(大笑)
全員が一点に集中してしまうと、周囲に気を配る人が皆無となってしまうのである。(笑)
というわけで・・・・拙者は勝手に一人、周囲を“警戒”する任に就くのである。(笑)
だから・・・説明を聞き逃してしまうのである。(大涙)
シンガポールは、ジョホール水道によってマレー半島から分断された東西約42キロ、南北約20キロの島である。
英軍は、ここに10年の歳月と多額の費用をかけて要塞を建設した。(昭和13年2月に完成)
なぜならば、ヨーロッパからアジアへ向う航路は、このシンガポールを軸としていたからである。
シンガポールは東洋を支配する英国の大動脈なのである。
当然、この島の守りは堅い・・・・
が・・・要塞の砲は、海からの攻撃を想定して、その多くは外洋に向けて設置されている。
そこで、日本軍は、その裏をかき、マレーシア半島を縦断して、いわば裏口から攻撃をかける作戦としたわけである。
マレー半島とシンガポールは、1本の陸橋で繋がっているだけである。
英軍はマレー半島から撤退を完了した1月31日に、この陸橋を爆破して日本軍の利用を妨げた。
おかげで、シンガポール攻略には、この陸橋を使うことが出来なくなった。
ジョホール水道は、幅600~1000メートルの水道であるが、ここを舟艇で渡って上陸するという作戦を取ることになる。
この攻撃に参加するのは、近衛師団、第5師団、遅れて到着した第18師団の3個師団である。
シンガポールの東側(こちらから見ると左手)に、セレター軍港があり、英軍は日本軍はそちらに直接攻撃をかけてくるのではないかと思っていたようである。
日本軍としては、そう思わせておく“欺瞞工作”“陽動作戦”を行なった。
荷物を乗せていない空のトラックなどをヘッドライトを煌々と点けてジョホールバルの東に向けて走らせるのである。
で・・・・帰りは、ヘッドライトを消して、引き返し、再びUターンして東に走る・・・(笑)
向うから見ると、大部隊が続々と東に向かっているように見えるわけで・・・・
ジョホールバルの東側海岸から上陸してくるだろうと思わせるのである。
実際、小部隊が渡過して、敵の目をこちらに向けるよう陽動している。

歩道橋から左側(東方向)を見る。
向うの方角で陽動作戦が行なわれた。
で・・・・実際は、ジョホール水道の破壊された陸橋の、こちら側・・・・
つまり、西側の海岸からシンガポールに向け渡過するのである。

近衛師団が渡過をしたのは、この歩道橋のある辺りからか?
海岸線も道路が走り、かなり当時とは変わってしまっているだろう。
渡過の戦跡は何も残っていない。

歩道橋から右のほう(西の方角)を見る・・・・
近衛師団の向うに、第15師団が・・・・そしてそのず~っと向うに第18師団が渡過のため待機していた。

真正面・・・・船の向うに見えるのがシンガポールである。
当時、あの辺りは密林と湿地帯だった。
こうして見てみると、対岸への距離は、それほど遠いとは感じられない。
結構、近くに見える・・・・(笑)
こちらから向うへ渡って上陸するのは簡単そうに見えるが、向こう側は湿地帯・・・・
当時は、上陸してから後の移動に困難をきたすと思われていた。
というわけで、英軍も、まさか、こちらの岸に上陸するとは思っていなかっただろう。
いくらかの小部隊が来るとしても、主力の大部隊が上陸をするとは思っていなかっただろう。
英軍も全く何もしていなかったわけではなく、とりあえず野戦部隊を、あの辺りには配置していたようである。
この水道を、日本軍は折畳みの舟艇に乗り込んで、向うに向かって突進したのか・・・・
映画のワンシーンのように、その姿が頭に浮かぶ・・・・
時刻は午前9時45分・・・・
これからシンガポールに向かう。
投稿日:2014-06-10 Tue

午後5時半、ジョホールバルに入る。
対岸に見えるのはシンガポールである。
1月26日、松井第5師団長は、隷下の部隊にジョホールバルに向う追撃命令を下達・・・・
部隊は本道方面からと鉄道線路に沿う地区からの二方向から突進・・・・
途中、英軍の抵抗を受けることなく、1月31日の夕方にジョホールバルに突入した。
一方、近衛師団はバクリ、パリットスロン付近の戦闘で数日を費やしてしまい、進出が遅れる。
その間に第5師団のほうが先頭に立ったため、両師団が混交するのを避けるため、近衛師団は海岸道方面からジョホールバルに向かう。
途中、英軍を撃破しながら、1月31日の夕方から夜にかけて、近衛師団はジョホールバル西北地区に進出した。
第25軍司令部は、ジョホールバルに進出した時に、旧王宮の建物に司令部を置いたらしい。
ということで・・・・ここを見学・・・・
ここは現在、ジョホール州政庁となっているので、通常の観光では入場できないらしい。

建物の中には入れないが、敷地内の立ち入りの許可はもらっていたようで、外観のみ特別に見学ができた。



第25軍の山下奉文司令官は、この建物の望楼に立って、対岸のシンガポールを視察しながら作戦の指揮をとったのだとか・・・・
う~ん・・・・あのてっぺんに上ってみたいなぁ~(笑)
あそこからは、シンガポールはどんな風に見えるんだろうか?
皆さんから離れて一人でブラブラする。
ちょうど警備員と話をする機会があり、ちょっとオシャベリをしたら、彼が建物の壁を指差して「日本軍の銃弾の跡だ」と言う。
はぁ?ここは日本軍の司令部のはずなのだが・・・・
日本軍がこの建物を攻撃したのか?
この建物を接収する時に戦闘でもあったのだろうか?
彼に尋ねたが「よくは知らないが、日本軍の銃弾の跡だといわれている」と言う。
拙者のヒヤリングが間違っていなければ、彼はそう言った・・・(笑)

時刻は午後6時・・・・
見学を終え、参加者の希望で急遽、ショッピングセンターに行く事となる。(笑)
元新聞記者の“マツナガさん”は、辞書が買いたいので本屋に行きたいという。
拙者も興味があったので、一緒に行動・・・・
与えられた時間は20分程度・・・・
他の参加者と別れて急いで本屋を探す。
が・・・・わからない・・・ショッピングセンターが広すぎる!
しかも表記は英語だかマレーシア語だか・・・・お店の配置図はどこにあるんだ?
他のお店の店員に尋ねながら走り回る。(笑)
ようやく本屋を見つけ、辞書を探すが、どこにあるのかわからない。(笑)
店員に尋ねたが・・・拙者の英語が下手なのか・・・(大笑)
話がなかなか通じない・・・・
“マツナガさん”は、英語とマレーシア語の辞書が欲しいのだそうだ。
日本で言えば、「英和」と「和英」が一緒になっている辞書・・・・
こっちで言うと何ていえばいいの?(汗)
マレーシアは漢字の当て字では「馬来西亜」と書くから・・・・
「英馬」と「馬英」が1冊になっている辞書・・・ということになるか?(大笑)
店員のお兄ちゃんは、最初のうち、トンチンカンな本を案内してくれる。(大笑)
そうじゃないんだよなぁ~そういう本じゃなくてぇ~・・・・(涙)
あ~でもねぇ、こ~でもねぇと説明して、ようやく、「あ~辞書ですか?」って何よ!
さっきから「辞書」って言ってるじゃねぇか!(苦笑)
ようやく手頃な辞書を入手・・・
値段は、日本円で数百円らしい・・・・(唖然)
「この手の辞書は、日本じゃ軽く2千円はするんじゃないんでしょうか?」
「日本の本の値段は高いんだよねぇ~特に辞書は高すぎるよ。海外ではこの程度の値段が普通だよ」と“マツナガさん”はおっしゃる。
“マツナガさん”は、これでマレーシア語が理解できるとご満悦・・・
マレーシア語を英語に訳せれば、なんとか理解できるとおゃるのである。
あれ?“マツナガさん”・・・英語が出来るの?(汗)
さっきから拙者が四苦八苦して通訳してるんですけど・・・・(大汗)
拙者の通訳は必要なかった?(大笑)
年齢は拙者の親父とほぼ同じ年令である。
で・・・この向学心・・・・いやはや敬服する。
拙者も何か一冊買おうかなと思い広い店内を見て回るが・・・・歴史に関する本が見当たらない。
「フィクション」「ノンフィクション」「小説」「ファンタジー」等々の棚はあるのだが・・・・「ヒストリー」がない!(汗)
またまた店員のお兄ちゃんに尋ねたが、要領を得ない・・・(大汗)
「ヒストリーなんだけど・・・・」
「ヒストリー?」
「たとえば、マレーシアの歴史とか・・・第二次世界大戦の話とか・・・そういう本なんだけど・・・」
「ヒストリー?・・・・う~ん・・・・ありません!」
「はぁ?ない?マレーシアの歴史について書かれた本とか・・・ないの?」(唖然)
「マレーシアの歴史?・・・・ありません!」(真顔)
君達は歴史を勉強しないのかね?(唖然)
本当にどこにも歴史の本が置いてないのである!!(汗)
いやぁ~日本では考えられまい?
どこの本屋にも何かしらの歴史関係の本は置いてあるんだけど・・・・
そういう意味では日本の本屋はたいしたもんだよなぁ~
その割には日本人はマンガばかり読んでいるようだけど・・・・(汗)


(ジョホールバルの町の中)
午後7時45分・・・・ホテルに到着・・・・
チェックインして、部屋に荷物を置いてすぐにホテル内のレストランで夕食をとる。

エレベーターホールから見た景色・・・・
向うに見えるのが、シンガポールである!
う~ん・・・どうやって攻略しようか・・・・と山下司令官になったつもりで見ても・・・
ただの平たい陸地しか見えぬ・・・(笑)
どこをどう攻めりゃいいのか、さっぱりわからん・・・(大笑)


バスタブ付きのお風呂である!!(喜)
どうも、シャワーだけの風呂というのは落ち着かぬ。
拙者は日本人ゆえ・・・・湯船に浸からねば、リラックスできぬ・・・(笑)

投稿日:2014-06-10 Tue
午後12時半、食事を終えて、「ジョホールバル」に向けて出発する。
「マラッカ」は海岸に沿って南下していた近衛師団によって占領されたが、さほどの戦闘はなかったのか、これといった戦跡は見当たらなかった。
もしかしたら、マラッカ占領時の日本軍に関する資料の展示などが博物館にはあったのではなかろうか・・・という気もするが・・・・
博物館を見学できなかったのは、やっぱり残念・・・・(涙)

「マラッカ」を出発して約1時間後、「バクリ」地区に到着。
さっそく“イズミ教官”から戦史の説明を受ける。
昭和17年1月、近衛師団は、マラッカを経由してシンガポールに向って進撃することとなり、第5師団を超越して敵を追撃・・・・
この「バクリ」には、近衛歩兵第5連隊基幹の“岩畔追撃隊”と近衛歩兵第4連隊基幹の“国司追撃隊”が併進して進撃した。

日本軍は写真の向うからこちらに向って進撃・・・・
1月18日早朝、近衛歩兵第4連隊第2大隊(伊藤大隊)は「バクリ」西方から南側高地にわたって陣地を展開していた約1,000名の敵と衝突、これらに対して攻撃をかけたが戦況は進展しなかった。
夕方に近衛歩兵第5連隊第2大隊(児島大隊)が到着し、伊藤大隊の左に展開して(写真では道路の右側)戦闘に参加した。
さらに、“岩畔追撃隊”の岩畔連隊長は、第3大隊(大柿大隊)を敵の退路遮断のため「バクリ」の東方に迂回進出させた。
1月20日午前10時頃、大柿大隊は「バクリ」から「パリットスロン」へ向かう道路の両側の高地を占領・・・
完全に敵の退路を遮断した。
児島大隊、伊藤大隊などの正面攻撃部隊による夜通しの攻撃で、英軍は、19日から逐次陣地を放棄して後退・・・
「バクリ三叉路」付近に圧迫されたとのこと。
ちょうど我々がいるあたりが、その三叉路だろうか?
ここでの戦闘も熾烈を極めたようである。
わが軍では戦車第14連隊第2中隊(五反田中隊)の九五式軽戦車9両が、この戦闘に参加していたが、19日の夜半に独力で一気に突進しようとしたところ、障害物に阻まれた挙句、敵の対戦車砲の餌食となり、9両のうち8両が撃破されたという。
ここでの戦闘では、この地に展開していた印度歩兵第45旅団の旅団長、ダンカン准将が戦死している。
英軍は1月20日夜、北方の湿地密林地帯と東方の「パリットスロン」に向けて、二手に分かれて退却した。

写真手前から向うへ向って進撃・・・・この先が「パリットスロン」である。
「バクリ」から10分弱程度走った場所だったと思うが・・・・「大柿大隊」の戦跡に到着。
大柿大隊(近衛歩兵第5連隊第3大隊)が迂回して敵の退路を断った場所である。

退路を遮断された英軍は必死になって退路の奪還を図る。
7回にわたり逆襲をかける英軍に対し、大柿大隊は逐次戦線を縮小しながら半円形に陣地を占領する。
大柿大隊は圧倒的な敵の集中砲火に加え空からの攻撃も受け死傷者が続出したが一歩も退かず、2日間にわたって退路を完全に遮断した。
しかし、陣頭指揮をしていた大柿大隊長は、1月20日、道路北側の陣地で壮烈な戦死を遂げる・・・・
この戦闘での大柿大隊の損害は、戦死226名、負傷106名の合計332名で、大隊戦力の6割を失った。
6割も失いながら一歩も退かず・・・とは・・・・(大汗)
この大柿大隊の頑張りがなかったら、マレー作戦も、ここにきてかなり苦戦したことだろう。
よくぞ耐えてくれたものだ・・・・
道路から少し入った場所で、ささやかな慰霊祭を執り行い、全員で『海ゆかば』を斉唱・・・黙祷を捧げる。

大柿大隊は、この戦闘で、軍司令官から「感状」を授与されている・・・・
で・・・・思い出した・・・・(笑)
この間、オーストラリアへ行った時に、博物館に、この「感状」の看板(?)を見た記憶がある。
確か、キャンベラの「オーストラリア戦争記念館」だったと思うが・・・
江戸時代の高札のような形の木製の看板で、墨で書かれてあった。
「大柿部隊」とだけしか書かれていなかったので、どこの部隊のものだろう・・・程度にチラリと見ただけ・・・・
見学時間がなく、走り回って見ていたので、内容を読んでいない・・・当然、写真も撮っていない。(涙)
ここに来て、遂にわかった!(大笑)
「大柿部隊」は、近衛歩兵第5連隊第3大隊のことだったのか・・・・
で・・・・あの「高札」(?)は、このあたりに掲示されていたものだったのかもしれないなぁ・・・
それを戦後、オーストラリア軍が手に入れて博物館のショーケースの中に展示したのかも・・・・
説明文を読む余裕がなかったのが残念・・・・
やっぱり、もう一度、オーストラリアに行くべきか?(大笑)
博物館は、やっぱり、じっくりと時間をかけて見学すべきだよなぁ~(汗)
あの展示品に関連した場所に、今、自分が立っているとは・・・・感無量である・・・・

この道を向うに向かって真っ直ぐ進むと・・・・「パリットスロン」である。
時刻は午後2時半・・・・

20分ぐらい走ると「パリットスロン」に到着・・・・
橋を渡ったところにバスを停車させ、外に出る。
近くにある建物の看板を見てみたら、ここは間違いなく「パリットスロン」のようである。(笑)

この建物の看板・・・・
「DEWAN ORANG RAMAI PARIT SULONG」と書いてある。
辞書で調べてみると・・・
DEWAN=家・建物
ORANG=人々
RAMAI=公共
PARIT SULONG=パリットスロン
ということであるから・・・この建物は「パリットスロン公民館」?(笑)
1月17日、海岸道を急進していた近衛歩兵第4連隊第3大隊(吉田大隊)は、バクリ付近で戦闘が盛んに行なわれているのを知り、急遽、独断でパリットスロンの東側に転進・・・・
1月20日、午後4時に、ここを流れる「シンパンキリ河」の橋梁を占領・確保した。


この河が「シンパンキリ河」のようである。
橋のたもとの標識に『SIMPANG KIRI』と書いてあったから間違いないだろう・・・・
で・・・その橋梁とは、この橋のこと・・・・


当時の橋が、こんなに立派なはずはなかろうから、この橋は当然、戦後に架け替えられたものだと思うが・・・(笑)
架かっていた場所は、同じこの場所ではなかろうか?
「バクリ」からいち早く退却をした英軍の機械化部隊は、1月21日に、このパリットスロン橋梁まで退いてきたが、間一髪、前日にこの橋を占領していた吉田大隊と遭遇・・・・
まさか日本軍が先回りしていたとは・・・(笑)
英軍は混乱に陥りながらも、死に物狂いでこの橋の突破を図ったが、ことごとく吉田大隊に撃退された。
後ろからは、「バクリ」から近衛歩兵第5連隊第2大隊(児島大隊)が迫り、「パリットスロン」西方約3キロ付近で英軍を捕捉・・・・
英軍は前には退路を断つ吉田大隊、後ろからは追撃してきた児島大隊という挟み撃ちに遭い、パリットスロンの西方地区に陣地を構えて必死の抵抗を開始した。
『窮鼠猫を噛む』・・・・という感じか?(笑)

この橋の向うの方(西方)で、激戦があったのだろう・・・・
この戦闘には日本の第3飛行団も空から協力・・・
地上戦のほか、空爆も加わり、翌22日に、遂に英軍(印度歩兵第45旅団)は壊滅した。
この戦闘による戦果は・・・
捕虜が398名、野砲8門、速射砲(対戦車砲)9門、機関銃10挺、軽機関銃62丁、自動貨車(トラック)178台・・・・等々
対してわが損害は・・・・
戦闘参加人員、5千694名に対して、戦死348名、戦傷253名の合計601名だったそうである。

「パリットスロン」から東進すること約10分で「ペランドック峠」に差し掛かる・・・・

写真の左奥に見える山が「ぺラー山」である。
近衛歩兵第5連隊は、「バクリ」の戦闘に先だち、第1大隊(山本大隊)を、この峠を占領するため、迂回前進させていた。
1月20日未明に、この峠西方の山腹に陣地を構えていた約800名の英軍を攻撃・・・・
敵陣を奪取して、この一帯を制圧・占領・・・・敵の退路をさらに遮断した。
「バクリ」の戦闘では本道を真正面から攻撃しながら、一部の部隊が迂回して、後方に回りこみ、次々と敵陣を奪取して、結局、三重に退路を遮断したことになる。
お見事といえばお見事・・・・である。(笑)
この一帯・・・・近衛師団が戦った「戦跡」を見学し終え、一路「ジョホールバル」に向かう。
マレーシアを移動中、「ゴム園」の見学を計画していたが・・・・
これが、なかなか見つからないのである。(笑)
昔は、どこにでも「ゴム園」が見られたが、今では皆無に近い・・・・
34年前、初めてマレーシアに来たときは、結構「ゴム園」があったんだけどなぁ~
ゴムの木から、その樹液を採って、それが「ゴム」となるわけだが、このゴムの樹液の採取が、なかなかたいへんなのだそうだ。
1日おきに、日が昇る前の早朝に採取しなくてはならないそうで・・・雨が降ったらダメ・・・・すべてがパーになる。(汗)
採取したゴムの樹液は保存が効かないので、すぐに加工に回さねばならない。
こちらの都合は聞いてくれないから(大笑)、この作業はなかなか大変である。
近年は、合成ゴムが幅を利かし、天然ゴムの需要は減少、手間をかけて採取する割には採算が取れなくなった。
結局、「ゴム園」は次々と「油椰子(オイルパーム)園」に姿を変えてしまったのである。
油椰子のほうが、簡単で、採算が取れるからだろう・・・やむを得ないとは思うが・・・・
マレーシアと言えばゴムのプランテーションというイメージは、もう無くなってしまった。
まぁ、少々寂しい気もするが・・・・
日本だって、田んぼが広がる田園風景が、休耕田と駐車場とアパートが目立つ風景に変っているんだから、他国のことを何だかんだとは言えないか・・・(大笑)
ようやく道路わきにゴムの木の林を見つけたので、バスを止め見学する。



「ゴム園」というよりは・・・・
絶滅を逃れたゴムの木が、ひっそりとジャングルの中に隠れて生き残っているという感じである。(大笑)
34年前に見学に行った「ゴム園」のことは、かすかに記憶に残っている。
下草は綺麗に刈られていて・・・・
ゴムの木には螺旋状に傷が付けられていて、人間の腰の高さに空き缶が括りつけられていた。
その空き缶に、樹液がポタリポタリと落ちて溜まる・・・・
作業者は、螺旋状の傷に溜まっている樹液をへらのようなもので削り取るようなことをしていたと思う。
かなり大規模なプランテーションだったが・・・・
ようやく見つけた“ゴム園”(ただのゴムの木の林?)は、昔日の面影をわずかに残している程度・・・という感じである。(汗)
ここ・・・・結構、蚊が多くて、皆さん、蚊に刺されたようで・・・・(大笑)
ちょっと大変な見学だった・・・・(大笑)
時刻は午後4時半を過ぎた・・・・
投稿日:2014-06-10 Tue

午前8時、宿泊先の「ルネッサンス・クアラルンプール・ホテル」を出発!
これから「マラッカ」に向う・・・・
あの「マラッカ海峡」の「マラッカ」である。
途中、古い飛行場が道路わきに見えた。
戦時中、日本軍が使用した飛行場とのことである。

マラッカはマラッカ海峡に面する港湾都市で、東西貿易の要衝地・・・・
そういうこともあって、まぁ、多くの国に占領されている。
そもそもは「マラッカ王国」というのがあったらしいが・・・
その後、ポルトガルに占領され、その次はオランダ領となり、続いてイギリスの植民地となり、最後は、日本軍に占領統治されたのである。
要衝の地であることは間違いないのだろうが、戦前の時点で、すでにシンガポールの港湾が要衝の地として台頭し、ここマラッカは港湾都市としては衰退していたようである。
だいたい、日本軍はシンガポールを攻略するために、このマレー半島を南下したのだから・・・
マラッカが、昔のような重要都市であったなら、日本軍はここに一大海軍基地を設けたはずである。
我々は「マラッカ」と呼んでいるが、これはどうも英語読みのようである。
正式には「ムラカ」と呼ぶのが正しいようであるが・・・・ムラカ州の州都だし・・・・
でも、いまさら「ムラカ」って言ってもねぇ~(笑)
マラッカに到着して最初に向かったのは、「スタダイス広場」・・・
時刻は午前10時半・・・・

ここはマラッカでも著名な観光名所らしい・・・・
「スタダイス」はオランダ語で「議事堂」とか「市役所」を意味するらしい・・・・
赤い建物がその建物で、現在は博物館になっているようだが、我々は見学はしないそうで・・・(涙)
博物館好きとしては何とも残念・・・・


ここマラッカは、ペナン島のジョージタウンと共に、マレーシアの「世界文化遺産」に指定されているそうだ・・・・
あらら・・・へぇ~・・・・である。(笑)
歴史的町並み・・・ということらしい。
へぇ・・・知らぬうちに2箇所も世界遺産を見ちゃった・・・・(大笑)
マラッカには博物館が結構あるらしいが、それを見る時間が全くない・・・・(大泣)
また来るようなのか?・・・・一人で・・・・(大笑)

ここには何台もの「輪タク」が客待ちをしていた・・・・
マレーシアでは、この「輪タク」を「トライシャ」と呼ぶそうだ。
フィリピンでは「トライシクル」と呼んでいる。(笑)
その中で、一番、派手だったのがこれ・・・
新婚旅行客用かアベック用か・・・・(大笑)
この「トライシャ」には34年前に一度だけペナン島で乗ったことがあるが・・・
キティちゃんの絵が描いてあるとなると・・・
う~ん・・・・拙者は恥かしくて乗れそうもないな・・・・これ・・・(大汗)
屋外展示されていた博物館の展示物を見っけ!!(喜)

ひとつは「ブルドーザー」!!(笑)
英文の説明板を読んでみると・・・・
このブルドーザーは第2次世界大戦前にゴムのプランテーションで使われていたもので、ジャングルを切り開き、木を切り倒したりする作業者が歩く小路を造ったりするのに使われていたようである。
米国製の「オリバー」という名のブルドーザーで、製造されたのは1936年ではなかろうか・・・という。
1936年というと、日本は昭和11年・・・・「2・26事件」が起こった年であり、拙者の母が生まれた年である。(笑)
このころに日本にはブルドーザーなどという機械はない・・・・
ところがマレーシアの農園では使われていたのだから、日本はかなりの「後進国」だったのでは?(大笑)
戦前に米国のメーカーがブルドーザーを売り込みに来たという話を何かの本で読んだ覚えがある。
しかし、日本はブルドーザーを購入することはなかった。
なぜならば、不況の時には多くの労働者を道路を整備するなどの公共事業に使うことで、失業対策としていたわけで・・・・
そこに1台で100人分の仕事をします・・・などというブルドーザーを導入したのでは、失業対策が出来なくなるからだったそうである。
おかげで日本人はブルドーザーというものを知らずに戦争に突入した。
昭和17年、ガダルカナル島に上陸した日本軍は滑走路建設を、いつものようにスコップなどを使って人海戦術で行なっていた。
人力でジャングルを切り開き地面をならすんだから、時間がかかる・・・
モタモタしているうちに米軍の偵察機に発見され、ようやく滑走路が完成間近という時に米軍が上陸、滑走路を分捕られた。(汗)
もし、あの時にブルドーザーが日本軍にもあったら、あんな無様なことにはならなかっただろう。
米軍はブルドーザーであっという間に滑走路を拡張、すぐに完成し、飛行機が離着陸し始めた。
米軍のブルドーザーを見て、日本も同じものを作ろうと思ったが参考資料がない。(笑)
戦前に米国の営業マンが配ったパンフレット程度しかなかったようである。
が・・・京都大学かどこかの工学部に教材としてブルドーザーが2台ほどあったのを見つけ、これを参考に日本製のブルドーザーの開発を行なう・・・・
やることが遅いのである!
実は日本にもブルドーザーがあったなどと今頃気付くようではマヌケである!!(怒)
「総力戦」と言う割には大したもんじゃない・・・・
掛け声ばかり立派なところは今も昔も変っていない・・・・
マレーシアの農園では戦前からブルドーザーが使われていたとは・・・・
唖然・・・・である。
ブルドーザーの隣に展示されていたのは、かなり古い消防自動車!


これまた英文の説明板によれば・・・(笑)
この消防自動車は、1937年ごろに作られた英国製の消防自動車だそうだ。
これが使われ始めたのが1939年とのこと。
日本は昭和14年、ノモンハン事件があった年である。
この消防車・・・・
その後、英国がシンガポールに持って行ってしまったらしいのだが、多分、日本軍が占領した後のことだと思うが、後に日本がこの消防車を再びマレーシアに取り戻してくれたと書いてある。
ん?よくわからん話しだが・・・・(笑)
侵略者だの極悪非道だのと非難されている日本が、戦時中にわざわざ消防自動車をシンガポールからマレーシアに取り返してくれたというのか?(大笑)
マレーシアの誰かが「取り返してきてくれ!」と日本軍に頼んだのか?(笑)
どういう経緯があったのだろう?
興味の湧くところである。
で・・・この消防自動車は、なんと!・・・・1974年まで現役として活躍していたらしい。(唖然)
1974年は昭和49年である。
拙者が14歳のときである!
小野田少尉がルバング島から生還した年である!(笑)
ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し、日本では田中角栄首相が辞任して三木内閣が成立した年である。(笑)
マレーシアにやってきて、途中でシンガポールに持って行かれ、再びマレーシアに戻ってくるという数奇な運命を経ながら35年間も現役で活躍した消防車なのか・・・
おお~・・・・感動である。(笑)
日本では戦前に消防自動車というのはあったのだろうか?
これはいつか「消防博物館」にでも行って確認せねばなるまい。(大笑)
他の参加者は、これらには全く興味がないようで・・・・(笑)
あっさりと通過して先に進んでいってしまったが、拙者はこの古いブルドーザーや消防車を見ていて楽しくて仕方がない。(笑)
このツアーでは、いつものように拙者は“しんがり”を務めているので、多少遅れても問題はない。
最後列を歩くわけだから・・・・
問題は、“イズミ教官”の戦史の説明が聞けないことが不便なだけである。(涙)
この「スタダイ広場」(通称、オランダ広場とも呼ばれている)の裏手の高台に登る。
ここからマラッカ海峡が見えるのだそうだ。

遠くに見えるのが「マラッカ海峡」だそうだが・・・・
う~ん・・・・よくわからんなぁ~(苦笑)
タンカーらしき船も見えるが・・・・
う~ん・・・・よくわからんなぁ~(苦笑)
「マラッカ海峡」は、“海賊”が出る危険な海峡なんだよね?
そういう場所は、ここじゃなくて、もう少し離れたところか・・・・
この高台は「セントポールの丘」と呼ばれている。
頂上に廃墟となったセントポール教会がある。
ポルトガルが統治していた頃、キリスト教布教の拠点として、この教会が建てられたそうで・・・・
フランシスコ・ザビエルの遺体(遺骨の一部?)が一時期、ここに保管されたことがあるそうだ。
拙者は、まったく興味がなかったので・・・・(苦笑)・・・・写真を撮らなかった。(笑)
頂上には観光客がたくさんいて、鬱陶しいことこの上なし。(大笑)
丘を下って反対側に降りる・・・・
暑くて喉が渇くが・・・飲み物を買う余裕もない・・・・(涙)
ここは、飲み物持参で登るべきだな・・・

「サンチャゴ砦」・・・・「ファモサ」とも呼ばれるポルトガルがオランダとの戦いに備えて造った要塞の跡である。
ここに日本語の説明板が設置されていた。
ポルタ・デ・サンティアゴ
ポルタ・デ・サンティアゴとは 出入り口を意味しており、まさに、“エイファモサ”(A'FAMOSA)の ポルトガル軍要塞への4つの入口の一つである。
ポルトガル軍のリーダーは1511年にマラッカを征服し、アルフォンソ・デ・アルバカーキは、マラッカのサルタンやアチェの攻撃からの防御策に1512年(A'FAMOSA)を建設した。
ポルトガル人達は廃墟となった宮殿、王族の霊廟やモスクからとなった(筆者注:取った?)建材を使って、幅3mの壁がついた、四角い砦を奴隷の労働者を使って建設した。
高さ40mの望楼は一時期要基(筆者注:要塞?)の北西角に位置していた時があった。
興味深い点は、このポルトガル風らしき建物にオランダ東インド会社の紋章が彫られていることである。
これは1670年にオランダの会社がこの砦を自分達の本社として利用していた為。
この砦は1795年に駐留した英国軍にあやうく跡形もなく取り壊されるところで、ウィリアム・ファークハといつ(筆者注:いう?)人物が火薬で砦を吹き飛ぼうと(筆者注:飛ばそうと?)したが、砦の破壊を止めるよう制裁(筆者注:制止?)した。
かつてこの他に(筆者注:この地に?)威風堂々と聳え立っていた要塞の面影を残す、ポルタ・デ・サンティアゴである。
ポルタ・デ・サンティアゴは、1977年5月12日に文化財保護法令第168/1976により、歴史記念文化財に指定された。
(説明板より)
この日本語・・・変な言い回しや誤字・脱字もあるが、意味はわかる。
あまり他人の文章を笑う資格は拙者にはない。(笑)
拙者の英語はもっとひどいだろう・・・・(大笑)
拙者がフィリピンの博物館に提供した英文の展示品説明文などは、米国人が読んだらどう思うか・・・・(大汗)
一生懸命、日本語で書いて展示してくれたんだから、こういう説明板はよく読んであげないとねぇ~
作ってくれた人に申し訳ない・・・
無視して通過するなんて・・・失礼だよねぇ~
自分がその立場になると、よくわかる。(汗)
近くの広場に装甲車が・・・・

この装甲車(手前)と装甲兵員輸送車(奥の車輌)には、説明板がなかったが・・・
どうも戦後、マレーシア共産党と戦ったときに使用されたものらしい。
、


時刻は午前11時半・・・・
空の雲行きが怪しくなってきた・・・・(汗)
生暖かい風も吹き始めた・・・・
こりゃ、ヤバイ・・・ザ~ッと来るぞ・・・・(大笑)
タイミングよく、これから昼食である!
市内のレストランで昼食・・・・


ここの料理は「ニョニャ料理」という“郷土料理”だそうだ。
マレー料理と中華料理が混ざったものらしい。
が・・・拙者には、よくわからん・・・(笑)
中華料理との違いがわからんのです。(大笑)
拙者は“グルメ”じゃないから・・・とにかく腹が満たされれば、それでいい・・・・(大笑)


(レストランの前の様子)
投稿日:2014-06-09 Mon
このクアラルンプールも34年ぶりの訪問であるが、どこに行ったのか全くと言っていいほど記憶にない。(大汗)『バトゥー(またはバツー)洞窟』という観光名所に行ったことだけは覚えている。
その時に、この洞窟に至る急角度の階段を一気に駆け上がった・・・・
当時、拙者はアメフトの選手・・・・
一気に駆け上ってみるか!・・・と270段ぐらいある急角度の階段を駆け上ったのである。(笑)
そのとき、周囲の外国人観光客から驚きの目と笑いをもらったが・・・(恥)
あのころは若かったねぇ~
友人たちは途中で駆け上がるのを断念したが、拙者は最後まで一気に駆け上がった。
が・・・・その後がひどかった・・・・
心臓はバクバク・・・呼吸困難と貧血による目眩で、死にそうな目に遭ったのだ・・・(大笑)
というわけで・・・足腰立たず、へばってしまい・・・・
さて、洞窟の内部がどうなっていたのか、内部を見たのか見なかったのかすら記憶がない。(大笑)
洞窟の入口付近の石の上に座り込んだまま動けなくなっていたのである。(大笑)
死ぬんじゃあるまいかと思った、この時のことだけは昨日の事のように鮮明に覚えている。
やっぱり、記憶というのは、このくらいの苦しい思いをしないと残らないんだろうねぇ~(大笑)
今回のツアーでは、この観光名所は残念ながら含まれていない・・・・
う~ん・・・・懐かしいあの階段をもう一度見て見たいものだが・・・・
この歳では、多分、上までは登れないだろうなぁ~(大笑)
歩道橋を上っただけで息切れがするんだから・・・・(大汗)
あのころは若かったねぇ~
『日本人墓地』の次に向かったのは『王宮』・・・・・
しかし、まったく記憶がない・・・(大笑)
多分、ここには来なかったんだろうね?(大笑)


『王宮』の見学は、柵越しに外から見るだけ・・・(笑)
わずか10分弱の見学であった。(笑)
次に向かったのは・・・・『国家記念碑』・・・・
時刻は午後3時半・・・暑い・・・・とにかく、暑い・・・(笑)




この「国家記念碑」の近くに、中国語と日本語の「説明碑」があった・・・
(碑文)
国家記念碑
国家記念碑建設の構想は1963年、マレーシア前首相YTMトウアンク・アブドル・ラーマン・プトラ・アルハジによって、国家独立のために戦って死んだ兵士を悼む碑として提案された
レイクガーデンに面した48,562スクエアメーター土地がこの記念碑の建設に割り当てられ、国家記念碑のまわりには噴水、パビリオン、戦争記念碑を配し、公園がこれら施設を取り囲んでいる
記念碑は7人のブロンズ像から成り、敵軍と戦う民主軍の勝利を表現するもので、1966年、アメリカ人彫刻家フェリックス・ド・エルドンによって制作された
同年2月8日に除幕式が行なわれ、それ以来毎年ここで、兵士を偲ぶ式典が催されている
この記念碑ができる以前にも、第1次世界大戦後、戦争で死んだ兵士を祀る別の記念碑が鉄道駅の近くに建設された
毎年11月11日にここで兵士の死と献身に敬意を表するため、簡単な式典がとり行なわれている
現在の国家記念碑ができる前は、第2次世界大戦で死んだ兵士たちの名前がこの記念碑に刻まれていた
悲しいことに・・・・ここも記憶がない・・・・(笑)
ここにも来た事がなかったのかも・・・・
ということは、拙者はクアラルンプールではどこに行ったのだろう???(大汗)
青年海外協力隊の本部かどこかで皆さんと会合を持ったことは覚えている・・・・
クアラルンプールから200kmほど離れた派遣地から、ホンダのスーパーカブというバイクで何時間もかけてやって来てくれた隊員がいたのをよく覚えている。
スーパーカブは、あの新聞配達の人が使っているバイクである。(大笑)
あれで200kmもの距離を走ってきたのか!(驚)
ガソリン満タンで100kmは走るので、途中で1回給油すればいいだけだと話してくれたのを覚えている。(笑)
奥地の辺鄙な村に裁縫の指導で派遣されている女性隊員に会いに行ったことも覚えている。
こんな辺鄙な村にたった一人、日本人の女性が派遣されているのには驚いた。
いやはや女性は強いもんだと思ったものである。
(それを見てから女性は強くて怖いと思うようになったのかも・・・大笑)
昼間はいいが、夜になったら、周囲は真っ暗闇でさぞかし怖いだろうなぁ~と思った・・・・
この村に向う途中、油椰子(オイル・パーム)のプランテーションの中を突っ走った・・・
広大なプランテーションで、いつまで走っても油椰子ばかり・・・・
道路わきに膨大な量の油椰子が捨てられていたのに驚いた。
1980年当時、ソ連はアフガニスタンに侵攻し、アフガニスタン戦争があって、これに抗議してアメリカなど西側諸国は、「モスクワ・オリンピック」をボイコットした。
さらに米国はソ連に経済制裁を加えて、米国からの穀物の輸出を停止した。
冷戦下の米国とソ連が貿易をしていたとは知らなかった・・・・(汗)
禁輸により、ソ連向けに輸出していたトウモロコシ等の穀物が国内にだぶついたのである。
当時、米国はマレーシアからヤシ油を輸入していたのだが、この国内にだぶついた穀物を油に加工して国内で消費することにしたそうで、このため、マレーシアのヤシ油は米国に買ってもらえなくなり、価格が暴落・・・・
やむなく殆どの油椰子は、そのまま、その場で廃棄処分とされたのだという。
価格が安すぎて市場や出荷港までの運送代すら出ないそうなので、捨てるしかないという話だった。
何ともったいないことかと思ったが・・・・
価格の大暴落を抑えるためにはやむをえなかったのだろうが、あのときの景色は今でも忘れられない。
ソ連のアフガニスタン侵攻が、マレーシアのヤシ油の価格に影響を与えるなんて誰が想像出来るだろう?
これが「国際関係」なのだということをこの時知ったのである。
この時の経験が、拙者に国際関係や国際政治に興味を持たせるきっかけとなっている。
この時の経験は良かった・・・・34年経った今でも記憶に残っているんだから、かなりのショックを受けていたのだろう。
若い人は大いに海外へ行き見聞を広めるべきだろう。
「国際化」は英語が話せりゃいいというものじゃないと思うのである。
自分の目で見て、肌で感じて、現地で話を聞いて・・・・という経験が大事である。
そして、それを自分の思考回路にどう取り入れて、どのように自分の判断や行動に生かすか・・・・
拙者は、その経験を生かせないまま、この歳までボケ~ッと生きてしまったが・・・・(大涙)
今日の宿泊するホテルに向う途中、「ツインタワーを見たい」という意見が上がったので、予定外の訪問・・・
とりあえず、外から写真だけを撮るだけでいいからということで向かう。

この「ツインタワー」・・・・正式には「ペトロナスツインタワー」というらしい。
マレーシアの国営石油会社のペトロナスが建築したタワーで88階建て、高さは452mだという。
建設された時には世界一の高さだったそうだが、その後、台湾の「台北101」という高層ビルに追い抜かれたそうだが、ツインタワーとしてはいまだに世界一の高さだとか・・・
で・・・・なんでみんながこのビルを見たがったのかというと・・・・(笑)
写真の左のビルが日本のハザマ(間組)が建設して、右のビルが韓国のサムソンが建設したらしいのだが・・・・
サムソンが建てた方のビルが傾き始めているというのだ。(大笑)
それを確認したいということだそうだ・・・・(唖然)
で・・・・ツインタワーを見上げて・・・「おお!確かに傾いている!」と大騒ぎ・・・・
拙者にはさっぱりわかりませぬが・・・・(汗)
高層ビルの傾きなんて、目で見てわかるようなものだろうか?
ツアーの中で建設業界の方がおられ(日本人墓地で自分勝手な行動をした人ですが・・・汗)、この方が「確かに傾いてますね」と言ったものだから、「ほら、専門家が言うんだから間違いない」と大喜び・・・・
それでも、拙者にはよくわからない・・・・
目の錯覚じゃないの?(笑)
拙者が間違いなくこれは傾いているな・・・とわかったのはイタリアの「ピサの斜塔」を実際にこの目で見たときだけである。(大笑)
あれは、確かに傾いている!!(大笑)
「サムソンが造ったビルなんか、倒壊するのは時間の問題だ」と皆さんが喜ぶ姿は無邪気である。(唖然)
時刻は午後5時・・・・
ホテルにチェックイン・・・・・

このホテル・・・・
ロビーも重厚で豪華だったが、驚いたのは、拙者の部屋である!




この広さは何だ!(驚)
ここは大統領執務室か?(大笑)
う~ん・・・・今晩一晩しか泊まらないんですけど・・・・(笑)
こういう部屋なら、2~3日滞在したい気分である。(大笑)

午後6時半・・・・
市内の中華レストランへ行き、海鮮中華の夕食をとる。

投稿日:2014-06-09 Mon
午後1時、クアラルンプールに入る・・・・

第一印象は・・・・
あれ?・・・はぁ?・・・である。(大笑)
クアラルンプールも34年ぶりの訪問なのだが・・・(大笑)
え?・・・・こんなにビルが建っていたっけ?(唖然)
当時の景色を思い出せないのだから、実際は比較のしようがないのではあるが・・・・(笑)
う~ん・・・・こんな感じの町だった?


午後1時半、市内のレストランでマレー料理の昼食をとる。


(レストランの前の景色)
レストランの前の道路は一方通行だが、大渋滞・・・
おい、おい・・・・(大汗)
このあと向かったのは、「日本人墓地」・・・・


古い門の方の左の門柱には『明治三十二年三月吉日建設』と書かれている。
で・・・右の門柱は白ペンキで塗りつぶされているが、その下に『大日本帝國臣民之墓地』と書かれてあった。

新しい門(?)のほうから敷地内に入る・・・・
入ると直ぐに「慰霊堂」があるので、先ずそこをお参りする。

内部には“ご本尊”と位牌が並んでいる・・・・
「本堂」と呼ぶのが適当なのかどうかは知らないが・・・
ここで、ふと気になったので参加者の人数を勝手に確認してみた。
ここから少し離れたところでバスを降りて徒歩でここまで来たので、まさかとは思うが、途中で迷子になった人はいるまいな?・・・・と思ったのである。(笑)
と・・・どう数えても一人足りない!!(汗)
拙者は参加者全員の顔と名前を覚えているわけではない。
一言も会話を交わしたことがない人が何人もいる。
拙者が気を配るのは・・・“高齢者”(大笑)
迷子になったり、忘れ物をしたり、勝手にどこかにフラフラと行ってしまったり・・・(大笑)
そういうわけで、“要注意人物”として、数人の高齢者には目を配ることにしている。
が・・・・“行方不明者”は、これら“高齢者”の方々ではない。
添乗員に一人足りないようだと報せたところ、添乗員も焦ったようだ・・・・
「あれ?・・・いない!・・・○○さんがいない!」(大汗)
どこかで逸れたのかなぁ~と騒いでいたら、参加者の中から「そういえば、以前来たことがあるから俺は行かないと言っていましたよ」という声が上った。
「じゃぁ、バスに残っているんですかね?」と添乗員さん・・・・
「たぶんそうじゃないんですか?行かないって言っていたんだから・・・」との声・・・・
あのねぇ~・・・・なんという勝手な奴だ!(怒)
“団塊の世代”の参加者である!
だから、拙者は“団塊の世代”は好きではないのである。
バスに残って参加しないというなら、そういうことは添乗員さんに直接伝えるべきであろう?
近くに座っている人に独り言のように言っても意味ないでしょ?
どうして、そういう常識がないのかねぇ~・・・・団塊の世代は!(怒)
みなさんに迷惑をかけないようにするという気遣いができないのかねぇ~
どういうわけか、毎回、ツアーにはこういう人が少なくとも一人はいるのである。(唖然)
今回も一人いたか・・・・(涙)


墓石を見てみると、女性の名前の古い墓石が多い・・・
どうやら“からゆきさん”のお墓らしい。
戦前のお墓は300ほどあるらしいが、そのうちの7割が“からゆきさん”だという話である。
どういう思いでマレーシアまでやって来て・・・・どういう思いでこの地で息を引き取ったのだろう・・・
こうして墓石に名前が刻まれている人は幸せなほうかも知れないなぁ~
墓石すらないまま、眠っている人もいるんだろうなぁ~
独身で子孫がいない拙者は「無縁仏予備軍」もしくは「無縁仏予定者」ですから・・・(笑)
う~ん・・・・拙者も人知れず、名も残せず・・・・どこかで眠ることになるんだろうなぁ~
彼女達の墓石や、朽ち果てている墓石・墓標を見ていると、他人事ではないような気がしてきた。(涙)


敷地の一番奥に歩兵第11連隊の有志が建立した『慰霊塔』があった。
ここに日章旗、旭日旗を飾り、お線香をあげて、全員で「海ゆかば」を斉唱して慰霊を行なう。
(慰霊塔・碑文)
われわれは太平洋戦争の戦火に倒れたわが仲間および各国軍人と住民の霊を弔うとともにマレーシア連邦国民の平和と繁栄とを祈る
昭和53年9月建之
歩兵第11連隊有志
碑文は日本語と英語の併記である。

この慰霊塔のすぐ隣りに『JA8051号機遭難者 慰霊碑』というのがあった。
お墓の形態だが、お墓ではなかろう。
このJA8051号機というのは、日本航空(JAL)の機体番号である。
昭和52年(1977年)9月27日、日本航空の715便(機体番号:JA8051)というダグラス社のDC-8旅客機が、クアラルンプール空港に着陸進入中、悪天候のため着陸に失敗しゴム園に墜落した。
37年ほど前のことである・・・・
この旅客機には乗員10名と乗客69名の計79名が搭乗していたが、この事故で乗員8名、乗客26名の計34名が死亡した。
その方々の慰霊碑である。
が・・・・碑文はない・・・・なんでだろう?
誰が建立したのかもわからない・・・・
墜落現場ではなく、日本人墓地に建立というのも珍しいと思うが、碑文がないのでは、何の慰霊碑なのかわからないだろう。
事故のこととか、いつ事故があったのかとか、亡くなった方々のお名前を記するとか・・・何か“説明”しないと“慰霊”にならないのではなかろうか?
思ったとおり、わが参加者たちは「何これ?」と言っただけでサッサと立ち去ってしまった・・・・(汗)
皆さんが、サッサと墓地を立ち去ってしまったので、一人ポツンと取り残されたが・・・(笑)
墓石や慰霊碑などを見るというのは、結構勉強になるんだけどなぁ~
皆さんがトイレに行っている間、まだ少し時間に余裕があるので、もう少し欲張って墓地内を駈足で見て歩く!(汗)

『殉難碑』というのを見つけた!!
『陸軍中将 沼田多稼蔵 書』と刻まれている。
軍関係で『殉難』という言葉を使う場合、法務死・・・・特に戦後建立された場合は戦犯で処刑された方々に対して使うことが多い。
ということは・・・・戦犯として処刑された方々の「慰霊碑」だろうか?
残念ながら建立した日付のみで碑文は刻まれていない。(涙)
建立されたのは、昭和21年2月12日である。
ところが、この日付だと、ちょっと疑問が残る・・・・(汗)
クアラルンプールの戦犯法廷は英国が裁判国として日本軍を裁いたのだが・・・・
裁判は昭和21年1月29日から始まり昭和23年1月11日に終了している。
被告は77名、裁判の結果は死刑24名、有期刑37名、無罪14名、その他2名である。
建立した日付から見ると、裁判が始まって1ヵ月弱で「殉難碑」が建立されたことになる。
法廷は2年間も裁判を続けていたのに???
裁判が始まって直ぐに死刑判決が出て即刻処刑したのか???
おかしい・・・
こうなると、この「殉難碑」は戦犯で処刑された方のための碑なのかどうか怪しくなってしまう。
碑文がないからなぁ~・・・・・
何か碑文が書いてあればわかるのに・・・・
だから碑文は大事なのである。
建立した人はわかっていても、後世の我々には「殉難」が何のことやらわからない・・・
そういうことでいいのかね?
碑を建てた意味があるのかね?
沼田多稼蔵中将は、南方軍総参謀長として終戦を迎えた人である。
南方軍は東南アジア方面の全陸軍部隊を統括している。
フィリピンもマレーシアもシンガポールもインドネシアも、全てこの南方軍の傘下に入る。
司令部は仏印(現:ベトナム)のサイゴンにあった。
ちなみに総司令官は寺内寿一元帥である。
沼田中将は昭和22年、戦犯容疑で「巣鴨プリズン」に収監されている。
現在、「池袋サンシャイン」がある場所である。
で・・・翌昭和23年に「橘丸事件」で重労働7年の判決を受けたが、昭和25年に仮釈放となり、それから11年後の昭和36年(拙者が生まれた翌年)に69歳で他界された。
ということは・・・昭和22年以降は「殉難碑」に書を提供する余裕はなかったはずである。
自分が戦犯容疑で引っ張られる前でなければできないだろうから、昭和21年の建立は間違いないだろう。
わからん・・・・終戦後半年以内に「殉難」と言われるようなことが何かあったのだろうか?
こういうのは、もっと史料を探してみないとわからないが・・・・
なんともわからん「殉難碑」である。
時刻は午後3時を過ぎた・・・・
バスに乗り込み、次に向う・・・・
投稿日:2014-06-09 Mon
トロラクに夜襲をかけたときの島田戦車隊の戦車は15両・・・攻略後、戦車隊単独でスリムに向けて突撃を開始した時の兵力は、九七式中戦車9両と九五式軽戦車2両の11両、兵員は42名のみ・・・
トロラクを出発して間もなく、ゴムの木の林が続いていたようだが・・・・
現在は、ゴムの木の「ゴ」の字も見当たらない・・・(大笑)
このゴムの木の林(プランテーション?)の中に何百という敵の車輌と無数のテント・・・・
敵の歩兵の露営地となっていたという。
この中を戦車隊は戦車砲、車載機銃を撃ちながら蹂躙・・・・
前進、前進、また前進・・・・(笑)
当時は、このゴムの木の林が切れて、その次にジャングルが道路まで迫っている場所があり・・・・
そこを越すと「スリムリバー」という町に着いたらしいが・・・・
う~ん・・・70年以上も経つとねぇ~(大笑)
景色が変わっていて、当時の情報は何の役にもたたないか・・・(苦笑)
まもなく、「スリムリバー」らしき町に入るが・・・・
どうもおかしい・・・・拙者の勘がそう言うのである。(笑)
昔の略図では、T字路のような場所に町があったはずだが・・・
国道を外れ、旧道らしき道を走る・・・・
と・・・・それらしき地点に・・・・

このあたりにスリムリバーの町があったそうだが・・・
今は何もない!
家がポツンポツンとあるくらいで、集落すら形作っていない・・・・
70年以上も経っているからなぁ~(汗)
国道1号線沿いのほうに町が移動してしまったのではなかろうか?
このスリムリバーの町の洋館に英軍の司令部が置かれていたというのだが・・・
洋館??・・・・そんなもの欠片すら見当たらない・・・・(笑)
トロラクからスリムリバーまでは、英印軍第3師団の第12旅団が防衛を担当していた。
この部隊はカンパル付近の戦闘にも参加していた部隊で、ここまで後退して防衛線を敷いていたようである。
ここから、さらに「スリム」に向うが・・・・
スリムリバーから左折して(つまり、東に向って)旧道を進む。
国道1号線は真っ直ぐ南に伸びているが、昔の道は、一度、東に向けて延び、グルっと回りこんで、また現在の国道1号線に繋がっているから、スリムリバーから旧道の合流地点までは、国道1号線は、いわゆるバイパスということになるか?
島田戦車隊は、時速30キロで突進する。
昨晩の夜間の攻撃の時はエンジン音を抑えるため、時速4キロから8キロである。
時速30キロで突っ走り、ゴム園の中に敵を見つければ戦車砲で射撃する。
敵の大砲がゴム林の中にあるのを見つけて戦車砲で攻撃しても、その大砲の数があまりに多すぎてキリがない・・・・
弾がもったいないから、ついには戦車で敵の大砲を踏み潰しながら走ったという。
戦車隊は休むことなく走り続けたのでエンジンの熱風で車内は40度を越していたというから、乗員も大変だったろう。
我々のバスは、スリムリバーから約10分ほど走ったところでスリムの集落に到着した。


ここが、スリムの町があった場所らしいが・・・・小さな集落である。
戦後、幹線道路から離れてしまったので廃れてしまったのか?

「バライ・ポリス・スリム・ビレッジ」という看板がかかっているので、ここがスリムで間違いない。
ちなみに「バライ・ポリス」とは日本語で「警察署」のこと。
ビレッジというのには少々違和感があるが・・・・(笑)
なにせ、ここには英印軍第3師団の第28旅団が守備についていたのである。
ここでの戦闘について日本側の戦史では「スリムの殲滅戦」という言葉も使われている。
「殲滅戦」というくらいなんだから、相当の大戦闘が展開されたのだと思うのだが・・・・
う~ん・・・・この景色じゃ、当時の様子を想像することも出来ない。
村ねぇ~・・・・そこそこの大きい町だとばかり思っていたのだが・・・(笑)

その昔、この警察署の向かい側に、「第二次世界大戦の史跡の説明看板」があったという。
何年か前に、添乗員の“アサダさん”がここに来た時に見たというのだが・・・・
いつの間にか、その説明看板は取り外されていて、設置枠だけが残されていた。
ここで日英の戦闘があったという現地マレーシアが設置した「歴史的な場所」を説明する史跡の説明板だったそうだが、どこのどいつが撤去したのやら・・・
反日華僑か?(笑)


このスリムに架かる橋・・・・
多分、これが「スリム橋」だと思うが、この橋が英軍の手で爆破される前に、無事に戦車隊によって確保された。
戦史では「北橋」と「南橋」との記述が見られる。
この橋は、「北橋」ではないかと思う。
戦車隊に損害がなかったわけではない・・・・
「南橋」では佐藤小隊の小隊長車が真正面から敵の砲弾を喰らって犠牲になっている。
車内は血と肉片だけが残り、乗員は粉々に吹き飛んでいたという。
形を留めていたのは、機銃の引き金に長谷兵長の右手部分がぶら下がり、操縦席にはアクセルを踏んだ状態の飯田兵長の右足が残っていただけだったという。
戦車が直撃弾を喰らうと、こういう状態になるらしい・・・・(大汗)
多分、その「南橋」というのは、この先にあるのだろうが、我々は、ここでUターンして、国道1号線に戻る。




バスの後部から後ろ向きに写真を撮ったので・・・・(笑)
こちらから向うに向って戦車隊は進んだということになる。
この道をねぇ~
我が戦車第6連隊が突き進んだんだよねぇ~
我が歩兵部隊はスリムリバーに於いて、歩兵第11連隊が歩兵第42連隊を超越して前進し、スリムに向った島田戦車隊の後を追った。
第5師団は、全縦深約30kmを、わずか一昼夜で突破し、スリムリバーやスリムに陣取っていた約3千名の英軍に壊滅的な打撃を与えた。

この丘などは、英軍が陣地を構えるにには最適なような気がする・・・・
英軍側の記録では、この一連の戦闘での残存兵力は1,170名だったという。
日本側の記録では、敵の遺棄死体は約300名、捕虜は約1,000名・・・・
自動貨車(トラック)600台、装甲車84輌、その他各種砲など大量の兵器を鹵獲している。
国道1号線に戻り、我がツアーは、一気にクアラルンプールに向けて“進撃”する。
時刻は午前11時半を過ぎた・・・・
投稿日:2014-06-09 Mon
スンカイの橋を渡り、さらに南下・・・・橋を渡ってから10分弱程度走った場所・・・・
我々が走る国道1号線は、当時の幹線道路だろう。
道幅は当然広くなっていると思うが・・・
この国道1号線に平行して現在では高速道路が走っている。

この道路(国道1号線)沿いの、このあたりに当時、英軍の警戒陣地があったらしい。
写真の向うが北なので、日本軍は向うからこちらに向って進撃してきた。
この先、南下すると、「トロラク」という場所に辿り着く。
このあたりから、トロラクまでの道路の両側は、ゴム林と湿地帯の草原、その奥に深いジャングルがあったようである。
カンパル(もしくはカンパー)から後退した英軍は、このあたりから道路の両側に陣地を構築・・・・
昭和17年1月5日、カンパルから追撃してきた安藤支隊(歩兵第41連隊基幹)が英軍の抵抗を受けたのは、このあたりか?
安藤支隊は、歩兵第41連隊第2大隊(花輪大隊)を道路の右側、第3大隊(丸谷大隊)を道路の左側のジャングル内を切り開きながら迂回させて、敵陣地の背後に進出する作戦に出て・・・
連隊主力は本道上を進み正面から攻撃することとした。
当時、このあたりには3個大隊の英軍が幾重にも抵抗線を設けていたようである。
1月6日夕刻、追撃に移ろうとした時、英軍の熾烈な砲火を浴び、本道の前進が阻まれた。
そこで、1月7日の明け方(もしくは真夜中?)、島田戦車隊(戦車第6連隊の2個中隊)に歩兵と工兵を伴わせ、一気に英軍陣地の突破を図ることとなった。
歩兵と工兵の一部が戦車に先行して敵の対戦車障害物(コンクリート柱)や鉄条網を破壊・・・
島田戦車隊の中戦車(九七式中戦車14輌)中隊が敵の砲火の中を前進・・・・
約6キロにわたって七重に設けられた敵の陣地を、わずか3時間で突破し、トロラクに進出した。
英軍の警戒陣地跡からさらに南下・・・・
途中から旧道に入り、通称『1939の橋』に向う。
出発してから約15分後、現地に到着・・・・



我々が呼ぶ『1939の橋』の正式名は知らない・・・・(笑)
橋はコンクリート製で、そこに「1939」と刻まれているので、そう呼んでいるのである。
「1939」は、普通に考えれば「1939年製」ということだろう。
ちなみに、1939年は日本では昭和14年であるから、当時からあった橋と考えてよかろう。
となれば・・・・橋の幅は当時と同じだから、道幅も当時と同じということになる。
ここを島田戦車隊は走り抜けたのである!(大喜)
当時の写真は残っていないものかねぇ~(笑)
ここをねぇ~我が戦車が走り抜けたのかぁ~・・・・・感無量である!!
当時に思いを馳せる・・・・
我が戦友会の会員、“戦友”の宮澤さんは、戦車第6連隊の一員として、このマレー進攻作戦に参加されていた。
もともとは近衛歩兵として軍隊に入ったのであるが、初年兵(入隊1年目)の時に2・26事件に関わってしまった。
上官の命令に従い、何がなんだかわからないまま、中隊は高橋是清邸を襲撃した。
事件後、指揮官である将校は処罰を受けたが、兵達は何も知らず参加させられたということで無罪となった。
が・・・それでもこの事件は何かしらの影響はあったのではないかと拙者は思うのである。
軍備の近代化により、航空機と戦車が増え、人員が不足したため、上からの命令で、飛行機か戦車か、どちらかを選べと言われたそうである。
近衛兵といえば、容姿端麗、頭脳明晰、家柄もよく、間違っても家族親戚の中に共産党員などがいたら絶対に選ばれない・・・・(憲兵が身辺調査をしたのである)
そういう特に優秀な人が選抜されて近衛兵となるのである。
なにせ、天皇陛下のお膝元で陛下をお守りするのが本来の使命である。
それが、転属をさせられるんだから、そこに2・26事件の影響がなかったとは言えないのではなかろうか?
宮澤さんは、飛行機は墜落すると100%死ぬが、戦車なら生き残れる確率が高いだろうと思って戦車を選んだのだと笑っておられた。
で・・・戦車第6連隊に配属されて、その後、ずっとこの部隊で戦い、終戦時はフィリピンで「指揮班長」として活躍し生還された。
当初は戦車に乗っていたが、その後、乗用車で走り回って指揮をとるようにとのことで、戦車から降ろされた・・・・
その乗用車も他の部隊に差し出せといわれて取上げられ、仕方がないので、徒歩で戦車を追いかけながら指揮をとったという。
このことが結果的には幸いし、戦車はことごとく敵の砲撃で爆発炎上・・・・戦車は全滅・・・・
宮澤さんは徒歩で走り回っていたので一命を取り留めた・・・
「あの時、戦車に乗って指揮を取っていたら、戦死していたよ」と、松本市のご自宅を訪ねた時におっしゃっていた。
で・・・・マレー進攻作戦の話は、次回に・・・・ということになったのだが・・・・
その“次回”は来なかった・・・・
まもなくお亡くなりになってしまったのである。(大悲)
すぐに再訪問すればよかったのだが・・・・モタモタしているうちに、永遠に会えなくなってしまった・・・・
いつも、このパターンである。
拙者はどうして、こんなに、のろまなのだろう・・・・(泣)
享年96歳だった・・・・90歳を超しているんだから、いつどうなってもおかしくなかったのに・・・・
大後悔である・・・・
宮澤さんが当時、どの中隊に所属していたか・・・・残念ながら拙者は知らない・・・・
が・・・もし、島田戦車隊の一員だとしたら、この橋を渡り、この道を走ったことだろう・・・・
宮澤さんは、この景色を見たに違いない・・・・
今回の旅の写真をお見せしながら、当時のお話を伺うということが出来ないのが何とも残念・・・・(大泣)
72年後の景色はこんなふうですよぉ~
俺、戦車隊が通った道を走ってきましたよぉ~
・・・・と報告できないのが何とも残念である・・・・・(涙)
宮澤さんに会いたいなぁ~・・・・橋を見て、宮澤さんを思い出したら悲しくなった・・・・


この橋があるあたりは、「Pekan Trolak」(ペカン・トロラク?)という場所のようである。
当時、トロラクと呼ばれていた場所か、もしくはその地域の一部だったと思われる。
時刻は午前10時40分を過ぎた・・・・
この旧道を通り、さらに南下する・・・・
まもなくクネクネと曲がった道を走る・・・・
両側は椰子林・・・・
おぉ!!・・・・まるでタイムスリップしたみたい!!(大喜)
当時の記録写真などで見た雰囲気そのままである。
が・・・・どこかでバスを停めてもらえないか・・・と思っているうち通過・・・・
ペナン島に引き続き、またもやシャッターチャンスを逃した!!(大泣)

あっという間に、国道1号線との合流地点に達してしまった・・・・
写真の左が国道1号線、右の細い道が旧道である。
国道1号線に乗ってから、まもなく、椰子林がよくわかる場所で停車して下車・・・・
ここでまた“イズミさん”の戦史の説明をいただく・・・・
さっきの旧道の曲がりくねった道のところのほうが、当時の雰囲気を残していて、写真を撮るにも説明するにもベストポイントなのだが・・・・
道幅が狭いためバスを停めることが出来ず、やむなくここにしたのだろう・・・・


戦車は必ずしも本道上だけを走ったわけではない・・・・
敵は陣を敷き、対戦車砲を据えて待ちかまえているのである。
本道上を走れば、速く走れるだろうが、それでは狙い撃ちにされる・・・・
場合によっては、このような椰子林の中も走ったのである。
と・・・・
ここで“イズミ教官”から「戦車の大家がおられますので、是非ご意見を伺いたい」と言われた・・・・
“戦車の大家”とは・・・拙者のことのようである!(驚)
いきなりの指名にビックリしたが・・・・(大汗)
“戦車の大家”なんて、とんでもない・・・・拙者は戦車師団の戦友会の事務局長というだけで、“戦車兵”ではありませぬ。(大笑)
でも・・・話は戦車戦のことであるので・・・一応、拙者の意見を述べさせていただいた。(照)
夜間に戦車で突撃するという常識では考えられない攻撃で、敵陣を蹂躙して島田戦車隊はトロラクに進出した・・・
戦車は夜間は“目が見えない”ので、下手に動けば敵の餌食になりやすいのである。
操縦手は戦車の幅が狭く細長いスリットから外を見ながら操縦するので、どうしても視野が狭くなる。
だから見通しが利く昼間に移動して戦うというのが常識である。
また、戦車のエンジンの爆音は夜間は3キロ先まで響くので、下手に走れば敵に気づかれてしまう。
そこで、速度を極端に下げて、エンジン音を最低にしなければならない。
機動力が売りの戦車がノロノロ運転・・・・
しかも、ヘッドライトを点灯するわけにはいかない・・・・
車長が戦車から降り、白旗を手に戦車の前を歩きながら、白旗で操縦手を誘導したという。
これで“夜襲”になるのかと思ってしまうが・・・(苦笑)
今回のトロラク周辺での戦闘では真夜中、随伴する歩兵や工兵の協力のもとで、短時間で占領することが出来た。
島田戦車隊長としては、この勢いに乗って一気に、この先の「スリムリバー」「スリム」を攻略したいと考えた・・・
これ以前に、あのペラク川の鉄橋を、僅かの差で破壊されてしまった苦い経験がある。
この先には、スリム橋がある・・・・
ペラク橋梁の二の舞は避けねばならない。
なんとしても破壊される前に橋を確保しなくてはならない・・・・
そこで、歩兵や工兵の随伴をやめ、戦車単独で敵中を突破することにし、「スリム」に向う・・・・
我々も、その足跡を辿って、再び南下する・・・・
投稿日:2014-06-09 Mon

我々が宿泊したホテル・・・・
「Impiana Casuarina Ipoh」という名のホテルである。
が・・・読めない・・・(大汗)
「インピアナ・カジュアリナ・イポー」でいいのか?(大笑)
結構、立派なホテルだった。


ホテルの前の様子・・・・
何もない・・・(汗)
近衛師団は、隷下の近衛歩兵第4連隊を先発隊としてペラク川を渡河させ、イポーに進出させた。
昭和16年12月29日午前3時、近衛歩兵第4連隊は、ここイポーの町を占領。
昭和17年1月2日、続いて師団司令部と第25軍司令部がイポーに進出した。
ということは・・・・この町は結構大きな町だと思うのだが・・・
ホテルは町の中心街から外れていたのか・・・どうも大きな町という雰囲気が無い。(笑)
まぁ、70年も前のことだから、どこに駐屯したとかという“戦跡”は残ってはいないだろう。
午前8時にホテルをチェックアウトして、クアラルンプールに向けて南下する。
途中で、道路沿いに廃墟が目立ったが・・・・
これは戦後に建てられた建物かな?


交差点の所に、たくさんの看板・標識が・・・・
え~と・・・これからどっちに行くのか・・・町の名前は?・・・
と・・・読もうとしてもアルファベットは読みづらい・・・(大泣)
え~と・・・・と読み始めたときにはバスが走り出してしまった。
アルファベットがパッと目に入った瞬間にすぐにわかるようなら大したものだが・・・
そのぐらいの能力があったら英語はペラペラか?(大笑)
漢字だったらなぁ~・・・・目に入った瞬間、直ぐにわかるんだけどなぁ~(笑)

午前8時40分ごろ・・・・「カンパル」という場所に到着する。
ここは日本軍が初めて苦戦した激戦地といわれている。
日本の戦史では「カンパル」と呼んでいるが、アルファベットで書くと「Kampar」なので、「カンパー」が正確かも・・・


このあたりが、英軍の陣地があったと思われる場所・・・・
現在は、住宅街になっていた。(笑)
英軍は、この手前の「ゴペン」「デイパン」に抵抗線を設け、日本軍の進撃を遅滞させる作戦・・・・
対する日本軍は第5師団の“河村部隊”・・・・
この部隊は第5師団・歩兵第9旅団の河村少将が指揮する部隊で、歩兵第11連隊の主力、歩兵第41連隊の主力、戦車第1連隊の戦車1個中隊、野砲兵第5連隊の主力などで編成された部隊である。
英軍は抵抗線から下がり、ここ「カンパル」に陣を敷いて最後の抵抗を図る。
その兵力は3個旅団・・・・
しかし、第5師団の松井師団長は、敵は1個旅団で、しかも緒戦の戦闘でかなり弱っていると判断していた。
これが日本軍が苦戦に陥った原因の一つでもある。
相手を甘く見たため、連日の戦闘で疲労困憊の河村部隊を当ててしまったようである。
カンパルでの戦闘は昭和16年12月28日から始まる。
日本軍はどうしてもこの抵抗線を突破できない。
数日にわたり足止めを食う。
イポーを占領後、同地の警備に当っていた近衛師団が協力を申し出てくるほど、第5師団は苦戦していた。
正面からの攻撃のほか、渡辺支隊(歩兵第11連隊長・渡辺大佐指揮の歩兵1個大隊と砲兵1個中隊基幹)を敵の退路を遮断する目的で海上機動で迂回させ、吉田支隊(近衛歩兵第4連隊第3大隊)はイポーを出発し、川を下り、迂回して攻撃に参加。
歩兵第41連隊の1個大隊はメラカ山の山中を突破し、歩兵第42連隊もジャングル内を突破して迂回・・・
これら、側背に迂回した部隊のおかげもあって、退路を遮断されることを恐れたのだろう、昭和17年1月2日の夜、英軍はついにカンパルの陣地を放棄して後退したのである。

英軍の陣地跡から南に下ったところで撮影・・・
写真の向うからこっちに向って日本軍が進撃・・・
右奥の山が「メラカ山」の稜線だと思う。


ここはカンパル(またはカンパー)の町の一部だと思うが・・・・
自分で写真を撮っておきながら自信がない・・・・(大笑)

町を抜けて、次の町に向う間は、どこでも同じような景色でして・・・・(笑)
当時の道幅はこれほど広くはなかっただろうし、道の両側も、油椰子のプランテーションというわけではなかっただろう。
もっと道は狭く、周囲は深いジャングルだったはずである・・・・

こういう小さな川が多い・・・・
英軍は撤退しながら、これらの川に架かっていた橋を破壊していく・・・
そうはさせまいと、日本軍は必死に追撃をする。
カンパルの戦闘後、疲弊した河村支隊を超越(追い抜いて・・・)代わりに先頭に立って追撃に移ったのは、歩兵第42連隊の「安藤支隊」だった。
この連隊には、速射砲(対戦車砲)1個中隊、野砲1個大隊、重砲1個中隊、工兵1個小隊、中戦車1個中隊と軽戦車1個中隊が配属され、「安藤支隊」を編成している。
ここに配属となった戦車隊は、我が戦車第6連隊の1中隊と4中隊・・・・いわゆる「島田戦車隊」である。


カンパルを出発して約30分後・・・・午前9時20分ごろ「Tapah」(タパー)の町に入る。
どの町も華僑が多いのか、漢字が目立つ・・・・
さらに南下して「Sungkai」に向う。
当時の日本軍の呼び名は「スンカイ」だが、現在は「サングカイ」と呼んでいるかもしれない。(笑)
どうも地名の発音は難しい・・・・
こちらとしては、戦史の中で使用されている日本語の読み方しか知らないのであるから・・・

スンカイに向う道路沿いには、油椰子のプランテーションが・・・・
このあたりは当時は密林だったはずである。

スンカイの町を抜け・・・・「スンカイ橋」を渡る。
多分、この橋が「スンカイ橋」だと思うが・・・・(これまた自信がない・・・)(涙)
英軍はカンパルの陣地から橋や道路を破壊しながら撤退した。
この修理に当たったのが工兵第5連隊・・・・
しかし、英軍の破壊工作のほうが早く、修理が間に合わない・・・・
第一線の追撃部隊と、その後方から駆けつける師団主力の間に2日間行程もの開きが出来てしまった。
道路や橋の修理が間に合わず、師団主力が第一線部隊に追いつかないのである。
追いつくためには2日間もの開きがあるというのは、なかなか厳しい状況である。
そこに追求してきたのが独立工兵第15連隊・・・・
こうなると、工兵第5連隊としては格好がつかないか?(笑)
2つの工兵連隊が競争しながら道路や橋の修理にあたることになる。
おかげで猛スピードの橋梁修理となり・・・・
昭和17年1月6日、この「スンカイ橋梁」の修理を最後に全修理を完了したという。
投稿日:2014-06-08 Sun
次に向かうのは「ペラク橋梁」・・・・このマレー進攻作戦でも著名な場所である。
このペラク川に架かる橋・・・・
道路橋と鉄道橋の二つがある。
我々が向かうのは鉄道橋のほうである。
1時間弱で到着。


この鉄道橋は現在は使われていない。
橋だけがポツンと残っているが、当時のままのようである。
この橋の脇に新たな鉄道橋が架かっている。
我々は、この古い橋に併設された歩道を渡って対岸に向う。
対岸が、日本軍が進出してきた場所で、向うからこちらに向って渡ったのである。

この歩道なんですけど・・・・
仮設みたいな感じで・・・・
しかも鉄板が、ちょいと錆びている・・・(汗)
ちょっと怖いんだよねぇ~
拙者は高所恐怖症なんだよねぇ~
しかし、みんなと一緒に向こう側に渡らねば話が進まない・・・(大笑)
ビクビクしながら橋を渡ることになったが・・・・
拙者と同じような人がもう一人いた!(喜)
元新聞記者の“マツナガさん”である。
「こういうの苦手なんですよねぇ。私は高所恐怖症なんですよ」とおっしゃる84歳・・・・
“マツナガさん”は水戸中学(現・茨城県立水戸第一高等学校)の出身である。
生まれは茨城ではないので茨城県人ではないのだが・・・・(笑)
拙者の親父と2歳程度しか違わない。
同じく高所恐怖症とはねぇ~・・・これは縁でしょうね?(大笑)
仲間が出来たからといって、恐怖感が無くなるわけではないのだが・・・・(大笑)
二人でビクビクしながら橋をわたる。(大汗)

(橋の上から見たペラク川)
第25軍(司令官:山下奉文)は、マレー進攻作戦の第1期作戦を、このペラク川の橋梁の確保をもって一区切りとし、その後、第2期作戦に移行する考えだったようである。
よって、この橋の確保に全力を挙げることとなる。
第5師団の安藤支隊(歩兵第42連隊基幹)を、このペラク橋梁確保に向け、上流から突進させるが、途中で英軍の強力な抵抗を受け前進を阻まれた。
師団主力や戦車第6連隊を基幹とした戦車隊も同様にペラク橋梁に向け突進するが、途中の道路や橋が破壊されているため、思うように前進できない・・・
安藤支隊には「F機関」(藤原機関・藤原岩市少佐指揮)の特務機関員をはじめ、“マレーの虎・ハリマオ”と称された日本名・谷豊(たに・ゆたか)(『怪傑ハリマオ』のモデル)が配属されており、谷豊(ハリマオ)はペラク橋梁爆破阻止の任務についたが、上流のダムの破壊は阻止して確保できたが、その後マラリアが発症、ペラク橋梁確保に手間取る。
あらゆる部隊が一斉にペラク橋梁確保に向ったのだが、残念ながら、あと一歩というところで、12月23日、ペラク橋梁は英軍の手で爆破されてしまった。
安藤支隊は自転車で進撃中で、あと1時間で到着する・・・というところだったという。
戦史によれば、ペラク川(河?)は、マレーシア西岸では最大の河で、川幅は約300メートル、水深4メートル、流速は3~4メートルだったという。
両岸は懸崖で、橋梁は水面上17メートルに架かっているという。
あ~・・・そのくらいの高さかも知れないなぁ~・・・・(苦笑)
ちょっと高いし・・・17メートルくらいはあるかも・・・

うまく対岸に渡る・・・・
日本軍は、こちらから向こう側に向っていたわけで・・・・
当時、部隊と行動を共にしていた毎日新聞社のカメラマンが破壊された橋の写真を撮影している。
この写真でいうと・・・・一番手前の橋脚と、その向うの二番目の橋脚の間が2ヶ所爆破され、橋が落ちている・・・・
結構、著名な写真で、今も、どこかで見る機会はあると思うが・・・・
その写真とほぼ同じ位置から撮影を試みた。(笑)
写真手前の草の生えているあたりは、当時、川へ降りるスロープが造られていて、自動貨車(今で言う、トラック)が筏のようなものに乗せられて対岸に送られていた。

「もしペラク橋梁が落とされたら、兵站上(物資の補給)の見地から、作戦部隊は少なくとも3~4日は停止させるようになる」と兵站参謀が危惧していたが、その橋が落とされてしまった。
軍はペラク橋梁の修復は容易ではないだろうということで「重門橋」などで渡河をした。
「重門橋」とは、2隻以上の舟を橋脚として、その上に板を乗せて「橋船」としたものだそうで、わかりやすくいうと、双胴船のような形の筏みたいなものかな?(笑)
これを、このペラク橋梁から少し離れた場所で使用して河を渡ったらしいが、1日の渡河(漕渡)可能車輌数は、約百台程度・・・・
当時、軍が所有していた車輌は、英軍から鹵獲したものなどを合わせて数千両あったという。
これでは、補給用の車輌が往復するということも考えると、とてもじゃないが、これからの迅速な進撃に支障をきたす。
そこで、後から駆けつけてきた鉄道第5連隊がペラク橋梁の修復に当った。
まず自動車を通すことを目的として徹夜で作業をし、僅か1日半で、とりあえずの修復を完了する。
さらに、戦車などの重車輌を通せるように補強作業を行い、線路の上に厚板を敷いて戦車などを通過させたという。
この橋がある近くの町の名は「Kampung Kapor」(カンプン・カポー?)というが、戦史には出てこない町の名である。
戦後になって出来た町かもしれない。
この橋があるあたりは、当時はクアルカンサー(又はクアルカンサル)という。
このクアルカンサーでペラク川を渡ったのは主に近衛師団・・・・
ここからかなり下流のブランジャというところでペラク川を渡ったのは主に第5師団である。
その後、この2つの師団が並列して進撃することとなる。

(橋のたもとにある監視哨のような建物)

橋の上に黄色い大きな看板が・・・
「ビクトリア・ブリッジ」と書いてある。
当時も、この橋は「ビクトリア橋」と呼ばれていたかどうかは知らないが・・・・
この橋・・・最近、「幸福の橋」か「好運の橋」か忘れたが、地元のテレビで紹介されてからは、観光名所になったらしい。(大笑)
なぜ、そういうふうに言われるようになったのかは知らないが・・・
若者たちの人気のスポットなのだそうだ。
再び橋を渡り、もと来た向こう岸に戻る・・・(涙)

線路は橋の部分のみに残っているだけ・・・・
陸地の部分の線路は撤去されていて、行き止まりとなっている。

この川の下流に自動車用の橋が架かってはいるが・・・・
どうもこの橋の歩道部分は、地元の“生活道路”となっているようで、バイクが走ってくる。(唖然)
こうなると、バイクのハンドルに引っ掛けられそうになるので、歩行者は線路側に逃げねばならない・・・
これが怖いのである!(大涙)
下を見ると・・・遥か下に川の流れが見えるのである!(大涙)
とてもじゃないが、線路のほうには行けない・・・・(大笑)
片足を歩道に残して、柱にしがみつき、バイクをやり過ごす・・・・(大笑)

我がツアー参加者の中には、平然と線路の上を歩く人がいる・・・・
線路の脇の“歩道”は4枚の幅の狭い薄くて錆びた板が渡してあるだけ・・・・
その上を歩く人がいるんだから驚く・・・(汗)
ポキッと折れたら・・・真っ逆さまに川に落ちるぞ・・・・
この人達には恐怖感というのはないのだろうか?(大笑)
わからん・・・拙者にはさっぱりわからん・・・・
ちょうどインド系のカップルがウエディングドレスにタキシード姿で線路の上で記念写真を撮っていた。
あぶねぇって・・・・(大汗)
ドレスの裾が何かに引っかかってバランスでも崩したらどうするの?
新婦はキャーキャーいいながらも線路を渡っている・・・(唖然)
「新婚さんですか?」と尋ねたら、「そうです」と言う。
お~!コングラチュレェ~ション!(おめでとう!)と我がツアー参加者が口々に言葉をかける。
なんだかわからぬまま、拙者なんぞは新郎と握手までしてしまった!(大笑)
この恐怖の線路の上で写真を撮ると幸せになるというのだろうか?(大笑)
時刻は午後6時20分・・・・
これから、さらに南下して「イポー」という町に向う。

橋のところを出発して10分程度で、「クアルカンサー鉄道駅」の前を通過する。
かなり新しい駅舎である・・・・

高速道路を使い南下・・・・
交通事故による渋滞に巻き込まれるが・・・40分程度でイポーの町に入る。
我が軍が進撃した旧道は、この高速道路と平行して走っているとのことだが、時間短縮のため旧道を走れなかったのは残念・・・・

午後8時前、レストランに到着・・・・夕食はイポーの郷土料理らしい・・・・
午後9時、ホテルにチェックイン・・・・
結構、ハードスケジュールな一日だった。(笑)


投稿日:2014-06-08 Sun


マレー半島に戻り・・・・再び南下する・・・・
次に向かうのはマタンという場所。
ここに日本軍の「戦蹟記念碑」があるというので、それを見に行く。


午後4時半、マタン博物館に到着。
ここの敷地内に「戦蹟記念碑」があるという。


「戦蹟記念碑」は、3つに切断されたものが再建されたようだが・・・
石の種類が違う・・・
石碑の裏には碑文が刻まれているが、この3つの石にわたって綺麗な日本語が刻まれていた。
どうも石と碑文からみて、一番下の石は復元されたもののようである。
となると・・・・この復元は誰がやったのだろう?
漢字が正確に刻まれているところをみると、日本人が関わっているとしか思えない。
この碑の設置に関しては何の説明もない。
近くの説明板は、マレー語で書かれているので、意味不明・・・(汗)
この碑の復元者は誰なんだろう?
興味が湧くところである。
(碑文)
戦蹟記念碑
鯉兵團長 松井太久郎謹書
サオルダン山附近ノ戦闘
昭和十六年十二月八日安藤支隊ハタニー附近ニ上陸後丸舎部隊ハ其ノ第一突進隊トナリ悪路ヲ冒シ鋭意ベトンニ向ヒ前進中泰馬國境ヲ犯シ侵入北上シサオルダン山附近ニ陣地ヲ占領セル装甲車及迫撃砲ヲ有スル約千五百ノ英印軍ト十日遭遇シ直チニ獨力ヲ以テ之ヲ攻撃激戦三日ニ亘リ逐次三線ニ陣地ヲ占領シアリシ該敵ヲ撃破シ之ニ殲滅的打撃ヲ與ヘ快勝ヲ得タリ
本戦闘ハ安藤支隊ノ英印軍ニ對スル諸戦ニシテ丸舎部隊ノ積極果敢勇■ナル攻撃ハ敵ノ心膽ヲ寒カラシメ同支隊爾後ノ戦闘指導ヲ容易ナラシメタリ
茲ニ泰馬國境ニ碑ヲ建立シ千載ノ記念トス
紀元二千六百三年 松井兵團
碑文の中の「鯉兵團長」というのは、通称号(秘匿名)を「鯉」と言った、鯉兵団(広島の第5師団)長を意味する。
「安藤支隊」というのは、この第5師団の隷下にある歩兵第42連隊(山口で編成)の安藤連隊長の名前を冠した部隊で、歩兵第42連隊を基幹として編成された支隊である。
「丸舎部隊」というのは、この安藤支隊の中の一部隊ではないかと思うが、「舎」の字が旧漢字か何かで、見かけない文字なので、一応、一番近い「舎」の字を当てました。
「丸舎」が正しいかどうかは、当時の安藤支隊の編成表と指揮官名を調べないとわからない・・・(笑)
「サオルダン山」は、「タ」に濁点があるような無いような・・・と微妙な感じ・・・(笑)
一応、濁点があるとして「サオルダン山」とした。
「泰馬國境」は「タイ、マレーシア国境」の意味・・・・
「紀元二千六百三年」は、これも微妙で・・・・(笑)
「二千六百二年」にも見えるし「三年」にも見える・・・・
横棒が一本あるか無いか・・・・微妙・・・・
ちなみに、「紀元二千六百三年」は「昭和18年」のことである。
占領直後に記念碑を建てたとすれば「二千六百二年」(昭和17年)となるが・・・・
一応、「二千六百三年」ということにした。(笑)
いずれにせよ、タイとマレーシアの国境に建てられた記念碑が、なんでこんなところに移築されているのか・・・
国境からはかなり離れているんですけど・・・・
しかも、イマイチ、パッとしない田舎の町の小さな博物館の敷地である・・・・
なんで、ここにあるのだろう?不思議である・・・・
この碑に並んで、もう一つの「戦蹟記念碑」があった。
が・・・・これが何の記念碑なのかは全く不明・・・・

博物館の建物は古びた小さな建物である。

我々の目的は、この博物館の内部ではなく、敷地内の記念碑・・・・
う~ん・・・・博物館好きの拙者としては、この博物館の内部も見学したかったが・・・・残念・・・・(大涙)
時刻はまもなく5時になる・・・・
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