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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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バッテリーが無い!(大汗)
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天守台に登ってみる・・・
天守台の石垣には1個、1個、番号の振られたシールが貼られていた。
もしかして、これから石を積み直すのかな?
大掛かりな修復事業だろうなぁ~
できれば、ここに天守閣を復元してもらいたいものである。(笑)

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天守台から「稲荷櫓」の方を見てみる。
う~ん・・・向うに見える高層ビルがなんとも邪魔である。(笑)
景観台無しだな・・・・あれは・・・(大笑)

しかし、残暑が厳しい!
いやぁ~眩しいわ、暑いわで、もう天守台にいるのもツライ・・・
ということで、一気に城の下まで降りることにする。(大笑)

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何だかんだで、約1時間、甲府城跡を歩き回った・・・
で・・・急に目眩が・・・(大汗)
あれれ?・・・ちょっとマズイかも・・・・
ちょいと頭痛もするし、気分も良くない・・・
マズイ・・・脱水症状を起こしているかも・・・・

とにかく、どこかで水分を取らねば・・・と喫茶店を探すが・・・
そのうち、その余裕も無くなった!(大汗)
ダメだ・・・クラクラする・・・
自販機を見つけて、急いでスポーツドリンクを買い・・・飲む!

もう自販機の前から動こうという元気もないのだから参った・・・
自分の年を考えずに夢中になりすぎたか?(笑)

この後は・・・
確か、駅前に武田信玄の銅像が建っているはずだから、その写真を撮ろう!
ちょうどカメラのバッテリーも無くなったようで、赤ランプふが点灯した。
250枚も撮影しちゃったからなぁ~(大笑)
一応、予備のバッテリーも持ってきているので、これと交換する。
が・・・
あれ?
あああっ!やっちゃった!(大泣)
予備のバッテリーもバッテリー不足で赤ランプが点灯している!(唖然!)

あ~あ~あ~あ~!!!やっちゃった!
この間のロシアの旅行!
あの時に、バッテリーを交換したのを忘れていたのである。
帰国後、充電するのをすっかり忘れていて、使用済みのものを、まだ使っていない予備のバッテリーだと思い込んで持ってきてしまったのである!
あ~あ~・・・・バカ丸出しである。
どうして確認しておかなかったかなぁ~(大涙)

とにかく駅前の武田信玄の銅像のところまでは行かねば・・・(涙)

すでに赤ランプが点灯しているが、1枚くらいは撮影できるだろう・・・
頼む・・・なんとか頑張ってくれ!
祈るような思いでシャッターを切る・・・

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よし!何とか撮影できたぞ!
でも、もうこれで終わり・・・もう何も撮影できない・・・(大涙)

時刻は3時半・・・
まだもう少し、どこかを見て歩くことは可能な時間であるが・・・・
カメラが使えないのでは、写真が撮れずに悔しい思いをするだけである。

拙者のカメラが乾電池式のカメラなら、どこかで乾電池を買えば、どうにでもなるのだが・・・
残念!(涙)

ということで・・・これ以上の「ぶらり」はやめることにする。(大涙)

今晩も石和温泉に泊まる。(笑)
今夜のお宿は、和風旅館!
昨晩宿泊した、大型観光バスの団体客が宿泊するようなコンクリートの「旅館」ではない。
木造の旅館!
夕食も、翌日の朝食も「部屋食」である!(喜)

部屋に案内され・・・・
玄関を入ると、一部屋・・・その次に「次の間」があって、その脇が10畳ほどのメインの部屋・・・
おお!こんな広い部屋に一人で宿泊とは・・・(大笑)
残念ながら部屋の様子を写真に撮りたくてもバッテリーが無い!
豪華な夕食のお膳を記録に残そうと思っても・・・バッテリーが無い!(大泣)
写真が撮れない!
あ~・・・残念である!
しかも、予備のバッテリーを持ったからと、充電器は家に置いて来ちゃってるから充電もできない!(大笑)

拙者の部屋のすぐ近くが、露天風呂・・・
仲居さんに聞いたところ、他にも何組も宿泊客がいると言うのだが、誰にも会わない。(大笑)
露天風呂は貸しきり状態である。
こりゃ助かった・・・・

入浴後はマッサージを呼んで、のんびりくつろぐ・・・(大喜)

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旅行 | 20:02:15 | Comments(0)
謝恩碑
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(山梨県甲府市・甲府城)

謝恩碑

この謝恩碑は、明治44年3月11日、山梨県内にあった皇室の山林を明治天皇から本県にいただいたことを記念して建てられたものです。
碑の建設は、明治神宮造営局参与工学博士伊藤忠太氏および同局技師大江新太郎氏の設計により、大正6年12月から同9年12月まで3か年、当時の金額で9万9千5百28円を費やして行なわれました。
なお、碑の材料として使われている花崗岩は、東山梨郡神金村(現塩山市)の旧皇室の山林から切り出したものです。
碑の高さ約18.2メートルで、碑身はオベリスクと呼ばれる古代エジプトの記念碑を、また、碑台はパイロンと呼ばれるこれも古代エジプトの神殿の入口に設けられた塔状の門を形どっているものです。

(~以下、略~)

(説明板より)

史跡 | 19:58:26 | Comments(6)
稲荷櫓
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(山梨県甲府市・甲府城)

稲荷櫓

城内の鬼門(北東)に位置することから、艮櫓(うしとらやぐら)とも呼ばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物です。
明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2度にわたり建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝(りんぽう)(地鎮具)が6点見つかりました。
今の建物は、この遺構や残っていた絵図や資料などをもとに、できるだけ当時の姿に復元したもので、平成16年に建築しました。

櫓の外観
二階層、入母屋造り、瓦葺、白壁、窓、鯱(しゃち)、北・東側に石落とし
櫓の規模
南北(梁間)五間(10m)、東西(桁)六間(12m)

(説明板より)

史跡 | 19:42:26 | Comments(0)
舞鶴城公園
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県指定史跡 甲府城跡
舞鶴城公園案内図

甲斐国は、天正10年(1582)武田家滅亡後は、織田信長・徳川家康(城代平岩親吉)の時代を経て、天正18年(1590)豊臣秀吉の支配となり、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長(よしなが)親子により治められました。
甲府城は慶長5年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。
関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。
宝永2年(1705)には、徳川家以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保・吉里親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。
柳沢氏の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また、大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。
明治時代には廃城となり、建物はほぼなくなり、葡萄酒醸造所が造られるなどして、明治37年(1904)舞鶴公園として開放されました。
大正6年(1917)に明治維新後陸軍省所管となっていた甲府城跡を、甲府市(旧柳町在住)の村松甚蔵氏の寄付をもとに払い下げを受けて県有地としました。
戦後の市街地復興に併せて公園整備を進め、昭和39年(1964)に都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、昭和43年には県の指定史跡となりました。
その後広く県民に利用されて来ましたが、施設の老朽化などの理由により、昭和60年代に入り公園の改修を求める声が高まってきました。
そこで山梨県は、平成2年から舞鶴城公園整備事業を実施し、石垣の改修、園路・広場の再整備、堀の浄化、占用物件の移転、門(鍛冶曲輪門・内松陰門・稲荷曲輪門)や塀の復元、稲荷櫓の建設などをおこないました。
またそれに伴う発掘調査で、本丸や天守台の周辺からは金箔を貼った鯱瓦、鬼瓦が多く出土しました。

山梨県県土整備部・山梨県教育委員会

(案内板・説明文より)

史跡 | 19:10:42 | Comments(0)
山手渡櫓門・山手門
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(山梨県甲府市・甲府駅前)

甲府市歴史公園
山手渡櫓門

「楽只堂年禄(らくしどうねんろく)」絵図には、石垣を渡し架けているように描かれており、一層目の門の上に櫓(やぐら)が載る櫓門形式の門としています。
一層目は石垣の間に門扉、ケヤキ材の鏡柱(かがみばしら)、添柱(そえばしら)等が配置され、75cmもの太さの大梁等を支えます。
二層目の規模は「甲斐府中城図」等複数の絵図に記されている3間×7間としています。

(説明板より)

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甲府市歴史公園
山手門

「楽只堂年録」絵図には、両脇に低い石垣と土塀も描かれており、近世城郭の主要な虎口では、外側に高麗門、内側に櫓門を設けております。
門扉を支える両側の鏡柱の上に冠木を渡し、前後に腕木を出して切妻屋根を架け、鏡柱の背後にそれぞれ控柱を建て、本屋根より小振りな切妻屋根を載せる特徴的な構造です。

(説明板より)

史跡 | 18:45:30 | Comments(0)
旧睦沢学校校舎
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(山梨県甲府市・甲府駅前)

藤村記念館

国重要文化財旧睦沢(むつざわ)学校校舎
指定年月日 昭和42年6月15日

移築の経緯
旧睦沢学校校舎は、明治8年(1875)巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建設された学校の校舎です。
昭和41年(1966)武田氏館跡西曲輪に移築し、県令藤村紫朗にちなんで藤村記念館と命名され、歴史や民俗を含む教育資料館として一般公開してきました。
新都市拠点整備事業に伴って、失われた歴史景観の再生と市民や観光客の交流ガイダンス拠点となることを目的に建物を移築復元しました。

建物の概要と特徴
この建物の様式は、当時の山梨県令藤村紫朗が積極的に奨励した擬洋風建築(西洋建築に似せて建てられた建築物)で、明治前期には多くの官公舎、学校、商家がこのような様式で建てられ、藤村紫朗にちなんで藤村式建築と呼ばれています。
正面中央の玄関車寄せ、2階のベランダ、正面の吹き放ちの円柱と礎盤、出入口や窓の黒塗りアーチ形の枠、両開きのガラス戸と鎧戸の二重扉などに洋風の意匠を見ることができます。
ベランダは独特の曲線を見せる幕板を飾り、軒天井は菱組の透かし打ち天井となっています。
外壁は漆喰塗りの日本壁で、隅は黒塗り擬石隅石形を示し、屋根は宝形造の桟瓦葺で、中央に太鼓楼と呼ぶ塔屋をのせています。

(説明板より)

史跡 | 18:40:53 | Comments(0)
甲府城へ行く
昼食後、甲府駅に向って歩く・・・
駅前の広場に、『藤村記念館』というのが、あるそうなので行ってみる。
「藤村」というから「島崎藤村(とうそん)」に関係のある『藤村(とうそん)記念館』かと思ったら、これがとんでもない勘違い!(大笑)
「藤村」は素直に「ふじむら」と読むそうで・・・・(大汗)
山梨県令の藤村という人の名前を取って、『藤村記念館』と名付けられたそうである。(笑)
建物は、昔の擬似洋風建築の学校である。

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入場料無料ということなので、内部を見学してみようかなとも思ったが・・・
なにやら展覧会のようなものをやっていたので、ここであまり時間を使いたくない・・・(笑)
内部の見学は諦めて、その先に見える城門へ向う。

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これは復元された「山手渡櫓門」・・・・
門の上の櫓部分には、ちょっとした資料の展示があった。
ここのボランティアガイドさんに甲府城に関する簡単な概要の説明を受ける。

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櫓門から甲府城を見る・・・
線路の向うにお城・・・・これで天守閣があったら福山城っぽいかも・・・(笑)

線路を渡り、向こう側へ行く・・・

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平成16年に復元された「稲荷櫓」の中には、資料が少々・・・無料で見学ができる。

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この甲府城跡は、現在「舞鶴公園」と名付けられている。
ここから、下へ下へと降りていってみる。
午後から、残暑がかなり厳しくなって、暑い・・・(汗!汗!)

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一番下まで降りて、お城を見る・・・
ここから見ると、鳥取城に似ている気がしないでもない・・・(笑)
で・・・ん?・・・・
あの小高い石垣は・・・天守台!
あっ!行ってない!(大汗)
うっかりしていた・・・・下に降りちゃった!(大涙)

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同じルートで、また戻る気はない・・・(笑)
濠沿いをグルリと回って別の登城口から登ることにする。
このクソ暑い中・・・・
普段から運動不足だからなぁ~・・・きつい・・・(涙)

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この門は「鉄(くろがね)門」という。
当然、復元された門であるが、なかなか立派な門である。
どうみても、こっちがお城の正面のような雰囲気である。
最初に、こちらから登るべきだったか?(笑)

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門から下を見てみる。
なかなかの高さである。

旅行 | 18:38:20 | Comments(0)
歩兵第49連隊糧秣倉庫
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山梨大学「赤レンガ館」

(歴史)
「赤レンガ館」は、明治42年(1909年)4月、歩兵四十九連隊(通称甲府連隊)の食糧庫として使用が開始され、他の建物が取り壊された後も教育人間科学部附属中学校舎の一部として使われてきました。
平成10年(1998年)、大雪のため建物の一部が破損したのを契機に保存の機運が高まり、耐震工事をした上で、平成14年(2002年)、当時の面影を残したまま改修されました。

(特徴)
明治41年(1908年)頃建設された、間口5間、奥行20間、面積100坪の煉瓦造りの平屋建て建築です。
外壁は、当時としては珍しい「オランダ積み」の組み構造で、甲州煉瓦製造の赤煉瓦を用いてあります。
そのほか、アーチ式の戸口・窓、木軸組トラス構造と日本瓦葺きの屋根を特徴とする、明治期の洋風建築で山梨県内に現存する最大規模の煉瓦建造物です。

(説明板より)

史跡 | 16:50:14 | Comments(0)
霊感?(笑)
腹が減った・・・どこかで昼食をとらねば・・・
と思って、大学の周辺をウロウロしていて、ふと思い出した!
たしか・・・山梨大学のどこかに旧軍の糧秣倉庫だったか、赤レンガの倉庫が現存していたんじゃなかったっけ?
記憶がハッキリしていないが・・・
たしか、山梨大学だったと思うんだよなぁ~(汗)

というわけで・・・食堂探しから倉庫探しに変更!(笑)

しかし、いくら大学周辺を歩き回っても、それらしき建物は見当たらない。
ふと、大学の近くの狭い路地が目に入った・・・
ここを歩いてみるか・・・

なにげなく入った路地・・・
そのまま真っ直ぐ歩いていったら・・・・
あらら!真正面に赤レンガの建物がチラリと見えた!
もしかして・・・(笑)

行って見たら、やっぱり赤レンガ!
形から言って旧軍の倉庫である!!(大喜)
う~ん・・・この“出会い”・・・まるで導かれたような・・・(大笑)
拙者の霊感のなせるわざか?(大笑)

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この建物・・・・
山梨大学教育人間科学部の附属中学校の敷地内に建っていた。
大学の周辺を歩き回っても見つからないわけだ・・・
中学校とはね・・・(大笑)

で・・・問題は・・・
門の中に入れない!
鍵がかかっていないので、門は簡単に開けることが出来るのであるが、門には「関係者以外立ち入り禁止」の掲示板が・・・
さて・・・拙者は「関係者」なのか、そうではないのか???(大笑)

最近は、どこの学校施設に行っても、この手の看板が出ている。
「関係者以外立ち入り禁止」「無断立ち入り禁止」等々・・・
じゃぁ、許可を得て入ろうと思っても、誰に声をかければいいのか・・・
職員室は、ずっと奥のほうにあったり、どこに職員室があるのかわからなかったり・・・
学校によっては、職員室が校舎の2階にあったりする。(笑)
だいたい、門の直ぐ脇に、歴史的な建物やら、石碑や記念碑などがあることが多い。
直ぐ目の前なんだけど・・・わざわざあ奥の方まで入り込んで許可を得に行かねばならぬのか?(唖然)
不審者を排除するための警告板なのだろうが、不審者じゃない者にとっては迷惑な看板だ。
そこまで言うなら、門の脇に守衛室を設けるか、インターフォンを設置しておくべきではないか?

だいたい史跡跡に学校が建てられていることが多い。
このため、学校の敷地内に石碑が建っていたりするのである。
学校には直接用事はないが、この“史跡”のほうに用事がある場合はどうしたらいいのか・・・
困ったものである。

学校敷地内の“史跡”は、別にフェンスで囲って、学校敷地と分けて、見学者専用の入口を作ってくれれば、いいんだけどねぇ~
文部科学省・・・全国に通達を出してくれないかねぇ~(笑)

ここも同様・・・・
門の外から写真を撮るだけでもいいのだが、建物の脇に説明板がある。
読みたいんですけど・・・(大笑)
入ろうか、どうしようかと、気の小さな(大笑)拙者は散々迷ってしまった・・・
と・・・敷地内の建物の2階から、こちらを見ている人がいた!
どうも教職員らしい・・・
カメラをかざして、建物を指さし、“中に入って写真を撮ってもいですか?”と身振り手振りで合図する。
と・・・この若い男・・・
怪訝そうな顔をして拙者を見ているだけ・・・
“お~い!中に入ってもいいかって言ってるんだけど!”と身振り手振り・・・
窓を開けろよ!窓を開けりゃ声をかけるのに・・・
しかし、この男・・・窓を開けず、こちらを見ているだけ・・・
そのうち、他の女子職員に声をかけて、拙者を馬鹿にしたような笑いを浮かべて二人で拙者を見下ろすという始末!
このやろう!(怒)
頭にきた!(怒!)

拙者は短気である・・・しかも腹が減っているので、更に短気になっているのである!(大笑)
入ってやれ!(大笑)
警察を呼ぼうと何をしようと勝手にどうぞ・・・である!(怒)

説明板を読んでみたら・・・やっぱり思ったとおり!
歩兵第49連隊の食糧倉庫だった!(大喜)

写真を撮って、門を出て、駅に向う・・・
それにしても、あの職員の態度は気に入らぬ!(怒)
なにが人間科学だ・・・
“人間”という言葉を使っている割には“人間”が出来ていない!(怒)
どうも最近の若い教職員は質が低い・・・一体、何を勉強してきたんだ?
そういうのが子供達を教育するのか?
頭に来るんだよな・・・あの人を小バカにしたような態度・・・

カリカリしながら歩いていて、ふと気が付いた・・・
あそこに食糧倉庫があったということは、あの一角は連隊の敷地だったのではあるまいか?
ということは・・・あの一画のどこかに「歩兵第49連隊の跡」の碑が建っていてもおかしくはない・・
しまった!確認するのを忘れた!(大涙)
今更、また戻るのも面倒である。
あ~あ~やっちゃった・・・
どうも冷静さを欠くと、こういうミスを犯してしまう・・・
反省、反省・・・(大汗)

ようやく、喫茶店を見つける!
やった!昼食を食べよう!(笑)

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ランチのスパゲティ・・・これにサラダとコーヒーとデザートが付く。(喜)
お昼を少し過ぎただけなのに、お店には客が誰もいない・・・・
お店のママさんに大学生は来ないのかと尋ねたら、ここは大学の裏だから・・・と言う。
最近の大学生は喫茶店には行かないらしい。
拙者が大学生の頃は、よく喫茶店に入り浸っていたけどなぁ~(笑)

そこへ、常連の“後期高齢者”のオジサンがやってきた。
いつの間にか、3人でオシャベリとなる。
年金の話やら、まもなく100歳になる親の介護の話やら・・・(大笑)
見知らぬ人とのオシャベリ・・・これも旅の楽しいところである。(大笑)

旅行 | 16:35:06 | Comments(0)
秋山伯耆守信友の屋敷跡
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(山梨大学・生命環境学部・教育人間科学部)

織田信長と対峙した勇将
秋山伯耆ほうき守信友のぶとも
(大永7年~天正3年10月21日)

秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄である。
信友といわれるが、実名は虎繁(とらしげ)が正しい。
天文15年(1546)に侍大将に抜擢され、信玄の信濃国伊那郡制圧に伴い、高遠(たかとう)城代を、次いで飯田(いいだ)城代を歴任したという。
また、弘治年間には、伊那大島(おおしま)城に在城している。
信友は、武田家の伊那郡支配に深く関与し、赤須(あかす)・大島氏を始めとする春近(はるちか)衆などを配下に置き、織田・徳川氏を監視する役割を担った。
元亀3年(1572)、信玄が西上作戦を開始すると、信友は伊那衆を率いて美濃に侵攻し、遠山景任(かげとう)未亡人(織田信長の叔母)の守る岩村城を包囲した。
城方との交渉の末、景任未亡人を信友の妻とし、遠山氏の養子御坊丸(おぼうまる)(信長の子)を人質として甲府に送還することで開城させ、信長と対峙する最前線を警固した。
長篠敗戦後、織田信忠に包囲されて降伏し、岐阜で処刑された。

(説明板より)

史跡 | 15:34:25 | Comments(0)
岩窪のヤツブサウメ
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(山梨県甲府市岩窪町246・武田信玄公墓所)

山梨県指定天然記念物
岩窪のヤツブサウメ
甲府市岩窪町246
昭和34年2月9日指定

樹種はウメの変種で、「座論梅」ともいわれ、花は淡紅色、重弁、径27ミリ位、一花中にめしべ7~8本のものが多い。
花期は普通のウメよりも遅く、3月末頃満開となる。
実は径20~22ミリと比較的小粒で、3個結実するものが多く、実が品の字に似ているので「品字梅」ともいう。
本樹は、3個に結実する数も多く、この種の特徴をよく表わしており、植物形態学上貴重な資料である。
規模は次のとおりである。
根回り 0.80メートル
地上1メートル幹囲 0.75メートル
樹高 約7メートル
地上1.2メートルで二幹に分かれる

昭和55年3月30日
山梨県教育委員会
甲府市教育委員会

(説明板より)

史跡 | 15:20:37 | Comments(0)
武田信玄公墓所
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(山梨県甲府市岩窪町246)

甲斐国主
武田信玄公御墓所について

天正元年(1573)4月12日、信州伊那駒場で53歳を一期として、波瀾の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し、3年間の秘喪を命じた。
嫡子勝頼公は、これに従い、信玄公の遺骸を密かにして、3年後、二十四将の一人、土屋右衛門昌次の邸内で、荼毘に附し、天正4年4月16日、塩山、恵林寺に於て、葬礼を行い、埋葬した。
岩窪の墓所は、土屋氏の邸跡で、後世これを、魔縁塚と呼び、里人は恐れて近づかなかったという。
それから、およそ200年後の江戸時代安永8年(1779)甲府代官、中井清太夫が発掘して、石棺を見つけ、その銘に、「法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨」とあったので、もとのように埋め幕府に届けて、信玄公の墓と定めた。
この時、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助、外52人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、壮麗な聖域とした。
碑文は時の円光院住職・愚應の書である。
現在地域住民は、ここを信玄公さんの墓と敬愛し、子供達と共に精神的憩いの場となっています。
又地元老人クラブの人々が、毎月1回清掃奉仕を行い自治会では、年中行事として、4月12日の命日に円光院並に近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして、墓前法要を勤め、ありし日の国主を偲んでおります。

昭和56年9月吉日
岩窪町自治会
〃 老人クラブ  建之

(説明板より)

史跡 | 14:52:22 | Comments(0)
永慶寺跡
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(山梨県甲府市・護国神社脇)

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龍華山永慶寺跡

護国神社の境内とその周辺は、江戸時代に老中首座として幕政を担った柳沢吉保の菩提寺「龍華山永慶寺」の建てられたところである。
将軍徳川綱吉の信任厚い吉保が、小姓から異例の出世を遂げて甲斐三郡の領主に任ぜられたのは宝永元年(1704)のことで、その翌年から永慶寺の造営が始まっている。
永慶寺は当初、穏々山霊台寺と称したが、地形普請の終了した宝永5年に龍華山永慶寺と改められた。
以後、京都万福寺の大工秋篠家や甲府・下山・江戸の大工を動員して伽藍の建設が進められ、宝永7年に完成した。
永慶寺は禅宗の一派である黄檗宗の寺院であり、同宗本山の京都万福寺8代悦峯禅師を開山祖に迎えている。
永慶寺の伽藍は甲斐国第一を競う規模で、仏殿を中心に北に方丈、東に斎堂、西に禅堂、南に天王堂と惣門を配するなど、万福寺の伽藍配置を模倣したことがわかっている。
正徳4年(1714)に吉保が57歳で没すると、江戸から永慶寺に運ばれて埋葬された。
吉保の正室定子と側室(嫡子吉里の母)もこの寺に葬られている。
永慶寺の諸堂は、享保9年(1724)に行なわれた吉里の大和郡山(奈良県大和郡山市)への所替えに伴い取り壊されたが、寺は郡山城の近くに再建され、現在に至っている。
なお、解体された永慶寺の仏殿は、大泉寺の本堂として移築されたが、江戸時代に焼失した。

平成4年1月
相川地区文化協会

(説明板より)

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龍華山永慶寺

この寺は、はじめ穏々山霊台寺といい、甲府城主柳沢吉保公が自らの菩提寺として悦峰禅師を開山に、宝永5年(1705)この地に建立した黄檗宗の寺である。
寺領370石、正徳4年(1714)吉保公を、前年に同夫人を葬った。
家督を相続した吉里は、享保9年(1724)大和郡山に転封となったため、これに伴って吉保公夫妻の墓を恵林寺に改葬して寺を廃し、新たに大和郡山に永慶寺を建立した。
当時の永慶寺は、「甲陽柳秘録」に「殿堂甍並べ、門楼高く聳えて、風景国郡に冠たり」と見え、七堂伽藍を備えた美麗を極めたものであった。
ここに永慶寺に関連する礎石、石塔等を集め、寺跡碑を建てる。

(碑文より)

史跡 | 14:32:18 | Comments(0)
ぶらぶら史跡めぐり
山梨県護国神社を出て、歩き出して直ぐに、なにやら説明板を見つける。
ん?・・・なんだ?

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説明板によれば、「永慶寺」というお寺の跡だそうだ。
このお寺は柳沢吉保の菩提寺だそうで、ここに葬られたようだが、その後、柳沢家の大和郡山への転封により、お寺もお墓も大和郡山へ移り、ここの寺は廃寺となったらしい。
おお・・・大和郡山・・・
行ったことがあるが・・・移転した永慶寺には気が付かなかったなぁ~
見逃した!(汗)

全国をブラブラ歩いていて楽しいのは、こういう繋がりを見つけたときである。(喜)
こちらの史跡と、あちらの史跡が繋がっているなんてことを偶然に知ったときは、こりゃ、運命的な出会いか?・・・などと嬉しくなってしまうのである。(大笑)

続いて、狭い坂道を下りて行くと・・・

「信玄公火葬塚」の案内板を発見!(笑)
ん?・・・火葬塚?
信玄を火葬した場所っていうことか?

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この「火葬塚」に来たら、「武田信玄公御墓所」という看板が建っている。
ん?・・・なんだこれ・・・(笑)
火葬した場所なのか、お墓なのか、ハッキリしてもらいたいものだが・・・(大笑)
まぁ、いいか・・・

さらに坂道を下り・・・ちょいと右に折れ・・・(笑)
そのまま進むと、山梨大学にぶつかった・・・

で・・・ここの「生命環境学部」「教育人間科学部」の門の前に史跡の説明板が・・・
ここは秋山伯耆守信友の屋敷跡なのだそうである。

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それはともかくとして・・・
「生命環境学部」とやらを卒業すると、“学士”の名称は何と言う名称になるんだろう?
拙者は経営学部卒だから「経営学士」である。(エヘン!)
卒業した時に、おばあちゃんが、「学士様になったとは、偉くなったねぇ~」と褒めてくれた。
「学士様」・・・である。
学士に“様”が付くのである!(大笑)
俺はそんなに偉くなったのかと我ながら驚いたが、「学士様」と呼ばれるほど勉強をしていなかったことを恥じたものである。
ここの学部の場合、どうなるんだろう?
生命環境学士?
教育人間科学士?・・・(笑)
なんのことやら、さっぱりである・・・
最近は、わけのわからん学部名が増えているような気がする。
それ、専門学校じゃないの?・・・と言いたくなるような学部名、学科名もある。(大笑)
そのうち「ペン習字学部」とか、「絵手紙学部」なんていうのが出来るんじゃあるまいな?(大笑)

まぁ、なんでもいいけど・・・勉強をして下さい・・・(笑)
いずれにせよ、ホームレスに毛が生えた程度の服装で大学に通うのはやめましょう!(大笑)
学士様になるのに・・・ちょっとその服装は似合わない・・・

さて・・・
時刻は、ちょうどお昼!
大学の近くなら、飲食店があるんじゃないかと思っていたのだが・・・
何もない!(大汗)
食事が出来る様な店がない!
喫茶店すら見当たらない!
唖然・・・・である。

旅行 | 13:49:23 | Comments(0)
甘利備前守虎泰屋敷跡
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(山梨県甲府市・護国神社の前)

板垣信方と並ぶ武田家の重臣
甘利備前守虎泰
(?~天文17年2月14日)

武田氏の譜代家老で、板方信方とともに両識(りょうしき)という最高職に就任していたとされる重臣。
甘利氏は、甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。
本拠地は甘利荘(あまりのしょう)と呼ばれた地域で、そこに館(やかた)(現在の韮崎市大輪寺)があった。
武田信虎・信玄2代の重要な作戦のほとんどに参加したといわれ、百騎の士卒を率いていた。
天文15年(1546)8月、信玄が信濃志賀城(佐久市)の笠原清繁(きよしげ)を攻めた際に、関東管領上杉憲政(のりまさ)の援軍を、虎泰は、板垣信方らとともに、小田井原(おたいはら)の合戦でこれを撃破している。
同17年(1548)2月、信玄が村上義清と戦い、初めての敗戦を喫した上田原(うえだはら)の合戦で戦死した。
その跡は、ただちに息子藤三昌忠(とうぞうまさただ)(後に左衛門尉(さえもんのじょう))が継いだ。

(説明板より)

史跡 | 12:58:43 | Comments(0)
山梨県護国神社に行く
甲府駅を降り、タクシーで護国神社に向う。
もう胸ワクワクである。(大笑)
なぜなのか知らないが、拙者は護国神社が好きなのである・・・(大笑)

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境内には誰もおらず・・・静か・・・
早速、お参りをする。
ここ甲府には歩兵第49連隊があった・・・・
フィリピンのレイテ島で壊滅した部隊である。
だから、どうしてもお参りしたかったという思いもある。

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境内には各種の慰霊碑・顕彰碑が建っている。
これを一つ一つ見ながら写真も撮影する。
最もワクワクするひと時なのである。

ここには、殉職自衛官の顕彰碑も建立されている。
「殉職自衛官顕彰碑」がある護国神社というのは、珍しいのではなかろうか?

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境内には「山梨宮」という社がある。

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ご祭神は・・・・
国学者の加賀美光章・・・・
心学者の志村天目・・・
御岳新道を開削(天保14年完成)した長田円右衛門・・・
徳島堰を開削(寛文11年完成)した徳島兵左衛門・・・
郡内の義民大総代の関戸左近・・・
太枡事件主唱者の金子重右衛門と同じく三沢重右衛門・・・
節婦のくり女・・・
この7名がご祭神だそうである。

太枡(ふとます)事件って何だろう?
ネットで調べてみたら、百姓一揆の一つらしい。
寛政4年に起こった事件らしい・・・
多分、年貢の取立てのやり方のことだと思うが、今まで使用してきた甲州枡に代わって、新枡(太枡)を使うことになったことで年貢の取立てが厳しくなったのだろう。
江戸に上って、この新枡の使用に対しての強訴をしたのが、この事件らしい。
当時は強訴を禁じられていたから、当然、捕まって処刑されたのだろう。
お二人とも「寛政5年7月没」と刻されている。
そういうことで、ご祭神になったらしい・・・

節婦とは何だろう?
「節婦(せっぷ)」とは、「節操のかたい女性」のことを言うらしい・・・
享保13年に大水害が起こり、「くり女」という女性の家も洪水に襲われた。
その時に、老母をまず最初に避難させて、取って返して、病床の夫を助けようと試みる。
しかし、身動きの出来ない夫を担ぐ間もなく濁流に飲まれて命を落としたらしい。
希に見る「節婦」であるとして、ご祭神に祀られたようである。

今では「節婦」などという言葉は「賢婦人」と同様、死語になっている気がするが・・・
まぁ、節操のない人間が多いから、無理もないか?(笑)
現代でも、「節婦」と呼ばれていい女性はいると思うが・・・(いや、いて欲しい・・・)(笑)
拙者は・・・・「節夫」になりたいが独身だから「夫」は無理か・・・(大笑)
「節夫(ふしお)さ~ん!」と呼ばれても困るし・・・(大笑)

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ここには「軍神 若林東一 顕彰碑」というのが、告知板のようなものと一緒に建っている。
拙者が会員になっている「騎兵第14連隊会」の会長から数年前に、顕彰碑を建立した話を聞いた覚えがある。
若林さんは山梨県出身だったので、山梨県護国神社に建立したと言っていたと記憶している。
会長さんは、士官学校同期だったのかな?
何かそういう関係で、顕彰事業をやっていたような話を聞いた覚えがある。
若林東一さんが“有名”になったのは、太平洋緒戦の香港攻略戦の時の活躍だったと思う。
士官学校を首席で卒業した優秀な人だったそうで、中隊長、中尉だった。
学業だけではなく、人物的にも、なかなかの人格者で、部下からの人望が篤い人だったそうだ。
一般中学から、いきなり士官学校に進んだ“エリート”とは違い、一兵卒から下士官まで進み、改めて士官学校を受けたという人だから、いわば“一兵卒からの叩き上げ”だからなのかもしれない。
その後、ガダルカナル島に転戦し、そこで戦死して大尉に昇進したと思う。

若林中隊長は負傷したにもかかわらず、治療のために後方に下がろうとはせず、そのまま部下の下に戻り、「後に続くもの信ず」との言葉を残して戦死したという。

拙者は以前、ガダルカナル島に慰霊巡拝に行ったが、他の部隊の遺族会と一緒だったので、若林東一中隊長が戦死した「見晴台」が、どのあたりなのかを調べることができなかった。
どのあたりか?あっちの山か?こっちの丘か?・・・とキョロキョロして終わり・・・(涙)
申し訳なし・・・
一応、顕彰碑に謝る。(笑)

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ここには海軍の慰霊碑も建立されている。
ん?・・・海軍?・・・海がない山梨県なのに?(笑)
碑文によれば、山梨県出身の海軍関係者4702名の慰霊と顕彰のために建立されたそうである。
へぇ~戦没者だけで4千名以上もいるとはねぇ~
軍艦に乗っていたのか、航空機に乗っていたのかは知らないけど・・・
意外にも海がない県からも海軍に大勢の人が入っていたんだ・・・

慰霊碑を見て歩いていたら、ちょうど先生に引率された幼稚園児たちが、境内の裏のほうからやってきた。
どうやら近所に幼稚園でもあるようで、散歩のルートなのかもしれない。
「ちょっと神様に挨拶しようか?」と先生・・・
「それじゃ、2回、ペコリってやってから、2回パチンパチンと拍手して、最後にもう1回、ペコリってします!わかったかなぁ~!」と大声で言っているのが聞こえて来た。(大笑)
“一礼”というのを「ペコリ」っていうのは良い表現だねぇ~(笑)
出来れば、“神様”が戦争で亡くなった人達だと教えてもらいたいものだが、それは幼稚園児には無理かなぁ~(笑)
いやはや、なかなか良い心がけです。
可愛い園児たちに“ペコリ”とされたら、英霊達も喜んでいることだろう。
50過ぎの中年に“ペコリ”をされるよりは、いいに決まってるよな?(大笑)

なんだかんだと、結局、護国神社に1時間半もいた・・・(大笑)

で・・・
神社の入口まで戻ってきたら・・・

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普通さぁ~・・・鳥居の真ん前に車を停めるかぁ~?(怒)
拙者の常識では考えられないんですけど!
まぁ、その程度の人間だってことですね・・・(唖然)

護国神社入口の直ぐ脇に『甘利備前守虎泰屋敷跡』の看板が建っていた。
この人は、武田氏の重臣なのだそうだ・・・
拙者には、さっぱりわからんが・・・(笑)

ん?・・・甘利?・・・どこかで聞いたことがあるような・・・
あの「甘利特命大臣」は子孫なのかな?(笑)
(あとで調べたら、本当に子孫だそうである)

ちょうどタクシーがやってきたが・・・
さて、ここからタクシーで駅に戻ったのでは芸がない。(笑)
まもなくお昼になるが・・・
テクテクと駅のほうへ向って歩いてみるか・・・
途中で、食事が出来る場所が見つかるかもしれないし・・・・
というわけで・・・歩くことにした。

旅行 | 12:21:04 | Comments(0)
魚籃観世音菩薩
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(山梨県笛吹市・石和温泉)

由来

石和の地に温泉が湧き出て以来30年余、私どもは調理師として日夜研鑽を重ね、一人でも多くのお客様に満足していただこうと努力を続けてまいり、いまや石和は内外に著名な一大観光温泉地となりました。
しかし、その陰に美味しい料理を供するために犠牲となった、魚介類をはじめとする数多くの生き物たちのいたことを忘れることはできません。
お釈迦様は生き物を殺すことを第一に戒めておられますが、姿かたちこそ違え、人間も魚介類も生命の尊さに差異はありません。
お客様に喜んで頂くための仕事とはいえ、日々生き物を扱う我ら調理師の等しく心を痛めるところであります。
今、犠牲になった多くの魚介類に心から感謝すると同時に、その霊が大慈大悲の観音さまの胸に抱かれてどうか安らかにと願い、ここに三十三観音の一ツ「魚籃観世音菩薩」の尊像を建立して、供養の気持ちを表すものであります。
伏して願わくは、浄財寄進の功徳主、並びに全国よりこの地を訪れし方々各家の諸難消除、子孫長久、家内安全、商売繁盛、諸縁吉祥ならんことを

合掌

平成5年8月吉日 除幕開眼之辰
石和保健所管内東八代調理師会
会長  小林智勇
副会長 古屋貞良
同   原 瑛一
同   角田紀昭

(由来碑・碑文)

史跡 | 11:22:35 | Comments(0)
甲府に向う
バイキングの朝食をとり、ホテルをチェックアウト・・・・
さぁ!護国神社に行くぞ!(笑)

ホテルからタクシーで駅に向ってもいいが・・・それでは面白くない。
どうも30分くらいかかるようだが徒歩で駅まで行く事にする。(笑)

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途中で、観音様を見かける・・・
「魚籃観世音菩薩」というらしい。
どうも調理師の人達が料理に使われた魚貝類の供養のために建てた観音様らしい。

魚を殺して食べておきながら、今更、供養もあるまいという考え方もあるかもしれないが・・・(笑)
我々は牛を殺し豚を殺し鶏を殺し魚を殺して食べて生きている。
他の者(物)の命を奪って自分の命を維持しているのである。
この地球が「猿の惑星」ならぬ「魚の惑星」だとしたら、魚を殺して食べている“人間”は極悪人である。(大笑)
我々は、彼らの命を奪っている以上、その分、有意義に生きなければならない。
にもかかわらず・・・
家に引きこもって、ゲームに興じたり・・・
パチンコ屋に入り浸って無駄に時間を浪費するなど言語道断である!(怒)
そんなことのために命を奪われたのではねぇ~
う~ん・・・やっぱり、供養をしてやるべきだよな・・・(笑)
あなたたちの命を有効に使っていない人達がいて、すみません・・・って謝らねば・・・(笑)
ん?・・・パソコンの前に座ることが日課という拙者も同類か?(汗)
いや、いや・・・おかげさまで旅をするエネルギーを与えていただきありがとうございます。
決して無駄な旅行は致しませぬ!
合掌・・・・

石和温泉駅・・・・
昨日は暗くなってから到着したので、よくわからなかったが・・・(笑)
小さな木造の駅舎である。
いいなぁ~・・・木造の駅舎!(嬉)

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こういう駅舎を見ると、親父の実家のある町の駅を思い出す。
拙者が小学2年か3年生の時に、一人で電車に乗って何度か祖父の家に行った・・・
その駅には八の字の立派なヒゲを生やした駅員さんがいた。
今では、こんな「八の字ヒゲ」を生やした人を見かけることはない。
それはそれは立派なヒゲの持ち主の駅員さんだった・・・
長岡外史の銅像を見ると、思い出す・・・(笑)

生まれて初めて一人で帰りの切符を買った時のこと・・・
「あのぉ~切符・・・ください・・・」
恐る恐る窓口で切符を求めた・・・(大笑)
と・・・この“ヒゲの駅員さん”が・・・
「はい!百万円です!」と言ったのである!(驚)
百万円!!
そんなの持ってないし・・・(大汗)
生まれて初めて買う切符が・・・百万円!(大汗)
「ひゃくまんえん・・・なんて持ってない・・・帰れない・・・」(大涙)
多分、拙者は、この時に半べそをかいたのだと思う。(大笑)
“ヒゲの駅員さん”が慌てて「今のは冗談だから!冗談!百円!百円のことを百万円って冗談で言ったの!」と言い訳をした。
「あ、百円なら持ってる・・・」

次回、この“ヒゲの駅員さん”に会った時、“百万円のおじさん”と呼んだら苦笑いをしていた。(大笑)

まもなく、この“百万円のおじさん”の姿が見当たらなくなった。
代わりに窓口の脇に自動券売機が置かれた・・・
この時の寂しさは今でも忘れられない。

今では、駅員さんと、こういうコミュニケーションを望むことは無理だろう。
全て事務的で・・・券売機の「ボタン」との“対話”だけ・・・
こういう小さな木造の駅舎を見ると“ヒゲの駅員さん”を思い出す。
もう45年ぐらい前のことなのに・・・
あの駅員さん・・・もうこの世にはいないんだろうなぁ~
「百万円!」の、あの冗談は、今でも拙者のいい思い出になっていることを伝えたいのだが・・・

007_convert_20131016094317.jpg(駅前の様子)

これから甲府に向う。
松本方面に向うわけだから、昨日から行ったり来たりしていることになる。(大笑)
改札口にカードをかざして通過・・・
う~ん・・・便利だけど・・・虚しい・・・

旅行 | 09:32:40 | Comments(0)