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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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半年ぶりのルソン島(10)
さて、そろそろお昼である。
元来た道を戻り、タユグという町で食事をすることにする。
この町は、現在では交通の要衝となっている。
多分、昔もそうだったのかもしれない。
かなりの賑わいである。

9年前にここを通過したときは、大きな市場があったような記憶があるのだが・・・
今は近代的なショッピングセンターのような建物に変わっていた。(笑)
ここのファーストフード店で4人で昼食を食べる。

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チキンの照り焼きのセット、コーラを付けて・・・・約100ペソ(約200円)だったかな?
これに2品ほど別に頼んで・・・4人でも600ペソ(1200円)ぐらいだったような気がする・・・
なにせ、経済観念がない男ですから・・・金額をあまり気にしないで支払っちゃうのである。(大笑)

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(タユグのお店の前の道)

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(向こうに見えるのがタユグの市庁舎)

とりあえず・・・
今日の予定は全部済んだ!(喜)
ここからは一気にクラークに向けて南下する。

途中で、“ドミンさん”と別れる。
彼は、今回の拙者の同行を兼ねながら親戚宅を訪問して、またバギオへ戻るという。
「では!また!」と別れる・・・・
82歳・・・どうか長生きして欲しい・・・
また会いたいね・・・・

タユグを出発して約3時間後・・・
クラーク地区に到着!
まだ時刻は午後3時半である。

来週、ここの「リリー・ヒル」という丘で、神風特別攻撃隊の慰霊祭が行われるという。
その時に拙者の知人の“カメイさん”も来るのだそうで、ガイドとして空港から同行を求められているのが“ステラさん”
しかし、“ステラさん”はこの「リリー・ヒル」の場所を知らないという。
拙者ももちろん行ったことはない・・・
というわけで、拙者のタブレットの地図を見ながら、「リリー・ヒル」を探して行って見ることにする。
来週のための下見である。(笑)

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意外にも、「リリー・ヒル」は、今晩拙者が宿泊するホテルのすぐ近くだった。(大笑)
英語名では『Goddess of peace shrine』と言うらしい。
観音像の日本語の碑文では『平和観音宮』と刻まれている。
日本語碑文によれば・・・
ここはパンパンガ州マバラカット町クラーク地区というそうで・・・
平成10年10月25日、神風特攻隊出撃から54年目にあたり、「世界平和都市」宣言をして日本の僧侶と地元の町長がこの観音像を建立したらしい。
このクラーク地区の日本陸海軍将兵約3万名が「建武集団」を編成し、米軍と戦ったのであるが、どうも、このリリー・ヒルに最後の要塞を築いたらしい。
そして、その攻防戦で敗退し、山岳地帯に籠もり戦い続け、殆どの部隊は玉砕したのである。

この「建武集団」には、我が戦車第2師団から機動歩兵第2連隊の1個大隊が配属されている。
「柳本大隊」と称するが、この地区では唯一まともな戦力を持っていた歩兵部隊と評されていたというが、大隊は壊滅・・・柳本大隊長は生還したが、平成3年に交通事故で他界された。
拙者が戦友会に入会する前のことであるが、今でも柳本大隊長の奥様とはお手紙のやり取りをさせていただいている。
いつも拙者のことを気遣ってくださる奥様なのである。
あ~・・・柳本少佐の名も碑文に刻まれている・・・・
知らなかったこととはいえ、今までここに参拝に来なかったとは迂闊であった。
偶然にも大隊長のお名前を拝見し、感無量・・・・
会いたかったなぁ~大隊長さんに・・・・

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今回宿泊するホテルは、クラーク地区にあるホテルで初めて使うホテルである。
なんとも洒落た外見をしている。
スペイン風っていうのかな?(笑)
チェックインして、早速・・・・コーヒー!(大笑)
飲むぞ!コーヒー!
ドライバーと“ステラさん”と3人でコーヒーを飲んで一息つく。

今日のドライバーの宿泊は・・・
ここは昔、米軍の基地だった場所で、その面影が今も残る、ちょっと隔離されているような地帯である。(笑)
ホテル代も当然高い・・・
というわけで、彼にはホテル代と夕食代を渡して、この区画の外のホテルを適当に探して泊まってもらうことにして、夕食も3人で食べたいところだが、わざわざそのためだけに戻って来てもらうのも悪いので、一人で自由に食べてもらうことにした。

今晩の夕食は6時半にホテルのレストランということにする。

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食事後、3階にある部屋に戻ろうと“ステラさん”と一緒に、廊下を歩いていたら・・・
いきなり停電!(驚)
真っ暗である!
ホテルの従業員が駆けつけ、自家発電機を稼動したので、とりあえずの復旧はしたが・・・
我々は、あと数秒でエレベーターに乗るところだったのである。(笑)
エレベーターの中で停電に遭っていたかも知れないと2人で大笑い。
そしたら、多分パニックを起こしていただろうね!(大笑)
危機一髪だった・・・・

日本にいる妹から拙者の携帯にメールが入った・・・・
妹が親父の様子を見に東京から我が家に来たらしいが、その直前に、どうも水戸藩士の“シミズくん”が手土産持参で拙者の親父の様子を見に来てくれていたそうである。(喜)
いやぁ~申し訳ないねぇ~
実の息子は親父を見捨ててフィリピンへ旅行に行き、他人である“シミズくん”が拙者の親父のことを心配して、わざわざ様子を見に来てくれたとは・・・・
いやはや本当に申し訳なし!
感謝、感謝・・・
で・・・妹が様子を見に行ったら、どうも拙者が出発後も食事を摂っていなかったらしく、少々衰弱気味だったというので、急遽、東京へ連れて帰り、東京の病院に入院させたという。
まぁ、そのほうがいいかもしれない・・・・
点滴を受ければ少しは元気が出るだろう・・・
詳しくは後で、今後のことも含めて話すとのこと。
とりあえず、妹のおかげで何とかなったようである。
ちょっと安心・・・(笑)

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困ったことに・・・全館禁煙である・・・(大笑)
いやぁ~どこもかしこも禁煙、禁煙・・・
なんたることか・・・
ベルボーイに尋ねたら、1階のプールサイドなら灰皿があるのでタバコが吸えると言う。
いちいち、1階まで降りてタバコを吸わなければならない・・・・不便なり・・・(涙)

今晩も、マッサージを呼ぶ・・・・
毎日マッサージ・・・・(笑)
なんと贅沢なことか・・・
至福のひと時・・・という奴である。(笑)


より大きな地図で リリーヒルの平和観音 を表示


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旅行 | 18:57:25 | Comments(0)
半年ぶりのルソン島(9)
サンマニュエルから、各自バラバラに撤退した生き残りの将兵たちは、ここから東のサンニコラスまで行き、そこから更に後方へ移動したようである。
戦車師団には、他の歩兵師団のように野戦病院というのは設置されていない。
戦闘になると「患者収容隊」というのを臨時に編成して、負傷兵は他の部隊の編成下にある病院へ移送されるのである。

サンマニュエルからサンニコラスまでは真っ直ぐ道が伸びているが・・・・
途中に大きな川が流れていて、現在はここには橋は架かっていないようである。
当時はここに橋があったかどうかはわからない。
道の感じでは、橋があったと思っていいとは思うが・・・

なにせ戦後60年以上も経っているので、こういう戦跡めぐりは難しい。
道路自体が当時の道路なのか、戦後“付け替え”られたものなのか・・・
「椰子の林の中に戦車を隠し・・・」とか「竹林のところに終結して・・・」など、当時の様子を伝える資料に書いてあっても、現在は、椰子の林も竹林も見当たらないのである。(笑)
「町の郊外に・・・」とあっても、戦後、町が大きくなっている可能性もある。
当時は「郊外」でも今は町の中に含まれてしまっている可能性もある。
生還者に同行してもらい、説明を受ければ、少しは違うかもしれないが・・・
それは今となっては無理である。
自分の経験と勘に頼るしかない。(笑)

我々は、一度南下して橋を渡り、再度北上してサンニコラスの町に向かうことにする。

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サンマニュエルを出発して30分程度でサンニコラスの町の入り口に到着する。

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ここサンニコラスは戦車第7連隊などの生き残りの将兵が撤退してきた場所でもあるが、拙者の祖父がいた場所でもある。
拙者の祖父は、ここに配属部隊をもらい約600名で防衛陣地を敷いていたのである。

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約5分ぐらい走って、サンニコラスの町の中に到着。
ここは町の中心にあるメインストリートに面した市庁舎である。
多分、ここに祖父は連隊本部を置いたのではないかと思う。
資料が何も残っていないので正確なことはわからないが・・・

この市庁舎のすぐ近くに高校がある。
「レッドアロー・ハイスクール」と言うが、このレッドアロー(赤い矢)とは、この地を攻撃した米第32歩兵師団の愛称である。
米軍の部隊の愛称が今も高校の名前として残っている。

ここに米軍の最初の砲弾が飛んできたのは、昭和20年2月1日のことである。
その後、激戦が展開されることになるのである。

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市庁舎前からカバリシアン川方向(東の方角)を見る。
9年前と変わらず閑静な町である。(笑)

ここから真っ直ぐ東に向けて走る。
この先がカバリシアン川・・・・
その川を渡ったところに祖父は物資を集積して防衛陣地を構築していた。
ここを“ドミンさん”と訪問したのは平成15年・・・
9年ぶりの再訪問である。

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到着してみたら・・・あららららぁ~・・・である。(大笑)
かなり荒れちゃっているというか何と言うか・・・・
“ドミンさん”の話によれば、以前、大きな地震があり、そのせいでかなりの被害を受けたのだという。

我々の岸側は以前より軽く2mは“かさ上げ”されていて、どうも堤防を作り直したらしい。
川に吊橋が架かっているのは、9年前と同じだが、かなり高さが高い。(笑)
コンクリート製の橋脚の土台はあるのだが・・・いつになったら恒久的な橋が出来るのやら・・・である。

目を橋の右にやる・・・

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ここには民家が1軒あったのだが・・・・ない!
9年前、ここの庭のマンゴーの木を眺めていたら、家の人が出てきてマンゴーを取って拙者にプレゼントしてくれたのである。
その思い出話を“ドミンさん”にしたが・・・彼は全然覚えていないという。(唖然)
あの家の人・・・大丈夫だったのだろうか?今はどうしているのだろう?

更に目を右にやる・・・・

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川が大きく湾曲している・・・・
向こう岸には、9年前には結構高い堤防があったのだが、ザックリと削り取られているようである。
決壊したようである・・・・
9年前には、あそこを歩いてグルリと向こう側まで行ったんだけどなぁ~
今回は無理なようである。

さて・・・ここで問題が・・・・
吊橋である・・・(大笑)

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この吊橋を渡らねば向こう岸には行けない。
が・・・拙者は高所恐怖症なのである。(大笑)
2mぐらいの高さでも腰が抜けるほど怖いのである。(笑)
しかも・・・なに・・・これ・・・
この竹を割った“床”・・・・隙間だらけじゃない?
もし、この竹の板がパキッって割れたら、ストンって墜ちちゃうんじゃないの?(大汗)
“ステラさん”は「私はここに残りますからぁ~」と・・・・逃げた・・・(大笑)
ドライバーも・・・同様・・・
う~ん・・・・(涙)
「怖いんですけど・・・じゃぁ、行ってくるね・・・」(涙)
みんなは・・・・苦笑・・・・

恐怖心に打ち勝って、何とか向こう岸に渡り終えた。(大汗)

そこには米第32歩兵師団の記念碑が建っている。
が・・・かなり傾いている・・・

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この記念碑は、昔の写真を見るとかなり背が高い記念碑なのである。
台座も含めれば、今、地表に出ている長さの2倍はあるのではなかろうか?
ということは・・・かなり土砂で埋まってしまっているということになる。
この記念碑・・・・
建立されたのは、1945年(昭和20年)の5月である。
この先にあるサラクサク峠の攻防戦が終盤を迎えた時で、5月末に米軍はサラクサク峠の戦闘の終結を宣言している。
ということは・・・終結宣言と同時に建立したということになるか?
なんとも手回しの良いことである。(唖然)

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目の前の丘には、9年前には民家が建っていたが・・・・今では消滅している。
地震のせいで被害を受けたのだろうか?
祖父たちは、この丘から後方に向かって重層に第一線陣地を構築していたのである。

ここはサラクサク峠への西の登り口にあたる。
1880年代にスペインの宣教師が造った道だという。
水牛が通れる程度の道だったというから「獣道」に毛が生えた程度の登山道だったのだろう。
ここに米軍が攻撃を仕掛けてきた・・・
その兵力は1個師団なので軽く1万名は超える・・・
それに対する祖父たちは600名・・・・(笑)
普通なら2日と持ちこたえられるわけがないのだが、この「獣道」に祖父たちは助けられたといってもいいだろう。
敵も一列にならなければ、やって来れないだろうし・・・
連日の猛砲撃を受けながら祖父たちはジワジワと後退・・・
時間稼ぎをしている間に、今年の4月に拙者が登ったサラクサク峠では、戦車を失い歩兵化した戦車第2師団の将兵と配属部隊の将兵が防御陣地を構築したのである。
祖父たちがサラクサク峠に到着した時には兵力は80名ほどまでに減っていたという。
ここからサラクサク峠までの間に約500名が戦死したということになる。

当時の山道は、多分、戦闘中に米軍のブルドーザーで拡幅されたと思うが・・・
今では、その道も崩落して殆ど痕跡を留めていないらしい。
“ドミンさん”が後から橋を渡ってやって来た。
来年当たりに、ここからサラクサク峠に向かって道路が開通するという。
しかし・・・9年前にも同じようなことを言われた記憶があるのだが・・・(笑)
今回は本当に道路が出来るのであれば、是非、そこを走ってみたい。
戦後の遺骨収集団もここでは遺骨収集をしていないようである。
ということは・・・500名もの祖父の部下たちが眠っているのである。
是非、慰霊をしてあげたい・・・・


より大きな地図で 米第32師団の記念碑 を表示


旅行 | 16:42:09 | Comments(0)
半年ぶりのルソン島(8)
先ほどの地元の人たち・・・
拙者が「山下財宝」を探していると思ったらしいと“ステラさん”が言う。
日本人を見たら・・・「山下財宝」探し・・・・
つまり・・・「トレジャー・ハンター」だと思ってしまうところがフィリピンらしい。
なにせ、働きもせず一攫千金を狙いたがる連中が多いのだ。(大笑)

「山下財宝」は、現地では「ヤマシタ・トレシャー」と言う。
「トレジャー」とは濁らず「トレシャー」である。
これは第14方面軍の山下大将が、フィリピンに埋めた財宝を指す。
たしかに、大量の貴金属等が持ち込まれたことは事実である。
が・・・そんなものが簡単に見つかるわけがない。(大笑)
小学生の時に埋めたタイムカプセルだって、数十センチ場所がずれたところを掘ったのでは、いくら掘っても見つからないのと同じである。(笑)
偶然、何かの拍子に見つかるという“偶然”に期待するしかない。(大笑)
探して見つかるようなものではあるまい。

車で5分も走ったところに、ビナロナンの三叉路がある。
たしか・・・ここでも何か戦闘があったはずなのだが・・・
思い出せない・・・(大笑)
拙者の勘違いかな?
ここは関係なかったかな?(笑)
とりあえず、念のため、車を停めて写真だけは撮っておく。

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更にサンマニュエルに向かって走る。
このウルダネタとサンマニュエルの間にサントドミンゴという集落があるはず・・・
そこには「サントドミンゴ地区隊」として、一時期、我が戦車第2師団戦車第3旅団長の重見少将がいた。
旅団司令部には九七式中戦車5両、九五式軽戦車1両・・・・
これに機動砲兵第2連隊第3大隊第9中隊の10センチ榴弾砲4門、師団整備隊などが配置されていた。
ここでは何か戦闘があったというわけではない。
ここに「いたことがある」というだけである。(笑)
重見旅団長以下は、ここからサンマニュエルに部隊を引き上げて、サンマニュエルでの決戦に臨んでいる。

本道上を進むが・・・小さな集落が、次々と現れては消え、どれがサントドミンゴなのかわからない。
タブレットの地図にも集落の名前が記されていないのでわからない。
と・・・目の中に『サントドミンゴ』の文字が飛び込んだ!
「ストップ!ストップ!ここだ!サントドミンゴ!」

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写真の右側にあるのが「サントドミンゴ小学校」である。
ということは・・・ここがサントドミンゴだということだよな・・・(笑)
「良くわかりましたねぇ~」と“ステラさん”が驚いた。
「だって、サントドミンゴ小学校っていう看板が見えたんだもんね!」(笑)

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(サントドミンゴの集落)

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これは・・・マンゴーじゃなくて・・・パパイアの木かな?(笑)

ここを過ぎて、すぐにサンマニエル(サンマヌエル、サンマニュエル・・・どの表記が正しいかわからないが・・・)の町に入る。

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ここ、サンマニュエル訪問の目的は、戦車第7連隊を中心とする将兵の慰霊である。
拙者は、ここに来るのは初めてである。
我が戦車第2師団の戦友会の会長は、ここで戦死された戦車第7連隊の前田連隊長のご子息・・・
いつも、どこで慰霊をされているのかを教えていただいた。
その場所に無事に到着できるか・・・
が・・・“ドミンさん”が、その場所を知っているという。
いやぁ~大助かりである。
一応、マエダ会長からは慰霊場所の略地図を頂いているが、うっかり間違えるかもと少々心配だったのである。(笑)
地図と“ドミンさん”の案内とダブルチェックならば大丈夫だろう。
“ドミンさん”が「ここでいつも慰霊をしている」と場所を教えてくれた。
確かに間違いない・・・略図の通りである。

で・・・問題は、拙者のほうである・・・
お線香を持ってくるのを忘れた!(大涙)
いつも、スーツケースの中にはお線香を入れたままにしているので、確認もせず家を出てきたのだが・・・
なんと!いつの間にかスーツケースから出してしまっていたようである。
いくら探しても、いつもお線香を入れているポーチが見つからない・・・
やっちまったぁ~
大ドジである。
何をしに来たんだ・・・フィリピンに・・・・

というわけで・・・“ドミンさん”が買ってきてくれた蝋燭をお線香代わり(?)に立て・・・
前田連隊長はお酒が好きな人だったので、バギオで“ステラさん”にウィスキーを買ってもらい・・・
これだけで・・・ささやかな慰霊をする。
う~ん・・申し訳ございません・・・(涙)

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我が戦車第2師団は、そもそもは満洲の原野でソ連軍と戦うために訓練をしてきた部隊である。
それがフィリピンへ送られ、米軍と戦うことになったのである。
戦うなら戦車師団一丸となって・・・というのが本望であろう。
それが、各連隊がバラバラに配置され、更には中隊単位で分散配置。
歩兵を掩護しながら夜間に突撃という、訓練を積み重ねてきた本来の形とは全く違う用法で各個撃破されてしまったのである。
戦車の用法も知らぬ方面軍の参謀が命令を出すが、一転二転・・・
いつもの日本軍の悪い癖である。
日本軍が戦争に負けたのは、彼らエリートと呼ばれる、本当は頭が悪い参謀達のせいではないかと思わざるを得ないのである。
現場の判断を重視すればいいものを、余計な口を出し威張り散らしたのだろう。
方面軍の指揮に従うことをためらう重見少将を罷免しようとさえしたのである。
これを庇っていいはずの戦車第2師団司令部は、方面軍と現地との板ばさみになり、どうも積極的に重見少将を擁護しなかったようである。
縦社会というか、官僚主義の弊害というか・・・
結果的には重見少将の部隊を見殺しにしたこととなる。

昭和20年1月9日に米軍がルソン島に上陸した時点での戦車第7連隊の兵力は約870名、戦車は70両であるが、このサンマニュエル地区に集結した時の兵力は約700名、戦車は55両である。
その後のウルダネタ、ビナロナンの緒戦で、約80名の将兵を失い、約50名の負傷者を出した。
特に小隊長以上の幹部将校の多数を失ったため、実際の戦力は半減に近い状態となる。
また、戦車も33両に減ってしまったが、しかも、それは使用不可能な戦車も数両含まれての数字である。
重見少将は、このサンマニュエルを死に場所と決めて死守を命じる。
これに前田戦車第7連隊長も賛同して、ここを“最後の陣地”とした。

昭和20年1月19日午後からサンマニュエル地区に敵の砲弾が落ち始める。
これがサンマニュエル地区の戦闘の始まりであろう。
連日の攻防戦で次々と戦車と兵を失い、最終段階を迎える。
1月27日午後11時過ぎ、総攻撃開始・・・・
参加したのは残存戦車11両・・・
28日の午前0時を過ぎたころ、前田連隊長の戦車が敵弾を受け連隊長は車内で戦死した。
午前2時過ぎごろ、前田連隊長の突撃とその最期の様子を見て、重見少将は旅団長用の戦車に乗り込み、突撃を敢行するが、たちまち敵の砲弾を浴び重見少将も戦死したという。
陸軍の高級将校の中で、敵に向かって突撃を敢行して戦死した人は、重見少将だけではなかろうか?
壮絶なる最期・・・である。
この攻防戦で、かろうじて生き残った戦車は3両・・・
この3両に負傷兵を乗せ撤退・・・・
これをもって、サンマニュエルの攻防戦は終焉を迎え、戦車第7連隊は実質壊滅した。

お供えしたウィスキーを地面に撒いて慰霊とする。


より大きな地図で 戦車第7連隊の慰霊地 を表示


旅行 | 15:32:11 | Comments(0)
半年ぶりのルソン島(7)
今日は、バギオから山を降りて、サンマヌエル(サンマニュエル)を経由してクラークに向かう。
“ドミンさん”が同行してくれるという。
昨日、多額の(笑)「お香典」をあげたからなのかな?(笑)

朝食をとり、ドライバーと“ドミンさん”とホテルで合流・・・
午前8時、チェックアウト・・・・
まず、バギオ市内の慰霊碑に立ち寄る。

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この『英霊追悼碑』はバギオ市、バギオライオンズクラブ、フィリピン慰霊碑建立協賛会によって、1973年2月21日に建立されたものだそうである。

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この『英霊追悼碑』は、きちんと管理者がいて、いつも門が閉まっている。
早朝なら管理者がお掃除に来るので、お参りが出来る。
今日も、グッドタイミングでお掃除の人が来ていて門が開いていた。
碑の周囲には花が飾られ、フィリピンでもここまでキチンと整備されている慰霊碑は、ここだけではないかと思う。
管理者からこの碑に関する資料をいただいたので、チップを少々奮発する。(笑)
キチンと資料まで作ってるんだから大したものである。
英霊も喜んでくれているだろう。
慰霊碑は、こうありたいものである。

バギオから、昨日通った、ベンゲット道(ケノン・ロード)を走る。
昨日は、時間がなく、キャンプ・セブンにある展望台に立ち寄らなかったので、立ち寄ることにした。

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ここからのベンゲット道(カノン・ロード)の景色がいいというのだが・・・
それほどではないような気が拙者はしますけど・・・・(笑)

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標高が高いので、松林が多い・・・・
南国のフィリピンに松の木というのは意外だが・・・(笑)
どことなく日本のどこかの山の中に来たような錯覚を覚える。(笑)
バギオ市内も松林が多かったが、以前より家が増えたようで、松の木が少なくなったのは残念である。

ここには「ケノン・ロード」と、その名を残す「ケノン大佐」の銅像が建っている。
う~ん・・・日本人としては、チョット不満・・・(笑)
出来れば、この道路を開通させた日本人労働者の銅像を建ててもらいたいものである。(笑)

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092_convert_20121102235502.jpg(バギオ市のマーク)

山を下り、約1時間半・・・・
ビナロナンという町に入る。
ここも我が戦車第2師団の戦場跡である。
ここには戦車第7連隊の第4中隊(高木大尉)と第5中隊(伊藤少佐)、機動歩兵第2連隊第1大隊(板持少佐)などの部隊が展開していた。
第4中隊の戦車12両は、昭和20年1月16日夜、リンガエン湾の米軍上陸地点に向けて、機動歩兵第2連隊第1大隊の機動歩兵とともに突撃を敢行する。
我々が到着したのは、ビナロナンの当時の市街地だと思う。

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写真の左側の道を向こうに向かうと、ビナロナンの十字路がある。
そこが突撃部隊の集結地で、そこから西に向かったのである。
我々はこのあと向かうサンマニュエルに向かうため、市街地のほうへ向かう道に入ってしまった。
が・・・ドコモのタブレットで地図を見ていたので、現在自分が走行している場所がわかる。
今回もタブレットのおかげで大助かり。
「その先にT字路があるはずだから、そこで車を停めて!写真を撮るから!」

午後11時、夜襲をかけた戦車第7連隊第4中隊は敵の対戦車砲等の猛砲火を浴びる。
指揮班長の上路中尉の九五式軽戦車は敵の砲弾を受け火達磨となり、車内から誰かの叫び声が聞こえたという。
高木中隊長の戦車は炎上する前後の戦車に挟まれ身動きが取れない。
高木中隊長は歩兵出身だったためか、砲塔から頭を出して銃で狙撃していたらしいが、敵弾の直撃を受けて戦死。
敵陣を突破したのは、小林小隊長率いる戦車2両・・・
あとから中隊主力が追いかけてくると思って待っていたが追いかけてこないので引き返した。
その途中、1両が敵弾で炎上・・・生還したのは1両のみ。
結局、この夜襲で、第4中隊の戦車兵60名中、中隊長、指揮班長以下約20名と戦車4両を失う。
残った戦車8両はここから東にあるサンマニュエルに後退した。

この夜襲を行なった我が戦車第2師団の戦車第3旅団長である重見少将と戦車第7連隊長の前田中佐は、山下奉文大将の第14方面軍からの戦車の夜襲については反対意見を持っていた。
歩兵と共同して、夜襲をするなどは戦車の用法としては間違いである。
本来の戦車の用法はそのスピードを生かして戦場を縦横無尽に走り回り戦うことだろう。
真夜中の真っ暗い中、歩兵に速度を合わせて・・・などというのは論外な話である。
結局、重見少将たちの思ったとおり、この夜襲は失敗した。

ビナロナンの十字路の戦いで第4中隊はサンマニュエルに後退したため、米軍は日本軍を駆逐したと思ったのだろう。
安心していたところ、伊藤中佐率いる第5中隊の戦車8両が攻撃を仕掛けてきた。
本来は12両編成だが、第3小隊などの4両は、ウルダネタの戦車第7連隊本部へ派遣していて戻って来ていない。
突然現れた日本軍の新手の戦車に米軍は大混乱となる。
その混乱に乗じて戦車砲、機銃を米軍の戦車やトラックに浴びせる。
ちょうど日本軍の10センチ榴弾砲も近くに配置されていたが、この砲は米軍のM4シャーマン戦車を砲撃、炎上させている。
多分、「乱戦」となったのではないだろうか?

中隊長の伊藤中佐は、戦車学校の射撃学生出身で射撃が上手い。
そのため、本来の射手と交替して自分で射撃を担当していたらしいが、敵の砲弾の破片を頭に受け、戦死してしまった。
周囲が暗くてよく見えないので、操縦手の猪塚曹長が窓を開けて操縦していたため、砲弾の破片が車内に飛び込んで2人を戦死させたのではないかと言われている。
確か・・・伊藤少佐のお墓は佐賀県の唐津にあったと思う。
慰霊碑か顕彰碑か何かも建立されているらしいが、拙者はまだ訪れたことはない。
機会があったら一度お参りしたいなと思っている。

この第5中隊も奮戦し、敵に多大な損害を与えたらしいが、結局、戦車8両は全滅してしまった。
このため、夜が開けると全滅しかねないということで、この機動歩兵第2連隊第1大隊長の板持少佐の「板持支隊」を中心とする「ウルダネタ地区隊」は、サンマニュエルに後退する。

この我々が立っているT字路は、ちょうどサンマニュエルに向かう路である。
これより西で戦闘があったのだろうが、そこへ向かうとなると、逆方向へ戻る形となるので、あえて行くのをやめる。
わざわざ戻って何を見たいのか?・・・と他の3人は思うだろうし、「え~行くんですかぁ~」と嫌な顔をするかもしれないから・・・(大笑)
次回、機会があったら十字路付近を探索してみたい。

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T字路地点からサンマニュエル方向を見る。
このあたりに機動歩兵第2連隊第1大隊は、突撃前に、いたのではなかろうかという気もするが・・・

T字路地点で一服・・・
そこへ“輪タク”のオヤジなど地元の人が寄ってきた。
なにせ、日本人だから目立つのだろう。(笑)
地図を見ながら、あっちを向いてパチリ、こっちを向いてパチリと写真を撮っているから「不審な行動」と思ったのかもしれない。(大笑)
何だかんだと話しかけてくる。(笑)
写真の右に見える街路樹・・・・
何という名前だったか、教えてもらったのだが忘れてしまったが・・・
地元の人が、この木は、スペイン統治時代からここにある木だという。
すごい歴史がある木だそうで・・・(笑)
周囲からも「そうなんだ、それでね・・・」と大騒ぎ・・・
残念ながら拙者は植物学者ではない・・・(大笑)
興味がないのだが・・・どうも、日本で言う所の「天然記念物」か「名木百選」とか、何かに指定されているのだろう。
「この木を見てくれ、これはね・・・」と説明がうるさい。(大笑)

戦前からこの街路樹があったとすると・・・
攻撃に行った日本兵たち、撤退をした日本兵たちもこの木を見たのかな?
この木も、我が戦車第2師団の活躍を見ていたのかも?

このT字路のところに「野外公会堂」がある。

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ここの公衆便所・・・有料である。(笑)
入り口に若い女の子がいて、“料金”を取る。
たしか5ペソ(10円)ぐらいだったと思うが・・・(笑)
お金を取るだけに、内部は綺麗である。
雇用創出にもつながるから日本でもやったらどうだ?(大笑)

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トイレに行って出すものを出したら、のどが渇いた・・・(大笑)
「どこかでミネラルウォーターを買いたいんだけど・・」と言ったら、地元のトライシクル(輪タク)のオヤジがお店まで乗せて案内すると言う。(笑)
“ドミンさん”が拙者の代わりに買い物に出かける。
その間、拙者は木陰で一服・・・(笑)

飲み物も入手したし・・・さて、行きますか!
地元の方々に挨拶して車に乗り込み、次に向かう。(笑)


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旅行 | 10:00:48 | Comments(0)