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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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逆さ門
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仙台市指定有形文化財(昭和61年12月20日指定)
荘厳寺山門

三間一戸の薬医門(やくいもん)で切妻造本瓦葺(きりづまづくりほんかわらぶき)の堂々たる門である。
江戸時代初期の上級武家門として数少ない遺構である。
寛文(かんぶん)事件で知られる仙台藩奉行(家老)原田甲斐宗輔(かいむねすけ)の片平町にあった屋敷門を移築したものと伝えられ、逆臣の門ということで、「逆さ門」とも呼ばれていた。
老朽化のため、平成5年と6年の2ヵ年にわたり解体修理工事を行った。
その際、柱材の上下を逆さに、左右の位置を交換して立て直した「門」であることが判明、「逆さ門」のいわれが明らかとなった。

平成10年7月 仙台市教育委員会

(説明板より)

原田甲斐邸薬医門(俗称「逆門」の由来
万治3年(1660)伊達家騒動により綱宗が隠居したが、その後甲斐一門一族の処刑がなされた。
勿論、六親九族七世に及んだ処刑によって事件に関係のない幼い子供迄も無実の罪を背負いながら死んで行った。
そして甲斐ゆかりの全てのものは完全に破壊されたが、最後に一番堅牢な薬医門が唯一つだけ残った。
巨木をはめ込みに組み立てた薬医門は取り壊しにかかったが、解体作業の人夫は不慮の事故で怪我をしたり又は夭死するものさえ出たと伝えている。
このため解体を取り止め焼却されることになったが、その晩から夜毎に子供の泣き声が聞こえて来たという。
恐らくは楔をはずしたために軋む音が聞こえたのかもしれない。
当時、荘厳寺の住職は名僧知識として世に誉れ高く伊達家の厚い信任を得ていた。
この聖人はひそかに、原田甲斐一門の迷える霊を供養して、唯一の名残である四脚門を功徳山・荘厳寺に「悪を善に転じて」移建することを推進して許されてから逆さに移建した。
そのため世に「逆門」として言い伝えられ、現在に至った原田甲斐一族の唯一の名残である。

(説明石碑・碑文より)

逆門の謂れある山門の史蹟
寛文事件と云われた伊達騒動、怨親二つに裂けた敵味方の争憂の中で、、当代の家老職に在った原田甲斐の守は一切の責めを負うて死んだ。
その怨親二つに裂けた多くの犠牲者を弔う意が深く秘められているのが、この山門であると思う。
当代荘厳寺の住職は伊達藩の信望も深く許しを得て、悪を逆さにして善であると云う其の意を以って原田甲斐邸の屋敷の門を荘厳寺に逆に移建し其の霊を弔ったと云う。
其の門の側に石地蔵尊三体の立つ姿に気付く者は少い。
此の地蔵さん門を弔う形に座っているのである。
当時原田甲斐邸より此の逆門を潜って脱出し生還を企った者の幾人かは助かったが、多くは此の山門の処で斬殺されたと云う。
赤児の死体のみでも門のまわりに十七遺体を数えたと云うから其の死体は累々と重なり山をなしたことであったろうかと相像する。
其の犠牲者を弔った面影が残る地蔵さんである。

第二十八世住職 聖誉一阿哲園謹書

(説明石碑・碑文より)


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史跡 | 19:19:58 | Comments(0)
仙台へドライブ(4)
次に向かったのが「荘厳寺」・・・・
ここに「逆さ門」というのがあるので、それを見に行くという。
この門・・・
伊達騒動の原田甲斐の屋敷門を移築したものだという。

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原田という人は“悪い”人だったようで・・・(良くは知らないんだけど・・・)(笑)
この人の屋敷門の柱を上下逆さまにすることで、「悪から善に替える」という意味を持ったらしい。
で・・・このお寺にこの門を移築して、原田一族の霊を弔うということになったらしい。

“シミズくん”と違って拙者は知識がないから、どうも、さっぱりわからんのだが・・・
とにかく、そんないわれがある有名な門なのだそうだ。(笑)

ここを見学して・・・・

帰りに、一箇所だけ、拙者の我儘を通してもらい、支倉常長の銅像に立ち寄ってもらう。
以前ここに来た時、夕方で暗くなってしまい、いい写真が撮れなかったのである。(涙)
というわけで・・・再度、どうしても写真を撮り直したかったのである。

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時刻は午後1時・・・・

今回の史跡巡り、拙者の都合で、ここまで!(笑)
本来ならば、日が暮れるギリギリまで史跡巡りをして帰宅したいところなのだが、本日中に上京しなくてはならない。
ということで・・・早めに切り上げて帰途につくことにした。
“シミズくん”には申し訳ないのだが・・・・

帰宅途中に「白石城」に寄ってみようかという案もあったが・・・
今回はこれも断念し・・・いつか、そのうち・・・ということにする。

途中で、遅い昼食・・・・ラーメンを食べ・・・帰宅。

今回の旅行中に、モデムが届いていたので、モデムを交換・・・
故障したモデムと交換するのだが、故障したモデムは便利なことに宅配業者が持って行ってくれるという。
拙者は、すぐに上京しなくてはならないので、宅配業者へ渡すのを親父に頼み、特急に飛び乗り東京へ・・・

いやぁ~かなりハードな一日だった。(大笑)

が・・・2日間、運転をし続けた“シミズくん”のほうが、ハードだったかも・・・(笑)
いやぁ~御苦労様!感謝、感謝である!

旅行 | 18:40:39 | Comments(0)
細谷地蔵
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細谷地蔵
~細谷十太夫(1845~1907)と『烏組(からすぐみ)』~

諱(いみな)は直英、武一郎とも称し、鴉仙(あせん)と号した。
1868年の戊辰戦争の際、仙台藩の大番士であった十太夫は密偵として二本松にいたが、5月1日の白河城攻防戦の敗戦を聞くや官軍と戦うため須賀川で民兵を募集、博徒、侠客等57人が集まった。
『衝撃隊』と名付けたが、黒装束をまとっていたことから『烏組』と呼ばれるようになり、後には実際に烏を連れ歩いたといわれ、隊旗にも烏を描いた。
槍と刀を武器に夜襲を得意とし、30余戦ことごとく勝利を収めたといいその勇猛果敢な戦いぶりは、『細谷からすと十六ささげ なけりゃ官軍高枕』とまでうたわれ恐れられた。
戦争は、官軍の勝利に終わり、烏組も翌年には解隊となったが、十太夫はその後も陸軍少尉として西南戦争に従軍、また県吏員、牡鹿郡大衡道開拓場長として士族授産事業にかかわり、さらに日清戦争にも軍夫千人長として参加するなど多方面に活躍した。
晩年は、仏門に入りかねて敬慕していた林子平の墓所・ここ龍雲院の住職となった。
墓は、本堂西側にある、この座像はその十太夫の姿であり『細谷地蔵』という。

(説明板より)


より大きな地図で 細谷地蔵 を表示





史跡 | 17:02:03 | Comments(0)
林子平の墓
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国指定史跡
林子平の墓
昭和17年7月21日指定

林子平は江戸時代後半、「三国通覧図説」「海国兵談」などを著わして海防の必要を説いたわが国海防の先覚者であったが、人心をまどわすとして寛政4年幕府から罰せられ、幽閉された。
「親もなし妻なし子なし版木なし金もなければしにたくもなし」ととよんで自ら六無斎と号した。
寛政5年6月21日病没し、竜雲院に葬られたが、罪人のため墓碑を建てることはできなかった。
天保13年にようやくゆるされ、甥の珍平によって、この墓碑が建てられた。

仙台市教育委員会

(説明板より)


より大きな地図で 林子平の墓 を表示


史跡 | 16:00:44 | Comments(0)
仙台へドライブ(3)
ホテルをチェックアウトして、今日も史跡巡りに出発!
朝食は・・・昨日、立ち寄ったファミレスで食べることにした。(笑)
まぁ~芸がないといえば芸がないが・・・
一度入ったことがある店は、なんとなく気軽に入りやすい。
新たに店を探すのは面倒である。(笑)

モーニングセットを食べた後、向かったのは・・・・
近くにある「仙台文学館」・・・
昨日、この前を通過したときに、「北斎漫画展」というのをやっていることを知り、ちょっと見てみたいと思ったのである。
拙者の“気まぐれ”である。(大笑)

079_convert_20120724120930.jpg(仙台文学館)

拙者は葛飾北斎が好きなわけでもなく、“漫画”が好きなわけでもない。
以前、東京の元浅草のお寺で北斎の銅像の写真を撮り、住職の案内でお墓参りをさせていただいたことがある。
ただ、それだけのこと・・・(笑)
拙者は、どうも銅像に出会っていないと、その人物に興味や親近感が持てない性格らしい・・・(大笑)
ある意味・・・病気?(笑)

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『北斎漫画展』は、北斎生誕250周年を記念した特別展だった。
134点の再摺作品や51点の版木が展示・・・・
北斎の絵も素晴らしいと思うが・・・
拙者は、その絵を版木に彫った人が凄いと思う。(笑)
細い線、細かい線、文字・・・よく彫ったものだと感心する。
と、同時に摺った人も凄い・・・濃淡をうまく出さねばなるまい?
う~ん・・・北斎より、その“絵”を忠実に作品化する職人のほうが凄いんじゃあるまいか?(大笑)
“名も知れぬ”職人達の技・・・
そっちのほうに興味が行ってしまった。(大笑)

ついでに・・・(笑)・・・常設展も見学・・・
仙台にゆかりの作家たち・・・・
「井上ひさし」という人がメインのような気がしたが・・・
この人のことは、以前、テレビでチラリと見たことがあるが、どんな作品を書いた人なのか全然知らない。(笑)
「伊集院静」「俵万智」という名前だけは聞いたことがある作家などに関する展示があったが、その他の方々は申し訳ないが作品どころか名前すら知らない。
それにしても、“ゆかり”の作家って、こんなにいるんだぁ~
うらやましい限りである。

わが町の場合、どうなんだろう?
『ある町の高い煙突』を書いた新田次郎くらいしか思い浮かばない。
一人じゃダメか・・・・
我が町に「文学館」なんか造れないな・・・(大笑)
拙者は、どうしても“街づくり”を考えてしまうのである。
郷土博物館や科学館はあるが、美術館や文学館は・・・ない・・・
う~ん・・・文化レベルが低い・・・
こうなったら、“シミズくん”や拙者が作家になって、のちのち、わが町に「文学館」を造らねばなるまい!(大笑)
・・と・・・妄想を思い浮かべながら見学をする。(大笑)

時刻は11時半・・・・

次に向かったのは、“シミズくん”が希望する「龍雲院」・・・お寺である・・・(笑)
ここに「林子平」の墓があるという!
おお!林子平!知ってるよぉ~(笑)
銅像の写真・・・撮ったもんね~(大笑)

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林子平・・・・
「親なし、妻なし、子なし、版木なし、金もなければ、死に度もなし」と言い、“六無斎”と号したという。
う~ん・・・拙者の場合は・・・親父が生きてるから・・・
「妻なし、子なし、仕事なし、金もなければ、死にたくもなし」ということで、“五無斎”と号しようかな?(大笑)
林子平は「寛政の三奇人」の一人である。
“三奇人”とは、林子平、高山彦九郎、蒲生君平・・・の3人を指す。
3人とも銅像の写真・・・撮ったもんねぇ~(笑)
福岡県久留米市にある高山彦九郎のお墓にも行ったことあるもんねぇ~(笑)
これで三奇人のうち2人のお墓参りをしたことになる!
“シミズくん”に感謝!

ここには万城目先生の墓もある・・・・
「万城目って誰?」
「“りんごの歌”の作曲者・・・知らない?」と“シミズくん”
“りんごの歌”?
「リンゴの花がぁ~咲ぁいてぇ~いるぅ~」とは違うよな?
あっ・・あれは「みかんの花が咲いている~」か・・・・
頭の中がゴチャゴチャである。

“シミズくん”は「博学」だが、拙者は「薄学」である。(大笑)
同じ「はくがく」でも、ちょっと字が違う・・・(大笑)

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(作曲家 万城目 正の墓)

また、ここには細谷十太夫の墓もあるという。
益々わからねぇ~(笑)
“シミズくん”はご存知のご様子・・・・
この人・・・隠密だったそうで・・・明治時代に、このお寺の住職になったそうだ。
「細谷地蔵」という、この人の石像も建っていた。(銅像ゲット!)
これで、拙者の記憶に残るぞ・・・(笑)

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(細谷十太夫の墓)

旅行 | 11:58:46 | Comments(0)