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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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ルソン島の旅(13)
拙者が“入浴”中に、“ステラさん”たちが昼食を用意してくれていた。

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「サトウのごはん」は電子レンジで暖めるものだと思っていた・・・
電子レンジなんか、この村にあるのだろうか?(笑)
・・・と尋ねたら・・・蒸すのだそうである。
パックのまま蒸せば良いだけだという。
あ・・・確かに、暖めるだけだからねぇ~
どうして電子レンジがないと駄目・・・なんて思ってしまったのだろう。
蒸すとなると・・・ガス代がかなりかかるのでは?
・・・と、またバカなことが頭をよぎったが・・・
薪で湯を沸かして蒸すのだろうから・・・大したことではないか・・・
太い薪を3~4本くべてやればいいだけか?(笑)
恵まれた生活に毒されているな・・・こんなこともわからんようでは・・・

昨年の震災・・・
被災したときに、多くの人が大騒ぎしていたが・・・
この山村での生活を思うと、それほど騒ぐほどではないよなぁ~(笑)
やっぱり日本人は、こういうところで少し生活をして、“原点”を学び直したほうが良いのではあるまいか?

“オマリオ夫人”がデザートを作ってサービスしてくれた。
いやぁ~ありがたし!(喜)
イチゴは、目の前の“農場”で作ったものだという。
昔、子供の時に食べた、甘酸っぱい、ちょっと硬い、昔懐かしい味のするイチゴである。(笑)
この素朴な味が、またなんとも言えず美味しい・・・・
う~ん・・・幸せ!(大笑)

今日の予定は・・・
この後、皆さんに別れを告げて山を降り、「タルラック」に向かうのである。
食後、コーヒーをいただき、テラスで一服・・・・
さて、そろそろ出発しますか!
というわけで、“オマリオ夫人”の謝礼金を渡す。
カネのことしか頭にないドライバー君は興味津々・・・
“ステラさん”が、それに感付き、「別な場所へ行ってコッソリ渡したほうがいいですよ」と言う。
彼女からは「ミセス・オマリオが、さんざんご主人の病気のことを言っていたから、これはお見舞いをいくらか渡さないといけないかも知れませんねぇ」と昨日言われていた。
拙者は日本にいるときにオマリオさんが病気にかかっているという噂は聞いていたので、事前に準備済みである。
熨斗袋とポチ袋を用意しておいたのである。
「この袋・・・ジャパニーズ・スタイルだからね」と“オマリオ夫人”に渡す。
一つはオマリオ氏の病気見舞い。
もう一つは、今回の宿泊させてもらったお礼・・・
ポチ袋は、母親の脛を齧って生活しているジェイソン君への“義援金”(大笑)
「これ、子供の為に使うようにと言って渡してください」と“オマリオ夫人”に頼む。

と・・・“ステラさん”が・・・
「済みませんが、お手伝いさんにもチップをあげてもらえませんか?料理のとき、いろいろと手伝ってくれたんですよ。いいですか?申し訳ないんですけど・・・」と言う。
なんの、なんの・・・お安い御用である。(笑)
メイドさんはどこにいるのかと“オマリオ夫人”に尋ねたら、奥の台所にいるという。
と言うわけで・・・台所へ行き、洗い物をしていた彼女にチップを渡す。

さぁ・・・出発しますか!
車に乗り込もうとしたら、“オマリオ夫人”が「あなたは、まだ独身なんでしょ?」と突然尋ねてきた。
もちろん・・・イエ~ス!・・・である。(笑)
「うちのメイドさん・・・どう?子供が一人いるから日本に連れて行くのは駄目だけど、あなたがこっちに住むむということで・・・どうよ?」と笑う。
と・・・その時、メイドさんが見送りのため外に出てきた。
「この子・・・どう?」と指差す・・・
彼女は、何の話かわからずキョトン・・・
周りの人は大笑い・・・
拙者は、シドロモドロになって真っ青・・・である。(大汗)

毎度の事ながらオマリオ夫妻には、拙者の結婚話を持ち出されるのである。(笑)
40歳を過ぎたとき、「まだ結婚していないのか?」と言われ、村の働き者の“女の子”との見合いをセッティングすると“オマリオ氏”に言われたことがある。
「お前はラッキーな男だぞ」
「何がラッキーなんですか?」
「子供が4人もいるんだ。しかも男2人、女2人・・・ラッキーだろ?」
どこが・・・ラッキー?????
最初から4人の子供の父親になるのか?(汗)
それは・・・アン・ラッキーではなかろうか?(大笑)
そのときに「冗談だから気にしないで」と助け舟を出してくれたのが“オマリオ夫人”・・・・
しかし、今回は“オマリオ夫人”にからかわれてしまった。(大笑)
しかし・・・あれからもう10年以上経っちゃって、こっちはもう50歳を過ぎてるんですけど・・・
このメイドさんのほうが可哀想でしょ?(大笑)

とにかく・・・また来ます!ありがとう!じゃあね!バイバイ!・・・

皆さんに別れを告げて山を降りる・・・・
気になるのは、途中の道路工事をしていた場所・・・
昨日の雷雨でドロドロになっていたら、この“普通乗用車”では泥にはまって動かなくなるんじゃないか?
“ステラさん”と「ヤバイかも・・・この運転手じゃねぇ~」と日本語で陰口・・・(大笑)
運転手くんは、日本語がわからないから、あ~でもねぇ、こ~でもねぇと笑い話・・・

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工事現場は幸いにもぬかるんでいなかったので助かった・・・(大笑)
ここからは、とにかく走り続けるだけ・・・・
途中、道を間違えたようで行ったり来たり・・・
「このドライバー、道を知らないみたいです。信じられない。なにこの人・・・」と“ステラさん”が怒る。
拙者も不安になり、タブレットの地図で現在地を確認する。

まもなく・・・「タルラック」の近くまで来る。
このまま真っ直ぐ西に進むと「タルラック」である。
と・・・なぜか車は途中から左折して高速道路に乗ってしまった。
ん?なんで?
「これから、どこへ行くのですか?」と“ステラさん”に尋ねたら「食事に行く」と言う。
高速道路に乗って食事に行くとは不思議である。
先ほどの場所から西へ真っ直ぐ向かえば「タルラック」の町に着くのに・・・
なぜか車は南下し続ける。
一体どこで食事をしようというのか・・・

そのうち見慣れた山々が見えてきた・・・
「マバラカット」である!
「あれ?マバラカットで食事をするの?」と再び“ステラさん”に尋ねる。
「エッ!マバラカット?」
「向かっているのはマバラカットですよ」
慌ててドライバーと何かフィリピン語で言い争っている。
ドライバーが、途中で降りるところがあると思ったら無かったので走るしかない・・・と言っているそうである。
「道を間違えました」とは決して言わない。
大体ね・・・真っ直ぐ行けばいいものを左折して高速道路に乗ることが間違ってるでしょ?
完璧に間違っているでしょ!(怒)
結局、1時間以上もムダに走ってしまった・・・・
あ~腹がへったぁ~
“ステラさん”が「良く気がつきましたねぇ~私は全然気がつきませんでした」と言う。
そんな・・・バカな・・・である。(大笑)

高速道路を降りて、また高速道路に乗り引き返し、ようやく「タルラック」に到着・・・・
市内のレストランで3人で夕食・・・・

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“ステラさん”とは、拙者が泊まるホテルのチェックインの手続きを終えたらお別れである。
彼女は今晩中にマニラに帰らねばならない。
明日は日本から来るツアーの添乗をするのである。
いやぁ~ご苦労さんなことである。
食事代を払うついでに各種の清算も行なう。
「立て替えてもらったお金を差し引いて・・・」と彼女は言う。
こういうところは真面目である。
「立て替えたお金は返さなくて良いよ。チップに含めてくれていいから」
拙者が立て替えたお金は、いずれにせよ会社に請求するのだろうから、それをそのまま自分のものにしてもらっていい。
それプラス・・・少々のチップで、いつもの額に達するだろう。
“ステラさん”へのチップは毎回、ほぼ同じ額に決めているのだ。(笑)

ホテルにチェックインして“ステラさん”とお別れ・・・・
彼女はバスターミナルへ行き、バスでマニラに向かうという。
ドライバーは・・・・
「ステラが帰りましたから、今晩は我々二人きりですね」と意味深なことを言う。(大笑)
「だから、何だ?」
「飲みに行きましょう」
どうも拙者を飲みに連れて行くつもりらしいが、それだけではないだろう。
で・・・またもやそこでカネの話か?
あ~想像しただけでゲッソリする。
いい女を紹介するからチップを弾んでくれ・・・と言うに違いない。

とういうわけで・・・
「疲れているから寝る!明日の朝、迎えに来てくれ!じゃぁね~おやすみ!」(大笑)

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旅行 | 11:14:08 | Comments(0)
ルソン島の旅(12)
前回は、このタコツボのある場所で引き返したが・・・・
今回はそれより更に先へ進むことにする。

以前、戦車第2師団速射砲隊(対戦車部隊)の山下少尉から葉書をもらったことがある。
「あなたのおじいさんの陣地のすぐ後ろに陣地を造って戦ったんですよ」とのこと。
詳しいお話をうかがおうと思っていた矢先、訃報が届いた・・・お亡くなりになったという。
まさかの訃報・・・そんな・・・バカな・・・である。
これは本当にショックだった・・・・
平成19年没・・・・

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祖父の陣地の直ぐ後ろって・・・この山になるんだけど・・・・
わからん・・・
速射砲隊の本隊は「ナツ陣地」の北西にある「マツ陣地」に陣取って最後まで敵を寄せ付けない戦いをしていたらしい。
山下さんは速射砲の整備中隊所属・・・・
整備中隊だけが、本隊からこんなに離れた場所に陣地を造ったのか?
「直ぐ後ろに・・・」というのは、どういう意味だったのだろう・・・
あ~あ~永遠の謎である!

山頂から左は密林、写真の右側には樹木がない・・・
どのあたりまで米軍の砲爆撃を受けていたかが明確である。
と、同時に、日本兵がいた場所と、そうではない場所も明確ということになる。
この山の密林の手前まで尾根を登ることにする。
このあたりだったのかなぁ~
山下さんがいた場所は・・・・

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隣の山の斜面から見た「高田山」・・・・
写真の右端の斜面、くびれたところに戦車第10連隊本部の壕があった。
ということは・・・祖父の部隊の連隊本部壕もこの斜面のどこかにあったはずである。
が・・・痕跡は全く見えない。
この「高田山」では戦闘終了後、米軍が250名以上の日本兵の死体を確認したと記録に残している。
同時に、横穴陣地内に同数の日本兵を閉じ込め殺したと記録されているが、横穴陣地内に何人の日本兵がいたのかは、わかるわけがないので、同数、つまり250名の日本兵を生き埋めにしたりして殺したというのは、ちょっと信用できない。
が・・・この山の地表には250名以上の日本兵の遺体があったことは、ほぼ間違いないだろう。
で・・・その遺体・・・どこへ行ったのだろうか?
谷底に投げ込んだか?
米軍の言う、250名ほどを生き埋めにしたというのは大げさだろうが、いずれにせよ、何人か、何十人かは生き埋めにされたことは確かなようである。
この山の土の下に眠っているのである。
あ~・・・どんな思いで息を引き取ったんだろう・・・
米軍は横穴壕の入り口を爆破して入り口を塞ぎ日本兵を生き埋めにしたり、壕の入り口からガソリンを流し込み焼き殺したという。
祖父の指揮下で戦った方々・・・もう土になっちゃったんだろうなぁ~
指揮官の孫がお参りに来たという事で成仏してくれたらありがたいが・・・

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祖父の陣地跡「高田山」に立つ拙者・・・です!(笑)

これ以上、進むのは止めて、帰る事にする。
なにせ“ステラさん”から「お昼までには絶対戻って来て下さいよ!」という絶対命令を受けているのである。(笑)
多分、拙者の事だから、どこまでも行っちゃうんじゃないかと思ったのだろう。(大笑)

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「サラクサク第2峠」頂上から「天王山」を見る・・・・
この「天王山」には、祖父が撤退してきたときに、歩兵第39連隊の乾(いぬい)中尉の指揮する大隊が陣地を構築していた。
この大隊はフィリピンに上陸する前に輸送船が撃沈され、大隊長以下、多数が溺死したため、乾中尉が大隊長として選ばれ再編成したが、「大隊」とは名ばかりで、実際は1個中隊、100名程度だったようである。
この乾中尉は血気盛んなる青年将校で、人物的にもかなり高い評価を周囲から受けていた人らしい。
この「天王山」を自分の死に場所と決めて陣地を造っていたという。
当時の作戦命令は、まさしく朝令暮改・・・・
陣地が出来上がる頃になると、他の場所に移動しせよとの「陣地転換」の命令が来る。
これは、ここだけではなく、他の地域、他の部隊でも同様だった。
どうして“エリート”の参謀連中はコロコロと命令を変えたがるのか・・・
本当の意味での“エリート”なのかと拙者は疑いたくなるのである。
だから、拙者は“エリート”というのが嫌いなのである。(笑)
「乾が死ぬ気で陣地を構築しているので、絶対、陣地転換命令は出さないで欲しい」と、周囲から上層部へ異例の申し出があったというのだから、この乾中尉という人は凄い人だったのだろう。
祖父がボロボロになってこの山に辿り着いたのは、多分、昭和20年3月15日頃のことである。
一息ついて・・・乾大隊を指揮下に入れ、祖父は隣の「高田山」に陣取った。
まもなく米軍の攻撃を受けて乾中尉は戦死する。
部隊も全滅して占領され、それから取ったり取られたりの争奪戦が繰り広げられた。

戦後、祖父は、この乾中尉の遺族のところへ戦死状況を報告に行ったという。
確か、母一人子一人の母子家庭だったと思う。
なにせ、小学6年生の頃に聞いた話である。
乾中尉の母親は、自分の息子が死んだことより、なぜ戦死したのに2階級特進せず、階級が1階級しか上がらなかったのかと祖父を問い詰めたらしい。
祖父が何度説明しても、納得してくれなかったという。
しつこくなじられたらしい。
特攻隊ならいざ知らず、普通の戦闘で戦死して1階級特進する事自体、異例であり名誉なことなのだそうだが、2階級じゃないのが納得できないと責められたという。
「息子が死んだことより階級のことにこだわるんだから、参ったよ。ああいう母親もいるんだよなぁ~階級がそんなに大事なのかと言いたくなったが・・・・散々責められてなぁ。どうして階級をもっと上げてくれなかったんだって。あれには、本当に参った」と祖父が言ったのを覚えている。
へぇ~そんな母親が世の中にはいるのかと思ったが・・・
今になって思うと、階級が上がることで、息子は価値ある戦死をしたんだと、そういうことで、この母親は息子の死を受け止めようとしたかったのかもしれないと思うのである。

熱血漢の乾中尉が眠る「天王山」に別れを告げ・・・麓まで降りる。

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振り返ると・・・密林の向こうに「高田山」の頂上がチラリと見える・・・

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途中で見かけた花・・・・名前は知らない・・・・(笑)
もっと咲きほこってくれたら、英霊達は気が安らぐか?

“オマリオさん”の家に戻る途中、慰霊碑に立ち寄り、昨日修復した碑文の様子を確認する。
なにせ、雷雨でかなり濡れたから、マジックで染めた文字がどうなったか気になったのである。(笑)
碑文の文字は流れず、綺麗なままだったので安心した。

「ハイ、ちゃんとお昼までには戻って来たでしょ!(笑)」と“ステラさん”に挨拶・・・
彼女は庭に出て、我々が山を登っているのを見ていたと言う。
「途中で、スッと姿が消えたので驚きましたが、また山を登っていく姿が見えたので安心しましたよ」
「あ・・あれ・・あれは・・・座ってタバコを吸ってたんだよね~」
「やっぱり!タバコ・・・吸ってたんですか!そうかなとは思ってましたけど!(笑)」

我々が戻って、まずはコーヒーで一服しているところ、村に住む女性が遊びがてらやって来た。
昨日も子供を連れて遊びに来ていた女性である。
で・・・彼女が持参してきたのは日本軍の認識票・・・

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どこでこれを見つけたのかと尋ねたら「ダラワン」だという。
「ダラワン」とは、場所的には「天王山」あたりを指す現地の地名らしい。
問題は、この5枚の認識票を「天王山」のどのあたりで見つけたのか・・・
5枚一緒に見つけたのか、それとも別々の場所なのか・・・
細かいことを尋ねたかったが、英語が通じないし、“ステラさん”を通じて尋ねても、「ダラワン」としか言わない。
あ~あ~・・・出発前に持ってきてくれればねぇ~
見つけた場所を案内してくれって頼めたかもしれないのに・・・・
この認識票を見つけた場所が山の頂上なのか、谷間なのか、麓なのか・・・
見つけた場所にはご遺骨があるかもしれないではないか?

認識票の刻印は5枚のうち4枚は読み取れなかったが、1枚だけ鮮明に読み取れるものがあった。
が・・・誰のものかは名簿がないとわからない。
個人番号は名簿と突き合せなければ氏名はわからないのである。
その名簿は、戦地では当然残っているはずもないし、内地にあったとしてもどの部隊も終戦時に焼却処分をしてしまっているので現存していない。
認識票と一緒に遺骨が見つかっても個人を特定することは残念ながら不可能である。
なんで処分をしてしまったのやら・・・
日本人はパニックに弱い国民である。
先々のことも考えない・・・
敗戦となり、米軍の手に渡ることを恐れて書類は何でもかんでも焼き捨ててしまったのである。
バカである・・・隠せばいいものを・・・
どうせ“エリート”と言われる連中の命令だったのだろう・・・・

写真だけを撮らせてもらい、彼女に返し、大事に保管しておいてくれと頼む。
と・・・彼女はちょっと怪訝な顔をした。
彼女が去ってから“ステラさん”が「彼女は、あのドックタグ(認識票)を買ってもらいたかったんじゃないでしょうか?」と言う。
拙者も、一瞬、そうかなとも思ったが・・・
これは難しい問題である。
果たしてカネを出して買っていいものかどうか・・・
英霊に対して、どうのこうのというのもあるが・・・・
カネで買い取るという前例を作ることが果たして良い事かどうか・・・
悩むところである。
何でも売れると思われて、いろいろと持ち込まれても困るし・・・
逆に、カネがもらえるとなれば、色々な遺品を見つけ出してくるかもしれないし・・・
どっちがいいのか・・・
理想は「差し上げます」と言われて、「それじゃ悪いから、御礼を・・・」なんだけどなぁ~
カネで“買い上げる”という感じでは抵抗があるんだよなぁ~
(結局は同じことなんだろうけども・・・)

さて、食事の前に汗を流さねば・・・
“オマリオさん”宅にはシャワー室はあるが、蛇口をひねってもお湯は出ない。(大笑)
薪でお湯を沸かしてもらい、熱湯が入った小さなバケツをもらう。
これをシャワー室に置いてある大きなバケツに入れ・・・・
そこに水を入れて適温にぬるめて、それを柄杓ですくって浴びるのである!(大笑)
このぬるめるのが難しい・・・・
下手に水を入れ過ぎると、ぬるすぎて風邪を引きそうになる。
なにせ、ここは高所・・・結構、寒いのである。
特に夜は急激に冷え込むので、拙者はジャージ持参である。
慎重に水を加えながら適温にして・・・・
頭を洗い、体中に石鹸を塗りたくり、柄杓で湯をかけて流すのだが、これまた難しい・・・(笑)
背中なんぞ、うまく湯がかからないのである!
柄杓でバシャッとかけたつもりが・・・肩越しに壁にお湯をぶっかけているという具合で、背中の石鹸が流れない!(大笑)
なんと不器用なことか・・・・(涙)
お湯には限度がある・・・バケツ1杯分しかないのである!
無駄には出来ない・・・・
いかに普段、贅沢にお湯を使っているかを思い知るいい機会である。
こういう“不便さ”を体験することは大事なことだと拙者は思うのである。
だから、たまにはここへ来て不便さを楽しみたいのである。(大笑)
こういうことを体験すると、なんとなく自分が“正常”に戻ったような気になるのである。(大笑)
なんとか無事にバケツ1杯のお湯で“入浴”を完了する。
大成功!(大喜)
今回は、バケツ1杯のお湯で頭も体も洗えたのが何とも感無量・・・・
昨年の震災の時の不便さよりも、まだ幸せなんだから・・・なんというか、幸福感というか・・・
「いやぁ~ボクは~幸せだなぁ~」とつい言いたくなる。(大笑)

旅行 | 10:20:02 | Comments(0)
ルソン島の旅(11)
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まもなく「サラクサク第2峠」の頂上に到着。
すぐ脇の「アキ陣地・天王山」の側面を回りこみ、南西方向を見る。
多分・・・左端の奥に聳える尖がった山は“瀧上大隊”が戦った「ゲリ山」だと思う。
山口の“コンドウさん”が戦っていた山ではなかろうか・・・
あとで写真を送ってあげよう。(笑)
その向こうに「カバリシアン」という場所がある。
雲がたなびき、霞んでいて良く見えないが・・・
ここに祖父の部隊がいた・・・・兵力は約600名・・・
そこへ米第32師団が攻撃をかけてきた。
多分2万名近かったろう。
1個師団対600名では勝ち目はない。
が・・・写真の右方向の山伝いに、ジワジワと時間稼ぎをしながら、ここまで後退して来た。

この時の様子をここから見ていたのが独立歩兵第11連隊第2大隊長の“フジグロ”少佐・・・・
今でもお元気である。
猛烈な砲撃を受けているのをここから見ていたという。
「あなたのおじいさんの戦いぶりは凄まじかったんですよ。猛烈な砲撃を受けてね。あれでは全滅したなと思ったら、翌日には少し下がった場所が砲撃されている。ということは、まだそこで生きているということですよ。3日も持つまいと思っていたが、2週間も粘ったんですからね。あの様子は今でも目に焼きついてるんですよ」と、お会いするたびに話してくれるのである。
今では当時の山道は崩壊して痕跡も残っていないので、どこをどう後退して来たのは分からない。
できれば、一度、その道を辿ってみたいというのが拙者の夢である。
そこには政府の遺骨収集団も入っていないので、いまだに多くの祖父の部下達が眠っているのである。
お線香をあげてあげたいなぁ~

ここに到着したときには祖父の部隊は600名から80名に減っていた。
その間、多くの部隊がここに投入され防衛陣地を構築していた。
その主体は戦車第2師団であるが、その他、飛行機を失った航空部隊や鉄道部隊など、何でもかんでも手当たり次第に投入したのである。
なにせ、1個師団の進撃をたった600名の祖父の部隊だけで食い止めようというのには無理がある。
とにかく祖父達が時間稼ぎをしている間に防衛陣地を構築せねば・・・ということで続々と応援部隊が投入されたのである。

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「天王山」の南斜面・・・・
当時の山道がわずかに残っている。
この道を向こうからボロボロになった祖父たち80名が歩いてきたんだろうなぁ~
拙者が今、立っているところは、この「天王山」が戦場となった時に、米軍の遺体置き場だった場所である。
戦死した米兵の遺体を、米軍はここに一時的にここに集めていた。

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「天王山」から見る・・・・
左端の平坦な場所が「サラクサク第2峠」(南側)、その右の山が「フユ陣地」の「高田山」である。
ここに後退して来て一息ついた後、祖父達はここの配置に着いた。
「高田山」は戦車第10連隊第4中隊の高田中隊長がいたので「高田山」と名付けられた。
高田中隊長は戦後、佐藤と姓を変えている。
この地域は戦車第10連隊(原田連隊)の守備範囲・・・・
祖父は原田連隊長の指揮下に入る。
平地戦で戦車と兵員を失った高田中隊は「中隊」と言っても51名しかいない。
ここへ祖父達が合流し、高田中隊を指揮下に置く。
佐藤(旧姓高田)中隊長が負傷して後方へ下がったときの中隊の生存者は6名ほどいたらしいが、その後まもなく全員が戦死・・・・
第4中隊で戦後生還したのは中隊長の佐藤さん(旧姓高田)一人だけである。
その佐藤さんも平成18年に他界された・・・・

当時は「昼なお暗い」と表現されるくらいの密林だったが、米軍の砲爆撃のおかげで密林は消滅・・・
山の形もかなり変わってしまったという。
当時はどんな感じだったのだろうと、またまた頭の中は昭和20年に・・・・(笑)
米軍は、この攻撃の時にガソリンを撒き火をつけたらしいので、そのせいなのか、“密林”は今もって再生されていない。

写真の右側のほうは、山の斜面が崩れているのが何箇所も見られる。
以前見たときは、こんなに崩れてはいなかった場所である。
ここ最近の長雨のためなのだろう。

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「案内人」の2人・・・・
赤い帽子の“彼”が、英語のわかる村人・・・(笑)
で・・・拙者がこの戦場の話を英語で教えるのだが・・・
彼は、一緒にいる“おじいちゃん”には伝えない。
おい、おい、それじゃ通訳にならねぇじゃねぇか!(大笑)
青い帽子を被っているのが自称、山に詳しい“おじいちゃん”・・・・
人のいい“おじいちゃん”で、何を言ってもニコニコしながら「ハイ!」と答える。
「ハイ」は万国共通の言葉なのか?(笑)
日本語だと思うんだけど・・・
拙者が話していても「ハイ!」と返事をする。
あれ?英語がわからないはずだが・・・???
「俺が言っていることわかってないでしょ?」と言ったら・・・・
ニコニコしながら「ハイ!」
あ・・・やっぱりね・・・(大笑)

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「高田山」北側斜面・・・・
左端が「フユ陣地」の「高田山」
真ん中が「サラクサク第2峠」の頂上・・・・
「高田山」の脇を回り込む当時の山道の一部が残っている。
一番右端の山が「アキ陣地」の「天王山」である。

崩落している場所は、当時、機関銃陣地があった場所である。
横穴が掘られていたはずで・・・・
多分、入り口は埋まっていたが、中は空洞だったのではないだろうか。
地震や風雨で、空洞が崩落し、それが起点となって表面が一気に崩れ落ちたのではないかと思う。
この地域は時々地震が起こるのである。
以前、地震のせいで丘の表面の土が崩れ、ポッカリと日本軍の横穴陣地が顔を見せたということがあった。
ちょうどその頃、“遺骨収集”を目的とする数名の日本人青年がやってきて、その穴を滅茶苦茶に掘ったが日本兵のご遺骨は見つからなかった。
見つかる可能性は低いのである。
場所的に、そこは「棲息壕」で、「戦闘壕」ではない。
知識のないド素人たちに滅茶苦茶に掘られた跡へ地元の人に案内されて愕然とした・・・
これじゃ“破壊”である。
こんな掘り方じゃ、見つかるものも見つからない・・・
そのままにしておいてくれていたら良かったのに・・・・

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その直ぐ左側の斜面・・・・
ここにも当時は、いくつもの横穴陣地が掘られていた。
が・・・ここの土質は軟らかい・・・
掘るのも簡単だが、崩れるのも簡単である。
今では、横穴の入り口は塞がれ、どこにあったのかはわからない。
何人もの日本兵が生き埋めになっている可能性はある。

入り口だけ崩れて内部が空洞になっているとしたら・・・
その空洞を探せるような機械があったらなぁ~と思う。
まぁ、掘るのは人力では難しいと思うけど・・・

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「高田山」の北側斜面から慰霊碑のある方向を見た景色・・・・
向こうの山裾の近くに見える建物が“オマリオさん”の家・・・
中央に見える丘が慰霊碑のある「サル陣地」である。
が・・・こうして山のほうから見てみるとかなり大きな丘である。
これが配置図にも記載されていない「サル陣地」とは考えにくい。
祖父の指揮下にあった山下大隊のいた「スズメ陣地」の可能性が高い気がするんだけどなぁ~
この丘は、米軍のB25爆撃機などの攻撃に曝された。
今でも爆弾の落ちた跡が残っている。
1トン爆弾だという話だが、果たして本当に1トンだったかどうかはわからない。
かなり砲爆撃の集中攻撃を受けていたようで、ボコボコに削られている。
本当は土饅頭みたいな形、御椀を逆さに伏せたような形だったのではなかろうか?

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左のほうを見る・・・
中央のわずか左よりのところに形の悪い丘が見える。
これが「ナツ陣地」のはずである。
米軍の砲爆撃の跡が見える。
こちらの丘は、本当は三角形の山だったのではないかという気がするが・・・
向こうの奥に見えるのが「イムガン山」・・・・ちょうど、霧が山頂にかかっているあたりである。
その裾野に「ハル陣地」があった。

向こうの山のほうから、こっちに向かって「ハル」「ナツ」・・・と続く。
手前の丘が蒲田中隊長がいた「蒲田山」だが、ここから見ると、山には見えない。(笑)
2つほど瘤のような丘があるので、それを「山」と称したのだろう。
我々はあそこの尾根沿いを歩いてきたわけである。

ふもとの村から見たのでは、こういう配置状況がよくわからない。
米軍は写真の左方向から右へ向けて進撃してきた。
陣地の構築の指揮を取り、それぞれに陣地名を付けたのは固武(こたけ)工兵隊長である。
固武さんが、どこからこの一帯を眺めて陣地の配置を決めたのか・・・
自分が工兵隊長になったつもりで考えねば・・・・・

あ~でもねぇ、こ~でもねぇと説明しているうち・・・・落ちた!(ギャッ!)

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「タコツボ」である・・・
説明に熱が入りすぎ・・・思わず、「タコツボ」に落ちてしまったのである!(大笑)
「案内人」たちは大笑い・・・・チクショウ・・・笑われてしまったぁ~
真面目な話をしていたのに・・・(笑)
この「タコツボ」・・・何度もここに入ったことがある「タコツボ」である。
ここに登ったのは今回で3回目・・・
最初は何が何だかわからず登り、この「タコツボ」を見つけた。
2回目には、ここが「高田山」だとわかり、この「タコツボ」に入ってみて、当時の兵隊の気分に浸った。
ひと一人がようやく身を隠せる大きさの竪穴である。
ここから、向こうの「天王山」の頂上を占領した米軍を狙い撃ちしたわけである。
この「タコツボ」から頭を出して・・・パン!・・・と三八歩兵銃を撃つ。
すると、向こうの山頂から、ダダダダダ・・・と撃ち返される。
その間、ジッとこの穴に身を潜める・・・
多分そういう状況だったのだろうなぁ~と思いながら、この穴にもぐりこんだものである。
この周辺にはいくつもの、このような「タコツボ」が残っているのだが・・・
なぜか、毎回、この「タコツボ」に引き寄せられるのである。
探さなくても、なぜかここに辿り着くのである。
不思議なのだ・・・
今回は、遂に・・・落ちた!(大笑)
ここに穴が開いてることを何で忘れてしまっていたんだろう?
マイッタァ~

旅行 | 09:41:28 | Comments(0)
ルソン島の旅(10)
昨日は雷雨で、果たして今日、山を登れるか心配したが・・・
朝起きてみたら何とかなりそうな天気のようである。
「ようである」という意味は・・・
この「マリコ村」の早朝は、霧に包まれて真っ白なのである。(笑)
朝5時、薄暗い中、1m先も見えないのである。
そこから段々霧が晴れてくる・・・
6時ごろになって、ようやく周囲がわかるようになるが、遠くの山々は真っ白で何も見えない。
毎度のことである。
午前7時過ぎ頃から風が吹き出し、サァ~ッと霧が流れていく。
拙者はこの時の景色が一番好きである。(喜)

さて、朝食を済ませ・・・午前7時に“オマリオさん”の家を出発、「案内人」2人を“連れて”山に向かう。(笑)

日本軍は「イムガン山」の裾野から南に向かって「ハル陣地」「ナツ陣地」「アキ陣地」「フユ陣地」と、四季の名を付けた陣地を、ほぼ一列に並べた。

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向こうに見える丘は「ナツ陣地」だと思うが、まだ行ったことはない。
それにしても、丘の形が少し変わってしまっている気がする。
以前は、もっと丘(山?)の頂上が尖がっていたと思うのだが・・・
拙者が“ご無沙汰”している間に先端部分が崩れてしまったのだろうか?
戦時中は、もっと形のいい山だったに違いない・・・・
米軍の砲爆撃で、あっちこっちがザックリと削られてしまっている感じである。

拙者が向かうのは・・・「フユ陣地」・・・・
拙者の祖父のいた陣地である。

途中、「ナツ陣地」と「アキ陣地」の間にある「蒲田山」に登る。
小高い丘である。

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ここには戦車第10連隊第2中隊(蒲田中隊)がいた。
中隊長の蒲田さんは生還されているが、平成21年に他界されている。
お亡くなりになる直前まで、戦車第2師団司令部を恨んでいた・・・・
ある日のことである・・・
師団司令部から「サル陣地」へ応援の兵を出すように命令された。
部下達を「サル陣地」へ向かわせたところ、そこには米軍がいて、「応援に来たぞ!」と声をかけた途端、撃たれて何人もの戦死者を出したという。
命からがら生還した部下の報告を受けて、師団司令部へ連絡したところ、「何を言っておるのか!今、サル陣地から伝令が来ている。米軍に占領されているわけがない!ただちにもう一度、兵を出せ!」と命じられたそうである。
で・・・もう一度、応援の兵を出したら、今度もやっぱり陣地にいたのは米兵達・・・
待ち伏せに遭い、またまた部下達を何人も失ったという。
結局・・・・
師団司令部の言う「サル陣地」と、第一線で戦っている部隊の認識している「サル陣地」の場所が違うのである。
「弾の飛んでこない後ろのほうで地図だけを見て指示を出すからこんなことになるんだ!こっちに来て自分の眼で確認しないからな、あいつらは・・あいつらのせいでムダに部下達を死なせしまったんだ。死ななくていい部下を死なせちまったんだ。だから俺は絶対あいつらを許せないんだ」と憤慨していた・・・
戦後60年以上も、恨みが消えないのには、正直言って驚いた。
中隊長としては、部下を無駄死にさせてしまったことが、どうしても許せないのだろう。
心の傷は深い・・・・
蒲田中隊で、戦後生還したのは8名だと言っていたと思う。
その蒲田さんが陣取っていたのが、この丘(山?)だったと思う。
このあたりの判断がチョット難しい。
なにせ、戦線が移動するに従って、配置される部隊も移動したりして変わることがある。
略図によって「蒲田山」と記されていたり「井上山」と記されていたりする。
これは同一の山を指しているのか、それとも「蒲田山」の尾根続きの隣のコブのような丘を「井上山」としたのかが、良くわからないのである。
略図には等高線も描いてないし・・・
生還者も、もう他界しているし・・・確認のしようがない・・・

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「蒲田山」の頂上から見た「アキ陣地」方向。
右端が「アキ陣地」の「天王山」、中央のくぼんでいるところが「サラクサク峠」の頂上、左端の霧に少し隠れているのが「フユ陣地」の「高田山」である。

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「蒲田山」の尾根伝いに「サラクサク第2峠頂上」に向かう・・・・
写真では、良くわからないが、左側は崖、深い谷なのである。
足元が悪く、足を踏み外したら・・・と思うとゾッとする場所・・・・
高所恐怖症の拙者にとっては“難所”の一つである。(涙)

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「蒲田山」から「天王山」へ向かう道を、後ろを振り返って撮影・・・・
向こうに見える「蒲田山」から蒲田中隊長率いる戦車第10連隊第2中隊が斬り込みの時に歩いたルートである。
途中、米軍の待ち伏せに遭い、斬り込みを断念して引き返した。
多分、案内人が写っているあたりだと思う。
初めてここを歩いた時に、拙者はビデオカメラを回したまま歩いたのである。
録画状態にしたまま、右を向き、左を向き・・・そしてまた真っ直ぐ歩く・・・
そのビデオを蒲田さんにお送りしたところ・・・
「いやぁ~!あなたが歩いていた場所は、私が斬り込みの時に歩いた道でねぇ~。いやぁ~懐かしかったぁ~!まるで、自分が歩いているみたいで・・・あそこはね、25歳の時の私の青春時代の場所なんですよ。まさかまた見られるとは思わなかったぁ!」と大喜びしてくれた。
「2回も見ちゃいましたよ!」とおっしゃる。
蒲田さんは、この時には既に寝たきり状態だったようで、お会いしたいが、無理だと断られた。
お電話だけでしか“お会い”したことがないが・・・・
あ~・・・蒲田さん!久しぶりに歩いたよぉ!・・・どこかで見ているかな?(笑)
あの時の蒲田さんとの電話でのやり取りを思い出しながら・・・歩く・・・・
ちょっと・・・寂しい・・・(涙)

いつの攻撃の時だったか・・・公式記録では、「天王山」への攻撃は、第1中隊(魚形中隊)と第2中隊(蒲田中隊)の2個中隊で行われたことになっている。
が・・・蒲田さんたちは途中で待ち伏せに遭い、「天王山」の手前で引き返している。
突撃をしたのは、第1中隊のみで、この時に、魚形中隊長は戦死している。

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魚形中隊が突撃したのは、この北側の斜面である。
ここをよじ登って攻撃をかけ、全滅した・・・・
たぶん、この密林の中に、魚形中隊長以下多くの将兵が眠っていると思う。
ご冥福をお祈りする・・・・

公式記録は、生還した参謀などの“偉い人”の証言が基本となっているのだろう。
2個中隊で攻撃することになっていたので、命令どおりにやったに“違いない”・・・
だから『2個中隊で攻撃した』と記録に残す。
実際は、蒲田中隊は引き返しているので1個中隊だけの攻撃である。
実際にはどうなったのかの検証はされていない。
命令に逆らう“はずがない”・・・・
命令を遂行したに“違いない”・・・である。
こんな調子だから、間違ったことが「公式記録」として残ってしまう。
この手の話はいくらでもある。
証言できる人達は年々いなくなり・・・間違った「公式記録」だけが後世に残る。

第4中隊長の佐藤さんから「公式記録など信用するなよ」と言われたことが今も忘れられない。

旅行 | 08:16:25 | Comments(2)