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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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ルソン島の旅(9)
車も無事に戻ってきた。
6人がかりで側溝から引き上げたそうである。(笑)
ドライバーが「ジャッキを使って持ち上げた」と言う。
当たり前だ・・・ジャッキを使わなければ側溝から出すことは出来まい。(笑)
で・・・
石を運んで側溝に入れるのが大変だった、クタクタに疲れたと、やたらと言う。
更には、日本では運転手というのは給料はいくらくらいもらえるのか・・・
自分の会社は給料が少ないので生活するのが大変だ・・・
と、カネの話ばかりをする。
で・・・話は最初に戻って、石運びが大変だった・・・と、話がクドイ・・・
これだけ苦労したんだからそれなりのチップを弾んでもらいたいということらしい。
さすがに頭にきた!
「あんたは、プロのドライバーだよね?側溝に車を落としたのは、あんたの責任だよね?俺の責任じゃないよね?」
ドライバーは渋々頷いた。
「あんたはドライバーなんだから、責任を取るのは当然でしょ!」(怒)
あの車は4WDではないのかと尋ねたら、ただの乗用車だと言う。(笑)
山に入るっていうのに4WDじゃないとはどういうことだと呆れたら、会社がケチでオンボロ車を押し付けて来たという。
いつもは4WDのワンボックスカーを用意してくれたのに、今回はどうして小さな乗用車なのか・・・空港に迎えに来た車を見たときから不安だったのだが・・・・
少なくとも4WDなのかなと思っていたのだが・・・
車の手配は、現地旅行社から下請けの配車会社に丸投げされる。
この不況で経営が苦しいのか、かなりケチってくれたようである。
しかし、側溝に脱輪したのはドライバーの腕が悪いからである!(笑)
車がオンボロ・・・は、言い訳に過ぎない。

車の救出をしてくれた村の青年達に謝礼金を渡す。
余計な出費である・・・・
が、彼らも現金収入が得られて嬉しかろう。
法外な謝礼金を要求してこなかったから良かったが、もしかしたらかなり遠慮した金額を提示したのかもしれないと後で思った。(大笑)
悪いことをしたかな?
あれほど迅速に対応して重労働をしてくれたのだから、少し奮発してあげるべきだったか?(笑)

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夕食は、持参した野菜等を使って、“ステラさん”と“オマリオさん”のところのメイドさんが作ってくれた。
“ステラさん”に同行してもらい大助かりである。(喜)
ご飯は、日本のご飯・・・・
これは日本の慰霊団か何かのツアーが持ってきて余ったものを“ステラさん”が頂いたらしい。(笑)
それを“ステラさん”が持って来てくれたので・・・この日本のご飯を頂く。
ドライバーは拙者が何でも食べるので驚いたようで、“ステラさん”に何か尋ねたらしい・・・
この人は、フィリピンの食べ物は何でも食べられるから大丈夫だと言っておきましたと言う。(大笑)
普通の(?)日本人は、なかなかフィリピンの食べ物は食べられないそうで、食事には気を遣うというが・・・
拙者は“雑食”なのだろうか?(笑)
食事に注文をつけないから拙者と一緒に行動するのが楽だと“ステラさん”は言う。
ご飯も、フィリピンの少しパサパサして、少し黄ばんだような“蒸した”ご飯でも平気で食べられるのだが・・・普通の(?)日本人は駄目だそうである。
というわけで・・・こういう日本のご飯を持参してくるのだそうだ。
へぇ~である。
拙者は腹が満たされればなんでもいいんですけど・・・・(大笑)
餓死した兵隊さんのことを思えば、多少のものは食べられるんですけど・・・

食後、テラスでコーヒーを飲みながら雑談・・・・
と・・・見知らぬ現地人が・・・(笑)
“オマリオさん”の家は、以前からそうなのだが、一体誰なのかわからない人が住み着いて(?)いたり、出入りしたりするのである。(笑)
こちらのほうでは、それが普通なのだろう。
特別、自己紹介も何もない・・・
家族ではない人だというのは間違いないが・・・この人・・・誰?(笑)
コーヒーカップを持って、”ステラさん”と拙者のところにやってきて、ス~ッと話に加わるのである。(大笑)
この人・・・顔かたち、肌の色からして山岳民族出身である。
が・・・不思議な人なのだ・・・昔からの知り合いのような態度で接してくるのである。(笑)
で・・・結構、“学”がある。
知識をひけらかすというより、知識に裏付けられた的確な質問をしてくる。
この人・・・身なりは“ホームレス”のような格好をしているが、英語もキチンとした英語を話すし、知識もある。
一体何者なのだろうと、ついつい彼の顔をマジマジと見てしまった。(大笑)
太平洋戦争、特にフィリピン戦についての質問は的確である。
日本人でも、これほど的確な質問をしてくる人は滅多にないだろう。
簡単な会話は英語で受け答えして、難しい話はフィリピン語でやってもらい、“ステラさん”を通訳にして会話をする。
いやぁ~“ステラさん”に同行してもらい大助かりである。
以前は、日本語の話せないガイドと一緒だったので、毎回、会話には苦労をしたが、今回は楽チンである。(笑)
笑ってしまったのは・・・ゲリラの話・・・
彼の質問・・・「日本の共産党にはフィリピンの共産党のように軍事組織はないのか?」
「日本の共産党はフィリピンのように政府に対して武力闘争をしないのか?」
彼らからすれば、共産党には軍事組織があるのは当然で、共産ゲリラが政府軍と戦うのは当然だという認識らしい。
「日本の共産党には軍事組織はないよ」
「何で無いんだ?」
「え~と・・・根性が無いから・・・」(大笑)
お~そうなのかぁ~と爆笑!

そんなこんなの話をしているうち夜が深ける・・・
山村の人は寝るのが早い・・・(大笑)
じゃぁ・・・ということで、拙者もゲストルームに戻り寝る。

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旅行 | 17:10:18 | Comments(0)
ルソン島の旅(8)
我が乗用車が脱輪した場所から歩いて約10分程度で「マリコ村」の入口に辿り着いた。
時刻は午後4時過ぎである。
村の入口に豚が繋がれていた・・・
あらら・・(笑)
以前来たときには豚なんか見かけなかったのだが・・・
以前より少しは裕福になったのだろうか?

133_convert_20120606182517.jpg

以前来たときは、何もない、ただの荒地が大農場に生まれ変わっていた!
これには驚いたが・・・・
そこ・・・日本軍の陣地があったかもしれない場所ではなかろうか?
あらら・・・平らになっちゃっている。
もっと早い時期に戦跡調査をしておくべきだった・・・

134_convert_20120606183032.jpg

暫く歩くと、今晩泊めてもらう“オマリオさん”の家に辿り着く。
多分、我々の車が脱輪したという話が届いていたのだろう、奥さんが家の外に立って我々を待っていた。
いやぁ~7年ぶりの再開である!(大喜)

135_convert_20120606195001.jpg(オマリオさんの家)

コーヒーをいただきながら、近況の「報告会」・・・・
オマリオさんのご主人は病気治療のため別のところにいるらしい。
話によると、1週間に3回、血を綺麗にするというのだから、どうも人工透析をしているらしい。
そうなると、この山奥にいては無理なので、治療のため家を離れているのだそうだ。
息子の“ジェイソン君”は、大学を中退して結婚をし、子供が2人もいるという!
うそぉ~!(大笑)
7年前は・・・彼は21歳で、まだ大学生・・・・
彼が17才の時、初めて会ったのだが、それからずっと山を登る拙者の先導役を務めてくれていた。
その彼がねぇ~結婚して子供までいるのぉ~(驚)
こっちは当時と全く変わらず・・・独身のままだっていうのに・・・
無理もないかぁ~7年も経っちゃっているから・・・・
ここで“オマリオ夫人”から「陳情」・・・・(笑)
この息子が無職なので、拙者の会社で雇ってくれないかというのである。
あらら・・・
拙者は、すでに会社を廃業していることを伝えたら、何とか日本で働けるよう協力してはくれまいかという。
日本でも就職難だからなぁ~
フィリピン人を雇う会社があるだろうか?
“ステラさん”が無下に断るわけにもいかないでしょうから、検討するということにしてはどうかと助け舟を出してくれた。
まぁ~そのように言うほかはないよなぁ~
“ジェイソン君”は、家を出て、ここから遠く離れた「バギオ」に妻と子供2人と住んでいるという。
「え?無職で?・・・どうやって生活してるの?」と尋ねたら・・・
お母さんである“オマリオ夫人”が仕送りをしているという。
うそぉ~!(大笑)
拙者も親の脛を齧って生きてきた男ですから(大笑)、あまり他人のことをとやかくは言えないが・・・(大笑)
結婚して、子供を2人ももうけて・・・それで親の脛を齧っているの?
“オマリオ夫人”が呆れ顔で、困っちゃうのよねぇ~のジェスチャー・・・
どこの国でも親は大変である。
息子の就職の陳情を拙者にしたくなる気持ちもわからないでもないなぁ~

“オマリオ夫人”は、この村の小学校の先生である。
もう一人、同じ学校の同僚の女性教師が同席していたのだが・・・
この女性教師から恐るべき話を聞かされた・・・
「サンタフェ」の町に日本人が一人住みついているそうなのだが、その日本人の男が、この周辺に住んでいる20代から30代の女性を日本へ連れて行くために募集しているというのである。
この男・・・日本で木を植える仕事があるので、それで女性達を集めていると言っているらしい。
で・・・この先生・・・
そういう仕事が本当に日本にはあるのかと言うのである。
唖然・・・である。
そんなバカな話を聞いたことはない。
だいたい、日本で木を植えるのに、わざわざフィリピンから人を雇うわけがない。
しかも、20代から30代の女性だけに限るって、どういうこと?
男を雇うって言うならわかるけど・・・女性だけっていうのは怪しいでしょ。
日本で木を植えるために外国人を雇うという話は拙者は聞いたことはない・・・
若い女性だけに限っているのは、女性を売り飛ばすためかもしれないから、特に学校の先生から勧められたなどということになったら、とんでもないことになる・・・と説明し・・・
この話は絶対怪しいから、この話に乗ってはいけないと忠告する。
それにしても、とんでもねぇことをやろうとしている日本人が住みついているとは驚きである。
いつか、どんな奴か見てやろう・・・
場合によっては、締め上げねばなるまい!(怒)

“オマリオ夫人”から、もう一つの驚くべき話が・・・
(よく驚かせてくれるもんだ~笑)
昨日、ここから北のほうの山の中で政府軍と共産ゲリラの戦闘があったという。
で・・・政府軍兵士が11名戦死し、民間人1名が巻き添えをくって死亡したという。
ゲゲッ!(大笑)
一応、政府軍には日本人が一人、明日、山の中へ入ることを伝えてあるとの事。
まぁ~ゲリラと間違われて撃たれては堪りませんから・・・(大笑)
で・・・山に入る案内人は一人でいいかと言う。
山のことをよく知っている老人だそうである。
拙者も、祖父の陣地跡には何度も行っているので、一人でも行けないことはないのだが、いつも念のため「案内人」を同行させることにしている。
万が一怪我をした場合や、山の中でバッタリ村人に会った時の対応のためである。
トラブルは出来るだけ避けねばならない。
いいですよ~と返事をしたのだが・・・・
「その人、英語が話せないんだけどいいですか?」と言う。
あ・の・ね・・・・(大笑)
英語が通じないのでは、どうやって意志の疎通を図るの?
驚かせてくれたついでに笑わせてもくれる。(大笑)
ということで、英語の話せる人を付けてもらい、3人で山に入ることにした。
「2人になるけど、いいですか?」と“オマリオ夫人”・・・
案内人への謝礼金は拙者が払うので、2人では高くなると気にしてのことだろう。
全然問題はない・・・拙者は経済観念がないのである!(大笑)
一応、明日一緒に山に入る村人に来てもらい挨拶をする。

今回の訪問には、祖父の陣地跡に行くことと、もう一つ、慰霊碑の碑文の修復を目的としている。
1時間ほどおしゃべりをして、「案内人」2人を連れて慰霊碑に行く事にする。

151_convert_20120606214803.jpg

この慰霊碑は「サル陣地」という日本軍の陣地跡に建てられている・・・と言われている。
が・・・どうしても、それがわからない。
ここが「サル陣地」とは拙者には思えないのである。
どこかの誰かが「ここはサル陣地である!」と言ったので、そういうことになったのだろうが・・・
“声のデカイ奴が勝つ”というのは世の常である。
が・・・反面、そういう“声のデカイ奴”の言うことが間違っているというのも、よくある話である。(笑)
当時、陣地構築を担当した工兵隊長が陣地名を付けていたようなのだが・・・
その陣地配置の略図には「サル陣地」というのは載っていない。
これほど大きな丘に陣地名を付けないわけがない。
陣地配置図は、おおまかな地図なので、なんともわかりづらい・・・
強いて言えば、祖父が戦闘末期に陣を張った「スズメ陣地」か、その北にあった「シシ陣地」ではないかという気がするのだが・・・
何度来ても、わからない。
どうも確信がもてない・・・・
生還者に尋ねても、ハッキリしないのである。
「サル陣地ではないことだけは確かだが、何と言う名前かは知らない」と言う人もいるし、「あれはスズメ陣地だと思うんだけどなぁ~」と言う人もいる。
“声のデカイ奴”に遠慮してなのか、どうもハッキリとは答えてはくれないのである。
正直言って、戦後、遺骨収集団や巡拝慰霊団の一員として現地に来ても、自分の陣地を探すのにも一苦労するくらい、記憶があいまいになっているのだそうである。
だから、自信をもって答えられないと言う。
“声のデカイ奴”とも喧嘩したくないから・・・ということもあるのだろう。
が・・・そういう“証言者”が次々と他界してしまい・・・今では尋ねる相手がいない状態・・・
間違った話が後世まで伝えられたのでは、英霊は浮かばれまいと思うが・・・仕方がないことなのか・・・

154_convert_20120606220545.jpg(補修前)

156_convert_20120606220709.jpg(補修後)

この慰霊碑の建立に関わった人達は既に他界してしまっていて、建立した団体は消滅してしまっている。
当時の団体の長は、我が戦車第2師団の戦友会の初代会長なので、戦車第2師団戦友会の事務局長である拙者が無断で(笑)、修復作業をしても構わないだろうと・・・勝手に碑文の修復をすることにした。
7年前に来た時にかなり文字が消えかかっていたので気になって仕方がなかったのである。
修復と言っても、これといった正しい方法は知らないので・・・
ある意味、無責任かもしれないが・・・油性マジックで彫られた文字に“墨を入れる”方法とした。
碑文は、日本語、英語、フィリピン語の三ヶ国語で刻まれている。
特に文字が消えかかっていたのが、日本語とフィリピン語・・・
というわけで、日本語と、フィリピン語の碑文の修復を行う。
同行してきた「案内人」は、拙者が何をし始めたのかと唖然としていたが・・・(笑)
フィリピン語は、彼らに碑文を読み上げさせながら拙者が“墨を入れる”・・・
白い石版を彫った碑文なので、“墨が入って”いないと、一見、真っ白なだけで、指でなぞらなければわからない。
LなのかIなのか、TなのかIなのか・・・拙者には良くわからないのである。
修復中・・・
「どうだ!これなら読み易いだろう?」と言ったら、彼らも笑いながら頷く。
「こうしないと、良く見えないから、君達はこの文章を読まないだろう?」と言うとウンウンと頷く。(笑)
持参したマジック6本は、あっというまに芯の部分が磨り減ってしまい使い物にならなくなった。
我・・・無事、全ての文字の修復が完了し・・・よし!
「これをよく読んで、勉強しなさい!」と拙者は偉そうなことを言い・・・(大笑)
今回の目的の一つは完了した。
あ~気持ちがいい!

時刻はもう午後6時・・・・
そのうち・・・・ドド~ン、ドド~ンと遠くで砲撃のような音がする。
ん?まさか砲撃があるわけでもあるまいし・・・
いくら拙者の頭の中が昭和20年だとしても・・・そんなことはあるまい?
“空耳”?・・・幻聴か?
それとも、どこかで爆破工事でもしているのか?
と・・・どんよりと黒い雲が空を覆い出した・・・
ありゃ、もしかしたら、あれは雷鳴か?

急いで丘を降り、オマリオさんの家に戻る。
と・・・まもなく・・・・雷雨!
遠くの山に稲妻が光るのが見える。
いやぁ~危機一髪だったぁ~(大笑)

この時期にこういう雷雨というのも珍しいような気がする。
過去に何度もこの時期にここに来ているが、雷雨に遭ったのは初めてである。
今は乾季なのに今年は何故か雨の日が多いと言う。
異常気象なのだろうか?

旅行 | 16:18:40 | Comments(0)
ルソン島の旅(7)
「イムガン」から先の山道は、昔とさほど変わっていなかった。(笑)
それでも、初めてここを通った13年ほど前から比べたら、かなり良くはなっている。
あの当時は、ジプニーというジープを改造した乗り合い自動車でなければ通れなかったのである。
しかも、車幅ギリギリの道幅の部分があって、下を見下ろすと崖・・・
奈落の底に落ちそうで肝を冷やしながら向かったものである。

今回は乗用車・・・・
道が以前よりは良くなったとは聞いていたが、乗用車で大丈夫なのだろうか?
一抹の不安がよぎる・・・(汗)

途中、小さな小川が横切っている場所がある。
毎回、ここを通るたびに見ている景色・・・
山肌から水が流れ出して道を横切るので川のようになっているのである。
で・・・ドライバーが車を止めて「ここから先には行けない」と言う。
「行けない」では困るんだよねぇ~
この先の村に行かねばならんのだから・・・・
「行けるって!大丈夫だって!」(笑)
“ステラさん”も「大丈夫なんですか?駄目じゃないんですか?」と言う。
彼女は、ここには2回しかきたことがなく、10年ぶりぐらいだという。
だから何もわからないという。
う~ん・・・それじゃガイドにならないジャン!(大笑)
車を降りて、拙者が小川の深さを確認して車を誘導する。
本来は、拙者が“客”のはずなのだが・・・
なんでこうなるの?(笑)
「おい!来い!大丈夫だ!」
水の中を乗用車を走らせる。(大笑)

ガタゴト、ガタゴトと山道を走り続けるが・・・・
途中で石ころだらけの坂道に出遭う・・・・
と・・・この乗用車・・・・
この坂が登れないのである!
オイ、オイ、嘘だろう・・・・
そのうちズルズルと車はバックする。
バックして坂の下から勢い付けて登ろうという魂胆なのかな・・・
と・・・思っていたが、車の角度がおかしい・・・
後部座席の拙者が後ろを振り返ったら、山の斜面が迫っている!
ストップ!ストップ!ストップ!
大声をあげたが・・・時既に遅し・・・・ガシャン!
あ~あ~やっちゃったぁ~

車から外に出て見たら・・・・唖然!
山の斜面にぶつかったのではない・・・
道の側溝に落ちたのである!
しかも、その側溝が・・・・深い!
万事休すである。(涙)

119_convert_20120605152150.jpg 120_convert_20120605152306.jpg

(道の向こうに見える人物が、石を探しに行く運転手です!)

もう笑うしかないなぁ~こうなると・・・(大笑)
仕方がないので、石を集めて側溝に投げ込みなんとかしようとしたが・・・
いくら石を投げ入れても“焼け石に水”とは、このことぞ・・・
全然側溝が埋まらないのである!(涙)
しかも車の“腹”が完全に道路に接しているんだから・・・こりゃどうしようもないだろう・・・

田舎の村に向かう1本道・・・・
誰も通る人はいない・・・(大笑)
あ~あ~どうすんの?これ・・・
“ステラさん”は携帯が通じる場所を探しに行くといって一人で出かけていった。
拙者とドライバーは石探し・・・
まもなく、“ステラさん”が戻って来て「電波が通じません!駄目です!」と言う。
そりゃそうだよねぇ~ここは山奥なんだから・・・(大笑)

仕方がないので、“ステラさん”と拙者の二人で徒歩で村まで行き、助けを求めることにして歩き出す。
と・・・遠くからオートバイのエンジンの音が・・・(笑)
村人がオートバイに乗って通りかかったのである!
いやぁ~なんという幸運か。(喜)
村へ行って助けを求めてくれと頼む。

が・・・村にレッカー車なんてあったかな?(大笑)
日本ならJAFを頼めばいいけど・・・こっちにはそんなものあったかな?
再び山道を歩き始めて間もなく、オートバイに2人乗り、3人乗りして村の青年がやって来た。(笑)
おお!対処が早い・・・が・・・総勢で6名ほどである。
すれ違いザマに「その先に車があるから頼むぞ!」と手で合図を送る。
あれ・・・人間しか来ないけど・・・大丈夫なのかね?
やっぱり、村には車が・・・ない・・・のである。(大笑)
「田舎の人は力持ちだから6人で車を持ち上げられますよ」と“ステラさん”
恐るべき見解である。(大笑)

山道のカーブを曲がり・・・・周囲を見たら・・・あれれ?
何か記憶にある山の斜面・・・・

121_convert_20120605154041.jpg 122_convert_20120605154416.jpg

う~ん・・・このススキの葉のような植物・・・・
7年前にも見たんだよなぁ~
日本軍の「サル陣地」の裾野あたりに生えていたような・・・
ということは・・・もしかしたら、もう村の入口ではあるまいか?(笑)
丘の上を見たら・・・あっ!
慰霊碑がチラリと見えた!
やっぱり、ここは日本軍の陣地跡の裾野だ!

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まもなく、黄色の道標が見えてきた。
“ステラさん”が「さっき、ここまで来たんですけど携帯の電波が入らなくて、ここで引き返したんですよ」と言う。
「はぁ?ここはもう村の入口ですよ」と拙者・・・
「ええっ、じゃぁ、村の入口まで来て引き返したわけ?」
「そうなりますねぇ~(大笑)」
この道標には「マニラから232km、マリコ村まで0km」の表示がされているのだ。
どうやら“ステラさん”は、マリコ村まで0kmの表示を見落としていたらしい。(大笑)
どうして拙者のほうが詳しいんだよぉ~(大笑)
2人で大笑いしながら村へ向かう。

126_convert_20120605170613.jpg

まもなく、道の反対側に見慣れた「サラクサク峠」の山々が見えてきた!
7年前、あの山に登って降りてきて・・・この道を歩いて村に戻ってきたのだ。
それで記憶に残っていたのである!
結構バカなようでも、こういう記憶力はいいようである。
村の入口の直ぐ近くで脱輪とは、不幸中の幸いだが、いや、いや、これは戦死した日本兵の英霊のお導きに違いない・・・・
「少しは歩け!」ということなのだろう。(大笑)
「車に乗って楽して来るな!」ということなのだろう。(大笑)
はい、おっしゃるとおりにいたします!
なぜかワクワク!
足取りも軽く・・・村に向かう・・・・
英霊に感謝、感謝である。


より大きな地図で マリコ村 を表示

グーグルのマップでは、「イムガン」からの山道が表示されない・・・・
衛星写真を見ても、この地域の写真はなぜか解像度の悪い写真なのである。
人工衛星も写真を撮らないくらい辺鄙な場所ということか?(大笑)
ということで・・・推定だが・・・・
このあたりが「マリコ村」ではなかろうか?

旅行 | 15:58:13 | Comments(0)
ルソン島の旅(6)
ここ「サンタフェ」には、戦車第2師団の司令部が一時期置かれていたというのだが・・・
“ステラさん”に尋ねても、それがどのあたりにあったのかは知らないという。
司令部があったこと自体初耳だというのである。
ここには、先日、山口でお会いした“コンドウさん”がおられた。
師団の森参謀長の下に配属となり、参謀長に可愛がってもらっていたらしいが、参謀長が戦病死した後、“瀧上部隊”に転属となったそうである。
あ~“コンドウさん”に、どのあたりにいたのか教えてもらっておくべきだった・・・・

102_convert_20120605112250.jpg(サンタフェの町)

104_convert_20120605113153.jpg

「サンタフェ」の橋・・・・
あれは、いつのことだったか・・・
この橋も敵の攻撃の目標となっていた。
で・・・この橋の下に、橋から転落した海軍の乗用車があった。
車から投げ出された乗員の死体は、そのままの状態で放置されていたという。
どのあたりだろう?
海軍の乗用車が転落していた場所・・・・
あれから70年近く経っているわけで、今は、その乗用車の残骸も乗員の遺体も、あるわけがないのだが・・・
拙者の頭の中は昭和20年・・・・
どうしても気になって仕方がないのである。
見てもいないのに・・・目に浮かぶのである。

橋を渡って直ぐのところに山に向かう道がある。
このあたりには、憲兵隊がいたはずである。
「サラクサク峠」の最前線から勝手に後退してきた兵達(遊兵ともいう)を、とっ捕まえて最前線に追い返していた。
また、この「国道5号線」を北上するためやって来た兵達の所属部隊を聴き質し・・・・
所属部隊から逸れてしまった兵達を掻き集め、100名ないしは200名単位にまとめて、最前線へ“補充兵”もしくは“援軍”として送り出したのである。
これらの兵隊たちの一部は拙者の祖父の下にも届けられているが・・・
2~3日ほどで“消滅”したという。

106_convert_20120605114456.jpg

憲兵隊がいたのは、橋を渡ったこのあたりかなぁ~

108_convert_20120605114622.jpg

山へ向かう道・・・・
以前と比べたら雲泥の差・・・コンクリートで舗装されていた!
この道を山のほうへ向かい車を走らせる。
河に沿ってしばらく走り、途中から山の中に入っていくのだが・・・
その途中に、野砲兵第10連隊の野砲陣地があったはず。
毎度、ここを通るたびにその場所を確認しようと思うのだが、どうしてもわからない。
山側にある窪地に野砲を隠し、時々「バレテ峠」方面の米軍に威嚇砲撃を行っていたのである。
う~ん・・・
走っている車からでは見つけにくい・・・
1ヶ所、それらしき窪地があるのだが・・・
あっという間に通過してしまうので、わからない・・・(笑)
砲を隠していた窪地も、戦後の風雨でかなり崩れているのだろうが・・・
相変わらず拙者の頭の中は・・・昭和20年のまま・・・である。(大笑)

この道を進むと「イムガン」という集落に辿り着く。
その途中・・・道路工事中!
山肌を削り、道路の拡幅を行っていた。

110_convert_20120605115526.jpg

これが見ていて怖いのである!(汗)
ダンプに土砂を載せるたびに、ダンプが左右に大きく揺れるのである。
左側は崖・・・・
おい、おい、あぶねぇって!路肩が緩いんじゃないの?ダンプが落ちるんじゃないか?
作業が一段落するまでの間、しばらく待たされたが、その間、“ステラさん”は「怖くて見ていられない!」と大騒ぎ。(大笑)
あれ・・・転落したら・・・俺たちが助けに行くの?(汗)

まもなく「イムガン」の村(?)に到着・・・
あらら・・・唖然・・・である。(笑)

111_convert_20120605124747.jpg 114_convert_20120605125800.jpg

いつの間に、こんなに家が建っちゃったのやら・・・(唖然・・・愕然・・・)
昔は、掘っ立て小屋程度の建物しかなかった“村”だったのが、今では、立派な家が立ち並ぶ“町”に変わっていた・・・・
7年も来ないと、ここまで変わってしまうものなのか?

ここ「イムガン」には戦車第2師団の戦闘指揮所が設けられていた。
が・・・その場所がどこにあったのかは分からない。
昔は、そこらの掘っ立て小屋の前には村人がたむろして、日向ぼっこ(?)をしていたのだが・・・
立派な家が立ち並んだら、外でたむろする人がいなくなったのか?(笑)
閑散としている。
誰かに尋ねたくても尋ねる相手がいない・・・
この村から北へ向かう細い山道があったはずだが・・・
あれれ???どこだっけ?
この細い山道を進むと、多分、小さな川があるはずで・・・
その近くの山の斜面に横穴を掘って、そこに多くの日本兵がいたはずなのである。
山口の“コンドウさん”もその一人である。
あ~あ~略図・・・描いてもらっておくべきだったなぁ~
不思議なことに風景が頭に浮かぶんだよなぁ~(笑)
その場所を見つけられたら・・・と思っていたが・・・
断念して更に山道を進むことにする。

115_convert_20120605130005.jpg(イムガンの集落)

タブレットの地図もなんとかここまでは表示してくれた。
ということは・・・電波が届いてるって事?
電波が届かなければ地図は表示されないよね?
良くわからないんだけど・・・相変わらず・・・(笑)
が・・・地図の道路自体が、ここまでしか描かれていない。(大笑)
この先の山道は表示されていない・・・・
ということは・・・拙者が向かうところは、地図にも載せてもらえない“ド田舎”ということか・・・(涙)


より大きな地図で イムガンの集落 を表示


旅行 | 14:04:01 | Comments(0)
ルソン島の旅(5)
「プンカン」の慰霊碑をお参りして、更に北上・・・・
クネクネと曲がりくねった山道を登っていくと「バレテ峠」に辿り着く。
ここは第10師団(姫路で編成)を主力とする部隊が陣を敷いていた。
この「国道5号線」を北上する在留日本人の避難民や日本兵がここを通過する・・・・
その後ろから米軍が迫ってくるので、これらをこの峠で食い止めようというのが、ここに陣を敷いた理由である。
で・・・この「国道5号線」を西の方から横切って寸断しようとした米軍を「サラクサク峠」で食い止めたのが祖父の部隊と応援に駆けつけた戦車第2師団を主体とする各種部隊である。
ここ「バレテ峠」も激戦地で、慰霊碑もあるが、拙者は余ほど時間に余裕がない限り立ち寄らない。
他の慰霊団は必ずといっていいほどここには立ち寄るので、わざわざ拙者が行かなくてもいいだろう・・・という罰当たりな考えなのである。(笑)
が・・・今回は久しぶりに慰霊碑に立ち寄りお参りをする。
たまにはお参りしないとね・・・英霊に怒られちゃうから・・・(笑)

044_convert_20120604213652.jpg(バレテ峠の慰霊碑)

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(慰霊碑のある丘から見たバレテ峠の頂上)

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バレテ峠の頂上の山の側面が大きく削られている。
以前、ここを通ったときは、それほど気にもならなかったが・・・・
今回はさすがに唖然・・・である。
戦跡が壊れていく・・・消えていく・・・
ただの道路の拡張なのか、それともここを平らにして何かを建設しようとしているのか・・・
う~ん・・・わからん・・・

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「ようこそ!ヌエバエシア州のサンタフェへ!」の看板・・・(笑)
ここに写っている人は、サンタフェの“町長”(?)、“市長”(?)・・・・
とにかく、サンタフェの首長さんのようである。
へぇ~・・・である。(笑)

バレテ峠を下り、「サンタフェ」の町へ向かう。
途中、日本軍の大砲を置いてある場所がある。

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これは日本軍の榴弾砲・・・
刻印が薄れてしまっているので良く分からない・・・
ゴムタイヤは戦後に取り付けられたもので、当時のものではないようである。
我が戦車第2師団の機動砲兵第2連隊のものだという話を聞いたこともあるが、果たして本当かどうかはわからない。

「サンタフェ」の町のなかを通り抜け、少し町外れにあるレストランで食事することにする。

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拙者が初めてこの町に来た10年以上も前には、こんな洒落たレストランなどはなかった。(笑)
いやはや、どんどん変わっていく・・・・
このお店・・・トイレが綺麗なのである!(大笑)
で・・・“Wi-Fi”とかっていうのも使えるのだそうだ・・・何のことやらよく知らないけど・・・(大笑)

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時刻は午後1時・・・
ちょっと遅い時間だったせいか、“おかず”が殆ど残っていなかったので、今日の昼食は・・・こんなものである。(笑)

本来は、ここから山の中へ入って「サラクサク峠」へ向かうのだが・・・
“ステラさん”が、更に北上して「南ボネ」の慰霊碑のある場所まで行こうと言う。
我々は「南ボネ」と呼んでいるが、英語読みだと「ボーン・サウス」と言うらしい。
“ステラさん”の目的は、どうやらこの慰霊碑を管理している住民に何か言伝があるので、行きたいということらしいのである。
はい、はい、どうぞ、どうぞ・・・(笑)
どうせ気楽な旅である・・・
“ついで”がいくらあっても構いませんよぉ~(大笑)

083_convert_20120605102102.jpg(南ボネの慰霊碑)

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ここは「戦車撃滅隊」の激戦地・・・・
山下奉文大将率いる第14方面軍の教育隊が主として戦った場所である。
第14方面軍の“虎の子”である見習士官の青年達が“蒲団爆弾”という座布団のような形をした爆弾を抱えて、米軍の戦車に体当たり攻撃をかけた場所である。
ここには戦車第6連隊の生き残りの戦車も配属されていたようである。

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見習士官の青年達は、この道路の両脇に“タコツボ”を掘って隠れ、米軍の戦車が来ると飛び出し、敵戦車のキャタピラに身を投げて自爆したのである。
ここに配置された青年達の数は約500名・・・・
敵の戦車を数両は破壊したようだが、飛び出した瞬間、敵の機関銃になぎ倒されて体当たり攻撃は殆ど失敗したようである。
それにしても、凄まじい攻撃である。
中東での自爆テロの先駆けのようなものである。
拙者には無理だよなぁ~
そういう根性はない・・・・
腰が抜けて、タコツボから飛び出せないと思う・・・

この攻撃を見ていたのが、第14方面軍の直轄部隊だった“尾田部隊”の“ナカムラさん”。

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“ナカムラさん”は、この民家の裏にある丘に陣を張っていた。
敵の戦車がやって来たとき・・・・
まだまだ距離があるというのに、早々と次々と飛び出して敵の機関銃になぎ倒される隊員たちを見たという。
「まだ早い!」と叫んでも彼らにその声が届くわけもない。
バタバタと斃れていく姿を見ているしかなかったという。
迫り来る戦車への恐怖感で距離を見誤ったのか?
無理もないと思う・・・・

何としてでも、ここで米軍の進撃を抑え、北上する避難民や戦友を逃れさせる時間稼ぎをしなくてはならなかったのである。
が・・・それにしても・・・ここは直線道路なんだよねぇ~
敵から丸見えだと思うのだが、どうしてここに配置したのか・・・

“ナカムラさん”達も丘の上から戦車に随伴する米兵を攻撃したが、まもなく陣地の場所がバレてしまい、攻撃を受ける。
で・・・直ぐ隣にいた戦友が敵弾を浴びて転がり落ちた・・・・
あと数センチで“ナカムラさん”も同じ目に遭うところだったそうである。
その後、“ナカムラさん”は撤退のときの部隊の“殿(しんがり)”を務める。
装備は全て米軍から奪った兵器・・・・
だから、強かったという。
日本兵は米軍の装備を持って戦ったら最強だったという。

拙者が慰霊碑をお参りしている間に“ステラさん”は民家の方と打ち合わせを済ませたので、また「サンタフェ」の町へ戻ることにする。


より大きな地図で 戦車撃滅隊終焉の地 を表示


旅行 | 13:19:50 | Comments(2)
ルソン島の旅(4)
更にもう少し北上すると、「プンカン」という場所に着く。
ここに、日本軍の慰霊碑があるのだが・・・
あっ・・・通り過ぎちゃった!(笑)
拙者は全く気付かず、“ステラさん”が気付いて、車をUターンさせる。

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道路脇の民家の敷地内に慰霊碑がある。
2年前にご遺族を北部ルソンに案内したときにも立ち寄ったのだが・・・・
この民家の前の道路・・・・
こんなに広かったかなぁ~(笑)
もっと周囲は木に囲まれていて、鬱蒼としていたような気がしていたのだが・・・・
人間の(というより、拙者の?)記憶なんて当てにならないものである。(汗)
これでは、うっかり通り過ぎても気がつかないはずである。
たった2年前に訪れた場所を見落としてしまうんだから情けない。

ここ「プンカン」は激戦地の一つである。
ここには当初、拙者の祖父の部隊が配置されることになっていた。
が・・・現地を視察して、祖父が(多分、部下による進言だと思うが)、この地は防御に適していないと上層部に具申した。
参謀にも現地に来てもらい、実際に現地を見てもらいながら説明したところ、この具申が受け入れられて、祖父の部隊はこの地には配置されず、別の場所へ移動することになったのである。
この「プンカン」・・・・
道路の両脇に丘が聳え、ここから道路上の米軍を狙い撃ちにできるし、一見、防御しやすいように見えるのだが・・・
この丘が南北に少し細長く、南に張り出しすぎているため、逆に米軍がその外側から包囲しやすいため、防御どころではなく、逆に丘の裏側から浸透されて守りきれないというのが祖父の部隊の見解だったようである。
祖父の部下達は中国大陸で戦っていた実戦経験者だし・・・・
祖父は一兵卒から連隊長になった人なので、師団でも一目置いていたようである。
だから、進言が受け入れられたのだと思うが・・・

なぜか師団司令部は、祖父が去った後に、この場所に別の部隊を配置したのである。
どうして、そういうことをしちゃったのかなぁ~!(怒)
祖父達の予想通り、ここ「プンカン」に配備された部隊は、周囲から米軍に浸透され、壊滅した。
どうして祖父達の具申どおりに、この場所を防御陣地に不適だと諦めなかったのか・・・
その通りにしていれば、彼らはここで死なずに済んだのである。
うまくすれば、その後も生き抜いて、戦後、無事に日本へ帰れた人もいたかもしれない。
少なくとも、そのチャンスはあったのではないだろうか?

一説によれば、他の参謀が地図だけを見て、ここに決めたと言う。
使用したのは5万分の1の地図らしいが・・・
拙者も、現在発行されている5万分の1の地図を持っているが、ここ「プンカン」には何も書かれていない。
当時の作戦用の地図がどういうものだったかのかは知らないが、どうもここ「プンカン」に“ポチッ”と「丘らしきもの」があったので、ここがいいだろうと決めたのだとか・・・
この「プンカン」から更に北上すると「バレテ峠」がある。
その「バレテ峠」が主抵抗陣地となるので、その峠に向かう手前に前進陣地を設けなくてはということで、ここを選んだらしい。
前進陣地としたここは、その後、主抵抗陣地の一部として組み込まれたが、お粗末な場所のため、あっけなく守備部隊は壊滅した。
後方陣地を構築するための時間稼ぎも、ここに守備隊を置いた理由の一つだろうが・・・
その犠牲は大きい。

拙者は、それがなんとも悔しいのである。
祖父達が、防御に不適な場所だと言っていたのに・・・・
どうしてそこに兵を置いてしまったのか・・・
第10師団の更に上層部である第14方面軍の指示だと、当時の参謀が拙者に話してくれたことがある。
現地にも来ず、現地を見ず、お粗末な地図だけで決めてしまったのである。
彼らのお粗末な“作戦”で死んだ兵達を弔ってやらねば・・・
というわけで、拙者はここを通るたびに必ず慰霊碑にお参りをすることにしているのである。

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ここには2つの慰霊碑が建っている。
一つは『内藤大隊並金子中隊追悼之碑』(左の写真の碑)である。
この慰霊碑を建てた人達は、自分達では分かっているからいいだろうが・・・・
後世には何が何だか分からないだろう。
「内藤大隊」とか「金子中隊」って・・・・何?
自己満足の慰霊碑であるとしか拙者には思えない。

ここに配置されたのは第105師団の臨時歩兵第2大隊を基幹とする部隊である。
大隊長の井上恵少佐が「プンカン守備隊」の守備隊長。
そこに第10師団の歩兵第10連隊第2大隊(内藤大隊)の2個中隊を除いた部隊が配属となっている。
というわけで・・・内藤大隊とは、歩兵第10連隊の第2大隊を指す。
大隊長は内藤正治大尉。
「金子中隊」とは、独立歩兵第356大隊の第4中隊(中隊長:金子晃中尉)のことだと思う。
先日、山口でお会いした“コンドウさん”の“瀧上部隊”である。
第4中隊は本隊から分かれて、「津田支隊」に配属となり、津田支隊は、このプンカン守備隊に配属になっている。
「プンカン守備隊」には、このほかにも第10師団から歩兵第39連隊の1個中隊、歩兵第63連隊から1個中隊、野砲兵第10連隊第1大隊(赤座砲兵隊)など、いくつもの部隊が配属されていた。
各種合わせて9個中隊だったという。
日本軍は、よくこのような編成を戦地で行う。
各部隊から少しずつ抽出して編成するのであるが・・・
これでは“烏合の衆”になりはしないだろうか?
同じ日本軍とはいえ、顔も名前も知らない同士、上下の意思疎通に支障はなかったのだろうか?

戦闘は昭和20年2月9日から開始され、3月5日までに米軍(米第25師団)が完全に制圧、掃蕩を完了。
米軍の記録では日本軍守備隊の戦死者は1250名・・・
米軍は戦死40名、負傷165名・・・・
内藤大隊に限って言うと、内藤大隊長以下戦死者は約200名、負傷者は650名である。
こういうことを慰霊碑には刻んでもらいたいが、残念ながら・・・ない・・・

もう一つの慰霊碑は『歩兵第10連隊比島戦没者追悼之碑』(右の写真)である。
ここには歩兵第10連隊の編成と、「歩兵第10連隊の戦没者は2942名で、実に92%に達している」ということが刻まれているが、全ての戦没者がここで戦死したのではない。
歩兵第10連隊の主力は、この先の「バレテ峠」で戦死しているのである。
誤解を招くような慰霊碑である・・・・

ちなみに、この慰霊碑・・・十字架の形をしているが・・・
これは、フィリピン人がキリスト教徒なので、十字架の形の慰霊碑にすれば、現地住民に悪戯されたり壊されたりしないだろうということで十字架の形にしたという話を聞いたことがある。

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慰霊碑のある民家の後ろの丘にプンカン守備隊長である井上少佐率いる「井上大隊」が布陣していた。

037_convert_20120528180922.jpg038_convert_20120528181032.jpg039_convert_20120528181325.jpg

道路を挟んで慰霊碑の反対側の丘に「内藤大隊」が布陣していた。
ここで道路を北上する米軍を挟み撃ちにしようとしたのだろうが・・・・
米軍は、ブルドーザーで道を作り、この丘の向こう側に進出して来たのである。
つまり、“もっと大きなハサミ”で逆に挟み撃ちに遭った形となる。
というわけで・・・この丘の向こう側斜面が戦闘地域となる。

大隊本部は3枚の写真の真ん中の写真あたりにあったと思う。
そこへ、別の地域に派遣されていた歩兵第10連隊第2大隊の第7中隊が応援に駆けつけた。
中隊長は佐野満寿三中尉。
斬り込み隊を編成して攻撃に向かったが、奇襲に失敗して負傷をする。
第7中隊は殆ど全滅し、負傷した中隊長の佐野さんを含め4名しか生き残れなかった。
佐野中隊長は終戦後無事に日本に帰還・・・・
今から6年ほど前に放送されたNHKの証言番組に出演した。
が・・・この番組・・・趣旨が歪められていた・・・
佐野さんは放送を見た後からパタリと食事を摂らなくなり、再放送の時には「そんな番組は見るな!」と家族に怒鳴ったという。
自分の証言を、切り貼りされて、自分の思いとは別の内容に仕立てられたためだろう。
そして佐野さんは番組放送から間もなくしてお亡くなりになられた・・・・
拙者は、これは失意の中の衰弱死だと思っている。
拙者は、この番組の放送前に、ご家族ともNHKのプロデューサーとも連絡を取り合っていたが、放送を見たときに、その偏った内容に驚いた。
最初から、番組の内容を決めておいて、その内容に合うように“証言”を仕向けたとしか思えない。
番組の取材を受けた佐野さんが、この内容を受け入れるはずがない・・・
佐野さんがお亡くなりになった直後、拙者はNHKの、この若い女性プロデューサーに抗議をした。
が・・・彼女は「番組は非常に好評だった」と一点張り・・・
最終的には、「番組制作会議で、当たり前の内容では企画が通らないので、わざとショッキングな内容に仕立て上げた」と認めたが・・・・
この戦場で生き残り、この世に別れを告げる年齢に達したときに、その佐野さんを失意のどん底に突き落としたNHKの罪は重いと思う。
彼女は、この番組のおかげかどうか知らないが、地方局から本社へ“栄転”したという。
拙者は、今でもこの女性プロデューサーのことは許せない!(怒)
どんな理由があろうとも・・・・
苦労をして、悲惨な体験をして生き残った方には、最期を迎えるときには気持ちよく旅立ってもらいたいのだ。
戦死すればよかった、生き残るべきではなかったなどとは思わせたくないのである。
それをよりによって、食事が喉を通らなくなる程の失意のどん底に突き落とすとは何事か!(怒)
この丘を見て・・・拙者は佐野中隊長を思い出す・・・
この世を去った後・・・佐野さんのことだから部下達の眠るこの地を訪れたことだろう・・・・
「最後の最後に、あんな嫌な思いをさせられるなら、みんなと一緒に戦死してれば良かったよ」と部下たちに話したのだろうか?
あ~・・・ため息しか出ない・・・何と言えばいいのか・・・
「畜生!」の一言しか頭に浮かばぬ・・・・

ドコモのタブレットで現在位置を確認したが・・・
このタブレットの地図は、現在地が分かるから便利なんだけど、現在地にマークを付けるとか、保存するとかって出来ないみたいなんだよねぇ~
どうも使い方がイマイチわからん・・・(涙)
結局、自分の頭の中に記憶するしかないわけで・・・

というわけで・・・多分・・・地形的に言うと・・・
このあたりに慰霊碑があるんじゃあるまいか?(大笑)


より大きな地図で プンカン守備隊関係慰霊碑 を表示


旅行 | 12:39:04 | Comments(3)
ルソン島の旅(3)
「旧・農学校」前の国道を更に北上すると「サンホセ」に至る。
今晩は、「マリコ村」の“オマリオさん”の家に泊めてもらうことになっている。
で・・・“ステラさん”が・・・「食糧とかは、どうすることになっているのですか?」と言う。
「さぁ~、どうなってるんだろう?」
「え~?何も決めてないんですか?」
「はぁ・・・ただ、泊めてくれって頼んであるだけ・・・」
“ステラさん”に呆れられる。(大笑)
食糧を何も持たずに・・・というのも問題だろうということになり・・・(大笑)
ここ「サンホセ」のスーパーマーケットで買い物をすることにする。

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(サンホセの町の中)

ここ「サンホセ」は要衝の地・・・・
戦時中には、北部ルソンへの中継地点でもあり、ここには多くの軍需物資が集められ、道の両側に積み上げられていたという。
が・・・・緒戦で早くも米軍の空爆を受け、集積した物資が燃え上がる。
バカである・・・
こういうところが、エリートと言われる連中、上級司令部の考えていることが解らない点でもある。
ただ集めておけばいいというものではあるまいに・・・
秘匿しておかねば空爆で灰燼に帰すのは、あたりまえではなかろうか?
日本軍は貧乏であるという自覚がない・・・あ~なんともったいないことか・・・
細かいところが雑である。
これは官僚主義のなせる業ということか・・・

この町は、米軍の空爆・砲撃で焼け野原となった・・・

さて・・・スーパーでの買い物・・・
何を買えばいいかが全然解らないので、全て“ステラさん”に任せる。
支払いは拙者なので、やたら気を遣う。
「これ、いいですか?」・・・
経済観念のない拙者である・・・なんでもいいんですけどぉ~(笑)
いくら買ったって、何万円も・・・というわけではあるまい?
必要だと思うものはドンドン買おうよ!(大笑)
レジに並んでいたら・・・
“ステラさん”・・・日本のキッコーマンの醤油のペットボトルを別に持っている。
「あ、それも僕が支払ってあげるよ」
「いえ、これは余ったら自宅に持ち帰って自分で使うので、自分で出します」と言う。
大した金額じゃないから拙者が出すといっても遠慮する。
公私に厳しい人である。
他のフィリピン人とちょっと違う・・・
だから好感が持てるし・・・長い付き合いが続いているのだと思う。

027_convert_20120522125050.jpg(スーパーマーケット)

ここ「サンホセ」には鉄道の駅があった。
だから多くの物資を送り込めたわけだが・・・・
終戦後は、この駅から多くの日本兵が捕虜収容所へ送られた。
その駅舎は、「ムニオス」とは違って、今も残っているはずである。
10年近く前に訪れた時には・・・倉庫みたいになっていた。
“ステラさん”も知っているが・・・二人して「どのあたりだっけ?」・・・・(笑)
「あの路地を入ったところだっけ?」という有様で、記憶が蘇らない。
歳は取りたくねぇもんだぁ~と二人で大笑い。
今回は、駅舎を見るのが目的じゃないから・・・通過!(笑)

「サンホセ」の町を抜け、更に北上!
ここから山のほうへ向かう形となる・・・・

ドコモのタブレットで地図を見ながら移動・・・
国道がちょうど直角に曲がるところがある。
そこが「キタキタ」という場所・・・
ん?聞いたことがある地名である。
たしか・・・ここに「サンホセ」から撤収した部隊や持ち出した軍需品が一時滞留していた場所だったと思う。
小さな集落である。

ここから更に、もう少し北上すると「タヤボ」という集落・・・・
ここは「キタキタ」より、もう少し大きな集落である。
本隊とは別に「ゴンザレス」に派遣されていた戦車第6連隊第2中隊は現地で壊滅したが、戦車3両が、この地点まで脱出している。
指揮をとっていたのは戦車第6連隊第2中隊付きの吉村准尉。
この戦車は、その後、更に北上し、「サンタフェ」に向かい、『戦車撃滅隊』に配属となり全滅した。
吉村准尉(のち少尉)は6月2日に「サンタフェ」方面で戦死している。

「ムニオス」で戦っていた本隊からは脱出した戦車はなかったようである。
当時、「ムニオス」では、壕を掘って戦車を半分埋め、砲塔だけを地上に出して戦うという戦法をとっていた。
この戦法で、米軍のM4シャーマン戦車を何両か撃破しているという。
が・・米軍の砲撃は熾烈を極める。
20分間で4,000発もの砲弾が飛んで来たという記録もある。
(多少、誇張されているかもしれないが・・・・かなりの砲撃だったことは確かだろう)
連隊及び戦車第2師団司令部は後退を具申。
ところが山下将軍の第14方面軍司令部の幕僚達がウンといわない。
「死守せよ」の繰り返し。
戦車の用法を知らないバカが命令を出すのでは勝てる戦も勝てまい。
ようやく2日後に後退の許可が出たが、時既に遅し・・・である。
脱出しようとしても、長時間、壕の中に置いていたのでなかなかエンジンがかからない。
昼間では狙い撃ちされるので、移動は夜間にしか出来ない。
静かに移動したくても、低速始動ではエンジンがかからないから、思いっきりエンジンを吹かして始動するしかない。
グワァ~ン、グワァ~ン・・・ドドッ、ドドッ、ドドドドドッ~!・・・っていう感じだったのかなぁ~(笑)
と・・・その音を聴きつけて米軍が照明弾を打ち上げ、猛烈な砲撃が始まる。
エンジンをかけた途端に隠れていた場所がバレて、移動も出来ぬまま炎上する戦車が続出・・・
うまく始動できて移動が開始できても、この当時、周囲は竹薮と湿地に囲まれていたという。
今では竹薮は見当たらないが、湿地帯は田んぼとなって面影を残している。
湿地帯は日本の戦車は走れない。(笑)
1本道の道路を一列になって走るのでは、先頭車両がエンストすれば、後続車も停止・・・
そこを狙い撃ちされ、壊滅・・・である。
生還者は、あと2日早ければ・・・あの時、素直に後退を認めてくれていたらとの思いが残ると言う。
脱出ルートの研究不足も否めないと言う・・・・
「退くこと知らない日本軍」である。
勇猛果敢も結構ですが・・・(笑)
いざ、猛烈な砲撃を受け、敵戦車の攻撃を受け、一旦退いて態勢を立て直したくても、脱出ルートを研究していないから、どうしようもない。
真面目に1本道を下がることしか知らないから、これでは撃って下さいとお願いするようなものである。
ゲームセンターの射的より始末が悪い・・・

あ~あ~もったいないなぁ~
ここまで他の戦車も後退して来ていたらなぁ~・・・と思う・・・・

旅行 | 11:31:20 | Comments(0)
ルソン島の旅(2)
朝食をホテルのレストランでとる。
ん?以前泊まった時と違うぞ・・・
「う~ん・・・ずいぶんサービスが落ちたねぇ~」
「そうですか?」とステラさん・・・
「うん、以前は、ここにキュウリのスライスが3枚乗ってたけど、今回は乗ってない!(笑)」
「へんなところを良く覚えてますねぇ~」と笑われた。(大笑)

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午前8時、ホテルを出発・・・・
北上する!
さぁ!ここで我が新兵器の登場である!
ドコモのタブレット!
さぁ~どこまで地図の表示がされるか・・・・
今までは、こういう便利なものを持っていなかったので、どこをどう走っているのか、何度来ても、さっぱりわからなかったが・・・
いやぁ~これは便利!(喜)
地図に現在位置が表示されている!
おお、おお、車の移動と合わせて、現在位置の印も動いている!(笑)
が・・・これ・・・どうなっているんだろう?
「パケット」っていうのが、かかっているのかな?
「海外パケ放題」とかっていうのに設定しておいたと思うが・・・(笑)
使い方をよく知らないのに使っているのである・・・
日本に帰ってからトンデモナイ金額を請求されたらどうしようと、ちょっと不安になったが・・・
この便利さは止められない。(大笑)
えぇぃ!なるようになれ!・・・・である。(笑)

過去に何度も通ったことがある道だが、以前はよくわからず通過した町・・・・ムニオス・・・
ここは我が戦車第二師団の戦車第6連隊が大激戦を演じた場所。
で・・・戦車は壊滅・・・残存兵は歩兵に改編されて山奥で戦う羽目となった。

タブレットの地図を見ながら・・・「ここ!このあたりでストップ!」と車を止めさせる。
いやぁ~本当に便利だぁ~・・・買ってよかったぁ~(大笑)

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戦時中、ここには「ムニオス駅」という鉄道の駅があった・・・・
今は線路も取り外され、鉄道も駅も消滅している。
地元の方に尋ねたら、この道の向こう・・・奥の右側にガソリンスタンドがあるが、その裏が駅のあった場所らしい。
今は何も痕跡が残っていないとの事・・・
駅の位置が分かれば、なおさら分かりやすい!(喜)
地元の人とおしゃべりをして、車に戻ったら、ステラさんが笑って、こう言った・・・・
拙者はタバコを吸いながら、しゃべっていたのだが、火を消した後、吸殻を持参した携帯灰皿に入れたのである。
それを見て地元の方が、「他の人は平気で吸殻を道端に棄てるが、さすがは日本人だ。吸殻を棄てなかった。たいしたもんだ」と地元の人が感心して言っていると報告してくれた。
いやぁ~しっかりと観察されていたとは・・・(大汗)
吸殻を棄てなくて良かった・・・(笑)
一人の民間人の行動で国の印象が決まってしまうのである。
我々は心して海外旅行をせねばならないと、改めて思った。

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二股に分かれている道路の真ん中にある緑色の屋根の建物・・・・
この建物の裏に、当時は速射砲(対戦車砲)と野砲が展開していた。
左の道の左側にも速射砲が1門・・・その後ろには戦車第6連隊第3中隊第2小隊(高倉小隊)の戦車が展開。
この左の道のもっと奥には、戦車第6連隊第5中隊(指宿中隊)の戦車が展開していた。
指宿さんは、今も鹿児島でご健在・・・多分、95~96歳くらいになられているのではなかろうか?

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この道の右側には、戦車第6連隊第3中隊第3小隊(斎藤小隊)の戦車が「前進陣地」として展開。
小隊長の斎藤少尉は、昭和20年2月1日にこの地で戦死している。
ここには戦車第6連隊に配属された独立歩兵第356大隊(瀧上大隊)の機関銃中隊(伊藤中隊)の1個小隊が配置されていた。
瀧上大隊は、先日、山口県光市でお会いした“コンドウさん”の部隊である。
この時点では“コンドウさん”はこの部隊に配属されていなかったので、この景色はご覧になっていないだろう。
が・・・お写真を送ってあげようかな?(笑)
道の左側奥には、戦車第6連隊第5中隊第3小隊(柴田小隊)の戦車が展開していた。
小隊長の柴田少尉は、昭和20年2月3日に、この地で戦死。

さらに、もう少し車を進めて、再び止める。

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ガソリンスタンドの裏あたりに「予備部隊」として戦車第6連隊第4中隊(渡辺中隊)の戦車が待機していた。
中隊長の渡辺中尉は、昭和20年2月9日にこの地で戦死している。
ムニオスの町の奥のほうまで行きたかったが・・・
そっちに行くと拙者が向かっている方向とは別方向・・・・
この「国道5号線」沿いの陣地跡の確認だけでやめておくことにする。

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この「国道5号線」、ここから、この先の「旧・農学校」までの約4kmに独立歩兵第356大隊(瀧上大隊)が配置されていた。
たぶん・・・第1中隊と機関銃中隊だったと思うが・・・
僅かな兵力で4kmもの間を守るというのだから信じられない・・・・

戦車第6連隊は、第1中隊をレイテ島へ派遣、第2中隊は大室支隊に配属となってゴンザレスにいたので、この地で戦ったのは・・・・
連隊本部(九七式中戦車5両、九五式軽戦車2両)
第3中隊(九七式・改・中戦車11両、九五式軽戦車1両)
第4中隊(九七式・改・中戦車8両、九五式軽戦車1両)
第5中隊(九七式中戦車11両、九五式軽戦車1両)
整備中隊(九七式・改・中戦車4両、ほかトラック)
・・・であるとされている。
ここには昭和20年1月26日ごろに来て配置につくが、1月31日から米軍の攻撃を受け・・・・
早くも2月2日には連隊長の井田大佐は戦死、指揮班長の高橋中佐が連隊長代理として指揮を取った。
戦闘は2月6日まで続き、戦車は壊滅、2月7日に戦車車載の重機関銃と弾薬を持って撤退・・・
ドバックスへ向かい、歩兵に改編されたのである。

破壊された戦車・・・どこへ行っちゃったかなぁ~
戦後、くず鉄として売られちゃったんだろうなぁ~
あ~・・・・なんとも寂しい・・・・

021_convert_20120518231055.jpg(セントラル・ルソン州立大学)

戦時中は「農学校」と呼ばれた場所・・・
現在は「セントラル・ルソン州立大学」となっている。
ここにはフィリピンでも珍しい「歩道橋」がある。
「国道5号線」上で、歩道橋があるのは、ここだけである。(大笑)

022_convert_20120518231630.jpg(大学前の道・国道5号線)


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旅行 | 10:27:38 | Comments(2)