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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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桜馬場
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桜馬場

慶安3(1650)年に初代藩主毛利就隆により徳山藩が開府された時、まず城下町の整備が行われ、藩士の調馬場として旧三番丁の南端から西本町にかけて馬場をつくり、数百本の桜が植えられた。
それ以来、桜馬場は西国の桜の名所となった。
享保元(1716)年に徳山藩が改易になったころ、桜400本が伐採されたが、享保4(1719)年に再興が許されると馬場を修理し、矢渡しを行って、再び219本の桜が植えられた。
後年、藩校鳴鳳館もこの桜馬場に新築移転した。
その後、事あるごとに植え継がれ、戦後は自治会有志によって南側に植樹されたが、市制50周年を機会に北側も植樹し、緑と文化とうるおいのあるまちづくりを目指している。

周南市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 21:13:21 | Comments(0)
児玉神社
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児玉神社

児玉神社は、大正12年に地元有志の発起により、日露戦争で満州軍総参謀長を務めた元陸軍大将児玉源太郎(1852~1906)を祭神として創建されました。
社殿は、神奈川県江ノ島に建設されていた神殿と附属建物を移し、旧邸址である現在地に建立したものです。
境内には「徳山七士碑」、後藤新平の筆による「徳足以懐遠」、児玉源太郎薨去の際の「御沙汰書」、後藤新平の「児玉神社参拝記念碑」、「日本帝国褒章之記」、句碑「山縣元帥の児玉大将の死を惜しまれたる歌」など児玉源太郎ゆかりの記念碑が多数建立されています。

周南市教育委員会

(説明板より)



児玉神社

1922年(大正11)12月15日、当時の徳山町の前田蕃穂外52名の有志が「県社児玉神社創立許可願」を内務大臣に提出した。
その願書には「・・・日清戦争に功あり。明治31年には台湾総督となり、政治を刷新して教化を進めて交通産業の発展に寄与した。その間陸軍大臣を、さらに内務・文部両大臣を兼務し、日露戦争においては満州軍総参謀長として、国家に尽くした忠節は多大で、等しく満天下の認めるところである。この地に児玉神社を建設し、国家守護の神として、その遺徳を後世に伝え、人心の感化に資し、もって国民道徳の標的にしたい。・・・」と記されている。
翌12年8月14日に許可され、「児玉将軍屋敷跡」に流造の本殿と拝殿が創建され、昭和8年5月16日に県社に列せられた。
拝殿の「児玉神社」の掲額は、児玉源太郎の長男秀雄の揮毫で、毎年3月10日に例祭が行われている。

児玉源太郎頌徳碑

児玉源太郎は、第4代の台湾総督を勤めたが、その下で民政局長として辣腕をふるったのが後藤新平である。
この碑には、児玉総督を大変慕っていた後藤新平の揮毫で「徳足以懐遠」と記されている。
礎石からの高さは凡そ4米あり、自然石で威風堂々としていて、周囲には玉垣を巡らしている。
この碑は、大正7年7月に源太郎の13回忌に地元の奉賛会によって、総督ゆかりの屋敷跡に建立されたものである。

平成17年3月
周南市教育委員会
寄贈 周南西ロータリークラブ

(説明板より)

309_convert_20120515133314.jpg(児玉源太郎頌徳碑)




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史跡 | 20:52:43 | Comments(0)
児玉源太郎像
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児玉源太郎像



ふるさと周南・徳山をこよなく愛した偉人・児玉源太郎、その功績を称え末永く顕彰するため、生誕160年を迎える節目の年に、ゆかりの地・児玉公園に児玉源太郎像として甦りました。

この児玉源太郎像の原型は、山形県出身の彫刻家・新海竹太郎(1868~1927。代表作「ゆあみ」「大山公騎馬像」など)によるもので、現在は国立台湾博物館に展示されています。
このたび、この銅像のレプリカを、国立台湾博物館協力のもと、台湾の彫刻家・林昭慶氏(古采芸創環境有限公司)に依頼して制作いたしました。

児玉源太郎(1852~1906)は、周防国都濃郡徳山村(現周南市)に、父・徳山藩士児玉半九郎、母モトの長男として生まれ、台湾総督・陸軍大臣・内務大臣・文部大臣など明治政府の要職を歴任し、近代日本の発展に尽力しました。

台湾総督としては、土地改革、鉄道開通、衛生環境の改善、阿片中毒や風土病の撲滅、学校教育の普及、産業の育成などを進め、台湾の近代化を促しました。
今日でも重要な産業である製糖事業の発展は、児玉源太郎の存在なしには語れません。

また日露戦争にあっては満州軍総参謀長として活躍し、日本を勝利に導いた功績が高く評価されております。

さらに児玉文庫の開設など、常にふるさとを忘れず、後進・後輩を指導し、人情味あふれる豊かな心をもった児玉源太郎は、いつまでもその存在を語り続けたい誇りある郷土の英雄です。

徳山に生まれ、幕末から明治という時代を駆け抜け日本の窮地を救った児玉源太郎。
その優しいまなざしで、ふるさと周南・徳山と私たちの未来を温かく見守っています。

平成23年7月

(銅像・碑文より)


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史跡 | 19:07:21 | Comments(0)
福原元幽閉之地
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福原元(ふくはらもとたけ)幽閉之地

福原元は越後ともいわれ徳山藩8代藩主広鎮(ひろしげ)の子で後に宗藩の福原家を嗣ぎ、常に藩の要職をつとめた人物である。
幕末の動乱期の禁門の変(1864)には宗藩の家老で総大将をつとめた。
この変は長州藩の敗退に終り、元はその責任を問われて、益田右衛門介、国司(くにし)信濃とともに俗論派政府により切腹を命じられた。
この三人の家老は、徳山藩で預かることになり、益田は総持院に、国司は澄泉寺に幽閉され同年11月11日に切腹した。
元は徳山藩の衣笠伊織宅(この付近)に幽閉されたが、徳山藩主の子であるため岩国に護送され、11月12日に切腹し、波乱に満ちた50年の生涯を閉じた。

平成15年4月
周南市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 18:45:51 | Comments(0)
児玉家屋敷跡
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児玉家屋敷跡
児玉大将産湯之井戸

日露戦争で、満州軍総参謀長を務めた陸軍大将、児玉源太郎(1852~1906)は、嘉永5(1852)年2月25日にこの地にあった児玉家の屋敷で生まれました。
当時使用していた井戸が保存されており、「児玉大将産湯之井戸」の標石があります。
児玉家は源太郎の父半九郎の死後、安政5(1858)年に浅見栄三郎の次男、厳之丞(のちに次郎彦)を源太郎の姉久子に迎えて家を継がせました。
次郎彦は藩の大目付等を務めましたが、『正義派』の一人として活動したため、元治元(1864)年8月12日早暁、『俗論派』によってこの屋敷の玄関で非業の最期を遂げました。
次郎彦の死後間もなく、児玉家は藩の命令で家名断絶、屋敷は没収されましたが、『正義派』が政権をとるや、慶應元(1865)年7月13日、源太郎が家名を相続し、現在児玉神社がある場所に新しい屋敷が与えられました。
この屋敷跡は明治になって源太郎が買い戻し、当時の屋敷の一部を残して、大部分は近代的な児玉文庫としましたが、昭和20(1945)年、太平洋戦争中の徳山空襲で焼失しました。

周南市教育委員会

(説明板より)

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児玉文庫開設百周年記念

児玉源太郎は 1852年(嘉永5) ここ旧児玉家屋敷に生まれ 産湯を使った井戸は150年の風雪に耐え 今も保存されています。
その後 幕末・維新の動乱期まで郷里徳山で過ごし 徳山藩の献功隊の一員として 東北地方から北海道まで遠征しました。
ついで 佐賀の乱・西南戦争 日清戦争でも活躍し 特に日露戦争では満州軍総参謀長として 多大の戦功をあげました。
一方 陸軍大臣としてだけでなく 内務大臣・文部大臣・台湾総督などを歴任し 政治家としてまた文化人として多大の功績を残しています。
中でも1903年(明治36) ふるさと徳山のこの地に 後進を啓発するために開設した児玉文庫は 正に驚くべき快挙です。
児玉家を改装して開設した文庫は 近代図書館の先駆けをなすもので 当時のイギリスの新聞にも紹介され 徳山の誇りとする偉大な業績の一つです。
この由緒ある文庫は 誠に残念なことに 先の大戦ですっかり焼失してしまい  僅かに「児玉文庫」の門標に その面影をしのぶことができます
児玉源太郎の文庫に寄せられた愛郷心は 実に称賛されるべきもので その心は 広く市民に伝えていかなければなりません。
ここに 文庫開設百周年にあたり 記念碑を建立し その業績を称えるものです。

平成15年11月3日
児玉源太郎顕彰実行委員会

(記念碑・碑文より)



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史跡 | 17:46:14 | Comments(2)
本城三儒屋敷跡
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本城三儒屋敷跡

本城三儒とは、本城家に三代にわたって偉大な儒学者が続いたのでこの名称がある。
三儒とは、紫巌・太華・素堂のことである。
紫巌(しがん)(1737~1803)は最初、萩の明倫館で山根華陽に学び、やがて江戸の滝鶴台で学ぶ。
帰藩してから天明5年(1785)鳴鳳館が創立されると学頭としてその発展に尽力した。
太華(たいか)(1775~1844)は、紫巌の子で、九州の高木紫溟や亀井南冥に学び帰藩して鳴鳳館の助教となり、更に世子広篤(後の9代藩主元蕃(もとみつ))の侍講となる。
素堂(そどう)(1825~1865)は、通称清といわれ、徳山藩士江村氏の出で本城家を嗣ぐ。
藩主元蕃の近侍兼文学師範をつとめ、政務にも参与した。
後に興譲館の教授となり更に世子元功(もとこと)の近侍となる。

平成15年4月
周南市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 16:23:46 | Comments(0)
奈古屋蔵人屋敷跡
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奈古屋蔵人(なごやくらんど)屋敷跡

奈古屋蔵人(1742年~1793年)は、徳山藩の家老で、宝暦8年(1758年)16才のとき父の跡を受けつぎ、30年余にわたり、広寛(ひろとも)、就馴(なりよし)の2人の藩主に仕えました。
その間、江戸の藩邸につとめること8度、宗藩にも度々出向くなど藩の発展に尽しましたが、学問を好み、特に藩校「鳴鳳館」の創設に尽力しました。
蔵人は徳山藩の著名な藩士の一人で、後世その遺徳をたたえて、文化4年(1807年)に八正寺に追慕の碑が建立されましたが、現在は大迫田に移設されています。

平成15年4月
周南市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 15:05:12 | Comments(0)
山口・福岡の旅(6)
午後2時という遅い昼食を終え・・・・一服・・・・
今日は福岡に移動して博多に宿泊する予定。
まだ博多に行くには、ちょっと早い。
どこか、その辺をブラブラしてみようかとホテルのロビーに置いてあった観光パンフレットを見てみたら・・・
あらら・・・児玉源太郎の銅像があるってか?(笑)
行かねばなるまい!
児玉源太郎生誕の地もあるってか?(笑)
児玉源太郎って徳山の出身だったんだぁ~
行かねばなるまい!(笑)
いいものを見つけた!
現地で資料を入手しないとわからないものもあるから、資料収集は必須である。

場所は駅の向こう側のようなので、とりあえず駅のコインロッカーにカバンを預け、ブラブラと出かけることにした。
で・・・問題は、このマップである。(笑)
観光用のイラストマップ・・・・
イラストマップって、どこでもそうだが、表示位置が正確ではない。
ざっくりとした位置しか示していないので、おおよその見当をつけて歩くしかない。

で・・・こっちのほうだろうと方向だけを決めて歩いていたら・・・
あら?
マップには載っていない“史跡”があるではないか!
ちゃんと標石や説明板も立てているんだから、こういうものもマップには載せておいてもらいたいものである。

260_convert_20120513212000.jpg(奈古屋蔵人屋敷跡)

山口銀行徳山支店の脇に「奈古屋蔵人(なごやくらんど)屋敷跡」の碑が・・・
この人・・・徳山藩の家老らしい。
ん・・・・知らない・・・(笑)

斜向かいの徳山市役所に銅像を発見!(笑)
野村恒造という人の銅像だが、側碑の碑文が文字が薄れていて、よく読めない。
貴族院議員などを歴任した政治家らしい。

273_convert_20120513212932.jpg(本城三儒屋敷跡)

更に10分ほど歩くと、道路の分離帯のところに何かの標石と説明板が・・・
道を渡って行ってみると・・・
「本城三儒屋敷跡」だそうだ・・・・
本城家から三代にわたって偉い儒学者が出たので、「本城三儒」と名付けたそうである。
ん・・・本城家って・・・誰?(笑)

さて・・・お目当ての児玉源太郎の生誕地跡・・・
観光イラストマップを見ても、どのあたりなのかはっきりとは分からない・・・(涙)
“町内”をグルグル回ってようやく見つけた!
どの道に面しているかをハッキリ明示してくれないと困るんだよねぇ~
裏道に面しているのかと思い、一本、裏の道を散々探し回ってしまったじゃないか!(笑)

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ようやく辿り着いた児玉源太郎生誕の地・・・すなわち「児玉家屋敷跡」は、駐車場になっていた!
で・・・産湯の井戸と記念碑が駐車場の奥に・・・
敷地内に入っていいのやら悪いのやら迷うところであるが、説明板が建っているんだから、入ってもいいんだろうと判断して敷地内に侵入・・・(大笑)
本当に、こういう時には迷うんだよねぇ~
不審者と間違えられたら嫌だし・・・・

ここでUターンして、駅に向かって戻ることにする。

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途中で、「福原元(ふくはらもとたけ)幽閉の地」の標石と説明板に出会う。
この人・・・徳山藩主の息子で、長州藩の家老を務めた人らしい・・・
ふ~ん・・・知らないなぁ~(笑)
博学の水戸藩士“シミズくん”ならば知っているのだろうが・・・(笑)

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市役所まで戻ってきた。
今頃気付いたのだが・・・市役所前の通りの中央分離帯に花が植えてあった。
あら・・・綺麗なこと・・・
ということで、パチリ!
で・・・徳山税務署の前も花で飾られていたので、これも綺麗だなぁ~と・・・パチリ!
道行くOLに「何してんの?このオッサン?」という顔で睨まれた・・・(汗)
別にあなたのスカートの中を撮ろうって言うんじゃないんですよ・・・
花を撮りたいからカメラを持ち出したのでして・・・
と・・・あらぬ疑いをかけられそうな気がしてドキドキである。
ちょっとタイミングが悪かったか・・・・(大笑)

次に向かったのが・・・お楽しみの児玉源太郎の銅像があるという「児玉公園」・・・・
さて・・・どんな銅像なのだろう?
ワクワクである!(笑)

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公園の隅に銅像が!(喜)
この銅像は、台湾の国立博物館にあるもののレプリカだそうだが・・・・
先月、台湾に行って特別に見せてもらった実物のほうは、かなり劣化していて顔も何もよくわからなかった。
ほぉ~こういう銅像だったのかと感無量である!

この公園の奥に「児玉神社」がある。
児玉源太郎を祀っている神社だそうだ。

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この神社の周囲の石碑・顕彰碑などを見ているうち、時刻は3時となる。
そろそろ駅へ戻ろうか・・・・

322_convert_20120513224426.jpg(徳山駅在来線口)

連絡通路を通って駅の反対側の新幹線口へ向かい、駅前の喫茶店で一服・・・・
新幹線口の前は閑散としている。(笑)
どういうわけか、新幹線口の駅前が開発が進まず閑散としているという町は多い。
更には、最近は駅前で喫茶店を見つけるのも難しくなった。
スターバックスやらドトールがあれば良いほうである。
“純喫茶”のような昔ながらの喫茶店を見つけるのは困難な時代となったが・・・
ここに1軒だけ・・・昔ながらの「タバコも吸える」(大笑)、喫茶店が・・・!
嬉しいなぁ~落ち着くなぁ~
ということで、ここで一服した後、午後4時発の新幹線「こだま」で博多に向かう。

323_convert_20120513224829.jpg(徳山駅新幹線口)

が・・・
車内に若いオニイチャンのグループが・・・
こいつらが、またうるさいのなんのって・・・馬鹿話に馬鹿笑い、加えて大はしゃぎ・・・
貸切じゃねぇだろう!
直ぐ近くなら、文句を言ってもいいが・・・
少し離れているから始末が悪い。
わざわざ向こうまで行って文句を言うのもねぇ~
博多までの1時間半・・・こいつらのドンチャン騒ぎに付き合わされることになる。

昔なら、「てめぇら静かにしろ!」と凄んだものだが・・・
歳を取っちゃったせいか・・・その元気がない・・・(大笑)
情けない・・・
歳は取りたくないもんだ・・・(大笑)

午後5時半、終点・博多駅に到着し、駅前のホテルにチェックイン・・・・
以前何度か泊まったホテルは満室のため予約が取れなかった。
で・・・初めて泊まるホテルだが・・・
レストランが・・・ない!
うっかり、そこまで調べていなかった。(笑)
フロントで尋ねたら居酒屋風の店が地下階にあるだけとのこと。
博多の駅前なので、周囲にはそれなりにたくさんの飲食店があるが・・・
どこを見ても居酒屋しか目に付かない。
なんで居酒屋ばかりなんだ?
落ち着いて一人で食事が出来そうな店が見当たらない!
というわけで・・・午後6時半、直ぐ近くの別のホテルのレストランに食事に出かけることにした。
ホテル内のイタリアンレストラン・・・
今度は高級過ぎて・・・落ち着きすぎて、逆に落ち着かない・・・(大笑)
うまくいかないものである。

旅行 | 14:46:46 | Comments(0)
回天発射訓練基地跡
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回天発射場跡

人間魚雷「回天」は太平洋戦争末期、戦局の劣勢を挽回しようと空からの「神風特別攻撃隊」とほぼ同じ時期に戦場に登場した。
この発射場は、93式魚雷試験発射のためのもので昭和12年に開設された。
それ以前の発射試験は呉市大入(だいにゅう)の発射場で行っていたが、大遠距離射線を備えたこの発射場が完成し、以後ここから発射した。
昭和19年9月1日、この地に回天基地が開設され回天の操縦訓練が開始された。
回天の訓練は、ここから発射場横の海面に運ばれ、熟練度に従って直線往復、島の半周、一周、停泊艦襲撃、航行艦襲撃等と搭乗員は猛訓練に明け暮れたのである。
その訓練は終戦の日、昭和20年8月15日まで続けられた。

(説明板より)

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回天発射訓練基地跡

この回天発射訓練基地跡は、昭和14年(1939)に建設された「九三式酸素魚雷」の発射試験場を、人間魚雷回天の発射訓練に活用したものです。
「九三式酸素魚雷」は、昭和8年(当時の日本暦2593)に製作されたもので、長さ8.5m、直径61cmで、速力は50ノット(およそ90km)で、世界で最も優れた兵器のひとつでした。
この魚雷の発射試験は、魚雷を調整工場(現大津島小学校地)からトロッコに乗せて、トンネル(隋道)を通って、ケーソン(鉄やコンクリート製の箱)で構築された発射台まで運び、天井クレーンで台の穴から海面に降ろして行われていました。
昭和19年9月5日から、この施設を利用して回天の発射訓練に使用することになりましたが、「九三式酸素魚雷」を改良して人が乗れるようにした回天は、長さ14.75m、直径1mあり従来の穴から降ろせないので、別にクレーン(起重機)を設置して、突堤から海面に降ろしました。
(今もクレーンの支柱跡が残っています。)
ここを起点として発射訓練が行われ、馬島回りのコースや大津島回りのコースなどがありました。
なおトンネルは当時のもので、長さ247m、入口の幅3.5m、高さ4mで、中央部の複線で広くなっている所には、当時を回想する7枚の大きな写真が展示されています。

周南市都市整備課

(説明板より)


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史跡 | 13:44:55 | Comments(0)
山口・福岡の旅(5)
休憩所のオバサンと楽しい会話をして・・・さぁてぇ~港に戻ろうかなと、休憩所を出て坂道を降りる。
と・・・途中で坂道を登ってくる、ご年配のご夫婦と出会う。
「記念館はまだこの先ですか?」とオバサン。
ご主人は、多分脳梗塞か何かをされたのではなかろうか、杖を突いて半身が不自由な感じ・・・・
息を切らして、身をかがめて一休み中だった。
「この坂の更に先の坂道をもう少し登りますが・・・」
「え~じゃぁ、ちょっと無理だわぁ~お父さん!ここで戻りましょう!これ以上は無理だから!」とオバサン。
結局、このご夫婦は、坂道の途中で引き返すこととなった。
え~、ここまで来て、もったいない・・・・
「記念館に車椅子があるかどうか聞いてきましょうか?車椅子があれば登れるでしょうし・・・僕が押してあげますから・・・」
「いやぁ~諦めますから、いいですよ」
「そうですかぁ?ここまで折角来たのに・・・」
「ご親切にどうもありがとうございます。でも、もう結構ですから・・・」とおっしゃるので、あまりお節介を押し付けても迷惑だと思い坂を降りることにした。

次に向かったのは、人間魚雷「回天」発射訓練基地跡・・・
トンネルを抜けて向こう側に行くと、その訓練基地の建物がある。

240_convert_20120511175227.jpg 243_convert_20120511175427.jpg

どうもここは、釣り場になっているらしい・・・
2人ほど釣り客が釣り糸を垂らしていた。
う~ん・・・写真を撮るのに・・・邪魔だ・・・(笑)

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港に戻り、待合所を覗いてみたら、無料で貸し出しの車椅子が置いてあった。
あらら・・・
そこへ、先ほどのご夫婦が・・・
「ここに車椅子がありました~!どうですか?これで行ってみますか?押してあげますけど・・・」
「いやぁ~度々すみません。でも、もう諦めました~」
で・・・このご夫妻と、待合所でおしゃべり。
高速艇の出港する時間まで、まだしばらくある・・・
と・・・そこへ、拙者より年上の夫婦がやってきた・・・
「行ったの?行かなかった?もう少し行けば着いただろ?行けばよかったのに・・・俺は見てきたけどね」と、この男の人が言う。
「あの坂では行けるわけないでしょ!あそこまでが限界よ」とオバサン。
あらら・・・
もしかして・・・息子さん?
うそぉ~息子さん夫婦も一緒だったの?
で・・・体の不自由な親をほったらかしにして自分達だけで記念館に行ってたの?
唖然である。
こやつ・・・拙者の嫌いな団塊の世代か?
「いやぁ~うちの親父が世話になったみたいで・・・」と言われりゃ、「いやぁ~余計なお節介をしてすみません・・・」と、そこから会話が始まるというものであるが・・・
ご両親とおしゃべりしていても、半分睨むように拙者を見て、フンと横を向かれちゃ話にならぬ。
コミュニケーションの取れない奴だ・・・
団塊の世代だな・・・

それでも・・・この老夫婦との会話は弾む。
平日に旅行とは、優雅な生活をしてますねぇ~と笑われる。
「引退する歳じゃないですよね?」と言われたので、「廃業して、貯金を崩して生活してます」と答えたら、「いやぁ~かなりの資産家で・・・」と言われてしまった。(笑)
そうじゃないんだけどなぁ~
でも、無理もないか・・・普通の人では考えられない行動をしているんだから・・・

時刻は昼を過ぎている・・・
腹が減って溜まらん・・・
この島には食堂が1軒あるそうだが、平日は閉店していると無料休憩所のオバサンが言っていた。
日曜など観光客が多いときにしか開けないのだそうだ・・・
なんという不便な島か・・・・(涙)
あ~腹が減って死にそうだ・・・(笑)
山に登ったから尚更である。

ちょうどこの午後は2時間に1本しか出ない帰りの高速艇に乗り、徳山港へ戻る。

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高速艇から見た大津島・・・・
写真の左の山に登った・・・ネクタイ締めて、ジャケット姿で・・・しかも革靴で・・・(大笑)

港に着き、先ほどの老夫婦とお別れ・・・・
「いろいろと気を遣ってもらってすみませんでした。お気をつけて旅を続けて下さいね」と言われる。
う~ん・・・なんとなく“フーテンの寅さん”になった気分・・・(大笑)
「いやぁ~余計なお節介ばかりしまして失礼しました」とご挨拶して船を下りる。
息子さんは・・・無表情・・・・
この世代だな・・・・日本を駄目にしたのは・・・(笑)

ホテルに戻って、預かってもらっていたカバンを受け取り・・・
ん?どうせだから、ここのレストランで食事をするか・・・
と思ったら・・・既にオーダーストップの時間。
それでも、係りの人が厨房と交渉して、和食の定食なら提供できるというので、お願いする。
いやぁ~わがまま言ってすみません!

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値段の割には豪華な定食!大満足である!
「和食しかなくて、すみません」と担当の女の子。
「いやぁ~大津島に行ってきたんですけどね。食べるところがなくて、危うく餓死するところでしたぁ~。いやぁ~これで死なずに済みました」と言ったら笑われた・・・(笑)

旅行 | 12:29:27 | Comments(0)
魚雷見張所跡
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魚雷見張所跡

回天基地が建設される前、すでに大津島では九三式酸素魚雷の試験発射場や整備工場が整備されていました。
この魚雷見張所跡は発射試験場から発射されたものを見張るために造られたものです。

大津島観光協会

(説明板より)


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史跡 | 11:29:33 | Comments(0)
回天推進装置の一部
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回天推進装置の一部

「回天」の推進部―93式魚雷(高圧酸素を燃焼に使用したため、航跡の殆ど出ない優れたものであった)の燃焼室及びシリンダー部並びに推進軸である。
「回天」を甲板に積んだ潜水艦は水深100メートル位まで潜入するので、その水圧に耐えるために、技術陣も改良に非常に苦心した。
燃焼室には石油を噴霧状態で送り高圧酸素で燃焼させ、そこに海水を噴射すると高圧の水蒸気を含む混合気ができ、ピストンを駆動しプロペラを回転させる機構である。
燃焼室で点火しないと、高圧酸素と石油ガスの混合気がそのまま送られ、たちまちシリンダーで爆発を起こし、エンジン部は破壊される。
その他、操縦系統の万全を期する等、整備関係員の苦労も大きく、必死の努力がなされた。

(注)
このエンジン部分は、終戦時、海中投棄されていたものを、防府市野島の漁業者が引き上げ、航空自衛隊防府北基地に収容されていたものを当記念館が譲り受けた。

昭和63年10月

(説明板より)


より大きな地図で 回天推進装置の一部 を表示


史跡 | 10:11:36 | Comments(0)
山口・福岡の旅(4)
今日は予備日・・・・
なにせ“コンドウさん”は90歳・・・
当日になって体調が優れないということもあり得る。
ということで、2日間を用意しておいた。
当初の予定の昨日、もしお会いできなければ、岩国周辺を散策して徳山に移動・・・
今日、お会いしようと思ったが、予定通り昨日お会いすることができた。
で・・・今日は・・・・
大津島へ行ってみよう!
以前から行ってみたかった場所である。
ここには人間魚雷「回天」の訓練基地跡がある。

午前8時30分チェックアウト
このホテルになぜ宿泊したかというと・・・・
大津島行きのフェリー乗り場に一番近いホテルだからなのである。(笑)
実は当初から行く気満々・・・だったのである。(大笑)

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大津島行きの乗り場のところに、人間魚雷「回天」のレプリカが展示されてあった。
どうも映画に使われたものらしい。
で・・・この乗り場、案内表示が分かりづらい。
反対側の建物が乗船券売り場のようで、他の観光客もちょっと迷っていたようである。

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高速艇で約20分で大津島に到着。

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「ようこそ回天の島へ」の看板が目立つが・・・・
周囲は閑散としている。
あらら・・・である。
他の数名の観光客と行動を共にする気はないので、わざと別の場所を散策して時間をずらすことにする。

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山の中腹の坂道を登って、「回天記念館」へ向かう。
このコンクリートの側壁は当時からあったものらしい。
なだらかな坂ではあるが・・・・なだらかなるゆえに、ちょっとキツイ・・・
この微妙な坂道が結構、運動不足の身には堪えるのである。(笑)
途中にある、休憩所「養浩館」で、缶ジュースを買い、一服。
ここには「回天」特攻隊員の写真などが展示されていた。

再び緩やかな坂道を登り・・・・ようやく「回天記念館」に到着。
内部は特攻隊員の遺影を除き撮影可能とのこと。

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記念館のある丘を降り、隣の山を登ってみることにした。
頂上まで600mとの案内板・・・・
600mならば大した事はなかろうと登り始めたが・・・
ゲゲッ・・・意外にもキツイ坂道・・・
運動不足の身には堪える・・・
来週、ルソン島北部の山岳地帯に入り、祖父の陣地跡まで登る予定でいるのだが・・・
この程度の山で顎を出しているようでは・・・・ヤバイ・・・(汗)
今までの不摂生を後悔しても、時既に遅しである。

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頂上までの600mを登るのに約20分・・・・頂上に至る。
頂上には・・・なにもない。(笑)
「ホーホケキョ!」・・・と、綺麗な声で鳴く鳥が・・・ウグイス?
「おお!君、なかなか上手だよ。うまいねぇ~」と声をかけてやる。
と・・・褒められて調子に乗ったのか、更に何度も「ホ~ホケキョ!」・・・
ん?人間の言葉が通じるのか?(大笑)
こちらも負けじと口笛で「ホーホケキョ!」をやろうとしたが・・・・
息が切れているに加えて、口がカラカラに渇いていて口笛が吹けない。
「ホーホーホー」とかすれた音・・・
それを聞いて拙者を馬鹿にしているのか「ケキョ、ケキョ、ケキョ!」と鳴かれる。
チクショウ!ウグイスに馬鹿にされた!
しばし、頂上でウグイスと遊ぶ・・・(大笑)

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(頂上から見た景色)

この頂上の近くに「魚雷見張所」跡の廃墟がある。

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ここを見て、山を降りることにする。
で・・・疲れたので・・・・(笑)
休憩所に立ち寄り、またもや缶ジュースを・・・
ちょうど休憩所のオバサンがいたので、このオバサンとおしゃべり。
あれやこれやで大いに話が盛り上がる。

山の頂上まで登ってきたという話をしたら・・・
「ケムシ・・・大丈夫でしたか?」と言う。
「え?ケムシ?」
「ええ、木の枝から落ちてくるんですけど・・・大丈夫でしたか?」
「ゲゲッ!うそ~!知らなかったぁ!」(大笑)
そう言われると、首筋がなにかモゾモゾとする気がするが・・・気のせいか?(大笑)

ここには自衛隊の新入隊員が研修に来るそうである。
携帯食糧を持って来るそうだが・・・
引率の上官が缶詰の蓋を開けてやって、懇切丁寧に面倒を見るのだそうである。(唖然・・・)
「今の子供は、そこまでしてもらわないと駄目なんですかねぇ~」とオバサン。
もしかして、小学校の遠足よりレベルが低いのではないか?・・・・それ・・・
「そんなことで国が守れるんですかねぇ~って思っちゃいますよ。あれを見たら・・・」とオバサン。
でしょうねぇ~
同世代で「回天」に搭乗して散っていた人達とは大違い・・・・
缶詰の蓋を上官に開けてもらうなんて・・・大丈夫かねぇ~そんなことで・・・・
それを英霊達が見たら何と思うだろうか?
背筋が寒くなる・・・・

と・・・売店内に資料らしき本が・・・・
あら!あるじゃない!資料!
実は、「回天記念館」には、この手の資料の販売はされていない。
オバサンに尋ねたら、市の施設なので販売行為はできないのだとか・・・
うそぉ~
偶然見つけて感激!早速購入する。
「オバチャン!駄目だよぉ~入口にに大きく“資料集を売ってます!”って書いて貼っておかないとぉ~」(笑)
「すみませんねぇ~商売っ気がないもので・・・」(笑)
拙者は、どこへ行っても「お節介なコンサルタント」である。(大笑)

旅行 | 09:15:02 | Comments(0)