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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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巌流ゆかりの柳
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巌流ゆかりの柳

佐々木巌流小次郎は宮本武蔵との勝負に敗れましたが、小次郎の『つばめ返し』の剣法は天下無双であったということです。
吉川英治氏は小説『宮本武蔵』のなかで、岩国で生まれた小次郎は、母から家伝の長光の刀(一名物干し竿)を授かり、この辺りの柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、遂に『つばめ返し』の術を編み出したと記しています。

(説明板より)


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史跡 | 20:45:40 | Comments(0)
槍倒し松
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槍倒し松(やりこかしまつ)

この松は、岩国武士の負けず嫌いを表徴する有名な槍倒し松です。
昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。
岩国藩が6万石の小藩であるため岩国の武士達はこれを見て憤慨し、そこでかなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえどもどうしても槍を倒さなければ通ることができないようにしたものです。
今では昭和10年(1935年)の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移りましたが元は川辺りにあって、ここの石段が坂道になっていましたから大名が槍を倒して坂を登るのを見て岩国武士達は溜飲を下げていたということです。
昭和19年(1944年)頃、この地方に発生した松喰虫によって、この松も昭和27年(1952年)8月残念ながら枯れてしまいました。
この松は初代の松の実から自生した直系の松を昭和43年(1968年)2月15日三代目槍倒し松として吉香公園から移したものです。

樹齢 300年
樹の高さ 14.5メートル
幹の周囲 3.7メートル
樹冠の面積 323平方メートル

昭和29年1月 岩国保勝会

(説明板より)


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史跡 | 19:11:13 | Comments(2)
香川家長屋門
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山口県指定文化財
建造物 香川家長屋門 1棟
指定年月日 昭和41年6月10日 山口県有形文化財
管理団体 岩国市

説明

香川家長屋門は岩国藩家老香川氏の表門で今から270年余前香川正恒が建造したもので建築面積123.14平方メートル江戸時代の武家門造の典型として城下町岩国をしのぶ好個の資料であります。
香川家は初め芸州(広島県)八木城主で吉川広家が岩国に移封された当時客分から家老に取り立てられた名門であり、かの歴史的に有名な陰徳太平記は正恒の父正矩苦心の作で正恒の弟景継が大成したものであります。
その他香川家からは為政者あるいは歌人の優れた人物が輩出しています。
この長屋門は昭和30年1月25日山口県指定文化財顕彰規定により指定されていましたがその後昭和40年山口県文化財保護条例が制定され同41年6月10日山口県有形文化財の指定を受けました。
なお、この建造物は当主香川晃氏から昭和30年10月25日、岩国市に寄贈されております。

岩国市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 18:53:06 | Comments(0)
岩国城跡旧天守台
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岩国城跡旧天守台について

岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。
この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同13年に完成したが、元和(げんな)元年(1615)一国一城令により破却された。
城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。
天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの石からなり、隅部の角石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。
その隅部には、反(そ)りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。
これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。

(説明板より)


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史跡 | 17:32:05 | Comments(0)
岩国城
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岩国城天守閣由来

岩国城は、吉川家17代の広家公が慶長5年岩国に移封されてより建設が計画され、先ず最初に山麓に平生の居館を構え、ついで横山の要害を城と呼び、山麓の館を土居と称した。
岩国城は、慶長8年、二宮佐渡が鍬初めを行ない築城奉行に松岡安右ヱ門、祖式九右ヱ門、吉田宗右ヱ門等を任用し、5年の歳月を要して慶長13年(西暦1608年)に山頂の要害はことごとく完成し城藩制が定められた。

●築城当時の岩国城の規模
城山の尾根沿いに長さ180米、横に108米~54米、石垣の高さ5.4米、天守閣は桃山風の南蛮造りと言われ、四層五階で本丸の北隅にそびえていた。
この外に矢倉5棟、折り回し大門2門、埋門1門、井戸2掘があった。
横山側の前方を大手とし、御庄後方を搦手として錦川を隔てて北方に安芸境をにらんでいた。
元和元年(西暦1615年)6月、徳川幕府の一国一城の制により取り壊しにあった。
その後城跡は石垣の一部を残し荒涼たること約360年にして昭和36年3月復元工事に着手し、昭和37年3月に竣工したものである。

(説明板より抜粋)


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史跡 | 16:10:01 | Comments(0)
山口・福岡の旅(2)
一応、ロープーウェイ乗り場へ行って見たら、山頂行きの最終便が出るという。
が・・・岩国城の内部の見学は時間的に不可能とのこと。
5時の最終下りの便には間に合うようにと何度も念を押される。(笑)
時刻は4時過ぎ。
岩国城のところまで行って戻ってくる分には最終の下りの便には間に合うらしいので行ってみることにした。

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ロープーウェイの山頂駅から岩国城までは徒歩で約10分とのこと。
お城のほうから団体客がゾロゾロと降りてくる中を、拙者は一人、城に向かう。(笑)
緩やかな上り坂の山道を登り・・・岩国城へ・・・

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内部は資料館になっているらしいが、当然、閉館時間である・・・・
外観だけを見る・・・
と・・・そのとき携帯電話が鳴った・・・
誰かと思ったら税務会計事務所の“フクシマくん”からである。
会社の決算の日程打ち合わせの電話だった。(笑)
拙者の会社は実質廃業して従業員は誰もいないし何の仕事もしていないが、一応、名前だけは生きている。(笑)
工場の建物を他社に貸しているので、一応、これが現在の“事業”かな?(笑)
というわけで、公式にはまだ存在している会社なので決算がある。
それをいつやろうかとの電話・・・
「今、どこですか?」
「え~と・・・山口県!」
「はぁ?今回は山口ですかぁ?(笑)」
「そういえば、いつも俺が旅行中に電話をしてきてない?」
「そういえば、そうですよねぇ~前に電話した時もどこかを旅行中でしたよね?(笑)」
なぜか、この“フクシマくん”からの電話は、いつも拙者が旅行中にかかってくるのである。
不思議なタイミングである。(大笑)

岩国城の写真を撮って、坂道を降り、ロープーウェイの頂上駅に向かう。
早目に行ってないとね。
最終便に乗り遅れたら大変である。
こんな山頂に置き去りにされたら堪ったもんじゃない!(笑)
野宿は嫌じゃ!(大笑)

092_convert_20120503230323.jpg(頂上駅)

頂上駅からの見晴らしはいい・・・・
無理して来た甲斐があった。
川が大きく蛇行しているとは知らなかった・・・・
ず~っと向こうに、岩国の米軍基地が見え、米軍機が離陸しているのが見えた。

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無事に最終のロープーウェイに乗り“下界”へ降り(笑)、帰途につく。
が・・・途中のアイスクリーム屋で甘酒を売っていたのを発見!
向こうのアイスクリーム屋は若いお兄ちゃんが呼び込みをしている。
こっちのアイスクリーム屋は若いお姉ちゃんが呼び込みをしている。
たとえ“スケベ中年オヤジ”と言われようとも、若いお姉ちゃんのいる店に立ち寄るのは人情というものである!(大笑)
店先で甘酒をすすりながら一休み・・・
と・・・まもなく学校帰りの女子高生らしき集団がやって来た。
さすがにアイスクリーム屋の店先で甘酒をすすっているのは気がひける・・・(大笑)
急いで退散する。(大笑)

再び錦帯橋を渡り、ホテルに戻る。
ロビーに一列に並んだ従業員から「お帰りなさいませ!」と言われるのは照れくさい・・・(笑)
拙者はそれほど偉くはないのだが・・・(大笑)
で・・・今度は、ホテル内の売店でお土産を買うことにした。
お店のオバチャンとあ~でもねぇ、こ~でもねぇと世間話をしながらの“お買い物”・・・・
こういう旅先での会話が楽しいのである。
こういう会話は相手が“オバチャン”でなくては弾まない。
悲しいかな・・・若い女の子は会話が下手である。(笑)
お土産を宅急便で送る手配をして“オバチャン”とはお別れ・・・・

さて・・・今晩の夕食・・・・
ここはホテルと言っても温泉旅館のようなホテルである。
団体客が多いようで、通常は夕食付きの宿泊である。
が・・・拙者は、夕食なしの怖ろしく狭いシングルルーム・・・・(笑)
ホテルの周囲にはこれと言った食事のできそうな場所もないようだし・・・
というわけで、ホテル内で食事をすることにした。

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売店の“オバチャン”に勧められ、中華レストランで夕食・・・・
が・・・店内には客が誰もいない・・・(笑)
そりゃそうだ・・・お客は団体客ばかり・・・みなさん宴会場でお食事なんだろう。
一人で中華というと、コースは頼めないから一品料理とならざるを得ない。
で・・・焼きそば・・・・
質素な夕食となる・・・(大笑)

それにしても不思議なもので・・・・
ここ2週間ばかり胃が痛くてどうしようもなかったのである。
滅多に胃薬を飲まないのだが、何年ぶりかで胃薬を服用・・・
しかし、一箱全部飲んでも胃痛は治らない。
この痛み・・・・
以前、胃潰瘍を起こしたときに似た痛みである。
参ったなぁ~と思いながら旅に出たが・・・
食事中、気が付いた・・・
あれ?痛みが消えている!(大笑)

あの胃の痛みはストレスか?(笑)
旅に出たらケロッと治ってしまった。
旅とは素晴らしい効用があると改めて実感しながら・・・焼きそばを食べる。(大笑)

で・・・午後7時過ぎ・・・・
他の客は宴会中だろうと・・・大浴場に向かう。
思ったとおり!(喜)
大浴場には誰もいない!
貸し切りだぁ~!(喜)
露天風呂も・・・貸し切りだぁ~!(大喜)
ラッキー!

旅行 | 15:22:18 | Comments(0)
吉香神社
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国指定重要文化財
吉香神社

本殿
拝殿及び弊殿 3棟
神門
鳥居 1基
付 棟札 2枚
指定年月日 平成16年12月10日
所有者 宗教法人 吉香神社

吉香神社は岩国藩主吉川氏歴代の神霊を祀る神社で、現社殿は、享保13年(1728)横山の白山神社内に造営され、明治18年(1885)に旧城跡の現在地に移築されたものです。
鳥居、神門、拝殿及び弊殿、本殿が南から北に一直線に並んだ構成となっています。
神門は、小型の四脚門で冠木中央に吉川家家紋があり、拝殿は、入母屋造妻入りで背面に弊殿が張り出し、本殿は三間社流造で正面に軒唐破風、千鳥破風が付されています。
いずれも軸部から小屋組まで当初形式をよく保持しており、充実した細部を備えた丁寧なつくりとなっています。
特に本殿と拝殿および弊殿は独特な形式で複雑な架構と屋根形式を巧みにまとめていて、独自性が認められます。
全国的にも数少ない祖霊を祀る神社建築で、全体に岩国藩大工の質の高い技術が窺え、地方における江戸中期の優品として、高い価値が認められます。

岩国市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 14:39:06 | Comments(1)
吉川経家弔魂碑
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吉川経家弔魂碑

天下統一を目指す織田信長は、天正8年(1580)6月、羽柴秀吉をつかわして鳥取城攻めを開始した。
鳥取城主山名豊国は、城内の多数の意見を無視して秀吉に降伏し、城外に脱出した。
豊国の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家に命じて城督とした。
天正9年3月、経家が入城し城内を調査したところ、貯蔵された食料がわずか3カ月分位しかなく、食料の補給を図ったが、城内に搬入しようとする輸送船は、すべて秀吉軍に捕獲された。
時日が経過するに従って餓死する者が続出し、その惨状は言語に絶した。
開城の条件として、城兵全員の救助を誓約し10月25日「天下を争う織田・毛利両家の二つの御弓矢の場で切腹する自分を名誉に思う」という遺書をしたため、城内広間において35才の命を断った。
その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。
その英魂を弔うため、昭和14年弔魂碑が建立され、礎石に鳥取城の石12個が使用されている。
なおこの場所は、江戸時代にその吉川氏の屋敷のあった所である。

(説明板より)


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史跡 | 13:50:33 | Comments(0)
旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡
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旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡

駿河(するが)(静岡)を拠点として活動していた吉川(きっかわ)氏は、正和2年(1313)、吉川経高(つねたか)の代に弟たちとともに安芸(あき)(広島)に拠点を移した。
これが安芸吉川氏であり、後の初代岩国藩主吉川広家(ひろいえ)はその直系にあたる。
それに対し、吉川経高とともに安芸に移った弟の一人、吉川経茂(つねしげ)は、後に石見(いわみ)(島根)に領土を得て移り住んだため、石見吉川氏と呼ばれている。

天正9年(1581)、織田信長の命により中国地方に進出した羽柴秀吉は、鳥取城へ軍を進めた。
このとき、鳥取城主であった山名豊国(やまなとよくに)は、羽柴秀吉に降伏しようとしたが、降伏を望まない家臣の中村春続(はるつぐ)・森下道誉(どうよ)が、山名豊国を城外へ追い出し、安芸の吉川元春(もとはる)に城将の派遣を願った。
それをうけた吉川元春は、石見吉川氏10代目にあたる吉川経家(つねいえ)を鳥取城へ派遣することとした。
部下とともに入城し、決死の覚悟で守る吉川経家に対し、羽柴秀吉は、2万の大軍を率い、三里四方にわたる大規模な包囲網をしき、また、織田軍による外部からの輸送の遮断によって、鳥取城を兵糧攻めすることとした。
悪条件の中、吉川経家は抵抗を続けよく守ったが、時とともに鳥取城内には餓死者も増え、これ以上の抵抗は死者を増やすだけであると判断し、責任者以外の城兵の助命を条件に開城条約を結ぶことを決意した。
羽柴秀吉側の提示した条件は、主君山名豊国を追い出して今回の戦いの原因を作った中村春続・森下道誉ほか数名の切腹を求める一方、吉川経家をはじめ、安芸から派遣された城兵の命は助けるというものであった。
これに対し吉川経家は、主君山名豊国に対しては不忠であったが、毛利氏や吉川氏に対し功績のあった中村春続・森下道誉の2名の助命と、派遣されたとはいえ、城将となった責任として吉川経家自身の切腹を願い出た。
双方の意見が分かれ、羽柴秀吉としても、吉川経家のような義にあつい人物を殺すにしのびず説得を続けたが、合意には至らず、結局、吉川経家の切腹を認め、吉川経家も中村春続らの切腹を受け入れることとした。
天正9年10月25日、経家は自刃し、35歳の若さでこの世を去った。
そして、鳥取城は開城し、条約を守った羽柴秀吉によって多くの城兵はそ命を救われることとなった。

吉川経家の子経実(つねざね)は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、吉川広家に従って岩国に入り、その後は代々岩国藩の家老を務めた。
この地は家老として仕えた石見吉川氏の屋敷地であった場所であり、江戸中期頃建築された長屋が遺構として残っていたが、老朽化により平成23年に解体された。

平成23年3月 岩国市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 12:22:58 | Comments(0)
錦帯橋
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名勝 錦帯橋

世界に誇る名橋錦帯橋は延宝元年(1673)、第三代岩国藩主吉川広嘉によって創建されました。
それまでの橋は、錦川の洪水のたびに流されていましたが、広嘉の斬新な発想と藩の技術者のたゆまぬ努力によって現在の橋の形が作り出されました。
長年美しい姿を誇っていましたが、昭和25年9月、当地方を襲ったキジア台風により惜しくも流出しました。
その後、昭和28年1月再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて行われた工事により架替えられたものです。
橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m、幅5m、橋脚の高さ6.64mとなっています。
錦帯橋といえば周囲の景観と調和した美しい姿が特徴ですが、木組みのアーチや橋脚、その橋脚を支える敷石等の技術は、現代の土木工学においても通用する技術であると言われ、当時の岩国藩の技術の高さを裏付けるもので、その匠の技は今日まで脈々と伝えられています。

(説明板より)


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史跡 | 11:03:36 | Comments(2)
山口・福岡の旅(1)
今日から福岡へ出かける。
ガダルカナル島で戦った川口支隊の遺族の方々と11月の現地慰霊巡拝の打ち合わせに行く。
普通ならば羽田から飛行機で往復すれば簡単なのだが・・・・
それでは何とも、もったいない・・・・
ただ福岡を往復するだけじゃねぇ~
というわけで・・・山口県光市に在住の戦友・・・“コンドウさん”に会いに行く事にした。
“コンドウさん”とは、お手紙のやり取りをしたことはあるが、お会いしたことはない。
折角の機会である・・・
直接お会いして、おしゃべりをしよう。

というわけで・・・飛行機で行くのはやめて・・・新幹線で行く事にした。
時間はかかるが、やむを得ない。

昨日、午前8時51分発の特急の指定席を予約しておいた。
もしかして、寝坊をするかも・・・と思ったからだが・・・
意外にも早起きをした。
普段は絶対早起きなどはできないのに・・・
どうも旅に出るとなると早起きが出来るようである。(大笑)

7時44分発の特急に切り替えて上京。
東京駅から「のぞみ」で広島まで・・・
広島駅から在来線に乗り換えて岩国駅に向かう。
今日は岩国に宿泊することにしたのである。
折角ですから・・・・錦帯橋と岩国城でも見ようかなと・・・(笑)

午後3時、岩国駅に到着。

002_convert_20120501175829.jpg(岩国駅)

岩国駅からタクシーで錦帯橋の目の前に建つホテルに向かい、チェックイン。
早速、出かけようと思ったら、「今からお茶をお持ちします」とのこと。
いや、いや、拙者には時間が無いというのに・・・(笑)
お茶が届くまで部屋で待ったため、時間をロスしてしまった。
もう夕方の4時間近である。
ホテルの従業員に、「岩国城に行かれるのなら4時のロープーウェイに乗らないと間に合いませんよ」と言われる。
それで行ったとしても、岩国城の中を見学するのは無理だろうとのこと。
しかし、行くだけ行ってみなければ気が済まない。(笑)

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錦帯橋・・・・300円の通行料を払って渡る。
有料とは知らなかった。(笑)
ロープーウェイとセットの通行券も販売しているそうだが、時間的に怪しい(笑)時間なので、ロープーウェイのチケットは乗り場の窓口で買ってくれと言われる。
錦帯橋・・・・
想像していたほど、すごいという気がしない・・・(笑)
ただの橋である。
形は独特であるし、作るのも難しいのだろうし、建造費も高いのだろうが・・・
でも・・・普通の橋にしか思えない・・・なぜなのか?(笑)
期待が大きすぎたからか?(大笑)

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向こうの山の頂上に岩国城が見える。
あらら・・・ずいぶん遠い・・・
時間的に、もう間に合わないだろう。
この橋・・・・見た目は格好がいいのだが・・・とにかく歩きづらい・・・
やはり実際に歩いてみないと分からぬものである。

錦帯橋を渡り、突き当たりに公園が・・・
そこに銅像があった。
『吉川広嘉』という人の銅像・・・・
岩国藩三代目の藩主で錦帯橋の創健者らしい。

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急いでロープーウェイ乗り場に行っても、もう間に合いそうもないので、周囲を散策しながら向かうことにする。
途中で「吉川経家弔魂碑」と出会う。
吉川経家・・・・ねぇ~
どこかで聞いたことがあるような・・・・
で・・・ここを立ち去って、暫くしてから思い出した!
昔、鳥取城へ行った時に銅像を見たぞ!
あの人かぁ~
マヌケである・・・・暫く経たないと思い出せないとは・・・

途中、2体ほど銅像を発見!
ロープーウェイよりも銅像のほうが最優先!(笑)
更には「佐々木小次郎」の銅像も見つけた!(喜)
佐々木小次郎って岩国の出身なのか?

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「吉香神社」のところでも銅像を見っけ!(喜)
この銅像・・・「田中穂積先生胸像」と書いてある。
田中穂積?・・・・どこかで聞いたことがある名である。
そうだ!今度は直ぐに思い出せた。(笑)
以前、佐世保の旧海軍墓地に行った時に、この人のお墓を見た覚えがある。
確か海軍の軍楽隊の隊長などをしていた人で、軍歌を作曲した偉い人だったと思う。

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あらぁ~ここで銅像にお会いできるとは!
感激である。
全国、色々なところをブラブラ旅していて良かったと思う。
これだから「ぶらり旅」は止められない。(大笑)

旅行 | 10:42:28 | Comments(0)