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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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高速バス居眠り事故
群馬県の関越自動車道で、高速ツアーバスが防音壁に衝突。
乗客45名のうち7名の男女が死亡するという事故が発生した。
どうやら運転手は居眠り運転をしていたらしい。

7人の命が一瞬にして失われたのだから、とんでもない大事故である。
居眠り運転などとんでもない!・・・・というのは簡単だが・・・・

事故を起こした時刻は午前4時40分頃だという。
運転手が居眠りをしてもおかしくはない時刻ではないか?
真夜中、周囲は真っ暗・・・
見えるのは前を走る車のテールランプぐらいのもの。
しかも、眠気覚ましに音楽を聴きながら運転するというわけはいかないだろう。
歌を歌いながらというわけにもいくまい。
じ~っと黙ったまま、ただただ前を見てハンドルを握り続ける。
う~ん・・・眠くなったとしても無理はないんじゃないか?

このバスは、金沢から東京ディズニーランドに向かっていたが、運転手は1名だったという。
国土交通省で指示している「交替運転者の配置指針」という指針では、1日当たりの走行距離は2日間平均で670キロ、運転時間は2日間平均で9時間と定めているそうだ。
それ以上の場合は、運転手2名乗車で運行しろ・・・ということである。
しかし、今回の場合、金沢から東京ディズニーランドまでは最短ルートで約540キロだというので、交替運転手が乗っていなくても問題はなかったそうである。
が・・・・
国土交通省が示した670キロって、どこから、何をもとに弾き出した数字なんだろう?
670キロ・・・・なんとも中途半端な数字ではないか?
650キロでもなければ700キロでもない・・・670・・・・
マスメディアには、そこのところを突っついてもらいたいものである。(笑)

今回の事故を受けて、役所はこの指針の見直しをするだろう。
規定を670キロではなく、530キロにするかも・・・・
いやいや、金沢から事故を起こした地点までの距離を測って、その距離を“上限”とするかも。
いずれにせよ、単に数字をいじるだけで終わる可能性がある。
数字を変えるために7人の命が引き換えとなったとすれば、人間の命はかなり“安い”ということになる。
それでいいのか?

運転手は昼間に仮眠をとって夜間に運転しているはずであるが・・・
仮眠をとったかどうかは本人にしか分からない。
ぐっすりと寝られたか、寝られなかったか、それともパチンコ屋で遊んでいたか・・・
規定として仮眠時間を設けていても、その時間、寝ているとは限らない。
いくら仮眠をとっていたとしても、眠くなるときには眠くなるものである。
これは人間の生理現象だからどうしようもない。
個人差もあるだろう。
法律や規則で、どうこう数字で決めても、このような事故は防げないのではなかろうか?
ここは、人間の“欠点”を“科学技術”で補うべきである。
居眠り防止装置の開発と、その使用の義務化・・・・とか・・・・
良い物ができれば、海外にも輸出できるのではないか?
一つのビジネスが成り立つのではないか?

拙者は、旅によく出るが・・・・
夜間の高速バスは利用したことがない。
安くても、便利でも、どうしても利用する気になれないのである。
今回の事故以前にも夜間高速バスの事故はあった。
そのことが頭から離れない。
安かろう、悪かろう・・・ではあるまいか・・・という疑念が拭えない。
だから、利用しない。
これは利用者側にも問題はある。
安ければ何でも良い・・・という考え方は棄てるべきだ。
ましてや、安いわりには、それなりのものを求めるという我侭は棄てるべきだ。
なぜ安いのか・・・を考えるべきである。
どこかで無理をしているから、安くできるのであるから・・・・
極端に安いものについては、自分の命と秤にかけて、それなりの覚悟をもって利用すべきである。
事故に遭ってから「そんなばかな・・・」は通用しないと思うべきである。

それにしても、不思議なことは、よりによって、どうして防音壁に突っ込んじゃったのかなぁ~である。
もう少し手前、または、もう少し先でガードレールに衝突したなら、7人もの死者が出る事故にはならなかったかもしれない。
防音壁が車体にめり込んでは、死者が出ないほうが不思議なくらいである。
これは他の事故でも言える。
集団登校中の子供の列に車が突っ込むとか・・・
どうしてその手前や、その先で事故を起こさないのかが不思議である。
よりによって、なにも子供達の列に突っ込むことはなかろうに・・・と思うのである。
これは単に“運が悪かった”で済まされる話だろうか?
何か“見えない力”のせいではなかろうか・・・とすら思ってしまうのだが・・・
真剣に対策を立てろという警告ではなかろうか?

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エッセイ | 15:49:05 | Comments(0)
サラリーマン川柳
第一生命保険が「サラリーマン川柳コンクール」の人気投票ベスト10を発表した。
今回で25回を迎えるコンクールらしい。

インターネットで投票をしてもらい、6022票を集めて第1位になったのが・・・
『「宝くじ、当たれば辞める」が合言葉』という川柳。
“サラリーマン”だから仕方がないのだろうが・・・
第1位になる程ではないと思うのだが・・・

しかし、実際に宝くじに当たったら“辞める”で済む話ではなさそうである。
拙者の住む町で、その昔、宝くじが当たった人がいた。
当然、安月給で働いてなんかいられないと会社を辞めたそうだが・・・
なぜか、宝くじの高額当選者だと知られてしまうのですねぇ~
あれは、誰がバラしているんだろうか?
銀行か?
障害者施設から、障害者個人から、各種民間団体から寄付を頼む陳情が来たという。
しかも、電話だけではなく、自宅にまで押しかけて来たというから呆れる。
更には、多額の借金を抱えて困っていると言う、自称「自殺しかねないところまで追い込まれている人」までが押しかけて来たという。
で・・・結局、この人・・・・町を出て行く羽目となった・・・・
で・・・行方不明・・・・(笑)
宝くじに当たって幸せだったのか、不幸だったのか、こうなるとわからない。

拙者が思わず頷いて笑ってしまったのが・・・
第8位!
『立ち上がり 目的忘れ また座る』・・・・
まさしく・・・俺のことだ!(大笑)
最近、こういうことが多くなった・・・・

第10位!
『最近は 忘れるよりも 覚えない』・・・
ひゃぁ~これまた俺のことだ!(大笑)

エッセイ | 20:25:57 | Comments(6)
ルソン島の旅(17)
今日は日本に帰る日・・・・
まずは・・・タバコを一服!(笑)
ホテルの玄関の隅の喫煙所へ行ってタバコを吸う。
と・・・例のガードマン君が、子供の写真を持ってやって来た。(笑)

「これが長男で、僕に似ていて、これが次男で、こっちは妻に似ているんですよ」と言う。
が・・・
拙者は、彼の奥さんには会ったことはない。(当たり前だが・・・)(笑)
どっちの子も父親似のような気がするのだが・・・(大笑)
う~ん・・・“親バカ”は国籍を超えて共通のようである。(笑)

子供達がヤンチャでアルバムを破いてしまうので、手の届かない高いところに置いてあると言う。
で・・・そこから剥がして写真を持って来たと言う。(笑)
いやはや、そこまでしなくてもいいのに~(笑)
子供はどこの国でも同じようである。
ヤンチャぶりが目に浮かぶ。(笑)
今回は、子供におもちゃでも買ってあげるようにとチップを渡してあげる。

「何時に空港へ行くんですか?」
「え~と・・・11時にチェックアウトして空港に行く予定だけど・・・」
「昨日の女の人が迎えに来るんですか?」
「ん?女の人?ん?誰だ?」
「ほら、昨日、一緒にいた女の人ですよ」
ゲゲッ・・・そうだ・・・昨日、ガールフレンドに会っていたのを忘れていた。(笑)
「あれ?彼女は友だち・・・ピュアーな関係だからね。本当にピュアーな関係だから、誤解するなよ」
彼はニヤニヤする。
「いや、本当だってば!俺を信じろよ。ジャスト・フレンド!ただの友達だから・・・」
「はい、はい・・・で、迎えに来るんですか?」
「いや、迎えには来ないよ」
「僕が空港までお送りしたいんですけど・・・」
「いや、その必要はないよ。旅行社の車が迎えに来るから・・・」
「そうですか・・・」
彼は明らかにガッカリしたという顔をした。(大笑)
毎回、高額のチップをもらっていたのでは何かしないと悪いと思ったのだろう。
拙者は、何も要求をしたことがない。
ただ、彼の子供達に“小遣い”を渡しただけのことである。
何か御礼をしなければ・・・という気持ちはわかるが・・・
その気持ちだけで充分である。
本でも買って読んでやって・・・上手に育ててもらいたい・・・
「今度はいつ来る予定ですか?」
「来年かなぁ~」(笑)
「また、来年ですか?今度は少し長く滞在して下さいよ」(笑)
「OK!考えておくよ~」

多くの日本人が海外へ行くが・・・・
現地の人とどれだけ“純粋な”交流をしているだろうか?
いくら海外へ行っても、それがなければ“国際的”な人間にはなれないのではなかろうか?
団体で行動をし、免税店で買い物をし・・・ではねぇ~
下手な片言英語でもいいから、大いに現地の人と話をしなければ・・・
世界平和もクソもなかろうと思うんですけど・・・

拙者の知り合いの生還者でこういう人がいた・・・
終戦時だったか、フィリピンゲリラに捕らえられたこの人・・・
同じように捕らえられた日本兵が次々と首を斬られて処刑されていく・・・
次は自分の番だという時に、処刑を見に集まっていた人込みの中から「その日本兵はいい人だから殺さないで欲しい」とフィリピン人の女性が声をあげたという。
おかげで首を斬られる寸前に命を助けてもらい、米軍に引き渡され捕虜収容所に送られて、後に日本に生還した。
この人は、後ろ手に縛られ、首を突き出させられた格好だったので、この女性の足しか見えなかったので、この女性が誰なのか分からないという。
もし、今でもこの女性が存命ならば、是非会ってお礼を言いたいと言っておられたが・・・
残念ながら一昨年、天寿を全うされた・・・
この人は、日本軍が統治していた時に、現地の人と交流を持っていたのだろう。
日本軍が負けて、報復の嵐が吹く中、日本兵の命を助けようとしたこのフィリピン女性の勇気も大したものである。
一つ間違えれば、親日派だということで、この女性自身が処刑されかねない。
この勇気ある女性が誰なのか分からないと言うのだから、この方は特定の女性に親切にしていたわけではなさそうである。
広く、多くの現地人と付き合っていたのだろう。
日本兵は必ずしもフィリピンで悪いことばかりしていたわけではない・・・ということである。
かといって、この方のように、良いことをしたという意識もない・・・
ごく普通に接していただけなのだろうと拙者は思う。
こういうことが大事ではあるまいか?
教訓である・・・・

11時にチェックアウトしてロビーで迎えの車を待つ。
と・・・フィリピン人から声をかけられた。
どこかで会った事があるような・・・・
と・・・彼が送迎車のドライバーだった・・・(大笑)
「オヒサシブリデス!」といきなり声をかけるから、おかしなことになるのだ。
「オゲンキデスカ?」などというから、ややっこしくなる。
「俺は車を待っているんだけど・・・」
「はい・・・」
「え~と・・・あなたは誰でしたっけ?」
「運転手です」
「はぁ?」
最初に、「お迎えに上がりました」って言えよ!(大笑)
誰かと思ったぞ!
彼は10年ぐらい前に拙者を空港に送ったことがあると言う。
そんな昔のことを頭の悪い拙者が覚えているわけがない!(大笑)
「で・・・何してんの?車は?」
「“サンデー”と、ここで待ち合わせしてます。少し待って下さい」と言う。
旅行社の送迎担当職員の“サンデー君”がホテルにやってきて、ここで合流して空港へ送ってくれることになっているという。
拙者は今日の送迎については“ステラさん”から「誰かが迎えに行くと思います」としか聞いていないのである。(大笑)
彼は、名前と顔が一致しないだろうが、顔を見ればわかるから・・・と会社に言われて迎えに来たと言う。
で・・・・拙者を見かけて、名前も確認せず・・・いきなり「オヒサシブリデス!」となったらしい。(大笑)
あ~ビックリした!
新たな“ポン引き”かと思った・・・・(大汗)

まもなく“サンデー君”が到着・・・
ドライバーは車を取りに出かける。
車が来るまで“サンデー君”とおしゃべり・・・・
彼とは何度も会っているが、ゆっくりおしゃべりをしたことがない。
なぜか今回は彼は自分の家庭の話をする。(笑)
どうして今回の旅は、身の上話が多いのだろう?(大笑)
彼はまだ独身だという・・・
早く結婚しろ!・・・と、自分のことを棚に上げて説教する。(大笑)

車が玄関に横付けされ・・・さぁ、出発しますか!
と・・・例のガードマン君が泣きそうな顔をして吹っ飛んできた。
こう言っては失礼だが、思わず吹き出しそうになる。(大笑)
なにも、そんな泣きそうな顔をしなくてもいいと思うんだけど・・・
また来るから!(笑)
「シー・ユー・アゲイン!バイバイ!」

ドライバーが“ステラさん”の携帯に電話してくれたので、お電話で改めて“ステラさん”にお別れのご挨拶・・・
いつものように、テキパキと“サンデー君”が搭乗手続きを最優先でやってくれたので、他の日本人を尻目に(大笑)さっさと出国手続きへ向かう。

で・・・無事に帰国!
今回の旅も、充実した良い旅だったぁ~
感謝、感謝・・・英霊のご加護かな?

旅行 | 10:16:56 | Comments(2)
ルソン島の旅(16)
スーツケースをボーイが部屋まで運んでくれた。
で・・・
「お仕事で来たんですか?」
「何日滞在するんですか?」等々の質問攻め・・・(笑)
今日一晩だけ泊まって明日、日本に帰る。
仕事じゃなくて・・・これ、何ていえばいいのだろう?(笑)
今までの旅の話を手短に伝える。
が・・・ピンとこないらしい・・・まぁ、そうだろうねぇ~(大笑)
「今からどうするんですか?」
「ん?本を読んで・・・あと、書き物がちょっとあるから、それをする」
拙者の説明が下手なせいで・・・
「書き物」って言っても、大したものじゃないんだけど、彼は拙者を「小説家」と思ったらしい。(大笑)
どんな本を書いてるのか、何冊出版したのかと、やたらと興味をもつ。
いやぁ~本を書くっていっても・・・戦友会の会報ぐらいだし・・・
記事を書くっていっても・・・法人会の会報にコラム記事を書くくらいだし・・・
え~なんと答えてよいものやら・・・(汗)
どうもフィリピン人というのは、「物書き」の人を尊敬するようである。(笑)
「歴史関係だよ。特に戦争関係・・・ミリタリー・ヒストリアンなんだ」と言ったら、益々尊敬の眼差し!(・・・と、拙者には見えた・・・)(笑)
というわけで・・・拙者は、戦史研究家で作家・・・ということになった。(大笑)
う~ん・・・これ、肩書き詐称かな?
まぁ、いいや・・・・細かい説明をするのは面倒くさい・・・(大笑)

このホテル・・・・
いつの間にか全室禁煙となっていた!(涙)
去年泊まった時には喫煙できる部屋があったのに・・・・愕然・・・である。
で・・・喫煙所は、玄関の外の隅・・・
仕方がないので、そこまで行ってタバコを吸わねばならぬ。
と・・・拙者を見つけて、昨年、破格のチップをあげたガードマンが吹っ飛んできた!(大笑)
彼は「久しぶりです!」と両手で拙者の手を握り大喜び。
通常のチップの10倍以上の額をポンと、子供の為に使えと渡したのだから、拙者の事を忘れるわけはないか。(大笑)
「いつまでいるんですか?」と言うので「明日には日本に帰る」と言ったらガッカリされた。
だって・・・マニラには用事なんてないんだもん!(笑)
「じゃぁ、明日の朝、子供達の写真を持ってきますから!」と言う。
「おお!君の子供・・・写真見たい!」
全室禁煙室になったことへの文句を言ったら・・・(笑)
中国人と韓国人は、禁煙なのに平気で部屋の中でタバコを吸っているという。
部屋の中がタバコ臭くなって大変だという。
「あいつら、マナーが悪いなぁ~」と言ったら「本当に、彼らはマナーが悪いですよ!」と言う。(大笑)
あ~でもねぇ、こ~でもねぇと久しぶりにおしゃべり・・・
その間は・・・同僚のガードマンが仕事を肩代わり・・・(笑)
「ホテルのオーナーが若い人ばかり雇って古い人間のクビを切るんですよ。僕ももう7年も勤めていて、同期はみんなクビになっているので、いつクビを切られるかわかりません」と言う。
「へぇ~もう7年も経つのか?俺はね、君がいるからこのオンボロホテルに泊まってるんだからね。君が辞めたらこのホテルには泊まるのはやめて別のホテルにするから」と言ったら彼は大笑い。
「そうですよねぇ~綺麗な新しいホテルがいくらでもありますからね」と言う。
とにかく・・・仕事に戻ってちょうだい!(笑)
また、明日会いましょう・・・ということで、久しぶりの会話を終える。
彼とのこの会話も、拙者がこのホテルに泊まる楽しみの一つでもあるのだ。

今日の夕方は、フィリピン人のガールフレンドと会うことになっている。
先月、台湾に行く時に、成田空港で一緒にコーヒーを飲んだ彼女である。
偶然にも同じ日、同じ時間に同じターミナルにいたので会ったのだが・・・・
こういうのも何かの縁と彼女は大喜び・・・
で・・・今回は、彼女がフィリピンに帰っている時に拙者がフィリピンに来たわけで・・・
これまた大喜びで・・・ホテルに会いに来るという。
いやぁ~そりゃマズイと断ったのだが・・・
断れば断るほど疑惑が生じてしまうのである。
他に“女”がいるんだろう・・・って・・・(大笑)

日本人の男とフィリピン人の女・・・という組み合わせはマズイ・・・
特に、拙者の場合はホテルの従業員から尊敬されているわけですから・・・(大笑)
他の日本人男性と同類だとは思われたくないのである。
「日本人の男と一緒にいると売春婦と間違えられて嫌な思いをするから止めたほうがいい」と言ったのだが・・・
フィリピン人の女性というのは、強引というか、自分勝手というか・・・(笑)
どうしても会いに来ると言って・・・やって来た・・・(涙)

ビシッとスーツで決めて・・・
これなら売春婦には間違えられることはないという。
普通の売春婦はTシャツにGパンだから・・・この格好なら大丈夫だという。
そうなの?高級コールガールと間違えられるんじゃないの?(大笑)
彼女は憮然として・・・この格好はフィリピンでは学校の先生の格好だという。
さっきも警察に止められた時に警官から「学校の先生ですか?」と尋ねられたという。
警官が学校の先生と間違えるくらいだから、売春婦には見えないから大丈夫だという。
(よくわからん理屈だが・・・)(大笑)
「ところで何で警察に捕まったんだ?」
彼女はドライバーを雇って車に乗ってやってきたのだが、マニラ市内でドライバーが車線を間違えて走行して警察に捕まったのだとか・・・(唖然)
マヌケなドライバーである。

夕食をホテルの近くの中華レストランで食べることにする。
2人で食事というのも目立つだろうから、ドライバー君も誘って3人で食事することにする。
これならば、あまり目立たないだろう。
俺たち・・・美男美女のコンビだから・・・2人では目立つ・・・(大笑)

ホテルを出る時に、従業員達が一斉に拙者に敬礼をした・・・
「なんでみんな、あなたに敬礼するの?」と彼女。
「う~ん・・・俺のこと軍人だと思っているみたい・・・」(笑)
拙者から軍人のオーラが発しているに違いない・・・
なにせ、大日本帝国陸軍軍人の血を引いておるからネェ~(大笑)

この中華レストランに最後に来たのは8年以上も前のことである。
が・・・
「シャチョ~!イツモ、アリガト、ゴザイマス!」と従業員・・・
俺・・・“いつも”は来ていないんだけど・・・(笑)
「シャチョォ~!コッチヘ、ドウゾ・・・オヒサシブリデス!」
「いつの間に、あなたは社長になったの?」と彼女が笑う。
「日本人の男は誰でも“社長”って言われるんだよね。これ、フィリピンでは常識!」(笑)
「さっきは敬礼されるし、こんどは社長と呼ばれるし・・・あなたは何者なの?」と彼女に笑われる。

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食べたいものをバンバン食べてくれぇ~(笑)
ドライバー君は「こんな豪華なご馳走を食べたことがない」と大喜びである。
ん?そうか?・・・やはり日本人は恵まれすぎているのかもしれない・・・
レストランのボーイが2名、我々のテーブルに付きっ切りで“お世話”をしてくれる。
「なんで私達のテーブルだけサービスがいいの?」と彼女は大笑い。
う~ん・・・チップが欲しいだけではあるまいか?(笑)

食事を終え、お世話をしてくれたボーイ2人にチップを奮発して店を出る。(笑)
さて・・・これからどうしようか・・・
マニラ市内の超高級ホテルのラウンジへ行って生演奏を聞きながら軽く飲みのはどうかと彼女・・・
というわけで、車で出かけたが・・・
そのホテル・・・目の前まで来ているようなのだが、到着しない。
ドライバー君は「知ってます」と言っていたが・・・どうも怪しい・・・
グルグル走り回るだけで、どう考えても場所を知らないようである。
知らないなら知らないと正直に言えばいいものを・・・どうも「ドライバー」というのは、いい加減な連中が多い。
さすがにもう1時間も走り回っているのである!
ご馳走を食べさせてもらったので、逆に「知りません」とは言えなくなったのだろうか?(笑)
アホか!
遂に・・・拙者はプッツン・・切れた!(怒)
「やめ!別のホテルに行くぞ!」
“別のホテル”は、以前、某遺族会の慰霊団にガイド役として同行したときに一度だけ泊まったことのあるホテルである。
いつも拙者が泊まるホテルより高級なホテルである。
遺族会って、こういう高級ホテルに泊まるのか・・・と呆れたものである。
しかも、その時には、日本遺族会の慰霊団も宿泊していて、ドンチャン騒ぎの宴会をしていた。
遺族会が高級ホテルで宴会ねぇ~・・・・唖然・・・・

この時に、ここのスカイラウンジで一人で酒を飲んだ。
なかなか雰囲気のいい生演奏と歌をやっていたのを思い出し、ここへ行く事にしたのだが・・・
あれ???
店内の雰囲気は変わっていないが、ステージに登場したのは3人の若いフィリピン人の女の子たち・・・
ミニスカートはいて・・・イェ~イ!乗ってるか~い!・・・である。
あらら・・・雰囲気が台無しである。
「レディ・ガガの真似をしてる感じ・・・」と彼女・・・
拙者は「レディ・ガガ」って知らない・・・なに、それ・・・(大笑)
どうして、こういうのをやるかなぁ~
ここは高級なスカイラウンジでしょ?
いやはや呆れてしまった。
飛んだり跳ねたり・・・ではねぇ~
もっとシックな歌でなければ・・・

で・・・水割りを2杯だけ飲んで帰る事にした・・・(笑)
駄目だ・・・こりゃ・・・
あ~あ~すごく時間を無駄にした感じである。

ホテルまで送ってもらって彼女とはお別れ。
彼女の家は、ここから1時間かかるという。
時刻は午前0時・・・あらら、御苦労様・・・である。(笑)

さて・・・酔い覚ましにコーヒーを飲もう・・・
と・・・ホテルの向かい側のコーヒーショップに行こうとしたら、ホテルのガードマンが付いて行くという。
直ぐ目の前だし・・・別に一人でも大丈夫だと思うが・・・
「危ないですから、ボディガードをします!」と言ってきかない。
このガードマンも、もう何年も前からの知り合いである。
で・・・留守を預かっているもう一人のガードマンにコーヒーのお土産を買ってあげ、ボディガードの彼にはチップを渡す。
う~ん・・・体格からして、拙者のほうがボディガードっぽいんですけど・・・
まあ、いいかぁ~
気持ちの問題だからね。(笑)

それにしても、フィリピン最後の夜・・・
すごく時間を無駄に過ごしたような気がして面白くない・・・
すご~く損をした気がして仕方がない・・・・(大笑)
が・・・彼女は拙者に会えて喜んでいたから、それでヨシとするか・・・

旅行 | 12:58:11 | Comments(0)
ルソン島の旅(15)
「マクドナルド」のようなお店を見つけたので、そこでコーヒーを飲み、タバコを一服することにした。
で・・・カウンターの前に並んでいたら・・・
拙者の前のフィリピン人の女の子・・・やたらと注文が細かい。
ああしろ、こうしろ・・と言っていたかと思ったら、今度は携帯で誰かとしゃべりだし・・・
注文を訂正・・・ついでに注文の追加!
おい、おい、いつになったら終わるんじゃ!(怒)
拙者の後ろには7人近く並んでしまっているが、この女の子の注文と注文訂正が続く・・・
直ぐ後ろに並んでいたアメリカ人の白人のオバサンと「うそぉ~しんじられなぁ~い!」と目と目で会話。(大笑)
「ですよねぇ~」(大笑)
「このバカヤロウ!いい加減にしろ!」と怒鳴りたいが・・・そういう英語は話せない・・・(涙)
カウンター前に大渋滞を作った、彼女は注文した品をを受け取ると平然と立ち去っていった。
こういう横柄な女は大嫌いである!(怒)
後ろから蹴り飛ばしてやろうかとすら思うのである!
で・・・後ろの白人のオバサンと、またまた目と目で会話・・・(大笑)
こういう時は、表情が豊かなほうが“会話”が弾むのである。(笑)
ようやく、拙者の番・・・
カウンターの女の子が申し訳ないと謝ってきたが・・・
さて・・・困ったことに、気の利いたジョークが出てこない。(涙)
こういう時は、ジョークの一つでも言って笑いを取りたかったのだが・・・残念・・・

コーヒーは飲みませんと言っていたドライバーは気が変わったようで、コーヒーを飲むというので、ご馳走してあげる。(笑)

で・・・この後は・・・??
このままマニラに向かうと、かなり早い時間に到着してしまう。
「“カミカゼ”の場所に行きましょう」とドライバー。
どうせ、今回の目的は全部こなしてしまったので、あとはどうでもいい。(笑)
彼の言う“カミカゼ”の場所へ連れて行ってもらう。

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向かった先は、たぶん「マバラカット西飛行場」だと思う。
ここには8年前の平成16年に来たことがある。
この丘の麓に慰霊碑があり、丘には横穴が掘られていて、内部は司令部か何かだったとか・・・

378_convert_20120619213046.jpg 383_convert_20120619214423.jpg

洞くつの内部に入ろうかなとも思ったが・・・
入り口は、かなり小さい・・・
8年前に、この中に入ったことがあるが、こんなに狭かったっけ?(笑)
どうも記憶があやふやである。
内部は立って歩けるほど天井が高く、丘の向こう側に抜けていたように記憶しているのだが・・・
まぁ、今回は内部に入るのは止めよう。(笑)

直ぐ隣で、バン、バンと音がする。
ん?この音は・・・銃声じゃないか?
ドライバーに尋ねたら射撃場だという。
8年前には、そんなものは無かったぞ・・・・
丘を利用して射撃場が出来ているらしい。
で・・・誰が射撃しているのかはわからないという。
う~ん・・・一般人でも利用できるのなら是非、拙者も久しぶりに射撃をしたいのだが・・・(笑)
塀をよじ登って覗いてみたかったが、流れ弾に当たったら危ないので(大笑)・・・やめる。

さて、時刻はまもなくお昼である。
ドライバーとこれからの予定を打ち合わせ・・・
ここから、真っ直ぐマニラのホテルに向かい、途中のドライブインで昼食を取るということにする。

途中、「アンヘレス」という町の中を通過・・・
ドライバーは細かく丁寧に(大笑)、この町並みを説明してくれる。
つまり・・・ここが“飲み屋街”・・・“色町”・・・である。
昨晩、彼はここへ拙者を案内したかったらしい。(笑)
“色町”は、昼間見ても何も面白くはない・・・
ネオンがキラキラしている夜じゃないとねぇ~(笑)
ドライバーは何故か狭い路地を走ったりと、不思議なルートを通る。(大笑)
これは・・・道を間違えたというわけではなさそうである。(大笑)
よかったら、今晩、ここまで拙者を車に乗せて連れて来てやると言う・・・
こいつは、どうも拙者のことがわからぬようである。
一緒に食事をしたりして、色々と話をしたのに・・・
拙者は、そんじょそこらの日本人観光客とは違うんだってば・・・・(怒)
ここには、結構多くの日本人が“遊びに(女の子を買いに)来るらしい。
安いホテルもたくさんあるのだそうだ・・・
一応、念のため・・・ということで誘ってくれていると良心的に解釈して・・・・(笑)
キッチリとお断りさせていただく。(大笑)
もし遊ぶとしたら・・・あんたの手を借りずに自分一人で冒険するよ~(大笑)

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午後1時・・・・
高速道路のドライブインで昼食を食べることにする。
ドライバーが何でもいいというので、ピザ屋さんにした。(大笑)
が・・・彼は、ピザはあまり好きではないのだと、ピザが出てきてから言う。
「何でもいいって言ったよね?」(大笑)

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店内は禁煙なので、食後、店の外でタバコを一服・・・・
と・・・店の若いガードマンが声をかけてきた。
「お友だちに会いに来たんですか?」と言う。
あ~あ~・・・・またこれだ・・・
“お友だち”とは、フィリピン人の女の子のことを意味する。
日本人の男と見ると、必ずフィリピン人の恋人に会いに来たのか(もしくは女を買いに来たのか)と思われるのである。
まともに答えるのも面白くない・・・・
「そうだよ~」と答えたら、彼がニヤリと笑った。
「え~と・・・山の中の村の人達に会いに来た。知ってるか?ヌエバビスカヤのマリコ村」・・・・
さすがに、ガードマン君・・・どう答えていいのか戸惑った様子・・・
ヘヘヘッ・・・ざまぁみろ・・・(大笑)
「これだと思ったろ?」と小指を立てて見せたら、恐縮していた。(大笑)
それから、ちょっと世間話・・・
というか、彼の身の上話・・・・
なんでそんな話を聞く羽目になったのか・・・わからんが・・・(大笑)

ガードマン君に別れを告げて一路マニラへ・・・・

ドライバーは、拙者の今晩の“ご予定”が気になるらしい。
夜は予定があるのか、誰かと会うのかと、しつこい・・・・
どうしても拙者を“色町”に連れて行って小遣を稼ぎたいようである。(笑)

ホテルに到着し・・・ドライバー君とはここでお別れである。
彼の期待しているチップ・・・・
通常、拙者が運転手に渡している普通の額を渡す。
カネを欲しがる奴にはわざと多くは与えないのが拙者の主義である。(笑)
拙者が渡した紙幣の額を見て、ガッカリしたのだろう(笑)、「あ~そう、こんなもんかぁ」ってな表情で帰って行った。(大笑)
彼がカネの話をしつこく持ち出さないでいたら、2倍は払っても良かったのだが・・・
車は脱輪するし、道は間違えるし・・・だから、通常のレベルしか払わない!(大笑)

このホテルは拙者の定宿であるが、チェックインは、いつも“ステラさん”がやってくれていたので、自分でチェックインをしたことがない。
さて・・・話が通じるだろうか?
一人でやらねばならぬ・・・・急に心細くなっちまったぞ・・・(大笑)

何とかかんとか、拙者の拙い英語が通じたが・・・(大笑)
部屋の準備が出来ていないという。
で・・・コーヒーのサービス券をくれた。
これでコーヒーを飲んで待っていて欲しいという。(笑)
しかも、なぜか・・・2枚・・・
2杯も飲めとは、かなり時間がかかるということか?(大笑)

レストランへ行く・・・・
ここの女性マネージャーは、昔から務めている人・・・
スタッフが次々と代わるが、彼女だけは“生き残って”いる。
もう10年ぐらいは勤めているんじゃないだろうか?
拙者を見て、「久しぶりですね!」と笑顔で迎えてくれる。
「確か、喫煙席ですよね?」と案内してくれる。
こういうフレンドリーな人がいるから、拙者はこのホテルに泊まるのである。

コーヒーを飲んで読書をしていたら、いきなり目の前に座った奴がいる。
「シャチョォ~ヒサシブリデスネェ~!」
“ポン引き”のオヤジである。(涙)
こいつ・・・以前、口をきいたことがあるのだが、それから必ず拙者に声をかけてくるのである!
記憶力がいいというか・・・
拙者が目立ちすぎるのか・・・(笑)
「シャチョォ~、オンナ、ドウデスカ?」
「いらねぇよ」
「イマカラ、ミニイキマショウ」
「行かねぇって」
「イマ、キメテ、ソノアト、ユックリネ。ヨル、オンナノコ、クル、デ、イイデショ?」
「だから、いらないって」
「ヘヤ、ナンバンデスカ?」
この野郎、拙者の話を全然聞いていねぇのである!(怒)

そろそろ部屋の準備が出来たのではなかろうか・・・とフロントへ行く。
と・・・このオヤジも付いて来てカウンターの中を覗き込む。
「おまえ、俺の部屋番号を確認しようとしてるだろ」
「エヘヘ・・・」
「後ろに下がってろ!」
お~い、誰かどうにかしてくれよ~・・・と周囲のボーイに言うが、ニヤニヤしているばかり・・・
この“ポン引き”のオヤジ・・・このホテルを根城に商売をしているのである。
裏で色々あるのだろう・・・ボーイも、このオヤジを排除できない・・・(涙)
「アトデ、ヘヤニ、デンワシマス!」
「しなくていいって!」
「ナンジガイイデスカ?10ジガイイデスカ?10ジニデンワシマス!」
「するなって!」
あ~あ~・・・このオヤジに会うたび、拙者は、別のホテルに泊まるべきだったと後悔するのである。(大笑)

旅行 | 11:18:22 | Comments(0)
ルソン島の旅(14)
330_convert_20120618175310.jpg(ホテル)

昨晩は、ホテルの部屋で英語のお勉強!(大笑)
持参した電子辞書で、今日、使うであろう英単語のお勉強をした。
今日は、今回の旅行のもう一つの目的・・・「クラーク博物館」へ行く予定なのである。
館長さんに、ちょっとお話したいことがある。(笑)
通訳役の“ステラさん”がいないので、自分で話さなければならない。(涙)
というわけで・・・英語のお勉強をした。
が・・・
恐るべし!
朝になったら・・・全部忘れていた!(大笑)
昨晩のあの勉強は何だったのだろうか・・・
歳は取りたくねぇものである。
覚えは悪いわ、直ぐ忘れるわ・・・(涙)

今日は、頼りの“ステラさん”はいない・・・・
ドライバーと拙者の2人で行動しなければならない。
大丈夫だろうか・・・(汗)
ホテルに迎えに来たドライバーと改めて今日の予定の打ち合わせをする。
兎に角・・・拙者の英語・・・わかるよね?(大笑)

ホテルをチェックアウトして、「クラーク」へ向かう。

333_convert_20120618180712.jpg(マバラカット)

向こうに見える山々は、我が戦車第2師団機動歩兵第2連隊の柳本大隊が戦ったあたりであろう。

「マバラカット」を過ぎ・・・「クラーク」へ・・・
と・・・・
何故か車はあちらこちらをグルグル・・・行ったり来たり・・・
ん????
さては、「クラーク博物館」の場所を知らないのではないか?(汗)
拙者も、その昔、一度しか行ったことがないので、よくは知らない・・・
だいたい、この辺り・・・としか知らないのである。
ドライバーに確認したら、知っていると言うので、半分安心していたが・・・
やっぱり・・・である。
迷いやがった・・・(大笑)

ようやく「クラーク博物館」に到着。
戦時中、日本軍の「ストッチェンバーグ病院」(海軍病院?)があった場所に建っている。

342_convert_20120618183742.jpg

ドライバーは車の中で待つと言う・・・
「1時間ぐらいかかるからね」と言って一人で博物館へ・・・
で・・・え~と・・・
「館長さんに会いたいんですけど・・・」と言いたいのだが・・・
“館長”って英語でなんて言うんだっけ?・・・忘れた!(涙)
“directer(ディレクター)”しか思いつかなかったので、この単語を使った。
一応通じたが・・・
博物館の女子職員が「館長は留守です」の言葉に続いて・・・
「“directer”ではなく“curator(キューレイター)”が正しい言い方です!」とピシャリと言われてしまった!
「おお!そうそう、それ、それ、キューレイター!」
昨晩、調べておいたんだけどなぁ~(大笑)
博物館の館長のことは「キューレイター」って言うんだっけ・・・
聞きなれない言葉だから全然頭に入らなかったようである。(大笑)
やっぱり若い時に、もっと単語を暗記しておくべきだった・・・と後悔しても・・・遅いか・・・

以前、拙者がお会いした館長はフィリピン人の男の館長さんだったが、話によると、今は韓国人の女性が館長さんだという。
ん?韓国人?・・・正直言って・・・ちょっと嫌な感じ・・・
以前の館長さんは気さくな良い人だったのだが・・・
韓国人・・・ねぇ~・・・・

訪問した用件を対応に出てくれた2人の女性職員に説明する。
この博物館に展示されている日本軍の兵器の説明文が、確か間違っていたと記憶していたので、それを直してもらうため資料を持参してきたのである。
で・・・英文と日本文の両方で表記してもらおうかな・・・と・・・

拙者に正しい英単語を指摘した女性職員が館内を案内してくれた。
彼女は英語の先生をしているという。
あ~それで、拙者が間違った単語を使ったことが許せなかったのね?(大笑)
「ところで、あなたは英語をどこで勉強したの?」と尋ねてきた。
ん?
その質問は・・・・
拙者があまりにも流暢な英語を話すので驚いて質問したのか・・・
それとも、あまりにも拙者の英語がお粗末過ぎて呆れて質問したのか・・・
多分・・・後者のほうだろうなぁ~(大笑)

館内を見学していて・・・あれれぇ~
展示内容がかなり違っている!
「館長が変わったので展示のレイアウトも変えたのか?」と尋ねたら・・・
彼女がニヤリと笑った・・・
「館長がレイアウトを変えたのか?」と尋ねたら「そうだ」と笑って言う・・・

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九七式車載重機関銃・・・・
以前は、これに間違った説明文が付いていたが、その説明文自体が無くなっていた・・・・
これは日本軍の戦車に搭載されていた機関銃で、戦車から取り外して、外に持ち出して使用することも出来る機関銃である。
この展示されている機銃は、ほぼ完全な形である。
こういう照準器や弾倉まで付いた“完品”も珍しい。
この照準器は、航空機用の照準器を流用したもので、この照準器が付いたまま残っているというのには驚く。
「これらの“遺品”は全て寄贈されたものです」と彼女が言う。
そう、それも知りたかったのだ。
どこからこの車載機銃を手に入れたのか・・・
それがわかれば、どの戦車部隊のものなのかがわかるのではなかろうか?
もしかしたら、我が戦車第2師団のものではなかろうか・・・

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その他の展示品にも説明文が一切付されていない。
「これは何ですか?」と職員・・・
剣道の“面”なのだが・・・
これ、英語で何て言えばいいんだろう・・・
剣道は・・「ケンドウ」・・・か?
「ジャパニーズ・フェンシング」じゃ、おかしいよな?(大笑)
“面”は・・・「マスク」?
何とかわかってもらえたが・・・・
唖然としたのは・・・水筒!
「これは何ですか?」には参った・・・
どこから見ても水筒じゃん!
が・・・「水筒」の英単語が頭に浮かばない・・・(涙)
あ~あ~電子辞書はスーツケースの中である!
「え~と・・・日本語では知っているんだけどね。え~と、英語では何て言うのか・・・知らない」
「ふ~ん・・・」
「日本語では知っているんですけどね・・・こうやって、水を飲むやつ・・・わかる?」
「ふ~ん・・・」
(あとで調べたら“canteen(キャンティーン)”と言うのだそうだ・・・笑)
あ~あ~なんとボキャブラリーのない男か・・・情けない・・・
どうしてこういう苦労を自ら背負い込んじゃったかなぁ~
シドロモドロ・・・冷や汗の連続・・・である。

「館長は毎週末になるとマニラの自宅に帰っちゃうんですよねぇ~」と彼女が、ちょっと嫌な顔をした。
ハハァ~ン・・・どうも館長のそういう行動が不満らしい・・・(笑)
「来週戻ってくるので、来週来て下さい」と言う。
「俺、明日、日本に帰るから無理だよ」
「今度はいつ来るんですか?」
「う~ん・・・来年かな?」
「来年?!」・・・笑われた・・・・
館長が不在じゃしょうがない・・・
とにかく、拙者が持参してきた資料を館長に渡してくれるように頼む。

「今から学生達が来るので、その相手をしなくてはならないので、あとは一人で自由に見学して下さい」と言って彼女は去っていった。

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米軍の重機関銃などに混じって、ポツンと置いてあった・・・・これ・・・
戦車などに搭載されていたジャッキではなかろうか?
あらら・・・
これは以前来たときには展示されていなかったものである。
かなり劣化しているようで・・・水の中にでも埋まっていたものか?
我が戦車第2師団の戦車のものではなかろうか?
大発見である!
これも、どこから寄贈されたのか知りたいものである。
「サンマニュエル」の田んぼの中から掘り出した・・・なんていったら、我が戦車第7連隊のものである!(喜)

まもなく・・・ドドッと学生達がやって来た!
あらら・・・・
拙者が日本軍の遺品についてボランティアガイドをしてあげてもいいけど・・・(笑)
でも、質問されたら、英語が下手だから・・・
う~ん・・・知らん顔しておこう・・・(大笑)

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この学生達・・・・
デジカメでバチバチ写真を撮りまくっている。
中には一眼レフの、いかにも高価そうなデジカメを持っている女子学生までいる。
いやぁ~裕福な家庭の子供たちなんだろうなぁ~
拙者は、山村の貧しい子供しか見たことが無いので・・・この格差の大きさには驚いた。

ところで・・・以前来たときには「戦車第2師団戦闘概要図」という大きなパネルが展示されていたのだが・・・
それが・・・ない!
ルソン島の地図に我が戦車第2師団の戦闘の流れが書かれていたパネルである。
確か日本語で書かれていたような気がするのだが・・・
どこへ行っちゃったんだろう?
韓国人の館長だから日本語のパネルは撤去しちゃったのか?(うがった見方かな?)(笑)

学生達でうるさくなってきたので、外に出る事にした。
さっきとは別の女性職員が話しかけてきた。
日本の横須賀に友人がいるのだそうだ・・・
「誰それというのですが、知っていますか?」と言われたが・・・知るわけがない・・・(大笑)
「外に機関銃が置いてあるので見て下さい」と言う。
「あ~アンチ・エアクラフト・ガン(対空機銃)でしょ?」
「そうです!」となぜか大喜び・・・
なんでこの人が喜んでいるのか・・・わからない・・・(笑)

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(九六式25ミリ連装機銃)

外に出たら・・・一人の青年が駆け寄ってきた。
何事????
「さっき、あなたが日本のミリタリー・ヒストリアン(戦史研究家)と聞いたのですが・・・名刺をいただけませんか?」と言う。
話をしてみたら、彼は戦史や戦跡に興味があり、ガイドもしているという。
今回は学生達のガイドをしているという。
「是非、私にもガイドをやらせてもらえないか?」と言うのだが、名刺は持っていないという。
とりあえず、拙者の名刺を渡し、何かあったらメールをくれるように言う。

さて・・・予想通り、1時間も滞在してしまった。
ドライバーも呆れかえっているようですから・・・(笑)
行くとしますか・・・・
博物館の女子職員に別れを告げて車に乗り込む。

で・・・・コーヒーが飲みたい!
「私はコーヒーはいりません」とドライバー・・・
「俺が飲みたいんだって!どこかコーヒーが飲めるところへ行ってくれ!」(大笑)


より大きな地図で クラーク博物館 を表示


旅行 | 10:50:43 | Comments(2)
ルソン島の旅(13)
拙者が“入浴”中に、“ステラさん”たちが昼食を用意してくれていた。

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「サトウのごはん」は電子レンジで暖めるものだと思っていた・・・
電子レンジなんか、この村にあるのだろうか?(笑)
・・・と尋ねたら・・・蒸すのだそうである。
パックのまま蒸せば良いだけだという。
あ・・・確かに、暖めるだけだからねぇ~
どうして電子レンジがないと駄目・・・なんて思ってしまったのだろう。
蒸すとなると・・・ガス代がかなりかかるのでは?
・・・と、またバカなことが頭をよぎったが・・・
薪で湯を沸かして蒸すのだろうから・・・大したことではないか・・・
太い薪を3~4本くべてやればいいだけか?(笑)
恵まれた生活に毒されているな・・・こんなこともわからんようでは・・・

昨年の震災・・・
被災したときに、多くの人が大騒ぎしていたが・・・
この山村での生活を思うと、それほど騒ぐほどではないよなぁ~(笑)
やっぱり日本人は、こういうところで少し生活をして、“原点”を学び直したほうが良いのではあるまいか?

“オマリオ夫人”がデザートを作ってサービスしてくれた。
いやぁ~ありがたし!(喜)
イチゴは、目の前の“農場”で作ったものだという。
昔、子供の時に食べた、甘酸っぱい、ちょっと硬い、昔懐かしい味のするイチゴである。(笑)
この素朴な味が、またなんとも言えず美味しい・・・・
う~ん・・・幸せ!(大笑)

今日の予定は・・・
この後、皆さんに別れを告げて山を降り、「タルラック」に向かうのである。
食後、コーヒーをいただき、テラスで一服・・・・
さて、そろそろ出発しますか!
というわけで、“オマリオ夫人”の謝礼金を渡す。
カネのことしか頭にないドライバー君は興味津々・・・
“ステラさん”が、それに感付き、「別な場所へ行ってコッソリ渡したほうがいいですよ」と言う。
彼女からは「ミセス・オマリオが、さんざんご主人の病気のことを言っていたから、これはお見舞いをいくらか渡さないといけないかも知れませんねぇ」と昨日言われていた。
拙者は日本にいるときにオマリオさんが病気にかかっているという噂は聞いていたので、事前に準備済みである。
熨斗袋とポチ袋を用意しておいたのである。
「この袋・・・ジャパニーズ・スタイルだからね」と“オマリオ夫人”に渡す。
一つはオマリオ氏の病気見舞い。
もう一つは、今回の宿泊させてもらったお礼・・・
ポチ袋は、母親の脛を齧って生活しているジェイソン君への“義援金”(大笑)
「これ、子供の為に使うようにと言って渡してください」と“オマリオ夫人”に頼む。

と・・・“ステラさん”が・・・
「済みませんが、お手伝いさんにもチップをあげてもらえませんか?料理のとき、いろいろと手伝ってくれたんですよ。いいですか?申し訳ないんですけど・・・」と言う。
なんの、なんの・・・お安い御用である。(笑)
メイドさんはどこにいるのかと“オマリオ夫人”に尋ねたら、奥の台所にいるという。
と言うわけで・・・台所へ行き、洗い物をしていた彼女にチップを渡す。

さぁ・・・出発しますか!
車に乗り込もうとしたら、“オマリオ夫人”が「あなたは、まだ独身なんでしょ?」と突然尋ねてきた。
もちろん・・・イエ~ス!・・・である。(笑)
「うちのメイドさん・・・どう?子供が一人いるから日本に連れて行くのは駄目だけど、あなたがこっちに住むむということで・・・どうよ?」と笑う。
と・・・その時、メイドさんが見送りのため外に出てきた。
「この子・・・どう?」と指差す・・・
彼女は、何の話かわからずキョトン・・・
周りの人は大笑い・・・
拙者は、シドロモドロになって真っ青・・・である。(大汗)

毎度の事ながらオマリオ夫妻には、拙者の結婚話を持ち出されるのである。(笑)
40歳を過ぎたとき、「まだ結婚していないのか?」と言われ、村の働き者の“女の子”との見合いをセッティングすると“オマリオ氏”に言われたことがある。
「お前はラッキーな男だぞ」
「何がラッキーなんですか?」
「子供が4人もいるんだ。しかも男2人、女2人・・・ラッキーだろ?」
どこが・・・ラッキー?????
最初から4人の子供の父親になるのか?(汗)
それは・・・アン・ラッキーではなかろうか?(大笑)
そのときに「冗談だから気にしないで」と助け舟を出してくれたのが“オマリオ夫人”・・・・
しかし、今回は“オマリオ夫人”にからかわれてしまった。(大笑)
しかし・・・あれからもう10年以上経っちゃって、こっちはもう50歳を過ぎてるんですけど・・・
このメイドさんのほうが可哀想でしょ?(大笑)

とにかく・・・また来ます!ありがとう!じゃあね!バイバイ!・・・

皆さんに別れを告げて山を降りる・・・・
気になるのは、途中の道路工事をしていた場所・・・
昨日の雷雨でドロドロになっていたら、この“普通乗用車”では泥にはまって動かなくなるんじゃないか?
“ステラさん”と「ヤバイかも・・・この運転手じゃねぇ~」と日本語で陰口・・・(大笑)
運転手くんは、日本語がわからないから、あ~でもねぇ、こ~でもねぇと笑い話・・・

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工事現場は幸いにもぬかるんでいなかったので助かった・・・(大笑)
ここからは、とにかく走り続けるだけ・・・・
途中、道を間違えたようで行ったり来たり・・・
「このドライバー、道を知らないみたいです。信じられない。なにこの人・・・」と“ステラさん”が怒る。
拙者も不安になり、タブレットの地図で現在地を確認する。

まもなく・・・「タルラック」の近くまで来る。
このまま真っ直ぐ西に進むと「タルラック」である。
と・・・なぜか車は途中から左折して高速道路に乗ってしまった。
ん?なんで?
「これから、どこへ行くのですか?」と“ステラさん”に尋ねたら「食事に行く」と言う。
高速道路に乗って食事に行くとは不思議である。
先ほどの場所から西へ真っ直ぐ向かえば「タルラック」の町に着くのに・・・
なぜか車は南下し続ける。
一体どこで食事をしようというのか・・・

そのうち見慣れた山々が見えてきた・・・
「マバラカット」である!
「あれ?マバラカットで食事をするの?」と再び“ステラさん”に尋ねる。
「エッ!マバラカット?」
「向かっているのはマバラカットですよ」
慌ててドライバーと何かフィリピン語で言い争っている。
ドライバーが、途中で降りるところがあると思ったら無かったので走るしかない・・・と言っているそうである。
「道を間違えました」とは決して言わない。
大体ね・・・真っ直ぐ行けばいいものを左折して高速道路に乗ることが間違ってるでしょ?
完璧に間違っているでしょ!(怒)
結局、1時間以上もムダに走ってしまった・・・・
あ~腹がへったぁ~
“ステラさん”が「良く気がつきましたねぇ~私は全然気がつきませんでした」と言う。
そんな・・・バカな・・・である。(大笑)

高速道路を降りて、また高速道路に乗り引き返し、ようやく「タルラック」に到着・・・・
市内のレストランで3人で夕食・・・・

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“ステラさん”とは、拙者が泊まるホテルのチェックインの手続きを終えたらお別れである。
彼女は今晩中にマニラに帰らねばならない。
明日は日本から来るツアーの添乗をするのである。
いやぁ~ご苦労さんなことである。
食事代を払うついでに各種の清算も行なう。
「立て替えてもらったお金を差し引いて・・・」と彼女は言う。
こういうところは真面目である。
「立て替えたお金は返さなくて良いよ。チップに含めてくれていいから」
拙者が立て替えたお金は、いずれにせよ会社に請求するのだろうから、それをそのまま自分のものにしてもらっていい。
それプラス・・・少々のチップで、いつもの額に達するだろう。
“ステラさん”へのチップは毎回、ほぼ同じ額に決めているのだ。(笑)

ホテルにチェックインして“ステラさん”とお別れ・・・・
彼女はバスターミナルへ行き、バスでマニラに向かうという。
ドライバーは・・・・
「ステラが帰りましたから、今晩は我々二人きりですね」と意味深なことを言う。(大笑)
「だから、何だ?」
「飲みに行きましょう」
どうも拙者を飲みに連れて行くつもりらしいが、それだけではないだろう。
で・・・またもやそこでカネの話か?
あ~想像しただけでゲッソリする。
いい女を紹介するからチップを弾んでくれ・・・と言うに違いない。

とういうわけで・・・
「疲れているから寝る!明日の朝、迎えに来てくれ!じゃぁね~おやすみ!」(大笑)

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旅行 | 11:14:08 | Comments(0)
ルソン島の旅(12)
前回は、このタコツボのある場所で引き返したが・・・・
今回はそれより更に先へ進むことにする。

以前、戦車第2師団速射砲隊(対戦車部隊)の山下少尉から葉書をもらったことがある。
「あなたのおじいさんの陣地のすぐ後ろに陣地を造って戦ったんですよ」とのこと。
詳しいお話をうかがおうと思っていた矢先、訃報が届いた・・・お亡くなりになったという。
まさかの訃報・・・そんな・・・バカな・・・である。
これは本当にショックだった・・・・
平成19年没・・・・

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祖父の陣地の直ぐ後ろって・・・この山になるんだけど・・・・
わからん・・・
速射砲隊の本隊は「ナツ陣地」の北西にある「マツ陣地」に陣取って最後まで敵を寄せ付けない戦いをしていたらしい。
山下さんは速射砲の整備中隊所属・・・・
整備中隊だけが、本隊からこんなに離れた場所に陣地を造ったのか?
「直ぐ後ろに・・・」というのは、どういう意味だったのだろう・・・
あ~あ~永遠の謎である!

山頂から左は密林、写真の右側には樹木がない・・・
どのあたりまで米軍の砲爆撃を受けていたかが明確である。
と、同時に、日本兵がいた場所と、そうではない場所も明確ということになる。
この山の密林の手前まで尾根を登ることにする。
このあたりだったのかなぁ~
山下さんがいた場所は・・・・

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隣の山の斜面から見た「高田山」・・・・
写真の右端の斜面、くびれたところに戦車第10連隊本部の壕があった。
ということは・・・祖父の部隊の連隊本部壕もこの斜面のどこかにあったはずである。
が・・・痕跡は全く見えない。
この「高田山」では戦闘終了後、米軍が250名以上の日本兵の死体を確認したと記録に残している。
同時に、横穴陣地内に同数の日本兵を閉じ込め殺したと記録されているが、横穴陣地内に何人の日本兵がいたのかは、わかるわけがないので、同数、つまり250名の日本兵を生き埋めにしたりして殺したというのは、ちょっと信用できない。
が・・・この山の地表には250名以上の日本兵の遺体があったことは、ほぼ間違いないだろう。
で・・・その遺体・・・どこへ行ったのだろうか?
谷底に投げ込んだか?
米軍の言う、250名ほどを生き埋めにしたというのは大げさだろうが、いずれにせよ、何人か、何十人かは生き埋めにされたことは確かなようである。
この山の土の下に眠っているのである。
あ~・・・どんな思いで息を引き取ったんだろう・・・
米軍は横穴壕の入り口を爆破して入り口を塞ぎ日本兵を生き埋めにしたり、壕の入り口からガソリンを流し込み焼き殺したという。
祖父の指揮下で戦った方々・・・もう土になっちゃったんだろうなぁ~
指揮官の孫がお参りに来たという事で成仏してくれたらありがたいが・・・

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祖父の陣地跡「高田山」に立つ拙者・・・です!(笑)

これ以上、進むのは止めて、帰る事にする。
なにせ“ステラさん”から「お昼までには絶対戻って来て下さいよ!」という絶対命令を受けているのである。(笑)
多分、拙者の事だから、どこまでも行っちゃうんじゃないかと思ったのだろう。(大笑)

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「サラクサク第2峠」頂上から「天王山」を見る・・・・
この「天王山」には、祖父が撤退してきたときに、歩兵第39連隊の乾(いぬい)中尉の指揮する大隊が陣地を構築していた。
この大隊はフィリピンに上陸する前に輸送船が撃沈され、大隊長以下、多数が溺死したため、乾中尉が大隊長として選ばれ再編成したが、「大隊」とは名ばかりで、実際は1個中隊、100名程度だったようである。
この乾中尉は血気盛んなる青年将校で、人物的にもかなり高い評価を周囲から受けていた人らしい。
この「天王山」を自分の死に場所と決めて陣地を造っていたという。
当時の作戦命令は、まさしく朝令暮改・・・・
陣地が出来上がる頃になると、他の場所に移動しせよとの「陣地転換」の命令が来る。
これは、ここだけではなく、他の地域、他の部隊でも同様だった。
どうして“エリート”の参謀連中はコロコロと命令を変えたがるのか・・・
本当の意味での“エリート”なのかと拙者は疑いたくなるのである。
だから、拙者は“エリート”というのが嫌いなのである。(笑)
「乾が死ぬ気で陣地を構築しているので、絶対、陣地転換命令は出さないで欲しい」と、周囲から上層部へ異例の申し出があったというのだから、この乾中尉という人は凄い人だったのだろう。
祖父がボロボロになってこの山に辿り着いたのは、多分、昭和20年3月15日頃のことである。
一息ついて・・・乾大隊を指揮下に入れ、祖父は隣の「高田山」に陣取った。
まもなく米軍の攻撃を受けて乾中尉は戦死する。
部隊も全滅して占領され、それから取ったり取られたりの争奪戦が繰り広げられた。

戦後、祖父は、この乾中尉の遺族のところへ戦死状況を報告に行ったという。
確か、母一人子一人の母子家庭だったと思う。
なにせ、小学6年生の頃に聞いた話である。
乾中尉の母親は、自分の息子が死んだことより、なぜ戦死したのに2階級特進せず、階級が1階級しか上がらなかったのかと祖父を問い詰めたらしい。
祖父が何度説明しても、納得してくれなかったという。
しつこくなじられたらしい。
特攻隊ならいざ知らず、普通の戦闘で戦死して1階級特進する事自体、異例であり名誉なことなのだそうだが、2階級じゃないのが納得できないと責められたという。
「息子が死んだことより階級のことにこだわるんだから、参ったよ。ああいう母親もいるんだよなぁ~階級がそんなに大事なのかと言いたくなったが・・・・散々責められてなぁ。どうして階級をもっと上げてくれなかったんだって。あれには、本当に参った」と祖父が言ったのを覚えている。
へぇ~そんな母親が世の中にはいるのかと思ったが・・・
今になって思うと、階級が上がることで、息子は価値ある戦死をしたんだと、そういうことで、この母親は息子の死を受け止めようとしたかったのかもしれないと思うのである。

熱血漢の乾中尉が眠る「天王山」に別れを告げ・・・麓まで降りる。

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振り返ると・・・密林の向こうに「高田山」の頂上がチラリと見える・・・

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途中で見かけた花・・・・名前は知らない・・・・(笑)
もっと咲きほこってくれたら、英霊達は気が安らぐか?

“オマリオさん”の家に戻る途中、慰霊碑に立ち寄り、昨日修復した碑文の様子を確認する。
なにせ、雷雨でかなり濡れたから、マジックで染めた文字がどうなったか気になったのである。(笑)
碑文の文字は流れず、綺麗なままだったので安心した。

「ハイ、ちゃんとお昼までには戻って来たでしょ!(笑)」と“ステラさん”に挨拶・・・
彼女は庭に出て、我々が山を登っているのを見ていたと言う。
「途中で、スッと姿が消えたので驚きましたが、また山を登っていく姿が見えたので安心しましたよ」
「あ・・あれ・・あれは・・・座ってタバコを吸ってたんだよね~」
「やっぱり!タバコ・・・吸ってたんですか!そうかなとは思ってましたけど!(笑)」

我々が戻って、まずはコーヒーで一服しているところ、村に住む女性が遊びがてらやって来た。
昨日も子供を連れて遊びに来ていた女性である。
で・・・彼女が持参してきたのは日本軍の認識票・・・

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どこでこれを見つけたのかと尋ねたら「ダラワン」だという。
「ダラワン」とは、場所的には「天王山」あたりを指す現地の地名らしい。
問題は、この5枚の認識票を「天王山」のどのあたりで見つけたのか・・・
5枚一緒に見つけたのか、それとも別々の場所なのか・・・
細かいことを尋ねたかったが、英語が通じないし、“ステラさん”を通じて尋ねても、「ダラワン」としか言わない。
あ~あ~・・・出発前に持ってきてくれればねぇ~
見つけた場所を案内してくれって頼めたかもしれないのに・・・・
この認識票を見つけた場所が山の頂上なのか、谷間なのか、麓なのか・・・
見つけた場所にはご遺骨があるかもしれないではないか?

認識票の刻印は5枚のうち4枚は読み取れなかったが、1枚だけ鮮明に読み取れるものがあった。
が・・・誰のものかは名簿がないとわからない。
個人番号は名簿と突き合せなければ氏名はわからないのである。
その名簿は、戦地では当然残っているはずもないし、内地にあったとしてもどの部隊も終戦時に焼却処分をしてしまっているので現存していない。
認識票と一緒に遺骨が見つかっても個人を特定することは残念ながら不可能である。
なんで処分をしてしまったのやら・・・
日本人はパニックに弱い国民である。
先々のことも考えない・・・
敗戦となり、米軍の手に渡ることを恐れて書類は何でもかんでも焼き捨ててしまったのである。
バカである・・・隠せばいいものを・・・
どうせ“エリート”と言われる連中の命令だったのだろう・・・・

写真だけを撮らせてもらい、彼女に返し、大事に保管しておいてくれと頼む。
と・・・彼女はちょっと怪訝な顔をした。
彼女が去ってから“ステラさん”が「彼女は、あのドックタグ(認識票)を買ってもらいたかったんじゃないでしょうか?」と言う。
拙者も、一瞬、そうかなとも思ったが・・・
これは難しい問題である。
果たしてカネを出して買っていいものかどうか・・・
英霊に対して、どうのこうのというのもあるが・・・・
カネで買い取るという前例を作ることが果たして良い事かどうか・・・
悩むところである。
何でも売れると思われて、いろいろと持ち込まれても困るし・・・
逆に、カネがもらえるとなれば、色々な遺品を見つけ出してくるかもしれないし・・・
どっちがいいのか・・・
理想は「差し上げます」と言われて、「それじゃ悪いから、御礼を・・・」なんだけどなぁ~
カネで“買い上げる”という感じでは抵抗があるんだよなぁ~
(結局は同じことなんだろうけども・・・)

さて、食事の前に汗を流さねば・・・
“オマリオさん”宅にはシャワー室はあるが、蛇口をひねってもお湯は出ない。(大笑)
薪でお湯を沸かしてもらい、熱湯が入った小さなバケツをもらう。
これをシャワー室に置いてある大きなバケツに入れ・・・・
そこに水を入れて適温にぬるめて、それを柄杓ですくって浴びるのである!(大笑)
このぬるめるのが難しい・・・・
下手に水を入れ過ぎると、ぬるすぎて風邪を引きそうになる。
なにせ、ここは高所・・・結構、寒いのである。
特に夜は急激に冷え込むので、拙者はジャージ持参である。
慎重に水を加えながら適温にして・・・・
頭を洗い、体中に石鹸を塗りたくり、柄杓で湯をかけて流すのだが、これまた難しい・・・(笑)
背中なんぞ、うまく湯がかからないのである!
柄杓でバシャッとかけたつもりが・・・肩越しに壁にお湯をぶっかけているという具合で、背中の石鹸が流れない!(大笑)
なんと不器用なことか・・・・(涙)
お湯には限度がある・・・バケツ1杯分しかないのである!
無駄には出来ない・・・・
いかに普段、贅沢にお湯を使っているかを思い知るいい機会である。
こういう“不便さ”を体験することは大事なことだと拙者は思うのである。
だから、たまにはここへ来て不便さを楽しみたいのである。(大笑)
こういうことを体験すると、なんとなく自分が“正常”に戻ったような気になるのである。(大笑)
なんとか無事にバケツ1杯のお湯で“入浴”を完了する。
大成功!(大喜)
今回は、バケツ1杯のお湯で頭も体も洗えたのが何とも感無量・・・・
昨年の震災の時の不便さよりも、まだ幸せなんだから・・・なんというか、幸福感というか・・・
「いやぁ~ボクは~幸せだなぁ~」とつい言いたくなる。(大笑)

旅行 | 10:20:02 | Comments(0)
ルソン島の旅(11)
189_convert_20120610094459.jpg190_convert_20120610094621.jpg

まもなく「サラクサク第2峠」の頂上に到着。
すぐ脇の「アキ陣地・天王山」の側面を回りこみ、南西方向を見る。
多分・・・左端の奥に聳える尖がった山は“瀧上大隊”が戦った「ゲリ山」だと思う。
山口の“コンドウさん”が戦っていた山ではなかろうか・・・
あとで写真を送ってあげよう。(笑)
その向こうに「カバリシアン」という場所がある。
雲がたなびき、霞んでいて良く見えないが・・・
ここに祖父の部隊がいた・・・・兵力は約600名・・・
そこへ米第32師団が攻撃をかけてきた。
多分2万名近かったろう。
1個師団対600名では勝ち目はない。
が・・・写真の右方向の山伝いに、ジワジワと時間稼ぎをしながら、ここまで後退して来た。

この時の様子をここから見ていたのが独立歩兵第11連隊第2大隊長の“フジグロ”少佐・・・・
今でもお元気である。
猛烈な砲撃を受けているのをここから見ていたという。
「あなたのおじいさんの戦いぶりは凄まじかったんですよ。猛烈な砲撃を受けてね。あれでは全滅したなと思ったら、翌日には少し下がった場所が砲撃されている。ということは、まだそこで生きているということですよ。3日も持つまいと思っていたが、2週間も粘ったんですからね。あの様子は今でも目に焼きついてるんですよ」と、お会いするたびに話してくれるのである。
今では当時の山道は崩壊して痕跡も残っていないので、どこをどう後退して来たのは分からない。
できれば、一度、その道を辿ってみたいというのが拙者の夢である。
そこには政府の遺骨収集団も入っていないので、いまだに多くの祖父の部下達が眠っているのである。
お線香をあげてあげたいなぁ~

ここに到着したときには祖父の部隊は600名から80名に減っていた。
その間、多くの部隊がここに投入され防衛陣地を構築していた。
その主体は戦車第2師団であるが、その他、飛行機を失った航空部隊や鉄道部隊など、何でもかんでも手当たり次第に投入したのである。
なにせ、1個師団の進撃をたった600名の祖父の部隊だけで食い止めようというのには無理がある。
とにかく祖父達が時間稼ぎをしている間に防衛陣地を構築せねば・・・ということで続々と応援部隊が投入されたのである。

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「天王山」の南斜面・・・・
当時の山道がわずかに残っている。
この道を向こうからボロボロになった祖父たち80名が歩いてきたんだろうなぁ~
拙者が今、立っているところは、この「天王山」が戦場となった時に、米軍の遺体置き場だった場所である。
戦死した米兵の遺体を、米軍はここに一時的にここに集めていた。

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「天王山」から見る・・・・
左端の平坦な場所が「サラクサク第2峠」(南側)、その右の山が「フユ陣地」の「高田山」である。
ここに後退して来て一息ついた後、祖父達はここの配置に着いた。
「高田山」は戦車第10連隊第4中隊の高田中隊長がいたので「高田山」と名付けられた。
高田中隊長は戦後、佐藤と姓を変えている。
この地域は戦車第10連隊(原田連隊)の守備範囲・・・・
祖父は原田連隊長の指揮下に入る。
平地戦で戦車と兵員を失った高田中隊は「中隊」と言っても51名しかいない。
ここへ祖父達が合流し、高田中隊を指揮下に置く。
佐藤(旧姓高田)中隊長が負傷して後方へ下がったときの中隊の生存者は6名ほどいたらしいが、その後まもなく全員が戦死・・・・
第4中隊で戦後生還したのは中隊長の佐藤さん(旧姓高田)一人だけである。
その佐藤さんも平成18年に他界された・・・・

当時は「昼なお暗い」と表現されるくらいの密林だったが、米軍の砲爆撃のおかげで密林は消滅・・・
山の形もかなり変わってしまったという。
当時はどんな感じだったのだろうと、またまた頭の中は昭和20年に・・・・(笑)
米軍は、この攻撃の時にガソリンを撒き火をつけたらしいので、そのせいなのか、“密林”は今もって再生されていない。

写真の右側のほうは、山の斜面が崩れているのが何箇所も見られる。
以前見たときは、こんなに崩れてはいなかった場所である。
ここ最近の長雨のためなのだろう。

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「案内人」の2人・・・・
赤い帽子の“彼”が、英語のわかる村人・・・(笑)
で・・・拙者がこの戦場の話を英語で教えるのだが・・・
彼は、一緒にいる“おじいちゃん”には伝えない。
おい、おい、それじゃ通訳にならねぇじゃねぇか!(大笑)
青い帽子を被っているのが自称、山に詳しい“おじいちゃん”・・・・
人のいい“おじいちゃん”で、何を言ってもニコニコしながら「ハイ!」と答える。
「ハイ」は万国共通の言葉なのか?(笑)
日本語だと思うんだけど・・・
拙者が話していても「ハイ!」と返事をする。
あれ?英語がわからないはずだが・・・???
「俺が言っていることわかってないでしょ?」と言ったら・・・・
ニコニコしながら「ハイ!」
あ・・・やっぱりね・・・(大笑)

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「高田山」北側斜面・・・・
左端が「フユ陣地」の「高田山」
真ん中が「サラクサク第2峠」の頂上・・・・
「高田山」の脇を回り込む当時の山道の一部が残っている。
一番右端の山が「アキ陣地」の「天王山」である。

崩落している場所は、当時、機関銃陣地があった場所である。
横穴が掘られていたはずで・・・・
多分、入り口は埋まっていたが、中は空洞だったのではないだろうか。
地震や風雨で、空洞が崩落し、それが起点となって表面が一気に崩れ落ちたのではないかと思う。
この地域は時々地震が起こるのである。
以前、地震のせいで丘の表面の土が崩れ、ポッカリと日本軍の横穴陣地が顔を見せたということがあった。
ちょうどその頃、“遺骨収集”を目的とする数名の日本人青年がやってきて、その穴を滅茶苦茶に掘ったが日本兵のご遺骨は見つからなかった。
見つかる可能性は低いのである。
場所的に、そこは「棲息壕」で、「戦闘壕」ではない。
知識のないド素人たちに滅茶苦茶に掘られた跡へ地元の人に案内されて愕然とした・・・
これじゃ“破壊”である。
こんな掘り方じゃ、見つかるものも見つからない・・・
そのままにしておいてくれていたら良かったのに・・・・

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その直ぐ左側の斜面・・・・
ここにも当時は、いくつもの横穴陣地が掘られていた。
が・・・ここの土質は軟らかい・・・
掘るのも簡単だが、崩れるのも簡単である。
今では、横穴の入り口は塞がれ、どこにあったのかはわからない。
何人もの日本兵が生き埋めになっている可能性はある。

入り口だけ崩れて内部が空洞になっているとしたら・・・
その空洞を探せるような機械があったらなぁ~と思う。
まぁ、掘るのは人力では難しいと思うけど・・・

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「高田山」の北側斜面から慰霊碑のある方向を見た景色・・・・
向こうの山裾の近くに見える建物が“オマリオさん”の家・・・
中央に見える丘が慰霊碑のある「サル陣地」である。
が・・・こうして山のほうから見てみるとかなり大きな丘である。
これが配置図にも記載されていない「サル陣地」とは考えにくい。
祖父の指揮下にあった山下大隊のいた「スズメ陣地」の可能性が高い気がするんだけどなぁ~
この丘は、米軍のB25爆撃機などの攻撃に曝された。
今でも爆弾の落ちた跡が残っている。
1トン爆弾だという話だが、果たして本当に1トンだったかどうかはわからない。
かなり砲爆撃の集中攻撃を受けていたようで、ボコボコに削られている。
本当は土饅頭みたいな形、御椀を逆さに伏せたような形だったのではなかろうか?

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左のほうを見る・・・
中央のわずか左よりのところに形の悪い丘が見える。
これが「ナツ陣地」のはずである。
米軍の砲爆撃の跡が見える。
こちらの丘は、本当は三角形の山だったのではないかという気がするが・・・
向こうの奥に見えるのが「イムガン山」・・・・ちょうど、霧が山頂にかかっているあたりである。
その裾野に「ハル陣地」があった。

向こうの山のほうから、こっちに向かって「ハル」「ナツ」・・・と続く。
手前の丘が蒲田中隊長がいた「蒲田山」だが、ここから見ると、山には見えない。(笑)
2つほど瘤のような丘があるので、それを「山」と称したのだろう。
我々はあそこの尾根沿いを歩いてきたわけである。

ふもとの村から見たのでは、こういう配置状況がよくわからない。
米軍は写真の左方向から右へ向けて進撃してきた。
陣地の構築の指揮を取り、それぞれに陣地名を付けたのは固武(こたけ)工兵隊長である。
固武さんが、どこからこの一帯を眺めて陣地の配置を決めたのか・・・
自分が工兵隊長になったつもりで考えねば・・・・・

あ~でもねぇ、こ~でもねぇと説明しているうち・・・・落ちた!(ギャッ!)

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「タコツボ」である・・・
説明に熱が入りすぎ・・・思わず、「タコツボ」に落ちてしまったのである!(大笑)
「案内人」たちは大笑い・・・・チクショウ・・・笑われてしまったぁ~
真面目な話をしていたのに・・・(笑)
この「タコツボ」・・・何度もここに入ったことがある「タコツボ」である。
ここに登ったのは今回で3回目・・・
最初は何が何だかわからず登り、この「タコツボ」を見つけた。
2回目には、ここが「高田山」だとわかり、この「タコツボ」に入ってみて、当時の兵隊の気分に浸った。
ひと一人がようやく身を隠せる大きさの竪穴である。
ここから、向こうの「天王山」の頂上を占領した米軍を狙い撃ちしたわけである。
この「タコツボ」から頭を出して・・・パン!・・・と三八歩兵銃を撃つ。
すると、向こうの山頂から、ダダダダダ・・・と撃ち返される。
その間、ジッとこの穴に身を潜める・・・
多分そういう状況だったのだろうなぁ~と思いながら、この穴にもぐりこんだものである。
この周辺にはいくつもの、このような「タコツボ」が残っているのだが・・・
なぜか、毎回、この「タコツボ」に引き寄せられるのである。
探さなくても、なぜかここに辿り着くのである。
不思議なのだ・・・
今回は、遂に・・・落ちた!(大笑)
ここに穴が開いてることを何で忘れてしまっていたんだろう?
マイッタァ~

旅行 | 09:41:28 | Comments(0)
ルソン島の旅(10)
昨日は雷雨で、果たして今日、山を登れるか心配したが・・・
朝起きてみたら何とかなりそうな天気のようである。
「ようである」という意味は・・・
この「マリコ村」の早朝は、霧に包まれて真っ白なのである。(笑)
朝5時、薄暗い中、1m先も見えないのである。
そこから段々霧が晴れてくる・・・
6時ごろになって、ようやく周囲がわかるようになるが、遠くの山々は真っ白で何も見えない。
毎度のことである。
午前7時過ぎ頃から風が吹き出し、サァ~ッと霧が流れていく。
拙者はこの時の景色が一番好きである。(喜)

さて、朝食を済ませ・・・午前7時に“オマリオさん”の家を出発、「案内人」2人を“連れて”山に向かう。(笑)

日本軍は「イムガン山」の裾野から南に向かって「ハル陣地」「ナツ陣地」「アキ陣地」「フユ陣地」と、四季の名を付けた陣地を、ほぼ一列に並べた。

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向こうに見える丘は「ナツ陣地」だと思うが、まだ行ったことはない。
それにしても、丘の形が少し変わってしまっている気がする。
以前は、もっと丘(山?)の頂上が尖がっていたと思うのだが・・・
拙者が“ご無沙汰”している間に先端部分が崩れてしまったのだろうか?
戦時中は、もっと形のいい山だったに違いない・・・・
米軍の砲爆撃で、あっちこっちがザックリと削られてしまっている感じである。

拙者が向かうのは・・・「フユ陣地」・・・・
拙者の祖父のいた陣地である。

途中、「ナツ陣地」と「アキ陣地」の間にある「蒲田山」に登る。
小高い丘である。

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ここには戦車第10連隊第2中隊(蒲田中隊)がいた。
中隊長の蒲田さんは生還されているが、平成21年に他界されている。
お亡くなりになる直前まで、戦車第2師団司令部を恨んでいた・・・・
ある日のことである・・・
師団司令部から「サル陣地」へ応援の兵を出すように命令された。
部下達を「サル陣地」へ向かわせたところ、そこには米軍がいて、「応援に来たぞ!」と声をかけた途端、撃たれて何人もの戦死者を出したという。
命からがら生還した部下の報告を受けて、師団司令部へ連絡したところ、「何を言っておるのか!今、サル陣地から伝令が来ている。米軍に占領されているわけがない!ただちにもう一度、兵を出せ!」と命じられたそうである。
で・・・もう一度、応援の兵を出したら、今度もやっぱり陣地にいたのは米兵達・・・
待ち伏せに遭い、またまた部下達を何人も失ったという。
結局・・・・
師団司令部の言う「サル陣地」と、第一線で戦っている部隊の認識している「サル陣地」の場所が違うのである。
「弾の飛んでこない後ろのほうで地図だけを見て指示を出すからこんなことになるんだ!こっちに来て自分の眼で確認しないからな、あいつらは・・あいつらのせいでムダに部下達を死なせしまったんだ。死ななくていい部下を死なせちまったんだ。だから俺は絶対あいつらを許せないんだ」と憤慨していた・・・
戦後60年以上も、恨みが消えないのには、正直言って驚いた。
中隊長としては、部下を無駄死にさせてしまったことが、どうしても許せないのだろう。
心の傷は深い・・・・
蒲田中隊で、戦後生還したのは8名だと言っていたと思う。
その蒲田さんが陣取っていたのが、この丘(山?)だったと思う。
このあたりの判断がチョット難しい。
なにせ、戦線が移動するに従って、配置される部隊も移動したりして変わることがある。
略図によって「蒲田山」と記されていたり「井上山」と記されていたりする。
これは同一の山を指しているのか、それとも「蒲田山」の尾根続きの隣のコブのような丘を「井上山」としたのかが、良くわからないのである。
略図には等高線も描いてないし・・・
生還者も、もう他界しているし・・・確認のしようがない・・・

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「蒲田山」の頂上から見た「アキ陣地」方向。
右端が「アキ陣地」の「天王山」、中央のくぼんでいるところが「サラクサク峠」の頂上、左端の霧に少し隠れているのが「フユ陣地」の「高田山」である。

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「蒲田山」の尾根伝いに「サラクサク第2峠頂上」に向かう・・・・
写真では、良くわからないが、左側は崖、深い谷なのである。
足元が悪く、足を踏み外したら・・・と思うとゾッとする場所・・・・
高所恐怖症の拙者にとっては“難所”の一つである。(涙)

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「蒲田山」から「天王山」へ向かう道を、後ろを振り返って撮影・・・・
向こうに見える「蒲田山」から蒲田中隊長率いる戦車第10連隊第2中隊が斬り込みの時に歩いたルートである。
途中、米軍の待ち伏せに遭い、斬り込みを断念して引き返した。
多分、案内人が写っているあたりだと思う。
初めてここを歩いた時に、拙者はビデオカメラを回したまま歩いたのである。
録画状態にしたまま、右を向き、左を向き・・・そしてまた真っ直ぐ歩く・・・
そのビデオを蒲田さんにお送りしたところ・・・
「いやぁ~!あなたが歩いていた場所は、私が斬り込みの時に歩いた道でねぇ~。いやぁ~懐かしかったぁ~!まるで、自分が歩いているみたいで・・・あそこはね、25歳の時の私の青春時代の場所なんですよ。まさかまた見られるとは思わなかったぁ!」と大喜びしてくれた。
「2回も見ちゃいましたよ!」とおっしゃる。
蒲田さんは、この時には既に寝たきり状態だったようで、お会いしたいが、無理だと断られた。
お電話だけでしか“お会い”したことがないが・・・・
あ~・・・蒲田さん!久しぶりに歩いたよぉ!・・・どこかで見ているかな?(笑)
あの時の蒲田さんとの電話でのやり取りを思い出しながら・・・歩く・・・・
ちょっと・・・寂しい・・・(涙)

いつの攻撃の時だったか・・・公式記録では、「天王山」への攻撃は、第1中隊(魚形中隊)と第2中隊(蒲田中隊)の2個中隊で行われたことになっている。
が・・・蒲田さんたちは途中で待ち伏せに遭い、「天王山」の手前で引き返している。
突撃をしたのは、第1中隊のみで、この時に、魚形中隊長は戦死している。

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魚形中隊が突撃したのは、この北側の斜面である。
ここをよじ登って攻撃をかけ、全滅した・・・・
たぶん、この密林の中に、魚形中隊長以下多くの将兵が眠っていると思う。
ご冥福をお祈りする・・・・

公式記録は、生還した参謀などの“偉い人”の証言が基本となっているのだろう。
2個中隊で攻撃することになっていたので、命令どおりにやったに“違いない”・・・
だから『2個中隊で攻撃した』と記録に残す。
実際は、蒲田中隊は引き返しているので1個中隊だけの攻撃である。
実際にはどうなったのかの検証はされていない。
命令に逆らう“はずがない”・・・・
命令を遂行したに“違いない”・・・である。
こんな調子だから、間違ったことが「公式記録」として残ってしまう。
この手の話はいくらでもある。
証言できる人達は年々いなくなり・・・間違った「公式記録」だけが後世に残る。

第4中隊長の佐藤さんから「公式記録など信用するなよ」と言われたことが今も忘れられない。

旅行 | 08:16:25 | Comments(2)
ルソン島の旅(9)
車も無事に戻ってきた。
6人がかりで側溝から引き上げたそうである。(笑)
ドライバーが「ジャッキを使って持ち上げた」と言う。
当たり前だ・・・ジャッキを使わなければ側溝から出すことは出来まい。(笑)
で・・・
石を運んで側溝に入れるのが大変だった、クタクタに疲れたと、やたらと言う。
更には、日本では運転手というのは給料はいくらくらいもらえるのか・・・
自分の会社は給料が少ないので生活するのが大変だ・・・
と、カネの話ばかりをする。
で・・・話は最初に戻って、石運びが大変だった・・・と、話がクドイ・・・
これだけ苦労したんだからそれなりのチップを弾んでもらいたいということらしい。
さすがに頭にきた!
「あんたは、プロのドライバーだよね?側溝に車を落としたのは、あんたの責任だよね?俺の責任じゃないよね?」
ドライバーは渋々頷いた。
「あんたはドライバーなんだから、責任を取るのは当然でしょ!」(怒)
あの車は4WDではないのかと尋ねたら、ただの乗用車だと言う。(笑)
山に入るっていうのに4WDじゃないとはどういうことだと呆れたら、会社がケチでオンボロ車を押し付けて来たという。
いつもは4WDのワンボックスカーを用意してくれたのに、今回はどうして小さな乗用車なのか・・・空港に迎えに来た車を見たときから不安だったのだが・・・・
少なくとも4WDなのかなと思っていたのだが・・・
車の手配は、現地旅行社から下請けの配車会社に丸投げされる。
この不況で経営が苦しいのか、かなりケチってくれたようである。
しかし、側溝に脱輪したのはドライバーの腕が悪いからである!(笑)
車がオンボロ・・・は、言い訳に過ぎない。

車の救出をしてくれた村の青年達に謝礼金を渡す。
余計な出費である・・・・
が、彼らも現金収入が得られて嬉しかろう。
法外な謝礼金を要求してこなかったから良かったが、もしかしたらかなり遠慮した金額を提示したのかもしれないと後で思った。(大笑)
悪いことをしたかな?
あれほど迅速に対応して重労働をしてくれたのだから、少し奮発してあげるべきだったか?(笑)

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夕食は、持参した野菜等を使って、“ステラさん”と“オマリオさん”のところのメイドさんが作ってくれた。
“ステラさん”に同行してもらい大助かりである。(喜)
ご飯は、日本のご飯・・・・
これは日本の慰霊団か何かのツアーが持ってきて余ったものを“ステラさん”が頂いたらしい。(笑)
それを“ステラさん”が持って来てくれたので・・・この日本のご飯を頂く。
ドライバーは拙者が何でも食べるので驚いたようで、“ステラさん”に何か尋ねたらしい・・・
この人は、フィリピンの食べ物は何でも食べられるから大丈夫だと言っておきましたと言う。(大笑)
普通の(?)日本人は、なかなかフィリピンの食べ物は食べられないそうで、食事には気を遣うというが・・・
拙者は“雑食”なのだろうか?(笑)
食事に注文をつけないから拙者と一緒に行動するのが楽だと“ステラさん”は言う。
ご飯も、フィリピンの少しパサパサして、少し黄ばんだような“蒸した”ご飯でも平気で食べられるのだが・・・普通の(?)日本人は駄目だそうである。
というわけで・・・こういう日本のご飯を持参してくるのだそうだ。
へぇ~である。
拙者は腹が満たされればなんでもいいんですけど・・・・(大笑)
餓死した兵隊さんのことを思えば、多少のものは食べられるんですけど・・・

食後、テラスでコーヒーを飲みながら雑談・・・・
と・・・見知らぬ現地人が・・・(笑)
“オマリオさん”の家は、以前からそうなのだが、一体誰なのかわからない人が住み着いて(?)いたり、出入りしたりするのである。(笑)
こちらのほうでは、それが普通なのだろう。
特別、自己紹介も何もない・・・
家族ではない人だというのは間違いないが・・・この人・・・誰?(笑)
コーヒーカップを持って、”ステラさん”と拙者のところにやってきて、ス~ッと話に加わるのである。(大笑)
この人・・・顔かたち、肌の色からして山岳民族出身である。
が・・・不思議な人なのだ・・・昔からの知り合いのような態度で接してくるのである。(笑)
で・・・結構、“学”がある。
知識をひけらかすというより、知識に裏付けられた的確な質問をしてくる。
この人・・・身なりは“ホームレス”のような格好をしているが、英語もキチンとした英語を話すし、知識もある。
一体何者なのだろうと、ついつい彼の顔をマジマジと見てしまった。(大笑)
太平洋戦争、特にフィリピン戦についての質問は的確である。
日本人でも、これほど的確な質問をしてくる人は滅多にないだろう。
簡単な会話は英語で受け答えして、難しい話はフィリピン語でやってもらい、“ステラさん”を通訳にして会話をする。
いやぁ~“ステラさん”に同行してもらい大助かりである。
以前は、日本語の話せないガイドと一緒だったので、毎回、会話には苦労をしたが、今回は楽チンである。(笑)
笑ってしまったのは・・・ゲリラの話・・・
彼の質問・・・「日本の共産党にはフィリピンの共産党のように軍事組織はないのか?」
「日本の共産党はフィリピンのように政府に対して武力闘争をしないのか?」
彼らからすれば、共産党には軍事組織があるのは当然で、共産ゲリラが政府軍と戦うのは当然だという認識らしい。
「日本の共産党には軍事組織はないよ」
「何で無いんだ?」
「え~と・・・根性が無いから・・・」(大笑)
お~そうなのかぁ~と爆笑!

そんなこんなの話をしているうち夜が深ける・・・
山村の人は寝るのが早い・・・(大笑)
じゃぁ・・・ということで、拙者もゲストルームに戻り寝る。

旅行 | 17:10:18 | Comments(0)
ルソン島の旅(8)
我が乗用車が脱輪した場所から歩いて約10分程度で「マリコ村」の入口に辿り着いた。
時刻は午後4時過ぎである。
村の入口に豚が繋がれていた・・・
あらら・・(笑)
以前来たときには豚なんか見かけなかったのだが・・・
以前より少しは裕福になったのだろうか?

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以前来たときは、何もない、ただの荒地が大農場に生まれ変わっていた!
これには驚いたが・・・・
そこ・・・日本軍の陣地があったかもしれない場所ではなかろうか?
あらら・・・平らになっちゃっている。
もっと早い時期に戦跡調査をしておくべきだった・・・

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暫く歩くと、今晩泊めてもらう“オマリオさん”の家に辿り着く。
多分、我々の車が脱輪したという話が届いていたのだろう、奥さんが家の外に立って我々を待っていた。
いやぁ~7年ぶりの再開である!(大喜)

135_convert_20120606195001.jpg(オマリオさんの家)

コーヒーをいただきながら、近況の「報告会」・・・・
オマリオさんのご主人は病気治療のため別のところにいるらしい。
話によると、1週間に3回、血を綺麗にするというのだから、どうも人工透析をしているらしい。
そうなると、この山奥にいては無理なので、治療のため家を離れているのだそうだ。
息子の“ジェイソン君”は、大学を中退して結婚をし、子供が2人もいるという!
うそぉ~!(大笑)
7年前は・・・彼は21歳で、まだ大学生・・・・
彼が17才の時、初めて会ったのだが、それからずっと山を登る拙者の先導役を務めてくれていた。
その彼がねぇ~結婚して子供までいるのぉ~(驚)
こっちは当時と全く変わらず・・・独身のままだっていうのに・・・
無理もないかぁ~7年も経っちゃっているから・・・・
ここで“オマリオ夫人”から「陳情」・・・・(笑)
この息子が無職なので、拙者の会社で雇ってくれないかというのである。
あらら・・・
拙者は、すでに会社を廃業していることを伝えたら、何とか日本で働けるよう協力してはくれまいかという。
日本でも就職難だからなぁ~
フィリピン人を雇う会社があるだろうか?
“ステラさん”が無下に断るわけにもいかないでしょうから、検討するということにしてはどうかと助け舟を出してくれた。
まぁ~そのように言うほかはないよなぁ~
“ジェイソン君”は、家を出て、ここから遠く離れた「バギオ」に妻と子供2人と住んでいるという。
「え?無職で?・・・どうやって生活してるの?」と尋ねたら・・・
お母さんである“オマリオ夫人”が仕送りをしているという。
うそぉ~!(大笑)
拙者も親の脛を齧って生きてきた男ですから(大笑)、あまり他人のことをとやかくは言えないが・・・(大笑)
結婚して、子供を2人ももうけて・・・それで親の脛を齧っているの?
“オマリオ夫人”が呆れ顔で、困っちゃうのよねぇ~のジェスチャー・・・
どこの国でも親は大変である。
息子の就職の陳情を拙者にしたくなる気持ちもわからないでもないなぁ~

“オマリオ夫人”は、この村の小学校の先生である。
もう一人、同じ学校の同僚の女性教師が同席していたのだが・・・
この女性教師から恐るべき話を聞かされた・・・
「サンタフェ」の町に日本人が一人住みついているそうなのだが、その日本人の男が、この周辺に住んでいる20代から30代の女性を日本へ連れて行くために募集しているというのである。
この男・・・日本で木を植える仕事があるので、それで女性達を集めていると言っているらしい。
で・・・この先生・・・
そういう仕事が本当に日本にはあるのかと言うのである。
唖然・・・である。
そんなバカな話を聞いたことはない。
だいたい、日本で木を植えるのに、わざわざフィリピンから人を雇うわけがない。
しかも、20代から30代の女性だけに限るって、どういうこと?
男を雇うって言うならわかるけど・・・女性だけっていうのは怪しいでしょ。
日本で木を植えるために外国人を雇うという話は拙者は聞いたことはない・・・
若い女性だけに限っているのは、女性を売り飛ばすためかもしれないから、特に学校の先生から勧められたなどということになったら、とんでもないことになる・・・と説明し・・・
この話は絶対怪しいから、この話に乗ってはいけないと忠告する。
それにしても、とんでもねぇことをやろうとしている日本人が住みついているとは驚きである。
いつか、どんな奴か見てやろう・・・
場合によっては、締め上げねばなるまい!(怒)

“オマリオ夫人”から、もう一つの驚くべき話が・・・
(よく驚かせてくれるもんだ~笑)
昨日、ここから北のほうの山の中で政府軍と共産ゲリラの戦闘があったという。
で・・・政府軍兵士が11名戦死し、民間人1名が巻き添えをくって死亡したという。
ゲゲッ!(大笑)
一応、政府軍には日本人が一人、明日、山の中へ入ることを伝えてあるとの事。
まぁ~ゲリラと間違われて撃たれては堪りませんから・・・(大笑)
で・・・山に入る案内人は一人でいいかと言う。
山のことをよく知っている老人だそうである。
拙者も、祖父の陣地跡には何度も行っているので、一人でも行けないことはないのだが、いつも念のため「案内人」を同行させることにしている。
万が一怪我をした場合や、山の中でバッタリ村人に会った時の対応のためである。
トラブルは出来るだけ避けねばならない。
いいですよ~と返事をしたのだが・・・・
「その人、英語が話せないんだけどいいですか?」と言う。
あ・の・ね・・・・(大笑)
英語が通じないのでは、どうやって意志の疎通を図るの?
驚かせてくれたついでに笑わせてもくれる。(大笑)
ということで、英語の話せる人を付けてもらい、3人で山に入ることにした。
「2人になるけど、いいですか?」と“オマリオ夫人”・・・
案内人への謝礼金は拙者が払うので、2人では高くなると気にしてのことだろう。
全然問題はない・・・拙者は経済観念がないのである!(大笑)
一応、明日一緒に山に入る村人に来てもらい挨拶をする。

今回の訪問には、祖父の陣地跡に行くことと、もう一つ、慰霊碑の碑文の修復を目的としている。
1時間ほどおしゃべりをして、「案内人」2人を連れて慰霊碑に行く事にする。

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この慰霊碑は「サル陣地」という日本軍の陣地跡に建てられている・・・と言われている。
が・・・どうしても、それがわからない。
ここが「サル陣地」とは拙者には思えないのである。
どこかの誰かが「ここはサル陣地である!」と言ったので、そういうことになったのだろうが・・・
“声のデカイ奴が勝つ”というのは世の常である。
が・・・反面、そういう“声のデカイ奴”の言うことが間違っているというのも、よくある話である。(笑)
当時、陣地構築を担当した工兵隊長が陣地名を付けていたようなのだが・・・
その陣地配置の略図には「サル陣地」というのは載っていない。
これほど大きな丘に陣地名を付けないわけがない。
陣地配置図は、おおまかな地図なので、なんともわかりづらい・・・
強いて言えば、祖父が戦闘末期に陣を張った「スズメ陣地」か、その北にあった「シシ陣地」ではないかという気がするのだが・・・
何度来ても、わからない。
どうも確信がもてない・・・・
生還者に尋ねても、ハッキリしないのである。
「サル陣地ではないことだけは確かだが、何と言う名前かは知らない」と言う人もいるし、「あれはスズメ陣地だと思うんだけどなぁ~」と言う人もいる。
“声のデカイ奴”に遠慮してなのか、どうもハッキリとは答えてはくれないのである。
正直言って、戦後、遺骨収集団や巡拝慰霊団の一員として現地に来ても、自分の陣地を探すのにも一苦労するくらい、記憶があいまいになっているのだそうである。
だから、自信をもって答えられないと言う。
“声のデカイ奴”とも喧嘩したくないから・・・ということもあるのだろう。
が・・・そういう“証言者”が次々と他界してしまい・・・今では尋ねる相手がいない状態・・・
間違った話が後世まで伝えられたのでは、英霊は浮かばれまいと思うが・・・仕方がないことなのか・・・

154_convert_20120606220545.jpg(補修前)

156_convert_20120606220709.jpg(補修後)

この慰霊碑の建立に関わった人達は既に他界してしまっていて、建立した団体は消滅してしまっている。
当時の団体の長は、我が戦車第2師団の戦友会の初代会長なので、戦車第2師団戦友会の事務局長である拙者が無断で(笑)、修復作業をしても構わないだろうと・・・勝手に碑文の修復をすることにした。
7年前に来た時にかなり文字が消えかかっていたので気になって仕方がなかったのである。
修復と言っても、これといった正しい方法は知らないので・・・
ある意味、無責任かもしれないが・・・油性マジックで彫られた文字に“墨を入れる”方法とした。
碑文は、日本語、英語、フィリピン語の三ヶ国語で刻まれている。
特に文字が消えかかっていたのが、日本語とフィリピン語・・・
というわけで、日本語と、フィリピン語の碑文の修復を行う。
同行してきた「案内人」は、拙者が何をし始めたのかと唖然としていたが・・・(笑)
フィリピン語は、彼らに碑文を読み上げさせながら拙者が“墨を入れる”・・・
白い石版を彫った碑文なので、“墨が入って”いないと、一見、真っ白なだけで、指でなぞらなければわからない。
LなのかIなのか、TなのかIなのか・・・拙者には良くわからないのである。
修復中・・・
「どうだ!これなら読み易いだろう?」と言ったら、彼らも笑いながら頷く。
「こうしないと、良く見えないから、君達はこの文章を読まないだろう?」と言うとウンウンと頷く。(笑)
持参したマジック6本は、あっというまに芯の部分が磨り減ってしまい使い物にならなくなった。
我・・・無事、全ての文字の修復が完了し・・・よし!
「これをよく読んで、勉強しなさい!」と拙者は偉そうなことを言い・・・(大笑)
今回の目的の一つは完了した。
あ~気持ちがいい!

時刻はもう午後6時・・・・
そのうち・・・・ドド~ン、ドド~ンと遠くで砲撃のような音がする。
ん?まさか砲撃があるわけでもあるまいし・・・
いくら拙者の頭の中が昭和20年だとしても・・・そんなことはあるまい?
“空耳”?・・・幻聴か?
それとも、どこかで爆破工事でもしているのか?
と・・・どんよりと黒い雲が空を覆い出した・・・
ありゃ、もしかしたら、あれは雷鳴か?

急いで丘を降り、オマリオさんの家に戻る。
と・・・まもなく・・・・雷雨!
遠くの山に稲妻が光るのが見える。
いやぁ~危機一髪だったぁ~(大笑)

この時期にこういう雷雨というのも珍しいような気がする。
過去に何度もこの時期にここに来ているが、雷雨に遭ったのは初めてである。
今は乾季なのに今年は何故か雨の日が多いと言う。
異常気象なのだろうか?

旅行 | 16:18:40 | Comments(0)
ルソン島の旅(7)
「イムガン」から先の山道は、昔とさほど変わっていなかった。(笑)
それでも、初めてここを通った13年ほど前から比べたら、かなり良くはなっている。
あの当時は、ジプニーというジープを改造した乗り合い自動車でなければ通れなかったのである。
しかも、車幅ギリギリの道幅の部分があって、下を見下ろすと崖・・・
奈落の底に落ちそうで肝を冷やしながら向かったものである。

今回は乗用車・・・・
道が以前よりは良くなったとは聞いていたが、乗用車で大丈夫なのだろうか?
一抹の不安がよぎる・・・(汗)

途中、小さな小川が横切っている場所がある。
毎回、ここを通るたびに見ている景色・・・
山肌から水が流れ出して道を横切るので川のようになっているのである。
で・・・ドライバーが車を止めて「ここから先には行けない」と言う。
「行けない」では困るんだよねぇ~
この先の村に行かねばならんのだから・・・・
「行けるって!大丈夫だって!」(笑)
“ステラさん”も「大丈夫なんですか?駄目じゃないんですか?」と言う。
彼女は、ここには2回しかきたことがなく、10年ぶりぐらいだという。
だから何もわからないという。
う~ん・・・それじゃガイドにならないジャン!(大笑)
車を降りて、拙者が小川の深さを確認して車を誘導する。
本来は、拙者が“客”のはずなのだが・・・
なんでこうなるの?(笑)
「おい!来い!大丈夫だ!」
水の中を乗用車を走らせる。(大笑)

ガタゴト、ガタゴトと山道を走り続けるが・・・・
途中で石ころだらけの坂道に出遭う・・・・
と・・・この乗用車・・・・
この坂が登れないのである!
オイ、オイ、嘘だろう・・・・
そのうちズルズルと車はバックする。
バックして坂の下から勢い付けて登ろうという魂胆なのかな・・・
と・・・思っていたが、車の角度がおかしい・・・
後部座席の拙者が後ろを振り返ったら、山の斜面が迫っている!
ストップ!ストップ!ストップ!
大声をあげたが・・・時既に遅し・・・・ガシャン!
あ~あ~やっちゃったぁ~

車から外に出て見たら・・・・唖然!
山の斜面にぶつかったのではない・・・
道の側溝に落ちたのである!
しかも、その側溝が・・・・深い!
万事休すである。(涙)

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(道の向こうに見える人物が、石を探しに行く運転手です!)

もう笑うしかないなぁ~こうなると・・・(大笑)
仕方がないので、石を集めて側溝に投げ込みなんとかしようとしたが・・・
いくら石を投げ入れても“焼け石に水”とは、このことぞ・・・
全然側溝が埋まらないのである!(涙)
しかも車の“腹”が完全に道路に接しているんだから・・・こりゃどうしようもないだろう・・・

田舎の村に向かう1本道・・・・
誰も通る人はいない・・・(大笑)
あ~あ~どうすんの?これ・・・
“ステラさん”は携帯が通じる場所を探しに行くといって一人で出かけていった。
拙者とドライバーは石探し・・・
まもなく、“ステラさん”が戻って来て「電波が通じません!駄目です!」と言う。
そりゃそうだよねぇ~ここは山奥なんだから・・・(大笑)

仕方がないので、“ステラさん”と拙者の二人で徒歩で村まで行き、助けを求めることにして歩き出す。
と・・・遠くからオートバイのエンジンの音が・・・(笑)
村人がオートバイに乗って通りかかったのである!
いやぁ~なんという幸運か。(喜)
村へ行って助けを求めてくれと頼む。

が・・・村にレッカー車なんてあったかな?(大笑)
日本ならJAFを頼めばいいけど・・・こっちにはそんなものあったかな?
再び山道を歩き始めて間もなく、オートバイに2人乗り、3人乗りして村の青年がやって来た。(笑)
おお!対処が早い・・・が・・・総勢で6名ほどである。
すれ違いザマに「その先に車があるから頼むぞ!」と手で合図を送る。
あれ・・・人間しか来ないけど・・・大丈夫なのかね?
やっぱり、村には車が・・・ない・・・のである。(大笑)
「田舎の人は力持ちだから6人で車を持ち上げられますよ」と“ステラさん”
恐るべき見解である。(大笑)

山道のカーブを曲がり・・・・周囲を見たら・・・あれれ?
何か記憶にある山の斜面・・・・

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う~ん・・・このススキの葉のような植物・・・・
7年前にも見たんだよなぁ~
日本軍の「サル陣地」の裾野あたりに生えていたような・・・
ということは・・・もしかしたら、もう村の入口ではあるまいか?(笑)
丘の上を見たら・・・あっ!
慰霊碑がチラリと見えた!
やっぱり、ここは日本軍の陣地跡の裾野だ!

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まもなく、黄色の道標が見えてきた。
“ステラさん”が「さっき、ここまで来たんですけど携帯の電波が入らなくて、ここで引き返したんですよ」と言う。
「はぁ?ここはもう村の入口ですよ」と拙者・・・
「ええっ、じゃぁ、村の入口まで来て引き返したわけ?」
「そうなりますねぇ~(大笑)」
この道標には「マニラから232km、マリコ村まで0km」の表示がされているのだ。
どうやら“ステラさん”は、マリコ村まで0kmの表示を見落としていたらしい。(大笑)
どうして拙者のほうが詳しいんだよぉ~(大笑)
2人で大笑いしながら村へ向かう。

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まもなく、道の反対側に見慣れた「サラクサク峠」の山々が見えてきた!
7年前、あの山に登って降りてきて・・・この道を歩いて村に戻ってきたのだ。
それで記憶に残っていたのである!
結構バカなようでも、こういう記憶力はいいようである。
村の入口の直ぐ近くで脱輪とは、不幸中の幸いだが、いや、いや、これは戦死した日本兵の英霊のお導きに違いない・・・・
「少しは歩け!」ということなのだろう。(大笑)
「車に乗って楽して来るな!」ということなのだろう。(大笑)
はい、おっしゃるとおりにいたします!
なぜかワクワク!
足取りも軽く・・・村に向かう・・・・
英霊に感謝、感謝である。


より大きな地図で マリコ村 を表示

グーグルのマップでは、「イムガン」からの山道が表示されない・・・・
衛星写真を見ても、この地域の写真はなぜか解像度の悪い写真なのである。
人工衛星も写真を撮らないくらい辺鄙な場所ということか?(大笑)
ということで・・・推定だが・・・・
このあたりが「マリコ村」ではなかろうか?

旅行 | 15:58:13 | Comments(0)
ルソン島の旅(6)
ここ「サンタフェ」には、戦車第2師団の司令部が一時期置かれていたというのだが・・・
“ステラさん”に尋ねても、それがどのあたりにあったのかは知らないという。
司令部があったこと自体初耳だというのである。
ここには、先日、山口でお会いした“コンドウさん”がおられた。
師団の森参謀長の下に配属となり、参謀長に可愛がってもらっていたらしいが、参謀長が戦病死した後、“瀧上部隊”に転属となったそうである。
あ~“コンドウさん”に、どのあたりにいたのか教えてもらっておくべきだった・・・・

102_convert_20120605112250.jpg(サンタフェの町)

104_convert_20120605113153.jpg

「サンタフェ」の橋・・・・
あれは、いつのことだったか・・・
この橋も敵の攻撃の目標となっていた。
で・・・この橋の下に、橋から転落した海軍の乗用車があった。
車から投げ出された乗員の死体は、そのままの状態で放置されていたという。
どのあたりだろう?
海軍の乗用車が転落していた場所・・・・
あれから70年近く経っているわけで、今は、その乗用車の残骸も乗員の遺体も、あるわけがないのだが・・・
拙者の頭の中は昭和20年・・・・
どうしても気になって仕方がないのである。
見てもいないのに・・・目に浮かぶのである。

橋を渡って直ぐのところに山に向かう道がある。
このあたりには、憲兵隊がいたはずである。
「サラクサク峠」の最前線から勝手に後退してきた兵達(遊兵ともいう)を、とっ捕まえて最前線に追い返していた。
また、この「国道5号線」を北上するためやって来た兵達の所属部隊を聴き質し・・・・
所属部隊から逸れてしまった兵達を掻き集め、100名ないしは200名単位にまとめて、最前線へ“補充兵”もしくは“援軍”として送り出したのである。
これらの兵隊たちの一部は拙者の祖父の下にも届けられているが・・・
2~3日ほどで“消滅”したという。

106_convert_20120605114456.jpg

憲兵隊がいたのは、橋を渡ったこのあたりかなぁ~

108_convert_20120605114622.jpg

山へ向かう道・・・・
以前と比べたら雲泥の差・・・コンクリートで舗装されていた!
この道を山のほうへ向かい車を走らせる。
河に沿ってしばらく走り、途中から山の中に入っていくのだが・・・
その途中に、野砲兵第10連隊の野砲陣地があったはず。
毎度、ここを通るたびにその場所を確認しようと思うのだが、どうしてもわからない。
山側にある窪地に野砲を隠し、時々「バレテ峠」方面の米軍に威嚇砲撃を行っていたのである。
う~ん・・・
走っている車からでは見つけにくい・・・
1ヶ所、それらしき窪地があるのだが・・・
あっという間に通過してしまうので、わからない・・・(笑)
砲を隠していた窪地も、戦後の風雨でかなり崩れているのだろうが・・・
相変わらず拙者の頭の中は・・・昭和20年のまま・・・である。(大笑)

この道を進むと「イムガン」という集落に辿り着く。
その途中・・・道路工事中!
山肌を削り、道路の拡幅を行っていた。

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これが見ていて怖いのである!(汗)
ダンプに土砂を載せるたびに、ダンプが左右に大きく揺れるのである。
左側は崖・・・・
おい、おい、あぶねぇって!路肩が緩いんじゃないの?ダンプが落ちるんじゃないか?
作業が一段落するまでの間、しばらく待たされたが、その間、“ステラさん”は「怖くて見ていられない!」と大騒ぎ。(大笑)
あれ・・・転落したら・・・俺たちが助けに行くの?(汗)

まもなく「イムガン」の村(?)に到着・・・
あらら・・・唖然・・・である。(笑)

111_convert_20120605124747.jpg 114_convert_20120605125800.jpg

いつの間に、こんなに家が建っちゃったのやら・・・(唖然・・・愕然・・・)
昔は、掘っ立て小屋程度の建物しかなかった“村”だったのが、今では、立派な家が立ち並ぶ“町”に変わっていた・・・・
7年も来ないと、ここまで変わってしまうものなのか?

ここ「イムガン」には戦車第2師団の戦闘指揮所が設けられていた。
が・・・その場所がどこにあったのかは分からない。
昔は、そこらの掘っ立て小屋の前には村人がたむろして、日向ぼっこ(?)をしていたのだが・・・
立派な家が立ち並んだら、外でたむろする人がいなくなったのか?(笑)
閑散としている。
誰かに尋ねたくても尋ねる相手がいない・・・
この村から北へ向かう細い山道があったはずだが・・・
あれれ???どこだっけ?
この細い山道を進むと、多分、小さな川があるはずで・・・
その近くの山の斜面に横穴を掘って、そこに多くの日本兵がいたはずなのである。
山口の“コンドウさん”もその一人である。
あ~あ~略図・・・描いてもらっておくべきだったなぁ~
不思議なことに風景が頭に浮かぶんだよなぁ~(笑)
その場所を見つけられたら・・・と思っていたが・・・
断念して更に山道を進むことにする。

115_convert_20120605130005.jpg(イムガンの集落)

タブレットの地図もなんとかここまでは表示してくれた。
ということは・・・電波が届いてるって事?
電波が届かなければ地図は表示されないよね?
良くわからないんだけど・・・相変わらず・・・(笑)
が・・・地図の道路自体が、ここまでしか描かれていない。(大笑)
この先の山道は表示されていない・・・・
ということは・・・拙者が向かうところは、地図にも載せてもらえない“ド田舎”ということか・・・(涙)


より大きな地図で イムガンの集落 を表示


旅行 | 14:04:01 | Comments(0)
ルソン島の旅(5)
「プンカン」の慰霊碑をお参りして、更に北上・・・・
クネクネと曲がりくねった山道を登っていくと「バレテ峠」に辿り着く。
ここは第10師団(姫路で編成)を主力とする部隊が陣を敷いていた。
この「国道5号線」を北上する在留日本人の避難民や日本兵がここを通過する・・・・
その後ろから米軍が迫ってくるので、これらをこの峠で食い止めようというのが、ここに陣を敷いた理由である。
で・・・この「国道5号線」を西の方から横切って寸断しようとした米軍を「サラクサク峠」で食い止めたのが祖父の部隊と応援に駆けつけた戦車第2師団を主体とする各種部隊である。
ここ「バレテ峠」も激戦地で、慰霊碑もあるが、拙者は余ほど時間に余裕がない限り立ち寄らない。
他の慰霊団は必ずといっていいほどここには立ち寄るので、わざわざ拙者が行かなくてもいいだろう・・・という罰当たりな考えなのである。(笑)
が・・・今回は久しぶりに慰霊碑に立ち寄りお参りをする。
たまにはお参りしないとね・・・英霊に怒られちゃうから・・・(笑)

044_convert_20120604213652.jpg(バレテ峠の慰霊碑)

055_convert_20120604213855.jpg
(慰霊碑のある丘から見たバレテ峠の頂上)

064_convert_20120604214537.jpg

バレテ峠の頂上の山の側面が大きく削られている。
以前、ここを通ったときは、それほど気にもならなかったが・・・・
今回はさすがに唖然・・・である。
戦跡が壊れていく・・・消えていく・・・
ただの道路の拡張なのか、それともここを平らにして何かを建設しようとしているのか・・・
う~ん・・・わからん・・・

066_convert_20120604214929.jpg

「ようこそ!ヌエバエシア州のサンタフェへ!」の看板・・・(笑)
ここに写っている人は、サンタフェの“町長”(?)、“市長”(?)・・・・
とにかく、サンタフェの首長さんのようである。
へぇ~・・・である。(笑)

バレテ峠を下り、「サンタフェ」の町へ向かう。
途中、日本軍の大砲を置いてある場所がある。

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これは日本軍の榴弾砲・・・
刻印が薄れてしまっているので良く分からない・・・
ゴムタイヤは戦後に取り付けられたもので、当時のものではないようである。
我が戦車第2師団の機動砲兵第2連隊のものだという話を聞いたこともあるが、果たして本当かどうかはわからない。

「サンタフェ」の町のなかを通り抜け、少し町外れにあるレストランで食事することにする。

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拙者が初めてこの町に来た10年以上も前には、こんな洒落たレストランなどはなかった。(笑)
いやはや、どんどん変わっていく・・・・
このお店・・・トイレが綺麗なのである!(大笑)
で・・・“Wi-Fi”とかっていうのも使えるのだそうだ・・・何のことやらよく知らないけど・・・(大笑)

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時刻は午後1時・・・
ちょっと遅い時間だったせいか、“おかず”が殆ど残っていなかったので、今日の昼食は・・・こんなものである。(笑)

本来は、ここから山の中へ入って「サラクサク峠」へ向かうのだが・・・
“ステラさん”が、更に北上して「南ボネ」の慰霊碑のある場所まで行こうと言う。
我々は「南ボネ」と呼んでいるが、英語読みだと「ボーン・サウス」と言うらしい。
“ステラさん”の目的は、どうやらこの慰霊碑を管理している住民に何か言伝があるので、行きたいということらしいのである。
はい、はい、どうぞ、どうぞ・・・(笑)
どうせ気楽な旅である・・・
“ついで”がいくらあっても構いませんよぉ~(大笑)

083_convert_20120605102102.jpg(南ボネの慰霊碑)

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ここは「戦車撃滅隊」の激戦地・・・・
山下奉文大将率いる第14方面軍の教育隊が主として戦った場所である。
第14方面軍の“虎の子”である見習士官の青年達が“蒲団爆弾”という座布団のような形をした爆弾を抱えて、米軍の戦車に体当たり攻撃をかけた場所である。
ここには戦車第6連隊の生き残りの戦車も配属されていたようである。

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見習士官の青年達は、この道路の両脇に“タコツボ”を掘って隠れ、米軍の戦車が来ると飛び出し、敵戦車のキャタピラに身を投げて自爆したのである。
ここに配置された青年達の数は約500名・・・・
敵の戦車を数両は破壊したようだが、飛び出した瞬間、敵の機関銃になぎ倒されて体当たり攻撃は殆ど失敗したようである。
それにしても、凄まじい攻撃である。
中東での自爆テロの先駆けのようなものである。
拙者には無理だよなぁ~
そういう根性はない・・・・
腰が抜けて、タコツボから飛び出せないと思う・・・

この攻撃を見ていたのが、第14方面軍の直轄部隊だった“尾田部隊”の“ナカムラさん”。

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“ナカムラさん”は、この民家の裏にある丘に陣を張っていた。
敵の戦車がやって来たとき・・・・
まだまだ距離があるというのに、早々と次々と飛び出して敵の機関銃になぎ倒される隊員たちを見たという。
「まだ早い!」と叫んでも彼らにその声が届くわけもない。
バタバタと斃れていく姿を見ているしかなかったという。
迫り来る戦車への恐怖感で距離を見誤ったのか?
無理もないと思う・・・・

何としてでも、ここで米軍の進撃を抑え、北上する避難民や戦友を逃れさせる時間稼ぎをしなくてはならなかったのである。
が・・・それにしても・・・ここは直線道路なんだよねぇ~
敵から丸見えだと思うのだが、どうしてここに配置したのか・・・

“ナカムラさん”達も丘の上から戦車に随伴する米兵を攻撃したが、まもなく陣地の場所がバレてしまい、攻撃を受ける。
で・・・直ぐ隣にいた戦友が敵弾を浴びて転がり落ちた・・・・
あと数センチで“ナカムラさん”も同じ目に遭うところだったそうである。
その後、“ナカムラさん”は撤退のときの部隊の“殿(しんがり)”を務める。
装備は全て米軍から奪った兵器・・・・
だから、強かったという。
日本兵は米軍の装備を持って戦ったら最強だったという。

拙者が慰霊碑をお参りしている間に“ステラさん”は民家の方と打ち合わせを済ませたので、また「サンタフェ」の町へ戻ることにする。


より大きな地図で 戦車撃滅隊終焉の地 を表示


旅行 | 13:19:50 | Comments(2)
ルソン島の旅(4)
更にもう少し北上すると、「プンカン」という場所に着く。
ここに、日本軍の慰霊碑があるのだが・・・
あっ・・・通り過ぎちゃった!(笑)
拙者は全く気付かず、“ステラさん”が気付いて、車をUターンさせる。

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道路脇の民家の敷地内に慰霊碑がある。
2年前にご遺族を北部ルソンに案内したときにも立ち寄ったのだが・・・・
この民家の前の道路・・・・
こんなに広かったかなぁ~(笑)
もっと周囲は木に囲まれていて、鬱蒼としていたような気がしていたのだが・・・・
人間の(というより、拙者の?)記憶なんて当てにならないものである。(汗)
これでは、うっかり通り過ぎても気がつかないはずである。
たった2年前に訪れた場所を見落としてしまうんだから情けない。

ここ「プンカン」は激戦地の一つである。
ここには当初、拙者の祖父の部隊が配置されることになっていた。
が・・・現地を視察して、祖父が(多分、部下による進言だと思うが)、この地は防御に適していないと上層部に具申した。
参謀にも現地に来てもらい、実際に現地を見てもらいながら説明したところ、この具申が受け入れられて、祖父の部隊はこの地には配置されず、別の場所へ移動することになったのである。
この「プンカン」・・・・
道路の両脇に丘が聳え、ここから道路上の米軍を狙い撃ちにできるし、一見、防御しやすいように見えるのだが・・・
この丘が南北に少し細長く、南に張り出しすぎているため、逆に米軍がその外側から包囲しやすいため、防御どころではなく、逆に丘の裏側から浸透されて守りきれないというのが祖父の部隊の見解だったようである。
祖父の部下達は中国大陸で戦っていた実戦経験者だし・・・・
祖父は一兵卒から連隊長になった人なので、師団でも一目置いていたようである。
だから、進言が受け入れられたのだと思うが・・・

なぜか師団司令部は、祖父が去った後に、この場所に別の部隊を配置したのである。
どうして、そういうことをしちゃったのかなぁ~!(怒)
祖父達の予想通り、ここ「プンカン」に配備された部隊は、周囲から米軍に浸透され、壊滅した。
どうして祖父達の具申どおりに、この場所を防御陣地に不適だと諦めなかったのか・・・
その通りにしていれば、彼らはここで死なずに済んだのである。
うまくすれば、その後も生き抜いて、戦後、無事に日本へ帰れた人もいたかもしれない。
少なくとも、そのチャンスはあったのではないだろうか?

一説によれば、他の参謀が地図だけを見て、ここに決めたと言う。
使用したのは5万分の1の地図らしいが・・・
拙者も、現在発行されている5万分の1の地図を持っているが、ここ「プンカン」には何も書かれていない。
当時の作戦用の地図がどういうものだったかのかは知らないが、どうもここ「プンカン」に“ポチッ”と「丘らしきもの」があったので、ここがいいだろうと決めたのだとか・・・
この「プンカン」から更に北上すると「バレテ峠」がある。
その「バレテ峠」が主抵抗陣地となるので、その峠に向かう手前に前進陣地を設けなくてはということで、ここを選んだらしい。
前進陣地としたここは、その後、主抵抗陣地の一部として組み込まれたが、お粗末な場所のため、あっけなく守備部隊は壊滅した。
後方陣地を構築するための時間稼ぎも、ここに守備隊を置いた理由の一つだろうが・・・
その犠牲は大きい。

拙者は、それがなんとも悔しいのである。
祖父達が、防御に不適な場所だと言っていたのに・・・・
どうしてそこに兵を置いてしまったのか・・・
第10師団の更に上層部である第14方面軍の指示だと、当時の参謀が拙者に話してくれたことがある。
現地にも来ず、現地を見ず、お粗末な地図だけで決めてしまったのである。
彼らのお粗末な“作戦”で死んだ兵達を弔ってやらねば・・・
というわけで、拙者はここを通るたびに必ず慰霊碑にお参りをすることにしているのである。

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ここには2つの慰霊碑が建っている。
一つは『内藤大隊並金子中隊追悼之碑』(左の写真の碑)である。
この慰霊碑を建てた人達は、自分達では分かっているからいいだろうが・・・・
後世には何が何だか分からないだろう。
「内藤大隊」とか「金子中隊」って・・・・何?
自己満足の慰霊碑であるとしか拙者には思えない。

ここに配置されたのは第105師団の臨時歩兵第2大隊を基幹とする部隊である。
大隊長の井上恵少佐が「プンカン守備隊」の守備隊長。
そこに第10師団の歩兵第10連隊第2大隊(内藤大隊)の2個中隊を除いた部隊が配属となっている。
というわけで・・・内藤大隊とは、歩兵第10連隊の第2大隊を指す。
大隊長は内藤正治大尉。
「金子中隊」とは、独立歩兵第356大隊の第4中隊(中隊長:金子晃中尉)のことだと思う。
先日、山口でお会いした“コンドウさん”の“瀧上部隊”である。
第4中隊は本隊から分かれて、「津田支隊」に配属となり、津田支隊は、このプンカン守備隊に配属になっている。
「プンカン守備隊」には、このほかにも第10師団から歩兵第39連隊の1個中隊、歩兵第63連隊から1個中隊、野砲兵第10連隊第1大隊(赤座砲兵隊)など、いくつもの部隊が配属されていた。
各種合わせて9個中隊だったという。
日本軍は、よくこのような編成を戦地で行う。
各部隊から少しずつ抽出して編成するのであるが・・・
これでは“烏合の衆”になりはしないだろうか?
同じ日本軍とはいえ、顔も名前も知らない同士、上下の意思疎通に支障はなかったのだろうか?

戦闘は昭和20年2月9日から開始され、3月5日までに米軍(米第25師団)が完全に制圧、掃蕩を完了。
米軍の記録では日本軍守備隊の戦死者は1250名・・・
米軍は戦死40名、負傷165名・・・・
内藤大隊に限って言うと、内藤大隊長以下戦死者は約200名、負傷者は650名である。
こういうことを慰霊碑には刻んでもらいたいが、残念ながら・・・ない・・・

もう一つの慰霊碑は『歩兵第10連隊比島戦没者追悼之碑』(右の写真)である。
ここには歩兵第10連隊の編成と、「歩兵第10連隊の戦没者は2942名で、実に92%に達している」ということが刻まれているが、全ての戦没者がここで戦死したのではない。
歩兵第10連隊の主力は、この先の「バレテ峠」で戦死しているのである。
誤解を招くような慰霊碑である・・・・

ちなみに、この慰霊碑・・・十字架の形をしているが・・・
これは、フィリピン人がキリスト教徒なので、十字架の形の慰霊碑にすれば、現地住民に悪戯されたり壊されたりしないだろうということで十字架の形にしたという話を聞いたことがある。

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慰霊碑のある民家の後ろの丘にプンカン守備隊長である井上少佐率いる「井上大隊」が布陣していた。

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道路を挟んで慰霊碑の反対側の丘に「内藤大隊」が布陣していた。
ここで道路を北上する米軍を挟み撃ちにしようとしたのだろうが・・・・
米軍は、ブルドーザーで道を作り、この丘の向こう側に進出して来たのである。
つまり、“もっと大きなハサミ”で逆に挟み撃ちに遭った形となる。
というわけで・・・この丘の向こう側斜面が戦闘地域となる。

大隊本部は3枚の写真の真ん中の写真あたりにあったと思う。
そこへ、別の地域に派遣されていた歩兵第10連隊第2大隊の第7中隊が応援に駆けつけた。
中隊長は佐野満寿三中尉。
斬り込み隊を編成して攻撃に向かったが、奇襲に失敗して負傷をする。
第7中隊は殆ど全滅し、負傷した中隊長の佐野さんを含め4名しか生き残れなかった。
佐野中隊長は終戦後無事に日本に帰還・・・・
今から6年ほど前に放送されたNHKの証言番組に出演した。
が・・・この番組・・・趣旨が歪められていた・・・
佐野さんは放送を見た後からパタリと食事を摂らなくなり、再放送の時には「そんな番組は見るな!」と家族に怒鳴ったという。
自分の証言を、切り貼りされて、自分の思いとは別の内容に仕立てられたためだろう。
そして佐野さんは番組放送から間もなくしてお亡くなりになられた・・・・
拙者は、これは失意の中の衰弱死だと思っている。
拙者は、この番組の放送前に、ご家族ともNHKのプロデューサーとも連絡を取り合っていたが、放送を見たときに、その偏った内容に驚いた。
最初から、番組の内容を決めておいて、その内容に合うように“証言”を仕向けたとしか思えない。
番組の取材を受けた佐野さんが、この内容を受け入れるはずがない・・・
佐野さんがお亡くなりになった直後、拙者はNHKの、この若い女性プロデューサーに抗議をした。
が・・・彼女は「番組は非常に好評だった」と一点張り・・・
最終的には、「番組制作会議で、当たり前の内容では企画が通らないので、わざとショッキングな内容に仕立て上げた」と認めたが・・・・
この戦場で生き残り、この世に別れを告げる年齢に達したときに、その佐野さんを失意のどん底に突き落としたNHKの罪は重いと思う。
彼女は、この番組のおかげかどうか知らないが、地方局から本社へ“栄転”したという。
拙者は、今でもこの女性プロデューサーのことは許せない!(怒)
どんな理由があろうとも・・・・
苦労をして、悲惨な体験をして生き残った方には、最期を迎えるときには気持ちよく旅立ってもらいたいのだ。
戦死すればよかった、生き残るべきではなかったなどとは思わせたくないのである。
それをよりによって、食事が喉を通らなくなる程の失意のどん底に突き落とすとは何事か!(怒)
この丘を見て・・・拙者は佐野中隊長を思い出す・・・
この世を去った後・・・佐野さんのことだから部下達の眠るこの地を訪れたことだろう・・・・
「最後の最後に、あんな嫌な思いをさせられるなら、みんなと一緒に戦死してれば良かったよ」と部下たちに話したのだろうか?
あ~・・・ため息しか出ない・・・何と言えばいいのか・・・
「畜生!」の一言しか頭に浮かばぬ・・・・

ドコモのタブレットで現在位置を確認したが・・・
このタブレットの地図は、現在地が分かるから便利なんだけど、現在地にマークを付けるとか、保存するとかって出来ないみたいなんだよねぇ~
どうも使い方がイマイチわからん・・・(涙)
結局、自分の頭の中に記憶するしかないわけで・・・

というわけで・・・多分・・・地形的に言うと・・・
このあたりに慰霊碑があるんじゃあるまいか?(大笑)


より大きな地図で プンカン守備隊関係慰霊碑 を表示


旅行 | 12:39:04 | Comments(3)
ルソン島の旅(3)
「旧・農学校」前の国道を更に北上すると「サンホセ」に至る。
今晩は、「マリコ村」の“オマリオさん”の家に泊めてもらうことになっている。
で・・・“ステラさん”が・・・「食糧とかは、どうすることになっているのですか?」と言う。
「さぁ~、どうなってるんだろう?」
「え~?何も決めてないんですか?」
「はぁ・・・ただ、泊めてくれって頼んであるだけ・・・」
“ステラさん”に呆れられる。(大笑)
食糧を何も持たずに・・・というのも問題だろうということになり・・・(大笑)
ここ「サンホセ」のスーパーマーケットで買い物をすることにする。

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(サンホセの町の中)

ここ「サンホセ」は要衝の地・・・・
戦時中には、北部ルソンへの中継地点でもあり、ここには多くの軍需物資が集められ、道の両側に積み上げられていたという。
が・・・・緒戦で早くも米軍の空爆を受け、集積した物資が燃え上がる。
バカである・・・
こういうところが、エリートと言われる連中、上級司令部の考えていることが解らない点でもある。
ただ集めておけばいいというものではあるまいに・・・
秘匿しておかねば空爆で灰燼に帰すのは、あたりまえではなかろうか?
日本軍は貧乏であるという自覚がない・・・あ~なんともったいないことか・・・
細かいところが雑である。
これは官僚主義のなせる業ということか・・・

この町は、米軍の空爆・砲撃で焼け野原となった・・・

さて・・・スーパーでの買い物・・・
何を買えばいいかが全然解らないので、全て“ステラさん”に任せる。
支払いは拙者なので、やたら気を遣う。
「これ、いいですか?」・・・
経済観念のない拙者である・・・なんでもいいんですけどぉ~(笑)
いくら買ったって、何万円も・・・というわけではあるまい?
必要だと思うものはドンドン買おうよ!(大笑)
レジに並んでいたら・・・
“ステラさん”・・・日本のキッコーマンの醤油のペットボトルを別に持っている。
「あ、それも僕が支払ってあげるよ」
「いえ、これは余ったら自宅に持ち帰って自分で使うので、自分で出します」と言う。
大した金額じゃないから拙者が出すといっても遠慮する。
公私に厳しい人である。
他のフィリピン人とちょっと違う・・・
だから好感が持てるし・・・長い付き合いが続いているのだと思う。

027_convert_20120522125050.jpg(スーパーマーケット)

ここ「サンホセ」には鉄道の駅があった。
だから多くの物資を送り込めたわけだが・・・・
終戦後は、この駅から多くの日本兵が捕虜収容所へ送られた。
その駅舎は、「ムニオス」とは違って、今も残っているはずである。
10年近く前に訪れた時には・・・倉庫みたいになっていた。
“ステラさん”も知っているが・・・二人して「どのあたりだっけ?」・・・・(笑)
「あの路地を入ったところだっけ?」という有様で、記憶が蘇らない。
歳は取りたくねぇもんだぁ~と二人で大笑い。
今回は、駅舎を見るのが目的じゃないから・・・通過!(笑)

「サンホセ」の町を抜け、更に北上!
ここから山のほうへ向かう形となる・・・・

ドコモのタブレットで地図を見ながら移動・・・
国道がちょうど直角に曲がるところがある。
そこが「キタキタ」という場所・・・
ん?聞いたことがある地名である。
たしか・・・ここに「サンホセ」から撤収した部隊や持ち出した軍需品が一時滞留していた場所だったと思う。
小さな集落である。

ここから更に、もう少し北上すると「タヤボ」という集落・・・・
ここは「キタキタ」より、もう少し大きな集落である。
本隊とは別に「ゴンザレス」に派遣されていた戦車第6連隊第2中隊は現地で壊滅したが、戦車3両が、この地点まで脱出している。
指揮をとっていたのは戦車第6連隊第2中隊付きの吉村准尉。
この戦車は、その後、更に北上し、「サンタフェ」に向かい、『戦車撃滅隊』に配属となり全滅した。
吉村准尉(のち少尉)は6月2日に「サンタフェ」方面で戦死している。

「ムニオス」で戦っていた本隊からは脱出した戦車はなかったようである。
当時、「ムニオス」では、壕を掘って戦車を半分埋め、砲塔だけを地上に出して戦うという戦法をとっていた。
この戦法で、米軍のM4シャーマン戦車を何両か撃破しているという。
が・・米軍の砲撃は熾烈を極める。
20分間で4,000発もの砲弾が飛んで来たという記録もある。
(多少、誇張されているかもしれないが・・・・かなりの砲撃だったことは確かだろう)
連隊及び戦車第2師団司令部は後退を具申。
ところが山下将軍の第14方面軍司令部の幕僚達がウンといわない。
「死守せよ」の繰り返し。
戦車の用法を知らないバカが命令を出すのでは勝てる戦も勝てまい。
ようやく2日後に後退の許可が出たが、時既に遅し・・・である。
脱出しようとしても、長時間、壕の中に置いていたのでなかなかエンジンがかからない。
昼間では狙い撃ちされるので、移動は夜間にしか出来ない。
静かに移動したくても、低速始動ではエンジンがかからないから、思いっきりエンジンを吹かして始動するしかない。
グワァ~ン、グワァ~ン・・・ドドッ、ドドッ、ドドドドドッ~!・・・っていう感じだったのかなぁ~(笑)
と・・・その音を聴きつけて米軍が照明弾を打ち上げ、猛烈な砲撃が始まる。
エンジンをかけた途端に隠れていた場所がバレて、移動も出来ぬまま炎上する戦車が続出・・・
うまく始動できて移動が開始できても、この当時、周囲は竹薮と湿地に囲まれていたという。
今では竹薮は見当たらないが、湿地帯は田んぼとなって面影を残している。
湿地帯は日本の戦車は走れない。(笑)
1本道の道路を一列になって走るのでは、先頭車両がエンストすれば、後続車も停止・・・
そこを狙い撃ちされ、壊滅・・・である。
生還者は、あと2日早ければ・・・あの時、素直に後退を認めてくれていたらとの思いが残ると言う。
脱出ルートの研究不足も否めないと言う・・・・
「退くこと知らない日本軍」である。
勇猛果敢も結構ですが・・・(笑)
いざ、猛烈な砲撃を受け、敵戦車の攻撃を受け、一旦退いて態勢を立て直したくても、脱出ルートを研究していないから、どうしようもない。
真面目に1本道を下がることしか知らないから、これでは撃って下さいとお願いするようなものである。
ゲームセンターの射的より始末が悪い・・・

あ~あ~もったいないなぁ~
ここまで他の戦車も後退して来ていたらなぁ~・・・と思う・・・・

旅行 | 11:31:20 | Comments(0)
ルソン島の旅(2)
朝食をホテルのレストランでとる。
ん?以前泊まった時と違うぞ・・・
「う~ん・・・ずいぶんサービスが落ちたねぇ~」
「そうですか?」とステラさん・・・
「うん、以前は、ここにキュウリのスライスが3枚乗ってたけど、今回は乗ってない!(笑)」
「へんなところを良く覚えてますねぇ~」と笑われた。(大笑)

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午前8時、ホテルを出発・・・・
北上する!
さぁ!ここで我が新兵器の登場である!
ドコモのタブレット!
さぁ~どこまで地図の表示がされるか・・・・
今までは、こういう便利なものを持っていなかったので、どこをどう走っているのか、何度来ても、さっぱりわからなかったが・・・
いやぁ~これは便利!(喜)
地図に現在位置が表示されている!
おお、おお、車の移動と合わせて、現在位置の印も動いている!(笑)
が・・・これ・・・どうなっているんだろう?
「パケット」っていうのが、かかっているのかな?
「海外パケ放題」とかっていうのに設定しておいたと思うが・・・(笑)
使い方をよく知らないのに使っているのである・・・
日本に帰ってからトンデモナイ金額を請求されたらどうしようと、ちょっと不安になったが・・・
この便利さは止められない。(大笑)
えぇぃ!なるようになれ!・・・・である。(笑)

過去に何度も通ったことがある道だが、以前はよくわからず通過した町・・・・ムニオス・・・
ここは我が戦車第二師団の戦車第6連隊が大激戦を演じた場所。
で・・・戦車は壊滅・・・残存兵は歩兵に改編されて山奥で戦う羽目となった。

タブレットの地図を見ながら・・・「ここ!このあたりでストップ!」と車を止めさせる。
いやぁ~本当に便利だぁ~・・・買ってよかったぁ~(大笑)

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戦時中、ここには「ムニオス駅」という鉄道の駅があった・・・・
今は線路も取り外され、鉄道も駅も消滅している。
地元の方に尋ねたら、この道の向こう・・・奥の右側にガソリンスタンドがあるが、その裏が駅のあった場所らしい。
今は何も痕跡が残っていないとの事・・・
駅の位置が分かれば、なおさら分かりやすい!(喜)
地元の人とおしゃべりをして、車に戻ったら、ステラさんが笑って、こう言った・・・・
拙者はタバコを吸いながら、しゃべっていたのだが、火を消した後、吸殻を持参した携帯灰皿に入れたのである。
それを見て地元の方が、「他の人は平気で吸殻を道端に棄てるが、さすがは日本人だ。吸殻を棄てなかった。たいしたもんだ」と地元の人が感心して言っていると報告してくれた。
いやぁ~しっかりと観察されていたとは・・・(大汗)
吸殻を棄てなくて良かった・・・(笑)
一人の民間人の行動で国の印象が決まってしまうのである。
我々は心して海外旅行をせねばならないと、改めて思った。

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二股に分かれている道路の真ん中にある緑色の屋根の建物・・・・
この建物の裏に、当時は速射砲(対戦車砲)と野砲が展開していた。
左の道の左側にも速射砲が1門・・・その後ろには戦車第6連隊第3中隊第2小隊(高倉小隊)の戦車が展開。
この左の道のもっと奥には、戦車第6連隊第5中隊(指宿中隊)の戦車が展開していた。
指宿さんは、今も鹿児島でご健在・・・多分、95~96歳くらいになられているのではなかろうか?

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この道の右側には、戦車第6連隊第3中隊第3小隊(斎藤小隊)の戦車が「前進陣地」として展開。
小隊長の斎藤少尉は、昭和20年2月1日にこの地で戦死している。
ここには戦車第6連隊に配属された独立歩兵第356大隊(瀧上大隊)の機関銃中隊(伊藤中隊)の1個小隊が配置されていた。
瀧上大隊は、先日、山口県光市でお会いした“コンドウさん”の部隊である。
この時点では“コンドウさん”はこの部隊に配属されていなかったので、この景色はご覧になっていないだろう。
が・・・お写真を送ってあげようかな?(笑)
道の左側奥には、戦車第6連隊第5中隊第3小隊(柴田小隊)の戦車が展開していた。
小隊長の柴田少尉は、昭和20年2月3日に、この地で戦死。

さらに、もう少し車を進めて、再び止める。

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ガソリンスタンドの裏あたりに「予備部隊」として戦車第6連隊第4中隊(渡辺中隊)の戦車が待機していた。
中隊長の渡辺中尉は、昭和20年2月9日にこの地で戦死している。
ムニオスの町の奥のほうまで行きたかったが・・・
そっちに行くと拙者が向かっている方向とは別方向・・・・
この「国道5号線」沿いの陣地跡の確認だけでやめておくことにする。

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この「国道5号線」、ここから、この先の「旧・農学校」までの約4kmに独立歩兵第356大隊(瀧上大隊)が配置されていた。
たぶん・・・第1中隊と機関銃中隊だったと思うが・・・
僅かな兵力で4kmもの間を守るというのだから信じられない・・・・

戦車第6連隊は、第1中隊をレイテ島へ派遣、第2中隊は大室支隊に配属となってゴンザレスにいたので、この地で戦ったのは・・・・
連隊本部(九七式中戦車5両、九五式軽戦車2両)
第3中隊(九七式・改・中戦車11両、九五式軽戦車1両)
第4中隊(九七式・改・中戦車8両、九五式軽戦車1両)
第5中隊(九七式中戦車11両、九五式軽戦車1両)
整備中隊(九七式・改・中戦車4両、ほかトラック)
・・・であるとされている。
ここには昭和20年1月26日ごろに来て配置につくが、1月31日から米軍の攻撃を受け・・・・
早くも2月2日には連隊長の井田大佐は戦死、指揮班長の高橋中佐が連隊長代理として指揮を取った。
戦闘は2月6日まで続き、戦車は壊滅、2月7日に戦車車載の重機関銃と弾薬を持って撤退・・・
ドバックスへ向かい、歩兵に改編されたのである。

破壊された戦車・・・どこへ行っちゃったかなぁ~
戦後、くず鉄として売られちゃったんだろうなぁ~
あ~・・・・なんとも寂しい・・・・

021_convert_20120518231055.jpg(セントラル・ルソン州立大学)

戦時中は「農学校」と呼ばれた場所・・・
現在は「セントラル・ルソン州立大学」となっている。
ここにはフィリピンでも珍しい「歩道橋」がある。
「国道5号線」上で、歩道橋があるのは、ここだけである。(大笑)

022_convert_20120518231630.jpg(大学前の道・国道5号線)


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旅行 | 10:27:38 | Comments(2)
ルソン島の旅(1)
今日からフィリピン・・・・
今回は祖父の陣地跡へ行く旅である。(喜)
7年ぶりぐらいではなかろうか?
いやぁ~久しぶりに祖父の部下達英霊に会いに行くぞ!

午前7時半、成田空港着。
離陸の2時間前だが、すでにチェックインカウンターの前は長蛇の列が出来ていた。
う~ん・・・なんでフィリピン航空ってこんなに混むのだろう。
福岡で引いた風邪は相変わらず・・・
全然よくならない・・・
そのせいだろう・・・腹の調子が悪い・・・
う~ん・・・トイレに行きたい!
が・・・この長蛇の列から抜け出したら、また最後尾に並べねばならぬ。
誰かに荷物を預かってもらい場所をキープするというわけにはいかない。
これが一人旅の辛いところである。
折角、あともう少し・・・というところまで来ているのである!
ここは精神力で何とかトイレに行くのを我慢せねば!(大笑)
気のせい、気のせい、トイレに行きたいなんて何かの勘違い・・・・と念じる。(大笑)
大の大人が、ここで“おもらし”したら大変なことになるが・・・(笑)
ここは一か八かの賭けである!(大笑)

で・・・無事に我慢の甲斐あって、チェックインを済ませることが出来た。(バンザイ!)
で・・・急いでトイレに駆け込む!(大笑)

無事にマニラ空港に到着・・・・
以前は、よく入管で嫌がらせにあったが、今回はスムーズに通過・・・
が・・・スーツケースが出てくるのが遅い!
散々待たされ、ようやく空港から出る。
出迎えの旅行社の職員が吹っ飛んできた!
なぜか、大喜びをしている。
ん?久しぶりに会ったからか?

まもなくガイドの“ステラさん”が送迎車に乗ってやって来た。
で・・・開口一番・・・
「出てくるのが遅いので心配してたんですよ~」と言う。
拙者は、フィリピンに行くときは、いつもリュックで行く。
特に山に登る予定だと、最初からリュックである。
そのリュックは機内に持ち込むので、そのまますんなりと空港から早々と出てくるのである。
その事が頭にあったらしく、迎えの職員には「真っ先に出てくるはずだから・・・」と伝えておいたという。
ところが、今回は待てど暮らせど出てこない!
これは大変なことになった。乗っていないのではないか?うっかり出てくるところを見逃してしまって迷子にさせてしまったのではないか?と大騒ぎしていたという。
ははぁ~ん・・・だから、あの職員は会ったときに大喜びしていたんだと分かった。(大笑)

まずは市内の両替所で両替・・・
いつも多めに両替をしているので、今回も前回両替して余ったペソを持ってきてはいるが・・・
今回は現地での現金の支払いが多いので、念のため両替する。
次は、いつものホテルへ行き、コーヒーを飲んでタバコを一服・・・(笑)
ここは毎度、日本への帰国の時に、泊まるホテルである。
今回も同様・・・
「いつものパターン」は気が落ち着く。

今回の旅行・・・・
いつもと同じようにドライバー付きの車1台とガイドを付けてくれるように日本の旅行社に頼んでおいた。
が・・・現地の旅行社からの見積もりではガイド料が非常に高額だという。
そこでステラさんが拙者のお供ならプライベートでガイドをすると言ってくれたそうで・・・(笑)
現地旅行社を通さずガイド料は直接彼女に支払うことになっている。
いいのかね?会社を通さずアルバイトして・・・(大笑)
彼女とはもう10年以上のお付き合いである。
そもそもは彼女のご主人が拙者のガイドをしてくれていたが、彼が亡くなってからは彼女がガイドを引き継いでくれた。
気心が知れているからこちらとしても楽チンである。
彼女も「他の日本人はうるさいし、強引だし、我がままだから大変ですけど、あなたは楽だから・・・」と笑う。
拙者のガイドは、途中までで、最後の2日間はお別れ・・・・
彼女は他の日本人ツアーのガイドをすることになっているという。
常連さんたちらしいが・・・
「あの人達は我がままだから気が重いんですよねぇ~」と言う。(大笑)

ホテルでコーヒー飲みながら打ち合わせ。
「で・・・ガイド料はいくら?」
「え?聞いていないんですか?」
「うん、何も・・・直接支払ってくれとしか言われてないけど・・・」
彼女も呆れていた。
当然、いくらで・・・と話が決まったから拙者がOKしたものと思っていたらしい。
こういうところが、拙者の経済観念のないところである。
今は亡き母に、よく言われたが・・・・仕方がない、性格なのであるから・・・
いくらなら行くけど、いくらなら行かない・・・という考えは拙者の辞書にはないのである。(笑)
行きたいから行くのである。
値段ではないのである。
法外な金額ならば話は別だが・・・
10万円ならば行くが、12万円なら行かない・・・というものではない。
ガイド料も同じなのである。
で・・・ステラさんに提示してもらった。
彼女は拙者と日本の旅行社とが交渉した金額でいい・・・という事にしたかったようである。
「じゃぁ、大サービスして・・・」と提示してもらった金額・・・・
ん?それ・・・大サービスのし過ぎじゃないの?(大笑)
安すぎ・・・である。
これも永年のお付き合いの賜物なのだろう。感謝、感謝である。
で・・・早速、前払いで支払う。

一服した後は、ここから真っ直ぐ車で北上!
カバナツアンに向かう。

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食事はカバナツアン市内のレストランで・・・・
ホテルのレストランは値段が高いからということで、こうなった。
で・・・いつも拙者がドライバーも招いて食事をしたがるのを知っているので・・・
今回の旅費には食事代は含まれていない。
現地で拙者が支払うのである。
ドライバーも一緒に3人で夕食をとる。
こういうコミュニケーションは大切だと拙者は思うのである。
カネの問題ではない・・・・

今晩の宿泊はカバナツアンのホテル・・・・
ここも、拙者が毎回利用しているホテルである。
従業員とは親しくないが・・・気が楽な「ワンパターン」である。
もう10年以上も前に泊まったときには、テレビの衛星放送もチャンネルが多く、日本のNHK・BSなども見ることが出来たが、最近はついに日本語のテレビを見ることが出来なくなった。
何でだろう?日本からの慰霊団が来なくなったからか?(笑)
代わって、中国語の字幕の番組が多くなった・・・・
う~ん・・・面白くねぇ~(笑)

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ホテルにチェックインして・・・マッサージを呼ぶ。
やって来たのは26歳の女の子・・・
いきなり「フィリピン人ですか?」と聞かれる。(笑)
どうして拙者がフィリピン人に見えるのだ?
違うと答えたら・・・
「アメリカ人?」と言う。
英語をしゃべったからといって・・・
いくらなんでも、どこをどう見て拙者をアメリカ人と思ったのやら。(大笑)
「日本人だ・・・」と答えたら「日本人!」と何故か喜ぶ。
ははぁ~ん・・・「韓国人だと思ったろ?」と言ったら照れくさそうに意味深な表情をした。
韓国人はどこへ行っても横柄で評判が悪いのである。
安心したのか彼女は韓国人の客の悪口を言い出した。(大笑)
で・・・彼女は自分の家が非常に貧乏だという話をする。
で・・・拙者が独身だと答えたら、結婚したいと言う。(大笑)
結婚して日本へ行けば金持ちになれると思っているらしい。
あのね・・・そんなに世の中は甘くねぇって!
いくら説明しても納得しない。(笑)
近所の人で、日本へ行って金持ちになって帰ってきた女の子がいるという。
だから日本で働けば金持ちになれる・・・日本に行くには日本人と結婚するのが手っ取り早い・・・となるらしい。
その女の子、どうせ日本人のオヤジを騙してカネを巻き上げたに違いない。(笑)
まともな仕事だけをしていたのでは、カネが溜まるわけがないのである。
どうしても、そこのところが理解できないようである。(大笑)
結婚してくれないのかと迫られたが・・・
それより、手を動かせよ!
おしゃべりばかりで全然マッサージになってないじゃないか!
1時間600ペソ(1,200円)・・・・損した気分である・・・・(涙)


より大きな地図で ラ・パリーラ・ホテル を表示


旅行 | 11:31:30 | Comments(0)
うるさいオバタリアン!
明日からフィリピンである。
で・・・・
いつものように成田に前泊・・・
いつものホテルで夕食をとる。
ここのレストランはピアノの生演奏がある。
いつも、この生演奏を聴きながら一人で夕食をとるのである。
これが・・・いい・・・
日常とは、ちょっと違った世界・・・
「プチ優雅」・・・である。(笑)

先月も、ここで至福のときを味わった翌日に台湾に出かけた。
今回も・・・と思ったら・・・・
今日は客層が非常に悪かった・・・・
どこかのオヤジがオバサン4人ほど連れて食事に来ていた・・・
で・・・このオバタリアン・・・
とにかく声が大きい!
しかも大声で馬鹿笑いをする!(怒)
「キャ~!」の叫び声の後、「うそぉ~やだぁ~!」の類のお決まりのリアクション・・・
で・・・馬鹿笑い・・・
ピアノの生演奏なんて何のその・・・である。
レストランの雰囲気台無しである。
「傍若無人」とは、こういうことを指す言葉だろう。

拙者の妹はピアニスト・・・
それだけに、演奏している人が可哀想でならない。
一生懸命演奏しているのに、馬鹿笑いでかき消されたのでは・・・・
拙者がピアニストだったら、途中で演奏を止めて帰るだろう。

このオバタリアンども・・・
独身であることを願う・・・・
これで結婚しているなんて言ったら、旦那と子供の顔が見たいというものである!
こんな品のない女と結婚する男ってどんな男なのか顔を見てみたい。(笑)
それほど腹が立った・・・
相手のテーブルまで行って注意をしてやろうかと思ったが、こういうオバタリアンは間違いなく“逆切れ”するから諦める。
女をぶん殴るわけにもいくまい・・・

普段、こういう連中は居酒屋でしか飲み食いをしたことがないのだろう。
この店の雰囲気というものに心が至らないとはお粗末な連中である。
店の雰囲気は店長と店員だけで作られるものではない。
お客もそれに関わっていると拙者は思うのである。
それだけに店の雰囲気を壊すような真似をしてはいけない。
店の雰囲気に合わない人は、その店を利用するのは遠慮すべきである。
それが親切というものであろう。

あ~あ~我が至福の時間・・・台無しである!(怒)
この馬鹿どもらめ!(怒)

日記 | 11:06:16 | Comments(0)
うつろ舟奇談
江戸時代のミステリーに「うつろ舟奇談」という話があるという。
この話・・・
享和3年(1803年)に茨城県の鹿島地方の浜にUFOのような形の舟「うつ舟」に乗って美女が漂着したという事件の話である。
いわゆる“伝説”の類だと思うのだが・・・

我が町・日立市でこの「うつろ舟奇談」を伝える史料が見つかったのだという。
この史料は、江戸時代に海岸防御に携わった郷士の子孫の家の倉庫で見つかったという。
この史料とともに『異国船渡来御届書』という史料も一緒に見つかっているらしい。

この「うつろ舟奇談」を伝える史料というのは、今までに10件、発見されている。
今回の史料の貴重なところは、この文書の作成された日付が記載されているところだという。
享和3年3月24日に、この文書が作成されたのだそうだ。
で・・・この事件が起きたのは「2月22日」だという。
事件発生の1ヵ月後に書かれた文書ということになる。
“事件”が起こった日が明確にされていて、しかもそれから日が経っていない1ヵ月後に記録されたということは、この“事件”は“伝説”ではなく事実ということか?

この文書には洋風の服装の女性と、UFOのような丼型の“舟”が描かれており、△や○などの記号を組み合わせたような“文字”が書いてある。
文章には、常陸国(いまの茨城県)の浜に異国船が流れ着き、引き上げると20歳くらいの言葉の通じない美女がいたと書いてあるという。
この話・・・滝沢馬琴の『兎園(とえん)小説』とほぼ同じ内容なのだそうだ。

このように、江戸時代の出版物に“謎の事件”として紹介されたり、この事件を伝える瓦版も見つかっているそうなのであるが、当時の公文書にはこの事件の記載は無いという。

公文書に記載が無いということは・・・・
今で言う所のSF小説が広まって、創作された話が“事件”として後世に伝わったのだろうか?

我が日立市にも「金色姫伝説」というのがある。
日立市の川尻・小貝浜に繭の形をした丸木舟が流れ着いたので、この丸木舟を割ってみたら、中から美しい姫が現れたという。
繭の形をした丸木舟ということは、楕円形?葉巻型?・・・・葉巻型UFOか?(笑)
どういうわけか、乗っていたのは若い女性なんだよねぇ~
しかも・・・美女・・・・
不思議と・・・美女!
なぜか、むさ苦しい男ではない・・・・それが不思議だ・・・(笑)
この丸木舟を見つけた神官権太夫が自分の家にこの“姫”を連れて行き話を聞いたところ、「私はインドの大王の一人娘・・・」という身の上話をしたという!
うそ~!この神官はヒンズー語が話せたのか?(大笑)
「うつろ舟奇談」の美女は言葉が通じなかったらしいが・・・こっちは言葉が通じたのか?

以前、この姫は色白の金髪の娘だったという話を聞いた覚えがある。
だから「金色姫」と言うんだと・・・
金髪色白だったら白人だよなぁ~
アメリカ人?フランス人?ロシア人?
インド人ではないだろぉ~(笑)

この神官・・・・
その後、この娘を大切に育てたが、この姫は5年後に“昇天”したという。
この時に、蚕貝(こがい)作りの首飾りと繭を置いてゆき、養蚕の仕方を教えて“昇天”したという。
それがもとで、日本に養蚕業が広まったというのだ。
で・・・この地に「蚕養(こかい)神社」が建てられている。
「蚕養(こかい)」から「小貝(こかい)浜」となったのかも知れない・・・
(博学の水戸藩士“シミズくん”なら知ってるかな?)

“昇天”というと、“死んだ”と考えるが・・・
まてよ・・・かぐや姫!
「かぐや姫」の話と似てるではないか?
お迎えが来て、空へ旅立って行くのである・・・天に昇るのである・・・“昇天”である。
「金色姫」も空に帰ったのかも?
ということは・・・やっぱり宇宙人?(笑)
迎えの宇宙船に乗って帰って行ったのか?
「金色」というのが、またもや「かぐや姫」を連想する。
光り輝く竹を切ったら出てきたのが「かぐや姫」だよね?
それこそ「金色姫」ではないか?
こりゃどういうわけだ・・・

「うつろ舟奇談」には、流れ着いた後、この“美女”がどうなったのか書かれているのだろうか?
気になるところである。(笑)

エッセイ | 15:19:58 | Comments(0)
従姉達と食事会!
今日は、母の実家へ行って、従姉達と「食事会」である。
旅行に出かける直前に連絡があったので、昨晩のうちに帰宅する予定に変更した。
昨晩遅く帰宅して、今朝早く車を運転して出かけるというのは、さすがにキツイ・・・
しかも、どうやら福岡で風邪を引いてしまったようで・・・・体調は最悪である。(笑)
歳は取りたくないものである!
ずっと続いていた胃痛は旅行のおかげで緩和されたが・・・
たかがこれしきの国内旅行で、今度は風邪を引くとは・・・(涙)
抵抗力ガタ落ちである。
しかも・・・24日からはフィリピン!
大丈夫かねぇ~(大汗)

年に一度あるか無いかの「食事会」・・・・
以前は、お盆やお彼岸の時に集まっていたが、従姉達も嫁ぎ先の親が亡くなると、そうもいかない。
自分の家のほうの法要で、実家に集合というわけにはいかないのである。
ということで・・・
何でもない、この日が全員都合がいいということで集まることになったようである。
「みんなでお墓参りもしよう!」ということで、母の妹である叔母さんも参加。
本当は、従姉達、兄弟姉妹の集まりなのだが、子供の時から兄弟のように扱ってもらってきたので、拙者には声がかかる。
多分、毎月、母の墓参りの時に、ご先祖様たち本家のお墓の掃除をしているから、それも誘ってくれる理由の一つかもしれない。

今回は実はグッドタイミングだったのである。
この間、入手した『秋山好古と習志野』という本・・・
三笠宮殿下の回顧談も載っているし、祖父が殿下の御輔導係に選ばれたことを伝える新聞記事の写真も小さいながら載っている。
これをみんなに配ってあげようと思って、刊行会のほうへ追加で注文していたのだ!(笑)
刊行会の会長さんも、本来は入金確認後の発送なのに「特別に入金前に発送してやれ!」と事務担当者に口添えしてくれたそうで、思ったより早く本が届いた。
おかげで今回の集まりに間に合い、直接みんなに手渡せる!
感謝、感謝である。
しかも、山口と福岡を旅してきたから・・・お土産も買って来た。(笑)

みんなで、拙者の母の墓と、祖父を含むご先祖様のお墓参りに行く。
ご先祖様のお墓は、昔ながらの土饅頭・・・・
祖父母も伯父・伯母の墓も木製の墓標が立つ。
で・・・ついに祖母の墓標が倒れてしまっていた。
根元がかなり腐っていて、そこに昨年の大地震である。
かなり傾いていたが・・・・ついに倒壊・・・
しかも祖父の墓標に向かって・・・である。(笑)
「おじいさん!ちょっと肩を貸して~って言いながら倒れたんじゃない?」
「で・・・おじいちゃんは、サッと身をかわした・・・」(大笑)
「で・・・おばあちゃんは肩透かしをくらって・・・バタン!と・・・残念でした~」(大笑)
「で・・・おじいちゃんは、わし?わしは知らん!・・・とすまして立っている・・・と・・・」(大笑)
倒れた祖母の墓標を見ながら、大爆笑の墓参り・・・(大笑)
我々孫は、とんでもねぇ孫達である。(笑)

祖母の後ろには曾祖母の土饅頭があったが・・・
地震のせいで、円形に陥没した・・・・
当時は丸いお棺に座った状態で土葬されたのだろう。
地震の揺れで腐っていた蓋が壊れて内部の空洞に土が入ったから円形に土饅頭が陥没したに違いない。
地震後、その状態は写真に撮っておいたが・・・
地震から1年以上も経ち、その陥没が埋まってしまい平になってしまった。
あれ?曾祖母のお墓はどこだっけ?・・・・である。
毎月お墓参りに来ている拙者にはわかる・・・「ひいおばあちゃんは、この辺りだよぉ~」(笑)

笑いの絶えない墓参りの後、みんなで食事会・・・
従姉達手作りの料理がずらりと並ぶ・・・
いつもの「お楽しみ」の食事会である!
叔母はデザートを作ってきてくれた。
で・・・この豪華なおかずを全部食べきれるわけがない。
とにかくおしゃべりのほうが忙しいのである。
女4人・・・かしましい・・・
男は従兄と拙者の2人・・・勝てるわけがない・・・(大笑)

「3日後にはフィリピンへ行ってくるから!今回はおじいちゃんの陣地跡へ登ってくるから!」と報告・・・
「あんた・・・相変わらずだねぇ~」とみんなから呆れられる。(大笑)
福岡から戻ってきたと思ったら今度はフィリピン・・・・
呆れられても無理はないか・・・(大笑)
「叔父さん(拙者の父のこと)、大丈夫なの?一人で・・・」
「ん?息子がいなければ、その間に死ぬわけにはいかないって頑張るでしょ?」
「あのね・・・なにバカ言ってんの?」
「いや、いや、本当なんだって。孤独死したくないから頑張るんだって。人間とはそういうものです!」
「あ~あ~叔父さん、一人で留守番?可哀想に・・・」
「親孝行な息子だろ?俺・・・」
「・・・・・」

夕方になり、楽しいおしゃべりもお開き・・・・
で・・・残った食べ物は各自に分配!(笑)
これが毎度の事ながら拙者の楽しみでもある。
「夕食のメニューを考えないですむ!ラッキー!これで3日間は大丈夫だな!」(大笑)
「そうだよねぇ~あたしたち女だってメニュー考えるの面倒だもん」
「でしょ?ラッキー!餓死しなくてすんだ!」
「あのね・・・」(唖然)

手作りのジャムやら、おかずやら、お土産をたくさんもらって車を飛ばして帰宅する。
従姉達と叔母さんに感謝、感謝・・・・である。
旅の疲れも吹っ飛んだ・・・(笑)

日記 | 18:03:10 | Comments(0)
山口・福岡の旅(7)
今日は、ガダルカナル島で戦死された福岡歩兵第124連隊のご遺族および関係者と会う日である。
そもそも、今回の旅は、これが本来の目的だったのである。(笑)
福岡で会って打ち合わせが出来ないかとのお誘いを受けて、福岡に行く事にしたのだが・・・
羽田と福岡を往復するだけでは、もったいない・・・ということで、山口を旅することにした。
お誘いくださった“キタジマさん”は、急用で会えなくなったというので、危うく福岡へ行く理由がなくなりそうになったが・・・
幸いにも、他の関係者が集まってくれるというので助かった。(笑)
みなさん、2年前に一緒にガダルカナル島へ慰霊巡拝に行った“仲間”である。
昨年の9月に福岡で行われた慰霊祭以来、久しぶりの再会である。

拙者のチェックアウト時間に合わせて、県内各地からホテルに集まってくださった。
が・・・このホテル・・・
結構洒落ているのだが、ロビーには喫茶スペースがない。(涙)
というわけで、昨晩、食事に出かけた直ぐ近くのホテルのコーヒーラウンジで打ち合わせをすることにした。
これは昨晩のうちに下見済み・・・・(笑)

今回集まってくださったのは3名・・・
今年の11月に、またガダルカナル島への慰霊巡拝を計画している。
発起人は僧侶の“フジさん”・・・予科練出身の方・・・
そして、遺族の“ハタナカさん”と“アベさん”・・・・
“フジさん”が先日、巡拝慰霊の案内を関係者に送付したのだが、その後どうなっているのか・・・
大手旅行社に丸投げでは、値段は高いわ、遠回りするわ、余計な観光地に立ち寄るわ、添乗員はド素人だわ・・・前回がそうだったので・・・拙者のほうで別案を用意しておいた。
今回はその打ち合わせである。

午後3時過ぎの新幹線で東京へ戻らないと、我が家に今晩中に帰宅できない。
というわけで、午前10時集合・・・打ち合わせ時間は約5時間しかない。
この5時間で方向性を決めなければ・・・・

そもそもは“フジさん”の計画では、前回同様である可能性が高いというのが皆さんの共通の認識である。
“キタジマさん”からは、もう少し日数を減らして値段も安ければ・・・と相談があった。
そこで、以前、拙者がニューギニアへ行った時に使った旅行社に相談をかけて、案を8つも出してもらった。
皆さんとはメールでやり取りしたが・・・・
どうもシックリ行かない・・・
飛行機の関係で最短でも6日間、しかも前後2日はオーストラリアのゴールドコーストに泊まらねばならない。
期間は短いが、これでは2日間がもったいない。
やはりどうしても8日間は必要となる。
ニューギニア航空が毎週土曜に成田とポートモレスビーを往復している。
これを利用したほうが、最短コースで、しかも料金が若干安い。
“キタジマさん”には申し訳ないが、この8日間の案で話を進めようと配布資料も作って持ってきた。

さて、問題は、“フジさん”である。
発起人としてヤル気満々なので、失礼のないように、かつ、傷つけないように気を使って、こちらの案に賛同してもらう方向にしなくてはならない。
で・・・現時点での参加希望者数を“フジさん”にお尋ねしたら・・・
「あの人は、多分行くと思います。あの人も間違いなく行くと思います」という話ばかり・・・
「本人には確認を取ったのですか?」
「いやぁ~確認はしていないけど、大丈夫でしょう!」
「この間の案内の返信葉書ではどうなっていますか?」
「それは届いていませんが・・・大丈夫でしょう」
そんな馬鹿な・・・である。
“多分大丈夫”なんていう自分勝手な思い込みでツアーを企画したら絶対失敗する・・・と拙者は思う。
気持ちばかりが先走りしているだけで、実は空回り・・・のようである。
“お年寄り”は思い込みが激しい・・・というか、予科練出身者は・・・(大笑)

この思考で、日本は負けたのである。
「米軍が反攻して来るのは、もう少し先のことでしょう」などと、何の裏付けもないのに、自分に都合のいい予測を立てたばっかりに、1年も早く反攻され、惨敗したのである。
その最初がガダルカナルではないのか?
我が日本軍の防衛準備が整わないうちは、米軍は反撃してこない・・・などという自己中心的な愚かな思考の結果である。
自分の都合に合わせて相手側の出方を決めるんだから、これは予測でも何でもない。
今、流行の「想定外」でもない。
想定しないことのほうが問題である。(笑)
どうして、戦時中のその反省が日本人は全く出来ていないのだろうか?

多分参加するでしょう・・・を除くと、結局「参加します」と返信葉書で回答してきた人は誰もいないことが判明した。
結局、かろうじて行く気があるのは我々4名だけである・・・・(笑)
ただ、細かい内容を詰めないと、漠然と行きますか?と尋ねられても答えようがない。
そこで、拙者の案・・・・
ガダルカナル島と、ついでにラバウルの戦跡を訪問して帰って来るツアー・・・
これの日程表を提示して“叩き台”とする。
と・・・意外にもあっさりと案が可決された。(笑)
“フジさん”と揉めるかなとおもったのだが、「あなたのほうが詳しいから、あなたに全部任せします」と、あっさりとおっしゃる。
あらら・・・(笑)

あとは・・・ガダルカナル島で何をするか・・・である。
どこへ行きたいのか、何をしたいのか、まずは我々4人の希望を取り込んで、基本計画を作り、「この内容で行きますが一緒に行きたい人いますか?」と他の人に案内をしたほうがいいのではないだろうか?
で・・・参加したい人から何か希望があれば、それを取り込んで修正するというほうが、参加者それぞれの目的も達成できて、それぞれが満足してくれるツアーが出来るのではなかろうか?

“アベさん”は、折角行くのだから遺骨収集もしたいという。
しかし、これは考え物である。
いきなり行って、それは出来ないだろう。
現地の村と事前の打ち合わせも必要だし、遺骨を勝手に持ち帰るわけには行かないから、当然、日本大使館に預かってもらわねばならないだろう。
そうなると大使館との事前打ち合わせも必要となる。
お気持ちは分からないでもないが、気持ちばかり先走って事を起こしては、逆に他の方々に多大な迷惑をかけることになるのではあるまいか?

「例えばですね~。戦時中、“アベさん”の家に撃墜されたB29が墜落したとします。で・・・ある日、突然バスに乗ったアメリカ人がやって来て、このあたりに米国のパイロットの遺体が埋まっているだろうと、勝手に庭を掘り始めたらどう思います?」
「・・・・」
「ついでに十字架立ててロウソク並べてお祈りをして・・・そのままバスに乗って立ち去ったら・・・どう思います?お前らオレの庭先で何しやがるんだと怒るんじゃないんですか?」
みなさん、大笑い・・・
「たしかに、そう言われると、そうだよなぁ~」
「でしょ?我々はそれを現地でやろうとしてるんですよ。マズイでしょ?」
「確かに・・・」
「まずは、村との交流。顔を知ってもらい、名前を知ってもらい、人柄を知ってもらい、協力してもらえるように準備立てをしてからでしょ?」
「確かに・・・」
「だから、今回は、いきなりの遺骨収集なんてもってのほかだと思いますよ」
これで一件落着である。
単なる思い付きでやったのでは、現地に迷惑をかける。
基本的には政府の遺骨収集団に任せればいいことである。
それがお粗末だと言うなら、我々が現地と親密な関係を築き上げた上でやるべきである。

その他、どこに行き何をしたいかは明確に持っていないようなので、これは宿題として後日、各自、拙者に提出してくれるように頼む。

ホテルのコーヒーラウンジでコーヒーを飲みながら打ち合わせ終了。
駅のターミナルビル内のレストランで皆で昼食を食べ解散。
食事代はご馳走になってしまった!感謝、感謝である。

予定通りの新幹線に乗り・・・・約5時間の旅である・・・・(笑)
夕食は電車の中で・・・駅弁!

旅行 | 10:43:19 | Comments(0)
桜馬場
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桜馬場

慶安3(1650)年に初代藩主毛利就隆により徳山藩が開府された時、まず城下町の整備が行われ、藩士の調馬場として旧三番丁の南端から西本町にかけて馬場をつくり、数百本の桜が植えられた。
それ以来、桜馬場は西国の桜の名所となった。
享保元(1716)年に徳山藩が改易になったころ、桜400本が伐採されたが、享保4(1719)年に再興が許されると馬場を修理し、矢渡しを行って、再び219本の桜が植えられた。
後年、藩校鳴鳳館もこの桜馬場に新築移転した。
その後、事あるごとに植え継がれ、戦後は自治会有志によって南側に植樹されたが、市制50周年を機会に北側も植樹し、緑と文化とうるおいのあるまちづくりを目指している。

周南市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 21:13:21 | Comments(0)
児玉神社
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児玉神社

児玉神社は、大正12年に地元有志の発起により、日露戦争で満州軍総参謀長を務めた元陸軍大将児玉源太郎(1852~1906)を祭神として創建されました。
社殿は、神奈川県江ノ島に建設されていた神殿と附属建物を移し、旧邸址である現在地に建立したものです。
境内には「徳山七士碑」、後藤新平の筆による「徳足以懐遠」、児玉源太郎薨去の際の「御沙汰書」、後藤新平の「児玉神社参拝記念碑」、「日本帝国褒章之記」、句碑「山縣元帥の児玉大将の死を惜しまれたる歌」など児玉源太郎ゆかりの記念碑が多数建立されています。

周南市教育委員会

(説明板より)



児玉神社

1922年(大正11)12月15日、当時の徳山町の前田蕃穂外52名の有志が「県社児玉神社創立許可願」を内務大臣に提出した。
その願書には「・・・日清戦争に功あり。明治31年には台湾総督となり、政治を刷新して教化を進めて交通産業の発展に寄与した。その間陸軍大臣を、さらに内務・文部両大臣を兼務し、日露戦争においては満州軍総参謀長として、国家に尽くした忠節は多大で、等しく満天下の認めるところである。この地に児玉神社を建設し、国家守護の神として、その遺徳を後世に伝え、人心の感化に資し、もって国民道徳の標的にしたい。・・・」と記されている。
翌12年8月14日に許可され、「児玉将軍屋敷跡」に流造の本殿と拝殿が創建され、昭和8年5月16日に県社に列せられた。
拝殿の「児玉神社」の掲額は、児玉源太郎の長男秀雄の揮毫で、毎年3月10日に例祭が行われている。

児玉源太郎頌徳碑

児玉源太郎は、第4代の台湾総督を勤めたが、その下で民政局長として辣腕をふるったのが後藤新平である。
この碑には、児玉総督を大変慕っていた後藤新平の揮毫で「徳足以懐遠」と記されている。
礎石からの高さは凡そ4米あり、自然石で威風堂々としていて、周囲には玉垣を巡らしている。
この碑は、大正7年7月に源太郎の13回忌に地元の奉賛会によって、総督ゆかりの屋敷跡に建立されたものである。

平成17年3月
周南市教育委員会
寄贈 周南西ロータリークラブ

(説明板より)

309_convert_20120515133314.jpg(児玉源太郎頌徳碑)




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史跡 | 20:52:43 | Comments(0)
児玉源太郎像
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児玉源太郎像



ふるさと周南・徳山をこよなく愛した偉人・児玉源太郎、その功績を称え末永く顕彰するため、生誕160年を迎える節目の年に、ゆかりの地・児玉公園に児玉源太郎像として甦りました。

この児玉源太郎像の原型は、山形県出身の彫刻家・新海竹太郎(1868~1927。代表作「ゆあみ」「大山公騎馬像」など)によるもので、現在は国立台湾博物館に展示されています。
このたび、この銅像のレプリカを、国立台湾博物館協力のもと、台湾の彫刻家・林昭慶氏(古采芸創環境有限公司)に依頼して制作いたしました。

児玉源太郎(1852~1906)は、周防国都濃郡徳山村(現周南市)に、父・徳山藩士児玉半九郎、母モトの長男として生まれ、台湾総督・陸軍大臣・内務大臣・文部大臣など明治政府の要職を歴任し、近代日本の発展に尽力しました。

台湾総督としては、土地改革、鉄道開通、衛生環境の改善、阿片中毒や風土病の撲滅、学校教育の普及、産業の育成などを進め、台湾の近代化を促しました。
今日でも重要な産業である製糖事業の発展は、児玉源太郎の存在なしには語れません。

また日露戦争にあっては満州軍総参謀長として活躍し、日本を勝利に導いた功績が高く評価されております。

さらに児玉文庫の開設など、常にふるさとを忘れず、後進・後輩を指導し、人情味あふれる豊かな心をもった児玉源太郎は、いつまでもその存在を語り続けたい誇りある郷土の英雄です。

徳山に生まれ、幕末から明治という時代を駆け抜け日本の窮地を救った児玉源太郎。
その優しいまなざしで、ふるさと周南・徳山と私たちの未来を温かく見守っています。

平成23年7月

(銅像・碑文より)


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史跡 | 19:07:21 | Comments(0)
福原元幽閉之地
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福原元(ふくはらもとたけ)幽閉之地

福原元は越後ともいわれ徳山藩8代藩主広鎮(ひろしげ)の子で後に宗藩の福原家を嗣ぎ、常に藩の要職をつとめた人物である。
幕末の動乱期の禁門の変(1864)には宗藩の家老で総大将をつとめた。
この変は長州藩の敗退に終り、元はその責任を問われて、益田右衛門介、国司(くにし)信濃とともに俗論派政府により切腹を命じられた。
この三人の家老は、徳山藩で預かることになり、益田は総持院に、国司は澄泉寺に幽閉され同年11月11日に切腹した。
元は徳山藩の衣笠伊織宅(この付近)に幽閉されたが、徳山藩主の子であるため岩国に護送され、11月12日に切腹し、波乱に満ちた50年の生涯を閉じた。

平成15年4月
周南市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 18:45:51 | Comments(0)
児玉家屋敷跡
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児玉家屋敷跡
児玉大将産湯之井戸

日露戦争で、満州軍総参謀長を務めた陸軍大将、児玉源太郎(1852~1906)は、嘉永5(1852)年2月25日にこの地にあった児玉家の屋敷で生まれました。
当時使用していた井戸が保存されており、「児玉大将産湯之井戸」の標石があります。
児玉家は源太郎の父半九郎の死後、安政5(1858)年に浅見栄三郎の次男、厳之丞(のちに次郎彦)を源太郎の姉久子に迎えて家を継がせました。
次郎彦は藩の大目付等を務めましたが、『正義派』の一人として活動したため、元治元(1864)年8月12日早暁、『俗論派』によってこの屋敷の玄関で非業の最期を遂げました。
次郎彦の死後間もなく、児玉家は藩の命令で家名断絶、屋敷は没収されましたが、『正義派』が政権をとるや、慶應元(1865)年7月13日、源太郎が家名を相続し、現在児玉神社がある場所に新しい屋敷が与えられました。
この屋敷跡は明治になって源太郎が買い戻し、当時の屋敷の一部を残して、大部分は近代的な児玉文庫としましたが、昭和20(1945)年、太平洋戦争中の徳山空襲で焼失しました。

周南市教育委員会

(説明板より)

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児玉文庫開設百周年記念

児玉源太郎は 1852年(嘉永5) ここ旧児玉家屋敷に生まれ 産湯を使った井戸は150年の風雪に耐え 今も保存されています。
その後 幕末・維新の動乱期まで郷里徳山で過ごし 徳山藩の献功隊の一員として 東北地方から北海道まで遠征しました。
ついで 佐賀の乱・西南戦争 日清戦争でも活躍し 特に日露戦争では満州軍総参謀長として 多大の戦功をあげました。
一方 陸軍大臣としてだけでなく 内務大臣・文部大臣・台湾総督などを歴任し 政治家としてまた文化人として多大の功績を残しています。
中でも1903年(明治36) ふるさと徳山のこの地に 後進を啓発するために開設した児玉文庫は 正に驚くべき快挙です。
児玉家を改装して開設した文庫は 近代図書館の先駆けをなすもので 当時のイギリスの新聞にも紹介され 徳山の誇りとする偉大な業績の一つです。
この由緒ある文庫は 誠に残念なことに 先の大戦ですっかり焼失してしまい  僅かに「児玉文庫」の門標に その面影をしのぶことができます
児玉源太郎の文庫に寄せられた愛郷心は 実に称賛されるべきもので その心は 広く市民に伝えていかなければなりません。
ここに 文庫開設百周年にあたり 記念碑を建立し その業績を称えるものです。

平成15年11月3日
児玉源太郎顕彰実行委員会

(記念碑・碑文より)



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史跡 | 17:46:14 | Comments(2)
本城三儒屋敷跡
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本城三儒屋敷跡

本城三儒とは、本城家に三代にわたって偉大な儒学者が続いたのでこの名称がある。
三儒とは、紫巌・太華・素堂のことである。
紫巌(しがん)(1737~1803)は最初、萩の明倫館で山根華陽に学び、やがて江戸の滝鶴台で学ぶ。
帰藩してから天明5年(1785)鳴鳳館が創立されると学頭としてその発展に尽力した。
太華(たいか)(1775~1844)は、紫巌の子で、九州の高木紫溟や亀井南冥に学び帰藩して鳴鳳館の助教となり、更に世子広篤(後の9代藩主元蕃(もとみつ))の侍講となる。
素堂(そどう)(1825~1865)は、通称清といわれ、徳山藩士江村氏の出で本城家を嗣ぐ。
藩主元蕃の近侍兼文学師範をつとめ、政務にも参与した。
後に興譲館の教授となり更に世子元功(もとこと)の近侍となる。

平成15年4月
周南市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 16:23:46 | Comments(0)
奈古屋蔵人屋敷跡
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奈古屋蔵人(なごやくらんど)屋敷跡

奈古屋蔵人(1742年~1793年)は、徳山藩の家老で、宝暦8年(1758年)16才のとき父の跡を受けつぎ、30年余にわたり、広寛(ひろとも)、就馴(なりよし)の2人の藩主に仕えました。
その間、江戸の藩邸につとめること8度、宗藩にも度々出向くなど藩の発展に尽しましたが、学問を好み、特に藩校「鳴鳳館」の創設に尽力しました。
蔵人は徳山藩の著名な藩士の一人で、後世その遺徳をたたえて、文化4年(1807年)に八正寺に追慕の碑が建立されましたが、現在は大迫田に移設されています。

平成15年4月
周南市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 15:05:12 | Comments(0)
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