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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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中津口門の大石
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中津口門の大石

後方にある2基の大石は江戸時代、古船場の中津口門の石垣で、細川忠興ただおきが慶長7年(1602)に小倉城を築くとき大谷から運んできた。
大石は上富野で動かなくなり、忠興は頭かしらの富岡某を手討ちにしたので、石は勢いよく運ばれた。
村人は富岡を哀れみ地蔵堂を建て供養した(現在この富岡地蔵は、安全寺に安置されている)。
これを聞いた小笠原4代藩主忠総ただふさは「2つに割って運べば命まで奪わずにすんだ。石の大小は勝負にかかわらぬ」と言ったという。
これを「細川の大石」「小笠原の割石」といった。
明治になり中津や築上の青年が多数小倉に来た。
門を入る時、大石をにらむと成功すると言われ一心ににらんだ。
「大石にらみ」という。
中津口門を解体した明治34年に、藤井吉しょうきち三本松の高倉稲荷神社に大石を移した。
平成12年に高倉稲荷は八坂神社に合祀ごうしされたので石も移した。

小倉北区役所

(説明板より)


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史跡 | 20:18:35 | Comments(0)
旧第12師団司令部の正門・鉄門
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旧第十二師団司令部の正門・鉄門

旧第十二師団司令部の正門

明治8年(1875)に、歩兵第十四連隊が小倉に設置されました。
同18年(1885)、小倉城松の丸跡に、既設の第十四連隊と福岡の歩兵第二十四連隊を管轄する歩兵第十二旅団本部が開設されました。
ついで、日清戦争後の軍備拡張のため、同31年(1898)小倉、大分、久留米、佐賀の各連隊や下関要塞砲兵連隊をもって第十二師団が生まれ、その司令部庁舎が本丸跡に建てられました。
この煉瓦造れんがづくりの正門は当時のもので、明治32年(1899)6月から第十二師団の軍医部長を務めた森鴎外もこの門を通って登庁しました。
なお、司令部は軍縮により、大正14年(1925)、久留米に移転することになりました。

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鉄門くろがねもん

藩主及び家老など、ごく限られたものは槻門けやきもんをとおり、鉄門くろがねもんはそれ以外の武士などの登城口でした。
現在、一部復元していますが、中央部目地めじの左側が幕末時の石垣と階段であり、落城時の様相を示すように石垣が火熱ひねつを受けて赤く変化しています。
(当時の階段の幅は約2.1メートルでしたが、防犯上の関係を考慮して幅を2倍に広げています。)
ここからは、鉄製鎧片てつせいよろいへん、中国製磁器、三階菱文様丸瓦さんがいびしもんようまるがわらなどが出土しています。

北九州市教育委員会

(説明板より)

史跡 | 19:19:30 | Comments(0)
岩松助左衛門翁顕彰碑
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あゝ白洲燈台
白洲燈台創建者 岩松助左衛門顕彰碑

開門海峡の西口、響灘に浮かぶ白洲は、古来より海難事故が絶えず、多くの人命が奪われた西国第一の難所であった。
企救郡長浜浦の人 岩松助左衛門翁(1804~72)は18歳で庄屋を継ぎ以来41年間これを務めた。
その功績から59歳にして小倉藩より海上の御用掛「海難船支配役」を命じられた翁は、海難防止のため自力でこの難所に燈籠台(燈台)建設を志した。
幕末動乱の世情の中、私財を投げ出し、その上莫大な借金を背負い千辛萬苦の日々であったが、「不立腹」を胸に、燈台建設への執念は消えることなく、苦節8年、明治3年基礎工事を完成させた。
その後事業は明治新政府に引き継がれ、明治6年9月西洋式燈台として完成。
しかし翁は前年の明治5年4月25日不帰の人となり、自らの情熱を傾けた燈台の点灯を見ることはなかったのである。
「世のため 人のため」の信念を貫き通した翁の人道的精神は、海原遥か照らす白洲燈台の一条の灯りとともに、我々に遺された貴重な財産として永久に消えることはない。

岩松助左衛門 長浜郷土会

(碑文より)




白洲灯台岩松翁記念塔

この塔は岩松翁が、設計した白洲灯台を模したものです。
翁は、幕末から維新の変動期、己の名声のためでなくただ海難事故防止のため、響灘の難所、「白洲」に灯台を建設するため一生を捧げた郷土の偉人です。
昭和38年、5市合併により北九州市誕生に合わせ翁の偉徳を偲ぶと共に水難救助のため尽くした功績を後世の市民に伝えるためこの地に建てられました。

(説明板より抜粋)


史跡 | 18:43:03 | Comments(0)
杉田久女の句碑
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花衣はなごろもぬぐや纏まつはるひもいろいろ

杉田久女ひさじょ(明治23年~昭和21年)
本名ひさ。
明治42年 福岡県立小倉中学教諭杉田宇内うないと結婚し小倉に居住。
大正5年より俳句を始め、上掲句は大正8年の堺町居住時代の作。
昭和6年日本新名勝俳句の帝国風景院賞の金賞に英彦山ひこさんを詠んだ「谺こだまして山ほととぎすほしいまゝ」、銀賞に「橡とちの実のつぶて颪おろしや豊前坊ぶぜんぼう」が入選。
「清艶高華せいえんこうか」と高濱虚子に評された作風の俳句は近代女性俳句の先鞭をなすものとして高く評価されている。
上掲句のほか、久女の桜の句としては、ホトトギス雑詠の巻頭を飾った昭和7年八幡公餘倶楽部やはたこうよくらぶ(現在の高見倶楽部)にて詠んだ「風に落つ楊貴妃桜ようきひざくら房のまゝ」がよく知られている。
久女が好んだ楊貴妃桜は、ここ堺町公園のほか、久女ゆかりの櫓山荘ろざんそう公園(小倉北区中井浜)、高見中央公園(八幡東区高見)にも植えられ、毎年、春には八重咲きの豪華な花を咲かせている。

(説明板より)


史跡 | 17:41:43 | Comments(0)
森鴎外旧居
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市指定文化財
史跡 森鴎外旧居
昭和49年3月22日指定

この建物は、明治32年(1899)6月、作家森鴎外が小倉の旧陸軍第12師団の軍医部長として東京から赴任した折、借りて住んだ家です。
2年10か月後に帰京するまでのはじめの約1年半を、築後まもないこの家で過ごしました。
赴任当時、離婚し独身であった37歳の鴎外は、お手伝いさんを雇っています。
部屋数は6つ、鴎外は主に八畳の座敷と南側に続く四畳半の小座敷を使っていました。
玄関や土間、庭などは大幅に改造され、馬小屋もなくなっていますが、母屋の全体はほぼ当時のままで、前庭の百日紅さるすべりや夾竹桃も以前からあったものです。
鴎外は公務のかたわら、この家で『即興詩人』や『戦論』の翻訳、『我をして九州の富人たらしめば』や『鴎外漁史とは誰ぞ』などの執筆をしました。
また、歴史や風土の研究、読書などに励んでいたようです。
当時の様子は、この時代に書いた『小倉日記』や後に書いた小説『鶏』などの作品からもうかがうことができます。
鴎外は後年、『高瀬舟』や『渋江抽斎』などの歴史小説、史伝に転じますが、ここで過ごした時期は「沈潜と蓄積の時代」でした。
なお、鴎外は明治33年(1900)12月、京町に転居(現JR小倉駅前。京町旧居碑があります。)、翌年11月には八幡製鐡所の開所式にも出席しています。
また、明治35年(1902)1月、佐賀県出身の元判事の長女荒木しげと再婚しました。
北九州市は、貴重な文化遺産であるこの森鴎外旧居を昭和49年(1974)3月、史跡として文化財に指定し、昭和56年(1981)3月には、買収、整備して一般に公開、現在に至っています。

北九州市教育委員会

(説明板より)



史跡 | 17:08:12 | Comments(0)
森鴎外京町旧居跡
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森鴎外京町旧居跡

第12師団軍医部長として赴任した森鴎外先生は、明治32年6月から同35年3月まで小倉に来住した。
その前半は鍛冶町の家にあり、後半、33年の暮れから第1師団に転任して東京へ去るまで、京町5丁目154番地に住んだ。
しかし京町の旧居は小倉駅の移転にともない、駅前広場の一部となってしまった。
今は無いが、茂子夫人と新婚生活を送り「即興詩人」の名訳を完成し、のちに、明治の小倉の風物を活写した小説「独身」の舞台となるなど、鴎外文学にとって記念すべき京町の家は、この碑の南25メートルの場所にあった。

(碑文より)




森鴎外京町旧居跡

この碑は昭和52年(1977)に「森鴎外遺跡保存顕彰会」によって建立されました。
当初は小倉駅前広場ロータリーに設置されましたが、その後の駅前広場整備に伴い、平成10年(1998)に現在地に移設されました。
石碑に「南25メートルの場所」と書かれていますが、実際はこの位置に旧居がありました。

北九州市教育委員会

(説明板より)


史跡 | 16:54:06 | Comments(0)
小倉を歩く
小倉駅に到着し、まず向かったのが観光案内所。
ここで観光マップをもらって・・・出発!

395_convert_20111009170723.jpg(小倉駅)

駅前に「森鴎外京町旧居」の跡の碑があるらしいので、そこを探す。
観光マップは、イラストマップのようなものだから、正確ではないが、このあたりだろうと見当をつけたら見つかった。
駅から続く高架の遊歩道のエスカレーターの下にあった。
う~ん・・・目立たねぇ・・・
しかも、この碑の所に人がいて・・・邪魔!
カメラを取り出したら、移動してくれたから助かったが・・・(笑)

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続いて、観光マップを頼りにテクテクと歩き・・・・
「森鴎外旧居」に向かう。
今回、わざわざ小倉に来た目的は、ここを見学することなのである。
今から11年前に後輩の“オダクラ君”と小倉城を見に来た・・・・
そのときに、この「森鴎外旧居」も見たかったのだが、あいにく、休館日で見学できなかった。
ゴールデンウィークに来たら、祝日は休館とは怪しからん!
ここに立ち寄れなかったのが、なんとも悔しくて、今回の小倉のメインに据えたのである。(笑)

繁華街の中を歩き・・・それほど広くない路地を覗き込み・・・
このあたりを曲がるのか?・・・と、曲がってみたら、うまく辿り着いた・・・

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が・・・この景色に記憶がない。
11年前にここに来て、休館だったから見られず帰ったはずなのだが・・・
その時に、どうやってここに来たのか全く記憶がない。
「休館ってどういうことだよ!ゴールデンウィークに休館する馬鹿がいるか!」と“オダクラ君”と文句を言い合ったのは覚えているのだが・・・・
その後、どこに向かって移動したのやら・・・それも覚えていない。
記憶にあるのは、見学できず残念だったことだけである。
なんとも記憶力の悪い男である。

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敷地内に森鴎外の銅像が建っている。
これがお目当て!(笑)
建物には管理人も誰もおらず、無料で見学自由・・・
室内にも入ってかまわないそうなので、勝手に上がりこんで見学させていただく。(笑)

時刻は2時となった。
さて・・・ホテルに向かうか~
ここから小倉城の近くにあるホテルまで歩いて移動することにする。

426_convert_20111009203032.jpg(堺町公園)

途中、「堺町公園」に「杉田久女」という人の句碑が建っていた。
よくは知らないが・・・・どうも女流俳人らしい。

ホテルに到着し、フロントに荷物を預かってもらおうとしたら、部屋の準備ができているので部屋に入ってよいとのこと。
時刻は2時過ぎだから、チェックインには早いかなと思っていたのだが助かった。
荷物を置いて・・・さぁ!次は小倉城である!

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ホテルを出て川沿いを歩く。
遠くから小倉城を撮影しようと思ったのだが・・・
あらら・・・である。
天守閣に向かって左にあるビルは市役所・・・・
これは11年前に来たときにもあって、「こんな市役所なんかを建てて、景観が台無しだ!」と文句を言ったことを覚えている。
で・・・向かって右側の派手な色の建物は記憶がない・・・(笑)
なにか・・大規模な商業施設か?
あ~あ~両方のビルに挟まれて、小倉城の天守閣が小さく見える。
だいたい、お城の天守閣より高い建物を、すぐそばに建てるという、その神経が解らない!(怒)
北九州の市民ってどういう神経の持ち主なのだろうか?

11年前に来たときは、とにかくお城巡りの旅で、大急ぎで見て廻った。
ゴールデンウィークを利用して、福岡、佐賀、長崎、熊本と、大急ぎで飛び回ったのである。
だから・・・天守閣を見学したら・・・ほら!急げ!移動だ!・・・の連続だった。
おかげで周囲の風景は見ていないか、記憶に残っていない。
今回は、じっくりと落ち着いて見学したい。(笑)

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天守閣内の見学を含め、約1時間かけて周囲を散策する。
で・・・“オダクラ君”に電話をしてみた。
「お~い!今どこにいると思う?小倉城!11年ぶりに来てるんだぞぉ~(笑)」
用件はそれだけである・・・(大笑)

小倉城の敷地内に「松本清張記念館」がある。
11年前にも、ここに来たが、時間もないし、興味もなかったので、中に入らなかったことを覚えている。
しかし、今度はそうはいかない。(笑)
水戸藩士の“シミズくん”に見学するということを約束してしまったのである。(笑)

松本清張は、推理小説家で、どちらかというとドロドロとした陰気な作品を書く人だと思っていた。(笑)
が・・・小説などが700作品ぐらい?
ノンフィクションや古代史やら随筆をあわせると1000作品ぐらい執筆したようである。
あらら・・・すごい・・・
作家というのは、こうでなくてはならないかも・・・
う~ん・・・最近物書きを始めた“シミズくん”に教えてやらねば・・・(笑)
ここには彼は来るべきだと思うなぁ~
原稿などの資料を見てみると・・・これが汚い字なのである。(笑)
これでよく出版社の人が読めたもんだと感心する。
他人のことをとやかくいえるほど拙者は字が上手なわけではないが・・・
この字の下手なことが作家になれる条件とすれば・・・拙者は松本清張なみの作家になれそうな気がする。

見学の最後にミュージアムショップへ立ち寄る。
とうとう見学者は拙者一人・・・貸しきり状態である!(笑)
何か“シミズくん”にお土産を買ってやろうと思い、今度は“シミズくん”に電話をする。
「今、松本清張記念館にきてるんだけど・・・ミュージックショップにいるんだけど・・・」
「ミュージックショップ?」
「あ、違う、ミュージアムショップだ・・・」
どうも長時間見学した疲れが出たようで・・・自分でも何を言っているのやら・・・である。(笑)
「で・・・何が欲しい?」
「何がって・・・何があるんですか?」
「何があるって・・・何と説明していいものやら・・・」
「それじゃ、何をって聞かれても・・・」
「そうだよね・・・え~と・・・本!」
「本?」
あ~全然頭が働いていない・・・(笑)
支離滅裂な話である。
結局、これがいいんじゃないかと拙者が思う本を、自分の分も含めて購入する。
ということは・・・最終的には自分で決めるんだから彼にわざわざ電話をして尋ねる必要はなかったわけである。(笑)

時刻は5時・・・・
老体に鞭打って・・・もうひと踏ん張り・・・(笑)
今度は、「北九州市立小倉城庭園」を見学する。
この庭園は小倉城に隣接している。

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ここでは、書院造の建物の説明を職員の若い女の子がしてくれた。
お客さんは・・・拙者一人・・・(笑)
若い女の子とおしゃべりをしている間は疲れを忘れるっていうのは、歳を取ったせいなのだろうか?(大笑)

そろそろ閉館時間の6時になるので、ここを辞し・・・・ホテルに戻ることにする。
が・・・もう、クタクタである。
途中で、コーヒーを飲んで一服することにする。
喫煙席は結構混んでいた・・・
特に若い女の子が多いのには驚いた。
カウンター風の席に2人の美女が・・・・(笑)
そこへ一人の男性客が入ってきた。
座る場所がない・・・
彼女達が荷物を座席に置いて4人分を占めてしまっていたからである。
どうするのかと見ていたら・・・・
荷物をどかして席を空けてくれるように、この男性客が丁寧に言った途端、荷物を移したはいいが、「すみません」でも「どうぞ」でもない・・・・
なんで隣に座るのか・・・とばかりにこの男性客を睨んだのには驚いた。(唖然)
いくら美人でスタイルが良くても・・・これは、いただけないなぁ~
性格がもろに見えちゃった・・・・
百年の恋も冷めるね・・・これは・・・(笑)
幻滅である・・・・

疲れているときは甘いものがいい・・・(笑)
コーヒーとアップルパイと・・・・煙草!(大笑)
読書をして、少し休憩してから、ホテルに戻る。

今晩は、旅の最終日であるから・・・
奮発して・・・夕食はホテルのレストランでステーキ!(笑)

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旅行 | 15:59:48 | Comments(0)
亀山砲台
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亀山砲台跡

江戸末期、開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国にさきがけ外的防禦策をとり、長州藩主毛利元周公は亀山八幡宮を始め、、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。
文久3年(1863)5月11日午前2時久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船攻撃合図の砲弾が亀山砲台から発射され米仏蘭三国相手に6回にわたる馬関攘夷戦の火ぶたがきられた。
同年6月1日、藩主は亀山八幡宮に夷敵降伏を祈願した。
敵弾は楼門をかすめただけで社殿守兵とも損傷なく、時の人はこれ神威なりと矢よけ八幡宮と称たたえた。
翌年8月の4ヶ国連合艦隊襲来により攘夷戦は幕を閉じ、開国、尊皇倒幕を経て、明治維新へと急速に時が流れた。
亀山砲台はまさに近代日本の幕開けを告げる第一弾を発射したのであった。

下関市

(説明板より)


史跡 | 15:39:43 | Comments(0)
お亀茶屋跡
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伊藤博文公夫妻史跡
「お亀茶屋」跡

幕末のころ北前船の寄港地として海陸物産が集散し西の浪華として栄えていた下関の町を、明治維新の志士たちが繁く往来していました。
慶応元年(1865)の初夏、刺客に追われた伊藤博文公が亀山八幡宮の境内で、茶屋のお茶子だった木田梅子に助けられたのが2人の出会いで、その1年後に夫婦になりました。
伊藤公は明治新政府を樹立し、初代内閣総理大臣として日本の近代化と発展に身命をなげうち、明治42年(1909)、凶弾に倒れました。
明治の元勲と称えられる伊藤公と、公を支えた梅子夫人が結ばれたゆかりの場所です。

“国のため光をそへてゆきましし
      君とし思へど悲しかりけり”(梅子)

夫人は大正13年(1924)に77才で亡くなりました。

芳梅会

(説明板より)


史跡 | 15:15:11 | Comments(0)
おかめ明神
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お亀さん頌徳しょうとくの記

境内は島であった
今を去る五百年の昔 馬関ばかん(下関の古称)開発のため わが身を滅して功あるならと 人柱となり海底に消えたお亀さんは下関の街づくりの功労者であった
時の人はお亀さんの功績を称え記念に銀杏いちょうの木を植えた
木は年輪を重ねて名木となりお亀銀杏と称えられた
木は昭和の戦禍にかかったが お亀さんの遺志をを継承するかのように 焼跡から新芽を出し 年々生長して母の木の面影をしのばせている
はお亀ぎんなんといい 不思議にも無数の斑点があり お亀さんのあばたが現れたものといい伝えられている
お亀さんの功績により開作された広い埋立地を八丁浜はっちょはまといい 毎年5月1日から3日間 五穀祭に八丁浜はっちゃはまエラヤッチャとはやし 「ぽんち可愛いや寝んねしな」と唄い シャギリ 山車だしを出し 下関の町は八丁浜を重ねるごとに大きくなった
八丁浜エラヤッチャはお亀さん頌徳の賦である
平成元年 氏子崇敬者の厚い御奉賛により 亀山八幡宮御鎮座千百三十年記念事業として境内を整備し お亀明神社を再建し池を整え玉垣をめぐらす
ここに亀山八幡宮亀笑会創立30周年にあたり 頌徳の記を更新し お亀さんの功績を永く称える

平成5年11月3日

(説明板より)


史跡 | 14:43:29 | Comments(0)
床屋発祥の地
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床屋発祥の地 由来

鎌倉時代の中期(1264~73) 亀山天皇に仕えていた京都御所の北面の武士従五位ノ下北小路蔵人之頭藤原基晴は 宝刀の紛失事件の責任をとって職を辞し 三男采女之亮政之を連れて宝刀探索のため 当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った
基晴親子は当時下関で髪結をしていた新羅人からその技術を学び 従来の武士を客とした髪結所を開いた
店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので下関の人々はいつとはなしに「床の間のある店」転じて「床場」さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになった
「床屋」という言葉は下関が発祥地となりその後全国に広まっていった
藤原基晴は弘安元年(1278)に没し市内の尊念寺に葬られた
采女之亮は床屋を続けながら宝刀の探索を続けそのうち豪商の協力により遂に宝刀を探し出して天皇に奉還した。
その後鎌倉に移り住み幕府から京都風の髪を結う髪結職として重用され 屋敷も賜り代々その職を受け継いだ
時は流れて元亀3年(1572)17代目の藤七郎の時 武田信玄との戦いで敗退中の徳川家康を助けた功績により江戸開府後 江戸八百八町の髪結職の営業権を与えられ また橋見守役や火事の時は奉行所の重要書類搬出などの役目も仰せつかった
時に二代将軍徳川秀忠が「四民髪ヲ結ウハ勝手ノコト身ヲ綺麗ニスルハ長寿ノ元ナリ」というお触れ書を出してから庶民はこぞって髪を結うようになり 男髪結職と女髪結職が急に増え 日本独特の髪型が流行し始めた
江戸時代の風俗文化は髪結職により創り出されたとも言われている
歌舞伎役者の髪型や衣装は 当時の女髪結職の芸術性の豊かさを物語るものである
床屋の開祖 藤原采女之亮政之の功績を讃え かけがえのない史実を後世に伝えるためここに記念碑を建立した

平成7年7月17日
下関理容美容専修学校 理事長・校長 小野孝策 撰
           石工 長府 中村重雄

(碑文より)


史跡 | 14:10:02 | Comments(0)
碇と壇の浦
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海峡守護『碇』の由来

水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、関門海峡の鎮めの神と仰がれています。
今を去る800年の昔、源平壇ノ浦の戦いに平家の大将知盛は全てを見収め、碇を背に海中深く御幼帝のお供をして、竜宮城へ旅立たれました。
それより『碇知盛』の名で能や歌舞伎に演じられ、勇将振りがたたえられています。
このいわれをもとに、海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、御祭神のみたまを慰め、海峡の平安を祈るものであります。

昭和60年5月2日
源平八百年祭を記念して
寄進 下関海洋少年団

(説明板より)




謡曲「碇潜いかりかづき」と壇の浦

謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な最後を描いた曲である。
壇の浦の古戦場を弔いに来た旅僧が乗り合わせた渡し舟の漁翁ぎょおうに軍いくさ物語を所望する。
漁翁(実は平知盛たいらのとももりの幽霊)は能登守教経のとのかみのりつねの奮戦と壮烈な最期を詳しく語り跡の弔いを願う。
旅僧の回向えこうに導かれるように勇将知盛の姿が現れ、安徳天皇を始め一門悉ことごとく入水するまでの経過と、自らの修羅の戦いの有様や碇を頭上に戴いて海中に飛び込んだ知盛の幻影を旅僧は見たのであった。
という構成を持つ「舟弁慶」の類曲である。
壇の浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした総帥そうすいの面目と情趣に想いの馳せる海岸である。

謡曲史跡保存会

(説明板より)


史跡 | 13:38:08 | Comments(0)
妄想・・・・
自販機で飲み物を買って一服・・・・
さて・・・道路を渡って向こう側へ行ってみるか・・・

375_convert_20111008121858.jpg(赤間神宮)

道路を渡った向こう側、海峡に面したところに灯籠が建っている。
どうもここは、海から直接上がって参詣できる「海参道」の入口らしい。

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時刻は、お昼ちょっと前・・・
もう少し時間がある。
さて、次はどこへ行こうかと観光マップを広げて見ていたら・・・・
若い女性2人組にバス停の場所を教えて欲しいと声をかけられた。
あら・・・なかなかの美人さんである。(笑)
あっ・・・赤間神宮の小さな資料館の中でお見かけした女性達である。
これも何かの縁?
運命的な出会い?(大笑)
こういう妄想を抱いて旅をするのも一人旅の楽しいところである!(大笑)
これが誰かと・・・たとえば水戸藩士の“シミズくん”なんぞと一緒だったら、こういう妄想が浮かぶ余裕がない。
正直言って・・・邪魔である。(大笑)
相手も、女性の一人旅だったりすると、ますます妄想が膨らむ。
しかも若くて美人となれば・・・「運命的な出会い」である!
これが年寄りのお婆さんだと・・・そうは思いたくない。(大笑)
人間とは自分勝手な生き物である。(拙者だけか?)

お二人の麗しい女性にバス停の場所をお教えして・・・・あっけなく、サヨウナラ・・・(笑)
拙者は、もう少し歩くことにする。

次に向かったのは「亀山八幡宮」・・・・
ここに寄ることにした理由は特にない。(笑)
なんとなく・・・である。

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ここに「お亀茶屋跡」という史跡があった。
刺客に追われた伊藤博文が、この神社の境内にあった茶店の女の子に助けてもらったそうで・・・
(なさけねぇ話であるが・・・笑)
その女の子と後に結婚したという「史跡」である。
奥さんとの出会いの場所が「史跡」になるんだから(公式のものではないだろうが)面白い。
こういう「史跡」はドンドン増やしてもらいたいものである。
ん?先ほど女の子から声をかけられた場所・・・
「その昔、かの有名な重兵衛が、この下関を旅している時に麗しき女性に声をかけられ・・・」てな史跡にならぬものか・・・
妄想が膨らむ膨らむ・・・(大笑)

時刻も12時を過ぎたので、このあたりで史跡巡りは終わりにして駅に向かうことにするが・・・
ここから駅まで、どのくらいあるかは昨日歩いて既に知っている。(汗)
とてもじゃないが2回は歩きたくない・・・(笑)
近くの商店街に行って、そこからタクシーで駅に向かう。

駅前のレストランで昼食をとることにして・・・ランチセットを頼む。

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食事を終えて、駅構内に行ったら・・・・
あら!
先ほどの女性2人組が駅の売店にるのを見かける。
まさか、ここでまた会うとは思ってもみなかった。
これは運命的な再会だな・・・・絶対そうに違いない・・・・
縁だな・・・これこそ縁というものだな・・・
赤い糸で結ばれているに違いない!(笑)
が・・・相手は二人である・・・・どっちと赤い糸で結ばれているのやら・・・わからん。(大笑)
偶然、また出会ったのだが、下手にこちらから声をかけたのでは、後をつけていたとか、ストーカーと間違われるのではあるまいか?(笑)
気がつかなかったことにしよう・・・(大笑)
というわけで・・・自ら“赤い糸”を切ってしまった・・・・(悲)

またまた、妄想に酔いしれながら、切符を買って・・・小倉行きの電車に乗り込む。(笑)

旅行 | 12:15:55 | Comments(0)
本陣 伊藤邸跡
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本陣 伊藤邸跡

伊藤家は鎌倉時代から続く下関屈指の名家。
室町・江戸時代には港町下関の指導者的な地位にあり、この地に広大な邸宅を構えていた。
室町時代は、下関の交通・流通などを掌握して朝鮮交易も行い、江戸時代には大年寄として町政を司る。
また、本陣を兼帯して九州諸大名の参勤時の休泊所となり、各藩の用達も行った。
特に対馬宗氏つしまそうしとは前代から親密な関係にあった。
伊藤家はオランダ宿として名高い。
江戸に参府するオランダ商館長は、伊藤家と佐甲家の二つの本陣を下関の定宿とした。
歴代当主は進取の気性に富み、開明的であったが、なかでも文化・文政期の当主杢之允盛永もくのじょうもりながは、熱烈なオランダ趣味の人で、ヘンドリック・ファン・デン・ベルグというオランダ名を名乗り、ヅーフ、ブロンホフなどの商館長と親しく交際した。
佐甲家に宿泊した商館医のシーボルトも杢之允から歓待されている。
また、幕末の当主杢之助もくのすけ(静斎せいさい)は吉田松陰と交際し、助太夫すけだゆう(九三きゅうぞう)は真木菊四郎まききくしろうや坂本龍馬を支援した。
とりわけ、慶応2・3年頃の龍馬は伊藤家を活動の拠点としていた。
近代初頭の明治5年6月、伊藤家は明治天皇の西国巡幸時の行在所となり、本陣としての最後の役割を終えた。

下関市

(説明板より)

龍馬とお龍が生活した
本陣 伊藤邸跡

幕末の当主助太夫すけだゆう(九三きゅうぞう)は、龍馬の活動を物心両面から支えた人物です。
龍馬と助太夫(九三)との関係は、龍馬が薩長同盟実現に向けて下関を尋ねた慶応元年(1865年)に始まりました。
以来、龍馬は下関を訪ねる度に伊藤家を寄宿先とし、慶応3年2月10日からは、同邸の一室「自然堂」を借り受け、愛妻お龍とともに暮らし始めます。
伊藤家では、龍馬の朝帰りにお龍が激怒することもありましたが、夫婦で歌会に参加するなど、仲睦まじい日々を送りました。

平成22年8月吉日
下関市長 中尾友昭
下関市観光施設課

(説明板より)


史跡 | 12:01:32 | Comments(0)
日清講和記念館
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日清講和記念館

この記念館は、日清講和会議に使われた調度品や貴重な資料などを公開するため、昭和12年に開館されました。
展示品の中でも、特に椅子類はかつての浜離宮の調度で、ランプ、ストーブ、硯箱、インク壷、朱肉入れなどと共に、講和会議の様子を今に伝える貴重な歴史資料です。
明治28年(1895)に、隣接する春帆楼を会場に行われた日清講和会議は世界の外交史に残るもので、日本全権弁理大臣伊藤博文と清国講和全権大臣李鴻章の二人を中心に両国の代表二名が列席して和議交渉を行いました。
なお、この交渉の途中で、清国全権李鴻章が暴漢によって狙撃され、負傷するという事件も発生しました。

下関市教育委員会

(説明板より)


史跡 | 11:43:43 | Comments(0)
下関半日観光
タクシーに乗り、最初に向かったのは「日和山公園」・・・
ここには高杉晋作の銅像が建っている。
正確には・・・銅像ではなく陶像らしいのだが・・・

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周囲には柵が巡らされ、樹木も植えられていて、近づくこともできず、枝が邪魔で、気に入ったアングルでの撮影ができない・・・参ったなぁ~(涙)
台座の裏の碑文もかすれていてよく読めない・・・
しかも、柵があり、木が植えられて、おまけに蜘蛛の巣まで張っている。(笑)
無理して近づいてスーツを汚したくないし・・・これでは碑文を読むことができない!
こういうことは、どこへ行っても度々経験するが・・・
碑文というのは、他人に読んでもらうためのものではないのか?
読めないような状態にするというのは、どういう神経なのだろうか?
腹が立つんだよなぁ~こういうの・・・
この「陶像」に関する「説明板」も設置されていない。
残念である・・・・

次の目的地・・・つまり、最終目的地は「日清講和記念館」であるが・・・・
拙者が史跡巡りが好きなんだと話したら・・・・運転手さんが「この近くに林芙美子の生誕地という神社がありますけど・・・」と言う。
じゃぁ、ちょっと寄ってみてよ・・・ということで、道草・・・・
運転手さんは「石碑しかないですよ」と言うが、その石碑が見たいのである。(笑)
こういうところは、趣味が同じ人じゃないとわからねぇだろうなぁ~

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運転手さんの言う通り・・・神社の脇に「林芙美子生誕地」と刻まれた石碑しかなかった・・・(笑)
どうもこの地区の自治会が建立したものらしいが、碑文はない・・・
林芙美子がどういう人だったのか・・・とかという説明板が欲しいところである。
なんでそういうものを設置しようとしないんだろう?
あ~残念である。

午前11時少し前に「春帆楼」に到着・・・
「日清講和記念館」というより、「春帆楼」と言ったほうが運転手さんには通じやすい。
この「春帆楼」は日清講和会議が行われた会場であるが、建物は変わったが、いまでも割烹(?)旅館として営業をしているようである。
いっそ、ここに宿泊すればよかったか?
いや・・かなり高いんだろうなぁ~(笑)

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ここには、伊藤博文と陸奥宗光の胸像が建っている。
この銅像の写真を撮影して、隣にある「日清講和記念館」を見学。
記念館は観覧無料で無人である・・・・
小さな「資料館」なので、あっという間に見終わってしまうが・・・
内部には、講和会議の時に使われたテーブルや椅子が、会議当時を復元して展示されていた。

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20分もかからず見学終了!
この「春帆楼」のすぐ隣の敷地に「本陣・伊藤邸跡」という史跡がある。
伊藤博文の屋敷跡なのかと思ったらそうではない。
下関の名家で本陣も兼ねていた伊藤家の跡だそうで、ここに坂本龍馬が寄宿していたという。
へぇ~・・・・である。(笑)

さて・・・これからどうしようか・・・
昨日、ここの前を長府から下関に向かって歩いたが、その時は、もう周囲は真っ暗だった。
が・・・それでも歩いたおかげで、おおよその位置関係や距離は理解している。
下関駅に向かって歩き・・・
「赤間神宮」に寄ってみる事にする。

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この「赤間神宮」は安徳天皇をご祭神としているそうで・・・・
境内には「平家一門の墓」もある。

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さらには・・・
「耳なし芳一」のお堂もあった。
どうも、ここは昔、阿弥陀寺と呼ばれていた場所で、そこに芳一という琵琶法師がいたそうである・・・
あ~あの「耳なし芳一」のお話の・・・
が・・・しかし、まてよ・・・
昔、島根県の松江に行った時に、宍道湖の湖畔の公園の中に「耳なし芳一」の銅像があったような・・・
写真を撮らなかったのは失敗だったが・・・たしか・・・銅像があったよなぁ~
あれは・・・「耳なし芳一」だったよなぁ~・・・ただの琵琶法師の銅像じゃなかったよなぁ~
あれは何であそこにあったんだっけ?
小泉八雲?・・・小泉八雲が書いた話の中に出てくるんだっけ?
「耳なし芳一」と松江って・・・何の関係があるんだっけ?
まぁ~いいかぁ~・・・・難しいことは・・・・わからん・・・(笑)

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境内の小さな資料館を覗いて・・・・
自販機で飲み物を買い・・・一服!
時刻は11時45分・・・・
さて・・・もう少し時間があるぞ・・・これからどうしようか・・・

旅行 | 11:24:58 | Comments(0)
お土産の大人買い?
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ホテルの朝食は・・・「フグ雑炊」!
拙者は洋食党なのだが、今回は特別である。
昨日チェックインの際、フロントの女の子のご推薦をいただいた。
朝から雑炊というのもなぁ~とは思ったが、限定20食か25食で、「是非!」と言うので頼んでみたのである。
で・・・これがなかなか美味しい!
いやぁ~満足!満足!(笑)

ホテルをチェックアウトして・・・・
今日は半日だけ下関を観光して、午後には福岡県北九州市の小倉に移動する予定。
下関なんて、たいして見るところはないだろうからと、1泊2日にしたのが間違いだった。
まだまだ見ていないところがある。
今日は歩いて・・・というわけにはいかない。
時間がもったいない・・・急がねば!

が・・・その前に、お土産を買わねば!(大笑)
戦友会の“おじいちゃん”“おばあちゃん”や遺族会の方等々にお土産を送らねば・・・
これは拙者の旅行の「恒例行事」である。(笑)
昨日、下関に到着したときに駅構内のお土産屋さんを覗いて、目星は付けておいた。
昨晩は、ホテルの部屋で一筆箋に「お手紙書き」である。
で・・・まずは、駅構内のお土産屋さんへ・・・
「あら、昨日来た方ですよね?」
「はい、昨日は下見です(笑)・・・・これ、15箱ください。宅配便で送れますよね?」
「送るんですか?」
「はい、全国各地に・・・」
「え?別々のところにですか・・・宅配便代がかなりかかると思いますけど・・・」
「はい、わかってますよ・・・いつものことですから(笑)」
レジのところの机を借りて送り状を書きまくる。
見かねて店員さんも手伝ってくれる。(笑)

「この手紙をそれぞれの箱に貼って送ってくださいね」
「いいですけど・・・あらら・・・こんなに・・・」
「手紙を付けないと、何でお土産が送られてきたのかわからないんですよ。みなさんお年寄りだから(笑)」
「全国各地に送るんですよね?」
「うん、愛知県でしょ、奈良県でしょ、大阪府でしょ・・・・」
店員さんも宅配便の料金表を見るのに大忙し・・・(笑)

「これ・・・かなり料金がかかりますけど・・・いいんですか?」
「はい、いつものことです」
「はぁ?いつもこんなに買うんですか?」
「これでも今回は少ないほうです(笑)」
「へぇ~」
「え?15箱も買う人って珍しいですか?」
「まず、いませんねぇ~(笑)」

実は・・・おじいちゃん達や知人の住所は持参してきたのだが、一部の友人達の住所が書いてある手帳を忘れてきてしまったのである!(大笑)
そのため今回はお土産を送る先が少ないのである。
通常なら、こんなものでは済まなかったりするのである。(笑)

「あのぉ~お支払いはカードでしょうか?現金でしょうか?」
「へぇ?どちらでもいいですけど・・・カードよりは現金のほうがいいですか?」
「そりゃもちろん現金のほうがいいです!(大笑)」と女子店員。
「でしょうねぇ~(大笑)」

「それにしてもねぇ~・・・」とこの店員さんは、さっきから呆れている。
「そんなに珍しいですかね?」
「はぁ~」
「この人は、92歳でしょ、この人は90歳、この人は・・・88歳かな?」
「へぇ~」
「みなさんご高齢ですからね~楽しみがないでしょ?そこへ突然宅急便が!・・・って、これ、楽しいでしょ?」
「そりゃそうですけど・・・ねぇ~・・・」

今回は下関だし・・・奮発して「フグの一夜干し」!
昨晩、同じ製品ではないとは思うが、どういうものか夕食の時に食べてみて、これなら高齢者にも大丈夫だろうということで、これに決めた。
中国産のものはちょっと安いが、中国産では申し訳ない。(笑)
やっぱり、ちょっと高くても国産じゃないとね!(笑)
結局・・・もう1回、旅行ができるくらいのお金がかかってしまった!(大笑)
生前、母から「お前は経済観念がない」とよく言われたが・・・
確かに・・・ない・・・(笑)

拙者にとってはお金の問題ではない。
楽しければ、それでいいのである。(笑)
以前、お送りしたある方からは・・・
「こんな美味しいものを息子夫婦なんかには食べさせたくないので、ばあさんと二人でコッソリ頂いています」というお礼状をいただき大笑いした。
もう、その様子が目に浮かぶようである。(笑)
これが楽しんだよねぇ~
こうなると・・・辞められなくなるのである。(大笑)
これは病気である・・・・

これがいつまでも続くわけではない・・・・
みなさんご高齢である・・・・
毎年、何人かがお亡くなりになる。
そのうち、お土産を送ってあげたくても、送る相手がいなくなるだろう。
そう思うと、今しかない・・・と思うのである。

さんざん、おしゃべりしながらお土産の発送手続きを済ませ・・・・
タクシー乗り場に急ぐ。
今日は半日しか時間がないのである!
タクシーを利用して素早く移動せねば!(笑)

旅行 | 10:27:08 | Comments(0)