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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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天保製長州砲
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天保製長州砲

幕末、開門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864)8月、長州藩兵と英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の具体的始動につながった。
この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られ国内から姿を消していた。
1966年春、渡欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリッド軍事博物館に保管されている攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められたが実現困難なところ、郷土出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形で里帰りを見るに至った。
この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了解を得、創立20周年記念事業として、これを原寸大かつ精密に模造し下関市に寄贈した。
同長州砲は天保15年(1844)萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手になるもので、幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。
鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を目撃したこの物言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとするのは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨にほかならない。

(説明板より)


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史跡 | 20:49:40 | Comments(0)
長州砲
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長州砲(八十斤加農かのん砲)

文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃しました(攘夷戦)。
翌年8月、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。
海峡の最も狭い所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。
外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現する原動力となりました。
長州藩の主力となった加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球形の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて損害を与えるものでしたが、連合艦隊の新しい大砲は距離・威力ともはるかにすぐれたものでした。
この大砲は、幕末に数多くの大砲を鋳造していた長州藩の安尾家に伝わる20分の1の模型(下関市立長府博物館蔵)を参考に、原寸大に復元したレプリカ(FRP製)です。
砲身に刻まれた文字は、パリのアンヴァリッド軍事博物館が所蔵している、これとほぼ同型の長州製青銅砲の砲身を模刻しています。

下関市 【監修/古川 薫(直木賞作家)】

(説明板より)


史跡 | 19:29:53 | Comments(0)
平家の一杯水
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平家の一杯水

寿永4年(1185)3月24日、源義経を総大将とする源氏と平知盛が率いる平家は、最後の一戦を壇ノ浦でくりひろげました。
開戦当初は、東向きの流れに乗った平家が有利に戦っていました。
やがて、潮の流れが西向きに変わり始めると、源氏方は反撃を始めました。
潮流に乗った源氏は、平家の船を操る水夫かこと舵取りを弓矢で狙いました。
こぎ手を失った平家の船は潮の流れに引き込まれ、完全に自由を失いました。
そうなると、勝敗はもうはっきりしています。
平家方のある者は捕らえられ、または海に沈み、または傷を受けてようやく岸にたどり着いた者もありました。
そのうちの一人の平家の武将は、全身にひどい傷を受け海に落ちましたが、命がけで泳ぎ岸にたどり着きました。
その武将は傷の痛みと疲れで喉がカラカラに渇ききっていました。
あたりを見渡すとわずかな水たまりを見つけたので、武将は痛む体を引きずって水たまりに近づき、その水を手のひらにすくい喉をうるおしました。
その水の美味しいこと、武将にとっては命の水とも思えるものでした。
あまりの美味しさに夢中になって二度目を口にしたところ、大きくむせて吐き出してしまいました。
不思議なことに真水は塩水に変わっていた、といわれています。

(説明板より)


史跡 | 19:11:47 | Comments(0)
前田砲台跡
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前田砲台跡

「前田砲台」は外国船来航などにより緊張が高まった幕末に、長州藩が諸外国の排除を目的とした攘夷戦争に備えて十数ケ所に設置した砲台のひとつです。
開門海峡に面した茶臼山山麓の標高10mほどに設置された低台場と標高16mほどに設置された高台場からなり、青銅製の大砲(長州砲)20門を設置した中心的軍事施設でした。
文久3(1863)年5月、長州藩は攘夷(諸外国の排除)を決行し、関門海峡を通過する米仏蘭の艦船に対し、海峡沿に設置した砲台や軍艦から三度にわたり砲撃を加えました。
しかし、翌6月には、米軍艦が報復措置として長州藩の軍艦を砲撃、沈没させたのに続き、仏軍が前田砲台(低台場)を攻撃、破壊しました。
この攻撃後、低台場の補修と高台場の急造がなされ、前田砲台は補強されましたが、翌元治元(1864)年8月5日、英米仏蘭の四国連合艦隊が集結し、再度関門海峡沿いの砲台に対して砲撃を加えました。
この激しい攻撃により、長州藩は大敗を喫し、前田砲台は連合軍に占領されました。
砲台関係施設はことごとく焼き払われ、設置された大砲は、すべて戦利品として接収されました。
この四国連合艦隊による砲撃事件は、下関戦争とも呼ばれ、長州藩において尊皇攘夷から開国を主張する勢力が台頭する契機となり、ひいては、明治維新以降の日本の近代化へ続く大きな転換期の端緒として、極めて重要な意味を持ちます。
また、その主要な舞台としての役割を果たした「前田砲台跡」もまた、重要な価値を持っているといえます。
「前田砲台跡」は平成11年~14年に、山口県教育委員会により、発掘調査が実施されました。
調査の結果、大砲の具体的設置状況は不明であるものの土塁、排水溝、大砲設置平坦面および作業ヤードと考えられる後背平坦面等、砲台施設の一部が検出されました。
また、激しい戦闘の様子を物語るように、低台場では四国連合軍の艦船から打ち込まれたものと考えられる砲弾が、地中にめり込む形で発見され、また、両台場とも占領後に焼き払われたことを示すように、焼土の堆積が確認されました。
この発掘調査の成果と、連合艦隊占領時に英国軍により作成された測量記録の対比から、「前田砲台」の具体的な構造が明らかとなりました。
なお、連合軍により接収された大砲(長州砲)の1門が120年後の昭和59(1984)年、永久貸与の形でフランスの軍事博物館から下関市に里帰りしました。
現在、市立長府博物館に展示されています。
また、壇浦砲台が設置された関門橋付近のみもすそ川公園には、筒先を関門海峡に向けた長州砲のレプリカが並んでいます。

平成20年12月 下関市

「前田砲台跡」を世界遺産に!
下関市は、平成19年12月、九州・山口の6県10市と共同で、世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書「九州・山口の近代化産業遺産群ーー非西洋世界における近代化の先駆けーー」を文化庁に提出しました。
平成20年9月には、「九州・山口の近代化産業遺産群」が文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会における調査・審議の結果、「世界遺産暫定一覧表記載文化資産」とされました。
「前田砲台跡」は、当該資産の構成資産の一つであり、下関市は、「前田砲台跡」が世界遺産に登録されることを目指しています。

(説明板より)


史跡 | 18:40:53 | Comments(0)
長府から下関まで歩く!
下関から長府までタクシーで来たは良いが・・・・
さて、どうやって帰ろうか?
タクシーを捉まえたくても、タクシーが見当たらない・・・(笑)
国道を走るバスは、どうも終点が下関駅のようだから、これに乗れば迷うことなく下関にいけるのだろうが、拙者はバスに乗るのは好きではない。

いっそ、歩いてみようかと歩き出したら、「下関まで8km」の標識を見つけた。
8kmかぁ~・・・・たいして遠くはないだろう。
歩いて歩けないことはない距離だろう。
なにせ、以前、自分の町の駅から隣り駅まで歩いたことがある。
1時間ぴったりで会議会場である駅前のホテルに着いたから・・・
たぶん、大丈夫だろうと歩くことにした。
まぁ~1時間もあればホテルに戻れるだろう。

15分ほど歩いたら、「関門医療センター」という国立病院の前に碑が建っているのを発見!
「軍令部総長伏見宮博恭王殿下飛行御上陸記念碑」と書いてある。

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この碑は、海軍軍令部総長の伏見宮殿下が、昭和9年3月14日に、この地に飛行機で着水し、ここから下関へ陸路で向かったとか。
どうも海軍志願兵の徴募状況の視察だったらしい。
当時としては、なかなか派手なことをしたもんだ・・・

こういう碑に出遭うというのは徒歩でなければねぇ~
車に乗って移動したのでは、見過ごしてしまう。(笑)

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海岸沿いの国道をテクテク歩くが・・・
歩道を歩いている人なんかいない!
スーツ姿で、テクテク歩いている拙者って何者?(笑)
車に乗っている人は不思議に思うだろうなぁ~
で・・・時刻は5時40分・・・
あれ?おかしい・・・もう40分も経っているのか?
関門橋が遠くに見える。
タクシーであの下を通った時に、おおよそあの橋が長府から下関までの中間地点だと思っていたのだが・・・あれ?間違ってた?
まもなく歩き出して1時間・・・で・・・まだ半分も行っていないということは・・・
以前に隣り駅まで歩いたあの距離は、8kmではなく、4kmぐらいだったのか?
しまった!完璧に勘違いをしていた!
8kmぐらいの距離を1時間で歩いたと思い込んでいたが、そうじゃないらしい・・・(笑)
が・・・いまさらバスに乗るなんて拙者のプライドが許さぬ。(大笑)
このまま歩くことにする。

途中で「前田砲台跡」という看板を見つける。
拙者が歩いている道路の向こう側・・・・
国道は片側2車線で中央分離帯がある。
車の途切れるのを見計らって、急いで渡り砲台跡へ・・・・
ここで車に轢かれたら馬鹿である。
たぶん・・・必死の形相だったに違いない・・・(笑)
そこは・・・何もない空き地・・・・
詳しい説明板があったので良いが、これがなかったらただの分譲住宅地の空き地である。(笑)
この土地は個人の所有地らしく、地主のご好意で敷地の一部だけに立ち入ることができる。
あ~この空き地に大砲のレプリカをズラリと並ばせたら、いい観光スポットになるのだが・・・
でも、ダメか・・・目の前のビル・・・邪魔である。
この周辺の土地を買い取っておかなかったのは下関市の失策だな。(大笑)

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さらに歩くと・・・
平家の一杯水」の碑と出遭う。
なんだろう?平家の一杯水って・・・
説明板によれば平家と源氏の壇ノ浦の合戦の話の中にでてくるらしい・・・
平家?源氏?・・・・興味がない・・・(笑)

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時刻は6時である・・・・
あれ?歩き出してもう1時間も経っている。(笑)
開門橋はまだ先のほうに見える・・・いつまでたっても辿り着かない・・・(大笑)
おかしいなぁ~
時間の読みを恐ろしく間違っている。
数字に弱いというより、まともに計算ができない・・・と言って良いかも・・・(笑)

しばらく歩くと・・・道路際に「壇之浦古戦場」の看板が・・・・
しかも、日本語と英語のほかに韓国語で書かれている。
こんなところに韓国人が来るのか?
ここが壇の浦?・・・・古戦場?
だいたい、壇の浦の合戦って・・・どんな合戦なのか知らないのである。
興味がないというのは恐ろしいことである。(大笑)

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午後6時20分・・・「みもすそ川公園」に到着。
ここに、「長州砲」のレプリカがズラリと並んでいた。
ここでようやく灰皿を見つけたので・・・(大笑)・・・・一服!
あ~疲れたぁ~

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この公園をもう少し進むと、銅像がある。
源義経と平知盛の銅像だが・・・平知盛って・・・誰?(笑)
参ったなぁ~全然解らない・・・

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碑文によれば・・・
寿永4年(1185)3月24日、平知盛が率いる平家軍と源義経が率いる源氏軍が、ここ壇の浦で合戦をしたそうで・・・・
最初は平家が優勢だったが、潮の流れが変わり、形勢が逆転・・・・
二位の尼は8歳になる安徳天皇を抱いて入水・・・・
その後を追って平知盛も海峡に身を投げて平家一門は滅亡したのだそうだ。
で・・・・
この銅像は・・・・
向かって左が、平教経の攻撃をかわすため船から船へと「八艘はっそう飛び」をする源義経・・・
で・・・向かって右が、平知盛である。
ん?「八艘飛び」をする源義経はいいが・・・そういうことであれば相手は平教経の銅像であるべきではないか?(笑)
まぁ、どうでもいいやぁ~
お互いの総大将ということで建てたんだろうから・・・(笑)

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開門橋の向こうに見えるのが福岡県北九州市の門司・・・・
小高い山は・・・門司城跡だと思う。
今から11年前の平成12年に、後輩の“オダクラ君”と、あの山に登り、頂上の門司城跡から開門橋を眺めた。
今度は、橋の向こう側に行ってみたいものだ・・・などと、その時に思ったものだが、まさか11年後に実現するとは・・・・感動である。(喜)

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開門橋の真下を通過!
時刻は午後6時40分!
いやぁ~長府から1時間40分歩いてようやくここまで来たかぁ~
ということは・・・あと1時間は歩かねばならないということだな・・・(涙)

この橋・・・そして真下から見る、このアングル・・・・懐かしい・・・
今から21年前の1990年・・・拙者はこの橋の下を船に乗って通過したのである。
日本青年会議所の洋上スクールに茨城ブロック代表として一人で参加した。
韓国の釜山に向かって東京の晴海ふ頭を出発。
なんという客船だったか・・・豪華客船でこの橋の下を通過したのである。
あれは午前中だったと思う・・・
甲板に出ていたんだから・・・
右舷方向・・・つまり下関の海岸から、たぶん下関の青年会議所のメンバーだろう・・・この橋を通過する時に壮行の花火を数発打ち上げてくれた。
昼間だったせいか、大きな音と煙しか見えなかったが・・・(笑)
ん?ちゃんと許可を取ったのか?・・・まさか無断で打ち上げたんじゃあるまいな・・・などと仲間と笑ったことを思い出す。
甲板から見上げた橋の裏・・・・今でも目に焼きついている。
船のマストがぶつかるんじゃないか・・・手を伸ばせば届くんじゃないかと思った。
青年会議所のメンバーだろう、モーターボート数隻が客船と併走・・・
「おい、おい、あぶねぇぞ~!」とみんなで手を振って離れるように合図したら、何を思ったか、大喜びで旗を振り、手を振り返してきた。(笑)
「おい、おい、全然話が通じてねぇぞ」と大笑い。
「あとで船の航行を妨害したって、警察に捕まるんじゃないか?」とまたまた大笑いしたことを思い出す。
懐かしい思い出である。
あの時の「壮行」の友情は21年経っても忘れられない。
感動的な出来事だった・・・・
あの時、我々約500人を見送ってくれたメンバーたちは今どうしているんだろうか?
ふと思い出した・・・・

まもなく、あっという間に日が落ちて・・・真っ暗・・・
あらら・・・懐中電灯なんか持っていないんですけど・・・・(大笑)

歩き始めて2時間たったが、下関駅には到達しない。
「下関まで8km」の「下関」は駅じゃなくて市役所までの距離だろうと気がついた。(笑)
下関市役所は駅からかなり離れている・・・・
まだまだ歩かねばならんのか・・・

途中、コーヒーが飲みたいなぁ~、どこか喫茶店で一服したいなぁ~と思ったが・・・・
一度、腰を下ろしたら二度と立ち上がれないような気がして諦める。(大笑)
まさかの“地獄の行軍”になろうとは・・・
「8km」を甘く見たのがいけなかった。

結局、10km以上は歩いたか?12kmくらいは歩いたか?(大笑)
ようやくホテルに到着!
フロントの人に長府から歩いて戻ってきたと話したら呆れられた。(大笑)
結局、長府から2時間30分ほどかかった。
いやぁ~疲れたが・・・・
これは後々いい思い出として残るに違いない!(笑)
何十年後かに、またここに来る機会があって・・・昔、ここを歩いたんだよなぁ~なんて思い出すことになるかもしれないなぁ~
これが旅のいいところである。

さすがに疲れたので、夕食はホテルの1階にある居酒屋で済ませることにした。

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「今日はよく頑張って歩きました」ということで・・・自分にご褒美。(大笑)
定食の他にフグの一夜干しを追加で注文する。
なかなか出てこないなと思ったら、店の女の子が「新人に焼かせたら失敗したので、今、ベテランが焼き直してますので、もう少し待っていてください」と言うので大笑い。
この一夜干し・・・肉厚で、なかなか美味である。
これを食べたら、あんな薄っぺらい「フグ刺し」なんて食べる気がしない。(笑)

旅行 | 17:11:59 | Comments(0)
集童場場長室
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集童場しゅうどうじょう場長じょうちょう

集童場は、長府藩士福田扇馬ふくだせんまが文久2年(1862)、南之浜の自宅に開いた私塾 桜柳亭おうりゅうていを母体とし、元治元年(1864)3月、藩士熊野則之くまののりゆきが中心となり、古江小路ふるえしょうじの益田宅を集童場と命名。
身分の別なく広く藩内年少の子弟(10~17才位)の教育を行ったいわば長府の松下村塾しょうかそんじゅくとも言われた。
総督そうとく(場長) 熊野則之
総監そうかん(相談役) 福原和勝
教授 福田扇馬
   熊野九郎
   金子四郎
設立当時は三十数人で発足したが、1年後には百数十人にも増えた。
慶応元年(1865)2月、裏侍町にあった旧藩校敬業館けいぎょうかん跡に移転、名実とも長府藩の学校となったのである。
さらに明治2年(1869)藩校敬業館に併合され明治5年2月まで存続した。
集童場で学んだ子弟は、乃木希典のぎまれすけをはじめいずれも明治・大正時代に様々な分野で活躍した。
この建物は、古江小路に在った集童場の場長室を昭和3年(1928)、所有者伊藤氏から寄贈を受けここに移転保存したものである。

平成5年3月
下関市教育委員会

(説明板より)

史跡 | 16:46:41 | Comments(0)
覚苑寺本堂
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下関市指定有形文化財(建造物)
覚苑寺本堂
昭和61年5月10日 指定

法輪山覚苑寺は、元禄11年(1698)に創建された黄檗宗おうばくしゅう寺院で、開基は黄檗宗に帰依した長府藩3代藩主毛利綱元。
開山は、綱元が宇治の黄檗山萬福寺から招いた悦山禅師である。
この建物は、周防三田尻(現・防府市)にあった黄檗宗寺院の海蔵醍醐寺の本堂として寛政6年(1794)に建立されたもので、明治8年(1875)、廃寺となっていた海蔵醍醐寺から覚苑寺に移築され、以後、当寺の本堂(大雄宝院だいおうほうでん)として利用されている。
構造形式は、桁行けたゆき三間、梁間はりま三間で一重裳階もこし付の吹放し。
屋根は入母屋いりもや造の本瓦葺。
基壇は乱石積で、正面に石階六級を設け、礎石は花崗岩切石上に石造角形礎盤いしづくりかくがたそばんを置く。
軸部は総て面取角柱めんとりかくばしらを使用し、柱頭は粽ちまき形、足元は丸面となっており、身舎もやは飛貫ひかん・頭貫懸鼻とうかんかけはな付・台輪だいわ、中央間四面及び両脇間を虹梁こうりょうで繋ぎ、裳階は地覆じふく・腰貫こしぬき・飛貫・頭貫・台輪で構成されている。
組物は身舎柱上及び大瓶束たいへいずか上に禅宗様出三斗でみつど笹繰付と出桁、裳階柱上及び中備大斗肘木なかぞなえだいとひじき内外は木鼻きばな付となっている。
軒は二軒繋垂木で、妻飾つまかざりは破風はふ板、眉欠まゆかき、化粧棟木に鰭ひれ付かぶら懸魚げぎょを施している。
この建築様式は、本市に遺例の少ない江戸時代の黄檗宗寺院の典型的な特徴を示しており、建築史的な価値が高い。

下関市教育委員会

(説明板より)


史跡 | 16:44:43 | Comments(0)
長門鋳銭所跡
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国指定史跡「長門鋳銭所跡ながとちゅうせんしょあと
指定年月日 昭和4年12月17日

長門鋳銭所は、奈良・平安時代に長門鋳銭司ながとちゅうぜんしという機関が置かれ、銭貨の鋳造を行った工房跡です。
長府地区の西側を限る、准堤峰じゅんていほう(標高176m)東南麓斜面に位置し、鋳銭峰いせんほうや火除け道などの銭貨鋳造を物語る地名呼称も残っています。
現在の黄檗宗おうばくしゅう法輪山ほうりんざん覚苑寺かくおんじ一帯の約1万4千㎡が史跡として国の指定を受けています。
遺跡の発見は、江戸時代の寛永年間(1624~1643年)にまで遡り、現在まで、数度にわたる発掘や調査が行われています。
これらにより、奈良時代の「和同開珎わどうかいちん(ほう)や鋳型いがた、坩堝るつぼ、鞴ふいごの羽口はぐちなどの銭貨鋳造用具のほか、銭貨鋳造に伴う副産物である銅滓どうさい等が多数出土し、古代銭貨鋳造の事実を明らかにしています。
「和同開珎」の鋳造は、和銅元年(708年)催鋳銭使さいじゅせんしという官職が置かれ、始まりますが、長門鋳銭所の明確な操業時期は分かっていません。
また、長門鋳銭所は、天長2年(825年)には廃され、周防国(山口市鋳銭司すぜんじ)に移ったとされています。
「和同開珎」の鋳造記録が残る、近江国(滋賀県)・河内国(大阪府)・播磨国(兵庫県)などの鋳銭司のうち、工房の場所が特定できるのは、現在のところ長門国のみです。
長門鋳銭所跡からの出土品のうち、下関市立長府博物館および(財)辰馬考古資料館(兵庫県西宮市)蔵品は国の重要文化財に指定されています。

山口県教育委員会
下関市教育委員会

(説明板より)


史跡 | 15:08:01 | Comments(0)
吉岡家長屋
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(山口県下関市)

吉岡家長屋(長府宮の内町)
下関市指定有形文化財
指定年月日 昭和52年2月16日

建物の所在位置は 江戸時代中期の長府屋敷割図に大久保五郎左衛門の屋敷地として記録されている
なお 大久保家は長府藩馬廻として藩の要職に就いていた。
間口三間(5.45メートル)奥行六間(10.91メートル)もこの建物一棟は長屋として用いられたものらしく 建築年は不詳であるが 外観や構造は文化・文政期(江戸時代後期)の特徴をよく残している
また大壁を厚く堅固にした造りなどから城下町特有の防衛的性格が窺える

平成8年3月31日
城下町長府まちづくり協議会
長府観光協会

(説明板より)

建物 | 14:30:22 | Comments(0)
長府毛利邸
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長府毛利邸(長府惣社町)

長府毛利邸は、長府毛利家14代当主の毛利元敏公が、東京から帰住するため、この地を選んで建てた邸宅で、明治31年(1898)に起工し、明治36年6月2日に完成した後、大正8年(1919)まで長府毛利家の本邸として使用されました。
その間、明治35年11月には、明治天皇が、熊本で行われた陸軍大演習を御視察の際、当邸を行在所として使用され、一部の部屋は当時のまま残されていて、往時を偲ばせてくれます。
また津軽家に嫁がれ、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様(元敏公のお孫さんにあたる)も、この御屋敷で幼少時代を過ごされています。
邸内にある庭園は、池泉回遊式で苔・石・池・楓・灯籠等配置の妙は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした日本庭園のたたずまいを感じさせてくれます。

(説明板より)


史跡 | 14:12:20 | Comments(0)
長府を歩く
次に向かったのは、「長府毛利邸」である。
タクシーで通った時に、やたら立派な入口なのが目立っていたので・・・入ってみることにした。(笑)

098_convert_20110930192921.jpg(長府毛利邸の入口)

さすがは、立派なお屋敷である。
邸内を見学・・・お客さんは拙者一人・・・・
20分ほど見学して外に出て一服していたら、お客さんがゾロゾロとやってきた。
団体客なのか・・・2~3人や4~5人の小グループで次々とやってくる。
その殆どは、オバちゃんたちである。(笑)
いいタイミングで見学できたことに感謝。
ほんの僅かの差である。
この人たちと一緒になったら、邸内の写真が撮れなかっただろう。(笑)
自動販売機で買った缶ジュースで喉を潤して次に向かう。

次は・・・「覚苑寺」である。
ここには狩野芳崖の銅像と乃木希典の銅像がある。
で・・・・観光イラストマップを見て、ルートを頭に入れて歩くが・・・・あれ?
どうもおかしい・・・・
ドンドン山のほうへ坂道を登っていく感じ・・・
しかも道は狭い・・・・
一応、有名なお寺さんなんだろうから、途中に「覚苑寺は、こっち!」みたいな看板が出ててもよさそうなものなのだが、それも見当たらない。
おかしい・・・
嫌な胸騒ぎ・・・(笑)
もう一度、イラストマップを確認して、さらに別の観光マップとも比較してみたら・・・
ありゃ~やっぱり道を間違えていた!(大笑)
観光マップというのは不正確だから困る。
こんな大まかな絵だから間違えてしまうんだ・・・と自分の方向音痴を棚に上げてマップに文句を言う。
(一人旅は、ついつい独り言が多くなるのである・・・笑)
仕方がない・・・来た道をトボトボと引き返すことにする。
あ~すごい時間のロスをしてしまった!
時刻は、まもなく3時である。
日が暮れる前に、あと何箇所かを廻りたいというのに・・・(涙)

今度は無事に迷わず到着し、お目当ての銅像を撮影する。

127_convert_20110930200917.jpg(狩野芳崖先生像)

で・・・狩野芳崖っていう人は・・・何をした人?(笑)
知らないんだけど・・・・たぶん偉い人なんだろう。(笑)

157_convert_20110930204020.jpg(乃木神社)

その次に向かったのが、「乃木神社」である。
ここにも乃木大将の銅像がある。
「乃木神社」というのは全国どこにでも、いくつもあるのかというと、そういうわけではない。
北海道の函館、栃木県の西那須野、東京の赤坂、京都の桃山御陵の近く、そしてこの長府と四国の善通寺の6箇所にしかないと神社の由緒書に書かれていた。
ん?函館?
昨年、函館に行ったのだが・・・乃木神社なんてどこにあったんだろう?
しまった!見落としていたか!(ショックである)
東京と京都の「乃木神社」には行っているので、ここを含めて6箇所のうち半分の3箇所をお参りしたことになる。(函館で見落としたのは・・・痛い!)

この由緒書を求めたときのこと・・・
「神社の由緒書って置いてないですか?」
「ありますけど・・・有料ですが・・・いいですか?」
「はい・・・」
「本当に申し訳ないんですけどね・・・有料で・・・」
確か20円だったか50円だったと思う・・・ん?20円だったかな?(笑)
「以前は無料で置いていたんですけど、境内に捨てていく人が多いので有料にしたんですよ」とのこと。
ん?捨てていく?
「もらっておきながら捨てるの?」
「そう、その・・・そのあたり・・・すぐそこで、目の前でポイッて捨てる人も多いんですよ。それで有料にすれば、そういう人は減るだろうって・・・本当にすみませんねぇ~」とおっしゃる。
「いや、有料にして正解ですよ!有料にすべきですよ。印刷代だってかかっているんだから!」
とんでもない連中がいたものである。
捨てるなら家に持ち帰ってから捨てればいいものを、境内に捨てていくとは失礼である!
こういう常識のない奴らにお参りに来られるのでは乃木さんも迷惑だろう。
怪しからん!(怒)
今の日本人は怪しからん!

168_convert_20110930204432.jpg(乃木夫妻像)

ここには小さいながら、宝物館というのがある。
この宝物館・・・普段は電気が消えているが、人間の動きを感知して電灯が点く仕掛けになってるそうだ。
見学者は拙者一人・・・・
館内に入り、展示物を見ていると・・・拙者が動かないので・・・(笑)
そのうち、いきなり電灯が切れて館内が真っ暗となる。(大笑)
仕方がないので、館内をウロチョロしてセンサーに感知してもらい(笑)・・・電気を点けて元の位置に戻って、再度、展示品を見学する。
この繰り返しをしながらの見学である。(大笑)
まぁ、見学者が拙者一人だから、こういうことになるのだろうが・・・
どこかに隠しカメラでもあったら、拙者の動きは奇妙なものに映っているだろうなぁ~と思ったら思わず笑ってしまった。(笑)

ここからは・・・どうしようか・・・
特に目的地があるわけでもないので、とりあえず海岸沿いの国道を目指して歩くことにする。

途中・・・「忌宮神社」という神社に立ち寄る。
第14代天皇である仲哀ちゅうあい天皇に関係のある神社らしいが・・・興味がないから(笑)・・・ピンとこない。
う~ん・・・こういうときに水戸藩士の“シミズくん”が一緒だったらなぁ~と思う。(笑)
この神社は仲哀天皇が7年間、皇居を置いた豊浦宮の跡だそうだ。

この神社の境内になるのだろうか、隣に長府市立図書館があり、その一角に「蚕種渡来の地」記念碑というのが建っている。

210_convert_20110930214032.jpg(「蚕種渡来之地」記念碑)

中国の秦の始皇11世の子孫が日本に来て帰化し、ちょうどここ豊浦宮に滞在していた仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を献上したのが、わが国の養蚕の始まりと言われているそうである。

この境内には、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた武内宿祢たけのうちすくねが植えたというイチョウの木があった。
宿祢・・・ねぇ~・・・どこかで聞いたことがあるような名だが・・・(笑)
こういうのは、“シミズくん”じゃなくて、最近古代史にはまっているらしい、不動産屋の“オザワくん”に聞いたほうがいいか?(大笑)
いずれにせよ・・・昔からずっと生き続けているの?・・・このイチョウ・・・

218_convert_20110930215140.jpg(宿祢すくねの銀杏いちょう

221_convert_20110930215421.jpg(忌宮神社)

境内の中をグルグル歩き回っていたら・・・方向がわからなくなってしまった。(大笑)
え~と・・・・これから、どっちに向かって歩けばいいんだ?
あまり当てにならないイラストマップで確認しながら(笑)・・・国道に向かって歩く。
と・・・途中で「維新発祥の地」の記念碑に出会う。
ここで、高杉晋作が挙兵したので「維新発祥の地」ということらしい・・・・

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この碑は、長府観光協会・長府自治連合会・下関長府ライオンズクラブによって建立されたらしい。

さて・・・時刻は午後4時50分・・・まもなく5時である。
史跡めぐりも、このくらいが限界か・・・・
ホテルに戻ることにする。

旅行 | 13:21:54 | Comments(0)
功山寺仏殿
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国宝(建造物)
功山寺仏殿
桁行三間、梁間三間、一重もこし入母屋造、檜皮葺
指定年月日 昭和28年11月14日

鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。
床は四半瓦敷しはんかわらしき、礎石と柱の間に木製の礎盤を入れ柱は上下部分が細く粽ちまき型になっています。
見事な曲線美を見せる檜皮葺、入母屋造の屋根を支えている化粧棰けしょうたるき天井中央より放射状に配置され、扇棰おうぎたるきとも呼ばれています。
また、二重屋根の内部の組み上がりの高さが異なった箇所を補うために海老紅梁えびこうりょう(梁と同意)が用いられています。
さらに前面両角には釣鐘つりがね型の特徴をもった花頭窓かとうまどを有するなど、わが国最古の禅寺様式がよく残されており、鎌倉の円覚寺舎利殿同様、寺院建築史上、貴重な建造物です。
この仏殿は、内陣柱上部に「此堂元應二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。
功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安3年(1650)秀元の没後、戒名(功山玄誉大居士)をもって功山寺と改称しています。

平成5年7月

山口県教育委員会
下関市教育委員会

(説明版より)



史跡 | 12:24:50 | Comments(0)
功山寺山門
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下関市指定文化財(建造物)
功山寺山門
指定年月日 昭和45年3月4日

この壮大な二重櫓造りの功山寺山門は、安永2年(1773)長府藩主 10代 毛利芳の命により建立(再建)されたものです。
山門(三門)とは、本堂へ入るのに通らねばならない門、三解脱門さんげだつもん(空くう・無相むそう・無作むさ)にたとえ、その略からといわれています。
禅宗の門にみられる三間三戸二重門さんけんさんこにじゅうもん
二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。
建築様式の特色として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱4本と控柱8本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。
また、櫓を支えている太い12本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削り込み、その下部先端は急に細めた粽ちまき型となっています。
山門の建築資材は、これまでに度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅けやきの素木を用いて建てられています。
木鼻きばな等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗様式を今に伝える貴重な文化財です。

下関市教育委員会

(説明版より)

史跡 | 11:45:09 | Comments(0)
下関へ行く
今日から大好きな「ぶらり旅」・・・・
ホテルをチェックアウトして、山口県の下関に向かう。

博多駅から新幹線で小倉まで行き、小倉駅で鹿児島本線に乗り換えて下関駅に向かう。
博多駅から小倉駅までは1駅で、時間にして20分弱で到着する。
で・・・車内アナウンスによると、小倉の次に新下関駅に止まるのだそうだ・・・
あれ?新下関?
拙者は下関に行くのだが、降りる駅は・・・・
在来線の下関駅?それとも新幹線の新下関駅?
自分がどこへ行くのかよくわかっていない。(笑)

とりあえず、当初の予定通りに動くことにして、下関駅で下車。
駅構内の食堂で昼食を食べ、駅前のホテルに向かう。
チェックインには早い時間だが、荷物を預かってもらうためである。

無事に荷物を預かってもらい・・・さぁ!史跡めぐりに向かうぞ!(笑)
まずは・・・タクシーを使って長府まで行く。

史跡めぐりの一発目は「功山寺」である。

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時刻は午後1時少し前である。
ここには高杉晋作の騎馬像がある。
この銅像の写真を撮るのが、ここを訪れた目的である。
これで、拙者のHPも充実するぞ~(笑)
お楽しみは後に残して、まずは裏手の墓地に・・・
ここには坂本龍馬の親友の三吉慎蔵、龍馬を支援した豊永長吉、長府藩家老の三吉周亮、室町時代の大名の大内義長のお墓がある。
キチンとした説明版も設置され、どの墓石がその人のお墓なのかも略図で示されており、なかなかよく整備されている。
こうしていただくと助かる。
が・・・拙者はこの方々のことは良く知らない・・・(笑)
だいたい、坂本龍馬はテロリストだと拙者は思っているので・・・(大笑)
さほど興味がないのである。
坂本龍馬の親友なんて・・・誰?それ?・・・・である。
大内義長ねぇ~・・・・何をした人?(笑)
こういうときに、“歩く歴史辞典”の水戸藩士“シミズくん”がいてくれたらなぁ~(笑)
あの男・・・ポケットサイズにして持ち歩けないものか・・・(大笑)

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お目当ての高杉晋作の銅像の写真を撮る。
「高杉晋作回天義挙像」・・・・揮毫は元総理大臣の岸信介である。
う~ん・・・銅像としてはあまりいい出来ではないような気がするが・・・
顔がイマイチ・・・(笑)
続いて、隣接する「下関市立長府博物館」を見学する。
古くて小さな博物館だが、拙者はこういう建物は好きである。
が・・・暑い!
客は拙者一人・・・節電のためか、扇風機が1台だけ回っているが・・・
そこから離れなければ見学できない。
離れると・・・暑い・・・汗が止まらない。(笑)
不便なことであるが、汗をかきかき見学するというのもいい。
扇子を持ってくるのを忘れたのは大失敗であった。(笑)

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この博物館の敷地内に「万骨塔」というのがある。
全国各地の石を持ち寄って造られた勤皇の志の慰霊塔なのだそうである。
で・・・我が茨城県は・・・?
あった!

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何だかんだで時刻は2時・・・・
1時間もここにいたことになる。
さぁ~・・・
ここから観光マップ等を参考に少し長府の町の中を散策することにする。

旅行 | 10:07:03 | Comments(2)