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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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「歩一の跡」碑
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歩兵第一聯隊 碑誌

當公園一帯は江戸時代長州藩毛利侯の下屋敷であった
明治7年歩兵第1聯隊がここに創設され以来67年間東京および近縣の郷土部隊として明治大正昭和に亘って駐屯しこの門をくぐった人々は夥しい数にのぼる
乃木将軍は第2代の聯隊長であった
ここに出身者有志相集って本碑を建てて永くその跡を留める

昭和38年秋

(碑文より)



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赤坂檜町(あかさかひのきちょう)

古くは今井村のうちでしたが、寛永(1624年~1644年)以後、萩(長州)藩毛利家、松江藩松平家、山家(やまや)藩谷家(たにけ)の屋敷地となり、幕末まで大きな変化はありませんでした。
萩藩毛利家屋敷は元治元年(1864年)、幕府と萩藩が対立したため、召し上げとなっています。
町の北部に麻布(あざぶ)今井町(いまいちょう)年貢町屋がありました。
これはかつての今井村の百姓家に由来すると思われ、承応3年(1654年)頃にはこの町屋が今井村と呼ばれ、中心的な位置をしめていたようです。
明治5年(1872年)、麻布今井町年貢町屋と武家地を合併して、「赤坂檜町」となりました。
町名は毛利家邸内に檜が多く、檜屋敷(ひのきやしき)と呼ばれていたことに由来します。
明治になって、町内の南東部三分の二は陸軍省用地となり東京鎮台(ちんだい)歩兵営がおかれ、後に歩兵第一連隊となりました。
西部は明治20年(1887年)頃は、空き地や畑だったようで、明治末頃までには大部分が住宅地となり、北東隅(すみ)には、わずかに商店がありました。
戦後は、歩兵第一連隊が進駐軍に接収されハーディバラックスという兵舎となりました。
昭和37年、アメリカから敷地が返還され、跡地には平成12年まで防衛庁が置かれていました。

(説明板より)


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史跡 | 23:28:15 | Comments(0)
御観兵榎
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御観兵榎について

この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治23年(1890)2月11日の憲法発布観兵式や、明治39年(1906)4月30日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。
聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。
明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成7年(1995)9月17日老令(樹齢200余年)の為台風12号余波の強風により倒木しました。
遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
平成8年(1996)1月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹齢60年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。

平成8年1月吉日 明治神宮外苑

「初代御観兵榎」
 にれ科えのき属、樹齢200余年と推定される。
           幹廻り、2.2メートル 高さ、9メートル 
           枝張り、16メートル
碑石 石材は伊豫(愛媛県) 青石、天然石
題字 東郷平八郎書
明治38年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

(説明板より)


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史跡 | 18:10:50 | Comments(0)
「明治神宮外苑の記」碑
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明治神宮外苑の記

石碑の題字 「明治神宮外苑之記」
       明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁(ことひと)親王殿下の篆書(てんしょ)
撰文 明治神宮奉賛会 会長 徳川家達(いえさと)
石材 東北仙台産の板石
   高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意

明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。
これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰(けいぎょう)申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた明治天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。
これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた80枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳(すうこうしんげん)の気漲(みなぎ)る内苑と相俟(ま)って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。

大正15年10月
明治神宮奉賛会 会長 徳川家達

(説明板より)


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史跡 | 16:22:23 | Comments(0)
樺太国境画定標石
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樺太国境画定標石

時 明治39年6月~40年10月
所 樺太日露境界

明治37、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。
この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。
当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。
又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が国境標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。

昭和54年6月2日
明治神宮外苑

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(説明板より)


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史跡 | 15:49:20 | Comments(0)
お鷹の松
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お鷹の松

大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。
昔、徳川三代将軍家光(1603~1651)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた「遊女(ゆうじょ)」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。
後の世の人々が「お鷹の松」或は地名をとって「霞の松」とも呼んだ。
碑文にもある二代目の松(樹齢推定200年 高さ4メートル)は昭和39年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。

昭和54年10月  明治神宮外苑

(説明板より)


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史跡 | 14:29:47 | Comments(0)
今日はジャズのライブ
今晩は大矢さんのジャズ・ライブ・・・・
問題は・・・
昼間何をしようか・・・・(笑)

ホテルをチェックアウトして、向かったのは・・・・
明治神宮外苑!(笑)
ここに「聖徳記念絵画館」というのがある。
以前から、気になっていた場所で、一度、ここを訪れたいと思っていた。
で・・・今回、やっと“ご訪問”

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この絵画館では明治天皇の御一代が絵で見る事が出来る。
なかなか勉強になる絵画館だった。

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この建物のステンドグラスもなかなか・・・いい!(笑)

絵画を見学した後、周辺を散策する。
三代将軍徳川家光の愛鷹が止まったという「お鷹の松」
カラフトが日本領になった時のロシアとの国境を示す「樺太国境画定標石」(模造)
明治天皇がお亡くなりになった時の柩(ひつぎ)車が置かれた「葬場殿跡」
・・・結構、色々とあるものである。

ここから徒歩でブラブラと移動。
なにせ普段、全く運動をしていないのだから、こういう時に歩かねばいつ歩くのか・・・である。(笑)

DSCF0283_convert_20101227135252.jpg(銀杏並木)

更に「明治記念館」へ向かう。
記念館という名だけど・・・どうも結婚式場のようである。(笑)
できれば紛らわしい名前は付けてもらいたくないんですけど・・・(大笑)

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ここの中華レストランで昼食をとることにする。
時間が少し遅かったせいか・・・・お客さんは誰もいない・・・(笑)

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更に歩くが・・・
やたらと警官が多いのでなんとも嫌な気分である。
なにせ、拙者は外見が悪い(大笑)ので、よく職務質問されやすいタイプなのである。(大笑)
自分ではそんなに人相が悪いとは思っていないのだが、今日は日差しが眩しいのでサングラスをしている。
なおさらヤバイかも・・・・
何も悪いことをしていないのに、ドキドキしながら歩く。(笑)
国内ではヤクザか刑事のどちらかに間違えられ、海外では軍人に間違えられる。
が・・・拙者は案外、小心者なのである。(大笑)

と・・・あれ?
ここは赤坂?
赤坂御用地?
三笠宮殿下のお宅の入り口?
警官が何人も立って警備している。
へぇ~偶然にも殿下の家の前に来ちゃった!
殿下はお元気かなぁ~・・・と思っていたら、警官と視線が合ってしまった!
ヤバイ!(笑)
ここで職務質問を受けて揉めているところなんかを殿下にでも見られたら大恥である!(笑)
さっさと通り過ぎる!(大笑)

続いて赤坂檜(ひのき)町へ・・・・
ここの公園は歩兵第1連隊があった場所だったはず・・・
石碑か何かがないかと公園内を散策する。

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植え込みの中に石碑を発見!
拙者の勘が当った!(笑)

DSCF0301_convert_20101227175601.jpg(歩一の跡碑)

公園の近くの、ちょっとした高台に赤レンガの壁のようなものが残っていた。
これも歩兵第1連隊に関係があった建物跡の一部なのだろうか?

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日が暮れて来たので、散策はこれまで。
ホテルに向かいチェックイン後、ジャズライブを聴きに出掛ける。
なんと充実した2日間だろう!(笑)

日記 | 13:25:07 | Comments(0)