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Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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明日からハワイ!
北海道の旅行から帰って来て、今度は・・・ハワイ!
なんというハードスケジュール。(笑)
が・・・相変わらず、何の用意もしてない。
いつものように、ドタバタドタバタと旅の用意・・・・

旅行に行く前に連絡しておかねばならないところもある。
あっちこっちに電話する。(笑)

その一つに、戦跡訪問や慰霊をしている拙者に興味があって、是非直接会って話をしたい人がいる・・・と以前の取引先の“ヤギヌマ社長”から留守中にお手紙を頂いた。
どうも、この間のロータリークラブの講演の記事を読んだらしい。
お会いしたいのは山々なれど・・・
明日からハワイである。
帰国後、お会いするということで、とにかくお電話でお伝えする。

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日記 | 14:28:33 | Comments(0)
ニミッツと山本五十六
ニミッツと山本五十六 (徳間文庫)ニミッツと山本五十六 (徳間文庫)
(2000/09)
生出 寿

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第1章 不戦派から開戦派に一変した山本五十六
世界史上空前の大奇襲作戦に熱中
南雲機動部隊、真珠湾奇襲に成功し、第一目標は達成
再攻撃断念こそが致命的失敗

山本五十六は名将か愚将か・・・・
再攻撃をしなかった南雲艦隊に対し皮肉と愚痴しか言わなかった最高司令官は・・・愚将じゃないか?
南雲艦隊は、当初の命令通りに行動しただけだという。
ならば、山本長官に責任があるということになろう。

第2章 山本五十六に救われたルーズベルト
米英首脳の思うツボに嵌った日本の無通告開戦
真珠湾に仕掛けられた政治的謀略の罠
勝利の裏に潜む大敗の予兆

日本は米国の罠にはまったという説得力のある話・・・・・
やっぱりねぇ~
それにしても、ルーズベルトが大統領の就任限度は2期までなのだが、この不文律を破って3期目だったとは知らなかった。

第3章 日本海軍を潰滅させる司令長官ニミッツの登場
ニミッツの太平洋艦隊司令長官就任
58年後に無罪となったキンメルとショート
ニミッツの山本五十六批判
意気消沈の部下らの士気を高める
勇将ハルゼ―が窮境のニミッツを救う

ニミッツは山本五十六より1歳年下なのだそうだ。
ほぼ同じ年齢同士が最高指揮官として太平洋で戦ったわけですね。

第4章 敵に戦法を教えただけの愚かなインド洋作戦
不必要だった南雲機動部隊の南方遠征
ゴリ押しで通すミッドウェー攻略作戦案

山本五十六はゲーム感覚で戦争ごっこをしていたのか?

第5章 ニミッツのミッドウェー実地検分
米陸海軍協同の東京空襲計画決定
ニミッツは日本の主目標をミッドウェーと認定

第6章 ミッドウェー攻略作戦発動までの波乱
日本本土に対するドーリットル空襲の効果
弛緩していて無益に終わった戦訓研究会
焦ってズサンになった作戦準備
酷評を浴びる井上の珊瑚海海戦指揮
日本艦隊発信の「AF」はミッドウェーと確認
山本は東京から愛人をよび寄せる
真剣さがない気休めの索敵計画

日露戦争当時の連合艦隊とは全然レベルが違うんだよなぁ~
司令官、幕僚の質が昭和の連合艦隊の方が低いというのはどういうことなのだろう?

第7章 日本機動部隊を求めて出撃する米機動部隊
米側は劣勢だが、情報面では優位と確信

第8章 まるで見当外れな南雲司令部の敵情判断
連合艦隊司令部も鋭敏参謀不在
南雲司令部に黙殺される的確な山口多聞の意見
大惨禍を防止し損なう山本五十六

陸軍もそうだが、海軍も「幕僚」といわれる参謀たちに問題があるんじゃないだろうか?
エリートと呼ばれているが、本当にエリートなのだろうか?
どうもレベルが低い気がするんだよなぁ~

第9章 形勢を逆転されたミッドウェー海戦
ニミッツの情報参謀レイトンの的確な推理
「加賀」「赤城」に爆弾命中、戦闘不能
そのとき長官山本五十六は将棋を指していた
「飛龍」艦爆、艦攻雷撃機の米空母攻撃
ニミッツの勝利の布告文
日本海軍KOの決意を固めたニミッツ

第10章 山本五十六の逸話
皿回しと逆立ち
戦傷まる出しの見合い
短剣投げ競争
高野五十六から山本五十六へ
砲術から航空に転向
初恋の娘
バクチ狂
酒を飲まないワケ
スパイ嫌い
「航空主兵・戦艦無用論」の執念
海軍航空本部に手相骨相家採用の事情
水から石油を採る実験
茶目っ気
禁煙

第11章 ニミッツの逸話
祖父と母が救い
「やれば出来る」で海軍兵学校に合格
教官の沈黙
「東郷元帥の弟子」と公言
ニミッツとキャサリンの結婚
幸運をもたらした恩師
米海軍大学校を最高に評価
先見の明「海軍予備士官訓練隊」
名将の下に凡卒(ぼんそつ)なし
実戦に役立った上陸作戦訓練
海軍省航海局長は辛い職

ニミッツが東郷平八郎を尊敬していたとは知らなかった。

第12章 海軍士官を半分殺すまで戦うと言うが
米海軍の進歩に気づかない山本と渕田
「大和」ホテルの贅沢三昧生活
米大軍がガダルカナル島に奇襲上陸
山本と黒島の2人が牛耳るGF司令部

第13章 3ヶ月半で勝負あったガ島戦
米軍は無血でガ島上陸に成功
非難された第8艦隊の「引揚げ」判断
米陣地に銃剣突撃して壊滅した一木支隊
強化された米艦隊の対空防御力
米海軍作戦部と太平洋艦隊の重要合同会議
驚異の大殊勲を挙げた伊19潜水艦
山本五十六と会見した陸軍参謀辻政信
激戦下のガ島を視察するニミッツ
打てば響く勇断の将ハルゼーの起用
大勝利は幻だった南太平洋海戦
ニミッツが、ガ島戦の危機は去ったと発表

第14章 待ち伏せる米戦闘機に襲撃されて山本戦死
海軍長官ノックスとニミッツらのガ島視察
日本軍のガ島撤収は奇蹟的に成功
前線行きに不満を洩らす長官山本
誇大戦果、過小損害の発表は国をも亡ぼす
ニミッツの山本機撃墜命令
ニミッツは勝利の功績で元帥に昇進
特攻作戦開始前の戦争終結が正道

第15章 日本降伏とニミッツの終焉
降伏式後最初に妻への手紙を書く
元帥東郷を偲び、記念戦艦「三笠」を訪問
ニミッツ、最高位の海軍作戦部長に就任
妻との偕老同穴を望んでいた

東郷平八郎を尊敬していたニミッツは、戦艦「三笠」の復元にも一役買っていたことを知った。
これは意外・・・



今年の読書:23冊目



読書 | 10:42:08 | Comments(0)
北海道庁旧本庁舎
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重要文化財
北海道庁旧本庁舎

四季折々に赤く映え、美しい姿を見せている北海道庁旧本庁舎は、“赤れんが”の愛称で広く道民に親しまれています。
赤れんが庁舎が産声を上げたのは、明治21年(1888)。
この設計は、道庁の技師が担当し、アメリカ風ネオ・バロック様式のれんが造りで、建築資材の多くは、道産品を使用しました。
当時は鹿鳴館と並ぶ国内有数の大建築物でした。
以来、新庁舎完成までの80年にわたり、北海道の拠点、道政の中枢としての役割を果たしてきました。
建物の頂きにそびえる八角塔は、当時、アメリカで独立と進取のシンボルとしてドームを乗せる建築様式が流行していたため設置されたといわれています。
赤れんが庁舎は、明治42年(1909)の火災で内部および屋根を焼失しましたが、幸いなことに、れんがの壁だけはほとんど無傷で残ったため、翌年には復旧工事に取り掛かり、同44年(1911)に再建されました。
その後、昭和43年(1968)に北海道百年を記念して、創建当時の姿に復元し、永久に保存することとなりました。
今日、これほどの優れた明治時代の洋風建築物は国内でも数少なく、翌44年(1969)3月、国の重要文化財に指定されました。

(説明板より)


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建物 | 14:36:37 | Comments(0)
洋画家・三岸好太郎生誕地
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洋画家・三岸好太郎生誕地

明治36(1903)年4月18日にここ南7条西4丁目の一角で生まれた。
札幌一中(現南高)卒業後上京して第1回春陽会展に入選し、のち独立美術協会の創立に参加する。
天才的な感覚で次々と作風を変え、とくに死の直前の蝶と貝による幻想的な光景など、日本前衛絵画の先駆者として果たした役割は大きい。
昭和9(1934)年7月1日旅先の名古屋で急死した。
31歳だった。
女流画家三岸節子は夫人。
道立三岸好太郎美術館(北2西15)がある。
厚田村で生まれた時代小説家の子母沢寛(明25~昭43)は異父兄にあたり、市立北海中学に学ぶなど札幌とも縁が深い。

(説明板より)


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史跡 | 13:15:17 | Comments(0)
愛染明王
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愛染明王

愛染明王は、真言密教の愛欲・煩悩をつかさどる仏身で、古くから女性や特に水商売の方々の信仰を集め、特に名前の響きから染物関係者の信仰対象ともなりました。

建立 昭和5年10月(円山西町 滝の不動)
移設 昭和55年10月(現在地 成田山新栄寺)

札幌染洗工業組合

(説明板より)


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史跡 | 12:01:19 | Comments(0)
札幌を歩く(3)
札幌駅から少し離れた場所でバスから降ろされたが、この間、歩いたことのある場所だったので迷うことはなかった。
こういう点、事前に、あちこちを歩き回っておくと楽である。

まず向かったのが・・・・札幌護国神社!
これで3回目である。(笑)
同じ護国神社に3回も行くなんてことは初めてのことである。
通常は、その時1回だけなのだが・・・
この間、神社の中に「遺品展示室」があったようなのだが、どこにあるのか分からず、見学できなかった。
どうしてもそれが気になったのでもう一度訪問することにする。

時刻はちょうどお昼。
どうやら本日、神社で「アッツ島」の慰霊祭が行なわれる様子。
大きな看板が出ていた。
ちょうど若い神主がいたので、尋ねたら、どうも拝殿の下にあるようだ。
当初、午後からの慰霊祭の参加者と勘違いされたが、戦友会の名刺を渡して挨拶をした。
で・・・遺品展示室の内部を撮影していいか尋ねたら・・・・
「へぇ~そんなもの撮影してどうするんですか?そんな人、普通はいないですけど・・・まぁ、いいですよ。どうぞ」と名刺をひったくるように受け取って言い放った!
なんだ~!
その態度・・・とても護国神社の職員(神主?)とは思えぬ名刺の受け取り方と口のきき方である。
ムッ・・・ときたが・・・
若い“ガキ”だから仕方がないか・・・横柄な態度には呆れた・・・
戦友会って言っても、わからんのだろう・・・・
それとも、拙者の外見が気にいらねぇのか?外見で人を判断するのか?
ただ、仕事だから仕方がなくやっているにすぎないのだろうね・・・多分・・・
だから、そういう横柄な態度がとれるんだろうね?

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若い神主(?)は浮かない顔をしていたが、資料室にはかなり貴重な資料が展示されているではないか。
アッツ、キスカ島の戦闘直後の米軍が撮影した写真とか・・・・
アリューシャン関係の写真では、我が戦車第二師団に所属していた戦車第11連隊のものと思われる戦車の残骸の写真もあった。
いやぁ~これには驚き!
約1時間弱、ここをじっくりと見学する。

続いて・・・・今日はここから札幌駅まで歩いてみようと思い、歩きはじめる。
ルートは適当である!(笑)
とにかく、あっちの方向へ向かって歩けば駅に着くだろうといういい加減なもの。

「アートホテルズ札幌」の近くに「木下翁碑」というのがあった。
特に説明板はないのだが、気になったのでとりあえず写真を撮る。
周囲の人から怪訝な顔で見られる・・・・いつものことである・・・・(笑)

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適当なところで左に折れて・・・「成田山札幌別院新栄寺」に立ち寄る。
時刻は1時。
更にテクテクあるいて「豊川稲荷札幌別院」。
ここは洋画家の三岸好太郎の生誕地らしい・・・説明板が建っていた。
別に「札幌別院」巡りをしているわけではないが・・・偶然、「別院」ばかりに出遭う。

ここから駅に向かって北上!
午後1時も過ぎていることだし・・・ということで「すすきの」界隈で昼食をとることにする。

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DSC06669_convert_20100803141845.jpg(札幌かに本家すすきの店)

贅沢な昼食である!
思い残すことなく、カニを食べねば・・・
帰りの飛行機が墜落して死んじゃうかもしれないしね。(笑)
個室での食事なので、食事を運んできた中居さんとおしゃべり。
護国神社から歩いて来て、これから札幌駅に向かって歩くと話したら半分呆れられた。
でも、なんとかなりそうなんだけどなぁ~(笑)
「今度はいつ札幌にいらっしゃるんですか?」と尋ねられたが答えようがない・・・・(笑)
もしかしたら、もう来ることはないかもしれない・・・・

時刻はまもなく午後2時・・・・

次は・・・「北海道庁旧本庁舎」に行ってみる。
ここは内部が資料館になっていたので、早速見学する。

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見学していて・・・ふと腕時計を見た・・・
3時・・・3時?・・・3時!!
あれ?
拙者は何時の飛行機に乗るんだっけ??
しまった!
飛行機の時間をすっかり忘れていた!
今日の夕方、家に帰るんだっけ!
展示物を見るのに夢中になっていて、すっかり忘れていたのである。
で・・・
ここから駅までどのくらいあるんだろ?
札幌駅から千歳空港までどのくらいかかるんだろ?
ゲゲッ・・・知らない!

顔面蒼白である!!
完璧にボケている・・・・

急いで飛びだし、とにかく札幌駅まで徒歩で移動・・・・
つづいて、「快速エアポート」というのに乗り千歳空港へ・・・
だが・・・あれ???
駅名は「新千歳空港」である。
拙者が行きたいのは・・・「千歳空港」なんだけど・・・
「千歳空港」というのはどこにあるんだ?
ん?「千歳空港」じゃなくて「新千歳空港」から乗るんだっけ?
普通、「千歳空港」って言っているのは「新千歳空港」のことなのか?
も~わからない・・・・
駅に着くまでの不安なこと。(笑)

空港ターミナルビルに行ってみたら、ANAの発着時刻表がっでていたので・・・・ここでいいのだろう?
帰りの便は、ちょっと贅沢をして「プレミアム」クラスを予約しておいた。
普通席のほうが安いのだが、折角の空の旅である。
そうそう滅多に国内線に乗るわけじゃないので・・・・たまにはこういうのもいいんじゃないか?(笑)
こういうところが、「経済観念がない」と亡き母に怒られたところである。

さて・・・チェックインはどこでやるの?
これを探すのに一苦労。
プレミアムクラスはチェックインが別なのだ・・・
で・・・専用ラウンジでコーヒーを頂くが、ギリギリで到着したのでノンビリというわけにはいかない。
搭乗前に喫煙所でタバコを吸いたいし・・・・
結局、ラウンジでノンビリ出来なかった・・・・う~ん、もったいなかったなぁ~(笑)

無事に予定の飛行機に乗り羽田へ・・・・そして、無事帰宅。

DSC06738_convert_20100803155044.jpg(プレミアムクラスでは軽食が出た)

旅行 | 11:30:13 | Comments(0)
札幌に向かう
朝食後、ホテルをチェックアウトして解散。
本州から来た組は送迎バスで千歳空港へ向かう。
拙者は別行動。(笑)
なにもそう慌てて家に帰ることもない。
一度、札幌に向かって、もう一度札幌市内を散策してから千歳空港へ向かおうと思う。

ということで、北海道の会員と共にお見送り係。
「それじゃ!お元気で!さようなら~!!」とお互いに手を振りあうが・・・・
あれ?
なかなかバスが出発しない。
何やっているんだろう・・・・
そのうち、バスの中で人数確認をしきりとしている。
旅行社の“クラツさん”が降りてきて・・・・
「あれ?乗らないんですか?一緒じゃなかったでしたっけ?」と言う。
「あのね・・・俺は前から別行動って話しておいたでしょ?このバスには乗らないよ~」

昨日の帰り道、車内でホテルから千歳空港へ向かう送迎バスに乗る人の確認をしていたが・・・
「千歳空港へ行く人、手を挙げて!」という確認の仕方・・・
あぶねぇんじゃねぇかぁ~
人数だけの確認って・・・・(笑)
そう思っていたのだが、案の定である。
人数が足りないようなのだが、それが誰なのかわからないらしい。
やっぱりねぇ~
誰がバスに乗るのか名簿を作らなかったんだろう。

ドタバタドタバタ・・・・と焦りまくっている。
バスは動かないし、我々見送り組も手を振るのをやめた・・・
ただただ、間が抜けた状態で、ホテルの玄関に立ちつくす。
まさか、勝手にホテルの中に戻るわけにもいかず、どうしようもない。
なんとも気まずい空気が流れる・・・・
北海道組から「どうなってるのぉ~?」と笑い声が上がる始末。
なんとも、みっともない・・・
本州組の一人として恥かしい。

かなり時間が経ってから、ようやく見つけたらしい。
どうやら、寝坊をしたのか、ロビーに降りてくるのが遅れたらしい。
ようやくバスが出発してくれて一安心。

本来は、ここで拙者はタクシーで登別駅まで行き、そこから札幌へ向かおうと思ったのだが・・・
北海道の会員たちは送迎バスで札幌駅前まで行くという。
それなら、それに乗せてもらおうということで、北海道組に加わって札幌に向かう。

DSC06576_convert_20100801202422.jpg

「輪厚」というパーキングエリアで休憩。
「輪厚」は「わっつ」と読むらしい。
どうも北海道の地名は読みづらい。さっぱりわからん。(笑)

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我々が乗った「遊湯ライナー登別号」。
ホテルの貸し切りバスというのではなく、登別温泉から札幌に向かう定期バスなのかな?
よく知らないけど・・・・

車内で、ようやく北海道の会員の方とゆっくりおしゃべりすることが出来た。
2泊3日の最終日、しかも最後の最後にようやくおしゃべりが出来たとは・・・・情ない。
高額な旅費を支払って、北海道でわざわざ会合を開く意味があっただろうか・・・疑問である。

お昼前に無事に札幌駅前に到着。

日記 | 10:08:28 | Comments(0)
またもやか・・・
さて、ホテルにチェックインして・・・やらねばならぬことがある。
お土産の購入!(笑)
今回の会合に参加できなかった知人にお土産を送って上げねば・・・
カバンの中にはいつも一筆箋、便箋、封筒を入れて持ち歩いている。
とにかく何人もの方に簡単だが一筆箋に手紙を書いて、これをお土産に貼って送るのだ。
利根川幸太郎さんもそのお一人の予定だったが・・・・
まさかお亡くなりになられたとは・・・・
一筆箋というわけにはいかないよなぁ~
奥様のお名前は存じ上げないが、奥様宛に便箋にお手紙を書いてお土産を送ろう。
ご霊前に供えてもらおうと思う。
しかし、これがなかなかうまく書けずやたらと失敗ばかり。
なにせ文章は下手だわ、字は汚いわ・・・で、どうしようもない。
懇親会が始まる前に完了せねば・・・・気は焦るばかり・・・・
同室の役員さんたちからは「大変だねぇ~」と呆れられる。

書き終えた手紙を持ってロビーの土産物売り場に行く。
さて・・・何を送ろうかと悩み続け、ここでも必要以上に時間を浪費してしまった。
ようやく決まって、一気に何箱もお菓子を頼んだので、お店の女の子が唖然・・・・(笑)
ちょうど、通りがかった会員から「いやぁ~凄い数を買うねぇ~」とからかわれる。
ここでお土産代、宅急便代で軽く5万円ほどが消える。(笑)
う~ん・・・買いすぎたか?
いや、お土産よりも宅急便代がかかるんだよなぁ~
一つ一つは大した金額ではないのである。(笑)
安いお菓子なのだが・・・・まとまるとねぇ~(笑)
売り場の女の子が、「たくさん買ってもらったから」とサービスで細々としたものをくれた。
いやぁ~申し訳ない。
そういう心遣いって嬉しいんだよねぇ~(笑)

懇親会開会までに間に合った。
で・・・今日の懇親会・・・
昨日に引き続き、一部のカラオケ好きによる相変わらずのカラオケ大会である。
今日は遺族のある“オバチャン”が酔って歌って大はしゃぎ。
いやはや・・・呆れてしまう。
戦死されたお父様は、こういう姿を見たらどう思われるか・・・
品がない・・・・
余り度が過ぎると「楽しい」「面白い」ではなく「不快感」となる。
仕舞いには・・・・戦死したお父様も同じような品のない人だったのではないかと思われてしまうのでは?
戦死した親の顔に泥を塗ってはいないだろうか?

「さすがに、今日は3時間もはやらないでしょうね?」と役員に釘をさしておいたが・・・
2時間を過ぎた・・・・
またかよ~
高齢者の中にはコックリコックリ居眠りをし始めている方もおられるのだ。
いいかげん“お開き”にしたら?
何度も役員を突っつく・・・・
ようやく、旅行社の“クラツさん”がマイクを持って言った。
その言葉に唖然・・・である。
「部屋に帰りたい人は帰って頂いて結構です!どうぞお帰り下さい!」
そりゃないだろ~
一度ここで“お開き”にして「残りたい方はもう少し残って頂いて結構です」・・・が正しい言い方だろう。
案の定、誰も席を立とうとはしない。
そりゃそうだ、帰りたい人は帰れと言われたら、この懇親会に不満があるとみなされて席を立ちづらいだろう。
なんで、そういう言い方をするかなぁ~
ウーロン茶を取りに行くため拙者が席を立ったら、みんなが驚いた顔で拙者を見た。(笑)
ほらね、やっぱりみんなそういう顔をするよね・・・このタイミングで席を立ったら・・・・(笑)

今日は昨晩欠席した有志による2次会に参加する。
全国を旅していて得なことがある。
それは、拙者が訪れた町の出身者に会った時に話しやすいということがあるからだ。
今回は、長野から参加された初参加の初対面の遺族方と偶然話が盛り上がった。
長野で買った地元新聞社発行の本の話をしたら「あの本を読んだのですか!」と大喜びされて更に話が盛り上がった。
話の内容は、フィリピン戦線とは関係のない満蒙開拓団の話・・・・(笑)
「満蒙開拓団って言っても知っている方がいないので、あなたが知っているとは驚きました!」と大喜び。
長野県出身の満蒙開拓団の本も読んでいたので、なおさら話が盛り上がった。(笑)
これが“親睦”でしょ?
カラオケでは“親睦”にはならないんじゃないの?(笑)

この席で、ある女性会員が除名されたという話を“事務局長”から聞かされた。
その若い女性会員(敢えて名前は秘す)は、「生還者の体験談を是非聴かせてもらいたい」と生還者に近づき、自宅を訪問して取材をするらしいのだが、その取材を通して公表される文章は、かなり偏った見方の「戦争体験談」に仕立て上げられているという。
拙者は実際に彼女の原稿を目にしていないが・・・・
生還者や遺族の一部からかなりヒンシュクを買っていたことは聞いていた。
その彼女を「除名」したという。
一度、会合で彼女を見かけたことがあるが・・・・
生還者だけにいそいそと声をかけて、その後、忽然と姿を消した。
あの女がみんなからヒンシュクを買っている奴か・・・
自分の用件が済めば「ハイ、サヨナラ」では、ヒンシュクも買うだろうなとは思っていた。
“取材”のために入会してきたのだろうから“お手伝い”などをする気はさらさらないのだろう。
若い者は、生還者のために汗を流してお手伝いをすべきだというのが拙者の考えである。
そういうことを通して親しくお話しを聞くという姿勢が大切ではないだろうか?

最近は、こういう「生還者の貴重な体験を後世に残す」と称して“取材”をする若い連中が増えてきているが・・・
どうもその“取材”も“誘導尋問”に近いものらしい。
つまり、どういう話を後世に残したいのかが既に決まっているのだろう。
それに沿うように話を持って行くようだ。
だから、生還者や遺族の一部からヒンシュクを買うのである。
本来ならば、生還者が後世に残しておきたいという話を素直に聞いて残してあげればいいのだ。
聴き手が“誘導”したり“方向性”を決めたり、“取捨”しては失礼だと思う。
よくもそういう輩を入会させてしまったものである。
推薦した会員は誰なんだろう?
それにしても、本当に「除名」したのであれば、前代未聞の話である。
除名した事実と除名した理由を会報で公表して会員に周知させるべきだと思うのだが・・・・
「除名すべきだ!」と怒っていたグループには事務局長も加わっていたようだが、事務局はそこまでは考えていない様子・・・・
う~ん・・・どっちもどっちか?
除名した側も、ちょっと常識に欠けている騒ぎばかり大きな連中だからなぁ~(笑)
ちょっと遅きに失した感はあるが、いずれにせよ、こういう“怪しげ”な輩を排除したことは正解だろう。

日記 | 18:17:51 | Comments(0)
コタンコルクルの像
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コタンコルクルの像

この像は和人入植より遥か昔 白老コタンの礎をを築いた先駆者の偉業を偲び これを永久に讃えるために建立したものです
右手に捧げているイナウ(御幣)はこの地がますます発展し また この地を訪れて下さる多くの方々の旅の安全と幸せをお祈りしております

像の高さ16メートル(奈良の大仏と同じ)
像の幅 7メートル(一番広いところ)
材料  F.R.P(強化プラスチック)

(説明板より)


より大きな地図で コタンコルクルの像 を表示



史跡 | 16:24:26 | Comments(0)
観光
午前8時40分・・・・
朝食後、ホテルのすぐ近くの船着き場から観光フェリーに乗って洞爺湖周遊観光。

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DSC06549_convert_20100731122817.jpg(フェリーから見た洞爺湖温泉街)

船の中では、それぞれが小グループに分かれて座り、あ~でもねぇ、こ~でもねぇと雑談をしている。
得意の自慢話に花を咲かせている。
朝からビールを飲んで「宴会状態」・・・・
拙者はどうしても、そういう輪の中に入る気が起こらない。
というわけで・・・船内でコーヒーを買って飲みながら、喫煙所でタバコを吸って景色を見て楽しむ。

DSC06555_convert_20100731131132.jpg

洞爺湖の中にある島・・・・
ここに上陸して島内を見学するんだとか・・・
ここで膝が痛くて歩くのは辛いという高齢者の“おばあちゃん”たちが下船を拒否!(笑)
皆さん、フィリピン戦線で従軍看護婦だった方々・・・・
「船の中で待っているから・・・」と言うのだが、船はこのまま温泉街の船着き場に戻ってしまうのである。
しかし、それを説明しても理解できないようである。
結局、誰か役員が同行してあげるのかと思ったが・・・そのまま放置・・・となったようだ。(笑)
いつもなら、こういう親睦旅行の時は、拙者は「お世話係」を買って出るのだが・・・・
今回は、そういう気が全く起きない。
どうせ何をしても評価されず、あげくの果ては「差別」されるんだから・・・・
何か事故が起こった時は役員さんたちが責任をとればいい。
事故が起こらないようにと事前に拙者が気を使ってやる必要はあるまい。
結構、拙者はへそ曲がりなのである。(笑)

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島内の何かの資料館を見学するとかというが・・・・拙者は船着き場に残ってタバコを吸い暇つぶしをしながら、やはり見学に行かない参加者とおしゃべり。

次に来たフェリーに乗って戻り、バスに乗って次の観光地である「洞爺湖ビジターセンター」に向かう。
ここに「火山資料館」があるという。
大して広くもない館内だが、参加者は自由行動なのでバラバラ・・・・
一応、館内を歩き回り、参加者の動向を確認する。
おおよその動向を確認しておけば迷子が出た場合探しやすい。

DSC06560_convert_20100731133947.jpg(ビジターセンター)

この建物の裏に「防災施設」がある。
平成12年の有珠山噴火による災害遺構が保存されており、更に砂防・治山・監視の防災施設が配置されている。
皆から離れて一人で展望台へ行き、そこから見学する。

DSC06558_convert_20100731134946.jpg(防災施設)

この後、「サミット資料館」に行く予定だったそうだが、あまり見る価値のない資料館だということで行くのはキャンセルしたという。
まぁ~どうでもいいけど・・・(笑)

昼食は途中のドライブイン・・・
大きなクマのモニュメント。

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店内のお土産屋には韓国人の団体観光客が・・・・
いやぁ~うるせぇ、うるせぇ・・・・(笑)

次に向かったのは「白老ポロトコタン」・・・・アイヌ村・・・である。
大して見るものはなさそうだが・・・・
敷地内を各自自由行動となるが・・・集合時間がハッキリしない。
バスの中で言っていた集合時間が曖昧なのだ。
結局何時に集合なの?
役員に聞いてもハッキリしない。
おい、おい、しっかりしろよ!
結局誰が仕切っているのかわからない。
旅行社の“クラツさん”に尋ねても、曖昧・・・・
結局、みんな知った顔だから迷子になるわけはない。そんなに細かく考える必要はない・・・と思っているらしい。
おかげで、他の参加者から集合時間を尋ねられても曖昧に答えるしかない。
仕方がないよね。引率者が曖昧なんだから・・・
このくらいの時間に集まってくれればいいんじゃない?・・・では、どうしようもない。

DSC06571_convert_20100731144905.jpg(アイヌ村)

園内にほとんど観光客がいない。
閑散としている・・・・
そのうちアイヌ民族のショーが始まる時間となった・・・
すると・・・ドドッと韓国人の団体客がやって来て、そのあと、今度は中国人の団体客がやってきた。
狭い会場は満杯である。
あらら・・・
説明は日本語だが、これを各団体の添乗員が韓国語、中国語でそれぞれ解説する。
一つのお話しの説明も3ヶ国語となると時間がかかる。(笑)
そして、どこの国も同じで・・・“おばちゃん”たちは・・・・うるさい。(笑)

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このあと、拙者は一人で敷地内にある「アイヌ民族博物館」を見学。
そこへ韓国人団体客が・・・・
やっぱり・・・うるさい。(笑)
おい、おい、勘弁してくれよ~・・・・である。

この後向かうは、今日のお宿・・・・登別温泉。
今年の総会は2泊3日なのである。

日記 | 12:14:57 | Comments(0)
お調子者
懇親会・・・・
大懇親会である。
が・・・
場所は座敷・・・・
高齢者は座敷に「座る」のは膝や腰が痛くて無理だと言い出した。
そりゃそうだ。
うちの戦友会でも、拙者はテーブル席で懇親会をするように企画している。
そんなことは常識だろうと思っていたが、これが全然わかっていないとは驚いた。
結局、急遽、テーブルと椅子を用意して、どうしても足が痛くて座れない人だけということで、一部の参加者が部屋の隅に設けた椅子席に座ることになった。
こういう人は、90歳前後の高齢者・・・つまり、生還者たちである。
このため、生還者と遺族が隔絶してしまった!
あ~あ~何よこれ・・・
これじゃ、生還者との交流が出来ないじゃないか。

“ホンマ事務局長”が「さぁ~みなさん!ドンドン歌って!」と早々とカラオケを勧める。
どうして、こう“オバチャン”というのはカラオケをやりたがるかねぇ~
色々な人と会話を楽しむのが本来の懇親会ではなかろうか?

DSC06547_convert_20100729174038.jpg

拙者の右隣りは30代の青年。
話をしてみたら、遺族ではなく、戦史に興味があるので入会させてもらったという。
自称「戦史研究家」・・・・
彼がまた困ったことに、カラオケが始まるたび「おお!加藤隼戦闘隊!ヒュー!ヒュー!」などと奇声を上げるのである。
あのね・・・少しは遠慮したら?
うるさいったらない。
奇声を上げて、完璧に自分の世界に浸って一人で盛り上がっている。
そのうち、自分でもステージに上がって軍歌を得意げに歌い始めた。

他にも戦後生まれの遺族、有志に分類される身内に戦争関係者のいない人・・・・
彼等がまた得意げに軍歌を歌うのである。
拙者はどうしても違和感を感じる。
拙者も軍歌は嫌いじゃないが、好きな連中だけで歌う分には構わないだろうが・・・・
これだけ多くの参加者の中には色々な人がいるわけで・・・
あまり気持ちよく思っていない人もいるんじゃないか?
しかも、戦後生まれの30代、40代がステージに上がって軍歌を歌いまくるというのは、いかがなものだろうか?

カラオケが始まると、延々とカラオケが続く。
うるさくて他の人との会話の邪魔。
高齢者はそうじゃなくても耳が遠いのである。
結局、うるさくて会話にならない。
会話も出来ず、黙々と聴きたくもないカラオケを聞きながら酒を呑み、食事に箸をつける。
こりゃ、拷問だな。(笑)

だいたい、カラオケを歌うのは4~5人しかいないのである。
この、ほんの一部のカラオケ好きのため、何で会話を我慢して延々とカラオケを聞かされねばならぬのか・・・
ムカムカしてくる。(笑)
そうじゃなくとも、拙者は利根川さんが亡くなった事を知って落ち込んでいるのである!
大はしゃぎしている連中を見ていると腹が立つ。
拙者は短気なので、「てめぇら、いいかげんにしろ!」と言いたくなるのだが・・・・
それは「八つ当たり」というものだろうから・・・我慢、我慢・・・・(笑)

マイクを持って自慢話をしたがる遺族がいる。
毎度のことなのだが・・・いかに自分が戦争について調べているかとか、慰霊に何回行ったとか・・・その手の自慢話である。
毎度のことなので、周りからヒンシュクを買っているのだが、本人は気がつかないらしい。
得意顔で延々と語る。

こういう“語り”たがる自慢屋が今回は2名ほどいる。
いずれも常連だから迷惑だ。
大人しく、人の話を聞くということが出来ないのだろうか?

カラオケが途絶え、ようやく少しは周りの人と会話が出来ると思ったら・・・
“ホンマ事務局長”が「ほら!ドンドン歌って!ドンドン歌を入れて!」と煽る。
おかげで休みなしのカラオケショーとなる。
で・・・歌う人は同じ人ばかり・・・

お前らだけでやれよ~・・・・と言いたくなる。
ついに懇親会は3時間に及んでしまった。
嘘だろ~・・・普通は、2時間程度で終わらせるだろ~
高齢者もいるんだからさぁ~
左隣りの役員に「もういいかげんお開きにしてはどうですか?もう3時間も経ってますよ」と伝える。
“仲間外れ”にされた拙者が直接言いに行く筋合いのものではない。
役員を通じて言うのが筋だろうね・・・・常連でも一般会員以下の扱いを受けたんだから・・・(笑)
この役員さんに事務局長に言いに行ってもらったのだが・・・
軽くあしらわれてしまったようだ。
相手がノリにノッている“オバチャン”ではどうしようもなかったようだ。

ようやくお開きとなったが・・・
なんだろう、この懇親会・・・・最低である。
この後、別室で“有志”だけで2次会だという。
同室の親しい役員さんたちから「絶対参加しろよ」と言われたが・・・
拙者は突如我が部屋に泊まることになった初参加者を一人部屋に残すわけにはいかないので部屋に残る。
この方は北海道の方で、遺族ではない。
参加者名簿に「遺骨収集をしています」と書いてあったのでお尋ねしたら・・・・
遺骨収集をしたいなぁと思っているだけで、いまだに遺骨収集はしたことがない・・・という。
こういう自己紹介文はマズイと思うんだけどなぁ~
入会したいがために少し話を大きくしたのか?(笑)

日記 | 17:29:21 | Comments(0)
ちょっと頭に来た!
集合時間前にホテルに着いたが・・・・
誰もいない・・・
やっぱり・・・

今回の大会は北海道在住の会員たちの要望で北海道で開催することになったと聞いている。
が・・・・北海道の関係者は誰も出迎えに来ていない。
本州からやってくる役員を始めとする会員は、今朝、同じ飛行機に乗って千歳に来て、そこからホテルの送迎バスで洞爺湖温泉に向かうスケジュール。
拙者は旅行を兼ねたので別行動にしたのだが・・・
千歳に到着する飛行機の時間から考えると、どう考えても集合時間の午後2時というのは無理なはずなのである。
では、事務局長は一足先に来るつもりでいるのだろうと思ったら、どうもそうじゃないらしい。
受付時間に受付係がだれもいないなんて考えられない行為である。

ホテルの従業員に総会会場に案内される。
この会場の前が受付場所だというので会場内で読書をしながら待つ。
しかし・・・誰も来ない!

さすがにおかしいなと思い、階下のロビーに行ってみたら・・・・
受付が始まっており、一部の会員はすでに浴衣に着替えて温泉に入ってきたという。
「遅いねぇ~!もう、俺たちゃ温泉に入っちゃったよ!」と声をかけられムカッと来た!
一番早く到着したのに、遅刻扱いである!
受付場所は上の階だというから待っていたのに、実際はロビー。
ホテルの従業員め・・・間違ったことを教えやがって!
だいたい、到着したら、総会会場を下見するのは事務局や役員の務めじゃないのか?
誰も上がって来やしない。
だからこっちもわからない。
いい加減な役員連中である。

で・・・受付・・・
渡された名札を見て・・・おや?・・・と思った。
この会は、フィリピンで戦った生還者と遺族の会である。
よって、それぞれの名札には関係した島の名前が書かれている。
「ルソン島」「レイテ島」「ミンダナオ島」・・・・
これで、どの島に関係している方なのかが分かりお互いに話がしやすい・・・という配慮からだろう。
が・・・拙者の名札には島の名前が書かれていない。
拙者の祖父はルソン島で戦った連隊長である。
ならば「ルソン島」と書かれていていいはずなのだが・・・
事務局は何で拙者の名札を名前だけにしたのか?

以前は、こういうことはなかったのだが・・・
“コンドウ会長”“ヤマシタ事務局長”が引退して、遺児たちが中心となって会を継続してから、どうも筋違いなことが多すぎる。
以前は気持ちよく参加できたが、ここ最近は毎回何かしら不愉快な思いをさせられる。
今回の名札一つとってもそうである。
こういう露骨な差別は以前にはなかったこと。
もう、この会に参加するのはやめようかな・・・・
自分たちが決めた受付時間に遅刻して平然としているその神経も理解できないし・・・
一足先に来て万全を期すのが事務局長の務めではないか?
遅れてきてドタバタドタバタ・・・・
仕舞いには「あんた!なんとかして!手伝って!」と来るんだから・・・おかしいだろ?それ?
ドタバタしながら忙しそうに振舞うことで満足しているようだが・・・
そういうのを世間では「不手際」というのである。

受付を終えて一度自分の部屋に向かい、荷物を置いて一休み。
今回の部屋割は役員2名と一緒の部屋。
以前から旧知の仲なので気楽でいいが・・・
そこで、今回の名札について尋ねてみた。
「あんたは遺児じゃないからなんじゃないの?」とのこと。
遺児じゃなければ仲間じゃないというのか?
孫は遺児じゃないから仲間じゃないと言うのか?
ムカッと来た。
こういう差別的名札を作ったのは事務局だよね?
そのくせ、手伝ってくれと事務局の“ホンマさん”は何だかんだと指示して来る。
頼むんじゃなく、ほとんど命令口調である。
おかしいんじゃないの・・・それ?
拙者は毎年参加して、今まで色々と手伝ってきている。
それで、この差別はなんだ?
頭に来た!
わざわざ北海道まで来るんじゃなかった・・・・と後悔。

DSC06544_convert_20100729161455.jpg(部屋の窓から見た洞爺湖)

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ふと、気がつくと・・・窓の外に鳥が・・・
餌をもらえると思ってなのだろうか?
部屋の中を覗き込んでいる。(笑)

DSC06546_convert_20100729153833.jpg(総会)

総会の席で“ホンマ事務局長”から「いつもお孫さんと参加されていたおじいさんが先日突然亡くなりまして・・・今回も参加するつもりだったそうですが残念です」との報告があった。
しかし・・・「ある人が亡くなった」では報告になるまい?
誰だ?
もしかして・・・利根川さんじゃあるまいな?
いつもお孫さんと一緒に参加されていた・・・というなら利根川さんのような気がする。

懇親会の席で“ホンマ事務局長”に尋ねてみたら、やっぱり利根川さんのことだった・・・・
それならそうと、ちゃんと名前を言べきだろう。
参加されている皆様にちゃんとお教えするのが礼儀ではないか?
ただの「おじいさん」という言い方は失礼ではないか!

それにしても、ショックだぁ~!!
毎回お会いしていたが・・・たしか93歳ぐらいになられていたと思う。
今回は北海道だから来れないだろうなぁ~と思っていたが、来るつもりだったんだ・・・
あ~もう、お会いできないのかぁ~
いい「おじいちゃん」だった・・・
拙者の母が亡くなった時には暖かい励ましのお手紙を下さった。
実の祖父を亡くしたと同じくらいショックである。

昨日、札幌駅からお土産を各地に送ったが・・・
この会の会員で今回参加されない方には、開催地の温泉地からお土産をお送りしようと思っていたのである。
利根川さんもその一人・・・・
あ~あ~・・・ため息しか出ない・・・・

日記 | 14:23:07 | Comments(0)
洞爺湖温泉に向かう
今日は洞爺湖温泉で『曙光会』の大会がある。
9時過ぎホテルをチェックアウトしてタクシーで札幌駅に向かう。
車内での会話・・・・
「これから道後温泉(どうごおんせん)に行って、また札幌に戻って来て、茨城に帰るんですよ~」
「へぇ~そりゃ大変ですねぇ~」
「いやぁ~大したことないですよ」
「愛媛に行って・・・ねぇ~・・・そりゃハードですね」
「愛媛?」
「ええ・・・松山でしょ?これから松山に行くんですよね?」
「え?なんで?」
「道後温泉でしょ?」
「ん?あれ?・・・・俺・・・道後温泉って言いました?」
「ええ、おっしゃいましたけど・・・」
「あれ?違う・・・あれ?俺、どこへ行くんだっけ?」
「はぁ?」
「え~と・・・どこだっけ?・・・どうごおんせん?・・・ちがう・・・あっ、洞爺湖(とうやこ)だ!」
「洞爺湖!洞爺湖ね~(大笑)」
「どうして道後温泉って言っちゃったんだろ?道後じゃ松山ですよね?」
「そう、だから松山に行ってまた札幌に戻って、それから茨城に帰るというのは凄いなぁと思ったんですよ。(笑)」

馬鹿丸出しである!
どうして「洞爺」が「道後」になっちゃったんだろ?
かなり疲れが溜まっているのか?(笑)

DSC06532_convert_20100729103113.jpg(札幌駅)

札幌駅から洞爺駅までJRで移動。
特急で約1時間半。
お昼すぎに洞爺駅に到着・・・
しかし・・・あれ?
なんという田舎・・・・!!

DSC06536_convert_20100729105523.jpg(JR洞爺駅)
DSC06537_convert_20100729105916.jpg(駅前大通り)

これが「駅前大通り」なのか!
うそぉ~!!
どこが大通り???
洞爺湖は観光地だから、洞爺駅前はさぞかし賑やかなのだろうと思ったら・・・・拍子抜け・・・(笑)
駅前から、到着する列車に合わせて温泉行きのバスが出ているようだが、これには乗らない。
このまま真っすぐ温泉に行ったのでは面白くないではないか?
この閑散とした駅前で少し時間をつぶしてみることにする。
で・・・駅前の食堂に入って昼食を・・・・

DSC06543_convert_20100729112933.jpg(駅前)

営業しているのかしていないのかわからないという食堂で昼食・・・・(笑)
カツ丼を頼むが・・・・
これがなかなか“変わったカツ丼”でして・・・
日本全国のカツ丼を食べ歩きするが・・・こういうカツ丼にお目にかかったのは初めてである。(笑)
簡単に表現すると・・・拙者が見よう見まねで作ったら、こんなのが出来ちゃいました~・・・というようなカツ丼なのである。(大笑)

DSC06538_convert_20100729113824.jpg

お昼だというのに客は拙者一人・・・・
いつもこんな調子だと食堂のおばさん。
「昔は私らが食事する暇もないくらい忙しかったんですよぉ~」から話が弾んで・・・・
この“おばさん”が嫁いだ時から今日までの話だから・・・話が長い!途切れない!(笑)
カツ丼の出来は別として・・・(笑)、この“おばさん”との会話は楽しかった。
昔の賑やかだった良き時代の話しやら火山の爆発で避難した話やら・・・・
あっという間に時刻は1時・・・
さて、近くを散策してから温泉に向かうかぁ~
「この辺りを散策してから温泉に向かおうと思うので・・・それじゃ!」
「あ~そっちに見えるのは、あれは洞爺湖じゃないからね」
「え?あの・・・この道の先に見える海岸ですね?」
「そう、あれは洞爺湖じゃないから。よく観光客が勘違いするのよ~。こんな近くに洞爺湖があるって・・・あれは海ですから!」
「ですよね?洞爺湖って反対側の山の向こうですよね?」
「そう!あれは海だからね!」

ということで・・・海に行ってみた。
駅から「駅前大通り」という“ごく普通の道幅の道”を200mほど歩いた突き当たりが海岸。(笑)

DSC06539_convert_20100729115935.jpg

全然波が打ち寄せて来ない静かな海・・・・
なんとも寂しい感じである。
我が家の近くも海岸だが・・・全然違うんだよなぁ~
波がドドッと打ち寄せて来ないと海っていう感じがしない。
洞爺湖と勘違いする人がいてもおかしくないか?(笑)

他に見るべきものもないので、駅前からタクシーで洞爺湖温泉に向かう。
今回はタクシーを多用する贅沢な旅である。(笑)

洞爺湖湖畔にホテルが並んでいるが・・・閑散としている。
しかも、廃墟と化した建物もある。
有名な観光地だと思っていたのだが・・・
タクシーの運転手さんの話では、最近は中国人の観光客が増えたという。
中国人の団体客ばかりが宿泊しているホテルもあるとか・・・・
今日の宿がそういうホテルじゃないことを祈る。(笑)

旅行 | 10:12:10 | Comments(0)
北海道大学正門
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北海道大学正門

建築年:1936(昭和11)年
構造:鉄筋コンクリート造
設計:北海道帝国大学営繕課(落藤藤吉)
施工:木田組

1936年の行幸および陸軍大演習大本営の設置を機に、垂直性の強い幾何学装飾を施した意匠としている。
北大営繕課内部で募集した30点余の応募案から優秀案を基礎に、営繕課長落藤藤吉が設計し直した。
高さ4.5mの側(そば)柱は花崗岩張り。
門と同時に木造塀が鉄筋コンクリートタイル張りの塀に変更された。
現在の石積みの塀は1967~1973年に改修。

(説明板より)


より大きな地図で 北海道大学正門 を表示


史跡 | 22:53:36 | Comments(0)
札幌を歩く(3)
時刻は午後3時を過ぎた・・・
「テレビ塔」の近くでタクシーを拾い、北海道大学へ向かう。
ここにクラークや新渡戸稲造の銅像があったと思うので・・・・行ってみた。
タクシーは構内の奥まで入って行く。
あらら・・・結構、構内って広いんですねぇ~
「クラーク会館」の近くにクラークの胸像があった。
ここでタクシーを降り、写真撮影・・・・
で・・・タクシーを帰してしまったのはいいが・・・ここは・・・どこ?
広すぎてわからない。(笑)
大学の構内を部外者の観光客がウロウロして良いものだろうか・・・
少々心配になったが、他にも観光客らしき人達が歩き回っている。
ん?この大学は観光地になっているのかな?(笑)
いいのかな?勝手に歩き回って・・・・

さて、次は、新渡戸稲造の銅像だが・・・
案内板がちゃんと出ていたので、すぐにわかった。
近くに「ポプラ並木」がある。
「ポプラ並木」ねぇ~・・・・そういえば北大のポプラ並木って聞いたことあるなぁ~

DSC06490_convert_20100727115053.jpg(ポプラ並木)

説明板によれば、明治45年に学生たちによって植えられたらしい。
加えて、これより先の立ち入りは禁止と書かれているのだが・・・
なぜか・・・観光客が立ち入っている!
いいのかね?俺しらねぇ~よ。

さて・・・タクシーで乗り付けたのがマズかった。
どこから入ってきたのか覚えていない。
え~と・・・どうすれば外に出られるんだ?(笑)
広大な敷地をテクテクと歩く・・・・
散々迷ったあげく、ようやく外にでた。
すでに20分以上も歩いている。
が・・・ここはどこ?(笑)
塀に沿って歩くことにする。

すると、偶然にも正門前に辿り着いた。
やっぱり、一度は正門から入ってみなければなるまい!
ということで、もう一度今度は正門から大学構内に入ってみる。(笑)
北海道帝国大学初代総長の佐藤昌介の胸像を発見!

今度は徒歩で駅まで向かい、駅構内の土産物屋でお土産を買う。
実は、昨日のうちにサラッと下見をしておいたのである。
で・・・戦友会関係の知人、戦友や遺族に何か送ってあげようと思い、昨晩のうちにそれぞれに簡単な手紙も書いておいた。
これを同封して一気にドドッと宅配便でお土産を送るのである。
総額で9万円にも及ぶ。
これじゃ、もう1回、北海道に来れるんじゃないか・・・というほどお土産にお金を使ってしまったが・・・
突然、北海道からお土産が届いたら、“おじいちゃん”“おばあちゃん”たちは喜んでくれるんじゃあるまいか?
「今度は北海道ですかぁ~!」と笑ってくれるんではあるまいか?
お金の問題ではないのである。
お中元やお歳暮という決まった時期に何かが届くというより、ある日突然・・・というほうがおもしろいではないか?
さすがの高額の買い物にお店の人も呆れていた。
昨日、相談に乗ってもらった店員さんも、まさか翌日にまた拙者がやってくるとは思っていなかっただろう。
どう冷やかし程度だと思っていたに違いない。
が・・・そこは拙者のやることである・・・他の観光客とはちょっと違うのだ。(笑)
さすがに日本全国へ送るので、宅急便の伝票を書くのが大変だった。

さて、お土産も送った事だし・・・・
どうしようか・・・
札幌には地下鉄があるので、これに乗ってみようか・・・
というわけで、ホテルまで地下鉄に乗って行くことにしたが、降りる駅がわからない。
中島公園で降りれば、あとは歩いて帰れるだろう。(笑)
一度、歩いているから、方向音痴でも何とかなるだろう。

中島公園に到着して、ふと忘れていたことを思い出し、もう一度札幌護国神社に行く。
実は、午前中、慰霊碑の碑文を書き写していた時に、1ヶ所だけ慰霊碑の写真を撮っていないものがあったのである。
ちょうど慰霊碑のお掃除をしていたので、写真を撮るのを遠慮していたのだが、もう夕方だから、お掃除も終わったのではあるまいか?
時刻は午後6時20分・・・・
なんとか撮影できそうな明るさなので、この慰霊碑の撮影に再度向かう。

その帰り、中島公園の中を突っ切ってホテルに向かうが・・・・
偶然、「木下成太郎先生」の銅像を見つける。
朝倉文夫の作品である。
やはりこの方の作品はリアリティーがあるなんともいい銅像である。
さすがに薄暗くなりかけていたので、あまりいい写真が撮れなかった。
いやぁ~残念!
午前中に、ここを歩いた時に気が付いていればいい写真が撮れたのになぁ~

午後7時ホテルに戻り、今日の“旅”は終了・・・

旅行 | 21:26:34 | Comments(0)
自殺した野村君のこと
今から25年前に自殺した大学時代の同級生・・・・
野村智・・・・
彼とは初対面早々で大ゲンカをした。
確か、彼が「経営者というのは労働者から搾取して生活している」というようなことを口走ったことが発端だったと思う。
彼の親父は労働組合の委員長。
当然、彼はその影響を受けていた。
対する拙者は中小企業の経営者の息子。
しかも拙者は自他共に認める右翼・・・・
水と油の関係である。
しかし、その後、なぜか仲が良かった。
同級生からは「右翼と左翼がなんでそんなに仲がいいんだ?」と呆れられたが・・・
初対面の大げんかの末にわかったことは、お互いに思想の話しさえ持ち出さなければ気が合うということである。
そこで思想の話には封印をする事にした。
おかげでそれから4年間はいい関係が続き、その間、一度も左翼だの右翼だのという言葉はお互いの口からは出なかった。

卒業まじかに彼のゼミのゼミ長が自殺した。
卒業も就職も内定していて恋人もいたのに・・・・
なんで自殺する必要があったのか?
アパートの一室でガス管を口にくわえての自殺だった。
発見者は、北海道から上京して来た父親である。
多分、父親と何らかの確執があり、親父がアパートに来る前に死なねばということで前夜に行動を起こしたと思われる。
その話題から、お互いに自殺について語り合った。
確か、吉祥寺の商店街を歩いていた時だったと思う。
拙者は自殺肯定者だが、彼は自殺否定者だったので、意見が合わない・・・・
「いずれにせよ、お前が自殺する時は事前に連絡しろよ。話しておきたいことがあるんだから」と言ったら、「俺は絶対自殺なんかしねぇよ~(笑)」と彼は答えた。
「自殺を思いとどまらせることはしないから、必ず死ぬ前に連絡するんだぞ」と言ったのを憶えている。
なんで、そんなことを言ったのか自分でもわからないが・・・

彼の父親が突然倒れて入院したことがあった。
あれは・・・週末の夜のことである。
北海道に帰るのに金がないので金を貸してくれと言ってきた。
当時ATMは平日の昼間しか稼働していなかったので金を引き出せなかったのである。
「1軒1軒友人の下宿を訪ねて少しづつ金を借りようと思っている」と言う。
拙者は昼間に1週間分の生活費を降ろしたばかりだったので、それと有り金を全部渡した。
5~6万円くらいあったと思う。
「1軒1軒訪ねていたのではキリがない。金は多くて困るものでもないから、これを持って明日の朝1番の飛行機で北海道へ行け」と言って帰した。
と・・・かっこいいことを言ったはいいが・・・・こちらは1文無しとなってしまった。(笑)
おかげで月曜日まで空きっ腹を抱える羽目となる。
大学4年間で、ひもじい思いをしたのはこの時1回だけである。
ある意味、いい思い出である。

彼の姿を最後に見たのは大学の卒業式。
卒業式直後、荷物を持って成田に向かい、友人と「卒業旅行」と称してグアムに行く時だった。
この「卒業旅行」には彼も参加するはずだったが、彼は「鬱に入った」と言ってドタキャンしたのである。
式後、友人たちと談笑している彼に声をかけたら「おお!気を付けて行って来いよ!」と振り返りざま手をあげて応えた彼の姿が今でも忘れられない。
友人は「鬱って言っていたけど元気じゃねぇか~なんであいつキャンセルしたんだ?」と言う。
拙者は、その時、野村は自殺するんじゃないかと漠然と思った。
なぜそう思ったのかはわからない・・・・

卒業して初めての正月・・・・
野村から年賀状が届いた。
「ぜひ会いに来て下さい」という1行しか書かれていない年賀状だった。
この時点ですでに精神的に参っていたのだろう。

1985年4月28日・・・・
夜10時に拙者の部屋に白いボ~ッとしたものが立った・・・・
以前にも経験があるが、死んだ誰かが会いにきたに違いないと思った。
しかし、思い当たる人物はいない。
ハッキリと顔が見えるわけじゃないし、声が聞こえるわけでもない。
そこに「いる」というのがわかるだけ・・・・
今迄は、こういうのが見えてしばらくすると訃報の電話が鳴ったのだが・・・
この「白い物体」は午前2時に消えた・・・・
4時間も俺の部屋にいて何を伝えたかったんだろう・・・・
その後どこからも電話がかかって来なかったのも不思議だった。
ということは・・・親戚ではないな・・・・
その時は、このくらいしか思わなかった。

そんなことがあったことをすっかり忘れてしまった4月30日の夕方4時過ぎ・・・
拙者の会社に大学時代の同級生の“ハヤミ”から電話が来た。
「卒業して、いきなり電話がかかってくるということは・・・結婚式か葬式だろ?卒業してすぐに結婚する奴はいないだろうから・・・葬式か?誰か死んだのか?」
「なんだ~もう連絡がいってたのか~」
「いや・・・そうじゃないけど・・・誰だ?」
「野村だよ。野村が自殺した」
この時に思い出したのだ!28日の夜の出来事を・・・・
「自殺したのは3日くらい前か?」
「なんだよ~やっぱり知ってるんじゃねぇかぁ~」
「いや・・・そういうわけじゃないんだけど・・・」

やっぱりそうかぁ~
あの日、拙者の部屋に4時間もいたのは野村だったのか・・・
死ぬ前に連絡しろって言っておいたのに、死んでから会いに来たのか・・・
死んでから拙者の言ったことを思い出して会いに来たのか?
馬鹿野郎である。
こっちは霊感が弱くて姿も見えなきゃ声も聞こえない、会話も出来ないというのに・・・・

友人の話では札幌のどこかのビルから飛び降り自殺をしたらしい。
会社の人間関係がうまくいかず愚痴めいた手紙を友人たちには届いていたという。
拙者には「ぜひ会いにきてください」の1行しか書かれていない年賀状だけである。
弱音を吐いたら「だから左翼は駄目なんだ」と拙者に馬鹿にされるから書くに書けなかったんだろう。

今回札幌に来てから野村のことを思い出した。
彼の墓参りを今回の旅の予定に入れておかなかったのは失敗だった。
彼のアパートの住所を控えてくるのを忘れていた。
25年前のことだから、このアパートが今もあるかどうかはわからないが・・・
実家の住所は知らない。
事前に興信所にでも頼んで調べてもらえば・・・と思っても後の祭である。
もし札幌にお墓があるならお参りしてやりたかった。
彼が自殺した現場はどこなのかわからない。
地元の当時の新聞を調べれば、どのビルから飛び降りたのかはわかるかもしれない。
しかし、25年も経ってから現場に花束など置かれたら、ビルの持ち主は迷惑だろう。
図書館へ行って新聞記事を調べるのは諦めた。

野村よぉ~
お前が死んだ後に「バブル景気」がやって来たんだぞ~
お前が勤めていた金融機関なんかは破格のボーナスを支給したんだぞ~
なんで死に急いだんだ?
馬鹿な奴だ。
バブル景気のいい思いを経験してから死ねばいいものを・・・・

しかし、北海道に来たのに、お前の墓参りを忘れていた俺のほうがもっと馬鹿か・・・
許せよ・・・・野村・・・

日記 | 14:56:29 | Comments(0)
札幌を歩く(2)
「札幌市資料館」の前からスタート。
資料館の内部を見学したい気もあったが、時間がもったいなさそうなので諦める。
ざっと見た感じでは、この「大通公園」はかなり細長い公園のようだが、とにかく「テレビ塔」に向かって歩く。
しかし・・・不思議だ・・・
今日は平日の水曜日である。
しかも時刻は午後2時を過ぎて「お昼休み時間」はとっくに終わっているはずだとおもうのだが・・・
公園のベンチにはスーツ姿のビジネスマンなどがくつろいでいるのである!
仕事はどうなっているんだろ?
この人たちは仕事をサボっているのか?(笑)
それにしてはずいぶん堂々としたサボり方ではないか?(笑)
わからん・・・
公園のベンチでくつろぐほど暇なのか?

黒田清隆の銅像、ケプロンの銅像を発見!
ベンチに座って仕事をサボっている(?)サラリーマンたちから奇異な目で見られながら写真を撮る。(笑)

DSC06458_convert_20100724112403.jpg(大通公園)

吉井勇の歌碑や石川啄木の銅像と歌碑などを見つけ写真を撮るが・・・
面白いことに、こうやって写真を撮っていると人が集まってくるのである。
普段は銅像や碑石などには興味もないのだろうが、何事かと思うんだろうねぇ~(笑)

公園を歩き始めて約40分後、ようやく「札幌テレビ塔」の下に到着する。

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テレビ塔に「パナソニック」の看板が・・・・
そういえば大阪の方は「日立」だった気がする。
東京タワーには家電メーカーの看板なんてなかったよな?

せっかくここまで来たので、展望台まで上がってみることにする。
なぜかエレベーターに乗っている乗客は拙者一人。
ガイド兼エレベーター嬢と二人きり・・・・(笑)
テレビ塔に関する説明などを受けるが、なんとも気恥かしい。
彼女も乗客一人ではやりづらかっただろうが・・・(笑)

DSC06472_convert_20100724114255.jpg(テレビ塔から見た大通公園)

向こうの山の方が円山公園か?
結構歩いたなぁ~(笑)

テレビ塔の「お土産屋さん」で、売店の女の子と雑談をしながら妹へのお土産を買う。
塔の真下のコーヒーショップでコーヒーを飲んで休憩。
ずっと歩き続けていたので、さすがに疲れた。
こう疲れると、自制心というものがなくなるらしい・・・(笑)
お店の女の子と冗談話などをしてしまうのである。

ふと・・・大学時代の友人を思い出した・・・
「野村智」・・・・
25年前に自殺した友人である。
確か札幌に住んでいたはずだが・・・
もし彼が生きていれば「飯でも食おうか?」と25年ぶりに再会できたかもしれない。
あいつも、ここに来て、この景色を見ただろうなぁ~
大通公園を散策したこともあっただろう。
どこからか「よっ!」と彼が声をかけてくるような気がしてならない。
変な錯覚にとらわれてしまった。
「お互いに歳をとっちまったなぁ~」と笑い話が出来ないのが残念である。

旅行 | 13:04:15 | Comments(0)
樺太開拓記念碑
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碑文

樺太は古来わが蝦夷地の一部としてカラトの島と呼ばれ 経営の歴史は16世紀の昔に遡る
1593年豊臣秀吉から松前 蝦夷地の支配を許された蛎崎氏は のちに松前藩となり 1679年から藩士を出し 久春古丹(大泊の楠渓)に陣屋を設けて統治の端を開いた
以来約130年間藩政は定着し邦人の出漁も次第に増えた
ところが1806・7年の両年にに亘りロシアのフォーストフらが久春古丹や留多加を襲うに至って 幕府は樺太を直轄して自ら守ることとなった
このころから幕吏や憂国の士の樺太探検があいつぎ 1808年松田伝十郎 間宮林蔵が北樺太を究めた功績は間宮海峡の名と共に不滅である
その後ロシアのネヴェルスキーらが 久春古丹に進駐した(1853)が 翌年長崎会談の結果撤退した
つづいて日露通好条約ができ(1855)国交は約20年間安定した
しかるにロシアは軍艦の威力を示して東進を迫るに至り 明治新政府内外の多端に追われて 樺太を貧小18の千島と交換せざるを得なかった(1875)
さらにロシアの進路は満鮮に転じて国交はいよいよ緊迫し 遂に日露の開戦となった(1904)
幸い戦は日本の大勝に帰し 翌年両国はポーツマスに会して和を講じ 漸く樺太の南半を回復したのである
以後40年間われらの父祖はここを墳墓の地と定めて 不毛に挑み酷寒に抗し 心血を注いで殖産を興し 制度を整え文教を進めて近代樺太を築き上げた
かくて島民待望の内地編入が行なわれ 年間の総生産額は4億円に上り人口は40万を算した
この宝の島が1945年(昭和20)大東亜戦争も末期となった8月9日未明からソ連軍の進撃するところとなり 翌年ソ連はその領有を宣言したが 米英等48ヶ国は対日平和条約(1952)においてそれを認めず 日本に放棄された樺太と千島18島の帰属を定めなかった
われらこの史実を辿り北辺の開拓と守りは挺身した幾多先人の功績と犠牲を思えば 痛恨愛惜切々としてつきない
ここに樺太40万引き揚者の赤誠を結集して不朽の碑を建て 先覚の偉大な功績を顕彰すると共に 開拓の途上に散華した幾万諸霊の冥福を祈る標となし もって民族の行路に一灯を掲げるものである

昭和48年8月23日
社団法人 全国樺太連盟会長 梅内正雄
元樺太庁長官 小河正儀         共撰

(碑文より)



癖のある読みづらい手書き文字をそのまま刻ざんだ碑文です。
多くの方に碑文を読んでもらおうという気がないのか?
判読し難い文字の書き写しには散々苦労させられました。
不愉快極まりない碑文です。(怒)




より大きな地図で 樺太開拓記念碑 を表示


史跡 | 11:49:34 | Comments(0)
豊平館
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豊平館

明治文化の薫りが漂う豊平館は、明治31年に現在の中央区北1条西1丁目に北海道開拓使直属の洋風ホテルとして、開拓使工業局営繕課の直営工事によって建築されました。
明治14年8月30日から4日間、明治天皇北海道行幸の行在所にあてられ、この日をもって開館日とし、同年11月に民間人に貸付られ、「ホテルと西洋料理店」が営まれることになりました。
明治44年の皇太子殿下(大正天皇)、大正11年の摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓の宿泊所ともなった豊平館は、明治43年に宮内省から札幌区が貸下げを受け、公会堂としての公共的機能を持つようになり、大正11年には札幌市の所有になります。
そして、昭和2年には新公会堂が豊平館の後方に接続して完成し、文化活動の拠点となりました。
昭和33年には市民会館建設のため、現在地の中島公園に移築され、市営総合結婚式場として新しい人生の門出を祝う施設となりました。
昭和39年、国の重要文化財に指定され、その後、老朽化と移築などで創建時の姿が損なわれたこともあり、昭和57年から5年計画で、修復事業に着手し、同61年に展示などの館内設備も併せて完成しました。
この修復された豊平館の見どころのひとつは、白い外壁を縁どるウルトラマリン・ブルーで、創建当初の状態に復元したものです。

(リーフレットより)


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建物 | 10:34:55 | Comments(0)
札幌を歩く(1)
今日は札幌護国神社に参拝するのがメイン。
そのためホテルはできるだけ護国神社の近くにあるホテルにした。
繁華街のススキノから少し離れているが、昼間の行動に便利な場所に宿泊した方がいいということで、このホテルに決めたのである。
札幌では2泊の予定。
2泊連泊としたので、荷物は部屋に置きっぱなしで出掛ることができて便利である。

午前9時、ホテルを出て「中島公園」を抜けて「札幌護国神社」に徒歩で向かうことにした。
中島公園の中に洒落た洋風の建物が・・・
「豊平館」という重要文化財の建物だそうだ。
内部の見学が出来るようなので、早くも道草を食うこととなる。(笑)

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午前10時、公園の外れの道の向こうにパッとしない神社が・・・(笑)
「札幌護国神社」である。
早速お参りをして、境内の一画にある「彰徳苑」内の慰霊碑を見る。
思った以上の数の慰霊碑に感激!
しかし・・・写真に撮れない碑文は全て手書きで書き写さねばならないのでやたらと時間ばかりがかかる。

DSC06278_convert_20100723163641.jpg(護国神社入り口)
DSC06370_convert_20100723164022.jpg(彰徳苑)

慰霊碑碑文の書き写し等で丸々1時間もかかってしまった!
いやぁ~さすがにキツイわぁ~

護国神社を出て、タクシーを拾い「北海道神宮」に向かう。
とりあえず参拝をして・・・・
時刻は11時半。
どこかで昼食を食べねば・・・と思ったが、それらしき店が見当たらない。
茶店でも喫茶店でもいいいんだけど・・・・
駐車場の一角にレストランのような建物があったので入ってみたら、豆腐料理の専門店だった。(笑)
ここで食事するしかあるまい。
他の店を探す時間の余裕はない。
ここで一服といきたいところだったが・・・案の定、店内は禁煙!
我慢するしかない・・・・

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豆腐料理はヘルシーということで店内は“オバチャン”たちばかり・・・
男の客は拙者だけ・・・・
なんとも恥かしい。
確かに豆腐料理はヘルシーなのだろうが・・・どうも満腹感がない。(笑)
豆腐料理を食べながら、ふと、豆腐屋の“ムラタくん”を思い出した。
何か彼の商売に役に立つ情報でも・・・と思ったのだが・・・
この味をどう相手に伝えればいいのか・・・
こりゃ、自分で食べなければわからんな。

食後、再び北海道神宮に戻り、境内にある島義勇の銅像を撮影。
北海道神宮は「円山公園」の中にあるのだが、この公園の中には他にも銅像がいくつかあったはず。
しかし、かなり広い公園なので、こりゃ探すのに時間がかかりそうだ。
勘だけを頼りに公園内を散策する。
30分ほどウロウロ探してようやく岩村通俊の銅像を発見!(笑)
北海道庁の初代長官である。
更に20分ほどウロウロしたが、他に銅像は見つからない・・・・
ん?銅像は1つだけか?
時刻は午後1時半・・・・
そろそろいいかげん別の場所に移動した方がよさそうである。
ここから徒歩で「大通り公園」に向かうことにする。

地図を見ると、円山公園からかなり離れているようだが・・・
ここは運動の為、少し歩いたほうがよさそうである。
40分以上歩いてようやく大通り公園の端に辿り着く。
この公園内にも銅像がいくつかあるらしいが、この細長い公園のどこにあるのかは知らない。
とにかく端から端まで歩いて探すしかあるまい。(笑)

旅行 | 09:47:38 | Comments(0)
ブラキストン顕彰碑
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ブラキストンラインとは、動物学上の津軽海峡の呼稱であり、この海峡を境にして動物の分布は南北で異なることを発見した英国人T.W.ブラキストン(1832~1891)の名によるものである。
ブラキストンは函館開港直後の1861年より約23年間この地に在留し、貿易を営み、傍ら鳥類の採集研究に努めた。
この世界的業績は、津軽海峡と共に永遠に残るであろう。

1960年6月建立
函館青年会議所
函館J.C創立10周年
日本JC第9回北海道地区会員大会 記念

(碑文より)


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史跡 | 21:25:58 | Comments(0)
土方歳三最期の地
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土方歳三最期の地

新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後新撰組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。
明治元年(1868年)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、函館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職についた。
翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・大野町)だけは最後まで落ちなかった。
しかし、同年5月11日、ついに函館も政府軍の手に落ちた。
土方は函館奪回を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て函館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。
時に35歳であった。

函館市

(説明板より)


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史跡 | 18:01:27 | Comments(0)
宇須岸河野館跡
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宇須岸河野館跡

享徳3年(1454年)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。
政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは、東西35間(約126m)、南北28間(約100m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾濠をめぐらしていたといわれる。
この「河野館」に由来して、「函館」という地名が生まれたと伝えられている。(明治2年「函館」と改称された。)
永正9年(1512年)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、函館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。
函館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、函館港の繁栄が顕著になっていった。
次いで寛保元年(1741年)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799年)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802年)函館奉行が置かれ、この地に函館奉行庁舎も築かれ、函館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって函館は大きく発展した。
函館奉行庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は函館の行政の中心地であった。

函館市

(説明板より)


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史跡 | 16:16:50 | Comments(0)
函館を歩く(3)
昼食を食べているうち雨も小降りとなりポツポツ降る程度となる。
よし!今のうちだ!
「元町公園」を下り、「ペリー広場」のペリーの銅像を撮影。
その後、タクシーで「若松緑地」へ向かい「土方歳三最期の地」に行く。
「最期の地」と言われてはいるが、運転手さんの話では、本当に最期の地だという確証はないのだそうだ。
とりあえず、ここではあるまいか・・・ということらしい。
時刻は午後1時40分・・・・
さて、どうしようか・・・・とにかく駅に向かって歩いてみる。
途中で、ふと思いついた。
空が少し明るくなったんだから・・・・もう一度、石川啄木の銅像の写真を撮り直すかぁ~
タクシーを拾い「啄木小公園」へ・・・
しかし・・・やっぱりうまく撮影できない。(笑)
まぁ、昨日よりは少しはいいか・・・という程度である。

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待たせたタクシーでホテルに戻る事にする。
もうこれ以上見るべきところはあるまい。
ホテルに戻って借りた傘がボロボロになったので捨ててしまったことを謝罪して、預けておいたカバンを受け取りラウンジでコーヒーをいただき一休み・・・・
と・・・霧のかかっている函館山のロープーウェイが動いているのが見えた。
ん?運航しているのか?
フロントで確認してもらったら、運行を再開したとのこと。
行かねばなるまい!函館山!
「でも、霧で何も見えないんじゃないでしょうか?」とフロントの女の子・・・・
景色?景色なんてどうでもいいのだ!(笑)
この函館山の頂上には伊能忠敬が北海道で最初の測量をしたという記念碑があるらしいのだ。
その写真を撮るためだけに行くのである。
目的はそれだけ。(笑)
景色なんてどうでもいいのである。(笑)
また再びカバンをフロントで預かってもらい、タクシーに乗って函館山のロープーウェイ乗り場に向かう。
このあたりは、昨日、今日と2日間もウロウロした場所。
方向音痴の拙者もようやく、ここが町のどのあたりか分かって来たぞ。(笑)

函館山ロープーウェイは全長836.06m・・・・
高低差は278.5m・・・
運転時間は3分。
ゴンドラの最大乗車人数は126名だが・・・・

DSC06199_convert_20100721144338.jpg(ゴンドラの内部)

乗客は・・・拙者一人!!
ガラ~ン!
そりゃ、そうだろうなぁ~
この天気じゃ、山の頂上に行こうなんていう奴がいるわけない。(笑)

時刻は午後3時になる。
やっぱりねぇ~
下界は真っ白!
何も見えない・・・(大笑)

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ロープーウェイ頂上駅周辺を歩き回り、伊能忠敬の記念碑を探すがなかなか見つからない。
ようやく見つけたら・・・
なんと!建物の壁にはめ込まれているプレートだけだった。
なんだ・・これ・・・
たった、これだけ?(笑)
霧雨が強く降り始めてきた。
ここには「函館要塞」の遺跡もあるようなのだが、この雨の中、スーツ姿で山の中を歩くのはやめよう。(笑)
いつかまた函館に来ることもあろう。
土産物屋を覗いて、すぐに山を降りることにする。
用件はあっという間に済んでしまった・・・・

帰りのゴンドラでは修学旅行生と思われる数名の生徒と数名の引率の教師たちと一緒。
拙者はゴンドラの先頭に陣取って外の景色を見ていたが・・・
後ろにいた女子生徒たちが前の方に移動してきて外の景色を見たがった。
それなら・・・どうぞと席を譲ったのだが・・・
「え!えっ!え!」と言うばかり・・・
だから・・・「景色が見たいんでしょ?どうぞ前に来て見たら?おじさんは後ろに移動するから」
ところが「え~!」と言うばかり。
場所を代わってやったが・・・ありがとうございます・・・の挨拶もない。
あのな・・・御礼を言えよ!
引率の教師たちはニヤニヤしているだけ。
ひとを小馬鹿にしたような顔をして拙者を見ている。
場所を譲った“変なオヤジ”・・・と思っているのか?
外見で人を判断するのか?
引率教師なのに「ちゃんと御礼を言いなさい!」と生徒たちに指導しないのか?
生徒が御礼を言わないのなら、お前らが御礼を言うべきじゃないか?
これが“修学旅行”かい!
教師のレベルが低いんだよなぁ~
頭に来た!!!(怒)

以前、奈良を旅行した時にも修学旅行生の傍若無人ぶりを見て見ぬふりして、おしゃべりに興じている教師たちに腹が立ったことがあったが・・・
ここでも同じかぁ~
だから修学旅行の団体は嫌いなのである!
旅先でのコミュニケーションも作れないのなら何の勉強にもならない。
修学旅行など無くした方がいいんじゃないか?
修学旅行はアベック教師のデート旅行ではないはずである。

ロープーウェイ駅からタクシーでホテルに戻りカバンを受け取って駅に向かう。

DSC06217_convert_20100721152844.jpg(函館駅)

駅構内の喫煙場所でタバコを吸う。
いやぁ~どこへ行っても禁煙、禁煙でタバコが吸えなくて困っていたのだが、やっとタバコが吸える!
喫茶店でも禁煙の店が多くなりコーヒーを飲みながら一服するということもままならない。
と・・・柱に一片の紙が貼ってあった。

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おお!なんと素晴らしい広告ではないか?(笑)
2階にタバコが吸える喫茶店があるのか!
喫煙所にこういう広告を貼るというのはいいアイディアである。
なんと親切な!
早速、2階に行って、この喫茶店でコーヒーを飲みながらタバコを吸うことにした。(大笑)

時刻は午後4時半を過ぎた・・・
今から札幌へ向かう。

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ホームに出て、柱の広告を見て思ったのだが・・・
拙者は今から函館を離れ札幌に向かうのである。
「ようこそ函館へ」と言われてもねぇ~(笑)
この広告は柱の反対側の電車を降りて改札口に向かって歩く人が見る位置だけに取り付けるべきではなかろうか?
しかも「本場の味サッポロビール」である!
サッポロビールは札幌なのであって・・・函館は関係ないんじゃないか?(笑)
これでは、本場は函館と言っているように受け取れるんだけど・・・
と・・・つまらぬツッコミを一人でブツブツ言いながら自分の乗る車両を探す。

今晩の夕食は駅弁である。
「うに・いくら弁当」!!!
なんと贅沢な!(笑)

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旅行 | 15:18:22 | Comments(0)
旧北海道庁函館支庁庁舎
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旧北海道庁函館支庁庁舎
(北海道指定有形文化財)

旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年(1909年)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年(1982年)に修復整備されたものです。
特徴のひとつに柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な4本の柱で支えられています。
明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年(1985年)北海道有形文化財に指定されています。
現在は、1階を元町観光案内所として利用し、2階は「写真歴史館」として“北海道写真発祥の地 函館”の歴史を伝える貴重な写真機器や資料を展示しています。
また、ここ元町公園は、江戸時代には松前藩の藩所や函館奉行所が、明治維新後は開拓使函館出張所や函館県庁函館区役所等が置かれ、常に行政府の中心となっていたところです。

函館市

(説明板より)

建物 | 14:58:21 | Comments(0)
旧函館区公会堂
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旧函館区公会堂

明治40年(1907年)8月の大火は函館区の約半数、12,000戸余りを焼失した。
この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の浄財を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
当時、函館の豪商といわれた相馬哲平氏は自分の店舗などの多くを焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。
この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対称形となっており、2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど特徴的な様式を表わしている。
昭和49年5月、国の重要文化財に指定され、昭和57年約3年を費やして修復された。

函館市

(説明板より)

建物 | 13:42:08 | Comments(0)
日仏親善函館発祥記念碑
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日仏親善函館発祥記念碑

1855年 フランス・インドシナ艦隊のシビィル号、ヴィルジニ号、コンスタンチヌ号の緊急寄港に際し、函館奉行所、竹内下野守保徳は独断で人道的立場から入港と養生の為の上陸を許可した。
奉行の要請に応じた実行寺第16世住職、松尾日隆上人は、傷病乗組員の平癒につとめ、病没した6名の乗組員を除いてその大半は無事祖国への帰還を果たすことができた。
百有余年の時を経て今、日仏親善の発祥の地、あわせて仏教とキリスト教の両宗教者の友愛の永遠なる証しとなるよう、この地に記念碑を建立する。

2001年(平成13年)10月6日
日仏親善函館発祥記念碑建立準備会
代表 神父フィリップ・グロード
函館日仏協会

(碑文より)

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実行寺

実行時は、明暦元年(1655年)、山ノ上町(現弥生町)で清寛という僧が草庵を結んだのが始まりといわれ、元禄3年(1690年)松前の日蓮宗法華寺の末寺となったが、実行寺と称するようになったのはいつ頃からか明らかではない。
(明治17年山梨県身延山久遠寺の末寺に編入。)
正徳4年(1714年)、富岡町(現弥生町)に移転し、明治12年(1879年)の大火後、同14年(1881年)にこの地に移った。
その後も幾度か大火に見まわれ、大正7年(1918年)現在の建物が完成した。
安政元年(1854年)ペリーが来航時には実行寺にスタジオが設けられ、そこで行なわれた写真術は、市民を驚かせ、翌年には、フランス軍艦シビル号(艦隊ではなく軍艦)が入港し、実行寺が多数の役病水兵の養生所となった。
また、ロシア領事着任当初の同5年(1858年)には領事館としても利用された。
また、明治2年(1869年)函館戦争終結後、旧幕府脱走軍戦死者の遺体が市中に放置されたままになっていたとき、住職が侠客柳川熊吉と相談して、寺に葬ったという美談も残されている。

函館市

(説明板より)


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史跡 | 12:44:08 | Comments(0)
新島襄海外渡航の地碑
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新島襄海外渡航の地碑

新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松陰の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を函館に選びました。
元治元年(1864年)江戸からきて、ニコライ主教(ハリストス正教会2代主教)に、日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていましたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の函館測候所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功しました。
上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874年)帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立しました。
この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので、元治2年(1865年)香港での作です。
渡航前の名前は新島七五三太(しめた)でしたが、航海中に船長から「ジョセフ」名をもらい、略して襄(ジョー)」の字をあてました。
明治23年(1890年)48歳で没

函館市

(説明板より)


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史跡 | 12:13:04 | Comments(0)
函館を歩く(2)
今日は朝から雨・・・・
ホテルをチェックアウトするが、荷物はそのままフロントで預かってもらい、ホテルの傘を借りて観光に出掛ける。
基本的にホテルから遠いところは、昨日タクシーで回っておいたので、今日は徒歩で歩ける範囲を廻る予定だったが・・・
いやぁ~この雨と風・・・参ったぁ~
雨だけならまだ我慢もできるが、風が問題・・・
いきなり突風が吹く。
しかも、風が巻いているので、前から来たかと思うと今度は後ろから・・・という調子である。
傘が煽られ、雨に濡れないのは頭だけ・・・(笑)

最初に向かったのは「高田屋嘉兵衛資料館」
蔵を改造した館内は撮影禁止、サラサラッと見学してあっという間に終了。(笑)
続いて「北方歴史資料館」に向かう。
ここにも高田屋嘉兵衛関連の資料が展示されている。
ここでは、館内にある銅像の写真の撮影の許可を得ることが出来た。

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ここに高田屋嘉兵衛像の鋳造原型が展示されていたが・・・
問題は、この原型の背中部分。
見学に来た子どもたちの仕業だろう、落書きがある!

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展示資料に落書きをするとは、とんでもない話である!
個人で見学に来て・・・というより、修学旅行のような団体で来たのではあるまいか?
サインペンで書かれているものもあるから、筆記用具持参で見学したのだろうから・・・学校関係だろ?
引率者はいったい何をしていたのか!
頭に来るんだよなぁ~こういうのを見ると!!
教育の問題ですよ。
博物館、資料館、美術館では、どういうふうにしなければならないかを教師は教えていないのだ。
だいたい、教師自体がマナーを知らないんだから教えようもないだろうが・・・
この落書きの件で資料館職員としばしおしゃべり。
多分、あのグループの仕業だろうと見当はつくらしいが現場を押さえたわけじゃないので確証がないとのこと。
資料館としても困っているらしい。
この件については拙者のブログで公表する許可をもらう。

以前、長野の「松代地下壕」に行った時も思ったが・・・
どうも引率指導者の資質に問題がありそうだ。

次に向かったのが「西波止場」
ここには新島襄の銅像があるので、これを撮影。
さらにテクテク雨の中を散策。
「明治天皇上陸記念碑」「函館運上所跡」「新島襄海外渡航の地碑」「ペリー会見所跡」等を訪問。

DSC06090_convert_20100719134234.jpg(ペリー会見所跡)

ふと思ったのだが・・・・
母が亡くなる直前、旅行に来ていたのは函館だったのではなかろうか?
友人たちを案内して函館の街を歩いたと言っていたような気がする。
(北海道に行ったことは確かなのだが、函館だったか小樽だったか、まともに話を聞いていなかった)
母は旅行から帰って来て間もなくこの世を去った。
母はこのあたりも歩いたのだろうか?
ふと・・・そんなことを思い出したが・・・
それにしても、母は“晴れ女”だったのに、この雨は何だ?
よりによって拙者にとっては初めての函館だというのに・・・母は守ってくれないのか?(笑)

更に風が強くなってきて、とうとう傘の骨が1本、2本と折れ出した。(笑)
ホテルから借りた傘はボロボロ状態・・・

坂を登って「東本願寺函館別院船見支院」に来た時には傘は傘の形を失っていた。(笑)
何の役にも立たぬ!
ゴミ箱に傘を捨てる。
コートを着ていたので、コートのフードを被って雨の中を歩く。
う~ん・・・どこから見ても「ゲゲゲの鬼太郎」の「ネズミ男」である。(大笑)

このあたりは寺が多い。
「実行寺」「称名寺」などを覗いてみる。
「称名寺」には高田屋嘉兵衛の一族の墓、土方歳三と新撰組隊士の供養塔、河野加賀守政通の供養塔などがあった。

続いて「元町公園」に向かう。
ここには旧函館公会堂、旧北海道庁函館支庁庁舎などの歴史的建物のほか、「函館四天王」と呼ばれる4人の偉人の銅像があった。

DSC06143_convert_20100719134708.jpg(函館四天王像)

時刻は12時・・・・
公園脇の喫茶店で昼食。
やっと一服できる。(笑)

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日記 | 11:42:09 | Comments(0)
日露友好の碑
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日露友好の碑

1811年ロシア軍艦ディアナ号の艦長、V.Mゴローニンが千島列島を測量中、徳川幕府役人に捕えられて、松前に監禁されたゴローニン事件。
翌年、函館の豪商高田屋嘉兵衛がクナシリ沖にてロシア船に拿捕され、カムチャッカに連行された。
しかし高田屋嘉兵衛は逆境を好機ととらえ、副艦長リコルドとの友情を深め、言葉の壁を乗り越え両国の和平を説き、1813年ゴローニン釈放を実現させ、日露武力衝突の危機より日本を救った。
ゴローニンは帰国後「日本幽囚記」を著し、嘉兵衛を評し「この世で最もすばらしい尊敬すべき人物」とたたえた。
ゴローニンは松前へ護送される前、ここ函館市宝来町の地にあった牢獄に幽閉されていた。
1999年ロシアより、ゴローニン、リコルドの子孫が来日され、高田屋嘉兵衛7代目を交え、事件から186年後の子孫を通じての再会をこの地にて果たしました。
ここに3人の深い友情と邂逅を記念し、21世紀を前に国際親善を深く願い、日露友好の永遠のシンボルとしてこの碑を建立した。

200年12月
贈 函館ロータリークラブ

(碑文より)


より大きな地図で 日露友好の碑 を表示


史跡 | 20:56:51 | Comments(0)
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