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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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南ボネ
その昔、兵站病院があった「アリタオ」と「サンタフェ」のほぼ中間地点に「南ボネ」と呼ばれた場所がある。
地図にも載っていない場所だが・・・
そこに「戦車撃滅隊」の慰霊碑があるので、立ち寄ってお参りすることにした。
最後に訪れたのは、平成17年だから、5年ぶりの訪問となる。
5年も経つと景色が変わるものだ・・・・
当時は、柵などなかったが、いつの間にか柵が出来て、標柱まで建っていた。

DSC04454_convert_20100519231603.jpg

ここには第14方面軍教育隊の幹部候補生約500名が道路の脇に“タコつぼ”を掘って、“蒲団爆弾”(座布団のような形の爆弾)を抱えて潜み、敵戦車が来た時に飛びだして体当たり攻撃をかけた場所。

DSC04457_convert_20100519232542.jpg(サンタフェ方向を見たところ)

この向こうから米軍の戦車がやってきて・・・・
幹部候補生たちが体当たり特攻をかけたが、飛びだすタイミングが早すぎたため戦車の機銃でことごとくなぎ倒されたという。
500名のうちの殆どがここでやられた。
それを見ていたのが、このすぐそばにある高地に陣を張っていた「尾田部隊」の“ナカムラさん”
我が戦友会の一員である。
「尾田部隊」は戦車第2師団が北部へ撤退する時の殿(しんがり)を務めたという。
装備は全て米軍から分捕ったものだったそうで、おかげでかなり強かったとか。
武器が米軍製だと日本軍も強いのだ。(笑)
明治時代の鉄砲を使っていたのでは、勝てる戦いにも勝てねぇわなぁ~

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家の後ろに見えるのが「ボネ高地」
この高地の左のほう・・・ちょうど屋根の後ろあたりに見える窪地に“ナカムラさん”の陣地があった。
で・・・そこから右の方の大きな窪地のところが「大隊本部」があった場所だったと思う。
この高い位置から見ていたらしい。
「まだだ、早まるな!」と叫んでも道路上まで聞こえるわけがない。
あれよあれよという間にみんなが飛び出してしまい、あっという間にバタバタと倒れる。
そのうち、この高地にも戦車砲を撃ち込まれ、“ナカムラさん”のすぐ近くにいた戦友が吹き飛んだ。
たしか・・・そういう話を聞いたことがある。
一度、この高地に登ってみたいと思っているのだが、今もって実行できないでいる。
この高地から見降ろす場所に、やたらと蛍が集まる大木があったそうだ。
まるでクリスマスツリーのように輝いていたとか。
その大木って、どれだろう・・・
ずっと気になっていたのだが・・・うっかり、その大木を探すのを忘れた!
なんと忘れっぽい性格なのか・・・情ない・・・

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慰霊碑にお線香をあげてお参りする。

その後、「サンタフェ」のガソリンスタンドでトイレ休憩をして、更に南下・・・・
各地の慰霊も終わり、とにかくマニラへ急げ急げ!(笑)
来る時にトイレ休憩で立ち寄った「サンホセ」のレストランで昼食を食べる。
ちょうど時刻は12時!
いやぁ~なんとスムーズな・・・・
こんなに予定通りにトントンと進むなんて・・・
英霊のご加護だな。

DSC04465_convert_20100519235129.jpg

午後3時前には高速道路に乗り、一路マニラへ向う。
遠くに「アラヤット山」が見える。
「フク団」と呼ばれるゲリラの本拠地だった山だが・・・今もゲリラの巣窟なのだろうか?

DSC04467_convert_20100520005534.jpg

途中のサービスエリアで休憩!
「スターバック(?)」でコーヒーを飲んで一服する。
なにせ拙者と“ステラさん”はスモーカーなので、ちょくちょく休憩してタバコを吸わないと・・・死んじゃうのだ!(大笑)

マニラ市内の入り口はかなりの渋滞が予想されたが、時刻が早かったせいか、思ったよりスムーズに市内には入れた。
これがちょっとでも遅くなると大渋滞となる。
なんと運のいいことか・・・
で・・このままホテルにチェックインするのはもったいない。
まだ外は明るいので・・・
車窓からの市内観光をすることにした。
当初は、観光は不要とのことだったが、マニラ市内を見ないで帰国というのも如何なものか。
車窓からでいいから、ちょっとだけでも有名な場所を廻っておいた方がいい気がする。

「リサール公園」の周りを走り、「フォート・サンチャゴ(サンチャゴ要塞)」の入口へ・・・
本来はここから徒歩で城壁内に入り、ホセ・リサールの記念館を見学ということになるが・・・・
車窓から城壁を見るだけに留める。
続いて、スペイン時代の要塞都市「イントラムロス」を通って、世界遺産の「サン・オーガスチン教会」へ・・・
パッとしない建物なのだが(笑)、一応、世界遺産なので車から降りて見るのもいいかなと思ったが、“お母さん”は降りる気がないとのことなので軽く通過!(笑)
写真撮らなくていいのかなぁ~、一応、世界遺産なんだけど・・・(笑)

市内観光はこれで終了!(笑)
ホテルにチェックイン。

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旅行 | 22:30:10 | Comments(0)
ソラノ
途中、「ソラノ」という町で車を止めてもらう。

この旅に出る前に我が戦友会の“ミヤザワさん”にお手紙で北部ルソンへ慰霊に行くことを伝えた。
お返事には、終戦の時、山から下りてきて「ソラノ」という町で米軍に投降したという。
“ミヤザワさん”は戦車第6連隊の指揮班長。
大東亜戦争緒戦のマレー半島攻略戦にも参加した歴戦の勇士。
「勝ち戦と負け戦の両方体験しているんだ」とおっしゃっておられた。
今年、94歳になるだろうが、まだまだお元気なご様子。
しかし、もうここへ来ることは年齢的にも無理だろうから・・・
「思い出の地」の写真を撮って送ってあげようと思うのである。
「今は、こんなふうに変わっています」というご報告をしてあげよう!
というわけで・・・拙者の都合でこの街に一時停止!(笑)

DSC04443_convert_20100518223323.jpg

日本軍の高射砲が置いてあったので、この周辺の写真を撮るが・・・
ついつい興味は大砲の方へ・・・(笑)
刻印を探したが残念ながら見つからなかった。
う~ん・・・なんていう高射砲なんだろうか?(笑)
本当は、道の向こう側からも撮影したいのだが・・・
そんなことをしたら、“ステラさん”が血相変えて追いかけてくるのは間違いない。(笑)
拙者としては、どうしても写真のアングルというのを考えてしまうのだが、「ガイドさん」というのは、そこまでは考えない。
一人で道路を渡るなんて、とんでもないことだ・・・ということになる。(笑)
あまり心配をかけては申し訳ないので・・・(笑)
ここは、我慢、我慢・・・
取りあえず、“ミヤザワさん”へご報告用の写真を撮れたからいいかぁ~
うまく町の様子を伝えるアングルでは撮れなかったが、やむを得ない・・・・

と・・・ここで気が付いた!
エチアゲ!!!
しまった!忘れていた!
エチアゲの飛行場跡に行くのを忘れてた!
たしか・・・大本営特種情報部の“カワライさん”は、このエチアゲの飛行場から台湾へ脱出しようとしたと聞いたような記憶がある。
その飛行場跡の写真も撮影しようと思っていたのに・・・すっかり忘れていた!
やっちまったぁ~
フィリピンへの米軍の反攻が始まった頃だと思うが、大本営から在フィリピンの特種情報部員に帰国命令が出た。
特種情報部は米軍の暗号解読をしていた部門である。
フィリピンには15名ぐらいいたようで、各自、それぞれバラバラに別れて脱出を試みたという。
たしか、エチアゲで台湾から来る飛行機を何日も待ち続け、ようやく来た飛行機に乗り込もうとした時のこと。
ちょうど、同じように飛行機を待っていた陸軍大尉さんがいたという。
“カワライさん”は当時独身、その“大尉さん”は妻子持ちだった。
さぞかし1日でも早く日本に戻りたいだろうということで、席を譲ったそうだが・・・
残念ながらその飛行機は台湾に着く前に米軍戦闘機の餌食となってしまった。
「あの時に席を譲らなければよかった・・・」と今でも後悔していると言う。
しかし、これも「運」である。
結局、特種情報部員の中で無事に日本に帰れたのは、海軍の潜水艦に便乗した1人と“カワライさん”の2人だけ。
他の人達は、飛行機を撃墜されたり、その後行方不明になったりで全員戦死、帰還していない。
エチアゲから飛行機で脱出したのか、アパリまで行って脱出したのか・・・
肝心なところが思い出せないのだが、少なくともエチアゲの飛行場は「思い出の地」のはず。
そこの写真を撮って送ってあげようと思っていたのだが・・・
忘れた!
またもや、別の意味での不覚である!!!(笑)

一人でまた来るしかないな。
どうして肝心なことを忘れてしまったのか・・・
いや、なんで思い出さなかったんだろう?
多分、「もう1回、こっちへ来い」と英霊がそうさせたのかな?(笑)
そういう気がしないでもない・・・

旅行 | 22:16:47 | Comments(0)
不覚!
オリオン峠の慰霊を終え、マニラに向かい更に南下する。

移動中は車内であ~でもねぇ、こ~でもねぇとおしゃべりをする。
我がワゴン車は広くて快適!
2列目に“サトウさん”と“お母さん”
拙者と“ステラさん”は一番後ろの3列目・・・・

ふと・・・前の席を見ると、“お母さん”がビデオで外の景色を撮影してた。
あれ?
「もしかして・・・“お母さん”、ビデオを撮影してます?」
「はい」
「もしかして・・・私の声が録音されていませんか?」
「はい」
「あのぉ~そこの部分・・・消去出来ないですかね?」
「だめ~!(笑)日本に帰ってから見るんですから・・・旅行の思い出を楽しむのぉ!」
ギョェ~!!
それは、マズイ・・・(汗)

なぜかというと・・・
ちょうど、撮影中に拙者が喋っていたのは・・・「インキン・タムシ」の話なのである!(笑)
マズイだろ~・・・これ・・・
子々孫々まで、この記録が残ってしまうのか?
日本に帰って、親戚中でビデオを見た時に・・・・マズイ!!
フィリピンの景色の後ろに流れる拙者の話が「インキン・タムシ」の話では・・・マズイ!!(笑)
やっちまったぁ~
一生の不覚である!
とても「慰霊の旅」とは思えないような話の内容である・・・(汗)
あ~あ~やっちゃったぁ~
真面目な「慰霊の旅」なのになぁ~
つい・・・気が緩んで・・・変な話をしてしまったぁ~
それがビデオに“録音”されるとは・・・
ショックである。(涙)
車内は大笑い!
参ったぁ~

それにしても、メールだけのやり取りで、今回の旅が決まったわけで・・・
考えてみれば、見知らぬ同士で、よくもトントンと話が進んだものだと不思議に思う。
こちらは「男」だしねぇ~
「変な人」と思われて警戒されてもおかしくないと思うのだが・・・(笑)
知人に「フィリピンゲリラと遭遇するより、お前が同行することの方が危ない(笑)」と言われたくらいだし・・・(大笑)
気になったので尋ねてみたら・・・
“サトウさん”は拙者に対して何の疑いも持たなかったという。
“お母さん”は「一緒に行ってくれるなんて、世の中には奇特な人もいたもんだぁ~」と思っていたという。(笑)
縁とは不思議なものである。
“お母さん”とは勿論初対面だが、初対面という気がしない。(笑)
以前から知っている「親戚のおばさん」という感じなのである。
“サトウさん”は拙者と同い年だが、どことなく妹に雰囲気が似ている。(笑)
音大を出て音楽の先生になったところも同じだから・・・なんとなく似るのだろうか?(笑)
音大出身の音楽の先生がみんな同じタイプとは思えないのだが・・・(笑)
とにかく雰囲気が似てるとなると、いつの間にか妹に話しているのと同じ調子になってしまうのである。
それがいけなかったんだなぁ~(大笑)
だから「インキン・タムシ」の話になっちゃったんだ。
言う事やる事が“寅さん”にそっくりだと昔から妹に馬鹿にされていたが・・・(笑)
思わず“地”が出ちゃったんだなぁ~

初対面とは思えないお二人との楽しいドライブなのだが・・・
果たして「慰霊の旅」が「楽しいドライブ」で良かったのやら・・・
複雑である。(笑)
「不謹慎」ではなかったか?
反省、反省・・・・である。(いまさら遅いけど・・・笑)

旅行 | 21:57:13 | Comments(0)
オリオン峠
オリオン峠の慰霊碑・・・・見つけた!
が・・・意外にも道路の脇にある!
あれ~イメージが違うんだよなぁ~(笑)
山の頂上にあると思っていたんだけど・・・
こんなとこ?(笑)

DSC04424_convert_20100514204355.jpg

慰霊碑は学校のようなところの脇にあったが・・・
廻りはフェンスで囲まれていて、しかも、ブロックが積まれつつある。
どうも工事中のようなのだが・・・・
あれ?入口がない!(笑)
そんなバカな・・・
と・・・
近所の人たちが集まってきた。
どうもこの慰霊碑の管理をしている“おばあちゃん”が身ぶり手ぶりで、ブロック塀を乗り越えて中に入っていいと言ってくれたので・・・(多分そう言っていたと・・・思う・・・笑)
ブロックを乗り越えて中に入ってみたら・・・・
あれ!!!
なにこれ!!
一瀬部隊の慰霊碑じゃないですか!
これにはさすがに驚いた。
「オリオン峠の慰霊碑」というのは知っていたが、まさか一瀬部隊のものとは思わなかった。
事前の勉強不足である。

DSC04420_convert_20100514205055.jpg

この碑は昭和59年に建立されている。
その建立した人(団体?)が、お金を出して、周囲の整備をさせているのだそうだ。
ブロック塀はその工事途中ということだそうだ。
最近では、戦友会、遺族会が解散となり、慰霊碑の管理費を払う人がいなくなり、フィリピンでは次々と慰霊碑が撤去されているというのに、ここは整備しているんだから大したものである。
慰霊碑の裏面に長文の英文で碑文が刻まれているが、日本文は「一瀬部隊玉砕散華之戦跡」としか記されていない。

ここオリオン峠には二宮大隊(独立歩兵第184大隊)がいたが、この部隊は別な場所に転進し、代わりに一瀬大隊(独立歩兵第179大隊)、山下大隊(独立歩兵第175大隊)が陣を敷くことになる。
この峠でサンチャゴに向かい北上してくる米軍を迎え撃つということなのだろう。
昭和20年6月9日に一瀬大隊(独立歩兵第179大隊)の2個中隊が到着している。
6月12日の夜にはサンチャゴにある第103師団司令部まで砲声が聞こえたという。
たぶん、この頃から戦闘が始まったのだろう。
13日には大隊長の一瀬末松大佐(陸軍士官学校26期)が戦死し、山下大隊の山下大隊長が指揮を執る。
14日には師団司令部のあるサンチャゴが砲爆撃を受け戦車も侵入してきたというが、一瀬、山下両大隊は15日までオリオン峠の一角を保持していたという。
『戦史叢書』によれば、こういうことだそうだ。

また、一瀬部隊は、本部と4個中隊の他に銃砲隊と作業隊があり、総勢1100名の部隊だったらしい。
で・・・戦後の調査では・・・
戦死500名、生死不明400名、戦病死200名で・・・合計すると1100名・・・
つまり、玉砕したということになる。
“サトウさん”のおじいさんは、生死不明の400名か戦病死の200名の中に入っていることになるが・・・
それにしても生死不明が400名とは多すぎる。
これは、大隊本部が各中隊の状況を把握していなかったためではあるまいか?

この旅の事前に、多少資料などを探したが、その中に生還した衛生兵が昭和38年に証言した記録があった。
それによれば、オリオン峠には本部と第1、第2、第3中隊が1日おきに峠に到着し、その後、第1、第2中隊は殆ど消滅したという。
消滅とは、まさしく消えてしまった・・・ということだろう。
全滅したのか、それとも散り散りになったのか・・・その姿が見えなくなったらしい。
戦果を挙げたのは第3中隊のみだったという。
斬り込み隊は、戦車1両、砲車数両を爆破して、食糧を分捕って帰って来たという。
が・・・結局は、その後、ほぼ玉砕してしまったらしい。

さて・・・ここでまた頭が混乱して来たぞ。(笑)
“サトウさん”のおじいさんの所属中隊に関して分からなくなってきた。(笑)
だいたい“唯一の生還者”から話を聞いた人からの「伝聞」だから始末が悪い。
どうして生還者自身が直接遺族に伝えなかったのか・・・不思議である。
間に入って”第3小隊唯一の生還者”の話を伝えてきた人の手紙によれば・・・
第3中隊は一瀬部隊が南下後、カワヤンに残っていたが、サンチャゴの師団司令部が敵に襲われたため南下したということになっている。
しかも、“サトウさん”のおじいさんの第3小隊は第3中隊の先頭を切って南下したという。
おかしい・・・(笑)
話が合わない・・・
一瀬大隊の生還した衛生兵の証言では、オリオン峠に第3中隊は到着して戦果を挙げているのである。
手紙を寄こした人の話は、『戦史叢書』(いわゆる公刊戦史)からの引用なのか?
この『戦史叢書』には間違った記載が多く見られ、拙者は書かれていることをあまり鵜呑みにはしないことにしているのだが・・・
よく遺族の中にはこれを鵜呑みにして、一方的に思い込みをして拙者に質問して来る人がいて、大いに閉口することがある。
これも、その一つかも・・・・
先頭じゃなくて、最後にカワヤンを出発したなら、辻褄が合う。
第3中隊本隊はオリオン峠で壊滅。
最後に出発した第2小隊、第3小隊の2個小隊は、本隊にたどり着けず、しかもサンチャゴにある師団司令部を蹴散らしてエチアゲまで進出して来た米軍と遭遇。
第2小隊長は砲撃で吹き飛び戦死。
第3小隊長の“サトウさん”のおじいさんは、部下を引き連れ川を渡って東方山中に逃げ込む・・・・
これなら辻褄が合う。
中隊の先頭を進んでいたのでは、オリオン峠まで到着してしまい、そこで戦うことになるからである。

“唯一の生還者”からの「伝聞」では日時に関して何も語られていないのだが、これなら時系列的にも合う。
しかも、これならば第3小隊が東方山中に逃げ込んだことも理解できるのである。
つまり・・・・
大隊も中隊もすでに全滅して合流できないのである。
本来ならば、本隊を追求、合流せず、途中で姿をくらますというのは「敵前逃亡」扱いにされてもおかしくないのだが、合流すべき本隊が玉砕していては合流したくても合流できない。
となれば・・・小隊が独自の判断で行動しても全く問題はない。

手紙や文献を読んでも、どうもピンとこなくて、よくわからなかったのだが・・・
実際に現地を訪れ、部隊の移動ルートを実際に移動してみて、その位置関係がわかってきたら、なんとなく“見えて”きた。(笑)

こういう調査は本当に難しいのだ。
生還者の話が必ずしも正確とは限らない。
どこかで勘違いや思い違い、言葉足らず、などがある。
で・・・文献の方にも間違った記載があったりする。
どれを信じていいのやら・・・ということになるが・・・
いくつもの資料を照らし合わせて、一番、可能性のある、辻褄が合う、理屈に適ったものを採用するしかない。
ということで、かなり相互にチェックしないといけないので大変なのだ。(笑)
それでも、真実はどうなのかはわからないんだから・・・・ある意味、悲しいといえば悲しい・・・
「事実は小説より奇なり」は実際にあり得るのだ。

いずれにせよ・・・この慰霊碑は一瀬部隊玉砕の慰霊碑であるから・・・
“サトウさん”のおじいさんの仲間の慰霊をせねば・・・
お線香をあげて供物を並べて手を合わせる。
(今回は歌は無し!・・・笑)
管理人の“おばあさん”に慰霊碑管理のお礼として寸志を拙者からコッソリ渡す。(笑)
そして、いつものように、集まってきた子供たちには供物を配ってもらう。

これで一瀬大隊全部の慰霊まで出来てしまった。
これはよかった。
立ち寄って“正解”であった。


より大きな地図で オリオン峠 を表示

(オリオン峠の位置は推定)

旅行 | 20:37:51 | Comments(0)
マニラに戻る
今日は、一気にマニラに戻る日である。
超強行軍である。

朝食は各自、部屋の前のテラスでとるということにする。

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朝食は、トーストとお粥である!
すごい取り合わせである!(笑)
和洋折衷というか・・・何というか・・・
更に笑っちゃったのが・・・これ・・・

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お粥用のスプーンは・・・ドラエモンである!(大笑)
で・・・デザートのお皿は・・・クマのプーさんである!(笑)
とてもホテルの食器とは思えない。(笑)

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パイナップルのデザート付とは豪勢な・・・と思ったが・・・
思い出した!
昨日“ステラさん”が買ってくれたパイナップルである!(笑)

8時前にはチェックアウトして、いざ出発!
この方面は、拙者は初めて来た場所。
北部の山岳地帯だから、さぞかし峻険な山々が迫る平地の殆どない場所だと思っていたが・・・
意外や意外、広大な平野が広がり、一面に田んぼが見える。
あらら・・・穀倉地帯?
こういう平地があったとは知らなかった。
現地に来て見てみないと分からなものである。

だから・・・なのか・・・
一瀬部隊の属する第103師団はこの周辺の対空配備についていたという。
米軍がパラシュートで前線の後方に降下するのではないかということでの配備だったようだ。
これだけの平地があれば、パラシュート降下の可能性は十分考えられるなぁ。
が・・・まもなく、米軍の降下の可能性がないということで、一瀬部隊は南下して前線に向かうことになったようである。

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この時期、北部ルソンは異常気象のせいで干ばつだという。
トウモロコシ畑などが枯れてしまっているという。
と・・・いうことは・・・家畜の飼料の値段が上がってしまうから、そのうち豚肉も鶏肉も値上がりするだろうとのこと。
なるほどねぇ~
確かに、枯れているような畑も車窓から見受けられた。

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今日は、ただただマニラに向かって帰るだけなので、その途中、途中で、慰霊碑を立ち寄りながらのドライブを企画した。
本来の目的である慰霊を無事終えることが出来て気分的には楽である。
名残惜しいが・・・小隊長殿たちとはお別れである。
英霊の皆さんは喜んでくれたかなぁ~・・・とフト、思う・・・・

車は昨日通ったと同じルートでマニラに向かうことになる。
で・・・まずは、途中の「オリオン峠」にある慰霊碑をお参りすることにした。
ここに慰霊碑があることは、以前から知っていたので、是非訪れたかった場所である。
来る時に“ステラさん”が慰霊碑の場所を見落としてしまい通過してしまったので帰り道に立ち寄ることにした。

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(オリオン峠に向かう道)


旅行 | 18:08:18 | Comments(0)