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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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“君が代”は嫌いだ
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さぁ、慰霊祭の準備も整った・・・というか・・・これで終わり。(笑)
お線香もあげちゃったし・・・(笑)
お経は・・・拙者は「坊さん」じゃないから、憶えてないから出来ないし・・・
これで・・・終わり!
と・・・“ステラさん”が「これだけじゃ寂しいから歌でも歌いましょう!」と言う。
ギョェ~!!拙者の苦手な分野である!!(笑)
「私がフィリピン国歌をうたいますから、皆さんは“君が代”を歌って下さい。で・・あの、海・・・なんとか・・・っていうのも歌って下さい」
「あっ、“海ゆかば”ね」
「そう、そう、それ!」
では・・・(笑)
ということで、“君が代“斉唱!!
が・・・拙者はこの歌が大の苦手なのである。
なにせ音が高い!
なので・・・低く出だしたら・・・完璧に音を外し滅茶苦茶になった!(大笑)
もう、収拾がつかない!(笑)
大勢いるなら“口パク”でごまかせるが(笑)、3人で歌うんだからそれは無理。
しかも“サトウさん”は元音楽の先生である!(笑)
最悪のシチュエーションではないか!
“君が代”はいったい誰が作曲したんだ!
なんでこんなに音が高いんだよ!
迷惑千万な、歌いづらい国歌である。(笑)
だから嫌いなのである。
歌詞がどうのこうの、軍国主義だのどうのこうのと“君が代”を嫌う人が多いが・・・
拙者の場合は歌いづらいというだけのことで嫌いなのである。(笑)

最近、カラオケもやっていないから歌を歌っていないしなぁ~
こういうことになるならカラオケ教室にでも通って練習しておけばよかったかと後悔するが・・・
カラオケ教室で“君が代”の歌い方を教えてくれるか?(笑)
カラオケのアマチュア選手権の審査員をしている“アキヤマさん”に今度会った時に聞いてみるか~(笑)

“君が代”のいいところは・・・歌詞が短いところ。(笑)
これは、助かる。(笑)
これに対して、フィリピン国歌は・・・歌詞が長い!“君が代”と比べると滅茶苦茶長い気がする。
公式の場で何度か聞いてメロディーは知ってるが・・・
さすがに“ステラさん”が途中で歌詞を忘れたのも無理はない。(大笑)
で・・・“海ゆかば”・・・
知っていることは知っているが・・・歌詞はうろ覚えである。(笑)
しまったぁ~歌詞カードがないと歌えない・・・と気が付いたが・・・遅かった。
戦後生まれではあるが・・・“ソングリーダー”を務めることができるのは・・・拙者しかいない。(笑)
うろ覚えの歌詞を思い出しながら「適当に」歌ったが・・・
う~ん・・・英霊は・・・「聞いちゃいられねぇ」と呆れてたかも・・・・多分、呆れてるな・・・
大失敗だ・・・こういうことになろうとは考えていなかった。
「危機管理」ができてない。(笑)
反省、反省。

慰霊団では、カセットテープを持ってきてそれを流したりするが・・・
拙者はそういう仰々しいセレモニーがあまり好きじゃない。
だから、セレモニーのことは考えていなかった。
静かに景色を見て・・・でいいじゃないかと思っていたのがそもそもの間違いである。
団体行動と違って、個人の場合のいいところは、じっくりと現地にいられるということ。
これが団体だと、さっさと慰霊式をして、さぁ、次の場所へと急いで移動しなければならない。
思う存分景色を見て英霊を偲ぶなんていう暇はない。
拙者はそういう忙しさが嫌いである。

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ちょっと厳しい夕日の日差しを浴びながら過ごすこと約30分。
東方山地の山々は、ずっと向こうの方に霞んでいる。
う~ん・・・このあたりを渡ってあっちの山まで歩いて行ったのか?
かなりの距離があるような気もするが・・・
とにかく「ここだ!」という決め手がないんだから仕方がない。
ここで勘弁してもらうしかない。
慰霊団によっては、ガイドの指図であきらかに見当違いの場所で慰霊をさせられることが多い。
拙者はそういうことはしたくない。
1mでも近い場所で行なってあげたい。

たっぷりと川岸で過ごし、今晩の宿へと向かうことにする。
卒塔婆は“クラツさん”たち慰霊団が後日来た時に一緒に燃やしてもらうということで“ステラさん”に預かってもらう。
こういうとことが出来るのも、「個人旅行」と称しながら、“クラツさん”の会社を使い、“ステラさん”にガイドを頼むメリットであるのだ。(笑)
「あとはよろしく」の一言で事が済む。(笑)
安心、安全、便利・・・・格安旅行代理店では、こうはいくまい。
お花は、そのまま現地に残していいと“ステラさん”。
地元の誰かが持って行くだろうし、花篭は再利用されるだろうという。
これも供養と思えばいいのだが、なんとなく寂しい・・・・

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振り返ると・・・ポツンと花だけが残っている。
う~ん・・・なんとも寂しい・・・
また、いつか、この近くを通ったら、会いに来ますからね・・・小隊長殿・・・・

ちょうど近くで遊んでいた子供たちに供物のお菓子を“サトウさん”から配ってもらう。
これも供養である。
・・・と、言っても、彼らには何のことやらわからんかも・・・・(笑)
それでもよかろう。
英霊たちが望んでいるのではないか?
そうやってくれ・・・って。

帰り道、「アイ・ラブ・マイ・ホームタウン!・アンガダナン」という看板を見つけたので、ここで記念撮影。
フィリピンの田舎に行くと、この手の看板をよく見かける。
「ウェルカム」だったり・・・
日本では観光地には「ようこそ!」という看板は見かけるが、田舎では滅多に町の名前が大きく書かれた看板を見かけることはない。

この「アンガダナン」・・・どうも拙者には覚えづらく発音しづらい。(笑)
どうしても「アンダナガン」になってしまうのだ。
「アンダナガン?アンダガナン?アンダ?アンガ?・・・あれ?いや、アンガ・・・ダ・・ナン???」
車内でみんなで大笑い。

続いてエチアゲの町の入り口で看板を見つけてたので、下車してここでも記念撮影!(笑)
「二股に道が分かれるところの角の緑地帯があるから、そこで止まって!」
「よく見つけましたね~私は全然気が付かなかったけど」と“ステラさん”
どんなもんだい!(笑)
アンガダナンに向う途中で、チラリと目に入ったのを憶えていたんだ!
方向音痴で割には、しっかりしていると我ながら感心。
カタカナは覚えられないけど・・・馬鹿ではない証拠だな・・・(笑)

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エチアゲを通過してサンチャゴという町に入る。
今日の宿泊地はこのサンチャゴである。
当初は、バヨンボンまで戻って「サパー・イン」に宿泊する計画もあったが、できれば、できるだけ戦没地に近いところに1泊させてあげたい。
「え?もう帰っちゃうの?」と英霊にも言われちゃう気がするし・・・(笑)
で・・・サンチャゴを宿泊地の候補に入れてホテルを探してくれるように頼んでおいた。
ホテルが取れたという連絡が入ったのは日本を出発する直前である。(笑)
うまくいった。ラッキーである。

到着早々、ホテルの敷地内の東屋で、来る途中、道端で買ったマンゴーを食べることにする。(笑)
チェックインの手続きの間に、ホテルの従業員にスライスしてもらい持ってきてもらう。

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このマンゴーを買ってくれたのは“ステラさん”
拙者がいつも移動途中の道端のお店で地元の果物を買って食べるのが好きなことをよく知っている。
で・・・彼女の“おごり”である。(笑)
間違っても立替払いではない。(笑)
毎回、拙者がどのくらい謝礼を払うかは彼女は知っているから、その範囲内でサービスしてくれるのである。
それでいいと思う。
昔は、立替払いの清算を細かくやった事があったが、それではどうもフレンドリーじゃないので、何回も会って気心が知れているならばと、立替払いの清算はしないことにした。
ごちそうになるものは素直にごちそうになる・・・(笑)

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部屋は広い・・・というより殺風景・・・(笑)
シャワーはお湯が出る・・・
お湯が出れば申し分ない。
バケツの水で行水というのは拙者一人の旅ならまだしも、“サトウさん”たちにはキツイ。(笑)
トイレも水洗である。
結構、いいホテルが取れてホッとした。

夕食は、“ステラさん”とドライバーの“クリスくん”と3人で町の中のレストランで取ることにした。
ちょっとしたコテージ風の洒落たレストラン。
南国風でなかなかいい。
南国なんだから南国風なのは当たり前だが・・・(大笑)
おお、そうだ、ここはフィリピンだったと忘れてしまうくらい雰囲気がいい。
こういう店づくり・・・日本でも参考に出来ないものか?
日本では夏はいいが、冬が駄目か・・・・
フィリピンの田舎の店だが、大いに参考になるような気がする。

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部屋に戻り、テレビを見て過ごす。
が・・・部屋の中は禁煙である。(笑)
ちょくちょくベランダ(テラス?)に出て夜風に吹かれながらタバコを吸う。
これまた、気持ちのいいものである。

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旅行 | 20:40:04 | Comments(0)
その石は・・・??
しばらく走ると、橋が架かっている場所に到着した。
カガヤン川である。
ん?この辺り・・・いいんじゃないか?
正確な渡河地点がどこなのかはわからない・・・・
が・・・この河を渡ったと“生還者”が言っているのだそうだから、この景色を見たに違いない。
対岸に行くより、この手前の方がいいと思うんだよね。
ここにしよう!ここにしませんか?
“サトウさん”母娘も賛成してくれたので、ここで「慰霊祭」をする事にする。

DSC04369_convert_20100512001508.jpg


どうも拙者にとっては“唯一の生還者”の証言が大まかなので、どうしてもシックリいかないのである。
エチアゲの近く(?)で米軍に遭遇した時に隣りの第2小隊長が砲撃の直撃を受けて粉々に飛び散って戦死したのだという。
他の小隊長の最期の様子は詳しく覚えているのに、どうして行動を共にしている自分の小隊長の最期の様子は詳しくないんだろう?
「早いうちに病死した」という証言だけである。
早いうちって・・・いつのことなのか明確ではない。
どうもよくわからん・・・・・
だいたい、敵の攻撃を避けて戦場を離脱したというのはわかるが、この小隊は先発隊である。
後方から本隊の中隊本部が来ているのではないだろうか?
だとすると、中隊本部への報告の義務があるはず・・・・
その中隊本部のことが何も語られていないのである。
中隊本部に合流せず、そのまま川を渡って東方山地に逃げ込んだのか?
そんなことをしたら、一つ間違えると「敵前逃亡」になってしまうのではないか?
そんなことは小隊長は百も承知のはずである。
だから・・・おかしい・・・

米軍の砲撃の凄まじさは何人もの生還者からお話を伺っていて知っている。
1月にお亡くなりになった我が戦友会の“イナガキ会長さん”もそう言っていた。
猛烈な砲撃の中を戦場を離脱したそうだが、どこをどう逃げたのか全く憶えていないという。
この時、拙者の祖父は“イナガキさん”の部隊の後方にいて、敗走する友軍を収容する任務を与えられていたから、後方に下がれば、祖父の部隊に収容されたはずなのだが・・・
本人は全く覚えがないそうで・・・・記憶が“飛んで”いるのだそうだ。
たぶん、かなりのショック状態だったのか、パニック状態になっていたに違いない。
だから無理もないとは思うのだが・・・

この小隊の場合は、川を渡る時は筏を作って渡ったという。
筏を作る余裕があるのであれば、その時に我に帰ると思うのだが・・・・
「早いうちに病死」という証言も気になる。
マラリアなのかアメーバ―赤痢なのか、病名を明確に伝えていない。
戦場で多くの病気を体験し、見聞きしているはずだから症状を見ればすぐにわかるはずなのだが・・・
なぜ、病名をハッキリ言わないのか?
マラリアなら高熱を出して意識朦朧となる。
そこで、こういう仮説も成り立つ。
小隊長は、この時点でマラリアを発症してしまい、意識朦朧としていたため指揮が取れず、部下はそのまま川を渡って東方山地に逃げ込んだ・・・・
つまり「置いて行って」しまったのなら、“唯一の生還者”の口が重いのもわからないでもない。
最期の様子も見てないから、体調が悪そうだったので、(その後)「病死」したのだろう・・・ということにしているのかもしれない。
遺族から「見捨てた」と責められるのを避けて証言があいまいなのか・・・???

マニラ東方高地で全滅した野砲兵第53連隊第3大隊の川北大隊長の場合は、部下達に東海岸へ向って脱出するよう命じて自分は単身敵陣に向かったらしいという。
行動を共にしていた当番兵の証言らしいが・・・
自決したとも、単身で敵陣に突っ込んで戦死したとも言われていて、その最期はハッキリしていない。
この当番兵もまもなく戦病死してしまい、亡くなる前に他の兵隊が聞いたという「伝聞」である。
“サトウさん”のおじいさんの場合も同様だったかもしれない。
部下に東方への脱出を命じて、自分は川を渡っていないかもしれない。
当時は雨季である。
川の流れも乾季である今とは違って激しい濁流だった可能性はある。
体力が弱まっていて意識も朦朧としていたら・・・多分、この川は渡らなかっただろう。

DSC04380_convert_20100512002314.jpg(カガヤン川)

しかし、川岸までは来ていたのは間違いないのではないか?
ああではないか、こうではないか・・・と想像するが・・・すべては空想の世界でしかない。
真実は誰にもわからない。
だから、戦没者は可哀そうなのだ。
一人の人間の最期を誰も知らないのである。
こう言っては失礼だが、野良ネコや野良犬が死ぬのとは違うのである。
人間が死ぬのである。
死にたくもないのに、殺される個人的理由もないのに、一人の人間の命が、人生が、無理やり奪われるのである。
しかも誰にも知られずこの世を去らねばならないのである。
こんな不幸があるだろうか?
どういう思いで息を引き取ったか・・・・
想像しただけで胸が苦しくなる。
その無念さを少しでも慰めてあげなければ・・・

昭和17年、日本軍がフィリピンを占領した時に、フィリピンゲリラ討伐のため、部下を率いてエチアゲからこのカガヤン河を渡り東方高地を越えて東海岸まで行ってゲリラの討伐をして引き返して来たという人の話を聞いた覚えがある。
どういうルートだったか具体的なルートは聞いていないが、東海岸まで行くことが出来たことは確かである。
となると・・・この橋が架かっているこの道か?
東方山地の中は密林で、そのジャングルの中で“山ヒル”に喰いつかれてひどい目に遭ったという。
かなり劣悪な環境だったようだ。
“唯一の生還者”の証言が全て本当だとしたら・・・・
この劣悪な密林の中で病死したとしてもおかしくはない。

いずれにせよ、河のこちら側で慰霊祭をすれば、どちらにころんでも間違いはあるまい。
河を渡ったのは、ここだとは断言できないが、橋が架かっている側であれば、今後“サトウさん”家族が訪れるときの目印にもなろう。
ということで・・・花を飾り、卒塔婆を立て、供物を並べ・・・・慰霊祭の準備に取り掛かる。
台にしようと河原の石を触ったら、太陽の熱で熱せられていて熱い。
こんなにも石が熱せられているとは驚きである。

と・・・その時・・・
“お母さん”が「日本に持って帰りたいので、石を拾っていいですか?」と言ってきた。
拙者はお線香に火をつけるのに夢中で顔もあげず「いですよ~」と返事をしたのだが・・・
何と・・・河原から持ってきたのは、両手で抱えるほどの大きな石!
「はぁ?なにそれ・・・“お母さん”、それを日本に持って帰るの?(笑)」
石と言うから、当然、小石だと思っていたら・・・・デカイ!デカすぎる!(唖然)
「そうだ・・・これを持って帰っても、私が死んだあと子供たちに迷惑をかけては申し訳ないし・・・」と何やら分からない話・・・
何で子供たちに迷惑をかけることになるんだろ?
え?なんで?石だよ・・・ただの石・・・
家のどこに置こうか・・・というようなことを呟いている・・・・
「はぁ?あのぉ~お墓に入れるんじゃないんですか?へぇ?家の中に置くの?」(笑)
「あっ、そうかぁ~そうだよねぇ~お墓の中に入れるんだ!」
「でしょ?そうでしょ?普通・・・(笑)」
どうも話がおかしいぞ・・・(笑)
「まさかぁ~・・・こんな大きな石を仏壇に置こうとしてたんじゃないでしょうね?(笑)」
「えへへ・・・・(笑)」
「それじゃ、子々孫々には迷惑だわ~(笑)」
それにしても・・・デカすぎる石である。
“ステラさん”が血相を変えて言う・・・・(笑)
「本当は駄目ですけど、ホテルでよく水で洗ってくださいね」
石の持ち出しが駄目というより石に付着している雑菌を日本に持ち込んではマズイのだ。
が・・・これ・・・空港で見つかるんじゃない?
両手で抱えるような・・・こんな大きな石・・・(笑)
X線のチェックで見つかったら没収である。(笑)
まぁ、不法持ち出しで逮捕ということまでにはなるまいが・・・(笑)
見つからねぇわけねぇよなぁ~こんな大きな石!(大笑)

ワ~ワ~笑いながらの慰霊の準備である。
英霊は呆れているか、笑っているか・・・
どこかで見ていてくれているだろう・・・・

旅行 | 14:50:07 | Comments(0)
慰霊地をどこにしようか・・・
バレテ峠を越えて、今度は下り坂・・・・
サンタフェに到着。
ここは昔からある「宿場町」という感じの集落である。
ここには一時期、戦闘指令所や野戦病院もあったらしい。
この集落から西に向かって山道を入っていくと、サラクサク峠がある。
そこが祖父が戦っていた場所。
米軍は、サラクサク峠を越えて西からこの国道5号線を寸断するよう横切る作戦だった。
そのため、祖父たちは時間稼ぎの戦闘を続ける。
600名対米軍1個師団(米第32師団)である。
米軍は約2万名弱くらいいたであろう。
フィリピンに来る前はニューギニアで日本軍と戦った実戦経験のある部隊である。
600名の祖父の部隊は、一気に50名まで兵力を消耗。
この時に、戦車を失い歩兵化していた戦車第2師団が投入された。
激闘すること3ヵ月にも及び、結局、米軍は峠を突破できず諦める。
その代わり、第10師団が守る国道5号線上のバレテ峠が突破されてしまった。

このサンタフェを通過して北上へ逃げる日本軍将兵や在留邦人など民間人の退路を守るため祖父たちは戦っていたのである。
ある生還者から「あなたのおじいさんには会ったことはないが、サンタフェを通過する時に鈴木部隊が米軍を食い止めて頑張っているから今のうちに早く通過しろと言われたので名前だけは知っている。そういう意味ではあなたのおじいさんには恩義があるんだ」と言われて感激したことがある。
そのサラクサク峠には慰霊碑が建っているが、ここから更に山奥へ行く時間的余裕はない。
残念ながら、祖父の部下達のお参りには行けない。
今回は“サトウさん”ご家族がメインであるから・・・勘弁願おう。
たぶん「いいよ~」って言ってくれるだろう・・・と勝手に解釈し・・・(笑)
サンタフェのガソリンスタンドでトイレ休憩、一服して・・・さらに北上する。

今日の昼食はバヨンボンでとるのがいいのではないかと“ステラさん”と話をしていたのだが・・・
なんと、ドンピシャ!12時にバヨンボンに到着!(笑)
お~お~!完璧な旅行ではあるまいか?(大笑)
バヨンボンにあるサパー・インというホテルのレストランで食事をする。
このホテルは、よく日本の慰霊団が宿泊するホテルである。

DSC04348_convert_20100506174647.jpg(ホテル)
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ホテルの従業員と“ステラさん”と私の3人で“サトウさん”の慰霊地の検討をする。
川の近くでの慰霊がいいと思うのだが、問題はどのあたりがいいかということ。
アンガダナンという街が川の近くにあり、そこから川岸に行けるとのこと。
そのほかの場所からは川岸に行く道はなさそうだという。
とにかく、アンガダナンを候補地の一つとしよう!
“ステラさん”が「アンガダナンが目的地ですか?」と言う。
そうじゃなくて、単なる拙者の勘である。(笑)
だから、候補地の一つ。
現地に行ってみなければわからない。

まだ出発するには、ちょっと時間がある。
タバコを吸いに外に出たついでにホテルの周囲を調査。
ホテルの前あたり1ブロックなら歩いても安全そうである。
車の窓から景色を見ているだけではよくない。
少しは街の中を散策しなくては、思い出というものが残らない。
エアコンの効いた車の中にいるばかりでは、外の暑さを経験できない。
というわけで・・・“サトウさん”ご家族を誘ってホテルの周囲を散歩することにした。
が・・・“ステラさん”がちょっと嫌な顔をしたのが気になる。
ん?何かあるのか?
まぁ、よかろう・・・
ホテルの前の道を1ブロックだけ歩いてすぐにホテルに戻ることにする。
と・・・後から“ステラさん”が追いかけてきた。(笑)
何かあったら大変ということで心配して追いかけてきたのである。(笑)
拙者の事だから無茶をするんじゃないかと思ったのだろう。(笑)
一人旅なら無茶もするが、今回は別である。
1ブロックだけしか歩かないよ。(笑)
雰囲気を感じるだけだから大丈夫。(笑)

DSC04351_convert_20100506180132.jpg(街の中)

“ステラさん”が血相を変えたということは、この町を単独で散策するのは危険ということなのか?
このバヨンボンは北へ向かう日本軍、民間人が滞留した場所である。
在留邦人などはここにいくつかの集落を作って自活生活に入っている。
その跡地はどうなっているのか知らないが・・・
たしか、「大和村」とか、何だとかと日本語の村の名前を付けた集落を作ったらしい。

ここからエチアゲに向かう。
約2時間後、エチアゲの町に入るが・・・
どこか適当な場所はないものか・・・
ここがエチアゲですよ~と分かるような場所で記念写真を撮っておきたい。
で・・・エチアゲ・イースト・セントラル・スクールという学校の前で写真を撮ることにする。
「ECHAGUE(エチアゲ)」という文字が一緒に写れば証拠写真である。(笑)

DSC04354_convert_20100506182015.jpg(学校)
DSC04352_convert_20100506182306.jpg(学校の前の道)

更に前進!
アリシアという町を通過して・・・そのままカワヤンまで向う。
“ステラさん”が「アンガダナンへ行くんじゃないんですか?」と驚いた。
いや、こっちの方が驚いちゃうんだけど・・・(笑)
アンガダナンはあくまでも候補地の一つである。
カワヤンは一度行かねばならぬ場所だから・・・このまま進む!(笑)

“サトウさん”のおじいさんは、独立歩兵第179大隊(一瀬部隊)第3中隊第3小隊の小隊長だった。
ルソン島北端のアパリから南下してカワヤンに駐留していた。
戦況が急迫し、駐留地を出発し南下して北上して来る米軍と戦うことになったらしい。
で・・・一瀬部隊の先頭を切って南下していたが、途中で米軍と遭遇、戦車による攻撃を受ける。
小隊長は戦うのは無謀ということで物陰に隠れ戦場を離脱。
途中で川を渡り東方の山地へ向かったが、小隊長は途中で病死したという。
これが、“唯一の生還者”の証言らしいのだが、どうも腑に落ちない点が多い。
この証言は生還者が直接語ったのではなく、間に入った方が聞いた話として伝わっている。
間に入った人が会った時にこの生還者は「あまり話をしない人」だったという。
拙者の祖父もフィリピン戦については全く体験談を語ることはなかったが、遺族に対しては何時間にもわたって事細かに最後の様子を話していた。
遺族に対しては生還者はだいたいそういう丁寧な対応をするはずなのだが・・・
小隊長と最後まで行動を共にした人にしては証言があっさりしすぎている気がしないでもない。
“唯一の生還者”のこの証言は正直言ってあまり信用できない気がしてならない。

カワヤンにいたことは確かである。
ここから南下して米軍とぶつかったが・・・それはエチアゲだろうか?
米軍側の記録や資料を入手していないのでなんとも言えないが・・・
エチアゲまでは到達していなかったのではあるまいか?
その手前のアリシアあたり又はアリシアからエチアゲの中間地点あたりで衝突したのではないだろうか?
証言では、小隊長は戦闘を避けて「カワヤンの1~2キロの地点から川を渡った」という。
「カワヤンの1~2キロ」とはカワヤンを過ぎてというよりカワヤンの手前と考えていいだろう。
ということで、いずれにせよ、カワヤンまで行って検証しなくてはなるまい。

DSC04359_convert_20100506204710.jpg(カワヤンの入り口あたり)

走ること約40分ほどでカワヤンの入り口付近に到着。(写真の白いワゴン車が我々の車である)
ここのトライシクル乗り場(日本でいえばタクシー乗り場)でトライシクルの運転手たちにカガヤン河の川岸に向かう道があるかどうか尋ねてみたが、そういう道はないという。
当時、逃避行している人が、道がないから川には行かなかったとは言えまいが・・・
少なくとも我々は慰霊のために川岸には行けない。
簡単な略地図では、道路のすぐ脇を川が流れているように見えるのだが、この道路からは全く川が見えない。
“唯一の生還者”の「1~2キロ地点で川を渡った」というのは、どうだろうか?
信用できる証言だろうか?

もと来た道を戻ることにする。
少なくとも、“サトウさん”のおじいさんは、この道を通ったことは間違いない。
サンチャゴへ向かう道は、この道しかないのだから・・・・
当時と同じ道を走って亡きおじいさんを偲んでもらうことにする。

DSC04368_convert_20100506205823.jpg(カワヤンからエチアゲに向かう道)

やっぱり、どうも納得できない。
車で40分近くかかる1本道を真っすぐ引き返して、カワヤンの1~2キロ手前で川を渡るというのは考えられない。
ここは遺族の方の御意見も伺わねば・・・・
お二人とも、この1本道を引き返してから川を渡るというのは不自然な気がすると拙者と同意見である。
1本道を真っすぐ戻ったら、相手は戦車である。
すぐに追いつかれてしまう。
となると・・・道の左右どちらかに道を避けて逃げるのが自然ではあるまいか?

エチアゲからアリシアに向かう道は逆L字に曲がっている。
もし戦闘に巻き込まれたのがこのあたりだとすると・・・・
左に逃げるとエチアゲの町に向かうようになるから敵に近付いてしまう感じなので、もし拙者だったら右へ逃れる。
右へ逃れれば、そこはカガヤン河に向かうことになる。
アリシアの街で米軍と遭遇した場合も同様で、やっぱり右方向へ逃れるだろう。
右へ逃れると・・・・アンガダナンの集落へ向かい、その先はカガヤン河である。
昭和20年当時、アンガダナンという集落があったかどうかは知らないが・・・
敵と遭遇して退避するとすれば道の右方向・・・アンガダナンの方へ行く・・・・
これが理にかなっているのではあるまいか?
ということで・・・アンガダナンへ向かうことにした。

ドライバーの“クリスくん”や“ステラさん”は、同じ道を行ったり来たりして無駄なことをしているように思っていたかもしれないが、考えられるだけのことを考えるためにも、この行動は必須なのである。
現地に足を運び自分の身で体験する。
65年も過ぎてしまっているが、追体験をしてみることは大事なのである。
そのうえで、少しでもベターな判断をする。
戦後65年も経っていては、どうしたってベストの判断は無理なのだから、少しでもベターな判断をせねば・・・と思うのである。


より大きな地図で カワヤン を表示

旅行 | 13:09:20 | Comments(2)
一気にエチアゲへ向かう
さぁ、今日は更に強行軍である。
一気にエチアゲまで走る!
多分、ここから200km以上あるんじゃないかな?

DSC04326_convert_20100506100308.jpg

朝食を食べて8時にはホテルをチェックアウトして出発!
国道5号線を北上する。
1時間後・・・ヌエバエシア州のムニオスに着く。
この地は、我が戦車第2師団が米軍と激闘した場所である。
セントラル・ルソン・ステイト・ユニバーシティがある。
日本語ではなんていうんだろう?
中部ルソン州立大学?中央ルソン公立大学?(笑)
この大学があるあたりに戦時中は日本軍の司令部があったようだが・・・
今度よく調べておこう。

DSC04333_convert_20100506101303.jpg(大学)

国道5号線上で「歩道橋」があるのはここだけではなかろうか?(笑)
日本では珍しくはないが、フィリピンの郊外で歩道橋を見かけるというのは・・・まず皆無である。(笑)

DSC04330_convert_20100506101733.jpg(歩道橋)
DSC04328_convert_20100506102052.jpg(国道5号線)

並木道があるのもここだけである。
“サトウさん”のお母さんが、この並木道が綺麗なので写真を撮りたいということで、ここで車を降りて小休止。


より大きな地図で ムニオス を表示

ここから約20分後、サンホセに到着。
ここのレストランでトイレ休憩。
このレストランにも以前来たことがある。
もう10年ぐらいまえのことである。
当時、空き地だった隣りに洒落たレストランが建っていた。
まぁ、10年も経てば変わるのも無理はないか?(笑)
しかし、その他の景色は・・・変わってないなぁ~(笑)

DSC04338_convert_20100506104816.jpg(レストラン)
DSC04337_convert_20100506105158.jpg(サンホセ)

このサンホセは、当時は交通の要衝で、兵器、食糧の集積所でもあった。
道路の両脇に大量の物資が積み上げられて各地への輸送を待っていたが・・・・
米軍の空爆で灰燼に・・・・
なんと杜撰な管理だろうか・・・
この地を訪れるたびに昭和20年の景色を想像してしまうのである。
あ~なんというもったいないことを・・・・
大量の物資が失われていなければ・・・と、ついつい思ってしまうのである。

更に北上し・・・・プンカンに着く。
小さな集落で、地図にも載っていない場所である。
ここの道路脇に歩兵第10連隊関係の慰霊碑がある。
“サトウさん”の部隊とは全く関係ないのだが、ここで下車して慰霊碑をお参りする。

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慰霊碑が十字架の形になっているのは、十字架ならばキリスト教徒のフィリピン人に荒らされることはないだろうということだろう。
民家の庭に建っていて、ここの住民が管理しているが、今日は子供だけしかいない。
どうも大人は仕事に出かけているようだ。
以前も、ここに訪れた時にわずかだが「管理料」として謝礼を渡したのだが、まさか子供に現金を渡すわけにもいかないので、今回は“サトウさん”持参のキャンディーを子供たちに配ってもらうことにした。

この場所は当初、拙者の祖父の部隊がここに陣を張ったのであるが、地形的に敵の浸透を受けやすいため別の場所に移動した。
このことは師団司令部にも進言し、許可を得て移動したにもかかわらず、祖父の立ち去った後に歩兵第10連隊の一部を主隊とする別の部隊に陣地を築かせたのである。
で・・・結局、祖父の予想通り、敵の攻撃を受けた時に周囲から敵に浸透され、守り切れず玉砕してしまったのである。
なんで、こういうことをしてしまったのやら・・・・
祖父が「ここは駄目だ」と進言していたというのに・・・・
昨年、作戦参謀にお会いする機会があったので問いただしてみたら「方面軍の指示だったから仕方がなかった」との答えだった。
どうも言い訳がましくしか聞こえなかったが・・・
あたら貴重な命を無駄に失ってしまった。
もっと地形的にいい場所に陣地を作っていたら、もっと実力を発揮できたものを・・・・
何が悔しいって、自分の実力を思う存分発揮させてあげなかったことである。
可哀そうである。
さぞかし辛かったろう・・・・
祖父は師団の中でも一目置かれた連隊長だったらしいので、自分の判断は上級司令部から認められ移動できたのだろうが・・・この部隊は、命令に従わざるを得なかったのだろうか・・・
いつもここをお参りするたびに悔しいなぁと思うのである。
祖父たちの進言が役に立たなかったことが、なんとも悔しい・・・・

と・・・・ちょうど大型観光バスが通りかかった。
日本人の団体のようである・・・・が・・・・
わずか1~2分間停車して窓から写真を撮って・・・通り過ぎていった。
なんだ?あいつら?
“ステラさん”の話では、今日、こちらの方面からマニラに戻る日本の慰霊団があるという話を聞いているので、多分、あのバスがそうではないかと言う。
バスを降りてお線香をあげてやらないのか?
慰霊碑は道路のすぐ脇である!
拙者たちを写真に撮ってどうしようって言うんだ?(笑)
だから、団体の「慰霊団」っていうのは嫌いなのだ。
大型観光バスで移動するから長時間車を止められないのはわかるが・・・・
窓から見て通過・・・・では、慰霊になるのだろうか?
時刻は午前10時・・・・
今からマニラに戻って市内観光と免税店でのショッピングか?
団体の「慰霊団」はこれだから嫌いである。

更に北上・・・・
バレテ峠に着く。
ここにも日本の慰霊碑があるが、“サトウさん”のお母さんには丘の上まで歩くのはちょっと大変だろう。
ということで、ここは車窓から丘を見てもらうということで通過することにする。
慰霊碑の横まで車が入っていけるのなら慰霊をしたいところだが、坂道を歩いていかねばならないので無理だ。
英霊には申し訳ないが・・・勘弁してもらおう。
ここは第10師団を主力とする部隊が守っていた場所。
さきほどのプンカンに小部隊を配置して国道5号線を北上して来る米軍を迎え撃つ。
で・・・その後ろの峠に主力が強固な陣地を構築して防衛線を築いたわけだが・・・
結局は激戦のうちに突破されてしまったのである。
ここの慰霊碑の下には、この周辺から収骨した遺骨を荼毘に付した後の遺灰が埋葬されている。

旅行 | 09:57:48 | Comments(2)