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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
57歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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フィリピンのお土産
何だかんだと遅くなってしまったが、今日になって、松本市にお住まいの“ミヤザワさん”にフィリピンのお土産を郵送する。
“ミヤザワさん”は我が戦友会の会員で、戦車第6連隊の戦友である。
今年94歳になられる。
昨年御自宅を訪問してから御無沙汰してしまっているので、お土産の乾燥マンゴーをお送りして近況報告をする。
が・・・
よく考えたら、乾燥マンゴー・・・噛めるだろうか?(笑)
駄目な時は・・・しゃぶってもらうしかないかぁ~(笑)


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日記 | 21:25:20 | Comments(0)
十三参り
昨晩、妹と中1の姪っ子が東京からやってきた。
午前中に、お墓参りに行き、午後、村松虚空蔵尊に姪っ子の十三参りに行く。
久し振りの村松虚空蔵尊の訪問である。
確か、2年前に甥っ子の十三参りに来たような憶えがある。

村松虚空蔵尊は日本三体虚空蔵の一つなのだそうだ。
あとの二つは伊勢と会津にあるという。
村松虚空蔵尊は平安時代初期に弘法大師によって創建されたらしい。
・・・ということを今頃知った。(笑)
拙者もここに十三参りに来た事がある。
小学6年生の頃だったと思うが・・・・
しかし、そもそも「十三参り」って何の事だか知らない。(笑)
自分の時も妹や弟の時も一緒に来たのだと思うが・・・・
さらに、姪っ子、甥っ子を連れて来ているのだが・・・
実は何も知らずに来ているのである。(笑)
一番下の姪っ子にくっついて来た今回の「十三参り」が拙者にとっての最後の「十三参り」になるだろう。
拙者には子供はいないし、今後も結婚することもあるまいから自分の子供の「十三参り」に同行することはあり得ない。
そう思うと、感慨深い・・・・これが、最後の「十三参り」か・・・

「十三参り」とは、生まれた年の干支が、初めて巡ってくる年(数え年の十三歳)に行われるのが十三参りなのだそうだ。
これは、今から百年ほど前から始まった行事で、数え年十三歳の男女が、福徳と智恵と健康を授けていただくために、親子ともども虚空蔵菩薩にお参りする習わしだったそうである。
最近では、あまり行われていないようだという話だが・・・
そもそも「虚空蔵菩薩」自体がどこにでもあるわけではないだろうから、そういうことになるのではなかろうか?
幸いにも我が家の場合はすぐ隣町に「村松虚空蔵尊」があるから、この行事を続けられたわけだと思う。

DSC04473_convert_20100612211238.jpg

護摩の申込みをして堂内で護摩祈祷(?)をしてもらう。
親父と妹、姪っ子に拙者の4人・・・・
他にも参加している御家族が何組もいて、「御家族皆さんで大変ですね~お父さんですか?」と隣りのオバサンに言われてしまった。(笑)
他人から見たらそう見えるよなぁ~(笑)
爺さんと、夫婦と13歳の子供1人・・・か・・・
妹とは夫婦だと思われても仕方がないかぁ~(笑)
なんと答えていいものやら・・・・

日記 | 20:43:55 | Comments(0)
駆逐艦戦隊
駆逐艦戦隊 (新戦史シリーズ)駆逐艦戦隊 (新戦史シリーズ)
(1994/07)
遠藤 昭原 進

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1 駆逐艦戦隊とは

2 水雷艇と魚雷
捕獲から撃沈へ
水雷艇の誕生
魚雷の発達
魚雷射出方式の変遷
日本海軍水雷艇の発達
対清軍備に着手
衝角水雷艇「小鷹」
日清戦争
世界最初の魚雷戦

3 駆逐艦と水雷艇
駆逐艦の誕生
対露戦備の促進
駆逐艦の外国発注
小型駆逐艦の国産
日露戦争
水雷戦隊の旅順口奇襲
日本海海戦における水雷戦
大型駆逐艦の発達
対米戦備の始まり

4 さまざまな駆逐艦
試作艦の連続建造
中型駆逐艦の量産
八八艦隊の建設
特型の建造
「吹雪」型の特長
艦艇類別等級とは
「初春」型建造経過
第四艦隊事件
大型化する駆逐艦
“韋駄天(いだてん)”駆逐艦「島風」
新対米戦略の確定
「松」型の建造

5 「沖風」、そして「春雨」へ
駆逐艦「沖風」
老朽駆逐艦「峯風」型
上海へ向かう
ふたたび輸送任務
揚子江沿岸に艦砲射撃
“水雷艇”という名の駆逐艦
「春雨」へ配属となる
待望の戦場へ
「春雨」の内地回航
緊迫する戦況
なつかしの「沖風」
「春雨」最前線へ

6 「春雨」飛雷、大破
雷跡右舷、回避ならず
必死の応急作業
艇首部大破、沈没はまぬがれる
ウエワクの海軍治療所
トラック島へ回航
僚艦、クラ湾に沈む
「春雨」再装備なる
トラック島へ向かう
待望の対潜水艦戦闘
浮上敵潜をとりにがす
トラックに大空襲
敵機来襲、緊急出港
対空戦闘、「春雨」勇戦
補助艦艇に大被害
連合艦隊、健在なり
工作艦「明石」
リンガ泊地へ移動

7 あ号作戦
リンガ泊地の空母群
タウイタウイ泊地
決戦の前夜に
囮をかねたビアク島支援
不吉な前兆か
最後の対空戦闘
「春雨」の最期
「春雨」」の沈没状況
ビアク島に突入
敵のレーダー射撃に苦戦
ふり切れるか、敵艦隊
アンボンで軟禁の日々
友よ、安らかに眠れ
「あ号作戦」失敗に終わる


本書の前半は駆逐艦の歴史について、その誕生などが詳しく書かれている。
よって・・・ちょっと専門的な部分もあって退屈かも・・・(笑)
後半は戦記・・・
駆逐艦「春雨」に乗組んだ原進という人の体験談である。
そういうわけで、遠藤さんという人と原さんという人の“共著”ということになっているようだ。
こちらは読みやすく戦記の好きな人は飽きない。
というわけで、マニアックな人もそうでない人も半分は確実に楽しめるという本だと思う。



今年の読書:14冊目



読書 | 22:19:36 | Comments(0)
バランスがいい食事?
いつものようにスーパーにお買い物。

で・・・レジの“おばさん”・・・・
「あらぁ~バランスのいい食事ですねぇ~」と言う。
「え?そうですか?」
「果物でしょ、乳製品でしょ、魚でしょ・・・・バランスがいいんじゃない?」
「はぁ・・・」
「強いて言えば・・・緑が足りないかな?」
「緑?・・・・あっ、野菜ですね」
「そう、野菜が足りないけど・・・でも、結構バランスのいい買い物だわ」

どうしちゃったんだろ・・・・
この“おばさん”には何度も会ってるけど、誉められたことないんですけど・・・・(笑)

ほとんど毎日買い物に行っているスーパーなので、何日間か顔を出さないとレジの人達から「このところ見かけないので、また海外に行ってるのかなと思っていたのよ~」と声をかけられることはしばしばあるが・・・・
「バランスがいい買い物をしている」」なんて誉められたのは初めてである。(笑)
なぜか嬉しいものである。

日記 | 20:36:55 | Comments(0)
変な夢・・・・
昨晩、変な夢を見た・・・・

どういうわけかヤクザの中に交って、どこかの集会場のような場所にいる。
何でこんなところにいるんだろう?(笑)
ヤクザの兄ちゃんたちは、シラァ~とした顔で拙者を見ている。
確かに・・・場違いだよな・・・・
まもなく親分衆が会場に入って来た。
で・・・幹部らしい恰幅のいいヤクザが拙者の肩をポンと叩き、拙者の背中に何かを貼ったのである。
ん?何だ?何を貼ったんだ?
「そう気にしなくていい」とヤクザの幹部に言われたが・・・
拙者の背中を見て、他のヤクザが、途端に顔色を変えて次々と挨拶に来る。
「ご苦労様です!」と、やたらと丁寧なご挨拶。
おかしいな・・・急にどうしたんだろう?
背中に貼られたものが気になる・・・・
で・・・上着を脱いで見てみたら・・・・
「このお人は腕のいいスナイパーで暗殺のプロである」と書いてある。(笑)
何だこれ~!
幹部がやってきて、「そう怒るなよ。みんなにわかるようにやっただけなんだから・・・気にするな」と言う。
で・・・子分たちが集まってきて・・・・
「お宅さんは、かなり腕が立つんだそうですね?ご苦労様です。よろしく頼みます」と馬鹿丁寧・・・・
あらら?なに・・・それ・・・(汗)
今から暗殺の依頼をされるのか?
それで拙者はこの集会に呼ばれたのか?
マズイぞ・・・これ・・・・拙者は暗殺なんかしたことねぇもん!
かといって、いまさら出来ませんとは言えないよなぁ~この人たちの前では・・・・
とにかく、プロの暗殺者っていう顔をして偉そうにしているしかないか・・・
それにしても参ったなぁ~と思っていたら・・・・
いきなりスコープ付きのライフル銃を渡された!
参ったなぁ~使い方知らないんだけど・・・
これ、どうすんの?・・・・

と・・・思った途端にに目が覚めた。(笑)
なんというバカバカしい夢を見たんだろう。

日記 | 07:14:17 | Comments(0)
虫歯!
夕方、“キタミさん”の歯科医院に行く。
2年ぶりの訪問(笑)である。
本来は、半年に1回、歯の点検をしてもらい、歯石除去などの“お掃除”(笑)をしてもらうはずだったのだが・・・
とうとう2年も放置してしまった。
で・・・久々の“点検”である。
と・・・なんと!虫歯が1本!!(笑)
あらら・・・
早速治療・・・

点検の結果、歯槽膿漏はなかった。
これには“キタミさん”が呆れる。
「通説と反してるから説教も出来ないんだよなぁ~」と言う。
拙者はタバコを吸うが、タバコを吸うと歯槽膿漏になるのだそうだ。
だから「タバコはやめましょう」と患者さんには忠告するのだそうだが・・・
拙者の場合は、これに当てはまらない。(笑)
タバコは1日に2箱も吸うわ・・・
3度の食後に歯を磨けというのに、歯は夜寝る前に1回しか磨かないわ・・・(笑)
歯ぐきのマッサージなんか全然しないわ・・・
それで、歯槽膿漏にならないし、歯も他の人ほど汚れていないし、歯石も大して付いてない。
こういう通説を覆す“患者”には、タバコをやめろと言っても説得力はない。(笑)
「困るんだよなぁ~」と苦笑された。

とにかく歯の質はかなりいいらしい。
体質というか遺伝というか・・・
いくら丁寧に磨いても虫歯になる人はなるし、歯槽膿漏が進行する人はどんどん進行するという。
“立派な歯”を授けてくれた母に感謝だな。(笑)

治療と点検後に、一緒に夕食を食べに出かけ、いつものパターンで酒を飲みに行く。

日記 | 00:28:47 | Comments(0)
コピー!
今日は、帰国早々、“シミズくん”の会社にお邪魔する。
フィリピンで購入した地図のコピーをお願いする。
この地図・・・デカイのである。
A1というサイズかな?
コンビニなどに置いてある普通のコピー機ではコピーできない。
今後、書き込みやら何やらで使う時に、なけなしの地図に直接書き込んだのではもったいない。
何枚かコピーしたものに書きこむようにして原本は保存しておきたい。
彼の会社は建築設計事務所なので、こういう大きな用紙のコピーができる。
というわけで、以前にもお願いしたが、今回もまた・・・タダで・・・(笑)コピーしてもらう。

で・・・その後、一緒に夕食を食べに出掛ける。

日記 | 00:19:49 | Comments(0)
日本の陰謀
日本の陰謀―ハワイオアフ島大ストライキの光と影 (文春文庫)日本の陰謀―ハワイオアフ島大ストライキの光と影 (文春文庫)
(1994/09)
ドウス 昌代

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序章 ダイナマイト爆発(1920年6月3日 ハワイ島オーラア耕地)
深夜の爆発音
坂巻銃三郎という人物
逮捕された二人の容疑者
誰も多くを語らなかった
坂巻事件の本質

第1章 FBIファイル(1986年5月 米首都ワシントン)
FBI報告の中の要注意人物
T・ツツミという日本人
洋上の日本村ハワイ
ハワイの日本移民史
第一次オアフ島ストライキ前夜
渡米日本人の要注意人物
日本語学校取締り

第2章 ストライキ(1920年1月 ホノルル)
ジョー・ヒルの受難
ハワイ日本人労働団体連盟会の結成
増給要求「一日・1.25ドルを我らに」
パルマー大検挙
「仕事はやめだ」スト突入

第3章 日本の陰謀(1920年2月 ホノルル)
ハワイ日本化の恐怖
イアウケア知事代理の声明
耕主組合弁護士、トンプソンの策謀
捏造された「堤発言」
猖獗をきわめるスペイン風邪
消えたパルマー牧師調停案
耕主組合の反撃
連盟批判
『布哇報知』社長、牧野金三郎
七十七セント旗行進
スト中止指令前夜
「本日より復業を命令す」
吹き出る連盟本部批判
空前の大黒字
新大統領ハーディングの愛国主義

第4章 告発(1921年8月1日 ホノルル)
甦った坂巻宅爆破事件
裁判官・陪審員・検察官・弁護人
サカマキ証言台に立つ
「共犯者」マツモトの登場
ライマー弁護人の反対尋問
運転手・アラガキの証言
もうひとりの検察側証人、I・斎藤
不審な元連盟幹部・鈴木晴一の証言
被告・星野忠平のアリバイ
連盟幹部・宮沢寛の証言
アリバイ成立
「大物」ノボル・ツツミ証人席につく
ヒーン検事の反対尋問
滝沢勘一、川又文雄の証言
証人尋問終わる
最終弁論
裁かれたものは何か
審判下る「全員有罪」

第5章 中国人再輸入法案(1922年6月 米首都ワシントン)
マッカーシー知事の日本脅威論
奥村多喜衛牧師の排日予防運動
もうひとりの主人公デリングハムの登場
下院「ハワイに於ける労働問題」公聴会
AFLの壁
「坂巻宅爆破事件起訴」の絶妙のタイミング
AFL・ゴンパーズの反撃
上院公聴会
ワシントン会議と日米移民問題
堤隆の受洗
再開公聴会終わる
デリングハムの苦戦
「日本語学校取締り法」紛糾す
中国人再輸入法案の挫折

第6章 排日移民法案の通過(1924年春 米首都ワシントン)
ジョンソン移民法案提出
植原大使「覆面の威嚇」で法案通過
鬼畜米英への第一歩、日本国内沸騰す
連邦最高裁、坂巻銃三郎宅爆破事件上告却下
堤隆の帰国
登場人物たちのその後
日米開戦

さて・・・読み終えて振り返ってみたが・・・
う~ん・・・何の話だったろう????
全然、記憶に残っていない。(笑)
話は、ハワイの日本人移民のストライキの話と、会社側の通訳をしていた日本人宅の爆破事件なのだが・・・
よく、こんな昔のことを調べたものだと感心して読んだ。
が・・・内容は憶えていない。
どうもこういう「労働争議」の話というのは私には生理的に受け付けることができないらしい。
それにしても「日本の陰謀」というタイトルはいかがなものか・・・
ちょっと度が過ぎてはいないだろうか?
残念ながら何の印象も残らない、正直言って私にはつまらない本だった。



今年の読書:13冊目



読書 | 03:24:45 | Comments(0)
地図を買いに行く
今日は日本に帰る日である!
拙者としては珍しく早起きして(笑)、地図を買いに行くことにした。
なにせ、どこをどう走ったのか、エチアゲ周辺の地理がよくわからない。
やっぱり地図で再確認したいし・・・・
というわけで、早朝、“ステラさん”に付き合ってもらい地図を買いに出かける。

“お母さん”はフィリピンに慣れたのか、リサール公園を散歩したいと言っていたが・・・
とてもじゃねぇが危なくてお勧めできない。(笑)
ボディーガード役の拙者は地図を買いに出掛けたいからお伴は出来ない。
とにかく、あの公園を一人で散歩したら、いろんな連中がしつこく付きまとって来るんだから・・・
以前、一人で散歩した事があるが、その時に拙者は適当に話をしてあしらったりということで対処したが、“お母さん”達だけでは、とてもじゃないが無理であろう。
それに“サトウさん”は今晩、成田から車を運転して自宅に帰るので、少しでも体を休めておいたほうがいい。
ということで・・・とにかく部屋で大人しく待っていてもらうことにした。

ホテルの近くからジプニーに乗り、どこかの町へ・・・(笑)
以前、「マップセンター」は空軍基地の近くにあったが、その後移転したのだという。
「マップセンター」は日本でいえば国土地理院みたいなところかな?
一応、政府の機関らしい・・・・

ギュウギュウ詰めのジプニーに久し振りに乗り・・・・生温かい風に吹かれて(笑)見知らぬ街へ・・・
で・・・そこから古くて汚い(笑)建物が建ち並ぶ一画まで徒歩で向かう。
だいたい、ここがどこなのかさっぱり分からない。(笑)
拙者はマニラの町など滅多に歩かない。
歩いてもホテルの周辺のみ。
街の名前を言われても・・・どこなのかさっぱりである。

「マップセンター」は恐ろしく汚い古いビルの中にあった。
なぜか、看板の文字も色あせていて目立たない。
最近移転したと聞いていたんだけど・・・なんでこんな看板なの?
へぇ?これが「役所」?
路地裏を通った奥の方にある目立たない汚いビル・・・(笑)

イサベラ州のエチアゲ周辺の地図を頼んだのだが・・・・
係の“オッサン”が奥から持ってくる地図は毎回間違ってばかり。
おい!地図の番号が違うじゃん!
すったもんだして・・・イライラしながら・・・(笑)・・・ようやく手に入れる。
同じ地図を拙者の分と“サトウさん”の分と2枚づつ・・・
また、これが理解してくれないんだなぁ~・・・この“オッサン”・・・
「同じ地図を2枚づつ」がどうしてわからないんだよ!
「4種類の地図を2枚づつ」だってば!
途端に、この“オッサン”は・・・ポカ~ン!(笑)
なんで「固まっちゃう」の????
他にも入手したい地図もあるのだが・・・
こんな簡単なことですら、こんなにゴタゴタするんだから・・・・
更に別の地図を要求したら・・・何年かかるか分かったもんじゃない。(笑)
というわけで、今回はエチアゲ周辺の地図の入手だけで我慢・・・
急いでホテルに戻り、“サトウさん”にお土産として渡す。
おじいさんの慰霊の地の周辺の地図は持っていたほうがいい。
いい記念になると思うんだよね。

ホテルをちょっと早めにチェックアウトしてパコ駅跡に行く。
ここには高山右近の銅像が建っている。
普通のツアーの観光では、ここに来ることはまずないだろう。
拙者の得意なマニアックな観光(B級観光か?)である。(笑)
この小さな公園を少しブラブラして、拙者は掃除の作業員とおしゃべり。(笑)
彼の話では、なんと!8時間もかけてこの公園を掃除しているという。
清掃員は彼だけではなく、他に6人ほどいるのだが・・・
おい、おい、それでこんな小さな公園の掃除に8時間もかかるのかい!
暑いせいか?
働いているんだか怠けているんだか・・・さっぱりわからん。
「ちゃんと綺麗にしてくれよ~高山右近の銅像が建ってるんだから~」とチップを渡す。(笑)

これでマニラとはお別れである。
空港へ向かい、送迎係の“サンディー君”と落ちあい、搭乗手続き。
帰りは“お母さん”に窓際に座って空からのルソン島を見てもらわねば・・・・と窓際の席をリクエストする。
空港の職員は相変わらず・・・・
拙者のリュックを持って重さを計ろうとする。
で・・その後は、何らかの嫌がらせをするのであるが・・・
「問題ねぇだろ?」と言ったら、スンナリと通してくれた。
ボディチェックでは女性職員が露骨にチップの要求である。
あ・の・ね・・・・いじきたねぇったらありゃしない。
空港職員のレベルの低さは天下逸品である。
いつまでもグダグダと賄賂を要求してくる。
下手に渡したら、別の職員に別室に連行されるのは明らかである。
しかし、今回のしつこさには閉口した。

無事に定刻通りに成田空港に到着。
空港で“サトウさん”“お母さん”とお別れし、拙者は京成成田駅前のホテルに向かう。
ホテルのレストランで遅い夕食を・・・
と・・・店に入ったら・・・
親しげに、まるで拙者のことを知っているような顔をして迎えてくれた女性がいた。
「あらぁ~お久しぶり!」というような表情をしてニコニコしているのである。
普通、拙者を見て親しげな表情をする人は・・・・まず、いない。(笑)
知り合い?こんな美人と??(笑)
で・・・そのうち彼女が店のピアノを弾き始めた。
う~ん・・・そういえば、どこかで会った事があるような気がしないでもない・・・
しかし、どう考えても思い出せない。
かといって・・・聞くに聞けないしなぁ~(笑)
食事の方も消化不良になりかねない感じ・・・・・(笑)
会計の時「どうでした?」と声をかけられた。
「食事もおいしかったし、ピアノも良かったですよ」と答える。
「うわぁ~うれしい!どうもありがとうございます!」
う~ん・・・このやり取りの雰囲気、どう考えても初対面という感じじゃないんだよなぁ。
益々消化不良である。(大笑)
どこかで会ったことあります????
どこで会ったんだろ???
それとも人違い???
あ~駄目だ・・・わからない!(笑)

旅行 | 22:17:45 | Comments(0)
南ボネ
その昔、兵站病院があった「アリタオ」と「サンタフェ」のほぼ中間地点に「南ボネ」と呼ばれた場所がある。
地図にも載っていない場所だが・・・
そこに「戦車撃滅隊」の慰霊碑があるので、立ち寄ってお参りすることにした。
最後に訪れたのは、平成17年だから、5年ぶりの訪問となる。
5年も経つと景色が変わるものだ・・・・
当時は、柵などなかったが、いつの間にか柵が出来て、標柱まで建っていた。

DSC04454_convert_20100519231603.jpg

ここには第14方面軍教育隊の幹部候補生約500名が道路の脇に“タコつぼ”を掘って、“蒲団爆弾”(座布団のような形の爆弾)を抱えて潜み、敵戦車が来た時に飛びだして体当たり攻撃をかけた場所。

DSC04457_convert_20100519232542.jpg(サンタフェ方向を見たところ)

この向こうから米軍の戦車がやってきて・・・・
幹部候補生たちが体当たり特攻をかけたが、飛びだすタイミングが早すぎたため戦車の機銃でことごとくなぎ倒されたという。
500名のうちの殆どがここでやられた。
それを見ていたのが、このすぐそばにある高地に陣を張っていた「尾田部隊」の“ナカムラさん”
我が戦友会の一員である。
「尾田部隊」は戦車第2師団が北部へ撤退する時の殿(しんがり)を務めたという。
装備は全て米軍から分捕ったものだったそうで、おかげでかなり強かったとか。
武器が米軍製だと日本軍も強いのだ。(笑)
明治時代の鉄砲を使っていたのでは、勝てる戦いにも勝てねぇわなぁ~

DSC04462_convert_20100519233357.jpg

家の後ろに見えるのが「ボネ高地」
この高地の左のほう・・・ちょうど屋根の後ろあたりに見える窪地に“ナカムラさん”の陣地があった。
で・・・そこから右の方の大きな窪地のところが「大隊本部」があった場所だったと思う。
この高い位置から見ていたらしい。
「まだだ、早まるな!」と叫んでも道路上まで聞こえるわけがない。
あれよあれよという間にみんなが飛び出してしまい、あっという間にバタバタと倒れる。
そのうち、この高地にも戦車砲を撃ち込まれ、“ナカムラさん”のすぐ近くにいた戦友が吹き飛んだ。
たしか・・・そういう話を聞いたことがある。
一度、この高地に登ってみたいと思っているのだが、今もって実行できないでいる。
この高地から見降ろす場所に、やたらと蛍が集まる大木があったそうだ。
まるでクリスマスツリーのように輝いていたとか。
その大木って、どれだろう・・・
ずっと気になっていたのだが・・・うっかり、その大木を探すのを忘れた!
なんと忘れっぽい性格なのか・・・情ない・・・

DSC04459_convert_20100519234313.jpg

慰霊碑にお線香をあげてお参りする。

その後、「サンタフェ」のガソリンスタンドでトイレ休憩をして、更に南下・・・・
各地の慰霊も終わり、とにかくマニラへ急げ急げ!(笑)
来る時にトイレ休憩で立ち寄った「サンホセ」のレストランで昼食を食べる。
ちょうど時刻は12時!
いやぁ~なんとスムーズな・・・・
こんなに予定通りにトントンと進むなんて・・・
英霊のご加護だな。

DSC04465_convert_20100519235129.jpg

午後3時前には高速道路に乗り、一路マニラへ向う。
遠くに「アラヤット山」が見える。
「フク団」と呼ばれるゲリラの本拠地だった山だが・・・今もゲリラの巣窟なのだろうか?

DSC04467_convert_20100520005534.jpg

途中のサービスエリアで休憩!
「スターバック(?)」でコーヒーを飲んで一服する。
なにせ拙者と“ステラさん”はスモーカーなので、ちょくちょく休憩してタバコを吸わないと・・・死んじゃうのだ!(大笑)

マニラ市内の入り口はかなりの渋滞が予想されたが、時刻が早かったせいか、思ったよりスムーズに市内には入れた。
これがちょっとでも遅くなると大渋滞となる。
なんと運のいいことか・・・
で・・このままホテルにチェックインするのはもったいない。
まだ外は明るいので・・・
車窓からの市内観光をすることにした。
当初は、観光は不要とのことだったが、マニラ市内を見ないで帰国というのも如何なものか。
車窓からでいいから、ちょっとだけでも有名な場所を廻っておいた方がいい気がする。

「リサール公園」の周りを走り、「フォート・サンチャゴ(サンチャゴ要塞)」の入口へ・・・
本来はここから徒歩で城壁内に入り、ホセ・リサールの記念館を見学ということになるが・・・・
車窓から城壁を見るだけに留める。
続いて、スペイン時代の要塞都市「イントラムロス」を通って、世界遺産の「サン・オーガスチン教会」へ・・・
パッとしない建物なのだが(笑)、一応、世界遺産なので車から降りて見るのもいいかなと思ったが、“お母さん”は降りる気がないとのことなので軽く通過!(笑)
写真撮らなくていいのかなぁ~、一応、世界遺産なんだけど・・・(笑)

市内観光はこれで終了!(笑)
ホテルにチェックイン。

旅行 | 22:30:10 | Comments(0)
ソラノ
途中、「ソラノ」という町で車を止めてもらう。

この旅に出る前に我が戦友会の“ミヤザワさん”にお手紙で北部ルソンへ慰霊に行くことを伝えた。
お返事には、終戦の時、山から下りてきて「ソラノ」という町で米軍に投降したという。
“ミヤザワさん”は戦車第6連隊の指揮班長。
大東亜戦争緒戦のマレー半島攻略戦にも参加した歴戦の勇士。
「勝ち戦と負け戦の両方体験しているんだ」とおっしゃっておられた。
今年、94歳になるだろうが、まだまだお元気なご様子。
しかし、もうここへ来ることは年齢的にも無理だろうから・・・
「思い出の地」の写真を撮って送ってあげようと思うのである。
「今は、こんなふうに変わっています」というご報告をしてあげよう!
というわけで・・・拙者の都合でこの街に一時停止!(笑)

DSC04443_convert_20100518223323.jpg

日本軍の高射砲が置いてあったので、この周辺の写真を撮るが・・・
ついつい興味は大砲の方へ・・・(笑)
刻印を探したが残念ながら見つからなかった。
う~ん・・・なんていう高射砲なんだろうか?(笑)
本当は、道の向こう側からも撮影したいのだが・・・
そんなことをしたら、“ステラさん”が血相変えて追いかけてくるのは間違いない。(笑)
拙者としては、どうしても写真のアングルというのを考えてしまうのだが、「ガイドさん」というのは、そこまでは考えない。
一人で道路を渡るなんて、とんでもないことだ・・・ということになる。(笑)
あまり心配をかけては申し訳ないので・・・(笑)
ここは、我慢、我慢・・・
取りあえず、“ミヤザワさん”へご報告用の写真を撮れたからいいかぁ~
うまく町の様子を伝えるアングルでは撮れなかったが、やむを得ない・・・・

と・・・ここで気が付いた!
エチアゲ!!!
しまった!忘れていた!
エチアゲの飛行場跡に行くのを忘れてた!
たしか・・・大本営特種情報部の“カワライさん”は、このエチアゲの飛行場から台湾へ脱出しようとしたと聞いたような記憶がある。
その飛行場跡の写真も撮影しようと思っていたのに・・・すっかり忘れていた!
やっちまったぁ~
フィリピンへの米軍の反攻が始まった頃だと思うが、大本営から在フィリピンの特種情報部員に帰国命令が出た。
特種情報部は米軍の暗号解読をしていた部門である。
フィリピンには15名ぐらいいたようで、各自、それぞれバラバラに別れて脱出を試みたという。
たしか、エチアゲで台湾から来る飛行機を何日も待ち続け、ようやく来た飛行機に乗り込もうとした時のこと。
ちょうど、同じように飛行機を待っていた陸軍大尉さんがいたという。
“カワライさん”は当時独身、その“大尉さん”は妻子持ちだった。
さぞかし1日でも早く日本に戻りたいだろうということで、席を譲ったそうだが・・・
残念ながらその飛行機は台湾に着く前に米軍戦闘機の餌食となってしまった。
「あの時に席を譲らなければよかった・・・」と今でも後悔していると言う。
しかし、これも「運」である。
結局、特種情報部員の中で無事に日本に帰れたのは、海軍の潜水艦に便乗した1人と“カワライさん”の2人だけ。
他の人達は、飛行機を撃墜されたり、その後行方不明になったりで全員戦死、帰還していない。
エチアゲから飛行機で脱出したのか、アパリまで行って脱出したのか・・・
肝心なところが思い出せないのだが、少なくともエチアゲの飛行場は「思い出の地」のはず。
そこの写真を撮って送ってあげようと思っていたのだが・・・
忘れた!
またもや、別の意味での不覚である!!!(笑)

一人でまた来るしかないな。
どうして肝心なことを忘れてしまったのか・・・
いや、なんで思い出さなかったんだろう?
多分、「もう1回、こっちへ来い」と英霊がそうさせたのかな?(笑)
そういう気がしないでもない・・・

旅行 | 22:16:47 | Comments(0)
不覚!
オリオン峠の慰霊を終え、マニラに向かい更に南下する。

移動中は車内であ~でもねぇ、こ~でもねぇとおしゃべりをする。
我がワゴン車は広くて快適!
2列目に“サトウさん”と“お母さん”
拙者と“ステラさん”は一番後ろの3列目・・・・

ふと・・・前の席を見ると、“お母さん”がビデオで外の景色を撮影してた。
あれ?
「もしかして・・・“お母さん”、ビデオを撮影してます?」
「はい」
「もしかして・・・私の声が録音されていませんか?」
「はい」
「あのぉ~そこの部分・・・消去出来ないですかね?」
「だめ~!(笑)日本に帰ってから見るんですから・・・旅行の思い出を楽しむのぉ!」
ギョェ~!!
それは、マズイ・・・(汗)

なぜかというと・・・
ちょうど、撮影中に拙者が喋っていたのは・・・「インキン・タムシ」の話なのである!(笑)
マズイだろ~・・・これ・・・
子々孫々まで、この記録が残ってしまうのか?
日本に帰って、親戚中でビデオを見た時に・・・・マズイ!!
フィリピンの景色の後ろに流れる拙者の話が「インキン・タムシ」の話では・・・マズイ!!(笑)
やっちまったぁ~
一生の不覚である!
とても「慰霊の旅」とは思えないような話の内容である・・・(汗)
あ~あ~やっちゃったぁ~
真面目な「慰霊の旅」なのになぁ~
つい・・・気が緩んで・・・変な話をしてしまったぁ~
それがビデオに“録音”されるとは・・・
ショックである。(涙)
車内は大笑い!
参ったぁ~

それにしても、メールだけのやり取りで、今回の旅が決まったわけで・・・
考えてみれば、見知らぬ同士で、よくもトントンと話が進んだものだと不思議に思う。
こちらは「男」だしねぇ~
「変な人」と思われて警戒されてもおかしくないと思うのだが・・・(笑)
知人に「フィリピンゲリラと遭遇するより、お前が同行することの方が危ない(笑)」と言われたくらいだし・・・(大笑)
気になったので尋ねてみたら・・・
“サトウさん”は拙者に対して何の疑いも持たなかったという。
“お母さん”は「一緒に行ってくれるなんて、世の中には奇特な人もいたもんだぁ~」と思っていたという。(笑)
縁とは不思議なものである。
“お母さん”とは勿論初対面だが、初対面という気がしない。(笑)
以前から知っている「親戚のおばさん」という感じなのである。
“サトウさん”は拙者と同い年だが、どことなく妹に雰囲気が似ている。(笑)
音大を出て音楽の先生になったところも同じだから・・・なんとなく似るのだろうか?(笑)
音大出身の音楽の先生がみんな同じタイプとは思えないのだが・・・(笑)
とにかく雰囲気が似てるとなると、いつの間にか妹に話しているのと同じ調子になってしまうのである。
それがいけなかったんだなぁ~(大笑)
だから「インキン・タムシ」の話になっちゃったんだ。
言う事やる事が“寅さん”にそっくりだと昔から妹に馬鹿にされていたが・・・(笑)
思わず“地”が出ちゃったんだなぁ~

初対面とは思えないお二人との楽しいドライブなのだが・・・
果たして「慰霊の旅」が「楽しいドライブ」で良かったのやら・・・
複雑である。(笑)
「不謹慎」ではなかったか?
反省、反省・・・・である。(いまさら遅いけど・・・笑)

旅行 | 21:57:13 | Comments(0)
オリオン峠
オリオン峠の慰霊碑・・・・見つけた!
が・・・意外にも道路の脇にある!
あれ~イメージが違うんだよなぁ~(笑)
山の頂上にあると思っていたんだけど・・・
こんなとこ?(笑)

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慰霊碑は学校のようなところの脇にあったが・・・
廻りはフェンスで囲まれていて、しかも、ブロックが積まれつつある。
どうも工事中のようなのだが・・・・
あれ?入口がない!(笑)
そんなバカな・・・
と・・・
近所の人たちが集まってきた。
どうもこの慰霊碑の管理をしている“おばあちゃん”が身ぶり手ぶりで、ブロック塀を乗り越えて中に入っていいと言ってくれたので・・・(多分そう言っていたと・・・思う・・・笑)
ブロックを乗り越えて中に入ってみたら・・・・
あれ!!!
なにこれ!!
一瀬部隊の慰霊碑じゃないですか!
これにはさすがに驚いた。
「オリオン峠の慰霊碑」というのは知っていたが、まさか一瀬部隊のものとは思わなかった。
事前の勉強不足である。

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この碑は昭和59年に建立されている。
その建立した人(団体?)が、お金を出して、周囲の整備をさせているのだそうだ。
ブロック塀はその工事途中ということだそうだ。
最近では、戦友会、遺族会が解散となり、慰霊碑の管理費を払う人がいなくなり、フィリピンでは次々と慰霊碑が撤去されているというのに、ここは整備しているんだから大したものである。
慰霊碑の裏面に長文の英文で碑文が刻まれているが、日本文は「一瀬部隊玉砕散華之戦跡」としか記されていない。

ここオリオン峠には二宮大隊(独立歩兵第184大隊)がいたが、この部隊は別な場所に転進し、代わりに一瀬大隊(独立歩兵第179大隊)、山下大隊(独立歩兵第175大隊)が陣を敷くことになる。
この峠でサンチャゴに向かい北上してくる米軍を迎え撃つということなのだろう。
昭和20年6月9日に一瀬大隊(独立歩兵第179大隊)の2個中隊が到着している。
6月12日の夜にはサンチャゴにある第103師団司令部まで砲声が聞こえたという。
たぶん、この頃から戦闘が始まったのだろう。
13日には大隊長の一瀬末松大佐(陸軍士官学校26期)が戦死し、山下大隊の山下大隊長が指揮を執る。
14日には師団司令部のあるサンチャゴが砲爆撃を受け戦車も侵入してきたというが、一瀬、山下両大隊は15日までオリオン峠の一角を保持していたという。
『戦史叢書』によれば、こういうことだそうだ。

また、一瀬部隊は、本部と4個中隊の他に銃砲隊と作業隊があり、総勢1100名の部隊だったらしい。
で・・・戦後の調査では・・・
戦死500名、生死不明400名、戦病死200名で・・・合計すると1100名・・・
つまり、玉砕したということになる。
“サトウさん”のおじいさんは、生死不明の400名か戦病死の200名の中に入っていることになるが・・・
それにしても生死不明が400名とは多すぎる。
これは、大隊本部が各中隊の状況を把握していなかったためではあるまいか?

この旅の事前に、多少資料などを探したが、その中に生還した衛生兵が昭和38年に証言した記録があった。
それによれば、オリオン峠には本部と第1、第2、第3中隊が1日おきに峠に到着し、その後、第1、第2中隊は殆ど消滅したという。
消滅とは、まさしく消えてしまった・・・ということだろう。
全滅したのか、それとも散り散りになったのか・・・その姿が見えなくなったらしい。
戦果を挙げたのは第3中隊のみだったという。
斬り込み隊は、戦車1両、砲車数両を爆破して、食糧を分捕って帰って来たという。
が・・・結局は、その後、ほぼ玉砕してしまったらしい。

さて・・・ここでまた頭が混乱して来たぞ。(笑)
“サトウさん”のおじいさんの所属中隊に関して分からなくなってきた。(笑)
だいたい“唯一の生還者”から話を聞いた人からの「伝聞」だから始末が悪い。
どうして生還者自身が直接遺族に伝えなかったのか・・・不思議である。
間に入って”第3小隊唯一の生還者”の話を伝えてきた人の手紙によれば・・・
第3中隊は一瀬部隊が南下後、カワヤンに残っていたが、サンチャゴの師団司令部が敵に襲われたため南下したということになっている。
しかも、“サトウさん”のおじいさんの第3小隊は第3中隊の先頭を切って南下したという。
おかしい・・・(笑)
話が合わない・・・
一瀬大隊の生還した衛生兵の証言では、オリオン峠に第3中隊は到着して戦果を挙げているのである。
手紙を寄こした人の話は、『戦史叢書』(いわゆる公刊戦史)からの引用なのか?
この『戦史叢書』には間違った記載が多く見られ、拙者は書かれていることをあまり鵜呑みにはしないことにしているのだが・・・
よく遺族の中にはこれを鵜呑みにして、一方的に思い込みをして拙者に質問して来る人がいて、大いに閉口することがある。
これも、その一つかも・・・・
先頭じゃなくて、最後にカワヤンを出発したなら、辻褄が合う。
第3中隊本隊はオリオン峠で壊滅。
最後に出発した第2小隊、第3小隊の2個小隊は、本隊にたどり着けず、しかもサンチャゴにある師団司令部を蹴散らしてエチアゲまで進出して来た米軍と遭遇。
第2小隊長は砲撃で吹き飛び戦死。
第3小隊長の“サトウさん”のおじいさんは、部下を引き連れ川を渡って東方山中に逃げ込む・・・・
これなら辻褄が合う。
中隊の先頭を進んでいたのでは、オリオン峠まで到着してしまい、そこで戦うことになるからである。

“唯一の生還者”からの「伝聞」では日時に関して何も語られていないのだが、これなら時系列的にも合う。
しかも、これならば第3小隊が東方山中に逃げ込んだことも理解できるのである。
つまり・・・・
大隊も中隊もすでに全滅して合流できないのである。
本来ならば、本隊を追求、合流せず、途中で姿をくらますというのは「敵前逃亡」扱いにされてもおかしくないのだが、合流すべき本隊が玉砕していては合流したくても合流できない。
となれば・・・小隊が独自の判断で行動しても全く問題はない。

手紙や文献を読んでも、どうもピンとこなくて、よくわからなかったのだが・・・
実際に現地を訪れ、部隊の移動ルートを実際に移動してみて、その位置関係がわかってきたら、なんとなく“見えて”きた。(笑)

こういう調査は本当に難しいのだ。
生還者の話が必ずしも正確とは限らない。
どこかで勘違いや思い違い、言葉足らず、などがある。
で・・・文献の方にも間違った記載があったりする。
どれを信じていいのやら・・・ということになるが・・・
いくつもの資料を照らし合わせて、一番、可能性のある、辻褄が合う、理屈に適ったものを採用するしかない。
ということで、かなり相互にチェックしないといけないので大変なのだ。(笑)
それでも、真実はどうなのかはわからないんだから・・・・ある意味、悲しいといえば悲しい・・・
「事実は小説より奇なり」は実際にあり得るのだ。

いずれにせよ・・・この慰霊碑は一瀬部隊玉砕の慰霊碑であるから・・・
“サトウさん”のおじいさんの仲間の慰霊をせねば・・・
お線香をあげて供物を並べて手を合わせる。
(今回は歌は無し!・・・笑)
管理人の“おばあさん”に慰霊碑管理のお礼として寸志を拙者からコッソリ渡す。(笑)
そして、いつものように、集まってきた子供たちには供物を配ってもらう。

これで一瀬大隊全部の慰霊まで出来てしまった。
これはよかった。
立ち寄って“正解”であった。


より大きな地図で オリオン峠 を表示

(オリオン峠の位置は推定)

旅行 | 20:37:51 | Comments(0)
マニラに戻る
今日は、一気にマニラに戻る日である。
超強行軍である。

朝食は各自、部屋の前のテラスでとるということにする。

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朝食は、トーストとお粥である!
すごい取り合わせである!(笑)
和洋折衷というか・・・何というか・・・
更に笑っちゃったのが・・・これ・・・

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お粥用のスプーンは・・・ドラエモンである!(大笑)
で・・・デザートのお皿は・・・クマのプーさんである!(笑)
とてもホテルの食器とは思えない。(笑)

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パイナップルのデザート付とは豪勢な・・・と思ったが・・・
思い出した!
昨日“ステラさん”が買ってくれたパイナップルである!(笑)

8時前にはチェックアウトして、いざ出発!
この方面は、拙者は初めて来た場所。
北部の山岳地帯だから、さぞかし峻険な山々が迫る平地の殆どない場所だと思っていたが・・・
意外や意外、広大な平野が広がり、一面に田んぼが見える。
あらら・・・穀倉地帯?
こういう平地があったとは知らなかった。
現地に来て見てみないと分からなものである。

だから・・・なのか・・・
一瀬部隊の属する第103師団はこの周辺の対空配備についていたという。
米軍がパラシュートで前線の後方に降下するのではないかということでの配備だったようだ。
これだけの平地があれば、パラシュート降下の可能性は十分考えられるなぁ。
が・・・まもなく、米軍の降下の可能性がないということで、一瀬部隊は南下して前線に向かうことになったようである。

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この時期、北部ルソンは異常気象のせいで干ばつだという。
トウモロコシ畑などが枯れてしまっているという。
と・・・いうことは・・・家畜の飼料の値段が上がってしまうから、そのうち豚肉も鶏肉も値上がりするだろうとのこと。
なるほどねぇ~
確かに、枯れているような畑も車窓から見受けられた。

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今日は、ただただマニラに向かって帰るだけなので、その途中、途中で、慰霊碑を立ち寄りながらのドライブを企画した。
本来の目的である慰霊を無事終えることが出来て気分的には楽である。
名残惜しいが・・・小隊長殿たちとはお別れである。
英霊の皆さんは喜んでくれたかなぁ~・・・とフト、思う・・・・

車は昨日通ったと同じルートでマニラに向かうことになる。
で・・・まずは、途中の「オリオン峠」にある慰霊碑をお参りすることにした。
ここに慰霊碑があることは、以前から知っていたので、是非訪れたかった場所である。
来る時に“ステラさん”が慰霊碑の場所を見落としてしまい通過してしまったので帰り道に立ち寄ることにした。

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(オリオン峠に向かう道)


旅行 | 18:08:18 | Comments(0)
“君が代”は嫌いだ
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さぁ、慰霊祭の準備も整った・・・というか・・・これで終わり。(笑)
お線香もあげちゃったし・・・(笑)
お経は・・・拙者は「坊さん」じゃないから、憶えてないから出来ないし・・・
これで・・・終わり!
と・・・“ステラさん”が「これだけじゃ寂しいから歌でも歌いましょう!」と言う。
ギョェ~!!拙者の苦手な分野である!!(笑)
「私がフィリピン国歌をうたいますから、皆さんは“君が代”を歌って下さい。で・・あの、海・・・なんとか・・・っていうのも歌って下さい」
「あっ、“海ゆかば”ね」
「そう、そう、それ!」
では・・・(笑)
ということで、“君が代“斉唱!!
が・・・拙者はこの歌が大の苦手なのである。
なにせ音が高い!
なので・・・低く出だしたら・・・完璧に音を外し滅茶苦茶になった!(大笑)
もう、収拾がつかない!(笑)
大勢いるなら“口パク”でごまかせるが(笑)、3人で歌うんだからそれは無理。
しかも“サトウさん”は元音楽の先生である!(笑)
最悪のシチュエーションではないか!
“君が代”はいったい誰が作曲したんだ!
なんでこんなに音が高いんだよ!
迷惑千万な、歌いづらい国歌である。(笑)
だから嫌いなのである。
歌詞がどうのこうの、軍国主義だのどうのこうのと“君が代”を嫌う人が多いが・・・
拙者の場合は歌いづらいというだけのことで嫌いなのである。(笑)

最近、カラオケもやっていないから歌を歌っていないしなぁ~
こういうことになるならカラオケ教室にでも通って練習しておけばよかったかと後悔するが・・・
カラオケ教室で“君が代”の歌い方を教えてくれるか?(笑)
カラオケのアマチュア選手権の審査員をしている“アキヤマさん”に今度会った時に聞いてみるか~(笑)

“君が代”のいいところは・・・歌詞が短いところ。(笑)
これは、助かる。(笑)
これに対して、フィリピン国歌は・・・歌詞が長い!“君が代”と比べると滅茶苦茶長い気がする。
公式の場で何度か聞いてメロディーは知ってるが・・・
さすがに“ステラさん”が途中で歌詞を忘れたのも無理はない。(大笑)
で・・・“海ゆかば”・・・
知っていることは知っているが・・・歌詞はうろ覚えである。(笑)
しまったぁ~歌詞カードがないと歌えない・・・と気が付いたが・・・遅かった。
戦後生まれではあるが・・・“ソングリーダー”を務めることができるのは・・・拙者しかいない。(笑)
うろ覚えの歌詞を思い出しながら「適当に」歌ったが・・・
う~ん・・・英霊は・・・「聞いちゃいられねぇ」と呆れてたかも・・・・多分、呆れてるな・・・
大失敗だ・・・こういうことになろうとは考えていなかった。
「危機管理」ができてない。(笑)
反省、反省。

慰霊団では、カセットテープを持ってきてそれを流したりするが・・・
拙者はそういう仰々しいセレモニーがあまり好きじゃない。
だから、セレモニーのことは考えていなかった。
静かに景色を見て・・・でいいじゃないかと思っていたのがそもそもの間違いである。
団体行動と違って、個人の場合のいいところは、じっくりと現地にいられるということ。
これが団体だと、さっさと慰霊式をして、さぁ、次の場所へと急いで移動しなければならない。
思う存分景色を見て英霊を偲ぶなんていう暇はない。
拙者はそういう忙しさが嫌いである。

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ちょっと厳しい夕日の日差しを浴びながら過ごすこと約30分。
東方山地の山々は、ずっと向こうの方に霞んでいる。
う~ん・・・このあたりを渡ってあっちの山まで歩いて行ったのか?
かなりの距離があるような気もするが・・・
とにかく「ここだ!」という決め手がないんだから仕方がない。
ここで勘弁してもらうしかない。
慰霊団によっては、ガイドの指図であきらかに見当違いの場所で慰霊をさせられることが多い。
拙者はそういうことはしたくない。
1mでも近い場所で行なってあげたい。

たっぷりと川岸で過ごし、今晩の宿へと向かうことにする。
卒塔婆は“クラツさん”たち慰霊団が後日来た時に一緒に燃やしてもらうということで“ステラさん”に預かってもらう。
こういうとことが出来るのも、「個人旅行」と称しながら、“クラツさん”の会社を使い、“ステラさん”にガイドを頼むメリットであるのだ。(笑)
「あとはよろしく」の一言で事が済む。(笑)
安心、安全、便利・・・・格安旅行代理店では、こうはいくまい。
お花は、そのまま現地に残していいと“ステラさん”。
地元の誰かが持って行くだろうし、花篭は再利用されるだろうという。
これも供養と思えばいいのだが、なんとなく寂しい・・・・

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振り返ると・・・ポツンと花だけが残っている。
う~ん・・・なんとも寂しい・・・
また、いつか、この近くを通ったら、会いに来ますからね・・・小隊長殿・・・・

ちょうど近くで遊んでいた子供たちに供物のお菓子を“サトウさん”から配ってもらう。
これも供養である。
・・・と、言っても、彼らには何のことやらわからんかも・・・・(笑)
それでもよかろう。
英霊たちが望んでいるのではないか?
そうやってくれ・・・って。

帰り道、「アイ・ラブ・マイ・ホームタウン!・アンガダナン」という看板を見つけたので、ここで記念撮影。
フィリピンの田舎に行くと、この手の看板をよく見かける。
「ウェルカム」だったり・・・
日本では観光地には「ようこそ!」という看板は見かけるが、田舎では滅多に町の名前が大きく書かれた看板を見かけることはない。

この「アンガダナン」・・・どうも拙者には覚えづらく発音しづらい。(笑)
どうしても「アンダナガン」になってしまうのだ。
「アンダナガン?アンダガナン?アンダ?アンガ?・・・あれ?いや、アンガ・・・ダ・・ナン???」
車内でみんなで大笑い。

続いてエチアゲの町の入り口で看板を見つけてたので、下車してここでも記念撮影!(笑)
「二股に道が分かれるところの角の緑地帯があるから、そこで止まって!」
「よく見つけましたね~私は全然気が付かなかったけど」と“ステラさん”
どんなもんだい!(笑)
アンガダナンに向う途中で、チラリと目に入ったのを憶えていたんだ!
方向音痴で割には、しっかりしていると我ながら感心。
カタカナは覚えられないけど・・・馬鹿ではない証拠だな・・・(笑)

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エチアゲを通過してサンチャゴという町に入る。
今日の宿泊地はこのサンチャゴである。
当初は、バヨンボンまで戻って「サパー・イン」に宿泊する計画もあったが、できれば、できるだけ戦没地に近いところに1泊させてあげたい。
「え?もう帰っちゃうの?」と英霊にも言われちゃう気がするし・・・(笑)
で・・・サンチャゴを宿泊地の候補に入れてホテルを探してくれるように頼んでおいた。
ホテルが取れたという連絡が入ったのは日本を出発する直前である。(笑)
うまくいった。ラッキーである。

到着早々、ホテルの敷地内の東屋で、来る途中、道端で買ったマンゴーを食べることにする。(笑)
チェックインの手続きの間に、ホテルの従業員にスライスしてもらい持ってきてもらう。

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このマンゴーを買ってくれたのは“ステラさん”
拙者がいつも移動途中の道端のお店で地元の果物を買って食べるのが好きなことをよく知っている。
で・・・彼女の“おごり”である。(笑)
間違っても立替払いではない。(笑)
毎回、拙者がどのくらい謝礼を払うかは彼女は知っているから、その範囲内でサービスしてくれるのである。
それでいいと思う。
昔は、立替払いの清算を細かくやった事があったが、それではどうもフレンドリーじゃないので、何回も会って気心が知れているならばと、立替払いの清算はしないことにした。
ごちそうになるものは素直にごちそうになる・・・(笑)

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部屋は広い・・・というより殺風景・・・(笑)
シャワーはお湯が出る・・・
お湯が出れば申し分ない。
バケツの水で行水というのは拙者一人の旅ならまだしも、“サトウさん”たちにはキツイ。(笑)
トイレも水洗である。
結構、いいホテルが取れてホッとした。

夕食は、“ステラさん”とドライバーの“クリスくん”と3人で町の中のレストランで取ることにした。
ちょっとしたコテージ風の洒落たレストラン。
南国風でなかなかいい。
南国なんだから南国風なのは当たり前だが・・・(大笑)
おお、そうだ、ここはフィリピンだったと忘れてしまうくらい雰囲気がいい。
こういう店づくり・・・日本でも参考に出来ないものか?
日本では夏はいいが、冬が駄目か・・・・
フィリピンの田舎の店だが、大いに参考になるような気がする。

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部屋に戻り、テレビを見て過ごす。
が・・・部屋の中は禁煙である。(笑)
ちょくちょくベランダ(テラス?)に出て夜風に吹かれながらタバコを吸う。
これまた、気持ちのいいものである。

旅行 | 20:40:04 | Comments(0)
その石は・・・??
しばらく走ると、橋が架かっている場所に到着した。
カガヤン川である。
ん?この辺り・・・いいんじゃないか?
正確な渡河地点がどこなのかはわからない・・・・
が・・・この河を渡ったと“生還者”が言っているのだそうだから、この景色を見たに違いない。
対岸に行くより、この手前の方がいいと思うんだよね。
ここにしよう!ここにしませんか?
“サトウさん”母娘も賛成してくれたので、ここで「慰霊祭」をする事にする。

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どうも拙者にとっては“唯一の生還者”の証言が大まかなので、どうしてもシックリいかないのである。
エチアゲの近く(?)で米軍に遭遇した時に隣りの第2小隊長が砲撃の直撃を受けて粉々に飛び散って戦死したのだという。
他の小隊長の最期の様子は詳しく覚えているのに、どうして行動を共にしている自分の小隊長の最期の様子は詳しくないんだろう?
「早いうちに病死した」という証言だけである。
早いうちって・・・いつのことなのか明確ではない。
どうもよくわからん・・・・・
だいたい、敵の攻撃を避けて戦場を離脱したというのはわかるが、この小隊は先発隊である。
後方から本隊の中隊本部が来ているのではないだろうか?
だとすると、中隊本部への報告の義務があるはず・・・・
その中隊本部のことが何も語られていないのである。
中隊本部に合流せず、そのまま川を渡って東方山地に逃げ込んだのか?
そんなことをしたら、一つ間違えると「敵前逃亡」になってしまうのではないか?
そんなことは小隊長は百も承知のはずである。
だから・・・おかしい・・・

米軍の砲撃の凄まじさは何人もの生還者からお話を伺っていて知っている。
1月にお亡くなりになった我が戦友会の“イナガキ会長さん”もそう言っていた。
猛烈な砲撃の中を戦場を離脱したそうだが、どこをどう逃げたのか全く憶えていないという。
この時、拙者の祖父は“イナガキさん”の部隊の後方にいて、敗走する友軍を収容する任務を与えられていたから、後方に下がれば、祖父の部隊に収容されたはずなのだが・・・
本人は全く覚えがないそうで・・・・記憶が“飛んで”いるのだそうだ。
たぶん、かなりのショック状態だったのか、パニック状態になっていたに違いない。
だから無理もないとは思うのだが・・・

この小隊の場合は、川を渡る時は筏を作って渡ったという。
筏を作る余裕があるのであれば、その時に我に帰ると思うのだが・・・・
「早いうちに病死」という証言も気になる。
マラリアなのかアメーバ―赤痢なのか、病名を明確に伝えていない。
戦場で多くの病気を体験し、見聞きしているはずだから症状を見ればすぐにわかるはずなのだが・・・
なぜ、病名をハッキリ言わないのか?
マラリアなら高熱を出して意識朦朧となる。
そこで、こういう仮説も成り立つ。
小隊長は、この時点でマラリアを発症してしまい、意識朦朧としていたため指揮が取れず、部下はそのまま川を渡って東方山地に逃げ込んだ・・・・
つまり「置いて行って」しまったのなら、“唯一の生還者”の口が重いのもわからないでもない。
最期の様子も見てないから、体調が悪そうだったので、(その後)「病死」したのだろう・・・ということにしているのかもしれない。
遺族から「見捨てた」と責められるのを避けて証言があいまいなのか・・・???

マニラ東方高地で全滅した野砲兵第53連隊第3大隊の川北大隊長の場合は、部下達に東海岸へ向って脱出するよう命じて自分は単身敵陣に向かったらしいという。
行動を共にしていた当番兵の証言らしいが・・・
自決したとも、単身で敵陣に突っ込んで戦死したとも言われていて、その最期はハッキリしていない。
この当番兵もまもなく戦病死してしまい、亡くなる前に他の兵隊が聞いたという「伝聞」である。
“サトウさん”のおじいさんの場合も同様だったかもしれない。
部下に東方への脱出を命じて、自分は川を渡っていないかもしれない。
当時は雨季である。
川の流れも乾季である今とは違って激しい濁流だった可能性はある。
体力が弱まっていて意識も朦朧としていたら・・・多分、この川は渡らなかっただろう。

DSC04380_convert_20100512002314.jpg(カガヤン川)

しかし、川岸までは来ていたのは間違いないのではないか?
ああではないか、こうではないか・・・と想像するが・・・すべては空想の世界でしかない。
真実は誰にもわからない。
だから、戦没者は可哀そうなのだ。
一人の人間の最期を誰も知らないのである。
こう言っては失礼だが、野良ネコや野良犬が死ぬのとは違うのである。
人間が死ぬのである。
死にたくもないのに、殺される個人的理由もないのに、一人の人間の命が、人生が、無理やり奪われるのである。
しかも誰にも知られずこの世を去らねばならないのである。
こんな不幸があるだろうか?
どういう思いで息を引き取ったか・・・・
想像しただけで胸が苦しくなる。
その無念さを少しでも慰めてあげなければ・・・

昭和17年、日本軍がフィリピンを占領した時に、フィリピンゲリラ討伐のため、部下を率いてエチアゲからこのカガヤン河を渡り東方高地を越えて東海岸まで行ってゲリラの討伐をして引き返して来たという人の話を聞いた覚えがある。
どういうルートだったか具体的なルートは聞いていないが、東海岸まで行くことが出来たことは確かである。
となると・・・この橋が架かっているこの道か?
東方山地の中は密林で、そのジャングルの中で“山ヒル”に喰いつかれてひどい目に遭ったという。
かなり劣悪な環境だったようだ。
“唯一の生還者”の証言が全て本当だとしたら・・・・
この劣悪な密林の中で病死したとしてもおかしくはない。

いずれにせよ、河のこちら側で慰霊祭をすれば、どちらにころんでも間違いはあるまい。
河を渡ったのは、ここだとは断言できないが、橋が架かっている側であれば、今後“サトウさん”家族が訪れるときの目印にもなろう。
ということで・・・花を飾り、卒塔婆を立て、供物を並べ・・・・慰霊祭の準備に取り掛かる。
台にしようと河原の石を触ったら、太陽の熱で熱せられていて熱い。
こんなにも石が熱せられているとは驚きである。

と・・・その時・・・
“お母さん”が「日本に持って帰りたいので、石を拾っていいですか?」と言ってきた。
拙者はお線香に火をつけるのに夢中で顔もあげず「いですよ~」と返事をしたのだが・・・
何と・・・河原から持ってきたのは、両手で抱えるほどの大きな石!
「はぁ?なにそれ・・・“お母さん”、それを日本に持って帰るの?(笑)」
石と言うから、当然、小石だと思っていたら・・・・デカイ!デカすぎる!(唖然)
「そうだ・・・これを持って帰っても、私が死んだあと子供たちに迷惑をかけては申し訳ないし・・・」と何やら分からない話・・・
何で子供たちに迷惑をかけることになるんだろ?
え?なんで?石だよ・・・ただの石・・・
家のどこに置こうか・・・というようなことを呟いている・・・・
「はぁ?あのぉ~お墓に入れるんじゃないんですか?へぇ?家の中に置くの?」(笑)
「あっ、そうかぁ~そうだよねぇ~お墓の中に入れるんだ!」
「でしょ?そうでしょ?普通・・・(笑)」
どうも話がおかしいぞ・・・(笑)
「まさかぁ~・・・こんな大きな石を仏壇に置こうとしてたんじゃないでしょうね?(笑)」
「えへへ・・・・(笑)」
「それじゃ、子々孫々には迷惑だわ~(笑)」
それにしても・・・デカすぎる石である。
“ステラさん”が血相を変えて言う・・・・(笑)
「本当は駄目ですけど、ホテルでよく水で洗ってくださいね」
石の持ち出しが駄目というより石に付着している雑菌を日本に持ち込んではマズイのだ。
が・・・これ・・・空港で見つかるんじゃない?
両手で抱えるような・・・こんな大きな石・・・(笑)
X線のチェックで見つかったら没収である。(笑)
まぁ、不法持ち出しで逮捕ということまでにはなるまいが・・・(笑)
見つからねぇわけねぇよなぁ~こんな大きな石!(大笑)

ワ~ワ~笑いながらの慰霊の準備である。
英霊は呆れているか、笑っているか・・・
どこかで見ていてくれているだろう・・・・

旅行 | 14:50:07 | Comments(0)
慰霊地をどこにしようか・・・
バレテ峠を越えて、今度は下り坂・・・・
サンタフェに到着。
ここは昔からある「宿場町」という感じの集落である。
ここには一時期、戦闘指令所や野戦病院もあったらしい。
この集落から西に向かって山道を入っていくと、サラクサク峠がある。
そこが祖父が戦っていた場所。
米軍は、サラクサク峠を越えて西からこの国道5号線を寸断するよう横切る作戦だった。
そのため、祖父たちは時間稼ぎの戦闘を続ける。
600名対米軍1個師団(米第32師団)である。
米軍は約2万名弱くらいいたであろう。
フィリピンに来る前はニューギニアで日本軍と戦った実戦経験のある部隊である。
600名の祖父の部隊は、一気に50名まで兵力を消耗。
この時に、戦車を失い歩兵化していた戦車第2師団が投入された。
激闘すること3ヵ月にも及び、結局、米軍は峠を突破できず諦める。
その代わり、第10師団が守る国道5号線上のバレテ峠が突破されてしまった。

このサンタフェを通過して北上へ逃げる日本軍将兵や在留邦人など民間人の退路を守るため祖父たちは戦っていたのである。
ある生還者から「あなたのおじいさんには会ったことはないが、サンタフェを通過する時に鈴木部隊が米軍を食い止めて頑張っているから今のうちに早く通過しろと言われたので名前だけは知っている。そういう意味ではあなたのおじいさんには恩義があるんだ」と言われて感激したことがある。
そのサラクサク峠には慰霊碑が建っているが、ここから更に山奥へ行く時間的余裕はない。
残念ながら、祖父の部下達のお参りには行けない。
今回は“サトウさん”ご家族がメインであるから・・・勘弁願おう。
たぶん「いいよ~」って言ってくれるだろう・・・と勝手に解釈し・・・(笑)
サンタフェのガソリンスタンドでトイレ休憩、一服して・・・さらに北上する。

今日の昼食はバヨンボンでとるのがいいのではないかと“ステラさん”と話をしていたのだが・・・
なんと、ドンピシャ!12時にバヨンボンに到着!(笑)
お~お~!完璧な旅行ではあるまいか?(大笑)
バヨンボンにあるサパー・インというホテルのレストランで食事をする。
このホテルは、よく日本の慰霊団が宿泊するホテルである。

DSC04348_convert_20100506174647.jpg(ホテル)
DSC04346_convert_20100506175141.jpg

ホテルの従業員と“ステラさん”と私の3人で“サトウさん”の慰霊地の検討をする。
川の近くでの慰霊がいいと思うのだが、問題はどのあたりがいいかということ。
アンガダナンという街が川の近くにあり、そこから川岸に行けるとのこと。
そのほかの場所からは川岸に行く道はなさそうだという。
とにかく、アンガダナンを候補地の一つとしよう!
“ステラさん”が「アンガダナンが目的地ですか?」と言う。
そうじゃなくて、単なる拙者の勘である。(笑)
だから、候補地の一つ。
現地に行ってみなければわからない。

まだ出発するには、ちょっと時間がある。
タバコを吸いに外に出たついでにホテルの周囲を調査。
ホテルの前あたり1ブロックなら歩いても安全そうである。
車の窓から景色を見ているだけではよくない。
少しは街の中を散策しなくては、思い出というものが残らない。
エアコンの効いた車の中にいるばかりでは、外の暑さを経験できない。
というわけで・・・“サトウさん”ご家族を誘ってホテルの周囲を散歩することにした。
が・・・“ステラさん”がちょっと嫌な顔をしたのが気になる。
ん?何かあるのか?
まぁ、よかろう・・・
ホテルの前の道を1ブロックだけ歩いてすぐにホテルに戻ることにする。
と・・・後から“ステラさん”が追いかけてきた。(笑)
何かあったら大変ということで心配して追いかけてきたのである。(笑)
拙者の事だから無茶をするんじゃないかと思ったのだろう。(笑)
一人旅なら無茶もするが、今回は別である。
1ブロックだけしか歩かないよ。(笑)
雰囲気を感じるだけだから大丈夫。(笑)

DSC04351_convert_20100506180132.jpg(街の中)

“ステラさん”が血相を変えたということは、この町を単独で散策するのは危険ということなのか?
このバヨンボンは北へ向かう日本軍、民間人が滞留した場所である。
在留邦人などはここにいくつかの集落を作って自活生活に入っている。
その跡地はどうなっているのか知らないが・・・
たしか、「大和村」とか、何だとかと日本語の村の名前を付けた集落を作ったらしい。

ここからエチアゲに向かう。
約2時間後、エチアゲの町に入るが・・・
どこか適当な場所はないものか・・・
ここがエチアゲですよ~と分かるような場所で記念写真を撮っておきたい。
で・・・エチアゲ・イースト・セントラル・スクールという学校の前で写真を撮ることにする。
「ECHAGUE(エチアゲ)」という文字が一緒に写れば証拠写真である。(笑)

DSC04354_convert_20100506182015.jpg(学校)
DSC04352_convert_20100506182306.jpg(学校の前の道)

更に前進!
アリシアという町を通過して・・・そのままカワヤンまで向う。
“ステラさん”が「アンガダナンへ行くんじゃないんですか?」と驚いた。
いや、こっちの方が驚いちゃうんだけど・・・(笑)
アンガダナンはあくまでも候補地の一つである。
カワヤンは一度行かねばならぬ場所だから・・・このまま進む!(笑)

“サトウさん”のおじいさんは、独立歩兵第179大隊(一瀬部隊)第3中隊第3小隊の小隊長だった。
ルソン島北端のアパリから南下してカワヤンに駐留していた。
戦況が急迫し、駐留地を出発し南下して北上して来る米軍と戦うことになったらしい。
で・・・一瀬部隊の先頭を切って南下していたが、途中で米軍と遭遇、戦車による攻撃を受ける。
小隊長は戦うのは無謀ということで物陰に隠れ戦場を離脱。
途中で川を渡り東方の山地へ向かったが、小隊長は途中で病死したという。
これが、“唯一の生還者”の証言らしいのだが、どうも腑に落ちない点が多い。
この証言は生還者が直接語ったのではなく、間に入った方が聞いた話として伝わっている。
間に入った人が会った時にこの生還者は「あまり話をしない人」だったという。
拙者の祖父もフィリピン戦については全く体験談を語ることはなかったが、遺族に対しては何時間にもわたって事細かに最後の様子を話していた。
遺族に対しては生還者はだいたいそういう丁寧な対応をするはずなのだが・・・
小隊長と最後まで行動を共にした人にしては証言があっさりしすぎている気がしないでもない。
“唯一の生還者”のこの証言は正直言ってあまり信用できない気がしてならない。

カワヤンにいたことは確かである。
ここから南下して米軍とぶつかったが・・・それはエチアゲだろうか?
米軍側の記録や資料を入手していないのでなんとも言えないが・・・
エチアゲまでは到達していなかったのではあるまいか?
その手前のアリシアあたり又はアリシアからエチアゲの中間地点あたりで衝突したのではないだろうか?
証言では、小隊長は戦闘を避けて「カワヤンの1~2キロの地点から川を渡った」という。
「カワヤンの1~2キロ」とはカワヤンを過ぎてというよりカワヤンの手前と考えていいだろう。
ということで、いずれにせよ、カワヤンまで行って検証しなくてはなるまい。

DSC04359_convert_20100506204710.jpg(カワヤンの入り口あたり)

走ること約40分ほどでカワヤンの入り口付近に到着。(写真の白いワゴン車が我々の車である)
ここのトライシクル乗り場(日本でいえばタクシー乗り場)でトライシクルの運転手たちにカガヤン河の川岸に向かう道があるかどうか尋ねてみたが、そういう道はないという。
当時、逃避行している人が、道がないから川には行かなかったとは言えまいが・・・
少なくとも我々は慰霊のために川岸には行けない。
簡単な略地図では、道路のすぐ脇を川が流れているように見えるのだが、この道路からは全く川が見えない。
“唯一の生還者”の「1~2キロ地点で川を渡った」というのは、どうだろうか?
信用できる証言だろうか?

もと来た道を戻ることにする。
少なくとも、“サトウさん”のおじいさんは、この道を通ったことは間違いない。
サンチャゴへ向かう道は、この道しかないのだから・・・・
当時と同じ道を走って亡きおじいさんを偲んでもらうことにする。

DSC04368_convert_20100506205823.jpg(カワヤンからエチアゲに向かう道)

やっぱり、どうも納得できない。
車で40分近くかかる1本道を真っすぐ引き返して、カワヤンの1~2キロ手前で川を渡るというのは考えられない。
ここは遺族の方の御意見も伺わねば・・・・
お二人とも、この1本道を引き返してから川を渡るというのは不自然な気がすると拙者と同意見である。
1本道を真っすぐ戻ったら、相手は戦車である。
すぐに追いつかれてしまう。
となると・・・道の左右どちらかに道を避けて逃げるのが自然ではあるまいか?

エチアゲからアリシアに向かう道は逆L字に曲がっている。
もし戦闘に巻き込まれたのがこのあたりだとすると・・・・
左に逃げるとエチアゲの町に向かうようになるから敵に近付いてしまう感じなので、もし拙者だったら右へ逃れる。
右へ逃れれば、そこはカガヤン河に向かうことになる。
アリシアの街で米軍と遭遇した場合も同様で、やっぱり右方向へ逃れるだろう。
右へ逃れると・・・・アンガダナンの集落へ向かい、その先はカガヤン河である。
昭和20年当時、アンガダナンという集落があったかどうかは知らないが・・・
敵と遭遇して退避するとすれば道の右方向・・・アンガダナンの方へ行く・・・・
これが理にかなっているのではあるまいか?
ということで・・・アンガダナンへ向かうことにした。

ドライバーの“クリスくん”や“ステラさん”は、同じ道を行ったり来たりして無駄なことをしているように思っていたかもしれないが、考えられるだけのことを考えるためにも、この行動は必須なのである。
現地に足を運び自分の身で体験する。
65年も過ぎてしまっているが、追体験をしてみることは大事なのである。
そのうえで、少しでもベターな判断をする。
戦後65年も経っていては、どうしたってベストの判断は無理なのだから、少しでもベターな判断をせねば・・・と思うのである。


より大きな地図で カワヤン を表示

旅行 | 13:09:20 | Comments(2)
一気にエチアゲへ向かう
さぁ、今日は更に強行軍である。
一気にエチアゲまで走る!
多分、ここから200km以上あるんじゃないかな?

DSC04326_convert_20100506100308.jpg

朝食を食べて8時にはホテルをチェックアウトして出発!
国道5号線を北上する。
1時間後・・・ヌエバエシア州のムニオスに着く。
この地は、我が戦車第2師団が米軍と激闘した場所である。
セントラル・ルソン・ステイト・ユニバーシティがある。
日本語ではなんていうんだろう?
中部ルソン州立大学?中央ルソン公立大学?(笑)
この大学があるあたりに戦時中は日本軍の司令部があったようだが・・・
今度よく調べておこう。

DSC04333_convert_20100506101303.jpg(大学)

国道5号線上で「歩道橋」があるのはここだけではなかろうか?(笑)
日本では珍しくはないが、フィリピンの郊外で歩道橋を見かけるというのは・・・まず皆無である。(笑)

DSC04330_convert_20100506101733.jpg(歩道橋)
DSC04328_convert_20100506102052.jpg(国道5号線)

並木道があるのもここだけである。
“サトウさん”のお母さんが、この並木道が綺麗なので写真を撮りたいということで、ここで車を降りて小休止。


より大きな地図で ムニオス を表示

ここから約20分後、サンホセに到着。
ここのレストランでトイレ休憩。
このレストランにも以前来たことがある。
もう10年ぐらいまえのことである。
当時、空き地だった隣りに洒落たレストランが建っていた。
まぁ、10年も経てば変わるのも無理はないか?(笑)
しかし、その他の景色は・・・変わってないなぁ~(笑)

DSC04338_convert_20100506104816.jpg(レストラン)
DSC04337_convert_20100506105158.jpg(サンホセ)

このサンホセは、当時は交通の要衝で、兵器、食糧の集積所でもあった。
道路の両脇に大量の物資が積み上げられて各地への輸送を待っていたが・・・・
米軍の空爆で灰燼に・・・・
なんと杜撰な管理だろうか・・・
この地を訪れるたびに昭和20年の景色を想像してしまうのである。
あ~なんというもったいないことを・・・・
大量の物資が失われていなければ・・・と、ついつい思ってしまうのである。

更に北上し・・・・プンカンに着く。
小さな集落で、地図にも載っていない場所である。
ここの道路脇に歩兵第10連隊関係の慰霊碑がある。
“サトウさん”の部隊とは全く関係ないのだが、ここで下車して慰霊碑をお参りする。

DSC04343_convert_20100506113110.jpg

慰霊碑が十字架の形になっているのは、十字架ならばキリスト教徒のフィリピン人に荒らされることはないだろうということだろう。
民家の庭に建っていて、ここの住民が管理しているが、今日は子供だけしかいない。
どうも大人は仕事に出かけているようだ。
以前も、ここに訪れた時にわずかだが「管理料」として謝礼を渡したのだが、まさか子供に現金を渡すわけにもいかないので、今回は“サトウさん”持参のキャンディーを子供たちに配ってもらうことにした。

この場所は当初、拙者の祖父の部隊がここに陣を張ったのであるが、地形的に敵の浸透を受けやすいため別の場所に移動した。
このことは師団司令部にも進言し、許可を得て移動したにもかかわらず、祖父の立ち去った後に歩兵第10連隊の一部を主隊とする別の部隊に陣地を築かせたのである。
で・・・結局、祖父の予想通り、敵の攻撃を受けた時に周囲から敵に浸透され、守り切れず玉砕してしまったのである。
なんで、こういうことをしてしまったのやら・・・・
祖父が「ここは駄目だ」と進言していたというのに・・・・
昨年、作戦参謀にお会いする機会があったので問いただしてみたら「方面軍の指示だったから仕方がなかった」との答えだった。
どうも言い訳がましくしか聞こえなかったが・・・
あたら貴重な命を無駄に失ってしまった。
もっと地形的にいい場所に陣地を作っていたら、もっと実力を発揮できたものを・・・・
何が悔しいって、自分の実力を思う存分発揮させてあげなかったことである。
可哀そうである。
さぞかし辛かったろう・・・・
祖父は師団の中でも一目置かれた連隊長だったらしいので、自分の判断は上級司令部から認められ移動できたのだろうが・・・この部隊は、命令に従わざるを得なかったのだろうか・・・
いつもここをお参りするたびに悔しいなぁと思うのである。
祖父たちの進言が役に立たなかったことが、なんとも悔しい・・・・

と・・・・ちょうど大型観光バスが通りかかった。
日本人の団体のようである・・・・が・・・・
わずか1~2分間停車して窓から写真を撮って・・・通り過ぎていった。
なんだ?あいつら?
“ステラさん”の話では、今日、こちらの方面からマニラに戻る日本の慰霊団があるという話を聞いているので、多分、あのバスがそうではないかと言う。
バスを降りてお線香をあげてやらないのか?
慰霊碑は道路のすぐ脇である!
拙者たちを写真に撮ってどうしようって言うんだ?(笑)
だから、団体の「慰霊団」っていうのは嫌いなのだ。
大型観光バスで移動するから長時間車を止められないのはわかるが・・・・
窓から見て通過・・・・では、慰霊になるのだろうか?
時刻は午前10時・・・・
今からマニラに戻って市内観光と免税店でのショッピングか?
団体の「慰霊団」はこれだから嫌いである。

更に北上・・・・
バレテ峠に着く。
ここにも日本の慰霊碑があるが、“サトウさん”のお母さんには丘の上まで歩くのはちょっと大変だろう。
ということで、ここは車窓から丘を見てもらうということで通過することにする。
慰霊碑の横まで車が入っていけるのなら慰霊をしたいところだが、坂道を歩いていかねばならないので無理だ。
英霊には申し訳ないが・・・勘弁してもらおう。
ここは第10師団を主力とする部隊が守っていた場所。
さきほどのプンカンに小部隊を配置して国道5号線を北上して来る米軍を迎え撃つ。
で・・・その後ろの峠に主力が強固な陣地を構築して防衛線を築いたわけだが・・・
結局は激戦のうちに突破されてしまったのである。
ここの慰霊碑の下には、この周辺から収骨した遺骨を荼毘に付した後の遺灰が埋葬されている。

旅行 | 09:57:48 | Comments(2)
フィリピン慰霊の旅!
ロービーで“サトウさん”ご家族と待ち合わせて、ホテルのバスで成田空港へ・・・・
旅行社の“クラツさん”が“サトウさん”の卒塔婆と航空券を持って成田空港へ来て見送ってくれるという。
いやはやお手数をおかけして申し訳なし。
無事に“クラツさん”とも会えて、“サトウさん”をご紹介。
“サトウさん”のお母さんは鹿児島出身とのこと。
“クラツさん”も鹿児島出身。
こりゃ、奇縁である。(笑)

空港内の喫茶でお茶を飲みながら簡単に旅行の打ち合わせと最終確認を行なう。
“クラツさん”はこの間、慰霊の団体旅行の添乗をした時に載せ切れなかった荷物をマニラに置いてあるという。
拙者がリュック一つだけなので、持ちこみ重量に十分余裕がある。
というわけで・・・帰りに彼女の荷物を預かって帰国することにする。
う~ん・・・拙者は“運び屋”?(笑)
いつも彼女にはお世話になっているので、このくらいのことは朝飯前である。

いつものフィリピン航空431便、9:30発でマニラに向かう。
無事にマニラ空港に到着・・・・
心配なのは・・・案内役の拙者が“ヤクザ”と間違われて別室に連れて行かれること。(笑)
以前、やられたからなぁ~
ここで“サトウさん“家族だけにしたら申し訳ないからなぁ。
相変わらず、性格の悪そうな職員がウロウロ、ジロジロ・・・
この野郎、何とかならんか・・・・
“サトウさん”は拙者のHPを見て「別室取り調べ事件」の一件を知っているので冷やかされる。
いやぁ~勘弁してくれぇ。

拘束されることもなく無事に空港を抜け外へ・・・
出迎え担当の“サンディーくん”と無事にランデブー!
で・・・続いてガイドの“ステラさん”が出迎えに来てくれて、久し振りの再会!
そうそう、前回は昨年の10月!
スリガオ海峡海戦記念式典に参加する時にお世話になった。

空港から、最終日に宿泊予定のマニラのホテルに向かう。
ここで一服して、コーヒー飲んで、両替・・・・
これは拙者の毎度の行動パターンである。

今回の旅は、かなりハードなスケジュールである。
“サトウさん”の都合で、どうしても3泊4日しか休みが取れないためである。
お母さんの体調を考慮すると、このマニラで1泊して、体調を整え、現地の気候に慣れてもらってから・・・というふうにしたいのだが、その余裕はない。
一服後、早速、今日の宿泊地であるカバナツアンに向かう。

途中、マニラ市内のディマサランという場所にある花の問屋街で慰霊祭に供える花を買う。

DSC04310_convert_20100505201730.jpg(花の問屋街)
DSC04313_convert_20100505202047.jpg

結構綺麗な花が並んでいる。
ん?どこで栽培してるんだろ?
尋ねてみたら、ミンダナオ島あたりからここに集まっているらしい。
で・・・この花屋の“オッサン”に慰霊お供え用の花篭を作ってもらう。

DSC04316_convert_20100505202522.jpg(花篭制作中)

問屋街の中でスイカの屋台を発見!(笑)
簡単にいうと・・・「移動販売」(?)(笑)
「どうだ?買わないか?」と屋台の“オッサン”に言われたが・・・
どうだろ?これ?
衛生上・・・(笑)
当然・・・買わない!(笑)

DSC04314_convert_20100505203354.jpg

花を買って、高速道路に乗って北上!・・・・のはずだが・・・あれ?
どうも西に向かっている・・・・
ルートが違うような・・・
ガイドの“ステラさん”に尋ねたら、昨年、新たに高速道路が開通したそうで・・・・
マバラカット、バンバンあたりまで高速道路で行けるという。
で・・・ここからグルリと北上する方が、地図上では遠回りだが、時間的にはかなり短縮できるのだという。
へぇ~便利になったもんだ~(笑)

サービスエリアでトイレ休憩・・・
“ステラさん”がお菓子を買ってくれた!
機内食だけでさすがに腹が減っていたところ。
助かった!(笑)
車内でお菓子を頂き、おしゃべりしながら楽しいドライブ・・・・である。(笑)

DSC04322_convert_20100505205156.jpg

これなんだろ?クッキー?
「トーストされたMAMON」って・・・MAMONって多分、フィリピン語だよな?
「ルクバンのトラディショナルなデリカシィーズ」っていうことは・・・
ルクバンの伝統的な美味しいもの・・・っていう意味か?
確かに美味しい!
これ・・・覚えておこう!(笑)

マニラからワゴン車で約4時間ぐらいでカバナツアンのホテルに到着!
高速を使ったせいか、意外に早く着いた様な気がする。
ホテルは、拙者が北部ルソンに行く時は必ず利用している「ラ・パリリヤ・ホテル」である。
“サトウさん”たちは、普段から夕食を食べない生活をしているというので、お二人には部屋で休んでいただき、夕食は“ステラさん”とドライバーの3人でホテルのレストランでとる。

本当はホテルのレストランじゃなくて、外に出て街の中にあるレストランの方が安くておいしいのだそうだが・・・
さすがに長時間車に乗っていて疲れてしまい、その気が起こらないと“ステラさん”が言う。
拙者も同感!(笑)
とうわけで・・・ホテルのレストランでの夕食となったが、味は悪くない。
結構おいしいので満足・・・である。

DSC04324_convert_20100505212851.jpg

で・・・ドライバーの“クリスくん”が、以前、拙者に会ったことがある・・・と話しかけてきた。
「え?どこで?いつ?」
「かなり前にマニラ東方高地に行ったでしょ?」
「ボソボソとかに行ったよ」
「その時に運転していたのが・・・僕!(笑)」
「え~!そうなの!ごめん!気が付かなかった!忘れてた!」
とにかく彼は余計な話をしない大人しい青年である。
というわけで・・・記憶に残っていない!(笑)
申し訳ない!
アイムソーリーの連発に彼が苦笑した。(笑)
いやぁ~そうだったのかぁ~!
拙者がもっと英語が話せれば、コミュニケーションが取れたんだけど・・・
あの時も、今も変わらず・・・英語は・・・駄目!(笑)
あ~なんたることぞ~
やっぱり会話をしないと記憶に残らないんだよなぁ。
「今度はちゃんと君のことを覚えるから!」と言ったら笑われた。

夜、部屋にボーイがやってきた。
何事かと思ったら、皿の上にスライスされた玉ねぎのようなものが載っている。
なんだろ?・・・これ・・・・
ボーイ君はニコニコしているのだが、何のことやらわからない。
何やら「とてもいい」ということを言っているらしいのだが・・・拙者のリスニング力は低いのだ!(笑)
「これ、食べるのか?」と言ったら笑われた。
どうもそうじゃないらしい・・・
「とてもいい香りがします」というようなことを言っているようだ・・・
「香り?香りがどうしたって?」(笑)
あ~でもねぇ、こ~でもねぇと話してみたら、ようやくわかった!
ちょうど階段のあたりをペンキで塗り替えしていたのだが、そのペンキの匂いを消すために、これを持って来たということがわかった。(笑)
「とても香りがいいです!」と言う。
そうかぁ?
拙者は鼻がおかしいのだろうか?
ペンキの匂いも、この玉ねぎをスライスしたようなものの匂いも・・・何も感じないのだが・・・(笑)
まぁ、ご親切には感謝する。(笑)

旅行 | 18:25:30 | Comments(0)
成田に前泊
さぁ明日からフィリピンである。
いつものように出発ギリギリまで準備をして・・・(笑)
家を飛び出し、特急列車に乗って上野に向かう。
毎度のことながら・・・何か忘れ物をしたような・・・(笑)
出発前にやっておかねばならぬことを忘れてしまっているような・・・
更には、自分の部屋の窓・・・閉めたかな?
パソコンの電源は切っただろうか?
考えれば考えるほど不安になるのである。(笑)

上野駅から京成電鉄の上野駅へ向かい、京成で成田へ・・・・
成田空港近くのホテルで“サトウさん”ご家族と待ち合わせである。
チェックイン後、ロビーでお会いする。
出発直前までメールでのやり取りしかしたことがなく、直接お会いしたことがない。
ちゃんと会えるかと思ったら、意外にもすぐにわかった。
不思議なことなのだが・・・(笑)
メールをやり取りしていて、なんとなく“サトウさん”はメガネをかけているような気がしていたのである。(笑)
どうしてそう思ったのかはわからない。
とにかく、そういう気がしたのである。
で・・・お会いしたら・・・・本当にメガネをかけていた。(笑)
いやぁ~なんだろう・・・これ・・・(笑)

“サトウさん”とお母さんに初対面の御挨拶。
あとは・・・雑談・・・・
“夢がかなう”ということで、お母さんは喜んでくれている。
さぁ~責任重大だ。
これで、もし慰霊がうまくいかなかったら大問題である。

明朝ロビーで待ち合わせするということで、打合せ終了!
解散。
さて・・・明日寝坊したら大変だ・・・早く寝なければ・・・(笑)

日記 | 23:09:02 | Comments(0)
千畝
千畝―一万人の命を救った外交官 杉原千畝の謎千畝―一万人の命を救った外交官 杉原千畝の謎
(1998/08)
ヒレル レビン

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杉原千畝(ちうね)という外交官・・・・
ユダヤ人にビザを発行して、その命を救ったということは知っていたが・・・
本書では、「なぜ危険をかえりみずに行動できたのか?」という点について書かれている。
著者はボストン大学の教授で、アメリカを代表する歴史家。
当時の日本の歴史的な流れなどは、非常に公正に描かれていて好感が持てる。
日本人でもなかなかこういう風に公平な目で見てものを書く人は少ないんじゃあるまいか?
変に「アメリカの歴史観」に偏っていない・・・・
この公正なものの見方、書き方で、この本が信用に値するものであると確信した。

さて、この杉原千畝という人物・・・
ただの外交官だと思ったら、そうじゃないらしい・・・・
どうも諜報活動もしていたらしい。
これは意外なことを知った。

著者は杉原に助けられたユダヤ人はもとより、日本にも来て多くの人を取材している。
外国を飛び回り、現地の取材も綿密に行なっている。
その中で感動的だったのが、杉原の最初の妻へのインタビュー。
杉原はロシア人の妻を最初にもらって、その後、日本人と再婚していたのである。
この最初の妻へのインタビューは、探し出すのがちょっと遅れていたら叶わなかった貴重な出来事である。
インタビューの直後にお亡くなりになってしまったからである。
この時、貴重な話を得ている。
まさしく快挙である。
気になるのは再婚した日本人の奥さんについて・・・・
どうも彼女が書いた夫・千畝に関する本、または言動について疑念をもっている様子である。
いつか、この奥さんが書かれた本も読んでみなければならないが・・・
どうも誇張しているのか、多少の嘘を交えているのか・・・肝心なことを隠しているのか・・・
歴史家の目は厳しい・・・
批判的である。

本書では杉原のことだけではなく他の事も知り得た。
それは、ヒトラーのナチス・ドイツだけがユダヤ人を迫害していたわけではないということである。
当初はアメリカもイギリスも同じようなものだったのだ。
ビザを求めるユダヤ人を見殺しにしている。
イギリスにあっては、もっとひどい。
イギリスのどこが「紳士の国」なんだか・・・
今では、澄ました顔をしているが・・・えげつない連中である。
欧米人とはそういうものかもしれない。
だから、日本は国際社会の中での「駆け引き」が下手なのだろう。(笑)
こういうことをアメリカ人が書いているところが“ミソ”である。

どうして杉原千畝はユダヤ人にビザを発行し続けることが出来たのだろう?
そもそも、どうしてそういう行為を起こすことになったのか?
ただの「いい人、親切な人」ではないのでは?
どうして戦後、日本国内で、特に外務省で彼の行為が高く評価されなかったのか?

本書を読んでみると見えてくる。

ただ、460ページを超す大作なのである。(笑)
分厚い本なので・・・・その厚さを見ただけで読む気がくじけそうになるが・・・・(笑)
読んでみると、これがなかなか面白い。
一気に読んだ。

序章 〈汝の隣人の血の上に立つなかれ〉
杉原千畝は日本版シンドラーか?
旅立ち

第1章 少年期の千畝が生きた時代
1905年―八百津
1905年―カウナス
1905年―ポーツマス
ポーツマス条約以降
少年千畝をはぐくんだもの

第2章 セルゲイ・パブロビッチ・スギハラ
〈文装的武備〉
ハルピン学院の秋
〈満州国〉官吏
クラウディア・スギハラ
ハルピンの情報マンとして

第3章 外交官と諜報活動
満州事変
満州国外交部
東清鉄道の買収
満州周辺のユダヤ人
疑われる千畝
日独防共協定
まぼろしの〈ユダヤ領事館〉
新たな彷徨
ヘルシンキへ

第4章 カウナスへの道―思い出の街
ポーランドのスパイ・コネクション
バイツガンタス街からの眺め
ユダヤ人、カウナスへ
ベックルマン―リトアニアのもうひとつの〈新しい目〉
ハヌカのケーキ
千畝と教理問答
ピアニスト千畝

第5章 カウナス領事館の外側―1940年春
本省との論争
ヴィザ発行の政策
〈水晶の夜〉と五相会議
ステラのヨーロッパ脱出
春になり・・・・
カウナスのアメリカ人
冗談の提案
〈極めて危険〉

インターメッツォ(間奏曲)―千畝に届かなかった手紙
親愛なる杉原さん

第6章 「慣例として通過ヴィザ発行には・・・・」
異常なざわめき
慣例として通過ヴィザ発行には・・・・
ソ連のリトアニア併合
〈バスに乗り遅れる・・・・〉連合国と枢軸国の間の日本
〈危道〉
アメリカ禁輸措置への対抗
「ヴィザ依頼に関しては」
松岡洋右
キュラソーへ行くには
ソ連の〈併合〉と領事館閉鎖―船に乗り遅れたら
「ヴィザを求めて当領事館に押しかける者、連日・・・・」
「全土に黒い帳が降りてきた・・・・・」
「日本はもっと文明国だ」
「本省は拒否の返答を送ってきた・・・・」
「私のもとに来た、すべての人に」
〈主君なき男〉から〈悲劇の英雄〉へ

終章 カウナスからの道―救助者と生存者



今年の読書:12冊目



読書 | 20:37:38 | Comments(0)
ご報告会
今日は、夕方、先輩の“オノちゃん”と食事会・・・
昨日の「いばらき岬塾」の報告を聞かせてくれと言うので、食事をしながらの「報告会」を行なう。
“オノちゃん”先輩も、先生が“クセ”のある人だということは噂で聞いて知っていたようで・・・
そこに拙者が行くことを心配していたような・・・
いや、拙者が一波乱引き起こしてきたんじゃあるまいかと・・・・期待している風があった。(笑)
“オノちゃん”先輩も、多少は興味はあるようだが、いまさら塾に行って講義を聴く歳じゃないという。
そりゃそうかも知れん・・・・
なにせ、もう50歳を軽く過ぎているのである。
人生の半分以上を生きてしまっているのである。
20代そこそこならばわかるけど・・・この歳で・・・というのは一理ある。(笑)
だいたい、我々青年会議所のメンバーは、既にいろいろな研修を受けてきてトレーニングしてきている。
だから、もう勉強をしなくてもいいというわけではないが・・・
40歳までに研修を受け、知識を吸収し、経験を積み、40歳で「卒業」したら、今度は社会の中のいろいろな分野で実践していくのである。
本業の仕事だけではなく、地域の為、街づくりの為、各種団体・組織の為、奉仕の精神をもって活動する勉強をしてきたのである。
・・・であるから・・・いい歳して、いまさら「勉強」というのはおかしいのである。
40歳を過ぎた段階で、もう、実践に移っていなければならない。
その合間に補完的に勉強を続ける。
これが正しいあり方だと拙者は思うし、青年会議所の理事長経験者の“オノちゃん”も同意見である。
拙者の場合は、戦友会の活動であり、戦没者の慰霊の活動が実践の場である。

「で・・・どうだった?」と“オノちゃん”
「え~と・・・先生は確かに“クセ”の強い人ですけど、極々まともな人ですよ。問題は・・・」
「問題は・・・?」
「問題は・・・塾生の方ですね。余りにもレベルが低すぎます」
「やっぱりねぇ~(笑)」

これで「報告会」は終わり!(大笑)
「塾生のレベルが低すぎる」の一言で“決まって”しまった・・・・(笑)
あとは、酒を飲み、鍋をつついて・・・雑談である。

日記 | 20:13:48 | Comments(0)
「岬塾」に行く
この間、水戸藩士の“シミズくん”と会った時に「岬塾」に誘われた。
青年会議所の後輩が立ちあげた「いばらき岬塾」というのがあって、第5回目の開催だという。
で・・・塾長は岬龍一郎という先生だという。
福沢諭吉の『学問のすすめ』をテキストに講話をするとか・・・

学問のすすめ―自分の道を自分で切りひらくために学問のすすめ―自分の道を自分で切りひらくために
(2004/05)
福沢 諭吉

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ただ、問題は・・・この先生がかなり個性的だということ・・・
拙者とは“衝突”しかねないようなキャラクターらしい。(笑)
しかし、いくらなんでも殴り合いのケンカにはなるまい・・・(笑)

ところで、先生は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず・・というのは福沢結吉の作った言葉だと言っているのか?」と“シミズくん”に尋ねてみた。
すると、「先生はそういうことは言っていません」と言う。
「おお、それならいい。それなら聞きに行くよ」と参加することを決めた。

「天は人の上に人をつくらず~云々」とういのは福沢諭吉の言葉だといっている「バカ」がいるが、とんでもない話だ。
福沢は「~と、言われているけれども・・・」と言っているのである。
「~と、言われているけれども・・・」ということは、この言葉は他の人が作ったか言っていたか、巷で流行していたのであって、福沢はただ引用したに過ぎない。
拙者はそう解釈しているので、福沢諭吉が「作った」なんて塾長が言うようだったら、たいした「塾」ではないので行かないことにしようと思っていたのだ。(笑)

夕方、“シミズくん”が迎えに来てくれ、青年会議所時代の同期で年齢は先輩の“ヒロミさん”と3人で会場に向かう。
会場で、野口雨情のお孫さんの“フジコさん”にお会いした。
いやぁ~何十年振りだろうか・・・・
「その節はいろいろとお世話になりまして・・」と言われたが・・・
「その節」って、いつのことなのか思い出せないくらい久し振りの再会である。(笑)
拙者は野口雨情とは“遠い親戚」関係にある。
が・・・孫の“フジコさん”に言わせると「それほど遠くないじゃな~い?」とのことである。
母方の遠縁ということは知っているが、我が母がこの世にいないので、よくわからない。(笑)
詳しく聞いてメモしておけばよかった・・・(笑)

「塾頭」は青年会議所の後輩だが・・・理事長を経験している割には・・・司会がイマイチ・・・(笑)
全然成長していねぇなぁ~
「塾頭」の意味がわかっているのか?
で・・・現役の理事長の発言も・・・これまたイマイチ・・・勉強不足である。(笑)
よくこの程度で理事長なんかになれたものだ・・・
で・・・「塾長」の岬先生・・・・
確かに「クセ」が強いというか「アク」が強いというか・・・個性的である。
確かに・・・一つ間違えると拙者と大喧嘩しそうなキャラクターだが・・・(笑)
しかし・・・言っていることは全くもって間違いないことばかりである。

最初に先生が発したのは「団塊の世代が今の日本を駄目にした」という発言でる。
まさしくその通り!
常々、拙者は「団塊の世代」には反感を持っていたので、この発言には驚いた。
先生も「団塊の世代」の一人だが、だから・・・何とか立て直さねば・・・ということで塾を開いているという。
そこなんですよね。
「団塊の世代」には、自己中心、自己本位、自分勝手、横柄、他人への気遣いがない、非常識・・・な“奴ら”が多い。(大笑)
このことを「団塊の世代」の先生自らが言ったのだから驚くと共に、こりゃ、たいした先生だと思った。
先生も「横柄」な言動を行なうが・・・
その時に「これは講演会じゃなくて“塾”だから・・・」と“断り”を入れている。
なるほど、「塾」ならば「おい!塾生!どう思う?言ってみろ!」という口のきき方をしても許される。
いやぁ~「衝突」するどころじゃなくて、なかなかの人物であると尊敬する。
これに対して・・・塾生は・・・
不甲斐ない・・・(笑)
「お前らそれでも“水戸藩士”か!」と言いたくなるくらい不甲斐ない・・・
先生が塾生を“挑発”するのだが・・・・反応がない・・・大人しい・・・・
駄目だ・・・こりゃ・・・(笑)

というわけで・・・
拙者は、懇親会で「自己紹介」のついでに酔った勢いで偉そうに説教じみた話をしてしまった!(笑)
青年会議所のメンバーがかなりいたので、なおさら「腹が立って」の事である。
口には出さなかったが・・・(笑)
こんな不甲斐ない塾生に囲まれている「塾長先生」が可哀そうである。(笑)

散々酔って・・・いい気分で・・・帰宅する。
が・・・“シミズくん”はさぞかし拙者の言動には「冷や汗もの」だったろうなぁ~(大笑)
かたじけない!

日記 | 11:59:35 | Comments(0)
東部ニューギニア戦線
東部ニューギニア戦線―棄てられた部隊東部ニューギニア戦線―棄てられた部隊
(1992/09)
尾川 正二

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序章 出発

第1章 原生林ーウエワク
光彩

飛行場
自然人
人為の空間
ニューギニア戦の「型」

第2章 ニューギニア作戦の意図
第一段階
第二段階 前期
第二段階 後期

第3章 マダン行
行路
文明と自然

第4章 ゴム樹海ーマダン

第5章 歓喜嶺

第6章 フィンシハーフェンの会戦
逆上陸
軍隊の「倫理」
逆上陸作戦の齟齬
激突
壕の「生活」
狂気

第7章 転進
生命の灯
曙の来ない「夜」
原自然
重い空間
「ほろび」の影
生命の「根」
掠奪
「骨」の意志
友情

第8章 アイタペ作戦
帰鳥―ハンサ
「ほろび」への道
インド兵
アイタペ会戦
「作戦」の意図

第9章 原住民とともに
無明
「自然」への回帰―ヌンバフ(ヌンボク)
山南の村―パンゲンブ
裸族

第10章 玉砕路
挺身攻撃隊
ピアビエ・ハウス
安楽死
「死」の舞踏

第11章 終戦
横と縦
秘境
玉砕絵図
終止符
配所の月―ムッシュ島
祖国へ
ヒューマニズムの限界
大酋長の運命
軍司令官の遺書
余波

著者は第20師団歩兵第79連隊の元兵士・・・・
その戦争体験談だが、第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「作家」の書いたものだけに、なかなかのものである。
私もニューギニアに行って現地を見ているが、その観察眼、表現力はさすがだなぁと感心する。
ニューギニア戦線も他の戦線同様悲惨な戦いを強いられた戦線である。
投入された約16万人の日本兵のうち生還できたのは約1万人である。
南方での戦場は自然との戦いでもあり、人間として理性との戦いでもあった。
戦場は狂気の世界である。
こういっては著者に失礼かもしれないが・・・
「あとがき」が珠玉である。
『「戦争は悪」といった抽象論からは、何も生まれてこない。悪に学ぶことがなければ、実感として戦争は捕えられるはずがない』
『未だに戦争は終わっていない遺族のかたは多い。いい加減な証言による本や映画によって、傷つけられる、悩ませられることは、耐えがたいことであろう。いわゆるヤラセによる放映もある』
本書が世に出たのは1992年であるから、今から18年前・・・
すでにいい加減な証言に基づく本や番組などが世に蔓延していたようである。
『個の特殊な体験を一般化することはできない』
一人のまたは一部の日本兵が行った悪事をもってすべての日本兵が悪者と決めつけるような風潮を指しているのだろう。
その通りだと私も思う。
『最後まで這いずり回り、ぼろぼろになるまで戦いつづけた者にとって、「ありえない」と思われる記述に戸惑わされる』
『<自分は、こんな恥かしい、非人間的なことをやった>と告白するのは、それなりに一つの証言たりうる。<だから、みんなもやったはずだ。ニューギニアの戦記を読んでみても、みな、その肝心なところをぼかしている>と言われると、平静でおれなくなる。自分はやった、だから、みんなもやったはずだ、とどうして言えるか』
こういう風潮は今も続いている。
以前、NHKのディレクターと喧嘩したことがあるが、こういう感覚でセンセーショナルな番組を作り放映したためだ。
“異常な行為”を実際にやった人間を番組に登場させず、「証言」として、他の人もみんな同じようなことをしたに違いない・・・と決めつけたから頭に来た。
このディレクターは全く反省していない。
おかげでどれだけの人が傷ついたか・・・・
こういう番組に仕立て上げないと企画会議で承認されないからと平然としていたのには呆れた。
若い女性のディレクターである・・・・
今でも思い出すとはらわたが煮えくりかえってくる。

こういう現状をよくご存じの筆者が書いたのであるから・・・「良書」である。
戦記に苦手な人は「あとがき」だけでも読んでもらいたいくらいである。
戦記物の初心者は、「あとがき」を読んでから本文を読んだ方がいいかもしれない。
読者には「貴重な証言」という「いいかげんな証言」の戦記物や証言集を見破る力も身につけてもらいたいものだ。
本書はお勧めの「良書」である。



今年の読書:11冊目



読書 | 11:16:37 | Comments(0)
親の命日
今日は墓参り・・・・
母の月命日は23日だが、拙者がフィリピンから帰国する日なので23日は無理・・・
で・・・フィリピンへ行く前に墓参りをする事にした。

で・・・実は、今日は親父の方の祖父の命日である。
祖父は学校の校長先生をしていた人で、当時、茨城県で最年少の校長だったという。
校長先生というのは「おじいさん」がなるものだと思っていたが、詳しいことは知らないが、どうも20代後半か30代前半で校長をやっていたらしい。
その後、村長になり、周辺の村を合併して町政を敷いた。
拙者が物心ついた頃は、既に町長も辞めていて、ただの「おじいちゃん」だったが・・・(笑)
祖父が亡くなった時は、初代町長ということで、葬儀の後に「町葬」が執り行われた。
拙者が大学2年の時のことである。

で・・・親父に、「今日はおじいちゃんの命日なんだ」と言ったら・・・
「へぇ~そうなんだ~今頃だったか・・・全然覚えてねぇなぁ~」と言う。
なんというバチ当たりであろうか!
自分の父親の命日を憶えていないとは!

親が「校長」というのは子供の人格形成に大きな影響を与えるのではないかと思う。
親父の性格を見ていると、どうもそういう気がしてならない。
昔の校長先生というと、人格者で神様みたいなものだ。
その息子なんだから、やりたい放題である。(笑)
もしくは、いじめられてひねくれるか?(笑)
どうも親父を見ているとそういう気がしてならない。
偉そうに人に命令をする、人を見下す、人が自分の為につくすのは当たり前・・・という態度をとる。
で・・・感謝はしない。
これは、幼少時代の経験が影響しているに違いない。(笑)
おじいちゃんは偉い人だったが・・・
でも・・・自分の息子の教育には失敗したみたい・・・(大笑)

極めつけに自分の親の命日を憶えてないっていうんだから・・・呆れてものが言えぬ。
「よくそんなことを憶えているなぁ~」と親父は呆れている。
おじいちゃんの命日を憶えているなんて「変人」だと言わんばかりの言い方である。
が・・・憶えているわけではない。
手帳に命日を書き留めているから分かるだけである。
毎年、手帳が新しくなるたびに書き写しておいてある。
そうじゃなけりゃ、気が付くわけがない。(笑)
おじいちゃん、おばあちゃん、伯父ちゃん、伯母ちゃん・・・それに今は亡き友人たち・・・
覚えきれるわけがあるまい。(笑)
だから、全部手帳に書き込んでいるのだ。
しかし、それにしても自分の親の命日くらいは憶えるだろ?
なんたる親父だ・・・・・
親不孝者であるが・・・
最近、自分があの世に近づきつつあるせいか、墓参りを欠かさぬようになった。(笑)
まぁ、遅ればせながら・・・であるが・・・
全く墓参りをしないよりは良いと思うべきか。

いつも、母の墓参りと一緒に、母型の墓所、父方の墓所にも寄って墓参りをしているが、今回は、父方のおじいちゃんの命日なので、いつもとは思い入れがちょっと違う墓参りである。

日記 | 10:07:34 | Comments(0)
姉妹で連弾
今日は、姪っ子たちのコンサート。
音大の音楽教室のコンサートである。
で・・・今回は、親父は欠席、そのかわり母の姉である伯母が福島県から来てくれる。
妹の叔母のほうは、タイミング悪く風邪をひいてしまったらしい。
抵抗力が弱まっている時に、東京なんかに来て新型インフルエンザにでもかかったら大変である。
ということで・・・叔母は欠席。

お昼に上野駅で待ち合わせ、拙者がいつも利用する構内の喫茶で昼食。
その後、久し振りにお会いしたのでおしゃべり。
2時間近くおしゃべりしてしまい、危うくコンサートに間に合わなくなるところで・・・気が付いた!
まずい!
急いで池袋駅に向かわねば!(笑)
伯母は、さすがに高齢となり歩くのが辛いという。
う~ん・・・どうしようか・・・
池袋から私鉄で向かおうかと思ったのだが・・・
仕方がない・・・池袋駅からタクシーに乗って直行しよう!

で・・・タクシーに乗ったら・・・
あらら・・・全然違う大学へ連れて行かれた!
「正門の前でいいですか?」と運転手。
「はぁ?ここ・・・どこの大学?・・・全然違うんですけど・・・」
「えっ!間違えた!」
大笑いである。
あのね・・・音楽大学って言ったのにさぁ~
何を聞いていたんだろ?この人・・・
拙者はいつも電車と徒歩で行くので、タクシーで行ったことがない。
まさか、駅の反対側にある別の大学に連れて行かれるとは思わなかった。

急ぎ、目的地に向かってもらったが、到着した時は開演15分前!
しかも・・ホールがいつもと違う場所らしい。
いつものホールに行ったら誰もいない!(笑)
近くの学生に尋ねたら「あっちです!」とのこと。
「あっちって・・・どっちよ!」
「え~と、そっちを曲がって・・・あっちの方です!」
「そっち?・・・そっちってどこよ?」
「そこです。そこ・・・」
「ん?そこって?どこ?」
何とかならんか・・今の大学生・・・
日本語が全然出来ていない!!(怒)
どこから見ても我々は部外者である。
部外者にはもっと分かりやすく説明をせねばいかんのではないか?

ギリギリでホールに駆け付け、前の方に座る。
で・・・コンサートの始まり!
高2と小6の姪が登場!
向かい合わせのピアノ2台にそれぞれ座り・・・
あれ?
どこかで見た顔だ・・・
「譜めくり」と言って楽譜をめくる役目の人がそれぞれ付くのだが・・・
その一人は高1の甥っ子である。
彼の登場の仕方が面白い。
楽譜を抱えて、まるで先生のような顔をしてステージに現れて来たのだから思わず笑いそうになる。
兄弟3人が揃ったコンサートというのは珍しい。

演奏曲はなんだか難しくって拙者にはさっぱりわからないが・・・(笑)
会場の拍手と、その後のざわめきから、どうも難しい曲を弾いていたらしい。(大笑)
その後、何人もの演奏者が登場。
ちょくちょく姪っ子が伴奏役でも登場する。
いつもと同じ景色である。
で・・・あれは小学1年生ぐらいだろうか?
小さな男の子がバイオリンの演奏!
これがまた素晴らしい!
よくもこんな難しい曲を弾けるものだと感心!いや、感動ものである!
大人顔負けの演奏をして、チョコンとお辞儀をして、チョコチョコと歩いて去っていく姿はかわいらしい。
このギャップに唖然・・・(笑)

コンサートを終え、これからが大変。
妹はあっちこっちに挨拶回り。
パパはお荷物とファン(?)からの花束やらプレゼントの山の運搬係・・・(笑)
御苦労さまである。

伯母はこれから福島県に帰らねばならない。
あまり遅くなっては悪いので、急いで上野まで妹の運転する車で送ってもらう。
で・・・夕食は上野駅構内の蕎麦屋・・・(笑)
今日は「伯母ちゃん孝行」をしようと思っていたのだが、夕食が蕎麦では申し訳ない。
が・・・時間がないので、やむを得ない。
いやぁ~折角、東京に出てきてもらったのに申し訳なし。

僅か2時間弱のコンサートを聴くためにわざわざ出てきてもらったのに・・・と恐縮至極。
だが、拙者と久し振りに長話が出来て良かったとのことなので、そう言ってもらえて少しはホッとした。(笑)
感謝、感謝・・・である。

日記 | 18:30:35 | Comments(0)
会計監査
今日は戦友会の会計監査の為ため東京へ行く。
まずは・・・会計担当の“イシワタさん”宅を訪問。
本来は“イシワタさん”が作成しなくてはならないのだが、拙者がパソコンで作成。
これを最終確認してもらい、決算書に担当者の印を押してもらう。

続いて、監査役の“サトウさん”に印鑑をもらわねば・・・
ひざを痛めて歩くのが大変だと言っていたので御自宅を訪問するつもりでいたが、新橋駅前で待ち合わせとなる。
近くの喫茶店で関係資料に目を通してもらい、決算書に印をいただく。

これで一件落着!
いやぁ~何だかんだと手間取ったが、これで今度の総会に間に合う。

明日は別件があるので、東京に宿泊することにする。


日記 | 18:22:31 | Comments(0)
週刊文春を買う!
1年に1度も週刊誌を買わない拙者だが・・・・
待ちに待った「週刊文春」を買う!
ようやくスクープ記事が載ってくれたのである。
その記事は・・・・
「フィリピン人の骨が千鳥ヶ淵に埋められる!?」という記事。
『「遺骨収集事業」に戦没者遺族が重大疑惑』という副題が付く。

ある程度、この件について知っている拙者としては、待ちに待ったスクープ記事である。
1月に記者がフィリピンに取材に行ったことも知っていたのだが、それから待てど暮らせど記事が出ない。
鳩山首相のお母さんからの「お小遣い」問題や、小沢幹事長の土地購入の疑惑やら、モンゴル出身の横綱の引退やらで、この記事の掲載が見送られていたようだ。
この遺骨収集に関しては、この間のロータリークラブでの講演でも簡単に触れ、詳しくは週刊誌を読んでくれと頼んだのだが、それからなかなか掲載されず記事が捻り潰されたのではないかと一時は心配していた。
ようやくこの「事件」が日の目を浴びることになり安心した。(笑)

この記事で取り上げられている問題点は、NPO法人「空援隊」の活動内容についての疑惑である。
拙者も、以前からこのNPO法人が「怪しげな団体」ということは聞いていたが・・・・
この団体が遺骨収集事業に首を突っ込んでからグンと日本兵の遺骨が収集できるようになったという。
政府の遺骨収集事業では年に数十柱しか収骨出来なかったのに、「空援隊」が関わったところ収骨数が増えだし、昨年は7739柱も収骨したという。
戦後65年も経っているのに・・・・
そんなに日本兵の骨が集まるのか?
これ自体が「怪しい」

このNPO法人の設立発起人で事務局長をしている人は京都の宗教団体の三代目だという。
これにアルピニストの野口健氏が理事として一枚かんでいる。
彼は熱心に遺骨収集について講演したりと活躍しているようだが・・・
問題なのは、今から5年前に起こったミンダナオ島の元日本兵の騒ぎ。
この時に、拙者はマニラにいて、この調査のため現地入りする人とマニラで情報交換と打ち合わせをした。
「事件」は前年から始まっていて、マスコミには詳細が判明するまで報道を控えるよう押さえていたのだが・・・
この「事件」の騒ぎを大きくしたA氏・・・(なぜか実名を出していない)
彼は「元日本兵救出にはゲリラに多額の謝礼が必要」として、その仲介者を名乗っていたが、結局、元日本兵発見の「事件」は事実無根。
金欲しさの「狂言」もしくは「詐欺」を行ったのである。
その「A氏」という男と、このNPO法人事務局長が繋がっているというのだから・・・・
この団体の行っている遺骨収集が果たして純粋なものなのかどうか・・・
馬鹿じゃなければすぐわかろうというものである。

セブ島のある場所から「300柱も日本兵の骨が出た」との話に、「そこには日本軍は行っていないから、ありえない」と生還者が呆れている。
空援隊事務局長自身が「セブ島のイリハンで大量の日本兵の骨を見つけた」と騒いだらしいが、イリハンでは戦闘はなく、大量に日本兵が死んでいるわけはないと現地に30年以上住んでいる日本人が論破。
すると・・・「イリハン」という地名を口に出さなくなったという。
が・・・たぶん、地名を特定せずにセブ島から大量の日本兵の骨が出たとは言っているだろうなぁ~(笑)
戦史を知らない、お粗末といえばお粗末な話なのだが・・・

最大の問題は、現地人に金を払って「日本兵の骨」を集めさせているということ。
(自分たちで探して掘っているわけではないのか?)
日本人からは「本当に日本兵の骨を集めてくれたのなら謝礼金をあげても問題はない」と言いたいだろうが・・・
フィリピン人側から見ると「人間の骨をもって行くと金がもらえる」ということになる。
で・・・先祖の墓を暴いて、御先祖様の骨を持ってきたりする。
手っ取り早い「現金収入」である。
彼等は、日本人のように「骨」に執着しないから、金になるなら先祖の骨でも売ってしまう。
取材陣はこの事実を現地で確認している。
ということは・・・「日本兵の骨」と言われているものの中に「フィリピン人の骨」が混じっていることは間違いないだろう。
だから、昨年は7000柱以上の骨が「見つかった」ということになったのだろう?
大いに辻褄が合う。
で・・・この「フィリピン人の骨」が「英霊」」として日本に「帰還」し、千鳥ヶ淵の墓苑に安置される。
「これでいいのか?こういうことを認めていいのか?」というのが遺族を始め拙者を含む関係者の指摘・・・
骨になったフィリピン人の御先祖様も迷惑だろう。
日本に連れて来られて、「英霊」として日本人の遺族に拝まれては・・・・
拝む日本側としても、フィリピン人の骨を拝むことになる・・・・
いかがなものだろうか?これ・・・

空援隊の事業に参加した遺族の話によれば・・・
空援隊のメンバーが現地の射撃場で拳銃をパンパン撃って「遊んでいる」という。
遺族の神経逆なでであるが・・・・
どいういつもりなのか・・・「戦争ごっこ」?
それとも「決死隊」ごっこ?
「遊んでいる」と言われても仕方がないかも。

最悪なのは、空援隊事務局長のコメント。
空援隊は厚生労働省から委託費をもらって活動しているらしい。
昨年度は2450万円、本年度は倍増して4700万円になるらしい。
が・・・事務局長の倉田氏はこう取材に答えたという。
「年間に8千万円から経費がかかるのに、たかが4~5千万円じゃ足りません。ゲリラとの交渉や遺骨の運搬経費に莫大なカネがかかる。射撃はいざというときのための備えです。私の身内には戦没者は一人もいません。でも遺骨収集は遺族がやるものとは限らないでしょう。それに、厚労省の事業なんてほとんどはどうでもいいんですよ。担当者の援護企画課長が私らに『どうしてもやってください』と頼み込むから仕方なくやっているだけですよ」(記事より引用)

このコメントには呆れる。
またもや「ゲリラとの交渉」にカネがかかる・・・という発言。
あの元日本兵救出騒ぎと同じである。
射撃はいざという時の備え・・・・って、何?
戦う気?素人の日本人がゲリラと銃撃戦をするの?(笑)
その銃はどこにあるのだろうか?
フィリピンでは日本人は「外国人」だけど・・・合法的に銃は所持できるのかね?
フィリピンで日本人「観光客」がゲリラと銃撃戦をしたら大問題でしょ。
やっぱり・・・「戦争ごっこ」か・・・・アクション映画の見過ぎだな・・・幼い・・・子供!(笑)
で・・・極めつけ!
「どうしてもやってくださいというから仕方なくやっているだけ」・・・・
唖然・・・である。
遺骨収集を「仕方なく」やっているのか?
これでは遺族や生還者は怒るだろ~
英霊に失礼である!
嫌々ながら、はした金で、仕方なく、骨を拾ってやっているんだ・・・って?
宗教団体の三代目の言葉かね?
法事にやって来た坊さんが「わずかなお布施なので不満だが、どうしてもお経をあげてくれって言うから仕方ないから、お前の親のためにお経をあげてやっているんだ」と言ったら・・・・殴られるよなぁ~(笑)
言っちゃならない言葉を言ってしまったようである。
ということは・・・「その程度」の人物がやっているということか・・・・

親兄弟を失った遺族、戦友を失った生還者、英霊御本人にとって、なんと不幸なことであろうか。
最大の問題はこの点かも・・・・
「仕方なくやっている」か・・・・ひどい話だ・・・・

日記 | 10:22:30 | Comments(0)
大戦秘史・リーツェンの桜
大戦秘史・リーツェンの桜―敗戦の地ドイツでチフスと闘い、散った日本人医博・肥沼信次大戦秘史・リーツェンの桜―敗戦の地ドイツでチフスと闘い、散った日本人医博・肥沼信次
(1995/08)
舘沢 貢次

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この本は凄い!
こんな日本人がいたのかと感動した。
第二次世界大戦中、ドイツに日本人医師がいた・・・・
彼は、ナチス・ドイツが降伏してもその地を離れず、そのままドイツに残留・・・・
たった一人で、リーツェンという町で伝染病と闘い多くの住民の命を救ったのである。
そして・・・彼もまた罹患してしまい、その地で客死してしまった。
彼の墓はリーツェンにある・・・・
そして、地元の人が半世紀近くもこの墓を守り続けてくれていたという。
その日本人医師・・・肥沼信次の物語である。
よくぞ、こういう歴史に埋もれた人物にスポットライトを当ててくれたと著者に感謝せねばなるまい。
資料もあまり残っていない、当時を知るリーツェンの人々も少ない・・・そういう中でよくぞここまで書き上げたものである。
いやぁ~凄い!
こういう本は是非子供たちに読ませるべきである!
子供たちだけではなく、多くの大人にも読んでもらいたい本である!
敗戦ドイツの混乱の中、一人残って他国民の為に命をかけた日本人がいたのである。
私だったら・・・さっさと逃げ出すことを考えたかもしれない。
ましてや街中に伝染病が流行しているのである。
自分が医者だったとしても・・・やっぱり怖気づいただろうと思うのだ。
いやぁ~凄い人だ・・・この人は・・・

第1章 エスクレビオス(医術の神)の墓

第2章 ナチス政権下の「サムライ」宣言

第3章 黒マントの赤ひげ

第4章 数学の鬼

第5章 済生学舎出身医師の長男

第6章 ベルリンの恋

第7章 日独文化協会と肥沼

第8章 戦火を越えて



今年の読書:10冊目



読書 | 23:12:08 | Comments(0)
親父の携帯
ドコモ・ショップへ行き親父の携帯電話の機種を変更する。
この間、親父のもとに通知があったらしい。
現在使っている携帯が使えなくなるとのことらしい。
今まで親父が使っていたのはムーバか?
使用できなくなるのは・・・2012年だったと思うのだが・・・
あと2年もあるんだから何もそんなに急がなくてもと思うが「早く交換しに行ってくれ」としつこい!(笑)
だいたい、普段、全く使っていないのである。
電源も入れずに放置しているのである。
それなら携帯なんかいらないんじゃないか?(笑)
あっても使わない癖して、ないと不便だというのだから、言ってることがよくわからん!
基本料などの料金は拙者が払っているんですけど・・・
無駄な経費なんですけど・・・
しかも、ムーバが使えなくなる2年後に生きているかどうかもわからんでしょ?(笑)
もう、いい歳なんだし・・・死んでるかもしれないし・・・(笑)
なにも新しい携帯を急いで買う必要はないのではなかろうか?

しかし、毎日せっつかれるとうるさくて仕方がない。
自分でドコモ・ショップへ行けばいいものを・・・それは嫌なのだそうだ。
いつもの調子・・・「お前の方で何とかしてくれ」である。
いざとなると「もう俺は歳だから・・・よくわからない」と言い訳を言う。
それなら息子の言うことを大人しく聞けって言いたくなるんですけど!

仕方がないので、親父の代わりにドコモ・ショップへ・・・
で・・・「御本人様」ではないので・・・
お店の女の子から「念のため、お父様の生年月日をお教えいただけますか?」などと質問された。
へっ?親父の誕生日??????
全然記憶にない!(笑)
申し訳ないが、母親の誕生日は覚えているが、親父の誕生日なんて覚えていない!(大笑)
「え~と・・・6月だったかなぁ~」
「はい、それで?」
「多分、月の真ん中あたり?20日前後?その頃だったかなぁ~?だいたい、その頃でしょ?6月の・・・」
「6月の真ん中ごろ?(笑)それでは困るんですけど~」
「え~と、19日!いや、18日か?まてよ・・・21日かも!そのあたりだったような・・・」
「はぁ・・・」
ええぃ!適当に・・・この日だろうと言ったら・・・当った!(大笑)

で・・・買い換えるのは・・・「ボケ老人でも使える簡単なのを下さい!(笑)」
とにかく安くて簡単なものでいい。
出来ればカメラの機能もメールの機能もいらないのだが・・・
どうして、こうも色々な機能をつけちゃうのかねぇ。
超シンプルな機種のほうが売れるような気がするんだけどなぁ~(笑)
「GPS機能付きのものは、親父が完璧にボケて徘徊するようになったら買うということにするから」と言ったら女の子に笑われた。

で・・結局、比較的簡単そうな文字の大きな新しい携帯を買ったが・・・
この代金の支払いは拙者のクレジットカードからである!
なんで、こうなるのかねぇ~(涙)

日記 | 20:56:53 | Comments(0)
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