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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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盛岡の旅
八戸から盛岡まで新幹線で移動。
丁度、お昼前に到着。
駅の構内のレストランで昼食をとる。

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食後、駅構内の土産物屋を「視察」(笑)
到着早々、土産物を買うわけではない。
あくまでも下見である。

駅からタクシーで岩手県護国神社に向かう。

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ここにはマニラ東方で活躍した歩兵第31連隊の慰霊碑とビアク島守備隊の慰霊碑の2つが建立されていた。
宝物館のカギを開けてもらい、館内を見学。
なかなか内容の充実した素晴らしい展示物の数々。
郷土部隊の歴代連隊長の写真が飾られていたが、特に驚いたのが、馬場正郎中将の写真。
馬場さんは騎兵第24連隊長と騎兵第3旅団長を歴任されている。
それでここにお写真が飾られているのだが・・・・
いやぁ~お懐かしいお姿!
馬場さんが京都の第53師団長の時に拙者の祖父が副官としてお仕えしていたのだ。
拙者の祖父の上官である。
終戦後、戦犯容疑でラバウルで処刑されてしまったが・・・・
馬場さんは、全く戦犯事例とは関係がないにも関わらず、部下を助けるために現地に赴き無実の罪で処刑されてしまったのである。
今年、ラバウルへ行ったが、処刑地跡を訪れることができなく残念だった。
が・・・まさか、ここで馬場閣下のお写真にお会いできるとは・・・・

さらには、斎藤義次中将の写真も・・・
騎兵第8連隊長を歴任していたとは知らなかった。
この方も祖父の上官。
確か昭和5年か6年ごろ、中国の大興安嶺の探検調査の時の支隊長で、当時は中佐。
拙者の祖父は、その探検隊の護衛をした機関銃小隊の小隊長。
斎藤閣下はサイパン島で師団長として玉砕されている。

なんともおかしな話だが、知っている方々のお写真に出会えてうれしくて仕方がない。
こういう気持ちは誰にもわからないだろうなぁ~(笑)

この他に、ガダルカナル島の遺骨収集状況の写真の展示などもあり、今後の戦跡訪問・慰霊の旅に大いに参考になる。
こじんまりとした館内をじっくり見学したら1時間ちかくかかってしまった。

護国神社隣の盛岡八幡宮の茶店で一服。

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頼んだのは甘酒なのだが・・・・
なぜか、タクアンと佃煮が一緒に付いている。
ん?甘酒っていったら、普通はショウガが付くんじゃないのか?
変ってるなぁ~(笑)
と・・・ここで気がついた!
まだ、八幡宮をお参りしていない!
甘酒飲んで、酒気を帯びてお参りしていいのだろうか?
バチが当たるんじゃあるまいか?
などと、茶店の「おばちゃん」と大笑い。

お参りを済ませ、神社の前でタクシーを拾い、大慈寺にある原敬の墓所へ向かう。
原敬はキリスト教徒だったはずだが、お墓は中国式のお墓である。
続いて向かったのは、円光寺にある米内光政海軍大臣のお墓。
で・・・その後は、事前に調べておいた盛岡市内の銅像巡り。
時刻も3時半を過ぎ、曇り空も手伝って少々薄暗いのだが、新渡戸稲造、石川啄木の銅像の写真を撮る。
午後4時には、ほとんど撮影不可能な暗さとなったため、ここで断念。
盛岡駅前のホテルにチェックイン。
今晩の夕食は海鮮丼。

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旅行 | 20:37:12 | Comments(0)
旧八戸小学校講堂
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明治記念館(旧八戸小学校講堂)

明治記念館の由来
明治記念館は八戸市堀端に八戸小学講堂として、明治14年(1881)8月に竣工した、県内に現存する最古の洋風建築である。
洋風の下見板張りの外壁が真壁として納まり、柱頂部には飾を載せ、胴蛇腹と軒蛇腹とを備えている。
明治14年の明治天皇東北御巡幸に際し行在所として用いられた。
昭和4年には八戸市図書館となり、御聖蹟として維持される。
昭和37年に櫛引八幡宮境内へ移築し、その際窓回り等に若干の改造が加えられてはいるが、「明治」の雰囲気を色濃く伝えており、「明治記念館」として現在に至る。
(現在は直会所・神前結婚式控室・会議室等に使用している。県重宝平成3年3月13日指定)


より大きな地図で 明治記念館 を表示

建物 | 15:14:51 | Comments(0)
旧八戸城東門
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旧八戸城東門

八戸市有形文化財
平成5年6月3日指定

この門は、八戸城の東門で安政6年(1857)の大風のため倒れ、家臣の木幡(こばた)氏の門として建て替えられました。
伝承によればもともと根城にあった門を八戸城に移したといわれています。

(説明板より)


より大きな地図で 旧八戸城東門 を表示

史跡 | 14:38:43 | Comments(0)
昌益思想発祥の地
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昌益思想発祥の地

浄土宗法海山天聖寺の歴史は八戸町の誕生とともに始まる。
八戸の街地がほぼ形成されたのは、江戸時代の初頭、承応年間(1652~1654)のことであるが、このとき八戸の人々の信仰の拠り所として町の中心部のこの地に建立されたのが当寺である。
所伝によると、往時は、根城にあり、涼雲山善道寺と称し、のち現在地に移転して天聖寺を名乗ったという。
寛文4年(1664)八戸藩が誕生すると、領内「近回り五か寺」の一つに数えられ、燈明料五駄が与えられた。
元禄年間(1688~1703)には、鐘楼などの諸堂が整備され、城下の町寺として極楽往生を願う人々の厚い崇敬を集めた。
寛保3年(1743)、当寺8世則誉守西は「糠部三十三観音巡礼」を定めて、信仰の道を説いた。

武士が農民を支配する封建社会を激しく批判した思想家として名高い安藤昌益(あんどうしょうえき)は、ここ天聖寺においてその思想を初めて八戸の人々に語った。
延享元年(1744)12月、八戸にやって来た昌益はここで数日にわたる講演を行った。
参会者は則誉守西、当寺9世延誉短擔阿をはじめ、藩士、藩医、神官、僧侶、商人など八戸の主だった知識人たちであった。
彼らは昌益の話に深い感銘を受け、「大医元公昌益、道の広きことは天外にもなお聞こえん、徳の深きことを顧みれば地徳もなお浅し」と賛辞を贈った。
昌益42歳のときである。
その後、当寺には岡本高茂や神山仙庵、高橋大和守などの檀徒、さらに中居伊勢守、中村忠平、関立竹、上田祐専などといった昌益の門弟が集まり、談論風発して親交を深めた。
やがて、寛延2年(1749)の猪飢渇(いのししけかじ)から始まる飢饉の頻発は昌益を社会批判に向かわせた。
昌益は『統道真伝』や『自然真営道』を執筆しながら、すべての者が「直耕」する平等な社会とは何か、そこにおいて最も人間らしい生き方とはどのようなものか、さらに人間と自然とはどのように相互依存して共生できるかなどを追い求め、「自然の世」という理想社会の実現をめざした。
宝暦8年(1758)頃、全国の門人が集まり、シンポジュウムが開かれた。
場所は恐らくこの八戸、想像すると天聖寺と思われる。
これに参加した門人は、八戸は神山仙確、福田定幸、北田静可、高橋栄沢、中村信風、嶋盛慈風の6人、他は松前の葛原堅衛、須賀川の渡辺湛番、江戸の村井中番、京都の明石龍映・有来静香、大阪の志津貞中・森映確の7人である。
昌益は八戸に来てから確龍堂良中と号するが、昌益の「良(りょう)」が八戸の地で到達した最終的思想を門弟に「演(の)」べ、これを門弟の「哲(てつ)」たちが「論(ろん)」ずるという形で討論が進められた。
この討論は確門第一の高弟といわれた仙確の手により稿本『自然真営道』巻二十五に「良演哲論」として編さんされた。
仙確とは昌益の号にちなんで名付けられた仙庵の号名である。
昌益はこのシンポジュウムを最後に、15年にわたって過ごした八戸の地を旅立ち、故郷の大館の二井田へ向かった。
このように天聖寺は昌益の八戸在住時代に門弟たちと交流を重ねた場所であり、昌益思想を独創的に深化発展させるうえで、大きな役割を果たした所である。
紛れもなく昌益思想はこの地より発祥したものといえよう。

平成8年10月14日
安藤昌益基金
天聖寺

(説明板より)


より大きな地図で 昌益思想発祥の地 を表示

史跡 | 13:42:12 | Comments(0)
八戸城角御殿表門
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県重宝
八戸城角御殿表門

ここは、寛政年間には角御殿(すみごてん)と呼ばれていた。
寛政4年(1792)御者頭(おものがしら)煙山(けむやま)治部右衛門がここに居住し、八戸城にふさわしい門と玄関を建てるよう命ぜられた。
門はその5年後に建てられ、その時の棟札が残されているが、資金繰りの苦心談が八戸藩日記にうかがわれる。
昭和53年、風雪のため倒壊したとき、毘沙門天(びしゃもんてん)像が門の冠木(かぶき)の中央から発見された。
像高3.6センチの小さなものであるが、精巧な像で、棟札にも「奉修毘沙門天秘法」とあることから創建時のものであることが知られる。
この寛政9年の棟札の他に、嘉永4年(1851)、明治42年(1909)修理の棟札もある。
昭和55年、創建当初の形に復原した。
門の構造は棟門(むなもん)といわれ、通常は2本の柱の上部を冠木でつなぎ、切妻屋根をのせるものであるが、この門の場合は、4本の柱を一列に並べて冠木でつなぐ大規模なもので、平衡を保つため裏側に2本の支柱を取付けるという特異な構造となっている。

昭和57年3月

八戸市教育委員会

(説明板より)


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史跡 | 12:41:44 | Comments(0)
八戸の旅(2)
早朝、ホテルをチェックアウト。
現地に来て知ったのだが・・・・
昨日の喫茶店の近くに「安藤昌益居宅跡の標柱」が建っているようなので行ってみる。
道路わきに目立たない標柱が建っているだけだが、拙者にとっては「お宝」ゲツトである。(笑)
続いて、「天聖寺」に向かう。
ここは「安藤昌益思想発祥の地」
思想発祥の地・・・って、よく意味がわからんが・・・・(笑)
とにかく行ってみる。

DSC02380_convert_20091215105126.jpg(天聖寺)

ここからタクシーに乗り込み、次に向かったのが「八戸市博物館」
ここには「根城」という城跡の公園がある。
博物館は今日は閉館日・・・・
それは知っていたのだが、「根城」のほうも閉場で、見学できなかったのは残念。
南部師行の騎馬像の写真を撮影しただけで終わる。

DSC02426_convert_20091215110937.jpg(櫛引八幡宮)


続いて「櫛引八幡宮」へ行く。
タクシーは貸し切り状態である。
ここの宝物館を見学。
職員の方としばし雑談をする。
鎧兜の展示説明は、わかりやすく、これはなかなか良い展示方法をしている。
こういう丁寧な展示解説をしている所は滅多にないので、「博物館巡りマニア」としては感激である。

ここには旧八戸小学校講堂の建物が「明治記念館」として移築されている。
明治天皇巡幸の時の行在所として使われた建物である。

八戸の旅は、これで終わりとして、タクシーでそのまま八戸駅へ向かう。
八戸は昔からの駅と新幹線駅とが離れているので、町の開発も分散してしまっているようである。
新幹線利用者は、単なる乗り換え客が多く、わざわざ在来線駅まで移動してまで観光をするという人が少ないらしい。
結局、どちらの駅前も中途半端な状態となっているらしい。
そんな話を運転手さんから聞きながら移動・・・・・

DSC02439_convert_20091215111612.jpg(八戸駅)

時刻は10時半・・・・
新幹線までには時間があるので、近くの物産会館のようなところをブラブラしてみる。
ここに山車が展示してあった。
いやぁ~なかなかのスケールである!
昨日の喫茶店のマスターから話を聞いていたので、興味深く見学することができた。
人との出会いというのは、本当にありがたいものである。

DSC02440_convert_20091215112103.jpg(山車)

旅行 | 10:40:10 | Comments(0)