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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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中島藤右衛門翁顕彰之碑
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粉蒟蒻の始祖
中島藤右衛門翁顕彰之碑

翁の生誕
負詮藤右衛門と称し延享2年久慈郡諸沢村大字地割(現山方町諸沢)に生る
遠祖は藤原氏 佐竹氏に属し佐竹の秋田移封により帰農定住するに至った
翁の人と為り資質非凡にして精力絶倫不撓不屈而も慈悲に富み農民敬愛の的となる
因みに当地は男体山金砂山の峻嶺に近く耕地の僅少に加え表土浅く生産力極めて乏しきを憂いたが唯土質が蒟蒻栽培に適するを知り唯一の換金作物として翁は熱心にこれが栽培の普及と指導奨励に努めた

粉蒟蒻発明の動機
生玉の蒟蒻は重量も大で運搬が困難のため販路も限られ更に寒さに弱く腐敗し易いため貯蔵困難年間を通じての需用に応じ難い欠点があり翁これを憂いていたところたまたま鍬で切られた蒟蒻の■片が天日によっって乾燥したものを発見しこれを粉末にして食料に供されぬものかと考えその乾燥製粉等の研究に苦心の末安永5年遂に粉蒟蒻の製法を完成した
翁は早速水車を利用して粉砕し煽り粉に含む澱粉質を風にあてゝ除去する方法を工夫純粋な粉蒟蒻の製法を開発して大いに販路を拡めるに至った
人々は皆これを賞賛し翁の徳を偲び各地に藤右衛門講をつくり春秋に感謝の集いを催し翁の遺徳を仰ぎ今日に至るまで受け継がれている
翁は粉蒟蒻の開発のみに止まらず各種殖産興業に尽瘁し文政8年4月8日行年81才を以て他界された
その戒名は遊性院自覚誠翁居士という

昭和56年3月 全国蒟蒻協同組合連合会之建

(碑文より)

中島藤右衛門翁顕彰之碑

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史跡 | 17:39:11 | Comments(0)
那珂通辰の墓
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那珂通辰の墓
(南北朝北常陸義軍の主将)
昭和42年8月31日 市指定

那珂通辰は現在常北町にある那珂西域の城主といわれている。
建武2年(1335)12月後醍醐天皇にそむいた足利尊氏追討の命を受けた義良親王と北畠顕家は陸奥の国府を発って、多賀の甕の原で足利方の佐竹貞義と激戦した際、那珂通辰は背後より奇襲をかけ佐竹勢を敗走させたという。
その後、通辰は北畠顕家に従って上洛し後醍醐天皇から菊桐紋章を賜わった。
延元元年(1336)瓜連城に楠木正家が入城し通辰が帰国するに及んで西金砂山に籠城していた佐竹勢としばしば戦った。
同年12月11日瓜連城は攻め落とされた。
このとき佐竹貞義を西金砂城に迎撃して失敗した通辰の軍は敗走して増井の勝楽寺裏で一族34人と共に自害したとも捕らわれて斬られたとも伝えられている。
通辰一族の節に殉じた一本松の峰には、これを顕した碑が建てられている。

常陸太田市教育委員会

(説明板より)

那珂通辰の墓

史跡 | 13:15:33 | Comments(0)
佐竹一族の墓
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佐竹一族の墓

正宗寺は、臨済宗の寺で萬秀山と号し、市内増井町字東寺領に建てられている。
字名にも東寺領、西寺領などが残っているように、この辺一帯には、太田城の城主であった佐竹氏とゆかりの深い勝楽寺、正法院、正宗寺が棟をならべ、常陸における一大文化の中心地であった。
この正宗寺の裏山にある数多くの宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、佐竹氏代々の墓塔と伝えられており、銘がわからず何代の城主のものであるかはわからないが、墓塔の笠の四隅の飾り、突起の直立に近い形は、時代の古さを物語っている。
一説には、秋田への国替えに際し、一族の墓石を秋田へ運んでいったともいわれているが、他の佐竹氏にゆかりがある寺に、佐竹氏の墓石伝えられる宝篋印塔等が残っているのを見ると、秋田への国替えの際、位牌だけ秋田に移され、墓石は、ここに残されたものといわれている。

常陸太田市教育委員会

(説明板より)

佐竹一族の墓

史跡 | 12:50:30 | Comments(0)
佐々宗淳の墓
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佐々宗淳の墓
市指定史跡

水戸黄門漫遊記で親しまれている「助さん」は本名は佐佐宗淳(さっさむねきよ)といい、字(あざな)を子朴(しぼく)、通称を介三郎、十竹と号した。
本姓は良峰(よしみね)氏であったが、その祖が佐佐成政の妹を妻とした縁で佐佐氏を名乗った。
15歳で京都妙心寺の僧となり、祖淳と号した。
僧として約20年つとめたが、感ずるところあって還俗(げんぞく)、江戸に出て延宝2年(1674)徳川光圀に仕え、進物番兼史館勤務となり、義公修史のことに従事した。
彼の業績は史料の採訪収集でその史跡は畿内は勿論(もちろん) 北陸・中国・九州などまでも及び貴重な文書記録を集めたことである。
また義公の命で下野の那須国造碑の修復、同所の上下侍塚の発掘調査とその復原等に当たったことは特筆されよう。
元禄9年(1696)彰考館総裁をやめ、小姓頭として西山荘の光圀に仕えたが、元禄11年6月3日59歳で没しこの地に葬られた。
墓碑は養子の藤蔵宗立が建て、撰文は格さんこと安積覚澹泊である。

常陸太田市教育委員会

(説明板より)

佐々宗淳の墓

史跡 | 11:25:16 | Comments(0)
温泉に行く
久しぶりに水戸藩士の“シミズくん”を誘ってお茶でも飲みに行こうかなと思ったら・・・・
「温泉にでも行きませんか?」とのこと・・・・
たまにはそういうのもいいかも・・・・
ということで・・・今日は温泉に出かける。

が・・・まっすぐ行く我々ではない・・・(笑)
途中、あっちこっちの史跡めぐりをする。

まずは、常陸太田市にある「正宗寺(しょうじゅうじ)」に寄ってみる。
ここには佐竹氏一族の墓と、あの「水戸黄門」で有名な「助さん」のお墓がある。

DSC02864_convert_20090721133949.jpg(正宗寺・総門)

ここからすぐ近くの「正法寺」のあったあたりに「那珂通辰の墓」がある。
で・・・ここへも行ってみた。
南北朝時代の武将のお墓らしいが・・・・
拙者は、そういう時代のことには疎い。(笑)
歴史が好きって言っても、太平洋戦争のことしか詳しくない。
戦国時代だの江戸時代だのって・・・全然わからない。
本を読んでも頭に入らないのだからどうしようもない。
全然予備知識がないんだから“シミズくん”に説明してもらってもピンとこないのは当然である。(笑)
「ふ~ん・・・昔の武将の墓なんだぁ~」(笑)

DSC02891_convert_20090721134834.jpg(正法寺跡)

ここを見て・・・・山の中へどんどん向かう。(笑)
どこへ行けばいいのか・・・拙者は知らない。
“シミズくん”の案内で車を走らすだけ・・・・
到着したのは常陸大宮市にある「三太の湯」という名前の温泉施設。
小じんまりしているが、なかなかの施設である。

DSC02899_convert_20090721135627.jpg(やまがたすこやかランド三太の湯)

何で「三太の湯」と名付けられたのかというと・・・・
どうやら「三太」という大男の民話からきたものらしい。
大男の伝説は「だいだらぼう」とか「だいだらぼっち」という名で各地に残っているが、その一つらしく、すぐ近くに「三太の像」が建っていた。(笑)
ちょっと、不気味といえば不気味な像である・・・・(笑)

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さて・・・「温泉に行こう」と聞いて、拙者の頭に浮かんだのは「温泉センター」のような施設である。
そういう施設には、着替えの浴衣やタオルなどが用意されているので、そのつもりで、拙者は何も用意せずに来たのであるが・・・・
なんと!ここはそういう施設ではないという。
「何も用意してこなかったんですか?」と“シミズくん”
おい、おい・・・そんな話・・・聞いてねぇよ~
幸いフロントでタオルを売っていたので、こいつを購入して風呂に入る。
久しぶりの温泉である。
いやぁ~なかなか気落ちが良かった。

大広間という・・・そんなに広くもない広間で(笑)、軽く食事をして休憩・・・・
時刻もそろそろ夕方の6時になる。
さて・・・帰りますかぁ~

帰途、山方町に立ち寄る。
旧山方町役場、現在の常陸大宮市役所支所の近くに「五輪塔」があるという。
“シミズくん”にご説明いただいても・・・・・さっぱり・・・・?????(笑)
「鹿島」とかなんとかっていう武将の墓らしい・・・・
「山方町指定有形文化財」の看板は立っているが、由来とかが記された「説明板」はない。
文化財に指定しているなら説明板くらい作ればいいのに・・・ここの教育委員会はいったい何をしているのか?
とにかく、あいかわらずピンとこないのだが・・・(笑)
佐竹さんがこの地を治める時に、邪魔になりそうな周辺の城主だかを集めて宴を開き、その時に一気に皆殺しにしたらしい。
で・・・その皆殺しから何人かが逃れたが、その一人がこの「鹿島さん」らしい。
で・・・この人はその後やっぱり惨殺されたらしく、それでここに五輪塔がたっているらしい。
簡単に言うとそういうことらしいのだが、詳しいことは拙者の頭には当然入らない。(笑)
それにしても、“シミズくん”は詳しい・・・・
そっちのほうに感心してしまうので、話の内容は頭に入らない。(笑)

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この支所の入口に一つの碑が建っていた・・・・
「中島藤右衛門」という人の顕彰碑・・・・
この人は「粉コンニャク」の製法を開発した人らしい。
へぇ~そういう偉い人がこの地にはいたのか・・・・
それにしても、そもそもコンニャクというのは誰が発明したのだろうか?
蒟蒻芋から「こんにゃく」を作る時に灰汁を加えて作るらしい。
灰汁を加えるなんて誰が考え出したのだろうか?
昔、拙者が子供の時に、おばあちゃんがコンニャクを作っていたのを微かに覚えている。
その時に、コンニャクというのは「蒟蒻芋」から作るのだということを初めて知った。
以前、近江八幡を旅した時に「赤コンニャク」というのを見かけた。
当地の名物らしいが・・・・
毒々しい真っ赤な色に食欲が失せ、買うのをやめた。(笑)

誰もが知っているコンニャク・・・・
それを粉にする製法を考えた偉人がいたのである。
こういう人の顕彰碑は大いに建てるべきだ。
できれば銅像も建ててもらいたいくらいだ。(笑)

時刻は6時を過ぎていたが、この時期はまだ明るいので充分写真が撮れた。
満足、満足・・・・
今日は史跡めぐりと温泉と・・・・充実した一日が過ごせた。
“シミズくん”に感謝である。

日記 | 10:07:28 | Comments(0)