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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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太平洋戦争人物列伝
太平洋戦争人物列伝太平洋戦争人物列伝
(2005/07)
昭和史研究会

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太平洋戦争に関係した日本の主要な人物53名について書かれている本。
こういうことにあまり詳しくない人がさらりと読むにはいい本だろう。
一人に対して平均4ページしか書かれていないから読みやすいと言えば読みやすい。

昭和天皇 1901~1989
差しさわりがあるので、あえてコメントはしない。(笑)

阿南惟幾(あなみ・これちか) 1887~1945
陸軍大将。
終戦時の鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣で終戦前夜に自決した。
五男の惟茂(これしげ)は小泉政権下の中国大使。
その時の言動が中国におもねっているとの批判を受けているのが気になる。
親父の顔に泥を塗らねばいいが・・・・・

甘粕正彦(あまかす・まさひこ) 1891~1945
陸軍憲兵大尉。
関東大震災の時の大杉栄らを殺害したとされる。
満洲帝国建国に暗躍したとされ、のちに満映理事長。
終戦時に自殺。

石井四郎(いしい・しろう) 1892~1959
陸軍の軍医中将。
満州で細菌戦の研究をする。
「731部隊」で有名。
捕虜を使った人体実験の話ばかりが有名だが、この人が発明した石井式濾水器は細菌防御のための無菌濾過器で、かなり優秀なものだった。
大いに貢献もしているのだが・・・・・評価されていないのが残念だ。
それにしても、拙者が生まれる1年前まで御存命だったとは・・・・・

石原莞爾(いしはら・かんじ) 1889~1949
陸軍中将。
もし、この人の言うことに聞く耳を持つ人がいたら、日本の戦争の結果は違ったものになっただろうと言われる人物。
そう言うと、いかにも良識派のように聞こえるが、満洲事変を拡大させたのはこの人・・・・
まともな部分と理解出来ない部分が極端なように拙者には感じられる。
天才肌というのだろうか・・・・

板垣征四郎(いたがき・せいしろう) 1885~1948
陸軍大将。
石原莞爾と一緒に満洲建国の中心的役割を果たした人。
終戦後A級戦犯として処刑された。
当然だな・・・・同情の余地はない。

井上成美(いのうえ・しげよし) 1889~1975
海軍大将。日独伊三国同盟締結に激しく反対した「良識派」として有名。
軍人というよりは教育者っていう感じだよなぁ~

今村均(いまむら・ひとし) 1886~1968
陸軍大将。
ラバウルの南方方面司令官としてラバウルを要塞化して自給自足をやったことで有名。
戦後は戦犯として10年間を部下とともにマヌス島で過ごした。
帰国後は自らの責任を問い続けて3畳一間の小屋の中に82歳で亡くなるまで蟄居。
そこまで自分を責めなくても・・・・と思うのだが・・・・
そこまでの大罪は犯していない人なんだけど・・・自分に厳しい人だった。

宇垣纏(うがき・まとめ) 1890~1945
海軍中将。
開戦時には連合艦隊参謀長つぉして山本五十六長官の下で真珠湾攻撃に参画。
で・・・問題は、終戦時の行動。
玉音放送後に部下を引き連れて沖縄へ特攻。
死にたけりゃ、一人で死ねばいいものを・・・若い人間を道連れにして・・・との批判が残る。
この人の真意はいまだに謎。

牛島満(うしじま・みつる) 1887~1945
陸軍大将。
沖縄防衛軍司令官として上陸してきた米軍に徹底抗戦をしたが、最後は自決。

梅津美治郎(うめづ・よしじろう) 1882~1949
陸軍大将。
終戦時に阿南惟幾と一緒に本土決戦・徹底抗戦を強硬に主張した参謀総長。
その当人が終戦の時にはミズーリー号での降伏文書調印式に出席させられるという皮肉な結末。
しかも、なぜかA級戦犯として終身刑となる。
なんでこの人がA級戦犯になるのか・・・拙者にはわからないのだが・・・
巣鴨プリズンに服役中に癌のため67歳で亡くなった。

及川古志郎(おいかわ・こしろう) 1883~1958
海軍大将。
第2次・第3次近衛内閣の海軍大臣。
この時に日独伊三国同盟に賛成・・・・
日米開戦の可否では首相に一任して・・・逃げる。
とにかく優柔不断、気が弱い・・・というイメージが強い。
かなりの読書家だったというから、軍人には不向きだったかも。
終戦後、好きな学問の研究に没頭して75歳で亡くなった。
なんで、この人がA級戦犯にならなかったのか・・・・拙者には理解ができぬ。
この人が、もう少ししっかりしていてくれたら、日本の運命は変わったかもしれないのに・・・・
戦犯だろ?普通なら・・・・

大島浩(おおしま・ひろし) 1886~1975
陸軍中将。
駐ドイツ大使館付武官時代に日独防共協定を提唱。
駐ドイツ大使になった時は、日独伊三国同盟を推進し締結する。
とにかくドイツに心酔していた人。
戦後A級戦犯として終身刑の判決を受けるが・・・・昭和30年に釈放。
89歳まで生きて昭和50年に死去。
本当なら死刑になっていて当然だったんじゃないかなぁ~

大西瀧治郎(おおにし・たきじろう) 1891~1945
海軍中将。
「特攻の生みの親」と言われ悪評が高いが、拙者はそうとは思わない。
正確にいえば、「生みの親」ではなく実戦で組織的に運用した初めての人・・・というだけのことではないだろうか?
「生みの親」は別の人だろう?
後世の評価が不当だと思うんですけど・・・・
終戦時、徹底抗戦を主張して、最後には自決する。
若者を特攻に行かせた責任を取らない指揮官がいる中、この人の最期は評価してあげたい。

小沢治三郎(おざわ・じさぶろう)1886~1966
海軍中将。
最後の連合艦隊司令長官。
戦後は自宅に引きこもり世俗との交際を断っていたという。

加藤建夫(かとう・たてお) 1903~1942
加藤隼戦闘隊で有名。
ビルマ上空で戦死後、軍神となる。

木戸幸一(きど・こういち) 1889~1977
内大臣。
木戸孝允の孫。
天皇陛下の第一の側近で、大きな影響力を持っていたにもかかわらず、東京裁判では戦犯として終身禁固刑となる。
おかしいだろ~それ・・・・
昭和30年に仮釈放。昭和52年、87歳で死去。
立場上、A級戦犯として死刑になっていいはずなのに・・・・納得がいかぬ。

草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ) 1892~1971
海軍中将。
真珠湾攻撃では南雲司令長官の下で参謀長を務めたが、真珠湾の追加攻撃をせず引き返す。
その後、南雲・草鹿コンビでミッドウェー開戦に臨んだが、空母全部を失い大敗北。
さて・・・・参謀長に向いていたんだろうか・・・この人・・・・

栗田健男(くりた・たけお) 1889~1977
海軍中将。
我が茨城県出身。
昭和19年のレイテ沖海戦で、レイテ湾を目の前にして「謎の反転」をして逃げ帰る。
この作戦の囮となった他の艦隊は“無駄死に”してしまった。
なぜ、あの時に反転してしまったのか・・・・
その疑問に答えること無く戦後を生きながらえ、88歳で死去。
多くの兵を“犬死”させた罪は重いと思うのだが・・・・

栗林忠道(くりばやし・ただみち) 1891~1945
陸軍大将。
硫黄島の守備隊長として玉砕。

黒島亀人(くろしま・かめと) 1892~1965
海軍少将。
連合艦隊の先任参謀として真珠湾攻撃を立案。
大戦末期には特攻兵器開発に特異な才能を発揮したという。
戦後は、家族とも別居して孤独な隠遁生活を送り、昭和40年、肺癌により72歳で亡くなる。

来栖三郎(くるす・さぶろう) 1886~1954
外交官。
日米開戦直前の交渉の時に野村駐米大使を補佐するため渡米したが、駐独大使の時に日独伊三国同盟に調印した本人であることが災いして、日米交渉は決裂したとも言われている。
本人は「不本意ながら調印した」らしいが・・・・
そういう言い訳は通用しまい。
最終的にはハル・ノートを突き付けられ、日米交渉決裂・・・・で・・・日米開戦。
なぜこの人を渡米させて交渉に当たらせたのか、その上の人の考えが分からないよなぁ~

源田実(げんだ・みのる) 1904~1989
海軍大佐。
戦闘機パイロット出身。
第一航空艦隊参謀として真珠湾攻撃の立案と指導にあたる。
戦後は、航空自衛隊航空幕僚長。
その後、参議院議員となる。
平成元年、85歳で死去。

小磯国昭(こいそ・くにあき) 1880~1950
海軍大将。
東条内閣総辞職後の内閣総理大臣。
戦後、戦犯として服役中に病死する。
70歳。

古賀峯一(こが・みねいち) 1885~1944
海軍大将。
山本五十六戦死後の連合艦隊司令長官。
全然目立たない、拙者にとっては印象が薄い人なんですけど・・・
パラオからミンダナオ島へ移動途中、乗っていた二式大艇が消息を絶ち殉職と認定された。
59歳。

近衛文麿(このえ・ふみまろ) 1891~1945
首相。
この人がもう少ししっかりしていたら・・・・と、ついつい思ってしまう。
戦後、戦犯に指名されるや服毒自殺をする。
最後の最後まで「ひ弱」だった。
この人がA級戦犯として処刑されなかったために、他の人が繰り上がったのではないかとさえ思うのである。
最後くらいはしっかりしてくれよ・・・・情けない・・・・

斉藤義次(さいとう・よしつぐ) 1890~1944
陸軍中将。
サイパン島防衛の師団長として米軍と戦うが部隊は玉砕し、自決する。
この人が中佐だった時に中国の大興安嶺の探検を行っている。
この時に護衛として付いて行った小隊長が拙者の祖父。
というわけで・・・・縁があるので、サイパン島へ慰霊に行ったことがあるが・・・・
残念ながら自決した洞窟がわからず帰ってきたことがある。
また、もう一度行きたいなぁ~

迫水久常(さこみず・ひさつね) 1902~1977
内閣書記官長。
2・26事件や終戦時の玉音盤奪取事件に際して活躍。
終戦の詔勅草案作成でも貢献した。
戦後は、池田内閣で経済企画庁長官や郵政大臣などを務める。

佐藤賢了(さとう・けんりょう) 1895~1975
陸軍中将。
軍務課長、軍務局長として東条内閣を支える。
戦後、A級戦犯として終身刑を受ける。

重光葵(しげみつ・まもる) 1887~1957
外務大臣。
終戦時、降伏文書に調印する首席全権となる。
日独伊三国同盟に反対していた人だが、東条内閣の外相に就任したことが理由なのか、戦犯として指名を受け禁固7年の判決を受ける。
釈放後は衆議院議員。
鳩山内閣の副総理兼外相となり、日ソ国交回復に尽力した。
69歳で永眠。

嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう) 1883~1976
海軍大将。
開戦時の海軍大臣。
周囲に敵を作らないという処世術に長けていたのが裏目となったか・・・・
今の世なら優秀な人物として評価されたろうが、有事には不向きな人だろう。
陸軍との正面衝突を避けたため、「東条英機の“腰ぎんちゃく“」と揶揄される。
おかげで海軍も開戦に賛成ということになってしまった。
戦後はA級戦犯として終身刑となるが、昭和30年に釈放。
昭和51年に92歳で死去。
有事には向かない性格のなのに重要な位置に就いたことが不幸である。
本人も、国家も・・・・

杉山元(すぎやま・はじめ) 1880~1945
陸軍大将。
開戦時の参謀総長。
情けと能吏の人と伝えられているが・・・・
この人も平時向きのタイプのようだ。
有事に参謀総長や陸軍大臣などの要職に就くべき人ではなかったと思う。
昭和20年9月、ピストル自殺を図ったが死にきれず、最後に毒薬で自決したと言われている。

鈴木貫太郎(すずき・かんたろう) 1868~1948
海軍大将。
終戦時の首相。
2・26事件では襲撃を受け重傷を負うが一命を取りとめる。
まさしく運命というものだろう。
この時に殺害されていたら・・・・
終戦があのようにうまくいったかどうか・・・・

瀬島龍三(せじま・りゅうぞう) 1911~
陸軍中佐。
本書が書かれた時にはまだ存命していたが、2007年に老衰で95歳で他界。
本人が生存していることから、本書の内容も多少手加減しているような気もするが・・・
関東軍参謀として終戦を迎えシベリアに抑留される。
復員後、伊藤忠商事の興隆に尽力し、経済界の重鎮にもなったが・・・・
戦争責任を回避しているという批判の声もある。
ちなみに、拙者が在学中、我が大学の理事長さんだった・・・・・会ったことはないけど・・・・

辻政信(つじ・まさのぶ) 1902~1968(?)
陸軍大佐。
一応、優秀な人・・・・なんだろうけど・・・・
作戦参謀としてこの人がたてた作戦は杜撰だという批判の声がある。
また、越権行為も多く、強引・・・・・で・・・ことごとく失敗。
人物としては中隊長クラスの人物だという話もある。
この人が現われてひっかきまわした後は問題ばかり。
捕虜の大量虐殺・・・・他の人が戦犯として処刑される。
ガダルカナル戦・・・・多くの兵士が餓死。
敗戦とともに地下に潜行して逃げ回る。
戦後、国会議員となるが、僧侶に変装してラオスへ行き消息を絶つ。
今もってその最期は謎である。

東郷茂徳(とうごう・しげのり) 1882~1950
外務大臣。
父親は400年前に島津義弘に連れてこられた朝鮮人陶工の末裔。
開戦時の東条内閣の外務大臣となるが、東条と意見の対立から途中で辞職。
終戦時は鈴木貫太郎内閣で外相となり終戦工作に奔走。
にもかかわらず・・・開戦時の外相ということで、A級戦犯。
禁固20年の判決を受けたが、2年後に心臓病で67歳で死去。
肩書だけで戦犯にされてしまった感じがしてかわいそうだ。

東條英機(とうじょう・ひでき) 1884~1948
陸軍大将。
開戦時の首相。
有名なので・・・コメントは割愛。(笑)

豊田副武(とよだ・そえむ) 1885~1957
海軍大将。
古賀連合艦隊司令長官殉職後の連合艦隊司令長官。
日独伊三国同盟には反対、日米開戦にも反対して徹底的に陸軍と対立した人だったのだが・・・・
なぜか終戦の時には陸軍と一緒になって徹底抗戦を主張したという、よくわからない人。

土肥原賢二(どひはら・けんじ) 1883~1948
陸軍大将。
陸軍屈指の中国通で、中国語は中国人よりうまいといわれるほどペラペラ。
満州事変の演出者として「満州のローレンス」などと呼ばれる。
戦後、満洲皇帝溥儀(ふぎ)の偽証が決定打となりA級戦犯として処刑される。
拙者の祖父は、この土肥原さんの副官をしていたことがある。
戦犯として処刑されるような人ではない。
あの溥儀の野郎・・・・・今でも許せない。

永野修身(ながの・おさみ) 1880~1947
海軍大将。
開戦時の軍令部総長で、対米強硬派。
広田内閣では海軍大臣。
要職を歴任しているが、優秀な人なのかどうかさっぱりわからない人。
A級戦犯に指名されたが審理中に病死。

南雲忠一(なぐも・ちゅういち) 1887~1944
海軍大将。
真珠湾攻撃では不徹底な指揮ぶり。
ミッドウェー海戦では大敗北したが艦と運命を共にせず、リベンジを乞う。
そのため、あまり世間の評価は高くないような気がする。
で・・・最後はサイパンで米軍に攻められて自決。
陸上で自決するくらいならミッドウェーの時に艦と運命を共にしていたほうが本人の為だったか?

西竹一(にし・たけいち) 1902~1945
陸軍大佐。
男爵の家に生まれたので「バロン・西」とも言われた。
昭和7年の第10回ロサンゼルス・オリンピックの馬術大障害競技で個人優勝。
昭和19年に硫黄島で戦死。
この時、米軍がオリンピックの英雄の命を助けるため投降を呼びかけたという美談が有名だが、この伝説は生き残った戦友たちが作り上げた美談だとも言われている。

野村吉三郎(のむら・きちさぶろう) 1877~1964
海軍大将。
開戦時の駐米大使。
ハル国務長官と日米交渉をするが、成功せず開戦となる。
これは誠実な野村が、したたかなハルの戦術に負けたといわれている。
戦後、参議院議員。
日本ビクターの社長も務めた。
昭和39年、老衰により86歳で亡くなる。

東久爾宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ) 1887~1990
皇族で陸軍大将。
終戦後初の内閣を組閣した総理大臣。
「一億総懺悔」論を提唱する。
その後、皇籍を離脱するが・・・・そこまでは・・・・いい。
問題はそこから。(笑)
闇市に店を出してみたり喫茶店を経営してみたり・・・・で・・・全部失敗。
最後には新興宗教の教祖様にまでなったが、宗教法人の認可が下りず断念。
元・内閣総理大臣としては滅茶苦茶なことをやった人。
平成2年、102歳で亡くなった。

広田弘毅(ひろた・こうき) 1878~1948
外務大臣。
2・26事件直後に首相に就任。
就任10ヶ月ほどで陸軍などからもみくちゃにされ総辞職。
その間に現役の軍部大臣復活や日独防共協定締結をおこなったことになっているので、そのことがまずかったか・・・・
近衛内閣では外相。
就任1ヶ月で盧溝橋事件が勃発。
運が悪いとしかいいようがない。
このせいなのだろうか、日中戦争の責任を問われ、文官としてただ一人、彼だけが戦犯として絞首刑になる。
絞首刑になるほどのことはしていないと思うのだが・・・・
なんで絞首刑になったのかさっぱりわからない。
絞首刑になっておかしくない人は他にもいるだろうに・・・・
不幸な人である。

本間雅晴(ほんま・まさはる) 1887~1946
陸軍中将。
イギリスやインド駐在が長く、文学好きだったせいもあり、陸軍内部では「英米派で軟弱」とみられていた。
軍人というより、どちらかというと学者タイプか?
開戦と同時にフィリピンを攻め、マッカーサーを追い落とした。
が・・・・バターン半島攻略にてこずったため、作戦途中で司令官を解任され予備役に編入されてしまった。
で・・・問題は戦後。
「バターン死の行進」の責任を問われ戦犯として銃殺刑に処せられたのである。
本人は「死の行進」が何のことか知るはずもない。
マッカーサーの私怨だな・・・・これ・・・・

松井岩根(まつい・いわね) 1878~1948
陸軍大将。
中支方面軍司令官、上海派遣軍司令官として中国の南京を攻略。
戦後、東京裁判で30万人を虐殺した「南京事件」の責任を問われ絞首刑となる。
30万人もの虐殺があったのかどうか・・・・・今もって議論されているが・・・・
どうやらこの「南京大虐殺」は事実無根のようだ。
本人も、それほどの大規模な虐殺があったとは寝耳に水。
しかし、部下の罪は我が罪として、一切の弁明をせず処刑される。
松井は昭和15年に復員して熱海の伊豆山に興亜観音を建立して、戦没した日本兵だけではなく敵の中国人将兵の霊も祀っている。
ここへは拙者も一度お参りに行ったことがあるが・・・・
こういうことをする人を無実の罪で処刑するとは・・・・

松岡洋右(まつおか・ようすけ) 1880~1946
第2次近衛内閣の外務大臣。
全権として国際連盟脱退演説をして会場を去ったことで有名。
しかし、松岡はこの時に「脱退」とは一言も言っていない。
議長が閉会を宣言する前に日本代表団を引き連れて退場してしまっただけのことなのだが・・・・
1ヶ月後に政府が正式に脱退宣言をしたため、松岡は英雄になってしまったらしい。
しかし、自他共に認める「自信家」は徳富蘇峰などの大物に持ち上げられて調子に乗る。
ヒトラーと手を結び日独伊三国同盟を締結。
スターリンと日ソ中立条約を締結。
彼の活躍が日本の行く末に大きな影響を与えたことは確かだ。
終戦後、英雄は一転してA級戦犯に指名されるが、肺結核のために病死する。
なんとも残念である。
絞首刑になって当然の人物が病死とは・・・・・
さんざん松岡を持ち上げて国論を誘導した徳富蘇峰は戦犯にもならず94歳まで生きた。
不公平である。

山口多聞(やまぐち・たもん) 1892~1942
海軍中将。
識見もあり、勝負度胸もある人・・・・という高い評価を受けている人。
しかし、ミッドウェー海戦で沈みゆく空母に残り運命を共にした。
「勇将」との評価が強い人ゆえ、機動艦隊の総指揮を取らせたかったと言われている。
拙者も同感。
南雲よりも山口のほうが良かったのではないか?
なんとも惜しい人材を失った。
南雲は艦とともに運命を共にしなかった。
それは総指揮官なので、1隻でも船が残っていればそれに移乗して指揮を執れるからである。
それに対して山口は空母2隻で編成された部隊の指揮官。
2隻とも沈められてしまうと、一緒に死なねばならない。
なんたることぞ・・・・
この艦隊に駆逐艦でもいいから数隻の船が含まれていたならば、理屈上は駆逐艦に移乗して生還する道もあったのに・・・・
本当に残念だ。

山崎保代(やまざき・やすよ) 1891~1942
陸軍中将。
2500名のアッツ島守備隊長として1万1千名の米軍と交戦して玉砕。
没後二階級特進して大佐から中将となる。
「玉砕」という言葉が使われるようになったのは、このアッツからである。
山崎は戦時中、軍神と呼ばれ、妻は軍神の妻と呼ばれたが、戦後は一転して「戦争屋の未亡人」とさげすまれた。
こういうところが嫌なんだよなぁ~
どうしてそういうふうに平気で手のひらを反すことができるのかねぇ~
こういうレベルの低い国民だから戦争が起こるのは当然だろう。
軍人だけが悪いと言えるか?

山下奉文(やました・ともゆき) 1885~1946
開戦時のマレー作戦で有名となる。
「マレーの虎」とも呼ばれた。
終戦時はフィリピンで第14方面軍司令官。
マニラでの戦争犯罪を理由に絞首刑第1号となるが・・・・
これは明らかにマッカーサーの私怨によるものである。

山本五十六(やまもと・いそろく) 1884~1943
海軍大将。
連合艦隊司令長官で有名。
昔は尊敬していたのだが・・・・
その後、いろいろな本を読んでみると首をかしげざるを得ないものが結構ある。
う~ん・・・・偉いんだろうか偉くないんだろうか・・・・
最近では名将ではないよなぁ~と思うのである。

米内光政(よない・みつまさ) 1880~1948
海軍大将。
良識派の提督である。
海軍兵学校の成績はそれほど優秀ではなかったらしいが、人間としては優秀だと思う。
日独伊三国同盟に強硬に反対したことは有名。
また、2・26事件では、一瞬の迷いもなく決起部隊を反乱軍と位置づけたことでも有名。
首相にもなったが、陸軍の抵抗にあり半年で総辞職。
終戦時から戦後にかけて海軍大臣として終戦工作と戦後処理に奔走した。
昭和23年に早々とこの世を去られたのは残念である。
こういう人こそ長生きをしてもらいたいのだが・・・・
そうはうまくいかないのが世の中か?



今年の読書:8冊目



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