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Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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重大事件に学ぶ「危機管理」
重大事件に学ぶ「危機管理」重大事件に学ぶ「危機管理」
(2004/04/07)
佐々 淳行

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序章:もはや「水と安全」はタダではない
危機管理のキーワードは「公助」「互助」「自助」。
しかし、これが現在では完全に壊れてしまっているという。
原因は「平和ボケ」・・・・・
もう一つのキーワードは「平時の能吏」と「乱世の雄」
日本の政治家の大半は平時の能吏タイプであり、官僚にいたっては乱世の雄タイプなど10%もいないという。
あらら・・・・
その官僚が支配している日本・・・・・危機管理ができないのはあたりまえかぁ~

第1章:危機を事前に察知する方法
「念のため報告」「ネガティヴ・リポート」・・・・
これができる社員がいなかったため雪印乳業の食中毒事件では会社はぶざまな姿を晒すことになった。
クレームの電話が来た時は「ひょっとしたら・・・」と考えて動くべき。
「ネバー・セイ・ネバー」(決して~ではない、とは決して言わない)という原則が大事。
雪印乳業、三菱自動車の事例などが紹介されている。

第2章:初めにどう動くかで勝負は決まる
三原山の事例・・・・・
これは、意外や意外・・・・裏幕の話・・・・
危機管理のルーツは「キューバ危機」だという。
こういう危機に立ち向かう時は、結局は「人間力」の勝負となる。
さて、さて・・・・この「人間力」・・・・・
どうやって養うか?

第3章:私がやらずに誰がやる
米国のノースリッジ大地震と日本の阪神・淡路大震災の比較・・・・
どちらの地震も同じ大都会で、同じ1月17日に発生し、マグニチュードもほぼ同じ、発生時刻も同じ早朝・・・
にもかかわらずノースリッジの地震では死者は61名・・・・・
これに対して阪神・淡路大地震の死者は6千名を越している。
この差は何か・・・・・・
それこそ“官災”と言っていいような・・・・・
この中で、日銀支店長の取った行動には敬服する。
へぇ~そういう人もいたんだぁ~
秘話・・・である。

第4章:危機下のリーダーシップ
例によって例の如く・・・・(笑)
危機管理セミナーで何度も聞かされた「後藤田五訓」である。
この五訓と照らし合わせて、「ミグ25亡命事件」「えひめ丸事故」などの事例を紹介。

第5章:「非常時」に強い人材つくり
職場教育はなぜ海軍式がいいか・・・・・
「人材」より、「人財」、「人罪」より「人在」・・・・・
面白い言葉が並ぶ。
危機管理上、やってはいけないこと・・・・その一つが「待ち情報」
「まだ情報が入ってきません」ではなく情報を集めに行くことが大事だという。

終章:この「備え」を頭に持っておけ!
シンガポールのシージャック事件などの事例での「三つの呪文」が面白い。
①人間の始めたことは必ず終わる
②日はまた昇る
③人の噂は75日ももたない
なるほどね~
同感です。(笑)
「集団的危機管理能力」・・・・・・
「自分は何ができる」「自分は何を知っている」よりも、「何を知っていて、何かができる誰を知っている」ことが、この集団的危機管理ではこれから重要となるという。
つまり、本当での意味での「人付き合いの達人」が最後の最後には勝ち残る。
私にとっては永遠のテーマになりそうな気がするが・・・・
一歩一歩、理想に近づけるよう頑張ろう!(笑)

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読書 | 10:02:16 | Comments(1)
ニッポンFSXを撃て
ニッポンFSXを撃て―たそがれゆく日米同盟 (新潮文庫)ニッポンFSXを撃て―たそがれゆく日米同盟 (新潮文庫)
(1994/07)
手嶋 龍一

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FSXとは、航空自衛隊の次期支援戦闘機のこと。
1990年代に、現在の「三菱F-1」支援戦闘機が耐用年数を迎える。
このため、次期支援戦闘機の研究開発がおこなわれ、これをFSXと呼ぶのである。
問題は・・・・
この次期支援戦闘機・・・・・
国産がいいか、それとも米国の戦闘機のライセンス生産がいいか・・・・ということ。
当然、日本は技術大国だし・・・・自国で独自に開発するのは当然ということなのだが・・・
悲しいかな、そうはいかない。
米国には米国の思惑っていうものがある。
というわけで・・・このFSXの日米の“争奪戦”が展開する。
それを描いたのが・・・・・本書。

日米摩擦に発展しかねないこの“争奪戦”
どう考えても、純粋に日本の防衛を考えて・・・・という感じではない。
経済、産業、政治、行政・・・・ドロドロに混ぜ合わさって・・・・・泥沼だ。
日米同盟関係も黄色信号になる。
FSXの日米共同開発問題では、米国内部が推進派と反対派に分かれ対立。
ドロドロ・・・・である。
日米安保条約にも亀裂が生じる。
両国の政治的リーダーシップの不在が、この日米同盟を揺るがす。
まさに国家的危機である。

たかが戦闘機の開発問題の話じゃないかと思うことなかれ。
国際政治の裏側を知るいいノンフィクションである。

英会話学校に通って英語を勉強すれば「国際人」になったつもりでいるというのは日本人が国際感覚のない証拠でしょ?(笑)

読書 | 16:49:58 | Comments(0)
法人会青年部会の忘年会
今晩は法人会青年部会の忘年会。
ただ酒を飲むだけじゃ“芸”がない。(笑)
というわけで・・・・セミナー・・・・という形を取ることに前回の理事会で決めたのだが・・・
誰も来ない!(怒)
このご時世・・・・そんなに忙しくもねぇだろうに・・・・
一部の役員だけが集まりこじんまりとしたセミナーになった。
講師は帝国データーバンクの支店長。
地元の企業に関する話であるから・・・・有益でないわけがない。
倒産情報や対処についてなどなど・・・・
もちろん公開可能な範囲での話だが・・・・
セミナー中にも倒産の情報が飛び込んでくる。
あらら・・・である。

で・・・・この忘年会に参加しなかった人は・・・・馬鹿だねぇ~
これが参加者みんなの意見。(笑)

2次会はいつものように“ケムヤマ部会長”と2人で夜の街に飲みに出かける。(笑)

日記 | 16:36:31 | Comments(0)
高校の同窓会
今日は夕方から高校の同窓会・・・・
といっても、クラス会ではない。
高校の第1期生からの「同窓会」である。
10年以上も前に一度だけ参加したことがあるが、それ以来欠席している。
久しぶりの参加なのだが・・・
あの時も、最年少参加者・・・・・で・・・今回も最年少の参加者となる。
主力は第1期生を初めとする一ケタ代の卒業生。
拙者は24期生で、その上は12期生が一人・・・・・
12年も空いているんだから、思い出話などあるわけがない。(笑)
みなさん、おじさま、おばさまの集まりである。
「若いわねぇ~」なんておだてられたが、若いって言っても48歳ですよ~(笑)
以前に青年会議所で「まちづくり」の活動をしていたこともあり、20歳以上年齢差があっても知り合いがいたので、それほど浮くこともなく食事をしながら歓談する。

来賓は市長。
「だれか挨拶しろよ~」
「じゃぁ、最年少者がいいんじゃねぇか~」
そんな馬鹿な・・・・・
最年少者の拙者がいきなりスピーチをやらされた。(笑)
お酒を飲んで酔っているし・・・・
市長さんとは初対面というわけではないし・・・・
ということで・・・「せっかく市長さんにもおいで頂きましたから・・・」と、市の行政について一言意見を言わせていただく。
拙者が全国を旅して気がついた我が市と他の市町村との違い。
特に史跡に対する扱い方!
なっておらんではないか!(笑)
決して市政批判ではない。
他ではこういうことをしていますよ・・・・とか・・・・
旅のエピソードを交えてお話しさせていただいた。
拙者の主張は・・・・「他から来た人間に市内で出来るだけお金を落とさせろ!」なのである。
その“仕組み”が全然できていない。

すると、市長さんから「ただいまのお話に対してご答弁させていただきます」と言って、拙者の話はごもっともであると言い始めた。(笑)
あのぉ~「ご答弁」なんて、そんな堅苦しい言い方をしなくても・・・・(笑)

拙者の話を引き継ぐ形で、参加者から次々と意見が出る。
あらら・・・・(笑)
拙者は、あくまでも“史跡”という観点からの観光と市政に対して意見を言ったまでなのだが・・・
しまいには、文化事業団や体育協会、観光協会の話までに発展する。
ここで気がついたのだが、参加者が何らかの形で、各団体で活躍されているのだ。
そのため各自の団体の現状の話などを聞かせていただき非常に勉強になった。

決して市長を“吊るしあげ”ているわけではないから、和気あいあいと話が盛り上がり、あっという間にお開きの時間。
2次会もあったようだが、これは辞退して千鳥足で家に帰る。(笑)

日記 | 15:54:46 | Comments(0)
第15回総合危機管理講座
昨日、旅行から帰宅して、またすぐに上京!(笑)
あ~忙しい。(笑)

今日の講師は櫻井よしこ氏。
テーマは「国際世論と危機管理」

講演が終わり・・・・
終電で帰宅せねばならぬ拙者が急いで会場の出口に向かったら、櫻井さんとバッタリ!
「あら~お久しぶり~」というような顔で何か話しかけようとしてきたのだが・・・
いや、いや・・・拙者は初対面なんですけど・・・・(笑)
拙者に何か言いたそうだったが、隣から佐々さんに話しかけられて拙者に言葉がかけられないようなご様子。
会釈をしてその場を立ち去りエレベーターに向かって走る!(笑)

それにしても・・・
初対面のはずなのだが、どうして櫻井さんはあんなに親しそうな顔をして拙者の顔を見たのだろう。
拙者は誰かに似ていたのか?

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(2007/09)
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日記 | 15:42:38 | Comments(0)
平野國臣先生誕生地
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平野神社

本社は、勤王の志士平野国臣(ひらのくにおみ)を祭った社です。
平野国臣は、文政11年(1828)福岡市中央区地行で生まれ、勤王の志あつく安政5年(1858)福岡藩を脱藩し、京都で尊王運動に参加しました。
また、九州各地の志士を歴訪し、尊王討幕運動への結集を図り、薩摩(鹿児島)の島津久光に認められました。
文久3年(1863)同志とはかって生野(いくの)の変を起こしましたが失敗し、捕えられ、翌年の禁門の変の時、志なかばにして短い生涯を終えました。
「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」は、彼が薩摩を訪れたときの詠歌(えいか)です。

(説明板より)

平野國臣先生誕生地



史跡 | 13:31:52 | Comments(0)
黒田如水隠居地跡
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黒田如水公御鷹屋敷跡

黒田官兵衛孝高(如水公)は慶長8年から翌9年に没するまでこの地に隠居した。

福岡市教育委員会

(碑文より)


黒田如水隠居地(三の丸御鷹(おたか)屋敷)跡

黒田官兵衛孝高(よしたか)(如水(じょすい))[1546~1604]は、戦国時代の武将で、筑前黒田藩の藩祖とされる。
はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが、のちに羽柴秀吉に従い、竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、中国、四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ、同地に中津城を築いた。
長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。
如水の隠居後、関ガ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、如水もその晩年を福岡城で過ごした。
福岡黒田家に仕え、儒者・博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」という記述のある「三の丸御鷹(おたか)屋敷」は現在のここ「ボタン・シャクヤク園」にあった

福岡市教育委員会

(説明板より)

黒田如水隠居地跡



史跡 | 13:05:16 | Comments(0)
旧母里太兵衛邸長屋門
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福岡県指定文化財
旧母里太兵衛邸長屋門

筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、黒田24騎の一人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。
黒田長政が筑前入国後、6つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長20年(1615)6月6日病没した。
現在の天神2丁目の野村證券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。
武家屋敷長屋門として代表的なこの江戸時代の優れた建造物を末永く保存していくため、昭和31年に県の文化財に指定され、同40年にこの地に移築されたもので、今もなお往時の姿を伝えている。

昭和53年3月
福岡市教育委員会

(説明板より)

旧母里太兵衛邸長屋門


史跡 | 12:44:08 | Comments(0)
名島門
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福岡市指定文化財(建造物)
名島門(なじまもん)
昭和53年3月30日指定

この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596~1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。
明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていましたが、戦後富士ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって現在地に移されたものです。

文化財を大切にしましょう

昭和63年2月 福岡市教育委員会

(説明板より)

名島門


史跡 | 12:13:58 | Comments(0)
福岡城祈念櫓
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福岡県指定文化財
福岡城祈念櫓(きねんやぐら)

福岡城は慶長5年(1600)筑前に入国した黒田長政が翌6年から7年の歳月をかけて築城したものです。
城は東西に長い梯郭式の平山城で、本丸・二の丸・三の丸に分かれています。
その面積は48万平方メートルにおよび、昭和32年に国史跡に指定されています。
この祈念櫓は本丸の北東隅に鬼門封じのために建立された二層の櫓で、棟札によって現在の建物は万延元年(1860)年3月に起工し、同年10月に竣工したことが判明しています。
その後、大正7年(1918)には本市内にある黒田家菩提寺の崇福寺が陸軍省から払い下げをうけ、その末寺である北九州市八幡西区の大正寺の境内に観音堂として移築されました。
その際の棟札によると大正9年に竣工しています。
さらに昭和58年(1983)から翌年にかけて再び福岡城の現在の位置に再移築がなされました。
また、その間の昭和32年8月には「旧福岡城祈念櫓」として福岡県の有形文化財(建造物)に指定されています。
大正初期の移築前に撮影されたと推定される古写真と現在の建物を比較すると外観や規模が異なっており、大正寺への移築の際に大幅な改変を受けたものと推測されます。
旧状の櫓の壁は白漆喰で、二層目の窓は花頭窓であったことが写真から判明しています。

2004年3月
福岡市教育委員会

みんなの文化財を大切に

(説明板より)

福岡城祈念櫓


史跡 | 11:46:17 | Comments(0)
福岡城南丸多聞櫓
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重要文化財
福岡城南丸多聞櫓(たもんやぐら)
重要文化財指定 昭和46年12月28日

福岡城は、慶長5年(1600)に筑前国に封じられた初代藩主黒田長政が、慶長6年(1601)から12年(1607)にかけて築城した平山城である。
城は、天守台、本丸、二ノ丸、南丸(二ノ丸南郭(くるわ))、三ノ丸からなる。
南丸にあるこの多聞櫓は、江戸時代から城内にそのまま残っている数少ない建物の一つである。
櫓は、南西隅にある二重二階切妻造(きりづまづく)り隅櫓(すみやぐら)と、それに連接して桁行(けたゆき)三十間分続く平櫓(ひらやぐら)である。
建築年代は明らかではない。
一部には近世初期に遡(さかのぼ)ると思われる部材を用いているが、ほとんどが後世の改修を受け、平櫓は嘉永6年(1853)から翌7年にかけて建て替えられている。
一般に多聞櫓は防御のための長塀であり、平素は倉庫等に利用していたものといわれている。
部屋の内部は突き抜けの状態が普通とされているが、この多聞櫓は16の小部屋に独立しており、石落としのみで城外をみる窓がない部屋もある。
また建物の軒先を支えている方杖(ほうづえ)と端隠(はながく)し板で垂木口(たるきぐち)を隠す工法は福岡城の特徴とされ、古式を留めた城郭(じょうかく)建築の美しさを備えている。

文化財を大切にしましょう

福岡市教育委員会

(説明板より)

福岡城南丸多聞櫓


史跡 | 11:15:45 | Comments(0)
大濠公園
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大濠公園の沿革と概要

慶長年間、黒田長政が福岡城を築城する時、博多湾の入り江であったこの地を外濠として利用、昭和2年ここで開かれた東亜勧業博覧会を機に造園工事を行ない、昭和4年県営大濠公園として開園したものです。
大濠公園は福岡市のほぼ中央に位置し、総面積が約40万平方メートルあり、うち約21万平方メートルの池を有した、全国有数の水景公園です。

(説明板より)

大濠公園


史跡 | 10:57:56 | Comments(0)
緒方竹虎先生屋敷跡
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緒方竹虎先生屋敷跡

緒方竹虎(1888~1956)
東久爾宮内閣の要として敗戦直後の混乱を収拾したが軍事裁判強行に抗議し総辞職
当時過労を気遣う兄に「生れた国への借りは返さねば」と述懐した
その後吉田内閣副総理から自由党総裁となり敢えて保守合同に心血を注ぎ、祖国復興の方途を定め終って急逝した
幕末、洪庵と共に適塾を開いた緒方研堂の孫
林学者の父道平が県大書記官となり来福
この屋敷で附属小学校・修猷館と少年時代を過ごした
幾岡一到館に剣を学び本目録・皆伝であった。

(碑文より)

緒方竹虎先生屋敷跡

史跡 | 10:56:59 | Comments(0)
博多の旅
ホテルをチェックアウト前に、もう使用しない衣類、旅行中に購入した書籍等を宅急便で自宅へ送る。
(1050円なり)

ホテルを出て、近くの「警固神社」へ寄ってみるが・・・・これといったものはない。
今日のメインの目的地は福岡県護国神社!
護国神社へ向ってテクテク歩いていたら、途中で「緒方竹虎の屋敷跡」を偶然見つける。
いやぁ~タクシーに乗らず、歩いていてよかった。
タクシーで移動したら、出会うことはことはなかったぞ~

11時・・・・護国神社に到着。
思ったより敷地は広いが・・・・これといった部隊の記念碑や慰霊碑はない。
期待はずれ・・・・・(笑)

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護国神社の参道はかなり広いせいか、大型トレーラーが入り込んで休憩している。
神社の参道をなんと心得ておるのか・・・・
常識がないんだよなぁ~こいつら・・・・
休憩ついでにお参りもするなら、まだわかるが・・・・その様子は見られない。
罰が当って事故でも起こしやがれ!(笑)

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護国神社向い側の美術館のところで、広田弘毅など2体の銅像を見つけて撮影。
続いて福岡城へ・・・・
ここには8年前に“オダクラくん”と来た場所。
今回はグルグルとお城跡を見て回る。
天守閣も資料館もないというのに・・・たっぷり1時間半もかけてしまった~(笑)

時刻は午後1時半・・・・今日も昼飯を抜いての強行軍である。
次に向かうは「西公園」という場所。
地図で見ると何ていうことない、広い公園という感じなのだが・・・・
行ってみたら・・・・山!(笑)
急坂を登ったり降りたり・・・・さすがにキツイ。(笑)
ここで母里但馬守太兵衛友信という人の銅像を見つけるが、本命の平野二郎國臣の銅像がどこにあるのかわからない。
たしか・・・この公園にあるはずなのだが・・・
山の中の公園を歩きまわっているうち道に迷った!
時刻は2時半・・・・
ヤバイ・・・・
今日、博多空港から飛行機に乗って帰らねばならぬのだ。
こんなところで道に迷っていては間に合わなくなる!(笑)
グルグル・・・ウロウロと山の中を歩き回り、銅像探しをあきらめて山のふもとに下りてきたら・・・・
あった!みっけ!(笑)
平野國臣の大きな銅像があった!

DSC01710_convert_20090109181521.jpg

ところが・・・・逆光!
参ったぁ~
何とか露出を調整したりと、さんざん苦労して撮影したが・・・
あまりいい写真が撮れなかった。
う~ん・・・せっかく見つけたのに・・・残念!

時刻は3時・・・・
ここから更に歩いて、中野正剛の銅像を探しに行く。
途中、「平野神社」というところに平野國臣の生誕地の碑を見つける。
地図には何も記載されていないのだが・・・・
なんでこういう史跡をちゃんと地図に記さないのかねぇ~
偶然見つけたからいいものの・・・・

午後3時半・・・・
かなり大きな中野正剛の銅像・・・・
銅像の脇に大きな「中野正剛先生碑」というのが建っている。
で・・・この碑の裏に碑文が刻んであるのだが・・・
あまりにも大きな碑なので、上の方の文字が遠くて見えない!
馬鹿か・・・
碑文が読めなけりゃ意味がないではないか?
何のための碑文なんだ?
どうしてこういう碑を建てるのかねぇ~
中野正剛さん・・・・
実は大学4年の時に我が大学の教授だったこの方の息子さんと議論をしたことがある。
先生は大学改革の委員長。
拙者は学生側の大学改革の担当。
大学改革についての提言をして大いに議論を戦わせたことがある。
あの先生のお父さんだぁ~
しかし・・・銅像を見て思ったのだが・・・全然お父さんと似てないんですけど・・・(笑)
“ナカノ先生”は今はどうされているのだろう・・・・
ふっと先生を思い出す。

この近くに貝原益軒の銅像があるお寺があるはず・・・・
しかし、お寺の名前を正確に覚えていない。(笑)
「金」とかという字の付いたお寺だったと思うのだが・・・・
勘に頼って「金龍寺」というお寺を覗いてみた。

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あった!銅像があった!
更に・・・お墓もあった!
やっぱり勘が当たった~(笑)
しかし・・・地図には何も記されていない。
オイオイ・・・・

どうも福岡は史跡などに対する扱いがお粗末である。
ろくに説明板も建っていない。
史跡の案内もない。
福岡城もそうなのだが、城の年表も歴代城主について記された説明板が建っていない。
歴史的に有名な人に至っても同様。
他の町なら教育委員会が説明板などを立てているだろうに・・・・と思うような所であっても何も建てていない。
これはどういうことなんだろうか?
お粗末である。

時刻は4時を過ぎた・・・・
昼食抜きだったので、さすがに疲れが出てきた。
喫茶店を探して、コーヒーを飲んでケーキを食べながら一服。
地下鉄で博多空港へ行き、ターミナル内のレストランで今度はサンドイッチを食べる!(笑)
博多から羽田へ飛んで、上野発最終の特急に乗り・・・・・
駅弁を食べる!(笑)

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午前0時前に自宅に到着。
ついさっきまで福岡県にいたとは夢のよう。
長い旅もあっという間に終わったという感じである。

本日の歩数・・・・2万6577歩・・・・14.6km歩いた。

旅行 | 10:38:23 | Comments(0)
弘道館記念碑
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藩校 弘道館

佐賀藩の藩校は「弘道館」(学館)といい、8代藩主鍋島治茂が1781(天明元)年に創設したもので、のちに水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称されました。
松原小路1900坪の敷地に文武稽古場を建て、古賀精里(のちの寛政の三博士の一人)を教授に朱子学を中心にした藩士教育を行い、人材の育成に努めました。
9代藩主鍋島斉直の時には、精里の子古賀穀堂が教授になり、「学制管見」を著し、10代藩主になる鍋島直正の侍講も勤めています。
10代鍋島直正は、1839(天保10)年に北堀端の現在地(ここは東端)5400坪に整備拡張し、弘道館・蒙養舎に七局六寮のほか大講堂・武芸場・厨房などを備え、学館予算も大幅に増額し、大規模な学校になりました。
また、藩士の子弟に限らず教育することにし、翌年6月の新築開講にあたり、「文武を励み、国家(藩)の御用に立つ様心掛くべし」と訓示されました。
学課は儒学・和学・漢学・兵学・筆道・習礼・算術・槍術・剣術・柔術・馬術・砲術・水練・蘭学(洋学を含む)、さらに洋式操練も加え、厳しく文武に研鑽を積ませています。
1855(安政2)年に始まる長崎海軍伝習には幕府の人数を上回る最多の48名を参加させ、海外の最新技術を学ばせています。
明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身でした。
弘道館を中心とした徹底した教育による優秀な人材の育成が、幕末の佐賀藩が全国に先駆けて近代化を成し遂げる原動力になったと考えられます。
この記念碑は1923(大正12)年3月の建立で、題字は12代侯爵鍋島直映の揮毫、碑文は文学博士久米邦武の撰、中島雅明の書になるものです。

(説明板より)

弘道館記念碑


史跡 | 22:46:30 | Comments(0)
大木喬任生誕地
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大木喬任(おおきたかとう)生誕地

大木喬任、1832(天保3年)~1899(明治32年)はこの地に生まれ、佐賀藩校弘道館に学んだ。
枝吉神陽らの影響を受けて勤皇の志を抱き、「義祭同盟」に参加、中野方蔵(なかのほうぞう)・江藤新平らと親交を結び佐賀藩の勤皇運動に参画した。
明治維新の大業成るや新政府に招かれ、江藤新平とともに江戸遷都を建議しこれを実現させるために奔走した。
のち民部、文部、司法各卿、文部・司法両大臣、枢密院議長などを歴任したが、特に文部・司法は大木の独壇場と称され、1872(明治5年)初代文部卿として、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」の学制を発布し、近代教育の基礎を築いた功績は大きい。
大木遠吉(えんきち)は喬任の三男で、政治家として嘱望され、司法大臣などを歴任した。

昭和48年10月

資料提供 佐賀県教育委員会
佐賀北ロータリークラブ

(説明板より)

大木喬任生誕地



史跡 | 22:31:02 | Comments(0)
佐賀城天守台
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佐賀城天守台

正保4年(1647)に記された『肥前国佐賀城覚書』によれば、かつてこの地に五層の天守閣が築かれていたという。
本丸からは、この天守台には上がれず、二の丸の西から本丸石累北の犬走りを通って入るようになっている。
初代藩主鍋島勝茂の時代、慶長14年(1609)に完成した佐賀城の天守閣は五層の破風のない素朴ながらも実戦向きの建物であった。
佐賀城は、八反井樋と今宿江をせき止めれば天守と本丸の一部を除き、外は城下はじめ、全体を湖水化する設計になっており、敵の侵入を阻む仕組みになっていたといわれている。
このため佐賀城を一名「沈み城」というのはこのことに由来する。
だが、一説には他の城は城下から離れれば離れるほど、その天守が高々とそびえて見えるのに対して、佐賀城は城下を少し遠ざかると、楠や松の木に隠れて見えなくなるためだともいわれている。
しかし、佐賀城は享保11年(1726)、4代藩主吉茂のとき、本丸・二の丸・三の丸・天守閣が焼失した。
その後復興されたが、天守閣は再建されないまま今にいたる。

佐賀市

(説明板より)

佐賀城天守台


史跡 | 22:07:16 | Comments(0)
佐賀城鯱の門及び続櫓
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重要文化財
佐賀城鯱の門及び続櫓
昭和32年6月8日指定

本丸御殿は慶長13年(1608)から慶長16年までの佐賀城総普請により造られましたが、享保11年(1726)の大火で焼失しました。
その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。
ところが、この二の丸も天保6年(1835)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。
10代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。
この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保9年(1838)の6月に完成したものです。
明治7年(1874)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。
鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。
門の構造は、二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組み合わせたものです。
屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。

佐賀市教育委員会

(説明板より)

佐賀城鯱の門及び続櫓




史跡 | 21:19:33 | Comments(0)
鉄製24ポンド砲カノン砲(複製)
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鉄製24ポンド砲カノン砲(複製)

佐賀藩は江戸時代を通じて長崎港の警備にあたってきたが、文化元年(1804)ロシア使節レザノフの来航、同5年(1808)イギリス軍艦フェートン号の長崎港侵入があり、長崎警備は緊迫した状勢となった。
天保11年(1840)に清国でおこったアヘン戦争の情報がもたらされると、10代藩主鍋島直正は長崎警備増強の必要性を痛感し、台場の増設と洋式鉄製大砲の設置を企図して、嘉永3年(1850)築地(今の日新小学校付近)に反射炉を築き、日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。
嘉永6年(1853)ペリーが来航すると、幕府は江戸防備のため品川沖に台場を新設することとし、備砲50門を佐賀藩に注文した。
そこで佐賀藩では多布施に幕府用の反射炉を新たに設けて鋳造にあたり、また安政6年(1859)には鉄製150ポンド砲3門を幕府に献納した。
幕末の佐賀藩が日本で初めて鉄製大砲の鋳造に成功したことはゆるぎない事実であるが、残念ながらその確実な残存例は現在のところ確認されていない。
この大砲は、1920年頃アメリカで製造されて幕末に輸入され、かつて東京都渋谷区の旧鍋島邸に置かれていたもの(現在は戸栗美術館所蔵)を原型とする複製品である。

佐賀県立博物館

(説明板より)

鉄製24ポンド砲カノン砲(複製)


史跡 | 20:46:16 | Comments(0)
佐賀の役 殉国十三烈士の碑
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佐賀の役 殉国十三烈士の碑

十三烈士

江藤新平
島 義勇
重松基吉
中川義純
副島義高
福地常彰
山田平蔵
村山長栄
西 義質
朝倉尚武
山中一郎
香月経五郎
中島鼎蔵

殉国十三烈士について

明治新体制は、幾多の尊い血を流して出来上がった。
佐賀の役もその一つであった。
江藤新平、島義勇先生らは、藩閥独裁を排し民権政治を提唱した先達の士であったが、明治七年戦に敗れ、十三烈士がこの地で処刑された。
後年、明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年には江藤島両先生の生前の功績に対し、特別に贈位の恩命があった。
ここに我らの先人がみせた千載不滅の愛国心とその盛んな情熱を追慕してやまない。

記念碑の建設について

明治7年の「佐賀の役」後に、その首謀者と目されて佐賀城内の露と消えられた江藤新平、島義勇先生ら13人の殉国の烈士をしのぶことにより、ふるさと佐賀の見直しと青少年の健全育成に役立てようとの機運が高まり、昨年11月から募金を始めましたところ、県内外の幅広い同志から多額の浄財をいただきましたので、佐賀県政百年記念のときに当たり、この記念碑を建設することができました。

昭和58年10月吉日
佐賀の役殉国十三烈士の碑建設委員会

(銘板より)

佐賀の役 殉国十三烈士の碑


史跡 | 20:36:07 | Comments(0)
枝吉神陽生誕地・副島種臣生誕地
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枝吉神陽(えだよししんよう)生誕地

枝吉神陽、1822(文政5年)~1863(文久3年)は本名種経。
枝吉種彰(号南濠)の長男としてこの地に生まれ、幼児より神童ぶりを発揮し、20才にして江戸の昌平黌(しょうへいこう)に学んだが、学才群をぬき、たちまち舎長に推された。
26才の時帰郷して弘道館教諭となり、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ、同志を集め「義祭同盟」」を結成し、藩内尊皇運動の推進力となった。
この「義祭同盟」からは明治維新に際し、幾多の人材を輩出したが、彼らに与えた影響の大きさにおいて「佐賀の吉田松陰」と呼ぶにふさわしい偉大な指導者であった。

昭和48年10月
資料提供 佐賀県教育委員会
佐賀北ロータリークラブ

(説明板より)


副島種臣(そえじまたねおみ)生誕地

副島種臣、1828(文政11年)~1905(明治38年)は枝吉南濠の二男としてこの地に生まれた。
父や兄神陽の感化で尊皇運動に参加したが、明治維新後新政府に招かれ、参与、参議、外務卿、内務大臣等を歴任した。
その間樺太境界についてロシアと談判、ペルー船マリア・ルーズ号に奴隷として監禁された清国人苦力(クーリー)を解放し、副島外交の名を内外にうたわれた。
のち中国へ行き「日清修好条約」を締結、さらに沖縄が日本領であることを認めさせた。
また和漢の学に通じ、その学殖と高潔な人格をもって明治天皇の一等侍講をつとめた。
特に「蒼海」と号し明治を代表する卓越した名筆家として知られている。

昭和48年10月
資料提供 佐賀県教育委員会
佐賀北ロータリークラブ

(説明板より)

枝吉神陽生誕地・副島種臣生誕地



史跡 | 20:20:34 | Comments(0)
佐賀城南堀の石垣
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佐賀(嘉)城南堀の石垣

佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中城を拡張して築かれたもので、慶長7年(1602年)本丸の建築に始まり、慶長16年まで10年の歳月を費やして完成した。
佐賀城は、典型的な平城(ひらじろ)(平地に築いた城)である。
高い石垣は天守閣付近のみで、まわりは堀と土塁をめぐらして守りとした。
堀には石垣の護岸があり、この造り方は、佐賀地方の軟弱地盤に対する工夫として、基底部に沈下防止の松丸太2本を敷き、その上に石垣を築き、さらに最下部の石がせり出すのを留めるため、前面を角杭(約3m)でおさえる工法がとられている。
使われている赤石は、多久市納所産といわれており、佐賀城の堀割や水路の護岸によく用いられている石材の一つで、加工しやすい特質をもっている。
この石垣は、南堀の南岸の石垣の一部で、この地点から西方約19mノ道路下に築かれていたものを一部移築したものである。

昭和61年 佐賀県

(説明板より)

佐賀城南堀の石垣


史跡 | 20:00:16 | Comments(0)
佐賀の旅(3)
時刻は3時・・・・
まずはお城の周囲から攻める。
佐賀城の周辺には副島種臣の生誕地跡、枝吉神陽の生誕地跡などがある。
このお城周囲をぐるりと回って佐賀城へ・・・・

8年前に一度来たことがあるが、あの時から比べるとかなり周囲が整備されている。
今も整備が進行中らしい。

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以前に来た時は、ここには「鯱の門」しかなく、天守台には公民館の小さな建物があり、あとは雑草だけの広場だったが・・・・
今では、この広場に「御殿」が復元されていて、天守台にあった公民館は当時の御殿の一部だったということで、復元された御殿に移転されていた。
内部の見学は無料。
復元された建物だから、これといったものはないので、サラ~ッと見学を済ませる。

いやぁ~変わったなぁ~
そうだ!
しばらくご無沙汰の“オダクラくん”に電話をしてみるか!
携帯電話というのは便利である。
「今どこにいると思う?8年前に君と一緒に来た佐賀城に来てるんだよ~!」
彼に呆れられて笑われた・・・・・

P5050218_convert_20090106195147.jpg(平成12年当時の佐賀城跡)

DSC01447_convert_20090106195838.jpg(ほぼ同じ位置から撮影)

DSC01445_convert_20090106200156.jpg(ちょっと近づき角度を変えて・・・)

この復元整備・・・・
ひとつだけ不満な点がある!
この石垣・・・・

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なに・・・・これ・・・・
まるで軍事施設の迷彩塗装のようではないか!
石の色が極端に違うので、落ち着かない“まだら模様”・・・・似合わねぇんだよなぁ~
年月が経つと落ち着くのかぁ?
また10年後くらいに見に来てみようか?
絶対“浮いてる”って思うんだよねぇ~(笑)
誰だ?こんなこと考えたのは・・・・

時刻は4時50分・・・・
もう駅に向かって戻らねば・・・・
ここから駅までは、直線で軽く2kmはあるが、得意のジグザグコースで駅に向かう。

近くには「大隈重信公旧宅・大隈重信記念館」があるが・・・・
8年前にも行っているし、時間的に今からでは見るのは不可能なので諦める。
あちこちを寄り道しながら歩いたので駅に着くまで1時間かかる。(笑)

午後5時45分に駅に到着。
博多までの特急・指定席券を買いに窓口へ・・・・
59分発の博多行き臨時特急があると言われたが、さすがに歩き疲れたのでコーヒーが飲みたい。
駅員のお勧めを断って6時17分発に乗ることにする。

駅の構内の喫茶店で一服。
今日はお昼に肉まんを1個しか食べていないので、さすがに腹が減った。
というわけで・・・・ブルーベリーケーキを食べる。
これじゃ、何のため歩き続けてカロリーを消費したのか意味がないが・・・・(笑)
で・・・食べ終わってから気がついた!
ケーキの写真を撮るのを忘れた!(笑)
腹が減っていたので慌てて食べてしまった!
「写真撮影欲」が「食欲」に負けてしまった~(笑)

予定より7分遅れで入って来た「みどり24号」に乗り博多へ。
相変わらずよくわからぬ電車・・・・(笑)
こんどの「みどり24号」は「ハウステンボス24号」と連結されている。
ややこしい・・・・・(笑)

40分弱で博多に到着。
駅からタクシーでホテルに向かいチェックイン。
さすがに疲れて、またもや膝が痛みだした。
外へ出て食事できる場所を探すのは面倒なので、ホテルのレストランでハンバーグを食べることにする。

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今日の歩数・・・3万3816歩・・・・18.5km歩いた。
疲れるわけだ~(笑)

旅行 | 19:45:45 | Comments(0)
大隈重信の墓
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大隈重信の墓
(生没年:1838~1922)

大隈重信は、佐賀藩士大隈信保(のぶやす)の長男として佐賀城下会所小路(かいしょこうじ)で生まれました。
幼名を八太郎(はちたろう)といい知的好奇心旺盛な青少年時代を過ごしました。
後に世界に目を開き、長崎で英学を学ぶために致遠館(ちえんかん)を副島種臣(たねおみ)と設けて、アメリカ人宣教師フルベッキに学びました。
明治政府では参議となり、財政、鉄道・電信建設業に尽力しました。
明治14年(1881)には、岩倉具視(いわくらともみ)や伊藤博文井上馨らと対立し政府を去り、翌年立憲改進党を組織し、国会の早期開設を求めました。
また、東京専門学校(後の早稲田大学)を創設し、人材の育成に努めました。
明治21年(1888)には、政界に復帰し外務大臣に就任。
明治31年(1898)と大正3年(1914)には、内閣総理大臣を務めました。
大正11年(1922)逝去(せいきょ)、国民葬が行われました。
墓はこの龍泰寺(りゅうたいじ)と東京の護国寺にあります。

(説明板より)

大隈重信の墓


史跡 | 19:30:31 | Comments(0)
与賀神社楼門
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重要文化財
与賀神社楼門

楼門は正面三間 側面二間 入母屋造銅板葺総丹塗で その形式は室町時代の地方的風調を表わし、斗栱蟇股木鼻絵様等は特色ある手法を示している。
旧記に文明14年(1482年)太宰少弐政資が与賀城を築き与賀神社を鬼門の鎮守となすとあり、牢門の建立もこの頃と思われる。
大正2年国宝に 昭和25年 重要文化財に指定された

(説明板より)

与賀神社楼門


史跡 | 19:10:24 | Comments(0)
藤原直弘公の墓
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前雍州太守 藤原直弘公の墓

鍋島山城守藤原直弘は初代藩主勝茂の四男として生まれ幼くして成富兵庫茂安の養子となる。
直弘は茂安の愛情を一身に受けて成長したが15才の時鍋島家へ復籍し白石鍋島家の初代となった。
直弘に親子の縁こそ短かったが茂安の恩義に感じたのか死後養父(茂安)の菩提寺に納めるよう遺言したと伝えられている。

寛文元年7月7日卒 行年44才

法号 盛徳院殿天真日玄大居士

(説明板より)

藤原直弘公の墓


史跡 | 19:00:30 | Comments(0)
成富兵庫助茂安の墓
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成富兵庫助茂安(なりとみひょうこのすけしげやす)の墓

成富兵庫助茂安、1560(永禄3年)~1634(寛永11年)は龍造寺、鍋島両氏に仕え、文禄慶長の役、関ヶ原の合戦で武功をあげたが築城術にもすぐれ、名古屋、大阪、江戸各城の修築に当って手腕をふるった。
また太平の到来とともに、民政に意を用い、芦刈水道を開削、巨勢郷のかんがい、筑後川の千栗(ちりく)土居の築堤、石井樋の構築など水利・土木事業に前人未踏の業績を残した。
佐賀市兵庫町、三養基郡北茂安町は、いずれも茂安の名を記念して町名とし、その功績をたたえている。

昭和48年10月
資料提供 佐賀県教育委員会
佐賀北ロータリークラブ

(説明板より)

成富兵庫助茂安の墓


史跡 | 18:45:12 | Comments(0)
江藤新平の墓
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江藤新平の墓

江藤新平、1834(天保5年)~1874(明治7年)は弘道館時代に枝吉神陽の影響を受けて尊皇論を唱え、1862(文久2年)には脱藩して倒幕運動に従ったが、捕えられ永久閉門となり、1867(慶応3年)まで蟄居(ちっきょ)させられ極貧の生活を送った。
明治維新後新政府に招かれ大木喬任(たかとう)とともに江戸遷都を建議し実現させた。
のち文部大輔として文部省官制を整備し、さらに左院副議長、司法卿、参議を歴任とくに司法卿として司法権の独立、民法編纂に大きな業績を残した。
また征韓論に敗れて下野し、島義勇(よしたけ)らとともに佐賀の役を起こし志を遂げようとしたが成らず、刑死した。
のち罪名を除かれ1916(大正5年)従四位を追贈された。

昭和48年10月
資料提供 佐賀県教育委員会
佐賀北ロータリークラブ

(説明板より

江藤新平の墓


史跡 | 18:30:16 | Comments(0)
築地反射炉跡
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佐賀藩の反射炉
日本で初めて鉄を生んだ溶鉱炉 嘉永3年12月12日火入式
佐賀県機械金属工業会連合会
佐賀県青年工業会連合会

嘉永3年(1850)12月12日、わが国で最初に築造された佐賀藩の反射炉が、日本近代工業のあけぼのをつげた。
幕末、黒船の来航など国内騒然とした中に佐賀藩主鍋島直正は世界の大勢を説き、海防を献策したが、幕府はこれを聞き入れなかった。
そのため佐賀藩は独力で、この地に反射炉の建設にとりかゝり、失敗を重ねたあげくわが国最初の工業用鉄精錬と鉄製大砲の製造に成功した。
嘉永6年、ペリー来航にあわてた幕府は、佐賀藩に「公儀用大砲200門鋳造」を委嘱。
佐賀藩技術陣は苦難に耐えこの大任を果たした。
本碑は日本近代工業の先駆をなした郷土佐賀人の進取性と真摯な営みの歴史を顕彰するものである。

昭和50年12月12日建立

(銘板より)


種別 佐賀市史跡
名称 築地反射炉跡
指定年月日 昭和42年2月11日

佐賀藩は、寛永18年(1641)以来、幕命によって福岡藩と1年交代で長崎警備の任務についていた。
その装備は、諸外国と比べると薄弱であった。
10代藩主鍋島直正は、防衛の任務遂行を懸念し幕府にその旨を献策したが受け入れられなかった。
かねてから西洋文化に関心を示していた直正は、嘉永3年(1850)、この地に、藩独自で洋式反射炉を築造し、築地大砲鋳造所を設け、長崎台場の防衛用大砲を製造した。
嘉永6年(1853)、その威力を幕府から認められ、大砲の鋳造依頼があったので、多布施に新たに反射炉を築き、公儀石火矢鋳立所を設置し、幕府向けの大砲を製造した。
嘉永5年から慶応年間までに佐賀藩が製造した大砲は、あわせて271門におよんだ。
現在は、反射炉の模型のみが昔の面影を残している。

佐賀市教育委員会

(説明板より)

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佐賀藩鋳造鉄製24ポンド砲
わが国最初の鉄製カノン砲 復元

佐賀藩は、寛永19年(1642)から長崎港の警備にあたってきたが、文化元年(1804)露国使節レサノフの来航、同5年(1808)イギリス軍船「フェートン号」の長崎港侵入があり、長崎港の警備はそれ以来緊迫した空気につつまれた。
鍋島直正が10代藩主につくと、これに対処するため長崎港台場の増設と洋式大砲の設置を痛感し、嘉永3年(1850)築地(今の日新小学校)に反射炉を築き日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。
嘉永6年(1853)ペリーが来航すると、幕府は江戸湾防備のため品川を台場を新設し大砲を佐賀藩に注文した。
そこで佐賀藩では、多布施に公儀用の反射炉を増設し(佐賀駅北口にその模型がある)安政3年(1856)までに24ポンド砲25門、36ポンド砲25門を納めた。
さらに150ポンド砲3門を幕府に献上した。
又当時、世界で最高の技術を要するアームストロング砲を佐賀藩では元治、慶応年間に3門鋳造することに成功している。
この大砲は、この時品川砲台に備えられたものの一つであって、その頃のわが国科学技術の最高水準をうかがうことができる。

昭和52年12月12日(1977)
佐賀県機械金属工業会連合会

(銘板より)

築地反射炉跡


史跡 | 16:00:50 | Comments(0)
大庭雪斎の墓
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大庭雪斎の墓

名は景徳、あるいは文心ともいう。(1805~1873)
18歳頃佐賀蘭学の始祖島本良順に医学、蘭学の手ほどきを受けた。
文政8年長崎で、シーボルトに就き、39歳頃大阪で、緒方洪庵に就いた。
佐賀に帰ってから、安政元年(1854)弘道館の教導となった。
同3年「訳和蘭文語」の前編、翌年後編を出版した。
次いで文久2年(1862)「民間格知問答」を出版。
両著とも口語文で記述し、西洋の進歩した科学を究明する学問が重要であると唱えた。
嘉永4年(1851)蘭学寮が創設されると教導となった。
医学寮が好生館と改称されたあとも、教導方頭取の要職にあった。
また、長男景龍は、佐賀で初めてキリスト教会を設立したことでも知られている。

(説明板より)

大庭雪斎の墓



史跡 | 15:59:52 | Comments(0)
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