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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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第12回危機管理総合講座
今日はこの講座の前期の最終回。
講師は棚橋泰氏。
運輸行政に携わっていた方で、退官後は日本鉄道建設公団総裁や日本貨物鉄道(株)の社長などを歴任されている。
というわけで・・・・
今回のテーマは『運輸交通機関の危機管理』

今回は配布資料がいつもより多い。
まずは危機管理とは何か・・・・危機とは何か・・・から話が始まり・・・・
これに運輸交通に危機対応の実例の配布資料を併せて具体例に触れていく。
米国同時多発テロ・・・例の“9.11”である。
分刻みの対応状況が書かれているこの資料には驚いた。
さすがはアメリカ・・・と言いたくなる対応である。
続いて・・・・
過激派によるケーブル切断に伴うレーダーアウト・・・・
これは昭和53年の成田空港開港の時の過激派のテロである。
この事件の対応と、この時の反省に基づいて改善された現状についてのお話。
第3は・・・・
日本航空空中衝突直前回避事件・・・・
これは平成13年1月31日の事例。
羽田発那覇行きのJALとソウル発成田行きのJALが静岡県上空で、あやうく空中衝突しそうになった事例。
第4が・・・・
平成7年に発生した地下鉄サリン事件。
この資料を見て改めて愕然とした。
拙者はサリン事件というのは地下鉄の1箇所で起きた事件だとばかり思い込んでいた。
今ごろになって気がつくというのではお粗末なのだが・・・
発生場所は地下鉄3路線、18駅で発生していたのである。
5つ目が・・・
阪神大震災における西日本旅客鉄道(株)の事例。
氏はこの時に貨物鉄道の社長としてこの災害を実際に経験している。
資料を見て、またまた驚いた。
鉄道の損害は甚大で、ボロボロである。
よくこれを2ヶ月で復旧させたものだと感心する。
どう見てもお手上げ状態なのに・・・・

さて・・・それでは現在はどうなっているか・・・・
これについては内閣官房・国土交通省・日本航空・全日本運輸・西日本旅客鉄道の危機管理システムの配布資料に詳細に記述されている。
それによれば、交通分野における備えはかなり出来ていると言っていいようなのだが・・・・
現実の危機対応は必ずしも十分には行われていないと言う。
たしかに・・・・各機関・各社の「システム」という名前だけは立派だが・・・(笑)
この資料通りに物事が推移するとは限らないもんなぁ~

①危機は予想外の形でやってくる。
②過去と同じパターンではやってこない。
③忘れた頃にやってくる
④対応するのは人間・・・・つまりその人間の巧拙が事態を分けることになる。

結局は危機に対する人間の“資質”の問題になるだろうなぁ~
果たしてベテラン従業員をリストラしていいものやら?
経験豊富な高齢者を冷遇していいものやら?(笑)

最後に戦時中と現在の鉄道の比較。
戦時中、爆撃や銃撃の中、国内の鉄道は細々とではあったが、それでも運行していた。
突然降りかかってくる攻撃を一方的に受けながらも、とにかく列車を走らせていた。
この苦労は並大抵のものではなかっただろう。
この対応は現在では皆無である。
今では、ちょっとしたことでもすぐに列車が止まる。
ピタッ・・・・と止まって・・・動かない!
安全第一も結構ではあるが・・・・
雨が降った、雪が降った・・・で、ピタリと止まっちゃうんだからねぇ~(笑)
果たしてこれでいいのか悪いのか・・・・

さて、講義も終わり・・・・
引き続いて前期の修了証書の授与式。
この講義は修了証書をくれるのだそうだ。
で・・・その後、受講生全員で記念写真の撮影・・・・・
ゲゲッ・・・・・終電に間に合うか?
ホテルを予約しておけばよかったかなと一瞬後悔。
記念写真はお断りして抜け出そうかとも思ったが・・・・
何とかなるだろう・・・・と思い、写真撮影にも参加して、終わると同時にいつものように会場を飛び出して上野駅に向かう。
運よく終電に間に合い、無事に帰宅する。

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日記 | 16:37:57 | Comments(0)
止まれ!
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路上に示されている「止まれ」の表示・・・・
わかりやすい!


看板・標識・標語など | 15:02:02 | Comments(0)
上田で見かけた建物
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(小県上田教育会)


建物 | 14:56:47 | Comments(0)
芳泉寺
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浄土宗 総本山知恩院直末 松翁山 圓覚院
芳泉院 (上田市常磐城)

上田城を西へ徒歩5分、千曲川の旧跡「古舟の渡」を越え、北に向かう善光寺道の故地常福寺坂の上、往古、当山は左岸の三楽寺(安楽常楽長楽)と右岸の三福寺(大福常福信福)の一山常福寺として「ふくらくおうげん福楽往還」の徴憑。
慶長5年(1600年)、上田藩祖真田信之公(上田城主昌幸嫡男、幸村の兄)は、その常福寺(現芳泉寺)に下之条村の全称庵主含霊を迎えて菩提寺と定めた。
そして九度山に蟄居する父と弟のもとへ「年々信州の四季の物」等が届いたのは公の正室小松姫(本多忠勝娘、家康の養女)の心ばえであったという。
昭和平成の今日、北は秋田から南は鹿児島に及ぶ「真田六文会」の続柄不断の基礎者として、お姫様の中核的存在感は重い。
元和6年(1620年)2月24日、公は姫(大蓮院殿)の死にあって「ああ、わが家のともしび消えたり」と嘆き、当山と姫の密葬の大導師不残上人御往持の勝願寺(埼玉県鴻巣市)と真田氏ゆかりの正覚寺(群馬県沼田市)の三ヶ寺に宝筺(きょう)印塔を建立して分骨、更に当山にはお霊屋(たまや)をも造立。
そのお霊屋は信之公と倶に松代の皓月山大英寺へ。
当山本堂南の弁天池は名残の史跡。
元和8年(1622年)上田城主信之公(大鋒院殿)は長野市松代へ移封。
11月小諸城主仙石忠政公(法光院殿)が入部。
霊地常福寺を修営。
翌春正月小諸市の松井山歓喜院宝仙寺(しょうせいざんかんぎいんほうせんじ)から、父円覚院殿秀久公の遺骸を、小松姫墓北隣へ改葬。
円覚院芳泉寺と尊称、香華院(こうげいん)と定めた。
秀吉の小田原征伐の武勲者仙石氏中興秀久公は伏見城中で大泥棒石川五衛門を生け捕るなど愛称権兵衛さんで通る剛の者、秀吉は名品「千鳥之香炉」を褒美とした。
仙石氏後裔は「率土(そつと)の物品(ものしな)に非ず」と明治天皇に献上、御物(ぎょぶつ)となる。
勝願寺には雄偉な宝筺印塔がある。
山号の松翁山は忠政の子、城主政俊(晩年は直政を称す)公の法号松翁院殿(でん)の美諡に因る。
公は年少にして父忠政公を喪い、その御生涯はまさに篤信者にして精進、俗に塩田四十七池、六ヶ村堰(せき)、桝網(ますあみ)用水、網掛用水など水利土木、更には真田紐等じつに「殖産振興の藩主」の誉れが高い。
上田藩草創期の開発者仙石氏の霊廟と藩主松平氏五三桐紋付「御城主代々神儀」の古霊碑を祀る。

境内の化儀(けぎ)と四季星降る松の美しい、それは夏空に爽やかな木槿(むくげ)の花が、
               月明かりに、涼風に涼風に波打つ白萩の、そして雪明り花明かりにも
                      小松姫や武人の、趣きも深い城主の菩提寺

維時 平成8年陽春 吉祥日

(説明板より)

芳泉寺


史跡 | 14:46:46 | Comments(0)
上田の旅(2)
お城から10分ほど歩いて芳泉寺に到着。
観光マップの資料によれば、ここには「小松姫の墓」があるというので来てみた。
小松姫とは・・・・
上田城主の真田信之の正妻で、本多忠勝の娘、徳川家康の養女であるという。
あらら・・・・
お父様の本多忠勝の銅像の写真を撮らせていただきましたぞ。
ここで娘さんのお墓に出会うとは奇縁ですなぁ~
ここには上田城主仙石氏の墓所もある。
両方のお墓をお参りして境内を散策。

DSC01151_convert_20081202113032.jpg

「弁天池」という干上がった池の前に説明板が・・・・
それによると、この場所にあった小松姫の霊屋(たまや)は松代の大英寺に移転されているとある。
あらら・・・松代に霊屋があったの?
だめだねぇ~行き当たりバッタリに近い旅をしていると・・・・どうも見逃してしまう。(笑)

観光マップによると、ここから更に北の方に「向源寺」という寺があると書いてある。
この寺は“観光スポット”となっていたので、行ってみたのだが・・・・
見つからない!
狭い路地をウロウロしたが、どうしても見つからない!
観光マップはイラストマップなのである。
イラストマップはおおよその場所しか示していないから、どうにもこうにも行き着かない。
しかも、“観光スポット”と書いておきながら現地にはそれを示すような案内板が建っていない!
散々ウロウロするという“不審な行動”をした挙句、ようやくそれらしい場所を見つけたが・・・・
入口がわからない!
なんだよ・・・・これ・・・・
どう見ても、一般住宅の庭先から入らねばならない感じなのである。
周囲をぐるりと廻ってみたが、やっぱりこの家の庭先を通らねばならぬらしい・・・・
さすがにその勇気が湧かず断念する。

時刻は3時・・・・
さて・・・今日は何時の新幹線で帰るんだっけ?
今晩は東京で例の危機管理のセミナーに出なければならないので、既に上田から東京への新幹線の切符は購入済み。
え~と・・・4時過ぎだったはず・・・・
切符を確認したら・・・4時01分発!
やばい!
あと1時間しかない!
上田駅に戻らねば・・・・
ところが・・・ここは・・・どこ?
またまたやっちゃったぞ~
迷子になっちまったぁ~(笑)
とにかくどこかの大通りに出なければ・・・・
狭い路地の中をウロウロしていたのでは方向を間違ってしまう。

気持ちは焦るばかりで、なかなか、ここぞという場所に辿り着かない。
ようやく上田城まで戻ることが出来た時には時刻は3時15分。
さて・・・ここから駅までは何分かかるんだっけ?
まぁ、ここまで来れば、時間までには充分間に合うだろう・・・・・
と、思ったら、またまた“悪い虫”が騒ぎ出した。
このまま、来た時と同じ道を通って駅に向かうのも面白くない・・・・(笑)
少し回り道をしちゃおうか・・・・
上田城から上田高校へには向かわず、別の道を歩く。(笑)

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偶然、「大手門公園」に出会う。
ここに大手門があったらしいが、説明板によれば城門はなく堀だけだったそうである。
更に、近くの商工会議所の敷地内に「明治天皇行在所跡」の碑を見つける。
こうなると、どうもダメだ・・・・
すっかり時間を忘れて碑文なんかを読んでしまう・・・(笑)

本当は、少し余裕を持って駅に到着して、駅前でコーヒーでも飲んで一息つきたかったのだが・・・
その余裕は完璧に無くなってしまったぁ~
自業自得とはこのことか・・・・
駅前のコインロッカーから急いでカバンを取り出して、駅構内へ・・・・

丁度、駅弁を売っていたので、遅い昼食は駅弁を食べることにする。
「これ、地元の駅弁ですよね?やっぱり、地元の駅弁を食べねば・・・ねぇ~」と言って弁当を買ったが・・・
弁当屋の“おじさん”は「はぁ~」と何やら気のない返事・・・・
同じ弁当屋の“おばさん”は「あの・・・釜飯の弁当もありますけど・・・」と言う。
「あっ!峠の釜飯!」
しかし・・・既に駅弁を買ってしまった・・・・今更、交換というわけにもいくまい。

さすがにお腹がペコペコなので新幹線に乗ってすぐに弁当を食べることにした。
で・・・駅弁を見たら・・・・
あれ?

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「上州 舞茸弁当」と書いてある。
ん?上州?
上州って・・・・どこ?
あれ?ここは長野でしょ・・・・長野って・・・信州?
ありゃりゃ・・・・
どおりで駅弁屋の“おじさん”が怪訝な顔をしていたはずだ。
群馬県の弁当を「地元の弁当ですよね」って言われたんじゃ返事の仕様がなかっただろう。
それにしても、どうして上州と信州を勘違いしちゃったかなぁ~
どうも拙者は疲れてくると思考能力が極端に衰えるらしい。(笑)

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あ~あ~・・・何で長野に来て群馬の弁当を食べねばならんのか・・・(笑)
しかし・・・おいしかったから・・・・いいかぁ~

さすがにクタクタである。
車内で読書をしていてもウトウトしてさっぱり先に進まない。(笑)
今晩はセミナーを受けなければならないし・・・・
ということで・・・ここは仮眠をしておいたほうがよかろう。
爆睡!(笑)
1時間30分後、東京駅に到着。
東京駅から一度上野駅に行って、駅のコインロッカーに荷物を預け・・・・
地下鉄で飯田橋へ向かい、危機管理セミナーに出席して、21時30分上野駅発最終特急で帰宅する。

日記 | 13:09:01 | Comments(0)
流転の浅間大溶岩
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流転の浅間大溶岩

この巨石は天明3年(1783年)群馬県地方に大災害をもたらした浅間山大噴火によって、東御市の山腹まで押し出され、その後の水害でさらに東部自動車学校付近まで流されてきたと推定される溶岩です。
昭和34年5月に当時上田市で建設業を営んでいた皆様により東御市から運ばれ、上田駅前広場の一角に据えられました。
平成14年上田駅前再開発事業に伴い、この上田城跡公園に移設され、この地に落ち着きました。

(説明板より)

流転の浅間大溶岩


史跡 | 12:53:05 | Comments(0)
上田温電北東線跡
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お堀の移りかわり

けやき並木のこの場所は上田城二の丸の堀の跡です。
二の丸をかぎの手に囲んで、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の固い守りに役立っていました。
その後、昭和3年5月上田温電北東線が開通し、この地を電車が通っていました。
しかし、昭和47年2月電車が廃止され、現在に至っています。

(説明板より)

上田温電北東線跡


史跡 | 12:42:42 | Comments(0)
上田市立博物館のトイレ
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トイレの貼紙

急ぐとも 心静かに 手を添えて
        外に漏らすな 朝顔の露


(了解しました!気をつけます!)

看板・標識・標語など | 11:33:22 | Comments(0)
上田城西櫓
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長野県宝 上田城 西櫓

上田城西櫓は、江戸時代初期の寛永3~5年(1626~1628)にかけて真田(さなだ)氏の後に城主となった仙石(せんごく)氏によって建てられ、上田城で建築当初のままに残されている唯一の建物です。
建物の大きさは、1階が桁行(けたゆき)9.85m(5間)、梁間(はりま)7.88m(4間)の大きさで、2階は桁行8.64m、梁間6.66mと少し小さくなっています。
外壁は、雪の多い地方で用いられる腰下見板(こししたみいた)が張られ、壁の上部から軒廻りにかけては防火のために白漆喰(しっくい)で柱などを塗りごめた大壁(おおかべ)造りとなっています。
窓は縦格子(こうし)の付いた突き上げ板戸です。
建物の内部は、中央に丸太材の芯柱が立ち、仙石氏の「仙」の字の焼印が押されています。
壁は柱を残して漆喰を塗った真壁(しんかべ)造りで、幕末期に補強のために取り付けられた筋交(すじかい)が見られます。
屋根は、丸瓦と平瓦で葺(ふ)いた本瓦葺で、鬼瓦には最後の城主となった松平(まつだいら)氏の五三桐紋がついています。
なお、鯱(しゃち)瓦は昭和3年に徴古館(ちょうこかん)として改修された際に寄付されたもので、江戸時代の上田城の櫓には鯱瓦は無かったようです。
西櫓は、上田城本丸の西虎口(こぐち)(出入口)を固める重要な櫓でしたが、戦争のなかった江戸時代には、もっぱら倉庫として使用されていました。
また、櫓の名称も江戸時代には特になく、「西櫓」の名称は、南櫓と北櫓が復元された後につけられた新しい名称です。
上田城西櫓は、昭和18~24年に移築復元された南櫓、北櫓とともに、長野県内では数少ない江戸時代初期の城郭建築の貴重な遺構として、昭和34年に長野県宝に指定されました。

上田市教育委員会

(説明板より)

上田城西櫓


史跡 | 10:17:22 | Comments(0)
上田藩主居館表門
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上田市指定文化財
上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁

種別      史跡・建造物
所在地    上田市大手1丁目4番33号
所有者    長野県
指定年月日 昭和44年5月9日

上田藩主の居館は、真田氏・仙石氏・松平氏の各時代を通して、現在の長野県上田高等学校の敷地となっている場所にあり、「御屋形(おやかた)」と呼ばれていました。
居館の遺構である表門・土塀・濠等に往時の姿をとどめています。
表門は、藩主松平忠済(ただまさ)時代の寛政2年(1790)にその前年焼失した居館とともに再建されたものです。
前面には、4本の太い角柱が並び、中央間には大板扉を釣り、左右には潜りの扉がつけられ、後部の控柱は十六面に削った通し梁でつないでいます。
創建当時の様式がよく保たれており、長野県下最大規模の薬医門として貴重な存在です。
土塀は江戸時代末期の構築ですが、濠と土塁は真田氏時代の面影を残し、全体として江戸時代の大名屋敷の外廻りを知る良い例です。
但し、土塀の下部と濠の周囲の石積みは、崩落防止のために最近施行されたものであり、濠の幅も道路の拡張により狭められています。

上田市教育委員会

(説明板より)

上田藩主居館表門


史跡 | 09:43:46 | Comments(0)
桝網用水
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秋和・塩尻の生命線
桝網用水

桝網用水(ますあみようすい)は、坂城(さかき)まで続く千曲川右岸で最大の用水です。
取水口は、江戸時代中頃には上田城崖下の尼ヶ淵(あまがふち)に入る千曲川の分流から取り入れていたようですが、その後上流に移されました。
明治時代には上田駅東方に用水を利用した養鯉池(ようりいけ)、製糸工場などができ、下流の秋和・塩尻地区では、長い間農業や生活用水として利用されてきました。

(説明板より)

桝網用水


史跡 | 08:29:05 | Comments(0)
上田の旅(1)
朝食は法人会専用の会場が用意されており、そこでバイキングの朝食とか・・・・
8時半に行ってみたら・・・・あらら・・・・
広い会場には拙者を含め3名のみ。(笑)
名簿によれば、昨晩このホテルに宿泊したのは50名いるはずなのだが・・・・
みなさん、もっと早い時間に済ませてしまったのかな?(笑)

フロントから本や下着類を宅配便で自宅に送ってチェックアウト。
ホテルから駅まで徒歩。
今日は、これから上田に向かう。

DSC00985_convert_20081201142623.jpg(長野駅)

さて・・・ここからどうやって上田に行けばいいんだろ?(笑)
拙者の乗車券は“通し”で買ってあり、途中下車しながら旅をしている。
で・・・駅員に尋ねてみたら・・・・
長野から上田までは、この乗車券では新幹線を利用しないといけないのだそうだ。
どうやら新幹線経由のものらしい。
新幹線なら上田まで約10分。
たった10分のために特急券を買うのももったいない。
というわけで・・・・在来線で上田に向かうことにしたのだが・・・・
券売機の買い方がわからない!(笑)
券売機には「しなの鉄道優先」って書いてあるのだ。
なに・・・この「優先」って・・・・
どういう意味???
この機械で買っていいのや悪いのやら・・・・
またまた駅員に尋ねて、ようやく切符を買う。
同じように切符を買うのに迷っていた“おばちゃん”たちからも「これ、わかりづらいわよねぇ~」と声をかけられ、「そうですよねぇ~」と返事をして意気投合!(笑)
どうやら長野から篠ノ井まではJRで、篠ノ井から上田までは私鉄の「しなの鉄道」になるらしい。
そういうことで・・・券売機に「しなの鉄道優先」って書いてあるらしいのだが・・・
車両は同じ。
長野からそのまま上田に着くらしく、途中で乗り換えするわけではないらしい。
ならば、なにも「しなの鉄道優先」なんて表示する必要なんかないんじゃないか?
そんなことを書くから逆にわけがわからなくなるんじゃないのかね?(笑)

乗車時間40分ほどで上田駅に到着。
観光案内所で集めた資料を持ってコーヒーショップで今からの行動計画を練る。
11時・・・・さぁ、今から上田の旅のスタートである。
まずは、上田駅前の真田幸村の騎馬像の撮影から。

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続いて徒歩で上田城に向かう。
途中、長野県立上田高校のところにある上田藩主屋敷門と堀跡を見て・・・・
上田市観光会館に立ち寄り、更に何か資料が無いかと探してみる。

DSC01022_convert_20081201134936.jpg(観光会館)

ようやく上田城に着いたのは、お昼・・・・
あらら・・・ちょっとゆっくりしすぎてしまった。(笑)
今日もまた昼食抜きだな・・・・

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上田城内を散策。
城内に真田神社、招魂社があったので、お参りする。
この城内には結構銅像が多いのには感激。
米熊三吉氏、勝俣英吉郎氏、羽田武嗣郎氏、小河滋次郎氏、山極勝三郎氏・・・・
山極勝三郎氏は大正4年に世界で初めて人工ガンを発生させることに成功した博士。
へぇ~・・・・人工ガンねぇ~
すごい人がいたんだぁ~
市立博物館を見学し、この山極博士の資料を購入する。
時刻はあっという間に1時半・・・・・

上田城の見学を終え、お城の外周を見ながら、芳泉寺に向かう。

日記 | 07:59:16 | Comments(0)