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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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山寺常山邸
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山寺常山(やまでらじょうざん)

山寺家は松代藩で知行(ちぎょう)160石の中級武士の家格でした。
江戸時代の終わりには山寺常山(やまでらじょうさん)を輩出し、鎌原桐山(かんばらとうざん)、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。
常山は号で幼名を久道(ひさみち)、後に信龍(しんりゅう)と名のり、通称を源太夫(げんだいゆ)といいました。
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎(さとういっさい)や中村敬宇(なかむらけいう)らと親交を深めました。
八代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡(こおり)奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐しました。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。
現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹盧・たいちくろ)が残されています。
ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。
表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。
また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。
なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。
屋敷内北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑(しょうとくひ)は、孫の塩野季彦(すえひこ)らが、長野城山に建つ碑文の磨耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものです。

開門時間:午前9時から午後5時まで
長野市

(説明板より)

山寺常山邸


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史跡 | 11:50:16 | Comments(0)
松代の旅(3)
松代の町に戻ってきたときには、もう5時。
あっという間に暗くなり・・・・・
松代駅の近くにある松代城に行ったとしても写真も撮れまい。
今回は諦めるしかない。

ついに街灯に火が灯り始める暗さとなってしまったが、とりあえず真田公園へ行ってみる。
なんと!
真田宝物館の前に恩田木工民親(おんだもくたみちか)の銅像が!
しまったぁ~うっかりしていた!
知っていれば、もっと明るいうちに訪れたものを・・・・
既に5時を過ぎては暗すぎて写真が撮れない!
あ~あ~やっちゃったぁ~
またいつか機会があったら訪れるということで諦めるしかない。

さて・・・問題は・・・・どうやって帰るかだ・・・(笑)
川中島からテクテクと歩いてきたはいいが、帰り方を知らない。
まさかこの真っ暗な中、歩いて長野へ行けるわけもない。
松代駅から電車に乗れば長野駅に行けるんだろ?
というわけで・・・駅を探すが・・・・町は暗く閑散としていて、どっちに駅があるのかわからない。
完璧に迷子になってしまった!(笑)
駅前通りは町のメインストリートで明るいからすぐわかると思っていたのが大間違い。(笑)
自分がどっちに向いて歩いているのかさえわからない。
テクテク歩いていたらバス停を見つける。
地図で確認したら・・・・あら・・・駅とは反対方向に歩いていたらしい。(笑)
しかし、これが幸運だった。
バスに乗って長野駅に戻ることが出来たのである。(笑)
バス代600円なり。

長野駅に着いたのはいいが・・・・
さて・・・カバンを預けたコインロッカーは・・・・
昼食抜きの腹ペコ状態の上に、歩き疲れたせいなのか・・・・
どうしても思い出せない!
あれ~
コインロッカーはどこだっけ??
あれ?
痴呆症か?(笑)
頭の中が真っ白なのである!
マズイことになったぞ!
落ち着け、落ち着け・・・・駅前の喫煙スペースでタバコを一服・・・・
ようやく記憶が甦り・・・・(笑)
無事にカバンを取り出す。
一時はどうなるかと思ったぞぉ。

駅ビルの地下に行って夕食。

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とにかく腹が減ってどうしようもない。
何でもいいから・・・・ということでお蕎麦のセット・・・・(笑)
腹も満たされ、ようやく元気が出てきた。
さて・・・ホテルに向かうかぁ~
昨晩宿泊したホテルは駅前だが、今晩のホテルは駅から少し離れている。
同じホテルに2泊すればいいものを・・・・
それじゃもったいない・・・・
どうせならいろいろなホテルに泊まりたいものだ・・・・と考えたのが浅かったか・・・
クタクタに疲れているのにしばらく歩く羽目となる。(笑)

チェックインしたら、シングルを頼んでいたのにホテルのご好意でツインの部屋を用意してくれた。
当然、料金はシングル料金である。
部屋が広いのでありがたい。
感謝、感謝である。

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さて・・・ようやくゆっくり出来るかといったら、そういうわけにはいかない。
まだまだやらねばならんことがある。
戦友会のお世話になっている会員にお土産を送ろうと思うので、今晩のうちにそのお土産に付ける手紙を書かねばならん。
いきなりお土産が届いても驚くだろうから、手紙で長野に来ていることを書いて知らせねば。
で・・・・ついでに帰宅予定日も書いておかねば・・・・
以前、これを書かなかったために届いた途端に我が家にお礼の電話が・・・
しかし、拙者はまだ旅の途中。
電話に出たのは・・・・親父・・・・
親父は相手の話がわからず、大変な失礼をしてしまったことがある。
なので・・・帰宅予定日も書いておかねばならぬのだ。
友人は拙者が長野に行っていることは承知済みなので手紙は必要ない。

しかし・・・クタクタ状態で手紙を何通も書くのはツライ!(笑)

で・・・・ついでと言っては申し訳ないが・・・・
松本の“ミヤザワさん”に電話をかける。
その後、お疲れにでもなって体調を崩されたのではなかろうかと気になったからだが・・・・
奥さんの話では「疲れもせず元気ですよ!」とのこと。
あ~よかった!
なにせ93歳だから気になってしょうがなかったが・・・・安心した・・・・

今日の歩数・・・3万3374歩、18.5km歩いた。

日記 | 10:13:40 | Comments(0)
豊姫の霊屋
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第3代松代藩主 真田幸道公の奥方
豊姫の霊屋

豊姫は伊予宇和島藩主伊達宗利公(仙台藩祖伊達政宗公の孫)の息女で、万治2年12月10日(1659年)江戸邸で生まれる。
延宝元年7月26日(1673年)15歳にして、幸道公(17歳)に嫁ぐ。
豊姫が実家から「鉢植の杏(あんず)」を取りよせ愛賞されていたことがあって、これが杏の樹が松代に来た始めであると言われている。
以来、杏が薬用樹として松代藩の殖産興業の一つとして藩内に広く採植されるに至った。
享保18年7月5日(1733年)75歳にて卒。
法名 法雲院
      殿慈栄元光尼禅師

(説明板より)

豊姫の霊屋


史跡 | 10:11:00 | Comments(0)
真田信重霊屋
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重要文化財
昭和46年6月22日指定

真田信重霊屋 1棟
附前机     1脚
釣灯籠     2箇

当山は浄土宗に属し、天正2年(1574)西条氏の開基で、松代真田家初代信之の三男隼人正信重(3万石)の帰依寺であった。
信重は慶安元年(1648)2月23日武蔵国鴻巣で病死し、遺骸は同地の勝願寺に葬ったが、生前の関係によって、同年当山に霊屋を建立し、信重公夫妻の位牌を安置している。
霊屋は方三間茅葺上を鉄板葺としている。
回縁及び一間向抖付きで東面の正面中央に花狭間付桟唐戸を、左右連子窓で、桂上に出組をおき、中備は蟇股と蓑束、軒は一軒の繁棰とする。
内部は前面一間通りを外陣とし、鏡天井を張り、格子戸で内陣を区画し、内陣は格天井で、奥に禅宗様仏壇をおき、阿弥陀像及び信重夫妻の位牌をおく。
内外共漆塗、極彩色を施す。
今は上部のみ残っている。
内外陣境の中備に45度方向に肘木が出た組物をおくのは、中国には古くあるが、日本では他に例がない。
全体として古風で細部の手法が洗練されていて、近畿地方工匠の手になるものかと考えられている。

関谷山十二神院 西楽寺
松代史跡文化財開発委員会

(説明板より)

真田信重霊屋


史跡 | 09:54:37 | Comments(0)
松代地下大本営跡
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気象庁地震観測室(松代地下大本営跡)

第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最期の拠点として、極秘のうちに、大本営軍司令部 参謀本部 政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和19年11月11日午前11時着工翌20年8月15日の終戦の日まで、およそ9ヶ月の間に当時の金額で2億円の巨費と延3百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され突貫工事をもって構築したもので全工程の75%完成した。
ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠距離にあり、川中島の合戦の古戦場としても知られているとおり要害の地である。
規模は三階建、数百米に亘る、ペトン式の半地下建造物、舞鶴山を中心として、皆神山、象山に碁盤の目の如く縦横に掘抜きその延長は十粁余に及ぶ大地下壕である。
現在は世界屈指を誇る気象庁の地震観測所として使用され、高倍率のひずみ地震計はじめ各種高性能観測機が日夜活躍している。

長野市観光課

(説明板より)




気象庁精密地震観測室

第2次世界大戦末期に、大本営が移転・入居するために、天皇御座所をはじめとする地上建物及び地下坑道の工事が行われましたが、完成することなく終戦とともに工事は中止されました。
これらの施設を利用して、1947年(昭和22年)5月に中央気象台松代分室がここに設置されて、地震観測業務が開始されました。
1949年(昭和24年)6月に地震観測所と改称され、中央気象台の附属機関となりました。
1995年(平成7年)4月には精密地震観測室となり、気象庁地震火山部地震津波監視課の施設として現在に至っています。
創設以後、地下坑道など優れた地震観測環境と最新の観測機器の導入によって、全地球的な地震の観測・監視および精密な地殻変動の観測による調査研究等を行っており、わが国だけでなく世界的にも有数の地震観測・研究施設となっています。
また、この周辺に展開した群列地震観測システムでは、松代群発地震等長野県周辺の地震活動の監視、東海地震等の大地震発生時の気象庁本庁のバックアップ、遠地津波予報支援、及び地下核実験の探知のための観測データの提供等を行っています。
これらの観測と研究によって、地震防災、学術及び国際協力などにおいて重要な役割を果たしています。

松代地震センター

1965年(昭和40年)8月から激しい群発地震が発生し、松代町をはじめとする地元住民を恐怖に陥れました。
この松代群発地震が始まると、関係諸機関及び大学等により様々な角度から観測、調査、研究が精力的に実施されました。
これらのデータを有効に利用し、地震活動の多面的な分析と情報提供、災害対策への支援、地震予知研究の促進などのために、松代地震センターが1967年(昭和42年)2月に、関係機関及び自治体の協議体として、設置されました。
なお、松代群発地震は現在も継続しており、体に感じないような小さな地震が年間数百回程度発生しています。

(~以下・略~)

2001年1月 精密地震観測室・松代地震センター

(説明板より)

松代地下大本営跡


史跡 | 09:05:08 | Comments(0)
六工社跡
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六工社(ろっこうしゃ)案内

明治維新以来、松代地域の疲弊した経済の救済と繁栄を図ろうと、大里忠一郎等は同志数名と共に謀りこの地方に適した産業として当時輸出産業第一位の製糸業に着眼し、製糸場の設置を計画した。
そして国内唯一の官営富岡製糸場(群馬県)にならい、明治6年(1873年)2月民間蒸気製糸場の建設を始めた。
横田数馬の助力を得、同志9名が資本金2千円を拠出、約千円を他より借入、銅製蒸気釜の考案など苦心しつつ繰糸場、釜場、水車、工女部屋、薪置場、用水池、帳場、炊所、浴室等を備えた「六工社」をこの地(西条六工)(ろっく)に創設した。
社長に春山喜平次、副社長に大里忠一郎が就任し、工女50人繰りの規模であった。
明治6年3月、富岡製糸場へ伝習のため派遣された横田英他15名が帰るのを待って、明治7年8月25日に「大日本帝国民間蒸気器械の元祖六工社」(和田」英・旧姓横田「富岡日記」)が創業を開始した。
六工社は、わが国民間フランス式改良日本型蒸気製糸場の創始であり、「六工社生糸(きいと)」の名は国際的にも知れわたった。

松代史跡文化財開発委員会

(説明板より)

六工社跡


史跡 | 08:58:58 | Comments(0)
乾徳寺
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乾徳寺縁起

乾徳寺の縁起は、真田信政(のぶまさ)が上州沼田城に在城の折、正保2年(1645)二男信守(のぶもり) 照光院殿一関源心大居士 享年18歳の菩提を弔う為に、沼田に一寺を建立照光寺と称し改愚(かいぐ)和尚が住持した。
明暦3年(1657)真田信政が上州沼田より、松代二代藩主として入封の時、改愚和尚を伴い馬場町に信守の菩提を弔うため、先ず庵室を建てその数年後に現在地に移し、雲龍山照光寺を建立したがやがて改愚和尚が遷化(せんげ)して廃寺同然となる。
元文元年(1736)松代四代藩主信弘(のぶひろ) 乾徳院殿嶽一雲大居士 享年67歳が没し、長国寺第14世蜜峰(みつぽう)和尚が信弘の冥福を祈るため、照光寺を取り潰し改めて一寺を建立照光山乾徳寺と號した、依って乾徳院を開基とし蜜峰和尚を開山とした。
又、松代5代藩主信安(のぶやす)は蜜峰和尚の志を感じ、乾徳院の茶湯料として十石六斗五升一合の地所を寄進し、且つ松代6代藩主幸弘(ゆきひろ)の生母慈眼院の守本尊 魚籃(ぎょらん)観世音菩薩を寺に納める。
本尊は釈迦牟尼仏にして乾徳院(信弘)照光院(信守)天眞院(幸弘)慈眼院(幸弘生母)等の位牌が安置してある。
又、真田信弘は真田昌政の嫡男で真田勘解由(かげゆ)信就(のぶなり)の六男である、本堂横の墓地には真田勘解由家系流の五輪塔があり、勘解由家初代信就その母二代小野お通、その母初代お通及び信就夫人の墓を、東京練馬の広徳寺の墓から分霊し南一面に墓域を整えた際に、その域内の右上位に信弘の墓を移した。
また、筝曲八橋流は真田信就の母が京から伝えられたと言われている。
その古筝八橋流の正統を伝承しているのが松代の八橋流筝曲で、連綿と継承されてきた八橋流も、世間からすっかり忘れられた時期もあって、それを改めて筝曲八橋流を再興させたのが真田志んである。
志んは類稀な記憶力に長(た)けており、八橋流の全曲を甦えらせその功績により八橋流再興の祖として崇められ、正統な伝承者として昭和44年国の無形文化財記録保持者に指定され勲六等宝冠章を授与される。
真田志んも昭和51年11月永眠 享年92歳 真田勘解由家墓地に眠り、筝曲八橋流再興の祖の石碑も墓地一画に祀られている。
その志んの後息女真田淑子氏が八橋流宗家を継承して今日に至る、真田淑子氏も平成15年2月永眠 享年90歳 真田勘解由家墓地に眠る、現在八橋流筝曲は長野市無形文化財に指定されている。

(説明板より)

乾徳寺


史跡 | 08:36:51 | Comments(0)
追悼平和祈念碑
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追悼平和記念碑案内

太平洋戦争末期に、本土決戦に備えて大本営の移転と国体(天皇制)護持のため、軍の命令によって、防衛上の観点から選ばれた松代を中心に、大本営と皇居(舞鶴山)、政府機関と日本放送協会・中央電話局(象山)、皇族住居(皆神山・後に食料庫に変更)、賢所(弘法山)、受信設備(妻女山)などを移転する大工事が秘密裡に企画された。
1944年11月11日から45年8月15日、敗戦の日まで続けられたこの工事には、東部軍、工兵隊、熱海鉄道教習所生徒、および産業報国隊・勤労報国隊の徴用者や学徒・学童も多数動員されたが、地下壕掘削などの中心的役割を果たしたのは、当時植民地下の朝鮮(大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国)からの多くの強制連行者を含む約六千人の人々であった。
その工事は、厳しい監督下での昼夜兼行の強制労働で食料も乏しく、発破や落盤の事故、栄養失調で死亡したり、逃亡した者も少なくない。
さらに自殺したり待遇改善などを要求して射殺された者もおり、犠牲者は三百人とも推定されているが千人という説もある。
しかし戦後、軍部等による関係資料の焼却などにより、犠牲者氏名はほとんど不明であり、今日までに氏名が判明したのは強制連行された朴道三・金快述の他、飯場頭の趙徳秀、中野次郎の四人にすぎない。
この工事では、住民も土地を強制買収され、特に松代の西条地区では仮皇居の建設工事で、百戸以上が立ち退きを強制されたりしたが、住民や徴用者と朝鮮(韓国・朝鮮)人との関係は友好的な面もあって、そのきずなは今日も途絶えていない。
この大地下壕を中心とする「松代大本営」は、太平洋戦争と朝鮮植民地化に象徴される日本のアジア侵略の歴史と、その反省を永遠に刻む歴史的遺跡であり、この碑の建立と壕の見学が、なお残る民族差別の克服と友好親善の新たなる第一歩となることを切に願うものである。

1995年8月10日
松代大本営朝鮮人犠牲者慰霊碑建立実行委員会

(当時日本に植民地化されていた朝鮮は、現在の大韓民国と朝鮮民主主義共和国にあたる)

(説明板より)

追悼平和祈念碑


史跡 | 07:56:07 | Comments(0)
松代の旅(2)
象山神社から徒歩で約10分で「松代象山地下壕」に到着。
入場無料。
受付で名前を記入して壕の中に入る。
この地下壕は、大戦末期に大本営や政府機関などをここに移すという構想の下で掘られた地下壕。
本土決戦の最後の拠点でもある。
終戦までにほぼ75%が完成していたという。

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時刻は3時。
見学者は拙者一人しかいないのかと思ったら・・・・
壕の薄暗い奥からぞろぞろとと団体客が現れた!
一瞬、ドキッとしたが・・・・(笑)
彼等はちょうど帰るようですれ違う・・・・
で・・・その後は・・・拙者一人・・・・
薄暗くひんやりとした壕の中に拙者の靴音だけが響く・・・・
う~・・・・肝試しだぁ~(笑)

10分ほど歩いて見学コースの最終地点に到達。
壕内には縦横に壕が掘られているが、見学コースはL字型の1本道に制限されている。
そうじゃないと迷子が出たら大変だもんね~
で・・・その突き当りのフェンスに何故か千羽鶴や色紙が飾られていた。
しかし、このフェンスに注意書きが・・・

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注意書きは管理事務所が掲示したもので、「地下壕内に折鶴等を捧げることはご遠慮ください」と書いてある。
にもかかわらず・・・・何であるんだ?
見てみると全て学校名が書いてある。
修学旅行か何かで来てここに置いていったのだろう。
壕を出て、受付の方にこれはどういうことなのかと尋ねてみたら・・・・
「受付では持ち込む姿を確認できないんです。カバンの中に入れて持ち込んでいるらしいので私たちは注意のしようがないんです」と言い訳に懸命。
別にあなたを責めているわけではないのだが・・・・(笑)
慰霊というのは決して悪いことではない。
この壕を掘る工事中に亡くなった方々に対する慰霊というのは決して悪いことではない。
しかし・・・「やるな」ということを無視して強引にやるということはいかがなものか・・・
まずは「ルールを守る」というのが大事なのではないか?
学校の教師は何を教えているのだろうか?
これは個人でやっている行為ではない。
明らかに学校単位、クラス単位でやっている。
当然、学校側にも責任があるだろう?
「やるな」ということはやるべきではない。
生徒たちは慰霊をするという前にこのルールを守ること、他人に迷惑をかけないことを先に学ぶべきであり、教師はそれを学ばせねばなるまい。
慰霊をするんだから構わないじゃないか・・・・
目的のためには手段を選ばず・・・でいいわけがない。
壕の一番奥に無断で注意書きを無視して折鶴を置いていくことは、果たして慰霊と言えるのか?
受付に尋ねたところ、この折鶴類は定期的に管理事務所が撤去、処分しているという。
それじゃ何にもならんよね?
折角、みんなで折った折鶴も捨てられたんじゃ慰霊になるまい?
本来ならば、キチンと受付の方なりに話しをして、しかるべき飾る場所を用意してもらうよう交渉するとか・・・・そういうことをして折鶴を預けていくということが生徒たちの勉強にもなるんじゃないのかね?
コッソリと置いていってしまおうなんて決して誉められる行為ではない。

拙者は線香を持ってフィリピンに慰霊に行くが・・・・
必ずしもお線香に火をつけるとは限らない。
慰霊碑の地元の管理人や、地主、または地元の人たちに許可をもらってからお線香をあげることにしている。
我々日本人はお線香の煙や香りには別に抵抗を感じないが・・・・
果たしてフィリピン人はどうなのかはわからない。
だから、必ず先方に確認と許可をもらうことにしている。
そういう相手が見つからなかった場合はお線香をあげずに一礼だけしてその場を去ることにしている。
ある日、突然見知らぬ日本人が自分たちの土地にやって来て・・・・
なにかわからぬ物に火をつけて・・・・
変な臭いを振り撒いてサッサと帰っていった・・・・
これじゃ“ひんしゅくもの”であろう?
本来の慰霊の意義も半減どころじゃない。
いい迷惑・・・である。
だから、極力気を使うのである。
慰霊だからなおさら気を使わねばならんのである。
どうしてそういうことがわからんのかねぇ~

というわけで・・・・
物議をかもし出すことを承知の上で、拙者が知りえた、この注意書きを無視する行為をした学校名をここに記載することにする!(怒)

大阪府羽曳野市立高鷲中学校3年B組
奈良大成中学校
長野県松本市立旭町中学校2年2組
枚方市立第四中学校3年4組
滋賀県栗東市立葉山中学校3年2組
大阪市立貝塚養護学校
西宮市立西宮浜中学校3年
大阪市立旭東中学校
諏訪市立諏訪中学校

このほかにもまだまだあったが・・・・
学校名が判読できないのでここには掲載していない。
一部の学校だけを責めるような形になってしまい申し訳ないが・・・・
平和教育の一環としての慰霊も結構ではあるが・・・・
慰霊のやり方を考え直していただきたいものである。

壕を出た隣に“怪しげ”な資料館が・・・・
なんとも、ある種の独特の嫌な雰囲気を感じたのであるが・・・・
ちょっと覗いてみた。
入館料200円なり。

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受付の方に尋ねたところ・・・・この資料館は私立とのこと。
松代の壕を掘る作業者のためなのか軍人のためなのか、この近くに慰安所があったらしい。
いわゆる「従軍慰安婦」の慰安所である。
その慰安所を復元する目的で作った資料館らしいが・・・・
慰安婦や慰安所の話だけでは・・・ちょっと・・・ということで松代地下壕についての資料も展示しているという。
で・・・その組織だが・・・・代表者は千葉県の人らしいのだが、代表者名が明示されていない。
組織の構成員も東京の人たちだという。
で・・・地元の人は?と問うてみたら・・・
「地元の人でこの会に入っている人は・・・いないんじゃないでしょうか~」との回答。
ふ~ん・・・・やっぱりねぇ~
そういうことかぁ~
代表者名を隠すようでは・・・・“怪しい”わなぁ~(笑)
拙者の勘もまんざらではない。(笑)

この松代象山地下壕の更に奥の山に「松代地下大本営跡」があるので、ここから更に山のほうへ20分ばかりかけて歩いて見に行く。

途中、「乾徳寺」に立ち寄る。
ここに八橋流筝曲の再興の祖の人の墓と石碑があるそうだ。
八橋流って、あの八橋検校のことか?
以前、“シミズ君”と福島県いわき市をドライブした時に生誕の碑を見たぞ~
へぇ~ここに再興の碑があるとはねぇ~
なんという偶然!
しかし・・・ちょっと足を踏み入れづらい雰囲気の寺なので、墓所の探索はやめて先を急ぐことにする。

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「松代地下大本営跡」は、現在では「気象庁地震観測室」として使用されている。
途中、何の標識も案内板もないので、ちょっと心細かったが・・・・(笑)
ようやく到着!
内部は当然、見学不可能である。

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時刻は4時を過ぎた・・・・・
日が沈む前に町に戻らねば・・・・
途中、お寺をいくつか回りながら松代の町へ戻る。
テクテク・・・テクテク・・・夕暮れ時の山道を一人歩くのは寂しいものである。(笑)

旅行 | 07:00:52 | Comments(0)
松代藩主真田家墓所
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松代藩主真田家墓所
国指定文化財
昭和62年12月25日指定

松代藩主真田家は元和8年(1622)、上田から松代に移封され、菩提寺長国寺も移された。
松代初代藩主信之(のぶゆき)始め歴代の霊屋(たまや)が長国寺伽藍の裏(東)に建てられ、その東南の一郭に歴代の墓地が設けられた。
霊屋はもと5棟あったが、現在は信之霊屋(重要文化財)と4代信弘霊屋(県宝)の2棟が残るだけである。
3代幸道霊屋は本堂裏に移建、開山堂(県宝)になっている。
墓地は白土塀に囲まれ、歴代10代の藩主やその子女の墓碑がある。
墓碑は宝篋印塔(ほうきょういんとう)が21、地蔵型塔2基等で、ほかに12基の献灯がある。
信之の墓にだけ、石の鳥居がある。
ほかに真田家中興の祖で信之の祖父にあたる幸隆、伯父信綱、父昌幸、弟幸村、その子大助らの供養塔や碑がある。
信之の母、妻、歴代藩主夫人などの墓は別の寺にある。
霊屋と墓所が一体として残っていて、江戸時代の大名家墓所を知る上で貴重であるのでこの墓所をはじめとして、境内一帯が国の史跡に指定された。

平成12年3月1日
長野市教育委員会
長国寺

(説明板より)

松代藩主真田家墓所


史跡 | 06:49:14 | Comments(3)
二十番碁対局の地
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関山仙太夫・本因坊秀策
二十番碁対局の地
寛永4年6月

松代藩士で囲碁の名手関山仙太夫が晩年の1851年江戸の若手最強の本因坊秀策をこの旅籠梅田屋に招き20日間連続で対局し7勝13敗と善戦して名声は全国に響き渡った

(碑文より)


関山仙太夫

関山仙太夫(せきやませんだゆう)は江戸時代後期(1784~1859)の松代藩士であり、囲碁の腕前が江戸時代アマチュアとしては日本最強と言われています。
7歳から囲碁を始め、14歳の頃松代から江戸へ行きプロの本因坊家に入門、18歳で初段を取得します。
その後希望した5段の免許が与えられず、生涯初段で通しましたが、当時の番付を見ると6段と4段の間にランクされているものもあり、実力5段がなかば公然と認められていたことがわかります。
嘉永4年(1851)、68歳の時に若手最強の本因坊秀策を招き、松代城下の旅籠梅田屋で20日間連続して対局しています。
平成16年に関山仙太夫顕彰会が発足し、毎月記念碁会と子ども囲碁教室が、毎年命日の9月6日には追善囲碁大会が開催されています。

(説明板より)

二十番碁対局の地


史跡 | 06:30:13 | Comments(0)
松代で見かけた家
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長野県長野市松代町中町



建物 | 06:10:28 | Comments(0)
上信越自動車道黎明の碑
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開通記念
上信越自動車道 黎明の碑

碑文
平成5年3月25日世紀の大業は成り 上信越自動車道は 当町管内8.2キロメートルを経由し 市民歓喜の中に開通を見た
待望まさに北信の黎明である
茲に 爾来20年 対策委員会 地権者組合が不離一体となり 日本道路公団 長野県 長野市 更には工事請負企業体と鋭意対処対応した主たる業績を記し後世にとどめたい
当時住民の異常なる不安と期待が交錯する世論を踏まえ 両組織が県 市当局の高速道受入れ要請に対し 未知なる大事業を容認した基本理念として「環境を破壊し莫大なる農地を必要とする道路を造るなら 先ず道理に叶う事」を先決とし 即ち「環境の保全と地権者擁護」を軸とする条件整備であった
就中 神田川ショートカットを始めとした水害排除 社会的機能の復元 公害対策等約百項目を設定し合意と相成ったのである
尚且つ相対的に最も重要な責務は用地交渉にあった
全地権者の同意はもとより 三権委任 地権の確認 格差協議 用地並びに物権補償交渉昼夜を徹し全地権者擁護に努め 当局の誠意と互譲協調の精神とが相俟って合意に至ったのである
今日 当町の環境は著しく変化し近代社会に比肩でき得る迄に街づくりの基盤は整った
交渉委員苦節20年の成果は 21世紀に向かって洋洋たる事を念じ記念碑建立の意義とする

平成5年5月吉日
建立委員会撰文

上信越自動車道黎明の碑


史跡 | 06:00:02 | Comments(0)
松代の旅(1)
川中島から千曲川沿いをテクテク歩く・・・・・
川に架かる松代大橋の下をくぐり見上げたら・・・・あれ?

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看板に「日本海まで225km」と書いてある。
ん?
日本海?
川は何でも太平洋に向かって流れているもんだと思っていたが・・・・日本海?
さて・・・拙者はどっちに向かって歩いているんだ?(笑)
あれれ・・・わからなくなってしまったぞ~

40分ほど歩いてようやく松代の町の中に入る。
先ず最初に向かったのは・・・・長国寺・・・
どうもここに松代藩主の墓所があるらしいので寄ってみる。

DSC00641_convert_20081114130904.jpg(長国寺)

墓所内の見学は有料。
お金を払ったら係りの方が案内してくれる。
で・・・「写真を撮ってもいいですか?」と尋ねたところOKだという。
で・・・「HPやブログに載せてもいいですかね?」とまた尋ねたら・・・・
今度は、わからないという。
そういうことを尋ねる見学者はいないと言う。(笑)
でもねぇ~一応許可はもらわないといけないでしょ?
だいたい多くの人は無許可でHPやブログに写真を載せているんだよな。
それは本当はマズイと拙者は思うんだけどねぇ~
「教育委員会に聞いてくれ」と言う。
墓所の見学を終えたら・・・墓所の隅で丁度教育委員会が発掘調査をしていた!
グッドタイミング!(笑)
早速、教育委員会の職員に声をかけ尋ねてみたら・・・・
今度は「お寺さんが管理者だからお寺さんに聞いてください」とのこと。
え~お寺の案内人に聞いたら教育委員会に聞いてくれと言われたんだけど・・・・
2人して笑う。
発掘調査の内容の話を伺ったり雑談を少々させてもらったが・・・発掘の邪魔をしちゃったかな?(笑)
名刺を渡して暇があったら拙者のHPを見てくれるように頼む。(笑)
ついついHPの“営業活動”をしてしまう自分に笑う。(笑)
今度は本堂に戻って、若いお坊さんに尋ねたら・・・・明快な回答!
やっぱり若い人に聞かねば・・・HPやらブログって言っても話が通じないよなぁ。(笑)
趣味で載せるのには問題なし、その他の場合はお寺に許可を申請してくれとのこと。
そうでしょ、そうでしょ・・・・一件落着!(笑)

DSC00662_convert_20081114133005.jpg(松代藩主墓所)

境内に隣接する墓所には「恩田木工民親の墓」があった。
市指定史跡とされているが・・・説明板は建っていない。
これじゃ、この人が誰なのかわからんじゃないか?
さっきの教育委員会の職員に言おうかと思ったが・・・・(笑)
それじゃまた発掘のお邪魔をすることになるのでやめる。(笑)
そこまでやったら・・・・しつこいよな?(笑)

次に向かったのは蓮乗寺。
ここには佐久間象山のお墓がある。

DSC00671_convert_20081114140026.jpg(蓮乗寺)

このお寺の裏の墓所に和田英(わだ・えい)という人の墓があった。
旧姓は横田・・・・・で・・・・誰?(笑)
「富岡日記」の著者だという。
う~ん・・・・わからん。
伝習工女として富岡製糸工場で技術を学び、故郷に戻って技術指導をしたという。
富岡製糸工場で修業中のことを書いたのがどうやら「富岡日記」らしい。
読んだことがないからわからないが・・・・有名な日記なんだろうなぁ~
自分の知識のなさが情けない。
機会があったらこの本を探して読んでみるか・・・・これも何かの縁だろう。

時刻は午後1時45分・・・・
さすがに腹が減ったが・・・・
飯を食べている余裕などない!(笑)
もっともっと見て歩かねば!

次に向かうは・・・・「象山記念館」
佐久間象山の記念館である。

DSC00687_convert_20081114142230.jpg(象山記念館)

外観を見ると・・・あら・・・なんと無機質な・・・(笑)
館内の資料を見ること約15分。
あっという間に見学終了!(笑)

で・・・すぐ目の前にある「象山神社」へ・・・・・
佐久間象山が祀られている神社なのだが・・・
ここの説明板では佐久間象山のことを「さくま・ぞうざん」と仮名をふっている。
ん?
拙者は「さくま・しょうざん」だと思っていたんだけどなぁ~
「さくま・ぞうざん」が正しいのか???

ちょうど観光バスが到着し、ゾロゾロと観光客が降りて来た!
マズイ!
ここは観光コースか!
この人たちに境内をウロウロされる前に写真撮影を済まさねば!(笑)
神社へのお参りもそこそこに写真撮影に走り回る!(笑)

時刻は午後2時45分・・・・
さて・・・ここからどこへ行こうか・・・・
松代駅のほうへ向かって松代城を見に行くか・・・・
それとも松代象山地下壕を見に行くか・・・・
方向は全く正反対。
散々迷って・・・・駅から遠いところから攻めることにして・・・・(笑)
松代象山地下壕へ向かうことにする。

日記 | 05:55:41 | Comments(0)
真田信之の墓
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真田信之の墓
長野市指定文化財
昭和42年11月1日指定

墓碑は高さ3.3メートルの宝篋院塔(ほうきょういんとう)で、塔身の正面に『大鋒寺殿徹厳一当大居士』、その下の基礎石正面に三行書きで、中央に『骨頭片々即法身』、右に『万治元戌年』、左に『十月十七日鳥』と陰刻されている。
真田信之は、昌幸の長男として永禄9年(1566)に生まれ、弟に信繁(幸村)がある。
元和8年(1622)10月、小県郡上田城から移って、埴科・更級・水内・高井の4郡10万石を領知し、民政に力を用い名君とうたわれ、松代藩の基礎を固めた藩主である。
松代藩主として35年、明暦2年(1656)10月、子の信政に家督を譲って近臣とともに柴村の館(大鋒寺の地)に隠居し、2年後の万治元年(1658)10月17日、93歳で死去した。
館の地で荼毘(だび)に付し、その灰塚の地に墓碑が建てられた。
信之の館をそのまま寺としたとも、館の材を用いて改築したものともいわれるが、信之の法号に依り大鋒寺とした。

平成8年3月31日
長野市教育委員会

(説明板より)

真田信之の墓



史跡 | 05:02:12 | Comments(0)
大鋒寺真田信之霊屋
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大鋒寺真田信之霊屋(だいほうじさなだのぶゆきたまや)
長野市指定文化財
平成7年1月20日指定

松代初代藩主真田信之の隠居所書院跡に建てられた霊屋。
信之は明暦2年(1656)隠居し、翌3年7月、新造の隠居所に移った。
同4年(万治元年)93歳の天寿を全うして没し、遺命により、隠居所を寺とし、真田林(しんでんりん)大鋒寺と号した。
大鋒は信之の院号である。
二代信政は父より先に没したので、三代幸道の時、伽藍が建てられた。
霊屋は書院の場所に建てられ、信之の信仰していた阿弥陀三尊を本尊とした。
正面三間、奥行五間、奥行の柱間は狭く、4、5尺である。
宝形造・カヤ葺きである。
外陣の欄間には三十六歌仙画が飾られているが、残っているのは24枚である。
内外陣の柱2本が円柱で、その上に木鼻付の出組があり、ここだけが仏寺用の木組になっている。
内陣奥中央に阿弥陀三尊、向かって左に信之像(厨子入)、右に二代信政の画像を安置してあったが、明治4年、松代花の丸御殿にあった八代幸貫の像を移し、内陣奥に出張りを新造して三尊を安置し、幸貫像を左、信之厨子を中央に、信政画像を右に安置した。
この霊屋は由緒がはっきりしており、近世初期の建築で、文化的価値の高い建築物である。

平成8年3月31日
長野市教育委員会

(説明板より)

大鋒寺真田信之霊屋




史跡 | 04:34:43 | Comments(0)
信州柴阿弥陀堂跡
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信州柴阿弥陀堂
見真大師御旧蹟
甲越川中島戦役史跡

信州柴阿弥陀堂は、親鸞聖人(見真大師)真筆の「十字名号」を本尊として、文明年間(1469年~1486年)に吉池彦四郎重行(法名 行西)によってこの地に開基された。
1561年(永禄4年)の第四次川中島戦役後、武田信玄は武運長久を祈願していた当堂に陣小屋を寄進・改築し、冑中の守護仏「善光寺如来御分身仏」を奉安して両軍の戦死者の霊を祀った。
それを聞いた上杉謙信は家臣を遣わして礼拝した。
当堂は歴代藩主に崇拝庇護され、1779年(安永8年)には松代藩の援助により改築された。
全国各地から多くの人々が参詣に訪れ、地域の人々からは「お柴様」と親しまれていた。
その後、昭和初期の千曲川築堤により移転を余儀なくされ、現在はこれより東方約300メートル、国道403号線沿いに移築されている。

山本勘助(道鬼)墓

山本勘助は、三河国(愛知県)の出身、26歳より諸国を巡り修業し、天文・兵法・槍術・築城術等武芸百般を体得、44歳にして武田信玄の軍師となり数々の策略を立て、上杉謙信の攻撃に備えて築いた海津城(松代城)の構築も手がけた。
1561年(永禄4年)9月10日の激戦において、信玄に勧めた「きつつきの戦法」を謙信に見破られ、武田軍は一時苦戦に陥り、勘助は責任を感じ奮戦の後討死した。
勘助の墓は初め、この南、陣ヶ瀬の東、勘助塚にあったが、千曲川の流れにより荒廃していく姿を憂い、1739年(元文4年)松代藩家老鎌原重栄・原正盛が、信玄ゆかりの信州柴阿弥陀堂境内に遺骨とともに移し、墓碑を建立した。
1809年(文化6年)には孫の鎌原重賢が、末永く墓を守るために更に石積みし、今の姿となっている。

「川中島の戦い」ゆかりの地整備保存会
信州柴阿弥陀堂
長野市観光課

(説明板より)

信州柴阿弥陀堂跡


史跡 | 03:24:02 | Comments(0)
首塚
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首塚

この塚は以前は屍塚(しかばねつか)と呼ばれ、1561(永禄4)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正(こうさかだんじょう)が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、その恩に報いたといわれている。
このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。
ここから東南へ約180mのところにも同じく大きな首塚がある。
昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。

長野市

(説明板より)

首塚


史跡 | 02:06:43 | Comments(0)
川中島の旅
午前6時に目が覚め、もったいないから、もう一度寝たら寝坊!(笑)
結局、ホテルをチェックアウトしたのは9時半。
今日は川中島、松代へ行く予定。
当初はバスで川中島へ向かう予定だったが・・・・
バスを待っている時間がもったいないのでタクシーで「八幡原史跡公園」に向かう。
タクシー代は2,800円ほどかかった。
ありゃぁ~バス賃の7倍くらいかかっちまったぁ~(笑)
ここは川中島古戦場跡。
ここに武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの銅像がある。

DSC00561_convert_20081113001308.jpg(史跡公園)

更にこの公園内に佐久間象山の大きな銅像が建っている。
これを撮影して、公園内にある市立博物館に向かったが・・・・
あら・・・・
今日は月曜日で休館!
しまったぁ!
月曜日だということをすっかり忘れていた!

DSC00585_convert_20081113002228.jpg(市立博物館)

公園内の茶店でコーヒーを飲んで一服。
地図を広げながら・・・・さて・・・ここからどうやって松代へ行こうか。
地図を見たら川の向こうに山本勘助の墓がある。
山本勘助・・・・誰だかよく知らないけど・・・・NHKの大河ドラマかなんかで取り上げられていたような・・・(笑)
拙者はNHKの大河ドラマは好きじゃないので見ないからよく知らないのだが・・・・(笑)
とにかく行くだけ行ってみるかぁ~

テクテクと川沿いを歩く。
お墓は丁度川の向こう側なのだが渡るすべがない。
しばらく歩いて上流の橋を渡って戻るしかない。
目と鼻の先なのに・・・・・

DSC00590_convert_20081113003217.jpg(更埴橋)

橋を渡って川沿いを歩く。
まもなく、山本勘助の墓のある場所に辿り着いた。

DSC00593_convert_20081113003703.jpg(山本勘助の墓)

さて、この土手を降りてお墓に行ってみると・・・・看板が・・・・
お墓を営業目的等で撮影したりインターネット等に掲載する時は許可が必要だという。
う~ん・・・・この営業目的等の「等」の字が気になるなぁ~
拙者のブログは趣味なんだけど・・・・この「等」に当てはまるのだろうか?
看板に書かれてある連絡先に携帯から電話をかけたが・・・・留守番電話・・・・
確認しようと思ったが残念。
とりあえず、撮影はしておいて後から許可をもらおう。
というわけで・・・
墓所の草むらの写真は問題ないと思い、ここに掲載したが、墓石の写真は掲載しない。(笑)

さて、この近くに大鋒寺というお寺があって、そこに真田信之の墓があると地図に書いてあるので行ってみることにする。
ちなみに・・・真田信之って誰なのかは知らない・・・・(笑)
地図では、すぐ近くなのに、細い道が入り組んでいて迷路のよう。
どこを通ればお寺に着くのか・・・・
ウロウロと歩き回り、ようやくお寺の入口に着く。

DSC00612_convert_20081113004959.jpg(大鋒寺入口の路地)

ここに確かに墓があったが・・・・あらら・・・
市の指定史跡なのに恐ろしく荒れ果てていた・・・・唖然・・・・

時刻はちょうどお昼。
史跡公園を出発してから1時間20分が経過していた。
ここから更に川沿いを歩いて松代に向かうことにする。
遠くの山の頂には白いものが・・・・
雪か?
あれが南アルプスか?
正直言って全然わかっていない。(笑)

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日記 | 01:49:50 | Comments(0)