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Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
56歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

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日中戦争いまだ終らず
日中戦争いまだ終らず―マレー「虐殺」の謎日中戦争いまだ終らず―マレー「虐殺」の謎
(1991/07)
中島 みち

商品詳細を見る


本書の副題は「マレー虐殺の謎」である。
ん?
日中戦争とマレー虐殺・・・・何の関係があるんだろう?
それがこの本を買った理由である。

著者は大東亜戦争緒戦のマレー攻略戦に参加した第5師団長・松井太久郎中将の義理の娘にあたる。
つまり、息子さんのお嫁さん。
この方が、マレーで起こったという日本軍の“虐殺事件”を調べて書いているのだが・・・
その緻密な調査には恐れ入った。
いやはや、これはすごい。
つまり・・・この“虐殺事件”だが・・・・
騒いでいるのはマレーシアの中国人(華人)たちなのである。
当然、我々はマレーシアで起こった虐殺事件ならマレー人が被害者なのだろうと思ってしまうのだが、マレー人はこの“虐殺事件”について騒いではいない。
あれ?
ここでおかしい・・・と気がつく。
何で中国人だけがことさらに騒いでいるのか・・・・

この中国人たちの告発に「赤ん坊を投げ上げて銃剣で刺し貫いた」という日本軍の蛮行が挙げられているのだが・・・・
あれ?
この話・・・・どこかで聞いたことがあるような・・・・
中国大陸で日本軍が行ったという蛮行と同じではないか?
よく考えてみれば、おかしな話である。
赤ん坊といえども何キロかの重さがあるのであるが・・・・
それを空高く投げることができるであろうか?
しかもそれを下から銃剣で刺したというが・・・・
どう考えても無理があるのである。(笑)
あの長い三八歩兵銃を腰に構えて落ちてくる何キロもの体重のある赤ん坊を刺すというのは、どんな姿勢をとっても、こっちが怪我をしそうな行為である。
腰を壊すぞ~(笑)

日本軍が果たして虐殺を行ったかどうか・・・・
これは、なんとも言えない。
つまり、「南京大虐殺」と同じなのである。
なぜかというと・・・・
抗日ゲリラに対する「討伐」を「虐殺」といわれてはどうしようもないのである。
「討伐」は正式の正しい戦闘行為であるから、当然、やっている方も罪悪感はないであろう?
当然、虐殺などということは頭にはない。

しかも、悪いことに日本軍の「陣中日誌」の存在がある。
この日誌に書かれている「戦果」を中国人は証拠として挙げているのだが・・・・
この数字・・・・
実際は嘘である。
敵を10人倒していても上には100人と景気よく報告するような内容である。
日本軍の生還者の証言では、実際とは異なる数字が上に報告されているという。
原住民を捕らえても、実際には逃がしているし、逃走を黙認している。
日誌は誰かに読まれることを意識しているので、本当のことを書くわけにはいかない。
そこで、嘘の数字を書く。
これは、私も実際にいくつかの当時の記録を漁っていると、同様の事柄にぶつかるからよくわかるのである。
必ずしも当時書かれているものが全て事実(真実)であるとは限らない。
現在も同様である。
社会保険事務所が保険金の徴収率を上げるためにごまかしをしているではないか。
それと同様である。
数字を上げろ・・・・といわれれば、嘘でも何でも上げる。(笑)
どうせ、誰も確認できないんだから・・・・
しかし、その記録を取り上げられちゃうからマズイ・・・・
嘘でも公式記録である。
じゃぁ、嘘の公式記録を残しても当事者は罰せられないのか・・・ということになる。
常識ならば、ありえない話で、当然罰せられる。
罰せられるから嘘は書かないんでしょ?・・・・となるはずなのだが・・・・
実際には嘘を書いても罰せられない。
それは、現在の社会保険事務所でも同様である。(笑)

それよりも戦後の中国人(華人)によるマレー人の虐殺のほうがすごい。
この中国人とマレー人の殺し合いには、進駐してきたイギリス軍も手を焼いている。
で・・・・イギリス軍も当然「討伐」をするわけで・・・・
戦後のこの一連の出来事はイギリスの公式記録として残っている。
その殺害された人たちを、捕虜となっている日本軍兵士が埋葬業務をやらされてもいる。
で・・・・
戦後何十年も経ってから、工事現場や古井戸から人骨が出てくると、「これは日本軍が虐殺した遺体である」と中国人が騒ぐわけである。
これにまた日本人が乗っかって自虐的に騒ぎ立てるのであるから、お話にならない。

発見された人骨は全て日本軍の虐殺事件の被害者であると決め付けるのはおかしい。
確かにスパイとして日本軍に処刑された現地人もいたわけで・・・
それを「虐殺」というかどうかは別としても、日本軍に殺された現地人はいたことは確かである。
戦争なんだから・・・
しかし自分たちが戦後行った殺し合いを棚に上げての一方的な非難はいかがなものであろうか?
戦争中より、戦争が終った戦後の殺し合いのほうが問題ではないか?

それで・・・・この『日中戦争いまだ終らず』という題名を付けたんだな・・・・と気がついた。
なるほどね~
著者自身が師団長の家族の一員ということもあって、極力公平さを欠かぬように慎重に書かれている。
一つ間違えると身内を庇っているという自己弁護的な内容になり非難を受けるからである。
その慎重さ、公平さをもってしても・・・・彼ら中国人の騒ぎ方はおかしい・・・・・
これは「南京大虐殺」の論議を考える上でも参考になる、なかなかの本である。

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読書 | 16:18:24 | Comments(0)
またもや延期!
福岡の旅行会社から電話が来た。
で・・・・用件は・・・・
まさかと思ったら、勘が当たった!

福岡の遺族会の代表である“ウエムラさん”が昨日入院されたと言う。
エエッ!
本人は行く気でいるらしいのだが、医者の話では手術を必要としているので無理とのこと。
病状を聞いたのだが・・・・確かにそれでは無理だわぁ~
ガダルカナルの遺骨収集と巡拝は来月の17日出発。
若い人間でも手術をして退院後すぐ海外旅行にいくというは無理である。
ましてやガダルカナル島ですよ。
手術入院では仕方がない・・・・・
「それでは、今回は中止ですね?」
「来年の2月上旬を目標に延期することにしてくれとのことです」と旅行者の担当者は言う。
「え?中止じゃなくて?」
「はい、中止じゃなくて、あくまでも延期ということだそうです。」

うわぁ~またもや延期かぁ~
11月に延期になったので、以前から11月にフィリピンへ行こうと思っていたのだが、それを諦め、来年の2月に行こうかと思っていたのに・・・
よりによって来年の2月に延期ですかぁ~
こんなことならフィリピン行きを計画しておけばよかった・・・・
参ったなぁ~
どこまでツイていないんだろ・・・・・

しかも、先日の長野での合同セミナーで、拙者はガダルカナル島に行くので、長崎の全国大会には行けないってみんなに話しちゃったんだよねぇ~(笑)
延期ということになると・・・・
長崎の全国大会に行けちゃうじゃない?(笑)
あ~あ~また事務局と打ち合わせをするかぁ~

日記 | 23:46:10 | Comments(0)
夢の途中でピンポ~ン!
夢を見た・・・・・
どういうわけか知らないが・・・・
民主党党首の小沢一郎さんを後ろに乗せて車を運転している・・・・(笑)
拙者は民主党支持者じゃないんだけど・・・・
なぜか運転手を勤めているのだ。
で・・・・助手席には死んだはずの母が・・・・・
あれ?
しかも助手席は右側・・・・
ということは、左ハンドルの車を運転しているのか?
拙者は左ハンドルの車なんて運転したことないのに?(笑)
夢の中だと信じられないことをするもんだ。

で・・・・
小沢さんの言う事には福島県で講演会に出るのだという。
でも・・・拙者の運転している車は茨城県の水戸に向かっているのである。
全く逆方向。
いいのかね~こっちのほうに向かって・・・・・
小沢さんは「時間がまだあるから大丈夫。少しどこかで時間を潰そう」と言う。
まもなく水戸市内に入るという時に、3台の黒塗りの高級車の列とすれ違った。
あれ?
「あれは菅さんと鳩山さんの車じゃないですか?いいんですか?すれ違っちゃいましたけど・・・」
「いや、いいんだよ」と小沢さん。
「いや、マズイでしょ。逆方向ですよ」
「いや、いいの、いいの。どこかで時間を潰そうよ」と小沢さん。
「じゃぁ、ケーキでも食べに行きませんか?」と拙者。
「いいねぇ~それ、ケーキを食べに行こう!」と小沢さん。
すると・・・・
「あんた何言っているの?ケーキだなんて・・・・」と母に怒られた。
「いいじゃねぇかよ~小沢さんがいいって言うんだからサァ~」
「あのね・・・何を馬鹿なことを言っているの!」とまた怒られた。(笑)
「ケーキを食べに行くんですよね?いいんですよね?」
「おおぉ!ケーキを食べに行くよ!」
「でも・・・菅さんたちと一緒じゃなくていいんですか?」
「いいんだよ」
「マスコミにまた何か書かれちゃうんじゃないんですか?」
「一緒に行動しても別行動しても、どっちみちいろいろと書かれちゃうんだから・・・・いいよ、別行動しよう」
「そうですよねぇ~」と拙者が応えて・・・・・母が何かを言おうとした途端・・・

「ピンポ~ン!宅急便で~す!」
ハッ・・・として・・・・夢から覚めちゃった!(笑)
あ~・・・・・宅配業者に起こされてしまったぁ!
昨日、長野のホテルから送った荷物が届いたのだ!(笑)

どうしてこういうタイミングに届いちゃったかなぁ~
届くのが早いんだよなぁ~(笑)
久しぶりにハッキリした夢を見たのになぁ~
途中で起こされるとは・・・・・
ちくしょう!
続きはどうなったんだ?
あ~もったいねぇ~
それにしても・・・・どうして小沢さんが夢に出てきちゃったんだろ?
で・・・また、何で死んだはずの母が出てきちゃったんだろ?(笑)

日記 | 21:01:00 | Comments(0)
第12回危機管理総合講座
今日はこの講座の前期の最終回。
講師は棚橋泰氏。
運輸行政に携わっていた方で、退官後は日本鉄道建設公団総裁や日本貨物鉄道(株)の社長などを歴任されている。
というわけで・・・・
今回のテーマは『運輸交通機関の危機管理』

今回は配布資料がいつもより多い。
まずは危機管理とは何か・・・・危機とは何か・・・から話が始まり・・・・
これに運輸交通に危機対応の実例の配布資料を併せて具体例に触れていく。
米国同時多発テロ・・・例の“9.11”である。
分刻みの対応状況が書かれているこの資料には驚いた。
さすがはアメリカ・・・と言いたくなる対応である。
続いて・・・・
過激派によるケーブル切断に伴うレーダーアウト・・・・
これは昭和53年の成田空港開港の時の過激派のテロである。
この事件の対応と、この時の反省に基づいて改善された現状についてのお話。
第3は・・・・
日本航空空中衝突直前回避事件・・・・
これは平成13年1月31日の事例。
羽田発那覇行きのJALとソウル発成田行きのJALが静岡県上空で、あやうく空中衝突しそうになった事例。
第4が・・・・
平成7年に発生した地下鉄サリン事件。
この資料を見て改めて愕然とした。
拙者はサリン事件というのは地下鉄の1箇所で起きた事件だとばかり思い込んでいた。
今ごろになって気がつくというのではお粗末なのだが・・・
発生場所は地下鉄3路線、18駅で発生していたのである。
5つ目が・・・
阪神大震災における西日本旅客鉄道(株)の事例。
氏はこの時に貨物鉄道の社長としてこの災害を実際に経験している。
資料を見て、またまた驚いた。
鉄道の損害は甚大で、ボロボロである。
よくこれを2ヶ月で復旧させたものだと感心する。
どう見てもお手上げ状態なのに・・・・

さて・・・それでは現在はどうなっているか・・・・
これについては内閣官房・国土交通省・日本航空・全日本運輸・西日本旅客鉄道の危機管理システムの配布資料に詳細に記述されている。
それによれば、交通分野における備えはかなり出来ていると言っていいようなのだが・・・・
現実の危機対応は必ずしも十分には行われていないと言う。
たしかに・・・・各機関・各社の「システム」という名前だけは立派だが・・・(笑)
この資料通りに物事が推移するとは限らないもんなぁ~

①危機は予想外の形でやってくる。
②過去と同じパターンではやってこない。
③忘れた頃にやってくる
④対応するのは人間・・・・つまりその人間の巧拙が事態を分けることになる。

結局は危機に対する人間の“資質”の問題になるだろうなぁ~
果たしてベテラン従業員をリストラしていいものやら?
経験豊富な高齢者を冷遇していいものやら?(笑)

最後に戦時中と現在の鉄道の比較。
戦時中、爆撃や銃撃の中、国内の鉄道は細々とではあったが、それでも運行していた。
突然降りかかってくる攻撃を一方的に受けながらも、とにかく列車を走らせていた。
この苦労は並大抵のものではなかっただろう。
この対応は現在では皆無である。
今では、ちょっとしたことでもすぐに列車が止まる。
ピタッ・・・・と止まって・・・動かない!
安全第一も結構ではあるが・・・・
雨が降った、雪が降った・・・で、ピタリと止まっちゃうんだからねぇ~(笑)
果たしてこれでいいのか悪いのか・・・・

さて、講義も終わり・・・・
引き続いて前期の修了証書の授与式。
この講義は修了証書をくれるのだそうだ。
で・・・その後、受講生全員で記念写真の撮影・・・・・
ゲゲッ・・・・・終電に間に合うか?
ホテルを予約しておけばよかったかなと一瞬後悔。
記念写真はお断りして抜け出そうかとも思ったが・・・・
何とかなるだろう・・・・と思い、写真撮影にも参加して、終わると同時にいつものように会場を飛び出して上野駅に向かう。
運よく終電に間に合い、無事に帰宅する。

日記 | 16:37:57 | Comments(0)
止まれ!
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路上に示されている「止まれ」の表示・・・・
わかりやすい!


看板・標識・標語など | 15:02:02 | Comments(0)
上田で見かけた建物
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(小県上田教育会)


建物 | 14:56:47 | Comments(0)
芳泉寺
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浄土宗 総本山知恩院直末 松翁山 圓覚院
芳泉院 (上田市常磐城)

上田城を西へ徒歩5分、千曲川の旧跡「古舟の渡」を越え、北に向かう善光寺道の故地常福寺坂の上、往古、当山は左岸の三楽寺(安楽常楽長楽)と右岸の三福寺(大福常福信福)の一山常福寺として「ふくらくおうげん福楽往還」の徴憑。
慶長5年(1600年)、上田藩祖真田信之公(上田城主昌幸嫡男、幸村の兄)は、その常福寺(現芳泉寺)に下之条村の全称庵主含霊を迎えて菩提寺と定めた。
そして九度山に蟄居する父と弟のもとへ「年々信州の四季の物」等が届いたのは公の正室小松姫(本多忠勝娘、家康の養女)の心ばえであったという。
昭和平成の今日、北は秋田から南は鹿児島に及ぶ「真田六文会」の続柄不断の基礎者として、お姫様の中核的存在感は重い。
元和6年(1620年)2月24日、公は姫(大蓮院殿)の死にあって「ああ、わが家のともしび消えたり」と嘆き、当山と姫の密葬の大導師不残上人御往持の勝願寺(埼玉県鴻巣市)と真田氏ゆかりの正覚寺(群馬県沼田市)の三ヶ寺に宝筺(きょう)印塔を建立して分骨、更に当山にはお霊屋(たまや)をも造立。
そのお霊屋は信之公と倶に松代の皓月山大英寺へ。
当山本堂南の弁天池は名残の史跡。
元和8年(1622年)上田城主信之公(大鋒院殿)は長野市松代へ移封。
11月小諸城主仙石忠政公(法光院殿)が入部。
霊地常福寺を修営。
翌春正月小諸市の松井山歓喜院宝仙寺(しょうせいざんかんぎいんほうせんじ)から、父円覚院殿秀久公の遺骸を、小松姫墓北隣へ改葬。
円覚院芳泉寺と尊称、香華院(こうげいん)と定めた。
秀吉の小田原征伐の武勲者仙石氏中興秀久公は伏見城中で大泥棒石川五衛門を生け捕るなど愛称権兵衛さんで通る剛の者、秀吉は名品「千鳥之香炉」を褒美とした。
仙石氏後裔は「率土(そつと)の物品(ものしな)に非ず」と明治天皇に献上、御物(ぎょぶつ)となる。
勝願寺には雄偉な宝筺印塔がある。
山号の松翁山は忠政の子、城主政俊(晩年は直政を称す)公の法号松翁院殿(でん)の美諡に因る。
公は年少にして父忠政公を喪い、その御生涯はまさに篤信者にして精進、俗に塩田四十七池、六ヶ村堰(せき)、桝網(ますあみ)用水、網掛用水など水利土木、更には真田紐等じつに「殖産振興の藩主」の誉れが高い。
上田藩草創期の開発者仙石氏の霊廟と藩主松平氏五三桐紋付「御城主代々神儀」の古霊碑を祀る。

境内の化儀(けぎ)と四季星降る松の美しい、それは夏空に爽やかな木槿(むくげ)の花が、
               月明かりに、涼風に涼風に波打つ白萩の、そして雪明り花明かりにも
                      小松姫や武人の、趣きも深い城主の菩提寺

維時 平成8年陽春 吉祥日

(説明板より)

芳泉寺


史跡 | 14:46:46 | Comments(0)
上田の旅(2)
お城から10分ほど歩いて芳泉寺に到着。
観光マップの資料によれば、ここには「小松姫の墓」があるというので来てみた。
小松姫とは・・・・
上田城主の真田信之の正妻で、本多忠勝の娘、徳川家康の養女であるという。
あらら・・・・
お父様の本多忠勝の銅像の写真を撮らせていただきましたぞ。
ここで娘さんのお墓に出会うとは奇縁ですなぁ~
ここには上田城主仙石氏の墓所もある。
両方のお墓をお参りして境内を散策。

DSC01151_convert_20081202113032.jpg

「弁天池」という干上がった池の前に説明板が・・・・
それによると、この場所にあった小松姫の霊屋(たまや)は松代の大英寺に移転されているとある。
あらら・・・松代に霊屋があったの?
だめだねぇ~行き当たりバッタリに近い旅をしていると・・・・どうも見逃してしまう。(笑)

観光マップによると、ここから更に北の方に「向源寺」という寺があると書いてある。
この寺は“観光スポット”となっていたので、行ってみたのだが・・・・
見つからない!
狭い路地をウロウロしたが、どうしても見つからない!
観光マップはイラストマップなのである。
イラストマップはおおよその場所しか示していないから、どうにもこうにも行き着かない。
しかも、“観光スポット”と書いておきながら現地にはそれを示すような案内板が建っていない!
散々ウロウロするという“不審な行動”をした挙句、ようやくそれらしい場所を見つけたが・・・・
入口がわからない!
なんだよ・・・・これ・・・・
どう見ても、一般住宅の庭先から入らねばならない感じなのである。
周囲をぐるりと廻ってみたが、やっぱりこの家の庭先を通らねばならぬらしい・・・・
さすがにその勇気が湧かず断念する。

時刻は3時・・・・
さて・・・今日は何時の新幹線で帰るんだっけ?
今晩は東京で例の危機管理のセミナーに出なければならないので、既に上田から東京への新幹線の切符は購入済み。
え~と・・・4時過ぎだったはず・・・・
切符を確認したら・・・4時01分発!
やばい!
あと1時間しかない!
上田駅に戻らねば・・・・
ところが・・・ここは・・・どこ?
またまたやっちゃったぞ~
迷子になっちまったぁ~(笑)
とにかくどこかの大通りに出なければ・・・・
狭い路地の中をウロウロしていたのでは方向を間違ってしまう。

気持ちは焦るばかりで、なかなか、ここぞという場所に辿り着かない。
ようやく上田城まで戻ることが出来た時には時刻は3時15分。
さて・・・ここから駅までは何分かかるんだっけ?
まぁ、ここまで来れば、時間までには充分間に合うだろう・・・・・
と、思ったら、またまた“悪い虫”が騒ぎ出した。
このまま、来た時と同じ道を通って駅に向かうのも面白くない・・・・(笑)
少し回り道をしちゃおうか・・・・
上田城から上田高校へには向かわず、別の道を歩く。(笑)

DSC01171_convert_20081202115813.jpg

偶然、「大手門公園」に出会う。
ここに大手門があったらしいが、説明板によれば城門はなく堀だけだったそうである。
更に、近くの商工会議所の敷地内に「明治天皇行在所跡」の碑を見つける。
こうなると、どうもダメだ・・・・
すっかり時間を忘れて碑文なんかを読んでしまう・・・(笑)

本当は、少し余裕を持って駅に到着して、駅前でコーヒーでも飲んで一息つきたかったのだが・・・
その余裕は完璧に無くなってしまったぁ~
自業自得とはこのことか・・・・
駅前のコインロッカーから急いでカバンを取り出して、駅構内へ・・・・

丁度、駅弁を売っていたので、遅い昼食は駅弁を食べることにする。
「これ、地元の駅弁ですよね?やっぱり、地元の駅弁を食べねば・・・ねぇ~」と言って弁当を買ったが・・・
弁当屋の“おじさん”は「はぁ~」と何やら気のない返事・・・・
同じ弁当屋の“おばさん”は「あの・・・釜飯の弁当もありますけど・・・」と言う。
「あっ!峠の釜飯!」
しかし・・・既に駅弁を買ってしまった・・・・今更、交換というわけにもいくまい。

さすがにお腹がペコペコなので新幹線に乗ってすぐに弁当を食べることにした。
で・・・駅弁を見たら・・・・
あれ?

DSC01175_convert_20081202121048.jpg

「上州 舞茸弁当」と書いてある。
ん?上州?
上州って・・・・どこ?
あれ?ここは長野でしょ・・・・長野って・・・信州?
ありゃりゃ・・・・
どおりで駅弁屋の“おじさん”が怪訝な顔をしていたはずだ。
群馬県の弁当を「地元の弁当ですよね」って言われたんじゃ返事の仕様がなかっただろう。
それにしても、どうして上州と信州を勘違いしちゃったかなぁ~
どうも拙者は疲れてくると思考能力が極端に衰えるらしい。(笑)

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あ~あ~・・・何で長野に来て群馬の弁当を食べねばならんのか・・・(笑)
しかし・・・おいしかったから・・・・いいかぁ~

さすがにクタクタである。
車内で読書をしていてもウトウトしてさっぱり先に進まない。(笑)
今晩はセミナーを受けなければならないし・・・・
ということで・・・ここは仮眠をしておいたほうがよかろう。
爆睡!(笑)
1時間30分後、東京駅に到着。
東京駅から一度上野駅に行って、駅のコインロッカーに荷物を預け・・・・
地下鉄で飯田橋へ向かい、危機管理セミナーに出席して、21時30分上野駅発最終特急で帰宅する。

日記 | 13:09:01 | Comments(0)
流転の浅間大溶岩
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流転の浅間大溶岩

この巨石は天明3年(1783年)群馬県地方に大災害をもたらした浅間山大噴火によって、東御市の山腹まで押し出され、その後の水害でさらに東部自動車学校付近まで流されてきたと推定される溶岩です。
昭和34年5月に当時上田市で建設業を営んでいた皆様により東御市から運ばれ、上田駅前広場の一角に据えられました。
平成14年上田駅前再開発事業に伴い、この上田城跡公園に移設され、この地に落ち着きました。

(説明板より)

流転の浅間大溶岩


史跡 | 12:53:05 | Comments(0)
上田温電北東線跡
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お堀の移りかわり

けやき並木のこの場所は上田城二の丸の堀の跡です。
二の丸をかぎの手に囲んで、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の固い守りに役立っていました。
その後、昭和3年5月上田温電北東線が開通し、この地を電車が通っていました。
しかし、昭和47年2月電車が廃止され、現在に至っています。

(説明板より)

上田温電北東線跡


史跡 | 12:42:42 | Comments(0)
上田市立博物館のトイレ
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トイレの貼紙

急ぐとも 心静かに 手を添えて
        外に漏らすな 朝顔の露


(了解しました!気をつけます!)

看板・標識・標語など | 11:33:22 | Comments(0)
上田城西櫓
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長野県宝 上田城 西櫓

上田城西櫓は、江戸時代初期の寛永3~5年(1626~1628)にかけて真田(さなだ)氏の後に城主となった仙石(せんごく)氏によって建てられ、上田城で建築当初のままに残されている唯一の建物です。
建物の大きさは、1階が桁行(けたゆき)9.85m(5間)、梁間(はりま)7.88m(4間)の大きさで、2階は桁行8.64m、梁間6.66mと少し小さくなっています。
外壁は、雪の多い地方で用いられる腰下見板(こししたみいた)が張られ、壁の上部から軒廻りにかけては防火のために白漆喰(しっくい)で柱などを塗りごめた大壁(おおかべ)造りとなっています。
窓は縦格子(こうし)の付いた突き上げ板戸です。
建物の内部は、中央に丸太材の芯柱が立ち、仙石氏の「仙」の字の焼印が押されています。
壁は柱を残して漆喰を塗った真壁(しんかべ)造りで、幕末期に補強のために取り付けられた筋交(すじかい)が見られます。
屋根は、丸瓦と平瓦で葺(ふ)いた本瓦葺で、鬼瓦には最後の城主となった松平(まつだいら)氏の五三桐紋がついています。
なお、鯱(しゃち)瓦は昭和3年に徴古館(ちょうこかん)として改修された際に寄付されたもので、江戸時代の上田城の櫓には鯱瓦は無かったようです。
西櫓は、上田城本丸の西虎口(こぐち)(出入口)を固める重要な櫓でしたが、戦争のなかった江戸時代には、もっぱら倉庫として使用されていました。
また、櫓の名称も江戸時代には特になく、「西櫓」の名称は、南櫓と北櫓が復元された後につけられた新しい名称です。
上田城西櫓は、昭和18~24年に移築復元された南櫓、北櫓とともに、長野県内では数少ない江戸時代初期の城郭建築の貴重な遺構として、昭和34年に長野県宝に指定されました。

上田市教育委員会

(説明板より)

上田城西櫓


史跡 | 10:17:22 | Comments(0)
上田藩主居館表門
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上田市指定文化財
上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁

種別      史跡・建造物
所在地    上田市大手1丁目4番33号
所有者    長野県
指定年月日 昭和44年5月9日

上田藩主の居館は、真田氏・仙石氏・松平氏の各時代を通して、現在の長野県上田高等学校の敷地となっている場所にあり、「御屋形(おやかた)」と呼ばれていました。
居館の遺構である表門・土塀・濠等に往時の姿をとどめています。
表門は、藩主松平忠済(ただまさ)時代の寛政2年(1790)にその前年焼失した居館とともに再建されたものです。
前面には、4本の太い角柱が並び、中央間には大板扉を釣り、左右には潜りの扉がつけられ、後部の控柱は十六面に削った通し梁でつないでいます。
創建当時の様式がよく保たれており、長野県下最大規模の薬医門として貴重な存在です。
土塀は江戸時代末期の構築ですが、濠と土塁は真田氏時代の面影を残し、全体として江戸時代の大名屋敷の外廻りを知る良い例です。
但し、土塀の下部と濠の周囲の石積みは、崩落防止のために最近施行されたものであり、濠の幅も道路の拡張により狭められています。

上田市教育委員会

(説明板より)

上田藩主居館表門


史跡 | 09:43:46 | Comments(0)
桝網用水
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秋和・塩尻の生命線
桝網用水

桝網用水(ますあみようすい)は、坂城(さかき)まで続く千曲川右岸で最大の用水です。
取水口は、江戸時代中頃には上田城崖下の尼ヶ淵(あまがふち)に入る千曲川の分流から取り入れていたようですが、その後上流に移されました。
明治時代には上田駅東方に用水を利用した養鯉池(ようりいけ)、製糸工場などができ、下流の秋和・塩尻地区では、長い間農業や生活用水として利用されてきました。

(説明板より)

桝網用水


史跡 | 08:29:05 | Comments(0)
上田の旅(1)
朝食は法人会専用の会場が用意されており、そこでバイキングの朝食とか・・・・
8時半に行ってみたら・・・・あらら・・・・
広い会場には拙者を含め3名のみ。(笑)
名簿によれば、昨晩このホテルに宿泊したのは50名いるはずなのだが・・・・
みなさん、もっと早い時間に済ませてしまったのかな?(笑)

フロントから本や下着類を宅配便で自宅に送ってチェックアウト。
ホテルから駅まで徒歩。
今日は、これから上田に向かう。

DSC00985_convert_20081201142623.jpg(長野駅)

さて・・・ここからどうやって上田に行けばいいんだろ?(笑)
拙者の乗車券は“通し”で買ってあり、途中下車しながら旅をしている。
で・・・駅員に尋ねてみたら・・・・
長野から上田までは、この乗車券では新幹線を利用しないといけないのだそうだ。
どうやら新幹線経由のものらしい。
新幹線なら上田まで約10分。
たった10分のために特急券を買うのももったいない。
というわけで・・・・在来線で上田に向かうことにしたのだが・・・・
券売機の買い方がわからない!(笑)
券売機には「しなの鉄道優先」って書いてあるのだ。
なに・・・この「優先」って・・・・
どういう意味???
この機械で買っていいのや悪いのやら・・・・
またまた駅員に尋ねて、ようやく切符を買う。
同じように切符を買うのに迷っていた“おばちゃん”たちからも「これ、わかりづらいわよねぇ~」と声をかけられ、「そうですよねぇ~」と返事をして意気投合!(笑)
どうやら長野から篠ノ井まではJRで、篠ノ井から上田までは私鉄の「しなの鉄道」になるらしい。
そういうことで・・・券売機に「しなの鉄道優先」って書いてあるらしいのだが・・・
車両は同じ。
長野からそのまま上田に着くらしく、途中で乗り換えするわけではないらしい。
ならば、なにも「しなの鉄道優先」なんて表示する必要なんかないんじゃないか?
そんなことを書くから逆にわけがわからなくなるんじゃないのかね?(笑)

乗車時間40分ほどで上田駅に到着。
観光案内所で集めた資料を持ってコーヒーショップで今からの行動計画を練る。
11時・・・・さぁ、今から上田の旅のスタートである。
まずは、上田駅前の真田幸村の騎馬像の撮影から。

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続いて徒歩で上田城に向かう。
途中、長野県立上田高校のところにある上田藩主屋敷門と堀跡を見て・・・・
上田市観光会館に立ち寄り、更に何か資料が無いかと探してみる。

DSC01022_convert_20081201134936.jpg(観光会館)

ようやく上田城に着いたのは、お昼・・・・
あらら・・・ちょっとゆっくりしすぎてしまった。(笑)
今日もまた昼食抜きだな・・・・

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上田城内を散策。
城内に真田神社、招魂社があったので、お参りする。
この城内には結構銅像が多いのには感激。
米熊三吉氏、勝俣英吉郎氏、羽田武嗣郎氏、小河滋次郎氏、山極勝三郎氏・・・・
山極勝三郎氏は大正4年に世界で初めて人工ガンを発生させることに成功した博士。
へぇ~・・・・人工ガンねぇ~
すごい人がいたんだぁ~
市立博物館を見学し、この山極博士の資料を購入する。
時刻はあっという間に1時半・・・・・

上田城の見学を終え、お城の外周を見ながら、芳泉寺に向かう。

日記 | 07:59:16 | Comments(0)
合同セミナーに出る
午後3時から『合同セミナー』
会場は大入り満員である。
基調講演は、星野仙一氏
演題は「我が野球人生」とのこと。
ちょうど、WBCとか何とかって言うものの監督選考で何だかんだと揉めているそうで・・・・
昨晩、どうも巨人軍の原監督が就任することになりそうだとかという話が出たところ。
タイムリーといえばタイムリー(笑)
拙者は野球のことは全くわからない。
プロ野球にも全く興味がない。
セリーグとかパリーグとかもわからない。
ましてや、どこそこの選手の名前を聞いてもさっぱりわからないのだが・・・・
演題は「我が野球人生」なのだが、中身は北京オリンピックの話やWBCの話などの裏話。
「これは愚痴じゃないんだけどねぇ」と言いながら裏話をご披露。
野球のことを全くわからない拙者が笑えるのだから・・・星野さんは話が上手である。
普通は講演なんて引き受けないそうだが、今回は特別に縁故関係で引き受けたのだそうだとの噂を聞いた。
ということは・・・講演慣れしているわけじゃないということになるが、なんでこんなに話が上手なんだろうか?

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写真は星野さん登場前の演台。(笑)
拙者は広報委員長として、あくまでも法人会会報に載せる報告のための写真を撮るのですから・・・
ここに星野さんの写真を載せるわけにはいかない。(笑)
このブログには演台だけ。
星野さんが写っている写真は法人会の会報とHPにしか使用しない。
これは礼儀だろ?
目的外に使用したのでは信義にもとる。

さて、今回のセミナーの参加者数は・・・・
埼玉県:92名
栃木県:79名
群馬県:71名
新潟県:17名
長野県:132名
そして、我が茨城県は29名である。

で・・・我が茨城の中身は・・・
水戸法人会が3名、太田法人会が10名、下館法人会が7名、鹿行法人会が6名・・・・
そして我が日立が3名・・・・
水戸と同じく一番少ない。(笑)

講演会後懇親会に移るが、“ケムちゃん”と“オノザキくん”の2人は、5時半の新幹線に乗って帰るため懇親会は欠席。
仕方がない。
拙者は広報委員長だし・・・・
懇親会の写真も念のため撮っておいたほうが良かろうということで一人で懇親会に出席する。
水戸法人会に混じっておしゃべりをするが、彼等も6時の新幹線で帰るため途中退席。
今度は太田法人会が声をかけてくれたので、ここに混ざっておしゃべり。
ご親切に声をかけていただき感謝、感謝である。

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DSC00975_convert_20081201114452.jpg(アトラクション)

実は参加者名簿を見て大笑い。
茨城県からの参加者でこのホテルに今晩宿泊するのは拙者だけなのだ!
太田法人会はバスに乗ってやってきたそうで、今晩は温泉旅館に泊まるという。
「なんだったら一緒に来て泊まる?温泉だよ~」とからかわれる。(笑)
なんたることぞ!
茨城県連に宿泊を頼んだのは拙者一人かい!(笑)
今晩は寂しく一人で寝るかぁ~(笑)
こんなことなら昨晩のホテルに2泊することにすればよかった。
いずれにせよ一人で寝るわけですが・・・・気分が違うでしょ。
懇親会終了後、皆さんを送り出して・・・・ホテルに一人・・・・ポツ~ン・・・・・(笑)
なんと寂しいことか。

昨晩書いておいた手紙を持って駅までトボトボと歩いて行く。
で・・・駅前のお土産屋さんに行ってお土産の発送。
実は長野に到着して一番最初にこの店に立ち寄ってお土産の下調べをしておいたのである。
今回は9名に手紙を添えてお土産を発送。
で・・・・懇親会の料理ではもの足りない。
お店の“おばちゃん”に尋ねたら、目の前の蕎麦屋が結構美味しいとか。
ということで、駅前の蕎麦屋で夕食を食べる。

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戸隠おろしソバとヒレカツ丼のセット・・・・1300円なり!

食後、ホテルに戻る途中、ブック・オフに立ち寄る。
で・・・・本、5冊を衝動買い!(笑)
やっちまったぁ~
長野というのは教育レベルが高いというか、何と言うか・・・・
「欲しい!」という本が結構あったのである。
全国各地のブック・オフに立ち寄ることがあるが、場所によってはロクな本が置いてない店もある。
そういう時は「はは~ん・・・この町はレベルが低いんだなぁ~」と勝手に判断してニヤリ。
さすがに長野は違うね~
いい本が結構ある。
散々迷って絞って5冊。
欲しいままに買ったら、もっと買ってしまったに違いない。
旅先で本なんかを買ったら重くて嫌なのだが・・・
明朝、ホテルから宅急便で自宅に送ってしまおう!(笑)
宅急便って本当に便利である。

本日の歩数は・・・1万5668歩、8.6km
実質、午前中しか歩いていないから、しかたがないかぁ~

日記 | 15:11:49 | Comments(0)
地震塚
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地震塚

弘化4年(1847)御開帳中に起きた善光寺大地震(推定マグニチュード7.4)の犠牲者数千人の霊がまつられている
発願主 土屋仁輔は上田の人 大地震発生の時 10里の道を使用人らと米・味噌・衣類等を大八車に積んで駆けつけ被災者の救援と共に犠牲者をねんごろに葬ったという
南側の塔は弘化5年建立の阿弥陀経一字一石供養塔
以来風雪に耐えて損傷の度著しく平成9年(1997)御開帳の年善光寺大地震百五十周忌供養を厳修し改葬する

維時 平成9年12月 信州 善光寺

(石碑・碑文より)

地震塚


史跡 | 14:20:02 | Comments(0)
明治天皇駐蹕之処碑
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明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之処碑

明治天皇明治十一年北陸東海両道ニ巡幸シ九月八日駕ヲ長野ニ駐メ給ヒ九日午後此ノ丘上設クル所ノ亭館ニ於テ川中島四郡ノ風光ヲ望ミ「佳郷」ト宣ハセラル後遂ニ館ニ名ヅク
爾来五十五星霜今茲(ここに)市民相謀リ碑ヲ佳郷館跡ヲ距(へだて)ル北方七十七尺ノ地ニ建テ以テ聖躅(せいちょく)ヲ千載ニ伝ヘ偉徳ヲ万古ニ仰カムトス
碑ハ工学博士伊藤忠太ノ設計ニ成リ題字ハ故陸軍大将乃木希典ノ集字ナリ

昭和八年九月
長野市長 丸山辨三郎 謹書

佳郷館は明治24年の城山火災のために類焼した。

(説明板より)

明治天皇駐蹕之処碑


史跡 | 13:58:11 | Comments(0)
善光寺日本忠霊殿
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善光寺日本忠霊殿造営の由来
奉祀の霊240万柱

善光寺日本忠霊殿は戊辰の役(明治元年ー1868年ー)以降太平洋戦争に至る間 国難に殉じた240万の忠霊を奉祀(ほうし)(おまつり)する わが国ただ一つの仏式による霊廟(れいびょう)(おたまや)であり 明治39年(1906年)の創建に成ります。
たまたま日支事変 太平洋戦争における殉国の将兵100万余柱の遺骨遺髪など「おかたみ」を勧請(かんじょう)(おむかえ)したのを機縁(きえん)に 新たに永世不朽(えいせいふきゅう)の殿堂を建立することに財団法人善光寺日本忠霊殿造営奉賛会を結成 浄財を全国に求めました
趣旨に賛して寄進する有志都鄙(とひ)を蔽(おう)うて余さず 造営の工程も順調に進んで昭和45年3月(1970年)廟塔(びょうとう)を落成し 240万の忠霊安らかにここに鎮まりました。

平和祈願の霊廟
本尊は阿弥陀如来

善光寺日本忠霊殿は 善光寺の本尊一光三尊仏(いっこうさんぞんぶつ)=阿弥陀如来(あみだにょらい) 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ) 勢至菩薩(せいしぼさつ)=請来(しょうらい)(おむかえ)して本尊と定めました
祖国に殉じ 人類永遠の平和の礎(いしずえ)と化した精忠(せいちゅう)赫々(かくかく)の霊魂(みたま)は 仏のみちびきによってこの霊廟に鎮まり阿弥陀如来の慈悲のみ光のもと 永久(とわ)に国家民生の安泰をお護りするのであります
敬仰追慕(けいぎょうついぼ)して忠霊の冥福を念じ 祖国万邦の和平繁栄を冀(こいねが)い併せて一家同胞(はらから)の息災延命(さわりなき)をお祈りいたしましょう

昭和45年4月吉日

(由来碑・碑文より)

善光寺日本忠霊殿



史跡 | 13:15:06 | Comments(0)
佐藤兄弟の塚
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佐藤兄弟の塚

(長野市指定建造物)
石造宝篋印塔 2基
応永4年(1397)建立

この地方で最古の逆修供養塔(ぎゃくしゅうくようとう)です
源義経の忠臣佐藤兄弟の塚といわれ兄継信(つぐのぶ)は屋島で弟忠信(ただのぶ)は吉野にてそれぞれ義経の身代りとなって戦死しましたがその供養のため母梅唇尼(ばいしんに)が之を建てたと伝えられています

善光寺

(説明板より)

佐藤兄弟の塚



史跡 | 12:32:29 | Comments(0)
桂並木
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桂並木と善光寺

ここ善光寺の表参道「中央通り」には、約1.4kmの桂(かつら)並木が続いています。
全国的にも珍しいこの桂並木は、善光寺にゆかりのある樹木です。
古来、度重なる火災に見舞われた善光寺ですが、国宝に指定されている現本堂は江戸時代の宝永4年(1707年)に建立され、以来その荘厳なたたずまいを保っています。
この壮大な本堂を支える108本の柱には、桂と欅(けやき)の大木が用いられています。
桂の木は従来、長野近郊ではあまり見られないため、本堂に使われた桂の木は佐久方面で切り出され、千曲川を下り善光寺平まで運ばれたのではないかという説があります。
用材集めに運搬、加工、普請に全国から人工や大工が集められ、そして落成したばかりの巨大な本堂で入仏供養が厳かに行われる・・・・。
そんな歴史を想いながら、この桂並木があの柱のような大木になるのかと想像すると楽しいですね。

平成13年8月27日
ガバナー公式訪問記念事業
長野中央ライオンズクラブ    長野篠ノ井ライオンズクラブ
長野白樺ライオンズクラブ    長野みすずライオンズクラブ
長野りんどうライオンズクラブ  信州新町ライオンズクラブ

(説明板より)

桂並木


史跡 | 11:45:53 | Comments(0)
長野の旅
今日は『関東信越法人会連絡協議会・青年部会連絡協議会』の合同セミナーの日。
組織名が長すぎて何のことやら参加者の拙者自体がわかっていないが・・・・(笑)
とにかく、関東信越法人会の青年部会が集まるセミナーなわけだ・・・
で、それは午後3時から・・・・
というわけで、午前中に長野市内を観光することにする。

長野といえば・・・善光寺?
一応、行っておいたほうがよかろう・・・・と思って行ってみたが・・・・
面白くない!(笑)

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山門のところに子どもたちが・・・・
どうやら学校の授業で写生会をやっているようなのだが・・・
そこに座り込んでいたら通る人たちの邪魔だろう?
直ぐ近くには若い女性教諭がいたが、平然としている。
文句を言ってやろうかと思ったが、生徒の目の前で先生に注意するのもマズイ。
睨みつけたが・・・・効き目なし。(笑)
公共の場ではどうしなければならないのか・・・をどうして教えない!(怒)

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この最初からの不愉快な思いが尾を引いた・・・・
さすがは善光寺・・・・観光地化されていて団体客がゾロゾロやって来た。
拙者はこういうところは好きじゃない。
生来のへそ曲がりがムクムクと湧き上がってきてしまった!
何が善光寺だ!誰がお参りなんかするものか!(笑)
というわけで・・・本堂を避けてお参りもせず境内を歩き回ることにした。(笑)
本堂の前には観光客いるが、ちょっと脇に逸れると誰もいない・・・・
なんと静かなことか・・・
観光バスなどでやって来た団体客はお参りをしたら参道のお土産屋でお買い物なのだろう。
だから、本堂の裏のお庭なんかには誰もいない。
だいたい、こんな観光地化されたお寺をお参りして何が面白いのかね?
ご利益なんかあるわけがない。
成田山にお参りをした帰りに交通事故で死ぬ奴がいるのである。
昔、成田山参詣の帰りの観光バスが事故を起こして死者がでるという大事故があったと記憶している。
ほら・・・これをどう解釈する?
お参りをした帰りに死んじゃうんだぞ。
ご利益なんかないだろう?
すでに実証済みなのであるから・・・・善光寺も同じ・・・・
お参りなんかしても無駄!(笑)
お参りしなかったから事故に遭って死んだ・・・となるかどうか試してみよう。(笑)
やれるものなら、やってみろ!善光寺!(笑)

本堂裏のお庭を散策していたら幼稚園児の団体が遊んでいた。
保母さんが「こんにちは!」と挨拶してきたので、拙者も「こんにちは」と挨拶したら・・・・
次々と幼稚園児から「こんにちは!」の挨拶攻め・・・・
ゲゲッ!大変なことになってしまった!(笑)
一人一人に返事を返してやらねばならない。
「私だけ返事をしてもらえなかったぁ~」なんて泣かれたら大変だ!
で・・・ようやく立ち去ろうと思ったら・・・・
少し離れたところで遊んでいた幼稚園児が気がついて走りよって「こんにちは!」
またまたそれにつられてか、あちらから、こちらから「こんにちは!」の挨拶。(笑)
マイッタァ~
これでは、いつまで経っても先に進めない!(笑)
しかし、挨拶したら挨拶をしてもらえる・・・ということを実証しなければ幼稚園児のためにならんだろ?
挨拶しても挨拶してもらえないとなったら・・・・
挨拶しても仕方がない・・・なんていう子どもが育ってしまう。
これではイカン!
子どもたちの教育のためにも丁寧に返事を返してやらねばならん!
思わぬ“伏兵”にタジタジとなった“浪士”であった・・・・・(笑)

ようやく“危機”を脱して先に進んだところで慰霊碑を2つ見つける。
笑ってしまったのが・・・・『迷子郵便供養塔』

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碑文によれば、年間110億通の郵便物のうち受取人にも送れず、差出人にも戻せなかった郵便物が180万通もあるという。
で・・・・その迷子になった郵便物の供養塔を建てたという。
あらら・・・供養しちゃったの?(笑)

もう一つは長野県出身の神風特別攻撃隊の慰霊碑である。
各県出身の特攻隊員はいても、各県、必ずしも慰霊碑を建てている訳ではない。
そういう意味からしても、貴重な慰霊碑であると思う。

さて・・・善光寺を抜けて更に北に歩く。
そこに「招魂社」があるようなので、お参りに行く。
途中、満蒙開拓団の慰霊碑を偶然発見する。

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招魂社の拝殿は意外にも立派!
普通は「招魂社」というと小さな祠がポツ~ンというところが多いのだが・・・・
長野の場合は護国神社並みの立派さ。
これには驚いた。

時刻は12時・・・・
ここからセミナー会場であるホテルに向かって戻ることにする。
途中で見かけた神社に立ち寄ったりしながらブラブラ歩き、午後1時過ぎホテルに到着。
今晩はこの会場となるホテルに宿泊するので、チェックインの手続きを・・・・
「禁煙室で承っております」と言われ愕然!(笑)
法人会の事務局を通してお願いしていたら禁煙室になっていた!
急遽、喫煙室をお願いして部屋を変更してもらう。
部会長の“ケムちゃん”や副部会長の“オノザキくん”との待ち合わせは2時過ぎ。
それまでに、ホテル内のレストランで遅い昼食を急いでとり、ロビーで彼等を待つ。

午後2時過ぎ、予定通りにやってきた。
早速、入口のセミナーの看板の前で記念写真を・・・・
いわゆる“証拠写真”である。(笑)
これを撮るために拙者は参加しているようなもので・・・・
この写真1枚を撮ることで、拙者の広報委員長としての役目の半分が終わったといっても過言ではない。(笑)

旅行 | 10:50:46 | Comments(0)
山寺常山邸
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山寺常山(やまでらじょうざん)

山寺家は松代藩で知行(ちぎょう)160石の中級武士の家格でした。
江戸時代の終わりには山寺常山(やまでらじょうさん)を輩出し、鎌原桐山(かんばらとうざん)、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。
常山は号で幼名を久道(ひさみち)、後に信龍(しんりゅう)と名のり、通称を源太夫(げんだいゆ)といいました。
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎(さとういっさい)や中村敬宇(なかむらけいう)らと親交を深めました。
八代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡(こおり)奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐しました。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。
現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹盧・たいちくろ)が残されています。
ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。
表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。
また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。
なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。
屋敷内北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑(しょうとくひ)は、孫の塩野季彦(すえひこ)らが、長野城山に建つ碑文の磨耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものです。

開門時間:午前9時から午後5時まで
長野市

(説明板より)

山寺常山邸


史跡 | 11:50:16 | Comments(0)
松代の旅(3)
松代の町に戻ってきたときには、もう5時。
あっという間に暗くなり・・・・・
松代駅の近くにある松代城に行ったとしても写真も撮れまい。
今回は諦めるしかない。

ついに街灯に火が灯り始める暗さとなってしまったが、とりあえず真田公園へ行ってみる。
なんと!
真田宝物館の前に恩田木工民親(おんだもくたみちか)の銅像が!
しまったぁ~うっかりしていた!
知っていれば、もっと明るいうちに訪れたものを・・・・
既に5時を過ぎては暗すぎて写真が撮れない!
あ~あ~やっちゃったぁ~
またいつか機会があったら訪れるということで諦めるしかない。

さて・・・問題は・・・・どうやって帰るかだ・・・(笑)
川中島からテクテクと歩いてきたはいいが、帰り方を知らない。
まさかこの真っ暗な中、歩いて長野へ行けるわけもない。
松代駅から電車に乗れば長野駅に行けるんだろ?
というわけで・・・駅を探すが・・・・町は暗く閑散としていて、どっちに駅があるのかわからない。
完璧に迷子になってしまった!(笑)
駅前通りは町のメインストリートで明るいからすぐわかると思っていたのが大間違い。(笑)
自分がどっちに向いて歩いているのかさえわからない。
テクテク歩いていたらバス停を見つける。
地図で確認したら・・・・あら・・・駅とは反対方向に歩いていたらしい。(笑)
しかし、これが幸運だった。
バスに乗って長野駅に戻ることが出来たのである。(笑)
バス代600円なり。

長野駅に着いたのはいいが・・・・
さて・・・カバンを預けたコインロッカーは・・・・
昼食抜きの腹ペコ状態の上に、歩き疲れたせいなのか・・・・
どうしても思い出せない!
あれ~
コインロッカーはどこだっけ??
あれ?
痴呆症か?(笑)
頭の中が真っ白なのである!
マズイことになったぞ!
落ち着け、落ち着け・・・・駅前の喫煙スペースでタバコを一服・・・・
ようやく記憶が甦り・・・・(笑)
無事にカバンを取り出す。
一時はどうなるかと思ったぞぉ。

駅ビルの地下に行って夕食。

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とにかく腹が減ってどうしようもない。
何でもいいから・・・・ということでお蕎麦のセット・・・・(笑)
腹も満たされ、ようやく元気が出てきた。
さて・・・ホテルに向かうかぁ~
昨晩宿泊したホテルは駅前だが、今晩のホテルは駅から少し離れている。
同じホテルに2泊すればいいものを・・・・
それじゃもったいない・・・・
どうせならいろいろなホテルに泊まりたいものだ・・・・と考えたのが浅かったか・・・
クタクタに疲れているのにしばらく歩く羽目となる。(笑)

チェックインしたら、シングルを頼んでいたのにホテルのご好意でツインの部屋を用意してくれた。
当然、料金はシングル料金である。
部屋が広いのでありがたい。
感謝、感謝である。

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さて・・・ようやくゆっくり出来るかといったら、そういうわけにはいかない。
まだまだやらねばならんことがある。
戦友会のお世話になっている会員にお土産を送ろうと思うので、今晩のうちにそのお土産に付ける手紙を書かねばならん。
いきなりお土産が届いても驚くだろうから、手紙で長野に来ていることを書いて知らせねば。
で・・・・ついでに帰宅予定日も書いておかねば・・・・
以前、これを書かなかったために届いた途端に我が家にお礼の電話が・・・
しかし、拙者はまだ旅の途中。
電話に出たのは・・・・親父・・・・
親父は相手の話がわからず、大変な失礼をしてしまったことがある。
なので・・・帰宅予定日も書いておかねばならぬのだ。
友人は拙者が長野に行っていることは承知済みなので手紙は必要ない。

しかし・・・クタクタ状態で手紙を何通も書くのはツライ!(笑)

で・・・・ついでと言っては申し訳ないが・・・・
松本の“ミヤザワさん”に電話をかける。
その後、お疲れにでもなって体調を崩されたのではなかろうかと気になったからだが・・・・
奥さんの話では「疲れもせず元気ですよ!」とのこと。
あ~よかった!
なにせ93歳だから気になってしょうがなかったが・・・・安心した・・・・

今日の歩数・・・3万3374歩、18.5km歩いた。

日記 | 10:13:40 | Comments(0)
豊姫の霊屋
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第3代松代藩主 真田幸道公の奥方
豊姫の霊屋

豊姫は伊予宇和島藩主伊達宗利公(仙台藩祖伊達政宗公の孫)の息女で、万治2年12月10日(1659年)江戸邸で生まれる。
延宝元年7月26日(1673年)15歳にして、幸道公(17歳)に嫁ぐ。
豊姫が実家から「鉢植の杏(あんず)」を取りよせ愛賞されていたことがあって、これが杏の樹が松代に来た始めであると言われている。
以来、杏が薬用樹として松代藩の殖産興業の一つとして藩内に広く採植されるに至った。
享保18年7月5日(1733年)75歳にて卒。
法名 法雲院
      殿慈栄元光尼禅師

(説明板より)

豊姫の霊屋


史跡 | 10:11:00 | Comments(0)
真田信重霊屋
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重要文化財
昭和46年6月22日指定

真田信重霊屋 1棟
附前机     1脚
釣灯籠     2箇

当山は浄土宗に属し、天正2年(1574)西条氏の開基で、松代真田家初代信之の三男隼人正信重(3万石)の帰依寺であった。
信重は慶安元年(1648)2月23日武蔵国鴻巣で病死し、遺骸は同地の勝願寺に葬ったが、生前の関係によって、同年当山に霊屋を建立し、信重公夫妻の位牌を安置している。
霊屋は方三間茅葺上を鉄板葺としている。
回縁及び一間向抖付きで東面の正面中央に花狭間付桟唐戸を、左右連子窓で、桂上に出組をおき、中備は蟇股と蓑束、軒は一軒の繁棰とする。
内部は前面一間通りを外陣とし、鏡天井を張り、格子戸で内陣を区画し、内陣は格天井で、奥に禅宗様仏壇をおき、阿弥陀像及び信重夫妻の位牌をおく。
内外共漆塗、極彩色を施す。
今は上部のみ残っている。
内外陣境の中備に45度方向に肘木が出た組物をおくのは、中国には古くあるが、日本では他に例がない。
全体として古風で細部の手法が洗練されていて、近畿地方工匠の手になるものかと考えられている。

関谷山十二神院 西楽寺
松代史跡文化財開発委員会

(説明板より)

真田信重霊屋


史跡 | 09:54:37 | Comments(0)
松代地下大本営跡
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気象庁地震観測室(松代地下大本営跡)

第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最期の拠点として、極秘のうちに、大本営軍司令部 参謀本部 政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和19年11月11日午前11時着工翌20年8月15日の終戦の日まで、およそ9ヶ月の間に当時の金額で2億円の巨費と延3百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され突貫工事をもって構築したもので全工程の75%完成した。
ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠距離にあり、川中島の合戦の古戦場としても知られているとおり要害の地である。
規模は三階建、数百米に亘る、ペトン式の半地下建造物、舞鶴山を中心として、皆神山、象山に碁盤の目の如く縦横に掘抜きその延長は十粁余に及ぶ大地下壕である。
現在は世界屈指を誇る気象庁の地震観測所として使用され、高倍率のひずみ地震計はじめ各種高性能観測機が日夜活躍している。

長野市観光課

(説明板より)




気象庁精密地震観測室

第2次世界大戦末期に、大本営が移転・入居するために、天皇御座所をはじめとする地上建物及び地下坑道の工事が行われましたが、完成することなく終戦とともに工事は中止されました。
これらの施設を利用して、1947年(昭和22年)5月に中央気象台松代分室がここに設置されて、地震観測業務が開始されました。
1949年(昭和24年)6月に地震観測所と改称され、中央気象台の附属機関となりました。
1995年(平成7年)4月には精密地震観測室となり、気象庁地震火山部地震津波監視課の施設として現在に至っています。
創設以後、地下坑道など優れた地震観測環境と最新の観測機器の導入によって、全地球的な地震の観測・監視および精密な地殻変動の観測による調査研究等を行っており、わが国だけでなく世界的にも有数の地震観測・研究施設となっています。
また、この周辺に展開した群列地震観測システムでは、松代群発地震等長野県周辺の地震活動の監視、東海地震等の大地震発生時の気象庁本庁のバックアップ、遠地津波予報支援、及び地下核実験の探知のための観測データの提供等を行っています。
これらの観測と研究によって、地震防災、学術及び国際協力などにおいて重要な役割を果たしています。

松代地震センター

1965年(昭和40年)8月から激しい群発地震が発生し、松代町をはじめとする地元住民を恐怖に陥れました。
この松代群発地震が始まると、関係諸機関及び大学等により様々な角度から観測、調査、研究が精力的に実施されました。
これらのデータを有効に利用し、地震活動の多面的な分析と情報提供、災害対策への支援、地震予知研究の促進などのために、松代地震センターが1967年(昭和42年)2月に、関係機関及び自治体の協議体として、設置されました。
なお、松代群発地震は現在も継続しており、体に感じないような小さな地震が年間数百回程度発生しています。

(~以下・略~)

2001年1月 精密地震観測室・松代地震センター

(説明板より)

松代地下大本営跡


史跡 | 09:05:08 | Comments(0)
六工社跡
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六工社(ろっこうしゃ)案内

明治維新以来、松代地域の疲弊した経済の救済と繁栄を図ろうと、大里忠一郎等は同志数名と共に謀りこの地方に適した産業として当時輸出産業第一位の製糸業に着眼し、製糸場の設置を計画した。
そして国内唯一の官営富岡製糸場(群馬県)にならい、明治6年(1873年)2月民間蒸気製糸場の建設を始めた。
横田数馬の助力を得、同志9名が資本金2千円を拠出、約千円を他より借入、銅製蒸気釜の考案など苦心しつつ繰糸場、釜場、水車、工女部屋、薪置場、用水池、帳場、炊所、浴室等を備えた「六工社」をこの地(西条六工)(ろっく)に創設した。
社長に春山喜平次、副社長に大里忠一郎が就任し、工女50人繰りの規模であった。
明治6年3月、富岡製糸場へ伝習のため派遣された横田英他15名が帰るのを待って、明治7年8月25日に「大日本帝国民間蒸気器械の元祖六工社」(和田」英・旧姓横田「富岡日記」)が創業を開始した。
六工社は、わが国民間フランス式改良日本型蒸気製糸場の創始であり、「六工社生糸(きいと)」の名は国際的にも知れわたった。

松代史跡文化財開発委員会

(説明板より)

六工社跡


史跡 | 08:58:58 | Comments(0)
乾徳寺
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乾徳寺縁起

乾徳寺の縁起は、真田信政(のぶまさ)が上州沼田城に在城の折、正保2年(1645)二男信守(のぶもり) 照光院殿一関源心大居士 享年18歳の菩提を弔う為に、沼田に一寺を建立照光寺と称し改愚(かいぐ)和尚が住持した。
明暦3年(1657)真田信政が上州沼田より、松代二代藩主として入封の時、改愚和尚を伴い馬場町に信守の菩提を弔うため、先ず庵室を建てその数年後に現在地に移し、雲龍山照光寺を建立したがやがて改愚和尚が遷化(せんげ)して廃寺同然となる。
元文元年(1736)松代四代藩主信弘(のぶひろ) 乾徳院殿嶽一雲大居士 享年67歳が没し、長国寺第14世蜜峰(みつぽう)和尚が信弘の冥福を祈るため、照光寺を取り潰し改めて一寺を建立照光山乾徳寺と號した、依って乾徳院を開基とし蜜峰和尚を開山とした。
又、松代5代藩主信安(のぶやす)は蜜峰和尚の志を感じ、乾徳院の茶湯料として十石六斗五升一合の地所を寄進し、且つ松代6代藩主幸弘(ゆきひろ)の生母慈眼院の守本尊 魚籃(ぎょらん)観世音菩薩を寺に納める。
本尊は釈迦牟尼仏にして乾徳院(信弘)照光院(信守)天眞院(幸弘)慈眼院(幸弘生母)等の位牌が安置してある。
又、真田信弘は真田昌政の嫡男で真田勘解由(かげゆ)信就(のぶなり)の六男である、本堂横の墓地には真田勘解由家系流の五輪塔があり、勘解由家初代信就その母二代小野お通、その母初代お通及び信就夫人の墓を、東京練馬の広徳寺の墓から分霊し南一面に墓域を整えた際に、その域内の右上位に信弘の墓を移した。
また、筝曲八橋流は真田信就の母が京から伝えられたと言われている。
その古筝八橋流の正統を伝承しているのが松代の八橋流筝曲で、連綿と継承されてきた八橋流も、世間からすっかり忘れられた時期もあって、それを改めて筝曲八橋流を再興させたのが真田志んである。
志んは類稀な記憶力に長(た)けており、八橋流の全曲を甦えらせその功績により八橋流再興の祖として崇められ、正統な伝承者として昭和44年国の無形文化財記録保持者に指定され勲六等宝冠章を授与される。
真田志んも昭和51年11月永眠 享年92歳 真田勘解由家墓地に眠り、筝曲八橋流再興の祖の石碑も墓地一画に祀られている。
その志んの後息女真田淑子氏が八橋流宗家を継承して今日に至る、真田淑子氏も平成15年2月永眠 享年90歳 真田勘解由家墓地に眠る、現在八橋流筝曲は長野市無形文化財に指定されている。

(説明板より)

乾徳寺


史跡 | 08:36:51 | Comments(0)
追悼平和祈念碑
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追悼平和記念碑案内

太平洋戦争末期に、本土決戦に備えて大本営の移転と国体(天皇制)護持のため、軍の命令によって、防衛上の観点から選ばれた松代を中心に、大本営と皇居(舞鶴山)、政府機関と日本放送協会・中央電話局(象山)、皇族住居(皆神山・後に食料庫に変更)、賢所(弘法山)、受信設備(妻女山)などを移転する大工事が秘密裡に企画された。
1944年11月11日から45年8月15日、敗戦の日まで続けられたこの工事には、東部軍、工兵隊、熱海鉄道教習所生徒、および産業報国隊・勤労報国隊の徴用者や学徒・学童も多数動員されたが、地下壕掘削などの中心的役割を果たしたのは、当時植民地下の朝鮮(大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国)からの多くの強制連行者を含む約六千人の人々であった。
その工事は、厳しい監督下での昼夜兼行の強制労働で食料も乏しく、発破や落盤の事故、栄養失調で死亡したり、逃亡した者も少なくない。
さらに自殺したり待遇改善などを要求して射殺された者もおり、犠牲者は三百人とも推定されているが千人という説もある。
しかし戦後、軍部等による関係資料の焼却などにより、犠牲者氏名はほとんど不明であり、今日までに氏名が判明したのは強制連行された朴道三・金快述の他、飯場頭の趙徳秀、中野次郎の四人にすぎない。
この工事では、住民も土地を強制買収され、特に松代の西条地区では仮皇居の建設工事で、百戸以上が立ち退きを強制されたりしたが、住民や徴用者と朝鮮(韓国・朝鮮)人との関係は友好的な面もあって、そのきずなは今日も途絶えていない。
この大地下壕を中心とする「松代大本営」は、太平洋戦争と朝鮮植民地化に象徴される日本のアジア侵略の歴史と、その反省を永遠に刻む歴史的遺跡であり、この碑の建立と壕の見学が、なお残る民族差別の克服と友好親善の新たなる第一歩となることを切に願うものである。

1995年8月10日
松代大本営朝鮮人犠牲者慰霊碑建立実行委員会

(当時日本に植民地化されていた朝鮮は、現在の大韓民国と朝鮮民主主義共和国にあたる)

(説明板より)

追悼平和祈念碑


史跡 | 07:56:07 | Comments(0)
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