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野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
60歳・・・還暦である。
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)
今さら、もう無理!(大笑)

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飲み会!
“シミズ君”を自宅に送り届け、急いで帰宅。
今晩は“ケムちゃん”と飲み会なのである。
帰宅して直ぐにお迎えが来る。
ギリギリセーフ!(笑)

面白いことに、今度は先輩の“ケムちゃん”の運転する車に拙者が乗せてもらって飲みに行くことになる。
世の中はうまく出来ているのだ・・・・・(笑)

最近出来たばかりの和風のお店でお食事。
そこに“ネモケン”が合流。
彼は年齢では拙者の1年後輩、JCでも後輩という仲・・・・
で・・・・仲が悪い。(笑)
彼が工事したお店だということで、彼の勧めもあって“ケムちゃん”がここに決めたのだろう。
で・・・彼も呼んだのだろう。

「お前等は仲が悪かったもんなぁ~」と“ケムちゃん”
仲が悪いなんてものじゃない。
絶交状態だったんだから・・・・(笑)
ん?
“ケムちゃん”は我々を仲直りさせるために仕組んだのか?
もう10年近く前の話だもんなぁ~
今更・・・という気がしないでもない。

今から10年ほど前・・・なんで拙者が怒り心頭に達して絶交状態になったのか・・・・
10年経って少しはわかっただろうかと思って“ネモケン”に尋ねてみたが・・・・
彼は「覚えてない」ととぼけるばかり・・・・
あらら・・・やっぱりわかっていなかったか・・・

彼は簡単に言うと・・・・
上司の命令を聞かない。
筋論は無視、自分の感情中心で動く。
上司の名を語って自分勝手な方針を推し進める。
まるで、旧陸軍の悪弊を地で行く行為。
彼は戦史には全く知識がないのに、何故か旧陸軍の悪弊を継承しているのだ。
ということは・・・・
日本軍人だから・・・という問題ではなく、そもそも日本人にはこういうところがあるのかもしれない。

拙者が怒り心頭に達した事件は・・・
JCのある企画を相談しに彼が訪ねてきた時に拙者はその企画に反対をした。
ところが・・・根回しの段階で、拙者に相談をして了承を得たと触れ回ったのである。
「まさか、こんな企画を承諾するはずはない」と疑いを持った理事数名が拙者に確認の電話をして来て事の次第が発覚!
彼を呼びつけて怒鳴りつけたが・・・彼は意に介せず・・・・
「何が悪いんですか?」
「勝手に俺の名を語ったろ?俺は反対だって言ったはずだぞ!」
「仕方がないじゃないですか~この企画を理事会で通したかったんだし・・・」
「何で嘘をつくんだよ!」
「そう怒らないでくださいよ」
もう、話にもならん。
お粗末な企画が実行されて問題が起これば承諾したことになっている拙者も責任を問われるのである。
部下の勝手な行動で、拙者が戦犯として処刑されるようなものだ!
そこまでして自分の企画を通そうとするその神経がわからない。

その後も、「相談」と称して拙者に会いに来たが門前払い。
「相談した」が、いつの間にか「承諾してもらった」に変わってしまうんだから、危なくて会うことも出来ない。
というわけで・・・絶交!(笑)

「何であの時絶交したかわかってる?」と尋ねたが・・・・
「そんなことがありましたかねぇ~」との答え。
ダメだ・・・・わかっていない・・・・・

その後、彼の会社は倒産した。
彼個人に関する借金は返済して、今は細々と何とか商売をしているとの事。
たいしたものだ。
そういう点は評価する。
拙者にはそんな根性はない。
だから・・・倒産する前に自主廃業したのである。
倒産したら従業員に給料も退職金も渡せない。
彼は従業員に現物支給で勘弁してもらったそうだが・・・・・
拙者の会社の場合はそうはいかない。
廃業の道を選べば、従業員には現金を渡せて次の働き口を探す余裕も与えられる。
玉砕したのではいかんのです。
指揮官は部下が生き残れるように考えなければいかんのです。

彼は倒産しても頑張っているんだからたいしたもんだ。
大いにこの点は褒めたのだが・・・・
「女の子にもてないんですよね~このまま一生終るんでしょうかねぇ~」と馬鹿なことを言い出した。(笑)
おい、おい・・・・
倒産したにもかかわらず、逃げ出さずに支えてきてくれた奥さんがいるだろう?
「今までやってこれたのは、奥さんのおかげだろ?感謝しないとバチが当るぞ!」
「それはそうなんですが・・・でも、女の子にもてたいんですよねぇ~」
「浮気をしたいって言うのか?」
「・・・・」
「俺は独身だから恋愛は自由だけど・・・お前は・・・ダメ!」(笑)

スナックを2軒ハシゴするが・・・・
話はそのことばかり・・・(笑)
ウジウジといつまでも言っているので、さすがにスナックの女の子が避け始める。(笑)
そういう暗い雰囲気だと逆効果なんですけど・・・・(笑)
「俺はダメなんですよねぇ~」
あのね・・・同情してもらおうってすると逆に女の子が離れていくんですけど・・・(笑)
「はぁ~・・・」彼はため息ばかりつく。
参ったなぁ~暗くて酒が不味くなるぞ~
「あのな、お前のその性格・・・その性格を直せよ!」
酔った勢いで、もうボロクソである。(笑)

ようやく解散・・・・
「“ネモケン”は相変わらずだな」と“ケムちゃん”が一言・・・・
ドドッと疲れが出た~
疲れる「飲み会」だったぁ~

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日記 | 21:48:56 | Comments(2)
回天館
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回天館の由来

元治元年(1864)3月27日、尊王攘夷の旗をひるがえして、筑波山に挙兵した藤田小四郎・田丸稲之衛門等のいわゆる天狗党の志士達(当初72名)は、幕府討伐軍や水戸の佐幕派と、各地で激戦を展開した。
やがて小四郎達は、武田耕雲斎(元水戸藩執政)を総大将にあおぎ、その尽忠報国(じんちゅうほうこく)の至誠を、禁裏(きんり)守衛総督として京都に滞在してた一橋慶喜(のちの15代将軍徳川慶喜)を通して朝廷に歎訴のため、常陸大子(ひたちだいご)に結集し、同年11月1日京都へ向けて出発した。
総勢1千余名の志士達は、下野(しもづけ)、上野(こうづけ)(下仁田しもにた)、信濃(しなの)(和田峠)、などにおいて、幕命を受けた諸藩兵と戦い、厳寒の中を飛騨(ひだ)から越前へと深い厳しい雪道の難行軍が続いた。
12月初旬、越前国(福井県)に到着したところで、頼みとする慶喜公が一行に対する討伐を命じたとの報を得て、軍議の結果12月17日加賀藩に降伏した。
志士達823名は越前敦賀(つるが)の三寺院に分散収容され、加賀藩の永原甚七郎らの手厚い保護を受けたが、翌慶応元年(1865)正月29日、幕府討伐軍々監田沼玄蕃頭意尊(げんばのかみおきたか)によって、敦賀にあった16棟の鰊(にしん)(鯡)倉に押し込められ残酷きわまりない処遇をうけた。
同年2月4日から23日の間、総大将の武田耕雲斎や藤田小四郎達353名がl、この鰊倉から引き出され、敦賀の松原において斬首された。
斬首を免れたその他の志士達も流罪・追放などの刑を受け、大半の志士達は故郷に帰ることなく無念の死を遂げた。
以来90余年の時を移した昭和32年、維新回天の大業に殉じた天狗党の忠誠の魂と無念の血涙とがしみ込んだ16棟の鰊倉のうちの1棟が、敦賀市の厚意によって水戸市に寄贈され、常磐(ときわ)神社の境内に移築復元されて「回天館」と名付けられました。
同館は往時を偲ぶ展示館として、拝観者に深い歴史的感銘を与えてきた。
しかし、復元後30数年を経て建物も老朽化し、危険な状態になったところから、この歴史的建物を保存し後世に残すため、水戸の有志が集い、平成元年2月「回天館移築保存会」が設立され、広く浄財を募って、志士達を祀る回天神社の境内に移築再建の事業が進められたのが、この「回天館」である。
「回天」とは混乱、衰微した時勢や国勢を正しい状態に盛り返すことを意味する言葉で、藤田東湖の「回天詩史」の書名も同じ趣旨からつけられたものである。

      時世

  武田耕雲斎
咲く梅の花ははかなく散るとても
               馨(かおり)は君が袖にうつらん

  山国兵部
行くさきは冥土(めいど)の鬼と一勝負(ひとしょうぶ)

  藤田小四郎
かねてより思い染めにし言(こと)の葉を
               今日大君(おおきみ)に告げて嬉しき

平成元年10月吉日
回天館移築保存会
冥々の裡に記す

(説明板より)

回天館



史跡 | 21:40:33 | Comments(0)
水戸殉難志士の墓
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水戸市指定史跡
水戸殉難志士の墓

徳川時代の末、尊皇攘夷をめぐり元治元年(1864)春、「元治甲子の変」いわゆる「天狗党の変」が起った。
この年の秋、那珂湊において幕府軍に降伏した水戸藩執政榊原新左衛門等1千余の志士は、茨城古河、千葉館山、埼玉川越、東京佃島等十数カ所の獄舎、寺院に幽閉され、降伏から明治維新により救出開放される4年間に斬死、幽死、獄死した志士の数は、4百人とも5百人とも云われている。
明治2年、新政府の初代の水戸藩知事となった徳川昭武公は、明治維新の礎として殉難したこれらの志士の遺骸を収容して、常磐共有墓地の一角(現回天神社境内)に埋葬し、同所に「殉難」碑を建立、慰霊顕彰した。
大正3年、「元治甲子の変」より50年を期して斎行された慰霊祭を機に、殉難志士の氏名、年齢、死因、殉難地を調査した結果、371名について判明し、その氏名を刻して墓を建てたのが現在の1号墓所、2号墓所であり、その墓列の総延長は370余メートルと長大なものとなった。
昭和29年、この墓所は水戸幕末の英魂鎮まるところとして、水戸市指定史跡に指定され、歴史的遺産として保存が図られてきたが、近年に至り荒廃が著しく、大政奉還130年目にあたる平成9年秋、水戸市の補助、遺族、崇敬者の寄金、回天神社の拠金により改修事業に着手、平成10年春完了、往時の姿に戻したものである。
国に殉じた志士の鎮魂と、また、これを慰霊し顕彰のために建墓された先人の遺徳が偲ばれる。

平成10年3月
水戸市指定史跡水戸殉難志士の墓保存会

(説明板より)

水戸殉難志士の墓


史跡 | 19:01:41 | Comments(0)
諸生党殉難碑
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諸生党殉難碑・由来碑

尊王思想の志厚い水戸藩主徳川光圀は、明暦3年(1657)『大日本史』の編纂に着手し、その後、130余名の学者などが携わった。
第6代藩主治保の時、半知借上をしても窮迫化の藩財政面から編纂継続の是非をめぐり、彰考館史局内部では、立原総裁派と藤田幽谷派が対立し、立原派は去ったが、明治39年(1906)に4部397巻が完成した。

幕末にいたり、第9代藩主徳川斉昭、藤田幽谷、その子東湖、会沢正志斎らに代表される後期水戸学は、内圧と外圧の現実の問題を深刻に受けとめ、大義名分論に基づき尊王の思想に攘夷論を附加し、独特の学風にしたのでこの攘夷論をめぐる学問上、政治上の抗争と、朝廷より水戸藩に下賜された戊午(ぼご)の密勅の取り扱いや薩長との密約(薩長は建設・水戸藩は破壊)による行動等で対立、藩論が二分、三分し、悲劇の水戸藩朋党(天狗、諸生党)の乱を生むに至ったが、両派とも尊王敬慕の思想では一致していた。

この乱の被害は、栃木、千葉県迄及びさらに水戸藩士のほか婦女子、農民などまでまきこみ、2千数百名の尊い人材を維新の祭壇にさゝげつくした。

諸生党の係わる主な碑は、千葉、茨城、新潟にある。
最後の地、千葉県八日市場の有志は、大正15年4月弔魂碑を建立した。
また新潟県西山町の有志は、諸生党などが戦死した灰爪の丘に平成元年10月北越戊辰の役戦没者供養碑を建てた。
なお、明治17年諸生党の有志が、水戸市神應寺に記念碑(篆額は会津藩主・松平容保公の書)を建立したが、戦災で破損して拓本のみがある。

ここ祇園寺の諸生党殉難碑は昭和9年秋、22名の方々が建立、今年で60周年となるのを機に、歴史に関心もつ有志が主体となり整備の上、諸霊を供養するものである。

平成6年7月吉日
来栖平蔵 撰文

(碑文より)

諸生党殉難碑


史跡 | 16:43:52 | Comments(2)
八幡宮本殿
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国指定重要文化財
建物 八幡宮本殿
昭和29年9月17日指定

本殿は水戸城主となった佐竹氏の守護神の社殿として、慶長3年(1598)に建立されたことが羽目板裏の墨書から推定される。
構造は入母屋(いりもや)造り、こけら葺き、桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)2間、向拝(こうはい)3間をもち、内部は内陣(ないじん)と外陣(げじん)とに分かれ、内陣は3室になっている。
当初は八幡小路(こうじ)(現北見町)に鎮座し、元禄7年(1694)に那珂西(なかさい)村(現常北町)に移り、宝永4年(1707)に現在の地に移築された。
このように本殿は2回にわたり解体移築され、後世の模様替えがあるものの総体に手の込んだ手法で、組物や彫刻などにも、桃山時代の時代色と地方色を現代に伝えている。

水戸市教育委員会

(説明板より)

八幡宮本殿


史跡 | 16:23:35 | Comments(0)
大祓式に行く
水戸藩士の“シミズくん”に誘われて水戸へ行く。
八幡宮の「夏越の大祓式」に行きたいという。
彼は病み上がりで医者から車の運転は止められているので、拙者が運転手として彼を乗せていくのだが・・・・
奥さんには「先輩を運転手に使うなんて非常識だ」と怒られたそうだ。(笑)
な~に、どうせ暇なんだし・・・・
誘われねば外に出かけないような出不精だし・・・・
拙者にとっては外に引っ張り出してもらえるのだから好都合。
「先輩だから・・・・」などという遠慮は要らぬ。
そんなことを言ったら、親父に洗濯や洗い物をさせている拙者は極悪非道である。(笑)
「立っている者は親でも使え」である・・・・

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大祓式では「茅の輪くぐり」の神事が執り行われるのだそうだ。
真ん中のあの輪をくぐるのか?
ふ~ん・・・・
拙者は信心深いように思われているが、実は全くそうではない。
靖国神社にはよくお参りに行くし、昇殿参拝をして代表として玉串奉奠もする。
しかし、それは英霊に対して慰霊の気持ちで行なっているだけのこと。
自分のためにお参りなどはしたことはない。
旅先で神社仏閣にお参りする時も「近所に来たのでご挨拶に伺いました」という程度の挨拶しかしたことはない。
「大祓式」とは今年半年間の自分が犯した罪やけがれを祓い清める儀式らしい。
ん?
拙者は罪を犯した記憶はないぞ・・・・けがれてもいないぞ・・・(笑)
この自覚のなさが罪深いといわれれば罪深いかもしれぬが・・・・(笑)

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「参加しないんですか?」と“シミズくん”に誘われたが拙者はお断りして木陰で式の模様を見学する。
参列者は炎天下の中1時間半以上も座り続ける。
「罪深い人たち」の苦行である!(笑)
当然、その中には「罪深くけがれ多い」“シミズ君”も参列している。(笑)
300人以上は参加したであろう「茅の輪くぐり」の神事。
拙者は“シミズくん”をカメラに収める。
証拠写真!「罪深き、けがれ多き」男が清めてもらっているところの証拠写真!(笑)

遅い昼食をデパートの中の中華レストランでとり・・・・
さて・・・大好きな史跡めぐりをしましょうか?

まず祇園寺に行く。
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ここには飯村丈三郎や中村彜の墓などがある。

続いて回天神社へ・・・・
隣接する墓地には水戸の志士たちの墓や藤田東湖の墓を初めとする多くの郷土の偉人の墓があった。

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夕方までブラブラと墓地内を散策して帰宅する。
う~ん・・・充実した1日であった!

日記 | 14:15:44 | Comments(0)