FC2ブログ
 
■プロフィール

野牛重兵衛

Author:野牛重兵衛
会社を実質的に自主廃業し『自由人』となる。
自ら『脱藩浪士』と名乗り自由な日々を生きることにした。
常陸国在住
59歳
今もって独身!(笑)
これからも独身!(大笑)

■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2ブログランキング
■ブロとも申請フォーム
■最近のコメント
■小さな天気予報


-天気予報コム- -FC2-

■ブログ内検索

■リンク
■RSSフィード
■FC2カウンター

大塩平八郎終焉の地
DSC00846_convert_20080715222038.jpg


大塩平八郎終焉の地

大塩平八郎中斎(1793~1837)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われた。
天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。
乱後大塩平八郎・格之助父子は、この地に隣接した靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。
民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。
大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。
決起160年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。

1997年9月
大塩事件研究会

(碑文より)

大塩平八郎終焉の地


スポンサーサイト



史跡 | 22:17:38 | Comments(1)
靭海産物市場跡
DSC00837_convert_20080715184526.jpg


靭海産物市場跡

鰹節・干鰯などの干魚を商う海産物市場で 豊臣時代には生魚を商う市場とともに北船場にあった
元和8年(1622)にこの地に移り 海部堀川や永代浜の建設で大きく発展した

(碑文より)




靭海産物市場跡

江戸時代、この地には、干物(ひもの)や塩魚(しおざかな)、鰹節(かつおぶし)など、生魚以外の海産物を売り買いする市場がありました。
豊臣時代には、海産物の市場はひとつで、今の北浜のあたりにありましたが、江戸時代のはじめ、元和4年(1618)には、生魚と、干物などを扱う市場に分かれて、生魚の市場が本町のあたりに移りました。
元和8年(1622)には、干物などを扱う市場も、ここ靭の地に移ってきました。
寛永元年(1624)には、海部堀川(かいふほりかわ)という水路が開かれました。
その時に人工的につくられた永代浜(えいたいはま)が、荷あげ用の岸として使われるようになると、取引の量も増えて市場も広がり、江戸時代を通して栄えました。

大阪市教育委員会

(説明板より)




永代浜跡

靭公園のこの附近一帯は、江戸時代以来塩干魚・鰹節など海産物の市場として靭の中心をなしていた。
これらの商人が荷揚の便をよくするために寛永元年(1624)海部堀川を開削し、阿波堀川とこの川をつなぐ永代堀の屈折点を永代浜と称し、海産物の荷揚浜として賑わった。

(説明板より)

靭海産物市場跡


史跡 | 18:42:29 | Comments(0)
中天游邸跡
DSC00835_convert_20080715182329.jpg


中天游邸跡

中天游(なかてんゆう)は江戸時代に大阪で活躍した医師・蘭学者です。
天游は別名で、本名は環(たまき)といい、耕助、融とも名のりました。
天明3年(1783)に丹後に生まれ、文化2年(1805)に江戸に出て、大槻玄沢(おおつきげんたく)、稲村三泊(いなむらさんぱく)に蘭学を学び、文化6年には京都で、海上随鴎(うなかみずいおう)の塾に入って蘭学を学びました。
大阪にやってきたのは文化14年ごろで、はじめは靭本町、次に江戸堀で開業しました。
その後、当時は坂本町と呼ばれたこのあたりに移り、天保6年(1835)に亡くなるまで住んでいました。
著述や翻訳も多く、中でも『視学一歩』という本は、目のしくみについて書いた日本で最初のものです。
医者の仕事は妻のさだにまかせ、天游は思々斎塾(ししさいじゅく)という学塾を開き、いろいろな学問をひろめました。
弟子の中には、幕末に活躍した有名な医師の緒方洪庵がいます。

大阪市教育委員会

(説明板より)

中天游邸跡


史跡 | 18:18:31 | Comments(0)
此花乃井
DSC00826_convert_20080715180713.jpg


此花乃井

江戸時代、もと石見津和野藩蔵屋敷のあったところで屋敷内のこの井戸から湧き出る飲料水は大阪では珍しく良質のものであった
慶応4年(1868)明治天皇が大阪に行幸されたとき、この井戸水を用水に供し「此花乃井」の名を与えられ、大阪の名水として評判が高かった。

(説明板より)

此花乃井


史跡 | 18:04:31 | Comments(0)
玉江橋
DSC00825_convert_20080715165524.jpg


玉江橋

この橋の架かる堂島川に 本格的な架橋が始まったのは元禄初期(1690ころ)と考えられる
この玉江橋も そのころから堀江橋の名で架かっていた
その後 元禄11年(1698)になって堀江川が開削され そこに同名の橋が架けられたので 玉江橋に改名されたという
当時の堂島川は 大川につぐ大きな川幅をもち 安永9年(1780)の記録によると橋長約90.1m 幅員約4.1mの規模をもつ反りの大きい橋であった
江戸時代 この橋の南詰めに薬師堂があって 縁日には多くの人出で賑わった
参詣の人々は 橋の上からその延長方向(南東方向)を見ると はるかかなたに四天王寺の五重塔が望見できたので 橋上から遥拝する慣習があった
高層建築物に囲まれた今日では 想像もできない情景であるが 当時の各所図絵の類には多く登場している
現在の橋は 昭和4年9月の第一次都市計画事業によって橋長77.0m 幅員12.3mの橋に架け換えられた
それ以後 地盤沈下対策で 昭和42年に約2m嵩上げすると同時に 下流側に橋長77.8m 幅員12.3mの橋が新しく架けられた

平成10年 大阪市

DSC00824_convert_20080715173559.jpg


(説明板より)

玉江橋

史跡 | 16:53:14 | Comments(0)
福沢諭吉誕生地
DSC00815_convert_20080715162856.jpg


福沢諭吉誕生地

幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝに生る
時に天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)
こゝは舊豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である
先生の父百助は一画に於いて、経学者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であった、金穀會計の俗役に奔走して其生涯を終った人である
彼は妻お順が、大きな瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと傳へられてゐる
封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを佛門に入らしめる以外にはなかったのであらう
當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が豫見し得たであらうか

昭和29年1月
慶應義塾社中建之
題字 小泉信三
撰文 高橋誠一郎
書  西川寧

(碑文より)

福沢諭吉誕生地


史跡 | 16:26:32 | Comments(0)
梅花女学校発祥の地
DSC00806_convert_20080715135025.jpg


梅花女学校発祥の地

明治11年1月この地で大阪で初めての府知事認可による梅花女学校が創立者澤山保羅によって始められた

創立120年を記念してこの碑を建てる

平成9年10月
学校法人 梅花学園

(碑文より)

梅花女学校発祥の地


史跡 | 13:46:52 | Comments(0)
大阪府立中之島図書館
DSC00801_convert_20080715120934.jpg


重要文化財
国指定昭和49年5月21日
大阪府立中之島図書館
本館左右翼 三棟

この建物は 住友吉左衛門が図書館として本府に寄附されたもので 住友本店技師長野口孫市氏及び技師日高胖氏の設計監督のもとに明治33年に着工同37年1月に竣工したものである
建物は 煉瓦及び石造三階建てで中央に円屋根をつけた十字形平面の本館と左右翼(大正11年増築)からなっている。
外観では高い4本の柱の列立する正面ポーチとその後方に挙げられた円屋根が意匠の要であり 内部では 半球形のドームを頂く円形ホールがもっとも特徴的である
全体としてネオ・バロック様式の傾向が見られるが これをよく消化して独自の造形美を形成しており明治時代の日本人建築家による極めて水準の高い作品である

大阪府教育委員会

(説明板より)

大阪府立中之島図書館


建物 | 12:18:47 | Comments(0)
大阪市中央公会堂
DSC00792_convert_20080714112403.jpg


重要文化財
大阪市中央公会堂
大阪市北区中之島1丁目1番27号

大阪市中央公会堂は明治44年(1911)に大阪市民の岩本栄之助(いわもとえいのすけ)氏から公会堂のために寄付された100万円をもとに、建設されました。
日本最初の懸賞設計競技で選ばれた岡田信一郎(おかだしんいちろう)の設計原案をもとに、辰野金吾(たつのきんご)、片岡安(かたおかやすし)という当時を代表する人たちによって設計されました。
大正2年(1913)6月から5年4ヶ月をかけた工事では、延(のべ)18万人を越える人々が働き、大正7年(1918)11月17日に開館しました。
西洋の建築の歴史から生まれた形や材料をよく学んで高い水準に造られており、赤煉瓦(あかれんが)の公会堂として市民に愛され、親しまれてきた、大変貴重な建物です。
昭和63年(1988)に永久保存が決定され、より良く使っていけるよう平成11年(1999)3月から3年半の工事がおこなわれました。
平成14年(2002)11月1日に再び開館、同12月26日に国の重要文化財(建2419)に指定されました。

建築様式は、当初記述に「復興式中の準パラディヤン式」とあり、ネオ・ルネッサンス様式を基調としたものと解される。
外観は左右対称を基本にコーニス、片蓋柱、ペディメント付開口部等による厳格な構成と、正面の壮大な半円アーチ、ジャイアントオーダーなどのバロック的な壮麗さをあわせ持ち、柱頭飾りを幾何学図形化するなど細部にはセセション様式の浸透もみられる。
外壁表面は地階部分が花崗岩積、地上階は、化粧煉瓦小口貼りに、腰の帯石と窓廻りを花崗岩、蛇腹と片蓋柱、パラペット廻りを擬石モルタル洗い出しとし、屋根は銅板葺きで一部を天然スレート葺き、側面と四隅に屋根窓を配す。
平面規模は、間口43.6メートル、奥行き61.8メートルで、建築面積2164.17平方メートル、鉄骨煉瓦造、地上3階、地下1階建。
耐震性能強化のため基礎下の新たな構造体と上部構造の補強によって免震レトロフィットを実施。
主要室の構成は、1・2階/大会議室(ホール)、中・小集会室・特別室、地階/会議室(展示室)・レストラン。

大阪市教育委員会

(説明板より)

大阪市中央公会堂



建物 | 11:21:14 | Comments(0)
里程元標跡
DSC00778_convert_20080714105839.jpg


里程元標跡

明治時代に 高麗橋東詰に里程元標がおかれ 西日本主要道路の距離計算は ここを起点として行なわれた

(碑文より)




高麗橋

東横堀川は大阪城築城のとき外堀として改修されたといわれる
高麗橋はそのころにかけられたらしく現在大阪城天守閣に保存されている慶長9年(1604)の銘のある鉄製擬宝珠(ぎぼし)はこの橋のものと伝えられている
江戸時代の高麗橋は幕府管理の12公儀橋の中でも格式高く 西詰に幕府の御触書を掲示する制札場があったほか諸方への距離をはかる起点にもなっていた
明治3年(1870)9月大阪最初の鉄橋にかけかえられ さらに昭和4年(1929)6月に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかわった
欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷(やぐらやしき)を模した柱は昔の面影をしのぶよすがとなっている

昭和51年春
大阪市

(碑文より)

里程元標跡


史跡 | 10:54:18 | Comments(0)
大阪の旅(4)
今日は大阪の旅の最終日。
今日中に帰宅せねばならないので、それまでに出来る限り歩き回らねば!(笑)

まず、ホテルをチェックアウトして向かったのが大阪商工会議所。
ここに銅像が3体建っている。
が・・・碑文は銅像の後ろ・・・・
壁と花壇に阻まれ碑文がよく見えない!
仕方がないので、商工会議所を訪問して受付嬢に銅像の碑文について尋ねたところ、担当者に問い合わせしてくれた。
館内の電話で担当者に尋ねたところ、資料を探して送ってくれるという。
なんと親切なことか。
ありがたい。
名刺を担当者に渡してくれるよう受付嬢に頼み会館を出る。

続いて向かったのが昨日見学できなかった適塾。
受付で写真撮影について尋ねたところ、ホームページやブログに写真を使用するのであれば許可の申請が必要だとのこと。
まぁ、それはよくある話なのだが・・・・
外観の写真の使用も許可申請が必要だという。
なんで?
「道路に面している部分の写真なんですけど・・・・」
「それも駄目です。著作権の問題があります」という。
建物の内部は撮影禁止というのはわかるが、道路に面していて、いつでも誰でもが目に触れる部分も撮影禁止とは初耳!
この適塾の建物は大阪大学が管理しているのだそうだ。
重要文化財に指定されている緒方洪庵の住宅だが・・・・
国も、とんでもないところに管理させているもんだ。
「著作権」を持ち出して外観の写真を撮ってはならぬとは、なんとも了見が狭い。
大阪大学というのは社会に開かれていない大学らしい・・・・
それなら、高い塀で建物を囲んで外から見えないようにすればいいのにねぇ~
一応、申請書をくれたが・・・・気が乗らぬ・・・・申し訳ないけど・・・・

適塾を出たところでちょうどお昼。
近くで昼食を食べ一息ついてまた歩き出したら・・・・
携帯が鳴った。
ん?
電話に出てみたら商工会議所の担当者から。
「何度もご自宅にFAXを試みたのですが切り替わらないので手動で切り替えてもらいたい」とのこと・・・・
あれ?何を勘違いされているのだろうか?
拙者は今、大阪におるのですが・・・・・(笑)
電話からFAXに切り替えたくても切り替えることが出来ないんですけど・・・(笑)
たびたび起る不思議なことなのだが・・・
拙者が旅に出ている時に、しばしば電話が通じないというクレームを後で受けることがあるのだ。
今回はFAXか・・・・
一体、家にいるはずの親父は何をしているのだろうか?
変なところをいじって電話をおかしくしてしまったのではあるまいな?
担当者には日立法人会広報委員長の名刺を渡しておいたので、法人会事務局へFAXを送ってくれるように頼む。

ここから北上し、土佐堀川を渡り中之島へ・・・
東洋陶磁美術館へ行くが時間がないので内部は見学せず、外にある銅像だけを撮影。
続いて中央公会堂、中之島図書館など歴史的建物を見て廻り、今度は、土佐堀川をまた渡って南下して頼山陽の生誕地を探す。
ようやく見つけたら金光教という宗教団体の建物のところに小さな石柱・・・
わざわざ探してガッカリ・・・・
なんだ・・・これだけか・・・・(笑)

続いて北上!
土佐堀川をまたまた渡って中之島を突っ切り、堂島川を渡って対岸へ行き、福沢諭吉の生誕地を探す。
誕生地碑を見つけたが碑文がかすれていて写真に撮っても読めそうもないので書き写す。
碑を建てたはいいが管理されていないのだろうか?
碑文が読めなければ顕彰になるまい?
何のために建てた碑なんだ?
とにかく時間がないので必死になってよく見えない碑文を読んで書き写していたら、通りがかった通行人が何事かと次々と寄ってくる。
え~い!なんとも鬱陶しいなぁ!気が散るんですけど・・・・・(笑)

またまた橋を渡って南下。
つまり、中之島を中心に北へ南へとジグザグに歩いていることになる。
今度はドンドン南下するが、さすがに蒸し暑く喉がカラカラ・・・・
途中、喫茶店に立ち寄り水分補給!
その後、江戸堀公園という小さな公園へ。
ここは、蘭学者の中天游(なかてんゆう)という人の邸宅跡。
珍しく教育委員会が設置した説明板が建っていた!(笑)

更に南下して靱(うつぼ)公園という大きな公園に行く。
何か銅像でも建っていないかと探してみたが不発!(笑)
更に南下して今度は大塩平八郎終焉の地を探すが・・・・
これが見つからない!
どこかに碑が建っているはずなのだが路地をウロウロ、グルグル、行ったり来りしたが見つからない!
捜索範囲を広げてグルグル回ってようやく見つけた!
天理教の建物の前にあった!
が・・・
碑文を撮影して、更に全体を撮影しようとしたら、通行人が何を思ったか碑の前に立って碑文を読み始めた。
あのね・・・拙者は写真を撮ろうとカメラを構えているんですけど・・・・
そこに立たれては邪魔なんですけど・・・
しかし、この“おじさん”・・・・いつまでたっても動かない!
オイオイ・・・・
しばし、カメラを構えたまま待つ!(笑)

時刻は2時半。
もう限界だな・・・・・
帰らねば・・・
近くにある地下鉄本町駅に向かい、地下鉄で新大阪駅に向かい新幹線に乗る。
車内で読書・・・・のはずが・・・
さすがに疲れが出て爆睡!(笑)

今日の歩数・・・・1万7545歩。約9.6km歩く。

日記 | 10:11:50 | Comments(3)